月曜日, 9月 07, 2015

伊予 高縄半島 海賊衆の古跡散歩 そのⅡ;来島村上氏の城砦群を辿る

第一回から日も置かず、高縄半島に散在する来島村上氏の城砦群を辿る散歩に出かける。今回は高縄半島から斎灘に向かって西に突き出した梶取鼻一帯の城砦群をカバーしようと思う。
実家の新居浜市を出発し、国道196号バイパスを進み、今治市街で国道317号に乗り換え梶取鼻へと向かうのだが、途中で先日の遠見山城の案内にあった、近見山が如何なる風情の山か立ち寄ることに。「大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた」とのことであるので、見晴らしはいいだろうが、果たして遠見山や今治市街の展望が如何なるものかと、まずは最初に尋ねることにした。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城


近見山
国道317号を進み、しまなみ海道に続く西瀬戸自動車道を越えて最初の信号、旭方入口バス停のすぐ先を左に折れる道を進む。ホテル山水閣など看板を見遣りながら山道を進む。道はそれほど狭くもなく、怖い思いもしなくてすむようだ。
しばし道なりに進むと、道の左手に如何にも駐車場といったスペースと案内がある。案内には、先に進みロータリー辺りから展望台への道と、この駐車場から続く「近見山展望台」への遊歩道が記されている。道路の先行きに不安を感じる我が身は、迷うことなくこのスペースに車を停め、遊歩道を歩いて展望台に向かう。
15分ほど歩くと展望台。瀬戸内、国府のある今治、遠見山などを確認し、狼煙連絡網を体感する。
展望台からの戻りは、同じ遊歩道を歩くものなんだかなあ、ということで、成り行きで展望台から下る階段を下ることにする。
その時は、同じところに下りていくのだろうと気楽に考えていたのだが、階段を下りて車道を相当下っても車をデポしたところに出合わない。これはまずいとiphoneの地図をチェックすると、あらぬ方向に向かっている。最終的には車のデポ地点には行けるようだが、結構大回りとなってしまう。道の途中に「遊歩道へ」といった案内があった場所まで引き返し、そこから車道を離れ、道なりに進むとロータリーの辺りに出た。そこから車のデポ地まで戻り一安心。この山には道がいくつも付けられており、ちょっと注意が必要ではある。
近見山城址
当日は狼煙台の雰囲気でも見てみよう、ついでに瀬戸の美しい眺めも楽しもう、といった程度の気持ちではあったのだが、メモの段階で近見山をチェックすると、来島村上氏に関係する歴史が登場してきた。
今はその痕跡は何も残らないが、戦国時代の応永年間(1394~1428)に北条の日高城主である重見通昭がこの地に城を築き、それ以降重見氏の居城となったとされる。
重見氏は伊予守護河野氏の一族得能氏の支流で、吉岡殿と称する通宗を祖とするといわれている。南北朝から室町期にかけ、重見氏は河野氏の重臣・奉行人として記録にその名を残す。桑村・伊予・浮穴・風早の四ケ郡にその領地を有していたが、上でメモした日高城は風早(北条)郡に築いた城である。 戦国時代に至っても河野家の宿老としてその領国支配に重きをなした重見氏であるが、享禄三年(1530)、近見城主(伊予石井山城とも)重見通種は河野氏に背く。この動きに対し河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れた重見通種は周防に逃れた、と。
通種の反乱失敗後、重見氏の家督は弟である通次が継ぎ当主となった、とのこと。ということは、重見氏は河野家臣団に復帰したのだろう。

その後の近見山城に関する記録には、天正12年(1582)3月頃、近見山近辺で合戦があったとの言い伝えが残る。これって、天正9年(1581)に織田方の誘いにより主家河野氏より離反した来島村上氏に対し、天正10年(1582)の4月頃より、開始された来島村上氏と河野・毛利連合軍との戦闘が展開された時期(和議が整い両軍の戦闘が終結したのは天正12年の頃、と言う)であり、近見城は来島村上氏の城砦群の一翼を担っていたのかもしれない。

また、その後の記録としては、近見城は秀吉の四国征伐に際し侵攻してきた毛利の小早川勢に降伏した、とある。これは、秀吉の軍門に下った毛利勢に対し、四国全土を支配下においた土佐の長曾我部の軍門に下った河野氏が小早川氏のとりなしもあり、降伏するに至ったことに関係する記述ではあろう。合戦があったかどうか、この記述だけでは不明であるが、この時期日高城主であった重見通晴は小早川勢と戦い(来島通総、得居通久の軍勢との説もある)、日高城は落城し一族の多くは自害した、との記録もある。とすれば、この近見城においても合戦があった末での重見氏の降伏かもしれない。城主名は不明である。

玉生八幡神社
近見山を下り、梶取鼻へと向かうのだが、先回に散歩で波方にあった来島村上氏の氏神である大きな社をパスしたことが気になっており、その波方の社にも立ち寄ることにした。国道317号を波止浜まで進み、そこから県道160号、166号と乗り換え波方の玉生(たもう)八幡神社に到着。
誠に広い境内を歩き、石段を登り拝殿にお参り。境内にあった案内には、「639年舒明天皇が伊予国へ下向された時、波方沖に御停泊船になった。その夜、沖の潮が二又に流れ、その間に光り輝くものがあったので、小舟を行かせて調べてみると、箱の中に三つの玉があった。
「これは不思議な住吉大神(海上の守護神)である。この里の産土神としてお祀りさなさい。」とお言葉があり、玉生宮を創祀した。
後に清和天皇の貞観元年(859)大分県の宇佐八幡大神を山城国(京都)男山へお移しになられる途中、当地に碇泊したとき、玉生宮より五色の異様な雲気が立ち上がら、同時に船中からも光り輝くものがあったので、社壇を築き分霊を祀った。その後、宇多天皇の寛平八年(896)に両社を併せて玉生八幡宮とした。 源頼義を始め歴代の伊予守等の武将の信仰が厚く、特に来島家は氏神として崇敬した。現在も北の号10ヶ村の総氏神として、特に海運業者の信仰を集めている」とあった。

因みに案内にある源頼義は、先回の散歩でメモしたように、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子であり、前九年の役の後に、伊予守として赴任したことが、その所以であろう。

宮崎城跡
玉生八幡を離れ、先回の散歩で訪れた大角鼻の半島部を横切り、高縄半島の西岸に移り、西浦から県道166号を海岸に沿って南に下り、梶取ノ鼻の岬が西に突き出た辺りで県道166号から県道301号に乗り換える。西に突き出た岬を登り、そして坂を下りきった辺り、海に面して突き出た丘陵が宮崎城跡。
案内には「この城砦は、最もすぐれた海賊城で、ピット(桟橋跡柱穴)、堀切などの城郭跡がはっきり残っており、本来港湾の監視を主な目的とするもので、根城を中心に港の出入口等の丘陵上の要衝(軍事上大切な場所)に城塞(砦)を配置した典型的な城跡とも言える。
鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在であったが、江戸時代に入り廃止された」とあった。

現在は道路で海岸と切り離されてはいるが、往昔は海と直接繋がっていたのだろう。高差30mほどの丘陵の先端部は二の丸、二の丸から続く丘陵尾根には空堀、本丸、堀切、そして詰の郭を配した200mほどの城が築かれていたとのことである。

案内には、「鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在。。。」と、あったが、『三代実録』には、貞観9年(876)に「…伊予国宮崎村海賊群居掠奪尤切…」との記録があるようで、その頃にはこの宮崎地区には海賊働きをする集団が存在していたようである。

来島散歩でメモしたように、瀬戸内海は、日本の交通の大動脈であり、古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、魚漁や農作業をしながら、船の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしていたと考えられる。そして瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれ、瀬戸内の海で暮らしていた人達も集団化・組織化され、海賊働きをする集団が現れる。その海賊衆の中でも最も力をもったのが村上氏であり、鎌倉末期から室町にかけて、海賊衆は村上氏の傘下に統合されていったのではあろう。

お頭の家跡
宮崎城の辺りに「波方町ふるさとこみち案内」があり、そこに「お頭の家跡」の記載があった。場所も、宮崎城跡から先の海岸線を進み、最初の角を山側に向かったところ。
車を走らせその地に向かう。そこには屋敷も既に無く、畑の脇に案内あり、「ここは海賊の頭領の屋敷跡である。当時この家で「おかしら」という家号を持ち、赤い旗、火縄銃砲、なぎなたなどが残っていたと言われている。この谷のように宮崎の人々は、外部(海)から見えないところに散らばって住居や田畑を持ち、敵の襲撃から身を守ったと言われている。北側の墓地に「ご先祖さん」と呼ばれている二基の墓がある。表面は風雨で摩滅して文字は判別できないが、元禄時代(1688―1704)のものではなかろうかと思われる」とあった。

唐津崎トンネル
車をUターンすべく、お頭の家跡への道を先に進むとトンネルがあり、入口が閉鎖されている。Google Mapの衛星写真でチェックすると、トンネルの抜ける丘陵部の北の海岸部にいくつもの備蓄タンクと桟橋が見える。地図には波方ターミナルとあった。チェックすると、波方ターミナルとは会社名であり、国内外からの製油所から石油・液化石油ガスを貯蔵・管理し、国内に出荷する石油・液化石油ガスの物流基地であった。
が、トンネルの銘板には「2002年6月竣工 日本液化石油ガス備蓄株式会社 施行大成建設」とある。(株)波方ターミナルと日本液化石油ガス備蓄株式会社の関係は?チェックすると、日本液化石油ガス備蓄株式会社とは全国5箇所に計画された国家石油備蓄基地の建設施行社。平成14年(2002)に作業トンネル工事に着手し、平成15年(2003)には地下貯槽工事に着手、平成16年(2004)には国家石油備蓄体制の移行により事業主体は石油天然ガス・金属鉱物資源機構が継承し平成25年(2013)に石油備蓄施設は完成した。とのこと。
この石油備蓄施設は地下180mのところにあり、このトンネルを20分ほど勾配率12.5%という急坂を下ると日本最大の備蓄施設に着くと、言う。ということは、このトンネルは工事用のトンネルであり、出口のないトンネルということだ。
で、(株)波方ターミナルと日本液化石油ガス備蓄株式会社の関係であるが、国の政策で当時の日本液化石油ガス備蓄株式社が施工主として建設した石油備蓄基地を波方ターミナル(株)が管理・運営している、ということである。

海の中に鳥居
お頭の家跡を離れ、次の目的地である梶取ノ鼻に向かう。県道301号を岬に向けて海岸線を走ると、防波堤の直ぐ先の海中に鳥居が建つ。そのときはどこの社の鳥居かわからなかったのだが、それは後ほど出合う御崎神社の鳥居であった。







●やまももの小道
海中の鳥居を眺め、県道301号を岬に向けて海岸線から山道に入ったのだが、取り付き箇所の道幅が狭く、海岸線の崖地で万が一対向車に出合ったらかなわん、と言うことで、車を鳥居脇の防波堤の辺りにあったスペースにデポし、徒歩で進むことに。(後からわかったことではあるが、道幅が極端に狭いのは取り付き部だけであり、その先は結構しっかりした道であり、車で走っても何の問題もなかったと思うが、後の祭り)。
車のデポ地から取り付き部の狭い道を進むと、右手に駒犬が見え、そこから山道が分岐する。「やまももの小道」と案内がある。この道がとこまで続くのか分からないが、とりあえず「やまももの小道」に折れる。 樹齢数百年と言うやまももの木々のトンネルは300mほども続いたろうか。誠に気持ちのいい散歩道である。その道を進むと「御崎神社」と刻まれた石碑が建つ。思うに、この道は往昔の「御崎神社」への参道であったのだろう。実際成り行きで先に進むと、御崎神社の少し先の道に出た。

御崎神社
境内に入ると石碑が建つ。「御神灯架設の由来碑」と刻まれる。
御神灯架設の由来碑
大雑把にまとめると、「終戦後の昭和23年(1948)、宮崎地区に電灯架設工事施工に際し、助成金もない当時、この社のご神木を伐採売却しその原資とし、また部落民の奉仕により経費を抑え、早期の完成をみた。その後、四十余年を経て七五三浦に架電したのを契機に、平成2年(1990)5月、御崎神社にも御神灯が灯り、ご神木伐採への報恩を記念して建立した」とのことであった。





拝殿に向かう途中に銅製の牛が寝転ぶ。牛と言えば菅原道真の天神様と関係あるのかと思ったのだが、拝殿脇の案内に拠れば、「この神社は、以前梶取鼻(古御崎)にあった香取神社と烏鼻(御崎)にあった烏明神が祀られている。梶取と香取の語源は同じであり、香取の神は海の守護神であるから、海上安全を祈って祀られ、また烏明神は農耕の神として牛馬が祀られている。
昭和30年頃迄は田植えの終わった近郊の農家が牛馬を休ませてこの神社に参詣し、また牛の草鞋を造って奉納し、牛馬の護符を受けて畜舎に飾って農作業の安全と豊作を祈った。
又、この御崎は戦国時代来島水軍の砦となっていた所であり、海岸の岩の上には無数のピット(桟橋跡柱穴)が残っており、付近には「磯の七不思議」といわれる見事な岩がある」とあり、牛は烏神社との関連のものであった。それにしても、烏神社って、あまり聞いたことのない社名ではある。

烏信仰
今でこそ、不吉な存在といった感のある烏ではあるが、往古は神武東征の際、熊野の山で先に立ち、松明を掲げ大和へ先導したといわれている紀記の八咫烏(やたがらす)のエピソードに端的に示すように、烏は神の使いであり、未来の光明、光明や吉事を指し示す「ミサキ神」としての性格をもっていたようだ。 御崎も「ミサキ神」との関連があるのだろうか。関連があった欲しいとも思う。

梶取鼻
御崎神社を離れ、見張り台のあった梶取鼻に向かう。距離はおおよそ2キロ弱といったところ。眼下に時に現れる斎灘を見遣りながら島の突端に向かってのんびり歩く。途中、縄文遺跡の地として知られる七五三ヶ浦の海浜に下る道があったが、戻りに訪れるべく、先に進み梶取鼻に。
半島突端の灯台手前のちょっとした広場にあった「梶取鼻」の案内には、「わが国が大陸文化の輸入やその中継地である九州との往来はすべて海路によった。その点で波方町宮崎の地は重要な地点であった。大宝律令(701)の中の軍防令によって各国に軍団が置かれ、この軍団には外敵の侵入に備えて、その進入経路にあたると予想される地に、?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)を置き、国府(現在の今治市富田付近)との連絡、防備にあたった。
左方の山を火山といい、?燧跡の決め手となる灰の層がいくつか発見されている。
また松山藩の参勤交代の際には「のろし場」として使用され、歓迎の意味でも利用された。 眼下の海岸(七五三ヶ浦)には番所という地名が残っている。現在この付近一帯は瀬戸内海国立公園に指定され、梶取鼻灯台と無線信号所で海の男達に知られている」とあった。
海賊衆の見張り台以前、古代、百済救援のため新羅・唐の連合軍と戦った白村江の戦いに敗れた大和朝廷は、外敵の侵攻に備えこの地に?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)を置き、国府への連絡網を整備したわけである。烽火リレーは、既にメモしたように、梶取鼻の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。来島村上氏も伊予の国内の反河野勢力、また外敵の侵攻の連絡網として、この烽火リレー網を活用したのではあろう。

「烽山の賦(ほうざんのふ)」の案内
道脇に「烽山の賦(ほうざんのふ)」の案内。「この頂きのあたりを火山(ひやま)という。狼火をあげし水軍や興亡のあと松籟胸をゆすりて荒猛き防人をしのぶよすがもなし?鞳たる来島のひびきのみ僅かに残る城塞の石くれに谺す小道をゆけば斎灘の潮の香ただようなかうらうらと山桃の紅熟れて木洩れ日に光るぞ哀し  昭和52年5月 森繁久彌」とあり、その意味を説明していた(説明文は省略)。
昭和42年(1967)、映画「仰げば尊し」の撮影でこの地を訪れた森繁久彌は、先に通り過ぎた七五三ヶ浦を見おろすこの地の美しさに感動し、歴史を踏まえ景観をかくの如く表した。因みに森繁久彌は瀬戸内の小学校の教師役であった、よう。

「烽山の賦歌碑」
梶取鼻を少し彷徨う。後から分かったことだが、半島突端からロープが整備された海岸に下りる道があったようだ。道を少し元に戻り、「火山」に向かう。 道脇に「烽山の賦歌碑」への道案内。
山道を進むとほどなく歌碑。「この山上を火山という 水軍の攻防松籟に聞くのみ 狼火焚く舟手たちの 道あれば 山桃の熟れて潮騒にゆるる」と刻まれる、と案内にあった。
広場にあった歌碑よりやや小ぶり。また、歌もコンパクトになっている。共に森繁彌氏の詠んだものとのことである。このあたりに見張り台・烽火台があったようである。

七五三ヶ浦遺跡
梶取鼻を離れ、車のデポ地へと元来た道を引き返す。途中、七五三(しめ)ヶ浦に下る道を右に折れ、海岸へ下りる。
海岸にあった案内には、「七五三ヶ浦 この入り江の展望は、御崎神社、梶取鼻どちらから見ても四季を通じ、訪れた人々の目を楽しませてくれる。また、燈台付近には、来島水軍の見張台があり、通行税をとっていたと言われ、番所という地名が残って居る。
この付近は、昔から湧水が豊富で、窪地には天水による水田、畑があり、古代から人が住んでいたと言われている。県道から少し海岸へ下った谷あいに住居跡と見られる灰の層が露出しており、付近からは土器片も発見されている」とあった
七五三ヶ浦遺跡
また、七五三ヶ浦遺跡の案内もあり、「波方町の歴史は古く、人々の生活したあとが数多くの縄文時代の遺跡として発見されている。ここ七五三ヶ浦遺跡もそのひとつである。
七五三ヶ浦遺跡は、縄文時代前期から同晩期(約5000年前から2500年前)に至るもので、各年代の土器石器などが出土し、また住居跡と思われる遺跡も検出されている。
道路下のケース内には地層が展示されているが、発掘当時のそのままを剥ぎとり、旧位置におかれたもので、あまり他では見られない珍しいものである。(土器は縄文時代後期)」との説明があった。

岡城跡
七五三ヶ浦を離れ、車のデポ地までのんびり歩いて戻る。海中に建つ御崎神社の通り近くの堤防脇にデポしていた車は、レッカー移動されることなくそこにあり、一安心。
車の置いた宮崎地区から次の目的地である岡城跡のある波方の岡地区に向かう。県道301号を進み、県道166号に乗り換えて直ぐ、岡のバス停を越えた次の交差点を左に折れたあたりで適当な車のデポ地を探す。
岡城跡は道脇にある消防団の詰所手前の道を左に入り、岡地区の集会所へと道を更に左に折れたところにあった。
集会の前にある岡城跡は、城跡とはいうものの、雑草が生い茂った小丘。案内 には、「海賊城砦群のひとつ岡城跡であるが、三方を削られて、当時の原型は不明である。また、小部の白玉神社の跡と言われている。
ある年、小部では不漁が続き、岡でも不作で領民が苦しんでいた。そこで、岡の白玉神社を小部に移しスサノオ神社とともにお祭りしたところ、両部落とも豊かになったよくなったといわれている。岡から「新こも」が届かないと神輿のお祭はできないとのことである」とあった。


●白椿
岡城跡の北東、直ぐのところに町指定天然記念物の白椿がある、という。ついでのことなので立ち寄り。
白椿 町指定天然記念物
「樹高6m、枝張6m、目通り0.9mあり、地上約1 mのところで、二股に分かれている。樹齢150年余の大樹であるが、樹勢は極めて旺盛で、毎年八重の白い花を一面につける珍しいものである。
当家の人が、旅先から、持ち帰ったものといわれている。 また、岡部落は、椿の多いところで、ピンクヤブ系の大木もある。ピンクヤブとはピンクヤブ椿のことである。

白玉神社
次は、岡城跡の説明にあった「白玉神社」を訪れることに。社は岡城跡から一筋南に鎮座する和霊神社の前、県道166号脇にあった。岡城跡の案内にもあったお祭は春祭の獅子舞が知られる。
社は弘仁元年(810)、加賀の白山神社を勧請。元は、白山権現と称されていた。祭神はイザナギ、イザナミと菊理姫(くくりひめ)。菊理姫(くくりひめ)はイザナギが黄泉の国から逃げるとき迎えただけの不思議な神ではある。 ところで、白玉神社ってあまり聞いたことのない社名。あれこれとの解釈のある白玉稲荷との関連も妄想してみたのだが、先ほど訪れたこの地の町指定天然記念物である白椿は「白玉」とも称されるため、その関連ではないかと自分なりに結論。

今回はここで時間切れ。この近辺で取り残した龍神鼻砦、弁天島砦、庄畑砦、瀬早砦、片山砦、養老館や波方地区の長福寺鼻砦、大浦砦、そして北条の鹿島城、日高城など未訪の来島村上氏ゆかりの城砦群は、時間をみつけては辿ろうと思う。 

日曜日, 9月 06, 2015

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅠ;来島村上氏の城砦群を辿る

昨年、来島村上氏の居城である来島を訪ねた。島に渡り来島城本丸跡などを辿りながら気になったことがあった。如何に渦巻く潮流に護られた自然の要害にしても、果たして、このような周囲1キロといった小島で一帯に覇を唱えるといった水軍・軍事行動・海賊働きができるのであろうか、ということである。 チェックすると、16世紀頃に至って、来島村上氏は、その発展にともない、本拠の城を来島城から西方の波方浦に移し、そこに館を構え、その館を中心に当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した、と。代表的な城は館の南の遠見山城や対岸の糸山城(現在の糸谷公園辺り)であるが、その他の主だった城砦としては、東岸部(波方港の北部)では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦、北岸部(波方港の北に突き出た半島部)では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、西浦砦(黒磯城とも)、西岸部(波方ターミナルがある西に突き出た半島部)では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがあったとのことである。波方城・黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦など七砦、天満鼻見張台・大角番所・波方館・養老館などを総称して波方城砦群とも称する。
これで少し納得。とはいいながら、瀬戸内で海賊働き(警護料・帆別銭;通行料徴収)をするだけにしては、山城があったりするわけで、そうすると、そもそもが、この城砦群は誰からの攻撃を防御するためのものなのだろう、などと新たな疑問も出てきた。
散歩を終えた後、実家のある愛媛県新居浜市の図書館で見つけた『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』などにより、来島村上氏の概要などは少しは理解できたが、散歩を始めるときは何の情報もなし。とりあえず現地を訪れてみれば、そこにあると思われる説明文などで、あれこれの疑問も少しは解けるかと、常の如く誠にお気楽に来島村上氏の城砦跡巡りの散歩にでかけることにした。
出掛けてはみたものの、往復だけで結構時間がかかる。2回に分けて訪れたが、それでも未だ全てを辿り終えていない。とりあえず、今まで辿ったところをメモし、今後も時間を見つけては城砦跡を辿り、その都度メモを追加していこうと思う。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城

糸山砦跡
糸山城には城砦跡とは知らず何度も訪れている。来島海峡やしまなみ海道の来島海峡第三大橋の景観を県外からのゲストに案内すべく、糸山公園展望台に訪れているのだが、そこが糸山砦の三の曲輪跡とのことであった。
公園の駐車場から遊歩道を登り詰めた鞍部が主郭部と三の曲輪を繋ぐ帯曲輪であり、そこから西に斜面を登ると削られた平坦地があり、糸山城の主郭部とのことである。三つの曲輪が確認されているとのことだが、規模は小さく砦と推測されている。
幾度も訪れているところでもあるので、今回はパス。道は、国道317号を今治方面から進み、しまなみ海道・今治北IC入口を越えて直ぐ、国道から右に分岐した県道161号を進み糸山トンネルを抜けて右に曲がれば駐車場となる。
合戦の記録
『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、天正9年(1581)、主家河野氏に反旗を翻し、長きに渡る毛利との誼を絶ち、毛利征伐を図る織田方に与した当時の当主・村上通総の弟義清が、糸山で主家である河野、毛利・因島村上・能島村上連合軍と戦ったとの記録がある。
このときは、本拠地の来島城をはじめ、北条沖の鹿島城、この糸山砦、そしてこの後訪ねる海山(遠見山)砦を含めた合戦となったようだ。当主・村上通総は天正10年(1582)には来島城から鹿島城(通総の兄得居通降が守る)に移ったとも、秀吉の元に庇護を求めとも。
天正9年(1582)には織田・秀吉と毛利の和議は成立しており、秀吉の先兵としての来島村上と毛利との和議も成立するも、それを良し、としない義清は、糸山から北条の日高城(立石川上流の山城)に移り抵抗したようだが、天正12年(1584)までには抵抗を止め下山し和議は整った、とのことである。

海山(遠見山)砦
海山(遠見山;おみやま)城は波止浜港の西、標高155mの山頂にある。県道38号を波止浜から波方方面に向かう途中、郷山バス停を越えた少し先に、「海山城展望台」の案内があり、道なりに車で山を登ると駐車場に着く。一帯は「海山城公園」となって整備されている。v 駐車場から山頂に登る道を進むと小振りな二層の天守が建つ。展望台をそれっぽく造っているものであり、昔の姿を再現しているわけではないようだ。 模擬天守の展望台ではあるが、その展望は素晴らしい。今までは県外からのゲストに瀬戸の島々としまなみ海道の景観を楽しんでもらうためには、糸山城跡の展望台しか頭になかったのだが、こちらのほうが断然、いい。
東は瀬戸の島々、しまなみ海道、北は大角鼻、西は梶取ノ鼻、北条の鹿島らしき島も遠望できる。
案内に拠れば、「遠見山(現在は海山という)とは、遠見番所(見張所)に由来する地名であるが、ここには大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。
中世初頭には、現在の養老地区の「別台(べだい)」に「館(やかた)」を構えた在地勢力があり、海山を「詰の城」として活用していたが、室町時代に来島村上氏が勢力を増し、その勢力下に吸収された。
守りの拠点であった海山の砦も「来島城」や「波方館」防衛のための水軍城砦群の一つとなったが、来島氏も海山を重視し、ここに遠見番所を置いた。しかし、関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後は、砦も壊され、当時の遺構の面影は失われ、犬走りの一部がわずかに散見されるのみである。
この城塞型の展望台は、構造、規模は異なるが、当時の面影を偲んで建設したものである。 波方町  波方町教育委員会」とあった。

この案内にある「宮崎の火山」は梶取ノ鼻の先端部を指す、また近見山はこの地より南東にある標高244mの山。金山は何処を指すのか不明。「関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後」とあるのは、毛利との友好関係を絶ち織田・豊臣方に与した当主・来島通総の子である来島長親(後に康親)は、豊臣の天下になり1万4千石を有していたが、関ヶ原の合戦で西軍に参陣。西軍敗北となるも、長親の妻の伯父である福島正則の取りなしもあり家名存続し、慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩が成立した。
2代通春は、元和2年(1616年)、姓を久留島と改めた、ということである。どうでもいいことではあるが、佐伯泰英さんの痛快時代小説『酔いどれ小藤次』の主人公は、この久留島藩の下級武士との設定である。

合戦の記録
この城砦を巡っては天正9年(1581)、能島・因島の水軍が波方浦へ攻めよせたとき、この城砦も含めた大規模な戦いが行われたようである。この戦は糸山砦でメモしたように、主家河野氏に反旗を翻し、長年誼を通じた毛利ともその誼を絶ち織田・秀吉方に与したことによる。ここで、長年誼を通じた毛利と来島村上の関係を時系列で整理してみる。

毛利と来島村上
毛利と来島村上の協力関係の代表的ケースとしては、天正9年から12年にかけて行われた「天正の合戦」の時、毛利氏と争った村上通総の父である通康が、天文24年(1555)、陶晴賢と毛利元就が戦った厳島合戦において毛利に与したことが挙げられる。この合戦においては、来島を含めた村上三家(因島・能島・来島)が水軍として毛利に与し、勝利に結びついたとされる。
とは言うものの、来島村上は厳島の合戦後も完全に毛利と誼を通じたというわけでもなく、阿波の三好氏、豊後の大友氏などとも友好関係を保ち一定の距離を置いていたようだが、永禄4年(1561)頃には毛利と密接な関係を結んだと言う。
それもあってか、永禄10年(1567)、土佐の一条氏の支援を受けた喜多郡(愛媛の南予)の宇都宮氏が守護の河野氏に対し戦端を開いたとき、伊予守護職である河野方の中心勢力として出兵した来島村上を支援するため、毛利の小早川勢が出兵している。毛利の出兵は「来島の恩かえし」と呼ばれるが、厳島合戦の支援の恩をここで返す、ということであろう。毛利の援軍を得た河野勢はこの鳥坂合戦で大勝することになる。
その後、毛利と織田の戦いにおいて毛利水軍の大勝利となった天正5年(1576)第一次木津川口の水戦では毛利水軍に与し勝利に貢献している。が、天正7年(1578)の第二次木津川口の水戦では毛利に与するも完敗。この敗戦で織田方の力を知ったのか、主家河野氏との不和なのか、その理由はわからないが、天正9年(1581)には織田・秀吉の誘いに応じ、毛利に与する主家・河野氏に反旗を翻しその結果が、糸山砦、海山砦でメモした、河野氏・毛利氏・能島村上・因島村上との合戦となったわけである。

来島村上氏って海賊衆?
来島村上氏と毛利氏の関係を整理しながら、来島村上氏って海賊衆?といった誠に素朴な疑問が出てきた。土佐の一条氏の支援を受けた喜多郡(内子辺り)の宇都宮氏と戦った「鳥坂合戦」は山中での合戦であり、海戦とはほど遠い。これって、どういうことだろうとチェックすると、単に海賊衆とは呼べない来島村上氏の姿が見えてきた。
先回の来島散歩のメモでは、来島村上氏の祖を、波止浜の船着き場にあったパンフレットを元に、南北朝の頃村上師清がその子を因島、能島、来島に配し村上三家を成したとしたが、そもそも村上師清という人物自体がはっきりしない。南朝方として活躍した村上義弘の子とされるが、血の繋がりはなく、為に南朝の重臣であり、海事政策を掌握していた北畠親房の子が村上家に入ったとの説もある。
『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上氏の祖として辿れるのは戦国時代の村上通康(1519-1567)までとする。東予での反河野勢力の鎮圧などの功もあり、河野通直の重臣としての地位を築いている。通康の正室は河野惣領家の当主・河野通直の女。通康の名も当主の名の「通」を使っているのも、その信頼の証しではあろう。
その信頼の証し故か、河野通直は後継者としてこの村上通康を指名する。これに不満を持つ河野氏の譜代・老臣は予州家(惣領家とは別の河野氏の流れ)河野通政を担ぎ、湯築城(松山市の道後温泉辺り)の通直を攻め、河野通直は村上通康の来島城の逃れることになる。
予州勢も来島城を落とせず和議が成立。和議の結果、通直は隠居となるも、予州家・通政の急逝により事態は急変。幼少の通宣(通政の弟)の後見人として河野通直が復活。再び河野通直・村上通康が政治の表舞台に登場することになる。
その後、通宣の成長に伴い、河野通宣と河野通直の反目。その理由は不明だが村上痛康は河野通宣に味方し、村上通康は権力の中枢に登り詰める。その村上通康は厳島合戦に毛利に与し勝利。また、伊予国内での反河野の軍をあげた南予の宇都宮氏を毛利氏の援助もあり鎮圧。毛利との繋がりも強く伊予での第一党の勢力となる。
来島村上の祖とされる村上通康は宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、これも前述の通り、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。糸山砦、海山砦での河野・毛利・能島・因島村上との攻防はこれも前述の通りである。

少し長くなったが、このような来島村上氏の行動を見るに、いわゆる海賊働きといった要素は多くない。『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』によれば、河野氏の重臣として活躍した来島村上氏の役割は
① 室町幕府との交渉窓口 ②領内統治 ③海賊の生業
この3つに分けられるが、通行料や警護料の資料が少ないことから、海賊大将と称された能島村上の村上武吉など他の村上氏ほど海賊の生業は活発ではない、とのこと。河野氏の重臣としての立場が強くなるにつれ、海賊的性格が薄れてきた、と説く。最初想像していた「海賊衆」とは違った姿が現れた、とはこういうことである。
なお、来島氏を称したのは村上通総の頃から、とのこと。秀吉が。「来島、来島」」と称したのが来島姓となった所以とか。
村上通康
上で、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、南北朝の頃村上師清が長男義顕(雅久)を因島、次男顕忠(吉房)を能島、三男顕長(吉豊)を来島に配し村上三家を成したとの説はその資料に乏しく、資料として辿れるのは村上通康(1519-1567)であり、通康を来島村上の祖とメモした。 ではその村上通康以前には来島村上に繋がる資料は全くないか、と言えばそうでもなく、乏しいながらも来島村上との関係を推測し得る資料は残ると同書は説く。
応永11年(1404)、前伯耆守通定と称する人物が東寺から塩の荘園と称された弓削島の庶務請負を依頼される記録が残るが、この前伯耆守通定は東寺からすれば「関方」、つまりは「海賊」との位置づけであるが、伊予守護である河野通之の求めに応じ上京するなど、河野氏と親しい関係であることを示す。また、「関方」とも関連するが、幕府から唐船(遣明船)警護を命じられるなど、海上軍事力を有する人物であるとも説く。
応永27年(1420)には、当時の伊予守である河野通元が村上右衛門尉に同じ弓削島荘の庶務職を命じている。康正2年(1456)には村上治部進が東寺に書状を出しているが、そこでは伊予の河野家の内紛を詳しく報告している、と説く。

これらの資料に登場する人物は、通康以前の来島村上氏に関わりを持つ人物と同書は比定し、来島村上氏は15世紀初頭から、東寺の弓削島庄の所務請負、幕府より唐船警護を命じられるなど海上勢力として活発に活動。また河野氏との関係も密接であり、このことが河野家の重臣として登場する通康の下地であろう、と推測している。
何故に村上氏が瀬戸内に?
では何故に村上と称する勢力が、この地域に登場するのか、ということだが、 村上氏は清和源氏頼信の後裔とされる。村上姓を名乗ったのは源頼信の後裔が信濃国の更級郡村上郷に住み村上信濃守を称したことによる。時期は頼清の子仲宗のとき、あるいは仲宗の子盛清の代とも言われるがはっきりしない。文書の記録には白川上皇に仕えていた盛清が、上皇を呪咀したとして信濃に配流となったとされるから、遅くとも盛清の代には「村上姓」を名乗ったのではあろう。
信濃に下った「村上氏」は、盛清の子(為国)や孫の代、保元の乱や源平合戦時の源氏方として活躍し、村上氏繁栄の礎を築いたとされる。
で、この村上氏と伊予の村上氏との関連であるが、村上氏繁栄の礎を築いた為国の弟である定国は保元の乱(1156)後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出。「平治の乱(1160)」の後には、父祖の地越智大島に上陸し、瀬戸内村上氏の祖になったとする。
「父祖の地越智大島に」の意味するところは、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子源頼義が前九年の役の後に、伊予守として赴任し、河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされ、この頃仲宗は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていたと伝えられることに拠る。村上氏は村上仲宗の代に既に瀬戸内に勢力を築いていた、ということであり、その旧領に定国が「戻った」ということであろう。
つまりは、12世紀にはこの辺りには「村上」を姓とする勢力が移り住んでおり、資料は見あたらないにしても、その後裔が15世紀には伊予の豪族。河野氏と深い関係をもつ勢力となっていたのであろう。単なる妄想。根拠なし。

合戦の記録からあれこれ疑問が広がり、メモが結構長くなってしまった。が、来島村上氏について結構自分なりに納得できた。次の目的地に向かうことにする。

波方古館
遠見山を下り、次の目的地である波方古館に。この館は16世紀、来島村上氏が本拠を来島城から波方浦に移した地。ここに館を構え、その周囲に複数の城砦を配置した。『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上の領地は来島周辺、菊間、弓削島、周防大島の一部であった、とのこと。

来島村上氏の氏神と称される古社の玉生八幡や来島村上氏の尊崇を受けたとされる長泉寺を見遣りながら、波方古館のあったという「白岩明神社」に向かう。 誠に狭い集落の道をなんとか抜け、港から少し奥まった社らしき石垣の手前に車を置き白岩明神社に。
特に来島村上氏に冠する案内などもない。社はあるものの、神社の由来もない。地区名の白岩が、その名の由来であろうと思うのみ。
境内から波方浦を眺めるに、北を海、社の両側を山に囲まれた景観。防御に適した立地と思える。

玉生(たまう)城
波方古館の両側を囲む丘陵突起部の、波方浦に向かって右手の丘陵部には「玉生城」があった、とのこと。資料は残らないが、館を守る砦といった規模ではあろう。丘陵部へと続く道も地図になく、白岩明神社から城跡らしき丘陵部を眺めるのみに留める。


対馬山砦
波方浦に向かって左手の丘陵突起部には「対馬山砦」があった、とのこと。こちらも資料は残っていないようだ。生玉城とこの対馬山砦のふたつが館防御の最後の拠点であろうか。
地図に丘陵に続く道がある。道を辿り丘陵部へと進むが、特に何といった遺構が残るわけでもなく、適当な箇所で引き返す。

瀬野帯刀神社
対馬山砦を地図でチェックしているとき、砦下に「瀬野帯刀神社」が目に付いた。個人名そのままの神社に興味を引かれ、ちょっと立ち寄ることに。
白岩明神社に向かう細路に難儀したこともあり、この社には車を港近くにデポし歩いて向かう。対馬山砦を背にした社にお参り。社の傍に石碑があり、瀬野家略歴が刻まれていた。石碑を詠むと、「瀨野家略歴 天安年間、紀元1517年、瀨野の祖は京都より当地方に下り、その子孫栄えて豪族となり瀬戸内に威を振ふ。後伊予水軍の雄として保元の乱後崇徳上皇に忠誠を盡し源平の戦には源家の召に応じ壇ノ浦に参戦す。また元寇の役には河野氏に従い、博多湾にて武勲を表す。
中興の祖丹波守帯刀公南北朝時代南朝に奉じ脇屋義助大館氏明らとともに足利方と戦う。
弘和年間来島城主村上氏の重臣となり遠く高麗明国まで倭寇として飛躍す。 元亀天正年間土佐長曽我部と戦い又豊臣氏の朝鮮征伐に参戦す。後松山城主加藤氏蒲生氏に仕う。
子孫開運に従事海商として活躍し日本海運の隆盛に貢献するところ大なり。末孫合力しして社を改建するに当たり当家の略歴を撰してここに記す。 昭和51年吉日」とあった。

天安年間とは9世紀中頃のこと。碑文に「紀元1517」、とあるのは戦前日本で使われていた神武天皇即位を元年とする表記ではあろう。で、この天安年間であるが、それは瀬戸内を揺るがした藤原純友の乱よりも1世紀ほど古く、河野氏の祖である河野通清が歴史の姿を現すのが12世紀末であるから、それよりもはるかに古く、信濃に生まれた村上氏が源平の合戦で源氏に味方し、それもあってか村上定国が越智大島に勢を張り、瀬戸内村上氏の祖となったのは「平治の乱(1160)」の後とされるので、それよりも古くから当地に京から下っていることになる。
その後の略歴をみると、なんとなく河野氏の傘下で活躍したようである。そして、来島村上氏の傘下となったのは弘和年間とする。弘和年間とは南北朝時代の14世紀初頭であり、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』が来島村上氏の祖とする村上通康が登場するのは16世紀の中頃(村上通康;1519-1567)であり、時代が合わないが、それはそれとして来島村上氏の傘下で活躍するが、来島村上が九州に移った後もこの地に残り、松山藩に仕えているようである。

歴史上に登場しない人物ではあるが、このような人物の履歴を読むことにより、歴史にリアリティを感じる。何気なく立ち寄った社で、何気なく読んだ石碑の刻字から、あれこれと想いが拡がる。


大角鼻

波方海賊城砦群(大角の砦)
波方の港を離れ県道166号を高縄半島の突端部に向かう。ほどなく県道は高縄半島を横断すべく左に折れるが、その分岐点で海岸線の道へと右に折れ、先に進むと海岸へと迫り出した丘陵部の切り通しが現れる。「大角の砦」は、この切り通し部の海に面する箇所にあったよう。
切り通し近くに車を停める。切り通し箇所から海に沿って丘陵下を通る道がある。道の途中に「波方海賊城砦群(大角の砦)」の案内があり、「室町時代、波方には来島村上家の居館(住居)の「波方館」があった。来島水軍の里波方は波方館防御ため、付近のいたるところに小規模な海賊城や見張台が構築されて防御態勢が整えられていた。この波方海賊城砦群のように、領主の館(城)を中心に同規模程度の土豪(勢力のある一族)の小砦(小さい城)の集合体で緊密に統一され、いつでも活動できるように構成されている城郭の形態を「群郭複合式」と呼んでいるが、この砦もそのひとつである。この大角の砦は海に面しており、海岸の岩礁の上に無数のさん橋跡の柱穴(ピット)がみられる。」とあった。

道を進むと「六十六番 千手観音」の標識と小祠。(高縄)半島四国遍路八十八箇所のひとつ、とか。昭和32年1957年に波方の長泉寺が提唱してはじまったもので、高縄半島を周遊できるように設置された石仏を巡るものである。
道を進むと、丘陵突端部は少し藪にはなっているが、切り通しとなっており、一周することができた。ついでのことでもあるので、案内にあった「さん橋跡の柱穴(ピット)」を見るため岩礁部に。いままで来島や小島で満潮のために見ることにできなかったピットにはじめて出合えた。


大角鼻
大角の砦跡を離れ、高縄半島の北端にある大角鼻に向かう。斎灘へと北に着き出す岬の丘陵裾は大角海浜公園キャンプ場として整備されている。車を公園キャンプ場の駐車場に停め、道なりに岬の丘陵部へと進む。
千間礒
坂を上り切ったあたりに「千間礒」の案内。「千間磯 伝説では、約10軒の家があったが、夜のうちの嵐にあい流されてしまった。それで千間磯と言われているとも、磯の長さが千間あるので千間磯だともいわれている。海の難所であるが、なかなか景色のよい磯であり、また、魚釣りの名所である」と説明がある。
とは言うものの、千間礒って何処?あれこれチェックすると、どうも大角鼻の北西の沖合にある沖磯を指すようである。磯には灯台があるが、満潮時には灯台のみを残し、磯は水没するとのこと。散歩当日は千間礒が何処を指すのかわからなかったのだが、何気なく撮った大角鼻の沖合に、幸運にも灯台らしきものが映っていた。

大角鼻番所跡
岬の突端にある展望書の四阿(あずまや)から階段を下りきった、岩礁部手前に「大角鼻番所跡」の案内。「大角鼻番所跡 大角鼻の平坦部に伊予水軍の番所跡の曲輪が残っているが、付近は風波により侵食されつつある。また人前方岩礁上には、桟橋跡の柱穴(ピット)が残っている」とあった。大角鼻には近世の松山藩の番所もあったようである。
ところで、「大角」って何だろう?気になってチェックすると、どうも戦闘時に兵士を鼓舞する角ふえ、のことを指すようである。「村上水軍の「軍楽」の研究 第二章 「軍楽」史の考察(せとうちタイムズ)」のページに、以下のような記述があった;
「本朝ノムカシ鼓鉦ヲ用フルノミニアラズ大角小角トイフ吹モノヲモ用フスベテ此ノ事ヲ鼓吹司ニツカサトリ(日本は古代、鼓鉦だけではなく大角小角という吹物も用いた。その全ては鼓吹司が担った)」 「楊氏漢語抄ヲ引キテ大角ヲ波羅乃布江小角ヲ久太能布江トヨミタリ(『楊氏漢語抄』(八世紀頃の辞書)によると、大角を波羅乃布江、小角を久太能布江と読む)」
「我ガ朝ニハ宝螺ヲ用ヒ来タリシヨリ此ノ物ハスタリシニヤ(日本では、法螺貝を用いたため、これらの角ブエは廃れてしまったようだ)」 どういったものは定かにはわからないが、日本では法螺貝が取って替わった「角笛」といったものだろう。
で、その角笛を何に使ったか、ということだが、大宝律令制定の昔、大角(角笛>法螺貝)と烽燧(とぶひ:狼煙:のろし)により、敵の襲来を知らしるものではあったようである。

メー卜ル立標建造の由来について
岩礁部を歩き、ピットらしき窪みを探す。岩礁先端部に立つ施設は何だろう? と右手を見ると、海岸近くの岩礁横に石柱が立つ。ちょっと気になり元に戻ると案内があり、「メー卜ル立標建造の由来について」とある。説明には「1904(明治37)年に勃発した日露戦争当時、小島にバルチツク艦隊を迎え撃つために12門の砲台が作られたが、砲台と敵艦隊との距離、方位を測定するため当地に建造されたものである。
建造材料は主として石灰を使用しており、先人の話によると時折、小島の見張所から探照灯で照射する姿が見えたそうである。
しかし1916(大正5)年倒壊してしまい、現存しているものは復旧後の物である。
その後小島の砲台は不要となり、日本軍の手で破壊されたが、立標はそのまま現在まで残された。
当時国民は計量の単位として尺貫法を用いていたが、海軍は英国との関係が深かったため立標にメートル単位を刻んでいる事から、『メートル棒』と呼ばれていた」とあった。先日訪れた小島の要塞跡を想い出す。

天満見張台跡(狼煙台跡)
大角鼻を離れ、岬突端部から西岸部を少し南に下ったところにある天満見張台跡に向かう。一度駐車場に戻り丘陵に登り、そして道なりに海岸に下る。防波堤手前に車を停め、防波堤を越えて西に突き出た岬の下の岩礁部を歩くと、岬突端下の岩礁部に案内があり、そこには「大角鼻遺跡群 ここ大角鼻には、縄文時代以降の遺跡が数多く残されている
(イ) 天満見張台跡(狼煙台跡)
岬の先端の丘の上にあったもので、宮崎の?燧(とぶひ)と同時期に設置されたもので、狼煙の大角(ほら貝)を使って合図していたようである (ロ) 水軍住居跡
天満見張台から東側大角鼻に向かう谷間は海からまったく見えないため、伊予水軍(海賊)の良い隠れ場所であった。付近には古井戸・住居跡などの遺跡が点在している
(ハ) 大角鼻の平坦部に伊予水軍の番所跡の曲輪が残っているが、付近は風波により侵食されつつある。また、前方岩礁上には、桟橋跡の柱穴(ピット)が残っている、とある。

天満見張台は岩礁部から見上げる丘陵部尖端にあったのだろう。また宮崎の?燧(とぶひ)とは、後ほど訪れる梶取ノ鼻にある?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)のことだろう。大宝律令(701)の中の軍防令によって各国に軍団が置かれ、外敵の侵入に備えて、敵の侵攻ルートと想定される箇所には?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)が設けられたとのことであるので、古く8世紀初頭にまでその歴史は遡ることになる。
水軍住居跡は、車で防波堤まで下る途中の丘陵に囲まれた一帯のことだろう。「大角鼻の平坦部云々」は先ほど大角鼻にあった番所案内のこと。

高縄半島の突端である大角鼻は、梶取ノ鼻と同じく、大宝律令後に大角(だいかく:法螺貝:ほらがい)と、烽燧(とぶひ:狼煙:のろし)の場が設けられ、戦国時代には、村上氏来島城を守るための番所が設けられた。隣接する天満鼻見張台、大角ノ砦と相まって、来島海峡の守りを固める拠点として機能していたのではあろう。

西浦砦跡
次の目的地は「西浦砦」跡。天満見張台跡の南の海岸脇にある。車のデポ地から一度丘陵に登り返し、道なりに下り県道166号を海岸線に沿って下った西浦荒神社の辺りがその地とのこと。
神社下の道脇に車を停め社にお参り。手書きの素朴な案内があり、「主祭神は大己貴命、事代主命、素戔嗚尊で、いつごろできたかはっきりしないが、玉生八幡神社末社としておかれていた。来島水軍時代、来島に大根城を置いたが、来島城を守りぬくため、そのまわりに幾多の城砦を築造したが、その砦群の一つではないかと思われる」とあった。

荒神信仰
荒神さま、って竃神(かまど)として台所に祀られるお札としては知ってはいるのだが、この神様は未だ解明できない謎の神様のようである。Wikipediaに拠れば、大雑把に言って、荒神信仰には2系統あり、ひとつは竃神として屋内に祀られる「三宝(寶)荒神」、そしてもう一方は屋外に祀られる「地荒神」である。
屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
また、Wikioediaには「荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である」とあるが、これは地荒神のことであろうか。屋内の竃神としての「三宝荒神」のお札は、あたりまえのように東京の我が家にも祀られているわけだから、大方の家には「三宝荒神」のお札が祀られているのではないだろうか。

第一回の散歩はここで時間切れのため終了。高縄半島から斎灘に向かって西に突き出す梶取鼻は次回に廻す。