水曜日, 2月 01, 2012

神田川散歩そのⅡ;環八・佃橋から環七・方南橋まで

神田川散歩そのⅡ;環八・佃橋から環七・方南橋まで
 神田川散歩の二回目。今回は環八から環七までの神田川散歩をメモする。大雑把に言って、杉並区の高井戸東からはじめ、浜田山、永福町、和泉へと、武蔵野台地を開析した神田川の谷筋を下ることになる。台地と谷筋の比高差は5mから10mといったところ。この地域も台地崖線下からの湧水なども多く、井の頭池からの水源に流れを加え南東へと下り、永福と和泉の境辺りに至り、流路が台地に阻まれ、流路を大きく北に変える。北に切り返す辺りは、勾配が緩やかなことも相まって、その昔は大きな池があったようであるが、大池に注いだ神田川はその下流でも池や沼の湧水を集め、崖線に沿って環七辺りへと下ってゆく。


杉並は標高50mから30m、武蔵野台地であった「平地」と、神田川や善福寺川、そして神田川・善福寺川水系に注ぐ小さな川が掘り刻んだ谷筋の低地、そして、台地と谷筋との境界にある坂道と、結構うねりに富んだ地形となっている。現在は川の両岸はびっしりと家が建ち並び、元々の比高差5m程度の地形のうねりを感じるのは結構困難ではある。カシミール3Dでつくった地形図や、GOO(ポータルサイト)の昭和22年航空写真、そこには神田川の両岸は田畑が広がるのみで人家とて一軒もない田園風景ではあるが、これらの地形図や写真で往昔の景観を想い描き、時空散歩に出かけることにする。

本日のルート;井の頭線・高井戸駅>杉並清掃工場>正用橋>池袋橋・三泉淵>乙女橋・三井の森>柏の宮公園>堂ノ下橋>塚山公園・高井戸塚山遺跡>鎌倉橋・鎌倉街道>堀兼の井>下高井戸・浜田山八幡>かんな橋・下高井戸用水排水口>永福橋・永福寺池跡>永福寺・永福稲荷>永泉橋・和泉中学校>龍光寺・龍光寺下の湿地>宮前橋・和泉熊野神社>貴船神社・御手洗の池>大円寺>文殊院>弁天橋>方南橋・環七

井の頭線・高井戸駅
自宅を出て、井の頭線高井戸駅で下車。高井戸の地名の由来は諸説ある。杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』によると、村内に小字・堂ノ下というところがあり、そこに昔、辻堂があった。今はその跡もないのだが、その昔、辻堂の傍らに清水があり、小高い地の冷泉であったので、高井戸と呼ばれた、と。また、16世紀の中頃、この地に住んだ御家人・高井氏の土地、ということで「高井土>高井戸」、その高井家が開いた高井山本覚院にあった不動堂「高井堂」が高井戸に転化したなど、例によって諸説ある。なお、高井山本覚院は明治の廃仏毀釈の時、明治44年、宗源寺(下高井戸4-2)に移された。
高井戸と言えば、甲州街道の2番目の宿で知られる。高井戸宿は下宿と上宿に分かれ、下宿・下高井戸は現在の桜上水駅辺りが宿の中心。上宿・上高井戸は京王線八幡山の先となる。慶長5年(1601)、徳川幕府により江戸と甲府を結んだ甲州道中に設けられた高井戸宿では、月の前半を下高井戸村、後半を上高井戸村が助郷を務め、伝馬25頭、人足25人が常置していた、とか。江戸を立った旅人の最初の宿場でもあったため、24軒の旅籠が軒を連ね結構な賑わいであったようだが、新宿に宿が開かれるに及び、次第に廃れていった、と言う。

杉並清掃工場

駅を下りると環八の東、神田川の左岸には高い煙突が見える。東京ゴミ戦争で物議をかもした杉並清掃工場である。東京ゴミ戦争とは、この地に計画された清掃工場建設が地域住民の反対によって進まなくなり、杉並区のゴミを受け入れていた江東区は、それを地域エゴとして、杉並区からのゴミの搬入を実力阻止したという騒動である。昭和47年に起きたこの事件がきっかけとなり、その後ゴミの自区内処理の原則が確立された、という。
この杉並清掃工場も昭和49年には和解が成立し、昭和53年に工事着工、昭和58年に創業を開始した。工事中には縄文時代の遺跡が見つかり、「高井戸東遺跡」と呼ばれている。普段清掃工場辺りを歩いても搬入トラックの姿が見えないと思っていたのだが、搬入口は環境を考慮して、井の頭通りと環八通り交差点から専用の地下道を通って工場に入る、とのことである。

杉並清掃工場の西、区立高井戸地域区民センターの敷地辺り、かつて高井戸の大名主・内藤家の屋敷内に「富士見園(高井戸3-7)」と名付けられた小池があった、とのこと(『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』;以下『杉並の川と橋』)。現在も公園内に人工の小池が残る。このあたり一帯は内藤家の土地であり、清掃工場の敷地も、そのおよそ半分が内藤家の所有地であった、とか。内藤家は「高井戸丸太 杉の丸太なり、細きこと竹の如し。上品にて吉野丸太と同じ。江戸にて作事に用うる良材とす」と『武蔵野名所図会』に称された良質の杉の植林に貢献した、とのことである。昭和22年のGOO航空地図を見るに、杉並清掃工場の北辺りに、鬱蒼とした林が見える。内藤家の屋敷であり、杉林であろう、か。

正用下橋(しょうえい)

高井戸橋を越えると「正用下橋」。江戸の頃、このあたりの小字に正用、正用裏、正用下といった地名があった。「正用」の由来は『地名の研究;柳田国男』によれば「正用、正邑、築田、佃は、いずれも(中世)領主の直轄地に付けられた地名である」と記す、とある(『杉並風土記』)。
環八に架かっていた「佃橋」も佃は、庄園などの領主の直営田のことであり、新たに開墾した「作り田」にはじまる、といったことであり、このあたりにはそのような荘園領主の直営田が開墾されていたのではあろう。

 









池袋橋・三泉淵
正用橋を越え、池袋橋に。『杉並の川と橋』によると、江戸期の「神田上水絵図」に「池袋」の記録が残る。絵図を見るに、風船のような丸い池が狭い口を通して神田川と繋がっている。また、小字に「池袋」の地名も残る。

「袋」とは、水の巻いている所とか。川などの出口がない所、とか。高井戸東1-16辺りには三泉淵(三田釜;さんぜんかま)と呼ばれる湧水地があった、とある。『武蔵名所図会』に、「往古は古き沼にして大蛇住みけり・村民弥五左衛門が先祖なるもの草刈りに出かける時如何にしたりけん。大蛇の頭を鎌にて切り落として、その大蛇死したればそれより水枯れて、今は僅かに五間四方なり。いまもその真中は深さ六、七尋余もありという」、と。また、『新編武蔵風土記稿』では「北辺に廻り九尺許の古井戸みゆる所あり。土人の伝えには昔はかかるさまもあらで、広かりし池にてありしや」とあって大蛇伝説も記されている。
三泉淵(三田釜)を求めて、辺りを彷徨う。手掛かりとしては、環八の神田川右岸から東へと続く水路跡の雰囲気を残す細路がある。道なりに先に進み日本郵政高井戸レクリエーションセンターグラウンドまで進み、グランドのフェンスに沿って神田川へと向かうと、池袋橋の少し東、グランドの西北端の一隅にささやかな祠が見える。フェンス越しに弁天社とあった。この辺りが三泉淵(三田釜;さんぜんかま)のあった辺り、とか。その昔、このグランドは池袋の名前が示す広き沼・池が広がっていたのだろう。
フェンス越えに弁天様にお参りし、フェンスに沿って久我山運動場グランド南の崖線下を進む。高井戸小学校下を過ぎ、都営アパートがあるあたりに「三泉淵緑地」が残る。緩やかな崖面につくられたささやかな緑地ではあるが、「三泉淵」の名前が残るだけで、何となく嬉しい。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)








乙女橋・三井の森

グランドをぐるりと廻り神田川に戻ると「乙女橋」。橋を渡り川の左岸にある三井の森公園に。崖線の斜面林にあるささやかな入口から公園に入る。この地は、もともとは昭和11年より70年に渡り旧三井グループの運動場であった。が、バブル崩壊にともない、その福利厚生施設を処分し、西側と南側の森を杉並区の公園として整備したもの。運動場の敷地は三井不動産によって宅地開発されている。宅地開発まえの森の広がりは失われたが、落ち着いた街並みがつくられつつある。『杉並の川と橋』には、乙女橋西には天水田圃があり、この辺りには多くの湧水があった、とか。

柏の宮公園
三井の森公園の崖線に沿って東に進むと、崖線下には現在でも湧水池が見られる。段丘や崖線の説明とともに、柏の宮公園や、神田川の右岸の塚山公園の崖面下の湧水の説明があった。崖下の湧水は自然のままの雰囲気を残し、湧水もジワジワ、といった風情がなかなか、いい。
この湧水のある崖上には宅地開発された一帯が広がり、この湧水のある辺りは三井の森公園の一部なのか、その東に広がる柏の宮公園の一部なのか定かではないが、それはともあれ先に進むと柏の宮公園になる。この公園は日本興業銀行の所有地であったが、バブル崩壊時の銀行再編でみずほ銀行と統合される際に杉並区に売却され区の公園となった。杉並区では最大の公園となっている。道路に沿ったフェンスの向こうに庭園が見える。フェンスに狭い入口があり、そこを抜けると池に大石が配置された日本庭園があった。この庭園は、元々は寛永年間(1624年から1643年)、若狭小浜藩主・酒井忠勝公が新宿矢来町にあった酒井家下屋敷に小堀遠州の手によって造営されたもの。その後、酒井家の下屋敷の敷地を所有した日本興業銀行の頭取が、この地に茶室を復元し、茶室を移築復元し「林休亭」と名付けた、とか。

もっとも、『杉並風土記;森泰樹』によれば、「大正中頃に横倉善兵衛(よこくらぜんべえ)氏が整備して数奇屋を建て、「柏ノ宮園」と呼んで東京各地から文人墨客を招待して、歌会や観月会を行った。昭和初期には絵葉書にも紹介されるほど有名なところになった」との記事がある。横倉善兵衛氏は高井戸では先述の内藤家と並ぶ大地主であり、三井グランド辺り一帯の土地持ちであったとのことであるから、興銀が取得する前にもそれらしき庭園があったのか、とも思える。因みに、戦時中、海軍の帝都防衛隊が使用し荒れ果てたこの地を、昭和25年に横倉氏が興銀に売り渡した、とある(『杉並風土記:森泰樹』。以下『杉並風土記』)。
なお、柏の宮、といった如何にもありがたそうな名前は、室町時代の武将・太田道灌の命により、その家臣・柏木左右衛門が鎌倉の鶴ヶ丘八幡を勧請し建立した柏の宮、現在の下高井戸・浜田山八幡に由来する。江戸の頃は此の辺りを「柏の宮」と呼んでいたようである。

堂ノ下橋
柏の宮公園を少し西に戻り、神田川に架かる「堂ノ下橋」に。橋の名前の由来はよくわからない。わからないが、橋の北側の小字は堂の上とか堂の下、また寺前とよばれていたと言う。現在は人見街道に沿ったにある松林寺(高井戸東3-34-2)は開創当時、この堂ノ下橋の北側にあった、と言う。松林寺がそのお堂かどうかは定かではないが、ともあれお寺かそのお堂があったのがその名の由来だろう。因みに、上でメモしたように、堂ノ下にあった辻堂が、高井戸の地名の由来、との説もある。

塚山公園・高井戸塚山遺跡

「堂ノ下橋」から神田川右岸を東へと進むと塚山公園。公園の崖下に人工の池が造られているが、これって『杉並の川と橋』の言う、往昔の湧水のあった辺りだろう、か。
公園に入り、池をぐるりと廻り、池の南側に向かうと高井戸塚山遺跡がある。縄文時代の住居のモニュメントも建つ。井の頭公園の御殿山遺跡、高井戸の高井戸東遺跡、そしてこの高井戸塚山遺跡など、神田川に沿った台地には遺跡も多い。杉並南部を流れるこの神田川流域に限らず、杉並北部の妙法寺川や中部を流れる善福寺川流域を合わすと、杉並区内の縄文時代の遺跡の 数は200を越える、という。水辺の台地には古くから人が住んでいた、ということ、か。
なお、『杉並風土記』によれば、この地は長らく朝日新聞の農園であり、朝日農園と呼ばれていたようであるが、昭和48年、朝日新聞社はこの地と築地の国有地と交換。国は大蔵省の官舎を建設予定であったが、住民の反対運動の結果、官舎建設は中止となり、杉並区に払い下げられることになった、と。

鎌倉橋・鎌倉街道

塚山公園の東に鎌倉橋。甲州街道・鎌倉街道入口より浜田山方面へと進む古の鎌倉街道の道筋、とのこと。『武蔵名所図合会』には「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて(中略)いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」とある。往昔、鎌倉・室町の頃は東国御家人が鎌倉へと往来したのであろうが、江戸の頃には廃れ、「野径の如し」といった状態となっていたようである。鎌倉橋の少し南、神田川に沿ってうねる水路跡らしき細路が下高井戸運動場の手前まで続く。神田川の昔の流路跡であろう、か。

堀兼の井
「梢橋」、「藤和橋」を見やりながら進む。『杉並の川と橋』によれば、「鎌倉橋」の東、浜田山1-5辺りには「堀兼の井」があった、とある。『杉並風土記』には「昭和11年頃まで直径4mほどの湧水池があったが、30年頃に埋め立てられた」と描かれている。昭和22年のGOO航空写真には、それらしき影が映る。
堀兼の井、とは言うものの、井戸を掘るような地形ではない。神田川左岸の崖下からの湧水で出来た池ではあろう。また、堀兼の井は文明18年(1486)、東国を巡歴した聖護院門跡の道興準后の紀行文『廻国雑記』に記されるが、その場所は諸説あるも、狭山市の堀兼神社に残るものとの説が有力である。この地の堀兼の井は、江戸の頃、掘兼の井を聞きかじった誰かが、この地の池にその名を冠したもののようである。因みに、聖護院門跡って、山伏の元締め、といったもの。東国巡行は、組織引き締めの目的もあった、とか。

下高井戸・浜田山八幡
先に進むと「八幡橋」。橋の手前の神田川右岸には下高井戸・浜田山八幡の鎮守の森が見える。柏の宮のところでメモしたように、この社は太田道灌が江戸築城の際、工事の安全を祈念し、家臣の柏木左衛門に命じて鎌倉の鶴岡八幡を勧請して建立したもの。境内には稲荷社、天祖神社、御嶽神社、祖霊社が合祀されている。また、先ほどの鎌倉橋の名前の由来も、鎌倉の鶴岡八幡を勧請したこの社の近くにあった、とする説もあるようだ。

浜田山この辺り、神田川の北側は浜田山。浜田山の地名は江戸の頃、内藤新宿の商人である浜田屋弥兵衛に由来する。浜田屋は浜田山4丁目の杉並南郵便局辺り一帯に松やくぬぎの林(此の辺りでは「山」と呼ぶ)を持っていたようである。そこには一族が眠っており、お彼岸には浜田屋の一族がこの地を訪れ、仏の供養へと村の子供たちにお菓子や銭を配り、それはもうお祀りのような騒ぎでもあり、一躍「浜田山」という名が有名になった。浜田屋は明治に米相場に失敗し没落したが、浜田山は小字として残った、と言う(『杉並風土記』)。

かんな橋・下高井戸用水排水口
「むつみ橋」、「弥生橋」、「向陽橋」、「幸福橋」と続く神田川の左岸は西永福。西永福近辺は江戸の頃から武州多摩郡永福寺村水久保と呼ばれていたようだ。久保は窪。水が湧き出る土地である。永福町となったのは昭和7年のことである。
荒玉水道道路に架かる神田橋を越え、「かんな橋」に進むと、大きな排水口が見える。これは下高井戸用水が神田川に注いでいたところ。下高井戸用水は、甲州街道の鎌倉街道入口交差点の少し西辺りからはじまり、鎌倉街道を東西に横切り、街道の東を街道に平行に北に進み、塚山公園の南東、下高井戸4-23辺りで東に流路を変え、向陽中学の南を進む。荒玉水道道路を越えると、東電総合グランドの南を進み、グランドと都立中央ろう学校の間を北に向かい神田川に注いでいる。
水路跡を辿るに、車止め、周囲との若干の段差、道のカラー舗装の水路跡3点セットのうち、カラー舗装はなかったが、神田川排水口から甲州街道の分水口らしきところまで、車止め、周囲との若干の段差を頼りに迷うことなく行き着いた。
因みに、都立中央ろう学校の上には吉田園(下高井戸2-19)と呼ばれる、池と花菖蒲の庭園、そして湧水を利用したプールなどを設けた娯楽庭園があった。このあたりは淀橋上高井戸水爆布線上にあり湧水点が高く、数m掘ればすぐに湧水が出た、と言う(『杉並の川と橋』)。

永福橋・永福寺池跡
「かんな橋」を越えると「永福橋」。井の頭線永福町駅前交差点から甲州街道・下高井戸駅入口交差点を結ぶ都道427号、通称永福通りに架かる。この「永福橋」の辺りにはその昔、永福寺池と呼ばれる池があった、と言う。明治に編纂された「東京通誌」には、「神田上水 源ヲ北多摩郡三鷹村(牟礼)井頭池ニ発シ東流東多摩郡高井戸村(久我山) ニ入リ、同村(上高井戸・下高井戸)ヲ経テ、和田堀之内村(永福寺)ニ至リ、永福寺池ノ下流ヲ併セ、同村(和泉・和田)ニテ善福寺川ヲ併セ中野村(雑色・本郷)ヲ経テ...」、とある。
井の頭の池を水源とし、途中幾多の支流を合わせた神田上水は、永福寺池に注ぎ、更に下流に下ったとのことである。池の規模は結構大きく、西端はこの「永福橋」あたり、東端は神田川が井の頭線と交差するあたりであった、とも言う。もっとも、地形図を見るに、中間の「永高橋」の辺りは神田川左岸の台地が川脇までせり出しているようにも思えるので、池は二つにわかれていたのかもしれない。地形図故の推論であり、根拠、なし。
その昔、永福寺池のあった辺りには、現在、「永福橋」、「ひまわり橋」、「永高橋」、「明風橋」、井の頭線のガードを越えたところには「蔵下橋」が架かる。蔵下は、現在の明大和泉校舎がある台地には江戸幕府の硝煙蔵があったと言う。その台地下ということで、蔵下なのだろう、か。
それはともあれ、井の頭の池からおおむね南東へと下ってきた神田川は、「永福橋」を最南端として、流路を北に向ける。地形図を見るに、東西、そして北を台地で囲まれているわけであり、護岸工事もない当時は穏やかな勾配の川は水を留め、池となっていたのであろう、か。昔の地名は小字・曽根の辺りだろうか。曽は「高いところ」の意。曽根は「高いところの根=下」ということであるから、台地下の低地、といった意味(『杉並風土記』)。

永福寺・永福稲荷永福寺池北の台地上には永福寺。永福の地名の由来ともなったお寺様。大永二年(1522年)開山の古刹。戦国時代は北条氏家臣ゆかりの所領であった、とか。北条氏滅亡後、検地奉行であった安藤兵部丞が帰農し当寺を菩提寺とし現在にいたる、と。 杉並最古の庚申塔がある。近くの永福稲荷は享禄三年(1530)永福寺の鎮守として創建。明治11年頃神仏分離令により現在の場所に移転、村の鎮守様に。

永福・和泉
此の辺りの永福・和泉の歴史は古い。永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には高井堂(高井戸)とともに永福寺(永福町)が中野郷に属すると考えられる記述があるそうだ。また、宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」には和田、堀の内とともに泉(和泉)が武蔵国中野郷に属する、との記述がある。東端の井の頭線のガード北の永福町駅方面へと上る道は古くからの道であり、また、西端の永福町通りも、大山道(世田谷通り)の世田谷宿(世田谷線上町駅付近)から、世田谷八幡、豪徳寺を経て、大宮八幡へ向かう古くからの道であった、とか。
江戸の頃は、和泉村、永福村の大部分は旗本五百石・内田氏の領地。和泉村と永福村の一部は幕府直轄地であった。現在の明大和泉校舎がある台地には江戸幕府の硝煙蔵(火薬庫)があったと言う。直轄地って、その辺りであろう、か。

永泉橋・和泉中学校井の頭線を越え和泉2丁目に入ると、周辺の沼や池からの水も本流に合わさり、井の頭通りに架かる「神泉橋」、和泉中学脇の「永泉橋」、和泉小学校前の「宮前橋」と続く。『杉並の川と端』によれば、「永泉橋」の西側、龍光寺がある台地下の湿地には昭和13年、「泉湧菖蒲園」があった、とか。現在は護岸工事がなされ、湿地跡の名残はどこにもないが、龍光下にあるフェンスで囲まれた芝の一画、春には地域の人が花見を楽しむ辺りは、その昔、湿地であったのだろう。
湿地と言えば、龍光寺対岸の和泉中学校も洪水で悩ませられ続けたと『杉並風土記』にある。同中学の開校10周年の記念誌には「水にはじまって水に終わる。これが和泉中10年の歴史であった」ではじまる。台風の度に洪水の被害を受け、とくに狩野川台風のときには「神田川が氾濫し一面海のようになり、道路も橋も水没し」といった記述がある。

龍光寺・龍光寺下の湿地湧山医王院・龍光寺は真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像で平安時代末期(十二世紀後半)の造立。開創は承安2年(1172年)、と伝えられる。山号の「泉湧」は龍光寺の少し北にある貴船神社の泉から。院号の「医王」は、本尊の薬師如来から。寺号の「龍光」は神田川の源流・井之頭池に棲む竜が川を下り、このあたりで雷鳴をともども、光を放って昇天したことに由来する、とか。
実際のところ、除夜の鐘のとき以外、このお寺さまに出かけたことはなかった。今回寺域に入り、造作の落ち着いた雰囲気に結構惹かれた。境内裏手には四国八十八箇所巡りもある。いいお寺さまであった。

宮前橋・和泉熊野神社

「宮前橋」を渡る道が台地へと上る坂道の龍光寺と道を隔てた南には和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守さま。創建は鎌倉北条時代の文永4年(1267年)、と言う。弘安7年(1284)には、上杉氏を破り江戸を略した北条氏綱が社殿を整えた、と。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営。明治4年に修復されている。建築学者からも注目される社殿、落ち着いた境内の雰囲気故か、昭和53年には拝殿内で、「犬神家の一族」の撮影が行われた、と(『杉並風土記』)。境内からは縄文時代後期の土器・打石斧・石棒や,古墳時代の土師器が出土している。また,境内には,徳川家光が鷹狩りの折り、手植えした、との松の大木もある。とはいうものの、初詣、お祭りなど、折に触れてこのお宮さんに出かけているが、手植えの松などは目にしたことは未だ、ない。




貴船神社・御手洗の池

熊野神社の台地下を少し北に進んだところに貴船神社。江戸時代から和泉熊野神社の末社。創建は文永年間(1264~75)とのこと。山城国貴船神社を農作雨の神として勧請したと伝えられる。祭神は「たかおかみ神」。この神は山または川にいる雨水をつかさどる竜神。雨乞い,止雨に霊力があるとのこと。境内に「御手洗の池」。昔はいかなる日照りにも涸れることなくコンコンと清水が湧き出ていた。「和泉」の地名の由来、ともなり、神田川の水源のひとつでもあったこの湧水も、神田川の改修工事や宅地化の影響で昭和40年頃に水が枯れてしまった、とか。江戸の頃は、龍光寺からこの貴船神社がある台地の下の小字は「根河原」。如何にも、台地下(根)の神田川の河原といった地形を著した地名である(『杉並風土記』)。

大円寺神田川から少し離れるのだけれども、神田川左岸の台地上、井の頭線・永福町永福町から一直線に方南通りまで続く商店街の道筋に泉谷山大円寺。慶長2年赤坂に家康が開いた、と。延宝元年(1673年)、薩摩藩主島津光久の嫡子の葬儀をとりおこなって以来、薩摩藩の江戸菩提寺となる。庄内藩士による三田の薩摩藩焼き討ちで倒れた薩摩藩士や、戊辰の戦役でなくなった薩摩藩士のお墓がある。益満休之介の墓もあるとか。「泉谷」という山号がこの地の和泉との関連で気になるのだが、このお寺さまは、その昔、赤坂溜池の辺りにあったとのことではあるので、そちらに由来するものかとも思える。

益満休之介
益満休之介って魅力的な人物。王政復古の直前、西郷が江戸を騒乱状態に陥れるために送り込んだ工作グループの立役者。浪士500名を集め、江戸市内で佐幕派豪商からお金を巻き上げる「御用盗」や、放火、そして幕府屯所襲撃などやりたい放題。幕府を挑発。それに怒った江戸市中見巡組(新徴組)がおこなったのが、上にメモした三田の薩摩藩邸の焼き討ち。この焼き討ちの報に刺激を受け、会津・桑名の兵が「鳥羽・伏見」の戦端を開いた、という説もある。ともあれ、休之介は庄内藩に捕らえられ、勝海舟のもとに幽閉。たが、官軍の江戸総攻撃を前に、無血開城をはかる勝は山岡鉄舟を駿府に送り西郷隆盛と直談判を図る。そのときに、山岡に同道したのが益満。西郷とのラインをもつが故。山岡が西郷との会談に成功したのも、この益満あればこそ、である。その後休之介は体を壊し、明治元年、28歳の若さでなくなった。歴史にIFは、とはいうものの、益満が生きていれば、明治の御世はどうなったのであろう、か。

新徴組
ついでに新徴組。新徴組って、墨田区散歩のとき、本所で屯所跡(墨田区石原4丁目)に出会った。本所三笠町の小笠原加賀守屋敷である。屯所はもう一箇所、飯田橋にもあった。田沼玄蕃頭屋敷(飯田橋1丁目)。新徴組はこの2箇所に分宿していた。
新徴組誕生のきっかけは、庄内藩士・清河八郎による浪士組結成。将軍上洛警護の名目で結成するも、清河の本心は浪士隊を尊王攘夷を主眼とする反幕勢力に転化すること。それに異を唱え清河と袂をわかって結成したのが「新撰組」。結局、幕命により清河と浪士隊は江戸に戻る。清河は驀臣・佐々木只三郎により暗殺され、幕府は残った浪士隊を「新徴組」とし庄内・酒井家にお預け。
当初は存在感もなかったようだが 、文久3年(1863年)に新徴組は歴史の表舞台に登場する。江戸の治安悪化を憂えた幕府が、庄内藩を含む13藩に市中警護の命を下したからだ。が、幕府と命運をともにした庄内藩・新徴組は、戊辰戦役以降,塗炭の苦しみを味わうことになる。

文殊院

神田川脇の遊歩道に戻り「中井橋」、「番屋橋」、「一本橋」、「和泉橋」と先に進む。北に進む神田川が東に向きを変える和泉4丁目の舌状台地のうえに文殊院。本尊の弘法大師坐像は室町末期のもの、とか。縁起によると、寺の起こりは1600年。家康が駿府に開創。1627年に浅草に移り、1696年には港区白金台に。現在地に移ったのは大正9年、とのこと。





弁天橋
和泉橋の次に「弁天橋」。弁天という以上、近くに弁天様であり、水の神様故の池などないものかとチェックする。と、「弁天橋」から少々離れた神田川右岸の舌状台地上、専修大学附属高校脇に和泉弁天社があった。ささやかな鳥居と社からなる境内に池はないが、弁天池の名残なのか、龍の刻まれた小さな水鉢が残っていた。地形図を見るに、水路跡らしき刻みが環七を越えて方南小学校辺りで神田川に注いでいたようである。弁天橋は、弁天社への参道に架かる橋、ということではあろう。

神田川・環状7号線地下調整池弁天橋から方南第一橋、そして環七に架かる方南橋まで、神田川は比高差のある舌状台地に沿って進む。江戸の頃、この辺りの小字は「崕」。高い崖のある地形を著した地名となっている。
往昔は、この辺りにも池や沼があったようであり、その水を合わせ、環七を越え、現在は方南小学校辺りにあった方南田圃を潤した、と『杉並の川と橋』にある。
崖線の対岸、神田川の左岸を進むと、護岸の壁面に水を取り込むための取水口(越流堰;えつりゅうぜき)が見える。これは神田川周辺地域の洪水被害を防ぐため環状7号線の地下につくられた貯水トンネルへの神田川取水施設の取水口。環七下につくられる調整池は第一期と第二期に分けて実施されており、第一期は神田川対策、第二期は善福寺対策を主眼としており、この神田川周辺は梅里に造られた立抗からおおよそ2キロ、地下40mか50mのところに内径12.5mという巨大な貯水池が建設されている。
武蔵野台地を流れる神田川や善福寺川、石神井川流域は急激な都市化の進展により、流域の保水・遊水機能が減少し、集中豪雨の度に多くの水害が発生するようになった。そのため、1時間あたり50mの降雨に対応するように河川整備を行っているとのことだが、神田や善福寺川などの流域は住宅が密集し50m対応の護岸工事に時間を要するため、洪水の一部を貯める施設としてこの地下調整池が建設された、とのことである。現在環七から上流は順次50m対策の護岸工事が進んでいる。

環七
方南橋の架かる環七建設の構想は古く、昭和2年の頃には素案ができている。戦前には一部着工。戦時下になり中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。本日の散歩メモはここまで。通りなれた道筋を家路へと。


神田川散歩そのⅠ;源流点から環八・佃橋まで

神田川散歩そのⅠ;源流点から環八・佃橋まで
我が家のある杉並区和泉の小高い丘の下を、丘に沿って巻くように進む川がある。神田川である。春の桜の頃に限らず、折に触れ川沿いの遊歩道を歩いている。玉川上水散歩と同じく、あまりに幾度も歩いており、あまりに身近であるために、未だ散歩のメモをすることがなかったのだが、先日、家の近くを環七の先まで歩いた時、釜寺などと言うお寺さまに出合った。また、そのとき家の近くに弁天橋があり、それでは弁天さま、弁天池って、どこにあるのだろうなどと、辺りを彷徨った。あらためて思うに、神田川流域のあれこれについては、知っているようで、あまり知らなかったようである。それではと、神田川流域を、気分も新たに歩き直し、水源から隅田川に注ぐまでメモをまとめることにした。

神田川は吉祥寺の井の頭公園の池をその源とし台東区、中央区、墨田区の境となる両国橋辺りで隅田川に注ぐ。江戸の頃は、上水路として大江戸の人々に潤いをもたらした流路ではあるが、もとより現在はその機能はあるはずもなく、洪水対策の護岸工事の施された一級河川として、武蔵野台地に開析された谷筋を、1キロ1.9mといった緩やかな勾配で下ってゆく。流路を見るに、杉並区を南東に下り、杉並区永福町でその方向を北東に向けて大きく切り返し、中野区富士見町で善福寺川を合わせる。河川流域としては神田川より広い善福寺川の水を集めた神田川は、更に新宿区に向かって北東に進み、新宿区落合で妙正寺川の水を合わせ、目白台の崖線に沿って東に進み、文京区関口の江戸川橋交差点へと向かう。関口はかつて上水として使われた神田川・神田上水が満潮時に遡上する海水を防ぐため造られた大洗堰のあったところである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
神田川が上水として使われていた江戸の頃は、流路はここから二手に分かれ、一手は上水路として小日向台地の崖下に沿って水戸藩江戸屋敷のあった現在の小石川後楽園へと向かい、そこから江戸市中、とくに神田・日本橋辺りへと上水路が整備されていった。もう一方の流路は、上水余水として現在の神田川の流路を南東へ下り、大曲交差点で流路を南に変えて千代田区飯田橋に進む。江戸城外濠に続く飯田橋で流路を直角に変え、水道橋、そしてお茶の水の切り通しの谷を越え、神田を経て隅田川に注ぐ。
隅田川へと向かう神田川の流れは、途中、水道橋の辺りから南に水路を分ける。現在、日本橋川と呼ばれるこの川筋が往昔、平川とも古川とも呼ばれた神田川の旧路である。現在は神田橋、呉服橋、江戸橋などを経て永代橋あたりで隅田川に注ぐが、この流路も人工的に開削された水路であり、更に古くは浅瀬の入り江であった日比谷へと注いでいた、と言う。因みに、日比谷の「ヒビ」とは、海苔を付着させて生育させるもの。古くは竹や木を浅瀬の海中に差し込んで使っていた、とか。
古川とも平川とも呼ばれ、飯田橋辺りから南へと流れていた流路を、東へとその流れを変え、お茶の水から神田へと流した理由は、洪水から江戸城を守るため、とのこと。本郷台地を切り崩し、お茶の水に切り通し・人工の谷をつくり、流路を神田へと変へる普請が仙台・伊達藩の掛かりで行われた。
江戸の上水として使われた神田上水は、武蔵野台地の尾根道を人工的に開削した玉川上水とは異なり、井の頭から流れ出す自然の流路に途中の支流を合わせ整備したもの、と言う。杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』の湧水マップを見るに、神田川の杉並区域にはそれぞれ十数カ所の遊水池と宙水地が記載されている。井の頭池を開析谷の谷頭とし流れ出した流路に、開析谷にそって点在する幾多の湧水地や宙水地か流れ出す支流を集めた自然の流れを、上水路として整備していったのではあろう。
通常武蔵野台地に降った雨はローム層とその下の砂礫層に浸透し、その下にある堅い粘土層に遮られ地下水の帯水層をつくり、その帯水層が崖線の谷頭などで地表にあらわれる。これが湧水池を形成するのだが、時として地下水がローム層と礫層の間にできた粘土層に帯水することがある。これを本格的な地下帯水層と区別して、ちょっと「宙ぶらりん」な帯水層ということで、「宙水」と呼ぶようだ。
今回の散歩は、完全護岸工事が施された神田川の谷筋を進みながらも、地形図の等高線の変化などを見比べ往昔の湧水池・宙水地などに寄り道をしながら、かつて自然流路であった神田川の痕跡を辿りつつ、水源より隅田川までの散歩を始めることとする。

本日のルート;井の頭公園・井の頭池>水門橋>井の頭線の高架を潜る>夕やけ橋>井の頭付近の支流らしき水路>井の頭線・三鷹台駅>三鷹台付近の支流らしき水路>久我山稲荷神社>井の頭線・久我山駅>清水橋付近の崖面上>井の頭線・富士見ヶ丘駅>高井戸駅付近・左岸の水路跡>浴風会>環八・佃橋

井の頭公園・井の頭池
神田川は井の頭池をその主水源とする。その昔は、武蔵野台地を伏流してきた地下水が湧水となり池に水を湛えていたが、現在は周辺のマンション建設などで、その地下水路が断たれ、井戸を掘りポンプアップによる地下水汲み上げを行っている、とのことである。池の西端の崖下に「お茶の水」と呼ばれる水の湧き出る石組みの一隅がある。家康がこの地を訪れたとき、ここの湧水でお茶を点てたのがその名の由来とのことであるが、この湧き出る水も、井戸を掘ったポンプアップの水である。
七井の池とも、七井の湖とも称され、7カ所からの豊かな湧水点を有し、現在、池の中央に架かる七井橋にのみ往昔の湧水の名残を残す井の頭池の湧水であるが、その標高はおおよそ50mと言う。この井の頭池に限らず、善福寺川の水源ともなる善福寺池、妙正寺川の源流点ともなる妙正寺池、石神井川の主水源ともなる三宝寺池、そして池ではないが清冽な水を湛える落合川の水源となる南沢湧水群(東久留米市)など、武蔵野台地の標高50mの地点には湧水点が多い。武蔵野台地を形成している洪積層中のローム層や砂礫を浸透してきた地下水は、堅い粘土層にぶつかると帯水層をつくり、その帯水層が露出したところが標高50mの辺りであり、そこに湧水池・湧水点を形づくる、ということであろう。
杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』によると、往昔の井の頭池からの流出量は1日当たり2万トンから3万トンとあったのこと。現在、深井戸から井の頭池に汲み上げる地下水は3千トンから4千トン、その1日の流出量は千トン、と言うから、往昔のその豊かな湧水量が偲ばれる。
井の頭池の崖の上には御殿山遺跡が残る。御殿山の由来は三代将軍・家光の鷹狩りの際の休憩所から、とのことであるが、それはともあれ、縄文時代の中期から後期の竪穴住居、敷石住居、土器や石器の発掘されたこの遺跡も、井の頭池の豊かな湧水があってこその集落ではあったのだろう。

水門橋

井の頭池の最東端に水門橋が架かる。このコンクリート造りの小橋が神田川の始点であり、ここから全長24.6キロの神田川がはじまる。始点付近の水路には多数の岩が配されてはいるが、水路の周囲、特に南に続く公園に趣を添えるためのものではあろう。家族連れの姿を見やりながら進み「よしきり橋」を越えると井の頭線の高架を潜ることになる。

井の頭線
井の頭線は渋谷と吉祥寺の間、12.8キロを結ぶ。線路の軌道幅は1067mmと標準狭軌サイズで京王本線の1372mmと異なる。これは、元々資本の異なるふたつの会社、旧京王電気軌道(京王本線の系統)と旧帝都電鉄(井の頭線の系統)が京王電鉄の前身、京王帝都電鉄として発足したためである。
京王本線の軌道が1372mmとなっているのは、旧京王電気軌道時代、当時の東京市の市電と繋ぐためにその軌道幅に合わせた、とのことであるが、それはそれとして、ここでは井の頭線の系統である旧帝都電鉄の変遷をまとめておく。
旧帝都電鉄は1926年(大正15年;昭和元年)申請し、翌年免許が交付された東京山手電鉄にまでその歴史を遡る。当時、第二山手線構想のもと、現在の山手線の外周を繋ぐ路線建設の計画が持ち上がった。大井町から自由が丘、梅ヶ丘、明大前を経て、中野、江古田、下板橋、田端、北千住、砂町から須崎を結ぶこの構想は、不況の影響などで計画は停滞し、結局、東京山手電鉄は小田急鉄道(小田急電鉄)の傘下に入る。また、1928年(昭和3年)には、渋谷・吉祥寺間の免許をもつ城西電気鉄道(後の、渋谷電気鉄道)も小田急鉄道の傘下に入る。
しかしながら、その小田急鉄道も第二山手線構想を実現する余力もなく、結局は、収益性の高い渋谷・吉祥寺間の路線建設を優先することとし、東京山手鉄道を改称した東京郊外鉄道が渋谷鉄道を合併。社名を帝都電鉄と改称し、渋谷・吉祥寺間を順次開設していった。井の頭線の軌道が京王本線と異なり、小田急の軌道と同じくするのはこういった経緯が背景にある。帝都電鉄は昭和8年(1933)には渋谷から井の頭公園駅まで開通。翌9年(1934)には吉祥寺まで繋がった。井の頭公園駅と吉祥寺駅までの開通に1年を有した要因は水道道路(現在の井の頭道路)を高架で越える必要があったため、とのこと。
以前、玉川上水散歩でメモしたが、井の頭線の明大前駅の手前に跨線橋がある。上下2つの複線にもかかわらず、橋桁は4路線分となっている。これは第二山手線構想の準備として用意した遺構、とのこと。因みに、境浄水場から和田堀給水所へと導水管を埋めた水道道路を井の頭街道と命名したのは首相の近衛文麿。荻窪の私邸から官邸へのルートとして水道道路を利用していたため、と言う。井の頭通りと甲州街道が合流する手前に石碑が建つ。

夕やけ橋

井の頭線を越えると井の頭公園駅。上でメモしたように、昭和8年(1933)、帝都電鉄として開業。その帝都電鉄は昭和15年(1940)、小田急鉄道と合併し同社の帝都線となるも、昭和17年(1942)には、小田急電鉄が東京急行電鉄(大東急、とも)に併合される。その東京急行電鉄から分離し、京王帝都電鉄となったのは昭和23年(1948)のことである。京王井の頭線が誕生するまでには、戦時体制下とは言いながら、小田急や東急とも関係があった、ということである。
駅の北を流れる神田川の周囲は親水公園となっている。少し進んだところにある橋の名前も「夕やけ橋」。昭和60年代の都による河川改修の計画では、当初このあたりも周辺の樹木を伐採し、コンクリートで護岸工事される計画であったようだが、周辺住民の努力により、計画を変更し、せせらぎと親しむ公園となった。この親水公園も次の神田上水公園辺りからはコンクリート護岸の川筋となる。

井の頭付近の支流らしき水路

「神田上水橋」を越え、「あしはら橋」へと進む。と、「あしはら橋」の少し上流に神田川に注ぐ大きな排水口が見える。カシミール3Dでつくった地形図で見るに、50mの標高線が神田川の谷筋から西に向かって井の頭公園駅前通の先まで大きく食い込んでいる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』の湧水点分布図にも、食い込んだ谷頭辺りに宙水点のマークがある。ということで、水路跡の痕跡でもないものかと、ちょっと寄り道。






排水口のあたりからの道筋を進むと、すぐに井の頭線に当たる。踏切を渡り痕跡を探すと、線路脇に水路を塞いだ溝らしき箇所があり、その先にカラー舗装された、いかにも水路跡、といった緩やかなカーブの道が続く。カラー舗装の道、所々に車止め、それに少々の段差という、水路跡によく見られる三点セットもあり、往昔の水路ではあったのではなかろう、か。水路跡らしき道は井の頭公園通りを越えて、玉川上水の近くまで続いていた。この水路は神田川の谷筋から切れ込んだ小さな開析谷の谷頭の宙水からの湧水だけでなく、玉川上水からの助水を受けていたのかもしれない。単なる妄想。根拠なし。

井の頭線・三鷹台駅
元に戻り、「あしはら橋」を越え、「丸山橋」まで進むと井の頭線・三鷹台駅。三鷹台?武蔵野市ではないの?と地図をチェック。神田川を境に南が三鷹市、北が武蔵野市。その武蔵野市も三鷹台駅の川を隔てた北にある立教女学院の西側まで。立教女学院から東側は杉並区久我山となっている。三鷹台駅は三鷹市の東端であった。ちなみに、井の頭の池も三鷹市にあった。作家・小沼丹はその作品「三鷹台附近」に、「三鷹台駅に改札口の附いたのは多分昭和十二、三年頃だったらう。その頃は、駅に降りると線路を横切る道が一本左右に伸びてゐるばかりで、辺り一帯は葦の茂つた湿地であつた。線路沿ひに、井の頭池から出た小川(神田上水)が流れてゐて、釣師の姿をよく見掛けたりした。尤もこの湿地も三鷹台から先は田圃に変つて、菅笠を被つた女が田植ゑをするのを見たことがある。小川に架つた土橋を渡つて左に行くと東京市で、立教女学校があり、人家もある」と描く。
ここには、辺り一帯は葦の茂った湿地であった、とある。丸山橋の手前に「あしはら(葦原)橋」があった所以である。現在の姿からはその由来など想像もできなかったのだが、昭和初期までは橋の名前の通りの情景が広がっていたのだろう。また、小川に架かった土橋というのが「丸山橋」の前身ではあろう。因みに、立教女学院は関東大震災後の大正13年、中央区から移転した。

三鷹台付近の支流らしき水路
三鷹台駅を越えると、少しの間、川沿いの遊歩道が切れる。一旦、立教女学院の方に向かい、最初の角を右に曲がり道を進む。道筋は杉並区久我山と三鷹市の境を歩くことになる。ほどなく踏切があり、井の頭線を越えて川添いの遊歩道に戻る。「神田橋」を見やり、「みすぎ橋」まで進む。ここが三鷹市最東端の橋。「みすぎ」は「みたか」と「すぎなみく」の頭の文字を合わせたもの。
この「みすぎ橋」の少し上流にも四角のおおきな排水口がある。地形図を見るに、「みすぎ橋」あたりから三鷹台駅前通りのあたりまで、50mの等高線が大きく切れ込んでいる。ここでも、水路跡の痕跡でもないものか、と川筋から離れる。排水口辺りから、これまた、カラー舗装の道、車止めといった水路跡の「目印」を辿り、三鷹台駅前通りまで進む。これといった湧水点の痕跡は見あたらなかったが、台地と神田川のから切れ込んだ谷筋の標高差は5m以上もあるわけで、分水界から神田川へ注ぐ流路はあったのかとは思う。

因みに杉並区の地名の由来は杉並木、から。江戸の初期に成宗と田端村を領した岡部氏が領地の境を示すために植えた、と言う。江戸を通じてこの杉並木は名を知られ、明治になって高円寺・馬橋・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗の6つの村が合併し、新しい村名となったときその名を「杉並村」とした。その後、「村」から「町」になった杉並は、昭和7年10月井荻町・和田掘町・高井戸町と合併し区が誕生するとき、最も知られる杉並をその区の名称にした、とのことである。また、三鷹は徳川将軍家や徳川御三家の鷹場の村が集まっていたこと、そして世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来するとも言われるが、定まった説は、ない。

久我山稲荷神社
杉並区に入って最初の橋「緑橋」を越えると「宮下橋」。橋の北にある久我山稲荷神社に由来する名前ではあろう。久我山稲荷はこの地の鎮守さま。幕末に板橋にて刑に処せられた新撰組局長・近藤勇のなきがらを密かに掘り起こし、三鷹の龍源寺に埋葬すべく夜道を急いだ係累・門弟が一休みしたところ、との話しが伝わる。

いつだったか、久我山稲荷を訪れたことがある。久我山駅北口に下り、崖線に沿って東に進むと崖面に社があった。鳥居の横にある久我山稲荷の石柱を見るに、氏子代表としてふたりの秦さんの名前があった。また、正面の鳥居に続く少々古き趣の二番目の鳥居には寄進者として江戸の文政期は秦野姓、大正期にはその後継者として秦姓が名を連ねる。
この久我山には秦姓が多い、と言われる。元は秦野姓であったものが、明治の戸籍法の制定にともなう戸籍提出に際し、あまりに秦野姓が多いので、手間を省くために「秦」とした、といった話も伝わる。あまりにできすぎた話ではあり、また、そもそもが、この地の秦野氏は相模の秦野氏ではなく、別系統の「秦」氏の出自とする説もあるようで、真偽のほどは定かではない。それはともあれ、神社を訪れたときは、寄進者を書き示した石柱などを見るのが楽しみでもある。そこに多く現れる名前が、その地を開いた人々の末裔であろう、との思いからではあるが、いつだったか奥多摩より仙元峠を越えて下った秩父山中の浦山にあった浦山大日堂に浅見姓が多かったのが印象に残っている。浅見姓は現在でも秩父に多い姓である、と言う。

井の頭線・久我山駅
「宮下橋」の辺りから神田川の両岸にカラー舗装や車止めといった水路跡らしき道筋はあるのだが、地形図で見るに、特に等高線の切れ込んだ谷頭もない。護岸工事をする前の、旧神田川の流路かとも思う。「宮下人道橋」、「都橋」を過ぎると井の頭線・久我山駅。駅の吉祥寺側は45mと50mの等高線が迫っており、急坂となっている。久我山という名前からは公家の久我家が連想される。とはいうものの、久我山の久我の由来は、「陸(くが=りく)」、から。「くぼ(窪)」の逆と考えてもいいだろう。つまりは、川などの近くの盛り上がった山のようなところ。久我山の「山」は、雑木林などを山と呼ぶことも多いので、久我山とは「川のそばの雑木林の茂る台地」といった地形を差すのだろう。
ちなみに、公家の久我家の名前の由来も、元々は源の姓であったものが、京都の伏見区・桂川ちかくにつくった別邸の「久我水閣」、から。その別邸があったところも、桂川近くの少し小高い地にある、と言う。

人見街道
久我山駅前を東西に走る道を人見街道と呼ぶ。「井の頭通り」の京王井の頭線「浜田山駅入口」交差点から分岐して、久我山駅東側の踏切を渡り三鷹市の牟礼に入り、新川、野崎、大沢を経て、府中市若松町まで続く12キロの道である。そもそもの人見街道は甲州街道の烏山付近から北へ何本かの道筋が通り、その道筋は今の下本宿通りにつながり、市役所前から野崎、大沢を経て、府中市の八幡宿へ通じていた、とのこと。人見山のふもとを通り人見山(現在の浅間山)が見えたということなどから、「人見道」とか「人見街道」と呼んでいたそうではある。また、この道は、甲州街道の烏山から府中方面へ抜ける近道でもあったので、「甲州裏道」とも「府中裏道」とも呼ばれていた。人見の地名は武蔵七党の猪俣党の人見氏一族が住んでいたことに由来する、とか。
この道は古道のひとつで、武蔵国府府中から大宮(埼玉)に行く大宮街道、下総の国府(市川市)に通じる下総街道の道筋であったと言われ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であった、よう。江戸に入り甲州街道ができると、脇街道的な性格を強めることになった。近くの久我山五の九の辻にある石塔には「これよりみぎ いのがしらみち」とあり、井の頭への道としても利用されていたようである。
昭和初年に久我山駅前の直線化や拡幅がおこなわれるなどの経緯をへて、正式に通称名が人見街道となったのは昭和59年。その際、旧来の人見街道の道筋変更がはかられ、杉並区内を含む上の部分が新しく人見街道に組み込まれた、とのこと。新たに組み込まれた箇所は久我山から浜田山区間。ために、久我山道とも呼ばれたようである。

清水橋付近の崖面上
久我山駅前の人見街道に架かる久我山橋を渡り、神田川左岸を進む。右岸は段丘崖が迫り川沿いの道は清水橋の先でなくなる。左岸は駅を越えると谷幅は少し広くなるが、その敷地は京王線の車庫(富士見ヶ丘検車区)となっている。車庫はかつて永福町駅にあったようだが、昭和45年に、この地に移ってきた。
右岸の遊歩道を清水橋まで進み、崖線上がどのようになっているのが、ちょっと寄り道。急な石段を上ると東京都太田記念館があった。中国と縁の深かった太田宇之助氏が東京都に寄贈した土地に都が建設したアジアからの留学生の宿舎、とか。




建物前に案内板がある。太田記念館の説明かと足を止めると、その説明は向ノ原遺跡の説明であった。案内をメモ;向ノ原遺跡B地点は、武蔵野市にある井之頭池を水源とする、神田川南岸に形成された急崖な台地上に位置しています。当遺跡は、杉並区久我山二丁目16番を中心とした、先土器時代(約16,000年前)から縄文時代早期後半(約8,000年前)にかけての集落跡で、当遺跡の東側に隣接する向ノ原遺跡(大蔵省印刷局運動場内)と同一遺跡で、その西端をなすものと思われます。
東京都太田記念館建設に先立ち、昭和62年から63年にかけて実施された発掘調査では、先土器時代のナイフ形石器をはじめとする石器類、バーベキュー跡と考えられる拳大の石を数10個集めた礫群が7箇所発見されています。
縄文時代では、草創期(約10,000年前)の隆起線文土器と爪形文土器約30点が出土して注目されました。最古の縄文土器であるこれらの土器群は今のところ、区内はもとより武蔵野台地における当該期の資料として最大の質と量を誇っています。
また、この他にも早期前半(約9,000年前)の住居跡も6基発見されており、神田川流域の当遺跡を中心とした一帯が、区内における最古の縄文文化発祥の地点である可能性を提供した重要な遺跡であると言えます。(なお、出土した考古遺物は、すべて杉並区立郷土博物館に展示してありますので、当記念館では見学することはできません。)」、とあった。

久我山運動場
崖面上を彷徨うに、グランドが広がる、のみ。この久我山運動場(元大蔵相印刷局)のグランドには戦時中は高射砲の陣地があったとのこと。中島飛行機の荻窪工場や武蔵工場(武蔵野市)を防衛するためのもの。最新鋭の15センチ砲据えられ、B29二機が被弾し、一機は久我山4丁目に墜落した、と言う(『荻窪風土記;森泰樹』)。
久我山運動場の南には富士見ヶ丘運動場。この元NHKのグランドの南には玉川上水が流れる。道なりに進み、成り行きで王子製紙の社宅に沿って坂を下ると富士見ヶ丘検車区の入口に続く橋に出る。神田川左岸には線路などもあり、右岸から車庫への車両の出入りのために造られた、車庫専用の橋にようであり、特に橋に名前はない。

井の頭線・富士見ヶ丘駅車庫を見やりながら進み、京王線の車庫が切れる先に井の頭線・富士見ヶ丘駅。駅前の南の神田川には「月見橋」がかかる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』によれば、通称「清水山」とよばれる地域がこの富士見ヶ丘駅の近くにあり、辺りの神田川両岸は雑木林が続き、崖のあちこちから湧水が見られた、と言う。
地形図を見るに、少し南に切り込んだ地形が富士見駅の南東にある。そのあたりが湧水点なのか、はたまた、先ほど歩いてきた遊歩道に清水橋があったが、橋の南の現在、久我山運動場となっている一帯の崖面から湧水・清水が流れ出していたが故の橋名であろうか。いずれにしても現在はどちらにも湧水跡の痕跡はみつからなかった。

高井戸駅付近・左岸の水路跡

「月見橋」を離れ、「高砂橋」、そして「あかね橋」へと。「たかさご橋」、「あかね橋」の南北に通る道筋は緩やかな曲線を描き、如何にも水路跡らしき雰囲気。地形図を見るに、45mの等高線が北西に切れ込んでいる。神田川左岸の崖線の切れ込んだところへと寄り道。「たかさご橋」を越えたところからカラーブロックの道があり、先に進み井の頭線を越え、高井戸児童館辺りを進む。道は農園でその先を阻まれるが、農園の先には雑木林が残り、周囲も小高くなっており、この水路跡は台地からの水を集めた流路であったのか、とも思う。

浴風会

左岸を彷徨った後、今度は、神田川の右岸に続くカーブの道を辿る。地形図で見た地形の切り込んだところ、清水山の住所は高井戸西1-16辺りとあるので、丁度端から南に蛇行するその先端あたり。なんらかの痕跡でもないものかと彷徨うも、特段それらしき名残は見あたらない。清水山と呼ばれた辺りの東には結構立派な建物が見える。浴風会の施設である。ぱっと見には、昨今登場した高級ケアハウスかと思ったのだが、はじまりは大正12年(1923)の関東大震災に罹災した老廃疾者や扶養者を失った人々の救護のため、御下賜金や一般義援金をもとに設立されたもの。現在は社会福祉法人浴風会として老人保健・福祉・医療の総合福祉施設となっている、と。建物は平成に成って建て直したものが多いが、本館は安田講堂の設計を手がけた内田祥三の手になるもの。都の歴世的建造物の指定を受けたこの建物は、その趣き故、テレビや映画の舞台として数多く使用されている。とか。

環八・佃橋
「むつみ橋」、人道橋である「錦橋」、「やなぎ橋」、そして「あづま橋」を越え環八に架かる「佃橋」に。先日、玉川上水を散歩したときに、江戸の頃、環八、といっても、環八が出来たのは昭和になってからであり、江戸の頃にはなんらかの道筋ではあったのだろうが、それはともあれ、その道筋とクロスするところに「佃橋」が架かっていたと『上水記(寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂)』にある。
この佃橋がいつの頃架けられたものか定かではないが、佃の語源には。「作り田」が転化したとの説があり、「作田、突田、築田」などが当てられる、とか。つまりは、突き固めた田、低地に土を盛り上げた田、河川沿いに湿地を開墾した田、といった意味がある。地名の起こりは、庄園などの領主の直営田のことであり、新たに開墾した「作り田」にはじまるようである。
佃の由来はともあれ、「佃橋」の下にある排水口から割と勢いのある水が流れ出ている。この水は玉川上水の境橋から地下の導水管を通り此の地に導かれ、神田川の浄化に活用されている。この玉川上水の水は、昭和61年(1986)、東京都の「玉川・千川上水清流復活事業」により小平監視所より下流に流されることになったものである。
昭和40年(1965)、新宿の淀橋浄水場を廃止し、その機能を東村山浄水場に統合・移転することになる。この施策にともない、羽村で取水された多摩川の水は小平監視所より、東村山浄水場に送られることになった。このため、小平監視所より下流には玉川上水の水は一部維持水を除いて流れることがなくなったわけだが、上記事業施策により、小平監視所から世田谷・浅間橋までの18キロの間、水流が復活した。水源は都多摩川上流処理場で高度処理水された西多摩地区の下水を日量23,200トン流している、と。で、「浅間橋」(先ほど歩いた清水橋の崖上にあったグランドの南東端)から地下を環八まで進み、環八に沿って佃橋下まで下っている。
散歩をしてわかったことだが、水源の湧水を失った東京の河川は、高度処理された下水にその水流を任すことが結構多い。目黒川も西落合の水再生センターで高度処理された下水を烏山川と北沢川の合流点に送り、それが下って目黒川となる。そういえば呑川も大岡山の東京工大辺りで西落合の高度処理水によって助水されていた。

環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった。昭和22年、38年のGOOの航空写真を持ても、高井戸の近辺に環八の道筋らしき跡が見えるが、道は途切れたままである。が、その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。が、幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか(「ウィキペディア」より)。
今日の散歩メモはここまで。京王線・高井戸駅から見慣れた風景の中を家路へと。
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