木曜日, 12月 29, 2016

鎌倉散歩 Ⅰ:天園ハイキングコースから朝比奈の切通しへ

Google earthで作成
南だけが海に向かって開け、東西そして北が低くはあるが(200m以下)山に囲まれる鎌倉。その山稜尾根道を、北そして西側半分ほど歩く。沢登仲間5名のパーティである。
コースは建長寺境内の谷戸最奥部山腹にある半僧坊からはじまり、鎌倉の北と西半分を囲む天園ハイキングコースを瑞泉寺に向かい、瑞泉寺手前でハイキングコースを離れ、地図にルートのあった沢に下る。朝比奈の切通しへのショートカットが出来そうである。
地図に示されるだけであり、実際に歩けるかどうか行ってみなければわからないのだが、ともあれショートカットできれば、そのルートを進み、十二社バス停傍の脇道に入り朝比奈の切通しへ。周囲を山で囲まれた鎌倉への往還のために山稜を切り開き通した七口(7つの切通し)のひとつである。 朝比奈の切通しからの戻りは、切り通し近くの熊野神社から十二社方面に尾根筋を下る道らしきものが地図に見える。そのルートは等高線を垂直に下りている。転び滑りながら下りることになりそうではあった。
計画ではこの後、報国寺脇まで進み、そこから布張山に上り、名越えの切通しに向かい、祇園ハイキングコースを経て鎌倉駅へ、と思っていたのだが、朝比奈の切通から十二社バス停に戻ったところで、パーティ諸氏の「ここで終了」の目力に抗せず、計画を変更し終了。10キロ強の鎌倉散歩を楽しんだ。


本日のルート;北鎌倉駅>建長寺>半僧坊大権現>天園ハイキングコース>覚園寺分岐>大平山の頂>横浜市最高地点>天園休憩所>瑞泉寺分岐>沢を下る十二社へのショートカットルート>十二社バス停>大刀洗川に沿って進む>朝比(夷)奈切通し>磨崖仏>熊野神社>尾根筋を三郎の滝に戻る>十二社バス停


北鎌倉駅
集合地点は北鎌倉駅。ここに来たのは何年ぶりだろう。先回は駆け込み寺・東慶寺、名刹円覚寺、浄智寺などをお参りしながら進んだのだが、今回は天園ハイキングコーの始点・建長寺まで寄り道せずに向かう。
◆円覚寺
横須賀線北鎌倉駅近くに建つ。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士を弔うために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。
開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧といった数々の難題に直面。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。舎利殿は国宝。

東慶寺
円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下ると東慶寺。お寺の案内パンフレットによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
浄智寺
少し進むと浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために宗政夫人が開く。お寺の案内パンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。
どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」とある。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。

建長寺
天園ハイキングコース入り口のある建長寺に。天園コース東端の瑞泉寺方面から歩く場合は不要だが、建長寺側から天園ハイキングコースに入る場合は、建長寺の拝観料を払うことになる。
建長寺
巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。

半僧坊大権現
境内を進み半僧坊大権現に向かう。「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース(その逆も)。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現。

大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。
方広寺
いつだったか方広寺を訪れたことがある。浜松駅から戦国の古戦場で知られる三方ヶ原を越え、伊井氏本貫地引佐の里を経て奥山方広寺に向かった。開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。
半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。

天園ハイキングコース
半僧坊社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されることもなく野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上献展望台」。アジサイで名高い名月院方面からの道が合流する。展望台からは鎌倉の海の眺めが楽しめる。 更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
名月院
このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。

時頼の廻国伝説
北条得宗家の基盤を確固たるものにした時頼には、謡曲『鉢の木』にあるように廻国伝説が伝わる。先日会津街道(Ⅳ)を歩いた時も出合ったし、伊予・北條の古城巡りのときも時頼が登場した。
30歳で執権職を辞し、出家しその間、「中世の黄門様」のように全国を廻ったということだが、出家したとは言いながら、政権の中枢で隠然たる権力を持ち続けた時頼に、そんな暇があるとも思えない。また37歳という若さで亡くなったというし、伝説が残るのも得宗家の領地が中心というから、ますますもって「伝説」と考えるのがよさそうにも思えるのだが、所詮は素人の妄想であり、根拠があるわけではない。

覚園寺分岐
右手は深い木々、左手は山を切り崩し宅地開発した民家が迫るといったアンバランスな尾根道を進み、「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回はメーンルートを進む。
やぐら
いつだったかこの分岐から覚園寺へと下ったことがある。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」がある。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。

大平山の頂
心地よいアップダウンの尾根道を進むと鎌倉アルプスの最高峰、といっても159.2メートルの大平山の頂上に。この辺りに来ると車で近くまで乗ってきたような観光客が結構多い。住所は鎌倉市今泉。左手に見えるゴルフコースへの道を来るのだろうか。
岩場を下りゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通り一部舗装された道を進む。鎌倉市と横浜市の境ではあるが、行政区域は横浜市栄区となる。

横浜市最高地点
ほどなく土径となった道を進むと「横浜市最高地点」の標識。「海面からの高度154.9m 横浜市最高地点は鎌倉市境にある大平山(山頂は鎌倉市域)の尾根沿い(栄区上郷町)でこの付近となります。背後の鎌倉市方面には鎌倉市街や相模湾を臨むことができます」とある。
かつて、この辺りに「天園峠の茶屋」があったと思うのだが、なくなっていた。 眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから、と言う。

天園休憩所
「天園峠の茶屋」の少し南、「天園休憩所」は営業していた。ここで少し休憩。住所は再び鎌倉市十二社となる。

瑞泉寺分岐
天園休憩所から天園ハイキングコースに戻る。先を進むと瑞泉寺分岐の木標。道はふたつにわかれるが、右は瑞泉寺、左は支尾根へと向かう。沢に下るショートカットルートは道を少し戻り左手に下りることになる。
瑞泉寺
瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。 いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。
そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。

沢を下る十二社へのショートカットルート
沢に下りる道は草に覆われ少しわかりにくい。iphoneのGPSアプリ、Gmap Toolsで地図に記される沢への下り口をチェックすると、なるほど下りの土径が見えた。
ほとんど整備されていない山道を下る。この沢道ではなく瑞泉寺へと下ると、南に突き出た尾根筋を大きく迂回して十二社に向かうことになる。足元はしっかりしないが、ショートカットのためには少々我慢。

十二社バス停
ささやかではあるが水の流れる沢筋に沿って下り、民家の建つ支尾根の間の道を進み県道204号の十二社バス停に。朝比奈の切通はバス停から県道から右に分かれ、大刀洗川に沿って道を進むことになる。
◆十二社
県道から少し左手に入ったところに建つ。十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる
十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。 十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。

大刀洗川に沿って進む
十二社バス停付近で滑川に注ぐ大刀洗川には梶原景時の太刀洗水がある。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。昔歩いてた時は「大刀洗水」の案内を見つけることができなかったのだが、今回はすぐ目に入った。
梶原景時
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強く、判官びいきの諸氏にはあまりいい印象はない。どういった人物か、ちょっとメモ;
もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。
で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらした張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。

いつだったか、八王子城址を訪ねた時、高尾駅から丘陵を越え、新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点の近くに梶原八幡があった。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原氏が、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。

上総介広常
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、頼朝のもとへ参陣。頼朝が鎌倉入りを果たせたのは、上総・下総両国を領し東国最大勢力であった上総介広常の軍事力が大きく寄与したと言われる。
鎌倉幕府が開かれてからも、その強力な軍事力故か、頼朝に対しても「傲慢不遜」な振る舞いもあり、謀反を疑われ頼朝の命により梶原景時に誅されることになる。
お話では、殺害後に広常の鎧から頼朝の武運を祈る願文が見つかり、頼朝は広常を殺害してしまった事を悔いたと言われるが、対朝廷策で協調派の頼朝と強硬派の広常の間に亀裂があったようで、殺害の因はそのあたりにある、との説もあるようだ。都生まれの頼朝と東国武士の広常故の対立があったのだろうか。

朝比(夷)奈切通し
先に進むと舗装も切れ、その先で道がふたつに分かれる。左手の小滝(三郎の滝)が落ちる道が朝比奈の切通し。先回訪ねた時はなかったように思うのだが、道脇に「朝夷奈切通」の案内がある;
「国指定史跡  朝夷奈切通しは、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。『吾妻鏡』には、仁知2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これがつくられた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造をよく示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周辺部の雰囲気を良好に伝えています。 平成21年3月 鎌倉市教育委員会」。
また、三郎の滝の東側に石碑があり「朝夷奈切通 鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ 大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀1900)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月 經營ノ事始アリテ執権北条泰時 其所ニ監臨シ 諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト思料セラル」と刻まれる。

ふたつの案内を読み、一夜のうちに峠を切り開いたとされる武勇の士・朝夷奈三郎義秀のお話はともあれ、この朝比奈切通しは、執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。執権自ら監督し、鎌倉の外港であり下総などとの窓口・六浦と鎌倉の連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路として開いたもではあろうが、そこに「朝夷奈三郎義秀」の話が登場するのが面白い。
朝夷奈三郎
朝夷奈三郎義秀は和田義盛の子。安房の朝夷郡に領地を有するが故の名前ではあろうが、和田義盛は北条打倒を図り、和田合戦を起こしている。朝夷奈三郎義秀はその合戦で最もめざましい奮戦をした武将である。戦いは北条氏の勝利に終わり、朝夷奈三郎義秀のその後の消息は不明とのことであるが、敵方である北条氏の執権が苦労の末開いたこの切り通しに朝夷奈三郎義秀の伝説が残るのは、誠に面白い。
いつの頃からこの伝説がおこったのか少々気になる。チェックすると、Wikipediaに拠れば、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「六浦道」とあり、「朝夷奈」の文字はない。「朝夷奈」が江戸時代になっても「峠坂」と記録にあり、「朝夷奈」が記録に登場するのは延宝2年(1674)、徳川光圀編纂の『鎌倉日記』に峠坂を「朝比奈切通」とあるのがはじめてのようである。伝説もこの頃できたものだろうか。単なる妄想。根拠なし。

鎌倉七口
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名称。鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く、江戸時代になってはじめて記録に登場する。一般には極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝夷奈(朝比奈)切通、名越切通を七口と称する。
もっとも、江戸時代初期の1642年~1644年頃に書かれたと思われる『玉舟和尚鎌倉記』には、「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」、上記の『徳川光圀鎌倉日記』には「ケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」とあるようで、切通といった名称では統一されていないようである。

磨崖仏
崖からの湧水に濡れた石畳状の坂を上る。足場はあまりよくない。道脇に佇むお地蔵さまにお参り。「延宝三年十月十五日」と刻まれている。西暦1675年の作である。
坂を上り切ったところの崖が大きく切り開かれている。大切通しと称される箇所だろう。右手の崖には大きな磨崖仏が刻まれる。薬師如来と言う。

熊野神社
磨崖仏から少し坂を下ると熊野神社分岐がある。道を右手に取り、道なりに進むと熊野神社がある。社殿への石段前に車止め。意味不明。石段をのぼり拝殿にお参り。
由緒には「古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭 加藤太郎左衛門尉 之を再建す、里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云爾」とある。
朝比奈切通の開鑿は仁知2年(1241)に幕府執権であった北条泰時の指揮のもと開始されたと上でメモした。頼朝既に亡くなっているのだが、由緒ってそんなものだろう、と。
それはそれとして、先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり、とのこと。
もっとも、この山吹の里って、散歩で出合っただけでも数箇所ある。埼玉・越生、川崎の鹿島田、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということだろう。

尾根筋を三郎の滝に戻る
社殿で皆さんが休憩の間に、地図にある社殿裏から尾根道を十二社方面、三郎の滝近くに下る道を確認に。社殿右手の土径を上り、社裏手の尾根筋に廻り込道を探る。左手に折れ果樹園へと向かう道と直進する尾根道を確認。尾根道筋には単なる倒木なのか、通行止めなのか不明だが、木が道を遮る。が、進めそうである。
ということで、休憩後、尾根道を下ることに。果樹園へのコースは道は安定してそうだが、何せ遠回りである。地図を見ると結構勾配が急なようではあるが、ショートカットルートを選択。
下り道は急な傾斜の上に粘土質の堀込みとなっており、足元が危うい。結構滑る。倒(こ)けつ転(まろ)びつ、三郎の滝に。

十二社バス停
三郎の滝から十二社のバス停まで戻り、皆さんの意向確認。当初の予定では、ここから報国寺まで歩き、布張山に登り**の切通し方面まで進む予定であったが、皆さん、ここで充分とのこと。今回の散歩は、これで終了とし、バスで鎌倉駅に向かい、一路家路へと。

金曜日, 12月 16, 2016

伊予 石鎚三十六王子社散歩 そのⅣ;第七四手坂黒川王子社から第二十稚児宮鈴之巫子王子社まで辿り、黒川登拝道を下る②

先回のメモは河口集落から峰入りし、今宮登拝道から尾根筋、そして今宮登拝道に戻る王子社道を辿り第七王子社から第二十王子社を辿り石鎚神社中宮・成就社まで登った。当初単独行での計画では、成就社からロープウエイで西之川谷筋の下谷まで下り、河口の車デポ地まで徒歩で戻る予定であったが、弟や山仲間はそんな軟な行動を考えるはずもなく、戻りは黒川登拝道を下るとのことになった。
事の成り行きで一緒に黒川道を下ることにしたのだが、道らしき道は里に近づくまで一切なく、黒川谷のガレ場、ザレ場を延々と下るルートであった。黒川道は小松藩領・横峰寺の信徒の登拝道であり、往昔、西条藩・前神寺や極楽寺の信徒が登る今宮道や三十六王子社ルートより多くの人が登った道とのことだが、今となっては、道を踏み固める人も無く、安全確保の虎ロープのオンパレードといった荒れた道ではあった。
比高差1200mの往路での上りに5時間ほどかかったが、下りであるにもかかわらず4時間程かかってやっと下山。メモをしようにも、王子社といったポイントも何もなく、蔵王権現の石像が残る行場跡が一カ所のみ。時に沢(黒川)に落ちる滝が現れるものの、その他はガレ場・ザレ場、崩壊地が延々と続く。といったルートであり、果たしてメモができるものかどうか少々心もとないが、ともあれメモを書き始めることにする。


本日のルート;石鎚神社中宮・成就社>>八大龍王社>展望台に:11時52分>展望台出発;12時26分>黒川道アプローチ地点;12時50分>笹からガレ沢に;12時54分>成就社への道標:13時7分>第一リフト交差;13時9分>支尾根の間の沢に水管>右手に黒川が滝のように下る;13時29分>石組の道;13時35分>正面に滝が落ちる;13時39分>蔵王権現の石仏;13時55分>王子道の尾根筋が見える;13時58分>崩壊地;14時10分>成就社2.5㎞の標識;14時18分>沢を渡る;14時41分>成就社まで2,750m標識;14時45分>杉林が見えてくる;14時55分>上黒川集落;15時25分>石灯籠とお地蔵様;15時34分>「成就社 5.0km標識」;15時39分>下黒川集落;15時42分>下山;15時58分>烏帽子岩;16時4分>横峰寺別院;16時12分>河口の車デポ地;16時12分

石鎚神社中宮・成就社
八大龍王社の傍にある第二十稚児宮鈴之巫王子社の左手にある見返遥拝殿から石鎚のお山・弥山に拝礼し本殿に。本殿は昭和55年(1980)の火災で焼失。昭和57年(1982)に再建されたようである。本殿の前に立つ少々小ぶりな鳥居は二の鳥居のようである。
既に何度かメモしたように、ここはもと前神寺の石鎚山修験道の根本道場であった。「常住」と称されたとのことであるので、通年で修験行者できる拠点ではあったのだろう。石鎚神社中宮成就社となったのは明治3年(1870)の神仏分離令により蔵王権現号を廃し石鉄神社が誕生してからのこと。明治8年(1875)には前神寺所管の土地建物など一切が石鎚神社の所有となった。
このことにより、奈良時代より石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、里前神寺は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあったこの地、「常住・奥前神寺」も石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となった。

石鎚のお山には子供の頃から幾度となく上っている。成就社も幾度も訪れている。しかし、この社と前神寺の関係、この地が小松藩と西条藩の境であるが故の横峰寺との争い、横峰寺信徒による「常住」打ちこわし事件など、今回の石鎚三十六王子社散歩を終えてメモする段階になるまで、まったく知らなかった。ちょっと「深堀り」すれば、あれこれと知らないことが登場する。実際散歩の後のメモは少々時間が取られはするのだけれど、散歩の原則「歩く・見る・書く」を改めて思い起こす。
常住
石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。奈良時代のことという。
その芳元と同じ頃、『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」、また前神寺や横峰寺の縁起には常仙とも石仙とも称される高僧が山に籠もって修行に努め登拝路を開き、前神寺(横峰寺も)開いたと云う。この場合の前神寺とは「常住」の地に開いたお寺ではあろう。
現在石鎚神社本社・口之宮は、もとは里前神寺のあった場所であるが、これは江戸の頃建立されたもの。前神寺は石鎚山の別当寺であり、また四国霊場の札所でもある。その前神寺が石鎚山腹にあるのは、参拝に少々不便なため、庶民の参詣が盛んとなった江戸時代に新居郡西田村(現西条市)の山麓に新たに前神寺を建立したわけである。
神仏分離令により一時廃寺となった前神寺であるが、明治11年(1889)現在の地に前記寺、後に前神寺として旧名に復し石土蔵王権現信仰を継承した。
石鎚神社常住社(現成就社)となった常住・旧奥前神寺も、前神寺が復したため再建されることになる。一時河口と成就を結ぶ登山道脇に再建されたようだが、ロープウェイ開通によって登拝の流れが変わったため、昭和45年(1970)前神寺奥の院として現在地に移したとのことである。
常住から成就
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「古伝に石鎚山開祖、役の行者が、今宮の八郎兵衛を道案内として、此所に登山し久しく参籠し池を掘り(宮川旅館裏にあり)毎日この池で禊(みそぎ)をして心身を清め、石鎚大神の神霊を拝さんと祈願したが其の霊験なく、力つきて下山しようとした時白髪の老人が現はれ斧を砥石で磨いているので、その故を問うと老人答えて曰く「之は砥いで針にするのだ」この言葉に感じ挫折してはならない、成せばなると心に言い聞かせ再び行を続け石鎚大神の霊験を得て、石鎚山を開山し此所に帰り、(遥かにお山を見返し、吾願い成就せり)と、仰ぎ拝したと云う。故を以って以来成就社と名づけられ、見返り遥拝殿の由緒でもある」とある。
ここには「常住」の文字はない。が、上のお話は少々「出来過ぎ」のように思える。「常住」>「成就」、「音」が似通っていることからの後世の創作であろうか。
十亀宮司の像
境内にメガネをかけた銅像が立つ。江戸の末期には既に踏まれることもなくなった石鎚三十六王子社に再び光をあてた人物、石鎚神社宮司・十亀和作氏の像である。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

アプローチ地点を探す

八大龍王社
さて、黒川道へのアプローチ地点を探す。弟が昔黒川道を上ってきたときは、展望台のあるスキー場第一リフト辺りに這い上がってきたようであり、沢筋を辿ったわけではないようで、第二十稚児宮鈴之巫王子社の横にあった八大龍王の御池の水が黒川の源流と云う事でもあり、八大龍王の祠周辺になにか痕跡はないものかとチェックに動く。
地形図で見る限り、八大龍王の裏手、スキー場第一リフト(普段はロープウエイから成就社に向かう観光リフト)から成就社に続く遊歩道の途中から、如何にも沢筋らしき切れ込みが丁度黒川を示す「実線」辺りまで続いている。遊歩道のどこからか下れる箇所を探したようだが、見つからなかった、と。
八大龍王社
神社の案内に拠ればその由緒には、「石鎚山中では〔水〕は大変貴重であり、ここ成就社では、往古より八大龍王神が水を司る神として奉斎されてきた。開山の祖、役行者の勧進とも伝えられる。


ご祭神故か女性参拝者も多く、厳しい天候の中も祈願を行う方が絶えない。脱皮から再生復活、水遠の命や若返りのご神徳、七生報国の由来ともされる。 古来の八大龍王社殿横には御神水の湧き出る泉がある。砲台地形の成就社境内での不思議の一つと数えられる。この泉は役行者が襖(みそぎ)をした、とも伝えられ、黒川谷の源流でもある。
昭和55年の成就社大火にて八大龍王社は焼失したが翌年再建立され、平成21年春には再び建立された。八大龍王社のおかげ話を始め、成就社大火後の御遷座時にまつわる不思議な出来事などは、現在でも当時の方かち直接伺い知ることが出来る。霊峰石鎚山 総本宮 石鎚神社」とあった。

本殿廻りの遊歩道から展望台に;12時37分
八大龍王社から本殿をグルリと一周する遊歩道もあるようだが、我々はその遊歩道の逆回り、本殿北端を崖下に注意しながら進む。ほとんど本殿裏といった場所を進み、スキー場第一リフト方面からの道が遊歩道に当たるところに小さな鳥居が建つ。



展望台に:11時52分(標高1414m)
遊歩道の鳥居に向かってスキー場リフト方面から家族連れが道を上ってくる。右手の崖から下りる道は無いかとチェックしながら進むが、そのような箇所は見当たらない。結局スキー場第一リフトまで進み、リフト職員に黒川道のアプローチを尋ねるが、崩壊地が多く通行止めとのこと。
弟にしてみれば、スキー場第一リフトに沿って斜面を下れば黒川道に出ることはわかっているのだが、通行止めと伝えられた職員の眼の前を、リフトに沿って下るわけにもいかず、昼食も兼ねて展望台で大休止することにして、別のアプローチ地点を探すことにしたようだ。
展望台から瓶ヶ森の美しい稜線を眺めながら、同行したご夫妻の奥様による手料理をごちそうになる。単独行の場合は、粒あんのアンパンか柿の種がメーンディッシュのわが身には、卵焼きなど誠に美味しい昼食となった。

展望台出発;12時26分
お昼を済ませ展望台を出発。黒川道への手掛かりは依然不明ではあるが、弟は成就社からロープウエイ乗り場までの遊歩道から下る道を探す方針だったようである。






黒川道を下る


黒川道アプローチ地点;12時50分(標高1,393m)
12時44分、成就社境内を離れ遊歩道を下る。5分程度お気楽に道を下っていると、突然弟が何か「ノイズ」を感じたらしく、道の左手の笹の中に入る。
しばし様子眺めの状態のあと、笹から姿を現し、「どうもこのルートらしい」と。僅かに踏み込まれた笹の中に、ルートを示す「誘導ロープ」を見つけたようだ。お見事。
アプローチが見つからなければロープウエイで下山という話もあり、膝に故障を抱えるわが身は、本心では「目出度さも中位なり」といった心持ではあったが、黒川道を下ることにする。

笹からガレ沢に;12時54分(標高1,355m)
下り口は一面の笹。笹の中の踏み跡を、時に誘導ロープに従い高度を50mほど下げると笹が切れ、ガレた沢に出る。水は何もないが、これが黒川の上流端辺りではあろう。





成就社への道標:13時7分(標高1,280m)
足元の危うい沢筋を10分程度下ると「成就社 愛媛の森林基金」が沢筋に立つ。標識の方向は下って来たルートを示している。後日衛星写真で確認すると、成就社の北、遊歩道とスキー場に囲まれた谷の自然林の中を下っていたように見える。



第一リフト交差;13時9分(標高1,278m)
道標から数分、ガレた沢を下ると前方にリフトが見えてきた。先に進むと道は リフトの下、防御カバーの下を潜る。リフトは先ほど休憩した展望台近くに続く第一リフトのようである。右手から下り左手で展望台方面に向かって上ってゆく。リフトのお客さんと軽口のキャッチボールを楽しみながら、数分の間は沢を離れルートを進む。

支尾根の間の沢に水管(標高1,165m)
リフト付近で落ち着いた道は黒川に近づき、少しの間沢に沿って進むが、次第に沢筋から離れ支尾根筋に向かう。リフト交差部から15分ほど歩き支尾根の間の小さな沢筋にかかると、沢を跨ぐ水管が現れる、水管は何処に向かうのだろう。




右手に黒川が滝のように下る;13時29分(標高1,125m)
支尾根の間に入り、黒川の沢筋から結構離れたため自然林に阻まれ姿を消していた黒川であるが、支尾根が合わさり、沢筋が消えたあたりで右手に現れる。まるで滝のように下っていた。
あまりに急勾配で下るため、当日は黒川とは思っていなかったのだが、メモの段階で地形図を見ると、黒川筋の等高線が狭まっていた。
道を左手から下り黒川に合わさる辺りに下りる途中に水槽らしきものがあった。先ほどの水管は一旦ここに貯められ、ここから更に下に向かって下っていた。

石組の道;13時35分(標高1,064m)
右手に近づく黒川の急勾配の沢を見遣りながら進むと、左手から沢筋が黒川道と交差する。水は少なく濡れた岩盤状で道に合わさるが、水が多ければ滝といった風情である。その先の捻じれた鉄板で沢を渡る。





右手が谷に切れ落ちた箇所を虎ロープで安全を確保しながら進むと、右手に滝が見えてくる。その滝を見遣りながら進むと石組みのしっかりした道が現れる。その石組みも一瞬で終える。






正面に滝が落ちる;13時39分(標高1,054m)
石組みの道から沢筋に下りる。眼前に滝が落ちる。これも当日は黒川に注ぐ支流の滝かと思っていたのだが、どうも崖を落ちる黒川そのもののようである。水量が多ければ、結構迫力のある滝であろう。







蔵王権現の石仏;13時55分(標高958m)
沢筋に下りてしばらくは、左岸のゆるやかな傾斜の道を進む。ただ、ガレ場、ザレ場が続き虎ロープが張られた足元の危うい道ではある。
(補足;地図の川のラインはトラックログの左にあり、右岸を進んだようになっている。左岸を下っているのは間違いない。弟のログも同じく右岸を進んでいる。2012年の黒川谷を上った時のログも右岸である。谷筋の電波状態と一言で片づけていいのだろうか。この規則的なエラーの原因が何か調べてみたいものである)

滝を正面に見た沢筋から15分ほど歩くと大きな岩壁があり、その前に石像が立つ。かつての行場跡のようだ。石像は蔵王権現の石像だろう。右足を上げたそのお姿は、石鎚の神と伊曽乃神(女神)とのエピソードを思い起こすと、結構微笑ましい。
石鎚大神と伊曽乃神(女神)
第十七女人返王子社のところでメモしたが、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいとお願いする。
が結局石鎚大神は、その約束を守らなかった。右足を上げた石鎚大権現(蔵王)の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。

王子道の尾根筋が見える;13時58分(標高958m)
行者場を越える辺りから右手が開け、往路で王子社を辿った尾根筋が見える。位置から見て第十五矢倉王子社から第十六山伏王子社当たりの尾根稜線ではないだろうか。






崩壊地;14時10分(標高900m)
道は未だ落ち着かない。行者堂跡から先で道は沢筋から離れて行く。右手の谷が切れ落ちており、虎ロープのオンパレードである。進んだ後で振り返ると、崖がすっぱりと切れ落ちていた。崩壊地の上を迂回して進んだようだ。





成就社2.5㎞の標識;14時18分(標高894m)
崩壊地の先もザレ道、ガレ道にトラロープが張られる。トラバース気味に進んだ道が、等高線に沿って垂直に下る箇所の岩場に「成就社2.5㎞の標識」が 立つ。黒川道を1時間半ほど下ったが、まだ2.5㎞しか進んでいない。それより、崩壊地からこの木標まで地図ではほとんど距離がないのに、18分もかかっている。ガレ・ザレ場に難儀して距離が稼げていないようだ。

沢を渡る;14時41分(標高773m)
急な斜面を虎ロープを頼りに高度を60mほど下げた後、支尾根を巻くように進み、支尾根を廻り切った辺りで沢を渡る。地形図を見ると支尾根左側に切れ込んだ等高線が見える。そこからの沢水だろう。




成就社まで2,750m標識;14時45分(標高958m)
そのすぐ先に「成就社まで2,750m標識」が倒れていた。標識の前後は少し緩やかな道。黒川から比高差90mほどの処であり、黒川道の中では黒川から最も離れた箇所を進むことになる。





杉林が見えてくる;14時55分(標高673m)
緩やかな下りも、ほどなく等高線に垂直に70mほど自然林の中を下り、小さな沢を越えた先で杉林が見えてくる。植林地が見えると、里に近づいた気持ちになる。
道も踏まれたものになるかと思ったのだが、ガレ、ザレ、更に虎ロープの張られている箇所(15時4分)を越えた後、道は次第に落ち着き、15時17分頃には結構踏み込まれた道となる。

上黒川集落;15時25分(標高454m)
杉林の中を進む。道も結構踏み込まれて安定した頃、道脇に石垣が現れる。そのすぐ先、道の右手、左手に廃屋が残る。上黒川の集落跡だろうか。






今は数軒の廃屋と石垣、コンクリートの水槽などが残るだけではあるが、大正初期には黒川道を辿る登拝者のための季節宿が11軒もあったとのことである。






石灯籠とお地蔵様;15時34分(標高432m)
廃屋の地から5分ほど下ると道脇に石鎚山と刻まれた石灯籠が立ち、その傍にお地蔵様と小祠が祀られる。







「成就社 5.0km標識」;15時39分(標高400m)
踏み込まれた道を5分ほど進むと「成就社 5.0km」と書かれた木標と「成就社」の方向示す木標。3時間半ほどで5キロ下ってきた。残りはほぼ1キロか。






下黒川集落;15時42分(標高378m)
平坦な道を更に進むとほどなく、立派な石垣が現れる。その先には倒壊した廃屋が残る。下黒川集落跡ではないだろうか。この地にも大正初期には登拝者の季節宿が11軒あったとのこと。
「えひめの記憶」に拠ると、昭和33年(1958)の調査時点では黒川村(上黒川と下黒川集落からなるのだろう)に24世帯もあったとのこと。
この時点では季節宿は黒川村で7軒と大正初期から比べると減少しているが、その因は、登拝者の多くは成就社の宮川旅館や白石旅館や常住屋に泊まるようになっていた、とのこと。
半井梧菴の著「愛媛面影」に文久2年(1862)の登拝記が記されるが、そこには「(前略)板摺(虎杖)瀬と名づく。橋を渡って登ること十五町ばかりで下黒川村につく。今日は常住まで行きたいと思ったがそこは客を泊めることを許さない掟なるよし、さればとて此所に宿る」とあり、かつては成就社では一般客は宿泊できなかったようである。

下山;15時58分(標高237m)
下黒川集落の先もしばらく平坦な道を進み、虎杖(いたずり)に向けて突き出た支尾根を廻りこみ、そこからは等高線を斜め、平行、斜めとゆっくり虎杖に下りてゆく。右手に川が見えてみた。
当日は黒川かと思っていたのだが、河口に下る加茂川であった。舗装された県道142号道路に下りた時間は15時58分となっていた。4時間もの長丁場。踏まれた道は1時間弱、3時間ほどはザレ場、ガレ場を下る少々荒れた道であった。下山口には「成就社まで6km」の案内とともに、「通行止め」の標識が立っていた。

虎杖(いたずり)
下山口の虎杖集落の加茂川には虎杖橋が架かる。虎杖を「いたずり」と呼ぶのはなぜだろう?チェックすると、虎杖は「イタドリ」の中国での表記のよう。「イタズリ」は「イタドリ」の転化ではあろうが、それは我々が子供のときによく食べが「タシッポ」のことである。
野に生えるありふれた「イタドリ」が「虎杖」とは大層な、と思うのだけど、それは平安時代の清少納言も感じたらしく、「格別のことはないのに文字で表すと大袈裟になるものがあるとして、覆盆子(イチゴ)、鴨頭草(ツユクサ)、山もも(楊梅)などを挙げた後で、「イタドリ」は特に異様で「虎の杖」と書くようだが、虎は杖などなくても平気な顔をしているのに」と「虎杖」を挙げている。
「イタドリ」が虎杖と表記されたのは「茎が杖になり茎に虎の斑点があるから」といったその形状から、中国の人が斯く表記したとの説もあるが、日本で虎杖と同じ植物と比定され「イタドリ」とされたその由来は。この植物の根が虎杖根などと呼ばれ漢方で痛み止め、「痛取り(いたどり)」として重宝された故といった説もあるようだ。
イタドリとタシッポ
それはそれでいいのだが、我々が呼ぶ「タシッポ」と「イタドリ」の関係は? チェックすると、「イタドリ」の古名は「タヂイ(タヂヒ)」と呼ばれたことが日本書紀や古事記に記載されているとのこと。「多遅花は今の虎杖花(いたどりのはな)なり」と記される。蝮は「たぢひ」と呼ばれたようであり、中国と異なり虎のいない日本では、その斑点を蝮(まむし)と見たのだろか。
イタドリのことを近畿ではタジナ・タジンボ・ダンジなどと呼ばれるようだが、我々が子供の頃、酸っぱい茎を食べていた「タシッポ」も「タジヒ」の音韻転化の一つではあろう。

烏帽子岩;16時4分
下山口から虎杖橋の逆方向、河口方面に向かう加茂川対岸に巨大な岩が川床に屹立する。「天狗の屏風岩」とも「烏帽子岩」とも呼ばれるようだ。「烏帽子石あり其大さ立五間巾六間」ということで、おおよそ縦9m横幅11mといったもの。岩の後ろの山稜を借景に、誠に美しい眺めである。

横峰寺別院;16時12分(標高204m)
下山箇所から県道142号を10分弱歩き、黒川に架かる黒川橋を渡る(16時11分)と河口の集落に入る。道の右側に鳥居の建つ建物がある。同行の皆さんは何度も訪れているのだろう、そのまま通り過ぎたのだが、気になりメモの段階でチェックするとそこは横峰寺別院であった。鳥居が建つのは神仏混淆の名残ではあろう。
平成16年(2004)の台風で四国霊場60番札所横峯寺への道が寸断され参拝が困難となったとき、本院への登山林道が開かれる5ケ月は黒瀬峠の京屋旅館付近に仮札所・納教所を設けたが、後にこの別院に仮札所を移し、お遍路さんに便宜を図ったようである。
もっとも弟の記事に拠れば、平成24年(2012)の段階でも、虎杖からモエ坂を経て横峰寺に登る登拝古道は結構荒れたままのようである。

河口の車デポ地;16時12分
河口の種楽を抜け、今宮道取り付口の車デポ地に戻る。下り4時間半ほどの長丁場となっていた。
これで第一福王子社から第二十稚児宮鈴巫王子社までを歩いた。次回は西之川谷筋の第二十一番札所から第三十四夜明峠王子社まで。標高450mから1600mの比高差1200mほどの登りとともに、入り込んだ複雑な順路の「謎」が実際に歩けば少しは実感できるか否か、結構楽しみではある。積雪次第だが、できれば今年中に歩ければとは思う。