火曜日, 1月 19, 2010

2010年元旦 雪の石鎚に登る

2010年の元旦、雪の石鎚山に上った。天候はあまりよくない。大晦日には里にも小雪が舞っていた。石鎚山は西日本最高峰。標高1982mと言う。これはもう、雪山。凍える寒さではあろう。
何が悲しくて、はたまた、何が嬉しくて雪山に、とは思えども、本企画は弟二人の還暦記念登山でもある。数年前、赤いチャンチャンコならぬ、赤い登山用Tシャツをプレゼントしてもらい、還暦祝いに銅山峰に連れていってもらった我が身としては、お誘いに「諾」と頷く、のみ。

メンバーは弟二人とその山仲間のご夫妻、それと私の5人。他のメンバーは山歩きのベテラン。古道歩きが趣味で、成り行きで峠を超えることも、といった程度の山のアマチュアは私ひとり。それでも借り物とは言え、アイゼンなど、それなりのギアを装備し、それなりの山男の気分となって、実家のある愛媛県新居浜市から石鎚山に向けて出発した。



本日のルート;石鎚山ロープウェイ成就駅>石鎚神社成就社>八丁坂>前社ヶ森小屋>夜明峠>土小屋ルートとの合流点>二の鎖小屋>三の鎖小屋>石鎚山頂上(弥山)

西条
石鎚山には新居浜市のお隣の西条市から入る。国道11号線を西に、西条へと向かい加茂川に架かる加茂川橋の西詰めを南に折れ国道194号線に。加茂川に沿ってしばらく走り松山自動車道が見えるあたり、中野大橋手前で国道を離れ県道12号線に。黒瀬湖を見やりながら大保木、中奥地区を超えると三碧橋に。

河口
ロープゥエイ乗り場には橋を渡り左に折れ先に進む。が、その昔、石鎚への参道はこの三碧橋のある河口(こうぐち)地区から山麓の成就社に上っていった。ルートはふたつ。ひとつは今宮王子道、もうひとつは黒川道。今宮王子道は河口から尾根へと進む。尾根道の途中に今宮といった地名が残る。昔の集落の名残だろう。一方黒川道は行者堂などが地図に残る黒川谷を辿り、尾根へと上っていくようだ。どちらも成就社まで6キロ前後、3時間程度の行程、といったところ。今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。石鎚頂上まで三十六の王子社の祠がある、とのこと。数年前、熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。

石鎚山ロープウェイ下谷駅
河口から加茂川に沿って進み下谷のロープゥエイ乗り場に。国道11号線からおおよそ18キロ、といったこころ。土産物屋の奥にある駐車場に車を止めロープゥエイ乗り場に向かう途中に「役(えん)の行者」の像。石鎚開山の祖とも伝えられる。

役の行者。本名は役小角(えんのおづぬ)。加茂氏(賀茂氏)をその祖とする役氏の出。修験道の開祖として知られる。役の「行者」という名前はその故をもって、後世に名付けられた。
万葉集に「藤原宮役民(えだち)作歌」がある。藤原宮の造営に従事した人々が詠んだ長歌、とか。役民とは全国各地から徴発され、造営に関わるさまざまな仕事に従事した作業員、といったところ。君(氏)とは、国津神系(天津神系=大和朝廷系ではない)の地方豪族に与えられた姓であるので、役君(氏)って、簡単に言えば土木作業員を束ねる長官、か。

いつだったか、黒須紀一郎さんの『役小角(作品社)』を読んだことがある。役小角その人のエピソードもさることながら、日本、朝鮮、そして中国を織り込んだ同時の東アジアの政治的・社会的ダイナミズムが誠に面白かった。それはそれとして、役小角は呪術を操り神出鬼没、日本全国に開山縁起をもつ。そのため、単なる伝説の人物と思っていた。が、平安初期に編纂された勅撰史書『続日本記』に「伊豆に流された」とある。飛鳥から奈良にかけて実在した人物のようである。また、勅撰史書に登場するくらいであるから、それなりの地位をもつ人物であったのだろう。

ウィキペディアなどを参考にまとめておく;634年、大和国葛城に生まれる。17歳のとき元興寺で学び、孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、金峰山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。
699年に謀反の疑いにより伊豆大島に流刑。701年に疑いが晴れるが、同年箕面の天上ヶ岳で入寂。平安時代に山岳信仰の隆盛とともに、「役行者」と呼ばれるようになる。奈良の天河神社や大峰山の龍泉寺など、ほとんどの修験の霊場は、役行者を開祖としたり、修行の地とするなど、役行者との結びつき伝える。
役氏(君)は加茂(賀茂)氏をその祖とする、と言う。西条を流れる加茂川って、石鎚山にその源を発する訳で、その石鎚開山は役の行者。とすれば、加茂川の名前の由来と役の行者って、なんらか関係があるのだろう、か。

石鎚山ロープウェイ成就駅
役の行者の像を離れ石鎚山ロープウェイ乗り場に。三本のワイヤーロープを用いた三線交差式ゴンドラ。51人乗り。開通は1968年のことである。ループウェイができるまでは、西之川口からのルートを上っていたようだ。下谷の少し先にある西之川の分岐あたりから登山ルートが地図にある。3時間弱の上りといったところ、か。
ロープウェイは標高450mの下谷駅から標高1300mの山麓の成就駅までの比高差850m、距離1800m強を7分30秒で上る。成就駅付近は一面の雪景色。下谷駅のあたりには雪などなかったのだが、標高1300mともなれば里の景色と一変。真冬に突入といった案配である。晴れていれば瀬戸の海が見渡せるかとも思うのだが、天候も悪く見晴らしはまるで、なし。駅でアイゼンをつけ、石鎚神社成就社へと向かう。ちなみにアイゼンって、ドイツ語のシュタイクアイゼンから。シュタイク(山の細路)+アイゼン(鉄)。如何にも鉄の爪。

石鎚神社参道
9時2分出発。緩やかな傾斜の雪道を進む。右手にはスキー場。上り道にも橇で滑り下りる家族がちらほら。9時28分、石鎚神社・成就社の一の鳥居をくぐる。標高は1408m。1キロ程度の距離を30分弱で100mほど上ったことになる。鳥居の先は参道の両側に宿や土産物店。関東の山岳信仰で名高い相模の大山や奥多摩の御嶽山に行ったことがある。参道の両側には「講中」の人が止まる御師の宿が連なるのだが、ここにはその面影はあまり、ない。ちょっと気になりチェックする。宿は黒川・今宮の集落にあった、とか。
『石鎚山と瀬戸内の宗教文化;西海賢二著(岩田書院)』によれば、『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住す』るしかなかった石鎚山に、一般の人びとが登拝するようになったのは、近世も中期以降のこと。講中が組織されるようになってから。お山の大祭の頃には、講を差配する先達に導かれ幟を立て、ホラ貝を鳴らし、愛媛県下ばかりではなく岡山、広島、山口県下一円からお山に上ってきた、とある。その宿泊の地は石鎚参詣道の集落である黒川や今宮。『備後国又八組』『安芸国忠海講中』『安芸国西山講中』『安芸橋本組』『備中鬼石組』『周防大島講中』『備後尾道吉和講中』『安芸大崎講』『阿波赤心講』『備後久井講社』などと書かれた常連講中への目印となるマネキが宿の入り口に打ち付けられていた、とか。昔は人々で賑わった黒川・今宮の集落は現在では廃屋となっているようだが、そのうちに歩いてみようと思う。

石鎚神社・中宮成就社
二の鳥居をくぐり正面にある石鎚神社成就社の拝殿にお参り。登山の安全を祈る。祭神は石土毘古神(いしづちひこのみこと)。伊邪那岐、伊邪那美の第二子、と言う。
本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とある。山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。
そのお山を開いたのは先に述べた役小角、とか。そのお山を修験の地となしたのは寂仙という奈良中期の修験僧。石鎚山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、現在の成就社のもとである常住社(成就社)を建て、お山を石鎚蔵王大権現と称えた。

お山はその後、上仙(寂仙さんと同じ人、とも)、また、最澄の高弟でもある光定といった高僧が横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として明治の神仏分離令まで続く。
石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。この成就社を造営したのは豊臣秀頼公とも伝えられる。江戸時代、西条藩主、小松藩主の篤い庇護があったことは言うまでも、ない。
現在、石鎚神社は国道11号線近くの「本社・口の宮」石鎚山頂の頂上社、土小屋遙拝殿、それとここ中宮・成就社の四宮からなる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ところで、役の行者が感得したという蔵王大権現であるが、この神様、というか仏様は日本独自の創造物。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。蔵王権現は釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩という三尊が「仮」の姿で現れたもの、とされる。三尊合体の、それはもう強力な神様、というか仏様。吉野の金峰山、山形の蔵王山など、役の行者が開いた山岳信仰の地に祀られる。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。それは大いに仏教界の勢力拡大のマーケティング戦略、か。膨大な教義をもつが外来のものであり今ひとつ民衆へのリーチに乏しい仏教界。日本古来の宗教であり古くから民衆に溶け込んでいるが教義をもたない神道。共同でのブランドマーケティングを行えば、どちらも繁栄する、とでも言ったのではないだろう、か。で、その接点にあるのが権現さま、であろう。ちなみに、「神社」って名称も、明治以降のもの。それ以前は、社とか祠、などと呼ばれていた。

寄り道ついでに、寂仙菩薩にまつわる逸話。嵯峨天皇は寂仙菩薩の生まれ代わり、と言われる。「我が命終より以後、二十八年の間を経て、国王の御子に生まれて、名を神野(かみの)と為はむ」とは寂仙入寂の遺言。ために、桓武天皇の御子であり「神野の親王」と称された嵯峨天皇が、寂仙の生まれ変わりと、言われたのだろう。この神野縁起って、愛媛に多い神野姓と何らか関係があるのだろうか。チェックする。
往時、新居浜市や西条市あたりは伊予国神野郡と呼ばれていた。神野姓は、その地名故のものだろう。それはそれでよし、として、嵯峨天皇の神野縁起は新居郡という地名の由来に大いに関係があった。「神野」郡という地名は、天皇さまと同じ名前では畏れ多いと、「新居郡」と変えた、ということだ。疑問をちょっと深掘りすれば、いろんなものが出てくる、なあ。

見返り遙拝殿
拝殿の左に見返り遙拝殿。役小角が石鎚での修行を終えこの地に戻ったとき、石鎚山を見返し我が願い成就!と仰ぎ拝したところ。遙拝殿の奥の壁はガラスとなっており山頂を遙拝できる、とか。
雪の寒さに動作鈍く、つい見落としたのだが、本殿と見返り遙拝殿の角に王子の祠が佇む、と。第二十 稚子宮鈴之巫女王子。また、その横には八大龍王社もあった、よう。八大龍王って、仏法を守護する神のひとつ龍族の八王のこと。龍の名前のごとく水の神。観音菩薩をお守りする。奈良天河村の龍泉寺、秩父の今宮神社など役の行者ゆかりの地に、しばしば登場する。役の行者がイメージングした蔵王も、もとは、蛇王(じゃおう)から、といった説もあるが、それのプロトタイプは龍王からであろう、か。蛇王ではなく、象王といった説もあり、単なる妄想。根拠、なし。

八丁坂
境内を離れ石鎚山へ向かう。石鎚登山道の入り口に神門。お山への登山口、と言うより、石鎚山そのものがご神体であるわけで、ご神体へ向かう門、と言うべき、か。[標高1400m。午前9時25分]。
神門を越えると八丁坂。丁(町)は109m。八丁坂と言うから、おおよそ1キロ弱下ることになる。600mほど下りたところに鳥居がある。遥拝所であったのだろう。ということは、天気が良ければ石鎚のお山を仰ぎ見ることができる、という場所だろう。が、今回はなにせ、雪模様の天候。お山が見えるわけも、なし。
10時前、八丁坂を下りきり、西之川筋からの登山ルートの合流点に。といっても、雪の中、どこが合流点なのかチェックする余裕など、まるで、なし。[標高1300m。9時58分]。

前社ヶ森小屋
八丁坂を下り切ると、後は石鎚山頂への上りが続くことになる。天候は相変わらず良くない。時折強風に吹き飛ばされた雲の隙間から漏れる青空に一喜一憂。道々、下りの人達とで会う。大晦日から石鎚山頂に向かい、御来光を求めたのではあろう。が、この天候では、如何せん。八丁坂下から1キロほど歩き、午前11時頃、前社ヶ森小屋に到着。標高1564mというから、八丁坂下より比高差250mほどの上ったことになる。ここで成就社から山頂までのほぼ中間点。小屋にて小休止。水を飲もうと思えども、シャーベット状態、というか、氷結寸前、といったところ。こんな経験などなかったので、少々新鮮な驚きではあった。
驚きといえばバッテリー。消耗がやたらと激しい。携帯カメラもすぐに電池切れ。専用GPS端末も電池切れのサイン。「バッテリーは化学反応で電気を起こしているわけで、寒冷地ではその化学反応が鈍くなる、ということで、消耗が早いと言うわけではなく、電気に変えられない」、とのご託宣ではあるが、そうは言っても、結局は使えないってことには変わりなく、ひたすら電池交換にいそしむ、のみ。後でわかったのだが、対応は暖めること。人肌のぬくもりが、適温、だと。

雪山登山のため、そのときは話題にも上らなかったのだが、小屋の近くに前社ヶ森(ぜんじゃがもり)と言う山がある、ようだ。標高1592m。試しの鎖といった鎖場もあるようで、それがまた結構怖そうな岩場のようで、高所恐怖症の我が身としては、逆に冬山登山に感謝。季節が良ければ弟達は、それ行け、やれ行け、と鎖場に向かったことだろう。弟のホームページ『四国国の山に行こうよ;エントツ山から四国の山へ』の中で見つけた「前社ヶ森登山記」を見るにつけ、雪山故の幸運を感謝。

ちなみに弟のホームページに、「ぜんしゃがもり」は前社森、前社ガ森、前社ヶ森と記され、別名「禅定(ぜんじょう)ヶ森」或いは「禅師ヶ森」とも呼ばれている、とあった。禅定って、「精神集中により真理を求める」ということ。修験道の目指す境地、とか。禅定への境地に至るアプローチは宗派によってさまざま。禅宗は座禅、天台宗は止観(座禅)、真言宗は真言を唱え、時宗は踊り念仏、浄土宗・浄土真宗は南無阿弥陀仏、日蓮宗は法華教を唱える。真理に至る道は様々、って言うこと、か。

それにしても、それにしても、である。我が弟は登山愛好家には誠によく知られている、よう。一昨年末、娘共々伊予富士に連れて行ってもらったときも、行き交う多くの人たちと声を交わしていた。娘が、「叔父さん、って結構有名人」などと驚いていたほど。今回も同じ。お山から下りてくる何組もの人たちと声を交わしていた。人柄故の交誼であろう。

夜明峠
前社ヶ森小屋を離れ、先に進む。道は八丁から前社ヶ森小屋への上りに比べると少し緩やか。1キロ弱歩き、11時20分頃に夜明峠に到着。標高は1650m。前社ヶ森小屋からの比高差は100m、といったところ。天候がよければ雄大な石鎚の全景が姿を現す、とのことだが、本日は風次第。強風に吹き飛ばされ、雲の切れ目から顔を出す石鎚にメンバー一同、必要以上に盛り上がる。
夜明峠(よあかし)の名前の由来は、その昔、まだまだ石鎚登山が容易でなかった頃、この地で夜明けを待って頂上に向かったから、とか。

土小屋方面からの合流点
11時50分過ぎ、土小屋遙拝殿方面からの合流点に到着。夜明峠から500mの距離を30分ほど歩き100mの高度を上げたことになる。鳥居の根元が雪に埋まっている。これでも例年よりぐっと少ない、とか。
土小屋遙拝殿からのコースは一昨年だったか、弟に連れてもらってきたことがある。5キロ弱の尾根道を辿るのはどうということもなかったのだが、その土小屋に行くまでの寒風山からの瓶ヶ森林道ドライブが結構怖かった。東黒森~自念子ノ頭~瓶が森~子持権現山と四国の屋根を縫った稜線を走るわけで、絶景、それも稀に見る絶景ではあるのだが、足元の谷底を思うだに、一刻も早くこの尾根道林道から逃れたいと思ったものである。

二の鎖元小屋
12時頃、二の鎖元小屋着。標高1800m。ここからが山頂への最後の上りとなる。岩場には二の鎖、三の鎖と鎖場が山頂へと続く。さすがに雪山の鎖場を上る、といった人も見かけない。鎖場の迂回ルートに進む。
実のところ、迂回ルートにも戦々恐々としていた。一昨年の夏に石鎚に上ったとき、この迂回ルートを進んだのだが、断崖絶壁に鉄階段、と言うか桟道を取り付けた道。鉄階段の下は、なにも、ない。右手にも、なにも、ない。左手の断崖を縁(よすが)に薄目を開け、手すりを堅く握りしめながら先に進んだ。また、あの体験を、と怖れていたのだが、幸いにも鉄階段には雪というか氷が氷結し、下が見えなくなっている。
牛は橋を渡るとき、隙間から谷底が見えると怖じ気づき、その歩みを止めた、と言う。ために、谷に架けた木橋には、その上に筵(むしろ)を敷き、土を被して牛を渡した、とのこと。牛の気持ちが誠によくわかる。

三の鎖小屋
桟道が切れると山肌に沿った雪道を進むことになる。雪に足元を取られることも。少々へっぴり腰。無様な格好を見られないため、最後尾を歩く。こういった桟道・雪道のパターンを幾度か繰り返し三の鎖小屋に。小屋は閉まっているよう。もう頂上は指呼の間。右手が大きく開け、と言うか、足元右手がスッポリと消え去り、ジャンプひとつで断崖を谷へと一直線といった岩場の石段を上ると頂上稜線に到着。ほっと一息。

石鎚山頂(弥山)
12時42分。山頂(弥山)に到着。強風に煽られながら石鎚神社頂上社にお詣りする。石鎚神社山頂社のある岩場は弥山(みせん、標高1,974m)と呼ばれる。弥山とは仏教世界の中心にあると言う須弥山の別名、とか。奈良の大峰山、鳥取の大山など山岳信仰の霊地にその名が残る。安芸の宮島にも弥山がある。
それはそれとして、石鎚山の最高峰はこの弥山ではなく天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)。弥山からちょっとした鎖場を下り、左右が切り立った断崖の稜線を進むことになる。前回石鎚に来たときは天狗岳まで進んだ。天狗岳の中程までは怖々ついていったのだが、岩場から天狗岳北壁の絶壁を見た途端に迷うことなくギブアップ宣言。弟としてはその先に進み、天狗岳東稜をロープに括り付けてでも下ろす算段ではあったようだが、あまりの怖じ気ぶりに早々に撤退を了承。弥山へと戻った。今回は鎖場手前に通行止めらしき鎖が張られており、ひとり安堵のため息。

天狗岩が一瞬雲の切れ目から顔を出す。『熊野権現垂迹縁起』に、中国天台山の王子晋は八角形の水晶となり、北九州の彦山に下り、この石鎚から淡路の遊鶴羽岳に飛んで行き熊野の神と垂迹して熊野権現となった、とある。強風、荒れる雲、一瞬の雲間からの晴天に浮かぶ天狗岳。如何にも神々が飛び去りそうな景観である。神が宿る、と言う「神奈備山」に対する山岳信仰って、こういうことだろう、か
山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とかややこしい。ちょっとまとめておく。神奈備山って、神が宿る美しい山ということ。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。
「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。修験者の本尊は蔵王権現。石鎚だけでなく、加賀白山、越中立山、大和大峯山、釈迦岳(一部では月山とも)、駿河富士、伯耆大山など、全国に霊地が開かれていったのもこのころだろう。
室町期にはいると修験道は天台系と真言系のふたつの組織として体系化する。天台系は本山派と呼ばれる。近江の園城寺が中心。一方の真言系は当山派と呼ばれる。伏見の醍醐寺が中心となる。近世の徳川期には修験者はこのどちらかに属すべしとなり、明治の神仏分離令まで続いた。

熊野などの山岳修験の地、秩父の観音霊場など、散歩の折々には園城寺系本山派の事跡に出会うことが多かった。役の行者の開山縁起は、この園城寺派の活発な布教活動に負うことが大、とされる。本山派が「このお山は役の行者が開山の。。。」といった縁起を創っていった、とか。役の行者の石鎚開山縁起ができたのも、この室町末期のころだろう。
園城寺派と言えば、石鎚から飛んでいったと言う『熊野権現垂迹縁起』にも関係がある。縁起では熊野権現は天台山から彦山(北九州)から、石鎚(愛媛)、遊鶴羽山(淡路)、切部山(和歌山)をへて神蔵山(熊野新宮)へとある。天台山は別として、実際はこのルートは逆方向だろう。園城寺系本山派と結びついた熊野修験勢は、後白河上皇とタッグを組み、その巧みな政治戦略とも相まって全国に勢力を広げていった。「税金をとられるくらいなら荘園を上皇へ寄進を」といったアプローチ。上皇をバックに巧みな節税対策を行う。実際、北九州の彦山には後白川院の荘園がある。一見荒唐無稽な縁起にも、いろんなシグナルが含まれている、ということ、か。

冬の石鎚は誠に寒かった。特に頂上弥山では凍える寒さであった。誠に冬山である。雲間が切れた青空に浮かぶ天狗岳の一瞬のシャッターチャンスをと、手袋を外す。手が切れそうに痛い。待避小屋に籠もり食事をとる。とはいうものの、水も凍り、おにぎりもパサパサ。雪山登山とはこういったものであったのだ。一昨年の夏に上った石鎚とはちょっと違った顔を見た。誠に、誠に新鮮な体験を感謝し、来た道を下山。弟二人の還暦記念石鎚登山を終える。