土曜日, 8月 26, 2006

品川区散歩 そのⅡ;立会川跡と品川用水跡を辿る

目黒区を歩いていたとき、立会川の川跡、そして品川用水跡に出会った。立会川って、前々から気になっていたのだが、川筋がよくわからなかった。品川のこのあたりの地形についての説明には、「目黒川と立会川の」といった風にペアで書かれることが多い。立会川の源流を目黒で「掴んだ」。
また、先回の散歩で河口付近、京浜急行「立会川」駅に出会った。源流点と河口が分かったわけなので、途中の流路は、とチェック。JR大井町駅から東急目黒線・西小山駅あた りまで「立会道路」が続いている。これが、流路であろう、ということで、今回は「立会川」散歩に向かう。ついでのこと、というわけでもないけれど、目黒区散歩のとき、「林試の森」のあたりで出会った「品川用水跡」も辿る。(土曜日, 8月 26, 2006のブログを修正)


本日のルート;

①立会川:京急立会川>天祖諏訪神社>旧東海道>土佐藩抱屋敷跡・浜川砲台跡>立会川>立会道路>島津藩抱屋敷>JR大井町駅>立会道路>「二葉町・大井町」>西大井広場公園>JR横須賀線・西大井駅>「二葉町・西大井町」>第二京浜・国道1号線>中延>東急大井町線・荏原町>「旗の台町」>東急池上線・旗の台付近>中原街道>「旗の台・荏原町」>東急目黒線・西小山駅>目黒区・原町>立会川緑道

②品川用水;補助26号線・小山台2丁目>お猿橋庚申堂>東急目黒線・武蔵小山駅>小山2丁目・朝日地蔵堂>「荏原町」>中原街道・平塚橋交差点>「平塚町」>第二京浜・国道1号線>「戸越町」>戸越公園手前を南>東急大井町線。戸越公園駅>「豊町」>JR横須賀線>「二葉町」>東急大井町線・下神明駅>「しながわ中央公園」>西品川1丁目>JR横須賀線>西品川2丁目・3丁目>百反坂>JR大崎駅

京急・立会川駅
京急・立会川駅で下車。駅前には少々昭和初期の雰囲気をかもし出す商店街。駅前の地図で周辺を確認。立会川は駅のすぐ南を流れる。商店街を少し東に進むと旧東海道。先回歩いたところ。旧東海道にかかる浜川橋に再び向かう。別名「泪橋」からあたりを眺め、商店街に戻り北に進む。ちょうど夏祭り。お神輿が進む。 立会川のすぐ南にある「天祖諏訪神社」の祭礼、とか。
商店街を進む。商店街、というよりも、なんといいましょうか、下町の路地裏、といった雰囲気ではある。いい感じ。で、「坂本龍馬」の幟が商店街にひらめいている。このあたりは、というか、さきほどの旧東海道のあたりなのだが、先回メモしたように昔は土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡。抱屋敷にはペリー来航に臨み、嘉永6年(1853年)砲台がつくられる。浜川砲台がそれ。で、龍馬、嘉永6年のこの頃は江戸で剣の修行中。ペリー来航に対する土佐藩下屋敷警護のために、土佐藩士はこの地に集められる。龍馬もそのひとり。龍馬の志士としての活躍は、この地からはじまった、ということか。

立会川・立会道路
第一京浜(国道15号線)を越え、これもつつましやかな商店街を進む。商店街が切れるあたりで、少し脇に折れ、「立会道路」に。川筋に「立会川導水」の案内。JR東京駅の総武線のあたりの地下水をここまで運び、河川の汚れを防ぐ、と。散歩をしていると、川のところどころでこういった導水計画に出会う。呑川の上大岡あたりには高田馬場近くの落合の下水処理場から「高度処理水」が送られてききていたし、同じく呑川の下流部には馬込あたりの地下鉄工事の際の地下水が送られてきている。川、って、そんなもんだったっけ。

月見橋で暗渠に
河口部から開渠だった立会川は、この導水が流れ出す「月見橋」あたりで暗渠となる。石畳っぽい雰囲気でつくられた散歩道・「立会道路」をJRの線路に沿って進む。
旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡の案内。東大井6丁目から東海道線を越えた大井4丁目をカバーする広大な敷地。安政3年(1856年)、島津斉彬の父である、島津斉興(なりおき)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていた、と。

見晴らし通り

一筋東に「見晴らし通り」。名前に惹かれてちょっと寄り道。建物が多く、見晴らすことはできなかった。が、通りの両端には南に「ヘルマン坂」、北に「仙台坂」といった坂の名前が見える。ゆるやかな台地ではあったのであろう。カシミールでチェックすると、台地部分は標高15m程度。台地下とは5mから10m程度の標高差があるよう。

JRとの交差・大井陸橋
Jrとの交差・大井陸橋に。川筋跡は大井駅の南端まで続く。道を進み川筋がJRと交差するところで線路に沿って北に進む。JR大井町駅の通路を越え、駅の西側出る。周りを

見渡すと北西方向に緑が。そのあたりが「立会道路」の続きであろう、とあたりをつけて進む。中央に緑道。左右に車道が通る。看板に「立会道路」と表示。先に進む。

JR横須賀線・西大井駅
大井と二葉地区の境を進む。西大井広場公園を越えるとJR横須賀線・西大井駅。駅を越え、二葉と西大井の境を進む。緑道はなくなり、普通の道路。今年最高の猛暑の中、日蔭が恋しい。

中延
第二京浜・国道1号線を越える。中延に入ると、ふたたび緑道、っぽくなる。近くに「源氏前小学校」とか「源氏前図書館」。このあたりは源氏にゆかりのところ、か?中延の横に「旗の台」もあるし、例によって「源の何某」がこのあたりで戦勝を祈願し、旗を立てた、って故事などあるのだろうな、と想像。

旗岡八幡神社

緑道を進み、東急大井町線・荏原町駅を「くぐり」進む。「旗岡八幡神社」。13

世紀、この地の領主・荏原左衛門義宗が、曽祖父と言われる源頼信から受け継いだ八幡様をまつったのがはじまり。旗岡とか旗の台の地名も、この源頼信が下総の平忠常の乱を平定に赴く際、このあたりの台地に陣を張り源氏の白旗を立てて戦勝を祈願した、から、と。想像通り。源氏前って名前はこの八幡様の前といったところか。tなみに、中延の由
来。荏原郷の中心に広がる(延びる)といった意味、かも。中原街道とか池上道が延びているところでもあるし、結構納得。

東急池上線・旗の台駅を越え中原街道と交差
大井町の駅 から弧を描くように西に進んだ「立会道路」は、この荏原町駅を越えたあたりから今度は北西に弧を描くように進む。東急池上線・旗の台駅を越えるとすぐに中原街道と交差。昭和大学病院横の緑道・立会道路を進む。荏原5丁目、小山5丁目を越え、東急目黒線・西小山を過ぎるとそこは目黒区・原町1丁目。立会道路もこのあたりで終了。その先は立会川緑道となる。

ここから少し進むと、碑文谷八幡から続く東に続く目黒区の立会川緑道と交差。これで「襷」がつながった。
立会川の名前だが、戦国時代に上杉と小田原・北条が、この川を挟んで合戦をした、「太刀合った」から、とか、この近辺に野菜の市が立ったから、とかこれも例によっていろいろ。
河口の立会川駅からほぼ6キロ弱といった立会川巡りは終える。2時間程度で歩き終えた。日暮れまでにはまだ十分時間もある。予定通り林試の森近くの品川用水の品川ルートを歩こう、と思う。



より大きな地図で 立会川と品川用水 を表示 (品川用水跡)

品川区・小山台2丁目
碑文谷八幡から東に進む立会川緑道が、南に流れを変えところ、丁度向原小学校のところから、真北に進む。補助26号線と交差。清水池から東に進む道路が補助26号と交差するあたりでもある。このあたりは品川区・小山台2丁目。品川区が目黒区に三角形に刺さっている、感じ。品川用水の品川区での始点でもある。
品川用水のメモ;旱魃に悩まされていた品川領2宿7カ村が、幕府に願い出て寛文9年(1669年)に完成した農業用水路。水源は玉川上水。境村(現在の三鷹市境3丁目)で分水され、三鷹市、世田谷区、目黒区を通り、小山台1丁目で品川区に入る。用水は小山台2丁目(地蔵の辻)で二股に別れ、左手は百反坂方面に下り、桐ヶ谷、居木橋へ。右手は戸越から大井村までの田畑の灌漑に供していた。大正から昭和には急激に都市化が進み、排水路と変わり現在では道路や下水道となっている。

小山台小学校近くにお猿橋庚申堂

品川区と目黒区の境を進む。これって品川用水の水路跡、だろう。品川区小山台小 学校を少し進んだところに「お猿橋庚申堂」。延宝2年(1674年)につくられたもの。案内によれば、品川用水に沿って北上する碑文谷道のほとり、お猿橋付近に立てられていた、とか。元の位置より少し目黒方面に移されている。

朝日地蔵堂

商店街を進み、東急目黒線・武蔵小山駅付近で線路を渡る。少し進むと朝日地蔵堂。スーパーマーケットの脇に、それでもきちんと手入れよく、立っている。江戸時代初期、戸越村の念仏講によって造立。「朝日」の名前の由来は、世田谷区奥沢の九品仏・浄真寺の上人が、修行のため毎日夜明け前に寺を出て、芝の増上寺まで通っていたのだが、このあたりで夜が明け、朝日がのぼったので、と。地蔵の辻とも呼ばれる。
辻の橋で用水は分岐
用水はこの辻の橋でおおきく二つに分かれる。ひとつは、上にメモしたように、ここから東に進み中原街道と交差、百反通りを下り、JRが目黒川と交差するあたり・「寄木橋」方面に進む。もう一方は南に進路を変え、ほぼ一直線に補助26号と中原街道との交差点に向かう。今回は南へのルートを歩く。

戸越屋敷
中原街道へ交差の途中に「旧讃岐丸亀藩・京極家抱屋敷跡。「戸越屋敷」とも呼ばれ、ここから上屋敷に野菜や薪を供給していた、と。ために、地元とのつながりも強く、明治維新後も屋敷内にあった「稲荷神社」は大切にまつられ、現在も「京極稲荷神社」として残っている。

中原街道と交差


中原街道と交差。中原街道は江戸城と中原御殿を結ぶ道。中原御殿は平塚中原(現在の平塚市御殿)に。中原街道の始点は、もとは桜田御門。江戸城の拡張にともなり、虎御門、のちの虎ノ門が始点となる。虎ノ門とか桜田御門って、丸亀藩・京極家の上屋敷のあったあたり。虎ノ門交差点のところにある「金毘羅神宮」は京極家の屋敷神、のはず。丸亀藩・京極家抱屋敷>中原街道>丸亀藩・京極家・上屋敷、と思いがけない「襷」がつながった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

平塚橋
中原街道との交差点は平塚橋と呼ばれる。品川用水と旧中原街道の交差するところにかけられていた橋の名前。平塚の地名は、新羅三郎・源義光の墓と伝えられる「平たい塚」があった、から。平安時代中期、奥州での清原氏の内紛・後三年の役の平定の帰り、新羅三郎・がこの地に野営した、と。平塚橋から南東に下る。戸越地区。戸越の由来は、「江戸を越えてくる」といった説も。

戸越公園

第二京浜を越え、戸越公園につきあたる。戸越公園は旧熊本藩細川家抱屋敷跡。品川用水ももともとはこの抱屋敷の庭園に人工の滝をつくるために、といった説もある。先日あるいた本郷の千川用水も小石川御殿に上水を供給するために掘られたわけだし、あながち間違いでもない、かも。ちょっと公園も歩いてみたいのだが、少々時間もなくなってきた。気力も失せかけてきた。で川筋跡に沿って公園手前を南に下る。

東急大井町線・戸越公園駅

東急大井町線・戸越公園駅近くを越える。川筋は半円を描くようにカーブする。川筋跡はよくわからない。が、豊町3丁目、四間通りを越え南東に下り、豊町4丁目あたりで反転し北東に上り、JR横須賀線と東急大井町線が交差する下神明駅辺りまでのぼっている、よう。
下神明って、結構ありがたい名前。近くに下神明天祖神社。これが名前の由来か、と思った。が現実は少々複雑。もとはこのあたり、上蛇窪(村)、下蛇窪(村)と呼ばれていた。が、新参者が「蛇も窪も暗い、じゃん」といったことで、ちかくにあった上神明天祖神社、下神明天祖神社の名前を取り、上神明町、下神明町に。蛇窪駅も戸越公園駅と。しかし、またまたの町域変更。北を豊町、南を二葉町、と。豊と二葉も、なんとなく「めでたそう」ということでつけられた、歴史もなにも無視した町名。で、下神明駅名が今に残るって按配。

JR東日本東京総合車両センター

川筋はここから「しながわ中央公園」のあたりを越え、西品川1丁目、三ツ通り木、妙光寺あたりまで北東にのぼり、広町2丁目のJR東日本東京総合車両センターの敷地内に進んでいる。その後は広町1丁目にから北に進み、三獄橋あたりで目黒川に合流する。
JR東日本東京総合車両センターの敷地手前で今回の散歩は終了。JR大崎駅に向かう。途中、台地を下る坂道に。百反坂。昔は階段状のなっており、「百段」、後に坂となり「百反」と。この百反坂は地蔵の辻で分岐したもうひとつの流路筋。百反通りから居木橋への流れをイメージしながら、駅に向かい本日の予定終了。

品川の地には東急が入り乱れて走っている

ちょっと気になったことがある。この品川の地には東急が入り乱れて走っている。池上線(五反田_蒲田)、大井町線(大井町_二子玉川)、目蒲線(目黒_蒲田)。 どうしてこの地帯に電車路線が込み合っているのか理由はよくわからない。想像ではあるが、池上本門寺とか御岳神社、目黒不動を結ぶことは当時のドル箱路線であったのだろう、か。それともうひとつの理由は、もともとが、別の会社であり、お客の多い地域を結ぶ競争を繰り返していた電鉄会社が、後にひとつになった、ということ、か。
池上線は、もとは池上電気鉄道。昭和9年に、のちに東急となる目黒蒲田電鉄に吸収されたわけだし、これって、当たらずといえ でも遠からず、って印象。池上電気鉄道は当初、大森から池上を経由、御岳山、洗足池、荏原を経て、目黒不動をかすめ省線の目黒駅に至るルートを想定していた。が、資金不足か何なのか、もたもたしているうちに目黒への路線は目黒蒲田電鉄に先を越された。大森への路線も用地買収が思うにまかせず、結局現在の路線となった、とか。
当初の計画では大井町線からはじめる計画を、目黒という交通の要衝を押さえるべく、目黒から蒲田への路線を展開した目黒蒲田電鉄って、後の東急。五島慶太の指揮のもと、戦前には京急、京王、小田急も吸収し「大東急」となった。時間ができたら、東急の歴史など調べるのも面白そう。

JR目黒駅って品川区にある

それからちょっと気がついたこと。JR目黒駅って品川区にある。この前の散歩にメモしたが、JR品川駅は港区にある。目黒駅のケースは目黒区の、というより、目黒不動への最寄り駅といった意味。元々は目黒川沿いに建設する予定が変更になった、ため品川区域に。目黒駅あたり、上大崎地区に不自然に延びる品川区域って、どういった事情でできたのが、ちょっと調べてみたい感じ。
JR品川駅が品川区にあるのは、品川宿の人々がSLの煤を嫌がった、ため。小 岩だったか新小岩だったかも、同じような事情で鉄路から離れた。足立区の花畑あたりも列車の騒音を嫌い、路線は竹ノ塚に。とはいうものの、鉄路による繁栄から残されたおかげでで、現在の旧東海道・品川宿があるわけで、足立の花畑地区の自然があるわけで、どちらがよかったかは、その時代によって評価の分かれるところ。衣食足っての現在は、竹ノ塚の喧騒より花畑の静けさは有り難いと思うのは、言うまでも無い。

木曜日, 8月 24, 2006

品川区散歩そのⅠ:大井から品川宿を歩く

目黒散歩を終え、品川に移る。とはいいながら、品川については、「品川宿」以外、これと言ったランドマークが思い浮かばない。ということで例によって、郷土歴史館に行き、あれこれ資料を求めることからはじめる。(木曜日, 8月 24, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR大井町駅>作守稲荷神社>西光寺>光福寺>品川歴史館>来迎院>太井の水神>鹿島神社>大森貝塚碑>JR東海道線>「南大井」>京急>大 経寺>鈴ケ森遺跡>旧東海道>天祖諏訪神社・厳島神社>浜川砲台跡>土佐藩下屋敷跡>鮫洲八幡神社>海あん寺>海雲寺>品川寺>天妙国寺>荏原神社>品川宿本陣跡>京急・北品川駅>品川神社>ゼームス坂>JR大井町駅

JR大井町下車
Jr大井町下車。大井6丁目にある郷土歴史館に。正確には品川区品川歴史館。線路に沿って南に進む。大井西銀座を通り、JR大井陸橋西詰の大井三又交差点に。

作守稲荷


道路脇にある道案内をチェック。歴史館への道筋に作守稲荷、西光寺、光福寺などが。大井4丁目には作守稲荷。もともと薩摩藩抱屋敷内にあった屋敷神。慶応年間(1865-1868年)、この抱屋敷跡を島津家から譲り受けた太井村の平林九兵衛が、稲荷社のあたりを開墾。作物を守る、ってことから「作守」となったのだろう、か。西光寺は鎌倉時代の創建と伝えられる。

光福寺
大井6丁目には光福寺。創建は奈良時代末期。境内の大イチョウが名高い。明治までは江戸湾の漁師の目印にもなっていた、とか。後でわかったのだが、境内に横穴式の井戸。このお寺を開いた上人さまの産湯の井戸、との伝えあり。その井戸の名前が「大井」。地名・大井の由来、とか。
とはいうものの、平安時代後期の12世紀の前半には、大井氏とその一族の品河氏が現在の品川区域を支配し、源平の争乱を経て鎌倉幕府の御家人となった、という記録もあるわけで、「大井」の由来も諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

品川歴史館
品川歴史館。『品川歴史館常設展示ガイド』『しながわ史跡めぐり』『品川用水』『品川区史跡めぐりマップ』などの資料を買い求める。資料をもとに本日のルートを検討。目黒散歩で出会った立会川、品川用水跡巡りのルートはほぼ「掴んだ」。あれこれ考えたが、結局は、「品川といえば品川宿でしょう」、ということで、歴史館から品川宿方面への散歩に決定。

来迎院
品川宿って、JR品川駅あたりか、と勝手に思っていたのだが、実際は京浜急行・北品川駅から青物横丁あたり。歴史館を離れ散歩にスタート。
歴史館のすぐ横に台地を下る坂。坂の途中に来迎院(大井6丁目)。平安中期の創建。将軍の御鷹場であった大井・大森での鷹狩の折り、将軍家光がこの寺を休息所とした、と。

大井の水神
坂を下る。JRの線路を越えてすぐのところに「大井の水神」。水が威勢良く「湧き出て」いる。が、現在はポンプでの汲みあげ。江戸時代には、ここに地下水が自然に湧き出ていた。地元の人たちは湧水を「水神」としてまつり、九頭龍権現社として祠をたてる。社の傍に柳があったことから「柳の清水」とも。
品川の地は目黒川、立会川の流域以外は丘陵地。水利に恵まれてはいない。で、この大井の水神のように、台地の切れる崖地から湧き出る湧水を大切に思い、「水神」さまとして祀ったわけだ。ここ以外には西大井3丁目の「大井・原の水神池」などがある。

鹿島神社

下った坂を再び上る。台地上、というか、先ほど訪れた来迎院の東に鹿島神社。西暦969年、南品川の常行寺の僧が鹿島神宮を勧請したのがはじまり。なぜ品川の地に鹿島か、ということだが、この品川湊って、中世には全日本的規模の海上交通の要衝であったわけで、紀伊半島や東海地方から太平洋を渡ってくる航路と、旧利根川・常陸川水系を通って銚子沖から東北地方に通じる航路を結ぶ重要な湊であった。
鹿島神宮って、茨城県鹿嶋市にある。鹿島神宮の祭祀圏、というか鹿島神宮を崇める人たちが、この品川湊で活発に活動していたのであろう。
境内に品川用水を記念する「恵澤潤洽の碑(けいたくじゅんごう)」。品川用水は、玉川上水からの分水の一つ。正確には玉川上水の分水である仙川用水から分けて作られた。目黒から品川にかけては台地が多く、水田はごく僅かであった。が、この用水によって水田開発が進む。当初82石あまりだったものが開通後121石に増えた、とか。その用水も、明治以降の都市化による水田の廃止にともない役割を終えていった。この碑は品川用水が人々の生活に貢献したことを讃 えるためにつくられた。

大森貝塚碑
鹿島神社を離れ台地上の道を大森方面に進む。大田区との境に「大森遺跡庭園」。入口を進み、JR線路のすぐ脇に「大森貝塚碑」。明治10年、米国人エドワード・モース博士によって発見された貝塚跡。東京大学の教授として、貝類の研究目的で来日し、横浜に上陸。翌々日、東京に向かう汽車の窓から線路脇の切通しに露出する貝殻を見かける。貝塚と見抜き、発掘調査。日本で最初の学術的発掘調査。日本考古学発祥の地でもある。

鈴ケ森刑場跡
公園の北の道を東に進む。JRをくぐり南大井の町を東に一直線に歩く。京浜急行を越えると「鈴ケ森刑場跡」。先日訪れた「小塚原刑場」とならぶ江戸期の処刑場跡。刑場跡のすぐ西を旧東海道が通る。東海道に面したこの刑場は間口80m弱。奥行き17m弱といったところ。予想よりこじんまりしている。
最初に処刑されたのは由井正雪の乱の丸橋忠弥とも言われる。慶安4年(1651年)に開設。明治4年(1871年)に廃止されるまでに、白井権八、天一坊、八百屋お七などがここで露と消えている。
白井権八って、目黒散歩のとき、目黒不動の門前の「比翼塚」で出会った。白井権八は芝居・浄瑠璃での名前。本名は平井権八。鳥取藩士。父の同僚を殺害し江戸に逐電。吉原の遊女・小紫と馴染みになり、金に困って人を殺める。舞台は隅田散歩で歩いた「日本堤」。逃亡、改心、そして自首、そして刑死。吉原を抜け出した小紫は、墓前で後追い心中。ふたりを哀れんで建てられたのが「比翼塚」。天一坊は将軍吉宗公の御落胤をかたる。
八百屋お七。火事で避難したお寺の小姓・吉三郎をみそめたお七は、火事が起これば恋しい吉さんに会える、との思いから放火・刑死。ちなみに、鈴ケ原の名前の由来は、大井村の隣、大田区の不入斗(いりやまず)村にあった鈴森(すすがもり)八幡宮(現在は、盤井神社)から。この神社に鈴石があり、「鈴石のある社の森」ということから。

旧東海道

旧東海道を北に進む。実のところ、旧東海道がここにあるとは思ってもみなかった。品川宿の散歩、と思っていたのだが、奇しくも品川宿と旧東海道を合わせて歩けることとなった。

浜川神社
少し進む。浜川神社。もとは修験者・了善がまつった「疫神大明神」。この了善、天保年間(1830-1844年)、将軍家斉の病気平癒を祈願し,効あり。と いうことで、大奥に信を得た。が、悪名高い、と言われている、南町奉行・鳥居忠耀に嫌われ、将軍呪詛の濡れ衣を着せられ三宅島に遠島処分。忠耀失脚後、許されるも了善は既に無く、その孫が再建。明治になって「浜川神社」となる。

立会川と交差
南大井1丁目を進む。立会川と交差。ここが立会川のほぼ河口。源流点からここまでの流路は掴んだ。次の機会にこの川筋を歩く、べし。川の手前に「天祖諏訪神社」。境内には「厳島神社」も。「天 祖」神社はもと、「神明社」。伊勢神宮を勧請。「諏訪」神社は信州諏訪大社を勧請。昔は、立会川を挟んで、あったらしいが、昭和40年、天祖神社のあった現在の地に合祀された。

泪橋
旧東海道に浜川橋がかかる。この橋、別名「泪橋」。ここから少し西にある「鈴ケ森刑場」に送られる家族を、この橋で泪ながらに見送った、というのがその名の由来。

土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡

立会川を越え、東大井2丁目を歩く。このあたりは土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡。抱屋敷って幕府からの拝領地ではなく私有地。この抱屋敷は揚場、って言うから、倉庫といったところか。15代藩主・山内豊信(容堂)候が安政の大獄に連座し隠居・謹慎したのはこの下屋敷。また、抱屋敷にはペリー来航に臨み、 嘉永6年(1853年)砲台がつくられる。浜川砲台がそれ。江戸で剣の修行中の龍馬もペリー来航に対する土佐藩下屋敷警護のため、この地に集められた、とか。

鮫洲八幡神社
東大井1丁目に進む。京急・鮫洲駅近くに「鮫洲八幡神社」。かつての「御林猟師町」の鎮守さま。この「猟師」って表記、昔は「漁師」の意味で使われていた、とは深川あたりの散歩のときにメモした。御林ってことは、幕府のもつ雑木林を切り開いて作られた土地、ということ。隣の品川浦とともに、江戸城に鮮魚を納める「御菜肴(おさいさかな)八ケ浦」として発展した。
鮫洲の「鮫」って、熊野三党、つまりは鈴木・榎本・宇井氏の紋章。「鮫の牙」をデザインしている。品川湊には鈴木道胤や榎本道琳といった熊野出身の有力者・有徳人が活躍している。鮫洲の名前も、熊野とのつながりでできたものだろう、と思う。

海雲寺

南品川3丁目に進む。京急・青物横丁の近くに海雲寺。鎌倉時代中ごろの創建。「品川の荒神様」と呼ばれる。境内の雰囲気は少々寂しい。境内に「平蔵地蔵」。武士の落とした財布を届けた貧しき平蔵。仲間に詰問され、撲殺。それを聞き及んだ、その武士が菩提をとむらうべくつくったお地蔵さん。いまひとつ、言わんとするところがよくわからない。青物横丁とは、江戸時代、この地に青物(野菜・山菜)の市がたった、から。

海晏寺(かいあん)
京浜急行の西、第一京浜・国道15号線の向こうに海晏寺(かいあん)。鎌倉時代の建長3年(1251年)、執権・北条時頼が鎌倉・建長寺の蘭渓道隆を迎え開 山。岩倉具視が眠る。とはいうものの、横断歩道は近くになく、国道を隔てて眺めるのみ。あとでわかったのだが、一般参拝はできなかったよう。

品川寺

品川寺。読みは「ほんせんじ」。平安時代の開創。本尊水月観音像は、この地を訪れた弘法大師が領主・品河氏に与えたもの、とか、太田道潅の持仏であったとか、いろいろ。
境内にちょっと大きなお地蔵様。江戸六地蔵のひとつ。江戸の入口・六箇所につくられたもので、この地のほかには浅草、新宿、巣鴨、深川に2箇所あった、という。
ところで、品河氏って、この地に12世紀に登場した在地領主・大井実直(さねよし)の一族。実直の子実春は大井郷を相続、弟の清実(きよざね)は品川郷を相続し品河氏と名乗る。ともに源氏の御家人として平氏と戦い、その軍功により大井氏は伊勢・薩摩、品河氏は伊勢・近江・和泉・陸奥・紀伊にも所領を得る。大井氏は14世紀には北条氏によりこの地の支配権を失う。また、品河氏も15世紀の初めには鎌倉公方より所領を没収され、両氏の支配は幕を閉じる。

天妙国寺
「ジュネーブ平和通」を越える。仙台坂からの通りが第一京浜、京浜急行を越え東に進むこの道筋を過ぎると、旧街道の西に「天妙国寺」。鎌倉時代に日蓮の直弟子・ 天目上人が開山。15世紀の半ばには、品川湊の有徳人・鈴木道胤親子が17年の歳月をかけ七堂伽藍を建設。戦国時代の北条氏の庇護も受ける。合戦に際しても、この寺での「乱暴狼藉を禁ずる」高札を出していたほど。家康も江戸入府の折に、この寺に宿泊。翌年には10石の寺領を受けた。広大な寺域を誇るお寺様、であった。
ジュネーブ平和通、って、ジュネーブ市と姉妹町にでもなっているのだろう。また、仙台坂って、このあたりに仙台藩・伊達家の下屋敷があった、から。

長徳寺

先に進むと長徳寺。室町中期の創建。本堂左に閻魔堂。「南品川のおえんまさま」として信仰を集める。常行寺は平安時代の創建。長保年間(999-1004 年)には武蔵・相模で末寺500を数える大寺、であった、とか。先ほどメモしたように、鹿島神社を勧請したのがこのお寺の上人さまであった、よう。
心海寺、本覚寺海徳寺と道筋に寺院が続く。江戸時代後期には品川宿に25ものお寺があった。そのうち江戸以前からのお寺が23。中世からこのあたりが湊として開けていたことがわかる。
目黒川を渡り荏原神社
目黒川を渡る。荏原神社。南品川宿の鎮守さま。「南の天王様」と呼ばれる。創建は和銅2年というから西暦709年。平安時代・康平5年(1062年)、源頼義、義家親子が奥州安倍氏追討の折、府中の大国魂神社とこの神社に参詣、品川の海で身を清めたとか。大国魂神社で5月のお祭りに品川沖の海上で潮を汲むのは、この故事によるのだろう。住所は北品川だが、これは目黒川の改修工事により、神社の南を流れるようになった、ため。昔は目黒川を境に、北品川・南品川と地名が分けられていた。

品川本陣跡
街道から少し東に入り、山手通りの脇に「品川本陣跡」。北品川宿の本陣。本陣とはもともとは、戦場での司令部といったものだが、参勤交代の制度が整うにつれ、宿場での大名の定宿のことを指すようになる。もとは北と南に本陣があった。が、南品川宿の本陣は早くにすたれ、この北品川宿のみ、となった。明治維新には京都から江戸に向かった明治天皇の宿舎・行在所としても使われた。



寄木神社

山手通りを隔てて南に寄木神社。江戸期には寄木明神社と呼ばれていた。日本武尊(やまとたける)をまつる。海上を上総に渡る日本武尊。海が大荒れ。妃弟橘姫命が海神の怒りを鎮めるべく海に身を投げ、難を逃れる。このときの船の一部、一説には姫の衣類が品川沖に流れ着く。漁師が拾って祀ったのがはじまり、とか。日本武尊、弟橘姫命の話も散歩のときによく現れる。「あずま(吾妻)はや」のあの歌とともに。

一心寺
先に進む。一心寺。安政 2年(1855)、大老・井伊直弼の「品川宿にて鎮護日本・開国条約を願え」との啓示を受け、町民の手によって建立された。法禅寺。南北朝時代、法然上人が奥州にいる弟子に、自ら彫った仏像を陰陽師を使いに奥州に。が、この地でその像が動かなくなる。
で、草庵を建てて安置した、とか。いやはやお寺が多い、こと


土蔵相模跡

京浜急行・北品川駅近くに土蔵相模跡。歩行新宿(かちしんじゅく)にあった食売旅籠屋(めしうりはたご)。外壁が土蔵のような海鼠(なまこ)壁であったため土蔵相模、と。幕末には品川御殿山のイギリス公使館建設に反対する、攘夷論者の高杉晋作・久坂玄瑞らがこの宿 で密談し、公使館焼き討ちを実行した。1977年取り壊し。歩行新宿って現在の北品川1丁目のあたりを指す。

問答河岸跡
すぐ先に問答河岸跡。北品川にあった荷揚げ場。3代将軍家光が東光寺を訪れたとき、沢庵和尚が出迎え、問答をしたことからこの名が。『徳川実記』;将軍曰く「海近うしても東(遠)海寺とはいかに」。沢庵応えて曰く「なお大君にして将(小)軍と称し奉るがごとし」、と。東海寺は三代将軍家光が沢庵和尚のために建てた寺。創建時は上野寛永寺、芝増上寺に次ぐ名刹であったが、現在
はいくつかの堂宇を残すのみ。山手通りが第一京浜と合流するあたり、目黒川沿いにある。

八ツ山橋
八ツ山橋。八ツ山は、北品川の北端。武蔵野台地の突端。昔はこのあたりには海に突き出た岬が八つあった、から。八ツ山橋はふたつ、ある。北側の橋は京浜急行と旧東海道がとおる八ツ山橋。南側が第一京浜の通る新八ツ山橋。八ツ山橋は日本で最初の鉄道陸橋。もちろん何度か架け替えられている。ここで品川宿が終わる。

品川宿
品川宿のことをまとめておく。品川宿って、宿場の中心は京浜急行・北品川駅から青物横丁駅あたりまで。目黒川を境に北品川宿と南品川宿に別れていた。が、宿場の北に、高輪寄りに無許可の茶屋が軒を連ねるようになったため、この新町をまとめて歩行(かち)新宿とし、本来の北・南品川宿を「本宿」と呼ぶようになった。
町並みは高輪町境から大井村境までほぼ2キロ。天保14年(1843年)にはおよそ7000人が住んでいた。商人では食売旅籠屋がもっとも多く92軒、水茶屋64軒、古着屋・古道具屋がおなじく64軒、荒物屋59軒、煮売屋44軒、質屋40軒、酒屋32軒、。。。と続く。職人は大工が46人、左官14人、髪結い12人、桶屋10人。。。、と。なんとなく往時の風景が目に浮かぶよう。

品川神社
あ とは大井町駅に引き返す。第一京浜を南
に下る。品川神社。北品川宿と歩行新宿の鎮守。鎌倉時代、源頼朝が安房の洲崎大明神を勧請。徳川幕府からの庇護も篤く、南品川・荏原神社(貴布禰神社:きふね)とあわせて5石の朱印を受けている。結構なつくりの神社。小高い台地に立ち品川宿、というか往時の品川湊を見守っていたのであろうか。安房の洲崎神社って千葉県館山にある古社。石橋山の合戦に破れ安房に逃れた頼朝が勝利を祈願し参詣した神社。頼朝の妻政子の安産祈願も。そこからのつながりなの、だろうか。また、太田道潅も、安房の洲崎神社の分霊を勧請し神田明神を建てた、って説もある。真偽の程定かならねども、 由緒ある神社であった、ような。


ゼームス坂
目黒川を渡り第一京浜を西に折れゼームス坂に。坂の名前はJ.M.ゼームス氏に由来。 幕末にジャー
ディン・マディソン商会の社員として来日。明治には海軍省に入り測量調査や航海術の指導をおこなった人物。ジャーディン・マディソン商会って、幕末によく顔を出す。イギリスの専門商社。

高村智恵子記念詩碑
坂の途中に高村智恵子記念詩碑。『智恵子抄』の高村光太郎の妻・
智恵子の入院した病院があった。ゆったりとした坂をのぼり、駅前商店街を歩きJR大井駅に。本日の予定終了。次回は立会川、そして品川用水を巡ろう、と思う。


月曜日, 8月 21, 2006

目黒区散歩 そのⅡ;碑文谷から羅漢寺川を歩く

先日、駒沢陸上競技場に出かけた。娘の競技会のビデオ撮影のご下命を受けたため。で、競技終了後、ちょっと目黒を散歩する。いつもの行き当たりばったりの散歩とは異なり今回は準備万端、である。
競技会のビデオ班ご下命はたまにある。ために、以前競技会に来たとき、空き時間を利用して目黒区の郷土資料館を訪れていた。五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土資料館で『目黒区文化財地図』『みどりの散歩道 コースガイド』など資料を既に入手していたわけだ。

競技会が終わったのが午後の4時。夏場でもあり、6時過ぎまで歩けるだろう、とコースを探す。さてどこに向かうか、あれこれ地図を眺める。五百羅漢寺が目に留まる。なんとなく前から気になっていたお寺。江東区散歩のとき、出会っていた。このお寺、どういった経緯か忘れたのだが、目黒不動の近くに移っている。それともうひとつ、碑文谷八幡。この神社も前々から気になっていた。 -->
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ということで、ルートは駒沢陸上競技場から碑文谷八幡、その後は羅漢寺川緑道 に沿って「林試の森」などを経由し、五百羅漢寺まで歩くことに。『目黒区文化財地図』を眺めると、途中に結構由緒ありげなお寺とか神社もある。果たして日没までにどこまで、とは思いながらも陸上競技場を後にした。(月曜日, 8月 21, 2006のブログを修正)


本日のルート;
①碑文谷・羅漢寺川ルート;駒沢競技場>(八雲)>呑川駒沢支流緑道>東光寺>金蔵院>八雲氷川神社>常円寺>北野神社>環七・柿の木坂>(碑文谷)>すずめのお宿>碑文谷八幡>高木神社>円融寺>正泉寺>法界塚馬頭観音・鬼子母神堂>稲荷大明神>清水池公園>羅漢寺川緑道>都立林試の森公園>成就院(たこ薬師)>瀧泉寺(目黒不動尊)>五百羅漢寺>山手通り>目黒川>太鼓橋>行人坂>JR目黒駅

②郷土資料室散歩ルート;駒沢競技場>駒沢通り>柿の木坂>八雲1丁目>目黒中央図書館>呑川柿の木坂支流緑道>柿の木坂上・環七通り>駒沢陸橋>駒沢通り>学芸大駅北>東急東横線交差>十日森稲荷>祐天寺>古本屋>駒沢競技場


駒沢通り
駒沢通りを東に。東京医療センター前交差点を越える。東京医療センターって、昔の「国立小児病院」。仕事で伺ったなあ、など昔を思う。交差点を越えると、駒沢通りを離れ南に下る。

衾(ふすま)町公園
八雲5丁目。落ち着いた住宅街。立派な邸宅が並ぶ。衾(ふすま)町公園。江戸時代はこのあたり、現在の環七通りの西南あたり一帯は衾(ふすま)村、と呼ばれていた。衾の地名の由来は、村の地形が衾=寝るときにかけた衣、に似ていたから、とか、このあたりは官牧(政府の牧場)や私牧が多く、その餌である衾=小麦をひいたときに残る皮、の産地であった、とか、例によっていろいろ。



呑川駒沢支流緑道
さらに下る。緑道に当たる。「呑川駒沢支流緑道」。川筋跡を地図でチェック。北に上った緑道は、駒沢公園の中を進み「東京医療センター」の北端に沿って北東方向に上っている。源流点は国道246号線の「真中交差点」の南にあった池、あたり、とか。
一方、南方向への「流れ」は、八雲学園の東を通り八雲2丁目で「呑川緑道」に合流する。これって呑川の本流跡。



呑川
昨年だったか、呑川を河口部近くの蒲田駅から歩いた。「池上通り」と交差>池上本門寺脇を進み>第二京浜を越え>東海道新幹線を越え>中原街道を越え>大岡山の東京工業大学脇に。ここで開渠は終わり暗渠となる。
先回は、そこから北に、東工大構内を分断する緑道を少々歩いた。が、川筋がここまで、つまりは八雲あたりまで続いているとは知らなかった。東工大から先の流路をチェック;大岡山>東横線・都立大駅西>「目黒通り」を越え西に向きを変え>八雲学園の南を西に>深沢1丁目あたりから北西に>「駒沢通り」を越え>深沢3丁目で国道246号と交差>その後桜新町。そのあたりまで水路跡が見える。世田谷区新町の旧厚木街道下からの湧き水が源流とのこと。
「新編武蔵風土記稿巻之三十九荏原郡之一」より呑川のメモ;「水源は郡中世田谷領深澤村より出て、わつかなる流なれと、衾、石川、雪ヶ谷の三村を歴、道々橋村に至て千束溜井の餘水合して一流となり、池上堤方に至る、この村内にて市倉村の方へ分流あり、すへて水源の近き處より此邊に至まて、深澤流といへり、是より下蒲田の方に至て呑川と唱ふ、下蒲田村にて六郷用水の枝流合し、又一流となり、御園、女塚、新宿、北蒲田、下袋の村々を経て、北大森村にて海に入」、と。

金蔵院・氷川神社

散歩に戻る。八雲学園の東に金蔵院と氷川神社。金蔵院は氷川神社の別当寺。十一面観音や不動明王で知られる。氷川神社は衾村の鎮守様。癪(しゃく;腹痛)封じの霊験あらたか、とか。境内に枯れたアカガシの巨木の株。癪封じのご神木。皮をはぎ煎じ薬として使う人が引きもきらず。ために、枯れてしまった、と。また、おなじく「くずれ地蔵」が境内に。患部と同じ部分をなでると病が癒える。ということで、あまりに多くの人に触られ、お地蔵様が崩れてしまった、とも。
八雲の地名の由来は、この神社の祭神であるスサノオノミコト、から。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」から。

東光寺・常円寺
氷川神社の東に東光寺と常円寺。東光寺は貞治4年(1365年)、世田谷城主・吉良治家が夭逝した子息の菩提をとむらうため建立。吉良治家は奥州探題・吉良満家の子。上州から世田谷郷に移り覇をとなえる。豪徳寺の近くにあった世田谷城址がその主城址。貞治4年にはこのあたり衾・碑文谷も所領に加えた。このお寺、出城の役割ももっていたようだ。
隣に常円寺。本堂前の大イチョウは区内有数の巨木として知られる。常円寺の東は坂道。天神坂と呼ばれている。

北野神社
坂の東に北野神社、つまりは、天神様=菅原道真公がまつられているから。坂の上は都立大学の跡地。先日の散歩のとき、坂の上の八雲中央図書館に訪れた。あのときの道筋の先は、こうなっていたんだ、と、つながった「襷」がつくる風景を思い描く。

呑川柿ノ木坂支流緑道

北野神社を東に進む。再び緑道。「呑川柿ノ木坂支流緑道」。駒沢通りまで北にのぼり、そこからは北西に進み「東京医療センター」の北にある東根公園の北あたりまで水路跡が見て取れる。そのあたりで「呑川駒沢支流緑道」と合流。源流点は国道246合線の上馬交差点南、世田谷・目黒区境あたりの、よう。
ちなみに、呑川には、もうひとつ支流がある。九品仏川がそれ。九品仏で名高い浄真寺を取り巻く湿地の水が集まって、世田谷との区境を東流し、大井町線緑が丘駅南側で呑川に注いでいる。ここは昨年散歩済み。

先 回の散歩のとき八雲中央図書館を訪れたとメモした。中央図書館に行けば郷土資料があろうか、と思った次第。が、そこにはなく、東横線・祐天寺近くの五本木に郷土資料館がある、という。で、中央図書館から東に進み、「呑川柿ノ木坂支流緑道」を駒沢通りまで上る。環七・駒沢陸橋を越え、駒沢通りを東に進む。東横線と交差したあたりで駒沢通りをそれて北に折れ、五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土歴史資料室を訪れた。

目黒通り・柿の木坂
が、今回は、北に上ることなく、すぐ南を走る「目黒通り」に進む。環七との交差手前は「柿の木坂」。東横線と目黒通りが交差するあたりから結構な坂となる。名前の由来は、坂に大きな柿の木があった、から、というのが妥当なところか。例によってあれこれ説がある。この環七・柿の木坂陸橋あたりは複雑な地形。カシミール3Dで作成した地形図を見ると、環七は尾根道を進んでいる。呑川のふたつの支流は明らかに谷地を進んでいる。

すずめのお宿緑地公園

環 七・柿の木坂陸橋を越える。環七から東に目黒通りは台地を下る。ダイエー碑文谷店の手前を南に下り「すずめのお宿緑地公園」を目指す。目黒は昔、筍(タケノコ)の産地で有名。ということは竹林が多くあった、ということ。この緑地公園も今に残る数少ない竹林のひとつ。所有者の角田セイさんが国に寄贈。後に区の緑地公園となる。
昭和の初期まで、この竹林には数千羽のすずめが生息していたのが、名前の由来。竹林の一隅には古民家。衾村の旧家・栗山家の母屋を移転したもの。江戸時代半ばの姿が復元されている。



碑文谷八幡
緑地公園の隣に「碑文谷八幡」さま。碑文谷の鎮守さま。創建は鎌倉とも室町とも。境内に「碑文石」。碑文、つまりは、大日如来とか勢至菩薩、観音菩薩を表す梵字(サンスクリット文字)が刻まれた石がある。これが碑文谷という地名の由来、とも。鎌倉か戦国時代の板碑の一種と言われている。
碑文谷って、なかなか渋い地名。地名の由来が表すように、目黒区内での古い歴史をもつ地域。江戸時代は目黒六カ村、つまりは、上目黒村・中目黒村・下目黒村・三田村・碑文谷村・衾村のひとつ。隣の衾村と合併した明治には碑衾村と呼ばれていた。
郷土資料室でもらった資料の昭和7年の碑文谷八幡あたりの写真を見ると、一面の畑地、そして民家が点在する。農村地帯であったこのあたりは、大正12年の関東大震災で家を失った人がこの地に移りすみ、また大正12年の目蒲線の開通、昭和2年の東横線の開通などにより、次第に宅地となった。とはいうものの、昭和7年の写真を見る限りでは、まだまだ牧歌的風景が広がっている。

立会川緑道
碑文谷八幡の参道を東に。境内を出たところに緑道が。「立会川緑道」。緑道を進む前に、少し寄り道。ちょっと南に高木神社。小さな社。江戸時代には「第六天」と。高木神社となったのは明治になってから。立会川緑道に戻る。

この立会川も前々から気になっていた川。もちろん、今は川跡、ではある。源流は碑文谷公園の碑文谷池と清水公園の清水池。この湧水を集めた池からの細流が、碑文谷八幡あたりから区を東に進み、目蒲線・西小山駅付近に。そこから「立会道路」が中原街道と交差するところまで南東に下る。これって、いかにも川跡って感じ。
昭和大学病院あたりで中原街道を交差した川筋は東急大井町線・荏原駅あたりを越えて東に進む。第二京浜を越え、横須賀線・西大井駅に。そこから北東にのぼり大井町駅に。東海道線を越えた川筋は線路に沿って南にくだる。しばらく進むと、開渠になっている、ように地図では見える。近いうちに一度歩いてみよう。

円融寺

散歩に戻る。立会川緑道を東に少し進むと少し北に円融寺。まことに立派なお寺さん。平安初期というから9世紀の中頃、天台宗の高僧・慈覚大師がこの地にお寺を建てる。当時は法服寺と呼ばれた。その後13世紀の後半に日源上人によって日蓮宗に改宗。法華寺となる。
世田谷城主吉良氏の庇護も受け大寺院に。が、日蓮宗以外の人からの供物を受けない、施しもしない、といった「不受不施」の教義のため、徳川幕府と対立。弾圧を受け元禄11年(1698年)に取り潰しにあう。再び天台宗の寺となり、名前も円融寺、と。境内には室町初期の建立といわれる釈迦堂が。品がいい。国の重要文化財。大いに納得。久しぶりに美しい建物を見た。また、山門の黒仁王さまも、江戸時代、「碑文谷の黒仁王」として多くの参詣者を集めた、と。

正泉寺
円融寺を離れ、少し東に。正泉寺。浄土宗のお寺さん。戦国時代に千葉に建てられたのがこのお寺のはじまり。その後、移転を繰り返し、明治になり港区の三田からこの地に移る。式亭三馬や羽倉簡堂のお墓が。式亭三馬は江戸の戯作者。「浮世風呂」で名高い。羽倉簡堂は江戸後期の儒学者。天保の改革を推進した水野忠邦に重用される。

法界塚と鬼子母神堂
正泉寺を出て、東に進む。少し大きな通りを北に進む。不規則な5差路。そのうちひとつは弧を描いて進む。交差点の少し北、平和通商店街の端に法界塚と鬼子母神堂。昔は樹木生い茂る一帯だったのだろうが、今は、道路脇に少々寂しげに佇む。法界塚は経塚なのか古墳跡なのか定かならず。少し戻り、弧を描く道を北に進む。いかにも川筋といった雰囲気。先に清水池公園がある。ということは、この道は立会川の支流・清水池からの川筋ではなかろうか、と。

清水池公園
清水池公園。1699平方メートルの池。区内唯一の釣堀がある公園ということで、多くの釣り人で賑わっている。目黒区では、目黒台と呼ばれる平坦な台地を浅く刻む支谷の谷頭部(谷の先端)には湧水点が多い。清水池もそのひとつ。立会川の源流でもあり、今から進む羅漢寺川の源流でもある。

品川用水
道を東に。目黒通りから武蔵小山駅方面に向かう補助26号線にあたる。このあたりには「品川用水」も交差している。品川用水は、武蔵野市で玉川上水を分流し、品川領戸越あたりまで流れている。そのうち流路をチェックして歩いてみよう。全長7里半というから、結構大変そうではある。

羅漢寺川緑道
補助26号線を越えたあたりから「羅漢寺川緑道」がはじまる。羅漢寺川は先ほどメモしたように、清水池からはじまり目黒川に合流する目黒川水系の支流のひとつ。羅漢寺川の下る道筋は人ひとり歩けるか、どうかといった細路。

林試の森

少し進むと道の南に「林試の森」。目黒と品川にまたがる都立公園。もとは国の林業試験場。時間があれば公園内を歩きたいのだが、如何せん時間切れ。日暮れが近い。

目黒不動商店街
緑道を進む。道の北には昔、「目黒競馬場」があった、とか。緑道が「林試の森」から離れるあたり、南は「石古坂」、北には「三折坂」。南に進み石古坂の手前を東に進む。目黒不動商店街。

蛸薬師
少し進んだところに成就院。通称「蛸薬師」。慈覚大師の創建。本尊は薬師如来。蓮華座の三匹の蛸が支えている。ために、「蛸薬師」と。何故ゆえに蛸?慈覚大師が中国から帰朝の途中、嵐を鎮めるべく薬師を海中に。が、その薬師が蛸に連れられて漂着した、とか。境内には二代将軍・秀忠の側室・お静の方に由来する「お静地蔵」が。お静の方はあの名君保科正之の母。信州高遠藩3万石の藩主からはじまり、会津23万石の藩主までに。わが子の栄達を祈ったお静の方が大願成就のお礼に奉納したのが「お静地蔵」。保科正之を主人公にした中村彰彦さんの『名君の碑』、また読み返してみようか、な。

五百羅漢寺

さてこの先は。目黒不動は先回の散歩で訪れた。で、今回の目的地である五百羅漢寺に。成就院前の道を北に。目黒不動の東端といったところに五百羅漢寺。予想に大きく反して近代的ビル、といった有様。もっともすでに開館時間は過ぎており、外から眺めるのみ。
このお寺、もとは本所五つ目、というから、現在の江東区大島3丁目にあったもの。江戸・元禄時代、松雲禅師が開山。もとは仏師。出家後、大分耶馬溪の五百羅漢に触発され羅漢像の制作に没頭。10年の歳月をかけ530余体の羅漢像を作り上げる。幕府の庇護もあり、本所に寺が創建。が、明治に入って寺は荒廃。明治41年この地に移る。こんど、開いている時間に、訪れるべし。

海福寺

五百羅漢寺の隣に海福寺。開山は隠元禅師。「インゲン豆」にその名を留める。もとは、深川に。が、明治43年水禍に遭い、この地に移る。山門が面白い。四脚の門。境内に永代橋の大惨事の供養等。文化4年(1807年)、深川・富岡八幡の祭礼に押し寄せた群衆の重みに耐えかね、永代橋が落ちる。多くの人が亡くなった、と、どこかでメモしたように思う。
インゲン豆は将軍・家綱の招きで来日した宇治・万福寺の開祖、隠元禅師が日本にもたらす。インゲン豆はもともとは中南米が原産地。インディオが食べていたものだが、大航海時代にトウモロコシやカボチャなどとおなじく欧州に伝わり、その後アジアにも広まった、もの。

蟠竜寺(ばんりゅうじ)

東に進み山手通り。少し北に進むと通りから少々奥まったところに蟠竜寺(ばんりゅうじ)。山手七福神のひとつ・「岩屋の弁財天」がまつられている。また、境内には「おしろい地蔵」が。江戸の頃、お地蔵さんの顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になると評判をとる。現在は戦火に見舞われ少々崩れてまってはいる。

JR目黒駅


今回の最大の目的であった五百羅漢は時間切れで見ることはできなかった。次回ということにして、山手通りを進み、目黒通りを渡り、太鼓橋、行人坂、と、先回の散歩と同じ道を戻り、JR目黒駅に。一路帰路につく。
今になってきになることが出てきた。羅漢寺川という川。五百羅漢寺がこの地に移ってきたのは明治。ということは、それ以前はどんな名前の川だったのだろう。五百羅漢寺がこの地に移る前に。それっぽい名前の川があるとも思えない。そのうちに調べておこう。
参考資料;『みどりの散歩道 コースガイド』

木曜日, 8月 03, 2006

豊島区散歩 そのⅡ;矢戸川・境川・谷田川・藍染川跡を下る

巣鴨の染井霊園から千駄木・谷中をへて台東区・不忍池に

先回歩いた谷端川(千川・小石川)は、文京区に入ると白山台地と小石川台地に間を流れ、白山台地が切れたあたりでは本郷台地と小石川台地の間を流れていた。文京区を流れる川筋としては、そのほかに目白・関口台地と小日向・小石川台地の南を流れる「神田川」、目白・関口台地と小日向・小石川台地の間を流れ、その後小日向・小石川台地の南を下る「弦巻川」「東青柳下水」、白山台地と本郷台地の間を下る「東大下水」、そして本郷台地の東、赤羽から上野に続く崖線台地との間を流れる「藍染川」がある。この藍染川、前々から気になっていた。名前に惹かれるのもさることながら、この流れって往古の石神井川の流路であった、ということである、から。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
現在の石神井川は、王子から東に流れ、隅田に注いでいる。が、昔は王子のあたりから崖線台地と本郷台地に間を南に下り、不忍池に注いでいた、と。流路が変わった理由は定かではない。が、有力な説はいわゆる「有楽町海進期」における「河川争奪」説。今から6000年前、江戸の地は、現在よりも海面が3mほど上昇していた。これを「有楽町海進期」と呼ぶのだか、この時期に海進によって台地の崖ぎわが急速に後退、簡単に言えば「薄く」なった。ために、石神井川が崖端侵食、つまりは「崖が裂け」、それまで南に下っていた石神井川の流れが、崖の割れ目から東に流れることになった。そして、その川筋が南に流れていた水を「横取り」してしまった。それが「河川争奪」。で、横取りされた川筋であるが、石神井川からの流れは途絶えた。が、それにもかかわらす、いくつかの湧水からの水などを集め、往古の石神井川の川筋に沿って流れていた。それが、源流点では谷戸川とか境川、途中で谷田川、そして不忍池に注ぐあたりでは藍染川と呼ばれた川筋ではなかろう、か。自分なりの勝手解釈ではあるが、結構納得。さてさて、藍染川散歩をはじめることにする。


本日のルート;染井霊園>本妙寺>慈眼寺>染井銀座商店街>妙義神社>染井稲荷>勝林寺>谷田川通り>道潅山通り>よみせ通り>夕焼けだんだん>さんさき坂>藍染川>谷中>池之端>不忍池

染井霊園
藍染川の源流点は「染井霊園」と、その北、現在の中央卸売市場豊島市場との間にあった「長池」と言われる。都営三田線・巣鴨駅で下車。北西に走る中山道の東側に出る。西側は巣鴨地蔵通り。とげ抜き地蔵で知られる高岩寺におまいりしたのは15,6年も前。二人目のこどもが生まれるころ。ちょっと寄ってみようか、などとも思いながらも、結局のところ源流点へ、と気持ちが急ぐ。
中山道をそれ霊園に沿って歩く。中央卸売市場豊島市場との間の道に。豊島市場って、もとは文京区の天栄寺ではじまった駒込青果市場。昭和12年にこの地に移る。寛政12年(1798年)設置された巣鴨御薬園跡でもある。渋江長伯が文化14年(1817年)日本ではじめて綿羊を飼育したところでもあり、綿羊屋敷と呼ばれてもいた、とか。

本妙寺
染井霊園に沿って道を進む。昔はこのあたりに池があったのだろう。豊島市場が切れるあたりから道筋は急に狭くなる。人ひとりがすれ違うことができるかどうか、といった細い道。道というか川筋を歩く前に、近くのお寺にちょっと訪れる。染井霊園に隣接し「本妙寺」。
明治44年、本郷より移転。このお寺、あの明暦3年(1657年)の振袖火事の火元。その供養等があった。北辰一刀流の開祖・千葉周作や江戸町奉行・遠山景元のお墓がある。で、この振袖火事、明暦の大火とも呼ばれ、江戸の街の半分以上を焼きつきし、3万人とも10万人以上がなくなった、ともいわれる。途中経過はあえて無視して結果を言えば、寺に供養するために火中に投じた振袖が、おりしもの強風にあおられ、本堂に舞い上がり大火事となった、とか。
この説に異を唱える人もいる。どこで読んだか定かに覚えてはいないのだけれども、火元になった本妙寺が厳罰に処せられることなく、その後も続いた、というのがおかしい。本当は当時の本妙寺の裏手にあった老中・阿部忠秋邸からの失火との説、である。老中の家からの失火では洒落にならない、ということで、お隣の本妙寺に「泣いてもらった」、との説。阿部家から本妙寺に供養代が払われている、それも大正時代・関東大震災の後まで。明暦の大火の犠牲者の供養のために回向院があるにもかかわらず、である。そこまでするのは、大きな「恩義」がなけれならないだろう、という説。真偽の程定かならず。

慈眼寺
本妙寺の隣に慈眼寺。深川にあったのだが、明治になって谷中の妙伝寺と一緒になりこの地に移る。司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎などが眠っている。お寺と染井霊園の間の細道を北に進む。慈眼寺を越え少し進むと道筋は少し広くなる。染井霊園から離れ北に。豊島区と北区の境の道を北東に進む。道はすぐに二股に分かれる。南手の狭い道を道なりに進む。「染井銀座商店街」の入口に。

染井銀座商店街
染井銀座商店街 はうねっている。いかにも川筋跡って雰囲気。染井銀座商店街はそのまま「霜降橋商店街」に続く。本来の川筋は霜降橋商店街の入口あたりから、北にそれすぐ横を走る、ちょっと広めの道路に沿って流れていた、よう。

ともあれ、いかにも下町の、って感じの商店街を進む。本郷通りを横切るところには霜降橋がかかっていた、と。現在は交差点にその名前が残る。

妙義神社

そのまま先にすすむか、引き返し染井霊園を歩くか、しばし迷う。が、霊園に引き返すことに。霜降橋交差点を駒込駅方面に少し下る。女子栄養大学のあたりで本郷通りをはなれ、西に向かう。女子栄養大学を過ぎたあたりを南に進むと妙義神社。文明3年(1471年)、足利成氏との戦いに望んだ太田道潅が戦勝祈願をしたところ、とか。足利成氏のメモ;五代目鎌倉公方。が、管領上杉氏と反目。鎌倉から逃れ古河に本拠を移す。初代古河公方。上杉氏や堀越公方と争う。1482年に和解。その後、上杉氏の内紛に際しては、当初扇谷上杉、後に山内上杉の支援など、複雑な動きを繰り返した人物。

染井稲荷
駒込小学校の南を歩き、西福寺、そして隣に染井稲荷に。西福寺には植木屋伊藤伊兵衛の墓。このあたりは植木で有名であったよう。染井稲荷の別当寺。染井稲荷は少々つつましやかなお宮さん。で、川筋を歩いていたときはあまり感じなかったのだが、このあたりは結構な高台。つまりは染井霊園って台地上にある、ってこと、か。水源の長池は谷からの湧水、であったのかも。実際、染井霊園内の長池跡(矢戸川源流)の案内にもそのように書いてあった。
長池跡のメモ;「長池はかつての谷戸川の水源にて、古地図(安政3年、1856年の駒込村町一円之図)によれば巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大なもので長さは八十八間(約158m)幅は十八間(約32.4m)もあったという。この池は現存していないが、この案内図板下のくぼ地の一帯がその跡地(約半分で残り半分は道路部分)と思われる。かつては清らかな湧水は池を満たし、清流となって染井霊園沿いに流れていた。

池から西ヶ原あたりまで谷戸川(やとがわ)、駒込の境あたりで境川(さかいがわ)、北区に入り田端付近で谷田川(やたがわ)、さらに下流の台東区根津付近からは藍染川(あいぞめがわ)と呼ばれて不忍池に流れ込んでいた。(全長約5.2km)明治末期には周辺の開発等もあり、湧水も減少して池も小さくなり大正に入って埋め立てられた。ここに、在りし日の湧水清らかな「長池」とその清流「谷戸川」をしのび記念の一文を残すものである。平成十四年三月   ソメイヨシノの咲き乱れる佳日に  東京都染井霊園)」と。

勝林寺

台地上の十二地蔵、植木屋伊藤伊兵衛の屋敷跡であった専修院から霊園の東端を下る。先ほど歩いた慈眼寺脇の川筋に戻る。ふたたび染井銀座商店街方面に。途中に勝林寺。もとは神田に。その後本郷。この地に移ったのは昭和15年。老中田沼意次の墓がある。ほんとうに、つつましやかなるお寺さま。ちょっとした民家、と見誤る。道なりに進み本郷通り・霜降橋交差点に戻り再び川筋を辿ることに。

谷田川通り
本郷通りを横切り、豊島区と北区の区境を南東に進む。道路が分岐。川は北側の道筋を流れていたよう。その先で山手線のガードをくぐる。そこには「中里用水架道橋」の表示があった。中里1丁目を越え、田端4丁目、田端3丁目に。先日の散歩で歩いた大龍寺、八幡神社から下る八幡通りと交差する。田端銀座前。このあたりから先の道筋は「谷田川通り」と呼ばれる。途中「谷田川通り」の案内;「矢田川通りは矢田川が暗渠となってできた通り。この川に沿って萩原朔太郎、画家・小杉放庵、歌人・林古渓、美術史家・岡倉天心などが住んでいた。谷田川交差点のところに、谷田橋があり、それは現在田端八幡神社に移されている」と。これって先日の北区・田端地区散歩のとき訪れた八幡さま。谷田川通りの一筋北、赤紙仁王通りに沿ってあった。「赤札仁王」さま、いい表情の仏様でありました、との思いをしばし。

道潅山通り

先に進むと道路脇に水稲荷。川筋があったエビデンスでもあろうか。不忍通りの動坂交差点に下る道筋を越え、田端1丁目を進む。この先で文京区と荒川区の境が弧を描く。荒川区西日暮里4丁目28番の一角あたりだが、例によって川筋が区の境となっていた、のであろう。文京区は千駄木4丁目。
弧を描いた細い道筋も数十メートル程進むと少し広くなる。今度は、文京区と台東区の区境となっている。台東区は谷中、文京区は千駄木。谷田川と道潅山通りが交差するあたりは、荒川区・西日暮里と、文京区・千駄木、そして台東区・谷中と3つの区が川筋を境に隣り合っている。
千駄木の由来は、太田道潅が栴檀(せんだん)の木を植えたところ、と、上野寛永寺に千駄の、というと馬千頭分の護摩の香木を収めていた、ということが相まって名づけられた、とか。ちなみに、「栴檀は双葉よりも芳し(かんばし)」の栴檀はこの木ではなく、白檀のことを指す。白檀は発芽したころから芳しい香を放つ、ということから、出来のいい人物は小さいときから他とは違ったものをもっている、という意味になった、と。谷中は文字通り「谷の中」。根津谷というか藍染川の谷地にあるところ、ってこと。

よみせ通り
道潅山通りを横断。川筋はやや南に向きを変え、ゆるやかに「蛇行」する「よみせ通り」に入る。少し進み道筋が「逆クの字形」に折れるあたりで「谷中銀座」が「よみせ通り」にT字形で交差する。「よみせ通り」の名前の由来は、文字通り、夜店(露天)、から。川筋を暗渠にしたこの通り沿いに、多くの夜店(露天)が並んでいたためである。


夕焼けだんだん
谷中銀座を歩く。ここはいつ来ても、多くの人で賑わている。いつ来ても、とは言っても、今回で2回目。谷中銀座って、散歩のはじめたころ、田端から日暮里までの崖線台地上を歩き、道なりに谷地、つまりは、今回の藍染川の谷に下りてきたとき偶然通ったところ、である。「夕焼けだんだん」って、いかにも郷愁をそそる名前の石段を下り、屋台と見まごう商店街を歩いた記録が少々蘇る。

谷中銀座を突き切ったところに「 夕焼けだんだん」。


40段から50段の石段。ここからの見る夕焼けがいかにも美しい、ということで、作家の森まゆみさんが命名した、とか。森さんは、この地域で生まれ、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊し、編集人となる。先日森さんの『彰義隊遺聞;新潮文庫』を読み終えたばかり。

さんさき坂
先に進む。「さんさき坂」の道筋と交差。「さんさき」って、「三崎」と書く。このあたりには三崎村という地名もあったらしい。駒込、田端、谷中の高台が藍染川の谷に突き出た姿が、三つの岬のように見えたのだろう、か。「さんさき坂」の道と「不忍通り」との交差点は団子坂交差点となる。ということは、団子坂は不忍通りを隔てて西の本郷台地の坂道、か。団子坂って東から下る坂道、と思い込んでいた。つまりは、「さんさき坂」のことはまったく知らなかった、ということ。ちなみに団子坂の由来は、坂の途中に団子屋があったとか、急な坂ゆえ、団子のことくころころ転げたから、とか、例によって諸説あり。

藍染川
藍染川が「さんさき坂」と交差するあたりに「藍染川と枇杷(びわ)橋(藍染橋)跡」の説明版。メモする;「文京区と台東の区境の道路はうねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。『新編武蔵風土記』によれば、水源は染井の内長池で、ここから西ヶ原へ、さらに駒込村から根津谷へ入る。川は水はけが悪く、よく氾濫したので大正十年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境となっている」、と。谷戸川、谷田川とよばれていたこの川筋は、このあたりになると、藍染川と呼ばれるようになっている。

谷中
「さんさき坂」を越えた川筋は、小さく蛇行を繰り返しながら南に下る。「さんさき坂」の先から、蛇行しながら南に向かう細い道筋がそれであろう。不忍通りが千駄木2丁目交差点でクの字形に曲がるあたり、一筋東の川筋はこのあたりで少し広くなり、ほぼ直線で南東に下る。道路にそって「藍染」の名前が目立つようになる。藍染保育園、藍染大通り、といった按配。「藍染屋」、つまりは染物屋さんも道筋に見かけた。このあたりの旧町名は「藍染町」。藍染川に由来することは、言うまでもない。
ちなみにこのあたり、台東区は谷中、文京区は根津。根津の地名の由来、もよくわからない。山や岡の付け「根」にある津=湊、という説。川もあるし、もっと昔は海がこのあたりまで入りこんでいただろうから、どこかに津=湊があったのだろう。また、根津神社の天井や絵馬に「ねずみ」が描かれているが、ねずみ、って根津神社にまつられている大国主命の使い、とも言われるし、根津って地名が使われはじめたのも根津神社の門前町ができた頃から、であるとすれば、ねずみ>ネズ、って説もある。よくわからない。

池之端
藍染川は「言問通り」にあたるところで、西に曲がり、「不忍通り」の手前で再び南下。東京弥生会館、上野グリーンクラブの西に沿って進み、「不忍通り」歩道に当たる。このあたりは池之端。文字通り、池の西の端にある、ことに由来する。昔はこのあたり、「上野花園町」と呼ばれた。藍染川の豊かな水を利用して上野寛永寺が花畑をここにつくり、上野御花屋敷と称していた、と。

不忍池
藍染川は「言問通り」に沿って進む。昔の不忍池派現在の池より一回り大きかった、と。藍染川はこの道筋を進み、不忍池に注いでいたのだろう。不忍池が池になったのは室町時代と言われている。太古、上野台地と本郷台地に入り込んでいた入り江の名残が時代とともに土砂が堆積し、潟湖となり、沼地となり、そして池となった、ということだろう。
もちろんのこと、もとは石神井川が注いでいた。そして、王子付近において河川争奪の結果石神井川の瀬替がおこなわれた後は、藍染川がこの不忍池に注いでいた、と。で、どこかでメモしたと思うのだが、上野の台地を「忍ケ丘」、と言う。で、なぜ「不忍池」なのか?いくつかの説がある。

が、最も納得感のあるのは、忍ケ丘から見下ろすと、この池が、くっきり、と、忍ぶことなく、周りと際立って存在していた、という説。『江戸名所記』によれば;「萱、すすきが生い茂り、道のさかいも分けざるに、池ばかりはあらわれみえたれば、忍ぶこともあたわずの意とする」とある。
藍染川は不忍池に注いで終わる。が、この水系はもう少々先に続く。不忍池からは先日散歩した三味線掘に注ぐ「忍川」に。三味線掘からは「鳥越川」となり、隅田川に注ぐ。歩けば歩くほど、「襷」が繋がってくる。