木曜日, 6月 30, 2011

関ヶ原散歩そのⅠ;佐和山からはじめ、関ヶ原の西軍の陣跡を辿る


もう数年前のことになるかとも思うのだが、会社の同僚と関ヶ原合戦跡を歩いたことがある。きっかけは何だったのか、定かに覚えてはいないのだが、合戦に登場する笹尾山とか松尾山とか南宮山とかの地形を、文字面だけでなく、実際に歩いてみよう、といった、その場の成り行きではあった、かと。ルートを想うに、どうせのことなら、関ヶ原合戦の前哨戦、というか、ことによったら主戦場となったかもしれない西軍の大垣城、東軍の赤坂の家康陣跡地もカバーし、それぞれの位置関係・距離感などを実感しよう、また、どうせのことなら、攻城戦を嫌った家康が主戦場を大垣城から離すために流した、とも伝わる、「東軍は大垣を攻めず、直接三成の居城・佐和山城を抜き、大阪城に向かう」、といった噂のキーワード、三成の居城・佐和山城もカバーしようということになった。佐和山城址がどこにあるのかも知らなかったのだが、チェックすると佐和山城址って、彦根にあった。彦根城は数回訪れたことがあるのだが、その「はじまり」が佐和山城であったことなど、全く知らなかった。

日程は1泊2泊。初日は彦根まで新幹線を利用し、そこからはレンタカーで動く。最初に佐和山城址を訪れ、次いで関ヶ原に戻り、主戦場となった関ヶ原の平地を、主として西軍陣地址を中心に歩き、宿泊は大垣とする。
2日目は大垣城あたりを彷徨い、東軍が大垣城攻防戦の陣とした中山道・赤坂宿、進軍路の垂井宿に進み、その後、西軍の毛利軍が陣を敷いた南宮山、小早川軍が陣を敷いた松尾山に上る。そして、時間次第で島津軍が東軍を中央突破して退却戦をおこなった、南宮山の西、現在では名神高速が走る牧田川にそった牧田路を下る、といったルーティングを想った。
散歩は数年前のこと。所用や私用で関ヶ原を新幹線で通過する度に、そのうちに、そのうちにメモをしなければ、気になりながらも、そのままにしておいた散歩のメモである。当時の写真を頼りに、薄れゆく記憶に抗いながら、メモをはじめる。



 本日のルート;佐和山城址>醒ヶ井宿>国道365号・北国脇往還>「決戦地」跡>笹尾山・石田三成陣跡>島津義弘陣跡>関ヶ原合戦開戦地碑>小西行長陣跡>宇喜多秀家陣跡>大谷吉継陣跡>平塚為広の碑

佐和山城址

JR米原駅で新幹線を下車。駅前でレンタカーを借りて彦根に向かう。県道329号線を走り、彦根城に。彦根城の雰囲気だけを少し感じ、市内を抜けて東海道線を越えて国道8号線に進む。佐和山城址は彦根市内の東、鈴鹿山系から独立した丘、というか山陵にある。佐和山のある独立山稜と鈴鹿山系の間には中山道、現在の国道8号が通る。
佐和山城址へのアプローチは、鈴鹿山系が琵琶湖に向かって大きく張り出した先端部近くを穿つ国道8号線のトンネル手前、国道左側の斜面にある東山ハイキングコースからスタートする。スタート地点付近はブッシュが茂り、それほど整地されてはいなかった。山頂へのアプローチは井伊家の菩提寺潭龍寺からのコースもあるよう、だ。
10分ほど緩やかな山道を進むと太鼓丸の案内。さらに数分で千貫井戸があった。お金・千貫にも代え難い貴重な井戸ではあったのだろう。このあたりからは彦根市街が見渡せた。山頂には上り始めて30分程度だった、かと。山頂の手前には本丸の石垣の跡が数個残っていたが、関ヶ原の敗戦後の佐和山城攻防戦で完膚無きまで打ち壊され、また、戦後の彦根城普請に持ち去られた佐和山城の、いまに残る僅かな名残ではあった。
山頂は標高232.5m。かなり広く、佐和山城本丸跡の碑がある。石田三成が天正18年にこの佐和山の城主となり五層の天守閣を構えた、とのこと。木立に遮られあまり見通しはよくなかったが、往昔、天守からは湖東地域や、佐和山の東の隘路を進み関ヶ原方面に向かう中山道と、木之本峠方面に向かう北陸街道の分岐を見通せる交通の要衝の地であったのだろう。
とはいいながら、実のところ、この城址が「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と、言わしめたほどの、規模感が感じられなかった。それは天守へのアプローチの問題も大きかったのか、とも思う。後からわかったことなのだが、佐和山城の大手門・大手道は佐和山の山稜の東、中山道の通る鳥居本のほうであった。大手門方面からのアプローチであれば、佐和山山頂を本丸とし、西尾根に西の丸、東尾根に太鼓丸、千畳敷、法華丸、山頂から北側に流れる尾根道には二の丸、三の丸を配した、鶴翼の構えを呈するお城の広がり感が感じられたのかもしれない。もっとも、「過ぎたるもの」としての佐和山城は、その「結構」でなく、難攻不落の堅城のことを指すのかもしれない。浅井方の支城であった頃、当時の佐和山城主・磯野員昌が織田方と戦い、8ヶ月も持ち堪えた、という。もっとも、この堅城も慶長5年(1600)の関ケ原合戦で三成が敗れると、3日後に落城した。
ところで、地形図を見ながら、何故に中山道は独立丘陵・佐和山の西の湖側を通らず、東の隘路を進むのであろう、と少々思い悩んだ。現在は平地ではあるが、往昔、湖側は湿地帯でもあり、往来まま成らず、であったのだろう、などと想像しながらチェックする。結果は予想どおり、佐和山の独立丘陵の北側には入江内湖、西側に松原内湖といった、琵琶湖の「内湖」が拡がっており、中山道が独立丘陵の東を通らざるを得なかった、ということである。佐和山の城はこの内湖をとおして琵琶湖と結び、水運のための湊と繋がっていた、と言う。松原内湖にはクランク型の通路が佐和山の山麓から続き、琵琶湖の近くには幅5.4m、長さ540mの百件橋と呼ばれる橋もあった、とか。「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と百間の橋」とも呼ばれたように、まさに、佐和山の地は水陸交通の要衝であった。これも過ぎたるもの、としての佐和山城の価値かもしれない。

現在彦根の町は佐和山の西、湖側に開けている。関ヶ原合戦の後、佐和山の城主となった井伊氏は佐和山を棄て、現在の彦根城の地に城を築いた。松原内湖に注いでいた芹川の流れを変え、直接琵琶湖に流す河川付け替え工事をおこない、湿地を埋め、城下町を築いていった。いくつかの大名を動員した、一種の天下普請であった、と言う。城下を巡る三重の濠は松原内湖を通じて琵琶湖と繋がっており、湖に囲まれた水城であった、とか。ちなみに、入江内湖、松原内湖は戦前まで残り、戦時中の食糧難の時期に埋め立てられた、とのことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

醒ヶ井宿
佐和山城址を離れて関ヶ原に向かう。現在の中山道は米原まで北に進み、そこで北に向かう国道8号と分かれ、国道21号となって北の伊吹山系と南の鈴鹿・養老山系を分かつ地溝を東へと向かう。昔の中山道はこのルートとは異なり、佐和山東の隘路を進み、鳥居本宿の先を右に折れ、摺針峠を越え、馬場宿から醒ヶ井宿へと北東に進む。現在の名神高速道路がその道筋に近い。鳥居本宿は京から数えて7番目、江戸から63番目の中山道の宿。多賀大社の鳥居がこの地にあったことが名前の由来、とか。ともあれ、中山道を進むと醒ヶ井宿に。如何にも「水」に関係するといった名前に惹かれ、迷うことなく立ち寄ることに。
旧道に沿った地蔵川の水は、豊富な湧水に潤され誠に美しい。地名の由来ともなった、「醒ヶ井」の湧水地は、日本武尊の伝説に登場する。『古事記』や『日本書紀』によれば、東征の帰途、伊吹山の荒ぶる神を退治にでかけた日本武尊は、苦戦し発熱、正気を失うほどになった、とか。やっとのことで山を下り、この湧水の水で体を冷やすと、あら不思議。熱も下がり気力回復と相成った、と伝わる。江戸の頃の儒学者で朝鮮・中国との外交に尽力した雨森芳州は、「水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉と見るまで」と読む。水が美しく、川底の小石までが玉のように見えた、といった意味だろう。西行も「水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」とも詠う。誠に美しい流れに、湧水フリークとしては、しばし彷徨いたい、とは想えども、今回は関ヶ原がメーン。名残を残し先に進む。


国道365号・北国脇往還
鈴鹿山系と伊吹山系を僅かに分ける地溝帯を進む中山道・国道21号を、柏原宿、今須宿をへて関ヶ原に。関ヶ原西町交差点で国道365号に乗り換え、関ヶ原の町を北西に進む。国道365号はこの関ヶ原町から木之本町までは往昔の北国脇往還。中山道・関ヶ原宿と北国街道・木之本宿を結び、北陸と東海・東国を結ぶ最短路であり、多くの人々が往来した。

「決戦地」跡
最初の目的地は石田三成陣跡。関ヶ原西町交差から国道365号を1キロ強進んだ笹尾山のあたりにある。国道を少し進むと、道から少し北に入ったところに「関ヶ原歴史民俗資料館」。実のところ、この資料館を訪れた記憶が全く、ない。記念館の写真は残っていないが、手元に「天下分け目の関ヶ原ウォーキング ザ・ウォーマップ」といった資料が残ってはいるので、多分訪れたのでは、あろう。また、車を何処に駐車したのかも覚えていない。が、写真の中に、笹尾山の麓の田畑の中にある「決戦地」跡の写真が残っていたので、多分、このあたりのどこかに車を駐車して歩きはじめたのだろう。決戦地は石田勢と東軍の激戦が繰り広げられた場所である。笹尾山・石田三成陣跡は「決戦地」から20分弱歩いたところにあった。

笹尾山・石田三成陣跡

決戦地もそうだが、笹尾山・石田三成陣跡も幟が立ち並び、竹矢来とか逆茂木が復元され、いかにもそれっぽい。遊歩道を上り山頂、といっても標高198m。北国脇往還の標高が165mあたりではあるので、小高い丘、といったところではあるが、そこが、三成が陣を敷いたところ。北国脇往還を扼し、関ヶ原が一望のもとに見下ろせる如何にも戦闘指揮所にふさわしい場所である。本陣には三成の旗、「大吉大万大一」の白旗が翻っていたのだろう。

三成がこの笹尾山に陣を敷いたのが慶長5年(1600)、9月15日午前1時頃。9月14日午後7時頃、大垣城に詰めていた西軍は関ヶ原を目指し、石田軍を最初に、第二に島津、第三は小西、第四に大谷・脇坂・朽木・小川・赤座、第五・殿軍を宇喜多の順に出発した。順路は大垣の西から杭瀬川を渡り野口村へ迂回。南宮山に隣接する栗原山の麓に至り、そこから山入りし南宮山の西、牧田川が開いた牧田路を北に上り、関ヶ原に向かった。大きく迂回した理由は、大垣の北、4キロほどのところにある赤坂に布陣した徳川家康の、軍勢に進軍を秘するためであった、と言う。
大垣城から関ヶ原に移動した理由は、人それぞれ、いろんな意見があって、よくわからない。もともとは、主戦場は美濃平野での一大会戦といった思惑であり、三成は8月10日にはその拠点として大垣城に入城、諸将を大垣に集める。伊勢路を転戦していた宇喜多秀家の軍は9月3日に大垣に入城している。
その一方東軍は、8月14日には福島正則の居城 清洲城に入城。8月23日には西軍・織田秀信の岐阜城を落とす。織田信長の直系、幼名三法師君、として秀吉から格別の扱いを受けていた織田方の居城を、福島政則をはじめとした豊臣恩顧の大名が格別の思いもなく攻略したのは、西軍にとっては予想外の展開となった。その後、9月3日には東軍は赤坂の岡山に砦を築く。ここに至って、東軍の戦略は、家康の到着を待って赤坂を本陣に、岐阜城、清洲城の軍勢が共に大垣城に攻め入る、と考えられた。
状況が動いたのは9月13日、家康が岐阜入城、9月14日には赤坂に陣を敷いた。予想外の進軍の早さであった。ここまでの経緯は、ほぼ定着しているが、その後の戦略シナリオは人それぞれ。三成が関ヶ原に動いたのは、大垣攻城戦を避けるため、「直接中山道を進み佐和山城を攻め落とし、大阪城に進む」といった家康の謀略に三成が乗っかった、とか、堂々たる会戦をすべく三成が関ヶ原を決戦の地に選び家康を待ち受けたとか、あれこれ。ともあれ、15日の午前1時頃、雨の中を着陣。総勢六千。本陣の下、逆茂木の前面には第一段として島左近と蒲生郷舎。第二段は舞兵庫など、一騎当千の将が二千を率い、第四段構えで東軍に備えた。

島津義弘陣跡
石田軍の陣跡を離れ、順次西軍の陣跡を辿る。陣跡の並びは、北国脇往還から中山道にかけて、大垣城を出た順に北から南に陣を敷く。先軍石田に続き大垣城を出た島津義弘の陣跡を目指す。国道365号・北国脇往還に戻り、小池北交差点手前あたりから成り行きで国道を離れ南に入る。目安は神明神社の社叢。神社の裏手あたりに島津義弘陣跡があった。石田軍の陣跡からおおよそ30分弱といったところであった。現在は神明社の鎮守の森が繁るが、当時は灌木まばらな草地。社の西を流れる梨の木川に向かって緩やかな上りとなる傾斜地に、川を背に文字通り、背水の縦深陣を敷いた、と伝わる。
大垣城を出て、この小池村に着陣したのは午前3時頃であった、と。軍勢は一千弱。義弘と本国島津の当主・島津義久との確執などもあり、本国からの正式な援兵は無く、ひたすら義弘を慕い本国からはせ参じた者、その数数百、とも。薩摩ん本強漢(ぼっけもん)の「島津の走り」と呼ばれた。



軍に属する島津は当初、東軍に加わる予定であった、と言う。伏見城に籠城する徳川方・鳥居元忠の援軍に馳せ参じるも、鳥居元忠より、家康よりの援軍要請の報無き故、として拒絶され、西軍に与することとなる。が、しかし、慶長の役などで明・朝鮮の大軍を寡兵で撃破、大勝するといった、根っからの武人と、これまた根っからの官僚である三成との戦略・戦術の乖離は大きく、特にこの関ヶ原の合戦においては、島津の軍勢は、西軍でも東軍でもなく、寄せ来る軍勢は退けるも、ひたすら「静観」を続けた。関ヶ原の合戦における島津の「活躍」は、西軍が敗れた後の、東軍の真っ直中、家康本陣をかすめた、と言う中央突破の脱出・撤兵戦のみ、であろう。

関ヶ原合戦開戦地碑
島津の陣跡を離れ、右手に左右に田園の地を眺めながら進む。右手には梨の木川を隔て、天満山が見える。道なりに10分ほど歩き、梨の木川を渡ったあたりに「関ヶ原合戦開戦地碑」。実際は、もう少し離れたところではあった、とか。開戦は家康の四男である松平忠吉とその後見人である井伊直政と西軍宇喜多軍の明石掃部全登との交戦ではじまった。
娘が忠吉の正室となった井伊直政が、忠吉の初陣に一番槍の誉れをと、軍法で決まった先陣・福島正則の陣中を威力偵察の名目で霧の中を突き進み、気がつくと宇喜多軍の真っ直中。急ぎ馬首を返す一団を見付けた宇喜多の一隊に直政が銃を打ちかけ、宇喜多勢も応射。その銃声を聞き、抜け駆けに怒り狂った福島正則が全軍に戦闘開始を命じ、ここに関ヶ原合戦が開始された。時刻は9月15日午前8時頃のことである。徳川家康が9月15日午前2時に赤坂を出立し、東軍の諸将が関ヶ原に布陣完了したのが午前7時頃、というから、布陣後、僅か1時間後のことである。

小西行長陣跡
開戦地碑から2分程度歩いたところに小西行長陣跡。『関ヶ原御陣御手配留』に「小池村西南天満山ニハ小西摂津守行長東ニ向フテ備フ」とある。小西行長は天満山の北峰に二段の構えで布陣した。『関原合戦図志』には「此山小ナリト雖モ其腹背嶮急ニシテ其頂ニ平坦ノ地ナク只東ノ山腰ニノミ陣営ヲ設ケ軍隊ヲ置クベキノ余地アリ」とある。山頂には布陣できるスペースはなく、山麓の中腹に布陣した。戦力は四千。行長麾下の部隊は文禄・慶長の役で疲弊し、また、肥後を二分して統治する隣国の宿敵加藤清正への抑えのため強力部隊は国許に残していたようで、兵の大半は、三成がつけた援兵、寄せ集めの部隊であった、とか。
関ヶ原の合戦では小西勢は弱兵と評される。宇喜多勢強し、とみた井伊直政三千六百が、松平忠吉勢三千を先導し、小西勢に鉾を転じる。石田勢強し、とみた田中吉政の兵も小西に向かう。小西は陣から攻め出ることもなく、守りに徹した。文禄の役では加藤清正とともに先陣をつとめるなど、吏僚とは言えど、武功をも立てている。戦乱を集結し、和平を実現するため、秀吉を「騙して」までも和平交渉を纏め上げようという腹も据わっている。寄せ集めの部隊では、どうしようもない、といったビジネスマン故の合理的判断であったのだろう、か。小西行長の出身は堺の豪商の出である。

宇喜多秀家陣跡

田園地帯を離れ、天満山南峰の森に入り10分弱歩くと、森の中に天満神社。宇喜多秀家の陣跡である。着陣は15日午前5時頃、と言う。軍勢は一万七千。五段にわけ、陣を敷く。前線は、先ほど歩いた「関ヶ原合戦開戦の碑」あたりまで出張っていたのであろう。前線に揃う8千名の軍勢は名将明石掃部全登の指揮下に置かれた。抜け駆けの功名をと、福島正則の陣を突き進んだ松平忠吉が、霧の中から現れた、宇喜多秀家の太鼓丸の旗幟を目にしたときは、どのような思いをしたものであろう、か。
宇喜多秀家は魅力的な人物である。秀吉に寵愛され、文禄の役では大将として、慶長の役では軍監として朝鮮に出兵し活躍。帰国後豊臣家の五大老のひとりとなり、豊家への恩顧から関ヶ原の役では副大将として参戦。そのとき歳はわずか29歳。関ヶ原の敗戦後、あれこれの経緯を経て、結局八丈島に流刑。その地で83歳の生涯を終えた。板橋を散歩した時に、東光寺に秀家のお墓にお参りしたことがある。板橋には加賀前田家の下屋敷のあったところ。秀家の正室であり、仲睦まじく暮らしていた加賀・前田家の息女・豪姫が菩提をとむらったのであろう。
八丈島を歩いた時には、南原海岸に秀家と豪姫の石像が仲良く並んで海を眺めていた。豪姫とは関ヶ原からの逃亡の途中、大阪の備前屋敷で数日間を共に過ごした、と言う。それが永久の別れとはなったわけではあるが、八丈への配流の後も、豪姫の実家の前田家は幕府の許しのもと、秀家への食料などの援助を続け、それは豪姫がなくなった後、明治になって宇喜多一族が放免されるまで続いた。

大谷吉継陣跡
秀家の本陣のあった天満神社を離れ、森をすすむと藤古川ダムに。コンクリートの急な段を下り、堰堤の高さ16m、幅78mほどの堰堤を渡る。このダムは関ヶ原の人々の上水道となっている。北はおだやかなダム湖の湖面が拡がるが、ダムの下流は渓谷の様相を呈する。堰堤を渡り、丸太横組みの木の階段を上りきると結構広い道にでる。
車も走れる道を南に下り、道案内に随って道を右に折れ大谷吉継の陣跡に向かう。山道を15分ほど進むと大谷吉継の墓。お参りをすませ、更なる山道を少し南に進む。山道は狭く、少々のアップダウンを繰り返し進むと、山中に大谷吉継の陣跡があった。
陣跡のすぐ崖下には若宮八幡の社が見える。また、中山道を通る車の音もよく聞こえたように記憶している。まさに、中山道を扼する要衝の地。その昔には山中城と呼ばれる要害の地であった、とか。
着陣は9月3日。宮上の丘陵上には空堀が縦横に連なっており、地形をうまく生かした陣の構築跡が見られる、との案内があった。が、素人目には、よくわからない。大谷勢の布陣については、地元の案内によれば、藤古川(関)の藤川の右岸に位置する川岸上の藤川台には、大谷吉継(吉隆)、戸田重政、平塚為広等が布陣し、となっている。どこかで手に入れた陸分参謀本部の「関原本戦図」を見ると、大谷吉継本陣の前面左に戸田重政・木下頼次勢、右の中山道の南に平塚為広・大谷吉治勢が布陣、とあった。
軍勢は千五百とも、二千とも言われる。もっとも、大谷吉継六百、大谷隊寄騎の戸田重政、平塚為広勢千五百、大谷吉治・木下頼継(吉継の甥)三千五百、との記述もあり、総勢ははっきりしない。
それよりなりより、もっともはっきりしないのは地元の案内にあった「親友三成の懇請を受けた吉継は死に装束でここ宮上に出陣。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城と呼ばれるくらいの要害の地。9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣作りも進め、15日未明の三成等主力の着陣をまった」とのコメント。
前半はどうということはないのだが、後半の「9月3に着陣し、15日未明の三成主力の着陣を待った」のくだり。9月3日は三成が大垣城に入城し、東西軍の決戦は美濃の平野で、との方針に傾き始めた頃。その方針と異なり、吉継が、9月3日にはすでに、中山道を扼する関ヶ原のこの地に陣をかまえたのは、どういうことであろう。西軍としては決戦の地は、関ヶ原とすでに決定されていたのだろうか、そうではなく、単に吉継が決戦の地は関ヶ原になる、と予見していたのであろう、か。はたまた、決戦の地は大垣城周辺であるとしても、西からの兵站補給路を確保するため、吉継がこの地に陣を構えたのであろうか。それとも、大谷勢の南に聳える松尾山に、小早川秀秋の軍勢が陣を敷くって噂が(実際の着陣は9月14日)、9月のはじめにはわかっており、それの備えた陣構えであったのだろうか。あれこれ妄想は拡がるも、確たるエビデンスもなく、なんとなくはっきりしない。
大谷吉継も魅力ある武将。秀吉の馬廻衆からはじめ、頭角を現し、賤ヶ岳の戦いや奇襲攻めで武功をたて、天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。大谷行部と称される所以、である。天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行として出兵。天正17年(1589年)、越前国・敦賀城五万石の城主となる。文禄・慶長の役では船奉行・軍監として朝鮮へ出兵している。関ヶ原の合戦に際しては、吉継は当初、東軍方として出兵。佐和山に立ち寄る。家康とも懇意であった吉継が、三成と家康の和解を図ろうとした、とか。が、逆に、三成より挙兵の話を聞き、無謀なり、と挙兵をやめるように説得したが、結局は三成に与力することに。このエピソードも諸説あり、本当のところはよくわからない。ともあれ、西軍に与することを決めた吉継は敦賀城に引き返し、東軍北国勢の勇、加賀・前田軍に対し、調略・情報戦を駆使し、大軍・前田の関ヶ原参戦を阻止した。吉継は当時の業病であったハンセン病に冒されており、輿に乗っての指揮であった。と言う。

平塚為広の碑
大谷吉継の陣跡を離れ、来た道を戻り、藤古川ダムから出たところにあった車道を少し南に進むと平塚為広の碑。秀吉に仕え、文禄・慶長の役に渡海。秀吉の覚えもめでたく、有名な秀吉の醍醐の花見には護衛の役を果たしている。秀吉没後、美濃垂井に一万二千石の所領を与えられる。関ヶ原の合戦に際しては、佐和山の城で大谷吉継とともに三成の挙兵を諫めた。が、結局西軍として立ち、伏見城攻めに軍功をあげた後、吉継の北国口に転戦。前田方と戦い、8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日に関ヶ原の西南の山中村に着陣した。
吉継との交誼は深く、大谷吉継ぎの辞世の句「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」は、平塚為広の辞世の句である、「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。ちなみに、戦前・戦後の女性運動の指導者平塚らいちょうはこの平塚為広の子孫、と言う。
ついでのことなので、戸田重政;織田信長の馬廻りであったらしい。本能寺の変の後は、信長の重臣であった丹羽長秀に仕える。戸田重政も長秀の下で1万石を領し越前足羽郡安居(あご)城主となる。長秀が没後、秀吉の直臣の大名となり、以後、九州征伐、小田原攻め、朝鮮の役に従軍し活躍。関ヶ原の合戦では重政は大谷吉継の麾下で平塚為広とともに参陣。文武に秀でた重政は諸将との交流も深く、その死は敵味方の区別なく惜しまれた、とか。

佐和山からはじまり、西軍の陣跡を伊吹山麓の北国街道脇往還を扼する石田三成の陣跡から、狭隘地溝を進む中山道を扼する大谷吉継の陣を辿った。合戦の推移は明日の散歩のルート、関ヶ原の前哨戦の地である、西軍の居城大垣城から、東軍の家康本陣のあった赤坂宿、西軍の毛利勢の籠もった南宮山、小早川勢の松尾山の散歩の折々でメモすることにして、最後に西軍布陣に対する東軍の陣立てを下にメモして、本日の散歩メモを終えることにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

東軍の陣立て
家康15日午前二時、赤坂発。桃配山着陣で夜が明ける。
東軍布陣完了は午前7時頃。
一番隊、先鋒福島隊6千、加藤嘉明三千、筒井定次二千八百五十、田中吉政三千が西軍・天満山の宇喜多秀家一万七千に対する。
別働隊;藤堂高虎二千四百九十、京極高知三千、がその左に陣し、西軍・松尾山の小早川秀秋一万五千に対する。
二番隊主力は細川忠興五千、稲葉貞通千四百、寺沢広高二千四百、一柳直盛千五十、戸川達安三百が、北国街道を扼した西軍・小西行長四千、島津義弘・豊久一千弱、笹尾山の石田三成六千に対する。
遊撃隊として黒田長政五千四百が二番隊と呼応して西軍・石田陣に対する突撃の機を伺う。
三番隊は徳川麾下の本多忠勝五百が桃配山の前面に布陣。背後には家康本隊三万。
四番隊は池田輝政四千五百六十が南宮山神社の前面に布陣。西軍・毛利に備える。
その西の中山道沿いに浅野幸長六千五百、山内一豊二千五十八、有馬豊氏九百が布陣。

東西のこの陣立てをもとに、北に伊吹山系、南を鈴鹿山脈に囲まれた東西約4キロ、南北約2キロの関ヶ原の地に、石田三成率いる西軍八万二千と、徳川家康率いる東軍七万四千、東西あわせて十六万の将兵が集結し、天下分け目の決戦が行われることになる。

土曜日, 6月 18, 2011

新宿散歩そのⅣ;落合の台地を彷徨い、神の低地から淀橋台地の戸山ヶ原へと辿る

新宿散歩も最終回。3回の散歩で歩き残した新宿区の西北部、落合あたりを彷徨い、妙正寺川によって削られた落合・目白台地(豊島台地)の崖地や坂道を楽しむ。そこからは、妙正寺川と神田川が「落ち合う」低地に下り、その先は淀橋台地に移り、これもいままでの散歩で行きそびれた昔の戸山ヶ原、現在の戸山公園あたりまで進むことにする。
スタート地点は何処に、と地図を眺める。哲学堂の東、落合台地の葛谷御霊神社に目がとまる。名前が如何にも、いい。また、淀橋台地と豊島台地を南北に区切る神田川の低地には月見岡神社。これも、その名前に惹かれる。ということで、今回の大雑把なコースはこのふたつのポイントを目安に、あとは成り行きで、戸山ヶ原へと、といった、いつものお気楽な基本スタイルで散歩に出かける。



本日のルート;葛谷御霊神社>自性院>中井出世不動尊>六の坂>中井御霊神社>八の坂>七の坂>五の坂>林芙美子記念館>四の坂>三の坂>中井駅>最勝寺>妙正寺川>月見岡八幡神社>落合処理場>小瀧橋>西戸山遺跡跡>戸山公園_大久保地区>戸山公園_箱根山地区


西武新宿線新井薬師駅
宅を出て、電車を乗り継ぎ新井薬師駅で下車。駅を南に下ったところに新井薬師がある。本尊の薬師如来は子育て、眼病に御利益あり、と。薬師様には幾度となく訪れており、且つ、本日は北に進むためお参りはパスし、駅前の道を妙正寺にかかる四村橋に向かう。道の左右には、中野散歩(中野散歩1:沼袋・江古田・荒井地区)で歩いた寺社が地図上に点在する。緩やかな坂を下りきったところに妙正寺川に架かる四村橋。橋の西側北岸が昔の江古田村、南岸は片山村、橋の東側北岸が葛ヶ谷村、南岸が上高田村といった四つの村の境であることが、名前の由来。橋の北には妙正寺川が開析した豊島台地の崖面、哲学堂公園の緑が拡がる。南の段丘面は運動公園兼調整池。沼袋からこのあたりまで妙正寺が大きく湾曲しているが、それって、傾斜が緩く洪水時などに水が溜まり場所である、ということだろう。

葛谷御霊神社
妙正寺川を越え、左手に哲学道公園を眺めながら坂を上る。哲学館(現東洋大 学)創立者・井上円了が学校移転用地として購入。が、学校の移転中止となり、明治39年から大正8年まで、精神修養公園として整地。昭和50年には中野区の区立公園となる。公園内には哲学堂77場と称する建物が点在する。この地は往昔、源頼朝の重臣である和田義盛の城、というか、館が、あっった、とか。哲学堂も数回訪れており、今回はパス。葛谷御霊神社は、この哲学堂公園の東端を上る坂より一筋東に入ったところにある。
鳥居をくぐり、拝殿にお参り。境内には八幡社、稲荷社などの祠とともに、疣(いぼ)天神の社も鎮座していた。祭神は 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 武内宿弥。縁起に拠れば、寛治年間(1087-94)、源義家が鎮守府将軍として奥州征伐の折、遠征軍に随った山城国桂の里(山城国葛野郡)の一族が、戦に勝利し京への帰途、この地に留まり源氏の氏神である八幡宮および神功皇后、武内宿禰を祀り、御霊社と称した、と。八幡信仰って、よくわからないが、主神は応神天王。この社の祭神である、仲哀天皇 神功皇后は応神天王の父と母。武内宿弥は天皇を支えていた老臣、と。
八幡社がどうして御霊社となったのか?なんとなくすっきりしないので、あれこれ妄想。この地に留まった一族の旧地は山城国桂の里(山城国葛野郡)。桂の里(山城国葛野郡)って秦氏の勢力下。で、秦氏って、祇園社の大スポンサー。そして、祇園社って、御霊信仰の総本家。ということで、桂の里(山城国葛野郡)の一族の信仰の社として御霊社となった、と自分なりに納得しようとしたのだが、祭神がスサノオであれば問題ないのだが、上メモしたような祭神のラインアップであれば、いまひとつこの妄想はだめ、っぽい。
で、あれこれチェックすると、八幡信仰と御霊信仰は結構深い関係であった、と。八幡さまは八幡宮、八幡社、若宮社とも呼ばれるが、若宮信仰って御霊信仰と同義といったもの。平安時代の飢餓や疫病の蔓延とともに旧来の神社の中に庶民を救ってくれる神として登場したもので、多くは御霊信仰に基づく神であり、民衆やその後の御家人層の信仰を集めていた。鎌倉の鶴ヶ丘八幡も、実際は京の石清水八幡宮より、その「若宮」を勧請したもの。八幡社>若宮社>御霊社、といった流れで、八幡さまが葛谷御霊神社となったのであろう、と我流妄想をクロージングする。
この神社は備射祭が知られる。備射祭は、馬に乗らず矢を射る歩射(ぶしゃ)がなまって備射となった、とのこと。鳥居に掲げた的を射る、とのことである。境内の力石は、備射祭の当日、力自慢を競ったものである。境内にあった疣天神社は昔この地域の村に在ったものを神社に移転したとのこと。八幡社、田中稲荷社、浅間社、三峰社と合わせて五社として祀っている。

葛谷の名前は、往昔のこの辺りの地名である葛ヶ谷村、から。葛ヶ谷は、この地に棲み着いた一族の旧地である葛野(かどの)、から。葛野を「かつらがや」と読み、葛ヶ谷村となったのだろう。葛ヶ谷が文献に最初に登場するのは永禄年間(1558~70年)の「小田原所領役帳。高田内葛ヶ谷、とある。明治にはいり、豊多摩郡落合村大字葛ヶ谷、昭和7年(1932年)の淀橋区の成立に伴い、西落合となり、葛ヶ谷は地名から消え、現在も西落合となっている。

西落合
西落合の住宅地を東に進み、新青梅街道近くにある自性院を目指す。成り行きで歩いていると、西落合1丁目、道脇の会社敷地内に実物の電車が展示されている。社名を、見るとKATO、とあった。鉄道模型の専門会社である株式会社カトーとのこと。株式会社カトーと株式会社関水金属と併記されていた。もとは文京区関口水道町で鉄道模型の部品工場としてはじまった株式会社関水金属が生産会社。株式会社カトーはその販売会社となっている。関水金属の関水は関口水道町、カトーは創業者の名前、から。

自性院
赤い山門をくぐり境内に。真言宗豊山派のこのお寺さまは秘仏である「猫地蔵」を安置し、「ねこ寺」として知られる。文明9年(1477)、この寺の北にある新青梅街道を進み、哲学堂公園の先、江古田川が妙正寺川と合流する地で、太田道灌と、この地方の古くからの豪族・豊島氏との間で合戦が行われた。世に言う、江古田ヶ原の合戦である。合戦は道灌勝利に終わったが、合戦の折、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救った、と。秘仏である猫地蔵は、道灌がその恩を忘れず地蔵さまを造り、奉納したものである、と伝わる。
この寺には「猫面地蔵」とよばれる地蔵像も秘仏として祀られる。明和4年(1767)、貞女の誉れ高き婦人を、牛込神楽坂の寿司屋の弥平が、その誉れを後世に残し、冥福を祈るために蔵尊をつくり納めた、と。とはいうものの、貞女の誉れに、何故に一介の寿司屋の親父さんが地蔵をつくったのか、なんのことか、さっぱりわからない。あれこれチェックすると、『旅と伝説78号(1934)』に、牛込の人が、可愛がっていた猫に死なれて悲しんでいたところ、夢に地蔵尊が現れて、自性院という寺のお上人に頼んで法要を営み地蔵尊を建立せよ、と告げたとの話が載っている、と言う。この話と、この寺にとむらわれた貞女がミックスして、かくの如き物語ができたのだろう。自性院の秘仏は毎年2月の節分に公開される。

この寺のこれら二体の猫地蔵尊は江戸市中に大そう評判となり、ご利益をもたらす招き猫として多くに人々が参詣に訪れた、とか。由来からいえば、取り立てて招き猫のトーンはないのだが、自性院のあたりでは室町時代後期の頃、私年号と呼ばれるその地方の豪族や寺社が設ける私的年号があり、その年号が「福徳」といった、如何にも有り難そうな名前でもあり、猫地蔵尊を招き猫としてマーケティング戦略を実行していったのだろう。江戸の招き猫として名赤い世田谷豪徳寺にしても、浅草(現在は西巣鴨)の西方寺の招き猫も、事情は同じ。井伊直孝が猫のガイドで雷雨を避け雨宿りした豪徳寺で上人の有り難き法話に接し、豪徳寺を井伊家の菩提寺にしたのは事実のようではあるが、豪徳寺の招き猫が宣伝されはじめたのは、明治になって豪徳寺が井伊家の庇護を失ってから、とも言うし、西方寺の招き猫に至っては、もともとは遊女薄雲を蛇から守った猫の話で、招き猫との何も関係のない話である。それが、遊女の贔屓のお大尽がつくった猫像に似せた招き猫を、商売人が歳の市で売り始めて人気を呼び、招き猫の代表となってゆく。あれこれの由来の、あれこれは、誠に面白い。

中井出世不動尊

自性院から南へ西落合1丁目から中落合4丁目へと進む。と、住宅街の中に古き風情を残す「中井出世不動尊」の小さなお堂がある(東京都新宿区中落合4-18-16)。堂内には、不動明王像とその両脇に二眷族(矜羯羅童子・制咤迦童子)の三像を安置している、とか。案内によれば、「江戸時代の遊行僧円空(1632~95)の作で、不動明王(像高128cm)・矜羯羅童子(64cm)・制咤迦童子(67cm)の三体からなり、不動明王には火焔光背と台座、2童子には台座が付属している。江戸時代後期に、円空生誕の地に近い尾張一宮の真清田神社の東神宮寺より移された。明治時代までは中井御霊神社の別当不動院に安置されていた。彫法は円空の素木を生かした作風をよく示したもので、都内伝存の円空仏は、唯一の発見である」、と。円空仏は、都内では個人所有を除き、唯一のものとされる。拝観は日時に限られているようで、当日、お堂は閉じられていた。尾張の一宮である真清田神社から何故に中井の御霊神社に移ったのかは、不明。妄想をするにも、素材・手掛かりも見つからない。

中井御霊神社

中落合4丁目の住宅街を成り行きで進み、目白大学のキャンパスに沿って進み、キャンパスの南にある中井御霊神社に。台地端にある神社のあたりには古代の住居跡も残る、とか。創建時期は不明だが、往昔より、落合村の小字である中井の鎮守さまであった。祭神は葛谷御霊神社と同じく、仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇・武甕槌神の四柱である。この神社も備射祭で知られる。武蔵風土記に「五霊社はおびしや祭を行う。又六の日には安産の祈祷をなす」、とある。また、この神社に備射祭の分木が2本残る。的を描くコンパスといったものだろう。元和6年には、もう一本あった分岐を葛ヶ谷御霊神社に譲ったとの記録が残る。その他、江戸時代の備射祭を描いた備射祭絵馬や、同じく江戸の頃、農民が雨乞いの行事につかった「雨乞いのむしろ旗」が残る。「竜王神」と書かれ、雨乞いの行事は関東大震災の頃まで行われていた、とのことである。
ところで、中井御霊神社って、その昔はどのように呼ばれていたのだろう。「**神社」は明治以降の名称である。中井は、落合村の字名として、頭に付けられただけであろうし、とあれこれ、チェックする。
上にメモした武蔵風土記には「五霊社」、とある。分木の裏には「御五神之宮」と刻まれているようだ。五霊社は御霊社のことだろう。御五神之宮>五神宮、と呼ばれたとの記録も残る。御霊社とも、五神宮とも呼ばれたのだろう。いずれにしても、この御霊はスサノオ系の御霊信仰というよりも、八幡信仰=若宮信仰系の御霊信仰の流れなのだろう、と葛谷御霊神社のときの妄想に準じる。




バッケ(崖線)

中井御霊神社脇から、落合の台地を妙正寺川に向かって下る坂がある。この坂は「八の坂」と呼ばれるが、中井2丁目の崖面を西から東に向かって山手通りまで、「八の坂」から「一の坂」まで、順に名付けられた坂が下る。崖線のことを。この落合のあたりでは、「バッケ」と呼ぶ。国分寺崖線では「ハケ」、板橋区では崖下の道を「峡田(ハケタ)の道」、会津若松では坂下(バンゲ)と呼んでいた。基本は「ハケ」が転化していると思うが、そもそも「ハケ」の語源ははっきりしない。



林芙美子記念館
台地の崖線の「八の坂」を下り、次に「七の坂」を上り、と順にアップダウンを楽しむ。「四の坂」の途中には林芙美子記念館があった。林芙美子と言えば、『放浪記』であり、尾道で育った、とか、「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき.」といってフレーズを知っている程度であり、如何に記念館とは言え、京風・数寄屋つくりのお屋敷は、少々敷居が高い。中島敦という作家も、その作品である『山月記』も、つい最近、こどもとの話ではじめて知った、といった、文学と無縁のB級・散文路線の我が身は、入館を躊躇い、門外から眺めるだけにした。



とは言いながら、何故にこの落合の地に移ったのか。ちょっと気になりチェック。北九州で貧しく、複雑な家庭環境のもとで過ごし、両親とともに木賃宿を転々とする生活を送り、13歳のとき尾道に落ち着き、女学校まで尾道出過ごす。女学校を終え、上京し、この頃から『放浪記』の原型となる日記を書き始めた、と。関東大震災のとき、一時尾道の戻るも、大正13年(1924年)、再び上京し作品を書くも、名を成すまでには、なっていない。奔放なる生活を繰り返し、作家・平林たい子の家に同居していた時期もあるようだが、1927年(昭和2年)には、杉並区妙法寺の北側に借家住まいをしていた。



落合に移ったのは1930年(昭和5年)。現在の記念館の場所ではなく、中井駅の南西数分の上落合字三輪(現在新宿区上落合3丁目)に移った。林芙美子の『落合町山川記』によれば、「妙法寺のように荒れ果てた感じではなく、木口のいい家で、近所が大変にぎやかであった。二階の障子を開けると、川添いに合歓の花が咲いていて川の水が遠くまで見えた」と描く。この落合の借家時代に『放浪記』が大いに評判を呼んだ。その印税で中国や欧州を旅し、1932年(昭和7年)には、下落合四丁目2133番地の洋風の借家(西洋館)に転居。「五の坂下」にあったようである。「私は吉屋(信子;注)さんの家に近い下落合に越した。落合はやっぱり離れがたいのか、前の家からは川一ツへだてた近さであった。誰かが植民地の領事館みたいだと云ったが、外から見ると、丘の上にあって随分背が高く見えた。庭が広くて庭の真中には水蜜桃のなる桃の木の大きいのが一本あった。井伏鱒二さんは、何もほめないでこの桃の木だけをほめて行った」と『落合山川記』に描く。
現在の記念館に移ったのは、1939年(昭和14)。「四ノ坂」の中腹に、島津家の所有地だった土地を買って家を建てたとのことである。「落合の町より外にそう落ちつける場所もなさそうだ。この住みよさは四年もいるのによるだろうが、町の中に川や丘や畑などの起伏が沢山あるせいかも知れない」と描く。『落合山川記』の冒頭に、「遠き古里の山川を思ひ出す心地するなり」とあるが、古里の雰囲気を残すこの地を気に入っていたのだろう。

落合文化村(目白文化村)
『わが住む界隈』で林芙美子が、「私は冗談に自分の町をムウドンの丘(注;パリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町)だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ」、と描く林芙美子記念館のあるあたりは、落合文化村と呼ばれていた。大正11年(1922)頃より、箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された新興住宅街である。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街並みを模したのに対し、こちらはロスのビバリーヒルズを目指した、と。結果、当時としては「中流の上」の人々がこの地に移り、多くの学者、作家、画家が西洋風の外環の邸宅を建てた、とのことである。
文化村は大きく3区画に分かれ、山手通りと新目白通りのクロスする左上(中落合3丁目あたり)が第一文化村、左下の中井駅方面(中落合4丁目と中井)が第二文化村、右上の中落合4丁目方面が第三文化村と呼ばれた。林芙美子が住んでいたあたりは第二文化村の南端のあたり、だろう。第一文化村には画家の佐伯祐三邸、第二文化村には安部能成や石橋湛山、武者小路実篤宅があった、とか。もともと、落合第一小学校の辺りに自宅を持っていた会津八一は落合(目白)第一文化村の南端あたりに引っ越したところ、改正道路(現在の山手通り)の工事地区にあたり、立ち退きを余儀なくされ、第一文化村の中央部に移るも、戦災で焼失した。文化村に少々翻弄された感がある。

山手通り
林芙美子記念館の坂を下り、「三の坂」から「二の坂」、そして山手通りより脇に上る「一の坂」をアップダウン。どのあたりまでが落合・目白文化村の区画なのか定かではないが、林芙美子の住んだ第二文化村が開発されるとともに、文化村の周辺、落合川へと下る崖線斜面。中井駅から下落合の駅のあたりにも、文化村を意識した瀟洒な家屋が建てられていったようである。このあたりには小説家の尾崎翠、壺井栄、吉川英治、細野孝二郎、林房雄、平林彪吾など、詩人では壺井繁治、中野重治、松下文子、安藤一郎、柳瀬正夢、野川隆、川路柳虹など、劇作家では村山知義、俳人では松本義一、そのほか丘の上や下には評論家の神近市子や青柳優、歌人の半田良平、小説家の藤森成吉、宮本百合子、鹿地亘、武田麟太郎などが住んでいた。如何にも「文化村」ではある。どこに邸宅があったのか不明ではあるし、そもそもが、第三文化村の一部を残し、戦災で全焼しているわけであるから往昔の痕跡など探し求めることもなく、ひたすら崖線を彷徨う、のみ。

上落合

「一の坂」まで崖線を辿り、次の目的地である最勝寺に向かって山手通り脇を南に下る。落合の地目の由来ともなった、妙正寺川と神田川が落ち合うあたりは、もう少々東に進み、西武新宿線の下落合駅あたりではあるが、その合流点は幾度となく訪れているので、今回はパス。中井駅前で妙正寺川を渡り上落合地区に。「上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)、この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆んやりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る『落合町山川記』」、とあるように、丘の上が下落合で、崖下が上落合となっている。落合村が江戸の頃、上落合と下落合に分かれたとき、京にちょっとい近いほうを上としたため、このような命名となった、とか。

最勝寺

山手通脇に最勝寺がある。山手通りの拡張工事区域にかかったのか、お寺さま全体を整備し直した感がある。堂々とした本堂、大師堂、七福神の並ぶ溶岩窟などがある。創建年代は不明ではあるが、鎌倉期の名執権・北条時頼の開基とも伝わる。
江戸の頃は、中井御霊神社、下落合の東山藤稲荷神社の別当寺。明治初年には廃寺となった内藤新宿・花園神社の別当寺三光院の大師堂をこの寺に受け入れた。三光院が御府内八十八カ所霊場24番札所であったため、現在最勝寺がその札所を引き継いでいる。御府内八十八カ所霊場は港区髙輪の高野山東京別院を起点とする江戸の遍路巡礼の霊場である。18世紀の中頃に開創した、と伝わる。

妙正寺川

最勝寺から再び妙正寺川筋に戻る。川に沿って東に進む。どこかで1927年(昭和2)ごろの妙正寺川の写真を見たことがある。野中の小川といった風情である。当時は流域の保水能力も高く、現在のように路面舗装のため、逃げ場を失った水が川に集中し水害を多発する、といったことがなかったのか、そもそも、家屋が少なく水害があっても、それほど大騒動するほどのこともなかったのか、ともあれ、護岸工事が施され、河床が掘削され、調整池が至る所に整備された現在の妙正寺川とは似ても似つかないのんびりとした姿ではある。

月見岡八幡神社
大正橋を渡り、上落合2丁目を成り行きで進み月見岡八幡神社へと向かう。名前に惹かれて訪れたわけだが、名前の由来は元の境内池に湧井があり、その水面に映える月光があまりに美しかった、ため。元は現在地より少し南東にあったが、その地が水道局落合水再生センターの用地となったため、現在地に遷座した。
創建年代は不明ではあるが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたと伝わる。旧上落合村の鎮守であり、祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇と、八幡さまのメーンの神様である応神天皇の女房・子供で構成される。八幡系の御霊社である葛谷御霊神社や中井御霊神社が応神天皇の女房と父親が祭神となっているのと、少々組み合わせが異なっている。
境内社として明治39年に北野神社、昭和2年には浅間神社と富士塚を合祀した。浅間神社は山手通りと早稲田通りの交差するあたりにあり、その富士塚は寛政2年(1790)、大塚古墳をもとに造られたために、「落合富士」と呼ばれていたようである。散歩を初めて、都内・都下に数多く残されている富士塚に出合い、江戸の頃の富士講の繁栄振りが偲ばれる。
境内には正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔、また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口、そして、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が残る。谷文晃は江戸中期の文人画家。上方文人画家に対し、江戸画家の中心として弟子の指導にあたる。門人には渡辺崋山、酒井抱一、蜀山人などがいる。

落合水再生センター
月見岡八幡のすぐ東に落合水再生センター。この施設では新宿区、世田谷区、渋谷区の全体、中野区の大部分とそして杉並区、豊島区、練馬区の一部の地域の下水処理を行っている。ここで高度処理された下水は再生水として新宿副都心のビル群のトイレ用水として再利用。また、東京の城南地区の三河川の清流復活事業の養水として渋谷川、目黒川、呑川に導水されている。西落合水再生センターからの導水をはじめて知ったのは呑川を河口から遡り、大岡山の東京工業大学のあたりで開渠が暗渠となるあたり。その地の案内に、落合水再生センターから水が送られる、とあった。はるばる落合から。と、結構驚いた。
その後、烏山川と北沢川を辿ったとき、このふたつの暗渠河川が、池尻あたりで合流し開渠となると、それまで痕跡もなかった水が突然流れはじめるが、それが落合水再生センターからの高度処理水であった。烏山川と北沢川が合わさって目黒川となり、246号との交差あたりから急に水量を増して流れていた。渋谷川も落合水再生センターからの水とは、はじめて知った。そういえば、渋谷川に合流する春の小川の部舞台となった甲骨川も、宇田川も初台川も、富ヶ谷川、原宿川もすべて暗渠で、水が流れる痕跡もなかったが、渋谷川となって渋谷の駅前で開渠となった時には、水が流れていたなあ、などと、今更納得。

神田川
落合水再生センターをぐるっと一周、神田川へと出る。吉祥寺の井の頭池を水源に杉並区の永福町あたりまでは南東に下り、そこからは北西に方向を変え、環七の東で善福寺川を合わせ、淀橋台地に沿って落合まで北流。落合で妙正寺川を合わせて江戸川橋に東流、そこからは飯田橋、水道橋、そしてお茶の水の切り通しを越えて隅田川に注ぐ。
江戸の頃は神田上水として、埋め立て地で真水の乏しい江戸の町を潤した。玉川上水のように新たに開削したというより、もともと流れていた自然河川を整備、繋ぎ直して流路を造った、とか。江戸川橋の近くの関口に大洗の堰跡が残るが、そこまでは開渠で、その先は石樋、木樋で江戸の町に送水した。関口の大洗堰は、満潮時に上ってくる海の水を堰止めるためのものでもあった。

小滝橋

神田川に沿って下り、早稲田通にかかる小滝橋に。その昔、橋の下に堰があり、そこがちょっとした滝のようであったのが名前の由来。江戸の頃は、橋の周囲に茶屋が並び、大いに賑わった、とか。
この橋は「姿見(すがたみ)の橋」と呼ばれる。神田川を少し上った淀橋が、別名「姿見ずの橋」と呼ばれているのと対をなす。名前の由来は中野長者と呼ばれた鈴木九郎にまつわる伝説による。応永年間と言うから、14世紀の末から15世紀の初頭にかけ、熊野よりこの地に来たりて、原野を開拓し艱難辛苦の末、中野長者と呼ばれるまでになったのが鈴木九郎。十二社の熊野神社を建立するほど蓄えた財産を、下男に隠し場所に運ばせては口封じのため人を殺めた。その数は10名を超えた、とか。橋を渡る姿は見たが、戻る姿が見えなかったのが「姿見ずの橋」と呼ばれた。淀橋と名を改めたのは将軍家光が、この不吉な名前を嫌い、この橋の近くの水車が、京の淀川にかかる水車と似ている、ということで淀橋とした。
「姿見の橋」は、親の因果が子に報い、というわけで、鈴木九郎の娘の小笹が婚礼の日に蛇と化身し、川に身を投げた。その姿が見つかったのが、この「姿見の橋」、だとか。ちなみに、神田川を少し下った面影橋を姿見橋とも呼ぶ。『嘉永・慶応 新江戸切絵図(人文社)』にも、面影橋とは書かず姿見橋とあった。面影橋は姿見橋と混同されることも多かったようだが、歌川広重の『名所江戸百景』の「高田姿見のはし、俤(おもかげ)の橋砂利場」には面影橋の北側に、小川にかかる姿見の橋が描かれているので、小滝橋が姿見の橋ではあった、ようだ。

西戸山遺跡
橋を渡り、小滝橋交差点に。小滝橋交差点は、北東へと高田馬場駅に向かう早稲田通り、南へと淀橋市場前交差点先でJR中央線とクロスし、その後はJR中央線に沿って新宿大ガード西方面へと下る小滝橋通り、そして橋から真っ直ぐに東ヘ進み、緩やかな坂となる三叉路となっている。
道を真っ直ぐ進み、坂の途中、西戸山社会教育会館の入口近くに、「縄文式文化の跡 西戸山遺跡」とある。昭和31年に、このあたりで横穴式住居跡が発見された。神田川に臨む台地の突端は古代の人々にとっては住みやすい場所であったのだろう。
そういえば、神田川の対岸の目白・落合の台地にもいくつもの古代遺跡が残る。先回の散歩で訪れた下落合の薬王院の近くでも8世紀頃の、横穴式古墳が発見されている。今回の散歩で歩いた目白学園のあたりには落合遺跡がある。台地の端にあるこの遺跡は縄文、弥生、古墳時代といった複合型住居跡が見つかっている。

都立戸山公園・大久保地区
道なりに東に進む。百人町4丁目と高田馬場4丁目の境を道は進む。小滝橋から大久保にかけての百人町は伊賀の鉄砲百人隊の組屋敷のあったところ。先回の散歩で訪れた「皆中(みなあたる)神社」は、百発百中を願う鉄砲組ならではの神社であったなあ、などと先回の散歩を想いながら、先に進みJRの線路をくぐると都立戸山公園に出る。
都立戸山公園の北西端に「戸山ヶ原射撃場跡」がある。現在の百人町3丁目・4丁目から山手通りを挟んで大久保3丁目のあたりまで、雑木林と草原の拡がる原野は、江戸の頃は鉄砲玉薬組同心の給地であったが、明治になると武家地は明治政府に没収される。この原野も明治7年に陸軍の用地となり「戸山ヶ原」と呼ばれるようになる(広義では戸山1丁目から3丁目までの元尾張藩下屋敷あたりをも含めて「戸山ヶ原」と呼ばれることも多いよう、だ)。戸山ヶ原には多くの陸軍の施設が造られたが、この射撃場もそのひとつ。明治15年(1882)、近衛連隊射撃場ができる。この敷地は射撃場や練兵場として陸軍が使用していたが、明治末から大正にかけて流れ弾や爆音などが問題となり、昭和3年には東洋一の鉄筋コンクリートの射撃場となった。7本の土管を並べたような300mもある施設は、「大男の国の蒲鉾」、とも呼ばれた、とか。射撃場の西側には余土を盛り上げた30mの「三角山」もあった。百人町3丁目、現在の社会保険中央病院付近には細菌戦、化学戦を研究する陸軍技術本部・陸軍化学研究所などもあり、そこに被弾などすれば大騒動、ということも「蒲鉾施設」の大きな理由ではあろう、か。
戸山ヶ原は起伏のある地形で、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林、その他一面の草原で陸軍が使わないときは結構民間人が散策に訪れた。トンボ、セミ、バッタ、カブト虫を追っかける子ども達の遊び場でもあったようである。
戸川秋骨(1870~1939。詩人・英文学者)の「そのままの記」に霜の戸山ヶ原という一章がある; 戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。(中略。)戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹がたくさんある。大きくはないが喬木が立ち籠めて叢林をなしたところもある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものはここにそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草をもって蔽われていて、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人のほしいままに散歩するに任す。四季のいつと言わず、絵画の学生がここそこにカンヴァスを携えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。(中略)。しかるにいかにして大久保のほとりに、かかるほとんど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議なことにはこれが俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分はほとんど不用の地であるかのごとく、市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が、大久保柏木の小路を隊をなして馳せ廻るのは、甚だ五月蠅い(うるさい)ものである。否五月蠅ではない癪にさわる」などと描く。
戸川秋骨は射撃場を戸山学校のもの、と書いているが、実際は近衛連隊が設置したものであり、戸山学校や砲学校の生徒たちも使用した、ということであろう。それはともあれ、軍の敷地とはいいながら、軍国主義が台頭する昭和のはじめの頃までは、結構、のんびりとしたものであったのだろう。明治15年(1882)に近衛連隊射撃場ができる前、明治12年から17年までは現在の西早稲田キャンパスのあたりには戸山学校競馬場があった。米大統領グランド将軍の歓迎行事が行われた、と。明治43年には、日野熊蔵大尉が自ら製作した日本最初の飛行機の飛行実験を射撃場で行っている。もっとも、わずか200㍍の滑走路でもあり、滑走には成功したが飛行しなかった。日本最初の飛行が出来たのは同年12月、代々木錬兵場で実施された。
また、大正13年には、ゴルファーが陸軍の用地に出没し、「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」などをつくり、兵士の訓練のないときを狙って練兵場に潜り込んでゴルフをはじめた、とか。はじめは黙認していた陸軍も、あまりに大ぴらに活動を始めるにおよび、ゴルフ禁止の処置をとった、とか。
昭和に入り陸軍の敷地として軍の施設の建ち並んだこの戸山ヶ原も、戦後には団地や早稲田大学理工学部などの教育機関、そしてこの戸山公園などに姿を変えた。

戸山公園・箱根山地区
戸山公園(大久保地区)の中を東に進む。新宿スポーツセンターを越え、早稲田大学理工学部の建物を右手に見ながら進み、明治通りに。通りの向こう側には学習院女子大や戸山高校の建物が見える。学習院女子大学や戸山高校は近衛騎兵連隊の兵舎跡とのこと。当初は学内に馬小屋も残っていた、と。
江戸の頃、北は早稲田通り、南は大久保通り、西は明治通り、東は早稲田大学戸山キャンパスに囲まれた一帯は尾尾張徳川家下屋敷であったが、明治には陸軍の用地となり戸山学校、陸軍幼年学校、陸軍第一病院、陸軍軍医学校(現在の国立感染症研究所)といった多くの陸軍の施設が建ち並んだ。
戸山高校の南を成り行きで進む。南に並ぶ高層住宅は戸山ハイツ。戦前は陸軍幼年学校、陸軍戸山学校であった跡地に、住宅難への対策として、戦後の1949年、団地のはしりともなった戸山ハイツが完成。1970年には鉄筋コンクリートの中層・高層住宅に建て替えられた。道なりに進み、都立戸山公園に進む。明治通りの戸山公園が大久保地区と呼ばれているが、こちらの戸山公園は箱根山地区と呼ばれる。大久保地区と箱根山地区とわかれるも、共に「戸山公園」と総称されるのは、広義の「戸山ヶ原」の名残であろう、か。
戸山公園に入ると、「戸山山荘跡・尾張藩主徳川家下屋敷跡」の案内。大久保通りと明治通りが交差するあたりから、早稲田通りの穴八幡に向かって斜め帯状に続く都立戸山公園の面積はおよそ18万平方キロ。これでも結構広いのだが、江戸の頃、この地にあった尾張徳川家下屋敷の「戸山荘」は広さ、およそ45万平方キロ。現在の公園の倍以上の規模であった、とか。公園の中に小高い築山が残る。箱根山である。坂道を上ると道脇に「箱根山の碑」と「陸軍戸山学校址」。
園内の案内によると、「この地区は、その昔源頼朝の武将和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。寛文八年(一六六八)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余㎡)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一六八一~一六八三)・貞享(一六八四~一六八七)の時代を経て元禄年間(一六八八~一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を私、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が作られていた。なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)の初め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以って第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。安政年間(一八五四~一八五九)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一郡が昭和二十九年から今日の公園となった。陸軍用地の頃から誰ともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている」、と。
戸山公園の中には旧軍の痕跡は、あまり残っていないが、箱根山の南にある日本基督教団戸山教会の施設の一部に旧陸軍の会議室跡が残っているようだ。石造りの如何にも頑丈な建造物は戸山学校の将校会議室跡とのことである。また、今回は見落としたが、園内には陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡が残っている、と。戸山学校と音楽堂?チェックすると、戸山学校は日本陸軍の歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術)、体育、歩兵部隊の戦術、軍楽の教官育成をその目的としていた。その後、大正元年には戦術科、射撃科、教導大隊を陸軍歩兵学校として分離し、戸山学校は体操科(剣術)、軍楽生徒隊を統括した。音楽堂の所以である。

本日の散歩はこれでお終い。往昔の戸山ヶ原を、成り行きで新宿駅へと向かう。歩きながら、若山牧水が早稲田大学に入ったものの、ほとんど引きこもりのような生活であったものが、ある日、戸山ヶ原の広大な原野を見つけ、大いに気に入り、散策を楽しむようになった、といった記事(「東京の郊外を想ふ」)を想い起こす。散策は戸山ヶ原だけでなく、もう少し足をのばして目白や落合へと、雑木林の拡がる原野を楽しんだ、とのこと。
とは言うものの、田山花袋が『東京の近郊』で描く頃は、「昔歩いた戸山の原あたりも以前のやうな野趣を持つてゐなかつた。私の知つてゐる林はすつかり切り倒されてゐた。諏訪の森から目白台を見た景色はちよつと好い感じのするところであつたけれど、今では二階屋だの大きな家だのが建てられて、畠道をずつと横ぎつて行くことも出来なくなつていた」、と、原野も開かれていたようではある。本が出版されたのが大正5年の事であるので、その頃には、戸山ヶ原の原野も、少し様変わりし始めていたのだろう、などと想いを巡らせながら、新大久保の喧噪の街並みを抜けて新宿へと向かい、一路家路へと。


金曜日, 6月 03, 2011

新宿散歩そのⅠ;神楽坂から牛込台地を辿り早稲田田圃を経て目白台地へ

いつだったか新宿三栄町にある新宿歴史博物館を訪れたことがある。あれこれ展示資料をながめ、『新宿名所めぐり』や『新宿区史跡めぐり地図』といったお散歩の参考になる資料を買い求めた。準備万端、さて出発、というところだが、何となくその気になれなかった。知らない処を歩いてみたい、というのが散歩の基本としている我が身には、新宿区はあまりにも身近過ぎて、見慣れた景色を改めて歩くのには少々抵抗があったのだろう。今回新宿区を数回に分けて歩き始めたきっかけは、時にない。地図を眺め、なんとなく、といったところが、その始まりではある。散歩のルーティングもスタート地点だけを決め、あとはすべて成り行きとする。初回は神楽坂あたりから牛込台地を辿り昔の早稲田田圃へ、二回目は市ヶ谷から大久保へ、三回目は四谷見附から新宿へ、最後は落合の目白台の崖地あたりを彷徨うべし、と大雑把に決める。基本は成り行き。何に出合うか、お楽しみ、といった例によってお気楽なお散歩スタイルで散歩に出かける。



本日のルート;JR飯田橋駅>庚嶺坂>築土神社>逢坂>逢坂_最高裁長官公邸>牛込氏館跡_出版会館>牛込氏館跡_光照寺>光照寺先_地蔵坂>善国寺>神楽坂>若宮八幡>神楽小路>軽子坂>築土八幡>赤城神社>赤城坂>田中寺>大友の松跡>伝中寺>北野神社>渡辺坂>宗柏寺>済清寺>早大通り>元赤城神社>宗参寺>漱石公園>宝祥寺>感通寺>来迎寺>夏目坂>清源寺>来迎寺>夏目坂>誓清寺>天祖神社>穴八幡>放生寺>穴八幡前の金川跡>龍泉寺>宝泉寺>都電荒川線_早稲田駅>水稲荷>甘泉園>天祖神社>高田の七面堂>面影橋>新目白通り_明治通り交差点_河川が合流>神田川と妙正寺が合流>おとめ山公園>東山藤稲荷>氷川神社>七曲坂>妙正寺川の暗渠>神田川>JR高田馬場駅




牛込見附跡
神楽坂への最寄り駅JR飯田橋駅西口を出る。改札から外濠を神楽坂へ下る牛込橋の南詰めに大きな石垣。牛込見附跡である。江戸城外郭門のひとつであるこの牛込見附は、外敵の侵入を発見し防ぐもの。ふたつの門を直角に配置した「枡形門」となっていた、と。牛込見附が完成したのは江戸城の外濠が完成した寛永16年(1636年)。阿波徳島蜂須賀忠英公(松平阿波守)によって建設された。江戸の頃の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口でもあり、周辺に楓が植えられていたので「楓の御門」とも呼ばれる。石垣脇に隅櫓を持つ往昔の牛込見附の写真があったが、この櫓を含め大半の石垣も明治35年(1902)に撤去された。

牛込橋
外濠に架かる牛込橋を渡る。牛込見附と同じくこの橋も、阿波の蜂須賀公によって建設された。外濠は江戸城を取り巻く防御ライン。徳川幕府が政権を確固とした後、全国の諸侯に命じた天下普請とも称される大工事により、東西5キロ、南北4キロにも及ぶ江戸城の防御ライン・総構えが完成した。三代将軍家光の時代、寛永17年(1640 )の頃と言われる。この辺りの外濠を牛込濠と呼ぶ。市ヶ谷から牛込への濠の開削は自然の小川や沼地・湿地帯を利用し建設された。麹町台地と牛込台地の間の谷地、現在の靖国通りには往昔紅葉川の流れがあった、と言う。新宿区富久町付近を水源に、四谷四丁目・愛住町・河田町・荒木町・本塩町などから支流を集めつつ靖国通りに沿って流れ、市ヶ谷駅から飯田橋(へと進み神田川に注いでいたのだろう。四谷濠、市谷濠、牛込濠、飯田濠には西から東へと水位に段差があり、牛込橋の写真の下には「滝」らしき流れも見える、それって川の傾斜の名残ではあろう、か。

通常見附の御門の外には、社寺地が移され、その周囲に小規模な旗本地や大縄地(下級武士の屋敷地)が配されて御門の警護にあたった。通常、移される社寺地は谷筋や低湿地が多いとされる。寺社の訪れる人々や供え物故の「ごみ」を以てして、湿地の陸地化を図ったとする(『江戸の百年;鈴木理生』)。しかし、この牛込の社寺は台地上も多いように思える。寺社をも江戸の防御壁のひとつとしていたのであろう、か。牛込台地と外濠、その幅は大筒の弾道距離以上とのことであり、そして比高差20mとされる市ヶ谷台地側の土塁をもって、江戸のお城を護ろうとしたのであろう。

神楽河岸跡
牛込橋を渡ると外堀通・神楽坂下交差点。外濠は神楽坂下交差点から飯田橋にかけて大半が埋め立てられているが、江戸の頃は神楽河岸のあったところ。神田川が外濠と合流し、水道橋を越え、仙台伊達藩が開削したお茶の水の切り通しを抜けて大川(墨田川)に繋がる。江戸の町が大きく発展し、経済活動が盛んになるにつれ、当時の大量運送手段である舟運が盛んになり、大川と結ばれたこの神楽河岸には多くの舟が集まり、物流の拠点となっていったのだろう。
夏目漱石の『硝子戸の中』に、漱石の一族が浅草猿楽町の芝居見物にいくに際し、神楽河岸から屋根つきの船にのり、神田川(当時は江戸川)を柳橋に出て隅田川(大川)をさかのぼった、とある。永井荷風も、『日和下駄』に、「市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景も亦しばし杖を留めるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添の大きな柳の木の下に居眠りをしている」、と舟からの光景を描く。。牛込門対岸の神楽坂界隈の賑わいは、こういった舟運の拠点であったことがその大きな要因ではあろう。 



庚嶺坂
神楽坂下交差点から神楽坂へと、とは想えども、神楽坂は結構訪ねてはいるので、それも今ひとつ芸がない。地図を見ると外濠を少し市ヶ谷方面に進んだところに、庚嶺坂とか堀兼の井といった地名がある。どんなところか、寄り道をすることに。東京理科大を越えた先に台地に上る道があり庚嶺坂とある。どんどん上っていけば若宮八幡前を通って毘沙門天毘沙門天(善国寺)まで続き、そこで神楽坂にぶつかる。名前の由来は、江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったとの説など、あれこれ。坂の名前も「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」など、これもあれこれ。 


築土神社
少し先に進み東京日仏学院への小径を左に折れると船河原町に。そこに筑土神社の小さな祠が佇む。九段にも筑土神社があるし、飯田橋の近くにも筑土八幡がある。どういうことか、チェックする。
船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあった。1589年江戸城拡張の際、氏神の津久戸明神社と共に江戸城牛込門内(現・千代田区飯田橋駅西口付近へ移転。さらに1616年、津久戸明神社が筑土八幡町に移転し筑土八幡神社の隣に鎮座した。
船河原町も船河原橋(現・千代田区飯田橋駅東口付近;飯田橋交差点の神田側に架かる橋の名前は船河原橋と呼ばれるのは、その名残だろう、か。)に代地を与えられた。が、しかし、住民はさらに西の地へ移転することを希望し、結局、現在地に代地を得て移り住み、明治5年に近隣の武家地を編入して現在の「市谷船河原町」が成立した。九段に築土神社があるのは、戦後、津久戸明神社が築土神社として千代田区九段に移転した、ため。船河原町は現在地に留まったことから、ここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを示したものが、この地の筑土神社の小祠である。

船河原町築土神社は平将門公を祀る摂社、と伝わる。天慶3年(940)、藤原秀郷に討たれ、京都に晒されていた将門の首を密かに持ち出して、その首を平河村にあった観音堂に移し、津久戸明神と称した。この津久戸明神社が明治になり筑土神社となった。将門の首を入れて運んだ桶が、戦前まで築土神社に秘蔵されていた、とも。
この神社には江戸の頃、「堀兼(ほりがね)の井戸」と呼ばれる井戸があった、と伝わる。東京都新宿区教育委員会の案内によれば;堀兼の井とは、 「ほりかねる」からきており、 掘っても、掘ってもなかなか水が出ないため、 皆が苦労してやっと掘った井戸という意味。  堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
昔、 妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。 男が後妻を迎えるも、後妻は息子をひどくいじめた。 この男もまた、後妻と共に息子をいじめるようになり、庭先に井戸を掘らせた。 息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、 とうとう精根つきて死んでしまった、と。何を伝えたい話なのだろう??



逢坂
筑土神社を離れ、坂を上る。逢坂、とある。案内によれば、奈良時代、武蔵守となりこの地を訪れた小野美作吾が、麗しき娘と恋仲となる。任期を終えた小野美作吾は都に戻るも没する。夢枕でそのことを知った娘は悲しみのあまり後を追った、と。夢で逢った故の逢坂という地名ではあろう。逢坂は「大坂」とも「美男坂」とも呼ばれる。美男坂は、植物の「サネカズラ」が「ビナンカズラ」ともよばれるためだろう、か。娘の名前が「さねかずら」であったため、ではあろうが、ちょっと無理があろう、か。

幕府徒組屋敷跡
坂を上るに、たいそう立派なお屋敷がある。お屋敷の角を曲がり神楽坂方面に向かうと警備の警察官が立哨。どなたのお屋敷と訪ねると最高裁判所長官の公邸、とのことであった。坂を上りながら町名を見るに、このあたりは昔からの町名が残っている。逢坂から長官公邸脇を進むだけでも、道の一筋毎に町名が変わる。払方町、南町、中町、北町。この辺りはもともと、天竜寺の境内地であったようだが、天竜寺が新宿四丁目に移った跡地が幕府徒組屋敷となり、北側を北御徒町、中央部を仲御徒町、南側を南御徒町と称した。明治5年(1872)に「御徒」を略し、「牛込」を冠したが、 明治44年に「牛込」も略し現在の町名となった、とか。また、払方も、天竜寺の境内後地が払方御納戸同心の拝領地となった、ため。

大田南畝
中町の隅に大田南畝生誕の地の案内がある。父親が徒組、将軍外出の際の徒歩で沿道警備を担った役人であったのだろう、か。大田南畝は誠に魅力的な人物である。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々で出合うことも多い。文京区散歩の時は白山通り脇の本念寺には大田南畝が眠る。上野公園には蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時、水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行い、お賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。
『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧を見るにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。

牛込氏館跡
台地を進み、地下鉄・牛込神楽坂駅へ下る坂の手前で右に折れ、少し進むと日本出版クラブ会館。玄関脇に牛込城址や天文屋敷跡の説明があった。案内にあった『新暦調御用所(天文屋敷)跡;新宿区袋町六番地 この土地の歴史の変遷』を引用する;「当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の一部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保二年居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衛門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。
享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召し上げられ、さら地となった。明和二年当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐左木文次郎が司り、この火除地の一部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和六年に修正終了したが、天明二年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明七年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以後天明年中は火除地にもどされ、寛政から慶応までの間、二~三軒の武家屋敷として住み続けられた。弘化年中には、御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わる事はなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。 「
戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり、会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、牛込城の遺跡・江戸城との関連などが話題となり。工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。2007年1月 平木基治記(文芸春秋)」(この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

道を隔てた光照寺の境内入口にも案内;「光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城のあった所である。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は、赤城山の麓・上野国(群馬県)勢多郡大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532~55)に、当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条滅亡後は徳川家に従い、牛込城は取り壊された。現在の光照寺は正保2年(1645)に、神田から移転したものである。
光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」や「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓などがある(東京都教育委員会の案内文より)」。「諸国旅人供養碑」とは神田松永町旅籠屋紀伊国屋利八が、その旅籠に滞在中に亡くなった旅人を弔ったもの。便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)は狂歌師。大久保の円常寺にある石碑には、大田南畝の筆による便々館湖鯉鮒の歌・「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」が刻まれている。また、境内には出羽国(秋田・山形地方)松山藩主酒井家の歴代藩主一族のお墓もある、とのことである。

牛込城は牛込台地の上に位置し、北は大久保通りへ下る崖地、東は寺の境内あたりであり、舌状台地の東北端、南は最高裁長官公邸南の崖地、西は北町・中町・下町のあたり、前面は紅葉川の流れる谷地や低湿地。北条氏の居城・江戸城のある麹町台地と、深い谷を隔てた牛込台地に構えたこの牛込城は標高27m、往昔、江戸湊への出船入り船が見える高台であり、江戸城を守る出城のひとつであったのだろう。

地蔵坂
光照寺から神楽坂の善国寺に向かう。神楽坂へと下る坂は地蔵坂と呼ぶ。名前の由来は光照寺に「子安地蔵」があった、ため、とか、境内の狸が地蔵に化けて、夜な夜な坂を通る人を誑かしたため、とか説はあれこれ。この地蔵坂は「藁坂」とも呼ばれる。江戸の頃、神楽河岸で荷揚げされた荷は、荷馬車で各方面に運ばれるわけだが、蹄鉄(ていてつ)のなかった時代には馬のひづめは、藁で保護していたわけで、坂の途中に藁を扱う店があり、一帯を藁店横町と呼んでいたのが藁坂の地名の由来。南畝は「子どもらよ笑わば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」と詠んでいる。坂で転んだ姿を子供に笑われたことを詠んだのだろう。

善国寺
毘沙門天で知られる善国寺の開基は古く、文禄4年(1595)。家康と親交のあった池上本門寺の貫首が、家康の江戸入府に際し、持仏の毘沙門天をもって天下泰平を祈祷。それを徳とした家康は日本橋馬喰町に寺地を寄進し、鎮護山善国寺と名付け自らが開基となった。徳川将軍家だけでなく、徳川御三家のひとつ、水戸光圀公も法華・毘沙門天への信仰が深く、寛文10年(1670)に善国寺が焼失すると、麹町に再建し、田安・一橋家の祈願所ともなる。
この地に移ったのは寛政4年(1792)。享保、寛政年間の大火により神楽坂の現在地に移転。仏法護持の四天王随一の守護神であり、別名多聞天と称される如く、願いを「多く聞いて」くださり、七福神のひとりでもある毘沙門天への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、「神楽坂毘沙門」の名を高める。当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、この善國寺の移転に伴い、徐々に町屋も増えていった、とか。
東京で縁日の露店が出るようになったのも善国寺が発祥とされる。当時の縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたした、とも。甲武鉄道の牛込駅ができた明治にはさらに賑やかな一帯となり、大正の頃には毘沙門天の縁日と相まって「山の手銀座」と呼ばれるほどであった、と。

神楽坂
善国寺のお参りを済ませ人混みの中、神楽坂を下る。江戸時代の切り絵図などを見るに、当時は段坂であった。また、坂の両側は武家屋敷や寺地が目立つ。神楽坂の地名の由来は、坂の途中に高田八幡(穴八幡)の御旅所があり、神楽が聞こえていた、とか、津久戸明神が田安よりこの地に移ったときに神楽を演奏したことによる、とか、若宮八幡からの神楽が聞こえた、とか、市ヶ谷八幡の神輿が祭礼の時、牛込見附のあたりで神楽を演奏したから、とか、例によってあれこれ説があり、はっきりしない。

若宮八幡
坂を下り、なりゆきで右に折れ若宮八幡に寄り道。源頼朝が奥州の藤原氏と義経討伐の折この地で下馬し祈願したとされ、奥州平定後、この地に鎌倉の若宮八幡宮(鶴岡八幡宮の若宮社)の御神体を勧請した、と伝わる。文明年間(1469~87)には、太田道灌によって再興されるなど、かつては周辺の高台すべてを境内とする、といった構えであったようだが、現在は少々つつましやかな境内に鉄筋コンクリートの社殿が佇む。




軽子坂
若宮八幡を離れ、庚嶺坂を見下ろしながら、成り行きで東京理科大の裏手を進み、神楽坂に戻る。人通りの多い通りを外れ坂の東の路地に入る。神楽小路とあり小さな飲食店が続く。先に進むと南北に通る道にでる。軽子坂とある。神楽河岸で荷揚げされた米などの荷を、軽籠(かるこ;縄で編んだもっこ)を背負って運搬する人夫達(軽籠持>軽子)がこの地に多く住み往き交っていたのが、坂名の由来。
外濠の神楽河岸の北には揚場町(あげばちょう)と言う名の町がある。江戸時代以前から大沼に面し牛込城の荷上場として古くからあったとのことであるが、江戸の頃になると、大川(隅田川)から神田川をさかのぼってくる荷船の荷を軽子が荷揚げし、坂を上っていったのであろう。ちなみに、この軽子坂の道筋は鎌倉時代に武蔵国府中と下総国国府台の両国府をむすぶ道として整備されたもの、とも伝わる。

寺内公園・行元寺跡
軽子坂を進み路地があれば成り行きで寄り道し、神楽坂中通りとか、かくれんぼ横町とか、芸者新道とか、本多横町とか、兵庫横町とか、神楽坂の路地を彷徨い、北に進むと「寺内公園」の一角に出合う。公園脇の案内によれば、この地に行元寺があった。1907年(明治40年)の土地区画整理で品川区西五反田へ移転し、その後は寺内(じない)と呼ばれるようになったとのことだが、行元寺は鎌倉時代の末には既に開基されており、本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々の信仰も篤く、往昔、広大な寺域を誇っていた、と言う。そしてその境内は町屋や遊興の場として賑わってくる。この行元寺の境内が神楽坂花柳界の発祥の地、とのことであった。

筑土八幡宮
大久保通りを少し飯田橋方面へと戻り筑土八幡町交差に。交差点脇の石段を上り筑土八幡神社に。江戸の頃は筑土八幡宮と呼ばれた古社である。社伝によれば、嵯峨天皇の時代(809年8 - 823年)に、この地の古老の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのがその起源。その後、九世紀の中頃、慈覚大師が東国を訪れた際に祠を立て、伝教大師の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したという。文明年間(1469年1- 年)には、当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。

慈覚大師
慈覚大師って、目黒不動や高幡不動、それに浅草の浅草寺など。散歩の折々に現れる。第三代天台座主であり、最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
円仁さんが開いたというお寺は関東だけで200強、東北には300以上ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう。
それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

上杉朝興は扇谷上杉の当主。江戸城との関連で言えば、太田道灌(扇谷上杉の家宰)の築いた江戸城を小田原北条との覇権争いにおいて、髙輪の台地で行われた高縄原の合戦で敗れ、河越城に落ち延びた。その後も北条との抗争を繰り返すも、江戸城奪回はならず、河越城でなくなった。
筑土八幡宮には元和2年(616年)以来、300年近く津久戸明神社が並び建っていた。江戸城田安門江戸城付近にあった田安明神がこの地に移転し、津久戸明神社と称したわけである。
社は1945年に第二次世界大戦にによって戦災で全焼。津久戸明神社の方は千代田区九段北千代田区1945年にによって戦災で全焼。津久戸明神社の方はに移転し現在に至る。このことは既に船河原町の筑土神社のところでメモした。

平将門
津久戸明神、現在の筑土神社は平将門を祀る。将門と言えば神田明神でしょう、とのことではあるが、歴史的経緯を見れば、将門と言えば津久戸明神・筑土神社が本家でしょう、とも思える。
10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は津久戸明神=築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。現在将門と言えば神田明神とされるのは、かくの如きパワーポリテックスの勝利、か。単なる妄想。根拠なし。

田村虎蔵旧居跡
境内を進み、神社裏手より坂を下り大久保通に戻る。坂の途中に「田村虎蔵旧居跡」の案内。明治の作曲家。「きんたろう」「だいこくさま」「大江山」「青葉の笛」「一寸法師」「はなさかじじい」「うらしまたろう」などの唱歌を作る。筑土八幡の境内には「田村虎蔵の顕彰碑」があったようだが、見逃した。

赤城神社
三代将軍家光の頃、世子家綱の御殿があったことに由来する御殿坂を下り終え、大久保通に戻り、早稲田通りとの交差する神楽坂上交差点に。交差点を右に折れ早稲田通り、というか神楽坂の続きを進み赤城神社に。
この神社には何度も訪れている。1300年(正安2年)、牛込城を拠点にした大胡氏が故郷である赤城の赤城大明神を分祠したのがその始まりとするこの社は、つい最近までは、それなりに、神社、といった趣の社ではあったのだが、今回訪れたときは全くの様変わり。本殿、神楽殿を含め境内全体が、現代風の建築デザインによる「お宮さま+マンション+地域センター」といった複合施設になっていた。お宮様と三井不動産の共同事業であるとのことである。

赤城坂
境内からしばし神田川方面の低地を見やり、境内横手にある崖地の急な石段を下る。坂道は赤城坂とある。「新撰東京名所図会」によれば「...峻悪にして車通るべからず...」とある。現在でも結構きつい坂である。舗装のされていない往昔は難路であったのだろう。赤城下町の民家と町工場が混在する一帯を進む。東五軒町に出版取次の大手・東販もあり、版元も多いのか小さな製本業者、印刷業者が多いように思える。


渡辺坂
道を成り行きで進み、田中寺(でんちゅうじ)さんとか、傳久寺といったこざっぱりとしたお寺様にお参りをしながら中里町と山吹町の間の通を進み少し大きな通に出る。神楽坂からの道・早稲田通りの牛込天神交差点より江戸川橋へと下る通りである。江戸川通りと呼ばれる通りに、「渡辺坂」との案内があった。江戸の頃、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があった、ため。源蔵は五百石取りの御書院番の渡邊家は幕末までこの地にあった、とか。ちなみに、早稲田通り・牛込天神町交差点の三叉路の坂は地蔵坂と呼ばれる。『砂子の残月』に「地蔵坂 酒井修理太夫下屋敷脇 天神町へ下る坂也」とはあるが、坂名の由来については不明である。近くに、地蔵尊でもあったの、か。

北野神社
江戸川通の西に北野神社がある。交差点に牛込天神町とあるくらいなので、なんらかの因縁があるものかと通を渡り境内に。ビルと住宅に周囲をかこまれた、こじんまりとした佇まい。近年立て直したのか、新しい感じもする。牛込天神と地名を関するような大層な構えではないのだが、あたりに北野、といった天神さまに関係のあるような社もないようであり、地域の人々より天神町の天神様と崇敬されてきた、とも伝わるので、多分牛込天神とはこの社なのだろう、か。
早稲田大学の西に水稲荷がある。その境内に末社の北野神社がある。往昔は高田天満宮と呼ばれ、この地の近く榎町の済松寺の近くにあった、と言う。また、その天神様は済松寺近くにあった戦国大名である大友義統(よしずみ)の屋敷に、太宰府天満宮を祀り、その地を天神町とした、との説もある。はてさて、牛込弁天様はどこにいたのだろう。

宗柏寺
北野神社を牛込天神町交差点まで戻り、西に折れて宗柏寺に。このお寺様は寛永8年(1631年)日蓮宗の大僧都・日意上人が、父である尾形宗柏の菩提を弔うべく開いたもの。宗柏の母は本阿弥光悦の姉。日蓮宗に深く帰依した本阿弥家の影響もあったのか、宗柏も熱心な日蓮宗徒であった。ちなみに、尾形光琳、陶芸家の尾形乾山は尾形宗柏の孫である。宗柏は京の呉服商・雁金屋の三代当主。元和六年(1620)、二代将軍秀忠の女和子が後水尾天皇の女御(のち皇后、東福門院)となると、雁金屋(屋形家)は天皇家御用達の呉服商として出入りするようになり益々栄えた、と。秀忠の妻は浅野長政の三女・お江。尾形家はもともと浅井家との繋がりがあり、お江が売り込みのバックアップをしたとか、しいない、とか。
宗柏寺に安置される釈迦尊像は、もとは比叡山延暦寺にあったものと伝わる。元亀二年(1571)、織田信長によって比叡山延暦寺の諸堂宇が焼き尽くされたおり、一人の学僧によって難を免がれ、密かに尾形家に安置されていた。その像を後水尾天皇が御宸翰(ごしんかん)に「釈迦牟尼仏」の号を賜った、と。これも東福門院(和子)とのつながりゆえ、か。
宗柏寺は一橋家の祈願所ともなり、また江戸庶民の信仰も篤く、元禄年中(1688~1703)に入ると、物見遊山をかね、当寺に安置される釈迦尊像や鬼子母神、浄行菩薩へ参詣に訪れる人びとがあとを絶たなかった、とのこと。境内を歩くとお百度参りの方が見受けられた。これは江戸の文化・文政の頃から盛んにおこなわれ、「お百度」を踏む善男善女が絶えることがなかった、と。明治三十一年(1898)に刊行された『新撰東京名所図会』によると『── 日々繁昌せる霊場にして、大刹ならざるも結構観るに足れり ── 右に銅製の灯明塔次に石の地蔵あり、之を束子にて洗ふ者多し、左に百度石ありて、来りて百度を踏み御符を請ふ者、時として絶ゆることなし ──』、とある。

済松寺
宗柏寺を離れ通りの北にある済松寺に向かう。将軍家光がその侍女・おなあさん(出家して祖心尼と称する)のために建てた寺、という。江戸名所図会を見るに広大な構えである。どんなものか期待をしながら門前につくも、門は閉じられている。一般公開はしていないようであった。
おなあさんの生涯は波瀾万丈である。伊勢国・岩手城主 牧村利貞の娘として生まれるも、父は朝鮮の役で戦死。父の友である前田利家に引き取られ、成長。後に小松城主・前田家に嫁ぐも離縁。その理由は不明。失意のおなあさんは妙心寺にて禅に出合う。その後、縁あって会津藩・蒲生家の重臣である町野幸和に嫁ぐも、藩主の急逝により蒲生家は取り潰し。浪人として江戸に移った一家は叔母でもある春日の局の薦めもあり、江戸城の大奥へ。大奥を取り仕切る春日の局の名補佐役として、禅の心をもって大奥の人々の心の拠り所となるとともに、将軍家光にも禅の心の影響を与え、全幅の信頼を得るに至った、と。何故将軍が侍女のために寺を建てたのか、との疑問に対しては、かくの如き経緯があったようだ。
寺領は三百四十五石で、この地域では榎町、天神町、中里町、高田町、馬場下町、早稲田町、原町他を含む広大なもの。江戸の名所図会を見るに、境内には七堂伽藍が整備され堂々とした構えである。その、広大な寺と土地を管理するために濟松寺代官が設けられたほど、と言う。明治の廃仏毀釈や大戦での空襲で堂宇は破壊・焼失し、現在の諸堂はその後立て直されたもの。

由比正雪旧居跡
名刹を離れ、榎町から東榎町の境を進む。このあたり、濟松寺門前から東榎町、天神町にかけての一帯には、その昔由比正雪の屋敷があった、とか。五千坪の敷地に門弟五千人を抱えていた、と。それにしても門弟五千人とは、途方もない数である。正雪が謀るも未遂に終わった「慶安の乱」、未曾有の幕府転覆を謀るこの事件の探索の過程で、紀伊大納言花押の文書が見つかり、事件への加担の疑義が出たという。真偽のほどは定かではないが、こういった大名の後ろ盾もあっての正雪一派の隆盛であったのだろう。

加二川と蟹川
都立山吹高校脇を通り都道319号・外苑東通りに。往昔、この道筋に沿って加二川が流れていた。源頭部は市谷薬王寺町・市谷仲之町交差点あたり、と言う。カシミール3Dでつくった地形図を見るに、牛込台地を刻み、その湧水を集めて下る。
川と言えば、この都立山吹高校あたりで加二川に合わさる川があった。蟹川(金川、とも)と呼ばれるその川の源頭部は新宿歌舞伎町あたりにあった池。そこから、新宿文化センター通り、職安通り下、戸山ハイツ、馬場下町、穴八幡宮、早稲田鶴巻町と進み都立山吹高あたりで加二川と合わさり、神田川に注いだ、と言う。こちらは加二川と違って台地での比高差があまりなく、淀橋台地と豊島台地の裂け目を流れる水路、とか。
現在は多くの家並みの続くふたつの川の合流する一帯は往昔、氾濫原としての低湿地や池が拡がっていたようである。稲田や茗荷畑の拡がる一帯は西に穴八幡の丘、北は関口の台地が見渡せる一面の田畑であったが、明治15年開校の東京専門学校が明治35年に早稲田大学と改称されるにおよび、山吹町から大学への道ができ、次第に水田、茗荷畑も消えゆき現在の繁華な街並みへと変化していった、とのことである。

元赤城神社
外苑東通りを渡り元赤城神社に。誠につつましやかな祠である。この地が元々の赤城大明神を大胡氏が分霊を勧請したところ、と言う。神社脇にあった案内によれば、その昔は、この辺りに多くの牧場があり、それが牛込の地名の由来、とあった。この説明はちょっと大雑把。チェックすると、大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)と、皇室に馬を供給するための牧場(勅旨牧)が設置された。東京には「檜前の馬牧(ひのくまのうままき)」「浮嶋の牛牧」「神埼の牛牧」が置かれたと記録にあり、「檜前の馬牧」は浅草、「浮嶋の牛牧」は本所に、そしえ「神崎の牛牧」はこの牛込におかれたとされる。これで納得。

宗参寺
元赤城神社を離れ外苑東通りに往昔の加二川の面影を思いながら南に進み、早稲田通り・弁天町交差点に。西に折れ、通を少し入ったところに宗参寺があった。このお寺さまには牛込城主であった牛込氏歴代の武士が眠る。また、江戸時代の儒学者・兵学者である山鹿素行も眠る。会津に生まれた素行は江戸で儒学・兵学を学ぶも当時の官学である朱子学を批判し、赤穂へと流される。内匠頭の祖父長直が、素行に深く傾倒していたことが、蟄居を命じられた素行を赤穂藩が受け入れた主因、とか。赤穂浪士の討ち入りの時の、山鹿流の陣太鼓は世に知られるが、素行が赤穂で門人を広く集め教えを講じたことはあまりないようだ。本当に陣太鼓が鳴ったの、かなあ?

漱石公園
宗参寺脇のゆるやかな坂をのぼり早稲田南町に漱石公園。この地は明治40(1907)年から大正5(1916)年に、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があったところ。この地で『三四郎』『それから』『こころ』といった代表作を執筆した。現在は、「新宿区立漱石公園」と整備されている。



夏目坂
道草庵という資料館で少々時間を過ごし、喜久井町の坂を下り、地下鉄早稲田駅前交差点へと下る。坂の途中、この坂を夏目坂と呼ぶが、道脇に「夏目漱石誕生の地」の祈念碑がある。漱石は慶応3年(1867年)1月5日、この地、現在の喜久井町1番地で誕生。誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克。このことは、漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている:「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。『硝子戸の中』」。喜久井町は、井桁菊の夏目家の紋章にちなんだもの。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとできたのだろう、か。

誓閑寺
喜久井坂を下りながら地図を見るに、喜久井町の周囲には多くのお寺さまが建つ。すべてを辿りたい、とは思えども、余り時間もない。せめてはと、喜久井坂の途中にある誓閑寺に立ち寄る。
このお寺さまは元々、深川にあったものが、明暦の大火の後、この地に移った、と。明暦の大火の後、防火対策を含めた江戸の都市計画によって寺を江戸の郊外に移したと言う。付近の多くのお寺さまも、同様の経緯によってこのあたりに移ったものであろう、か。「・・・カンカンと鳴る誓閑寺の鐘の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たいある物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした・・・」、と漱石の『硝子戸の中』にも描かれている。「江戸名所図会」にはお寺の境内を小川が流れていた、と言う。蟹川の流れであろう、か。



穴八幡
坂を下りきり、地下鉄早稲田駅前交差点にから早稲田通りを少し西に進み馬場下町交差点に。馬場下町とは、寛永13年にできた高田馬場の東側八幡坂の下にあった、ため。この馬場下町交差点に面した小高い丘に穴八幡が建つ。
交番横の流鏑馬像の脇の石段を上ると朱色の随神門。平成10年に再建された。社殿も平成10年、江戸権現造りにのっとり再建された。現在でも境内はゆったりしているが、江戸名所図会を見るに、誠に結構な構えである。康平五年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が、凱旋の折に、京都の岩清水神八幡宮を分霊・勧請したのがこの社のはじまりとされ、慶安二年(1649年)に徳川三代将軍家光の命により社殿も諸堂も完成した後は、江戸城の北を守る将軍家の祈願所となり、江戸屈指の大社となった。「子育て、子供の虫封じ」とか「厄除け」の神様としか知らなかったのだが、その虫封じにしたところで、我々庶民だけでなく、維新後も親王、内親王、皇族も祈祷に訪ねる、とか。、由緒ある社であった。

ちなみに、江戸名所図会には「高田八幡」とある。このあたりの地名が高田であるので、当然ではあるが、それが「穴八幡」となったのは、寛永十八年(1641)、この社に隣接する放生寺僧が、草庵を建てるべく、山すそを切り開いたところ、横穴が見つかり、そこに阿弥陀如来像が立っていた、と。この話が広まり、いつしか「穴八幡」と呼ばれるようになった。とか。
穴八幡の境内に隣り合わせる放生寺は、明治の神仏分離までは穴八幡の別当寺。穴八幡って、「一陽来復」のお守りで有名だが、この放生寺は「一陽来福」のお守り。文字は少々異なれど、江戸の頃から続くお守りである。

宝泉寺
馬場下町交差点の角にある法輪寺にお参りし、早稲田大学の大隈講堂方面へと進む。途中、道を右手に入ったところに宝泉寺。早稲田大学九号館をその裏手に従えている、といった風情。「江戸名所図会」の水稲荷(高田稲荷)の図を見ると、画の右下に宝泉寺が描かれている。現在水稲荷神社は早稲田大学との土地交換により、キャンパスの西手に移っているが、往昔、早稲田大学の敷地は水稲荷の境内であった、ということであり、宝泉寺はその別当寺。宝泉寺は早稲田大学キャンパス一帯に広大な寺域を誇っていたようである。ちなみに宝泉寺の隣は井伊掃部頭の下屋敷(現在の早稲田大学の敷地)である。宝泉寺の歴史は古い。承平年間(931~938)、平将門を倒した俵藤太こと藤原秀郷が京に上る途中、この地に立ち寄り開基した、と。その後、南北朝期に荒廃するも、文亀元年(1501)に、関東管領の上杉良朝が水稲荷神社を再興した際に、富塚古墳の台地下に寺を建て宝泉寺と名付けた。その後、戦国の乱で再度荒廃するも、天文19年(1550)には牛込氏によって再興された。

天祖神社
早稲田の雰囲気を感じるべく戸塚町を彷徨う。戸塚は富塚に由来する。地図を見ると戸塚町の少し東に天祖神社が。天和2年(1682)、榎町からこの早稲田田圃に移った。江戸名所図会には「茗荷畠神明宮」とある。この一帯が茗荷畑や稲田であったのが実感できる命名ではある。

水稲荷神社
早稲田大学のキャンパスを成り行きで進み、大学図書館の西に移った水稲荷神社に向かう。表参道は今風のつくり。境内を進むと「堀部安兵衛助太刀の場所の碑」が目に付いた。元禄七年(1694)、安兵衛(当時は中山姓)は高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門(田舎の新居浜市に近い伊予西条藩士)の果し合いに助太刀。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、浅野藩士堀部家の婿養子に懇請され堀部屋安兵衛となる。その後元禄15年、赤穂浪士として吉良邸に討ち入った話は世に知られるとおり。この碑は明治43年(1910)、旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたものが、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移された。
先に進むと社殿がある。先にメモしたように、早稲田大学9号館裏のあたりの小高い丘にあった水稲荷神社は、昭和38年(1963)7月25日、早稲田大学との土地交換により、西早稲田三丁目の甘泉園内の現在の場所に移転したもの。


この社が水稲荷と呼ばれるに至る経緯は、元禄15年(1702)に境内の大椋から水が湧き、その水が眼病に効能あり、ということで、江戸市中で大評判となった、ため。この霊水にも太田道灌ゆかりの話が登場する。道灌が散策の折り、冨塚古墳のそば(以前、水稲荷神社があった場所。現在の早大9号館の裏手。)に榎を植えた、とか。「道灌つかみさしの榎」と呼ばれるこの榎を神木として関東管領の上杉良朝が稲荷の社を再興。そして、この神木からわき出した霊水が眼病に効果があり、水稲荷と呼ばれるようになった、と言う。

水稲荷の境内には富塚古墳や高田富士など、旧地から移されたものが残る。富塚古墳は既にメモしたが、「高田富士」は、安永九年(1780)、植木屋の青山藤四郎が富士講の人たちとともに、富士山から岩や土を運び、冨塚古墳の上に盛土して造ったもの。江戸市中で、最大、最古の富士塚であった。江戸時代中期以降、江戸で富士信仰がさかんになり、各地で富士講が組織され、富士塚という富士を模した山が造られた。残念ながら普段は高田富士には上れない。7月下旬の高田富士祭りのときの、お山開きとだけ、とのことである。
境内にはいくつかの末社がまつられる。浅間神社は富士塚の麓に鎮座していたもの。現在も高田富士の入口にある。三島神社は現在の水稲荷のある敷地である甘泉園所有者・旧清水家所有の守護神。源頼朝が治承四年(1180)、鎌倉への進軍の途中、高田馬場跡から甘泉園一帯に立ち寄ったとされ、その時に、この地に三島神社を創建したと、伝えられる。三島神社はその後静岡の三島市に移されたが、その跡地に石の祠が建てられ、その後この地に移された。



甘泉園
水稲荷から成り行きで坂をくだる。思いがけなく池と庭園があり、少々心躍る。水と緑に囲まれた回遊式庭園は、もとは徳川御三卿の清水家の下屋敷。敷地は水稲荷神社境内と甘泉園住宅を含む広大なもの。明治30年頃には相馬侯爵邸となり、昭和13年には、早稲田大学がこの土地を譲り受ける。昭和36年には、大学構内にあった水稲荷神社と土地交換が行われ、昭和38年に水稲荷神社が甘泉園内に移転したのは前述の通り。甘泉園の名前は、庭園の中央からの湧き水が、お茶に適していたことに由来する。甘泉園のあたりはその昔、三島山と呼ばれていた。その三島山の西に泉があり、山吹の井と呼ばれた。その一帯を山吹の里とも呼ばれ、道灌と言えば、との山吹の逸話が残る。突然の雨に蓑笠を所望した道灌に対し、里の娘が詠んだ「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」という歌。「実のひとつだに無きぞ」を「蓑ひとつ無い」に懸けたことをわからなかった道灌は、その後和歌の道に励んだ、という話である。この逸話、鎌倉や越生など、散歩の折々に登場する。人気者・道灌故のエピソードではあろう。




面影橋
三島参道をとおり面影橋に向かう。神田川にかかる橋でも、最も名高い橋のひとつである。「江戸名所図会」には「俤(おもかげ)の橋」と記されている。歌川広重も『名所江戸百景』に「俤の橋」を描いており、のどかな風景に江戸の昔を思いやる。また、このあたりは流れ蛍でも知られ、広重も蛍狩りの絵を描いているようである。
面影橋の名の由来には、諸説ある。在原業平が我が姿を水面に映した逸話ゆえ、とか、於戸姫(おとひめ)が我が身の悲劇を嘆き、この川に身を映し詠んだ和歌:変わりぬる姿見よやと行く水にうつす鏡の影に恨(うらめ)し」、そしてなき夫を偲び入水の際に詠んだ「かぎりあれば月も今宵はいでにけりきよう見し人の今は亡き世に」、といった夫の面影を偲ぶ於戸姫の心情を憐れんで、面影橋と名付けた、とか、あれこれ。



朝亮院
都電荒川線の面影橋停留所から新目白通りを南へ渡り、ゆるやかな坂をのぼると右手に赤い門構えのお寺様。その門故に、「赤門さん」とも賞された朝亮院である。このお寺さまは、「高田七面堂」として知られる。身延山久遠寺の末のこの寺には身延山七面山の七面明神が祀られる。七面山での修行のお上人さまが、現在の戸山公園あたりに七面堂を建てたのがはじまり。江戸に疱瘡がはやった明暦の頃には、将軍家の祈祷所ともなった、と。その後、もとの寺域が尾張徳川家の下屋敷となったため現在地に移った。境内には七面堂、その両脇に石造りの金剛力士像が屹立する。宝永二年(1705)に作られたものとのことである。



おとめ山公園
朝亮院を離れ、次はどこへ?と想いやる。本日はもう十分に歩いたとは思えども、まだ日暮れには少し時間もある。地図を眺めおとめ山へと辿ることにした。一度訪れたことはあるのだが、目白台地から神田川を望む南面傾斜の崖線にある湧水を再び見たいと思ったわけである。
新目白通りを進み、明治通りを越え、JRの高架下をくぐり、後は成り行き、というか勝手知ったる崖面の坂を上る。楢、椎、椚などの落葉樹が生い茂り、その中心に湧水池。回遊式庭園と呼ぶのだろう。池脇の湧水点からのかすかな流れに結構感激する。公園は道を隔てた西と東に別れ、東の湧水池からの水は西の公園にある弁天池へと導かれている。
おとめ山の名前の由来は「御留」、から。江戸の頃はこのあたりは将軍家の狩猟地であり、立ち入り禁止故の「御留」であった。明治には御留山の東を近衛家、西を相馬家が所有。相馬家が林泉園と称し庭園とした、と。戦後は荒れ果てたままであったようだが、地元の人々の努力により公園として整備された。先日この池を訪れたとき、子供がゴムボートを湧水池に浮かべ大いに楽しんでいた光景が、法的にどうかは知らねども、いかにも可愛かった。



東山藤稲荷神社
おとめ山公園のすぐ東に東山藤稲荷神社という社がある。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、往昔、おとめ山の多くを有し結構なる社であった、とのこと。清和源氏の祖六孫王・源経基が、延長5年、東国源氏の氏神として祀った、ということであるから、それも当然であろう、か。
この源経基、平将門ファンにとっては好ましからざる人物として伝わる。将門を反逆者として誣告したのも経基、その後、あれこれの経緯もあり将門が兵を起こすと征伐軍の副将として乱の平定に赴く。が、乱は既に平定されており、活躍する場はなかったようである。それはともあれ将門は朝廷への逆賊として長き間不遇の時代を送った訳であり、それ故にも、逆賊平定の貢献者でもある経基の建てたこの社が栄えたのであろう。藤稲神社とも、富士稲荷神社とも呼ばれたようだが、東山の由来は不明。

ちなみに、江戸のお散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に『藤稲荷に詣でし道くさ(文政7年(1824)9月12日)』がある;「落合村の七まがり(地名)に、虫聞に行けば、老をたすけてともになど、もとの同僚畑秀充のいひしも、いつしか十あまり五とせばかりのむかしとは成けり。げに、とし波の流れてはやきためしをおもへば、かたときのいとまをも、あだにすぐすべしやは、わかきとき、日を惜しめるは勤にあり、老いての今はたのしみもて、こゝろをやしなひ、終わりをよくせんとなるべしや」、と。

七曲がりとは、東山藤稲荷神社の西、新目白通りのそばにある氷川神社から北の崖線を上る坂。村尾嘉陵はその後、「薬王院(瑠璃山 医王寺)」へと向かっている。本日は、このおとめ山あたりで終了、とはおもっていたのだが、嘉陵フリークの我が身としては同じ道筋を辿ろうと、思い切る。



下落合氷川神社
七曲坂のきっかけを求め、氷川神社に。この下落合氷川神社は、第5代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、といっても考昭天皇って紀元前のことであるし、それはないにしても、江戸時代には下落合村の鎮守ともなっているので、古き社ではあろう。江戸期には豊島区高田の高田氷川神社を男体の宮、当社を女体の宮として、夫婦一対神として信仰されていた、と。高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神、こちらの落合の氷川神社はその妻の奇稲田姫命となっている。



七曲がり坂
七曲がり坂は、現在緩やかなカーブとなっており、七曲がりの趣きはない。「豊多摩郡誌」によると、七曲坂は馬場下通、御禁止山の麓にあり、大字とあった。治37年に開鑿(かいさく)して交通に便せり。落合ではもっとも古い坂道のひとつである。周辺には相馬坂、九七坂、西坂、霞坂、市郎兵衛坂、見晴坂、六天坂など少々惹かれる名前の坂道が多い。そのうちに歩いてみたいものである。

薬王院
さて、村尾嘉陵は先に進み、「ひろ前をくだりに猶ゆけば、みちのかたへに寺あり。石しきなみて、見入いとよし。薬王院といふ」と記す。
薬王院は真言宗豊山派瑠璃山東長谷寺と称し、奈良・長谷寺の末寺で、開山は鎌倉時代、相模国(神奈川県)大山寺を中興した願行上人。 本堂は昭和40年に、奈良・長谷寺と京都・清水寺の見所を取り入れて建立されたものという。
寺域は下落合崖線に位置して傾斜地にあり、墓地は最も高いところにある。境内ではもともと薬用として栽培されたといわれる鎌倉・長谷寺の牡丹の株100株を拝領し数多く、現在では1000株にまで増えその美しさから別名「牡丹寺」とも呼ばれる。しだれ桜も見事、とか。




神楽坂から牛込台地を辿り早稲田田圃の低地へと、地形の凸凹を感じてみようなどと始めた散歩も、終わってみれば目白台地の下落合あたりまで進んでいた。普段何気なく見過ごす風景にも、それぞれの物語があるものと、改めて実感。落合で「落ち合う」、神田川と妙正寺川の合流点あたりを彷徨い、高田馬場駅に向かい、一路家路へと