水曜日, 12月 17, 2008

甲州街道を歩く そのⅢ:上野原から鳥沢に

先回、大月の岩殿城跡散歩の折、猿橋から鳥沢まで旧甲州街道歩いた。その道筋は現在の国道20号線に沿ったもの。トラックの風圧に脅えながらの道行き。とてものこと、風情を楽しむ、といった趣はない。
国道から離れた旧街道の道筋でもあれば、相模から甲斐の国境をのんびり歩くのもいいか、とチェックする。裏高尾の小仏峠から相模湖に抜ける道、大月の先から笹子峠を越えて勝沼に抜ける道、そし上野原から鳥沢への道筋。このあたりが現在の国道から大きく離れ、山間を進む道筋となっている。であれば、この3箇所を歩こう、と。先回の散歩の続き、というわけでもないのだが、第一回は上野原から鳥沢に向かって歩くことにした。
現在の甲州街道・国道20号線は桂川(相模川)の川筋を進む。一方、旧甲州街道(甲州道中)は山間の道を進む。大雑把に言えば、中央高速に沿って山地を上り、談合坂サービスエリアの北を迂回した後、鳥沢に向かって一気に下っていくことになる。道路建設工事の技術が発達した現在では川筋に道が続くのは当たり前だが、昔はそうはいかない。雨がふれば土砂崩れなどで道がつぶれる。街道ともなれば、そんな不安定な川筋を通す訳にはいかない。ということで川筋を避け、山間を進む道となったのだろう、か。ともあれ、JR上野原に向かう。


本日のルート;JR上野原駅>上野原宿>鶴川橋>鶴川宿>中央高速・鳶ヶ崎橋>大椚一里塚>吾妻神社>長峰の史跡>野田尻宿>荻野一里塚>矢坪>座頭転がし>犬目宿>気味恋温泉>恋塚の一里塚>中野>下鳥沢
JR上野原駅
上野原一帯は桂川によって形づくられた河岸段丘がひろがる。河岸段丘って川に沿って広がる階段状の地形のこと。上野原の駅も河岸段丘の中段面にある。ホームを隔て南口は一段下。北口は一段上といった案配。駅前もわずかなバス停のスペースだけを残し、崖に面している。街中は段丘面の上。石段を上り進むことになる。上野原の由来は段丘上の原っぱにあったから、って説も大いに納得。
それにしてもこの桂川、というか相模川水系の発達した河岸段丘には散歩の道々で驚かされる。先日、津久井湖のあたりを歩いたときも、一帯の段丘の広がりに感激した。城山を隔てて津久井湖の南に流れる串川一帯の発達した河岸段丘にも魅せられた。
河岸段丘の形成は、川が流れる平地(川原)が土地の隆起などにより浸食作用が活発になり、川筋が低くなる。で、低地に新たに川原ができ、以前の川原は階段状の平地として残る事に成る、ということ。このあたり富士山による造山活動が活発で、土地の隆起も激しく、いまに残る見事な河岸段丘が形成されたのであろう、か。

上野原宿
駅から上野原の街中に進む。階段を上り、道なりに北に。途中、中央高速を跨ぐ陸橋をわたり国道20号線・甲州街道に。上野原の駅は標高200m弱。国道20号線は標高250m強といったところ。
旧甲州街道(甲州道中)は鶴川への合流点の手前までは国道20号線とほぼ同じ。国道に沿って、雰囲気のある民家もちらほら。上野原宿跡であろう。三井屋などといった、いかにも歴史を感じるような看板も目につく。上野原宿は相模から甲斐にはいった最初の宿。絹の市でにぎわった、と。東京から74キロのところである。

鶴川橋
国道を西に進む。棡原(ゆずりはら)を経て小菅や檜原に向かう県道33号線を越えるあたりから国道は鶴川の川筋に向かって下ってゆく。坂の途中、国道20号線が南に大きくカーブするあたりに鶴川歩道橋。旧甲州街道はこの歩道橋で国道と分かれ、北に進むことになる。
国道から離れるとすぐに旧甲州街道の案内図。大ざっぱな道筋を頭に入れ、先に進む。道は鶴川に向かって下る。眼下の鶴川、南に続く中央高速など、誠に美しい眺めである。大きく湾曲する車道の途中からショートカットの歩道を下り鶴川橋に。四方八方、どちらを眺めても、誠にのどかな景色の中、鶴川が流れる。
鶴川は奥多摩の小菅村あたりに源を発し、上野原市の山間を下り、桂川(相模川)に合流する。鶴川橋の少し北で仲間川が、少し南で仲山川が鶴川に合流する。地図を見ると、旧甲州街道はこの二つの川の間の尾根道を野田尻まで進んでいる。甲州街道ができるまでは、上野原から大月方面・鳥沢に抜ける道は、仲間川と仲山川(八ツ沢)の沢道、そして桂川に沿った道といった三つのルートがあった、と言う。上にもメモしたが、川沿いの道は崖崩れなどといった不安定要素も多く、また、そもそもが峻険の崖道でもあったであろうから、公道には比較的安定した尾根筋を選んだのではなかろうか。我流の解釈。真偽のほど定かならず。 ちなみに、桂川の南側に慶長古道が残る、という。慶長古道、って幕府によって整備された五街道の影に埋もれてしまったそれ以前の道筋、である。

鶴川宿

橋を渡ると鶴川宿の案内。甲州街道唯一の徒歩渡しがあった、とか。とはいうものの、冬には板橋が架けられた、という。尾根に向かって台地に上る。街並は落ち着いた雰囲気。町中に鶴川神社。長い石段を上り、牛頭天王にお参り。天王さま、ということで信仰されていたのだろうが、明治期に天王=天皇、それって畏れ多し、ということで、鶴川神社といった名前に改名したのだろう、か。これまた我流解釈。真偽のほど定かならず。
先に進むと三叉路。「鶴川野田尻線」という案内に従い左に折れ、上り坂を進む。台地の北には仲間川の低地。尾根道を歩いている事を実感する。四方の眺め、よし。本当にいい景色である。この数年いろんなところを歩いたが、大勢の仲間とハイキングするにはベストなコースのひとつ。広がり感が如何にも、いい。
中央高速・鳶ヶ崎橋
しばらく進むと中央高速に架かる鳶ヶ崎橋に。旧甲州街道はここから当分中央高速に沿って進む。というか、中央高速が旧甲州街道の道筋に沿ってつくられた、というべきだろう。道を通すにはいい条件の地形であった、ということ、か。

大椚(おおくぬぎ)一里塚
中央高速を越えちょっとした坂道を台地上に。広々とした台地上に大椚一里塚。塚はなく、江戸から19番目という案内板が残る、のみ。先に進むと大椚の集落。 歩きながら、南の地形が気になる。少し窪んだあたりが仲山川筋だろう、か。その向こうの高まりは御前山であろう、か。御前山の向こうには桂川がながれているはず、などと、あれこれ見えぬ地形を想像する。如何にも楽しい。 

吾妻神社 
ゆったりした集落を歩いてゆくと吾妻神社。境内脇に大椚観音堂がある。神も仏も皆同じ、神は仏の仮の姿、といった神仏習合の名残をとどめているのだろう。境内には大杉が屹立する。吾妻は「あずまはや(我が妻よ、もはやいないのか)」、から。日本武尊(やまとたける)が妻の弟橘姫を想い嘆いた言葉。先日足柄峠を歩いたときも日本武尊のあれこれが残されていた。足柄峠を越えて東国を平定に来た、ということらしい。

長峰の史跡

吾妻神社を越えると道は北に曲がり、中央高速に接する。しばらく中央高速に沿って進むと長峰の史跡。戦国時、このあたりに砦があった、よう。周囲を見渡せる尾根道。狼煙台としてはいいポジションである。道脇にあった説明文の概要をメモする;
長峰の史跡;長峰とは、もともとは鳶ケ崎(鶴川部落の上)から矢坪(談合坂上り線SA)に至る峰のことであった、が、戦国時代、上野原の加藤丹後守が出城といった砦をこの地に築いたため、いつしか、このあたりを長峰と呼ぶようになった。丹後守は武田信玄の家臣。甲斐の国の東口で北条に備えた。
当時、この地は交通の要衝。要害の地。また、水にも恵まれる。砦の北側は仲間川に面した崖である。南面には木の柵を立て守りを固めていた。柵の東側に「濁り池」。その西北部に「殿の井」と呼ばれる泉があった。濁り池は、100平方メートルの小池。いつも濁っていたのが名前の由来。殿の井は、枯れることのない湧水。殿が喉を潤したので、この名がついたのだろう、と。現在この史跡の真ん中を中央高速が走っている。

長峰砦の案内もあった。概要をメモ;長峰砦;やや小規模な中世の山城。この付近は戦国時代、甲斐と武蔵・相模が国境を接するところ。この砦は、当時、こういった国境地帯によく見られる「国境の城」と呼ばれるもの。周辺の城と連携をとり、国境警護の役割を担っていた。砦は、何時頃、誰によって築かれたか、といったことは不明。が、中央高速の拡張工事に際し調査した結果、郭、尾根を切断した堀切、斜面を横に走る横堀跡などが見つかった。
また、長峰と呼ばれていた尾根状地形のやや下がったあたりに、尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続敵に確認された。これは江戸期の「甲州街道(甲州道中)」に相当するものと見られる。
長峰砦跡は、歴史的全体像を把握するにはすでに多くの手がかりが失われている。が、この地には縄文時代以来の活動の跡も断片的ではあるが確認できる。ここが 古くからの交通の要衝であったということである。当然戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われうことになる。ために、交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれた、と。その後、江戸時代になると、砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備された、と。

長峰砦もそうだが、このあたりには南北に砦や狼煙台が連なる。北から、大倉砦、長峰砦、四方津御前山の狼煙台、牧野砦、鶴島御前山砦、栃穴御前山砦である。大倉砦は鶴川、仲間川筋からの敵に備える。この長峰砦は尾根道筋に備え、四方津御前山の狼煙台と牧野砦は仲山川(八ツ沢)筋の敵に備え、桂川南岸の島御前山砦、栃穴御前山砦は桂川筋に備える。そしてこれら砦・狼煙台群の前面にあって上野原城が北条に備えていた、と言うことだろう。丁度遠藤周作さんの『日本紀行;「埋もれた古城」(光文社)』を読んでいたのだが、そこに群馬の箕輪城の記事があった。この城も支城群があるそうな。主城だけでな

く、支城・砦・狼煙台といった防御ネットワークを頭に入れた城巡りも面白そう。

野田尻宿

中央高速脇の側道を進み、高速に架かる新栗原橋を渡り、高速の北側を少し下り加減に進む。ほどなく野田尻の集落となる。江戸から20番目の宿場。ゆったりとした、いい雰囲気の街並である。本陣跡には明治天皇御小休所址が。明治13年の山梨巡行の折のこと。それに備えて街道の拡張・整備が行われた、ってどこかで読んだことがある。
町中に大嶋神社。由来などよくわからないが、大嶋神社って、宗像三女神の次女でる湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋からきているのだろうか。奥津島神社って書かれる神社も多い。集落の北には仲間川、南は中央高速が迫る。

荻野一里塚

集落のはずれに西光寺。9世紀はじめに開かれた歴史のあるお寺さま。あれこれとメッセージの書かれたボードが、あちこちに掛かっている。お寺の手前に「お玉ヶ井」の石碑。旅籠で働く美しい娘が恋の成就のお礼に野田尻の一角に湧水をプレゼント。この娘、実は長峰の池の竜神であった、とか。
西光寺の手前に南に進む道。すぐ先に高速の橋桁が見える。旧甲州街道はこの道ではなく、西光寺の北の三叉路から南に廻りこむように進む。直進すれば仲間川筋に出て、源流への道筋が続いているようだ。
西光寺の裏の坂道をのぼってゆく。中央高速を越えると杉林の道。これはいいや、とは思うまもなく舗装道路に。ゆるやかな上り。しばし進むと道の擁壁の上に荻野一里塚の説明。案内だけで一里塚は残っていない。

矢坪
中央道の遮音壁に沿って進み、矢坪橋で再び中央道を越えて北側に。中央高速はこのあたりで南西に大きく曲がる。直進すれば山塊に当たるわけで、山裾を縫うように下ってゆく。一方旧甲州街道は山へと直進する。なぜだろうと地形図をチェック。山の裾には多くの沢が見える。沢越えを避けるため、沢筋の影響のない山の道を進むのではなかろうか。
矢坪橋を渡るとすぐに右に上る小道が分かれる。この道は戦国期の古道とか。旧甲州街道は県道の道筋のようだが、どうせのことなら舗装道路より山辺の小道がよかろうと右に折れる。入り口に旧古戦場の案内;「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔古戦場となったところ。享禄3年(1530)、北条氏縄(綱の間違い、かなあ?)の軍勢が矢坪坂に進軍、待ちかまえるは坂の上の小山田越中守軍。激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた」という。武田と北条のせめぎ合いが、こんなところまでに及んでいたか、と感慨新た。
座頭転がし
急な小道を上る。武甕槌(たけみかづち)神社入口の案内。少々石段が長そうなのでお参りはパス。なにせ家をでたのが少々遅く、日暮れが心配。先を急ぐと民家が。まことに大きな白犬に吠えられる。恐る恐る民家の庭先といった道を抜け、森を進む。ほどなく道が開ける。下に県道が見える。20mほどもありそう。柵があるからいいものの、なければ高所恐怖症のわが身には少々怖い、ほと。
柵が切れてフェンスになったところに「座頭転がし」。県道の工事で山肌を削りもとの地形より険しくはなっているのだろうが、それでも座頭が転んでもおかしくは、ない。先に進むとほどなく県道に合流。安達野のバス停。新田の集落に出る。

犬目宿

県道をどんどん進むと犬目宿。落ち着いたいい雰囲気の町並み。標高は510m強。桂川筋が標高280m程度であるので、330mほども高い位置。安定した街道を通すには、険峻な谷筋、入り組んだ沢筋を避け、ここまで上らなければならなかったのであろう。
義民「犬目の兵助」の生家の案内。概要をメモ;天保四年(1833)の飢饉に引き続き、天保七年(1836)にも大飢饉。餓死者続出の悲惨な状況。代官所救済を願い出ても門前払い。万策窮し、犬目村の兵助などを頭取とした一団が、米穀商へ打ち壊し。世に言う、『甲州一揆』。
このとき兵助は四十歳。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されている。一揆後、兵助は逃亡の旅に出る。秩父に向かい、巡礼姿になって 長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢へと一年余りの逃避行。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

君恋温泉

集落の外れは枡形の道。城下町などに敵の侵入を防ぐ鍵形の道がここで必要なのかどかわからないが、ともあれ、道脇の寶勝寺、白馬不動尊などを見やりながら先 

に進む。道は心もち上りとなっている。いくつかのカーブを曲がり歩を進めると君恋温泉。いい名前。名前の由来は「君越(きみごう)」から。日本武尊(やまとたける)が妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を想いつつ、この地を進んだ、とか。日本武尊が「君越(きみごう)」から振り仰いだ山が裏にそびえる扇山(仰ぎ山)、ということだ。とはいうものの、仰ぎ見たと伝えられるところはあちこちにある。日本武尊、大人気である。このあたりが今回の標高最高点550m強あるようだ。近くには恋塚って地名もある。その恋塚に進む。


恋塚の一里塚

君恋温泉からはやっと下りとなる。少し進むと道脇にこんもりとした塚。恋塚の一里塚。日本橋から21里。一里塚って箱根八里越えのとき、はじめて見たのだが、道の両側に土を盛った塚をつくる。わかりやすいとは思うのだが、大きさ9m、高さ3mほどの塚。そこまでする必要があるのだろうか、少々疑問。とはいうものの、遠くから距離の目安がわかるのは有難い、か。

中野
道をどんどん下る。途中、馬宿地区には40mほどではあるが、石畳の道が残っていたそうだが、分岐の細路を見逃した。馬宿から山谷へと進むと開けたところから富士山が見えてくる。美しい。山谷の集落の大月CCへの入口を見やり、どんどん下る。日暮れとの勝負といった按配。10分強歩くと中野の集落。ここまで来れば一安心。


ゆったりとした風景の中をさらに下ると中央高速の巨大な橋桁。深い沢を一跨ぎ。こんな芸当のできない旧甲州街道は、自然の地形に抗うことなく、沢を避け尾根を登り、再び沢を避け尾根を下っている。今と昔の道の違いがちょっとだけ実感できた。

下鳥沢
中央高速の橋桁をくぐり、先に進むとほどなく現在の甲州街道・国道20号線に合流。久しぶりに車の騒音を聞きながら鳥沢駅に進み、本日の予定終了。上野原から17キロ程度の散歩。時間がなかったので3時間強で歩き終えた。


甲州街道を歩く そのⅠ:大月の岩殿城跡を歩く

先日中世の甲州街道を歩いた。山梨の塩山から大菩薩峠を越え、奥多摩の小菅村に抜ける峠道である。で、中央線に乗り塩山に向かう途中、JR大月駅前に聳える岩山に目が止まった。「ひょっとしてあの岩山って岩殿山?」同行の仲間に訪ねた。然り、と。いやはや、偶然に岩殿山に出合った。この岩山には岩殿城跡がある。

関東を歩いていると、折に触れて北条氏の事跡が登場する。岩殿城もそのひとつ。小山田氏の居城である。小山田氏のことをはじめて知ったのは昭島の滝山城散歩の時。碓井峠方面より侵攻した本隊に呼応し、小仏峠の山道を切り開き北条方を奇襲し勝利を収めた。北条方はまさか険路・小仏峠方面から武田の軍勢が侵攻するとは夢にも思っていなかった、と。世に言う廿里合戦である。大菩薩行から数週間を経た晩秋のとある休日、岩殿城を訪れた。


散歩のルート:JR大月駅>桂川>岩殿山城址入口>ふれあい館>揚城戸門>岩殿山頂>七社権現洞窟>葛野川>甲州街道>大月市郷土資料館>柱状節理>猿橋>JR鳥沢

大月駅
JR中央線の各駅停車でのんびり大月に。中央高速ではしばしば目にする地名ではあるが、JRでははじめて。つつましやかなる駅舎である。駅のホームから岩殿山が見える。いかにも魅力的な山容。
駅前もゆったり。観光案内を探すが、見当たらない。とはいうものの、目的の地は眼前に聳えているわけであり、地図もなくてもなんとか行けそう。ということで、のんびりした商店街を進む。
この大月の地には平安時代、武蔵七党横山氏の分流古郡氏が居を構えた、と。その古郡氏が和田義盛の乱により滅亡した後、武田領となり、小山田氏が治めることに。
江戸時代は甲州街道の第20番の宿場町。江戸から93.7キロのところにあった。地名の由来は大槻(ケヤキ)が群生していた、から。その後、美しい月も見える、という地勢故に、いつしか大槻が大月になった。とか。

桂川

駅前の路地を東に進む。このあたりの地名は御太刀(みたち)。やんごとなき方の太刀のあれこれに由来するのだろうか。が、詳細不明。駅のホームの東端の少し先で線路を越え、道なりに岩殿山方向へ進む。大月市民会館交差点を過ぎると高月橋。桂川に架かる。
桂川は相模川の上流部の名称。水源は富士山麓の山中湖。名前の由来は京都の桂川から、といった説もあるが不明。大月から少し下った猿橋のあたりに桂川に合流する川があるのだが、その名前が葛野川。葛=かずら>かつら、との説も。桂って「つる」のことでもあるので納得。
高月橋は、大槻が大月となるきっかけとなった、高く照らす大きなお月さんがよく見えた場所、から、と勝手に解釈。

岩殿山城址入口
橋を渡り山裾を上る県道139号線を進む。道が少しカーブするあたりに岩殿山城址入口の案内。整地された坂道を上ると鳥居があり、そこに岩殿山の由来を述べた案内。概要をメモする;岩殿山は9世紀末、天台宗岩殿山円通寺として開創。10世紀には堂宇並ぶ門前町を形成。13世紀には天台系聖護院末の修験道の中心として栄える。
16世紀には武田、小山田両氏の支配下。岩殿城が築かれ相模、武蔵に備える。1582年、武田・小山田氏の滅亡により、徳川の支配を経て17世紀に廃城となる。
円通寺も明治期に神仏分離政策により廃寺。現在は東麓に三重塔跡、常楽院、大坊跡、また山頂には空堀、本城、亀ケ池といった遺構が残る。

ふれあい館
鳥居を過ぎ、階段を上る。彼方に富士、眼下の河岸段丘には大月の街が広がる。先に進むと丸山公園。お城の形をした建物・ふれあい館がある。1階は映像ホール、2階は展示室。2階の展示室には小山田氏の説明や大月の紹介ビデオが容易されていた。
小山田氏:桓武平氏の流れをくむ秩父党の出。町田の小山田の地に居をかまえ、小山田氏を名乗る。鎌倉期、頼朝を助け秩父党の重鎮たるも、畠山重忠謀殺の変に巻き込まれ一族のほとんどが滅する。で、かろうじて難を逃れた一派が甲斐の国・都留の地に居を構える。戦国期には武田氏、穴山氏と並ぶ勢力として甲斐の国に分立。後に武田氏に帰属するも、一定の独立性を保っていた、とか。
小山田氏で有名な武将は小山田信茂。信玄のもと、幾多の合戦において猛将の誉れを受ける。上でメモした廿里合戦もこの岩殿城から出撃する。険阻なる小仏峠から高尾へ進出。高尾駅北の台地あたりで北条の軍勢を破った。北条方が戦略上の拠点を昭島の滝山城から八王子城に移したのも、この小山田信茂の進出がきかっけ。小仏峠方面からの武田勢に備えるためである。ちなみに小仏峠越えの先達をつとめたのは岩殿円通寺の修験者であった、とか。
猛将信茂が評判を落としたのが武田勝頼への裏切り。織田信忠を総大将とする織田の軍勢により戦いに破れ、この岩殿城に落ち延びようとする武田勝頼に反旗を翻す。逃げ場を失った勝頼は天目山で自害。武田家が滅亡する。
織田軍の甲斐平定後、信長への伺候のため信忠に拝謁。が、勝頼への不忠を咎められ処刑される。とはいえ、小山田氏は単なる武田の家臣ではなく、一定の独立性を保っていたため、武田の家臣ではないわけで、家臣故の不忠という非難はあたらない、という説もある。

大月案内のビデオを見ながら少々休憩。受付でもらった資料を眺める。見所やコースが紹介されている。JR猿橋駅近くに名勝猿橋がある。大月市の郷土資料館も。そして岩殿山からJR猿橋方面への下りもある。であれば、ということで山頂からは猿橋方面に下ることに方針決定。富士を眺めながら腰を上げる。

揚城戸門
階段を上る。眼下に広がる眺めに感激。歩いては下を眺め、富士を眺め、また歩く。山側を見やると切り立った岩壁が聳える。修験道の修行場としての岩殿山というフレーズに、大いに納得。とはいうものの、高度をあげるにつれ谷側の崖が気になってくる。普通の人にはどうということのない石段なのだろうが、高所恐怖症の気味がある我が身としては少々怖い。何となくへっぴり腰の上りとなる。なんとか早く山頂に着きたいものだ、との思いだけで目を細め、谷川から目をそらし先に進む。
しばらくすすむと巨大な自然石が道の両側に迫る。揚城戸門。自然石が城門として利用されている。先に番所跡。揚城戸を守る番兵の詰所跡である。
さらに進むと尾根筋の先端に案内板。岩殿山西端に大露頭部のあったところ、とか。現在は風化・浸食が進み崩落の危険があるため破砕撤去されたが、もとは西の物見台跡とも、修験場とも言われていた、と。ここまでくると北の山容が目に入る。大菩薩へ峰筋であろう。まことに素晴らしい眺めである。

岩殿山頂
大菩薩行を思い出しながら先に進む。山頂はすぐ。上り口から30分弱といったところ、か。岩殿山の標高は634m。上り口は標高340m程度であるので、比高差300mほど。上る前は650m弱の山っって結構大変かと思っていたのだが、それほどでもなかった。
山頂は平地となっている。東屋や乃木将軍碑も。相変わらず富士は美しい。北も南も一望のもと。逆行であり携帯デジカメでは思うような写真が撮れないのが残念である。眼下に中央高速が大月の河岸段丘をうねっている。桂川って結構深い渓谷である。
岩殿城の案内をメモ;岩殿城は難攻不落の城。南方の桂川下流には相模、武蔵。西側の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、烽火台網の拠点であった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、倉屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸のほか、空堀、井水、帯曲輪、烽火台、ば馬場跡がある。また、断崖下の七所権現、新宮などの大洞窟が兵舎や物見台として用いられている、と。
平地の先に最高点。本丸はそこにある。猿橋方面への下り道を確認しながら、馬場跡、武器や日用品を納めていた倉屋敷跡を越え山頂に。本丸跡。とはいうものの、現在はNTTの電波施設に占有されており、これといった趣なし。

馬場跡付近に井戸があったようだが、残念ながら見逃してしまった。こんな山頂に水が湧くってちょっと不思議、である。この井戸にまつわる行基上人の縁起もあ
 る。修験者がこの山を修験道場としたのも、小山田氏が城をこの岩山に築いたのも、この湧水の賜物であることは言うまでもない。
見てもいないのにあれこれと考えるのはなんだかなあ、とは思いながらも、岩山に水が湧く、その理由が気になる。どこかの岩山で同様の井戸があるという記事を読んだ覚えがある。岩山から地下水路に向かって井戸を掘り抜いた、とのことである。が、この岩山は少々高すぎる。数百メートルも岩盤をくり抜けるとも思えない。思うに、勝手な想像ではあるが、この岩山の湧水って、最高点のある岩盤域と東屋のあった平らな頂上部の岩盤域の境目から湧き出たた水ではなかろう、か。降った雨が山頂に滲み込む。が、下は岩盤。行き場を失った水が岩盤域の境目にそって進み、この井戸あたりで湧き出ているのでは、と。これといった根拠なし。
電波塔の防護柵に沿って山頂を東端に。東端を少し下ったところに空堀跡が残る。落ち葉で滑りやすい坂を少し下り空堀跡に。猿橋方面への下りはあるのだが、なんとなく足下がおぼつかない。怖がりの我が身としては、一も二もなく引き返す。本丸跡を下り、先ほど確認した猿橋への下り口に。断崖などのない、おだやかな道であることを祈るのみ。

七社権現洞窟
道を下る。崖側に柵もあり、また木立が眼下を防いでくれるので、崖への怖さはない。そうとなれは足取りも軽く下る。しばらく進むと「七社権現洞窟2分」の案内。分岐道を洞窟に。倒木が道を防ぐ細路を上ると洞窟に七社権現。少し奥まったところに祠が見える。散歩の折々に登場する聖護院道興(しょうごいんどうこう)が「岩殿の明神と申して霊社ましましける。参詣し侍りて、歌よみて奉りけり」などとして、『あひ難きこ此のいわはどののかみや知る世々にく朽ちせぬ契り有りとは』と詠んだのはこの権現様。
で、七所権現って、伊豆権現・箱根権現・日光権現・白山権現・熊野権現・蔵王権現・山王権現の七社。ありがたや、七カ所の権現様を一堂に祀る。ここをお参りすれば七カ所の権現様からの功徳を受ける、ということ、か。熊野の三所権現がプロトタイプであろうが、この地の先達が伊豆・箱根の権現様の先達も兼ねるようになり五所権現、さらに各地の現様もカバーするようになり七所権現となったのであろう、か。で、現在七体の仏様は岩殿山の東府麓にある真蔵寺におさめられている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

葛野川
七社権現洞窟から元の下り道に戻る。少し下ると舗装道路が見えてきた。岩殿山散歩もこれで終わり。下りも30分弱、というとことか。道路に降りる。すぐ近くに古びた堂宇。傍に円通寺三重塔跡。これといって何があるわけでない。取り急ぎ、次の目的地である猿橋に向かうべく、甲州街道まで進む。
道なりに賑岡(にぎおか)地区を進む。
ゆったり、のんびり歩を進めると前方に中央高速の橋桁が見えてくる。道が橋桁とクロスするあたりに川筋が。葛野川である。この川の上流域をチェックすると葛野川ダム、それとその近くに松姫峠がある。
松姫峠って、先日の大菩薩から奥多摩の小菅村に抜けるときに歩いた牛ノ寝尾根の東端にある峠。
峠の名前の由来は武田信玄の娘・松姫から。武田家滅亡に際し、この峠道を武州・八王子へと落ち延びた、とも。ちなみに、松姫が庇い、共に落ち延びた香具姫って、岩殿城主小山田信茂の娘。八王子に無事に逃れ、松姫によって育てられた。奇しき因縁。奇しき因縁といえば、もうひとつ。武田家を滅ぼした織田方の総大将である織田信忠と松姫は婚約者であった。

甲州街道

中央高速との交差地点から南に下り、桂川を渡ると甲州街道。JR猿橋駅前の交差点を東に向かう。次の目的地は猿橋。日本三奇橋として名高い猿橋を訪ねることに。車の往来の激しい道路脇のささやかなる歩道を進む。いつものことながら、トラックの風圧が少々怖い。1キロ強歩くと、大月市郷土資料館の案内。ちょっと立ち寄ることに。甲州街道を北に折れ、町中にs入る。台地を側に向かて少しくだったところに郷土館があった。

大月市郷土資料館
郷土館の1階は企画展。2階は常設展示。2階に上り大月の歴史をざっと眺める。甲州街道の道筋の説明が目に入る。小仏峠から相模湖への道筋は知っていたのだが、それから先の道筋は知らなかった。展示地図を見ると、現在の甲州街道と離れた道筋は小仏峠から相模湖の道筋以外に、上野原から猿橋のひとつ東の駅・鳥沢まで、それと笹子峠を越える道筋である。大いに惹かれる。近々これらの道筋を歩こう、との思い強し。

柱状節理
郷土資料館を離れ、猿橋に向かう。資料館のすぐ隣に猿橋公園。猿橋への道案内に従い公園内を進む。公園南の崖は富士山が噴火したときの溶岩流が桂川に沿って流れた末端部。溶岩が急速に冷却されたできた柱状節理の形状がはっきりわかる。

猿橋
溶岩の崖に沿って進み、東端から階段を崖上にのぼると猿橋。渓谷に木の橋が架かる。渓谷の幅は30mほど。高さも30mほど。橋桁をかけることができないので、両岸からせり出した四層の支柱によって橋を支えている。
この橋、一見すると木橋のようではあるが、現在の橋はH鋼を木材で覆ったもの。1984年に18世紀中頃の橋の姿を復元した。橋の形も往古は吊り橋であった、との説もあるが、18世紀中頃には現在のような形の橋になっていた、と言う。
橋の歴史は古い。奈良時代、7世紀初頭の推古天皇の頃、百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る、という伝説があるほど、だ。また、室町期、15世紀の中頃には、岩殿山でも触れた聖護院門跡道興がこの地を訪れ、『廻国雑記』に「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり」と述べている。
戦国期は武田方の防御拠点であったろうし、江戸期には甲州街道の往来も多く、広重は「甲陽猿橋之図」を描き、十返舎一九、荻生徂徠なども猿橋を描いている。

橋からの眺めをしばし楽しみ、次いで、橋の下へと続く階段を下る。橋の下の岩場から猿橋を眺める。渓谷美はなかなかのもの。橋の下、川面との中空に架かる橋状のものは水路橋。上流の駒橋発電所で利用した水を下流の発電所で再活用するために通している。昔の写真を見ると、水路の上を機関車が走っている。もともとは、この地を中央線が走っていたのだが、1968年の複線化工事に際し、現在の南回りルートに変わり、鉄路は消えた。

JR鳥沢駅



橋の袂の店で、「山梨と言えば、ほうとう、でしょう」と名物を食す。しばし休憩の後、本日最後の目的地であるJR鳥沢へ向かう。2キロ強、といった道のりである。鳥沢までの道筋は、途中、道脇に先ほどの水路橋からの流路などの少々のアクセントはあるものの、ひたすら車の往来の多い甲州街道を進むだけ。鳥沢に近づくと、昔の宿場町の雰囲気を残す家並もちらほら、と。大月駅から10キロ弱を歩き、JR鳥沢駅に到着。本日の散歩を終える。



木曜日, 10月 02, 2008

鶴見川水系散歩 そのⅡ:中山から新横浜へ

小机城から篠原城に
前回の散歩では鶴川からはじめ、中山にある榎下城跡まで下った。今回は、中山からスタートし、恩田川・鶴見川筋を下り小机城を経て、新横浜駅近くにある篠原城へと進む。おおよそ8キロ程度の散歩である。縄文海進期の地形をで言えば、多摩丘陵が海と接する海岸線を小机まで進み、そこからは「海・小机湾」の中にある新横浜へ「泳いでいく」、といったもの。戦国期に想いをはせると、中山の東に広がる恩田川・鶴見川流域は一面の低湿地帯。中山の榎下城も、小机の小机城も低湿地に突き出した舌状台地の先端に位置する。小田原北条の前線基地として、東からの敵に備えていたのではあろう。さてと、往古の地形を思い浮かべながら散歩に出かける。


本日のルート:横浜線・中山駅>大蔵寺・長泉寺>落合川・鶴見川合流点>鴨居>小机城>多目的遊水池>亀甲橋>新横浜駅>篠原城跡

横浜線・中山駅
渋谷から田園都市線で長津田。そこで横浜線に乗り換え中山駅に。先日の散歩で、この中山にある榎下城を訪ねた。この城は、鶴川の沢山城、小机の小机城とともに小田原北条の前線基地。東の地、江戸城から攻め寄せる太田道灌に備えた。とはいうものの、中山はどうみたところで、それほどの要害の地といった風情は、ない。なにゆえ中山の地、かと少々気になりチェックした。で、結論としては、この地が交通の要衝であった、ということ。

鎌倉街道中ノ道。鎌倉街道上ノ道、山ノ道などとともに「いざ鎌倉」への道。鎌倉から二子玉川、板橋、川口、栗橋、古河、小山を経て宇都宮から白河の関へと進むのが「中ノ道」。この中ノ道が中山を通る。北鎌倉の勢揃橋(水堰橋)を出た道筋は、柏尾川と並走し、東戸塚を越え相鉄線・鶴ケ峯駅あたりで二俣川を渡り、この中山に。中山からは恩田川を渡り川和、江田、宮前平、溝口をへて二子玉川を渡り、板橋へと上っていく。鎌倉武士の鏡・畠山重忠が討ち死にしたのは中山から鎌倉街道中ツ道を4キロ弱南に下った二俣川。源頼朝の奥州征伐の道筋も、この中山を通り川和、江田を経て二子ノ渡しに進んだとされる。幾多の武将がこの中山の地を駆け抜けたことであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

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大蔵寺・長泉寺
中山駅の近くには由緒ある寺も点在する。駅を挟んで東には大蔵寺。鎌倉武士・相原一族の菩提寺。頼朝の菩提をとむらう。相模原には「相原」の地名が残る。西には長泉寺。木食僧・観正が開く。木食僧とは米穀を断って木の実を食べて修業する僧のこと。江戸期の文化・文政のころ流行した。観正の他、木食僧としては徳本などのが知られる。ちなみに、木喰像で知られる木喰五行上人とは別人。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
長泉寺の隣、というか同じ敷地には杉山神社。神仏習合の名残であろう。それにしても、この近辺には杉山神社が多い。杉山神社もそうだが、散歩をしていると「地域限定」の神様に時に出合う。元荒川流域の久伊豆神社、古利根川流域の鷲宮神社など。もう少し広い地域でみると、荒川の西を祭祀圏とする氷川神社、東の香取神社なども、ある。
杉山神社は武蔵国総社に勧請された六所宮のひとつ。社格の高い神社ではあったのだろうが、実態はよくわかっていない。本社の場所も特定されていない。ともあれ、7、8世紀の頃、この神様を「氏神」とする集団が鶴見川などを伝ってこの地域に進出。しかし、なんらかの理由でその先に進む歩みを止め、この地域にとどまった、ということではあろう。ちなみに、このあたり、少し小高い丘となっているのだが、そのことが地名「中山」の由来、とか。

落合川・鶴見川合流点

長泉寺を離れ、中原街道・宮の下交差点を北に折れる。横浜線を越えると鶴見川にかかる落合橋に。橋の少し上流が恩田川と鶴見川の「落ち合う」ところ。鶴見川は多摩丘陵、小山田の里の湧水を水源とし、鶴見で東京湾に注ぐ43キロ弱の川。恩田川は町田市本町田の今井谷戸の北あたりを水源とする13キロ程度の川、である。
いつだったか、それぞれの水源を訪ねたことがある。鶴見川の水源は小田急線・唐木田駅の南、尾根道幹線の通る尾根道を南に下った美しい里山の中。豊かな湧水池があった。一方恩田川の水源である今井谷戸は、なるほど「谷戸」といった地形の名残は留めるものの、交通量の多い交差点となっていた。特段の水源は見あたらなかった。
『都市と水;高橋裕(岩波書店)』によれば、落合川を含めた鶴見川水系って、戦後の宅地化が最も激しかったところ、と言う。実際、麻生川にそった新百合ケ丘あたりを歩いたとき、その宅地開発の激しさには少々驚いた。耕して天に至る、ではないけれど、全山すべて住宅といった有様。事情は恩田川上流域もまったく同じであった。鶴見川全流域では55年までに流域の10%しか宅地化していなかったが、75年には60%、85年には75%が市街地化された、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。
鶴見川って言えば、一昔前まで、「洪水氾濫」の代名詞と行った印象がある。鶴見川は昔は海であった沖積低地を蛇行して流れているわけで、ただでさえ洪水に見舞われやすい。そのうえ、上流の激しい宅地開発。本来ならば土地に吸い込まれていた水が、舗装され、行き場をなくし、すべて川に合わされ下流に流れ込む。で、自然環境、社会環境が相まって、鶴見川は治水の難しい川の一つになっていた、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。鶴見川は、75年から実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的役割を果たしたとのことである。下流に進むにつれ、治水事業の有様など散見できるであろう。
鴨居

落合橋より、鶴見川に沿って堤を歩く。川の東側には近代的な工場群が続く。横浜線が川筋に近づく。2キロ強進むと鴨居駅。この駅の鶴見川東岸も近代的工場群が見える。鴨居の地名の由来は、カムイ=神が居る、とか、文字通り近くに鴨場があった、とか例によって諸説あり。そういえば、障子などの上部の横木を「鴨居」と言う。対する物として、足下の横木を「敷居」と言う。「鳥居」などの表現もある。鴨居も敷居も、鳥居の横木からのアナロジー、とも言われる。で、鳥が居たので「鳥居」、ということで、鴨がいたので鴨居、鴫(シギ)がいたのでシギイ>敷居、ということにした、との説も。
新川向橋手前で、JR横浜線が川筋に急接近する。台地の崖と川の間を走り抜ける。このあたりは洪水で水位が警戒水位に達するたびに、運転見合わせとなっていた、とか。新横浜近くにある日産スタジアム周辺での多目的遊水が整備される、状況は大幅に改善された。
小机城
川 向橋より先は川沿いの道が切れる。前方に第三京浜の高架。その道筋により南北に分断された山が小机城の城山。川沿いの道を離れ、高架下を進み小机の町に。東にはUFOっぽい形をしたサッカー競技場・日産スタジアムが聳える。台地の緑を眺めながら山裾を道なりに歩く。なかなか城山への上り道が見つからない。局台地をぐるっと廻り、台地の南側、JR横浜線が城山トンネルから出てくる辺りまで歩く。民家の脇に「市民の森」への案内。民家の間の細路を上ると、城 山への入口。
竹林の道を上る。ほどなく本丸広場。野球場となっている。深さ10mほどの空堀が本丸の廻りに残る。二の丸曲輪に進む。井楼櫓には土塁が残る。有名な城の割には、それほど大きくない。第三京浜によって分断されてしまったためだろう、か。つい最近旧東海道を歩き箱根越えをしたとき、箱根峠から三島に下る途中の山中に山中城を訪ねた。その規模の壮大さを思うにつけ、小机は少々つつましい。
この城、有名な城ではあるが、はじまりはよくわかっていない。15世紀中頃の永享の乱の頃、関東管領上杉氏によって造られた、ともされる。永享の乱って、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉家が相争った戦乱のことである。小机城が歴史に登場してくるのは15世紀も後半の頃。関東管領山内上杉氏の家宰職の相続を巡り、長尾景春が寄居・鉢形城で挙兵。武蔵五十子城の上杉の居城を攻める。関東を戦乱・混乱の巷に陥れた長尾景春の乱のはじまりだ。石神井城主・豊島泰経が長尾景春に呼応。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と江古田・沼袋で戦う。道灌の勝利。豊島泰経は武蔵平塚城(JR山手線上中里近く)を経て、小机城に敗走。道灌追撃。で、この地で豊島一族を助ける小机弾正、矢野兵庫らとともに、2ヶ月におよぶ合戦。道灌の勝利。その後、小田原北条氏の城となる。猛将で有名な北条氏綱の重臣である笠原信為などの城として、秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡まで続く。江戸期は廃城。

多目的遊水池

小机城を離れ、鶴見川へと向かう。横浜線の小机駅の南にはお寺が点在。雲松寺は俳優内野聖陽さんの実家、とか。今回はパス。畑越しに小机の城山をみやりながら交通量の多い車道へと。新矢之根の交差点あたりで鶴見川の傍に。川幅が異様に広く、川床には野球場や運動広場が見える。いかにも遊水池、といった雰囲気。鶴見川に面した堤防の一部が低いのは越流堤。洪水時にここから鶴見川の水を遊水池に流入させる。で、洪水がされば排水門から鶴見川に水を戻す。実際2004年の台風22号のとききは、この湧水池が一面の湖となった、とか。
多目的遊水池は鶴見川方面だけではない。車道の南に広がる新横浜公園、日産スタジアム、病院などの敷地全体が遊水池。洪水時のため、スタジアムや病院の床は高床式となっており、また、平時には駐車場となっている1階も、増水時には遊水池に変身す

る、という。

亀甲橋

道を進み、新横浜公園交差点に。鶴見川にかかる橋は亀ノ甲橋。橋の向こうに
見える小高い山、というか台地が亀ノ甲山であろう。亀ノ甲山は豊島泰経を追撃し、この地に攻め寄せた太田道灌が陣を張ったところ、という。道灌が部下を勇気づけるために詠った「小机はまづ手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」は有名。小さな机で習字をはじめるこどもは、いろはにほへと、あたりまではちゃんと書けるが、その後はむちゃくちゃになる。子供相手の戦くらい簡単に勝てる、といった意味、か。

新横浜駅
少し道を進み、労災病院交差点に。ここで道を南に折れ新横浜駅方面に向かう。すぐ鳥山大橋。鳥山川にかかる。地図で源流を辿ると保土ヶ谷の横浜国立大学、羽沢農地あたりまで続いている。橋を道に沿って真っすぐ進めば新横浜駅につく。いまでこそビルが建ち並ぶ一帯となっているが、縄文時代まで遡れば、このあたりは海の中。もう少し上流にある川和町あたりが鶴見川の河口とする入り江。先ほど歩いた小机や新横浜駅の南の篠原地区の台地がかろうじて陸地。入り江を挟んで北の日吉、東の末吉が小高い台地として存在していた、とか。
時代が下って、江戸の頃でも、湿地と田畑が点在する一帯。勾配の緩やかな低地であるため、川の流れが蛇行し頻繁に流路を帰る。洪水時の水はけが悪い。そのうえ、満潮時には新羽橋あたりまで潮が上ってきた、言う。この状況が改善されたのはそれほど昔のことではないようだ。昭和の頃も一面の田畑。その地を買い占めたのが西武グループの堤次郎。で、新幹線の路線地として国鉄に転売し巨大な利益を得る。ちなみに、新大阪駅前一帯も西武グループが買い占めていた、と。やれやれ、といったことを想いながらビル街を抜け、駅をと降り抜け次の目的地・篠原城跡に進む。山道といった風情の坂道を台地上に。
篠原城跡
新横浜駅の南に出る。駅のすぐ近くまで台地が迫る。それにしても、北側の再開発と比較して、民家が軒を連ねる南側のコントラストは激しい。道路も狭く、対向できないところも見受けられた。いかなる事情によるものなのだろう。チェックすると、市と住民や地権者との対立があるようだ。とはいものの、北の再開発にまつわる、土地買収の歴史などを思うと、事情はわからないが、対立があったとしても、それほど違和感は感じない。


篠原城跡を探す。正覚院の裏山あたり。寺の南側の坂を上る。台地上まで進も、裏山には辿り着けない。
元の道に坂を下り、今度は寺の北にある細路を台地に上る。城跡への入口を探しながら台地上の道を進む。民家が軒を連ねる。案内も何もないのだが、なんとなく台地最上部の緑に向かう細路に折れる。民家の間の細路を上る。民家と畑の間に上部に進む道が続く。民家の敷地のような雰囲気で、なんとなく気後れするのだが、ともあれ先に。右手のブッシュは市有地の案内があり、フェンスで囲われている。空堀跡っぽい気がする。先に進む。最上部で行き止まり。城跡といえば城跡なのだろうが、素人には郭がどれかなどわかるはずも、ない。
篠原城。別名、金子城。小机城の支城としてつくられた、とか。戦国期は小田原北条氏の家臣である金子出雲守の居城。金子氏って、武蔵七党・村山党の流れ。埼玉の入間に本拠地があった。金子十郎の旧跡を訪ねて金子丘陵を歩いた事が思い出される。北条滅亡後、金子一族は菊名一帯に土着した、とか。
鶴川からはじめた鶴見川水系・小田原北条の出城巡りもこれにておしまい。新横浜から一路家路に。

鶴見川水系散歩  そのⅠ:鶴川から中山へ

後北条氏の防御ライン:鶴川の沢山城址から中山の榎下城址に

先日来、数回に渡って多摩丘陵の南端、というか東南端を歩いた。きっかけは川崎市麻生区にある新百合丘という小田急線の駅。なんとなく、この名前に惹かれ、「戯れに」はじめた多摩丘陵南部の散歩であった。が、これが思いのほか魅力的な散歩となった。丘陵や開析谷といった地形の面白さ、古墳から中世城址といった歴史的史跡、里山そして尾根道といった心地よい散歩道などにフックがかかり、結局、幾度か足を運ぶことになった。
この散歩でカバーしたところは、川崎市の宮前区・多摩区・中原区、そして横浜市の青葉区・都築区といった地域である。勢いに任せて多摩丘陵の南端を越え、下末吉台地・鶴見にまで足を運ぶことになった。で、気がつけば、あと「ひと山」、というか「ひと丘」を越えれば多摩丘陵の西端、である。ついでのこと、というわけでもないのだが、どうせのことなら、多摩丘陵の西部一帯を歩き、多摩丘陵を西に越えようと思う。丘の向こうは相模原台地。境川という、文字通り武蔵の国境を流れる川を越えれば相模の国、である。
多摩丘陵西部の地形図をつくりチェックする。奈良川とか恩田川によって開かれた谷地が見て取れる。そこには、かならずや美しい里山・谷戸が残っているのであろう。はてさて、どこからはじめるか。取り付く島として、『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を眺める。と、小田急線・鶴川駅近くに沢山城跡がある。駅近くには鶴見川が流れる。南に下って、横浜線・中山駅近くに榎下城がある。その間は奈良川、そして恩田川で繋がる。更に恩田川下れば鶴見川に合流。少し下った新横浜駅近くには有名な小机城跡もある。いすれも小田原北条氏の出城である。ということでコース決定。鶴見川水系に並ぶ北条氏の城跡を訪ねることにした。

本日のルート;小田急線・鶴川駅>鶴見川交差>(岡上地区)>(三輪町)>高蔵寺>**古墳群>沢谷戸自然公園>熊野神社>沢山城址>三輪中央公園前交差点>鶴川緑山交差点>三輪さくら通り交差点>子どもの国西口交差点>(奈良町)>住吉神社前交差点>な奈良川交差>徳恩寺>子ノ辺神社>鍛冶谷公園(遊水地)>(あかね台)>東急車輛工場>恩田駅>中恩田橋交差点>田奈小交差点>恩田川・浅山橋交差点>(長津田2丁目)>長津田駅>国道246号線・下長津田交差点>いぶき野中央交差点>東名高速交差>環状4号・十日市場交差点>三保団地入口>榎下城址・奮城寺>JR横浜線交差>円光寺>恩田川>杉山神社>横浜商科大学キャンパス入口>東名高速交差>梅が丘交差点>藤が丘小下交差点>田園都市線・藤が丘駅

小田急線鶴川駅

鶴川駅で下車。駅前は予想に反して、のんびりとした雰囲気。とはいうものの、一日の乗降客は7万人程度いるようで、小田急線の駅の中でも、十位台。結構大きな駅である。で、いつものことながら、鶴川の由来が気になった。チェックする。明治の頃に付近の8つの村(大蔵、広袴、真光寺、能ケ谷、三輪、金井、野津田、小野路)が集まり旧鶴川村ができた、とある。が、もとの村には鶴川という村は、ない。はてさて、地図を見る。鶴川駅近くを鶴見川が流れている。ということで、鶴川は鶴見川の短縮形、とか。ちなみに

、鶴(つる)って、「水流(つる)」=水路、から。鶴見は、つる+み(廻)=水路のあるところ、ということ。ついでのことながら、鶴川駅のある町田市能ケ谷であるが、これは紀州の「尚ケ谷」から神蔵・夏目・鈴木・森氏がこの地に移りすんだ、から。「尚ケ谷」が、後に「直ケ谷」、そして「能ケ谷」となった、ということ、らしい。

鶴見川
駅の南口に出る。駅前は未だ再開発されておらず、素朴なる趣き。鶴川は鶴見川により開かれた谷地である。四方は丘陵によって囲まれている。駅を南に少し下ると鶴見川。町田市北部、多摩市に境を接する緑豊かな小山田地区に源をもち、真光寺川、麻生川、真福寺川、黒須田川、大場川、恩田川、鳥山川、早渕川、矢上川の水を集め、鶴見で東京湾に注ぐ。それぞれの川 については、じっくり歩いたり、ちょっとかすったりと、その濃淡はあれど、川沿いの風景が少々記憶に残る。水源の湧水の池もなかなかよかった。ともあれ、睦橋を渡り、南に進む。南前方に丘陵が見える。目指す沢山城跡は、その丘の上。

岡上神社
丘に上り、岡上地区に。地形通りの地名。岡の上を鶴川街道が走る。岡上駐在所前交差点を少し南に歩き、岡上神社に立ち寄る。剣神社、諏訪神社、日枝山王神社、宝殿稲荷社、開戸(開土)稲荷社の五社を集め、岡上神社とした。明治42年のことである。 まことに岡の上にある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





高蔵寺
岡上駐在所前交差点に戻り 東に進む。沢山城跡、といっても地図に載っているわけでもない。目印は高蔵寺。鶴川街道より一筋東の台地に進む。わりと大きい道路道に出る。道が丘を下る手前あたりに高蔵寺があった。

三輪の里
沢山城跡を求め、お寺の脇を高みに向かって東に進む。案内もなにもない。沢山城は荻野さんという個人の所有物、という。個人の好意で保存して頂いているわけで、案内などないのは、当たり前といえば当たり前。道を進むと荻野さんの表札。道の南にみえ

る緑の高地が城跡なのだろう。ちなみに、このあたりの地名・三輪の由来であるが、元応年間(14世紀初頭)大和国城上郡三輪の里より、斎藤・矢部・荻野氏がこの地に移り住んだことによる。沢山城跡を護ってくれている荻野さんは、その子孫なのだろう。
白坂横穴古墳群
道を進む。が、北に入る道は見当たらない。成行きで進む。道は下りとなる。崖面 に古墳跡。多摩丘陵でよく見た横穴古墳。白坂横穴古墳群、と。案内;「この土地は、むかし沢山城(後北条時代における重要な出城の一つ)のあったところで、白坂は「城坂」の意であるともいわれます。この白坂には古くから横穴古墳が十基ちかく開口しており、未開口のものを含めると十数基になります。昭和三十四年にそのうちの二基を発掘しましたが、内部には五センチから十センチぐらいの川原石が敷きつめられており、数体の遺骨、須恵器などが発見され、これらの横穴は七世紀ごろにつくられたものと推定されました。この地域は多摩丘陵のなかでも横穴群の集中しているところですが、白坂横穴群は最も充実しているものの一つであると考えられます」、と。

沢谷戸自然公園

道を進む。どんどん下ってゆく。谷は深い。峠道を下る、といった趣き。とりあえず先に進む。どこが城跡への道筋がさっぱりわからない。結局谷地まで下りてしまった。谷地は「沢谷戸自然公園」として整備されている。昔は鶴見川河畔に繋がる谷戸ではあったのだろうが、現在は古の面影は何も無い。調整池として使われているような運動場、というか多目的広場が目に入る。小さい池にかかる木造の散策路を進む。北の台地上が城跡なのだろうが、上りの道はなし。西端まで進む。昔は谷戸の最奥部だったのだろう。現在では台地に上る階段が整備されている。とりあえず台地に上る。

沢山城址
台地上は結構大きな車道。先ほど歩いた高蔵寺前を通る道筋である。道を北に戻ると熊野神社。少し先に東に入る細路がある。とりあえず入って見る。先に進むと畑地に当たる。畦道といった風情の踏み分け道を進むと杉林の中に。更に進むと神社の祠

。七面社。このあたりが城跡、櫓があったところと言われる。『新編武蔵風土記稿』;三輪村、「七面堂」の項:「今その地を見るにそこばくの平地あり、東より南へ廻りては険阻にして、
西北の方は塀平地続きたり、そこには掘りあととおぼしき所見ゆ、且此辺城山などと云う名あれば、かたがた古塁のあとなるべし」、と。七面社のあたりをぶらぶら歩く。空堀に囲まれた郭っぽい雰囲気が残る。
この沢山城は戦国盛期(16世紀中頃)、後北条氏により築城ないしは改修されたもののようだが、詳しいことは分かっていない。北条氏照印判状には、「馬を悉く三輪城(沢山城)に集めて、筑前(大石筑前守)の部下の指示に従い、御城米を小田原古城に輸送するよう」とある。氏照は八王子城の城主なのだから、この城が八王子城の支配下にあり、小机城・榎下城などとフォーメーションを組んだ後北条氏の防御ラインであったのではあろう。実際、東南小机城からの道は沢山城北端の白坂(城坂)に続いていた、とのことである。
城跡への道筋がわからず、結局台地を一巡したわけだが、なるほど結構攻め難い立地のように思える。台地の北側下は鶴見川が西から東へと流れており、往古は低湿地であったの、だろう。鶴見川は外堀の役割を果たしていたものでもあろう。城の両側には細長い支谷が食い込んでいる。特に東側の谷は城の南、現在の沢谷戸自然公園のところまで入り込んでおり、台地上との比高差40mもある。台地全体が城域であったのだろう
し、要害の地にある、城であったのだろう。ちなみに城址への道は、道路側からのアプローチだけでなく、高蔵寺側の道からのものもあった。荻野さん宅の西側から進むが、案内はないので、見過ごした。

椙山神社
お を離れ台地東端に。鶴見川の低地を見ながら坂をくだる。途中に結構大きな社。椙山神社。神社のある山、というか岡が、奈良の三輪山に似ているため勧請された、との説もある。創建877年のことである。椙山神社って、19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。鶴見川、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもない、といった誠にローカルな神様。杉山神社が歴史に
登場するのは平安の頃、9世紀中頃。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊
験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。ちなみにほとんどが杉山で、椙山と表記するのはこの社、だけ。

西谷戸
椙山神社を離れ、台地下の低地を歩く。谷戸の風景が美しい。谷地を隔てて南に立つ丘陵地をまっすぐ進めば「寺家ふるさと村」に出る。のどかな里山の風情が思い出される。そのまま真っすぐ進みたい、といった気持ちを押さえ、鶴川街道方面に。途中に広慶寺。車道から続く参道の両側に羅漢さまが並ぶ。その先、台地に上る坂の手前に西谷戸横穴墓群。古墳時代後期の古墳。坂を上り切ると一転し、新興住宅街。瀟洒な住宅地が開発されている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


こどもの国

鶴見川グリーンセンターに沿って進むと、道は「こどもの国」の北端に当たる。突き当りを西に折れ、三輪さくら通り公園をぐるっと迂回し南に折れる。「こどもの国」の敷地に沿って進む。あまり人も通ることが少ないのか、少々ごみっぽい。「こどもの国」の外周道路としては、少々興ざめである。道を下ると鶴川街道・こどもの国西側交差点に合流する。
こどもの国、って昔は子供を連れて幾度か来た。少々懐かしい。東京都町田市と横浜市青葉区が境を接するこの丘陵地は戦前・戦中には弾薬庫があった。田奈弾薬庫。正式には「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊」という。薬莢に火薬を装填した弾丸を製造・保管していた、と。散歩の都度、陸軍の施設跡に出会うことが多い。大体は公共機関・施設となっている。逆に言えば、病院・大学などが密集しているところは大体陸軍施設・ 

用地跡と考えてもいいかもしれない。典型的な場所は、世田谷の三軒茶屋の南一帯、北区の赤羽台、松戸の駅前台地上、といったところが思い浮かぶ。ともあれ、軍事施設が現在では公共施設・こどもの国となった、ということだ。

奈良町
鶴川街道を南に下る。このあたりの住所は横浜市青葉区奈良町。由来はよくわからないが、鶴川の三輪町が、大和の国・三輪の里から移り住んだ人たちが、この地の景観が三輪山に似ている、ということに由来する。とすれば、この奈良町も、大和の奈良に由来するのか。はたまたは、『吾妻鏡』にこのあたりの御家人として登場する奈良氏に由来するのか、はてさて、どちらでありましょう。道に沿って流れる川は奈良川。TBS緑山スタジオ裏手、玉川学園裏手あたりを源とする鶴見川の支流。水源のひとつでもある、本山池(奈良池)といった源流域には「土橋谷戸」「西谷戸」といった緑地が残る、という。いつだたか奈良川の源流域を歩いたことがある。それなりの風景ではありました。

住吉神社

道を進む。「こどもの国線・こどもの国駅」を越えると住吉神社前交差点。住吉神社は交差点東、多摩丘陵南端の上にある。標高はおよそ60m。豊かな緑に惹かれて台地をのぼる。神社は、徳川三代将軍家光の時代に、領主・石丸石見守が大阪の住吉神社から勧請したもの。石丸石見守は大阪の東町奉行を歴任。名奉行であった、げな。
住吉神社は全国に2000余りある、という。住吉三神は「底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神。で、「筒」とは星のこと。航海の守り神。ちなみに、読みは、古くは「墨江・住吉」と書いて「すみのえ」と読んだ、と(『神社の由来がわかる小事典;三橋健(PHP新書)』)

中恩田橋交差点

交差点を越え南に進む。恩田地区に「子の辺神社」。名前に惹かれてちょっと寄ることに。奈良川を徳恩寺あたりで西に折れ、台地の際を少し進むと、台地の中ほどに小さい祠。由来などは書いていない。神社でUターン。台地南に鍛冶谷公園。調整池といった雰囲気。このあたりは昔、谷戸であったのだろう。東に進み、こどもの国線・恩田駅に。駅の南には東急の車両工場。付近に橋はない。もと来たところに戻り、奈良川を渡る。南に下ると成瀬街道・中恩田橋交差点。成瀬街道って町田市の本町田から川崎市川崎区南町まで走る県道・140号線。この地の西の台地が成瀬台。その地名に由来するのだろう。ちなみに、成瀬の名前は、町田あたりを治めた横山党の武将・鳴瀬某に由来するとか、恩田川の流れの音=鳴る瀬>成瀬となったとか、例によってあれこれ。

恩田川

この交差点で鶴川街道を離れ、奈良川に沿って南に下る。樋の口橋を過ぎ、日影橋のところで恩田川に合流する。恩田川の源流を地図でチェック。町田市本町田の今井谷戸交差点付近のようだ。いつだったか、鎌倉古道を辿り、町田の七国山とか薬師池公園などを歩いたとき、今井谷戸交差点付近に足を運んだことがある。そのときは東に進み、台地に上り、鶴川街道から玉川学園へと進んだわけだが、南に鎌倉街道を進むと恩田川の源流点あたりに出会えた、ということだろう。恩田とは日陰の田圃という意味であるようだ。
長津田駅
鶴見川と恩田川の合流点から南の台地に上る。恩田川段丘崖。どうも長津田駅って、台地上にあるようだ。長津田3丁目、4丁目と進み長津田駅に。田園都市線・JR横浜線、こどもの国線が集まる。昔より、矢倉沢往還=大山街道、と横浜道が交差する交通の要衝。大山街道の宿場町でもあり、道脇に大山街道の常夜灯が残る。長津田はまた、横浜開港後は、八王子で集められた上州・信州・甲州の絹を輸送する中継地として発展。JR横浜線も、もともとは生糸を横浜に運ぶため明治41年につくられた、とか。ちなみに、長津田の地名の由来は、長い谷津田が続く地形から来た、とされる。谷津田とは谷津にある田=湿原。長津田を通る大山街道に沿って延々と湿原=田が続いていたのであろう。


十日市場

長津田駅を北口から南口に抜ける。JR横浜線に沿って成行きで進む。下長津田交差点で国道246号線・厚木街道を渡る。横浜線に沿って大きな道ができている。いぶき野中央交差点を越え、東名高速下をくぐり、十日市場交差点で環状4号線と交差。十日市場って名前は古そうだが、道の周辺は宅地開発され、宝袋交差点あたりで、横浜線と最接近。台地下の眺めが美しい。恩田川が開いた谷と、そこにひろがる水田、そしてその向こうに見える台地の高まり。なかなかの眺めである。

榎下城跡

新治小入口交差点を越え、恩田川の支流を跨ぎ、三保団地入口交差点に。交差点を西に折れ、道の南にある台地に向かう。榎下城跡は、この台地の上・舊城寺の敷地内。田圃だったか、畑だったか、いづれにしても農地の中の道を進み台地を上ると境内に着く。山門のあたりが虎口。本堂裏手の少し小高くなっているあたりに主郭があった、とか。
この城は室町初期、上杉憲清によってつくられた。その子憲直は鎌倉公方・足利持氏に仕える。で、永享の乱の勃発。室町幕府と鎌倉公方の軋轢。鎌倉公方・持氏と管領・上杉憲実の対立、である。持氏敗れる。榎下城主・上杉憲直は持氏と運命を共にする。その後この城は山内上杉家の所領となった、とか。その後、廃城となるも、戦国時代となり、小田原北条氏が小机城、沢山城とともに江戸城の太田道潅への押さえとして修築。現在の遺

構はその当時のものである。城は、それほど高い台地でもない。南から北へとゆるやかに下る台地の端である。要害性には欠けるが、荏田城をへて府中に至る鎌倉道中の渡河地点を押える役割を果たしたのではないか、といわれている。

田園都市線・藤が丘駅
城跡を離れる。予定ではここから恩田川を5キロ弱下り、小机城へ、と考えていた。が、日が暮れてきた。小机城自体は一度歩いたこともある、ということで予定変更。最寄りの駅に戻ることに。恩田川の向こうに見える台地の上に田園都市線・藤が丘駅がある。先ほど眺めた美しい風景の方向である。即ルート決定。


台地を下り、鶴川街道・恩田川支流との交差点まで戻る。横浜線のガード下をくぐるとすぐに円光寺。畑の中の道を進む。恩田川に交差。橋を渡り、再び畑の中を進み台地下の車道に。道を北にとり極楽寺、杉山神社前を少し進むと横浜商大みどりキャンパスへの入口。台地の上り道を進み、大学脇の道を進むと東名高速にあたる。丁度港北パーキングエリアのところ。台地を一度下り、東名高速のガード下をくぐり、再び台地に向かって上る。梅ヶ丘交差点、藤が丘小交差点を越え、しばらく進むと田園都市線・藤が丘駅に到着。本日の予定はこれで終了。
散歩の後から気がついたのだが、今日歩いた道筋って、昔の鎌倉街道。鎌倉街道中ツ道と上ツ道をつなぐ。中ツ道の通る中山と上ツ道の道筋である鶴川方面を結んでいるわけだ。鶴川に城があった理由も、ちょっとわかった。「いざ鎌倉」の早馬がこの道筋を駆け巡ったのであろう。

火曜日, 9月 16, 2008

三増合戦の地を巡る そのⅢ:武田軍の帰路を相模湖へ

津久井から相模湖に

ふとしたことから目にした三増合戦の記事に惹かれ、その戦いの地を二度に分けて歩いた。今回はその仕上げ。武田なのか北条なのか、どちらが勝ったのか、負けたのか今ひとつはっきりしないのだが、ともあれ、武田軍の甲斐への帰路を相模湖まで歩こうと思う。

武田軍の引き上げルートは、斐尾根から長竹三差路、三ヶ木をへて寸沢嵐(すあらし)に進み、そこで道志川を渡り相模湖へ、と伝えられている。ということで、今回の散歩のスタート地点は長竹三差路。先回辿った斐尾根から少し北にすすんだところにある。交通の便は少々よくない。先日と同じく、本厚木からバスに乗り、半原に、それから志田峠を越えて斐尾根へと進むのも芸がない。で、今回は橋本から三ヶ木行きバスに乗り、途中の太井で降り、そこから城山の南を進み、長竹三差路へ。長竹三差からは三ケ木、寸沢嵐、相模湖へと歩くことにする。



本日のルート:太井>諏訪神社>パークセンター>巧雲寺>根小屋>串川>三増峠への道>串川橋>長竹三差路>青山神社>三ケ木>道志橋>寸沢嵐石器時代遺跡>正覚寺>鼠坂>相模湖

太井
京王線で橋本駅に。そこから三ケ木行きのバスに乗る。川尻、久保沢、城山高校前を過ぎると津久井湖。城山大橋というかダムの堰堤を通り、津久井城跡のある城山の北麓にそって湖畔を進むと太井に。太井は津久井城跡のある城山の麓、相模湖にかかる三井大

橋の近くにある。昔は太井の渡しがあり、津久井往還が相模川を越えるところであった、とか。ちなみに、ここから北に三井大橋を渡れば、峰の薬師への道がある。峰の薬師から城山湖への道もなかなかよかった。

諏訪神社
本日は太井のバス停から南に向かう。左手に津久井城のある城山を見やりながら、台地へと坂道を上る。この台地は相模川の河岸段丘。山梨から下る桂川と丹沢から流れ落ちてきた道志川の流れが合わさった大きな流れによってかたちづくられたのだろう。上りきったあたりに諏訪神社。道端にあるお地蔵さん。なかなか風情があった。境内にある樹齢800年の杉で知られる。

パークセンター
諏訪神社から南は下りとなる。尻久保川への谷筋に下る坂道の途中、道を少し東にはいったところにパークセンター。津久井城や城山についての歴史やハイキングコースなどの資料が整っている。
いつだったか津久井城跡を訪ねた折、このパークセンターに訪れたことがある。そこで見たジオラマに惹かれた。城山の南の地形、河岸段丘がいかにもおもしろい。城山の南を流れる串川の両側は、複雑で発達した河岸段丘が広がっていた。地形大好き人間としては、この先が楽しみではある。

巧雲寺
パークセンターを離れ、尻久保川へと下る。尻久保川にかかる根小屋橋の手前を東へと折れ、ゆるやかな坂を少し上ると巧雲寺。戦国時代の津久井城主内藤景定の開基。景定の子景豊の墓もある。景豊は三増合戦のときの津久井城主。三増合戦の折、城からの援軍を出すことも無く、「座視」。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、合戦後、北條氏照が上杉に送った書状に「山家人衆、自由を遣うに依り罷り成らず(勝利が)、今般信玄を打留めざる事無念千万候」、とある。「津久井衆(山家人衆)が命令に従わず勝手に行動したため、信玄を撃ちもらし、悔しくてたまらん」、といった意味。「役御免、今後永久この分たるべし」と、禄高も10分の一に減額している。よほど腹に据えかねたのだろう。景豊の言い分はなにも残されていないので、真相は不明。

根小屋

巧雲寺を離れ、尻久保川にかかる根小屋橋を渡り、再び台地へと上る。ここから当分は台地の上を歩くことになる。なんとなく高原の地、といった雰囲気。先日歩いた斐尾根あたりと雰囲気が近い。発達した河岸段丘によってつくられた地形がもたらすものであろう。
根 小屋地区をのんびり歩く。根小屋って、城山の麓につくられた、家臣団の屋敷があるところ。散歩するまで知らなかった「単語」だが、歩いてみると結構多い。秩父であれ千葉であれ、「時空散歩」には、折にふれて登場する。「城山の根の処(こ)にある屋」という、こと。「根古屋」とも書く。

串川
台地を進み、道が大きく湾曲するあたりから台地のはるか下に串川の流れが見えてくる。結構な比高差。深い谷、といった雰囲気。現在の串川の規模には少々似つかわしくないほどの発達した河岸段丘である。気になり調べてみる。
かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながっていた。水量も豊富。発達した河岸段丘はその時のもの、である。その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまったよう、だ。
大きく弧を描き串川へと下る坂道の途中に飯綱神社。津久井ではこの飯綱神社をよく見かける。津久井城跡のあ る城山にもあった。津久井湖の東、津久井高校あたりから城山湖に上る道の途中にも飯綱大権現があった。高尾山もそうである。飯綱信仰は信州の飯綱より発し た山岳信仰。戦の神としても上杉謙信を筆頭に、戦国の武将に深く信仰された。

三増峠への道
坂を折りきると車道に交差。城山の東、相模川にかかる小倉橋から南西に、串川に沿って城山の南を走る道である。交差点を少し西に進むと、南から上ってくる道に合流。この道は、先日歩いた三増峠方面からの道。三増峠下のトンネルをとおり、一度串川に向かってくだり、再びこの道筋へとのぼってきている。
合流点から南の山稜を見る。正面方向が三増峠であろう、か。先日、峠を東に進まず、西に折れれば、この道におりることができたわけだ。道の雰囲気を感じるため、串川に向かって下る。串川にかかる中野橋まで進み、峠下のトンネルへと向かう上りの道を眺め、少々休憩し、もとの合流点へと戻る。
地図の上では三増峠と津久井城って結構離れている、と思えたのだが、実際に歩いてみると、そうでも、ない。武田軍が津久井城の動静に気を配ったわけが、なんとなく分かった、気がした。ちなみに、三増峠からの道は県道65号線。これって津久井の中野で国道413号線に合流している。つまりは、太井から歩いた道は、ほぼこの県道を進んできた、ということであった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


串川橋
合流点から串川に沿って進む道筋を長竹へと進む。西というか、南西に道を進む。道の北に春日神社。ちょっと立ち寄る。このあたりまで来ると、串川は山稜から離れてくる。離れるにしたがって串川も渓谷といった雰囲気もなくなり里をゆったりと流れる小川といった姿となる。串川の名前の由来は例によってあれこれ。櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。
御堂橋で串川を渡る。このあたりでは串川は少し大きな「小川」といった雰囲気。更に進み、串川橋で再び串川を渡る。道はここで国道412号線と合流。412号線、って半原から斐尾根の台地を抜け進んできた道。先日、半原へと歩いた道である。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。


長竹三差路

串川橋を離れ、道を西に。串川中学、串川小学校を過ぎると長竹三差路に当たる。三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。と言うことは、三増峠を貫く県道65号線の道筋などなかったのであろう。ともあれ、今も昔もクロスロードであった、ということ。

青山神社
先に進む。相模湖方面と、串川に沿って宮ケ瀬方面へと分岐する手前に青山神社。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

三ケ木

青山神社を越えると412号線は三ケ木に向かって、北西に進む。道の両側に開けた青山集落を過ぎ、道の両サイドに山容が迫るあたりから青山川が顔を出す。しばらくは青山川に沿って進む。青山交差点で道志方面へと進む国道413号線との分岐手前に八坂神社。結構な石段をのぼる。
八坂神社を越えると青山川は北西に、道は北にと泣き別れ。青山川はそのまま進んで道志川に合流する。道をしばらく進むと周囲が開け、三ケ木の集落、に到着、だ。
三ケ木は「みかげ」と読む。由来は良く分からない。中世、「日影之村」の「三加木村」として現れる。集落と書いたが、このあたりではもっとも「にぎやかな」ところだろう。橋本からのバスも結構動いている。逆の相模湖方面にもまあまあ動いているよう、だ。

道志橋
三ツ木の交差点から1キロ弱北西に進むと道志橋。道志川が津久井湖に注ぐところにある。橋の対岸は相模湖町寸沢嵐(すあらし)。信玄軍が道志川を渡ったところ言われる。一隊は三ヶ木から、落合坂を下り沼本の渡し(落合の渡し)を経て、また、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡った、とある。
現在橋は川面よりはるか高いところ、高所恐怖症のひとであれば少々足がすくむ、といったところに架かっている。が、もとより、合戦当時の道は、ずっと低いところに下りていだのろう。実際、落合坂を下り切ったところは道志川と相模川の合流点であったという。湖も無いわけで、川幅も現在よりずっと狭かったのだろう、か。

寸沢嵐石器時代遺跡
道志橋を離れ、沼本地区を越え、津久井警察署の先から国道を離れ少し南に入ったところに寸沢嵐石器時代遺跡。地元の養蚕学校教諭、長谷川一郎氏が発掘し発表した。寸沢嵐は「すわらし」と読む。「スワ」は低湿地・沼沢・斜面。「アラシ」は川の斜面から材木を投げ下ろす場所、と(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)。近くに「首洗池」もある。武田軍が討ち取った首を洗ったと言われる池。その数3269、とも。またこの地ではじめて勝鬨をあげた、とも。戦場を大急ぎで離脱し、ここ、道志川を越えた台地上に着くまでひたすらに駆け抜けた、と。それって勝者の姿でもあるまいといった評価もあり、それが三増合戦の勝者を分かりにくくしている、という識者も多い、とか。

正覚寺
寸沢嵐石器時代遺跡を離れ、国道に戻る。少し西に進み阿津川にかかる阿津川橋を渡る。ここから道は阿津川に沿って進む。蛇行する川を、山口橋、正覚寺橋と渡る。道の北は相模湖林間公園。道のそば、深い緑の中に品のいいお寺様が見える。正覚寺。丁度境内

には五色椿が咲いていた。
縁起はともあれ、このお寺は柳田国男を中心とするチームによっておこなわれた日本で最初の民俗学の調査の本拠地。大正7年(1918年)のことである。チーム(郷土会)がこの地(内郷村)を選んだのは、その地形が「一方は高い嶺の石老山を境界とし
、他の三方は相模川と道志川に囲まれ、近年まで橋のない弧存状態にあり、農山村としての調査条件がそろっていた(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)」ということはもちろんである。が、同時に、長谷川一郎(寸沢嵐石器時代遺跡の発掘・発表者)さんの存在も大きい、かと。当時長谷川さんは地元の小学校の校長さん。こういった理解者があったことも実施を実現した大きなファクターであろう。長谷川さんはその後村長さんまでになった。柳田国男の句碑。「山寺やねぎとかぼちゃの十日間」

鼠坂
正覚寺を 離れ先に進む。道の北はさがみ湖ピクニックランド。しばらく歩く
と国道から分岐する道。分岐点に八幡神社。近くの民家、というか喫茶店のそばに「鼠坂関址」。メモする;「この関所は、寛永八年(1638)9月に設置された。ここは、小田原方面から甲州に通じる要塞の地で、地元民の他、往来を厳禁し、やむを得ず通過しようとする者は、必ず所定の通行手形が無ければ通れなかった。慶安四年(1651)には、由井正雪、丸橋忠弥の陰謀が発覚し、一味の逃亡を防 ぐため、郡内の村人が総動員し、鉄砲組みっと共にこの関を警固したという。この道は甲州街道の裏街道。この関も甲州街道の小仏関に対する裏関所といったものであったのだろう。ともあれ、一般庶民が往来するといったところではなかった、よう。

相模湖
鼠坂を離れ西に進む。峠を越えた辺りに関所跡。このあたりから道は下る。道の左手に湖が見えてくる。鼠坂より1.5キロほどで相模湖大橋。橋を渡り台地に上る。甲州街道を越える中央線相模湖駅に到着。三増合戦ゆかりの地を巡る津久井散歩もこれでお仕舞い、とする。


ちなみに、津久井って、もともとは三浦半島に覇をとなえた鎌倉期の武将三浦一族にはじまる。三浦一族の一武将が津久井の地(現在の横須賀市)に移り住み津久井氏を名乗った。その後、この地に移り築城。津久井城と名づけ、津久井衆と名乗った、ということだ。