水曜日, 4月 19, 2006

江東区散歩 そのⅦ:江東区(亀戸エリア)へ

江東区散歩も最後のエリア。区内では最も古い地帯。とはいっても、江戸以前は江東区はここ以外の地帯は湿地帯。この亀戸のあたりが臨海部、というわけで、砂洲状の微高地や入り江が入り組んだ地帯であった。亀戸の名前はこの島が、小さな亀の形をしていたとか、海浜に面した港(津)であったとか、飲料用の井戸があったとか諸説、あり。ともあれ、「亀島」「亀津」「亀津島」「亀井戸」などと呼ばれたことに由来する。室町時代の地図に「亀島」「亀井戸」といった地名が見える。中世にまで遡る寺社も多い、幕府の直轄領に歩を進める。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1644年から);柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)



本日のルート: 総武線・亀戸駅 ; 横十間川 ; 亀戸水神通り・水神社 ; 香取神社 ; 神明宮跡 ; 北十間川・天祖神社 ; 横十間川・龍眼寺 ; 亀戸天神

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。総武線に沿って西に横十間川まで戻る。川に沿ってすこし北に。道脇に亀戸銭座跡。江戸時代の通貨鋳造場のあったところ。寛永通宝をつくっていた。そのすぐ北に日清紡績創業の地の碑。陸軍被服工廠などを経て、現在はスポーツ施設とかマンションに様変わりしている。
蔵前通りまで進み天神橋東詰めを右折。明治通の交差点まで進み右折。すこし南に下り、左折。亀戸水神通りを東に進む。

亀戸水神通り・水神社

亀戸水神通りを進み、東部亀戸線・亀戸水神駅の手前に「亀戸水神社」。道の脇にこじんまりした神社。このあたり海に近く低湿地帯。その開墾に際し、水害からこの地をまもるため作られた。神社の案内書によれば、堤防の突端に、まわりの地面より高く石垣をつくり石祠が祭られた。ついでながら、水神さんと祇園さんは関係あるらしい。
それにしても神社の構えの割には神社の名前のついた通りや小学校があったりと、なんとなく気になる神社。室町時代の古地図にも「水神社」って記述があるし、昔はもっと大きな構えだったのだろうか。チェックする。創建は16世紀の享保年間、というから室町幕府12代将軍・足利義晴の頃。結構古い。奈良県吉野の丹生川上神社を勧請したもの。祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神さま。朝廷からの信仰も篤く、社格高い「明神」号をもつ社であった。社殿は昭和20年の東京大空襲で焼失した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

蔵前通りの北を明治通りに戻る
少し北に進み蔵前通りを越えると常光寺。亀戸の七福神のひとつ寿老人が祀られている。西に進むと石井神社。石神社と呼ばれたとも。民家の間に挟まれて少々窮屈な感じ。油断すると見過ごしてしまいそう。おしゃもじ様と言われ、咳の病を治す神社として信仰を集めた。おしゃもじを神社から借り、効果あればふたつにして返すのがルール。境内にいくつかのしゃもじがあった。この神社の神体は石棒。石の神様=しゃくじん>しゃくし>杓子=おしゃもじに繋がる。ついでに、「しゃくじん」、を「せきじん」とよぶこともあり、せきじん>咳き>咳の病に効く、といあいなる次第。ちなみに、都内で石を神体とするのは、いつか散歩したちきにであった石神井神社、葛飾区立石の熊野神社、豊島区西巣鴨の正法院の石神、板橋区仲宿の文殊院の石神などがある。西に進み、明治通りの手前に東覚寺。亀戸の七福神の弁財天が祀ってある。通りを隔てた西に香取神社がある。

香取神社
明治通りに。北に向かってすこし進む。香取神社。天智天皇4年(665年)創立。藤原鎌足が「亀の島」に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願った。以来、亀戸の総鎮守。平将門の乱を平定した藤原秀郷が戦勝の返礼として弓矢を奉納。その故事にちなみ勝矢祭りがおこなわれるといった由来書。祭神は経津主(フツヌシ)。アマテラスの命を受け、まつろわぬ民を平定した、ということで武門の神様として信仰されてきた。
本宮は千葉県佐原市にある上総一ノ宮の香取神宮。経津主(フツヌシ)神を祭神とするこの神社は「古利根川東岸」、つまりは埼玉県東部、東武日光線沿線東側、もっと具体的には、埼玉県東部の春日部市、越谷市、三郷市、千葉県野田市、柏市、東葛飾郡に数多く分布している。ついでのことなので、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』に書いてあった祭祀圏、平たく言えば神様の勢力圏について概略をまとめておく。 香取神社は上にメモしたように、上総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば古利根川に沿って数多く分布している。隅田川の西、つまりは武蔵野国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいい、かと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。本来は物部系の氏神。物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とする。ちなみに、由来書の藤原鎌足が勧請した、とのくだりは、香取=中臣・藤原氏の深い関係を示唆するもので、実際にこの地にきたかどうか、とは関係ない、かも。
一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。

香取神社の近くに普門院・神明宮跡
香取神社を離れ南西方向のすぐのところに普門院。亀戸の七福神のひとつ毘沙門天が。そうそう、香取神社にも亀戸の七福神のうち恵比寿神と大黒神があった。北に進み入神明宮跡を探す。なかなか見つからない。あきらめかけた頃、ひょいと顕れる。民家に囲まれた駐車場の脇に碑文があるだけ。由来書によれば、昔この地は海上に浮かぶ小島。往来する船の安全を祈ってこの宮を勧請。明治40年に土錘(魚網のおもり)が出土。昭和62年に、香取神社に合祀された、と。近くに梅屋敷跡があるはず。が、見つからなかった。

北十間川・天祖社
北十間川に沿って北西方向に。すぐ天祖神社。推古天皇の頃(593?628年)の創建と伝えられる。亀戸の七福神の福禄寿が。天祖神社は、もともとは伊勢信仰の社であった、神明宮が明治の神仏分離令の折に、天祖神社と改名したところがほとんどである。

横十間川・龍眼寺
横十間川を南に下る。龍眼寺。品のいいお寺さん。亀戸の七福神のひとつ布袋尊が祭られている。このお寺、元禄の頃から萩を全国から集め幾千株にしたことから、別名萩寺とも呼ばれる。文人墨客多数訪れたのだろう。平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』にも登場していた。

亀戸天神
南に下って亀戸天神に。寛文2年(1662年)大鳥居信祐が天満宮を勧請。梅と藤の名所。言わずと知れた学問の神様。中江兆民の碑をはじめ多くの筆塚もある。なかでも気になったのが塩原太助奉納の灯篭。灯篭に興味があるわけでなく塩原太助のこと。どこで覚えたのか定かではない。が、子供のころに読んだ本に出ていたのだろう。愛馬との別れの話だったのか、親孝行の、といったコンテキストだったのか、それもで覚えていない。で、調べてみた。
江戸で生まれたが故あって育てられる。16歳になって、江戸にでて独立の決心。愛馬「あお」との別れ。一時は大川に身を投げよう、ともした。が、通りかかった薪炭商山口善右衛門に助けられる。一念発起。努力をかさね「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原」と言われるまでの豪商となった、とか。 今回で江東区散歩はおしまい。下町低地・埋め立ての歴史散歩は、次は隅田区に。

火曜日, 4月 18, 2006

江東区散歩 そのⅥ:木場・東陽エリアへ

木場一帯が埋立てられたのは、明暦3年(1657年)以降。同年、江戸を焼きつくした、いわゆる明暦の大火の後、幕府は防火を主眼とした都市計画をおこなう。市街地の再開発、拡張、寺町の移転などを実施。当初永代島にあった貯木場をこの地に移す。元禄14年(1701年)の頃である。 木場の東、千田から扇町にかけての「十万坪」、仙台堀川の南の東陽町が埋立てられたのは、18世紀の初頭から中頃のことである。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
元禄11年(1698年);築地町・十五万坪(木場・平野)/ 六万坪・石小田新田(東陽4・5・6・7丁目)
享保年間(1716年);十万坪(千田・千石・扇橋)
明和2年(1765年);平井新田(東陽3・5丁目)



本日のルート;地下鉄東西線・東陽町 ; 江東区役所 ; 横十間親水公園 ; 平井新田跡 ; 洲崎神社 ; 大横川 ; 宇迦八幡宮・「十万坪」 ; 木場公園

地下鉄東西線・東陽町;永代通り・四ツ目通りの交差点からスタート

地下鉄東西線・東陽町で下車。永代通りと四ツ目と通りの交差点を北に。前々から気になっていたのだが、この四ツ目って何だ?三ツ目もあるし、ということで調べてみた。昔、堅川の北、現在の両国2,4丁目あたりに本所相生町というところがあった。この地に本因坊さんが住む。本因坊って囲碁の名家。この相生って名前も、本因坊に由来する。囲碁の真髄は相手とともに成長する>ともに暮らし、老いる=相老>相生となった、とか。
それはさておき、相生町1丁目,2丁目は碁盤の目に因んで一ツ目、相生町3町目・4丁目・5丁目は二ツ目。その道にかかる橋を一ツ目の橋>一の橋、二ツ目通りにかかる橋を二つ目の橋>ニノ橋と呼ばれた。三ツ目通り、四ツ目通りも同じ理屈でつけられたのだろう。現在、一ツ目通りは一ノ橋通り、二ツ目通りは清澄通り、三ツ目通り、四ツ目通りはそのまんま。五ツ目通りは明治通りになっている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

江東区役所
四ツ目通りを少し北に。江東区役所。広報課公聴課に行き、『江東区のあゆみ』『江東文化財マップ』などが購入できる。『江東区のあゆみ』は江戸から平成までの江東区をまとめた小冊子。100円で手に入れる。125ページ。江東区の埋め立ての歴史がよくわかる。『こうとう文化財マップ』は500円。江東区の全体像をまとめるには便利そう。
話は少々それるが、広報資料として、戦前の江東区の写真集もあった。1000円だったと思う。ぱらっと眺める。埃っぽい道、汚染の進んだ河川などなど、今の江東区の姿からは想像するのが難しい風景。実のところ、散歩を始めて江東区を歩くまでは、こんなに美しく整備された川筋など想像もしていなかった。団塊世代の我が身としては、江東区=ゼロメートル地帯、荒れた・少々美しくない川筋を想像していた。10年かけたのか、20年かけたのか、ともあれ豊かな川筋・町並みに様変わりしていた。

江東区役所のすぐ北に横十間親水公園
直ぐ北に横十間親水公園・井住橋が架かっている。南北に貫く横十間川が、東西に走る小名木川、仙台堀川を越え、更に葛西橋通りを過ぎたところで進路変更。西へと進み大横川に合流している。

東陽3丁目のあたりには「平井新田」があった

横十間親水公園は、その雰囲気だけ感じ、もとの永代通りまで戻る。西に進み、東陽3丁目から5丁目を。このあたりは平井新田。

明和2年というから1765年、平井満右衛門、虎五郎が江戸城の掘り浚いの土で埋め立てる。明和3年(17766年)には塩浜も開かれた。先に進み木場5丁目に。大横川にかかる沢海橋に。東詰めに関東大震災殉難者供養碑。

横川・沢海橋のすぐ南に「洲崎神社」
沢海橋のすぐ南、弁天橋の近くに洲崎神社。元禄13年(1700年)、将軍綱吉時代、護持院隆光が、江戸城中より弁天像を安置したのが州崎弁天社の始まり。その後州崎弁天への沿道には料理茶屋などができ、賑わった。
深川洲崎十万坪と呼ばれ、浜の真砂が続くこの景勝の地も寛政3年(1791年)暴風雨・大津波で壊滅的打撃を受ける。以降埋め立てが進むことになる。州崎神社となったのは明治になってから。
洲崎神社の西に波除碑。寛政3年の高波・津波の被害の経験から、洲崎神社から平久橋まで一帯を空き地にして家屋建築を禁止。洲崎神社の前・木場6丁目と平久橋の西の2箇所に波除碑を建てて目印とした。

平久橋は大横川が西に進み、平久川と交差するところにある。平久川(へいきゅうがわ)。旧町名・平富町と久右衛門町の間にあったのが名前の由来。ちなみに、平久橋のすぐ南には、古石場川親水公園。江東区散歩のスタート地点。ぐるっと一周して元に戻ってきた。

横川を北に
沢海橋から大横川を北に木場4丁目方向に進む。大横橋、横十間川親水公園との分岐をそのまま直進。豊木橋、茂森橋・葛西橋通り、仙台掘を越え、大栄橋、福寿橋と進む。東が千石、西が平野地区。更に北に三石橋、亥之掘橋へ。東が石島、西が三好地区。


千田地区・宇迦八幡宮のあたりは「十万坪」とよばれる埋立地

清洲橋通り手前を右折。石島地区を越え千田地区に宇迦八幡宮。当地の開発者千田庄兵衛が建立。千田稲荷神社と呼ばれる。このあたり、千石・石島・海辺・扇橋一帯はその昔、十万坪と呼ばれる埋め立て地。享保8年というから1723年、近江屋千田庄兵衛と井籠屋万蔵の両名により開発。江戸の塵芥をつかい、2年の歳月をかけて完成。庄兵衛の名字をとり千田新田と。寛政8年(1796年)には一橋家の領地となり、一橋家十万石と呼ばれる。
また、十万石の南、現在の東陽6,7丁目あたりは宝永7年(1710年)より、開発が進み、六万坪町・石小田新田ができる。江戸の塵芥で埋め立てる。石小田新田は、石川・小柴・豊田という3名の開拓者の名前から。歌川広重の描く『名所江戸百景 深川洲崎十万坪』にその広大な景観が感じられる。

木場公園
このエリアを代表するのは木場公園。もとの貯木場。寛政18年(1641年)、江戸の大火で日本橋の材木置き場が焼失したことがきっかけで、深川(佐賀・福住あたり)に材木置場を移す(元木場)。のちに一時猿江に移るが、元禄14年(1701年)にこの地木場に。それ以来300年に渡り、この地が木材流通の中心となる。が、昭和49年、新木場への移転がはじまり、この地は平成4年に木場公園に。

江東区散歩も残すところ、亀戸地区だけに。

月曜日, 4月 17, 2006

江東区散歩 そのⅤ:(砂町中南部エリア)へ

砂町も、江戸初期に開かれた砂村新田に由来する土地である。それ以前のこの地は、利根川・入間川・隅田川の三水系の間に自然形成されたデルタ地帯。陸とも海ともつかぬ場所だった。

家康の江戸入府の半世紀以上前、連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)がまとめた旅行記がある。『東路のつと』といい、今の小名木川筋に当る水路をつたって現在の浦安辺りまで行ったときの「半日ばかり蘆荻(ろてき)を分けつつ、かくれ住みし里々を見て」と記す。ところどころに小村落があった、そういった一帯であった。
江戸時代に入ると、点在する村々に開拓農民たちがやって来た。砂村新田を開発した砂村新左衛門もそのひとり。浮島と干潟であったこの辺りの開拓をおこなう。以降、この周辺には次々と新田が開拓された。その多くは同様に開発者の名前が付けられた。v 砂村地区は深川などとともに野菜つくりが盛んにおこなわれた。江戸の人口が膨らむと、米は年貢米として市中に出回ったが生鮮野菜は圧倒的に不足。つくればつくるほど売れるという噂も広まるほど。年貢免除といった幕府の振興策もあり関西からネギ、ニンジン、ナス、キュウリなどの野菜の種がこの地にもたらされ、江戸近郊農村として、江戸の食料の供給地として野菜類の促成栽培が行われた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1624年);亀高村(北砂4・7丁目;亀戸新田と高橋新田をあわせ亀高村に)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂)
万治2年(1659年);砂村新田(南砂1-7丁目、東砂8丁目)
万治年間(1658年);八郎右衛門新田(東砂4-8丁目)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂1・3・4丁目)
元禄年間(1688年):大塚新田(北砂4・7丁目)/久左衛門新田(北砂2・3・4町目)/中田新田(東砂5丁目)/



本日のルート;仙台堀川公園>東砂4丁目>北砂7丁目>清洲橋通り・境川橋>旧大石家住宅>葛西橋通り>南砂6丁目>南砂7丁目・富賀岡八幡宮>元八幡通り>南砂3丁目・南砂3丁目公園>「砂村新田跡」の碑>南砂4丁目>明治通り>南砂緑道公園・長州藩大砲鋳造場跡>永代通り>東陽町

仙台堀川公園
小名木川から南に延びる仙台堀川公園を下る。仙台堀川の水路跡につくられた親水公園といった風情。東砂4丁目から先は砂町中南部エリア。北砂7丁目を進み清洲橋通りに架かる境川橋に。少し進むと、南砂5丁目と東砂7丁目の境で仙台堀川公園遊歩道は西に折れる。








旧大石家住宅
曲がり角に旧大石家住宅。江東区最古の茅葺き民家。この地域は半農半漁の農家も多く、この家も水害に対する工夫が見られる、とか。仙台堀川の由来。昭和40年の河川法改正で仙台掘と砂町運河をあわせて、「仙台堀川」となった。仙台掘って、隅田川河口の「上之橋」北詰に仙台藩の下屋敷・蔵屋敷があったから。




南砂7丁目には富賀岡八幡宮
仙台堀川を離れ、少し南を東西に走る葛西橋通りをすこし東に。南砂6丁目の境で南に下り、南砂7丁目にある富賀岡八幡宮に向かう。名所江戸百景『砂むら元八まん』に描かれる桜並木に惹かれたため。

現在に富賀岡八幡宮は少々殺風景。通称元八幡、富岡八幡宮の元宮と言われるとはいうものの、といった雰囲気。江戸時代は松が生い茂り、海浜に面した参堂の桜並木が有名で善男善女が数多く訪れた、とか。が、明治43年の大水害で松も桜も壊滅的損害を蒙った。




南砂3丁目公園の砂村新田跡。17世紀中ごろに埋め立てられた
神社を離れ元八幡通りを西に進む。昔の参道だったのだろう。南砂3丁目に南砂3丁目公園。「砂村新田跡」の碑。海に浮かぶ島だった砂町地区は江戸時代に埋め立てられてできたもの。

摂津の国の砂村新左衛門が一族を引き連れ関東に下り、横浜桜木町の野毛新田、横須賀の内川新田を埋め立て・開拓したあと、この地にくる。そして浮島と干潟であったこのあたりの埋め立てをおこなう。砂村新田の由来である。万治2年(1659)の頃である。延宝9年(1681年)にはこの砂村新田と永代島新田がごみ捨て場として定められた。

南砂緑道公園に長州藩大砲鋳造場
南砂4丁目を越え明治通りに。南砂3丁目交差点のあたりに「南砂緑道公園」。南砂中学校とか南砂住宅の周囲ををぐるっと囲む遊歩道。全長1キロ程度。川筋かと思ったのだが、都電の線路跡地、とのことである。緑道を少し西に。すぐ南に下ると長州藩大砲鋳造場跡。白御影石の台座の上に、パリのアンヴァリッド(廃兵院)に保存されている大砲(実物は長さ3メートル)のモデルが置かれている。

「江戸切絵図」をよれば、このあたりに長州藩主松平大膳太夫の屋敷。長州藩では、三浦半島の砲台に置く大砲を鋳造するため、同藩の鋳物師郡司右平次(喜平次)が、佐久間象山の指導のもと、この砂村の屋敷内で36門の大砲を鋳造。アンヴァリッドに保存されている長州藩毛利家の紋章の入った大砲は、攘夷戦で破れ、下関の砲台を占領され、その戦利品としてパリに持ち帰られたもの。
永代通り先に進むと永代通りに合流。西にすこし進めば東陽町。ここから先は木場・東陽エリア。

日曜日, 4月 16, 2006

江東区散歩 そのⅣ:(大島・砂町北部エリア)へ

大島・砂町北部エリアを歩く。大島の地は江戸の比較的早い時期に埋め立てが行われている。大島と呼ばれるくらいであるので、小名木川のラインを渚とする低湿地ではあったものの、ちょっと大きな島、というか、砂洲があったのだろう。近くに旧中川が流れるので、その砂洲でつくられた微高地を「取り付く島」として埋め立てが進んだのだろう、か。まったくの想像。根拠なし。
砂村の地の埋め立ての歴史も早い。17世紀のはじめ。寛政の頃である。砂村の名前はこの地を埋め立て、砂村新田開発をおこなった砂村新左衛門一族の名前から。北砂の旧地名をチェックすると、八右衛門新田、治兵衛新田、久左衛門新田、大塚新田など、「新田」が並ぶ。

大島と砂町の境にあるのが小名木川。塩の道も近代に入ると鉄工所などの工場が立ち並んだ。釜屋跡、化学肥料創業記念碑。そのほか北砂5丁目の精製糖工業発祥の地。日本で初めて白砂糖の精製に成功した鈴木藤三郎が明治21年に建設した工場の跡地である。日本の近代工業を支えた地帯でもある。昭和30年代になると、多くの工場が転出。その跡地に集合住宅が建設される。東砂2丁目の小名木川沿いに、並ぶアパートがそれであろう、か。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
天正年間(1573年);小名木川村(大島3・5・6.7.8丁目)
慶長年間(1596年);枚方村(大島5・6・7・8丁目;大坂・枚方の人が開発した)
寛永年間(1624年);八右衛門新田(北砂1・2丁目・扇橋あたり)
正保年間(1644年);荻新田(東砂1・2丁目、北砂6丁目)/ 又兵衛新田(東砂2丁目)
明暦年間(1655年);深川上大島・下大島(大島1・4丁目)



本日のルート: 大島橋東詰め ; 横十間川親水公園 ; 中浜万次郎宅跡 ; 釜屋の渡し跡 ; 新大橋通り・五百羅漢跡 ; 中川船番所資料館 ; 中川船番所跡 ; 小名木川 ; 仙台堀川公園

大島橋東詰めに釜屋跡・化学肥料創業記念碑。


都営新宿線・住吉駅を降り、新大橋通りを東に進む。横十間川に架かる本村橋を渡ると大島1丁目。東詰めを右折。南に下り横十間川・大島橋東詰めに。釜屋跡。化学肥料創業記念碑。釜屋跡は江戸初期、近江の国の太田氏釜屋右衛門(釜六)と田中氏釜屋七右衛門がこの地に工場を構え、明治・大正まで鋳物(いもの)業を営む。「東京深川釜屋堀釜七鋳造場」には、小名木川にそって拡がる広大な工場が描かれている。明治時代だろう。同じところに「尊農・化学肥料創業記念碑」。明治21年、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士が工場長となり、日本最初の科学肥料工場がこの地にできた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

横十間川親水公園
南に進み、横十間川と小名木川と交差するところにクローバー橋。クロスにかかる橋を渡り、横十間川親水公園を少し南に下る。北砂1丁目にあった、土佐藩下屋敷跡に中浜万次郎宅跡がある、とのこと。探したがみつけることができなかった。ジョン万次郎。土佐の漁師。船が遭難。アメリカの捕鯨船に救助される。アメリカで教育を受け、帰国後、土佐藩に登用されこの地に住み、開成学校(東大の前身)で教授として働く。で、後からわかったのだが、旧居跡は北砂小学校の敷地内にあったようだ。




小名木川に戻り「釜屋の渡し跡」に
再び北に登り、小名木川沿い・釜屋の渡し跡に。碑文の概略;釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復。 名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったから。 写真には釜屋、というか鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っている。明治時代の利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭、と。
近くにJR貨物専用線が走る。越中島貨物線と呼ぶらしい。新小岩から亀戸、そして小名木川駅を経て越中島貨物駅に続く。昔は、その先、晴海方面にまで続いていた、と。現在は貨物輸送は廃止されているようである。

進開橋から新大橋通り・五百羅漢跡

>小名木川を東に進む。進開橋を渡り明治通りを北に。新大橋通り交差点あたりに五百羅漢跡が。とはいうものの、どうもあたりは工事中。碑文を見ることはできなかった。五百羅漢とは、500人の優秀な仏弟子、とでもいったものか。
江戸時代初期、開山松雲元慶が10年の歳月をかけ江戸の町を托鉢して集めた浄財で等身大の五百の羅漢像をつくりあげた。五代将軍綱吉、七代将軍吉宗の庇護を得て「本所のらかんさま」として人気を集める。「名所江戸百景」にも描かれているが、現在はこの地にはない。明治20年に本所に、同42年に下目黒に移った。目黒不動の傍である。ちなみにこのあたりは本所五つ目と呼ばれていた。道を隔てた向かい側に羅漢寺があるが、これは別のお寺さん。

旧中川脇に中川船番所資料館
新大橋通りを東に進む。大島の町並み。旧中川にかかる船越橋の手前を右折。小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所資料館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには番所中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料。

江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川さらいに関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。『江東区中川船番所資料館・常設展示目録(700円)』『江東地域の400年(100円)』を購入し、資料館を離れる。

中川船番所跡
資料館前道を旧中川に沿ってすこし南に。中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3?5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣されていた。小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。

「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようだが、幕府の流通統制策に基づき、江戸に入る物資の改めを厳しく行っていた。

仙台堀川公園
番所橋を渡り小名木川の南を西に戻る。東砂2丁目を越え東砂1丁目。左手に遊歩道。仙台堀川公園である。大島・砂町北部エリアもここまで。仙台堀川水路跡の仙台堀川公園を南に進めば砂町中南部エリアに入ることになる。

土曜日, 4月 15, 2006

江東区散歩 そのⅢ:(森下・住吉)へ

江東区(森下・住吉)は、小名木川の北になる。昔、どこかで江戸初期の地図を見たのだが、小名木川あたりが海岸線のようであった。小名木川の南は海。といって、北が「ちゃんとした」陸地、というわけでもないだろう。葦の生い茂る低湿地であったかと思う。
小名木川。隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。川、といっても自然の川ではない。家康が江戸開幕の折に開削した運河である。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶためつくったもの。
江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる「塩の道」の一部ではある。
小名木川の開削は家康の最重要事業であった、という。塩は生活の必需品であるから、だろう。運河が掘られる。で、その残土を埋め立てに使う。小名木川以北が埋め立て事業の最初に行われたのは、こういった事情もあったのではないか、と思う。
小名木川の名前の由来は、家康の命によりがこの運河を開削したのが小名木四郎兵衛の名前から。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
小名木川は、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになり、「塩の道」の役割が少なくなってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。


埋め立ての歴史
(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長年間(1596?1615);深川村(森下・常盤・新大橋・猿江・住吉)
享保年間(1716年);毛利新田(毛利)



本日のルート:万年橋北詰・船番所跡  芭蕉記念館 ; 新大橋東詰め・御船蔵跡 ; 猿江神社 ; 猿江船改番書跡・扇橋閘門 ; 小名木川橋北詰め ; 猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡

小名木川・万年橋北詰に船番所跡
小名木川・万年橋北詰。常盤町。昔、松代町と呼ばれていたが、町名を変える際、「松」にちなんで縁起よく、常盤(松)、としたとか。船番所跡の案内。川舟の通行を改める「深川船改番所」のあったところ。寛文元年(1661)に中川に移るまでこの地にあった。

芭蕉稲荷神社・芭蕉記念館
同じく北詰をすこし隅田川に入ったところに芭蕉稲荷神社。大正6年の大津波の後、この地から芭蕉愛顧の石の蛙が見つかり、それを記念し神社がつくられた、と。芭蕉は17世紀後半、この地に芭蕉庵を営み、「蕉風」と呼ばれる俳諧を確立した。江戸切絵図によれば、紀伊殿屋敷に「芭蕉庵の古跡、庭中ニアリ」と書いてある。芭蕉没後、尼崎藩・松平紀伊守の屋敷。北に進む。芭蕉記念館。芭蕉の肖像画や手紙などの資料が展示されている。更に北に進み新大橋通りにあたる。


新大橋東詰めに御船蔵跡
新大橋東詰めの御船蔵跡。幕府御用船の格納庫跡。寛永9年幕府軍艦安宅丸(あたけぶね)を伊豆より回航繋留。のちに天和2年解体した地であることを記した碑。橋詰より東に進む。

深川神明宮は深川の開発者の屋敷神から

清澄通りを少し下り、森下1丁目に深川神明宮。深川村の総鎮守。このあたりは深川発祥の地。葦の生い茂るこのあたり一帯の埋め立て・開発をおこなった摂津の人、深川八郎右衛門の名前にちなみ深川という名前が生まれる。慶長期(1596?1615)であるので、江東区埋め立ての始まりの時期でもある。 八郎右衛門の屋敷内に祀られたお伊勢さんの祠が深川神明宮の起こり。森下の地名は、江戸初期、この地にあった酒井左衛門尉の下屋敷の樹林が深く、周囲の町屋は森の下のようであったからだ、と。
神明さま、とは伊勢信仰の「天照大神」のこと。明治期におおくの神明社は、伊勢神宮=天皇家、を憚って改名。天祖神社などという名前にしたが、ここはママ、残った、ということか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大横川に架かる猿江橋を渡り猿江神社に
墨田区との境を森下3丁目、4丁目と進む。新大橋通りと小名木川の間を道なりに進み、三つ目通りを越え、大横川に架かる猿江橋に。大横川よりは東住吉エリア。住吉の名前は昭和になって、いくつかの町が一緒になった際、縁起がいいという理由で名づけられたもの。由来は特に無い。
住吉は昔からのこの地域の地名、猿江で呼ばれることが多い。猿江1丁目に猿江神社。由来書によれば、11世紀はじめ源義家の奥州征伐のころ、この地で果てた源氏の家臣・猿藤太に由来する、とか。猿+(入り)江=猿江、となったとの説明。猿江神社の少し北に、摩利支天祠跡・日先神社。今は、なんとなくこじんまりした構えではあるが、江戸名所図会では結構なる造作。江戸屈指の規模をもつ神社であった、とか。摩利支はサンスクリット語で「マリシ=太陽や月の光」。摩利支天は陽炎を神格化したもの。陽炎は実体がないので、捉えられず・傷つくこともない、ということで武士の間で信仰されていた。楠正成など兜の中に摩利支天の小さい像を入れていた、と言う。また、だまされず、財をとられることもないということがら江戸後期には民衆の信仰を集めた。

小名木川筋に戻り、猿江船改番書跡・扇橋閘門へ
近くに小名木川。ちょっと寄ってみようと「猿江船改番書跡」に。元禄から享保期(1688?1736)頃、川船行政を担当する川船改役(かわふねあらためやく)の出先機関として設置。船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていた。
直ぐ東に扇橋閘門(こうもん)。江東区の東と西では水位が異なる。で、東の小名木川と西の隅田川の水位を調整するためにつくられた。大潮のときなど2m近い水位差がある、とか。船が入った後、後ろの門が閉じられ、水位調整のあと前の門を開けて船が出ていく、というもの。

小名木川橋北詰めに五本跡と五百羅漢道標
四ツ目通りと小名木川が交差するところに小名木川橋。橋の北詰に五本松跡と五百羅漢道標。歌川広重の「名所江戸百景」での「小奈木川五本まつ」、とか「江戸名所図会」の「小名木川五本松」に描かれた名所跡。少々寂しい松が数本生えていた。五百羅漢道標は大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。

新大橋通りに戻り猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡に
四ツ目通りを北に。新大橋通り。都営新宿線・住吉の駅を右折。毛利2丁目に猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡;幕府の材木蔵の後。享保19年(1734年)墨田区本所横網にあった材木蔵がここに移る。明治になり政府宮内省の材木蔵となるが、昭和7年に南部、昭和51年には北部の営林署貯木場が新木場に移転し、57年北部も公園となる。毛利の地名は、麹町の毛利藤左衛門が、私財を投じてこの地にあった入掘を埋めて新田・毛利新田をつくったことに由来する。森下・住吉エリアはここまで。次は大島・砂町北部エリア。

木曜日, 4月 13, 2006

江東区散歩 そのⅡ:(門前仲町)から(清澄・白河)へ

(門前仲町エリア) 門前仲町エリアの埋め立ての歴史は、現在の佐賀・永代・富岡・門前仲町あたりが第二期。寛永から承応まで(1624-1654)の頃である。第一期の小名木川以北が埋め立てられた後、隅田川に沿って海辺新田から南に開発されていったのであろう。南の越中島のあたりは、第三期。明暦の頃である。
埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
寛永6年(1629年);深川猟師町(佐賀・永代・福住・清澄・門前仲町)
承応年間(1652年);永代寺門前(富岡)
明暦年間(1655年);三十三間堂町(富岡)/ 越中島

(清澄・白河エリア)

第一期は小名木川以北が中心であるが、以南では海辺新田(清澄・白河・扇橋)が第一期、慶長から元和まで(1596-1623)の頃埋め立てられている。その東の、霊厳寺門前(三好)は万治元年(1658年)、築地町(木場、平野あたり)は元禄(1697年)、いずれも第三期に埋め立てられた。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長元年(1596年);海辺新田(清澄・白河・扇橋あたり)
万治元年(1658年);霊岸寺門前町(三好)
元禄11年(1698年);元加賀新田(三好;松平加賀守の屋敷があったため)



本日のルート;
(門前仲町エリア)

相生橋>東京海洋大学・明治天皇聖跡の碑>越中島1丁目>古石場1丁目>古石場2丁目>越中島川>古石場文化センター>古石場親水公園>牡丹1丁目>大横川・黒船橋>深川猟師町>永代1丁目>永代橋東詰>門前仲町2丁目>富岡1丁目>深川不動>永代寺>富岡八幡>旧弾正橋>深川1丁目>採茶庵跡>仙台掘・海辺橋

(清澄・白河エリア)
清澄3丁目・清澄庭園・清澄公園>滝沢馬琴誕生の地>佐賀2丁目・セメント工業発祥の地>清洲1丁目・平賀源内電気実験の地>清洲橋>清洲橋通り>白河1丁目・清洲白河駅前>霊厳寺・松平定信墓>江戸深川資料館>三好1丁目>紀伊国屋文左衛門墓>平野2丁目・間宮林蔵墓>小名木川・万年橋
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

(門前仲町エリア)

有楽町線・月島駅;佃島から越中島に
門前仲町エリアからはじめる。有楽町線・月島駅に。清澄通りを進み相生橋を渡る。川の中ほどに中ノ島がある。橋を渡りきったところ、東京海洋大学の脇に明治天皇聖跡。
このあたり幕末は幕府の軍事調練場。明治になっても引き続き練兵場となっており、明治天皇が閲兵式に訪れた。越中島1丁目と永代1丁目の境、大横川が隅田川に合流するあたりに練兵橋という、そのものずばりの名前の橋が残る。
越中島の由来はその昔、隅田川河口に小島状の洲があり、その名が越中島と呼ばれていたとか、江戸時代このあたりに播州姫路藩・榊原越中守の屋
敷があったから、とか。これも例によってさまざま。


古石場文化センター
少し進み右折し越中島通りに。ほどなく京葉線・越中島駅に。駅脇の地域案内板で情報を探す。近くに古石場文化センター。古石場という名前に惹かれる。また文化センターであればなにか面白い情報があるやに、ということで古石場文化センターに向う。
深川三中西交差点を左折。越中島川の掘留のあたりに調練橋・調練公園。このあたりも練兵場だったのだろう。掘に沿って進み古石場2丁目。古石場文化センターに。小津安二郎紹介展示コーナーが。地元、深川1-8-8で生まれた日本を代表する映画監督。古石場の由来は、江戸築城に必要な石の置き場であり、江戸市中の町屋の土台石の加工場、置き場であったため。

古石場川親水公園から大横川・黒船橋に

センターを離れ直ぐ北にある古石場川親水公園に。古石場川は牡丹2丁目、3丁目から越中島1丁目へと流れる大横川の分流。牡丹1丁目あたりで別れ南に。そして東に流れ平久川に続く。牡丹町は江戸時代、付近に牡丹がたくさん植えられていたから。1km弱の親水公園を歩き、大横川にかかる黒船橋に。黒船の由来は、「黒船」の来襲と関係ありや、とおもったのだが、どうもそうではないらしい。浅草蔵前黒船町が火災にあい、その替地となったため。

隅田川脇に深川猟師町跡
大横川に沿って永代2丁目を隅田川方面に。大島川支流にかかる巽川を越え、永代1丁目の永代河岸通りへ。このあたり深川猟師町跡。猟師とは言うものの、当時のこの語の使い方は狐や狸を捕るのではなく、魚や貝を採る漁師を指していた。熊井理佐衛門ら8名がこの地を埋め立て漁業を営んだ。船百六十九隻をもつ漁師町であった。

永代公園には江東区の歴史案内が
永大河岸通り左手の隅田川方面に永代公園。なんとなく足を踏み入れる。公園はどうということはないが、堤にそって江東区の埋めたての歴史の案内が。年代を追って、別のボードに地図とともに説明されている。結構見入った。結果的には『江東区のあゆみ』に掲載されている情報と同じもの、のようである

永代通り・深川不動尊
永代橋袂に。永代通りを東に一路、深川不動尊、富岡八幡へと向う。門前仲町2丁目に成田山深川不動堂。江戸の成田不動といったお寺。江戸初期から元禄にかけ成田山信仰が高まる。が、成田は少々遠い。で、富岡八幡別当・永代寺境内で成田山江戸出開帳。出張興行といったもの。


成田屋・市川団十郎の歌舞伎の影響もあり、ますますの成田信仰が盛り上がる。本山からの本尊を分霊し、「成田山御旅所」をつくる。出張所といったものだろう。明治になり神仏分離。富岡八幡と離れる。明治11年、永代寺跡地に「成田山御旅所」を「成田不動堂」となし、現在に至る。現在の永代寺は、永代寺の塔頭だった吉祥院聖天堂が、後に改称して名称のみを継承したもの。門前仲町はもとの永代寺の門前町ということ。


深川不動尊の横に富岡八幡
富岡八幡。長盛上人がこの地を埋め立てる。6万坪の埋め立て地を幕府に寄進。幕府から富岡八幡と永代寺を建てる許しを得る。坊さんなのでお寺を建てる必要があったにしても、何故八幡様。
言い伝えによれば、上人は先祖伝来の八幡大菩薩を護持。あるとき、「武蔵の永代島、そこの白羽の矢が立つところに私をまつりなさい」ということで八幡様が建てられた。八幡様は源氏の氏神。徳川家の手厚い庇護を受ける。
富岡八幡はまた、江戸勧進相撲発祥の地。京・大阪ではじまった相撲興行はトラブルも多く禁止令がでる。17世紀末になり春と秋の2場所の勧進相撲が許可。その地が富岡八幡。のちに本所回向院に移るがそれまでの100年に渡り、この地で本場所が開催された。
新横綱の土俵入りがこの八幡様でおこなわれる理由も納得。ちなみに、江戸時代の相撲の最高位は大関。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。


海辺橋の南詰めに芭蕉ゆかりの「採茶庵跡」
八幡様の東、掘跡に旧弾正橋(八幡橋)。元は楓川と鍛冶橋通りが交差するところに架かっていた橋。国産第一号の鉄橋。関東大震災の後この地に移される。もともとあった堀も埋められ遊歩道となった道に上にかかっている。
北に進み、高速道路に沿って富岡八幡、深川不動の裏手を歩き門前仲町交差点に。
交差点を右折し清澄通りを海辺橋に向かう。16世紀末埋め立てられた海辺新田がその名の由来、かも。塩気の含んだ井戸水しかない時代、水売り船が着いたところ。仙台掘にかかるこの橋の南詰めに採茶庵跡。松尾芭蕉の門下杉山杉風(さんぷう)の庵があったところ。芭蕉の銅像。芭蕉はここから船で千住に向かい、「奥の細道」に旅立ったと。門前仲町を離れ、次は清澄・白河エリアに向かう。 
 
(清澄・白河エリア)海辺橋を渡り平野地区。滝沢馬琴や間宮林蔵のゆかりの地
海辺橋を渡り門前仲町エリアから清澄・白河エリアに移る。平野1丁目。海辺橋北詰は滝沢馬琴誕生の地。戯作者・山東京伝に師事し、『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などを作す。平野の地名は、江戸時代、この地にはじめて町屋を開き名主となった平野甚四郎長久の姓がその名の由来。少し東にいった平野2丁目・本立院に間宮林蔵の墓。伊能忠敬に測量を学び、19世紀初頭、樺太を探検。樺太が島であることを発見。大陸との海峡を間宮海峡と名づけられる。
間宮海峡と名づけられたのはシーボルトの紹介である、とか。国禁の日本地図をシーボルトに渡したとして洋学者の高橋景保は獄死、シーボルトは国外追放となった、いわゆる「シーボルト事件」の密告者とされた林蔵であったが、シーボルトは林蔵の功績大として、評価したわけである。

仙台堀に沿って清澄公園に
清澄公園清澄通りを仙台掘に沿って左折。清澄庭園・公園の南を西に進む。清澄1丁目に平賀源内エレキテル実験の地。六郷用水散歩の折、武蔵新田の新田神社で平賀源内に出会った。確か破魔矢を考案した、と。清澄の由来は、この地域一体を開拓した弥兵衛さんの姓が清住(清澄)であったから。
元禄に清澄(清住)となる前は、弥兵衛町と言う名であった。清澄1丁目の少し南は佐賀2丁目。セメント工業発祥の地。明治5年、明治政府が官営セメント工場をつくる。日本で始めてのセメント工場である。佐賀の名前は地形が肥前の佐賀湊によく似ているためにつけられた、とか。
清洲橋東詰に。清洲って、名古屋の清洲に由来するものと思っていた。が、実際は深川の清澄町と日本橋・中州町を結ぶ橋ということで名づけられたもの。橋は昭和3年、世界一美しいと言われるドイツのケルン橋に範をとってつくられたもの。
清洲橋通りを少し東に進む。右折し清澄庭園に。紀伊国屋文左衛門の別邸と伝えられ、幕末まで下総関宿藩主・久世大和守の中屋敷。明治になって三菱財閥・岩崎家の所有となる。「深川親睦園」として三菱社員の慰安、賓客のゲストハウスとして使われる。
関東大震災後、東半分が東京市に寄付された。「回遊式築山山水庭園」。泉水、築山、枯山水を主体にしてこの庭園には全国から奇岩が集められている。庭園の西側には清澄公園が広がる。しばし公園内を散歩し清澄通りに戻る。

白河地区は寺町跡
清澄通りを隔てた東側は白河地区。江戸時代からの霊厳寺、浄心寺、雲光院といた寺町になっている。霊厳寺の開山は雄誉霊厳上人。もとは霊岸島にあったもの。明暦の大火の後この地に移転。松平定信のお墓がある。徳川吉宗の孫。白河藩主。天明の飢饉では藩内で餓死者を出さず、名君と讃えられた。田沼意次を失脚させ、老中首座となり将軍家斉を補佐。寛政の改革を行った。白河の地名はこの松平定信が白河藩主であったため。昭和になって深川東大工町・霊岸町・元加賀町・扇橋町の各一部を合わせて白河町となった。
三好1丁目の成等院には豪商・紀伊国屋文左衛門のお墓。講談本で名高いみかん船で名をはせ、後に木材商となる。振袖火事の時には木曾材を買い占めて巨万の富を得た。が、大銭の鋳造を請負ったもののすぐに通用停止となり、大きな損失をうけ、晩年は非常にみじめであったという。平野の浄心寺には関東大震災の蔵魄塔が。江戸切絵図によれば、結構寺域が広い。庭園も描かれている。江戸時代、浄心寺の庭って観光名所だった、ってどこかで読んだことがある。

小名木川・万年橋

白河1丁目に深川江戸資料館。江戸時代の深川が再現されている。小名木川までのぼり、東に進む。東深川橋、西深川橋、高橋、そして隅田川河口の万年橋に。小名木川を渡れば、森下・住吉エリア、となる

水曜日, 4月 12, 2006

江東区散歩 そのⅠ:(埋め立ての歴史)


折に触れ江東区は歩いている。富岡八幡に出向いたり、清澄公園を歩いたり、亀戸天神におまいりしたり、小名木川に沿って江東区を西から東まで歩いたり、と結構歩いている。江戸の町歩きとしては定番のところである。が、今回は中央区散歩に引き続き、埋め立ての歴史を頭に入れながら歩いてみようと思う。葦原・湿地が埋め立てられ、町屋に変わりゆく姿をイメージしながら歩くことにする。
江東区を東西に貫く小名木川を行徳まで歩いたとき、海岸線の直ぐ脇を通る小名木川を描いた古地図をみたことがある。江戸初期、今の江東区はほとんど海の中、ということである。諸々の資料には、江東区って葦の生い茂る低湿地って書いてある。それがどのようなプロセスを経て今の江東区が形作られたのか、江東区発行の『江東区のあゆみ』をもとにまとめておく。


より大きな地図で 江東区_埋め立ての歴史 を表示          赤い線が第一期。緑の線が第二期。青が第三期。

江戸以前

江東区は、天正18年(1590年)の家康入府以前は、ほとんどが葦の茂る低湿地。現在の総武線あたりが海岸線であった、とか。もう少し時代を遡り、室町時代の古地図を見ると、陸地は寺島(墨田区東向島)から小村井、そして平井を結ぶ線以北。その南には海というか、川というか湿地というか、ともあれ陸地からはなれたところに、亀井戸とか柳島(現在の亀戸天満宮の近く)とか、中ノ郷(東駒形)、牛島(向島)といった島というか洲が書かれている。江戸以前は江東区域って、ほとんどないも等しい、ということである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

江戸時代
江東区域が「浮上」するのは江戸以降。本格的な江戸の都市建設・天下普請がはじまり、関西方面からこの新開地に入り込み土地の埋め立て・開拓が始まってから。『江戸のあゆみ』によれば、江戸期の開発は3期に分かれる、と。

第一期:<慶長から元和まで(1596-1623):小名木川以北、西は隅田川沿岸から東は猿江あたりまで。小名木川以南は海辺新田(清澄・白河・扇橋)が開発。

第二期:寛永から承応まで(1624-1654);隅田川に沿って海辺新田から南に開発。現在の佐賀・永代・清澄・富岡・門前仲町あたりが埋め立てられる。さらに、城東地区の砂村・亀高村(北砂)・荻新田(東砂)・又兵衛新田(東砂)・亀戸村の一部も開拓される。

第三期:明暦から幕末まで(1655-1867);代表的なところでは明暦の越中島、万治(1658年)の砂村新田、霊岸寺門前(三好)、元禄(1697年)の平井新田・石小田新田(東陽町)、築地町(木場、平野あたり)、享保(1716年)の十万坪(千田新田:千田・千石・扇橋あたり)といったもの。

江東区の土地開発の歴史を頭に入れ散歩に出かける。
コースは江東区発行の『こうとう文化財マップ』の地域分類に従い
I;門前仲町エリア Ⅱ;清澄・白河エリア Ⅲ;森下・住吉エリア Ⅳ;木場・東陽町エリア Ⅴ;亀戸エリア Ⅵ;大島・砂町北部エリア Ⅶ;砂町中南部エリア
以上七地区に分けメモをする。

日曜日, 4月 02, 2006

中央区散歩 そのⅢ:日本橋・小伝馬・馬喰町へ

日本橋・小伝馬・馬喰町へ
中央区散歩も3回目。中央区の北部地域に進む。千代田区・台東区・墨田区・江東区に境を接する地区、言い換えれば北を神田川、東を隅田川、西・南を日本橋川に囲まれた地域である。江戸開幕から明治にかけて最も古い歴史をもつ商業地域でもある。
家康入府の折は、このあたりも同様に一面に葦の生い茂る湿地帯。埋め立てには、和田倉門から日本橋川・常盤橋あたりにかけ道三掘を開削し、その残土を用いた、と。周辺の低湿地を埋め立て町人の住む商業地を設けた。
日本橋川沿いの魚河岸を中心とした各種河岸ができあがる。人の賑わいの地には当然のこととして歓楽地ができるわけで、人形町を中心とした歌舞伎小屋・浄瑠璃小屋、そして遊郭が生まれる。また、往来の旅人のための旅籠町としての馬喰町、集めた荷を扱う問屋街の横山町、といった一大商業コンプレックスがこの地域に形成された。



本日のルート: 日比谷線・茅場町 ; 日本橋蛎殻町・水天宮 ; 日本橋人形町・「玄治店跡」 ; 日本橋堀留町・椙森神社 ; 十思公園・「伝馬町牢屋敷跡」 ; 日本橋横山町・馬喰町 ; 浅草橋・郡代屋敷跡 ; 両国橋・両国広小路記念碑 ; 都営新宿線・馬喰横山町

日比谷線・茅場町駅

日比谷線・茅場町で下車。先回は永代通りを霊岸島・新川方面に向ったが、今回は新大橋通りを茅場橋方面に。茅場町のこのあたり、江戸以前は海の中。葦や茅の生い茂る沼沢地。大雑把に言って、現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりが江戸時代の楓川。それ以前は日比谷の入り江に飛び出た江戸前島の東岸。
茅場の由来は茅職人が住んでいたから、とか。江戸切絵図でチェックすると、現在の昭和通りより北は町人町。南は武家地と町人の町が混在している。江戸橋から霊岸橋にかけての日本橋川に沿って、表南茅場町といった町人町がある。数多くの酒問屋が集まっていた茅場河岸がこのあたりたったのだろう。

茅場橋を渡り日本橋小網町・「行徳河岸」に

茅場橋を渡り日本橋小網町に。地名の由来は、小網稲荷神社があったから、とか、家康のために網を引き、肴御用を命ぜられたからとか言われるが定かならず。小網町といえば、市川・行徳からの船が着く行徳河岸があったところ。明治12年、船便の廃止まで江戸と下総をむすんでいた。近くには上総・信太を結ぶ信太河岸もある。このあたりは江戸から明治にかけての船便の要衝であったわけだ。

日本橋蛎殻町・水天宮

小網町の横には日本橋蛎殻町。江戸開幕のころは、江戸湾に面した隅田川河口の海浜地。埋め立てによって作られた。江戸切絵図には小網町の裏と酒井雅楽守の間、稲荷(とうかん)掘のあたりに「カキガラ」の地名が読める。絵図で見る限りでは大名の下屋敷・蔵屋敷とか中屋敷が多い。酒井雅楽守の東には銀座が。当初京橋にあった銀貨鋳造所が享和元年というから1801年、この地に移り、明治に大阪造幣局にその機能が移るまで貨幣を鋳造していた。
このあたりで有名なのは水天宮。新大橋通りと人形町通りの交差点近くにある。二位の尼が安徳天皇と建礼門院を祀った神社である。本宮は九州・久留米。久留米の大名・有馬家が土地を寄進して建てられた。江戸では三田の有馬家屋敷神であった。現在の慶応大学三田キャンパスのあたり。次第に民衆の信仰が高まり、一般に開放されるようになった。この地に移ったのは明治5年のこと。人影まばらなこの地も水天宮の移転とともに賑わいのある地となった、と。

日本橋人形町に「玄治店跡」

蛎殻町の北には日本橋人形町。このあたりは町人地。歌舞伎、人形浄瑠璃の小屋もあり、人形師が多かったのが、この地の由来。吉原に移る前の遊郭・元吉原もこのあたりにあったよう。甘酒横丁を過ぎ、都営浅草線・日比谷線の人形町の駅があるあたり、「玄治店跡」。こどもの頃、春日八郎の歌った『お富さん』の歌詞にあった名前。「粋な黒塀 見越しの松に  仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサォー 玄治店・・・ 」、である。
歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』が題材になっている。 ここにくるまで玄治店、ってなんのことだか知らなかった。幕府の奥医師岡本玄治の1500坪にもなる拝領屋敷があったことがその名の由来。
ついでに、芝居で有名な台詞。:「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、巡る月日も三年越し、江戸の親には勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷は喰詰めても、面へ受けたる看板の疵がもっけの幸いに、切られ予三と異名をとり、押借り強請りも習おうより慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ。よくもお主(ヌシ)ア達者で居た なア。安やい、これじやア一分(ブ)じやア帰(ケエ)られめえじやねえか。?」。
房州木更津。この地の顔役の妾お富。江戸の商家の若旦那与三郎(よさぶろう)が出会い一目惚れ。が、旦那に見つかり、与三郎は半死半生、体中に三十四箇所もの疵を受け放り出された。3年たったある日、身を投げたお富は、裕福な町人に助けられ、源氏店(「玄冶店」)の妾宅に囲われている。お富のもとに、無頼漢・蝙蝠安(こうもりやす)が一人の男を連れて小銭をたかりにやってきた。その男が与三郎。目の前にいる女が自分の運命を狂わせた当のお富だと気がついて言うセリフである。

日本橋堀留町・椙森神社

椙森神社日本橋人形町を越え日本橋堀留町に。江戸切絵図を見ると、小網町からの堀が堀留町の手前まで来ている。掘を留める、で「堀留」と。大商店やら問屋が集まる商業地であった。堀留町1丁目に椙森神社。「江戸名所図会」には堂々とした構えが描かれているが、関東大震災で倒壊。現在は鉄筋の少々つつましやかなお宮さまとなっている。案内によれば、平安時代には藤原秀郷が平将門追討の際に、戦勝祈願に訪れている。創建は平安時代。太田道潅も雨乞いのため、伏見稲荷の伍社を勧請し、深く信仰した。ために、江戸期には江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)のひとつ、椙森稲荷として人気を集めた。境内に「冨塚碑」。江戸時代に大流行の「富くじ」興行の場所としても有名であった。富くじは富突、とか突富ともよばれる。木札を錐で突いて富くじを決めたから、とか。

人形町通りを進み十思公園に「伝馬町牢屋敷跡」

人形町通りを北に進み日比谷線・小伝馬町駅を越え、日本橋大伝馬町・小伝馬町に。家康の江戸入府以前は、奥州街道が通っていた。伝馬町とは伝馬役がいたから。5街道の制とともにつくられたのが宿場、伝馬、助郷といった制度であるが、伝馬は馬の供給をおこなうもの。馬の供給の責務を負うかわりに地子(土地税)などが免除された、とか。
総武線をくぐり、十思公園に。伝馬町牢屋敷跡。切絵図には「囚獄 石田帯刀」とある。石田帯刀は牢役人の名前。吉田松陰終焉の地。石町時の鐘。江戸時代でもっとも古い時の鐘。将軍秀忠のとき、江戸城内にあったが鐘はうるさかったのか、太鼓に代わったので、鐘は場内からこの地に移った、とか。「囚獄 石田帯刀」のすぐ北に神田川の竜閑橋から今川橋へと川筋が見える。竜閑川なのだろう。ちなみに「十思」とは。唐の、時の皇帝への献上文・十か条。君主としてあるべき姿・十か条といったもの。「見可欲則思知足(徒に多くを望まないこと)」、とか、処高危則思謙降(地位が高いほど謙虚にしなさい)、といったもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

日本橋横山町・馬喰町
大・小伝馬町から北東方向に。日本橋横山町とか日本橋馬喰町。この一帯は一大問屋街。馬喰町には多くの旅籠。もともとは馬喰が往来する宿場町といった地域であった。ある時期まで、馬の売り買いはこの地でしか許されなかった、と。この地に郡代屋敷ができることをきっかけに、公事訴訟に地方から出向いた人たちの宿場がここに滞在した。また訴訟ごとの人だけでなく、宿にとまる商人が増えるに連れ、お隣の横山町で問屋業が発達する。宿屋と問屋のコラボレーションによって地方の人をこの地にひきつけたのであろう。神田川にかかる浅草橋の袂に。

浅草橋・郡代屋敷跡

郡代お隣の台東区をむすぶこの橋の袂に郡代屋敷跡。由来所;「江戸時代、関東一円および東海方面など各地にあった、幕府の直轄地(天領)の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理した関東郡代の屋敷があった跡。関東郡代は家康が関東に入国したときに、伊那忠次が代官職に任命され、のちに関東郡代とよばれるようになり、伊那氏が十二代に渡って世襲しました。その役宅ははじめ江戸城・常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火で焼失し、この地に移りました」と。ともあれ、散歩をはじめて以来、この関東郡代伊奈氏には玉川上水からはじまりいろんなところで良く出会う。利根川東遷事業、見沼田圃、赤山陣屋跡等など。新田次郎さんの『怒る富士』も伊奈氏を主人公にしたものだが、清々しい人物は、いかにも善い。

両国橋・両国広小路記念碑

墨田川にかかる両国橋の袂に、両国広小路記念碑。江戸名物の火事の延焼を避けるための火除け地。ただ、この空き地にはいつしか寄席、茶店、見世物小屋が立ち並び、一大歓楽街ともなった、とか。地名は東日本橋、といった無粋なもの。近くに薬研掘がある。薬研とは、漢方の薬種を砕くための鋳鉄製の器具のこと。V字型をしており、堀の形もV字形にくぼんでいるのが地名の由来。

日本橋浜町
下に進み日本橋浜町に。このあたり武家地と町地の入り混じった一帯。隅田川に沿っては大名の下屋敷・蔵屋敷がたちならび、浜町川というか竜閑川というか船入掘というか、ともあれ隅田川に平行に南北に貫く川筋には北のほうは町地、南のほうは蔵屋敷が連なっている。で、浜町といえば明治座。明治に市川左団次によってつくられた。歌舞伎座っぽいイメージであったのだが、近代的なビルであった。 あとは清洲通りを少し北に戻り、都営新宿線馬喰横山町から一路自宅に。これで中央区散歩はお終り。次回は江東区に移る。