金曜日, 10月 21, 2016

西会津 会津街道散歩 そのⅢ;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(西会津町縄沢・束松峠)

第四回「会津街道探索ウォーク:一泊二日」の初日は、西会津町上野尻の西寺からはじめ、往昔の野澤宿を巡り、西会津縄沢まで歩いた。おおよそ13キロ、休憩も含め6時間半ほど歩いただろうか。
Google earthをもとに作成
散歩のメモは常の如く、実際にその地を訪ねて、あれこれ気になることが現れ、メモも多くなってしまい、結局2回に分けることになった。
二日目は初日のゴールである西会津町縄沢からはじめ、束松峠を越え、会津坂下町天屋・本名の集落を経て、只見川手前の会津坂下町片門集落まで歩くことになる。
メモをはじめるこの時点では、実際に歩いたという事実と、ガイドの先生方から受けた詳しい説明の「断片的」理解だけ。常の散歩では、実際歩いたトラックログと位置情報の着いた写真だけから、都度気になったことをメモしていくのだが、この度の散歩には、既述の如く、探索ツアー主催の「にしあいづ観光交流協会」作成の詳しい資料(「以下「主催者資料」」が手元にある。その資料を参考・引用させていただきながら、メモをはじめることにする。

本日のルート:出発地点・国道49号(縄沢)>兜神社>甲石の採石場とネズミ岩>ガラメキ橋と一里塚跡>大畑茶屋跡>旧会津街道に>軽沢新道>軽沢>旧越後街道道標>舗装道とクロス>戊辰戦争塹壕跡>束松峠

束松峠>子束松>切通し>束松洞門>天屋一里塚>地辷(地滑り)点>旧街道石畳跡>旧越後路木標>「旧道入口」木標>天屋の束松>峠の六地蔵>松原屋>津川屋>阿弥陀堂>束松事件跡>そば畑>諏訪神社>片門集落>片門の渡し跡>肝煎・渡辺家>片門の薬師堂・薬師如来>長龍寺

縄沢から束松峠

出発地点・国道49号(縄沢):8時25分
2日目のスタート地点は、初日のゴール地点である、西会津町縄沢集落からの道が国道49号に合流した地点。宿泊ホテルからマイクロバスで初日ゴール地点まで向かう。
それにしても、企画ツアー参加の移動は楽である。先月、先々月と5回に渡り「予土国境 坂本龍馬脱藩の道」()を歩いたが、単独行。予土国境の幾つもの峠を越えるため、車を谷筋にデポし、峠を越えて次の谷筋に着くと、ピストンでデポ地に戻り、車を山を越えた谷筋に移す。このプロセスを5日に渡り繰り返す。その苦労を考えれば「天国」である。

国道49号を進む
不動川に沿って国道49号を進む。国道49号は、福島県いわき市から新潟県新潟市へ至る一般国道。太平洋と日本海を結ぶ。この内、会津地方と越後を結ぶ道は、経路変更はあるものの、概ね会津三方道路のひとつを核に整備された。 明治15年(1882)福島県令に就任した三島通庸は、明治17年(1884)会津三方道路を竣工。福島県会津若松市の大町札の辻から 西(新潟側)、 北(米沢側)、 南(日光側)の三方に向かう新道整備・道路改良工事が実施される。
新潟側は、経路の変更はあるものの、会津・越後街道をベースにしたものである。とはいえ、その道路は砂利道以下、といった状況。現在の国道なるのは昭和39年(1964)の一級国道昇格を機に、改良工事が進められた後のことである。
盲淵
道すがら、ガイドの先生より「盲淵」のお話:縄沢村の民が不動川の「盲淵」の辺りで馬に水を呑ます。そのとき、何故かわ知らねど、河童も掬い上げ、胡乱な姿に打ち殺そうとする。が、命乞いを聞き届け、河童を淵に返すと、それ以降水難に遭うことはなくなった、と。
伝説は伝説でいいのだが、気になったのは、淵で馬に水を呑ませた、という件(くだり)。現在国道は不動川から少し離れたところを進んでいるが、かつての道・街道は、現在よりずっと川寄りの地を通っていた、ということだろう。地図を見ても、両岸に岩壁、間隔の狭い等高線が谷筋に迫る。土木技術が進めば道もできようが、それ以前は、ほとんど沢筋を進む、または大きく尾根を進むしか術(すべ)はない。実際、国道と不動川の間には会津三方道路の痕跡も残るという。

兜神社;9時
北から沢筋が不動川に合流する箇所の少し上流に架かる兜橋を渡り兜神社に。Google Steet Viewでチェックすると兜橋のゲートが閉じられている。山菜などを取る不埒者の侵入を防いでいるのだろうか。当日は、地元の方が社の清掃を行っていた。ために、ゲートが開いていたのか主催者が事前にアレンジしてくれていたのか不明ではあるが、ともあれ、橋を渡り参道を上り、岩壁を掘り抜いた神社に御参り。



◆甲岩
神社に上る狭い参道脇に大岩がある。それが甲岩。天喜5年(1057)、源義家が前九年の役で奥州に赴く途中、ここで甲を脱いで休憩。甲を忘れ出立し、引き返すと岩となっていた、と。
現在の岩を見て、甲(兜)の姿は想起できないのだが、これは慶長年間(1611年)の地震で「しころ」部分が欠け落ちた、ため。崖の下にはその欠けた部分が落ちている、と言う(「主催者資料」)。
源義家の伝説
散歩の折々で、源頼義・義家親子の奥州遠征にまつわる伝説の地に出合う。鎌倉の源氏山からはじまり、大田区の六郷神社、多摩丘陵の百草八幡、杉並区の大宮神社周辺、豊島区の簸川神社、足立区の竹ノ塚神社、炎天寺など枚挙に暇ない。
最初は、所詮は伝説、またか、などと思っていたのだが、足立区の奥州古道歩きをきっかけに、その道筋を調べたのだが、伝説の地を結ぶと「奥州古道」と重なることが多かった。物事にはそれなりの理由がある、ということだろう。

兜石観音岩
兜橋から兜神社が祀られる岩壁を眺める。ガイドの先生の説明によれば、兜石観音岩と呼ばれる、と。兜神社周辺の岩は切り出され石材として利用された時期もあったようだが、この観音岩だけは村民の人々の信仰により守られてきた、という(「主催者資料」)。
この辺りは「甲岩」と地名にあるが、集落があるように思えない。「村人」とは縄沢の村民と言うことだろう。



切石川(不動川)に沿って国道49号を進む;9時40分
兜神社で「スズメバチ」騒動もあり、兜神社出発は9時40分。兜神社に架かる橋に「切石川」とあった。これから上流は切石川と呼ばれるのだろう。岩盤石材を切り出した故の川名ではあろう。
道の右手に兜神社でみた岩壁が見えてくる。これだけの規模であれば石材切り出しも頷ける。一面岩壁ではあろうが、草木で覆われ岩壁の全容を見ることはできない。

甲石の採石場とネズミ岩;9時52分
道を進むと、国道から左手の小径に入る。往昔の会津街道の道筋ではあろうか。小径を進むと正面に岩壁とネズミ岩と呼ばれる大岩が見える。
グリーンタフ
対岸の岩壁は緑色凝灰岩でできている。2500万年から1500万年前頃、大規模な海底火山の噴火が起こり、そのとき海底に堆積したものである。グリーンタフと呼ばれるようだ。
グリーンタフは柔らかで切り出しやすく、墓石や階段石などに利用できるため、大正4-5年頃、新潟の事業家が大量に切り出すことになった。採石場をつくり、野澤停車場まで馬車で運び、そこからは大正3年(1914)に全面開通した岩越線(1917に磐越西線と改称)を使い、新潟へと運ばれた。
会津産の石は「若草石」として、兵・蔵・墓石・石畳などとして重宝されたが、 現在は他用材の登場により、採掘されることはない(「主催者資料」)。
ネズミ石
「ネズミ石」は、言われてみれば「ネズミ」のようでもある。「主催者資料」には、「グリーンタフで壊れやすく、採石時多くの犠牲者が出たようで、ねずみ岩の下に観音様が祀られている」とある。

ガラメキ橋と一里塚跡;10時7分
ネズミ岩から10分弱、切石橋に架かるガラメキ橋を渡り、国道は川の右岸に移る。橋の東詰め近くに一里塚があったようだが、今はその痕跡もない。三方道路改良工事の折に潰されてしまったのだろう。また、東詰めから切石川右岸を下ると、採石場に続く道があるようだ。
ガラメキ
「ガ1ラメキ」は表記は異なるが、全国に散見する。歌で名高い江戸川の「矢切の渡し」は「ガラメキの瀬」とも言う。浅瀬で石が「ガラガラ」と音をたてるから、とか。「がらめく」とは「ガラガラ鳴り響く」の意、とのことである。

大畑茶屋跡;10時27分
ガラメキ橋から20分ほど進むと、右手、青坂村・青坂峠からの沢筋が切石川に合流する少し先に「大畑茶屋跡」がある。道の左手の平地がその跡とのことだが、痕跡は何もない。
「主催者資料」に拠ると、「縄沢村の東約2-3㎞の所の街道傍に家が一軒あり、大畑という。縄沢端村・甲石から片門村端村・軽沢間の約2.8㎞区間に人家なく、冬の吹雪に苦労する旅人のため、安永8年(1779)に、青坂村の農民がこの茶屋を開いた(『新編会津風土記』)とある。
その願いに対し、大畑村を領分とする縄沢村は異議を唱え、茶屋開設の条件として縄沢村に「駅所」開設を求める。この反論・駅所開設願いが延享3年(1746)であるから、願い出て開設まで30年以上かかったことになる」ととことである。
青坂村・青坂峠
会津街道・越後街道の道筋をチェックしていると、その道筋は「束松峠を越え、青坂峠を経て野澤宿に」といった記事も多い。普通に考えれば、束松峠を下り、この大畑から沢筋を南に上り、青坂峠から尾根道を走沢川が不動川に合わさる手前の縄沢村に下りていったのだろう。
昔の街道は、土砂崩れなどの危険を避け、安定した尾根筋を通るのが普通である。川筋を街道が通るようになったのは、土木技術が進んだ江戸の頃から。東海道の箱根越えの道も、中世は芦ノ湖畔から尾根筋を箱根湯元まで下るが、江戸の頃には早川に沿って箱根湯本まで街道が通っている。
会津街道のこの青坂峠越えの道も、狭隘な渓谷を進むよりはるかに安全であろうから、ある時期このルートを通っても、違和感は、ない。

甲石の山賊
この話はガイドの先生が、兜神社の辺りで説明してくれた伝説であるが、登場人物の山賊が甲石から東に0.7kmの横沢という小さな沢の側、入小屋という字のあたりの住んでいたというから、この大畑茶屋跡あたりだろうと、ここでメモする;
話はこの辺りに住む山賊・伊藤掃部が旅の僧に出合い、その法力に接し改心し百姓として入小屋を開墾して暮らした、というものであり、話そのものはよくあるプロットである。
が、気になったのは、その旅の僧が会津若松徒町・浄光寺開基の教尊であり、この伝説を踏まえて甲石は浄光寺の檀家という説明。
教尊は越後・会津で浄土真宗の大寺院を建てた僧であり、その高僧の法力・功徳の話として、趣旨はわかるのだが、気になるのは「甲石は浄光寺の檀家という件(くだり)。甲石に集落といっても国道沿いに数軒目にしただけなのだが、昔は街道沿いに、もっと多くの人が住んでいたのだろうか?
浄光寺
浄光寺は、もと後鳥羽院の第二子が信濃に下ったとき、親鸞に帰依し開基したお寺さま。その縁もあり、12世教尊は信長の石山本願寺攻めの際、信濃・越後・美濃・尾張・近江の信徒に本願寺への兵糧米供出を策し、自らも石山本願寺に籠る。
が、寺は焼け落ち。教尊は越後に落ち、浄光寺を建て、末寺42を建てるに至る。会津には文禄元年(1592)、城主蒲生氏郷に乞われ坂下に。そこに浄光寺を建て、これも40以上の末寺をもつ大寺院となった、と言う。

旧会津街道に;10時36分
大畑茶屋跡から国道を10分ほど歩くと、左手の崖へと道を折れる。昔の会津街道の道筋のようである。茅の野を過ぎ、桐畑脇を20分弱歩き、束松峠手前の軽沢集落への車道(県道341)に戻る。
別茶屋(わかれちゃや
地図で見ると、旧道を歩いた辺りは「別茶屋」と記されている。旧道に入らず国道49号を進むと、藤峠へと向かう国道49号と束松峠へと向かう道に分かれる。旧来の会津街道・越後街道と、会津三方道路として明治17年(1884)県令三島通庸の指示で竣工した分岐点である。会津三方道路は従来の束松峠を抜けるルートを避け、藤峠を越える「藤村新道」を開削した。
当初別茶屋は会津街道と会津三方道路の「別れ」を意味していたのかと思っていたのだが、藤峠ルートは明治17年(1884)の会津三方道路開削以前、人も通わぬ間道であり、この「別れ」は、藤峠ではなく、藤峠手前で更に南に下り只見川筋・柳津に抜ける「柳津道(現在県道342号)」のことであった。近年まで重要な往還であったようだ。

軽沢新道
束松地区で旧道から舗装された道(県道341号)に戻り、軽沢集落に向かう。ガイドの先生から軽沢新道開削の話があった。概要をまとめると;
この切石川両岸は浸食谷で河岸段丘もなく、道は川底を通るしかなく、雪崩や大水に襲われると逃げ場がなかった。元文4年(1739)、軽沢から切石川右岸約1080mの岩壁を掘り抜く工事が行われた。
砂岩・凝灰岩の岩壁を穿つこの工事費用の三分の一は野澤原村の篤志家が負担。藩普請ではなく民間篤志家がお金や労力を負担する『寸志人足』と呼ばれる会津藩の制度である。

『寸志人足』と会津藩の財政状況
ここでちょっと疑問。勘ぐり過ぎかもしれないが、会津藩って、普請を民間に託すほど財政が厳しかったのだろうか?Wikipediaに拠れば、「第4代藩主の容貞の時代である寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する(中略)宝暦年間(私注;1751‐1764)における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり。。。」とある。
「主催者資料」に藩内巡見の4代藩主・松平容貞の御下問に、この軽沢新道の話が出る。Wikipediaの記事と併せ、藩の財政が危機に陥る頃かとも思う。上位「勘繰り」は強ち「妄想」だけではない、かも。

軽沢;11時13分
軽沢の集落に。民家は10軒弱?空き家らしき民家もある。「主催者資料」には、「この集落は、現在は西会津町であるが、以前は片門(現在会津坂下町)の端村。山林・原野に乏しい片門は、集落の北の鳥谷山(私注;580m)が草刈場・薪採集場」とあった。



旧越後街道道標;11時34分
道を20分程度上ると「旧越後街道道標」が建つ。指示に従い道を右に折れ旧道を進む。因みに、Google Street Viewで見ると、「道標」は見当たらない。「にしあいづ観光交流協会」の方が整備してくれたのだろうか。






舗装道とクロス;11時43分
10分ほど進むと舗装された道とクロス。地図を見ると、先ほどの道標を真っ直ぐ進み、磐越自動車道を越えた先から分岐し、この地を通り、その先で切れている。
この舗装道ってなんだろう?チェックすると、どうも先ほど歩いてきた県道341号別舟渡(わたりふなと)線のようである。県道341号は束松峠の東、会津板下町にも表記があり、その間が不通区間となっている。その事情など知りたいところだが、深堀利するとメモが先に進まない。取り合え巣思考停止としておく。

戊辰戦争塹壕跡;11時58分
県道341号から再び土径に入り、主催者の方が藪を刈り込んで整備してくれた様子の残る道を15分ほど上ると戊辰戦争塹壕跡。小振りな造りである。
いつだったか、尾瀬を歩いたとき、尾瀬沼・大江湿原に戊辰戦争の会津軍陣地があったことを思いだした。会津口の福島・檜枝岐に陣を張る幕府・会津軍が群馬・片品村に陣をはる新政府軍を急襲し、群馬県片品村の戸倉が戦いの舞台となったが、尾瀬の地が戦いの場となることはなかったようだ。


束松峠;12時2分
戊辰戦争塹壕跡からほどなく束松峠に。見晴らしが素晴らしい。「主催者資料」には、「イザベラ・バードがその著『日本奥地紀行』に、「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、ふたつの峰をもつ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている渓谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。
これらの峰は、岩石を露出させているもののあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色に覆われている低い山々の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私の考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった」と抒情的に描く地をこの束松峠では、とある。

明神岳から延びる山稜の向こうにかすかに見えるのが会津盆地ではあろう。糸谷はどこか特定できなかった。

峠には「峠の茶屋跡」の案内、秋月悌次郎の詠じた『北越潜行の詩』を刻む石碑とその案内が建つ。

峠の茶屋跡
「標高465メートルのこの束松峠頂上には昭和三十年代まで二軒の茶屋があった。「寛政4年(1792)片門・本名の両村よりこの頂に茶屋二軒(『新編会津風土記』)」を構え、お助け小屋を設けて、険阻なこの峠を越える人の便宜を図った。
十返舎一九の『奥州道中金草鞋』に記されているように、焼き鳥・あんこ餅が名物であった。茶屋からは高寺山塊を隔てて、会津盆地が一望され、彼方に秀峰磐梯山を望むことのできるこの峠は、会津に向かう人にとっては、はじめてみる若松城下であり、去る者は別離を流す峠であった。
「戊辰戦争敗軍の将」秋月悌次郎が越後に奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠から遥かに若松城下を望み「行くに輿無く返るに家なし」と会津の行く末を想い「いづれの地に君を置き、また親を置かん」と慟哭の詩「北越潜行の詩」を詠じたのもこの峠であった(会津坂下町教育委員会)」とある。

二軒の茶屋があったこの峠は、街道の「間の宿」で、旅人の休憩・一泊の宿泊は許されていた(「主催者資料」)。焼き鳥・あんこ餅ではないが、「甘口で 行かぬ世渡りなればとて ここの汁粉の塩の辛さよ」と呼んだ十返舎一九もこの茶屋で休憩でもとったのだろうか。

「北越潜行の詩」碑
「北越潜行の詩」を刻んだ石碑の脇に「漢詩」の書き下し文と秋月悌次郎の人となりを解説した案内がある。併記する。
「故ありて北越に潜行し帰途得る所
 〈詩碑〉       〈案内板〉
行無輿兮帰無家 行くに輿(こし)なく帰るに家なし
國破孤城乱雀鴉 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治不奏功戦無略 治は功を奏せず戦いは略無し
微臣有罪復何嗟 微臣罪あり復(ま)た何をか嗟(なげ)かん
聞説天皇元聖明 聞くならく天皇元より聖明

我公貫日発至誠 我が公貫日(かんしつ)至誠に発す
恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書(しゃしょ)応(まさ)に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城 幾度(いくたび)か手を額にして京城を望む
思之思之夕達晨 之(これ)を思い之を思うて夕(ゆうべ)より晨(あした)に達す
憂満胸臆涙沾巾 愁い胸臆(きょうおく)に満ちて涙巾(きん)を沾(うるお)す
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき)として雲惨憺(さんたん)
何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
秋月韋軒胤永

◆簡単に意訳をしようとも思ったのだが、詩心も無く、どうも「詩格」が失われそうである。以下注をメモする。おおよその意味はこれでわかるかと。

輿;乗り物
雀鴉;スズメと烏
貫日(かんしつ):日々を貫く行い
赦書; お赦しの書状
京城;天皇のいる京都

秋月悌次郎のひととなり
漢詩の書き下し文の後に、秋月悌次郎のひととなりについての解説が続く; 「秋月悌次郎は通称で諱(いみな・本名)は胤永(かずひさ)、字(あざな)は子錫(ししゃく)、韋軒(いけん)と号した。
戊辰戦争時には藩の公用人として各藩との外交交渉を通して、始めから終わりまでつぶさに関わってきた。敗戦開城式をとり行ったのち、かねて旧知の西軍参謀である長州藩士奥平謙輔を越後に追って、幽閉先の猪苗代を密かにぬけだし、会津藩の善処を願うとともにその未来を託す若者の教育をたのんだ。その帰途雪の束松峠で詠んだのが、この「北越潜行の詩」である。
また、これによって束松峠を越えて学問をうけた若者の一人が、後の東京・京都帝大などの各大学の総長を歴任した白虎隊総長山川健次郎である。
後年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は秋月を「神のような人」と敬愛した。 よって、この地、束松峠茶屋跡に誌碑を建てる。一八二四生、一九〇〇没。」
石碑は平成二十五年十月吉日とある。大河ドラマ「八重の桜」でその存在を知られたこともあり、秋月の功績を伝えようと、顕彰会や愛好家が建立したと、「主催者資料」にあった。戊辰戦争の頃の会津の士、特に山川健次郎の兄、山川大蔵を主人公に描く『獅子の棲む国:秋山香乃』を思い出した。

ここでお昼。山道を四駆でお弁当を運んで頂きた主催者である「にしあいづ観光交流協会」の方に感謝。

また、二日目のメモも途中ではあるが、ここで終える。束松峠から会津坂下町の片門までのメモは次回にまわす。



土曜日, 10月 08, 2016

西会津 会津街道散歩 そのⅡ;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(野澤宿から縄沢に)

Google Earthで作成
会津街道歩き、初日は、福島県耶麻郡西会津町上野尻からはじめ、野澤宿を訪ねた後、束松峠を越えて福島県河沼郡会津板下町片門まで歩いたのだが、メモは途中の野澤宿で力尽きた。

常のことではあるのだが、事前にあれこれ調べても、頭に何も入らないことを言い訳に、とりあえず歩いてから、なにかフックが掛かったことをチェックするってスタイルであり、今回は阿賀川の舟運、大山祇神社、野澤盆地の湖の時代、野澤潟の時代、陸地化の時代など、実際歩いてみて気になることがいくつかあり、結構メモが長くなってしまった。

今回は、前回の続き、野澤宿の「ふるさと自慢館」を出て、縄沢までをメモする。



本日のルート;上野尻の西光寺>イザベラ・バード感動の地>雪崩常習地帯>芹沼一里塚>芹沼の大山祇神社道標>安座川を徒河>小屋田遺跡の敷石住居跡>堀貫橋跡に>本海壇(火防塚)>化け桜>野澤原町宿田沢橋口西門>ふるさと自慢館
脇本陣跡>常泉寺>野澤停車場通り>劇場通り・花街通り>野澤原町宿東門>初期野澤内郷組郷頭橋谷田又右衛門家跡>研幾堂跡>肥後殿御殿への裏道>天満天神宮>旧野澤小学校跡>代官清水>熊野神社>常楽寺>野澤宿本陣跡>井戸水噴出の民家>鈎型>栄川酒造>遍照寺>諏方神社>一里塚>地蔵原・六地蔵原・古四王原(胡四王原)>徳蔵橋>馬頭観音>広谷寺>日本一小さい無名美術館>御?神社>復縁の松

脇本陣跡
「ふるさと自慢館」で少し休憩の後、通り対面の少し西の野澤公民館に。そこはかつて脇本陣のあったところ。案内には「野澤宿の脇本陣は現在のここ公民館あたりにありました。脇本陣は、本陣だけでは泊まりきれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に、格式の低い藩の宿として利用された、本陣の予備的施設でした。
規模は本陣よりも小さいものの、一般の旅籠屋と違い、門、玄関、上段の間を設けることができ、諸式はすべて本陣に準じ、本陣と同じく宿場の有力者が務めました。
原則として特定の身分の人だけが宿泊できた本陣と違い、脇本陣には一般旅行者も宿泊することができました。
また、脇本陣を務めていた「塩屋」には十返舎一九も泊まっていて、著書「越後路之記 金草鞋」に「ほどなく野澤の駅に着いた。塩屋という宿から留女が出て引きとめるのでここにとまった」と書かれており、その時に詠んだ狂歌が一句あります。「三味線の 野澤の宿は 旅人の袖を 無性に引いて とどめる」 にしあいづ観光交流協会」とあった。
文化11年(1814)の晩秋の頃かと思う。脇本陣に並び、旅籠、造り酒屋が軒を連ねた。停車場通りに建つ「十一塩屋」はこの地から移転したものである。

常泉寺
脇本陣から、野澤原町通りを「野澤原町宿田沢橋口西門方面」に戻り、野澤駅方面に道を折れる。と、左手に常泉寺。先回のメモの通り、田沢川を渡り野澤村と芹沼村を繋ぐルート変遷の中で、堀貫橋を通るルートの入口に位置する。
新たに建て替えられた本堂にお参り。境内に「南無阿弥陀仏名号」、「子育て黒地蔵」がある。
南無阿弥陀仏名号
「この南無阿弥陀仏の名号は先端が剣の穂先のように表されており利剣名号といわれています。すなわち、よく切れる剣の様に、人間の災厄を切りすて、私たちを幸せに導いて下さいます。
また、この名号は後醍醐天皇の御世、百萬遍念佛の功徳により疫病を退散したおり、宮中より大本山百萬遍知恩寺に御下賜になったものであり、常泉寺との強いつながりを証明するものです」。
「大本山百萬遍知恩寺と常泉寺との強いつながり」とは、「主催者資料」にあった常泉寺は「青津村(現、会津坂下町;前述「勝負沢峠」の西、阿賀川に面する)の地頭・生江氏の庶子・笈州上人(京都・知恩寺・百萬遍第30世;母親は野澤豊川の生まれ)縁の寺を指すのだろう。
子育て黒地蔵
子育て黒地蔵の由来の案内もあった。ざっくりとまとめると、今から183年も昔にまとめた記録に、それ以前に既に黒地蔵はこの寺に祀られていた。人々に「枕がえしの黒地蔵」子育て地蔵と呼ばれていたこのお地蔵さまには、こんな言い伝えがある;
昔、寺の前の通りが越後街道といわれ、人馬がさかんに往来していた頃、馬方がお地蔵さまに足を向けて寝入ったところ、目が覚めると、いつのまにか向きが変わり、頭がお地蔵様に向かっていた、と。
枕がえし
この話、何を伝えたいのかよくわからない。Wikipediaの「枕がえし」の項に、寺院の霊験を物語るとして同様の話が記載されているが、向き変わることが、何故に仏の霊験なのだろう。
黒地蔵からなにか手がかりは?鎌倉円覚寺の黒地蔵は、地獄で炎に苦しむ人々を少しでも苦痛を和らげるべく、鬼にかわって火を焚いたため、その煤で黒く煤けたという。「心優しき」お地蔵様ってことはわかるが、「枕がえり」とひっかかりは、ない。
結局よくわからないが、「枕返し」」は何か霊的なこと、「秩序が逆転する異常な事態」として庶民の間で恐れられていた、と言う。我々にはよく理解できないが、「枕がえし」が霊的なこととして怖れられていたことが、このお寺のお地蔵様の霊験として残ったのだろうか。
東北地方には枕返しは座敷童の悪戯という話が伝わるようだが、それは、その信仰が廃れるにつれ、霊験から悪戯へと形を変えたものとのことであった。

野澤停車場通り
常泉寺から磐越西線・野澤駅方面に向かう。野澤駅前通りと呼ばれるこの通りは、かつて野澤停車場通りと呼ばれていたようだ。
野澤駅は大正2年(1913)岩越線の駅として開業。大正3年(1914)には野澤・津川が結ばれ、現在の磐越西線全線が開通した。
岩越線の前身は、明治29年(1896)、郡山・若松・新津を結ぶ目的で設立された岩越鉄道。漸次路線が延長されたが、明治39年(1906)には国有化され岩越線となり、大正6年(1917)に福島のいわき市と郡山を結ぶ路線が繋がり磐越東線と称される際に、岩越線も磐越西線と改称された。
かつては大山祇神社の大例祭などの時は、大量輸送、臨時列車の増便などで活況を呈したようである。
十一塩屋
駅前通りには野澤原町から移設された脇本陣「十一塩屋」がある。『東海道中膝栗毛』で知られる戯作者・十返舎一九も野澤原町にあった移設前の宿に泊った宿である。その他、車峠の茶屋・吾妻屋分店が軒を連ねるが、停車場開業にその因はあるのだろう。
なお、停車場通りが開かれた頃は、西側に軒を連ねたため「片町」と呼ばれたとある。現在でも、東は長谷川に面した湿地の面影が残る。
岩越鉄道・岩越線
「岩越」の由来が気になる。「越」は越後だろうが、「岩」は?チェックすると、東北戦争(戊辰戦争)の後、陸奥国が分割され、福島県中西部は「岩代国」と称された。岩越鉄道の岩はその「岩代」からだろう。
因みに、「岩代」は養老2年(718年)、陸奥国、「石背国」と「石城国」にわかれたが、「岩代国」はその「石背国」の領域とほぼ一緒。
その「石背」は奈良時代、山城国が「山背」と表記されたことから、「石背」も「いわしろ・いはしろ」と読まれたようだ。「石背」が「岩代」と表記を変えた所以は?とは思えども、きりがないので、ここで終える。

劇場通り・花街通り
駅前通りを南西に斜めに折れる道に入る。かつて芸妓屋が並んでいた花街通り。一九の句も、その粋な風情を詠っているように思える。大正3年(1914)岩鉄線が全線開通とともに、野澤宿の裏側ともいえるこの辺りに飲食・宿が立ち並び、その賑わいは昭和30年(1955)頃まで続いたとある(「主催者資料」)。

野澤原町宿東門
花街通りを進み、斜めに進んだ道筋の端にあったとされる野澤組御蔵番宅(会津藩の年貢米を管理していたのだろうか)を越え、野澤原町通りの野澤原町宿東門に出る。「ふるさと自慢館」や「脇本陣跡」の少し東であった。ここから東は野澤宿を構成した野澤本町村ではあろう。
この原町と本町、メモをするとき、ふたつ合わさって野澤宿となった、ってことを十分理解できておらず、何故に本陣跡(後ほど訪れる)が(原町宿)西門、東門といった「門」の「外」にあるのか理解できず、結構頭の整理に時間を潰してしまった。後から組み入れられたとはいえ、「本町」にも「門」があれば混乱しなかったのだが、それにしても本町の「門」は無かったのだろうか?




初期野澤内郷組郷頭橋谷田又右衛門家跡
脇本陣から野澤原町宿東門を隔てた東側に郷頭橋谷田又右衛門の屋敷があった。「ふるさと自慢館」の資料に拠れば、野澤が芦名氏の支配から伊達氏の支配下となった17世紀後半の頃だろう。
「主催者資料」には「菅信濃・荒川近江本営。村上藩常宿」とある。「ふるさと自慢館」の資料には「(伊達氏は)統治をはかるため野澤大槻城に菅信濃・荒川近江を置く」ともある。「本営」と「居城・野澤大槻城」の違いは聞き漏らした。
また、「村上藩常宿」って?定宿は通常本陣では?で、その本陣は通りを隔てた対面にある。単に近くにあるのでこの地を活用したのか、そもそも野澤の本陣が正式に成立したのは享保7年(1722)といった記事(にしあいづ観光交流協会)もあるので、本陣ができるまで常宿としていたのだろうか。

誠にもって、何の知識・問題意識も持たず、結構ディープな「探索の旅」に迷い込み,当日は何が何やら、貴重な説明も全く理解できず、一刻も早く野澤宿を抜けだしたいと願っていた我が身に、メモの段階できつい御灸をすえられた心持ではある。

研幾堂跡
上記疑問はともあれ、郷頭橋谷田又右衛門の敷地はその後分割され、その一角隅に「研幾堂」があった。現在、旅館朱泥庵のある辺りと言う。
前述の如く、研幾堂は幕末の慶応2年(1866)が渡部思斎が開いた私塾。会津藩校・日新館で医学を学んだ思斎は、近隣の子弟に法政、経済、医学、文学を教え、医師、文化人、自由民権家など幾多の人材を育てた。





肥後殿御殿への裏道
旅館朱泥庵の玄関前、民家の軒先の径を進む。「主催者資料」には「肥後殿御殿への裏道」とある。径はこの「肥後殿御殿への裏道」だったのだろうか。聞き漏らした。また、「肥後殿」といえば、寛永20年(1643年)、会津藩23万石藩主となった保科正之のことだろうが、これも聞き逃した。
◆保科正之
徳川家康の孫、三代将軍家光の異母弟である保科正之は中村彰彦著『名君の碑』に詳しい。

郷頭
径を進むと東西に走る少し大きな道にでる。「主催者資料」にはこの辺りに「郷頭」の役宅があったとあり、「伊藤伊勢に代わり野澤新郷組郷頭>野澤郷頭を幕末かで続けた」とある。ちょっと混乱してきた。「ふるさと自慢館」の資料には伊藤伊勢は「政所」とあるし、先ほど「野澤内郷組郷頭」橋谷田又右衛門ともあった。「政所」と「組」「郷頭」の関係は?
あれこれチェックすると、郷頭制とは近世会津の地方支配制度のことであり、郷頭とは、数ヶ村から大きくは数十ヶ村をまとめた組織された「組」におかれたもので、通称「大庄屋」と称す。
郷頭は「政所」>「大割元・大肝煎」>「組頭」>「郷頭」とその呼称も変わったようで、伊達氏支配の頃は郷頭のことを「政所」と称していた、ということだろう(「近世会津の村と社会;酒井耕三」)。野澤内郷組と野澤新郷組の詳細は不明。

天満天神宮
東西に進む道を西に折れ、すぐに旧野澤小学校への道を右に折れ、先に進むと天満天神宮がある。この地もかつては修験の地。当山派修験・三明院、当山派修験・野澤常法(宝)院があった(「主催者資料」)。明治の廃仏毀釈、修験禁止令により、天神社を選択したのだろう。
山伏
明治5年(1872)に修験禁止令が出された当時、17万から18万人ほどの山伏がいた、と言う。山岳修験者というより、祈祷やお山代参などを生業とする者が多く、「国家神道」を基本に、「近代化」を急ぐ明治政府には、山伏は、不要の存在と断じられたのであろう。

旧野澤小学校跡
道を先に進むと広い敷地にあたる。校舎らしき建物も残る。野澤小学校があった跡地と言う。長谷川の西に西会津小学校がある。そちらに移転か統合されたのだろう。 「主催者資料」には、この地について「荒井館>肥後殿御殿>郷蔵>野澤代官所・代官稲荷>第二次民生局>野沢小学校」との記載があった。多分当日は詳しい説明があったのだろうが、今となっては冒頭の荒井館からしてよくわからない。
「ふるさと自慢館」には、芦名氏の家臣で野澤代官であった大槻太郎左衛門政通が「大槻城・現、野澤山返照寺から。のちに荒井館、現野澤小学校に移住」したとあるが、そもそもの「荒井館」についての記述はない。また、「芦名氏は織田信長への使者として野澤村地頭・荒井満五郎・新兵衛親子を任じ、貢物を献上」とあるが、この荒井氏と荒井館の主の関係がよくわからない。
行間というか文字間を埋めるべく、あれこれ資料を探す。と、「広報にしあいづ」にこの地の歴史が説明されていた。その説明によると、「この場所は「横町館跡」という遺跡として県の埋蔵文化財包蔵地台帳に登録されており、鎌倉時代から各時代に様々な建物が建築され、野沢地区の重要な拠点だったといわれています」と言うイントロから始まり、この地の歴史が詳しく説明されていた。


横町館とその後の歴史

会津街道;上野尻・野澤宿・縄沢
鎌倉時代
正安年間(1299-1301)に野沢の領主荒井信濃守頼任が居館を築いたとされ、この居館が横町館(別称荒井館)と呼ばれていました。荒井氏は会津地方を治めていた芦名氏と関係が深く後に子孫が芦名の名代として織田信長のもとへ遣わされ、馬やろうそくを献上したとされています。

戦国時代
戦国時代になると元亀年間(1570-1573)に大槻(大庭)太郎左衛門政道が大槻館(現在の遍照寺)から移ってきます。大槻太郎左衛門政道は天正6年(1576)に西方(三島町)の山内右近らとともに上杉謙信に内応し、芦名盛氏に反旗を翻しますが、敗れ、討たれることとなります。
このころの横町館の様子を描いた絵図が残されています。それによると、大きさは東西約117m 南北約51mで、西と南には幅約6m、深さ約3mの堀があります。また、東と北には長谷川が流れており、舟着場を設けて物資などの運搬に利用していたと考えられています。
江戸時代
1665年(寛文5)越後村上藩主松平直矩が江戸からの参勤交代の途中に野沢で宿泊し、その際に宿を出て 、肥後殿茶屋を見学したという記録が残されています。肥後殿茶屋は会津藩主が巡見の際休憩や宿泊に利用していた建物でこれも現在の西会津小学校旧校舎敷地にあったとされています。
1721年(享保6)になると藩命により肥後殿茶屋は本陣と改称し、現在の原町駐車場に移転します。
やがて1808年(文化5)常楽寺裏にあった代官所がこの場所に移り 。代官所は明治維新まで続きます、会津藩が編さんした『新編会津風土記』によると、ここに米蔵4棟建てられたとの記録があり、うち1棟は災害や飢饉などに供えた社倉であったとされています。
明治時代
1868年(明治元)明治新政府は藩に代わる新たな統治機関として野沢に民政局を設置しました。民政局のあった場所については諸説ありますが、この場所にあったという説もあります。なお民政局は翌年廃止されています。
1877年(明治10) 野沢小学がこの地に移転しました。当時の校舎は江戸時代の米蔵を利用したものでした(後略)」と。
これで「主催者資料」の字間が埋まった。また、この流れから読み取ると、「ふるさと自慢館」の「芦名氏は織田信長への使者として野澤村地頭・荒井満五郎・新兵衛親子を任じ、貢物を献上」とある荒井氏は鎌倉期に、野沢の領主であった荒井信濃守頼任の子孫ではあろう。
因みに、葦名氏と信長の間を取り持ったのが、上記常泉寺の笈州上人とのこと。京都・知恩寺・百萬遍第30世26年続け、正親町天王より紫衣を賜った学識高い名僧をの力ではあろう。

代官清水
旧野澤小学校跡地の東側石垣に沿って窪地に下りると、「代官清水」がある。おいしい水で喉を潤す。案内には「ふくしまの水 30選 鎌倉時代末期(1300年ごろ)に野澤地頭の荒井信濃守頼任が、今の野沢小学校のところに館を築いて、その湧水を「館の清水」と呼び、のち文化5年(1808)に、原町の常楽寺東にあった会津藩野沢代官所がこの館跡に移転してから、「代官清水」とよばれ今に伝わり、鎌倉以来の歴史を秘めて人々に親しまれている」とあった。藩主松平容敬(私注;第八代藩主。戊辰戦争の松平容保は第九代藩主)検分の清水とも。
「主催者資料」に、この湧水を集めて長谷川に流れる水路に万淵(馬淵)川と記載されている。水路は塩屋・三留家による大工事がなされたとのこと。利水の為なのか、三留家の銘酒「勇駒」の原水確保も兼ねたものなのか、詳細は聞き漏らした。

熊野神社
現「ふるさと自慢館」、江戸時代末期まで熊野権現および愛宕権現(将軍地蔵)の別当荒井家の里修験場であった大正(大勝・大昌)院と宿坊柳屋が、明治の廃物稀釈でこの地に移る。神仏分離で神職を選んだということだろう。



「主催者資料」に、旧地・牧街道小谷田から移設とあったが詳細不詳。境内跡には廃物稀釈で移された幾多の屋敷神が祀られる。社拝殿左手が崖状となっているが、竪堀?と「主催者資料」。竪堀であれば、同じく「主催者資料」に、(当地は)屋敷跡か隠居跡か?との記載も頷ける。寺社に良くある奉納相撲場跡もあるようだ。




常楽寺
熊野の社から、かつての野澤原町村の東、野澤原町村と共に野澤宿を成した、野澤本町村、本町宿の通りに戻る。本町通りへの途中に常楽寺。文化2年(1808)、上述、野澤小学校跡地に移る以前、江戸時代初期の慶安2年(1649)頃は、この寺の東側に代官所が置かれていたようである。
寺に「会津戊辰戦争戦死者の墓」の案内がある。戦いで亡くなった長岡藩、薩摩藩、長州藩士が眠る。また、会津藩の臨時編成である農町兵隊士か従兵か定かでないが、新潟で戦死した野澤出身者のお墓もある、と。
案内を見ていると、薩摩藩士は西方村(現三島町)、長州藩士は会津坂下と喜多方で戦死した、とある。何故に遠き戦場で亡くなった戦士がこのお寺に?事務局資料にはこのお寺様は戊辰戦争時、官軍野澤養生所であった、とある。そのことと関係あるのだろうか。
また、この寺に眠る長岡藩士、会津藩兵であるが、共に官軍と戦った「賊軍」戦士である。会津兵の埋葬禁止令が官軍より発せられ、野山に屍が晒されたが、町村主水(『その名は町村主水;中村彰彦(角川文庫)』)などの尽力により、後に赦され埋葬された、というからその時期以降にこの寺に?とその間の状況をチェック。
と、埋葬禁止令が出たというのは誤りで、戦時における治安の悪化・農民一揆や略奪による作業遅延、冬期という降雪時期故の作業遅延が「埋葬禁止令」といった誤解を招いた、との記事もあった。
旧野澤原町代官所御代官様屋敷跡
常楽寺道を北上し、本町裏道を右折すると「旧野澤原町代官所御代官様屋敷跡」がある。本来は野澤政所伊勢(伊藤伊勢)の屋敷で御茶屋(本陣)にもなった。伊藤伊勢は、野澤新郷組郷頭や本町村肝煎を務める。御代官様屋敷には天王様(牛頭天王=祇園社)の祠が置かれていた(「主催者資料」より)。
天王(牛頭天王=祇園社)
散歩の折々で天王社に出合う。ちょっと寄り道して、天王(牛頭天王=祇園社) の関係をまとめておく;
八坂神社は祇園社とも天王社とも呼ばれる。正確に言えば、八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。それまで「天王さま」とか「祇園さん」と呼ばれていた。明治になって本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。
八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたため。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。
また、この「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。御祭神は素戔嗚尊が多い。どうも、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していたようだ。神仏習合である。
ちょっとややこしいがその経緯は、牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とも考えられるようになった。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。
泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもその因だろうか。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。

野澤宿本陣跡
熊野の社から通りに戻る。本町通りを少し東に戻った道路南側に町営駐車場があるが、そこが「野澤宿本陣跡」。前述の如く享保6年(1721)野澤小学校跡地にあり、会津藩主が巡見の際休憩や宿泊に利用していた建物・肥後殿茶屋を藩命により、本陣と改称しこの地に移った。
「主催者資料」に拠れば、戊辰戦争時、会津藩主松平容保が津川口の戦いをにらみ、白虎隊士中一番隊とともに止宿し、佐川官兵衛を家老に任じています」とあった。
津川口の戦い
北越戦に於いて奥羽列藩同盟と戦い、長岡城を再奪取した新政府軍は、軍を米沢方面軍・庄内方面軍・津川口方面軍の三方面に分ける。山形有朋率いるこの津川口方面軍と藩境死守する会津藩兵との連戦の場が津川口の戦いと呼ばれる。 ◆白虎隊士中一番隊
白虎隊の構成は士中一番隊(49名)、士中二番隊(42名)、寄合一番隊(106名)、寄合二番隊(67名)、足軽隊(79名)の計343名よりなる。この内精鋭部隊、といっても基本、16歳から17歳の子弟ではあるが、ともあれ、精鋭部隊は「士中隊」。一番隊は藩主容保の護衛、戸ノ口原の合戦で敗れ飯盛山で自刃したのは二番隊である。
佐川官兵衛
中村彰彦さんの『鬼官兵衛烈風録(角川文庫)』に詳しい。

井戸水噴出の民家
本陣跡の駐車場の西隣、同じ敷地と思しき民家に向かう。と、民家の敷地が濡れている。よくみると家の玄関周りを囲む管に幾多の穴があり、そこから水が「噴出」している。民家西側の空き地の井戸からポンプアップされた地下水とのことである。
「主催者資料」の地図には、御本陣の西に浜次右衛門屋敷(「笹乃井」)、その西に万願寺屋敷(「男山」>小吉の井)と記載され、「万願寺屋敷」は、「ふるさと自慢館」の説明にあったように、上杉景勝の家臣・万願寺仙右衛門の屋敷があったところである。
その敷地に銘酒「男山」の醸造元・万願寺屋があり、同家の井戸は代官清水とともに名水とされ、藩主松平容保も吟味した、とある。地図にある「小吉の井」とはその井戸のことだろう。名水「小吉の井」は東北電力野澤出張所建設時に埋め立てられたとのこと。
兵左右衛門屋敷の「笹乃井」も同じく清酒の名。「笹乃井」の大井戸は万願寺屋の旧井戸と水脈を同じくし、今でも涸れることなく水を蓄えています、とあるので、ポンプアップされた水はこの笹乃井の大井戸からの水ではなかろうか。 とはいえ、周囲には造り酒屋といった建屋もなく、東北電力の出張所らしきものも見えず、駐車場と一軒の民家、そして空き地が広がるのみ。説明を聞き漏らしたが、清酒の醸造元は無くなったのだろう。

鈎型
常楽寺参道入口を越え、道を東に向かうと、道は鈎型に曲がる。「その角の辺りに豪商・野澤笹屋の総本家があり、また常楽寺からの旧道と本町南から流れてきた用水の逃し口が敷設された」と「主催者資料」にあるも、辺りはスーパーとなっており、それらしき面影は分からなかった。
鈎型に曲がるあたりが野澤原町村と野澤本町村の境とのことである。



栄川酒造
本町通りを歩く。道の北側は役人街であったと。会津大地震の復興に尽力するも、非業の最期を遂げた岡半兵衛の勘定役宅、馬次の宿であった本町が野澤宿に編入されたとき脇本陣となった菊屋などが並んだとのこと(「主催者資料」)。 また、その先、道が二つ目の大きな鈎型となって曲がる手前に栄川酒造。本町村肝煎・石川市十郎家。石川屋石川家は石田三成の後衛とのこと。石田は会津藩主松平家に憚りがあると三代目市十郎のとき、石川に改名したようだ。
この石川家の10代当主の3男が研幾堂にあった石川暎作。慶応義塾で学び『国富論』の翻訳、婦人の洋髪化(婦人束髪)運動などで知られる。
それにしても、岡半兵衛の妻が石田三成の次女。野澤に三成の後裔が棲むとは、何たる因縁だろう。

遍照寺
大きく道が曲がる鈎型箇所に遍照寺がある。境内は明治の大火で公園となった、とあるが、駐車場といったほうが適切かとも思う。延徳のころ(1489~1491)、伊藤長門守盛定(野澤妙法寺の記録に登場する)が住んで大槻氏と称し、またこのメモで度々登場する、芦名盛氏(葦、芦)の家臣で野沢村の地頭・大槻太郎左衛門が永禄5年(1852)、この地に移った。
あっさりした境内にふたつの御堂が建つ。そのうちひとつは能化上人堂(御能化様)。即身仏にならんと、生きながらにして地中に籠る。もうひとつは明治の大火で墓地を移した折に建てた納骨堂だろうか。
六地蔵
また境内には六地蔵(俗称・化け地蔵)、鬼子母神、お地蔵様が祀られる。「六地蔵(俗称・化け地蔵)」の由緒に「この地蔵は、形石灯籠の如く、火袋にあたるところを六角にけずり、面毎に地蔵1?を彫ってある。もと町の辰の方(東南)十一町、越後街道古王原にあり、夜々怪しき形になり人を誑かしていたが、一丈夫(私注;強い男)に斬りつけられ傷を受け、その変化が無くなったといい、竿石の中ほど太刀傷如きものが見えたという(『新編会津風土記』)」とある。
明治初期、道路改修の折、元大槻太郎左衛門館跡の遍照寺の一隅、能化上人堂裏に移されていた。戦時中、納骨堂建設時、危うく土堤の補強に使われるのを免れ、現在の地に建立した」と。
「網澤邑の徳蔵坊・廣谷寺・西羽賀村徳蔵寺縁起」
六地蔵の由来に続き、天正15年(1587)に書かれた縁起(「青津家所蔵古文書」)が記載されていた。漢文風の記載であり、「読み間違い」も多いとは思うが、とりあえずまとめると;
「弘仁年中(私注;810-824)、徳一の弟子徳三が網澤川と長谷川の合流点の山の小さな平地に草庵を結び聖徳太子の木造を安置する。ふたつの川が合流する草庵の前には徳蔵橋を設ける。また、野澤地蔵ヶ原に徳一作の六地蔵を安置し代々徳三坊が別当として務めた。
しかし、葦名遠江守盛宗が信州より諏片大明神を黒川に勧請し永仁2年(私注;1294)、神輿を地蔵ヶ原に宿し、その跡に小祠を建てる。その後延慶3年(私注;1310)、宮を造営。
嘉元元年(私注;1303)、別当の徳蔵坊は理由なく地蔵堂を潰し、祠を建てる。これに対し野澤の地頭荒井信濃守頼任が怒り、葦名遠江守盛宗に訴え徳蔵坊を追放する。徳蔵坊は母に縁(弟が住む)がある西羽賀村に退き、身を改め徳治元年(1306)、浄土宗徳蔵寺を建立。千体仏を彫り、六地蔵のうち1?を本尊とする。
また、応長元年(私注;1311)、網澤村に真言宗・廣谷寺を建て、延徳元年(私注;1489)に臨済宗に改め、興圀寺とし、本尊は徳一作の六地蔵のひとつである」といったようなことを記している。

六地蔵は徳一作?
最初、この縁起が六地蔵と如何なる関係があるのか、と思ったのだが、どうも、遍照寺の六地蔵は徳一作の六地蔵ということだろう。また、縄澤村の興圀寺の本尊も徳一作の六地蔵のひとつとする。
それはそれでいいのだが、この縁起「その後延慶3年(私注;1310)、宮を造営。嘉元元年(私注;1303)、徳蔵坊は理由なく地蔵堂を潰し祠を建てる」の箇所であるが、年代が入れ替わっていないのだろうか。宮を建てた後、地蔵堂を潰すのが自然の流れのようにも思える。

一里塚
遍照寺を離れ、道を先に進み県道16号を交差し、道が国道49号に合流する手前、道の南側に一里塚がある。案内に拠れば「野澤諏訪神社前一里塚 一里塚は主要な街道の両側に一里ごと(4キロメートル)に設けられた塚のことである。 町内には五カ所に設けられたと言われるが、現在は諏訪神社前の塚と白坂・宝川間(私注;下野尻の先の車峠を新潟側に越えた会津街道の宿場)の塚が形を残すのみである。
この塚も明治三方道路の開削で片側が完全に消滅したが、江戸時代の交通史を物語るものとして重要なものである」とある。
塚は道の南、小川(裏川)の向この杉木立の中にある。塚と塚の間に小川?なんとなく変。三方道路開削時、瀬替えされた結果だろうか。妄想ではある。
三方道路
会津三方道路は、明治時代の福島県令、三島通庸によって主導された土木事業の通称。また、それによって生み出された道路のことを言う。
会津若松から 南の栃木県日光市田島・今市方面(白川街道)と、 西の新潟県東蒲原郡阿賀町津川・新潟方面(越後街道)、 および北の山形県米沢市方面(米沢街道)への 三方へ向かう道路の総称である(Wikipedia)。

諏方神社
一里塚の北の広い社叢は諏方神社。当日は時間が押しており、境内に行くことはなかったが、「主催者資料」には、「永仁2年(1294)葦名遠江守盛宗が信州より諏片大明神を勧請し、その神輿が宿営した縁で、嘉元元年(1303)野澤の地頭荒井信濃守頼任が同社を祀った」、とある。また、当社には野澤小学校から移された田中角栄氏の揮毫の碑があるようだ。
ここでは嘉元元年(1303)野澤の地頭荒井信濃守頼任が同社を祀ったとされている。上記縁起の年代齟齬の疑問は当たっているかも。
諏方
なお、「諏訪」ではなく、「諏方」とあるのが、本社諏訪大社に遠慮してのこと。 とはいえ、この「諏方」という表記はは、この地に限ったわけではなく、東京・荒川区にも「諏方神社」はあった。

鉄火の裁き
「主催者資料」に拠れば、松尾村(綱澤村の北)と縄澤村で山の利用権を巡り刃傷沙汰にまで発展したため、会津藩が仲裁に入るも決着つかず、結局「鉄火」による裁きとなる。
「鉄火の裁き」とは、鉄火を掴み、先に落とした方が負け。負ければ「御成敗」、勝っても重症の火傷を負うという、苛烈きわまりない裁き。松尾村の代表が斃れ決着がついたが、松尾村はその代表を厚く供養したとのことである。 なお、鉄火の裁きは、この地だけでなく江戸の初期の頃、各地でおこなわれていたようである。

地蔵原・六地蔵原・古四王原(胡四王原)
諏方神社前を進むと国道49号と合流。その先、国道を跨ぐ磐越自動車道の手前が腰王原甲、越えると古四王原甲となる。上記遍照寺の六地蔵の説明と縁起に「古四王原 地蔵ヶ原ちょうせんじ跡」とあったので、高速の東西辺りが、徳蔵坊が草庵を結び、徳一作の六地蔵を安置した野沢地蔵ヶ原であろう。
ちょうせんじ跡
「ちょうせんじ跡」に関し、「主催者資料」に「長泉寺須弥壇跡(石川家菩提寺? 安積伊藤氏菩提寺?)」といある。安積伊藤氏の墓は郡山士大槻町の長泉寺とあり、上記縁起に「延徳のころ(1489~1491)、伊藤長門守盛定(野澤妙法寺の記録に登場する)が住んで大槻氏と称し」とある伊藤長門守盛定は安積伊藤氏の同族との説もある。
また、石川家の菩提寺? についてはトレースできない。石田三成の後裔である野澤石田家のことなのか、福島県石川郡石川町にあり石川氏の庇護を受けた東北の名刹と称される長泉寺のことなのか、ガイドの先生の説明をちゃんと聞いていなかったため、不詳である。

徳蔵橋
磐越自動車道の高架下を潜り、国道から左に折れる道を進むと、長谷川と不動川が合流する箇所に、そのふたつの川を跨ぐ徳蔵橋が架かる。上述遍照寺の『縁起』に、「徳蔵が網澤川と長谷川の合流点の山の小さな平地に草庵を結び聖徳太子の木造を安置する。ふたつの川が合流する草庵の前には徳蔵橋を設ける」とある徳蔵橋の辺りだろう。
「主催者資料」には「昭和10年頃は砂子坂から真っすぐに道が伸びていたそうで、長谷川と不動川の合流点の突端部分に徳蔵寺があったといわれていますので、二つの川が合流する直前のところにそれぞれ橋がかかっていたのでしょうか」とある。遍照寺の縁起にはこの辺りに徳蔵寺の記載はないのだが?草庵か地蔵堂のことだろうか。
砂子坂
「国道49号は諏方神社を過ぎると緩やかに下りエネオスのスタンド前を通過する。この穏やかな坂は土盛をして緩やかにしたもので、本来は一気に地蔵原から長谷川の低地に坂(崖)を下っていた。地蔵原や野澤宿がある地形面は阿賀川の河岸段丘(野澤盆地の中核中核的段丘)で、それを長谷川が側方侵食して比高10m程度の段丘崖を形成。この段丘崖の坂が砂子坂。段丘の構成物が軽石や粉砕された砂を主体とした物であり、砂っぽいため名付けられたのではないか」と「主催者資料」にある。
二枚橋
実際当日訪れたわけではないのだが、ガイドの先生の説明にあった「二枚橋」を「主催者資料」を引用する;
「本町から県道と国道49号バイパスの交差点から150m位行ったところに、かつては深い谷があり、その谷にふたつの橋(越後街道にひとつ、明治17年完成の三方道路に一つ)が極めて近い隣同士に架かっていたので、人々は二枚橋と呼んでいたそうである。
その後昭和28年(1953)に新潟市と旧平市が二級国道新潟平線になった時に谷が埋められて橋も無くなったかと思われる」。
一里塚の解説に「この塚も明治三方道路の開削で片側が完全に消滅した」とあり、現在県道に沿って流れる水路(裏川)の右手に一里塚が残る、ということは、街道はふたつの塚の間を通るわけで、その片側の塚は三方道路で崩された、ということは、三方道路は会津街道の諏方神社寄りになるわけであろうから、「主催者資料」の地図に示される二枚橋の位置は今一つ間尺に合わないのだが、どこか間違っているだろうか。

馬頭観音
徳蔵橋の南、長谷川と不動川に囲まれた辺りにあったという「森の越古墳」を見遣りながら進むと道脇に馬頭観音。荷を運ぶ主役である馬を祀るもの。散歩の折々、街道脇でよく見かける。
金城館跡・向館跡
道の左手、一ノ沢山の山腹に金城館跡、馬頭観音から少し進んだ、道の右手に向館跡。ともに大槻太郎左衛門が芦名氏に背いたとき、それに抗して金白加賀守景良が築いた館とのこと(「主催者資料」)。



馬頭観音から先は、GPSの電池が切れ、また間が悪いことに、替えの電池を持たなかったため、以降トラックログを取れなかった。ために、大雑把にルートを記す。

縄沢の集落
道筋に戻り先に進み、道から一筋内に入る縄沢集落への道に折れる。「縄沢」と書いて「つなざわ」と読む。「主催者資料」によると「野澤盆地が湖だった頃、船を繋いだところだったので「船繋沢」と呼ばれ、天正年間(1573‐1593)に東青津村から生江氏が18名の従者と共にこの地に来て、西方の上町と東方の侍屋敷の2ヵ所を開墾し、村名を「綱沢」に改めた。その後正保年間(1624-1645)に「縄沢」と改める。将軍家綱に遠慮し「綱」を「縄」としたとの説もあるが、家綱在位が1651‐1680であり、ちょっと微妙」とあった。
地名などで、漢字を書き間違い、それが今に残るといったこともよくああることなので、それだけのことかもしれない。単なる妄想。
縄澤村
「此の地はかつて「船繋沢」と呼ばれたように、平地が少なく山地のため焼畑農法で、3年から3年で土地がやせると新たな場所で焼畑を行い、旧地に這える草を馬の冬期用干し草として萱本村や野澤本町の農家に売っていた、と。 また、湖水周辺と思われる箇所から縄文中期‐晩期の土器や矢じり、磨製石斧等の石器が多数出土している(「主催者資料」より)。

『新編会津風土記』には、「寛文10年の家数23軒,人数男150・女129(万覚書)化政期の家数31軒」「当村の北方の山中には,元和年間松尾村との境界争いの際,鉄火により誅せられた松尾村の清右衛門の死骸を三分した胴塚・首塚・足塚があり,それを両村の境界としたという」といった記載もあった。
明治4年の戸数26・人口142(若松県人員録)同8年青坂村ほか4か村と合併して六ツ合(睦合)村となった。現在は、耶麻郡西会津町睦合縄沢。

広谷寺
縄沢の集落の道を進む。道の北には広谷寺があるとのことだが、当日は時間がなくパスすることになった。が、一応上記縁起にもあったお寺さまでもあるので、ちょっと寄り道メモ。

遍照寺の縁起に「また、応長元年(私注;1311)、網澤村に真言宗・廣谷寺を建て、延徳元年(私注;1489)に臨済宗に改め、興圀寺とし、本尊は徳一作の六地蔵のひとつである」とあったお寺さま。主語が縁起ではわかりにくい。徳蔵坊か本願村主二瓶安房守綱守のどちらだろうか。
なお縁起は天正15年(1587)であるのでその後のことも踏まえ、「主催者資料」で補足すると、もとは南方向山地区(私注;場所不明)にあったが、寛永5年(1628)、この地に移り、名前も興国寺から「臨済宗霊運山広谷寺」に戻り、明治にはいると「柳津奥之院」という格式の高いお寺の兼務寺となり、現在に至る、と。
境内の鐘は戦時中供出されたが、戦後50年、出ヶ原村(私注;縄沢の南。長谷川に沿って国道400号を上ったところに「出ヶ原」がある。そこだろうか)で発見され、広谷寺に戻ってきたとのことである。

日本一小さい無名美術館
道なりに進み、大きな民家に。そこは縄沢の折笠さんが自費で集めた美術品、骨董品、古文書などを自宅の蔵で公開する、「日本一小さい無名美術館」に。同美術館には90種類もの手ぬぐいの展示も併設されていた。休憩をも兼ねてのんびり鑑賞。







御稯神社
集落の民家の間の道を進み、川筋を進む道から左に折れる道と合流する辺りに社がある。御?神社。村の鎮守さま。「主催者資料」に「鎮守様の嫌いなものは、井戸・蔵・牛・胡麻。村には、神様がここに来たとき、牛の糞を踏んで滑り、胡麻の棒で目をついて見えなくなり、井戸に落ちて死んだとの話が伝わる。その所以は、縄沢は岩盤が固く井戸掘れない、田畑がすくなく蔵がいらない、牛は馬ほど小回りがきかない、胡麻はこの地に遭わない、といった背景から、無駄なことはしなくてもいい、と言う鎮守様の教え」、とか;


復縁の松
社から不動川筋を通る道に戻り、少し野澤の方に戻る。旧街道が通ったという不動川左岸、青坂・上谷方面に渡る橋の手前、民家の八屋根上に二本に分かれた幹が一本の幹に合体する松の奇木がある。その形故に「復縁の松」と呼ばれる。

「復縁の松」から、旧道の面影を残す道を少し歩き、国道49号に。これで初日の「会津街道探索ウォーク」は終了。明日は、縄沢から束松峠を越えて、会津坂下町の片門まで歩く。