火曜日, 11月 28, 2017

秩父往還 雁坂峠越え そのⅡ:秩父・川又より雁坂峠を越え甲斐・三富に下りる

初日の秩父川又登山口から、コースタイム6時間を大幅に越える7時間超をかけて、なんとか雁坂小屋にたどり着いた。古い往還とはいうものの、道端に石仏や丁石といった歴史を感じるものが、それぞれ一体、一基だけ、その丁石・道標も大正時代のもの。この歴史的遺構の無さには、なにか特段の理由でもあるのだろうか。
Google Earthで作成
最近、毎月の田舎帰省を利用し、愛媛を中心に歩き遍路の峠越えを楽しんでいるのだが、その道筋には石の道標、石仏、舟形地蔵丁石などが並ぶ。遍路道が特別なのだろうか。
また、峠道といえばその領界を区切る場合、境界石なども目にするのだが、それもない。秩父往還の歴史に、江戸の頃秩父からは善光寺に、甲斐国からは秩父観音霊場札所へと、信仰・行楽を兼ねた人の往来が結構あった、というのだが、それならもう少々道標・丁石といった道標があってもいいような気がするのだが、これも「四国遍路道」の視点からの物事の見方に陥っているのかもしれない。
それはともあれ、ゆっくりと山小屋で体を休め2日目、雁坂峠から三富村広瀬へと下ることにする。


本日のルート;
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

2日目

雁坂小屋からの日の出;午前5時
なにせ前日は午後8時に寝ているわけで、午前4時過ぎには寝覚め。小屋の電灯が灯るともに起床。
5時少し過ぎた頃日の出を見る。山稜の名はよくわからないので、カシミールの3D描画機能カシバードで作図しチェック。唐松尾山から雲取山そして和名倉山に続く稜線の、雲取山の左手から太陽が顔を出しているように思える。
小屋の北には昨日歩いた突出尾根、そのずっと先には両神山らしき、特徴的な山容が見える。そのまた、すっと先に見えるのは雲なのか谷川連山なのか。
黒岩尾根ルート
小屋の前に左方向に向かって「天幕場 黒岩道」の案内がある。黒岩道とは国道140号・豆焼橋から1,050m等高線と1,100m等高線の間を進み黒岩尾根に入り、そこから尾根を巻いて1,828mの八丁の頭まで進み、八丁の頭の先から尾根筋を雁坂小屋へと向かう。
地図で見ると、雁坂小屋は黒岩尾根に乗っかっているようにも見える。雁坂小屋から黒岩道を少し進んだ先に小屋のお手洗いがあり、その建屋が道を覆っている。黒岩道が二級国道140号ルート、といった記事もあり、国道を跨ぐトイレとして紹介されている。
はっきりしたことはわからないが、突出峠ルート登山口にあった環境庁・埼玉県作成の秩父往還の案内には、突出峠ルートが一般国道と記されていたので、黒岩ルートは国道ではないかもしれない。とすれば、国道を跨ぐ云々は面白いが、お話に過ぎない、ということになってしまうようだ。

雁坂峠に向かう;7時20分
昨夜と同じく薪ストーブで沸かして頂いたお湯を使い朝食を済ます。ゆっくりと朝を過ごし7時過ぎに用意を済ませ小屋を出る。



雁坂峠;7時35分(標高2,082m)
比高差100m強を15分位上ると前面が開けた雁坂峠に到着。峠の南面は一面の草原となっており、昨日歩いた北斜面の針葉樹林と対照的な景観となっている。 当日は天気もよく富士山が顔を出す。カシミールの3D機能カシバードで峠から見える山稜をチェックすると、左手に水晶山(標高2,158m)。富士山は水晶山から古礼山(標高2,112m)、雁峠(標高1,780m程の鞍部)笠取山(1,953)に続く稜線脇から姿を見せているように思える。
右手前方、今から下る谷合の先に見える尾根筋は雁坂峠から西に甲武信ヶ岳(標高2,475m)を経てグルリと逆時計周りに国師ヶ岳(標高2,591m)、奥千丈岳(標高2m409m)と続き、前面には笛吹川の谷間に落ちる乾徳山(標高2,016m)の尾根筋が見える。

少々難儀したが、南アルプスの三伏峠や北アルプスの針ノ木峠と共に日本3大峠に数えられている雁坂峠をクリアした。いつだったか読んだ『今昔 甲斐路を行く 斎藤芳弘(叢文社』)の「雁坂口」の項に文学博士・金田一春彦氏が作詞した「雁坂峠」の歌が載っていた。金田一教授の先祖は武田氏の一族で、勝頼の代、武田一族が滅びたとき、甲斐から雁坂峠を越えて陸奥国、現在の盛岡に落ち延びたとのこと。
峠を下った本日の最終点、三富村の道の駅にある石碑に刻まれたその歌は、 「三富広瀬は石楠花どころ 小径登れば雁坂峠 甲斐の平野は眼下に開け 富士は大きく真ん中に 大和武尊も岩根を伝い 日には十日の雁坂峠 東国目ざす武田の勢も 繭を葛籠の商人も 旅人泣かせの八里の道も 今は昔の雁坂隧道 川浦の湯から秩父の里へ 夢の通い路小半時」とある。

三富広瀬は今から道を下りバス停のあるところ。富士の眺めは前述の通り。大和武尊のくだりは「日本書記」によれば、「景行天皇の御代(2世紀頃)、陸奥国(東北地方)・常陸国(茨城県)を平定した日本武尊が、酒折宮(甲府市酒折に比定)に泊り、この峠を越へて武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に達し、碓井峠を越えて信濃国(長野県)・越後国(新潟県)の平定に向かったと伝説を指す(『古事記』のルートは異なる)。
歌にある「日には十日の」とは日本武尊が酒折宮で詠んだ「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」に対し、供のものが詠い返した「日日並べて夜には九夜 日には十日を」の歌をひく(『今昔 甲斐路を行く』より)」。
信玄率いる大軍が雁坂峠の難路を越したとの記録はないようだが、信玄の時代には峠から10か所ほどの狼煙台を繋ぎ、関八州の軍事情勢を伝えた、という。また前述の股の沢や真の沢に拓いた金山へとこの峠を越えていった、とも。さらに峠は甲斐府中から北東の鬼門にあり、罪人を甲斐の国から追放した道でもある。
軍勢ばかりでなく民衆も峠を越えた。山間村落での養蚕が盛んであった秩父、特に大滝や栃本の人々は大正時代までは繭を背負って峠を越え、甲州の川浦や塩山の繭取引所に。繭を運んだ。秩父の大宮より甲州のほうが近かったということである。
江戸時代、庶民の生活に余裕ができると信仰・行楽を兼ねた人々が峠を越えた。秩父からは甲斐の善光寺、身延山久遠寺、伊勢参り、甲州からは三峰、秩父観音霊場への巡礼のため峠を越えた。江戸時代には月に1万人以上の人が秩父観音霊場を訪れたという。
『甲斐国志』に、「嶺頭の土中ニテ古銭ヲ掘リ得ル事アリ。昔時往来ノ人山霊ニ手向ケセシ所ト云」とあるように、中世以降は峠の神にお金を奉納したのだろう。峠の語源は「たむけ;手向け」にあるとも言う。神に手を合わせたのだろう。ともあれ、日本武尊の伝説を引き、日本最古の峠道との記述もある歴史のある峠ではある。
峠付近の植生
峠にあった、「峠付近の植生」に関する案内には、「奥秩父の山には雁のつく地名がいくつか見られる。雁道場(突出峠から少し下った処)は雁が山を越す前にひと休みする場所。雁坂峠から雁峠にかけての上空は、かつて雁の群れが山越えをしたことから名付けられたとい言われている。
山梨県側
雁坂峠の稜線一帯には山地草原が見られる。この草原は山火事などによる森林破壊後の風のあたる斜面に成立した草原で、シモツケソウ、オオバギボウシ、ミヤコザサ、オオバトラノオ、イタドリ、アキノキリンソウ、シモツケ、ミヤマヨメナ、カラマツソウ、シシウド、マルバダケブキ、グンナイフウロ、キソチドリ、などが生育している。雁峠にも同様の草原が見られる。
シモツケソウ;ばら科。茎は約60㎝で葉は多くの枝葉からできている。
オオバギボウシ;ゆり科。花の茎は60㎝?100㎝で、葉より高い、若葉は食用。
ミヤコザサ;いね科。棹高30㎝?1mで北海道から九州の太平洋岸に野生
埼玉県側
一方雁坂峠の埼玉県側の斜面には、高木層にコメツガとトウヒの優占する亜高山針葉樹林が見られる。亜高山層はシラビソ、オオシラビソ、トウヒ、低山層にはコヨウラクツツジ、サビハナナカマド、ミネカエデ、シラビソ、草木層はマイズルソウ、ミヤマカタバミ、カニコウモリ、オオバグサ、バイカオウレンなどによって構成されている。
コメツガ;まつ科。常緑針葉高木。高さ?m?20mで本州の中・北部に分布。
トウヒ:まつ科。唐檜。常緑針葉高木で高さ20m?25m。
マイズルソウ;ゆり科。茎は???㎝で本州中部~北海道に分布」との記述があった。

下山開始;7時45分
峠で少しのんびり景色を楽しんだ後、草原の斜面を下り始める。植物のことを何も知らないため、説明にあった植物が下山路を覆う植物のどれがどれかもわからないが、ともあれ前面の開けた気持ちのいい道を下る。

沢;7時57分(標高1,970m)
峠から下り始めて10分強。標高を100mほど下げると草原と樹林の境あたりにささやかな沢が道を防ぐ。山地図にも特に記述はないが、等高線の切れ込みを下に下ると峠沢にあたる。峠沢の源流部だろうか。

峠沢右岸;8時42分(標高1,720m)
次第に大きくなる乾徳山の山稜を全面に見遣りながらジグザグの道を下ると左手に大きな沢が見えてくる。地図で確認した峠沢である。
雁坂嶺には当然のことながら幾つもの切り込んだ沢筋がみえる。先ほど下山途中で見たささやかな沢筋もそのひとつであろうが、それら沢筋の水を集め、この地点では堂々とした沢となって下っている。

峠沢を左岸に;9時16分(標高1,500m)
沢は幾筋も分かれた箇所もあり美しい沢となっている。途中いくかロープが張られているところがあるが、危険なところはない。沢に沿って木々の間を抜けて進む道であり、道筋は分かりにくいが、要所にはリボンなどの目印もあり迷うことはない。
峠沢右岸を40分ほどかけ標高200m強下げると3本ほどの木を渡した木橋がある。途中、行き会った方から木橋は凍って滑るため気を付けて、とのアドバイスがあった。ちょっと木橋に乗ったのだが、滑って危なそう。水勢の弱い箇所を見付け沢を渡ることにした。木橋で転んだら大怪我だった、かも。感謝。

林道に出る;9時50分(標高1,400m)
木橋を渡り、ここから林道までは峠沢の左岸を下る。木橋を渡るとすぐ左手から結構大きな沢が合わさる。上部は美しい滑沢となっている。紅葉も残りいい雰囲気である。
30分弱で標高を100mほど落とすと左手から大きな沢が合わさる。沓切沢と呼ぶようだ。沢には沓切橋が架かる。登山道はここでおしまい。林道に出る。 橋には「亀田林業所」のプレートが架かる。この辺りは亀田林業所の私有地ということのようである。
橋の少し上で峠沢は、雁坂嶺から甲武信ヶ岳への稜線上にある破風山(2.317m)の山腹から下ってきた「ナメラ沢」と合わさり名を「久渡沢」と変える。

雁坂トンネル口:10時33分(標高1,200m)
未だ所々に紅葉が残り単調な林道歩きの慰めともなる。舗装された林道を40分ほど歩くと雁坂トンネから出た国道140号が道の右手に見えてくる。道をグルリと廻り雁坂トンネルの料金所を前面に見下ろす箇所から雁坂峠方面を見る。カシミールの3D機能カシバードを起動し描画。正面は雁坂嶺、雁坂峠は右手の水晶山から久渡沢に落ちる水晶山の稜線に隠れていた。
料金所の先、雁坂トンネルに入る道路を見乍らちょっと想う。川又から10時間以上かけて抜けた甲武国境の山塊を、トンネルを抜ければ10分程度で走り終える。それはそれでいいのだが、この便利さであり、逆に往昔の峠歩きの不便さは往々にして、現在の視点からの見方のように感じる。
モータリゼーションによる物や人の大量かつ短時間での移動が盛んとなる以前、地域を隔てる山塊の往来は峠を越えて歩くことが当たり前であった頃、身の丈にあった荷物を黙々と、かつ自然なこととして人々は物流の幹線道路として峠を越えていたのだろう。
少しニュアンスは異なるが、今昔の視点の置き方により、物の見え方が変わると感じたのは大菩薩峠超えの時。中里介山の『大菩薩』で机龍之介が何故に、わざわざ不便な山奥の大菩薩峠に立ち、不埒な所業を行ったのか疑問に思っていたのだが、大菩薩峠を歩いたとき、その道が江戸時代に開かれる以前の古い甲州街道であり、江戸の頃も甲州裏街道として人の往来があった、とのこと。 いまでいう「準幹線国道」であった、ということ。国道であれば、そこに主人公がいてもおかしくはないだろう。
また、これも少々ニュアンスが異なるが、鎌倉街道山の道を高尾から秩父まで歩いたとき、何故にこんな辺鄙なところを?などと感じたのだが、よくよくかんがえれば、当時は現在の大東京など影も形もない葦原・湿地の地。 更に昔には東山道から武蔵の国府に通じる丘陵沿いの「幹線国道」があったわけで、現在の大東京が「辺鄙な」ところであった、ということだ。
雁坂トンネル建設の経緯
それはそれとして、甲武国境を抜く道路建設は両県民の長年の願いではあった。国道とは指定されながらも甲武国境の山塊に阻まれ、長年「開かずの国道」と称されていた。
昭和29年(1953)二級国道甲府・熊谷線として指定
往昔の秩父往還は、昭和28年(1953)には二級国道甲府・熊谷線として指定されている。熊谷・甲府を結んだ理由は、国道指定には10万人以上の都市を結ぶ必要があったからである。
秩父往還と中山道の分岐点には道標(熊谷市石原)「ちゝふ(秩父)道、志まふ(四萬部[しまぶ]寺)へ十一(里)」と刻まれた道標、秩父長瀞の「宝登山道」の碑も建っていた、という(現在は移されている)。四萬部寺は秩父礼所1番である。
当初の想定は雁峠ルート
既述の如く二級国道に指定された、といっても建設が進んだわけではない。昭和29年(1954)には建設促進期成同盟が結成され、昭和32年(1957)には両県の代表が雁峠で合流し、建設促進の協力を期している。
当初のルートは、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部を通り雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。隧道計画も1000m程度であったとのこと。雁坂峠直下を抜くルートに変更となったのは昭和59年(1984)。国立公園の保護、地質調査の結果を踏まえての変更、と言う。
昭和30年代から50年代は進展なし
昭和32年(1957)には両県代表が雁峠で気勢を上げたにしても、建設省の動きは鈍く昭和30年(1955)代から50年(1965)代にかけて秩父は大滝村、山梨は三富村が中心となって活動するも状況の変化はない。
昭和34年(1959)には伊勢湾台風により山梨側・三富村の一之橋、二之橋、三之橋が破壊され、秩父側も二瀬ダムの道路が寸断される。この復旧工事により道路建設が少し進む。
昭和36年(1961)には二瀬ダムが完成、昭和45年(1970)には山梨側の広瀬ダムが完成。ダム工事の道が結果として国道建設促進の一助となっている。 昭和47年(1972)には、山梨側拐取工事率は50.4キロ。全体の42.4%。 一方埼玉側101.4キロ、全体の78.6%まで進んだ。最後の難関は雁峠である。 雁峠ルートに関し、昭和40年代後半;大きな壁が立ちはだかる。それは当時起こった環境問題への高い意識からの自然保護の問題。山梨側は亀田林業所の私有地であり用地取得は比較的楽であったようだが、秩父側は東大の演習林。環境保護の観点から反対に遭い、埼玉側の用地買収が難航した。
昭和50年(1975)には過去22年間に山梨47.8キロ、埼玉76.6キロの拡張舗装が行なわれ、未舗装部分は山梨の広瀬以北6.5キロ、埼玉の雁峠登山口近くの14.8のキロとなったが、未だ雁峠トンネルの見通しが全く立たなかった。
昭和56年(1981)雁坂峠ルートが決定
昭和56年(1981)になり雁峠から雁坂峠ルートとの結論を建設省が出す。昭和58年(1983)には三富村の城山トンネル(三富村下釜口)が開通。昭和59年(1984)には建設省が来年度予算に雁坂トンネル工事費を計上。この年をもって雁坂ルート工事正式決定としているようだ。
雁坂峠は石楠花の群生地でもあり、トンネルを抜く計画を描き、昭和60年(1985)に計画概要発表。全長6.5キロ、幅7mのトンネルでありふたつの県を跨ぐため国の直轄事業となった。
昭和60年(1985)には雁坂トンネルの直ぐ南の広瀬トンネルの起工式。雁坂トンネルの前段階といったものである。昭和63年(1988)には広瀬トンネルが久渡沢を渡る鶏冠山大橋が完成、更にその先、笛吹川に架かる西沢大橋も着工となった。
平成元年(1989)着工。平成10年(1998)開通
平成元年(1989)に川浦で着工式。平成2年(1990)大滝側も工事開始(詳細は記述「大滝道路」に)。平成6年(1994)、トンネル避難坑が開通。平成10年(1998)開通した。
開通に際し、自然保護の観点から秩父側のバイパス道・大滝道路が間に合わず、旧国道を半年間使うことになったため、大渋滞を引き起こしたことは前述の通りである。
山梨側の雁坂トンネルへのアプローチ道路建設
雁坂トンネルへのアプローチ道路建設は、秩父側は従来の国道140号とは別にバイパス国道140号・大滝道路の建設をもって雁坂トンネルと繋いだ。同様に山梨側もいくつかバイパス工事をおこないトンネルと繋げている。
大滝道路と同じく「雁坂トンネルと秩父往還(山梨県道路公社)」の資料をもとにまとめておく。
広瀬バイパス
「広瀬バイパスは」は、東山梨郡三富村広瀬地内の未改良区間、交通不能期間の解消及び「雁坂トンネル」へのアプローチ道路として昭和57年度(1982)より道路改築事業に着手し、「雁坂トンネル」の開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した延長3,700mのバイパス。
このバイパスは急峻な山岳部と渓谷を通過するため六ヶ所のトンネルがある。「西沢大橋(橋長360m)」は、県内初の橋梁形式をもつループ橋であり、秩父多摩国立公園・西沢渓谷入口のシンボル的な橋となった。「鶏冠山大橋(橋長270m)」は、大きな渓谷を渡るため塗装の必要のない鋼材を山梨県において初めて採用した橋である、と記す。
古い地図がないため、旧国道140号がどのルートか不詳であるが、広瀬バイパスは雁坂トンネルから広瀬ダム湖の南まで強烈なルート取りをおこなっている。雁坂トンネルを抜けると石楠花橋で、久渡沢の崖を避け、すぐに広瀬トンネルに入る。トンネルを抜けると再び鶏冠山大橋で久渡沢を跨ぎ対岸の山稜を強烈なカーブのループ橋で西沢渓谷を跨ぎ、南に向かい久渡沢を渡り返し、広瀬ダムに沿って下る(同様の目的で東山梨郡牧丘町成沢と塩山市藤木間にも窪平バイパスが建設されているが、ちょっと場所が離れすぎているので省略する)。 秩父側も山梨側も雁坂トンネルへのアプローチ道路としては、旧国道を使うことなくバイパスで繋いでいた。

鶏冠山大橋;10時42分(標高1,150m)
雁坂トンネルで一度トンネルを抜けた国道140号が再び広瀬トンネルに入るところから、林道は久渡沢に沿って大きく迂回し広瀬トンネルが抜けた先、鶏冠山大橋の巨大な橋梁を潜る。
当日は、なんとなく地味色の橋であり、同行のひとりから、この橋は使われなくなった橋かなア、などとの感想も聞かれたが、上述塗装の必要のない鋼材故の「地味さ」加減であったのだろうか。
それはともあれ、橋桁したから少し進むと道標があり、道の駅は林道を離れ土径へと右に折れる。久渡沢に向かって標高を30mほど落とし、久渡沢に架かる橋手前にでる。

道の駅 みとみ;10時59分(標高1,100m)
橋を渡り国道140号に出て少し北に戻り「道の駅 みとみ」に。塩山行きのバスの時間を道の駅のスタッフに訪ねると1時過ぎまで無い、とのこと。さて2時間もどうしようと思った時、山小屋の小屋番さんが小屋を出て「道の駅 みとみ」に下りる方に、道の駅から11時半頃バスが出ると話をしているのを思い出した。チェックすると山梨市駅へと向かう山梨市営バスが11時半過ぎに「道の駅 みとみ」から出るとある。

甲府市駅
広い道の駅にもかかわらず、バス停の案内が無い。彷徨っているとささやかな市バス停留所の案内があり待つこと十分ほど。無事市バスに乗り、途中温泉に寄る仲間ふたりと分かれ山梨市駅に到着。
慣れない自動特急券・指定券の販売機に苦戦し、ぎりぎりで特急甲斐路に間に合い、一路家路に向かう。

月曜日, 11月 27, 2017

秩父往還 雁坂峠越え そのⅠ:秩父・川又より雁坂峠を越え甲斐・三富に下りる

晩秋と言うか、初冬というか、天候不順のこの頃、どちらが適切な表現がわからないのだが、ともあれ11月初旬の週末を利用して、1泊2日で秩父往還・雁坂峠を越えた。
雁坂峠を越えようと思ったのは今から5年前。友人のSさん、Tさんと共に信州から秩父に抜ける十文字峠を越えて()秩父の栃本に出た時、そこから秩父往還を南に進めば雁坂峠を越えて甲斐・山梨にでる古道があることを知った。 縄文人も通ったとされる日本最古の峠、また飛騨山脈越えの針ノ木峠(2,541m)、赤石山脈越えの三伏峠(2,580m)と共に日本三大峠のひとつとされる雁坂峠(2,080m)越えに「峠萌」としては大いにフックが掛かったのだが、その後計画した予定日が大雨とのことで中止、そんなこんなで、なんとなく日が過ぎてしまった。
今回の旅のきっかけは十文字峠を共にしたSさんからのお誘い。台風による1週延期によりTさんはご一緒できなくなったが、Sさんの友人Kさんが参加されることになり、3名での山行となった。
スケジュールは初日に秩父・川又から登山道・秩父往還に入り、直線距離11キロ・比高差1350mを上り雁坂小屋で一泊。翌日は雁坂峠に上った後、8.5キロ・比高差800mほどを下る。
十文字峠の山小屋での凍えるあの寒さはもう勘弁と完全な防寒対策、食事はないと言う雁坂小屋とのことでの自炊用意のため、46リットルのザック一杯の重さ、更には痛めている膝の痛みもあり、通常6時間という上りに7.5時間、3時間程度の下りも4時間もかかるという為体(ていたらく)。パーティの足を引っ張りながらも、なんとか長年の想いであった「雁坂峠」を越えた。



本日のルート
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

初日

西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ

午前8時20分西武秩父駅集合のため、西武池袋駅を午前6時50分発の「特急・秩父3号」に乗り、西武秩父駅午前8時15分着。午前8時35分発中津川行の西武バスに乗り、国道140号を進み1時間で川又バス停に着く。
国道140号
当日はいつだったか三峰神社を訪ねた時に向かった秩父湖沿いの道を二瀬ダムで分かれ、荒川沿いの国道を進んだと思っていたのだが、バスはダムの手前で巨大なループ橋を進んでいた。
秩父湖・二瀬ダムにはそれらしきループ橋はない。地図をチェックすると、国道140号は三峰口を越えた先、大滝で荒川に沿って進むルートと中津川に沿って進むルートに分かれている。共に国道140号であり、ループ橋は中津川沿いの秩父もみじ湖・滝沢ダム手前にある。当日のバスは中津川に沿って滝沢ダムを越え、中津川と荒川を分ける山塊を抜いた大峰トンネルを通る国道140号、通称大滝道路を進み荒川筋の川又バス停へと進んだようだ。
大滝道路
『雁坂トンネルと秩父往還 蘇る古道(山梨県道路公社)』をもとにまとめると、「この中津川沿いの国道140号バイパスルートは大滝での分岐箇所から雁坂トンネルまでの17キロ強を「大滝道路」と呼ぶ。
もとは、大滝村地内の未改良区間及び交通不能区間の道路改築をもとに構想されたものだが、この区間のうち、二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネル(バイパス道が完成し現在閉鎖)から栃本を経て川又橋に至る区間は名だたる地滑り区間でもあり、既存の秩父湖沿いの国道改築は困難とされ、中津川に建設される滝沢ダム建設にともなう付け替え道路工事と国道140号の改築工事を合併しておこなうことになった。
工事は昭和37年(1962)から着手。川又橋から山梨側に工事が進められ、昭和63年(1988)には豆焼橋の手前まで完成。また昭和59年(1984)正式着工の決まった雁坂トンネルへのアプローチとして豆焼橋から雁坂大橋までの区間はトンネルの開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した(平成2年から工事着工)。
全線開通は平成10年(1998)10月。滝沢ダム堰堤付近から上流5キロほどの区間に絶滅危惧種クマタカの営巣が発見されこの区間の工事が一時中止されたため。雁坂トンネル開通から大滝道路全面開通までの半年間は在来国道を使用することになり、大渋滞が発生した、と言う。
国道140号の3ルート
大滝道路のチェックに合わせ地図を見ていると、秩父湖沿いの従来の国道140号も二瀬ダム堰堤の先で二つに分かれる。山沿いの栃本集落を抜けるルートが往昔の秩父往還。秩父湖沿いのルートは大正時代より電源開発及び森林開発のための軌道(林鉄)跡を利用した車道であり、昭和28年(1953)には二級国道熊谷甲府線に指定され、後年、二瀬ダム建設に合わせて整備されていった。 二瀬ダムは昭和25年(1950)に計画され、昭和36年(1961)までに建設された。昭和25年以前、2級国道熊谷甲府線にあたる道路はダム下流の二瀬まで狭い砂利道であったようだ。
上に二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネルのことをメモしたが、隧道内分岐のこのトンネルが閉鎖されたのは平成25年(2013)。荒川沿いに新たなバイパス秩父湖大橋が竣工したことによりバイパスが完成し、この隧道は閉鎖となった。

川又バス停;午前9時35分
中津川に架かる中津川大橋を渡り、十文字峠越えのときに白泰山から栃本へと辿った尾根筋の流れ、標高1100m程度の山塊を抜いた大峰トンネルを通り抜けると、バイパス国道140号は秩父湖沿いに続く国道140号に合わさる。少し上流に進むと往昔の秩父往還道であった旧国道140号も合流。この3ルートに分かれた国道140号が川の上流へと一つに合わさる箇所に西武バス・川又バス停がある。
バス停は、川上犬で知られる信州の川上村から十文字峠を越えて秩父の栃本に至り、西武秩父に戻るべく道を下ったバス停でもあった。水場やお手洗いもあるバス停で準備を整え雁坂越えへと向かう。

入川橋:午前9時55分
国道を少し進むと道路左手に扇屋山荘と書かれた宿・食事処がある。ここが今夜お世話になる雁坂小屋オーナーの家と聞く。
扇屋山荘を越えると、国道から道が右手に分岐し「入川渓谷 十文字峠」、直進する国道方向は「滝川渓谷 雁坂峠」との案内がある。川又はこの滝川と入川の合わさる場所と言う意味だろう。「入川渓谷」という文字に惹かれつつも、道は国道筋を進む。
入川渓谷
入川渓谷を形成する入川は荒川本流とされ、その源流点の石碑が入川渓谷を遡上し、赤沢との出合にある、という。この入川渓谷のことを知ったのは信州往還・十文字峠を越え白泰山に向かう途中、尾根道に股の沢分岐の標識があり、そこに「股の沢 川又」方面という標識があった。

「沢」という文字に故なく惹かれる我が身としては如何なるルートかとチェックすると、分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を北西に遡上し、白泰沢に向かっても森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。
この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代(昭和35年から)までが激しかったようであり、1970年(昭和45年)ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになった、と。 伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった信州・梓山の戦場ヶ原のように、奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、軌道跡とともに入川の渓谷を辿ってみたいものである。

因みに森林軌道は昭和44年(1969)に全線廃止されるが、昭和57年(1982年)に赤沢出合付近の発電所取水口工事の資材運搬の為に、軌道を利用することとなり、昭和58年(1983年)に三国建設による軌道改修工事が完成。昭和59年(1984)まで運用された。現在残っている軌道は、この三国建設が運用していた頃の軌道であろう。
森林軌道と国道140号
上に東京大学農学部付属秩父演習林中の森林軌道についてメモしたが、はじまりは、大正10年(1921)関東水電が強石~落合~川又間に敷設した資材運搬用馬車軌道。その後、川又のさらに上流に広大な演習林を有する東京大学が、上述の如く材木の運び出しのためにその軌道を改良して利用するようになっていったわけだ。
軌道の所有者も二転三転しているが、とまれ昭和26年(1951)頃には赤沢上部軌道まで延びた森林軌道も、昭和20年(1945)代ごろからはじまるモータリゼーションにより、トラック運材が盛んになり始めると、森林軌道は下流側から軌道の撤去と車道の布設が始まることになる。昭和27年(1952)頃までには、下流から二瀬までは車道化していたようである。
この道も昭和25年(1950)に着工し、昭和36年(1961)に完成した二瀬ダムにより二瀬から川又間が廃され、同時に付け替え車道が川又まで建設された。これが秩父湖に沿って進む現在の国道140号の前身といえるだろう。

登山口;10時9分(標高730m)
川又バス停から15分弱国道を進むと、道の右手に「雁坂峠登山口」の木標がある。石段を上り登山道に入ると、「秩父往還の歴史」に関する案内があり、
「秩父往還の歴史 雁坂峠と秩父多摩甲斐国立公園  雁が越え、人々が歩いた日本最古の峠道
三伏峠(南アルプス・2580m)、針ノ木峠(北アルプス・2541m)、とともに日本三大峠のひとつである雁坂峠(2082m)の歴史は古く日本書記景行記に日本武尊が蝦夷の地を平定のために利用した道と記されていることから、日本最古の峠道といわれています。
また、縄文中期の遺物や中世の古銭類なども数多く出土している他、武田信玄の軍用道路・甲斐九筋のひとつとしても知られています。 更に、秩父往還とよばれたこの道は、秩父観音霊場巡拝の道として多くの人々が通り、江戸時代から大正までは秩父大滝村の繭を塩山の繭取引所に運ぶ交易の道として利用されてきました。
一般国道140号となった現在は、奥秩父を目指す山道として秩父多摩国立公園の豊かな自然とともに登山者に愛されています。 雁坂峠の名は、この辺りが雁の群れの山越えの道であった事に由来しているとも伝えられています。
雁が越え、昔人が越えた雁坂峠、ここには美しい自然と遠く長い歴史があります 環境庁・埼玉県」とある。
一般国道140号のルート
なるほど、このような歴史のある往還道か、などど思いながらも、ちょっと疑問が。この説明を読む限り、今から上る登山道が「一般国道140号」と読める。
登山道が一般国道?
国道140号の歴史をチェックすると、二級国道甲府熊谷線と指定されたのが昭和28年(1953)。川又地区-雁道場-突出峠-雁坂峠(川又雁坂峠線)がルートとなっていた。
一般国道に昇格したのが昭和40年(1965)であるが、秩父と甲斐を隔てる雁坂嶺を穿つ雁坂トンネルが平成10年(1998)するまで雁坂峠の前後区間の登山道が国道指定されていた。

ついでのことでもあるので、この案内板が造られたのは?案内の「秩父多摩甲斐国立公園」部分が修正されている。元は昭和25年(1950)秩父多摩国立公園と称されていたが、その区域に広い占有地をもつ山梨がない、ということで、平成12年(2000)「秩父多摩甲斐国立公園」と改称された。
またクレジットの環境庁(現在は環境省)が新設されたのが昭和46年(1971)であるから、この案内がつくられたのは昭和46年(1971)から平成10年(1998)までの間と推測できる。その案内に平成12年(2000)以降、「秩父多摩甲斐国立公園」の箇所が修正されたのだろう。言わんとすることは、昭和46年(1971)から平成10年(1998)まではこの登山ルート。秩父往還が一般国道140号と指定されていた、ということだ。
どうでもいいことだけど、あれこれチェックすると、それなりに面白い歴史が現れる。

石の道標;10時21分(標高792m)

登山口から10分ほど、杉林の中、等高線を緩やかに斜めに高度を50mほど上げると「川又 雁坂峠」の木標の傍に石柱があり、文字が刻まれる。「勅諭下賜四十年**」「大正十一年 大滝村**」「右ハ甲州旧道 左ハ**後ハ栃本ヲ経テ三峯山ノ**」と言った文字が読める。
勅諭下賜四十年とは明治15年(1882)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した「軍人勅諭」から四十年、という意味だろう。大正11年(1922は明治15年(1882)から40年である。
大滝村の在郷軍人会が中心となって立てた道標のようである。秩父往還のことは「甲州旧道」と記される。
消された道筋は?
ところで、「左ハ**」と記された道筋が気になる。ちょっとチェックすると、「バラトヤ線(槇ノ沢林道)から釣橋小屋を経て雁峠への道筋を示していたようだが、現在は廃道となったため、故意に潰された、といった記事をみかけた。 現在、甲武国境を抜くトンネルは雁坂峠下を通るが、これは昭和56年(1981)に国立公園保護や地質調査の結果、決定されたもの。
昭和29年(1954)に甲武を結ぶ国道建設の建設促進期成同盟が結成された当初は雁峠を1000m のトンネルで貫く計画であったようだ。事実昭和32年(1957)には雁峠で両県代表が計画実現を期して握手をしている、といった記事もある。 当初の140号線の計画では、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部をから雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。
大正7年(1918)頃の殉職森林作業員の記念碑に「秩父ノ深山一路僅ニ通シテ甲武国境ノ森林保護利用ニ便シ兼テ両国ノ連絡交通ニ資スルモノ独リ此国有歩道バラトヤ線アルノミ」と記されるように、往昔は道標から消されたルート、甲武国境を抜けるトンネルが計画されたこの道筋は結構メジャーな往還であったのだろうか。
軍人勅諭
「正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』。『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。
西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された(Wikipediaより)」
在郷軍人会
「在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)は、現役を離れた軍人によって構成される組織のこと。一般的な用語としては、「退役軍人会」という言葉と混用して用いられるが、在郷軍人会は予備役にある人によって構成される(Wikipediaより)」

水の本;11時6分(標高1,063m)
等高線を時に垂直に、大半は緩やかに斜めに40分強の時間をかけて標高を270mほど上げる。登山路は杉林の中に時に残る紅葉が美しい。
と、木に「水の本」の案内。案内には「水の元 一杯水とも言う。昔、秩父往還を行き来した人の為の避難小屋的建物があり、山仕事にも使われたとか。 お地蔵様には武田家の隠し財産の言い伝えがあるようです。武田家滅亡の折、金の延べ棒など甲州金を秩父往還に埋蔵し、目印として北向地蔵を建てておいたと言われています。今となっては定かなことはわかりません」とある。
地蔵
案内のある木の側に地蔵が佇む。うっかりすると見逃してしまいそうである。 少々先走ったメモとはなるが、雁坂峠越えの全行程で唯一の地蔵であった。古い往還とはいいながら、丁石、石仏類は残っていない。四国遍路で、これでもか、といった石仏・丁石に出合うことを想うに、なにか理由でもあるのだろうか、と少々考えてしまう。
水場
水の本との地名の如く、案内のすぐ近くに微かな水の流れが見て取れた。水場として重宝されていたのではあろう。

信玄焼き
で、案内にある「武田家の隠し財産云々」は、それはそれとして「触らずに」おくが、秩父と武田と言えば、秩父神社散歩の時に出合った「信玄焼き」を想い起こす。関東各地でも見られる武田勢による焼き払いのことである。
秩父と武田の関係は、古くから奥秩父、また現在の秩父市小鹿野、吉田辺りは武田氏の勢力下にあったようだ。奥秩父には股の沢、真の沢には金山があったとも言うし、それを守るべく栃本の辺りには砦もあった、と言う。
その秩父に「信玄焼き」が起きた因は、小田原・後北条氏の勢力が寄居の鉢形城(永禄7年(1564)北条氏邦入城)を核とした北関東への勢力拡大にある。天文⒖年(1546)川越夜戦に勝利し武蔵国に覇権を確立した北条氏ではあるが、武田氏は旧域を守るべく、佐久盆地から十石峠、そこから志賀坂峠を越えて小鹿野(永禄12年;1569)、土坂峠を越えて吉田(永禄13年;1570)へと数百人程度の軍勢(大軍ではないようだ)を送り、その折秩父の中心である大宮郷一帯を焼き払ったようである。
永禄12年(1569)には武田信玄の本隊2万が小田原の北条を攻めるべく碓井峠を越え、鉢形城を攻めているが、信玄焼きとはいいながら、本隊が秩父に侵攻したわけでなく別動隊の所業ではあろう。いつだったか歩いた三増合戦は武田軍が小田原攻めの帰路に起きた日本で名だたる山岳合戦のひとつである。なお、武田の軍勢が秩父往還を越えて秩父に侵攻したといった記録はないようである。

雁道場;12時3分(標高1,291m)
1時間弱の時間をかけて標高を300mほど上げると尾根筋に出る。木には「雁道場」とあり、「毎年秋に雁の群れが南に飛んでいく時に、山を越す前ひと休みした場所らしいです。雁坂峠、雁峠などこの辺りが渡り鳥のルートのようです。黒文字橋から上がってくるルートがこの先にあります」と記してあった。
雁坂峠の由来

雁坂峠の由来をこの雁が嶺を越える「タルミ」故との説がある。雁坂峠の東にも雁峠という峠もある。新拾遺集のなかに三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)が詠んだ「秋風に山飛び越えてくる雁の羽むけにゆきる峰の白雪」は雁坂峠を読んだといった記事もある。寛平6年(894)甲斐権少目として任官して、この地と縁が無いわけではないが、この歌が雁坂峠と比定されているわけではないようだ。
凡河内躬恒の歌がこの奥秩父山塊を詠ったものかどうかは不明であるが、ここから南に下った大菩薩嶺から続く南尾根には雁ケ腹摺山、牛奥雁ケ腹摺山、笹子雁ケ腹摺山といった名の山がある。奥秩父から南へと雁が山越えで飛んでいったルートを事実か否かは別にして、想像するのは楽しい。
因みに、雁坂峠の由来としては、秩父風土記に「日本武尊が草木篠ささを刈り分け通りたまえる刈り坂なり」と記されており、このことからカリサカと名付けられた、とか、この峠から罪人を駆逐したことより「駆り、カリ」と呼称されたことに由来する、といった説もあるようだ。

突出峠;13時12分(標高1,630m)
雁道場から突出峠まで、尾根筋を等高線にほぼ垂直に上ってゆく。地形図を見ると等高線の間隔も密接しており急登である。右手は開け、入川谷を隔てて十文字峠から白泰山を経て栃本に下った尾根筋が見えるのだが、息があがり、景色を楽しむ余裕がない。冬装備の46リットルのザックの重み、痛めた膝が少々キツく、思わず理由をつけて一人川又へと戻ろうと思ったほどである。気持は若いが、体がついていかないことを実感する。
1時間強の時間をかけ、標高を330mほどあげると突出(つんだし)峠の木標。 「川又 5.5㎞ 雁坂峠 雁坂小屋5.3km」とある。3時間強で半分ほど来たことになる。

突出とは言い得て妙である。峠部分の等高線の間隔が広く、突出したような尾根筋となっている。それはそれでいいのだが、ここを何故に「峠」と呼ぶのだろう。山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点、通常鞍部といったものが「峠」の定義ではあろうが、この峠はどれにも合わない。それともかつて、入川谷から滝川谷へとこの峠を越える道でもあったのだろうか。
突出峠から林業用モノレールが滝川谷へと下り出合いの丘(国道140号・豆焼橋近く)に続いている、といった記事があったので、今では廃道となった峠越えの道があったのかもしれない。
とは思いながらも、入川谷にも滝川谷にもそれらしき集落があるわけでもなく、誰が必要とした峠道かよくわからない。森林作業の便宜でそれほど遠い昔ではない頃に名付けられたのだろうか。峠命名の時期を知りたいと結構思う。

樺小屋・避難小屋;14時8分(標高1,784m)
突出峠で10分程度休憩し出発。道脇に案内があり、泥で汚れてちょっと読みにくいのだが、「このコースはその昔甲州武州を結ぶ唯一の街道で国越えの人や荷物の往来が盛んだったと言い伝えられています。交通機関の発達と共に現在は山を愛するハイカーのコースと変わってしまいました。
雁坂峠に上るには突出峠まで登るのが苦しいコースで。これからはゆるやかなコースになり峠まで達します」とある。地図を見ると、道は尾根筋を垂直に上るものの、等高線の間隔も割と広く、ちょっと安心。
が、突出峠までで結構体力を消耗しており、思ったほど楽ではない。結局標高を150mほど上げた避難小屋まで50分近くかかってしまった。樺避難小屋はしっかりした小屋。思わず、ここに泊まってもよかった、などとの軽口も出るほどであった。
森林植生
避難小屋の側に森林植生の案内があり、「かつて、この付近一帯はダルマ坂や地蔵岩付近にみられるようなコメツガ、シラベなどからなる鬱蒼とした亜高山針葉樹林に覆われていましたが、1959年(昭和34年9月)の伊勢湾台風によって未曽有の森林被害が発生し、景観は一変してしまいました。
現在この付近に数多く見られるダケカンバの優占する林分は風害直後に芽生えた稚樹から再生した林分です。ダケカンバ優占林の下層にはコメツガやシラベの若木が生育していますが、これらの多くも風害後に芽生えたもので、上層のダケカンバとほぼ同じ樹齢です。
コメツガに比べてダケカンバの成長速度が早いためにこのような群落状態示していますが、元のコメツガ林に近い状態に回復するには数百年かかります 環境庁・埼玉県」とあった。

いつだったか、ブナの原生林で知られる世界遺産の白神山地に行った時、二日目になって、「ところでブナ、ってどれだ?」といった程度の木々に対する知識しかない身には、イラスト付きの説明でも、どれがどれだかよくわからない。

だるま坂;15時5分(標高1.964m)
避難小屋近くにある「川又 5.6km 雁坂峠 4.5km」の木標を見遣り、比較的間隔の広い等高線をほぼ垂直に上り、標高を100mほど上げ、標高1,900m辺りになると間隔の狭い等高線を斜めに上ることになる。
少々きつい坂の途中に「だるま坂」の案内が木に架かっている。「だるま坂 ご苦労さまです。雁坂峠への道もこのだるま坂が最後登り坂です。この先300m右側に地蔵岩展望台入口を過ぎると小さな登降をくりかえす巻き道となります。 景色が開け、前方黒岩尾根の肩に雁坂小屋が見えてきます。ご安全に 1991」とあり、その下に、「と書いてからはや⒛数年。巻き道の樹林が伸びて、落葉の時期でないとなかなか雁坂小屋も見えにくくなってきました」と記されていた。

地蔵岩展望台;15時19分(標高2,000m)
だるま坂から2,018mピークを巻き15分ほどで地蔵岩展望台入口の尾根道に。案内には「地蔵岩展望台 うっそうとしたトウヒ、コメツガの原生林、巨木の中を歩く突出コースの中で、明るく周囲の山々を見渡せる所。雁坂嶺、東・西破風山、甲武信ヶ岳、三宝山と山々が続き壮観な眺めです。ここから5分もあれば岩の上に行けます。小屋へはここからは巻き道になります。 小屋へ2.5km 晴れていたら絶対おすすめです」とあるのだが、折あしく小雨とガスで展望は望めないと地蔵岩はパスする。

昇竜の滝;16時21分(標高1,979m)
地蔵岩からはおおよそ等高線2,000mに沿って尾根を巻いて進む。時に鎖場もあるが危険な箇所はない。地蔵岩辺りで降っていた雨も知らず止み、ガスも切れてくる。切れたガスの中に見えるのは滝川の谷を隔てた黒岩尾根だろうか。 それにしてもスピードが上がらない。結構痛めた膝にきている。
地蔵岩からおおよそ1.5キロ、滝川の上流、豆焼(まめやき)沢が大菩薩嶺に切り込む箇所に雄大な滝がある。何段にも分かれた瀑布が雁坂嶺から落ちてくる。
切り込まれ狭まった沢を越える。その先に案内があり、「昇竜の滝 雁坂嶺に源を発する豆焼沢。上部に見えるタンクから雁坂小屋まで10mの高低差を利用し、およそ距離1㎞をパイプで引いております。途中、パイプやバルブがありますが、命の水です。開けたりしないようお願いします。小屋まではあと少しです。がんばれ。960m 2013.10」とあった。
豆焼沢
昇竜の滝から下る豆焼沢は突山尾根と黒岩尾根に挟まれた谷筋を落ち、黒岩尾根が谷に落ちた先で、黒岩尾根と和名倉山(地図には白石山とある)から雁峠、雁坂峠へと続く尾根に囲まれた谷筋を下って来た滝川に合わさり、滝川として北に下る。
原全教の『奥秩父』には豆焼沢の紀行記“豆燒澤”に、「西の方には樹葉の間から豆燒澤の深い喰ひ込みが窺はれる。急に下ると、豆燒の溪水が最後の飛躍をなし、本流に這入らうとする優れた溪觀を垣間見る事が出來た。そこから一息に下つて流へ出た。
暫く快晴が續いたので、餘程減水したであらうとの豫想も外れて、四年前の秋來た時や、去年も梅雨期に通つたときと別段の相違も見られなかった。對岸へは巨岩から巨岩へ、三本ばかり丸太を括り合はした堅固な橋が架つて居る。あたりは澤沿ひに多少の磧もあり、流も平であるが、濶葉樹は豊富に之を覆ひ、上流は直ぐ折れ曲つて、全流の嶮惡も想像し得ない」とある。
深い谷が想像できる。なんちゃって沢上りを楽しむわが身には荷が重そうな沢のようだ。
豆焼沢の由来
その昔、ふたりの旅人がこの沢に迷い込み、拾った二粒の豆をひとりは無意味と食べず、もうひとりは焼いて食べた。で、食べたほうが生き延びた、とか。
滝川水系と沢
この滝川水系は大血川、中津川、大洞川、入川の谷と共に奥秩父北部に源を発する荒川の水源のひとつである。本流は入川とされ、原生の美は入川に譲るようであるが、和名倉山から雁峠・雁坂峠、そして突出尾根に囲まれた広大な流域に発する水量は他を凌駕する、と。
滝川水系には美しい渓谷をなす豆焼沢、滝川の上流部の曲沢、金山沢、槇の沢、八百谷、雁峠に詰めるブドウ沢、水晶山へと詰める水晶谷、古礼沢などと面白そうな沢が並ぶ。
少々手強そうだが、険しいゴルジュや広がる大釜、そして原生の趣が色濃く残る苔むした渓相など、奥多摩の沢とは違った沢景のようだ。秩父の沢にも入ってみたい。少々怖そうだが。。。

雁坂小屋;17時10分(標高1,950m)
ガスが切れ、黒岩尾根の先まで延々と続く秩父の山塊を見遣りながら雁坂嶺を巻く水平道を雁坂小屋へと急ぐ。気ははやれど体がついていかない。日も暮れてきた。昇竜の滝から雁坂小屋に通る導水パイプを目印に1キロ弱を40分以上かけて雁坂小屋に到着。小屋に到着したときは既に日が落ちていた。

小屋には10名ほどの先客がいた。小屋近くでテント泊をする方も薪ストーブの火で暖をとっていた。昇竜の滝から引かれた水を薪ストーブで沸かしてくれていたので、持参したバーナーを使うこともなく、携帯食で夕食をつくることができた。
小屋番の方の話では今年で小屋番を止める、とか。常連さんが引き留めていたので、さてどうなるのだろう。
午後8時には消灯。十文字峠の小屋での凍える寒さはもう勘弁と、冬用の寝袋を用意していたので、朝までぐっすり眠ることができた。