木曜日, 12月 23, 2021

土佐 龍馬脱藩の道;朽木峠越え

龍馬脱藩の道、朽木峠を越えることにした。きっかけは過日、予土往還・土佐街道を伊予の久万高原町・越ノ峠から予土国境の鈴ヶ峠を越え、土佐の高知まで歩いた途次、佐川の町で地図を眺めていると、佐川の少し南に朽木峠が目に入ったこと。 朽木峠は龍馬脱藩の道としてよく知られる峠である。土佐街道歩きの「口直し」として歩いてみようと思った。
「口直し」の意味合いは、藪に覆われ道無き道を進む山間部は日没夜間彷徨といったアクシデントもあったが、それはそれなりに楽しめたのだが、仁淀川筋の越智の町に下りて以降、高知までの里道は特段の史跡も残らず、確たるルート案内も見当たらず、単に道を繋いだだけ、といった感が強く、なんとなく物足りなかった。で、選んだのが龍馬脱藩の道・朽木峠越え。この峠越えであれば、ルートもしっかり確定しているだろうし、歴史を感じながら歩けるだろうと思った次第。
龍馬脱藩の道は既に梼原から予土国境を越えて五十崎の小田川筋まで五回に分けて()歩いている。龍馬と脱藩を友にした沢村 惣之丞(後に関雄之助と改名)の記した「覚・関雄之助口供之事」に「三月二十六日 四満川ヨリ韮ヶ峠二至ル信吾コレヨリ引返ス
小屋村ヨリ榎ヶ峠―横ヶ峰―三杯谷―日除―水ヶ峠ヲ経テ泉ヶ峠二至ル
龍馬俊平ト共ニ泊レリ
二十七日北表村ヨリ宿間村ニ至ル俊平コレヨリ引返ス
宿間村ヨリ金兵衛邸ニ至ルマデ大洲城下ヲ経渉スルコト七里半
金兵衛邸ヨリ招賢閣三田尻マデ二日ヲ要セリ
明治六年十一月十五日 自宅ニテ誌ス」とある四満川(四万川)から宿間村(内子町)まで辿ったことになる。
この区間を歩いたのは予土国境の峠越えであったゆえ。宿間から先の里道には今一つフックがかからず、また土佐領内には朽木峠といった峠越えの道もあるのだが、龍馬脱藩の道に関する資料が残っておらず、ルートはすべて推察の域を脱しないため何となくそのままになっていた。
今回土佐街道の「口直し」として朽木峠を越えたのは、龍馬脱藩の道歩きとしてよく知られることもあるが、『坂本龍馬脱藩の道を探る;村上恒夫(新新物往来社)』を読み返し、龍馬は脱藩の道として朽木峠を越えたであろうと思えたゆえ。 同書には「『構原町史』によると、構原から高知の間には二つの街道があった。そして、この二つの街道を往路と復路に分けて書いていることに注目しなければならない。すなわち往路は、構原―新田―長者―大桐―越知―佐川―高知であり、そして復路は、高知―佐川―斗賀野|朽木ノ坂―半山―新田―構原である」とし、復路は往路に比して10キロほど距離が短い、と。
3月24日の夕方高知を出て、25日の夜には梼原に着いたと言う。その距離90キロ。より距離の短いルートを選ぶというのは理に適っているかと思う。
因みに、予土国境の先は記録があるものの、土佐領内の記録がないのは、自国領内ゆえ、特段メモする必要もなかったのでは、と同書は記す。違和感はない。

ルート概要は、高岡郡佐川町川之内組の脱藩の道取り付き口から朽木峠まで40分弱。朽木峠から里に下った、高岡郡津野町三間川の龍馬脱藩の道休憩所までも40分弱。朽木峠越えは大よそ1時間半弱。
次いで、脱藩の道休憩所から国道197号線まで1時間半ほど。スタート地点から布施坂へと向かう国道筋までおおよそ3時間強の行程であった。
道も朽木峠から里への下りは少し荒れているところもあるが、おおむねよく整備されている。それほど厳しい峠越えではなかった。
また、道案内の標識も山中、里道共に整備されており、道に迷うことはない。今回は散歩のメモやルート図を記す必要もないよな、などと思いながらも取敢えず朽木峠越えのメモを記すことにする。



本日のルート;
国道494号から朽木峠取り付き口へ
国道494号からの分岐点に「脱藩の道」の木標>川の内ミニ四国霊場の標識>三差路の脱藩道案内>龍馬神社>道端にミニ四国霊場石仏が点在する
朽木峠越え
川の内組の取り付き口から三間川集落まで
朽木峠取り付き口の脱藩道標識>民家左手より土径に入る>林道と交差>林道交差箇所に脱藩の道標識>私設龍馬脱藩の道石碑>ミニ四国霊場48番>朽木峠>馬頭観音>欅の大木>柴折様>林道と交差>林道を谷筋に下りる箇所に標識>朽木紅葉谷>舗装された道の合流点に脱藩の道標識>T字路に脱藩の道標識>龍馬脱藩の道休憩所
三間川集落・龍馬脱藩の道休憩所から国道197号へ
舗装道から土径に入る箇所に「龍馬脱藩の道」>沢を渡る>舗装道に出る>三間川筋から樺の川筋に移る>樺の川筋を南に進む>義堂・絶海ゆかりの墓所>舗装路を逸れ西谷筋への土径に入る>集落の道を進み大きな車道に出る>車道に合流>国道197号へ出る
帰路
ミニ四国霊場83・84・85番>高岩神社>勝森権現>旧道分岐点>白倉神社>深尾神社>佐川城跡(西側山上)土居屋跡


国道494号から朽木峠取り付き口へ

国道494号から朽木峠取り付き口へ

国道494号からの分岐点に「脱藩の道」の木標
高岡郡佐川町川之内組のある龍馬脱藩の道・朽木峠越取り付き口に向かう。佐川の町から国道494号を南下し、土讃線斗賀野駅の少し南に国道404号から左に分岐し虚空蔵山腹を屈曲しながら高岡郡佐川町川之内組に上る道が如何にも旧道っぽい。
が、峠越えでどの程度の時間がかかるかわらなないため、少しでも早く朽木峠取り付き口に到着できるルートとして、上述分岐点を過ぎ斗賀野トンネルを抜けてすぐ右折し高岡郡佐川町川之内組に上る距離の短い道筋を選択した。
国道494号か右折というか、ヘアピン状に曲がる坂道の上り口に「龍馬公園」 脱藩の道」の木の標識が立つ。

川の内ミニ四国霊場の標識
坂道をしばらく上ると、道の左手に木の標識。なんだろう、とチェック。「88箇所 15-45ここから 45すむと脱藩のみち」と記される。そのときは何だろう?とは思いながらも先に進んだのだが、脱藩の道を歩く途次にも四国霊場の案内が現れた。メモの段階でチェックすると、この案内は「川の内ミニ四国霊場」の案内であった。




川の内ミニ四国霊場
Real Kochiのサイトにあった地図や案内、さらに同サイ十のリンクされた「生き返った川の内ミニ88カ所」によると、「『斗賀野村史』(1954年)には「川の内ミニ88カ所」は明治十年川の内の人西森喜平という人が四国靈場を巡拝した際、八十八靈場本堂床下の土を持ち帰り、これを川の内各地に埋めてその上に碑を建て創設したもので安置の場所、打ち戻り、道順などは本靈場そのままにかたどったものだという。この喜平の創設に対して同部落の人たちも協力し、後昭和二年創設五十年祭と弘法大師千百年祭を盛大に執行した。
が、最盛期の54世帯もいた川の内地区も今では6世帯ほどになりミニ霊場も荒れてしまったが、同地区で生まれ育った安原邦芳さんご夫婦が遍路道や石仏の世話をはじめ、川村寿さんもよだれかけをかけるなどした結果、今では川の内ミニ88カ所を訪れた人が迷うことなく気持ちよく巡礼できる整備されたものになっている」とあった。
木標にあった「15-45ここから 45すむと脱藩のみち」は99箇所がマッピングされた地図を見ると、ここから左に山腹の道を進むと15番から45番の霊場石仏があり、45番の先で朽木峠取り付き口手前の林道に出ていた。
このミニ霊場はその範囲結構広く、すべての霊場を廻るには8時間ほどかかるという。なお、一部の霊場は道の整備の折、元の場所から移されているとのことである。

三差路の脱藩道案内
三差路「脱藩、新国家への道」案内
ミニ四国霊場標識;88カ所 左にすすむ
舗装された道を進むと三差路に当たる。交差山側に「脱藩、新国家への道」の案内。川の内の取り付き口から朽木峠(534m)まで2キロ、朽木峠から三間川の休憩所まで3キロ」と記す。朽木峠越えの距離はそれほど長くない。
取り付き口はこの三差路を左折するが、直進する道は上述、虚空蔵山腹を屈曲しながら上ってきた旧道らしき道筋である。復路はこの道筋を下っていこうと思う。
脱藩の道案内のすぐ傍、道脇に「88カ所 左にすすむ」と記された木の標識があった。

龍馬神社
龍馬公園・龍馬神社(中央の小祠)
ミニ四国霊場;74,75すぐ上
三差路を左折し切通し状の道を抜けると平場。そこが龍馬公園。公園内に佐川龍馬神社があるとのことだが、それらしき社は見当たらない。チェックすると、神社とはいうものの、宗教法人ではなく、平成10年(1998)に地元の有志のよって建てられたもの。地域興しといった趣旨で企画されたもののようだ。龍馬公園と称される広い平場の奥に小祠が見える。それが龍馬神社であった。
龍馬公園の道脇に「74,75すぐ上」と記されたミニ四国霊場88カ所の案内があった。地図を見ると道路から少し北に74,75番が記されていた。

道端にミニ四国霊場石仏が点在する
ミニ四国霊場71番
ミニ四国霊場72番
舗装された林道を進む。道の右手法面にミニ四国霊場71番、72番、65番、少し奥まった岩の下に58番、再び法面に57番など川の内ミニ四国霊場の石仏が点在する。



ミニ四国霊場65番
ミニ四国霊場58番
57番の直ぐ先、道に繋がる坂道の合流点近くに、「46,47,48」はこの先といった←の記された木の標識があった。
当日は上述ミニ四国霊場の地図があることを知るよしもなく、偶々目に入ったもの。


ミニ四国霊場57番
「46,47,48」はこの先
メモの段階で二ミニ四国霊場の祀られる場所をチェックすると、この道筋に結構ミニ霊場があったようだ。脱藩の道とは特に関係はないものの、何んとなく「後の祭り」感が残る。









朽木峠越え;川の内組の取り付き口から三間川集落まで

朽木峠越え


朽木峠取り付き口の脱藩道標識;午前8時23分
朽木峠取り付き口の脱藩道標識
分岐道を右に
道を進むと左手法面前に「坂本龍馬脱藩の道」、「脱藩の道」と書かれた標識が立ち、直進方向を示す。少し先に進み舗装が切れる辺りの道幅が広くなっているところに車をデポする。
標識まで戻る。

「46すぐ上,47,48脱藩道を進む」案内


標識の直ぐ先で道はふたつに分岐する。山側の道の法面に「脱藩ウォーク」と書かれた標識と、その先に「88カ所 これより右細い道をのぼる46番直ぐ上 47、48 脱藩道を進む」とある。






民家左手より土径に入る;午前8時26分
土径に入る。左手に「へんろ道」標識
ミニ四国霊場46番
案内に従い右手・山側の舗装された道を進む。右手に民家が一軒建つ。道なりに進むと舗装が切れ土径にに入る。
土径に入る地点、左手に「へんろ道」と記された標識。右手角にミニ四国霊場46番の石仏が祀られる。



林道と交差;午前8時38分
ミニ四国霊場47番
林道と交差
土径に入るとすぐ、ミニ四国霊場47番の石仏が祀られる。石仏前には「88カ所 47 48番はこの道約30分上」と記される。
沢筋に沿って進む道は沢を越えた先で木々に囲まれた道となり、取り付き口より高度を70mほど上げると前方に林道と交差する。この林道は朽木峠取り付き口へと上ってきた道。取り付き口標識の先で舗装が切れ、このあたりでは砂利道となっていた。

林道交差箇所に脱藩の道標識;午前8時38分

林道交差部の右手には「川の内」、左手の山側には「蟠蛇ヶ森 朽木峠経由21km」とあり、その傍に「龍馬脱藩の道」と書かれた木の標識(仮に「標識A1」とする;以下同じ)。
山方向を示す←には「至クチキ峠(葉山)」、林道方向を示す→には「至佐川R484]とある。
葉山は朽木峠を越え里道を下り国道197号を西に進んだところ。「至佐川R484]って?チェックする。林道を追っかけると山地をグルグルと走り柳瀬川上流域、尾川川に下り、柳瀬川の谷を進んで佐川の町で国道484号に至る。この林道を佐川へと歩く人がいるとも思えない。砂利道ではあるが車で抜けることができるのだろうか。今一つよくわからない標識ではあった。
アクリル板の道案内
上述車デポ地、朽木峠取り付き口から山側の道を上らず、そのまま先に進むと舗装が切れるが、その手前にアクリル板に架かれた地図があり、この地から佐川まで続く道が描かれていた。その時はどういう意図?と思ったのだが、そのアクリル板道案内が「至佐川R484」のことであった。




私設龍馬脱藩の道石碑;午前8時42分
林道をクロスし山道を5分ほど進むと、道の左手、谷側に「龍馬脱藩の道」と刻まれた石碑(標識A2)とその前、道端に「1862年3月24日の夜半、坂本龍馬と沢村 惣之丞はこの道を通り、梼原、伊予長浜経由で長州に脱藩した。龍馬より百年後に生を受けた私は、三歳から六歳まで、この山の炭焼き小屋で育てられた。
この道とこの山は私の人間形成の原点である 佐竹楽山」と刻まれた石碑が立つ。共に新しい。佐竹さんが個人で建てた石碑のようだ。

ミニ四国霊場48番
ミニ四国霊場48番
木々に囲まれた快適な道を少し進むと、ミニ四国霊場48番の石仏が石の祠に祀られる。石仏の前には「88カ所 48番 49番は元の道に戻り進み増す」と記された木の案内があった。上述ミニ88カ所の地図を見ると49番は林道に戻り、少し先に進んだ後林道を右に逸れて進み、前述57番の直ぐ先、、「46,47,48」はこの先といった←の記された木の標識へと下りてくる道辺りで、龍馬辞神社から朽木峠取り付き口へと進む舗装道に繋がるように思える。
先に進むと道に岩が転がりはじめる。少し歩きにくい道を上り高度を70mほど上げると朽木峠に到着する。

朽木峠;午前8時59分
峠の手前に標識(標識A3)。下り方向は「川の内登山口」の標識。その横に「脱藩 新国家への道」と書かれた木の標識と「坂本龍馬」の案内。写真がピンボケのためはっきりしないが、「天保六年、高知城下の郷士の家に生まれ。武市瑞山の土佐勤王党に参加。脱藩し勝海舟の門下に。*海援隊隊長を務める*薩長同盟に尽力し、土佐藩に大政奉還の建白への道を開いた。慶応三年、近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺された」といったことが記されていた。

その先に関所跡覇山藩と記された関所の構え。葉山藩があるわけでもなく、ここに関所があったとも思わない。観光振興のため葉山集落の方が「洒落」で造り、名付けたものだろう。
関所構えの左に「朽木峠」の標識。説明は風雪に晒されたゆえか読むことはできない。関所らしき構えの左手に龍馬脱藩の道と記された木の標識。佐川町(龍馬神社3.5km)国道197号 津野町西谷5km」と記される。朽木峠を左に上ると前述蟠蛇ヶ森へと繋がる。

関所構の傍に消えかけてはいるのだが、「展望所」の標識。関所構えの右手奥に鉄パイプで組まれらそれらしき高台がある。今一つしっかりとしていない組みではあるが、取敢えず展望台に上り、これから下るであろう方向をちょっと眺める。
朽木峠取り付き口からおおよそ30分。結構早く峠に到着した。ここで小休止。



馬頭観音;午前9時10分
小休止の後、朽木峠から下り始める。門傍に「是ヨリ下は当時の手付かずの山道です。足元に中止して脱藩ください」と書かれる模擬関所を潜り下り道に。
下り口に「脱藩の道」、「脱藩広場1.3km」の標識。その直ぐ下に案内板があり、「馬頭観音 農耕・交通の重要なにない手であった牛、馬の道中の無事と息災を祈った観音様」とある。
案内に従い少し道を逸れ、直ぐ先にある観音様にお参りし道に戻る。

欅の大木;午前9時24分
杉林の中の道を15分ほど下ると「欅(けやき)の大木」の案内。「かつて朽木越えの時、峠の八合目あたりにある大木を目安にして登ったといわれ、一里塚の名残である」とあった。
道を下ると左手、木に括られた板に「三間川へと維新への一滴は、谷の音から、せせらぎへと、その型を整えていった」と書かれている。小説からの抜粋だろうか。龍馬といえば、司馬遼太郎氏の『龍馬がいく』が想い起こされる。『龍馬がいく』からの抜粋?チェックしたが『龍馬がいく』には当該文章は見当たらなかった。どなたが書かれてた文なのだろう。
それはそれとして、せせらぎの音は聞こえなかったが、数分で沢を渡る。その先は石が転がる悪路。時に沢に沿って下る道が崩れ、虎ロープが張られている箇所もあった。



柴折様;午前9時37分
石が転がる悪路の先、一瞬草に覆われた道になるも、また直ぐに小石の転がる坂道が下る。
小石で足場の悪い道に「柴析(しおり)様」の案内。「道中の無事を祈り、道端の小技を持って供えた。足が非響に軽くなり、カがつくといわれている。
穴のあいた右は、耳石といわれ耳の病の人が願をかけ治ったお礼にこの石を供えた 」とあった。道祖神のひとつとも言う。

林道と交差;午前9時55分
足場の悪い石の転がる道を下る。時に道の小石を集めたたような石が積まれている。道に転がる石をどなたかが積み、次々とその上に積んでいったのだろう。私もひとつ石を積んで願かけをした。
道を下ると。また木に括られた板に「その肩に朝の木漏れ日が優しかった」と記される。これも上述と同じテイストである。
柴折様から15分ほど道を下ると林道に出る。林道は上は朽木峠近く、下は三間川の集落へと繋がるものと、更にその先山中を進む道となっていた。

林道を谷筋に下りる箇所に標識;午前9時55分
この標識より谷筋に下る

林道に下りた所、ガードレールが切れたところに「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識A5-1)。←はガードレールの谷側を示しているように見えるのだが、下りれそうな道筋はない。林道を少し下ると直ぐ「坂本龍馬脱藩の道」の道の標識(標識A5-2)があり、谷方向を←が示す。歩けそうな道筋があり、そこから谷筋へと下る。ここにも上述同様の文章の書かれた板が吊られていた。

朽木紅葉谷;午前10時2分
沢筋左岸を7分ほど下ると、道は沢を渡り右岸に移る。沢を越えるところに「朽木紅葉谷」とあった。
右岸を下ると竹林が現れる。竹林は里が近づいたことを示す。その先で前面が開ける。沢には砂防ダムが造られている。砂防ダム横の土径を廻り込み、砂防ダム下の沢筋へと下る

舗装された道の合流点に脱藩の道標識;午前10時18分
土径を下り切ったとことから先は舗装された道となる。その合流点に「坂本兵馬脱藩の道」の標識(標識A6)。←の逆方向は砂防ダムで道は遮られている。
護岸工事された砂防堤防下流の沢筋の右岸を下る。

T字路に脱藩の道標識;午前10時27分
少し道を下ると物置小屋といった建屋がみえてくる。その手前に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識A7)。建屋を越えると前が大きく開け、段々畑の向こうに三間川集落の屋根が見えてくる。
津野町の上水路施設を越えると道はT字路に当たる。そこにも「坂本龍馬脱藩の道 標識。下り方向を示す。逆に上ると、朽木峠から下る時にクロスした林道方面に進むことになる。

龍馬脱藩の道休憩所;午前10時38分
道なりに進むと、道の左手に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識A8)。←は道を左に逸れる下り細路を示す。
案内に従い集落の石垣の脇を下ると広い道路に出る。そこから少し下ると道の右手に「龍馬脱藩の道休憩所」があった。中に入り、大休止。
休憩所の中に「広報はやま」という資料があった。あいにく1から5が見当たらず6しかなかったのだが、ひょっとすると山道で見た文章はこの「広報はやま」から?などと思ったりもした。

峠からの下り1時間20分ほどで里に出た。朽木声は取り付き口からの上り30分、下り1時間20分。おおよそ2時間ほどの朽木越えであった。予想に反し結構さっさと峠越えをクリアした。

■三間川集落・龍馬脱藩の道休憩所から国道197号へ■

三間川の脱藩道休憩所から国道197号へ

舗装道から土径に入る箇所に「龍馬脱藩の道」;午前10時50分
土径入り口に標識1
直ぐ標識2
脱藩の道休憩所で少し休み、国道197号に向けて歩を進める。休憩所前の舗装道を数分下ると道に合流。砂防ダムから続き、さきほど脱藩の道休憩所に下る標識を左に逸れることなく下ってきた道である。
道の合流部、谷側に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識1)。この標識から舗装道を逸れ土径に入る。傍に三間町コミュニティバス・三間奥のバス停がある。
舗装路を逸れて民家裏の細路を下ると、直ぐ「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識2)。

沢を渡る;午前10時7分
標識3
標識4;直ぐ先、沢を渡る
標識2をヘアピン状に折り返すと、また直ぐ標識(標識3)。「志士の道」と記される。ここをまた直ぐヘアピン状に折り返し、右手にミカン畑を見遣りながら細路を進む。
ほどなく「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識4)。ここを右折し直ぐ先の沢を渡る。

舗装道に出る;午前11時12分
沢を渡ると竹林の中を5分ほど上ると車道に出る。車道にでたところに「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識5)。左手に金毘羅宮の鳥居が建つ。


田中光顕 灯籠など
土径方向への標識
土径が舗装道と合流する箇所で、舗装道に乗らず金毘羅宮建つ丘陵東を廻り込む土径方向へ「田中光顕 灯籠」「金沢家 代々墓所」「こん子刀自 実家跡」「歩いて5分」といった木の標識がある。ピストン復路でちょっと寄ってみようと土径を下ったのだが、金沢家墓所の前にあった案内文は消えて読めず、「田中光顕 灯籠」もこんな山道ではなく金毘羅宮にあるのでは、などと思い引き返したのだが、金毘羅宮に灯籠はなかった。

そんなこんなでそこで引き返したのだが、メモの段階で「こん子刀自」をチェックする。
舗装路合流から見た三間川の谷推
と、「こん子刀自」って何のことかよくわからないが、「刀自」って古代日本において、刀自という女性が村落における農業経営と村人の指揮に大きな影響を与えていたという。天皇の后のひとランク下に「夫人」というランクがあったとのことで、この和訓を「おおとじ(大刀自)」と称したと言う。もう少し坂道を下っていけば「こん子刀自」のことがちょっとはわかったかと、今となっては後の祭りではあるが、ちょっと残念である。因みにGoogleで「こん子刀自」はヒットしなかった。

三間川筋から樺の川筋に移る;午前11時20分
標識6
標識7
金毘羅宮前の舗装道を西進し、三間川筋から樺の川筋に移る。ほどなく民家手前に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識6)。案内に従い右折し先に進むとT字路にあたる。そこに「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識7)。方向は山側を示す。何故? 今は南へと舗装された道が通っているが、昔はこの道はなかったのだろうか。ともあれ、案内に従い山側に向かう。
標識8
少し北に向かうと道はふたつにわかれる。分岐点に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識8)。←は下道を示す。







樺の川筋を南に進む;午前11時28分
橋を越えると標識9
左手に段々畑を見遣りながら道なりに進み、大本神社の建つ南に突き出た丘陵前で道は西に進むと樺の川(?)に架かる小橋を渡った先に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識9)。ここから道は丘陵裾を川筋に沿って南に下る。

義堂・絶海ゆかりの墓所;午前11時45分
標識10と樺の川谷筋
標識11と「義堂、絶海ゆかりの墓所」
丘陵裾を南に進むと道はふたつに分かれる。分岐点に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識10)。←は下道を示す。左手に今まで辿ってきた三間川谷筋の下部が見える。脱藩の道休憩所のある辺りは正面の丘陵に阻まれて見えない。

「義堂、絶海ゆかりの墓所」案内
道なりに進むと、道の右手、法面の一段高いところにちょっと古くなったふたつの標識。ひとつは進行方向を示す「脱藩の道」(標識11)。もうひとつは「京都五山文学の雄 義堂・、絶海ゆかりの墓所」とあり、道を逸れ丘陵を上る方向を示す。



義堂・絶海ゆかりの墓所へちょっと寄り道。法面の坂を上ると直ぐ案内板があり、その先に五輪塔が並ぶ。案内には、「棒ノ川五輪塔群」とあり、「棒ノ川の古庵にて段々畑の隅に雑然と放置されていた五基の五輪塔群が1971(昭和四六)年に調査整理された。材質は花崗岩で、最大のものは高1.25m 水輪の周囲1.40mで、立派なつくりである。五輪塔の下からは火葬にされたと思われる人骨が理骨された中世の備前焼きが発見されており、身分の高い人物の墓所と思われる。
古庵という地名からすれば、かつてこのあたりに存在した寺、勝宝寺にゆかりのある者の基とも考えられている。
五輪塔群
五山の高僧として名高い技堂周信(1325~1388)の「日工集」|1378(永和四)年十二月の条に「十月に九一歳で亡くなった父を子供や孫や兄弟たちが荼毘(だび)に付し、西谷の聴松院近くへ送った」といった内容の記述があり,この墓所が義堂一族のものであったとも考えられる。また、かつて樺ノ川周辺の所有者であった野見氏(漆野氏一族)の基所とも考えられる。五輪塔はもとあった場所からはかなり動いていると思われる。
出土した古備前の壷は町指定文化財として郷土資料館に保存されている」とあった。
義堂・絶海
義堂・絶海は過日、土佐の片峠を訪ね、その途次四万十川源流に足を向けた途次、絶海・義堂の像に出合った。その時のメモ;
石碑の案内に拠れば;「義堂絶海像建立之記 義堂は正中2年(1325)に、絶海は建武3年(1336)共に不入(いらず)山麓に生まれました。この両僧は五山文学の双璧とうたわれています。五山文学というのは中世我が国に伝来した禅宗の僧侶たちの手になる漢詩文文学の文化でありますが、その特色は朱子学の紹介とこれを基とした政治理念の指導であります。
義堂は文で有名なばかりでなく管領足利基氏父子上杉氏さらには将軍足利義満の政治顧問として活躍し、絶海は詩文にすぐれ後年将軍義満の政治顧問として活躍しました(後略)昭和50年6月 義堂絶海銅像建設期成同盟会」とあった。 詩文はともあれ、五山の僧が政治的にも活躍した所以は、留学中(当時の明)に培った人脈とコミュニケーションに必要な漢文の素養故。莫大な利益をもたらす遣明使の正史・副史も足利義満以降は五山の僧であった、とか」と。

案内には「義堂。絶海ゆかりの墓所」とあったのだが、案内には絶海との関りは記されていない。また義堂・絶海のメモにも、同郷とはあるが義堂と絶海の縁戚関係は記されていない。同郷であり、まつまた共に津野一族であるがゆえの「義堂。絶海ゆかりり」との記載であろうか。よくわからない。
 
 舗装路を逸れ西谷筋への土径に入る午前11時50分
標識12から土径に
舗装道を5分ほど歩くと、舗装道が丘陵から離れ川筋へと下る曲がり角に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識12)があり、←は丘陵に沿って進む土径を示す。
道は丘陵南端裾を辿る。丘陵は樺の川と西谷の谷筋を分ける。

集落の道を進み大きな車道に出る午前12時5分
西谷の集落に出る
標識13
木々の中の細路を進むと西谷の集落に出る。里道に下りると直ぐ西谷の沢に当たる。沢に沿って南北に走る集落の生活道路の谷川ガードレール前に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識13)があり、←は下流奉方向を示す。
少し進むと道の左手にほとんど消えかかった案内。「西谷寺跡 西谷下のなろにある義堂と同時代の高僧絶海の生誕地。絶海が学んだ圓通寺は松が崎を越えた500下のところにある」と記す。??
上述の如く義堂・絶海のの生誕地は四万十川源流へと向かう途次、立像のあったあたり。義堂は立像の建つ公園のすぐ下、絶海は船戸地区に生誕の地の石碑が建つ。 船戸は国道197号、須崎より布施坂を上り切った辺り。結構離れている。
西谷寺も松ケ先も圓通寺も検索でヒットしない。この説明に関しては完全にお手上げ。因みに「なろ」とは高知でよく見る「奈路」のことだろう。「山の平坦なところ」の意味と言う。
その先、沢を渡ると大きな車道に合流する。左手谷筋では西谷と樺の川の流れが合わさる。

車道に合流午前12時12分
標識14
西谷筋を下る
車道を進むとその先で二つに分かれる。分岐点に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識14)。←に従い左手の谷側の道を進み、合流した沢を渡り沢の左岸に移る。沢を越えると車道に合流。合流点に「坂本龍馬脱藩の道」の標識(標識15)が立つ。
この車道は、上述三間川筋から樺の川筋に移る時に、普通に考えれば南に向かうのではとは思いながら、逆に北へと向かったのだが、その南へと下ってきた道であった。
標識15

この合流部は丘陵裾。等高線の間隔も狭く、ちょっと崖っぽい。往昔、崖下を開いて道を造ることができなかったのかもしれない。いまは土木技術をもって自然に抗い道を開いたということだろう、か。この道の御蔭て、国道筋から樺の川や三間川の集落とのアクセスは格段に容易になっているように思える。

珠玉庵跡午前12時22分
崖下の道を南に進む。少し歩くと、道の左手に「珠玉庵跡」の案内。「現在、観音堂となっており二体の観音像と一体の地職尊が安置されている。 ここには津野元実の妻の位牌が祭られており、彼女は元実戦死後この小庵で出家生活を送ったとのことである」とある。
自然石で作られた長い石段を上り観音堂に。お堂は締め切られ中を拝むことはできない。
津野元実
津野氏(つのし)は土佐国高岡郡の豪族。土佐七雄の一つ。高岡郡のうち中西部の津野荘(現・高知県須崎市吾井郷)・山間部の津野新荘・檮原荘を拠点とした。出自は不明であるが、代々が津野庄を中心として着実に勢力を拡大していった。
その中興の祖とされるのが之高。元実はその孫。知勇兼備の将に成長、西は津野山、東は須崎、野見浦のあたりまでを支配下においた。
元実は武事ばかりではなく、先祖を敬い民治にも力を尽くした名君として土佐国の中西部の一大勢力となったが、次第に領土拡大を図り戸波地方の併合すべく一条氏の家臣福井玄蕃が守る戸波城への攻撃を開始。が一条氏の援軍により敗走・戦死した。



国道197号へ出る午前12時30分
国道197号合流点の標識
道に戻り少し歩くと国道197号に出た。国道合流点に脱藩道の標識が西方向の布施坂方面を示す・三間川の談判の道休憩所からおおよそ1時間半。朽木峠越えで1時間半。全行程3時間の行程であった。
車デポ地までピストンで戻る。



帰路●

結構早く朽木峠越を終えたこともあり、帰路は龍馬神社の先、朽木峠取り付き口に向かう三差路より旧路を戻ることにした。

ミニ四国霊場83・84・85番
ミニ四国霊場83・84.85・86
「87 5分」の案内
三差路を左折し最初に大きく曲がりこむところ、山側に4基の石仏。83・84.85・86とあり、その傍に←で「87 5分」の案内があった。






高岩神社跡地?
道を進むと左手に平場。地図には高岩神社とあるが、特段社は見当たらなかった。平場に大きな石碑があり、行幸らしき文字だけは読めるのだがその他は読めなかった。
●上述ミニ霊場とこの高宮神社跡地の間に、ミニ霊場88番、1番から6番まで前述地図にあるが、当日はそのことを知るよしもなく通り過ぎていた。





勝森権現
屈曲する道を下ると左手に勝森権現の社。縁起などは検索でヒットしなかった。
権現
權現とは、権(仮に)現(現れる)>仮の姿で現れる>仏が神という仮の姿をかりて現れるということ。明治の神仏分離令まで続いた神仏混淆・習合時代のベースとなる思想。





旧道分岐点
道を下り土讃線に沿って進み。斗賀野駅の少し南で踏切を渡る。そこが国道494号と虚空蔵山腹を縫って走る旧道の分岐点。






白倉神社
分岐点より国道494を北に向かって直ぐ、道の左手に大きな社が見える。国道脇の案内に「白倉神社の案内。
「白倉神社 佐川町指定文化財
神社は斗賀野地区の総氏神として古来より斗賀野の一の宮と称され、祭神は冷泉天皇を祀る。
主な祭祀 歳旦察一月一日 祈年祭二月二十三日 夏祭り 七月七日 秋季例祭 十一月十二日

白倉神社花取踊(無形民俗文化財)昭和五十九年九月十八日指定
花取端は、中世末に、葉山・須崎を中心とする津野領に伝わった踊りで、近世初期の頃に津野氏の家臣だった吾桑(あそう)の堅田氏が川内に来て片田氏を名乗り同地を開拓、氏神の白王神社端りを奉納し、後年、白倉神社にも奉納したのが始まり と伝えられている。毎年十一月十二日の例祭に奉納され手甲脚絆の白足袋草鞋履きの武者姿である。
頭には山鳥の尾羽と飾りを付けた花笠を被り、太刀を持つ組とに紙シデを着けた薙刀を持つ組とに分かれて、向かい合い舞い踊る。歌詞は、太刀かまのて、しのぎ廻し、くるま、にしがた、まつかぜがある。
野馳地動の絵馬(歴史資料)昭和四十八年四月二十日指定再山文庫に寄託 明治十五年(一八九二)選挙大干渉を政府が推し進めた時この地で自由党と国民党(与党)とがぶつかり両党死者の出る争いの場となった。これを野地騒動という。この闘争で重傷を負った自由党員西田楠吉の傷が平癒した為、地元の朋輩が解願奉納した絵馬である。
緊迫感のあるこの絵馬は自由民権史上貴重な資料である。

中組観音堂の鰐口(工芸8) 安土桃山時代 平成二十一年一月十三日指定
鋳鉄製で怪二三・〇センチ、総厚八・〇センチ、肩厚五・八センチである。 全面錆で覆われ、さらに片面が上部を除き欠失しているが、陽鋳銘(天正二十年十一月)が残る鰐口はこの時代。数が少なく貴重である」とあった。

何故に冷泉天皇が祭神か不明。

深尾神社
国道を更に北上。佐川に入る猿丸峠を越え丘陵に挟まれた谷筋の西側丘陵裾を進むと、道の左手に鳥居と石段。木の鳥居には深尾神社とある。ちょっと急な石段を上り拝殿にお参り。案内には「深尾神社由緒沿革」とあり、
「所在地 高知県高岡郡佐川町紫園清水谷
●祭神 佐川初代 深尾重良 同室
    二代   深尾重昌 同室
以下歴代の霊位を祭る
●由来勧請縁起
天保二年五月二十七日 勧請 古城山奥の土居鎮座 ・斎宮と称す
明治十一年 深尾神社と改称する
明治二十三年三月 現清水谷に遷座する
例祭 春 四月十一日 秋 十月三十日

弘治三年(一五五七)佐川初代深尾和泉守重良は美濃国(岐阜県)太郎丸城主深尾和泉守重政の三男として生まれる
天正十三年(一五八五)江州(滋賀県)長浜城主山内一豊の家臣となる
慶長五年(一六〇〇)山内一豊の弟康豊と土佐に入国。浦戸城を没収。後佐川城に入る
元和二年(一六一六)一国一城制により城を廃し東麓に土居邸を開き国老として施政を司る
初代重良より十一代重愛まで文武に励み、善政を施し佐川文教の地の礎を築いた 幕末維新の時代には数多くの偉傑を輩出する高北佐川文教の祖であり長く継承護持すべきものである」とあった。

山内一豊の弟康豊と土佐に入国って?チェックすると、深尾重良は後継者として山内一豊の弟康豊の子である重昌を養嗣としている。重昌は土佐藩主第二代の忠義の弟であり、忠義の正室は深尾重忠の娘でもある。
深尾重忠は重良の甥で女婿かつ養子。この系統の高知深尾家が深尾氏本来の血筋と言う。
土佐藩の深尾氏は佐川本家のほかに、高知城下に居住していた分家が四家あり、この五家が土佐藩の中枢の約半分を占めていたと言う。重忠もこの土佐藩宿老である深尾氏のひとつだろう。

佐川城跡(西側山上)土居屋跡
深尾神社を離れ国道を進むと直ぐ、道の右手の谷川に「佐川城跡(西側山上)土居屋跡」と記された案内
「佐川城は一五七三(天正初)年 長宗我部元親の臣 久武内蔵助が築城。一六〇〇(慶長五)年山内一豊土佐入国により、翌六年筆頭家老深尾重良1万石の居城となる 。
一六一五(元和元)年 徳川幕府の一国一城制により取壊しとなったため一六一六(元和二)年この地に東西七十二間(一二九メートル)、南北一七八間 (三二四メートル)総面積四十二平方キロメートルの土居をつくり後さらに南方に拡張、一八六九(明治二年)まで十二代二百七十年間の佐川藩庁であった」とあった。
佐川城跡(西側山上)とは国道左手山の上の意。そこにあった佐川城を一国一城制に従い廃城とし、この地に土居を造ったということだろう。
土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。

これで帰路の寄り道もお終い。家路へと急ぐ。