今回は八菅山を離れ。第二の行所から第五の行所である塩川の谷までをメモする。八菅神社から塩川の谷までは中津川に沿って、のんびり、ゆったりの散歩ではあったが、塩川の谷に入り込み、瀧行の行われた瀧を探すには少々難儀した。塩川の谷では塩川の滝の他にもあると言う、胎蔵界の瀧、金剛界の瀧といった曼荼羅の世界を想起させる瀧を求めて雪の残る沢を彷徨うことになった。
本日のルート;八菅神社>幡の坂>第二行所・幣山>第三行所・屋形山>金比羅神社>馬坂>愛宕神社>日月神社>琴平神社>第四行所・平山・多和宿>勝楽寺>第五行所・滝本・平本宿(塩川の谷)
■八菅修験の行者道
八菅の行者道をメモするに際し、先回のメモで山林での修行者か山岳修行と結びつき、密教・道教などがないまぜとなった修験道が成立するまでのことはちょっとわかったのだが、よくよく考えてみると、丹沢の行者道を辿った「峰入り」がいつの頃からはじまり、いつの頃その終焉を迎えたのか、よくわかってはいなかった。先回のメモとの重複にもなるが、八菅修験の経緯をまとめながら丹沢山塊への「峰入り」の開始、そして終焉の次期についてチェックする。
○八菅修験のまとめ
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。
山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。 山林に籠り修行する山林修行者を「山伏」,「修験者」と呼び始めたのは平安時代。鎌倉から室町にかけて、修験者の行法は次第に体系化され、教団組織が成立。そのうちで最も有力な熊野修験を中央で統括する熊野三山検校職を受け継いだのが園城寺(三井寺)の流れをくむ聖護院であった。その聖護院を棟梁として成立したのが本山派である。
八菅山と聖護院が結びついたのは戦国時代。江戸時代には、聖護院宮門跡の大峰・葛城入峰に際しては、八菅の山伏が峰中(ぶちゅう)の大事な役を果たすなど、八菅修験は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた。
自前の修行エリアと入峰儀礼を持たない他の山伏と異なり、この地では綿々と峰入修行が行われていた、と言う。とはいうものの、「江戸時代の一般の山伏の生活は、中世以前の山林修行者とは異なり村落や町内にある鎮守の別当や堂守として生活しながら、地鎮祭やお祓い、各種祈祷など地域ニーズに応えていた」と述べている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。
○江戸時代の修験道
この記述から江戸時代とそれ以前では、為政者と修験者の関係が大きく変わっていることが忖度できる。八菅修験ではないが、大山寺修験は徳川幕府の政治的圧力を受け、一山組織が事実上壊滅したとのことである。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によると、天正18年(1590)、家康が江戸に入府し、相模の有力寺社に寄進するもそこには大山の名前ななく、大山に寄進されたのは慶長13年(1608)になってのことである。
その理由は家康とその意向を受けた別当(一山の領主的僧侶)と大衆(だいしゅう;一山の大半を占める宗教者達)との対立であった。大衆の多くが修験者・山伏であり、山岳修験を禁じ、「お山」」を下りることを求める為政者と対立したわけではあろうが、所詮幕府の力に抗すべくもなく、お山を下りることになる。
天保年間に記された『新編相模国風土記稿』には「師職166軒、多く坂本村に住す。蓑毛村にも住居せり。皆山中に住せし修験なりしが、慶長10年、命に依りて下山し、師職となれり」と伝える。師職とは御師・先達のこと。こうして山を下りた山伏は山麓の「御師」に転身して門前町を形成、江戸時代の「大山参り」の流行を支えたと言われている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)
○丹沢の峰入りの開始時期
江戸になり大山修験では山伏がおこなっていた峰入りの行法は途絶え、修行の道であった行者道も途絶えたと言われる峰入りであるが、はたしていつの頃から「峰入り」はじまったのだろう。
あれこれチェックすると、山林修行者が個人で行っていた抖?(とそう)が集団で行う「峰入」儀礼に発展したのは院政期、大峰・熊野で成立したと考えられる。おおよそ11世紀頃とのことである。
で、この地、大山・八菅山での「峰入」がいつの頃はじまったのか、その時期ははっきりしない。はっきりとはしないが、抖?(とそう)ルートが「上人登峰。斗藪三十五日也」とあり、その行所も記載されている『大山縁起』の成立期が中世前期とのことであり、それから考えるに丹沢での峰入りが開始されたのは中世前期を下ることはない、ということではある。
○春の峰入り
この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートの記録は残っていないようである。以下、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』をもとに。春の峰入りについてメモする。
春の峰入は旧暦2月にはじまることになる。修験は神社脇の経塚付近にあった禅定宿から始まる。身を清め、諸堂舎の本尊を巡る行道など前行(ぜんぎょう)が何日も続き、峰入は2月21日に始まる。最初の3週間は八菅山内堂舎に籠り、勤行、作法の伝授、真言・経典の暗唱、断食などの修行が堂内で繰り返された。 3月18日、山岳抖?(とそう)に入る。そして第30行所大山寺不動堂(現在の阿夫利神社下社)に勢ぞろいしたのは3月25日であった。ということは、修験35日のうち八菅山で27日を過ごし、峰入りは行者道を1週間程度をかけて辿ることになる。
修験の最大の眼目は“不動”になる、有体に言えば「自然になること」と言う。白山修験は白山権現で始まり、その終わりも大山の白山不動で終わり、そして生まれ変わるということのようである。
○春の峰入りの行者道

八菅修験で重視される白山権現の山(12の行所・腰宿)での行を終え、小鮎川を「煤ヶ谷村」の里を北に戻り、上でメモした不動沢での滝行の後、寺家谷戸より尾根を上り、辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。
唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行所である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行所である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
○八菅修験の峰入の行所
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動
と、峰入りのことをまとめてきたが、上でメモしたように江戸時代に為政者による政治的圧力によりその下山を余儀なくされたわけであり、「蟻の熊野詣で」といったように、修験者が盛んに峰入りをおこなったわけではない。文政年間以降の記録では入峰者数は多い年で24人しかいない。
上で「江戸時代,八菅山は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた」と引用した。しかしそれも、入峰者の数、多いとき24人といった程度では、山から下山させた「山伏・修験者」を教団傘下に組み入れ管理するといった宗教政策の一環として本山派聖護院門跡の統制下に置いたといったことではないか、とも妄想する。
明治に入ると、明治の神仏分離令と修験道廃止令の結果、明治4年(1871)の11人を最後に峰入りは途絶えることになる。多くの山伏が還俗(僧尼が俗人になる)を余儀なくされるが、神官に転じた人も多かった、とのことである。
幡の坂
道を進み、石碑に到着。ためつすがめつ眺めては見たものの、一部欠けている石碑の文字を読み解くことはできなかった。 ちょっと残念ではあるが、石碑を離れ「幡の坂」の道標を見遣り、沢筋に下り、鹿なのか猿なのか、ともあれ獣が里の作物を荒らすのを防ぐ防御柵に沿って里に下りる。
かわせみ大橋
第二行所・幣山(愛川町角田)
鳥居脇に案内。「?天岩屋(タテンイワヤ)は八菅修験の峰入修業における第2番目の行所。この岩屋はかつて山伏以外の者の立ち入りを禁じていた聖地で、中津川に臨む断崖の頂にはたいへい岩と称する巨岩があり、毎年3月7日に此処で山伏が秘水をもって灌頂したという。岩屋に鎮座する石神社は大宝3年(703)役小角によるものと伝えている。また、幣山の名は峰入りのときに五色の幣(ヌサ)を納めた故事に由来している』とある。
石段を上り、石神社にお参り。石神社の社殿の左手に岩場が見える。そこが幣山ではあろう。神社の脇には「是より登山禁止」と刻まれた文久年間に造られた石碑が建つ。これより先の岩場は、平安末から鎌倉時代の経塚が発見されたように、古代から祭祀を行う聖地であった、と言う。
説明を追加 |
祠も何もない岩場でしばし過ごし、さて引き返す、ということだが、往きはの上りだが、帰りは下り。これが結構怖い。木の根元から手を話さないように、恐々と元に戻る。距離、というほどの長さでもないのだが、緊張の時を過ごした。
丸山耕地整理竣工記念碑
海底地区
○金毘羅神社
○馬坂
馬坂を先に進むと「打越峠」を経て荻野川筋の谷に到る。厚木市上荻野の丸山地区である。往昔。厚木市上荻野の打越から、海底を経て、中津川を渡り、関場坂から田代、上原に至り、そこから志田峠を越え、津久井の鼠坂の関所を過ぎて吉野宿へと通じる道があったという。はっきりとはわからないが、馬坂は小田原から甲州への通路であるこの道は「甲州みち」と称された道の一部ではないだろうか。
因みに、「打越」って「直取引」の意味もあるようだ。海底と萩野の間でそれっぽい取引が行われていたのだろか。また、連歌・連句で前々句のことを意味することより、次の宿に泊らず、その先の宿まで行く、といった意味もあり、よくわからない。
○愛宕神社
愛宕神社って、火伏せ・防火にある社として知られるが、山城」・丹後の国境の愛宕山に鎮座する本社は、修験道の祖とされる役小角と、白山の開祖として知られる泰澄によって創建されたとの縁起が伝わるように、神仏習合の頃は、修験の道場として愛宕権現を祀る信仰を霊山であったようだ(Wikipedia)。八菅修験第三の行所であったとの説明も頷ける。
○日月神社
それはともあれ、祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)と月読尊(ツキヨミノミコト)。「新編相模国風土記稿」には「小名海底ノ鎮守ナリ 石ニ顆ヲ神体トス 永禄ニ年(1559)ノ棟札アリ」とある。境内入口には安永6年(1777)の庚申塔、安政3年(1856)の廿三夜塔、寛政12年(1800)の百番供養塔、馬頭観音などが並んでいます。
祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)とは天照大神ともその幼名とも。と月読尊(ツキヨミノミコト)は天照大神の弟神との説もあるが諸説ある。ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になり、月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もあり。門外漢はこの辺りでメモを止めるのが妥当か。とも。
第三行所「屋形山」
第四行所「平山・多和宿」(愛川町田代)
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、正確な場所は不明だが、全国の修験霊山に共通する「多和宿」という宿名から、平山地区が「タワ」、つまり、中津川沿の丘陵と経ケたけを含む山塊の間にある、鞍部の宿として認識されていた」とある。この多和宿という名称をチェックすると、実際、吉野大峯奥駈道、日光。白山など修験の霊地にその名が残る。
「タワ」は「撓む=他から力を加えられて弓なりに曲がる」という意味。山では鞍部ということで、先日の大山三峰の行者道を掠ったとき、山の鞍部というか、平場に行所・宿があったが、この地は『丹沢の行者道を歩く』での説明もさることながら、ここの地形そのものが「撓んで」いる。平山地区の北で大きく蛇行した中津川の流路そのものが「撓み」そのもののように思える。平山地区の対岸の田代地区は蛇行する中津川によって流されてきた土砂が堆積した中洲のようにも思える。実際、田代地区の真ん中にぽつんと残る独立丘陵は撓む中津川の流路の変更により取り残された丘陵(還流丘陵「)と言われる。
琴平神社
琴平神社から真っ直ぐ進むと国道412号が走る。平塚より相川・半原を経て相模原にむかう国道412号をくぐると趣のある重厚な山門が見えてくる。
田代の半像坊
国道手前の案内には、「ここ勝楽寺は、遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれています。毎年4月17日に行われる春の例大祭は、この付近では見られない賑やかな祭りです。かつてこの日は、中津川で勇壮な奉納旗競馬、大道芸、相撲大会などの催しがありました。また、近郷近在の若い花嫁が、挙式当日の晴れ姿で参拝する習わしがあり、『美女まつり』ともいわれました。環境庁・神奈川」とあった。
草創は古く、弘法大師が法華経を書き写した霊場と伝えられています。もとは真言宗に属し、「法華林」の名があり、背後の山を「法華峯」と呼んだ。初めは永宝寺と称した。後に常楽寺から勝楽寺に変わった。天文年間(1532-1554)に能庵宗為大和尚が開山し曹洞宗となる。開基は内藤三郎兵衛秀行でお墓もある。 歴代の住職には名僧が多く、越後良寛の師、国仙禅師などあった。寛政5年(1793)に焼失し、後再建され現在の姿になった。
建物のうち山門は名匠右仲、左仲、左文治の三兄弟の工によるもので、楼上に十六羅漢の像がある。寺内には遠州奥山方広寺からの勧請した半僧坊大権現があって、4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁が、参拝して「花嫁まつり」ともいわれ、植木祭りとともに賑わう」とあった。
ここ勝楽寺は、堂々とした禅寺にもかかわらず、「遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれている」とある。半僧坊って一体全体、どれほど有難い「存在」なのであろう。
最初に半僧坊と出合ったのは鎌倉の建長寺。そのときのメモ:建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と称された」と。
奥山の半僧坊が有難いお寺さまであることはわかった。が、それでもなんとなく、しっくりこない。あれこれチェックすると、半僧坊への信仰が広まった時期は明治10年以降とのこと。建長寺も勧請は明治23年(1890)、埼玉の名刹平林寺も勧請は明治27年。方広寺の鎮守に過ぎなかった半僧坊は、明治10年代に入ってから、急速にその信仰が拡大し、静岡や愛知の寺院にいくつか勧請された他、名古屋・長野・鎌倉・横浜などに別院が置かれた、と。
で、明治10年代とは明治政府の政策によって、修験道系の宗教が抑圧された時代。その時期に半僧坊が急速に発展したのは修験道と関係があるように思える。カラス天狗といった姿は役行者というか修験道を想起させるし、実際奥山方広寺を訪れた時、境内に役行者の像もあった。政府の修験道禁止にやんわりと抵抗したお寺さまの知恵であろうか。単なる妄想。根拠なし。
国道412号
この国道412号は半原の北の台地へと登り切ると、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る。いつだったか、武田氏と後北条氏が戦った三増合戦の跡を志田峠を越え、また武田軍の甲州への退却路を辿ったとき、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る国道412号を歩きながら、その発達した河岸段丘に比べ、誠にささやかな流れである串川とのアンバランスが誠に気になったことがある。
チェックすると、現在は中津川水系となっている早戸川は往昔串川と繋がり、その豊かな水量故に発達した河岸段丘ができたわけだが、その後、といっても、気の遠くなるような昔ではあろうが、河川争奪の結果中津川筋にその流路を変えたため、串川は現在のささやかな流れとなり、発達した河岸段丘が残ったということである。 また、韮尾根の台地から半原へとバイパス道として整備された国道412号を下ったこともある。このバイパスが完成する前は、さぞかし難路・険路であったのだろう。そんなバイパスとして台地に張り付くように整備された国道412号を塩川の谷へと進む。
第五行所「塩川の谷」
国道から釣り場に下るアプローチの坂を下り、コンクリートで護岸工事が施された塩川を渡り、料理旅館手前を塩川左岸に沿って谷筋へと向かう。国道412号下をくぐり、民家を越えると橋がある。橋の右手、廃屋の裏手から沢が流れ込む。
○塩川の滝
この社の祭神は大日?貴神(おおひるめのみこと)、となっているが、系列を同じゅうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(大国主命)とし、本地物に千手観音を祀っており、神仏習合の姿を整えていた。そして「滝籠り」による厳重な修行が行われていた 愛川町商工観光課」とあった。
大日?貴神(おおひるめのみこと)とは天照大神であるのはわかるのだが、熊野那智の滝における、大己貴尊>千手観音にあたるものが説明されておらず、なんとなく言葉足らずの説明。
チェックすると、奈良時代、良弁上人が清瀧大権現を祀ったとの伝えがあった。半原地区に、開山が良弁上人、本尊作者を願行とする「今大山不動院清瀧寺」という古義真言宗お寺が明治2年(1869)まであったようであり、大山と同じ開基縁起をもつ由緒あるお寺のようであるので、塩川の滝は我流解釈ではあるが、大日?貴神>清瀧大権現のラインアップとしておこう。実際滝そばの石碑には「塩川大神 青龍権現 飛龍権現」とあった。
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、この塩川の谷には江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。また、塩川の滝以外に瀧が存在するようである。地元の伝承にも金剛瀧と胎蔵瀧が伝わる。『今大山縁起』と『大山縁起』にもそれを示す表現が残るようであるので、ふたつの縁起を見比べながら、チェックする。
○『今大山縁起』と『大山縁起』
■『今大山縁起』
「東者有塩竈之滝(東には塩竈之滝がある)、七丈有余而(七丈有余)、是名金剛滝(この名は金剛滝)、常対胎蔵界之滝(これに対して胎蔵界之滝がある)、西者有明王嶽(西には明王嶽(仏果山)、望法華方等之異石、花巌般若之岑直顕(法華方(経ヶ岳)などの異石(経石)をみて花巌般若之岑(経ヶ岳から華厳山)が直ぐに現れる。
彼滝下安飛滝権現之鎮座(滝下には飛滝権現が鎮座)又有高岩、岩下有仙窟(高岩があり岩の下に仙窟がある)別真之所、鈴音響干朝夕(別真之所で朝夕鈴音が響く)其外霊石燦然而、表五仏之尊容(それ以外には霊石が燦然とし、五仏之尊容を表す)」。
■『大山縁起』
次有瀧。名両部瀧。阻山北有瀧。瀧高七丈餘。是爲金剛界瀧。時々放圓光。對胎蔵瀧有高岩。下有仙窟。列眞之所都也。有振鈴之聲。今聞。有岩窟。亦有霊石。表五佛形。或華厳般若峰。或法華方等異岩。(次に瀧がある。両部瀧との名。山を阻んで北に瀧がある。瀧の高さは七丈餘。時々圓光を放つ。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。下には仙窟がある。列眞之所都である。振鈴之聲がある。今も聞こえる。岩窟がある。また霊石もある。五佛の形を表す。あるいは華厳般若峰(経ヶ岳から華厳山)、法華方(経ヶ岳)などの異岩(経石)がある。)
『今大山縁起』には塩川の滝(塩竈之滝)が金剛滝と呼ばれ、そのほかに胎蔵界之滝があり、金剛滝の滝下には飛滝権現が鎮座し、高岩があり岩の下に仙窟がある、とする。
一方『大山縁起』では「両部瀧(金剛滝と胎蔵滝)があり、山を阻んで北に高さは七丈餘の滝(これが金剛滝?)がある。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。胎蔵瀧下には仙窟がある、とする。
塩川の滝と金剛界之滝、胎蔵界之滝が入り繰りとなっており、微妙に滝の名や場所が異なってはいるが、塩川の滝以外にも滝の存在を示していることは間違いない。また、洞窟・仙窟の存在も示している。
○仙窟
大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。
弁天様って七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。
江の島とつながる仙窟があるとも思われないので、それはそれとして、塩川の滝以外の滝を探すことにする。
○金剛瀧と胎蔵瀧
実のところ、この両部瀧探しは2回になってしまった。第一回目は塩川の滝へと左に折れる辺りを直進すると小高いところに塩川神社があり、その先に大きな堰堤が聳える。その沢に入り込めばなんとか成るかと思ったのだが、猪だか鹿だか、ともあれ猟師と猟犬が塩川の瀧の上流部に接近しており、ビビりの小生としてはとても散弾に当たるのも、猟犬に噛まれるのもかなわんと、上流の沢に入り滝を探すことを諦めた。
可能性としては塩川の谷に入り、民家の切れる辺りに右側から塩川に流れ込む沢と、堰堤のある沢。このふたつの沢を彷徨えば、なんとかなるか、とは思ったのだが、チェックしていると愛川図書館に「あいかわの地名 半原地区」という小冊子があり、そこにふたつの滝の場所が詳しく書かれているといった記事を目にし、2回目の瀧探しの途中で図書館に立ち寄り小冊子を閉架棚から取り出してもらい、その場所を確認する。
その小冊子には詳しい沢の場所に関する記載もあり、それによると、小松沢は民家が切れるあたりで右から流れ込む沢。上流で二手にわかれ、右手が両玄沢、左手が小松沢であった。また、大椚沢は堰堤のある沢であった。 また滝の場所は、「地蔵滝(飛龍滝、胎蔵界滝);小松川の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添947番地と948番地の間にある。高さは35メートルほどで、落ちたとこから飛龍沢となり大椚沢に合している」、「蜀江滝(金剛瀧);大椚沢の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添948番地と950番地との間にある。滝より下を蜀江滝とも呼び、塩川に合する」とあった。
この記述によれば、小松沢上流の胎蔵界滝は大椚沢に合しているようだ。沢の地図では二つの沢は合流していないのだが、上流の支流が大椚沢へと流れ込んでいるのであろうか。
■金剛滝
ということで、アプローチは堰堤を越え大椚沢から滝探しを始めることに。堰堤前にある塩川神社にお参りし、巨大な堰堤に接近。高巻きが必要かとおもったのだが、堰堤保守の便宜のためか堰堤左手にステップがついており、苦労せず堰堤上に。
堰堤から上流を眺めると沢は一面の雪。堰堤の左隅から沢に下り、ずぶずぶの雪に足を取られながら進むと正面に大岩壁が見えてきた。冬場で水量は乏しいが『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載されている写真から判断すると、金剛滝のようである。水量は乏しいとは言うものの、一枚岩の岩壁から流れ落ちる30m滝はそれはそれで、いい。
滝の左手に岩場があり、上って先に進めるかチェックするが、その先の絶壁はザイルやハーネスといった装備がなければ、とてもではないが恐ろしくて勧めそうもない。
岩場から下り、しばし滝を眺めた後、もうひとつの胎蔵瀧を探す。岩壁の右手のほうに濡れた岩場があり、その先の岩壁からかすかに水が落ちている。瀧の説明では共に小字境に近い辺りであり、住所も小字塩川添947番地と948番地の間、小字塩川添948番地と950番地との間ということだからお隣といった場所のように思えるのだが、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載された滝の姿とは何となく異なるように思える。装備準備でもしておけば先に進むのだが、今回はパス。
その代案として、塩川の谷の入口近くにあった小松沢を遡上することした。が、結構上るも滝を見付けることもできず、日没も近くなってきたので引き返す。雪も溶けた気候のいい頃、再び胎蔵瀧を探すことをお楽しみとして残しておくことにする。
○大山修験の行者道
