金曜日, 6月 26, 2009

塩の道散歩 そのⅡ;大網峠越え

塩の道散歩の二日目は大網峠越え。姫川筋を離れ、小谷山地にとりつき、その昔、荷継ぎ場とし賑わった大網集落に。大網の集落からはひたすら大網峠へと上る。 峠からは、これまたその昔、関所のあった山口集落に向かって下っていくことになる。距離12キロ、比高差600m弱、おおよそ5時間の峠越えである。

日本海側から小谷に至る塩の道のルートはいくつかある。大きく分けて姫川の西側(西廻り道)を進む「山の坊道」と、東側(東廻り道)を進む「地蔵峠道」、そしてこの「大網道」。糸魚川の少し西、青海を発した西廻り道は、虫川(関所があった)、夏中を経て大峰峠、山の坊を越え平岩の南で姫川筋に下る。糸魚川を発した東廻りみちは、山口のあたり(大網峠手前のルートもある)で二手に分かれる。「大網道」は大網峠を越えて平岩の南で姫川を渡り、葛葉峠手前で「山の坊道」と合流し、姫川西岸を南に下る。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

一方、地蔵峠道は、山口(または大網峠手前)から戸土、横川へと進み、小谷山地の中を一路南下。1000mを越える 地蔵峠、三坂峠を越え南小谷駅の北(下里瀬)のあたりで姫川を渡る。ここで「山の坊・大網峠・地蔵峠」道はひとつになり、松本へと下ってゆく。
どの道がもっとも古く開けたのかは、はっきりしない。山の坊道の虫川の関は、所謂、謙信の「義塩」エピソードの頃に設けられたという説もある。地蔵峠道は、もっと古いかもしれない。横川集落からは大和朝廷時代の須恵器や土師器室町期の鍔口といった出土品が出ている。また、そもそもが、三坂峠(みさか)は御(み)坂峠との名前が示すように、古代祭祀跡ではないかとも言われる(『北アルプス 小谷ものがたり』)。実際、この地蔵峠道は他のふたつの道より、ずっと南で姫川筋に下る。古代の道は土砂崩れなどの危険が多い川筋を避け、尾根道を通ることが多い、とすれば、この地蔵道が最も古い道筋かとも思える。

で、今回歩く大網峠道であるが、この道は地蔵道が土砂崩れで不通になったときに開かれたとも言われる。姫川に橋がかかったことが転機になったとの説もある。 1647年に、「幅32mの橋がかけられ」とのことである。ともあれ、比較的新しい道かとも思う。歴史は新しいが、大網峠道は千国街道の「大通り」と呼ばれる。安政5年、1858年の記録によれば、塩の荷が、山口の関で6628駄、虫川では313駄。魚類は山口で13070駄、虫川では780駄。物流では山の坊道を圧倒している(『』塩の国 千国街道物語)。大網峠道が「大通り」と呼ばれた所以である。

大網峠道が塩の道・千国街道の代表的道筋であったことは間違いないだろう。とはいうものの、大網峠道に物流のすべてが集中した、ということでもないようだ。千国街道の物流を差配していた糸魚川の3軒の問屋毎にどの道筋を通るかを決めていたとも言う。また、現在でも土砂崩れで時に国道が普通になる、といった地崩れ地帯。一本の道筋で物流ルートが確保されたとは到底思えない。現代でも、平成7年の姫川温泉付近の土砂崩れのため国道が不通になった時には、山の坊道のルートに近いところに林道を作り、交通路を確保したとも言われる。時に応じ、状況に応じそれぞれの道がネットワークを組み、物流機能を確保していたのではあろう。少々イントロが長くなってきた。そろそろ散歩に出かけることにしよう。


本日のルート;姫川温泉>大網>芝原の六地蔵>横川の吊り橋>牛の水飲み場>菊の花地蔵>屋敷跡>大網峠>角間池>角間池下道標>白池>根道合流点>日向茶屋>大賽の一本杉>山口関所跡>糸魚川


姫川温泉
宿泊したのは姫川温泉・朝日荘。大糸線平岩駅を降り、姫川を渡ったところに宿があった。温泉は湯量も豊富。平岩と言う地名と関係あるのか、ないのか、温泉の大浴場は大岩を取り込んだ造りとなっていた。
この姫川温泉も平成7年の豪雨で地滑りの被害にあっている。どこだったか、土砂災害のため平岩駅付近で大糸線の線路が宙づりになった写真をみたことがある。復旧には2年ほどかかった、とも。
8時23分、宿を出発。近くにコンビニがあるわけでもないので、昼食用におにぎりを用意して頂いた。感謝。宿を出るとすぐ、崖から豊かな湯滝「源泉は姫川上流3キロ。温度は55℃」との案内。大網集落に向かって車道を歩き始めると、宿屋の女将の呼ぶ声が。何事かと引き返すと、「車で大網まで送りましょうか」、と。車での送迎が却って迷惑かと、遠慮してくれていた、よう。塩の道を歩く人にはストイックに「完全徒歩」を目指す方も多いのだろう。大網峠道は姫川温泉から姫川に沿って南に少し下ったあたりから山道に入り、大網集落へと続くわけで、車道を歩き始めた我々を見て、声をかけてくれたのだろう。
車で230mほどを一気に上る。山腹から大きな2本の導水管が姫川へと下っている。電気化学工業大網発電所への導水路。取水位標高357m、放水位標高234m、というから落差120mほど。姫川の上流5キロのところで取水している、とか。
七曲りの車道を車が進む。途中、道の右側に「塩の道」の道標が見えた。大網峠道なのだろう。5分程度で大網の集落に到着。[姫川温泉発;8時23分、標高257m]

大網

車は集落の中ほどまで進み、「塩の道」スタート地点まで送って頂く。宿のご主人に感謝し、車を降りる。あたりを見渡すに、大網は数十軒といった単位の山間の集落。江戸時代はこの地に千国街道の荷継ぎ問屋があり、大いに賑わったそうである。荷の積み替えを待つ牛が1日100頭近くもいた、とも言われるこの村落も、明治にはいり姫川筋に馬車道(現在の国道筋)ができて以来、静かな山村に戻った。
大網(おあみ)の集落が歴史に登場したのは、戦国末期と言われる。武田氏の流れの一族がこの地に住み、そして大網峠越えの道を開いた、と。実際、大網集落の北の山峡を通る地蔵峠道には、上杉軍と武田軍の戦いの跡や城跡(平倉城;上杉方)なども残る。現在でも大網には武田さんと竹田(ちくた)さん、って姓の住民が多いと言うことだし、武田の一族が、って話は、なかなかもってリアリティがある。
大網の地名の由来は例によって諸説あり。奴奈川姫が建御名方の出産に際し、産所に網を張ったことによる、との説がある。峠の遥拝、「拝む」からとの説もある。また、「麻績(おうみ)」「麻編(おあみ)」といった、「麻」に由来するとの説もある。大網は戦前まで麻の産地であった、と言うし、この説も捨てがたい。ともあれ、地名って、最初に音があり、それに物識り、というか文字知りが、なんらなかの蘊蓄を加え文字表記する ことが多いわけで、諸説定まることなし、ってことになるのだろう。[大網:8時28分、標高388m]

芝原の六地蔵

大網集落の塩の道始点は集落の中ほど。民家の裏といった細路を進むと上り坂。両サイドには草が生い茂る。墓地の間の道を上ると運動場のような広場に出る。案内もないので広場をうろうろ。近くの村人に道を尋ね、広場の小さな崖下に続く塩の道に出る。
道に沿ってグリーンのネット。マレットゴルフのコースとなっている。ゲートボールとゴルフを足して二で割ったようなこのスポーツは長野で生まれたもの。18ホールよりなる。そう言えば、先ほどの広場にも、それっぽいマットもあった。
道脇に石仏群。芝原の石仏群と呼ばれる。先に進むと、今度は赤い帽子をかぶった6体のお地蔵さん。これが「芝原の六地蔵」。六地蔵は散歩の折々に出会う。お地蔵さん、って釈迦の入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの仏不在の時期、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を迷う衆生を救済する菩薩。正確には地蔵菩薩。六地蔵って、六道それぞれに相対した地蔵菩薩であろう。

横川の吊り橋

芝原の六地蔵を過ぎると、本格的に山道となる。要所要所に道標があるので迷うことはない。木々の間の道をしばらく下ると沢にでる。開けた沢にかかる木の橋を渡り、再び山道を上る。細い山道を進むと水の音。木々に覆われた沢に吊り橋が懸かる。「横川の吊り橋」である。吊り橋は沢を跨ぐ。ガイドブックやインターネットでは、断崖絶壁といった記述があったが、高所恐怖症気味のわが身でも、それほどに足元が「ゾンゾン」するってこともなかった。
姫川は雨飾山の南麓に源流を発し、西に流れ姫川温泉の北で姫川に合流する全長15キロの川。山中の横川集落からは古代や、室町期の遺物が見つかっている。また大木の産地で明治14年には京都東本願寺の大柱用の欅の大木を送り出している。横川集落は塩の道・地蔵峠道の道筋。集落の近くの長者が原では、越後を目指す武田とそれを迎え撃つ上杉が相争ったと言うし、往時は交通の要衝であったのだろう。その横川の集落も現在は地崩れで全滅し廃村となっている、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。[横川の吊り橋;9時11分、標高289m]

牛の水飲み場
吊り橋を渡ると道は急な上りとなる。道は小さな沢に沿って上ってゆく。何度か小石を踏んで沢を渡る。沢の水が流れ落ちる岩場の脇も何度か横切る。山道を進む。結構きつい。何度目だったろう、小さい滝の流れ落ちる岩場をぐるりと廻り、岩場の上にでる。と、そこに「牛の水飲み場」の案内。足元の岩盤がそれっぽい。岩に穴があいているのは、牛を繋ぐためのものだろうか。
とはいうものの、こんな急峻な坂、しかも岩場を牛が上れるとは思えない。昔は人や牛の往来も多く、現在より道幅も広く、踏み固められていたわけだから、現在の荒れた山道のイメージでは判断はできないだろう。けれども、それでも、牛がこの山道を上るイメージは浮かばない。実際、この牛の水飲み場の穴は、崖下に落ちるのを防ぐ柵を立てる穴であった、という説もある。
牛がこの坂を上ったか、どうかの詮索はさておき、急峻な山道の荷運びの主役は牛ではなく人であった。歩荷と書き「ボッカ」と呼ぶ。当初、「カチ二」と呼ばれていたようだが、いつの頃からか「ボッカ」と呼ばれるようになった。
急峻な山道もさることながら、ボッカが大活躍するのは冬の時期。牛が荷を運ぶ時期は八十八夜(5月2日)から小雪(12月23日)まで、といった取り決めがあったとのことなので、それ以降はボッカが荷を運ぶことになる。急峻・狭隘な山道では道を進む優先権も決まっていた、と。北から南に進むボッカには必ず道を譲ることになっていた。根拠は何もないのだが、この南行(北塩)が幅をきかすのは、なんとなく荷受けの糸魚川の問屋の「力」って気もするのだけれど、北から南に流れる、塩とか魚類といったもののほうが、南から北に流れる麻、竹、漬わらび、タバコといったものより、有難かった、ということだろう。[牛の水のみ場;9時36分、標高463m]

菊の花地蔵
牛の水飲み場から30分弱ほど歩いただろうか、大きな杉の木の根元に佇むお地蔵さま。遭難したボッカを供養するため、と。豪雪地帯のこの地では半年近く雪に埋もれていることだろう。道から少し脇に上り、お参りを済ませ先に進む。このあ たりから道が少し広くなりブナの原生林に入っていく。[菊の花地蔵;9時59分、標高571m]

屋敷跡
菊の花地蔵から20分程度歩いたところに、いかにも人工的に開かれた場所。屋敷跡と呼ばれる。茶屋があったとも、炭焼き小屋があったとも言われる。10時21分、標高661mあたりの屋敷跡を離れ、最後の上り。沢筋なのだろうが、人牛の往来により、斜面が徐々に削られ道がU字に掘り込まれている。「ウトウ」呼ばれるようだ。U字部分の底のところを上る。結構キツイ。どのガイドにも、屋敷跡から峠がそれほどキツイ、とは書かれていなかったのだが、とんでもなかった。30分弱で、比高差170mほどを上ることになる。落ち葉に埋まった道を、疲れた足を引きずるように、大汗をかきながら這い上がると大網峠に到着。大網を出て2時間半、比高差560m上り続け、やっと大網峠についた。

大網峠
大網峠越えは、道に迷わないかどうか、少々緊張しながら歩いた。 Garminの専用GPS端末を購入したのは、この大網峠越えが心配だった、から。結果的には道に迷うようなことはなかった。秩父の釜伏峠越えのとき、日本三大名水という「日本水(やまと)」の案内に誘われ道に迷い、結構パニック状態になったことがある。今回は何もなくて、誠によかった。また、峠あたりには、ウルルと呼ばれる虻(アブ)の一種が生息し、刺されて腫れて始末が悪いとのことであり、マジに防虫ネットでも買おうとしたほどだが、これも、なんのこともなかった。
峠越えは、この大網峠を含め30ほどは越えただろう、か。山上りはそれほど興味がないのだが、街道を歩き、結果的に峠を越えることになった。甲州街道の小仏峠や笹子峠、甲州古道の時坂峠や大菩薩峠、鎌倉街道・山ノ道の妻坂峠、秩父巡礼道の釜伏峠や粥仁田峠、などなど。川に沿って道があり、邪魔な山塊があればトンネルを掘る、沢があれば橋を架けて一跨ぎといった現在の道路事情とは異なり、昔の人は、国を越えるときは峠を越えるしか道は、ない。
峠は、「たわ」に由来するとの説がある。山稜の「たわんだところ=鞍部」を越える、たわごえ>とうげ、ということ、だ。「手向け」からとの説もある。「遥拝」するところ、でもあったのだろうか。峠はもともとの漢字にはない。日本での造語である。山の上、下、を合わせたもの。言いえて妙で ある。木々に覆われ、全く見通しのきかない大網峠。上り続けた体を休め、ここからは、ひたすら下ってゆくことになる。
[大網峠;10時59分、標高834m]

角間池
大網峠から20分弱、標高差60mほど下るとブナやユキツバキの森の中に池が現れる。エメラルドグリーンといった色合いの水面。この池って、大蛇が流した涙の跡だとか。この地に伝わる伝説によれば、角間池の北東にある戸土の近くの大久保集落に池があり、そこにつがいの大蛇が棲んでいた。ある日、子供が誤って池に落ち溺れ死ぬ。村人は大蛇が飲み込んだと思い込み、夫の大蛇を殺してしまう。妻の大蛇は難を避け、野尻湖に逃れたのだけれど、そのとき悲しみのために流した涙が、角間池、白池、蛙池となった、ということだ(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
角間(かくま)は関東・東北によくある地名。かくれる>陰地、といった語義ではないか、とか。鹿熊と表記するものも、ある。
[11時12分、標高783m]

角間池下道標
池の畔にある戸倉山への登山口を横に見ながら、次の目的地白池へと下る。ほどなく道脇に石の道標。「右松本街道大網 左中谷道横川」と書いてある、とか。文政元年というから1818年の建立。ということは、ここが大網峠を越えて姫川に下る大網峠道と、粟(安房)峠、横川、大峠、地蔵峠、大峯峠と峠伝いに進む地蔵峠道の分岐点。中谷とは南小谷の北、姫川東岸にある集落。地蔵峠道が姫川へと下る南端あたりである。中谷道って、地蔵峠道の別名だろう、か。千国街道 も、新潟県側では、根知越、仁科街道、松本街道などと呼ばれ、長野側では小谷街道、千国街道、大町街道、糸魚川街道などと呼ばれていた。
[11時18分、標高770m]

白池
角間池から下ること30分弱。標高も200m以上下ったところに白池。角間池とは異なり、景色は開けている。池の畔、少し小高いところに諏訪神社の小さな祠。往時、この神社の神事が国境紛争解決の決め手のひとつになったと言う。
江戸時代、元禄の頃、この白池あたりの領有を巡り越後領の山口村と信州領の小谷村で争いが起こる。材木や芝の切り出しを巡る諍い、とも言う。山口の住民は横川が国境線であり、この白池一帯は越後領と主張。このあたりは上杉と武田が合い争ったところ。取ったり、取られたり、ということで、国境線などはっきりするわけもない。一種の国境紛争となる。
山口の住民は、紛争解決のため幕府に訴え出る。幕府は小谷村に対し、白池のあたりが信州領であることを示す明確な証拠を提出しろ、とのお触れ。小谷村は証拠を揃え江戸に出向く。中央区馬喰町の公事宿にでも泊まったのであろう。
それはともかく、幕府からは現地視察も踏まえ裁定を行い、結局は信州領と決まったのだが、その決め手のひとつが諏訪神社の神事。信濃一ノ宮の諏訪大社御柱祭りに合わせ、7年に一度、この白池そばの神木に「なぎ鎌」を打ち込む、という神事である。信濃の神さまのテリトリーということが信濃領である、との証しである、と・池の畔の小さな祠にも歴史あり、ってことだろう(『北アルプス 小谷ものがたり』)。

国境紛争の原因が、たかが材木と言うなかれ。昔は材木や芝は重要なエネルギー源であり、建築資源。建築云々は言わずもがな、ではあるが、エネルギー源としては、たとえば武蔵野の雑木林。これは江戸の人々のエネルギー源確保のため、一面の草原を薪用の雑木林に変えていった結果の姿。利根川の舟運路開発も、物流もさることながら、燃料用の芝木を運ぶことにあった、と言う。
塩の道に関しても、木材は重要な意味をもつ。一般に「塩木」と呼ばれることもあるが、これは塩をつくるための燃料用木材の呼び名。原初は、山の住民が木材を川に流し、海岸端で拾い上げ、それで塩水を煮て自分用の塩をつくる。ついで、多めに木材を流し、海岸端の人にその木材で塩を塩をつくってもらい、材木提供との交換に塩を手に入れる。大量に塩をつくる専業業者が登場するころになると、木材を塩の製造に関係なく日用燃料の薪として売り現金を得、そのお金で塩を買うようになった、と言う。材木や芝を巡っての諍いも、昔は生活に直接かかわる重大案件であったわけだ。

諏訪神社の祠から池脇に下る。池を望む休憩所で一休み。池脇の清水、湧水なのだろうがいかにも美味しかった。ここでお昼。ホテルで握ってもらったおにぎりを食べる。美味。
食後、あたりをぶらぶら。休憩所の裏手に平地。「白池のボッカ宿跡」との案内。文政7年、というから1824年。その年の12月17日朝、戸倉山から大雪崩が発生。2軒の家が押しつぶされ、宿泊者の信州ボッカ15人中12人が即死、家人11人のうち9人も即死と言う大惨事が起きた。その後この地にボッカ宿がつくられることはなかった。平成6年に発掘調査が行われ、約170年ぶりにボッカ宿の全体像が現れた、と言うことだった。
[11時39分、標高634m]

尾根道合流点
白池を離れ次の目標「尾根道合流点」に向かう。といっても、地図に尾根道合流点といった地名があるわけではない。勝手に付けただけ。地図を見ると、白池から大久保、戸土に向かって尾根道っぽい道が北東に向かて走っており、途中大きく西に折れ、しばらく進み北に折れ、それからは一路、山口集落へと向かっている。
塩の道は、地図にはないのだが、白池から尾根道を離れ北に向かい、尾根道をショートカットするようにまっすぐ進む。一度谷に下りて、再び尾根道に上るのか、とも思ったのだが、ぐるっと回る尾根道筋も標高を下げており、結局は下りだけで済んだ。地図には載っていないルートなので、道に迷わないように、GPSに合流点のポイントを登録したりと、結構慎重に準備したのだが、それは杞憂に終わった。白池から20分弱で到着した。
[12時16分、標高563m]

日向茶屋
尾根道との合流点あたりまで来ると、風景も少し里めいてくる。道も山道ではあるものの、雑草が生い茂り、野道めいてきた。標高も530mほど。大網峠からは300mも下ったことになる。尾根道への合流点から10分強歩くと日向茶屋跡。ここは、白池にあったボッカ宿が雪崩れて壊滅した後、それに替わるものとして建てられた、と言う。
ところで、日向って日当たりのいいところ。対するものが日影。この地名は東北から関東・中部地方に多い地名。GISを使い、関東・中部地方の日向230例と日影133例の立地を解析したデータによると、日向、日影とも山沿いの地帯に分布するのは当然として、日向は標高が低く、日影は標高が高い。太陽光を少しでも多く取りたいと、日影は標高が高いのだろう。日向の斜方位は南、南東、南西。日影は北、北西、北東が多く、一部に東と南東。日向の傾斜は比較的緩やかであるが、日影は傾斜が急。日向では耕地としていることも多いので傾斜は緩やかではあろうし、日影の傾斜が急なのは、そもそもが標高が高いのだから当然ではあろう(『GISを用いた「日向」「日影」地名の立地の解析;宮崎千尋』)。GIS,GPSを使ったデータ解析は地形フリークとしては大変ありがたい。
[12時半、53m]

大賽の一本杉

20分ほどかけて、150mほど下る。道端に大きな一本の杉。塞の大神と呼ばれる。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
[12時49分、標高389m]

山口関所跡

一本杉から30分、標高を130mほど下ると山口の集落。姫川を出たのが8時半前。おおよそ5時間で到着した。今夜の宿は糸魚川。が、糸魚川へと向かうバスは午後4時過ぎに一便あるだけ。車道脇の山口関跡を眺めたり、塩の道資料館に向かって歩いたり、雑貨屋でスナックを買ったりするにしても、時間が十分ありすぎる。どうせのことなら、JR大糸線の根知駅に向かって歩こう、とは思うものの距離は直線でも5キロ弱。また、なんとか、かろうじてもってきた天候も山口集落に入ったころから、雨がぽつぽつ。ということで、集落内、スキー場のところにある温泉で時間をつぶす。
山口は文字通り、「山への入り口」、から。地蔵峠道にしても、大網峠道にしても、この山口を通ることになる。戦国時代、上杉と武田の攻防においては戦略的要衝の地であったのだろう。ために、この地に口留番所が設けられ、街道の「出入り口」での物流を「留め」、物品に税を課す。塩一駄(塩俵2俵)に対しては、塩二升程度。そのほか穀物や魚の種類毎に細かく税金が定められていた。
藩の大きな財源を番所で徴収するって、縦横に「道」が通っている現在では想像するのは難しい。が、昔は、往来できる道など数限られており、数少ない往来のほかは人も通れぬ森や林や草地や湿地。交通の要衝の地に関や番所を置いておけば、効率的に運上金・銀を回収できたのであろう。
ちなみに、中世の頃、道路は基本的に有料道路であった。道なき道を悪戦苦闘して通るより、関所でお金を払い、道を進む。とはいうものの、淀川沿いの道だけでも380か所の関があった、と言う。それはあまりにやりすぎ、そんなことでは経済の流れが止まってしまうと通行税を廃止したのが織田・豊臣。その後徳川の時代に設けられた関所も、「入り鉄砲と出おんな」といった、政治・軍事上の監視所であった、よう。番所での運上徴収って、昔の道の姿を想像して、少しリアリティを感じることがでいる、かと・[13時18分、標高256m]

糸魚川
温泉でのんびり時を過ごし、4時過ぎのバスに乗り、今夜の宿泊地のあるJR大糸線・姫川に。夕飯はホテルで、などと考えていたのだが、事前に申し込まなければダメ、とのこと。仕方なく糸魚川市内に出向く。
適当に食事を済ませ、町をぶらぶら。偶然に塩の道の起点の案内。案内に誘われ海岸端に。打ち寄せる波を見ながら、北前船によってこの地に運ばれ、塩の道を牛や人の背で運ばれた品々に思いをはせる。千国番所の記録によれば、塩や四十物(あいもの;塩肴や乾物)、越中の木綿、越中高岡お金物、能登の輪島塗、加賀九谷の陶磁器類、九州の伊万里・唐津が塩の道を通過した、と。



「塩の道」と呼ばれるほど塩が大量に運ばれるようになったのは、瀬戸内海で作られた塩が大量に運ばれるようになってから。糸魚川近辺の塩田で作られる塩もさることながら、瀬戸内で塩の大量生産が可能になり、「売るほど」塩が生産されるようになってはじめて、商品としての塩が塩の道を大量に運ばれるようになったのだろう。
塩の道を歩く前は、塩の道って、越後の塩を信濃に運び込む道のこと、と思っていた。が、実際は、地元だけでなく瀬戸内海からの塩が運ばれるようになって本格的な「塩の道」となる。
また、塩の道を運ばれたのは塩だけではない。塩や魚類、日用品などを信州へと、また信州からは山の産物を越後へと運ばれた物流の大幹線であった。塩の道は、大名が参勤交代などに往来した街道ではなく、物流専門の幹線道路。牛の背で運ばれたであろう高原の千国越え、人の背で運ばれたであろう険路の大網峠越えを体験した2日の散歩でありました。

火曜日, 6月 16, 2009

塩の道散歩 そのⅠ;千国越え

5月も末の週末、2泊3日で塩の道・千国街道を歩いた。千国街道って、日本海側の糸魚川から信州の松本まで続く全長120キロにも及ぶ道筋。明治にいたるまで、日本海側からは塩や魚、信州側からは麻や木綿、タバコや炭などが人や牛の背により運ばれた物流の道である。今回歩いたのは、栂池高原から南小谷へと続く「千国越え」、それとその先、大網の集落から大網峠を越え山口集落に続く「大網峠越え」。合わせて20キロ程度の行程となった。距離としては全体の六分の一、といったところだが、「千国越え」も「大網峠越え」も、どちらも塩の道・千国街道散歩の代表的コース。千国越えは姫川西岸の高原山麓をゆったり・のんびりと歩くコース。大網峠越えは、姫川東岸・艱難辛苦の「峠越え」。結構変化に富んだふたつのタイプの散歩が楽しめた。

そもそも、塩の道散歩のきっかけは、義兄からのお誘い。昨年の初冬、「塩の道を歩きませんか」、と。同じころ古本屋で、『塩の道・千国街道物語;亀井千歩子(国書刊行会)』を買い求め、読み始めていた。奇しくも、はたまたなんたる因縁、というわけでもないのだが、街道歩き大好きなわが身としては、一も二もなく話に乗った。
さてと、塩の道を歩く、といっても、どこを歩けばいいのやら皆目見当がつかない。前述の『塩の道・千国街道物語』は塩の道にまつわる歴史や民俗についての学術書といったもの。とてものこと、お散歩コースを確定するといった実用書ではない。ということで、インターネットで情報を探し、データを補強するため書籍を探した。『塩の道一人行脚;宮原一敏(文芸社)』、『古道紀行 塩の道;小山和(保育社)』などを買い求め、あれこれ検討した結果が上に述べた、「千国越え」であり、「大網峠越え」というわけである。

コースは決まった。で、「道行きの日」ということになるのだが、さすがに初雪の峠越えは少々怖い、ということで、年を越し気候もよくなる5月ということにした。出発まで半年の準備期間。いきあたりばったりのお散歩を身上としているわが身には少々「まだるっこしい」のだが、宮本常一さんの『塩の道(講談社学術文庫)』(講談社刊の『道の文化』でも同じ記事を読んだ)を読んだり、『北アルプス 小谷ものがたり;尾沢健造他(信濃路)』を読んだり、『塩の道を探る;富岡儀八(岩波新書)』を読んだり、道があまり整備されていないかも、との恐れゆえGarmin社のGPS専用端末を購入したり、熊がでるかも、との恐れゆえ3000円ほど投資し、スイスのアーミーナイフ・VICTORINOXを購入し、熊と戦うシミュレーションを繰り返し行うなど、それなりに熟成期間を楽しみ出発の日を迎えた。

本日のルート;大糸線白馬大池駅>「千国越え」のスタート地点・松沢口>百体観音>前山>沓掛>親坂>親沢>千国番所跡>千国諏訪神社>源長寺>黒川沢>大別当小土山>三夜坂>南小谷

大糸線5月23日(土曜日)、千国越えコースの始点のある、栂池高原スキー場へと向かう。最寄りの駅は大糸線白馬大池駅。新宿発午前7時のスーパーあずさで松本駅に。松本からは大糸線に乗り換え大町に。大町で再び大糸線に乗り換え白馬大池に向かう。
この大糸線、昭和のはじめ、大町から北に向かって建設がはじまった。で、糸魚川につながったのは昭和32年。戦時中には工事が止まるばかりではなく、敷設された線路や鉄橋までも戦地で使うために取り外されるなど、紆余曲折をへての完成であった、とか。
大糸線の完成が塩の道・千国街道の物流ルートとしての役割に与えた影響はあまり、ない。明治23年には姫川に沿って道が完成し、馬車による塩の運搬が可能となっているし、それよりなりより、明治22年には中央線が名古屋から松本まで開通し、名古屋経由で瀬戸内の塩か運搬されるようになっている。糸魚川からの塩(北塩)は既に、その歴史的割を終えていたわけ、だ。
ちなみに大糸線って、大町から糸魚川と思っていたのだが、実際は松本から糸魚川まで。これは、「松本から大町」を走っていた私鉄が戦時中の国策で国有化され「大町から糸魚川」を走っていた国鉄と一体化したため、と。

大糸線白馬大池駅
午前11時過ぎに白馬大池駅に。駅は無人駅。駅前を流れる姫川のほかにあたりに何も、ない。川の向こうに河岸段丘が迫る、のみ。有名な栂池高原スキー場へのアプローチ駅であり、土産物屋のひとつもあるだろうし、そこで食事でもなどと目論んでいたのだが、駅前の店もシャッターを閉じている。
食事は我慢するとしても、困ったのは足の便。乗り合いバスはない、ということはわかっていたのだが、駅から千国越えコースのスタート地点まではタクシーでも、などとのお気楽に考えていた。少々甘かった。ということで、スタート地点の栂池高原・松沢口へと歩くことに。距離は3キロ弱、比高差は300mといったところ、か。[大糸線白馬大池駅;11時21分、標高592m]


駅前を離れ、姫川を渡る。川に沿って国道148号線を越えて高原へと続く道へと進む。川床より河岸段丘に這い上がる、といった感じ。道は曲がりくねる。歩き始めるとすぐに、いかにもショートカットといった畦道。これはいい、と進んだ瞬間、道に蛇。蛇はご勘弁、ということで退却を、とは思うのだが、パートナーは少々強気。渋々後を追い、とっとと本道に戻る。30分ほど歩くと、道脇に「そば」の幟。古民家を改築したような趣のある建物。一時はお昼抜きを覚悟したパーティ二人、迷うことなくお店へと。
しばし休息の後、再び歩を進める。曲がりくねった車道を上る。30分も進むと峠を越える。眼前には北アルプス、そしてその山麓にスキー場が広がる。目指す栂池高原スキー場である。雄大な眺めをしばし楽しむ。
山裾に広がるスキー場のあたり、峠と北アルプスの山地の間は、お椀の形のような窪んだ地形になっている。『北アルプス 小谷ものがたり』によれば、往古、姫川はこのあたりを流れていた、と。急峻な北アルプスからの流れにより、気の遠くなるような時間をかけて形成された扇状地が、姫川の流れにより、これまた気の遠くなるような時間をかけ、やや幅広い谷がつくられる。そして、その後再び浸食をはじめ、さらに深い谷(現在の姫川)がつくられた。
現在、扇状地や広い谷の一部が川岸に沿って二、三段の河岸段丘となって分布していると言われるが、スキー場一帯の平原というか、高原は、その扇状地の名残か、はたまた、広い谷となって残る高位段丘面であろう、か。[峠;12時20分、標高807m]


「千国越え」のスタート地点・松沢口
峠より、少し窪んだ高原に向かって道を下る。ほどなく道脇に「千国街道」の標識。千国越えコースのスタート地点・松沢口である。千国街道は、この松沢口から南へと山裾を進み、姫川に沿って南に下るが、千国越えはこの地より北に向かうことになる。
千国越えの始点なっているこのあたりは親の原と呼ばれる。昔は共同の茅場であったようだが、現在はスキー場のゲレンデだろう。フラットな平地が広がる。親の原の名前の由来は、親王原から、との説がある。その昔、この地に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が足跡を残したから、と。大町を中心にこのあたり一帯に覇を唱えた仁科氏は南朝方の武将。南朝方の総帥として伊那谷を拠点に各地を転戦した宗良親王が仁科氏を頼ってこの地に来ることは大いにあり得る。
とはいうものの、親の原には湿原を現す「ヤチ」に由来する、といった説もある。「オオヤチハラ>オオヤノハラ>オヤノハラ」ということだ。現在でも近くに湿原が残っておるとのことだし、その昔、ここを姫川が流れていたとすれは、この説も捨てがたい。はてさて。ともあれ、歩を進める。[松沢口;12時39分、標高800m]

百体観音
松沢口からゲレンデの中の一本道をしばし進む。右側に小高い山が迫るあたり、道脇に石像が並ぶ。百体観音と呼ばれている。江戸の頃、高遠の石工によってつくられた。もともとは、街道の各所に置かれていたようだが、明治期の道路改修のとき、この地に集められた、とか。現在でも80体近くの観音様の石像が残る。
百体観音というのは、百観音巡礼のための観音さま。百観音巡りの思想は平安時代には既があったようだが、百観音とは通常、西国33箇所、坂東33箇所、秩父34箇所の、合わせて百の観音霊場巡礼を指す。百観音霊場巡りの記録は1525年に登場するから、そのころまでには百観音霊場信仰はそれなりに普及していたのではあろう。
平安貴族の西国、鎌倉武家の坂東、江戸庶民の秩父と配列の妙もある。とはいうものの、庶民がおいそれと全国を巡礼するわけにもいかないわけで、その代わりにつくられたのが「うつし百観音巡礼」。庶民が「余裕」をもってきた江戸期のことだろう。この地の百体観音も東国各地に残るそのひとつ。道すがら、ちょっと手軽にその功徳を、といったところだろう、か。

その観音さまを彫った石工のこと。高遠の石工って、散歩の折々に登場する。先日、五日市・秋川筋を歩いていたとき、伊奈の町で出会った。伊奈は石工で名高い。江戸城築城のとき、石垣を組んだのは伊奈の石工と言われる。高遠の出であった、という。

で、何故に高遠が石工で名高いか気になった。調べてみると、高遠の地にはこれといった産業がなかった。ために、大量に産出される石材を使い石工、石屋が盛んになった、と。物事の発達には、それなりの理由がある、ということ、か。そう言えば、宮本常一さんの『塩の道』の中に木地つくりで名高い近江の永源寺町の記事があった。そこは、木地つくりに欠かせないいい鑿がつくれるところであり、その鏨をつくるためのいい鉄の産地であった、と言う。物事には、それを生み出すそれ相応の「理由」がある、ということ、だ。

前山
右手に続く小高い「山地」に沿って歩を進める。百体観音って、前山の百体観音と呼ばれる。ということは、この小山は前山であろう、か。地形図をみると標高873mある。山地は段丘面の端を南北に連なる。先端が盛り上がった地形は段丘面としては少々異な印象がある。ひょっとすると、これって、往古の「土砂崩れ」の名残り?山の中腹斜面が窪み、その下方に地すべりで盛り上がった地形というのが小谷の風情、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。小谷は地すべり頻発の地で名高い(?)。その要因はこの地を南北に貫く大地溝帯、フォッサマグナの地質と地形に大いに関係があるよう、だ。
フォッサマグナとは日本を東西に分断する大地溝帯。実のところ、このメモを書くまで、フォッサマグナって、姫川の谷筋=線のこと、と思っていた。この谷筋が日本の地形が東西に分断するラインであると思っていた。が、実際のフォッサマグナは大地溝帯と呼ばれるように幅100キロの「面」。西端は北アルプスの山の連なり。「糸魚川・静岡構造線」と呼ばれる。東端は上信越・関東山地の連なり。こちらは西端のように鮮明ではなく、「直江津・柏」のラインなど諸説あるようだ。

フォッサマグナ東端の詮議はともあれ、西端はこの小谷のあたり。2億年のその昔、北アルプス・中央アルプスを境として、その東の大地が幅100キロにわたって陥没し海となる。北アルプスの山並みを考慮すれば、深さは数千メートルになるだろう。陥没し海底に沈んだ「溝」には北アルプスや中央アルプスの山並みから大量の土砂が流れ込み海底に厚い地層をつくった。その後、2000万年ほど前、海底が松本・諏訪方面から隆起をはじめた。この小谷のあたりも1000万年前ころ隆起をはじめ山地となった。これが姫川の東に連なる山々・小谷山地である。小谷山地に限らず、北アルプス・南アルプスと上信越・関東山地の間にある山々は、陥没した地形・フォッサマグナの上に盛り上がった山地ということ、だ。

で、この小谷山地であるが、その地質は砂岩とか泥岩からなる。海底に蓄積された土砂からできたものであり、年代も1000万年と比較的(?!)新しい。当然のことながら、地質はもろく、浸食されやすい。しかも小谷山地の地形が造山活動の圧力で曲がりくねり、急傾斜となった。小谷が地滑りの要因がフォッサマグナにその要因がる、というのはこう言うことである。物事には、それ相応の理由がある、ということ、か。実際、姫川筋では昭和36年から48年の間に20回もの大規模地滑りが記録されている。
フォッサマグナへと少々寄り道が長くなった。長くなったついでに、姫川西岸の土砂崩れについて。実際、土砂崩れは西側でも起きている。代表的なものは明治に大災害をもたらした稗田山の崩壊。大量の土砂によって姫川筋の川床が65mも盛り上がり、大きな湖ができた、と言う。北アルプスの山々は2億年の年月を経た硬い結晶片岩といった硬い土質が中心だが、白馬山の北あたりは少々地質の軟弱。しかも火山帯の断層面が走るため、土砂崩れを起こしやすい、とのことである。現在でも土砂崩れのたびに道路が寸断され交通が遮断される。昔はもっと頻繁に災害にみまわれたのであろう。千国街道も姫川筋を避け、比較的安定している尾根道、峠越えのルートがいくつもある。そのことが少々のリアリティをもって感じられてきた。塩の道散歩へと先を急ぐ。

沓掛
左手に北アルプスを眺めながら、前山(?)の山裾を1.キロ強進むと舗装された道路にあたる。沓掛の集落である。と、ほどなく道脇に牛方宿。塩や魚類を背に、街道を往来した牛とその手綱をひいた牛方のお宿。藁ぶき屋根のこの建物は19世紀初頭のもの、と言う。
牛は明治になって、姫川筋に馬車道が通るまで、千国街道における「大量輸送」の主役であった。6頭から7頭をひとつのユニットとして、背に塩俵2表をのせた牛が街道を往来した。塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
それでは、どのくらいの牛がこの街道を往来したのか。詳しい資料はわからないが、糸魚川の3つの問屋に、1日300頭の牛が集まったという記録がある(『塩の道 千国街道物語』)。トラック300台の物流スケールと考えれば、結構な規模感、かも。[沓掛;13時3分、標高772m]

親坂

牛方宿を離れ車道を少し進む。道が大きくカーブするあたりに千国街道の道標。脇に庚申塚。道はここから車道を離れ、坂を下る。親坂と言う。名前の由来は、千国越えのスタート地点であった親の原に続く坂、とのこと。そういえば牛方宿のあった沓掛って地名も、親の里と同様に、この親坂と大いに関係ありそう。沓とは牛や馬にはかせる「わらじ」といったもの。坂道にさしかかる手前で沓を履き替え、履き替えた沓を道中の安全を祈って木などに掛けた。難路・親坂の手前で、沓を掛けたところだから沓掛とよばれたわけだ。
坂を下る。石ころ道で少々足元に注意が必要。坂道の途中に「弘法の清水」、「錦石」、「牛つなぎ石」といった案内が。弘法大師が錫杖を地面に立てたところ、あら不思議、水が湧き出た、という弘法の清水って全国に数百ある。四国八十八箇所の札所だけでも8箇所ある、と言う。この清水、上段が人用で下段が牛用。佇む弘法大師像は安永3年というから、1774年の作。親坂のことを清水坂と呼ぶこともあるようだが、それって、この弘法の清水からきているのだろう。
錦岩は、天候によって石の色が変化するとか、しない、とか。牛つなぎ石は、牛の手綱を通す穴のあいた岩。散歩をしていると、牛ばかりではなく馬をつなぐ石にも折に触れて出会う。駒繋ぎ石と呼ばれている。[親坂;標高761m]








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


親沢
急な坂を下っていくと沢に出る。親沢と呼ばれる。沢にかかる橋の手前に石仏群。馬頭観音が佇む。牛馬へのご加護を祈ったのであろう。親沢は乗鞍岳東麓を源流とし千国で姫川に合流する。この沢には何箇所か滝がある、と言う。滝って、川や沢による谷筋の開析が、もうこれ以上進めない、というところ。滝の上流の地質が硬く削れないのだろうか。はたまた、下流の開析のスピードに上流部分がついていけず、一時的に段差ができているだけなのだろう、か。下流の姫川って、名にしおう暴れ川。1000分の13の勾配で流れる川である。とすれば、後者の可能性が強いように思うが、はてさて。
ともあれ、こういった段差って、地すべりのもと、である。事実、昭和14年にこの親沢で大規模な地すべりが起きた。とはいうものの、このときの地滑りは姫川対岸の風張山が崩れ、その土砂が親沢地区にまで押し寄せた、とのことである。[親沢;標高658m]

千国番所跡
沢を渡り県道千国北城街道に出る。舗装された道を下ると千国の集落。集落の中ほどに千国庄資料館。いくばくかのお代を払い中に。千国番所跡や塩倉があった。昔ながらの民家の風情を残す資料館の炉端に座り、千国街道のビデオを見ながら、しばし休憩。
この地の歴史は古い。はじめて開かれたのは平安の頃。平将門を征伐した藤原秀郷、と言うか、むかで退治で名高い田原(俵)藤太の子孫と称する田原千国がこの地を開拓した、と。鎌倉期には白川上皇の長女の御所である六条院の荘園・千国庄となる。地方豪族の税金逃れとして荘園を寄進したのだろう、か。実際、大町に覇を唱えた仁科氏は伊勢神宮に領地を寄進し、「仁科御厨」として税金対策を実施している。で、六条院が亡くなった後は、その菩提寺となった万寿院領に組み入れられる。その時の実際的支配者は仁科氏の支族、というから千国庄が地方豪族の税金対策って空想も案外当たっている、かも。で、千国は領地支配の役所である政所としてこの地方の中心地となった。

戦国時代には武田方により口止番所が設けられる。信濃領最北の要衝の地として、千国街道の往来に睨みをきかせることになる。江戸時代は松本藩の番所として、一日千荷駄と言うから、俵にして2000俵が行き交う。が、明治になり、姫川筋に馬車道が作られて以降は経済・流通の幹線から外れ、静かな山村として今に至る。

千国街道が、この重要拠点であった千国の地名に由来することは、言うまでも、ない。この「ちくにみち」が歴史上に登場したのは平安期。六条院領となり、領主の住まいする京の都との往来に使われたのだろう、か。実際、大町の豪族仁科氏、京に対する憧れも強く、大町を京風に仕上げたようなのだが、それはともあれ、京との往来は越の国、つまりは新潟とか北陸経由であった、と言う。千国街道を往来したことだろう。鎌倉期になると、信濃や越後は鎌倉幕府の領地となる。当然のこととして、越後と鎌倉との往来が盛んになる。政治・経済、そして軍事上の道として、千国街道はその「存在感」を強めたこと、だろう。

千国街道が「塩の道」として歴史に登場するのは永禄年間というから16世紀の中頃。全国に幾多の塩の道があるなか、この千国街道が「代表的」となったのは、上杉謙信の義塩のエピソード。今川氏との対立のため太平洋側からの塩(南塩)が止められた宿敵・武田信玄に対し、塩を送った、と。この美談、実際に「お助け塩」を送ったといった記録はないようだ。が、信濃への送塩を意図的に止めることもなかった、よう。とはいうものの、後世信州の松本藩が南塩の搬入を禁じ、北塩のみを受け入れた時期が長かったことを考えると、信濃の人が越後に恩義を感じる、何かがあったの、かも。ちなみに、「塩の道」という言葉が定着したのはそれほど昔のことではない。20~30年程度前のこと。地元の有志が千国街道の整備をはじめ、観光資源としてPRし始めた頃のこと、と言われている。[千国番所跡;13時34分、標高620m]

千国諏訪神社

千国番所跡を離れ、先に進む。千国の集落を少し進むと道はL字に曲がる。趣のある民家を眺めながら道なりに進むと小谷小学校。道の下に国道148号線が接近する。千国越えは、小学校を越えたあたり、街道案内の道標を目印に脇道に入る。少し進むと千国諏訪神社。
千国諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。信濃国を開いたという神である。父は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲の神であった建御名方命が国譲りを潔しとせず、出雲を追われて科野(信濃)に逃れるが、その際の経路として、越(高志)の国・新潟から、姫川を上った、と。母は姫川の由来ともなった奴奈川姫(沼河比売)である、ということでもあるので、建御名方命の姫川遡上説は、神話ではあるが、ストーリーとしては違和感が、ない。実際、姫川筋には20もの諏訪神社がある、と言う。[千国諏訪神社;14時10分、標高588m]

源長寺
諏訪神社を離れ、細路を進む。ほどなく源長寺。おおきな道祖神、庚申塔わきの石段を上る。六地蔵、筆塚、子持ち地蔵、西国33観音像などが境内に。元亀元年というから室町末期、16世紀後半の開基。開基の洞光和尚は小蓮華(2766m)に大日如来をまつったことで知られる。小蓮華山は新潟県で最高峰の山。大日如来故に、大日岳とも呼ばれる。数ヶ月前、新田次郎さんの『槍ヶ岳開山;文春文庫』を読み終えた。3180mの鋭峰を開く幡隆上人の物語。上人たちは、天に聳える高峰に清浄静寂な極楽浄土を見るのであろう、か。ちなみに、幡隆上人は飛騨の霊峰笠ケ岳(2898m)も開いている、
それはともかく、この源長寺は赤蓑騒動で知られる。凶作に苦しむ姫川筋の農民が蜂起。一時は千国番所を打ち破り南に下る勢いであったが、この寺の和尚が宥め、暴徒化することを鎮静化させた、とか。今は、なんということのない静かなお寺さまではあるが、往時、この小谷の地の中心的なお寺さまであったのだろう。

黒川沢
源長寺の前の道を進む。山に向かっている。どうも、この道ではないよう。源長寺前に戻り、古道らしき道筋を探す。パートナーが崖下に道標を見つける。千国越えで唯一、道に迷ったところであった。崖下の細路を進む。小谷中学校の裏手といったところ。沢筋まで進む。道は沢筋を右手に眺めながら、少し上流に進み簡易な木橋で沢を渡る。この沢は黒川沢と言う。[黒川沢;14時34分、標高593m]

大別当
黒川沢を渡り、大別当へと向かう。沢を上ると田圃の畦道と言った道筋となる。眼前に姫川東岸の山々・小谷山地が開ける。心持ち丸みを帯びた山容である。柔らかい地質故に浸食されたものだろう。硬い地質でできている北アルプスの急峻なゴツゴツした山容と比較すると、2億万年の風雪に耐え枯れた風情の北アルプスと、たかだか(?)1000万年ほどの、軟な風情の小谷山地、と言ったこところ、か。
道を進むと大別当の集落に。大別当って、結構ありがたそうな名前。「別当」とは、お寺を仕切る事務長さんといったものだが、政所の長官と言った使い方もあるようだ。千国には六条院の政所があったわけで、それとなにか関係ある地名だろう、か。千国越え始点の親王原しかり、また、近くの中土地区には御所平という地名もある。今は静かな山里ではあるが、往時、やんごとなき方々がこの地を往来したのだろう
路傍に石仏、庚申塚、道祖神。大別当石仏群と呼ばれる。先に進むと杉林に入る。東斜面を、少しづつ下る。30分ほどで小土山(こづちやま)集落に出る。[大別当;14時42分、標高646m]

小土山
穏やかな山麓の集落といった風情の小土地のあたりも明治32年、そして昭和46年と大規模な地滑りに見舞われている。姫川西岸から崩れた土砂は姫川を堰き止めた。行き場を失った姫川の流れは、川に沿って通る国道に押し寄せ、道の両側に連なる家々に被害をもたらした、と(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
集落の中ほどに石仏群。庚申塔などの石仏が佇む。千国越えの道すがら、結構、庚申塔を見かけた。庚申信仰の「記念」として60年に一度石塔をたてる、とか。庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。[小土山;14時52分、標高594m]

三夜坂
風景の開けた小土山を先に進むと杉林に。曲がりくねった坂を下る。この坂を三夜坂と言う。
道脇の少し小高い構えの中に二十三夜塔。二十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどといった月待ち信仰の中で最もポピュラーなもの。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒に月を待つ。庚申待ちと同じく、ささやかな娯楽ではあったのだろう。二十三夜待ちは三夜待ちとも言う。三夜坂の名前の由来だろう。

南小谷
三夜坂を下り国道148号線に出る。南小谷に到着。特急停車の町と言うには、少々静か。山間の町である。小谷の名前の由来は諸説ある。「麻垂」はそのひとつ。麻を垂らす、の意。昭和のはじめ頃までは、小谷の地は麻の名産地であった、とか。
国道の沿って少し進み、おたり名産館や小谷郷土館をひやかし、姫川筋に。両岸の緑が美しい。対岸にある南小谷駅で糸魚川駅行きの電車を待ち、本日の宿泊地である姫川温泉に向かう。本日の散歩はおおよそ4時間、11キロ。


千国越えで気になったのは石仏の多いこと。道祖神とか庚申塚といったものは散歩の折々で目にするのだが、観音さまの石像が多いのが目に付いた。信州は観音信仰が盛んであったとよく言われる。六条院領など親王の領地であったことが京との往来を盛んにし、西国33観音信仰といった観音信仰をもたらしたのか。鎌倉期、信濃は鎌倉幕府の領地。観音信仰がひとかたならぬ将軍頼朝の影響、か。はたまた、その鎌倉幕府が庇護し全国区となった善光寺さんの影響か。よくはわからないが、はっきりしていることは「牛にひかれて善光寺詣り」の牛って観音様の化身。それであれば、幾多の観音様が道端に佇むのは大いに納得。さて、明日は大網峠越え、となる。[南小谷;15時23分、標高502m]