金曜日, 12月 31, 2010

千川上水散歩 そのⅡ;中村橋から巣鴨の千川上水場跡へ

千川上水散歩の二回目は中村橋から巣鴨の千川上水浄水場跡まで。途中、南長崎での尾根道乗り換えなど、地形フリークとしては面白いルートである。川は高きから低きに流れる。川が曲がるのは、その先に高みがあるから。川は高みを避けて迂回する。一方、用水・上水路は地形の高きところを縫って進む。宅地がなく自然の地形のままなら、尾根道ではあろう。
尾根道は往々にして川筋の分水界となる。千川上水は北の石神井川水系、南の神田川水系(妙正寺川や善福寺川なども)を分ける尾根道を進む。千川上水も北へ、南へと分水し地域を潤し、余水を石神井川や妙正寺川に流す。右に石神井川、左に妙正寺川の谷筋を意識しながら、千川上水の水路跡に沿って、武蔵野台地の尾根筋を歩くことにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

本日のルート;西武池袋線・中村橋>千川通り>穴守稲荷神社>都道420号>西武池袋線交差>千川親水公園>要町3丁目交差点>板橋高等学校>板橋交通公園>川越街道>大山商店街>頭部東上線>東京都老人総合研究所>区立板橋第一中学校>板橋税務署>山手通り>板橋区役所>中山道>板橋郵便局>JR板橋駅>明治通り・堀割交差点>千川上水公園

西武池袋線中村橋
中村橋駅で下り千川通りに向かう。桜並木を少し進むと大山不動の慎ましやかな祠が佇む。相模の伊勢原にある大山詣への旅立ちに、水垢離で身を清め道中の安全を祈ったのであろう。練馬の大山道は、練馬区北町1丁目の旧川越街道から別れ、春日や高松あたりから谷原を経て北東から南西に延びる。現在その道筋は環八以西には一部、富士街道として残る。ということは、このあたりから大山道への支道があったのだろう、か。また、大山不動の近くには中村分水口があり、南に下り水田を潤した。

首つぎ地蔵
先に進み目白通りの手前、通りの南を少し下ったところに首つぎ地蔵や良弁塚、南蔵院がある。良弁塚(中村3-11)は南蔵院開基の良弁僧都が経典を埋めたところ。住宅街の片隅、鉄柵で保護された緑の中に、良弁廻国供養塔や七面七観音石塔、そして庚申塚が残っていた。少し南に下り、首つぎ地蔵の祠。中村南八幡神社の北にある。昭和の初め、信心深いふたりが見た夢をきっかけに離ればなれになっていたお地蔵様の首と胴体が繋がった、とのこと。折からの不況、首がつながる、と人々の信仰を集めた、と。中村南八幡は江戸の頃より、この地中村の産土神。境内の水盥には卍印が残る。卍って、如何にも仏教的。神仏混淆の名残であろう。

神社を離れ東に進み南蔵院に。良弁僧都が経塚を築き民衆を教化したのが寺の始まり。本堂、閻魔堂、薬師堂など、趣きのあるお寺さま。特に楼門、そして長屋門が印象に残る。南蔵院から東に進み学田公園に。明治の頃、村で学校を開くが資金不足。ために中新井川の水源であった池を開墾し水田とし資金を賄った。学田と呼ばれる所以である。現在は学田公園となっているが、公園脇を南に水路跡とおぼし道筋があった。中新井川の上流端あたりであろう。



そばくい地蔵
大急ぎで千川通りに戻る。豊玉北6丁目交差殿で目白通りを越え豊島園通り交差点に。交差点を少し北に上ったところに白山神社と十一ヵ寺、そして、そばくい地蔵がある。西武線の高架下を潜り成り行きで北に上り白山神社に。樹齢700年との800年とも伝わる大けやき。往古、このあたりには南北を結ぶ往還があったようで、このけやきも源義家が奥州征伐の途次奉納した苗がもと、と伝わる。
成り行きで少し北にすすみ十一ヵ寺域に。これら十一の寺は浅草の誓願寺の塔頭。誓願寺は江戸の頃、朱印300石を与えられ大名、御用商人が塔頭を宿坊として外護(特別に保護)した。関東大震災の後、この地に移ってきた。
寺域の中、九品院の脇にそばくい地蔵。江戸の頃、毎夜蕎麦を食べに来る僧がいた。仏心篤き主人は代金を頂戴することはなかった。とはいうものの、毎夜のことであるので少々素性をあやしみ、ある夜、僧の後を付けると西慶院の前で忽然と姿を消す。その夜、そばやの主人の夢枕に僧が現れ、「我は西慶院地蔵。汝の功徳に報いるため一家の諸難を退散せしめん」、と。その後江戸に疫病が蔓延したときも、この蕎麦屋一家は息災に過ごせた。その噂が広まり、庶民は西慶院地蔵を篤く信仰し、大願成就の折には蕎麦を奉納した。そばくい地蔵の由来である。
千川上水散歩のつもりが、少々道草が多い。とはいうものの、国木田独歩の『武蔵野』の一節に「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。(中略)同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある(略)」、とある。とりあえず、すべて成り行きで散歩を楽しむべし。

筋違橋
千川通りに戻る。豊島園通り交差点の少し東に北西に向かう小径が別れるが、これは石神井川からの揚水路跡。千川上水の下流にある工場の工業用水の水量を維持するため石神井川からポンプアップし千川に導水していたようである。石神井川から直接取ればいいようなものではあるが、雨が降ると泥で汚れる石神井川の水では不都合と、この地で揚水していた、とのことである。文化センター入口交差点に進む。この交差点に向かって目白通り練馬警察南交差点から斜めに上ってくる道がある。この道は昔の新井薬師道。地図を見ると、中野にある新井薬師に向かって北西から南東に向かって続く道があるが、これって新井薬師道の名残であろう、か。前々から、この斜めに走る道に少々の「ノイズ」を感じていたのだが、新井薬師道跡、と言われれば納得できる。
文化センター交差点を超えたあたりに筋違橋があった。橋の袂にあった橋供養正(聖)観音は通り南にある大鳥神社そばの東神社に移されている。通りを離れ町屋の中に佇む大鳥神社と東神社にお詣りし通りに戻る。

清戸道
西武池袋線練馬駅前交差点を越えると再び桜並木が現れる。道脇に「清戸道と千川上水」の案内。清戸道は文京区関口の江戸川橋を起点に、武蔵国多摩郡清戸村(現在の清瀬市清戸)を結ぶ道。清戸村にあった尾張藩の鷹場への道、とも言われるが、近郊の野菜を江戸に運ぶ道として使われた。距離が20キロ強、といったものであり、夜明けに村を発ち、大江戸に野菜を運び、その日の内に村に帰るのに丁度いい距離であった、とか。帰り道には江戸野町の下肥を引き取って村に運ぶため、尾籠な話で恐縮ではあるが、別名「汚穢(おわい)道」とも呼ばれた。
道筋は、江戸川橋から椿山荘へと上り、目白通りの道筋を進む。山手通りを越えた先、中落合郵便局あたりで右に別れ、目白通りに平行に進み中野通りに交差するところで千川通りに入る。西武池袋線と平行に千川通りを進み、環七通りを越え西武池袋線・練馬駅の先の豊玉北6丁目交差点で再び目白通りに合流。
西武線を越え、中杉通りとの合流の少し手前で右にわかれ、向山を北西に登り石神井川を渡った先で再び目白通りと合流。笹目通りを越え、谷原小交差点先で目白通りから左に分岐、都道24号線に沿って清瀬へと向かう。

中新井分水
桜台駅前交差点を越える。標高39m。その昔ここには三枚の石からなる三枚橋が架かっており、その下流からは中新井分水(下新街分水、桜台分水、弁天分水、とも)が引かれていた。桜並木の中にある桜の碑(桜台1丁目4番)を見やりながら進み環七に。環七桜台陸橋を渡った西側には下練馬分水があり、この地から北に流れ下練馬の村を潤し石神井川に注いでいた、とのこと。また、環七を少し東に進んだところにも中新井分水があり、武蔵学園の構内を通り南に下っていた。濯(すすぎ)川と呼ばれていたその流路は構内に残る。中新井分水はこの地を潤し中新井川(江古田川)に注ぐ。

武蔵野稲荷神社
武蔵学園正門から少し東に行った千川通り北に武蔵野稲荷神社。境内に小高い塚があり、円形古墳跡とも言われているが、それはともあれ、その周囲の空堀には千川上水からの水が引かれていた。境内は随神門があったり、大黒様があったり、天神様があったりと、なんとなくよく見るお稲荷さまと趣が異なる。正面拝殿もお稲荷さま、という雰囲気でもない。現在この地は天理教系の日の本神誠講の本部ともなっており、そのことも全体の雰囲気それなりの影響をあたえているのだろう、か。
『練馬区の歴史;練馬郷土史研究会(名著出版)』に、この神社は子育稲荷としても知られる、とあった。南を通る清戸道に棲み着いたいたずら狐の子狐がなくなったとき、篤くとむらい、こどもがすこやかに育つよう子守塚をつくった。それがいつしか子育稲荷、といことのようであるが、それらしきお稲荷様は見つからなかった。

浅間神社
西武池袋線江古田駅の北に浅間神社がある。往古、この辺りは一面の茅原であったため、茅原浅間神社と呼ばれていた。境内に富士塚があるため、富士浅間神社とも呼ばれ、冨士講の信者に信仰された、と言う。富士塚は富士の溶岩を持ち帰り造った人造の塚。江古田富士とも呼ばれ、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
境内の駅よりのところには千川堤植桜楓碑。下練馬村など近隣の村民が大正天皇の即位を祝い、千川沿いに7キロ、千六百本ほどのソメイヨシノとカエデを植えたことを記念したもの。元々は千川沿いに建てられたが、暗渠工事に際しこの地に移された。参道も千川通りから続いていたようだが、西武線江古田駅建設の際に分断されてしまった。

江古田分水
江古田駅南口、現在は五叉路となっているが昔の江古田二又と呼ばれたところを越え、西武線を越えた北に能満寺。元和年間、と言うから縁起によれば17世紀の前半、「夏に雪が降り広い美しい原がある」と聞いた僧侶がこの地を訪れ堂宇を建てた、と。境内には古き風情の大日堂が建つ。境内にある千川延命地蔵は、大正年間に行われた千川の川浚いで見つかったもの、と言う。能満寺から千川通りに戻ったあたり、旭町1丁目38と45の間の小径は昔の江古田分水の水路跡。南に流れて水田を潤し、中新井川(江古田川)に注ぐ。江古田川、と言えば、その川は西武池袋線江古田駅からはるか遠く離れたところを流れる。そもそも、練馬の江古田駅付近には江古田という地名はなく、南に下った中野区にある。江古田川が流れるあたりである。千川通りの北側一帯はその昔、江古田新田と呼ばれていた。中野にある江古田の新田といったものであったのだろう。ちなみに江古田の由来は、古い田圃、荏胡麻、エゴの木、抉れる、等々諸説あり、定説なし。また、読みも「エコタ、エコダ、エゴタ、エコダ」など、これまた確定できないよう、だ。
道を進み、少し北に入ったところに千川子育稲荷(旭丘1丁目37)。誠に誠にささやかな祠が路地に佇む。元は千川上水脇にあったものが移され。子供の夜泣きに御利益があった、とか。千川通りに戻り更に先に進むと道脇に赤い鳥居。とりあえず左に折れ少し北に進むと民家の壁に張り付くように鳥居があり、そこに立つ赤い幟に穴守稲荷()とあった。雨や風がつくる穴なの街から田畑を守るのが名前の由来、とか。羽田空港近くに穴守稲荷駅という京急の駅があり、その由来も、嵐で堤防が決壊したときにお稲荷様をお祀りし、御利益があった、と言うもの。その穴守稲荷のイメージで訪れただけに、少々のギャップがあった。赤い窓枠にちょっと、お詣りし通りに戻る。

 南長崎交差点
先に進むと千川通りは南長崎交差点で直角に曲がる。標高36m。交差点の角にはファミリーレストランがある。かつてはここに千川上水の水番所があり、その傍らにお地蔵さまがあった、とのこと。千川上水の川浚いで見つかり能満寺に納められた、と言うから、それって先ほど見た千川延命地蔵ではあろう。
千川通りとして青梅街道・関前1丁目交差点から続いた都道439号線もここで終わり、左に折れた道は都道420号線となり北東に板橋へ向かう。ちなみに交差点から南は中野通として品川区の八潮橋へと下る。この交差点あたりから西落合1丁目、2丁目を経て妙正寺川に落ちる灌漑用の落合分水があった、と言う。中野通りがこの地より哲学堂方面へと続くわけで何となく流路がイメージできる(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


さて、南長崎交差点で直角に曲がる流路に興味を覚えたのが今回の千川上水散歩のきっかけでもある。上でもメモしたように石神井川水系と神田川水系(妙正寺川・善福寺川)を別ける尾根道を進んで来た千川上水は、この地で北東へと延びる舌状台地へと流路を変える。カシミール3Dでチェックすると、台地の先端は東武東上線大山駅をへて中山道の板橋区役所あたりとなっている。ここで尾根筋を乗り換えないで直進すれば、妙正寺川の谷筋に落ちるか、西武池袋線椎名町駅あたりまで切れ込んだ開析谷、つまりは、谷端(やばた)川に下ることになる。一度低地に落ちた水は高みには戻れないわけで、自然に逆らわず巣鴨の浄水場に水を送るには、この地で直角に廻り、板橋・巣鴨あたりが先端となる支尾根に乗り換えるしか術はない、ということであろう。


築樋跡
都道420号線を北に進むと、ほどなく西武池袋線の踏切。その先、区立明豊中学校のあたりでは車道が次第に低くなり歩道との差が1m以上にもなる。どうも石神井川に流れる水路があったようであり、そこに築樋が造られていた、と。歩道は千川上水の築樋跡を進むことになる。その先、千早高等学校のあたりで水路は都道420号と別れ、右に折れる小径に向かう。標高35m。ほどなく四基の庚申塔。元は五基あった、とのことだが、一時行方不明となり、その後板橋区大泉で発見され、この地に移された。少し進み、高校の校庭が切れるあたりで北に進路を変えると千川親水公園。先ほどの庚申塔はこの公園のあたりにあった、とか。親水公園を先に進み、如何にも流路跡といった雰囲気のフェンスに囲まれた駐輪場脇を進み要町3丁目越交差点に。
要町3丁目交差点
都道441号・池袋谷原線要町3丁目交差点。すぐ東が地下鉄有楽町線千川駅。いつだったかこの駅で下り、谷端川の水源である粟島神社の弁天池を訪ねたことがある。大通りの一筋内側の道を、池袋方面に少し戻った辺りに粟島神社がある。ここを源流点とする谷端川への養水として、交差点あたりから谷端川への分水・長崎分水があった。
谷端川はこの地から椎名町に向かって南東に下り、そこでほとんど180度Uターンし、池袋台地と挟まれた山手通りの谷筋を北上。千川上水は尾根道を、谷端川は谷筋を、といった案配でほぼ平行に北上し、JR板橋駅あたりで共に流路を変え南に下る。
板橋駅では千川上水と谷端川は急接近。駅を挟んで北側の尾根道を千川上水、南側を谷端川が通る。谷端川はその後、白山台地と小石川台地の間の谷間を進み後楽園にあった水戸藩上屋敷に注ぎ、余水は神田川に注ぐ。

川越街道
要町3丁目交差点を越えると都道420線から脇にそれ、マンションと民家に挟まれた小径を進む。都立板橋高校手前で右に折れ、桜並木の道を進む。桜並木が切れ、この先2トン車以上進入禁止、といった、いかにも水道道路っぽい五叉路の信号脇に庚申塔。注意しなければ見落としそうである。
先に進むと板橋区交通公園。標高34m。ここから30mほど先の左手、民家生け垣に境界石があるとのことだが、気がつかなかった。先に進み都道420号線に戻ると道脇に弁天祠(水神様)。上水の溺死者の供養に昭和になって建てられもの。田留水車の取水口もこのあたりにあった、と言う。ほどなく水路は川越街道を越える。水路は都道420号と川越街道が交差する脇にある田崎病院辺りを進んでいた、と言う。

山手通り交差
川越街道を越えた水路は、東京信用金庫脇を進み大山ハッピーロードへと向かう。交差するところに大山橋があったとのことだが、現在、その面影は何も、ない。商店街を斜めに横切り東武東上線を越えると道は広くなる。川越街道から東武東上線まで細路となった都道420号が広くなり、ここから先に続くことになる。
東京都健康長寿医療センター前を進み、区立板橋第一中学校前で脇にそれ、旧産文ホールとの間を通り先に進む。標高33m。橋税務署付近があるあたりには、青山(秋山)水車があった、と言う。ほどなく水路は山手通りを越える。

国道17号・中山道
山手通りを渡り、板橋区役所を右手に見て脇の道を進むと国道17号・中山道に。流路は中山道横断し、通りに沿って少し下り、ガソリンスタンドの先で、旧道を左に入り、半円状に迂回しながら再び17号に戻る。
流路を離れ、板橋区役所をそのまま進むと中山道板橋宿の仲宿にあたる。少し北の上宿、仲宿、そして下宿(板橋駅方面)から成る板橋宿の中心地である。
本陣、脇本陣などは先回の散歩で歩き終えているので、今回はパスし、旧中山道を少し下った板橋区観光センターに。先回も訪れ充実した資料を頂いたのだが、今回も何か新しい資料でも、との思いで訪れる。先回と同じく気持ちのいい接待を受け、またボランティアガイドの方から千川上水についてのお話も伺う。板橋宿の東にあった加賀前田藩下屋敷の池の水は千川から送られていた、とのことである。標高30m。

JR板橋駅
水路は再び国道17号に戻り、しばらく道なりに進み、板橋3丁目3番付近から斜めに国道を横断して板橋郵便局裏の道に入る。水路はこの先、旧中仙道とほぼ平行に流れる。道なりに進み、板橋一丁目児童遊園。ここには板橋火薬製造所(造兵工廠)への分水口があった。板橋火薬製造所は前田家加賀藩下屋敷跡にできたはずであるから、この地から石神井川の谷へと下っていったのであろう。板橋駅前で千川上水路は旧中山道にあたる。




水路はJR板橋駅脇で埼京線を越える。埼京線のすぐ東側に、石神井川へと流れる分水があった。青梅街道の水道端で善福寺に分水された余水は暗渠を進み、ここで石神井川に流される、と言う。つまるところ、この地が現在の千川上水跡の終点、ということだろう。
踏切のすぐ先にT字路。尾根の左右はゆるやかな下りとなっている。千川上水が尾根道を通っていることが如何にもよくわかる。実のところ、このT字路には数回訪れている。南に少し下ったJR板橋駅前に近藤勇の供養塔があるのだが、場所がよくわからず、この辺りを彷徨った。周囲から盛り上がったこの尾根道に少しの「ノイズ」を感じてはいたのだが、ここに千川上水が走っているとは全く知らなかった。
ついでのことであるので、近藤勇の供養塔について;オープンな雰囲気で、お墓というか記念碑といった風情。慶応4年(1868)、平尾一里塚付近、というから板橋駅付近で官軍により斬首された近藤勇の首級は京都に移送され、胴体はここに埋葬された。ここには近藤勇だけでなく副長の土方歳三、そしてこの供養塔造立の発起人でもある永倉新八が供養されている。そういえば石神井川を辿っていたとき、川脇の壽徳寺に「新撰組隊長近藤勇菩提寺」とあった。駅前の供養塔に訪れた後であり、少々面食らったのだが、よくよく読むと駅前の供養塔はこの寿徳寺の境外墓地であった。

千川上水分配堰碑
北区滝野川6丁目と7丁目の境界線上の尾根道を進む。左右は先ほどのT字路で見たようにゆるやかな下りとなっている。ほどなく交差点の角に馬頭観音の祠がある。水路は、ここから旧中山道から少し離れるように迂回するが、それは街道に沿って流れることによる河川の汚れを避けるため。元々は街道に沿って進んでいたようである。道なりに進むと明治通りにあたる。「千川上水分配堰碑」が道の脇、トラックの駐車場の片隅にパイロンと並んで建っていた。
「千川上水分配堰碑」によると、ここに設けられた堰で、利用者の取水量を分配していた。江戸の頃は慶応元年(1865年)に造られた幕府大砲製所(反射炉)用の分水だけであり、水利権はそれほど問題にはならないが、明治になると状況が異なってくる。千川上水の分水は、石神井川とともに現在の北区、荒川区、台東区の23の村の灌漑用水、また王子近辺の紡績工場、抄紙会社、大蔵省紙幣寮抄紙局の工業用水、そして千川上水本流も東京市内への飲料水として供された。ということで、利用者は水利権を明確にし、取り決めを遵守すべく、この碑を建てた、とか。樋口の大きさ、利用者、堰幅の長さ、公園内の溜池の水面の高さなどが記されている。

千川上水公園
分配堰碑を離れ山手通り堀割交差点を渡る。堀割は幕府の大砲製造所の水車を回すための王子方面への分水(王子分水)を開削する際につくった堀に由来する。堀割交差点から明治通りを少し下り、先ほどの分配堰碑の対面にある千川上水公園に。
かつてここには千川上水の浄水場があった。ここに造られた溜池(沈殿池)で砂やゴミなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中に給水されたわけだ。明治13年(1880年)には、岩崎弥太郎が設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田への給水が始まった(明治41年に水道会社解散)。
公園に入る。上水公園は一見すると普通の公園。多くの高校生がダブルダッチの練習に励んでいた。練習の邪魔をしないように公園奥に進むと囲いがあり、「六義園給水用千川上水沈殿池(導水門)とあり、その中に水門のバルブ(巻揚機)が残っていた。この六義園への給水も昭和43年(1968年)、地下鉄6号線(現在の都営三田線)工事の際、六義園への水路が分断され、以降給水は停止した。千川上水散歩もこれでお終い。JR板橋駅に戻り、一路家路へと。


木曜日, 12月 30, 2010

千川上水散歩そのⅠ;堺橋分水口から中村橋へ

歳末のとある休日、どこといって散歩のルートが想い浮かばない。こういった時は川筋を辿ることにしている。とはいうものの、都内の川筋は大体歩いた。用水・上水も結構辿った。残っているのは大所では千川上水跡くらい。

千川上水は江戸六上水のひとつである。元禄9年(1696)徳川綱吉の時代、道奉行伊奈平八郎掛かりで開発が行われ、土木家河村瑞軒の設計のもと、多摩郡仙川村の徳兵衛、太兵衛が開削にあたった。
そもそもの目的は江戸の小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山、浅草寺に水を引くこと。お武家さま中心の計画ではある。そしてその余水を神田上水以東の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの武家、寺社、そして町屋に飲料水として渡した。江戸の町の3分の1にあたる地域を潤した、という。その後、18世紀になると流域の村々の懇願を受け、灌漑用水として井草、中村、中新井、長崎、滝野川、巣鴨村等7個所の分水を設け、20ほどの村々の田畑を潤した。
享保7年(1722)には儒学者室鳩巣の提言を以てして、玉川上水、神田上水だけを残し、 千川上水をはじめ、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水を廃止した。江戸の大火の原因が上水・用水開削による地下水脈の乱れによるとの理由からである。以後、一時的に上水として復活することもあったが、主として、村々の潅漑用水として使われた。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

明治以降は、水車による精米・精麦、製粉が行われるようになったほか、紡績所や製紙会社、印刷局などの工業用水としても利用された。また、1880年(明治13年)には、岩崎弥太郎が設立した「千川水道会社」により飲料水としても使われた。その後、東京市の改良水道の普及で1908年(明治41年)、千川水道会社は解散。1970年(昭和45年)には東京都水道局板橋浄水場が上水からの取水を止め、1971年(昭和46年)には大蔵省印刷局抄紙部への給水も止み、千川上水はその長い歴史を終えた。
千川上水の歴史は大まかに以上の通りである。が、千川上水に関する興味・関心は歴史よりその地形にある。千川上水は標高64mの境橋から、標高28mの巣鴨まで30キロ弱を尾根筋に沿って武蔵野台地を下る。玉川上水・境橋の分水口から、石神井川水系と神田川水系(善福寺川・妙正寺川)の分水界でもある尾根筋を東に向かって進む水路は、東長崎の手前で北東にほぼ直角に曲がる。その先は谷端川や妙正寺川の谷筋となるので、谷に落ちないように、尾根に沿って曲がるのあろう。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、まさしくその通り、その後流路は尾根筋から外れないよう板橋に向かって進んでいる。一度でも下に落ちれば、自然流路としては上に戻れないわけであるから、精緻な測量技術を持って尾根から外れないように流路を決めていったのだろう。玉川上水・境橋分水口から巣鴨の千川上水浄水場跡まで、歴史=時、と地形=空を想い描き千川上水跡散歩にでかけることにする。

本日のルート;JR武蔵境駅>武蔵境通り・独歩通り>千川交差>武蔵野第二小学校>都道123号線>境橋>都道7号線>阿波洲神社>柳橋>武蔵野大学前>関前橋>電通研究所前>更新橋>石神井西中前>都道4号線・関前一丁目交差点>千川通り>立野橋>西武新宿線>上井草駅前交差点>新青梅街道・井草4丁目交差点>環八・八成橋第二交差点>八成橋>富士見台駅入口>西武池袋線・中村橋

JR武蔵境
玉川上水の境橋にある千川上水の分水堰に向かう。最寄りの駅はJR武蔵境駅。武蔵と何処かの境が地名の由来かとも思っていたのだが、実際は境新田、から。出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏が御用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け新田を開発、その名を境新田開発とした。駅の南には境本公園も残る。
工事中のため右往左往しながらも駅北口に下り、商店街を抜け成り行きで北に向かう。武蔵境通りと地図にあるが、商店街を抜けた辺りから70mほどを「独歩通り」と呼ぶ。通りを北に進むと境浄水場手前に玉川上水・桜橋があるが、その橋の袂に国木田独歩文学碑がある。「今より3年前のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋という小さな橋がある」と、国木田独歩の『武蔵野』の一節が刻まれている。
桜橋を玉川上水に沿って少し西に戻ったところに境山野(さんや;山野は字名)緑地があるが、この地は「独歩の森」とも呼ばれる。独歩の日記『欺かざるの記』には、「遂に櫻橋に至る。橋畔に茶屋あり。老婆老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かひぬ。橋を渡り数十歩。家あり、右に折るる路あり。此の路は林を貫いて通じる也。直ちに吾等此の路に入る。林を貫いて、相擁して歩む。恋の夢路!余が心に哀歓みちぬ」とある。その後に独歩と結婚することになる佐々木信子と共に歩いた「記憶して忘するる能はざる日々」の舞台ではあろう。

仙川と交差
武蔵境通りを北に進むと仙川に当たる。仙川は多摩川水系野川の支流。武蔵小金井の貫井北町、東京学芸大学の北にあるサレジオ学園あたりを源頭点とし西に進み、武蔵境あたりで進路を南に変え世田谷区鎌田で野川に合流する。いつだったか3回にわけ野川流域を辿った。武蔵小金井あたりで出会った三光院、そこでの山岡鉄舟と任侠小金井次郎とのエピソードを思い出す。武蔵野二小交差点で左に折れ、武蔵高校前交差点で都道123号線を北に進む。都道123号境調布線は武蔵境・境橋交差点から調布市上石原を結ぶ。国立天文台脇を通るため通称、天文通り、とも呼ばれる。

境橋分水口
都道123号線を進むと都道7号杉並あきるの線に当たる。都道7号線は通称、「五日市街道」と呼ばれる。家康の江戸入府の後、秋川筋の五日市(現在、あきるの市)や檜原から木材や隅などを江戸に運ぶため整備された。都道123号線が五日市街道にあたるところに玉川上水に架かる境橋がある。
玉川上水は羽村で多摩川の水を取り入れ、武蔵野台地の尾根を進み大江戸四谷の大木戸に至る、全長43キロほどの上水路。江戸の人々に水を供給した。現在、羽村で取水された水は小平監視所まで流れ、そこからは東村山浄水場に送られる。監視所から下流は1965年(昭和40年)の新宿・淀橋上水場の廃止とともに送水を停止し、しばらくは「空堀」状態ではあったが、1986年(昭和61年)の清流復活事業により再び水流が復活した。水流は復活した、とはいうものの、それは多摩川の水ではなく昭島の多摩川上流水再処理センターで高度処理された下水ではある。ここ境橋のあたりまで流れる水は、この清流復活事業として供給される水、ということだ。



柳橋
千川上水はこの境橋の辺りが始点。千川上水跡を辿るべく。五日市街道方面を見やると、道の中央に緑地帯がある。なんらかの痕跡でもあるものか、と緑地帯に入る。中央には水路が整備されていた。開渠の水路には水が流れる。清流復活事業による水流である。千川上水は境橋の上流200mほどのところで玉川上水から分水されていた。現在でも清流復活事業により玉川上水に流される水量の20%、おおよそ1万トン(1日)程度の水が分水される、と言う。1万トン、ってどの程度か想像もできないが、イラクでの自衛隊の給水のニュースで、1日70から80トンの水でほぼ2万人分とあった。ということは、おおざっぱに言えば200万人から250万人分の水量、ということだろう、か。
水路に沿って整備された遊歩道を先に進む。関前5丁目交差点で井ノ頭通りと交差。井ノ頭通りはここで終わるが、交差点の先も道が一直線に多摩湖に向かう。多摩湖自転車道とも呼ばれるこの道は、多摩湖から境浄水場に延びる水道管の上を走る。快適なサイクリング道でもあり、遊歩道でもある。小金井公園の東、石神井川上流部で川を跨ぐ水路の馬の背を思い出す。



阿波洲(あわしま)神社
地図をみると柳橋交差点の少し先に阿波洲(あわしま)神社がある。武蔵境通りを少し北に進み、左に折れてちょっと立ち寄り。高校だったろうか、校庭の脇につつましやかに佇む。宝暦2年、と言うから、1752年、粟島明神を勧請。18世紀前半より開発された上保谷新田の鎮守として信仰をあつめた。粟島明神は紀州加太浦の粟島明神が総社。人形供養の神社としても知られる。祭神は頗梨采女(はりさいにょ)という女神さま。祇園精舎の守護神である牛頭天皇の后、とされる。祭神が女神さま、ということもあり、安産や婦人の病平癒など女性の信仰を集めた。

鈴木街道
柳橋を越え武蔵野大学前交差点に。都道7号・五日市街道はここを右に折れ、吉祥寺方面へと進む。学園前のバス停脇に大きな庚申塚。天下泰平、五穀成就、また、疫病など災難が村に入ってこないようにと、上保谷新田の人々によって新田の入り口に建てられた。

この庚申塚の脇を学園に沿って西に進む道は鈴木街道とも呼ばれる。鈴木新田と上谷保新田を結ぶもの。鈴木新田は八代将軍吉宗の頃、武蔵野台地に開かれた新田のひとつ。小金井から小平にかけ、武州多摩郡貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門により開発された。道は先ほど訪れた阿波洲神社の北側の道を進み小金井公園の北抜ける。その先の小金井街道との交差点のあたりに鈴木町という町名が残る。鈴木新田って、このあたりだろう、か。

井口橋
武蔵野大学前交差点で一時暗渠となった千川上水は、交差点の先で再び水路を現す。欅と桜の木立の下を遊歩道が走る。遊歩道入り口のフェンスの中に庚申塔と石橋供養塔が佇む。石橋供養塔は天保12年(1841年)に古くからあった井口橋を石橋に架け替えたとき、当時の関村の人々が完成の記念と、村への悪霊進入を防ぐべく建てられたもの。このあたりの標高60m。
武蔵野大学から先の道幅は今までよりは狭くなる。上水も道のセンターではなく、道に沿って北側を流れる。それにしても快適な遊歩道ではある。千川上水散歩をためらっていた理由のひとつは、ルートから見れば如何にも排気ガスをたっぷりと吸い込む、といったイメージがあったことだが、案に相違して、それほどのことは、ない。



関前橋交差点
よし窪橋、千川橋をへて関前橋に。関前橋で道は二つに分かれる。千川上水はそのまま東へと先に進む。地図でチェックするとその道筋は都道7号とあり東伏見4丁目で青梅街道にあたる。また、北に折れる道も都道7号線とあり、東伏見交差点で青梅街道にあたる。??都道7号線って、先ほど武蔵野大学前交差点で右に折れた、はず?はてさて、都道7号のルートは一体どうなっているのだろう?青梅街道との交差点から先には7号線のルートは見あたらない。チェックすると、武蔵野大学交差点から先、青梅街道に続く道は、都道7号線の青梅街道との連絡支線であった。

更新橋
千川上水はNTT武蔵野研究開発センターのある電通研究所交差点で都道7号線と別れ右に折れる。道幅は更に狭くなる。車の流れも少なくなり、散歩に不都合は何も、ない。石橋の三郡橋に進む。名前の由来は多摩郡(関前村、西久保村)、新座郡(上保谷新田)、豊島郡(関村)の三つの郡の境であるから、だろう。このあたりの標高58m。
西窪橋を越え更新橋に。橋の袂に庚申塔の祠があり青面金剛像が祀られている。青面金剛像は本来、病を流行らせる神。病鬼を逃れるために祀られる、とは、逆説的で面白い。古い祠と緑、そして上水の佇まいは、誠に、いい。更新橋は、「庚申>こうしん」との音の転化ではあろう。

吉祥寺橋
西北浦橋、桂橋、東北浦橋と越える。水路脇に「千川上水施餓鬼亡霊供養塔」。名前は少々おどろおどろしいが、溺死し成仏できない餓鬼亡霊たちへの施し(供養)をする塔、と言う。水路は今でこそ、つつましやかな水量であるが、昔は結構な水量であったのだろう。
供養塔の先には吉祥寺橋。道の左手に畑が見えてくる。右手は井口家の屋敷林、とある。誠に美しい景観。千川散歩で、このような落ち着いた風景が楽しめるとは予想していなかった。橋を右に折れ、JR西荻窪駅へと向かう道と離れ、屋敷林脇を進む上水に沿って先に進む。橋から先は練馬区に入る。

青梅街道舗装のされていない小径を進む。テニスコートを右に、さらに進んで石神井西中学校を左手に、水路の両側に宅地が迫ったり、左手に畑地が再び現れたり、時に暗渠となる緑の水路脇を進む。田中橋、久山橋、竹下橋を越え、吉祥寺橋から1.2キロ程度歩き青梅街道に。
青梅街道に架かる橋は伊勢橋と呼ばれた。元は伊勢殿橋と呼ばれていたようだ。上水開設を監督した御道奉行の伊勢平八郎に由来するのだろう。ここには水番所もあった、とか。江戸の人たちの飲み水を清潔に維持するところである。この辺りを水道端と呼ぶのも、その故であろう。このあたりの標高は52m。
境の分水口で取水した1万トンの水量うち7千トンが、ここから南の善福寺池に送られる。善福寺池を水源とする善福寺川の水量を増やし、そこを源流とする善福寺川を浄化するためである。往古豊かであった善福寺池の湧水も最近はポンプアップされている、とか。
水道端で別れた善福寺池への導水管は、青梅街道に沿って竹下稲荷まで下り、そこを右に折れ道なりに進み、善福寺川への落口へと続く。池に直接再生水を落とすのは、富栄養化などで差し障りがあるのだろう。この地で分水され、残り3千トンとなった千川上水はこれ以降、暗渠の中を進むことになる。

関のかんかん地蔵
千川上水が暗渠となって青梅街道をくぐる関前1丁目交差点から、少し西にすすんだところに「関のかんかん地蔵」。妙な名前に引かれてちょっと寄り道。青梅街道に沿った酒屋の横に佇むこのお地蔵さまは、石でたたけば願いが叶うとのこと。で、長年叩かれ続け足元が痩せてしまい、近年補修された。名前の由来は、叩いた音、から。『新編武蔵風土記』に「石地蔵像 坐像長六尺、青梅道ノ北側二立リ、関ノ地蔵ト云、祈願ヲナスモノ石ニテ打ハ、カ子(カネ)ノ音アルヲモテ、カンカン地蔵トモ云ウ」、と。



田中水車
青梅街道を越えると千川上水は暗渠となる。千川通りに沿って400mほどは千川上水緑道と呼ばれるが、散歩した2010年11月は水道管交換の工事中であった。都道439号椎名町上石神井線、通称千川通りと呼ばれるこの道は、豊島区南長崎6丁目を起点に青梅街道・関前1丁目交差点に至る道。千川上水は起点の南長崎まで、千川通りに沿って走る。
立野橋で緑道はお終い。立野橋交差点から西武新宿線・上石神井駅へと上る道脇に庚申塔が佇む。立野橋を越えるとほどなく道の左側に上石千川児童公園。なにやら案内らしきものが目に入りちょっと立ち寄る。田中水車の案内。この公園のそばに昭和44年頃まで水車があったとのことである。田中水車は所有者が田中さんであった、から。別名観音水車とも呼ばれるのは、このあたりの小字が観音山であったためである。千川上水には時期によって加減はあるものの、13カ所に水車があった、と伝わる。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


西武新宿線と交差
先に進むと歩道と車道に段差が出てくる。西武新宿線上石神井車両基地南側付近では1mほどにもなるだろう、か。これはかつて築樋が通っていた名残。千川上水は尾根筋に切り込んだ妙正寺川への谷筋を築樋で跨いでいた、と言う。いつだったか井草を彷徨い、妙正寺池まで歩いたことがある。そのとき青梅街道近くの「切り通し公園」から西武新宿線井荻駅を経て妙正寺池に続く井草川に出合った。カシミール3Dでチェックすると築樋があったあたりに窪みが見える。上でメモした妙正寺川の谷筋は正確には妙正寺川支流の井草川の開析谷だろう。
千川通りは上石神井駅西の踏切で西武池袋線を越える。暗渠を流れてきた水は踏切手前で一瞬姿を現す。西武線の鉄橋は「千川上水橋梁」とあった。この辺りの標高は50m。
西武線を越えた千川通りは上井草駅入口交差点を越え、左手に屋敷林などを見やりながら先に進む。明治の頃、このあたりに東京同潤社糸線器工場があった。この製糸工場は糸を晒すとき千川上水からの分水を活用していた、と言う。

環八交差
井草四丁目交差点で新青梅街道にあたる。新青梅街道を越えるとほどなく環八・八成橋第二交差点。八成橋って、なんとなく惹かれる名前。往時、このあたりは小字を八成と呼ばれた。新青梅街道と旧早稲田通りが交差する北に八成小学校があるが、そのあたりの地形が「皿のような地形」であった、とのこと。カシミール3Dでチェックしても「皿」っぽい地形はよくわからないが、皿という語感からひょっとして「鉢成」ではないだろうか。チェックすると八成にある石像物に「鉢成講中」と刻まれているものがある。皿、というか鉢のような地形であったのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。このあたりの標高47m。

旧早稲田通り交差
環八を越えるとすぐに旧早稲田通り・八成交差点。旧早稲田通りは、その昔所沢道と呼ばれ、中野の鍋屋横町から保谷を経て所沢に続いた道。『豊嶋郡誌』には「豊多摩郡の北部を走りて、同郡井荻村より本郡石神井村に来り、同村の中腹を東西に貫きて、大泉村の南端より北多摩郡保谷村に去り、進んで埼玉県所沢町に達す」、とある。

長命寺道
旧早稲田通りを越え200mほど東に進むと千川通りの北側に「長命寺道」の道標。その昔、下井草から北上し往時この地に架かっていた三兵橋を渡り東高野とも呼ばれた長命寺に至る参詣道があった。いつだったか自転車で和光の白子の宿に向かっていたとき、笹目通りを進み、西武池袋線を越えたあたりで何気なく左に折れると、鬱蒼とした森があり、なんらかの神社仏閣があるものかと進み、偶然出会った名刹であった。鬱蒼とした森、と言えば江戸の頃の散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に長命寺のことが書いてある。そこには鬱蒼としていた森を住職が伐採し売り払ったので、近頃は高い木が残っていない、といった記述があった。



中村橋
道を進み富士見台1丁目交差点を越えると中野区に入る。先を進むとほどなく富士見台駅前交差点。その昔、この地には九頭龍橋が架かっていた。石神井方面と練馬を結ぶ往還にかかる石橋であった、と言うが、その面影は、今はない。千川通りを先に進む。中村橋に近づくと道脇に桜のベルトが続く。中村橋西歩道橋手前に九頭龍弁財天の祠。元は富士見台駅前交差点の九頭竜橋のあたりにあったものを、この地に移したもの。渡邊龍神、弘法大師、子庚申、馬頭観音などが祀られている。日も暮れた。千川に架かる中村橋の名前を冠した西武池袋線・中村橋で本日の散歩を終える。



月曜日, 12月 20, 2010

奥多摩・小川谷山行そのⅡ:棒杭尾根・三ツドッケ・カロー川谷・中段歩道行

先回の奥多摩・小川谷遡行から日もあけず、2週間後に再び小川谷に。今回は日原の手前、倉沢谷を上り棒杭尾根に取り付く。尾根道を辿り長沢背稜に上り、縦走路を三ツドッケ(天目山)へと西行し、ハンギョウ尾根をカロー谷へと下降。その後はカロー谷を右下に見ながら、ヨコスズ尾根の中腹を巻く水源巡視路中段歩道を日原へと戻る、といったもの。先回の山行での小川谷筋の酉谷、コツ谷の渓相や流域を取りまく自然林に少々魅せられた。奥多摩山行のお師匠さんであるSTさん、友人のSさんとともに、紅葉の小川谷を楽しむことにする。


本日のルート:07:05立川>(青梅線)>08:35奥多摩>08:55倉沢BS>09:00 〃 発>(0:50)>09:50魚留橋>10:00 〃発(休憩10分)>(0:25)>10:15棒杭尾根取付>10:25  〃発(休憩10分)>(1:40+休憩10分)>12:05長沢背稜縦走路>12:40〃発(休憩35分)>(0:40)>13:20三ツドッケ山頂>13:35 〃発(休憩15分)>(0:15)>13:50板形尾根分岐>(0:40)>14:20中段歩道交差点>14:25 〃 発(休憩5分)>(0:20)>14:45十字路>14:55 〃 発(休憩10分)>(0:10)>15:05カロー川谷小屋跡>15:20 〃発(休憩15分)>(1:20+休憩15分)>16:55森林館ゲート>(0:05)>17:00東日原BS登路03:25>帰路02:40>休憩01:55>【全歩程時間 6時間05分】>【全行程時間 8時間00分】

倉沢;9時_標高509m
立川に7時集合。青梅線の奥多摩駅でバスに乗り換え、倉沢に向かう。奥多摩を出て20分ほど、日原トンネル手前の倉沢バス停で下車。倉沢谷が日原川に合わさるところである。谷は深く切れ込む。谷に架かる倉沢橋は橋下の高さが61m。東京都内にある1200強の橋のうちで一番高い橋、と言う。
午前9時、倉沢谷に沿って林道を歩き始める。渓流の相がなかなか、いい。来夏に沢上りなど楽しむべしと、右手の谷への降り口を探すが、道らしき道は見つからない。降り口はないものかと注意しながら先に進む。宮下橋、八幡橋、鳴瀬橋と進むに連れ、渓流釣りに下る踏み分け道などもあり、また次第に林道と倉沢谷が接近し、谷に下るもの容易になってくる。誠に美しい渓相である。それほど難しい沢でもないので、沢遡上はお勧め、とSTさん。

倉沢鍾乳洞;9時48分_標高678m
鳴瀬橋を過ぎると谷の右手に切り立った大きな石灰岩の露頭岩壁が見えてくる。岩の中には倉沢鍾乳洞がある。倉沢の「倉」って、切り立った岩壁、もっと大雑把に言えば、倉=岩、とも言う。この壮大な露頭岩壁が倉沢の地名の由来だろうか。
倉沢鍾乳洞はその昔、霊場として知られ、江戸の頃には日原鍾乳洞とともに上野寛永寺支配の倉沢大権現として多くの信者を集めたところである。この倉沢鍾乳洞は観光洞として公開されていた時期もあったとのことだが、現在は閉鎖されている。
いつだったかヨコスズ尾根を上り、仙元峠に辿ったことがある。そのとき、ヨコスズ尾根の滝入りの峰を少し進んだところに倉沢への分岐点があった。秩父や北関東から日原の霊地を目指す人々は、その道を下り倉沢や日原の鍾乳洞を訪れたのだろう。また、倉沢への分岐点を少し進んだあたりの尾根道に堂々としたブナが聳えていた。両替場のブナと呼ばれたブナである。往古、日原の鍾乳洞の一石大権現、倉沢鍾乳洞の倉沢山大権現への信仰篤き頃、秩父や北関東からの参詣者への両替の便宜をはかったところ、と言う。大権現たる鍾乳洞では、先達の松明に導かれ、参詣者は唱名念仏をとなえお賽銭の小銭を撒きながら洞内を進んだ、と。ここはその小銭の両替場。旅に小銭は荷物となるので、金銀の粒をこの場で両替していたわけだ。



魚留橋;9時50分_標高696m
林道下に倉沢鍾乳洞への橋の跡。入渓ポイントとしてはよさげであるなあ、などと来夏のことを想いながら先に進む。倉沢のバス停からおおよそ50分。高度を200mほどあげて、林道の車止めとなる魚留橋に到着した。
魚留橋のすぐ先、石灰岩のゴルジュには滝が見える。魚留滝と言う。なるほど、この滝を魚が上れるとは思えない。魚留とは言い得て妙である。倉沢谷は魚留滝の上でふたつに別れ、左俣は塩地谷、右俣は長尾谷となる。塩地谷は三ッドッケ山麓に端を発し、ヨコスズ尾根と棒杭尾根を別ける。一方、長尾谷は蕎麦粒山麓に源頭部をもち、棒杭尾根と鳥屋戸尾根を別ける。

棒杭尾根取付;10時15分_標高786m
魚留橋を渡り倉沢谷右俣・長尾谷の谷筋に移る。魚留滝を高巻き・迂回するように山道を進む。谷の紅葉が美しい。左に別れる塩地谷方面を見やり、地蔵橋を渡り長尾谷筋に入る。
長尾谷を10分ほど歩き林道が切れるあたりが棒杭尾根取付となる。棒杭とは切り株とか杭のこと。少々艶あるフレーズである「焼け木杭(ぼっくい)に火が付く」の木杭(ぼっくい)は棒杭が変化したもの、と言う。

棒杭尾根
林道が無くなり踏み跡を辿るように植林帯に入る。しばらくジグザグに高度を上げていき尾根筋に。取付部の標高800m地から1200m地点あたりまでの1時間近くは結構急な上りであったが、1200mを越えた辺りから尾根にもフラットなところが時に現れ、塩地谷方面に自然林が現れてくる。どのあたりだったか地点確認はしていないのだが、巡視路の道標があった。塩地谷への水源巡視路が続くのだろう。
高度を上げるに連れ自然林は増え、尾根道にも大きいブナが並ぶ。梢越しに塩地谷方面も遠望が開け、谷を隔てたヨコスズ尾根の美しい紅葉が目に入る。
この尾根ルートは仙元峠に近く、秩父へのアクセスの最短ルートである。倉沢鍾乳洞が信仰の霊地として栄えた頃、修験者や信者は、滝入りの峰からの倉沢への分岐道と同じく、この棒杭尾根を辿ったとのこと。そう思えば自然に歴史が重なり、それなりに昔の人達の気分となり、時空散歩が楽しめる。

長沢背稜縦走路;12時5分_標高1410m
取付から上り始めおおよそ2時間、標高を600m上げて長沢背稜縦走路に上りつめる。奥多摩ではこういった尾根の上端部を「頭」と呼ぶようだ。上り切った棒杭の頭に指導標があり、「蕎麦麦山・日向沢の峰<>一杯水・酉谷山」とある。棒杭尾根への案内は正式にはないようで、標柱に誰かが手書きで「棒杭尾根」と書いていた。あまりポピュラーなハイキングコースではないのだろうが、これでは普通のハイカーにはわからない。実際、指導標のあたりで休憩していると、ハイカーが棒杭尾根への下降点を我々に聞いてきた。



三ッドッケ;13時20分_標高1576m
30分ほど休憩をとり、12時40分頃、腰を上げ三ッドッケに向かって縦走路を進む。15分程度のところで一杯水・一杯水避難小屋との分岐を別け、ひとつ目のドッケ(突起)のピークを過ぎ、上り返した二つ目のドッケのピークが三ッドッケ山頂(標高1576m) である。棒杭の頭からおおよそ40分で到着した。
山頂は大きく開け眺めがいい。南に向かえば、雲取山から石尾根へと流れる山容の向こうにはうっすら富士山が見える。その左手は丹沢方面の山だろう。北は奥武蔵の山稜が見える。東に向かえば、長沢背稜の稜線の先には蕎麦粒山、そしてその手前の高まりが仙元峠が見える。初めて仙元峠を越えて秩父の浦山に下ったときは、なんたる奥地を歩いたものよ、などと少々の高揚感を感じてはいたのだが、二度に渡って仙元峠の近くを彷徨うに至っては、「奥地」は既に「日常」と変わっていた。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 



山頂で休憩しながら山頂北の斜面を見ると、ラベルがついた樹木(カラマツだった、か?)の切り株がある。ピークからの見晴らしを良くするため樹木を切り倒し、国有林の無断伐採の罪で裁判沙汰になった人がいるようで、ラベルはその証拠写真を撮った名残である、とSTさん。
三ッドッケのドッケであるが、これにはとは「突起」とか「尖る」といった意味がある。朝鮮古語との説もある。このあたりには芋ノ木ドッケとか黒ドッケ(クロトッケン、とも)など「ドッケ」の付く山も多い。ちょっと離れるが、昨年上った山梨の三つ峠も、もともとは「三ッドッケ」から、との説もある。また、この三ツドッケは天目山とも呼ばれる。中国浙江省の禅宗の名刹のある山を天目山と呼ぶが、この三ツドッケはいくつかの峰をもっており、そのアナロジー故に天目山と呼ばれるようになったのだろう、か。それとも、単に天目茶碗を伏せた形に似ていたためだろうか、はたまた、日原や倉沢鍾乳洞といった霊地を囲む一帯故に名付けられた仏跡地名であろうか。はてさて。 (
天目山と言えば、同じ長沢背稜上の酉谷山も天目山とも呼ばれる。と言うか、秩父の山岳連盟より、山名は天目山に統一すべし、との申し入れがあった、と新聞にある。江戸の頃は天目山と呼ばれており、酉谷山と呼ばれたのは戦後のことである、というのがその論拠。名称統一の議論は別として、新聞記事の中に、天目山(注;酉谷山のこと)を起点に東側に延びる尾根を天目尾根と呼んでいた、と。酉谷山も三ツドッケも天目山と呼ばれるのは、こういった事情も影響していたの、だろうか。

ハンギョウの頭_標高1,543m;13時53分
少し休憩をとった後、ハンギョウ尾根に向かう。緩やかに少し下り、三ツドッケの突起なのか、峰を少し上り直した後、再び緩やかに上りかえし15分ほどでハンギョウの頭に。標高1548mといったところ。ハンギョウ尾根の下降点は指導標あたりから、尾根を下る水源巡視路がある、とSTさん。植林の樹木の中を尾根道の端に進むと、尾根を巻いた水源巡視路が下に続いている。何故道案内が無いのか、との問いに、水源巡視路は作業用のものであり、ハイカーのためのものではないから、とSTさん。納得。ちなみに、「ハンギョウ」は「板形」と書く。


ハンギョウ尾根
よく整備された巡視路を下る。ほどなく作業用モノレールと交差。モノレールはハンギョウの頭付近から小川谷林道あたりまで続いている。先に下ると整備された巡視路は消える。ひたすら下る、のみ。先日下った喜右ヱ門尾根の下りほどは急な斜面ではないのだが、一面の落ち葉で足元が覚束ない。
下るにつれて紅葉が美しい樹林となる。道はあるような、ないようなものであり、先導に続く、のみ。途中尾根上近くで乗り越えたモノレールに再び接近。しばらくモノレールに沿って下る。20分程度で高度を260mほど下げ、14時17分、標高1,280 地点で尾根筋から離れ山腹をトラバース気味に東に進む。後でわかったのだが、水源巡視路中段歩道と見誤ったようだ(と、思うのだが)。途中で気付き、軌道修正し、30分かけて高度を230mほど下げ、本来の水源巡視路中段歩道の十字路についた。14時43分。標高1043m。

十字路を北に向かえばカロー大滝、南に下れば小川林道・カロー橋。西に向かえば滝上谷・犬麦谷、我々は東へ向かいカロー谷を越えて日原へと向かう。十字路の辺りだったと思うのだが、辺りは水道局の参考林となっている。ブナの大木も多く、もちろんカエデや、ミズナラやいろんな木が 、ある。木の名前は未だによくわからない。数年前会社の仲間とブナの原生林・白神山地を辿ったことがある。山を彷徨い、二日目になって、「ところで、ブナ、ってどれだ?」などと尋ねるレベルではあるので、先は長い。



カロー谷川小屋跡;15時19分_標高952m
10分ほど休憩をとり、十字路から東にトラバース気味にカロー谷に下る。10分ほどで高度を100mほど下げるとカロー谷に到着。木橋を渡りカロー谷川小屋跡に。標高952m,3時19分。渓相は誠に美しい。沢上りもお勧め、とSTさん。小川林道賀廊橋辺りから入渓できる、とか。沢に沿って作業道がこのカロー谷川小屋跡まで続いているので、難所はエスケープもできそう。来年の夏が楽しみである。





水源巡視路中段歩道
日原に向かって水源巡視路中段歩道に入る。少し進むと、カロー谷沿いに賀廊橋へと向かう道と分かれ高度を上げていく。イメージとしてはカロー谷川小屋跡からはヨコスズ尾根の山腹を日原に向かってひたすら下る道なのだろう、と思っていたのだが、どうもそうではないようだ。カロー谷との高度差をどんどん広げてゆく。
急斜面に付けられた道は結構危なっかしい箇所もある。これでも整備し直している、とSTさん。桟道なども新たに取り付けられている、と。シオジの自然林、そして進むにつれて見事な紅葉が現れてくる。紅葉見物だけであれば、この中段歩道だけでも十分とも思える。
高度は標高1117m あたりでピークとなる。時刻は16時。丁度滝入りの峰の下あたりである。16時12分頃には、日原鍾乳洞の裏手あたりまで進んだ。
日がだいぶ暮れてきた。少々急ぎ足となる。ピークから10分ほど割合平坦な道を進んだ後、標高1045m辺りからは急な坂を下ってゆく。植林帯の中、ただでさえ暗い道が日暮れで足元も見えにくくなってきた。日没は4時40分頃。それまでには日原へと下りたいと、いよいよ足を速め、巨樹の森を通り抜け、午後6時少し前、日原の森林館前に。標高617mであるから、400mほどを40分ほどで下ったことになる。カロー谷川小屋跡からは1時間20分ほどであった。東日原のバス停に着く頃は、日はとっぷり暮れていた。

先回と今回、2回にわたって小川谷水系の尾根、そしてその尾根を別ける谷や沢を辿った。そこは水源巡視路の走る東京都の水源林であった。その範囲は、東京都の西部、奥多摩町から、山梨県塩山市・小菅村・丹波山村にまたがり、東西約31km、南北約20km、面積は22,000ha(ヘクタール)に及ぶ広大なものである(全体の60%が山梨県に属する)。水源林で涵養された水は多摩川水系の幾多の川を流れ小河内ダムに注ぐ。
1957年(昭和32年)竣工の小河内ダムは水道専用貯水池。ここに一旦貯められた水は多摩川を下り、小作取水堰や羽村取水堰で取水され、山口貯水池・村山貯水池を経由して東村山浄水場で都民の飲料水となる。現在では都民の水源の主流は利根川水系にその地位を譲ったが、今なお渇水期の都民の水瓶として依然と重要な役割を果たしている。 水源林の広がる奥多摩のこの地域一帯は、江戸の頃は大半が徳川幕府の領地であった。幕府直轄の「お止め山」も各所にあった、とか。「お止め山」は御巣鷹山、とも呼ばれ、一般人の入山を禁じて鷹を保護し、その鷹の雛を巣引いて鷹狩り用の鷹を育てることを目的とした幕府の直轄林である(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。この美しい森から流れ出る豊かな水は、玉川上水によって江戸の人々の喉を潤した。承応3年(1654)に完成した玉川上水は、羽村堰で多摩川の水を取水し、延々と43キロ近く江戸の町まで運ばれた。
幕府が倒れ明治の御代になると、幕領であった奥多摩の森は皇室の御料地となる。森林政策の乱れもあったのか、厳しく規制され、美しかった「お止め山」は過度の伐採や開墾、焼畑が行われ荒廃し、降雨のたびに水源である多摩川や玉川上水の水が濁るようになる。どこかで荒廃した奥多摩の山の写真を見たことがあるのだが、それはそれは、まっことの禿げ山状態であった。
ために、1901年(明治34年)、東京市の飲料水・東京府の農業用水の安全を確保すべく、東京府が御料林を宮内省から譲り受け、多摩川上流域の森林を「水道水源林」として経営管理するようになった。また、1910年(明治43年)には、当時の東京市長の尾崎行雄氏の判断により、東京市に水源林の管理が移る。その後、東京都政の開始にともない、東京都の水道局が管理し現在に至る。当たり前のことではあるが、「自然」にも「歴史」がある、ということ、か。