金曜日, 2月 11, 2011

田無散歩そのⅡ;田無から東久留米の清流を辿る

先回の散歩で、田無から落合川の湧水点のある南沢に辿る予定が、田無の時空にフックがかかり、田無をあちこち彷徨い、あまつさえ保谷へと足を運ぶこととなった。結局その日は南沢までたどり着けず後日へと持ち越し。今回はあまり寄り道をすることなく、田無から南沢道を落合川の湧水地、東久留米の南沢へと向かおうと思う。



本日のルート:西武新宿線柳沢駅>富士街道>新青梅街道>北原交差点>所沢街道>六角地蔵尊>南沢道>五小東>笠松坂>竹林公園入口>落合川>南沢氷川神社>南沢湧水地>落合川>竹林公園>都道15号小金井街道>米津寺>落合川上流端>都道15号小金井街道>坂の地蔵さま

西武新宿線柳沢駅
田無からスタート、とは言うものの、下りた駅は西武柳沢駅。「やぎさわ」と読む。住所は西東京市保谷町とある。田無市と合併し西東京市となる前の保谷市である。先回の散歩で柳沢駅前の商店街を少し彷徨ったのだが、駅前を通る富士街道の雰囲気を、もう少々味わいたいと思い、田無駅のひとつ手前のこの駅で思わず下り立った。田無からの予定が最初から変更。正確には、保谷からのスタートとなった。
駅を下り、北口商店街にでる。昔ながらの商店街、といった雰囲気。その商店街中を通るささやかな道筋が富士街道である。商店街を彷徨い、少し東へ進み西武柳沢駅東交差点に。角に小さな祠があり、庚申塔と廻國塔が祀られている。廻國塔とは、「法華経六十六部を六十六の霊場に祀るべく諸国を廻る巡礼者を供養して建てられることが多い、とか。ともに18世紀初頭の造立、と言う。
富士街道は、江戸の頃、大いに流行った伊勢原の大山詣への参詣道筋のうち、練馬から大山に向かう道筋である。もとは「ふじ大山道」と呼ばれていたものが、明治になって富士街道と呼ばれるようになった。道筋は川越街道・練馬北町陸橋(練馬区北町1丁目)より都道311号(環八)を下り、練馬春日町で環八を離れ、都道411号を谷原に進む。谷原のあたりから南西に真っ直ぐにこの地に下っている。この地から先、多摩川を渡るまではあれこれ説があり、道筋は確定していないようだ。一説には、柳沢商店街を出たところにある、六角地蔵石幢手前を南に下る深大寺道がそれ、とも伝わる。また、田無宿の西端、田無用水が青梅街道を渡る橋場から田無用水の水路に沿って南西に下る尾根筋、別名立川道がそれ、との説もある。ともあれ、多摩川を渡ると稲城の長沼、町田の図師などをへて大山に向かう。

新青梅街道
柳沢宿を離れ田無宿方面へと向かう。天保5年(1834)に書かれた『御嶽菅笠』には柳沢宿にあった幾つかの旅籠が描かれている。もっとも、「宿」といっても、単に石灰の継ぎ立て(伝馬宿)であり、本陣があるわけでもなく、柳沢宿と田無宿も、所詮、俗称であることに変わりは、ない。先回訪れた六角地蔵石幢前をかすめ、成り行きで道を北にとり、新青梅街道に出る。 保谷新道交差点で都道233号・東大泉田無線と交差。交差点を少し西に進んだ辺りが昔の田無市と保谷市の境。市境は西武池袋線・ひばりが丘から一直線に南に下り、五日市街道の武蔵野大学あたりまで続く。大雑把に言って、北部の大泉に近いあたりが下保谷、先日歩いた保谷の四軒寺のあたりが上保谷、そして武蔵野大学あたりに南が下保谷新田と呼ばれていたようだ。下保谷が日蓮宗の壇信徒が多く、上保谷は真言・曹洞宗、と言う。そういえば、下保谷のお隣である大泉のあたりも、番神さま信仰といった日蓮宗がほとんどであった。
保谷は16世紀の頃は、保屋と呼ばれていた。また江戸の頃は穂屋とも穂谷とも呼ばれていた。それが保谷となったのは江戸・元禄の頃(17世紀の後半)。幕府に提出する書類に誤って「保谷」と書き、それ以降、保谷が定着した。地名の由来は、穂の実る小さな谷とも、保谷氏が中心となって開発した村、との説もあるが、定説は、ない。

北原交差点
新青梅街道を西に進む。道脇の遍立院は越前一乗谷・朝倉義景の末子ゆかりの寺、と。江戸桜田門外に創建したが、谷中、浅草を経てこの地に移る。先に進み北原交差点に。青梅街道、新青梅街道、所沢街道などが交差する。古地図を見るに、北原交差点を中心に青梅街道から時計廻りに、富士街道、オナリ街道、府中道、立川道、芋久保道、粂川道、所沢道(秩父道)などが通る。往古より交通の要衝であったのだろう。
北原交差点で右に折れ、所沢街道に。所沢街道(所沢道)は江戸道とも呼ばれる。所沢側からの呼び名ではあろう。所沢からはじまり、清瀬・田無を抜けて小金井へと進む道筋、と言う。また、所沢街道は所沢道・秩父道とも呼ばれる。この北原交差点あたりで青梅街道を離れ、所沢をへて秩父へと向かう道故のことであろう。
通常所沢道と言えば、中野の鍋屋横町で青梅街道と分かれ、旧早稲田通りを進み保谷、清瀬から所沢に続く道を言う。道筋を追うと、中野五叉路から中野駅の西を抜け、環七・大和陸橋に。環七を越えると早稲田通りを進み、阿佐ヶ谷の北、本天沼二丁目交差点で旧早稲田通りに分かれ、下井草駅の西を抜け新青梅街道、千川通りを越え環八に。その先も、旧早稲田通りをひたすら進み、石神井公園の北を進み富士街道にあたり、保谷駅、清瀬駅へと上り小金井街道に。後は小金井街道に沿って所沢に、といったもの。このコースを見るに、田無で青梅街道と分かれる所沢道にかぶるところは何も、ない。思うに、所沢に向かう道は、どれも、所沢道と呼ばれていた、ということだろう。

南沢道
都道4号・所沢街道を北西に進む。しばらく進むと、先回訪れた六角地蔵尊交差点。交差点脇に六角地蔵尊。正式には石幢(せきどう)六角地蔵尊と呼ばれ、江戸の頃、安永八年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立された。道が六又に分かれるこの場所に、仏教の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)救済の地蔵尊を建て、併せて六つの道筋(南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道)の道標とした、とのことである。現在は五叉路でもあり、南沢道、所沢道、江戸道(小金井への道筋?)はなんとなくわかるけれども、保谷道、小川道はいまひとつはっきりしない。それはともあれ、所沢街道を離れ、一筋東の道に入る。この道を進めば南沢に向かう。ために、南沢道、であろうと、思い込む。 緑町二丁目交差点脇には庚申塚が佇む。ひばりが丘団地西交差点を過ぎると、右手にひばりが丘団地。ひばりが丘団地は昭和34年(1959年)、現在の西東京市、東久留米市にまたがる、元の中島飛行機の工場跡に造成された。当時としては、日本住宅公団最大の団地。マンモス団地のはしりとなった。年月を経て老朽化した団地は、現在宇「ひばりが丘パークヒルズ」として立て替えが進んでいる、とある。

笠松坂
先に進み、五小東交差点を越えると道の左右が開けてくる。左手には緑地の緑も見えてくる。ほどなく笠松坂交差点に。このあたりから道は川筋に向かって下ってゆく。昔は大きな松の木があったようだ。
坂を下ったあたりにささやかな水路。立野川の上流部。いつだったか立野川を源頭部から落合川との合流点まで辿ったことがある。源頭部は向山緑地公園の崖面下にあった。崖下のほとんど道なき道を進み、極々僅か水が湧き出る場所を確認。立野川は住宅街を崖線に沿って下り、自由学園の内をとおり、西武池袋線を越え、新落合橋のあたりで落合川に合流する。
立野川を越えて坂を少し上る途中に竹林公園入口交差点。公園は少々東に進んだところにあるので、後で辿ることにして坂を上り、そして下って落合川の川筋に。

南沢氷川神社
落合川にかかる毘沙門橋手前を左に折れ、南沢水辺公園に。先回落合川を辿ったときは工事中であった。自然の河畔林を残す公園をなりゆきで進み南沢氷川神社に。「南沢緑地保全地域」に鎮座し、境内の東西を落合川と湧水からの沢頭流に囲まれた高台にある。近くから土器なども出土するということだから、古くから人が住みついていた場所で、あろう。
創建の頃は不明。湧水の守護神として祀られたのがはじまりであり、それが集落の発展につれ、社となった、とも伝わる。承応3年(1654)に再建の棟札が残る。棟札には関宿藩主・久世大和守、旗本・神谷与七郎、地頭・峰屋半之丞の名が残る。老中職を16年務めた久世大和守広之は東久留米の前沢で生まれた、と伝わる。家康の家臣であった広之の父は家康の勘気を被り、前沢の地に蟄居させられた、とか。神谷与七郎は南沢を知行地としていた。峰屋半之丞は地頭としてこの地で勢をもっていたのだろう。かくの如き有力者のバックアップもあり、社が再建されたのだろう。


南沢
ところで、この南沢の地、湧水豊かな沢の南の地、といったところだろうが、この地は太田道灌の四代目の子孫、太田康資(やすすけ)の知行地と伝わる。永禄二年(1599年)、小田原北条家の『永禄年間小田原衆所領役帳』に「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」とある。これには道灌と南沢の関係がバックグランドにある、と言われる。
東久留米の大門に名刹・浄牧院がある。この寺はこのあたり一帯に威を唱えた大石氏の開基と伝わる。元は関東管領上杉方として武蔵守護代もつとめた大石氏であるが、長尾景春の乱に際し景春に与し関東管領上杉に反旗を翻す。ために、上杉方の道灌と対峙。結局戦に敗れ和議を結ぶ。結果、このあたりの大石氏の領地が道灌の所領となる。
文明18年(1486年)、道灌が主家上杉氏の謀略により誅殺される。道灌の孫である太田資高は上杉氏と対峙する小田原北条と結び、高縄の原の合戦(東京都高輪)で上杉氏を破り、道灌の居城であった江戸城を回復。太田康資は資高の子として北条に仕える。道灌の田無、南沢はこういった経緯を経て康資の領地となったのだろう。ちなみに、小田原衆所領役帳に記された三年後、北条への反乱を企てた康資は、事が露見し岩槻城主太田三楽斎を頼り落ち延びた。




南沢緑地保全地域
神社鳥居の先に沢筋。これが南沢緑地保全地域からの湧水・沢頭流。崖線方向と南沢浄水場あたりからの二流がある。極めて美しい。水量も多く、いかにも美しい水。崖線方向に少し進んだ緑地の中に「東京名湧水」の案内。緑地の中に道があり湧水点まで続いている。ごく僅かな湧水が見られた。
神社鳥居の前に戻り、谷頭流のもうひとつ、南沢浄水場方面からの湧水を辿る。水量はいかにも豊富。水は南沢浄水場の中から勢いよく流れ出る。柵があり中に入ることはできなかったが、南沢浄水場あたりで湧き出る(地下300mの水源からポンプで汲み上げている、とか。)水は1日1万トン、と案内に書いてあった。いかにも湧水の里、といった場所である。
浄水場手前の沢頭部分にも湧水点がある。雑木林の崖下から湧き出る水は、いかにも、いい。いつまでも眺めていたい景観である。崖線を上ったり下ったり、しばしの湧水の趣を満喫し、南沢浄水場を俯瞰すべく、大廻りで浄水場の周囲を一周し、南沢の湧水地を離れる。

多聞寺
毘沙門橋まで戻り、落合川を渡り川向こうの多聞寺に向かう。先回の落合川散歩で一度訪れてはいるのだが、記憶も少々薄れてきたので再訪する。再訪の理由は「多聞」故。散歩の折々に多聞院とか多聞寺に出合うことがあるのだが、なんとなくいい感じのお寺様が多かった、といった記憶がある。墨田の多門寺(墨田区5丁目)、別名狸寺もいい雰囲気のお寺さまであった。そういえば、所沢の多聞院も狸に由来の話が伝わる。多聞とたぬき、ってなんらかの因果関係でもあるのだろう、か。
多門寺は南沢の中心にある古刹。真言宗智山派・石神井三宝寺の末。13世紀の初頭には天満宮が建てられ梅本坊と名付けられ、14世紀の中頃には薬師堂に毘沙門天を安置し多聞寺と名付けられた、と。毘沙門天は多聞天とも呼ばれるわけで、落合川にかかる橋が毘沙門橋であった所以も、納得。江戸時代につくられた重厚な四脚門・総欅の切妻造りの山門が美しい。




竹林公園
多門寺を離れ、竹林公園に向かう。先回の散歩で竹林公園内の湧水点が見つけられなかった、ため。落合川に沿って下る。水草の茂る川面は如何にも美しい。ところで、何ゆえ、この落合川あたりに湧水が多いのか、ということであるが、このあたりは古多摩川のつくった扇状地の真上にあり、しかも標高が50m。武蔵野台地の湧水点はほぼ標高50m地点でもある。地下水を貯める砂礫層(武蔵野砂礫層)の上端が落合川に沿うようにあり、かつまた、黒目川とか落合川の南に分布する粘土層が落合川流域には、ない。つまりは、地表から浸透した地下水は粘土層を避け、落合川流域の砂礫層に十分に溜まり、その水が湧き出ている、ということだ。そのためか、湧水は湧水点ばかりではなく、川床からも湧き出ている、と。その比率は半々、とのことである。 
老松橋で右折れ、緩やかな坂を上り竹林公園に向かう。竹林公園は武蔵野に古くから生えていた竹林を保存するため、1974年に開設された。敷地内には、約2000本もの孟宗竹が生い茂る。竹林の中の遊歩道を辿って低地部へ下りると水路が見え、その先を辿ると湧水池。水鳥が遊ぶ。流れる水は落合川に注ぐ。

米津寺
次の目的地は落合川の源頭部。川筋に沿って進み小金井街道を越えたあたりに源頭部がある。途中どこか寄り道すべきところは、と地図を見る。落合川と小金井街道との交差部を北に進んだところ前沢宿交差点あたりに米津寺がある。先回の落合川散歩の折り、時間切れで辿れなかったお寺さま。前沢宿、といった宿場をイメージするような地名にも惹かれ、源頭部の前に寄り道を。 川筋を上り、途中旧水路を辿りながら小金井街道に進み、右に折れ前沢宿交差点に。「宿(しゅく)」の由来ははっきりしないが、今は無きお寺様の門前町の名残、とも。また、現在の小金井街道は、江戸の頃の「大山道」とも呼ばれ、この前沢宿が起点であった、という。その故の「宿」でもあったのだろう、か。前沢の由来もはっきりしない。落合川の源頭部、沢頭部に面した地形故とか、この地を開いた前沢某に由来するとか、あれこれ。
前沢宿交差点を右に折れ米津寺に。「べいしん」寺と読む。臨済宗・京都妙心寺派の末。檀家のない大名寺、米津家の菩提寺として知られる。前沢の地は米津(よねきつ)氏の知行地。代々徳川家に仕えた三河武士である米津氏は、御書院番の頭、火の番頭、大阪城番などをつとめ、一万五千石の大名となる。元は東久留米・大門町にある浄牧院が米津家の菩提寺であった、とのことだが、下馬せず浄牧院境内に乗り入れ、それを咎めた住職に立腹し、さればとて、菩提寺を新たに建立した、とかしない、とか。境内には米津家代々が眠る、のみ。明治22年の火災で山門を残し総て焼失。その山門は現在武蔵国分寺に移されている。

落合川源頭部
寺を離れて落合川源頭部に向かう。前沢交差点に戻り、小金井街道を下り落合川に。川筋に沿って先に進むと水路は次第に細くなり、茅なのか葦なのか、背の高い水草の手前の人工の池で水路は一応途切れる。池を眺めていると地元の方が声を掛けてくれ、昔は、このあたりに柳が茂り、そこから水が湧き出ていた、と。茅なのか葦、その先はどうなっているのか、先に進む。落合川の左手を迂回し、芦原の先に細々とした水路が見える。





先に進み、誠に、誠に細くなった水路を辿ると落合川上流端とあった。その先は水もない溝があり、ほどなくその溝も消え失せる。美しい湧水の上流端は民家に囲まれた溝で終わっていた。

坂の地蔵様
上流端を離れ、家路へとバス停を探して小金井街道を下る。落合川を離れてほどなく、小金井街道から分かれる細路脇にお地蔵さまの祠。「坂の地蔵様」と呼ばれ、明和5年、というから、西暦1768年の建立。このお地蔵様は追分の道標も兼ねており、「右大山道 左江戸道」とある。

右の大山道とは現在の小金井街道。上でメモしたように江戸の頃は前沢宿を起点に府中、そして大山へと続いた。左の江戸道は、細路を辿ると現在の所沢街道と平行して走り、六角地蔵尊で所沢街道と合流していた。六角地蔵尊にあった江戸道(江戸側からみれば所沢街道)の道筋がこんなところで繋がった。なんとなく、嬉しい。心も軽く、一路家路へと、バスに乗る。

田無散歩そのⅠ;青梅街道筋から田無発祥の地・谷戸へと歩く

昨年の秋だったろうか、石神井川を源頭部である小金井公園から王子へと辿ったことがある。その途中、向台の台地に沿って田無駅の南を西に進んだ。その時は石神井川の生活排水が気になっていたのだが、昨年はそれほどでもなかった。しかしながら、川筋の道は相変わらず行き止まりの道が多く、迷い道くねくね、といった状況はそれほど変わってはいなかった。田無の中心は川筋を台地へと上った青梅街道筋にある。江戸の頃は宿場として栄えたとも聞く。どのような街並みであろうか、とは思えども、石神井川下りの先を急ぐあまり、石神井川の谷筋を東へ向かった。
そのうちに、田無へと想いながらも、今ひとつ田無散歩へのフックがかからず数ヶ月たったとある週末、田無に出かけることにした。きっかけは、東久留米の落合川の湧水をもう一度見たくなって、というか、先回落合川を辿ったとき撮った写真がほぼ、ピンぼけであったので、写真を取り直しに行こう、と思った、から。落合川へのアプローチは何処から、と地図を見る。田無から北西に進めば落合川の湧水点、南沢にあたる。何となく田無散歩へのフックがかかった。ということで、田無へと向かう。
当初の予定では、青梅街道筋の田無宿跡の雰囲気でも感じ、とっとと南沢へ、などと想っていたのだが、結局は、田無をあちこち彷徨うことになり、また成り行きで保谷まで辿ることになった。南沢には当日たどり着けなかったけれど、行き当たりばったりの散歩は、なかなな、いい。


本日のルート:西武新宿線田無駅>青梅街道・富士街道交差>六角地蔵尊>青梅街道>田無神社>総持寺>観音寺>やすらぎのこみち>青梅街道・橋場交差点>田無一号水源>新青梅街道>府中道>都道4号線>六角地蔵尊>東大大学院付属演習林>南沢道>緑街2丁目交差点>西東京いこいの森交差点>都道112号・谷戸1丁目交差点>尉殿(じょうどの)神社>東禅寺>如意輪寺>宝晃院>宝樹寺>都道233号保谷小前交差点

西武新宿線・田無駅
駅の北に下り、田無の見どころなどないものかと、駅前の地図をチェック。駅を少し東にいったところに田無神社がある。その先、西武柳沢駅近くに六角地蔵尊が見える。六角地蔵尊という言葉に惹かれ、まずはお地蔵様の元に進む。

富士街道
線路に沿って成り行きで東に進み、青梅街道にあたる。少し南に下ると、西武新宿線の手前で東から青梅街道に合流する道がある。追分に弘法大師供養塔が佇む。嘉永七年(1854)の銘があり、側面が道標になっている。「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と書かれて、と。
追分を左に曲がると富士街道。江戸の頃、大いに流行った伊勢原の大山詣への参詣道筋のうち、練馬から大山に向かう道筋である。もとは「ふじ大山道」と呼ばれていたものが、明治になって富士街道と呼ばれるようになった。道筋は川越街道・練馬北町陸橋(練馬区北町1丁目)より都道311号(環八)を下り、練馬春日町で環八を離れ、都道411号を谷原に進む。谷原のあたりから南西に真っ直ぐに田無に下っている。田無から先、多摩川を渡るまではあれこれ説があり、道筋は確定していないようだ。多摩川を渡ると稲城の長沼、町田の図師などをへて大山に向かった、と。

六角地蔵石幢
富士街道を東に進み、西武柳沢駅前商店街手前に六角地蔵石幢。ほぼ正六角の石柱で、各面の上部に地蔵菩薩立像が彫られている。富士街道と深大寺道が交差するところに佇む、との説明。お地蔵様の東側に西武線を渡る小径があるが、これが深大寺道だろう、か。
深大寺道とは、関東管領上杉氏が整備した軍道、と言う。本拠地の川越城と、小田原北条勢への備えに築いた深大寺城と結んでいる。先日清瀬を歩いた時に出合った「滝の城」は、その中継の出城、とも。深大寺道は滝の城からほぼ南に下り、この六角地蔵石幢脇を抜けて大師通り、武蔵境通り、三鷹通りをへて深大寺に至る。また、この道は「ふじ大山道」との説もあるようだ。

田無神社
六角地蔵石幢から、西武柳沢商店街を抜ける富士街道を少し進み、商家一体となった「街道」の雰囲気を味わい、適当なところで折り返す。次の目的地は田無神社。富士街道を西に戻り、青梅街道に合わさるところを右に折れる。先に進むとほどなく田無神社。結構大きい構えである。もとは尉殿大権現と呼ばれていたが、明治になって近隣の熊野や八幡の社を合祀し田無神社と改めた。
先日立川を歩いたとき、阿豆佐味神社といった、あまり耳なれない名前の神社があったが、この尉殿大権現も初めて出合った名前。創立時期は不詳であるが、鎌倉期には鎌倉街道の枝道(横山道・府中道)に沿った谷戸の宮山(現在の田無二中のあたり)に、既に鎮座していたようである。その後、1622年、上保谷(現在の尉殿神社があるところ)へ分祠、1642年には本宮も現在の地に移った。
尉殿大権現を現在の地に移したのは、青梅街道を開いたことによる。江戸城の城壁等を固める漆喰をつくるため大量の石灰を必要とした幕府は、八王子の代官・大久保長安に命じ、石灰を産地である青梅(成木村)から江戸に早急に運ぶよう命じた。長安は往来の混み合う甲州街道を避け、田無を起点に一直線に内藤新宿を結んだ。これが青梅街道である。内藤新宿から所沢に通じる所沢街道をベースにした、と言う。
街道はできた。が、荷の運搬に必要な人力(助馬・伝馬)が、足りない。当時、柳沢宿に五、六軒の農家があっただけ、と言う。ということで、人手を増やすべく、青梅街道の北、古くから集落が開けた谷戸地区から馬持百姓を街道筋に移すことになる。田無は幕府の直轄地であるわけで、村人は幕府の命に従うしか、術は、ない。かくして村人の心の拠り所でもある尉殿大権現は街道筋に移される。村人が街道筋に移はじめて40年後の事である。
ところで、尉殿大権現とは男神の級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命 (しなとべのみこと) よりなる夫婦の神々。水と風を治める、と言う。水の乏しい武蔵野台地、また風の強いこの地故の、神々だろう、か。また、神仏習合の影響もあり、尉殿大権現とは倶利伽羅不動明王と同一視され、明治の神仏分離まで信仰された。ちなみに、「尉」ってどういったものか今ひとつはっきりしない。神楽の黒面とも、能の黒色尉面とも言われる。能の尉面はただの面ではなく、一緒の神と見なされた、と。尉殿大権現の神名は能の尉と関係がるとの説がある(『多摩の歴史1;武蔵野郷土史刊行会(有峰書店)』)。また、関東にある「尉」がつく神社は水にまつわるものが、多いとのことである。

境内を歩いていると、作家の五木寛之が田無神社に住んでいた、といった案内を見つけた。早稲田大学学生の頃、大学の近くの穴八幡の床下を塒(ねぐら)としていた、のは知られるが、さて、田無神社は、社務所にでも居候していたのであろうか、とチェックする。作家のエッセーに「僕は敗戦後、朝鮮から引き揚げてきた。出身校は福岡県の福島高校。諸君は自宅なり、縁者なり、下宿なりから通学しているだろうが、僕は前には穴八幡、そして今は田無神社の床下を寝ぐらとして通学している。金がないからしかたなくそうしているのだ。しかし、なんとかしてロシア文学をやりたいと思っている」、と。ここでも床下生活であった。
本殿にお参りし南側の出口へと向かう。途中に賀陽(かや)玄節の案内。江戸末期の備前岡山藩の藩医。諸国を修行の途中で、田無宿の名主下田半兵衛富永と会う。半兵衛の依頼を受け入れ当時無医村の田無村に居を構え、医を施す。賀陽玄節の子で医師の濟(わたる)は、田無で塾を開いて子弟の教育にあたった。ちなみに、神仏分離令により、総持寺から独立して田無神社ができたとき、濟は田無神社の初代宮司となった。その後、田無神社の宮司は代々賀陽氏が継いでいる、と言う。

総持寺
田無神社を出て、お隣にある総持寺へ。総持寺と言えば鶴見にある曹洞宗の大寺の印象が強く、その流れかとも思ったのだが、そうではないようで、近隣のお寺さまが総て、と言っても三寺ではあるが、集まって一寺となしたため、総持寺と称した。宗派も真言宗である。
総持寺の前身は田無発祥の地・谷戸地区にあった西光寺。青梅街道脇に移住させられた住民がこの地に移し、尉殿大権現の別当も兼ねる。明治に入り神仏分離令により寺社が分けられるとき、尉殿大権現の倶利伽羅不動尊をこの寺に移す。無住となった観音院、光蔵院を会わせ総持寺となったのは明治8年(1875)のことである。
総持寺といえば、幕末の争乱時、幕臣振武軍が駐屯したところである。上野での彰義隊との意見の相違から、同志90余名とともに渋沢成一郎は田無に移動。西光寺に本拠を置き、軍資金を集めるなど少々不可解な行動を取る。10日余、田無に滞在した後、振武軍は瑞穂の箱根ヶ崎に移る。隊員は300余名まで増えていた、と。その地で上野の合戦の報を受け、一躍進軍するも高円寺村で彰義隊壊滅の報を受け田無に転進。上保谷に陣を敷くも官軍の到来はなく、敗残兵を集め1500余名となった振武軍は飯能に移り、その地での飯能戦争の結果、部隊は壊滅した。

田無用水跡
総持寺を離れ、小径を西に向かう。武蔵境通りに出ると、その先に「やすらぎの小径」との案内。道路を越えて小径を進む。総持寺境外仏堂・観音寺の脇をかすめ西に向かう。この小径、如何にも水路跡といった雰囲気である。チェックするとここは田無用水の水路跡であった。
承応3年(1654)、玉川上水が開削されてまもなく、明暦3年(1657)に玉川用水から小川分水が引かれる。その小川分水から更に分水されたのが新堀用水。そして、元禄9年(1696)、玉川上水に沿って進んだ新堀用水から更に分水されたのが田無用水である。玉川上水の喜平橋のあたりから、北東に田無へと進んでいる。石神井川の谷筋に落ちないよう、尾根道を進む。
この田無用水ができるまでは、青梅街道沿いの集落に移った人々は水に苦労した、と。元の谷戸に湧き出る湧水を汲んでは運ぶ生活を続けざるを得なかったのだろう。心の拠り所となる尉殿大権現を移すのに移住後40年近くかかった、ということが、その苦労のほどを物語る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」) 橋場
用水路跡の小径を進むと赤い鳥居のお稲荷さま。小径は南へ下り青梅街道の橋場交差点に。橋場は田無用水が青梅街道を渡るところ。往古、ここには橋が架かっていたのだろう。三叉路になっており、西に進むのは青梅街道、北西に向かうのは成木往還(東京街道)、南西に下るのは立川道(鈴木街道)。この鈴木街道がほぼ田無用水の水路跡のようである。青梅街道と成木往還の分岐点にはささやかな祠があり、地蔵尊と庚申塔が並んで立っている。
田無宿はこの橋場が西端。田無村の伝馬分担は箱根ヶ崎までの20キロ。明暦2年(1656)、中間に小川村ができるまでは負担が大きかったようである。元禄13,14年の頃は石灰の運搬に、1年間に馬60頭が28回も田無宿を通った、と言う。

田無一号水源
次の目的地は東京大学付属農場(東大農園)。先日、白子川の水源となる井頭池を訪ねたとき、その水源に、更に上流から注ぐ新川に出合った。その新川の源頭部が東大原子核研究所跡(現在の西東京いこいの森公園)と東大農園あたりの二カ所にあった。地名も谷戸であり、如何にも湧水のイメージを感じる。もとより、現在谷戸の景観が残るとは思えないが、その昔の豊かな湧水地帯の名残でもないものかと、訪ねることにした。
橋場から成り行きで北に進む。新青梅街道の西東京消防署西原出張所に出る少し手前、民家の建ち並ぶ住宅街の直中に田無一号水源。地下水を組み上げて水源としているのだろう、か。水源施設が先にあり、民家が後からだろう、とは思うのだが。それにしてもちょっと意外な水源施設であった。

府中道
新青梅街道を越える。新青梅街道は青梅街道のバイパス、といったもの。西に立派な屋敷などを眺めながら成り行きで北に進む。都道4号・所沢街道に合流する手前に道標があり、「府中道」とある。地図をチェックすると、都道4号・所沢街道との出合いから、新青梅街道・西原町交差点を越え、向台町へと下る道筋がある。

その先は小金井公園で途切れているが、往古、この地より府中の大国魂神社や国分寺の武蔵国分寺へと通る道があったのだろう。この道が別名横山道とも呼ばれるのは、府中への途中、武蔵七党のひとつ・横山党の本拠地である八王子へ向かう道が分かれていた、ため。鎌倉街道上ッ道の枝道とも伝わる。

六角地蔵尊
合流点を北に進むと六角地蔵尊。正式には石幢(せきどう)六角地蔵尊と呼ばれ、江戸の頃、安永八年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立された。道が六又に分かれるこの場所に、仏教の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)救済の地蔵尊を建て、併せて六つの道筋(南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道)の道標とした、とのことである。現在は変形四差路、細いがそれらしき道を入れても五叉路でもあり、南沢道、所沢道、江戸道(小金井街道、か?)はなんとなくわかるけれども、保谷道、小川道はいまひとつはっきりしない。はっきりはしないが、保谷道は東大演習林の中にかき消えてしまった、との記述(『東京地名考;朝日新聞社会部(朝日文庫)』)もあるので、これって鎌倉街道上ッ道(横山道・府中道)のことか、とも。
さてと、ここから先のルートを想いやる。当初の予定では、ここから北西に、たぶん南沢道だろう、と思うのだけれど、その道筋を進み落合川の南沢湧水群へと進むつもりではあったのだが、田無をあれこれ彷徨っているうちに、田無発祥の地である谷戸地区に行ってみたくなった。またそこは先日、白子川源流点を辿ったとき、その源流点に、更に上流から注ぐ水路があり、その水路(新川)の源流部が谷戸地区でもあった。思わず知らずのことではあったが、谷戸地区にアテンションがかかった。場所は六角地蔵尊のほぼ東。間に東大の演習林や東大農場があるが、見学かたがた、通り抜けようと。

東大演習林田無試験地
六角地蔵尊を少し戻り、東大演習林に。鬱蒼とした林相の入口にある事務棟で記帳し、試験地へ進む。「アカマツやコナラ、クヌギを主体として、イヌシデ、エゴノキ、ケヤキ、ミズキなどが混在しながら点在」とあるが、ブナの原生林である白神山地を訪ねたとき、二日目になって、「ところで、ブナ、ってどれだ?」といった「体たらく(為体)」の我が身には、どれがどれやら、いまひとつピン、とこない。
それよりもこの試験地が「武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)上に位置し、海抜高約60m、地形は平坦です。地質は層厚6~8mの火山灰層(関東ローム層)の下に、砂礫層(武蔵野礫層)が続いています。土壌はローム層の上に火山灰層を母材とする黒色土が50~60cmの厚さで分布しています」といった記事にフックがかかる。武蔵野台地の湧水点って、標高50mのところが多い。この地の海抜約60mからローム層の8mほどを引くと、丁度標高50mあたり、となる。新川の水源、谷戸の谷頭から流れ出す湧水の源がこのあたりであったのだろう、と妄想しながら試験地を辿る。道なりに進み、先に農地やマンションなどが見えるのだが、如何せん塀に阻まれ通り抜けはできそうも、ない。ぐるっと一周し、入口戻る。

谷戸一丁目交差点
六角地蔵尊まで戻り、南沢道(と勝手に名付けた道筋)を先に進み、緑町一丁目交差点で右に折れ、東大演習林の北端をかすめ西に向かう。前方に大きな公園が現れる。西東京いこいの森公園と呼ばれるこの公園は東大原子核研究所の跡地に造られた、と。公園を横切り、ひばりが丘団地を見やりながら通りを東に進み、住友重工田無工場を過ごし谷戸一丁目交差点に。
ひばりが丘団地は昭和34年(1959年)、現在の西東京市、東久留米市にまたがる、元の中島飛行機の工場跡に造成された。当時としては、日本住宅公団最大の団地。マンモス団地のはしりとなった。年月を経て老朽化した団地は、現在宇「ひばりが丘パークヒルズ」として立て替えが進んでいる、とある。
中島飛行機工場跡地、と言えば、戦前には東久留米駅から中島飛行機工場へ貨物引き込み線があった、と何処かで聞いたことがある。Google Mapの航空地図でチェックすると、自由学園の西を、立野川を越え市立南中学校方向へと南西に一直線に下る道筋がはっきり見える。南中学校方向からは、更に西方向へシフトしひばりが丘団地へと向かっている。これが引き込み線の跡地であろう。団地建設時は資材運搬に使用されたようだが、現在はその大半が「たての緑道」として整備されている、と。自由学園の辺りを彷徨ったことはあるのだが、この引き込み線跡は見落とした。そのうち、再訪したいものである。

谷戸せせらぎ公園
谷戸一丁目交差点を少し北にすすんだところ、道路の東側に「谷戸せせらぎ公園」がある。新川の源頭部も、この交差点を少し下った谷戸小学校のあたり、と言うし、このせせらぎ公園にも、湧水の名残でもないものか、と訪ねることに。公園は整地された、ごくありふれた公園。池は人工的なもので、湧水の雰囲気は、ない。ただ、周囲の雰囲気は南側が少し小高くなっており、公園あたりの低地にその昔、湧水点があってもよさげな気もする、というか、そう思い込む。
カシミール3Dで地形図を作成してみると、標高60mから40mくらいの比高差をもつ、樹枝状の台地、そして谷筋が見て取れる。如何にも谷戸といった地形でもある。谷戸とは、「丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形であり、その谷頭は往々にして湧水点となっている」ということだから、湧水があっても不思議では、ない。現在は地下水の大量組み上げの影響で水位が低下し、湧水の名残はなにも、ない。
公園に案内板:田無発祥の地「谷戸」、とある。この地には稲荷社、白山社、弁天社、総持寺の元となった西光寺、そして田無神社の元である尉殿大権現が現在の田無第二中学のあたりにあった、と。小田原後北条家の文書『永禄年間小田原衆所領役帳』にも「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残り、室町の頃にはこのあたりは既に開けていた、ようだ。鎌倉街道上ッ道の枝道でもある横山道(府中道)に沿って集落が形成されていのだろう。道筋は谷戸地区から東大農園を貫き六地蔵尊をへて南に下る。田無発祥の地の人々が幕府の政策故に青梅街道筋に移されたのは、先にメモしたとおりである。
公園の案内に「田無」の地名の由来があった。ひとつには文字通り「田の無い」ところであった、との説。次には、湧水の流れが浅い階段状の「棚瀬」になっていたとの説。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、思わずその気になる説である。その他いくつかの説を紹介していたが、どれ樋って定説はないようである。

『永禄年間小田原衆所領役帳』に「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残る、とメモした。この地は太田道灌の四代目の子孫、太田康資(やすすけ)の知行地と伝わる。これには道灌とこの田無の関係が背景にあるようだ。
東久留米の大門に名刹・浄牧院がある。この寺はこのあたり一帯に威を唱えた大石氏の開基と伝わる。元は関東管領上杉方として武蔵守護代もつとめた大石氏であるが、長尾景春の乱に際し景春に与し関東管領上杉に反旗を翻し、上杉方家宰の道灌と対峙。結局戦に敗れ和議を結ぶ。結果、田無や東久留米の大石氏の領地の一部が道灌の所領となる。
文明18年(1486年)、道灌が主家上杉氏の謀略により誅殺される。道灌の孫である太田資高は上杉氏と敵対する小田原北条と結び、高縄の原の合戦(東京都高輪)で上杉氏を破り、道灌の居城であった江戸城を回復。太田康資は資高の子として北条に仕える。道灌の田無はこういった経緯を経て康資の領地となったのだろう。ちなみに、小田原衆所領役帳に記された三年後、北条への反乱を企てた康資は、事が露見し岩槻城主太田三楽斎を頼り落ち延びた、と。

尉殿神社
次の目的地は尉殿神社。北東に少し進んだところにある。そのあたりは、その昔上保谷字上宿と呼ばれ、保谷の四軒寺といった寺社もあり、村でも最も早く開けたところ。横山道(府中道)も、田無の谷戸の田無二中あたりから、この上宿を経て保谷高校、そして下保谷へと抜けている。昔は、池もあった、とか。古き谷戸の景観が残るとは思えないけれども、とりあえず歩を進める。谷戸せせらぎ公園の北端に沿って東に進む。宅地が密に立ち並び、おおよそ谷戸の雰囲気は何も、ない。谷戸町を離れ住吉町に入ると、そこは昔の保谷市である。道を成り行きですすみ尉殿神社に。
この尉殿神社は谷戸の宮山(現在の田無二中)にあった尉殿権現が、元和8年(1622年)に分祠されたもの。その後正保3年(1646年)、宮山の尉殿権現が青梅街道沿いの現在の田無神社の地に分祠されるとき、この地の尉殿神社より夫婦の神のうち、男神の級長津彦命を田無に遷座した。ちなみに寛文10年(1670)には宮山の本宮そのものを田無神社の地に遷座した。お参りを済ませ長い参道を南に下る。

保谷の四軒寺
神社を離れ、次は保谷の四軒寺と呼ばれたお寺さまを巡る。最初は東禅寺。尉殿神社のすぐ南にある。開基は一六世紀末。東久留米にある浄牧院の隠居寺として建てられた、とか。この地に共の者と土着した保谷出雲守入道直政の開基とも伝わるが、確たるエビデンスはないようだ。落ち着いたお寺さまであった。
次は如意輪寺。民家の間を成り行きで進む。古い間の名残か、道がわかりにくい。彷徨っているうちに境内南側の塀のあたりに接近。塀に沿って進むと、いかにも水路跡といった暗渠が塀に沿って進む。西東京いこいの森公園(元東大原子核研究所)、そしての新川の東大農場(北原二丁目交差点あたり)を源頭部とする新川はひとつに合わさり泉小学校あたりへと進んでいたようだ。ということは、この暗渠は新川の水路跡であろう。こんなところで新川の名残に出合うとは、思ってもいなかったので、少し嬉しい。
保谷・志木線の道路に出て如意輪寺に入る。赤い山門には仁王さま。境内には江戸の頃の路傍の石仏が佇む。旧上保谷村の富士街道脇などに立てられていたものをこの境内に集めた。石仏は18世紀のもの、と言う。
如意輪寺の西には宝晃院。江戸の頃は尉殿神社の別当寺であったお寺さま。その南の宝樹院。江戸の頃は、幕府の寺院本末制のもと、如意輪寺、宝晃院とともに新義真言宗本山三宝時の末寺であった、とか。
この四軒寺のあたりにはその昔、池があった、とか。それぞれの寺には観音堂、薬師堂の堂宇とともに弁天堂があった、と言う。弁天堂といえば、水の神様であろうから、池などがあっても不思議ではない。実際この一帯は、一度大雨が降ると、一面水たまりとなり難儀したとのことである。この上宿を通る横山道とクロスする小川、多分、新川ではあろうと思うが、その川には駒止橋とか縁切橋といった橋が架かっていたようであるが、その面影は、今は、ない。
田無から東久留米の南沢へと辿る予定が、田無そして保谷といった現在の西東京を辿る一日となった。田無の駅を下りたときは、何にもわからなかった田無、そして保谷の歴史の一端に触れることができた。次回は寄り道せずに田無から南沢へと心に想い、保谷・志木線を南に進み、都道233号との保谷交差点を左に折れ、保谷郵便局あたりからバスに乗り、一路家路へと。

比企丘陵散歩;高坂から比企丘陵を越え武蔵嵐山に

いつだったか、越生から毛呂山町へと歩いたことがある。大類の毛呂山町歴史民俗資料館あたりに鎌倉街道が走っており、北へと道筋を辿ると比企丘陵の笛吹峠を越えて畠山重忠の菅谷館があった武蔵嵐山へ続いていた。笛吹峠という、何となく惹かれる名前の峠を知ったのはそのときである。それから1年ほどたったある週末、そういえば、最近埼玉を歩いていないよな、であれば、気になっていた笛吹峠を歩いてみよう、と。
ルートは東武東上線・高坂からはじめ、比企の丘陵を越えて岩殿観音を訪ね、観音道を笛吹峠へと進む。峠からは丘陵を南北に貫く鎌倉街道の道筋を武蔵嵐山へと大雑把に決めた。比企丘陵ってどの程度の山容なのかよくわからない。ちゃんと調べればいいかとも思うのだが、いつもの通り、基本は成り行き。たまたま古本市で手に入れた『埼玉ふるさと散歩(比企丘陵編);梅沢太久夫(さきたま出版会)』をポケットに散歩にでかける。



本日のルート;東武東上線・高坂駅>九十九川>桜山窯跡群>県道212西本宿交差点>足利基氏館址>正法寺・岩殿観音>物見山>比企丘陵自然公園>地球観測センター>観音街道>県道41号線>笛吹通り>笛吹峠>将軍澤>大蔵館址>大蔵神社>向徳寺>都幾川>国道254号嵐山バイパス>東武東上線・武蔵嵐山駅

東武東上線・高坂駅
はるばる来たぜ、と小声で歌い東武東上線・高坂駅に。西口に下りると、西の比企丘陵に向かって真っ直ぐな道が通る。低地から丘陵地へなだらかな坂が続くのが高坂の由来、と言う。駅前や道脇に大東文化大学や東京電機大学と書いたスクールバスが目に付くが、Googleの航空写真を見ると、比企丘陵にはいくつかのゴルフコースのほか、これもいくつかの大学が点在している。結構開かれている丘陵地のようである。
いつだったか、金子丘陵を歩いた時、結構山が深く、また山中から突如現れたマシンガン武装の迷彩服の一団に大いに驚いたことがある。結局はサバイバルゲームを楽しんでいたようなのだが、少々肝を潰した。今回はそれほどの山道では無いだろう、と故無き安堵。



桜山窯跡群
最初の目的地は桜山窯跡群。この比企の地には古墳時代から帰化人が持ち込んだ窯業技術が発達し、幾多の窯跡がある。いつだったか東松山から吉見へと辿ったとき、大谷瓦窯跡など、どこかひとつくらい窯跡を、とは思いながら結局は時間切れ。桜山窯跡群は高坂駅から少し南西に下ったところにあり、ちょっと遠回りとなるが、いい機会でもあるので、今回散歩のスタート地点とする。

駅前の通りを西に進み、元宿あたりで左に折れる。道なりに進むと九十九川にあたる。九十九川は関越の西の丘陵(岩殿丘陵)よりはじめ、越辺川に合わさり、その流れは都幾川に注ぐ。川の向こうの高台に学校らしき建物。桜山窯跡群は桜山小学校の裏手にある。建物を目安に進みむと学校裏手に深い林がある。桜山窯跡群はその林の手前、「はにわの丘公園」と記された公園となっていた。

案内によれば、物見山丘陵の南斜面にある桜山窯跡群は須恵器を焼いた窯跡が2基、埴輪を焼いた窯が17基、それと竪穴住居3軒からなり、須恵器窯は関東最古(六世紀前半)。六世紀半ばから後半にかけてはじまった埴輪窯(円筒埴輪、人物、動物埴輪など)では、その一部が行田の埼玉(さきたま)古墳群でも使用された、とか。
それにしても比企の辺りって、古墳や窯跡が多い。古墳は八百とも。また窯跡は鳩山町を中心に、嵐山町、玉川町にかかる南比企窯跡群だけでも、その数、数百基と言われる。六世紀後半から七世紀にかけて比企や吉見の窯では埴輪や須恵器の生産がおこなわれ、八世紀になると鳩山町のある南比企丘陵で国分寺や古代寺院の瓦が生産された、と言う。このあたり一帯は、古墳時代から奈良・平安にかけて北武蔵の中心地であり、一大工業地帯であった、よう。事実、帰化人である男衾郡の太領壬生吉士福正が、835年(承和2年)に焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を願い出て、造営したという記録がある。それほどの財力をもつ支配者がこの地に登場していた、ということである。



県道212西本宿交差点
成り行きで関越自動車を西に抜け、白山台の地を北に向かう。岩殿のあたりで先ほど渡った九十九川を二度越える。どちらが本流で、どちらが支流であろう、か。なんとなく北側のものが本流のような気もする。
川を越えると西本宿交差点。駅前から西に進んだ道がここに続く。結構交通量が多い。西本宿って、なんとなく気になる地名。先ほども元宿といった地名もあった。江戸の頃、この高坂は江戸からこの地を経て上州に至る川越・児玉往還と、八王子から高坂・東松山をへて日光に至る日光脇往還(千人同心街道)が通り、宿場町として賑わった、と言う。その名残の地名だろう。



足利基氏館址
西本宿交差点を西に進む。ほどなく「足利基氏館址」への案内。県道212号から離れ、畑脇の小径を北西に進むと、民家脇に館址の道案内。畑の縁を林へと進むと館址の案内があった。林というか森の中に分け入り、なんらかの名残を探すが、先に進むとゴルフ場のフェンスで遮られる。案内によれば、土塁や堀跡、水堀が残る、というが、素人目には単なるブッシュではあった。南面は九十九川と谷筋の湿地により敵に備えた、と。なるほど林の中程に湿地が乗っていた。館は堀を含め東西180m、南北80mといった規模であった、とか。
この館址は長期在陣の館址ではなく、1363年に行われた芳賀高貞(宇都宮氏の一族で下野の豪族)との間で行われた岩殿山合戦の本陣であろうと伝わる。とはいうものの、足利基氏も芳賀高定も、いまひとつよくわかっていない。この地で基氏と高定が争うに至った経緯をちょっとおさらい。
足利基氏は尊氏の次男として誕生。1394年、尊氏の命を受け鎌倉公方として鎌倉に着任。1340年生まれというから、わずか十歳前後ではあろう。北朝の争乱に加えて、尊氏と直義という兄弟の争い(観応の擾乱)も加わり、なにがなんだかわからない政情の中、1353年には鎌倉を離れ、入間に陣(入間川御陣・入間川御所)を移す。鎌倉を離れその地に6年とも9年とも在陣した、と言う。北関東の南朝方新田勢や元関東管領上杉憲顕(越後・上野守護職)の勢力に備えるためである。新田はわかるとして、上杉憲顕は幼い基氏を補佐した執事。それが、敵方となったのは直義に与し、畠山国清らによって追放されたため。越後・上野守護職も宇都宮氏綱が取って替わる。
1361年、基氏は畠山国清を更迭。1363年には、上杉憲顕を関東管領、越後守護職に復職を計る。この動きを受けた越後守護職宇都宮氏綱は、上杉憲顕と上野において戦端を開く。芳賀高貞は宇都宮氏綱配下の武将。上野守護代として基氏とこの地で戦うことになった。 いつだったか、毛呂山を歩いたとき苦林野古戦場跡あたりをかすめたことがある。基氏方三千、 芳賀高貞方八百で激戦が繰り広げられたとのことであったが、この岩殿山の合戦はこの苦林野と同時期であり、岩殿山・苦林野合戦と一括りにしてもいいようだ。そのときの基氏の本陣がこの地である、ということだろう。それにしても、鎌倉公方になったのが十歳、入間滞陣が十三歳、畠山国清更迭が二十歳、岩殿山合戦が二十三歳の頃。幼い公方を担ぎ、この争乱舞台を演出したのは誰なのだろう。



弁天池
足利基氏館址を離れ小径に戻る。道脇に九十九川が近づく。一見湿地帯のような風情を呈する。先に進むとほどなく池が見える。岩殿観音の僧が里人のために造った用水池。弁天池とも鳴かずの池とも呼ばれるが、鳴かずの池の名前は坂上田村麻呂にまつわる伝説、から。岩殿山に棲む悪龍を退治し、この池に埋めるが、それ以来、蛙が棲まなくなった、との話が伝わる。池の中程の弁天島への小橋を渡り、ささやかな祠にお参り。
池の脇に休憩所と阿弥陀堂跡にある板石塔婆(板碑)の案内。十四世紀の中頃、岩殿観音・正法寺の僧が願主となり、五十人の人たちが真言の功徳を願わんがために建立した、とある。案内の近くに石塔や庚申塔といったものは並んでいるのだが、肝心の板石塔婆は、見つからなかった。案内板と少し離れたところにあったよう、だ。



正法寺(岩殿観音)の門前町
北西に進んできた小径は、弁天池の先で南西に折れる。道なりに進み九十九川にかかる小橋(総門橋)を渡ると岩殿観音の門前町に入る。江戸の頃書かれた『新編武蔵風土記』には、「当初は名高き板東札所の観音の建てるを以て、参詣の人常に集い、村民自ずから貧しからず」とある。昭和の初めまで17の宿坊や小間物屋、菓子屋といった商店が門前町としてにぎわった参道だが、今は店が一軒ほどしか見あたらない、静かな農村の村といった風情となっている(『埼玉ふるさと散歩(比企丘陵編);梅沢太久夫(さきたま出版会)』)。



正法寺・岩殿観音
石畳の参道を進むと正法寺・岩殿観音に。石段を上り仁王門をくぐる。仁王像を見やり先に進むと石段脇に高札。戦国時代の東松山の松山城主上田宗調朝直が発したもので、岩殿山一帯の木や草を刈り取る事を禁じる、といった内容である。戦国時代の実物をモデルに復元している、とあった。
石段上に草葺き屋根の鐘楼が見える。品のいい佇まい。銅鐘(梵鐘)は十三世紀初頭の作。外面の傷は天正18年(1590)、秀吉による関東征伐の折りについたもの。鐘楼からの眺めはなかなか、いい。


本堂にお参り。板東三十三札所の十番である。本尊は千手観音。本堂右横の観音堂は、奈良時代の養老年間というから、八世紀初頭に創建。正法庵と称した。観音堂右手の崖には多くの石仏。百観音と四国八十八カ所の石仏が並ぶ。
鎌倉期には頼朝の命で比企能員が復興。頼朝の妻・北条政子の守り本尊として発展。続く室町時代も大いに栄えるも、1567年の東松山・松山城を巡る北条・武田連合軍との合戦(山城の合戦)で焼失。その後1574年に中興されるも、江戸の寛永期、また明治にも火災に遭い、現在の構えとなっている。現在のお堂は明治になって高麗村から移築した。
岩殿観音は北条政子の守り本尊であった、と言う。そういえば鎌倉散歩の折、逗子にある岩殿寺も政子の守り本尊。化粧坂近くの岩殿地蔵尊も政子、そしてその娘の大姫の信仰篤き祠であった。



政子と岩殿って何らかの因縁があるのだろうか。それとも、共に板東観音札所であり、観音信仰故の偶然の一致なのだろうか。それとも、この岩殿観音近く、一説には先ほど訪れた弁天池あたりにあったとも言われる比企能員の館、それ故の頼朝・政子への因縁付け故のことだろう、か。比企能員は頼朝の乳母であった比企尼の係累。岩殿というキーワードをフックに、比企一族と頼朝・政子の関係を強化するストーリーを組み立てていったのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。
岩殿寺は岩殿山の山腹の崖を削って建てられている。四十八峰九十九谷よりなる岩殿山は別名九十九谷とも呼ばれる。伝説に拠れば弘法大師が真言密教の修行の地を求めこの地を候補に挙げるも、谷の数でひとつ勝る高野山に決めた、と言う。この九十九伝説、散歩の折に触れて現れる。新百合ヶ丘の近くの弘法松にも同様の話があった。百谷、というか九十九谷伝説は日本各地にあるが、それだけでなく、能の「通小町」などには九十九日、男女が恋する相手の元に通い、願を遂げようとする話がある。熊野古道にも九十九王子の祠が並ぶ。九十九と百の間には、結構大きな意味があるのだろう、か。九十九(つくも)は「つつも」の訛ったもの、と言う。「つつ」は足りない、「も」は「百」。「九十九(つくも)」は「百に(ひとつ)足りない>完成=成就にあと一歩」という意味だろう、か。これまた単なる妄想。根拠なし。



物見山
岩殿観音の本堂脇の石段を上る。奥の院でもあろうかと、先に進むと整備された車道にでる。高坂の駅前から続く県道212号であった。道路を横切り物見山に。標高135mというから、山と言うより丘といったもの。とは言うものの、この岩殿丘陵(南比企丘陵)の最高峰。それなりの眺めが楽しめる。名前の由来は、坂上田村麻呂が東北征伐の折、この地より周囲を見下ろした、との伝説から。




比企丘陵自然公園
笛吹峠への道を確認。物見山を少し進んだあたりから県道から別れ、小径を進むようである。物見山入口にあった笛吹峠への案内に従い、道を進むとほどなく車道から別れた細道がある。先に進むと比企丘陵自然公園の案内。しかし、笛吹峠への案内はどこにも、ない。この道ではないのだろうか、と車道に戻り、道を下る。しばらく歩くと山村学園短期大学の案内。さすがに、これは行き過ぎ、と先程の比企丘陵自然公園への小径まで引き返し、先に進む。案内はなにも、ない。しばし進むと公園を散歩する人を見かけ、道を確認すると、オンコース。JAXA地球観測センターを目安に進めばいい、と。雑木林の中をどんどん進みJAXA地球観測センターまで進む。このセンターでは人工衛星からのリモートセンシング(遠隔探査)により地球環境を調べている、とか。衛星からのデータを受信する四つのパラボラアンテナを見やりながら、敷地北側に沿った細路を進む。

観音街道
ところで、物見山の峠から尾根道を進み、笛吹峠をへて西に向かう道を観音街道と呼ぶ。板東札所十番の岩殿観音から札所九番の慈光寺へ続く道である。草笛峠を境に、西に向かう道を慈光寺観音道、東に向かう道を岩殿観音道、と呼ぶ。いつだったか八高線・明覚駅から都幾川村にある慈光寺まで歩いたことがある。七十五坊の伽藍をほこった古刹も、戦乱の巷、焼き討ちに遭い、現在は、誠に広い寺域の中に、いくつかの堂宇が静かに佇む、のみ。




県道41号線
JAXA地球観測センターを越え、ほどなくすると「笛吹峠」の道標。もう少々手前にあってもよかろうに、と思いながら先に進むと里が開ける。もうこれで山中日没の怖れ無し、と一安心。溜池らしきところで釣りを楽しむ人もいる。山道を抜け、田畑の脇の道を進むと県道41号・東松山越生線に出る。T字路に笛吹峠への案内。
左に折れ、すぐさま県道41号を離れ、丘陵の裾を辿り先に進むと、笛吹峠への道の合流点、奥田と須江の境に地蔵堂。新編武蔵風土記には「羽黒堂」、地元では「はぐれ堂」と呼ばれている。お歯黒の大将の首を埋めたとか、出羽の国(羽黒)の人をとむらった、とか、戦ではぐれた人をとむらったとか、あれこれ伝わる。笛吹峠の合戦故話であろう、か。

笛吹峠
笛吹峠へと続く笛吹通りを北に向かう。ゆったりとした傾斜の坂道をのんびりと進む。この道筋は往古の鎌倉街道。それなりの感慨をもち、時に後ろを振り返り、鳩山の景観を楽しむ。このあたり一帯は古代武蔵最大の窯跡のあった南比企窯跡群のあった所。樹枝状に入りくんだ谷津(谷戸)には、それぞれ窯跡があるのだろう、などと想いながら先に進むと笛吹峠に到着した。標高80m。
「史跡笛吹峠」石碑の近くに鎌倉街道と十字に交わる道筋がある。これが観音道。峠から西は西国観音札所九番・慈光寺道。峠から東は岩殿観音道である。当初の予定では、この笛吹峠までは、この岩殿観音道を辿るはずであった。どこからどうそれてしまったのだろう?地図をチェックすると、JAXA地球観測センターの先で見た「笛吹峠」への道標のところで道が分岐している。道案内に従ってすすんだのが今回のルート。右に進むと、里に下りることなく少し北に向かい、一度県道41号に出た後、再び山中を進み、直接この峠へ辿れたようである。後の祭り、ではある。 

この峠は足利尊氏と新田義貞の三男・義宗が戦った合戦の地。1352年(正平7年)のことである。義宗が後醍醐天皇の皇子である宗良親王を奉じて鎌倉街道を南下。一時は鎌倉まで進撃するも尊氏の反撃に遭い、退却。小手指ヶ原の合戦で敗れ、決戦最後の地としたのがこの峠。尊氏軍八万余騎、義宗軍二万。善戦むなしく義宗は破れ、越後へと落ちる。この戦の勝利を境に室町幕府による関東統治がはじまることになる。笛吹峠の由来は、敗軍の中、宗良親王が笛を吹いたことによる、と伝わる。




将軍澤
笛吹峠を離れ、鎌倉街道を北に下り、大蔵の地を目指す。いつだったか、武蔵嵐山に鎌倉武士の鑑である畠山重忠の館址を訪ねたことがある。そこで、思いがけなく木曽義仲産湯の水のある鎌形八幡や義仲の妻・山吹姫ゆかりの斑渓寺に出合った。その時、鎌形の東にある大蔵に義仲の父の館を訪ねようと思っていたのだが、時間切れ。そのうちに、と思っていたので、今回いい機会と大蔵方向に下ることにした。
ゆるやかな坂を下ると、視界が開け
南西から北東へと道を横切る小川(前川)がある。これが将軍沢ではあろう。名前の由来は征夷大将軍・坂上田村麻呂ゆかりの地とか、また藤原利仁ゆかりの地とか、あれこれ。藤原利仁って、東松山を歩いたとき将軍塚古墳で出合った。古墳に上ると後円部の頂きに「利仁神社」。上野介、上総介、武蔵守を歴任し、延喜15年(915年)には鎮守府将軍となった藤原利仁を祀る、と言われる。藤原利仁は平安時代の代表的武人として多くの伝説があり、『今昔物語』にも登場している。芥川龍之介の『芋粥』はこの今昔物語のこの題材を小説にしたものである。

縁切橋
将軍沢を越え、道脇の明光寺を見やり、入口付近にある庚申塔にお参りし、その先の日吉神社に足を運ぶ。つつましやかなる境内には将軍神社。坂上田村麻呂ゆかりの祠、と言う。祠を離れ、ゆったりと丘陵を下る。辺りは既に里の風景である。
将軍沢の集落を過ぎ、坂を下りきると道脇に大きな案内板。近づいてみると「縁切橋」とある。坂上田村麻呂を案じ京より訪ね来たる妻女を、「軍役時に訪ね来るとは不謹慎。その行い許すべからず」といった案配で夫婦の縁を切った、とか。それにしても、この地には坂上田村麻呂にまつわる伝説が多い。比企と田村麻呂に、なんらかの深い関連があるのだろう、か。古代、この比企の地は北武蔵の中心地。奥州の蝦夷征伐の兵站基地として征夷軍と深い関係があったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

安養寺
少し先に進むと、道の左右に神社というかお寺というか、なんとも賑やかなるお寺さま。大行院とあった。左右を見やり先に進むと道の左に落ち着いたお寺さま。野道のような参道を進み山門に。誠に趣のある構え。江戸後期の作で、籠彫りの唐獅子・龍・花鳥が配されている。このお寺、昭和30年頃、作家の今東光が住職をしていた。と。岩手・平泉の中尊寺の貫首として金色堂の大修理で知られるが、この地で今東光ゆかりの地に出合うとは思わなかった。



大蔵館址
県道17号大野東松山線・大蔵交差点に。左に折れ少し進むと公園脇のブッシュの中に大蔵跡の案内。木曽義仲の父である源義賢の館跡に割には少々寂しい。館跡は、案内の隣にある大蔵神社もふくめた東西170m・南北200m余りの構えてあった、よう。神社にお参りし、往古を想う。
都幾川をのぞむこの台地上に館を構えた源義賢は源氏の棟梁源為義の次子。1139年、京にあって東宮の警護隊長の職にあり、その呼称をもって「帯刀先生(たてわき、たちはきせんじょう)」と呼ばれた。もっとも、その職はすぐに解任されている。
1153年、父為義と不仲になり関東に下っていた長兄義朝が南関東に勢力を拡げると、それに対抗するべく、父為義の命を受け北関東に拠点を設ける。武蔵の国の最大勢力である秩父重隆の娘を娶り、この大蔵の地に館を構えた。木曽義仲もこの地で誕生した、とも。
源義賢は当地を拠点に武威を高めるも、1155年、源義朝の長子である甥の悪源太義平に館を急襲され義父・秩父重隆共々滅ぼされた、と世に伝わる。悪源太義平と名前は少々怖いが、当時義平は十五歳程度。首謀者としてはなんとなく収まりがよくない。対立の構図をチェックすると為義・義賢VS義朝・義平だけではないようだ。この源氏の内紛に秩父一族の内紛が絡んでくる。秩父重隆と家督を巡って争う秩父の一族畠山重能が登場する。また、秩父重隆と抗争を繰り返す新田、足利一族も登場する。結局は、(為義・義賢+秩父重隆)VS(義朝・義平+畠山重能+新田、足利)といった対立の構造の中で、この大蔵合戦を見た方がよさそう、だ。
大蔵合戦において、義賢の次子で当時二歳の駒王丸は畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが後に旭将軍と呼ばれた木曽義仲である。また、鎌倉武士の鑑・畠山重忠は畠山重能の嫡子である。

向徳寺
神社を離れ、県道172号を少し西に進み、西を見やる。いつだったか、この地の西、鎌形の地にある木曽義仲産湯の水・鎌形八幡や、義仲の妻・山吹姫ゆかりの寺・斑渓寺、そして都幾川の川筋を想い、神社へと戻り、武蔵嵐山駅へと向かう。 大蔵交差点あたりから成り行きで都幾川の川筋に向かう途中に向徳寺。時宗の寺であり、藤沢遊行寺の末。いい構えのお寺さま。新しく建て替えられた山門脇に板碑が並んでいた。鎌倉から南北朝、室町に渡るもの。板碑は正確には「板石塔婆」とか「青石塔婆」と呼ばれる。戦乱の世に、生前に極楽往生を念じ建立した供養塔とされ、美しい梵字で如来や菩薩を描く。埼玉には2万近い板碑が見られる、と言う。





都幾川
向徳寺を離れ、北にすすむと都幾川にあたる。比企郡ときがわ町大野地区の高篠峠あたりが源頭部。嵐山で槻川を合わせ比企郡川島町で越辺川に注ぐ。都幾川(とき)の語源は、「清める」を意味する「斎(とき)」からとWikipedia,が言う。
川の向こうの台地は鎌倉武士の鑑・畠山重忠の菅谷館跡。いつだったか、この館からはじめ、台地を都幾川に下り、槻川が合流するあたりを見やりながら、都幾川の堤を鎌形八幡へと下ったことを思い出す。台地の坂を上り、国道254号嵐山バイパスを越え成り行きで東武東上線・武蔵嵐山駅に進み、本日の散歩を終える。ちなみに、本日歩いた比企の語源は、「低地、低湿地」とか、古代の太陽祭祀を司る、日置(へき、ひき)部からとの説がある。