土曜日, 12月 07, 2019

讃岐 歩き遍路;八十五番札所 八栗寺より八十六番番札所 志度寺へ

八栗寺から八栗山を東南に下り、海岸線を志度寺へと向かう。距離おおよそ5キロ強。途中、四国遍路中興の祖とも称される真念法師が眠る地に出合ったり、希代の異能・平賀源内の旧宅にであったりもしたのだが、なにより嬉しかったのは、八栗寺からお山を下る途中で生木観音に知らず出合ったこと。生木をくり抜き刻まれた古き観音様を見たのはこれがはじめて。これも事前準備無しの成り行き任せの散歩の妙。ひとり、セレンディピティ( serendipity)とはこのことと悦に入る。とはいいながら、保存状態があまり良くないのは、世にこの生木観音様を有り難く思う人はそれほど多くないということだろうか。
ともあれ、散歩のメモをはじめる。

本日のルート;八十五番札所 八栗寺>(裏参道)>一丁標石>二丁標石>三丁標石>生木観音>源平合戦碑と標石>六万寺道分岐点に標石>(六万寺)>二ツ池傍に2基の標石>小堂と標石>標石と「四国のみち」指導標>真念墓所への裏道分岐点>真念の墓跡>塩竃神社の標石>茂兵衛道標>多和神社参道口に標石>御蔵用心堀の石灯籠>平賀源内旧邸>珠橋西詰の大燈篭と標石>地蔵寺>石鉄大権現灯籠>八十六番札所志度寺の山門


八十五番札所 八栗寺
お迎え大師
表参道を上り切ったところに展望台があり、石造りのお迎え大師坐像がある。屋島や高松などの讃岐平野が眼下に広がる。展望台や大師石造は結構新しい。案内には、「弘法大師が修行でこの五剣山にたどりついた時、岩間よりあふれる清水でのどをうるおしたと言う。里人はその水辺に大師像をまつり、いつしか水大師と呼ぶようになった。
このたび大師堂の弘法大師木造を、石像で作り讃岐平野をのぞむこの地にまつる。 水大師にちなみ、参詣者を迎えるお迎え大師と名付けた。平成二十二年」とあった。
水大師さんは表参道途中にあった「弘法大師御加持水」の石仏群の中にあった大師坐像のことだろう。か。

山門
これも比較的新しい役の行者の石像をみやり鳥居を潜り山門に。正面の本堂の背後に五剣山の峰が聳える。険阻な五つの峰よりなるが故の「五剣山」。うちひとつは宝暦四年(1707)の地震で崩れ、現在は四峰、とのこと。
役の行者の石像のが示すが如く、このお山は修験の地。山頂には祠が祀られるとのことだが、峰に上る鎖場や鉄梯子は高所恐怖症には荷が重そう。現在では峰への入山は危険立ち入り禁止とされている。鳥居と山門そして背後に聳えるお山。この絵柄を眺めるだけで充分。

本堂
本堂にお参り。Wikipddiaには「八栗寺(やくりじ)は、香川県高松市牟礼町牟礼字八栗にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は聖観音。
四国85番霊場とともに、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる。
寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ天長6年(829年)開基したという。
五剣山頂上は眺望が良く八つの国が見えたので、「八国寺」ともいわれた。唐から帰朝後、空海は再訪し唐に渡る前に入唐求法の前効を試みるため、植えておいた焼き栗八つがみな成長し繁殖しているのを見て八国寺を「八栗寺」に改めた。
天正の兵火で全焼したが、文禄年中(1593-96年)に無辺上人が本堂を再建した。さらに寛永19年(1642年)高松藩主松平頼重が現在の本堂を再建して、聖観音を本尊とし観自在院と称するようになる。なお棟札によると二天門と本堂は三代藩主松平頼豊が宝永6年(1709年)再建とあるが、宝永3年(1706年)五剣山のうち東峰が崩壊する大地震が影響していると思われる」とある。

聖天堂
本堂の左手に聖天堂。歓喜天を祀る。表参道の途中に建つ鳥居の扁額に「歓喜天」とあったように、この寺は御本尊の聖観音だけでなくこの歓喜天、聖天さまへの信仰も強い。「大聖歓喜自在天」故の「聖天」さま。
このお寺さまの歓喜天は秘仏として拝顔できないが、通常は象頭と人身男女二体抱擁の姿。男女二体抱擁の形像はその姿が示すが如く、男女和合の神として、更には家内安全・商売繁盛の神として多くの参拝者を集める。初詣には例年10万人もの参詣者で大混雑といった記事もあった。屋島のケーブルカーが運休となったのに、八栗寺のケーブルが残るのはこういった因も?
違い大根
聖天さんの外陣を飾る幕は右が「巾着」、左は「ふた股大根」。大根を食べて元気に、巾着に財を貯めよう、ということだろう。
またよく見ると、お堂右手の石造物も「ふた股大根」。歓喜天の性格からして少々意味深ではあるが、「ちがい大根」として寺紋となっているようだ。「八栗聖天大根祭り」で賑わうという。


磨崖五輪塔
お堂の周りを彷徨っていると、お堂右手の崖岩に切り込みが。よく見ると7基ほどの五輪塔が線彫りにされていた。摩崖五輪塔は七十一番札所弥谷寺や七十三番札所出釈迦寺の奥の院で出合って以来、それまでなら見過ごしたであろう、崖にうっすらと残る五輪塔を見つける「眼力」がついたようだ。

中将坊
本堂左手より山に上る石段。上り口に手印と共に「中将坊道一丁 文久」と刻まれた丁石がある。百七十段ほどの石段を上る。途中三つの鳥居を潜る。お堂は岩肌に食い込むように建っていた。 中将坊はお山の守護神とされ、尊像は両翼のある天狗像とのこと。山門前で見た行者石像は役の行者ではなく中将坊?が、その石像には翼がなく、また役行者開山の修行のお山ともあったので、お像はやはり役行者だろう。
五剣山
お参りを済ませ本堂へと戻る途中に「危険 入山禁止」の案内があった。そこがお山への登山口。山好きの弟が五剣山に登ったレポートがあったが、寺からではないアプローチで登ったようで、下山してはじめて入山禁止に気づいたようだ。写真を見るにつけ、とてもではないが高所恐怖症の人は敬して近づかずがいいように思える。

鳥居脇に標石
中将坊からの下り石段は本堂右手に下りる。そこから本堂と逆方向へと向かうと鳥居が立つ。境内には神仏混交の名残である鳥居が多い。
鳥居の右側に標石。硯状の窪みに大師座像が浮き彫りで刻まれ、「自是志度 五十丁 寛政十二」といった文字も見える。
その標石の直ぐ先、四国八十八霊場八十八番大窪寺の石仏脇にも標石。手印と共に「大師堂六十米 本坊百八十米」とある。

大師堂 
左手に以空上人座像、地蔵堂と続きその先に大師堂があった。
以空上人
木食以空上人として知られる。肉類,五穀を食べず,木の実や草などを糧として修行することを木食といい,その修行を続け身を浄め,心を堅固にした高僧を木食上人と称す。以空上人は江戸時代前期の人。摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた。

多宝塔
多宝塔、八十七番札所長尾寺の石仏、比較的新しそうな四国八十八石仏霊場への石段入口を越え本坊の辺りで道はふたつに分かれる。








裏参道へ
右に折れるとケーブル乗り場、直進すると裏参道に出る。分岐点に標石があり、手印で「八十六番志度寺」への裏参道を示す。裏参道とは言うものの、そこは県道145号。舗装された車道となっていた。特段駐車場はないようだ。道の左右に車を停めていた。




八栗寺から志度寺への旧遍路道

一丁標石
県道を下り最初のカーブを東に廻りこむ箇所、道の右手に標石があり摩耗した大師像の下に「是ヨリ一丁」の文字が刻まれる。周りは開けており見落とすことはないだろう。道の反対部にも標石。こちらの手印は八栗寺を指す。

二丁標石
カーブを曲がり切った道の左手、少し道から入ったところに舟形地蔵。更に道を下ると左手に古い日本酒の看板の残る建屋。商店のようでもある。道の反対側に標石があり、「是ヨリ二丁 八月」と刻まれる。

三丁・四丁標石
道の右手に「三丁」、少し下ったカーブの左手に「是より四丁 八月」と刻まれた標石が続き、更に道を下った先に、道の右手に「四国のみち」の指導標。
そこから少し南、道の右手、林の前の砂利スペースにブロック造りのふたつのお堂。そこに生木観音があった。

生木観音
ふたつのお堂のうち、上手のお堂の中に観音像や石仏とともに生木観音(なまきかんのん)が祀られる。伐りとられた枯れた松の根元の穴の中に、高さ50センチほどの観音像が刻まれている。かつてはブロックのお堂横に枯れた木のまま残されていたようだが、現在はお堂内に移されていた。 生木仏像は愛媛で2箇所ほど出合った。ひとつは西条市の生木地蔵。こちらは「いききじぞう」と読む。もうひとつは四国中央市。前者は実物を見ることができず、後者は昭和に彫られたもので「生き木地蔵」とあるから、読みは「いきき」だろう。
詠みの違いは、それはそれとして、昔ながらの生木仏像はここで初めて出合った。が、保存状態は少々ぞんざい。堂内の観音石仏は生木観音の写しであるようだが、オリジナルの保全が少々気になる。生木仏像に「萌える」人はそれほど多くない、ということなのだろうか。

生木観音から林の中を尾根筋に続く土径がある。尾根筋を下り、後述する麓の六万寺へと下る道もあった、といった記事を見かけた。辿ってみたいとは思えども、時間に余裕がなく、道を少し進み、それらしき雰囲気を感じた後に県道に引き返す。

源平合戦碑と標石
生木観音辺りまでは開けていた空も、その先は木々に覆われ、遍路道は木々の緑の中を下る。カーブとなった箇所に「源平合戦碑」と刻まれた石碑。特段、石碑箇所がどういった史跡跡といった案内はないが、石碑天辺の地図に、石碑東に源氏ヶ峰(217m)が刻まれていた。
源平合戦の折、源義経が山頂より平家の陣を見下ろし作戦を立てた、との故事が残るようだ。山好きの弟によれば源氏ヶ峰の頂きからは屋島全体は見えないが、平氏の海側守りの拠点であった総門付近は見下ろせる、と。
源平合戦碑から少し下った道の左手、山側に舟形地蔵標石があり、「志ど道」と刻まれる。

六万寺道分岐点に標石
県道から六万寺へと向かう道が右に分岐する箇所に標石。「安徳天皇行在所 讃岐霊場六万 西国三十一番霊場」「志度」といった文が手印と共に刻まれる。
安徳天皇行在所の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄り。右に折れる急坂を下り、簡易舗装の道を15分ほど里道を進むと六万寺があった。この道筋は「馬ガ背道」と称されるようである。
六萬寺
比較的こぶりなお寺様。ここが行在所?案内には「寺記によれば、天平年間、全国に伝染病が流行し、多数の死者を出したので、聖武天皇は、行基菩薩に命じてこの地に一寺を建立し、お祈りさせたところ忽ち伝染病は消滅したという。
その後有志により六万躯の小仏像を安置して六万寺と称したと伝えられています。また牟礼、大町附近に42の支院を持ち寿永2年源平合戦の時、安徳天皇の行在所となった由緒ある寺であるといわれています。
しかし中世兵火のため焼失したがその後復興された。現在の建物は、延宝6年再興されたものであるといわれています」とあった。
讃岐の寺院には「中世兵火のため焼失」という記録が多い。それはほぼ土佐の長曾我部氏の四国平定の折での徹底した焼き討ちよる。只、この寺の縁起には、この寺に関しては長曾我部元親しは寺の由来などに感激し焼き討ちの対象となることはなかったが、家臣の失火により焼失した、とあった。
道休禅師の墓
当日行きそびれたのだが、六万寺の南、蓮池土手の南西角に道禅師の墓がある。真念はその著『四国遍路道指南』の中で、「是(注;八栗寺のこと)志度寺まで一里半。たい村、皆々志有、やどかす。此所に道休禅師がはか有り。此の禅門ながく大師に帰依し奉り、はき物せずしてじゅんれいする事十二度、すべて二十七度の遍路功なりて、ついにみまかるとて(中略)皆々ご回向頼たてまつる。大町村、志度村(後略)」と記す。
ここには道休禅師は27度の四国遍路をなした僧であり、ここ田井村にその墓があること、そして遍路に道休への回向を頼んでいる。『四国遍路道指南』に他には個人の墓への回向を頼んでいる記述はないようであり、そのことから真念と道休は親密な関係であり、また、『四国遍路道指南』発行に際し、真念は四国遍路の先達である道休から多くの情報を得たその感謝の証、ともされる。 さらに、この記述から、真念当時の遍路道は、八栗寺から蓮池を経て讃岐牟礼駅から大町駅をへて志度寺へと向かったと思われる。なお、八栗寺から蓮池までの間は上述生木観音から右に折れ尾根道を下り六万寺近くから蓮池へと出たようである。
上述馬ガ背道を含め、この蓮池経由の道は「六万寺経由の遍路道」と称される。


役戸経由の遍路道

二ツ池傍に2基の標石
六万寺への分岐点に戻り、県道を下り里に出る。道は二ツ池で大きく二つに分かれる。県道145号は南に下るが遍路道はここを左折し東へ向かう。この道は上述「六万寺経由の遍路道」に対し、「役戸経由の遍路道」と称される。
分岐点に標石2基。坐像の下に「是ヨリ十八丁」と刻まれる標石とい、結構摩耗した自然石の標石。浮かし彫りの手印である、と言われればそう見えないこともない。

小堂と標石
左に折れ少し役戸の集落を東に進むと道はふたつに分かれる。その分岐点に小堂。その右手に手印と供に「右しど道 左やくり道 明治四十年」といった文字が刻まれる。
役戸
かつてこの地に荘園があった頃、この地は年貢積み出しの湊であり、役所があったため、とのこと。牟礼港と地図にあった。
牟礼港
牟礼港は美しい五剣山を背後に控え、志度湾に臨む、庵治半島の基部に位置しています。 本港の歴史は古く、かつて讃岐の各郡が一つずつ港を持っていたころ牟礼港は、三木郡(旧木田郡の牟礼町・庵治町・三木町)唯一の海の玄関として砂糖、米、塩の積出し等で賑わいました。 また、明治に入っては背後で良質の粘土が算出することから、港の周辺は窯業の町へと一変し、港は窯の煙突で取り囲まれるほどとなり、浜には土管、レンガ、コンロ等の製品が並べられ、機帆船で各地へ出荷されました。
代わってコンクリート製品化が進んだため、現在の港湾貨物は砂・砂利等が大半を占めるようになっています。
また、本港周辺海域では、ノリ、カキ等の養殖業も盛んであり、平成10年度に新たな物揚場が整備され、背後地域は高松市のベッドタウンとして急激な都市化も進んでいることから、今後はこのような、新しいニーズに応えた総合的な港湾としての発展が期待されています(香川県土木部弘港湾課)」

標石と「四国のみち」指導標
標石に従い右手の道をとり先に進むと県道36号・高松牟礼線がある。県道交差部にある「四国のみち」指導標を見遣り、県道を東に越えた次の道筋の交差部に標石と「四国のみち」の指導標。 標石には手印と共に「志度寺 三十六丁 八栗寺」と刻まれるようだが、風化してよくわからない。「四国のみち」には「八十六番志度寺 4.2km 八十五番八栗寺2.8km」とあった。
交差点には遍路道案内の「遍路タグ」もあり、指示に従い角を右折し南に進む。

真念墓所への裏道分岐点
遍路道は南に進み下井出川に架かる「しもいで川橋」を渡る。橋を渡って直ぐ、道の右手に遍路休憩所、その先右のお墓の方に分かれる細路がある。民家の裏とお墓の間の道を進むと四つ辻に標石。手印と共に「志度寺 廿五丁 八栗寺 明治廿七年」といった文字が刻まれる。志度寺にも八栗寺へも二十五丁。丁度札所の中間点ということだ。

真念の墓跡
標石の先、道の左手にあった墓地は消え民家が続くが、ほどなく墓地が現れる。「南三昧」とある。須崎寺に移される前、真念が無縁仏として祀られていた墓跡がある共同墓地だ。
墓跡を探すがなかなか見つからない。あきらめて裏道筋に出たところ、お墓の南西端、裏道と接するような場所に真新しい御影石があり、「四国遍路の父 真念の墓跡」「平成三年」といった文字が刻まれていた。
真念
Wikipediaより掲載;真念(しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)は、江戸時代初期の高野聖。その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。土佐国の生まれとされ、遍路巡拝を行わない時には大阪の寺嶋で暮らし、自らを抖そうする頭陀と称した。
四国八十八箇所を20回以上歩いて巡拝し、四国遍路について現存する初めての旅行案内書と云われる『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』と、その霊験記である『四國遍禮功徳記』を出版し、また、遍路に宿を貸す人を募り、自ら遍路屋(真念庵)の建立や標石を200基余造立をして、庶民の四国遍路が定着したとされている。現存する標石は24基。
また、寂本の『四國遍禮霊場記』の作成に資料を提供した。同記には、初めて各寺の風景が描かれていて、当時の寺の様子が視覚でわかり、各札所の縁起・由緒がまとめられている。同記により四国遍路に興味を持った読者が、真念の本を持って四国遍路に出立するように意図されている。
以上の功績を遺してのち、元禄の初期に遍路巡拝の最中、讃岐国高松藩三木郡内において同郡の大町村と原村(現在の香川県高松市牟礼字大町から字原の区間)を結ぶ元結(もといむすび)峠の東側(原村側)にて倒死したとされる。墓は現地の人々の手により当初は元結峠付近の丘に建てられたとされるが、のちに地域の墓地整理などの紆余曲折を経て牟礼字大町の南三昧墓地に無縁仏として置かれるも、さらにのち1980年(昭和55年)に同墓地にて発見されたことで改めて手厚い供養を行う意図の元、現在は香川県高松市牟礼字宗時の洲崎寺に置かれている。
著作
四國邊路道指南:1687年(貞享4年)刊行。本書を以て初めて八十八の札所番号が記されていて、番号順に登場する。当書は、真念と寂本に加えて洪卓(真念と同じく聖の仲間)の3人グループで作ったと云われている。1698年(元禄11年)5回目の改刻から1ページあたり6行であったのを8行にして本を薄くし携行しやすくしているのと同時に、タイトルを『四國遍禮道指南』と変更していて、これは寂本の意見だと云われていて、「四国の縁辺を歩く人」という意味であったのから「人の生きる道を模索する人」との意味が込められた。内容として、旅に出る服装と持ち物、参拝方法、寺の立地と向き、本尊が秘仏か否か・姿態・大きさ・作者、御詠歌、道順、札所間の距離、宿の情報などが綿密に記されている。真念の没後、『四國邊路道指南増補大成』という形で明治時代まで引き継がれていくが内容はほとんど刷新されなかった。
四國遍禮功徳記:内容は次のような順で書かれている。仏教の利益と解説、八十八箇所の成立と88の理由、27の霊験話、大師の御家姓の事」

元結峠はJR高徳線・讃岐牟礼駅の南東、おおよそ500m弱のところにあるようだ。

塩竃神社
南三昧の共同墓地の南に塩竃神社。かつてあった塩田の神として勧請されたものだろう。地名の塩屋にしても塩田が想起される。
案内には「塩竈神社 祭神 塩竈塩土翁(しおがましおつちのおじ) この地は昔塩田のあったところである。祭神は塩竈塩土翁、元禄十一年(1698)に勧請され、地元では明神さんと呼ばれている。
大正十二年(1923)十月建立の七五三柱(しめばしら)には次のような歌が刻まれている。 人皆の朝け夕けに食う塩は この塩竈の神のたまもの」とあった。
塩土翁

Wikipediaには「シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。
名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。
シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある。
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある」とあった。

祭神名である塩竈塩土翁ではヒットしない。「塩竈」は塩竈明神とも称される故、塩土翁の前に冠されたものだろうか。

神社鳥居横に2基の標石
「左 八栗寺道 三十五丁 右志度寺 寛政十一」、もう1基には「一国七十八番 愛染* 慶応三年」と刻まれるようだが、風化してまったく読めなかった。






県道合流点に標石
標石傍に遍路道案内のタグがあり、指示に従い右折する。県道に出たところにも標石があり、「左志ど道 右やくり道 享和元年」の文字が刻まれる。



茂兵衛道標
県道は南に進み琴電志度駅の東を踏切で越え国道11号に合流。南に下り「房前」交差点で国道を左折。遍路道は国道の一筋東の旧道を進むことになる。
旧道へ入る角に茂兵衛道標。「志度寺 長尾寺」「屋島寺 八栗寺」「高松 丸亀」」と言った文字が刻まれる。茂兵衛152度目の四国巡礼時のものと言う。
幡羅八幡
茂兵衛道標の直ぐ北鳥居が建つ。辺りに社はなくちょっと唐突。チェックするとこの地の少し北西、国道11号の西にある幡羅(はら)神社の鳥居とか。位置的にはちょっと不自然だが、Google Street Viewで見ると境内に続く道筋には他に1基鳥居があるので、長い参道を構成する鳥居なのか、またはこの八幡様は幾度か遷宮しているようであり、この鳥居に刻まれる弘化四年(1848)の頃は現在と別の地にあったと旧社殿への鳥居なのかはっきりしない。
それとチェックの過程でこの八幡様の境内には愛染山と称される産土神が鎮まる神山があるとのこと。上述標石の「愛染」が指すのはこの幡羅八幡なのかもしれない。
遠く奈良時代、持統天皇8年(694年)藤原房前がこの地に春日神社を勧請されたちなのに始まるという由緒ある社のようだ。交差点が房前であるのもこの故であろうか。
因みに、Google Street Viewで幡羅八幡境内近くの鳥居を見ていると、その扁額には「原八幡」と書かれていた。かつて幡羅八幡は、現在の原と大町からなる幡羅郷の氏神であったが、その後大町が離れ、氏子は原地区だけとなったため、とか。

多和神社参道口に標石
牟礼町原の町並みの中を進む。琴平電鉄志度線の原駅を越えると高松市からさぬき市志度となる。ほどなく道の左手、多和神社参道口に標石。「八十六番志度寺」の文字が手印と共に刻まれる。
多和神社
Wikipediaには「さぬき市志度にある神社。式内社で、讃岐国三宮と伝える。創建時期は不明である。志度寺に隣接しており、889年(寛平元年)、八幡神を祀り「多和八幡宮」と改称していたという。1479年(文明11年)に志度寺とともに焼失する。1671年(寛文11年)、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺が復興されると、多和神社も復興される。この時、現在地に移転する(1623年(元和9年)現在地に遷座の説もあり)」とある。

御蔵用心堀の石灯籠
道の左手に4mほどの巨大な石の灯籠。案内には「用心堀と石灯籠 高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てた。その一つが此処にあって、面積5.5ヘクタールの敷地に9mに27.3mの蔵が三棟と、年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度のお蔵と呼ばれ、毎年秋に1万5千俵の米が収納され非常に賑わった。
志度町新町「平賀家」は、初代「喜左衛門良盛」が明暦3年(1657年)8月、お蔵番を命じられて以来、世襲してきた。平賀源内先生は父「茂左衛門良房」の死により後役となったが、宝暦4年(1754年)7月、学問を目指して退役したため、平賀家4代98年間のお蔵番に終わりをつげた。 この石灯籠は寛永4年(1851年)津田村の大庄屋「上野氏」と志度村庄屋の「岡田氏」の両氏がお蔵の用心のため建てたものである」とあった。

平賀源内旧邸
石灯籠からほどなく、道の右手に平賀源内旧邸があった。横には遺品館があり、入口前には源内ゆかりの「ホルトの木」が植えられている。
ホルトの木
讃岐の宇多津にある78番札所・郷照寺にもホルトの木があったが、源内ゆかりとは?「ポルトガから入ってきた木」という意味で「ホルトの木」と命名したのが源内との説がある。江戸時代に採取されたホルト油(オリーブ油)が取れた故との説もある。オリーブ油が採れるわけでもなく、日本各地に自生しており、ポルトガルから入ってきた木でもないようだ。
が、面白いにはその学名が「ホルトノキ」科の植物となっていること。また表記が「ホルトの木」なのか「ホルトノキ」なのかよくわから」ななくなってしまった。ホルトノキ科のホルトであればなんとなくしっくりするが、ホルトノキ科のホルトの木はないだろう、ということ。
平賀源内旧邸
平賀源内旧邸の案内には、「今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現れ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町(現さぬき市)に生まれた。
先生は幼名を伝次郎、四方吉。元服して国倫。通称を源内と呼んだ。また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。
宝暦2年(1752)、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当たりは強く、27歳の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方、昌平黌にも学んだ。 宝暦7年(1757)、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。
その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂、物類品隲の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復元など世人を驚かせた。この外、滑稽小説「根南志草」、「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎ発表して江戸の人気を博した。
安永8年(1779)、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52歳の心なじまぬ生涯を終えた。友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。そのほとりに碑を建て「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。
この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである」とあった。
平賀源内先生遺品館
また、平賀源内先生遺品館の案内には「源内先生は、日本文化の爛熟した江戸時代中期に生まれ、まず本草家として日本初の博覧会=薬品会を開催して名を挙げ、鉱山開発を行い、戯作・浄瑠璃を作っては作家の親玉と言われ、西洋画を描いては秋田蘭画の仕掛人となり、陶器を造っては源内焼の流れを作り、エレキテルの復元をはじめ数々の発明品を創り出し、変化龍の如く、その多彩な才能を発揮して、広範囲の分野で活躍しました。
先生は獄中で悲劇の生涯を閉じられましたが、洋学の黎明期に果たされたその偉業は広く認められ、その死は惜しまれました。
先生を顕彰する思いは明治13年の没後百年祭から始まり、昭和4年には百五十年祭とともに平賀源内先生顕彰会が発足しました。
松平頼寿(貴族院議長)を会長に、東京での墓地修復、「平賀源内全集」の発刊、地元では旧邸・遺品の保存、銅像の建設などが行われました。
そしてこの遺品館は、ニ百年祭記念にあたり昭和54年3月25日新築しました。
源内先生の先見性や独創性、また広い視野と柔軟な発想で現実に立ち向かった行動力を、ご来館の皆様に感じ取っていただければ幸いです」とあった。

散歩の折々で源内ゆかりの地が顔を出す。台東区では総泉寺跡に平賀源内の墓があった(この総泉寺は板橋(小豆沢)に移り、源内のお墓だけが残っている)。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、とも。
源内についてはあれこれの書籍で読んだりしており、讃岐の人とは知っていたが、この志度の生まれとは知らなかった。文字面だけで知っていた源内にまたひとつリアリティを付け加えることができた。

珠橋西詰の大燈篭と標石
源内通りと称される道を進むと玉浦川に架かる珠橋。その西詰のホルトの木も見える植え込みの中に自然石造りの大きな灯籠が立つ。「市指定文化財 新町自然石灯籠(石鎚山奉献灯籠)」とあり、植え込み中の案内に「自然石を使ったこのユニークな灯籠は、志度町間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべの為、「もとや醤油」初代当主「小倉嘉平」が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士「田山助蔵」の勧めによって、弘化3年(1846年)に建立したものである。小倉嘉平を中心に始まった石鎚講は、間川を中心に今も続いている」とある。
灯籠左手には「石鉄山道 是ヨリ二十丁」と刻まれた自然石標石も立つ。雲附山(標高239m)の石鎚神社までおおよそ2キロ強ということ。
植え込みには手印と共に「八十六番へ七丁 八十五番へ六十丁」と刻まれた丁石。その右側には「珠橋」「慶応三」と刻まれたかつての玉橋の橋柱もあった。

地蔵寺
珠橋を渡ると道の左手にお寺様があり、塀に案内がある。「地蔵寺には、その中興の祖密英が日本廻国六十六部巡礼を果たして奉納した一国一仏の仏像六十六体が納められています。 日本廻国六十六部とは、鎌倉時代から江戸時代まで続いた全国を巡る巡礼です。明治以前、我が国は六十六カ国に分かれており、その国ごとにいづれかの一寺社に詣で、法華経を奉納して納経帳に請取証を貰うのがこの巡礼の建前でした。
密英は宝永二年(1705)から約3年をかけて全国を巡り納経帳を遺しました。さらに享保十年(1725)全国六十六カ国の納経寺社の本尊・本地仏として六十六仏を造立しました。
三世紀以上前の納経帳が残るだけではなく、諸国霊場の六十六体の仏像を祀る寺院は全国でもほとんど類例が無く、これらは当時の巡礼を知る貴重な歴史資料です 文殊院地蔵寺」と。

遍路道を歩いていると六部(六十六部)ゆかりの「日本廻国供養塔」によく出合う。で、六十六部の文字に惹かれ境内に。「志度寺奥の院」と刻まれた寺名石のある門から境内に。
本堂に祀られるという六十六仏像は拝顔できなかった。ちょっと残念。どんなものだろうとサイトを検索するがその仏像群の写真はヒットしなかた。これも残念。
境内に「史跡と伝統の寺 地蔵寺」の案内。「景行天皇23年、土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内海にはいりこみ神出鬼没、時には海岸にまで押しよせて悪事を働いた。
天皇は心配して、日本武尊の御子霊子に討伐を命令した。
悪魚退治に成功した霊子は、天皇より褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれた。
後に悪魚のたたりを恐れた里人が、お堂を建て地蔵菩薩を安置したのが地蔵寺(別名魚霊堂)の始まりだと伝えられている。
開祖は、文殊菩薩の化身といわれる薗子尼で、近江の国より流れてきた霊木から志度寺本尊十一面観音を刻ませたお方で、当寺が志度寺奥の院といわれる由縁である。
本堂には本尊文殊菩薩と、中世から江戸時代にかけての巡礼で(当時は日本は66の国で構成されていた)日本全ての国を拝むことにより願い事が叶うといわれた「日本廻国六十六体尊」の本尊が祭られ密教仏としては、全国で唯一のものといわれている」とあった。
讃留霊王
讃岐を歩いているとこの讃留霊王の悪魚退治の話に時に出合う。79番札所・天皇寺傍の八十場の霊水のところでは、「八十場は古くは矢蘇場、弥蘇場、八十蘇場とも書かれた、と。景行天皇の御代、南海の悪魚を制すべく出向いた讃留禮王子と八十人の軍勢が、王子の持参した泉(前述の八十場の泉)の水で蘇生したが故の地名である」とメモした。

また80番札所国分寺の手前にあった「日向王の塚」のところでは、
「『全讃史』に景行天皇の御代、南海に大魚があり船を呑み込むなどして人々を苦しめていたため、武穀王(たけかいおう)に命じて退治させた。
武穀王は讃留霊王(さるれおう)とも称され、讃岐の国造であったとも伝えられる。日向王は讃留霊王の七代目の子孫。古代に綾川流域を中心とした阿野郡に勢力を誇った綾氏の祖先とされる。この塚が王の墓跡とされる」とある。

この南海の悪魚、武穀王・讃留霊王は、折に触れて登場する。南海の悪魚とは海賊のことであろうか。その海賊を退治したのが景行天皇の御子である日本武尊の第五子である武穀王。武穀王は讃留霊王とも称されるとあるが、讃留霊王は景行天皇の御子である神櫛王ともある。はるか昔の伝説であろうから、どちらがどちらであっても門外漢にはかまわないが、ともあれその讃留霊王は讃岐国造の始祖であり、綾氏の祖先とするようだ。
で、讃留霊王って、讃岐に留まる霊なる王と読める。武穀王であれ、神櫛王であれ「讃岐に留まり国造の祖となったが故の讃留」か?と妄想したのだが、本居宣長はこの漢字は後世の当て字であり。「サルレ」の音のみが有意とするとある。妄想だった。
また、「海賊退治」とメモには書いたが、景行天皇は自ら兵を率いて西国に赴き、南九州の異族・豪族の叛乱鎮圧にあたったが、この武力討伐際しては諸王子も動員し、御諸別王を東北山形方面へ、櫛別王を四国讃岐方面へ、武田凝別王を四国伊予方面へ、国乳別王を四国宇和島方面へと派遣し異族鎮定に当たらせている。とすれば、悪魚とは王権に服(まつろ)わぬ讃岐の部族を指しているのかとも思える。
本居宣長の古事記伝にある「讃留霊王」
讃岐国鵜足郡に讃留霊王と言う祠あり、それは彼の国に讃留霊記と言ふ古き書ありて記せるは景行二十三年、南海の悪しき魚の大な るか゛住みて、往来の船を悩ましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て、討ち平らけ゛賜ひて、やか゛て留まりて国主となり賜へる故に、讃留霊王と申し奉る、それを綾氏和気氏等の祖なりと云ことを記したり、
或いは此を景行天皇の御子神櫛王なりとも、 は大碓命なりとも云ひ伝へたり、讃岐の国主の始めは倭建命の御子、武卵王の由、古書に見えたれは゛、武卵王にてもあらむか、
今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必す゛鳴動するなりと、近きころ、 彼の国の事と゛も記せる物に云へり、
今思ふに、讃岐の国造の始めならは゛、神櫛王なるへ゛し、然れと゛も倭建命の御子と云、又綾君和気君の祖と云るは武卵王と聞ゆるなり、 さてさるれいと云は、いかなる由の称にかあ らむ、讃留霊と書くは、後人の当てたる文字 なるへ゛し

石鉄大権現灯籠
地蔵寺を過ぎると志度寺は指呼の間。街並みの中を続く道を一直線に進むと志度寺参道口に。参道手前で遍路道と交差する大きな車道の西側、上述の「もとや醤油」酒蔵の前にこれも大きな石灯籠。市指定文化財に指定されている雲附山に祀られている石鎚神社への奉献の自然石灯籠。ここが雲附山への参詣道なのだろう。

八十六番札所志度寺の山門
四つ辻を突き切ると八十六番札所志度寺に到着。八十五番八栗寺より志度寺への旧遍路道を辿り終へ、本日の散歩を終える。