水曜日, 10月 13, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道 ⑩ ; 薬師堂集落の「道分れ」から鈴ヶ峠へ

予土往還 土佐街道・松山街道 の散歩もこれで10回目。基本車デポでのピストン往復のため、結構回数がかかってしまった。
今回は薬師堂集落の「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぐ。先回の越知町横畠・堂ノ岡から薬師堂集落までは3カ所ほど激しい藪があったのだが、今回は藪もなく比高差400mほど、その距離おおよそ5キロ(旧松山街道まっぷ案内図には朽木峠から鈴ヶ峠まで1.3キロとなっていたが、林道合流点に立つ標識(朽木峠)には3.1キロとあった)を往路・復路ともに3時間ほどでカバーできた。
ルート概要は標高410mの「道分れ」から黒森山への分岐手前の標高700mの旧朽木峠(上述林道合流点の朽木峠標識と区別するため便宜的に「旧」とつけた)までの2キロほどは、途中等高線間隔の広い緩やかな道はあるものの、基本は尾根稜線部をジグザグと300mほど上げることになる。
朽木峠からの3キロほどは、山腹の林道を鈴ヶ峠手前まで標高700mから750mまで緩やかにさ高度を上げ、最後の上りで50mほど高度を上げて標高820mの鈴ヶ峠に到着する。標識はきちんと整備されており道に迷うことはない(往路は問題ないが復路で注意箇所は後述する)。
今回で伊予と土佐国境に聳える四国山地の山越え部トレースも完了となる。あれこれトラブルもあったため、常にもまして少々感慨深い。ともあれ、山越え部最後のメモをはじめる。



本日のルート;道分れ>清水井手・虎吾掘案内板>標識1(虎吾堀>標識2(商人休場 )>標識3(お茶屋跡)>標識4;稲村分岐>標識5(九里塚 )・黒鯛三蛇神様>標識6(朽木峠)>標識7;黒森山頂との分岐点>標識8・標識9(朽木峠);>分岐点を右に>標識10>標識11;土佐街道と林道交差:標識>峯岩戸集落跡>標識12;鈴ケ峠分岐>標識13>鈴ヶ峠
「道分れ」から鈴ヶ峠へ

道分れ;午前7時16分(標高410m)
道分れ
仁淀川谷筋右岸の山麓
愛媛県新居浜市の家を出て、国道194号線を南下、仁淀川を挟んで高岡郡日高村と接する吾川郡いの町柳瀬で県道18号に乗り換え西進。仁淀川に架かる横畠橋を渡ってすぐ、県道18号から山側に逸れる道にかかる「横畠」の標識を目安に薬師堂集落へと続く道に入る。曲がりくねった道ではあるが、完全舗装で道幅も広い。 しばらくの上りの後、薬師堂集落の三叉路に。そこを大山祇神社鳥居前の道を500mほど進むと車道から道が左に逸れる分岐点に案内板、標識が立つ。そこが「道分れ」。分岐点傍にある畑側のスペースに車をデポ。
分岐点に立つ「旧松山街道」の案内を読み、その傍に立つ「旧松山街道」の標識の指す道を進む。道の左手、眼下に仁淀川本流谷筋の右岸山麓の集落が見える。
「旧松山街道」案内板
「この道は土佐と伊予を結ぶ重要な往還で道幅が1間(一・八メートル)ありあり、当時としては結構広い。
伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。
薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。
藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物質交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。 一八五二年にはアメリカから十一人の役人とともに帰国したジョン万次郎、一八五九年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕といわれる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。
一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。
一八六八年には 土佐藩の兵一六一○人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、一八八二年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人たちも使用している。
街道は車社会の到来とともに荒れ果てていましたが、二○○八ー二○○九年度に実施した国交省の「新たな公」モデル事業等により「虹色の里横畠」と越知町が主導となって再整備し、登山道として親しまれるようになりました。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」」

清水井手・虎吾掘案内板;午前7時22分(標高435m)
虎吾池
舗装された道を5分ほど歩くと道の左手に池があり、その傍に案内板。
清水井手 この池の水は、海水井手と呼ばれる用水路で運び込まれている。清水井手は、一八六〇年に生活や農業用水の確保に苦労していた清水・八頭(やがしろ)・薬師堂の先覚者左京義三、左京宗常、山本虎吾、山本広次が中心となり、夜中に堤燈(ちょうちん)の明かりで測量をし、地元の人約100人が連日休みなく山肌を堀り岩を砕いて、一年六か月で黒森山東側の稲村谷から約七キロメートルの用水路を完成させた。この偉大な事業により、約7へクタールの水田ができ、その恩恵は今も営々と愛け継がれている。
山本虎吾堀と刻まれた石碑
清水井手・虎吾池案内板
用水路は当時から井手組合が管理してきたが、維持管理に大変苦労するため昭和三〇年代と四〇年代に二度にわたってコンクリートで固めた。それでも水濡れがひどいため平成になってから全線にバイブを敷設し、労力や費用は大きく軽減された。
虎吾堀 (用水池)
この池は、清水井手の完成後に水を溜めて使うべく、山本虎吾が自分の畑二反をコツコツ掘り、一八八七年に完成させたものである。
昭和四〇年代後半に内側に防水シートが施され、現在も水田の用水としで仕様されている。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」とあった。
案内板、道の反対側には「山本虎吾堀」と刻まれた自然石が立つ。
清水井手の取水口は何処?
清水簡易水道ろ過地・配水池
清水井手の取水口は何処だろう?チェックするが清水井手に関するデータがヒットしない。はてさて。そういえば「道分れ」から虎吾池の間に水道施設があった。チェックすると「清水簡易水道ろ過地・配水池」とあり、越知町の資料には「簡易水道は表流水を水源とし、緩速ろ過+滅菌処理し配水しています」とある。表流水とすれば谷筋から取水しているようにも思える。そしてその水源は稲村谷川の谷筋、鎌井田清助集落の更に北、稲村谷川の最奥部となっている。虎吾池からの距離も7キロほどでもある。
ひょっとすると清水簡易水道の水源・水路は清水井手と重なっているのかもしれない。虎吾池と水源の間には、稲村谷川の支流がふたつ流れる。等高線から考えれば、水路はこのふたつの川に水を落とし、再び取水してこの地に繋いでいるのかも。妄想は拡がるが所詮は妄想。確たる根拠は何もなし。だが、妄想は楽しい。

標識1(虎吾堀):午前7時24分(標高435m)
標識1(虎吾堀)を右に折れ土径に
急坂の用水路。水が勢いよく流れ落ちる
虎吾堀の直ぐ先に標識が立つ。木柱には「虎吾堀」と記され、舗装道方向は「黒森山横道」とあり、「旧松山街道」は舗装道から右に逸れる土径方向を指す。「黒森山横道」って何だ?などと思いながらも、標識から道を逸れ土径に。
急坂にパイプから流れ出た水が用水路を勢いよく流れ下る。上に清水井手は平成になりパイプ敷設と改めたとのことだが、最終部のところだけ表に出して、用水路を虎吾池へと流しているのだろうか。これも妄想。根拠なし。

標識2(商人休場 );午前7時30分(標高475m)
標識2(商人休場 )
標識前は平坦地
地中に敷設されたパイプより水が流れ出るあたりから先、少し草が茂るがその直ぐ先は簡易舗装。簡易舗装の道を上ると少し大きな舗装された道に出る。その交点に標識。木柱に「商人休場 」と記され、「黒森山」「堂岡」の標識がその方向を指す。標石前には平坦場が広がっていた。
復路注意
松山街道は標識前より左に逸れ土径に
舗装路を下るとこの標識が立つ
往路は問題ないのだが、復路(鈴ヶ峠から堂ノ岡に下る場合)ではこの標識箇所は要注意。標識の「堂岡」は何となく舗装道から逸れる方向を指しているようにも思えるのだが、ちょっとわかりにくく、そのまま舗装道を下ってしまう。実際復路では舗装道を逸れることなく少し下り、木柱に「黒滝」と記された「黒森山」標識で気が付き、標識2(商人休場 まで戻り、標識1(虎吾堀)へと下った。
もっとも、確認したわけではないが、この舗装道をそのまま先に進んだとしても標識1(虎吾堀)まで繋がっているように思える。「黒森山横道」標識が指す道がこの道筋かとも。

標識3(お茶屋跡);午前7時50分(標高550m)
畑地が切れると舗装も切れる
その先、山道に
標識2(商人休場 )より簡易舗装の道を50m弱高度を上げると舗装が切れる。畑地もここで切れる。簡易舗装は耕地農作業用に整備されたものだろう。
そこから10mほど高度を上げると平坦な道となる。その先10mほど下り緩やかに鞍部に下りるが、直ぐに上り。20mほど坂を上ると木柱に「お茶屋跡」と記された標識(標識3(お茶屋跡))があった。20分ほど歩き高ひ度を75mほど上げたことになる。
踏み込まれた広いみちを進む
標識3(お茶屋跡)
この間、堂ノ岡の「旧松山街道まっぷ」に記されていた「耳切れ」標識があったようだが見逃した。実のところ、往路ではこの標識3(お茶屋跡)は見逃していた。木柱に「お茶屋跡」と記されただけで、方向を示す標識もなく、注意しなければ木の切り株と同じ;「耳切れ」標識も同様であり、それゆえに見逃したのだろう。

標識4;稲村分岐;午前7時58分(標高580m)
標識4;稲村分岐
10分ほど尾根稜線部の坂を上り高度を30mほど上げると、道の右手に標識。 木柱に「出口」と記され、「黒森山」「稲村」を指す標識が立つ(標識4)。「稲村」は東に下る方向を指す。国土地理院地図に「稲村」の地名は記されていないが、東側は稲村谷川の谷筋であり、何となく納得。

標識5(九里塚 )・黒鯛三蛇神様;午前8時18分(標高660m)
標識5(九里塚 )と黒鯛三蛇神標識
尾根筋稜線部を等高線にほぼ垂直にジグザグ道を20分ほど上り、高度を80mほど上げると木柱に「九里塚」と記された標識(標識5(九里塚 ))。その傍に「黒鯛三蛇神」と記された木柱が立つ。
九里塚
九里塚は先回の「史跡八里塚」でメモしたように、高知の城下江口番所から一里毎に立てられた里程標。とはいうものの、高知城下での番所は東の松ヶ鼻、西の思案橋、北の山田橋の三カ所とされ、江口番所がヒットしない。が、場所から考えれば西の思案橋番所のことではないだろうか。近くに江の口川が流れている。
黒鯛三蛇神
黒鯛三蛇神標識
木の標識はあるものの、辺りには手水石と言えばそれらしき石造物が転がるが、祠などはない。そもそも黒鯛三蛇神って何?
チェックすると高知市春野町の春野郷土資料館に、地域に伝わる民話として「小鯛大明神(黒鯛大明神)の記事があった;「400年ほど昔の正月明けのこと、この地の漁師が魚売りにでかけると、田圃の畦道で罠にかかった山鳥をみつける。これ幸いと山鳥を頂戴しその場を去るが、なんとなく気が咎め、山鳥の替わりに小鯛を三尾、罠に置いて去る。
罠の獲物を取りに来た百姓は罠にかかった鯛を見てビックリ。「正月早々鯛とは縁起がいい。これは神様の御利益よ」と村に持ち帰る。
と、この事はたちまち部落中の大評判になり、部落みんなで小さい祠を造り、祠の前には『小鯛大明神』という小さい幟を立てた。このとき神官が、この祠に『黒鯛三所権現〔くろだいさんしょごんげん〕』という名前をつけてた、と言う。
黒鯛登場の所以はわかった。また、三所権現を古来より神とみなされた蛇神信仰に置き変えれば、「黒鯛三蛇神」のことはなんとなく説明がつく。
が、しかし、そもそも遥か遠く離れた春野の民話がなにゆえにこの地に。それよりなにより、この話のキモは海の鯛が田圃の罠にかかっている不思議であろうとおもうのだが、そこが至極あっさりと流されている。
他に適当な資料はなものかとも少し深堀りすると柳田国男の『日本の昔話』に「黒鯛大明神(小鯛大明神)」の話がみつかった;「黒鯛大明神(小鯛大明神) むかし土佐国のある山奥の村へ、浜から一人の魚商人が、魚を売りにやってきた。寂しい山路で、道のわきの林の中に、罠にかかった山鳥を見つけ、之を貰おうと。が、只取って行くのは良くないことであると、山鳥の替わりに黒鯛を三尾挟んで置き、その山鳥を取って帰って来た。
その後村人が来て、山に黒鯛のいるのが不思議であるが、それ以上に山鳥の罠にかかるというのは只事ではない。これは天の神のおぼしめしと、すぐに小さな社を建てて、黒鯛三所権現と唱えて祀る。その評判が伝わりますと、方々からお参りに来る者があって、社は大変に繁盛した。のちに魚売りがまた遣って来て、山鳥を持って行った話をする迄には、もう繁盛のお宮になっていたそうであります、と。
こちらのほうが分かりやすい。三所権現は少々強引ではあるが、日本古来の社の祭神の起源は、祖霊としての蛇神であったと言われることから考えると、三所権現を三蛇神様と読み替えて、一応個人的には納得。これも全くの妄想。なんらの根拠なし。
と、これで取敢えず個人的には納得していたのだが、偶々黒森山のことをチェックしていると、その山頂にも「黒鯛三社権現」の小祠があるとのこと。そこに伝わる伝承では登場人物が越知の魚商人となり、罠にかかったのは兎に置き換わり、黒鯛を見付けた村人は驚き床に伏せるが、病癒えた後山伏に祈祷してもらい黒鯛を「黒鯛三社権現」として祀ったとされる。修験のお山、黒森山ゆえの山伏の登場だろう。
伝承は黒鯛を核にしながらも、地域の事情にあわせバリエーションを持たせたお話が出来上がっている。中にはこの黒鯛プロットを使って黒鯛三社権現の祠を造ることにより、地元の村人が神体山と信じるお山にお寺を建てる藩の意図を反故にするといった、地元民の智慧の物語仕立ての話もあった。とはいえ、何故にお話の核に「黒鯛」が登場するのか依然不明ではある。

標識6(朽木峠);午前8時32分(標高700m)
広く踏み込まれた道
鞍部が朽木峠
標識5(九里塚) から高度を50mほど上げると700m等高線に囲まれた尾根が南に長く突き出た稜線突端部に出る。そこから北へと緩やかに上る尾根筋を進み鞍部へと下ると標識が道の両側に立つ(標識6(朽木峠))。
左手には木柱に「朽木峠」と記された木柱に「薬師堂」「松山街道」の標識。右手は「稲村」と下りの道を指す。
道脇にある木のベンチに座り小休止。1時間10分ほどで標高を300m弱上げたことになる。
標識6(朽木峠)
稲村分岐標識
朽木(クツギ・クチキ・クツキ)
朽木峠って結構多いようにも思える。「クツ」は「崩れる」、「キ」は「土地」」。崩れやすい土地の意との説がある。
また、古歌には、クチキと書いたものがあり、クツ・クチは古事記などに見える木の神ククノチのククが、タ行に変わってクツ・クチとなったとも。この場合は、古く大きい木が茂っていた土地を意味したのではないか」とも言われ、ほぼ真逆の林相を示す。
その他、山の中の細道、峰・峠、自然堤防などの小高い所を意味する「クキ」との関連もあるようで、要するによくわからない、ということ。

標識7;黒森山頂との分岐点;午前8時44分(標高710m)
標識7;黒森山頂との分岐点
10分休憩し出発。「松山街道」の標識に従い尾根筋を先に進むと数分で「黒森山頂」と書かれた標識が右を指す。ここが松山街道と黒森山への分岐点。
当初、黒森山との分岐点は朽木峠と思っていたため、道の西側に道筋が無いものかと探すが、そこは深く切れ込んでおり、とても歩けそうにない。ために、「松山街道」の指す道筋は黒森山を経由して鈴ヶ峠に行くことになるのか、と少々気落ちしていたのだが、一安心。分岐点から先は広く踏み込まれた林道風の道を進む。

標識8・標識9(朽木峠);午前98時49分(標高700m)
標識8
標識9(朽木峠)

黒森山頂から6分ほど歩き、朽木峠のあった黒森山尾根筋稜線の東側から西側に移る。道が林道に合流する角の左右に標識が立つ。
道の左の標識は「堂岡」「樺休場」と同方向を指す(標識8)。道の右手には木柱に「朽木峠」と記され。「松山街道」「黒森登山口1.3km」の標識、そして「鈴ヶ峠3.1km」と記された標識が立つ。堂ノ岡の旧松山街道取り付き口にあった「旧松山街道まっぷ」には朽木峠から鈴ヶ峠まで1.3キロとあったが、3.1キロのほうが正しいように思える。

分岐点を右に:午前9時9分(標高760m)
分岐を右に
黒森山西麓、等高線700mから750mへと緩やかな上りの林道を20分ほど進む。時に「水源かん養保安林」とか「土砂流出保安林」の案内。道は一部だけ簡易舗装されているが、舗装が切れた先、黒森山の支尾根が南西に着く出たところで道はふたつに分かれる。直進はなんとなく下って行きそう。尾根先端部を切り通した道へと右に折れ先に進む。

標識10;午前9時13分(標高760m)
標識10
正面に標識10、左は黒森山への道
分岐点から数分歩くと道の合流点に標識(標識10)。「堂岡」「樺休場」と記された標識が朽木峠方向を指す。
地図を見ると、この合流点を右手へと折り返す道は黒道山頂まで繋がっている。見つけた写真で見るかぎり、結構広い道のようだ。

標識11;松山街道標識;午前9時16分(標高760m)
標識11;松山街道標識
峯岩戸集落から上ってきた道
標識10から更に数分、再び道に合流。峯岩戸の集落から上ってきた道は合流点手前まで舗装されている。
合流点角に多くの標識。「松山街道」、「桜 大板」・「黒森山頂」と記された木の標識。「峯岩戸 桜 大板 黒森山頂」のルートを表示した金属プレートなどが並ぶ。桜はここから西、ほぼ仁淀川本流近くまで下った地にある集落。大阪は不明。 
尚、この合流点は、もし鈴ヶ峠から薬師堂への道が藪が多く、途中撤退となった場合の再アプローチ点としていたところ。鈴ヶ峠近くまで車を寄せられる道を探し、Google Street Viewでこの合流点近くまで車を寄せ得ることを確認していた。実際は松山街道の状態はよく、舗装はされてはいるが車一台ギリ走れるといったこの峯岩戸集落への道を利用することはなかった。 

 岩戸集落跡;午前9時36分(標高780m) 
 岩戸集落跡標識
標識11の立つ合流点角から「松山街道」の標識が指す広い林道を進む。水源かん養保安林、土砂流出保安林であった今までの林道道筋とは表情を一変。植林地帯を進む道となり、時に伐採された材木が集積され、伐採林が道の上下に広がる。 10分ほど歩くと植林地帯から離れ落ち着いた林相の中を進む。沢水を潜らす堰堤を越すと道の左手、谷側に「岩戸集落跡」の標識。案内は特にない。周辺を見渡すが道の上も下も傾斜地であり家が建てそうな平坦地は見当たらなかった。 

 標識12;鈴ケ峠分岐;午前9時44分(標高750m) 
鈴ケ峠分岐
鈴ケ峠分岐に標識12
標識11から知らず緩やかな上りの山腹の道を高度を30mほどあげていた。峯岩戸集落跡標識から先、10分ほどゆるやかな下りを歩き高度を30m強下げたところ、道の分岐点に標識(標識12)。「旧松山街道」と記された標識は林道から右に逸れる道方向を指す。ここが鈴ヶ峠への分岐点。道を直進すれば上述、桜の集落へと向かうのだろう。 

 標識13;午前10時2分(標高820m)
鈴ヶ峠への上り
標識13
 「旧松山街道」標識に従い道を右に折れ鈴ヶ峠への最後の上りに入る。20分弱歩き高度を70mほど上げると道の左手に標識(標識13)。「堂岡」「樺休場」と記される。標識の右手に山へと上る道があり、この黒森山頂への道に入らないようにと松山街道を案内した標識だろる。 

鈴ヶ峠;午前10時3分(標高820m) 
標識の先、平坦地に2基の燈明台が見える。鈴ヶ峠に到着した。道分れからおおよそ3時間で鈴ヶ峠に着いた。木のベンチで大休止。
鈴ヶ峠はこれで二度目。先回のメモを再掲する;峠には2基の石灯籠と、「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識が立っていた。「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識には「松山討伐の道 勤王志士脱藩の道 中浜万次郎帰国の道」とも記されていた。 
天晴石燈明台
正面に「奉 寄進」と刻まれる2基の燈明台の1基、東側の正面右側に「明治七戌年年(私注;1984)」、左手に「三月十八日」、西側のもう一基の燈明台の右側面に「天晴元卯九月十八日」、左には「月燈明」と刻まれる。 左手に建つ燈明台に刻まれる天晴という元号は正式には存在しない。が、土佐においては明治元年の前年にあたる慶応3年(1867)に「天晴」年号が各地で使われたとのこと。『天晴』に改元される、といった噂が流れ、世直しを求める民衆が「天晴」の年号を先取りするも、結果的には「明治」と改元され、元号としては幻に終わったその歴史の痕跡を残す。
それにしても立派な燈明台があるが、辺りには社が見当たらない。これってなんだろう。チェックするとこの燈明台は金毘羅遥拝のためのもののようであった。
松山討伐の道
堂ノ岡の「旧松山街道まっぷ」に「明治元年(1868) 松山征討 土佐将兵1610人が1月23日、越知で一泊し黒森越えで松山へ進駐」とあった土佐藩の松山藩討伐軍がこの峠を越えて伊予に向かったということ。 先回のメモにも掲載したが、土佐藩の松山征討軍のことをもう少し詳しく再掲: 〇土佐藩の松山征討軍
慶応四年一月十一日、朝廷は土佐藩主へ次の勅書を発せられ、錦旗を下賜された。
勅書
土佐少将江
徳川慶喜反逆妄挙ヲ助候条、其罪天地二不可容候間、讃州高松、豫州松山、同川之江始メ、是迄幕領、惣而征伐没収可有之被仰出候、宜軍威ヲ厳ニシ、速ニ可奏追討之功旨、御沙汰候事、
正月十一日
但、両国中幕領之義ハ勿論、幕吏卒ノ領地ニ至迄、惣而取調、言上可有之、且又人民鎮撫、偏ニ可致王化様可致処置候事、
土佐少将江
征討被仰付候ニ付、御紋付御旗二流下賜候事、
正月
この勅書に従い土佐藩は松山、高松藩征討の軍を編成。松山征討軍は一月二十日、本藩家老深尾左馬之助を総督、佐川家老深尾刑部を副総督に命じ、深尾刑部には軍律を保つ旨の命令が藩主より下されている。
一月二十一日鬆督深尾左馬之助率いる本隊は城下を進発、副総督深尾刑部率いる佐川隊は二十二日進発、越知で合流した。両隊は降りしきる雪中を仁淀川を渡り、街道最大の難所、黒森越えで池川に宿営し。街道の村々では、草鞋・松明・弁当などの提供を命ぜられていた。
征討軍は用居・瓜生野を経て、伊予の七鳥村に入った。ここで万一に備えて弾込めして、標高千メートルの尾根道を越えて、休む暇もなく行軍した。二千名近い行軍は寺院や民家に分宿できない者もあり、焚火をして野宿し、藁をかぶって仮眠する状態であった。
二十六日、久万に到着し大宝寺に宿営。久万山郷の庄屋・百姓共のあたたかい接待 を受けた。この日松山より飛報来り、長州軍出陣の由、一刻も早く進発すべしとの事で、二十七日早暁土砂降りの大雨の中を急いで進発した。
三坂峠を降ると、荏原で道後・立花口・麻生の三方面進軍の作戦をとり立花橋で合流し、午後六時ころ八股に到着した。城下の街並は藩主が朝敵となったためか、ひ っそりと静寂そのものであった。
征討軍は八股で集合した後、大砲や小銃の空砲を松山城に向かって一斉に発砲した。その響きは城山にこだまして、城下にたれ込めた夕間を貫き街並一帯にひろがった。すっかり暗くなった午後七時ころ、征討軍は隊列を正して堂々と入城した。土佐藩兵は総数九一五名、荷駄夫を合わせると約二千名の人員であった。
勤王志士脱藩の道
ここには勤王志士の名は記されていない。が、「旧松山街道」案内に「一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している」とあった。この五名の脱藩志士だろう。
鈴ヶ峠を仁淀川へと下りた越知と佐川の境にある赤土峠にも「脱藩志士習合の地」の碑があり、そこには「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地」とあり、この碑はこの五士のひとりであった浜田辰弥(後の宮内大臣田中光顕)が建てたもの。「まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき」の歌も刻まれる、と。越知から高知までの松山街道の途次、此の地も訪れてみようと思う。
なお、脱藩志士は明治維新後、田中光顕は上述の如く宮内大臣、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。
中浜万次郎帰国の道
旧松山街道取り付き口、堂ノ岡にあった「旧松山街道まっぷ」に、「1852 嘉永5   ジョン万一郎  アメリカより帰国のとき、役人11とともに7月11日に高知に着く」と記されていた。
ジョン万次郎こと中浜万次郎は土佐沖での漁船遭難しアメリカ合衆国に渡った11年後の嘉永5年(1852年)、上海・琉球・長崎を経由して故郷の土佐に帰国したとのこと。帰国の途地、この鈴ヶ峠を通ったということだろう。
〇ジョン万次郎
ジョン万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の子として生まれる。天保12年(1841)9歳で漁船の炊係として漁に出るも難破し離島に漂流。アメリカ合衆国の捕鯨船に救助される。鎖国下の日本に船は入れずハワイを経て1843年、アメリカ合衆国に渡る。
アメリカ合衆国で教育を受けた後、捕鯨船に乗り込み世界各地を巡った後、1850年に日本に向けて上海行の商船に乗り、琉球、長崎を経由して嘉永5年(1852)年土佐に帰国した。
帰国後は土佐藩だけでなく幕府に仕え、その経験・知識を活かし日米和親条約の締結などに活躍した。


今回で伊予と土佐国境に聳える四国山地の山越え部トレースも完了となる。愛媛県の久万高原超・越ノ峠からはじめ色ノ峠、七鳥かしが峠を越え面河川の谷筋・七鳥の集落へ。七鳥からは予土往還;土佐街道・松山街道のふたつのルートの内、面河川を渡り尾根筋に取り付き、猿楽岩を経て予土国境の黒滝峠へと向かう通称「高山通り」を辿り(おうひとつの往還は現在の国道494号筋)黒滝峠へ。
黒滝峠から土佐に入り、水ノ峠を経て土居川の谷筋・池川の町に下る。池川からは、見ノ越から尾根に取り付き鈴ヶ峠までを繋ぎ、鈴ヶ峠から仁淀川本流の谷筋の越知町横畠・堂ノ岡までをトレースした。
愛媛側はルート調査がなされており、標識も整備されているが面河川を越えて山入し、猿楽岩を経て予土国境の黒滝峠までは基本藪。標識を目安に道なき道の藪漕ぎとなる。
黒滝峠を越えて土佐側に入ると標識はほとんどない。道も藪が多く結構大変ではあった。現在黒滝峠から水ノ峠へと辿る旧土佐街道は一部危険となっており、大規模林道に下りて危険個所を迂回することになるが、その大規模林道と黒滝峠を繋ぐピストン復路で日没となり、一晩山中を彷徨うことになってしまった。
大規模林道から水ノ峠までは結構踏まれた道であったが、水ノ峠からツボイ、寄合の集落へ下る旧水ノ峠道は激しい藪を下ることになる。ここは歩かないことをお勧めする。旧水ノ峠道を下りた先から土居川の谷筋にある池川の集落までは旧土佐街道に関する資料が見つからず車道を下ることになった。
池川からは見ノ越で再び山入りし鈴ヶ峠を経て仁淀川本流の谷筋、越知町横畠の堂ノ岡まで下ることになるが、この間鈴ヶ峠までは標識はあまり整備されていないが、踏まれた道が続き道に迷うことはなかった。鈴ヶ峠から堂ノ岡までは先回と今回のメモの通り、標識も整備され道に迷うこともなく歩き終えた。
予土往還 土佐街道・松山街道の難関部である山越え箇所を歩き終え、次は高知までの平地部の土佐街道・松山街道を繋ぐか、久万高原町の越ノ峠から松山を繋ぐか、平地部はパスしどこか別のトピックを見付けそこを歩くか、ちょっと思案中。




木曜日, 10月 07, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道 ⑨ ; 高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から薬師堂集落の道分れへ

堂ノ岡から「道分れ」へ(Google Earthで作成)
予土往還 土佐街道・松山街道散歩もこれで9回目。思えば、四国遍路歩きの途次、愛媛の久万高原町越ノ峠で偶々「土佐街道」の標識に出合ったことがすべてのはじまり。それから数年を経て高知から愛媛の川之江に抜ける「土佐北街道」の全行程をトレースした後、「土佐街道」つながり、というわけでもないのだが、ついでのことではあるので遍路道の途次に出合った「土佐街道」、松山から高知に抜けるもうひとつの予土往還もトレースしてみようと歩きはじめたわけである。
先回は仁淀川水系土居川の谷筋・池川の町のほど近く、狩山川を渡河し見ノ越から尾根筋に取り付き鈴ヶ峠までを繋いだ。今回から二回に分けて仁淀川本流の谷筋、高知県高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から鈴ヶ峠を繋ごうと思う。

当初鈴ヶ峠から仁淀川本流の谷筋・横畠の堂ノ岡へと下ろうかと、鈴ヶ峠へ近くまで車を寄せ得るルートをチェックし、Google Street Viewで鈴ヶ峠近くの峯岩戸集落まで車を寄せ得ることを確認したのだが、結局仁淀川本流谷筋の堂ノ岡から鈴ヶ峠を繋ぐことにした。
その因のひとつは、このルートは10キロ強あり、ピストン往復で20キロ。痛めた膝を考えれば、このルートをカバーするには2回に分ける必要があり、鈴ヶ峠からこのルートのほぼ中間点にある薬師堂地区までと、薬師堂から仁淀川谷筋の堂ノ岡とするのがよさそう。が、鈴ヶ峠から薬師堂までの道の状態がはっきりしないため、日没・夜間彷徨はもう勘弁と、怖がりの我が身としては取り付き口にルート案内図が立つと言う堂ノ岡側で情報を集め鈴ヶ峠へと繋ぐことにしたわけである。 で、今回は堂ノ岡からスタートし薬師堂集落の少し先、予土往還が車道から分かれ山道に入る「道分れ」地点までカバーした。その距離5キロほど。国の予算のもと標識はきちんと整備され、道に迷うことはなかった。
ルートの概要は取り付き口から2.6キロほど焼坂と呼ばれる坂を2時間半ほどかけて高度を350mほど上げ、尾根筋に乗り樺休場に至る。そこから薬師堂集落までの1.5キロは少々のアップダウンはあるもののほぼ水平道。1時間半弱で地蔵堂集落に着く。薬師堂集落から「道分れ」と称される、車道より逸れて鈴ヶ峠へと向かう分岐点までは距離は500m。大山祇神社に寄り道しても20分程度。往路で4時間、復路は3時間半で歩けた。
道の状態は樺休場までの焼坂は、取り付き口からすぐ2箇所とその先で1カ所強烈な藪があるが、それ以外は踏まれた道、薄い藪道、農道を標識に従って歩けば道に迷うことはない。強烈な藪の箇所も、旧松山街道と何度も交差しながら蛇行し山に上る舗装道を迂回してもそれほど距離が長くなるわけでもなく、藪漕ぎ好きの方でなければ舗装道を歩くことをお勧めする。
樺休場から先は少々荒れてはいるが、分岐もなくはっきりした道筋を辿れば、これも道に迷うことはなく薬師堂集落に着く。薬師堂集落から「道分れ」までは完全舗の一本道となっている。

取り付き口の堂ノ岡にはルートに関する情報が記された「松山街道散策まっぷ」も立ち、安心して道をトレースすることができた。途地上述のとおり藪漕ぎ箇所もあったが、舗装道が傍を走っており気分的には随分と楽な藪漕ぎではあった。その後は仁淀川の流れを眼下に、その美しい眺めを楽むこともできた。
長かった予土往還の山越え箇所も鈴ヶ峠から仁淀川の谷筋の高岡郡越知町横畠の堂ノ岡まで繋げばほぼ終了。越知と佐川の町の間には脱藩志士の碑が建つ赤土峠があるが、地図でみる限りそれほどキツそうではない。その先は佐川からいの町をへて高知へと平地を進むだけかと思う。予土往還 土佐街道・松山街道 の難関部・山越え箇所クリアもあと一息となった。ともあれ、メモをはじめる。



本日のルート;高岡郡越知町横畠・堂ノ岡の旧松山街道取り付き口>「旧松山街道」標識>標識1(焼坂)>標識2(坂本)・焼坂案内板>標識3(野稲ヶ窪)>標識4>標識5(焼坂)と焼坂遺跡案内板>標識6(西ノ向)>標識7>標識8(クツ打場)>標識9;靴打場>標識10>八里塚の石碑>標識11>標識12(宮ノ下)・茶店跡案内板>標識13>標識14>標識15(野岩)>標識16(石佛之下>標識17(大谷水源)>標識18>標識19(樺休場)・「樺休場」案内>峰興寺植樹林石碑>合中(あいなか)>壱口水>石畳標識>標識20(石神)>薬師堂集落>キリスト教会碑・大山祇神社参道>大山祇神社>標識21>道分れ

堂ノ岡から「道分れ」へ

高岡郡越知町横畠・堂ノ岡の旧松山街道取り付き口
田舎の愛媛県新居浜市から国道194号線を走り全長5キロ強の寒風山トンネルを抜け高知県の山間部を南下。上八川川が仁淀川に合流する吾川郡いの町柳瀬で県道18号に乗り換え仁淀川に沿って東進し高岡郡越知町横畠の堂ノ岡にある松山街道取り付き口に向かう。目印は仁井田神社。
しばらく走り、県道左手に仁井田神社の社殿と社叢、県道左手に集会所らしき建物があり、その前に広いスペース。「仁井田五所神社」と書かれた標識と鳥居の傍に「松山街道散策まっぷ」や「松山街道」の案内、そして「堂ノ岡」と記された木柱に「旧松山街道」方向を指す標識が立つ。ここが旧松山街道取り付き口だ。ここに車をデポする。
「松山街道散策まっぷ」
「松山街道散策まっぷ」には今から進む旧松山街道のルートとポイントとなる箇所の案内、ポイント間の距離が記される。結構助かる。
ポイントの案内
旧松山街道(私注;番号は「松山街道散策まっぷ」に記されたポイントの番号 )
この道は土佐と伊予とを結ぶ重要な往還で、両国の物償交易・文化の道であり、百姓一揆勢や脱藩志士が命がけで駆けぬけた世直しの道のでもあった。道幅が一間という基準があり、歩道としては広い。石神から樺休場の間には、珍しい石畳が残っている。
鈴ケ峠の燈明台
鈴ケ峠には重要文化財に指定されてもおかしくないと思えるような燈明台が2基建っている。「天晴」という年号が刻まれているが、日本の年号にはない。全国では土佐だけにしか見えない。解説:天晴元年は、慶応3年(1864)。
黒森山(1017m)
越知町横畠と仁淀川町(私注;越知町は高岡郡、仁淀川町は吾川郡)の境界点にある。薬師堂から山頂までの松山街道は3.5km。山頂からの展望は絶景だ。
大山祇神社(町指定文化財)
1879年、今井浅治、今井宗吉、今井友祐の3人の長州大工によって改築された。本殿は鞘堂(私注;建物を覆う覆屋)で囲まれているため、新築同然の状態で保存されている。
清水井手、虎吾堀
この用水路は1860年、生活や農業用水の確保に苦労していた清水・八頭・薬師堂の先覚者「左京義三、左京常吾、山本虎吾、山本広次」が中心となり、稲村谷から清水集落までの約7kmを地元の人約100人が昼夜を問わず掘り続け、1年6ケ月間で完成させたという。その後虎吾は、この水を溜めて使うべく、1反5畝の畑をコツコツ掘り、1887年に用水池を完成させた。平成になり町の事業でパイプラインが埋設された。
八里塚、⑦九里塚、⑧合中
焼坂に自然石に八里塚と書いた道標がある。高知の江口番所から8里であることを示したものだ。樺休場から清水集落の方へ約15分歩いた所には八里塚と九里塚との真中という意味の合中(相中)という石の道標もある。清水村と栂ノ森村とで街道の道普請の境に置いたものであろうか。
ポイント間の距離
下ノ宮(注;現在地)から焼坂を上り⑥八里塚まで1300m>⑥八里塚から樺休場まで1300m>樺休場からひと口水まで250m>ひと口水から石神まで800m(途中石畳)>石神から薬師堂まで400m>薬師堂から道分れまで500m、とある。本日の予定はこの道分れまで。計4550mの行程となる。
次回予定のルートについては
道分れから商人休場まで300m(傍に虎吾堀)>商人休場から稲村分岐まで600m(途中耳切れ)>稲村分岐から⑦九里塚まで500m>⑦九里塚から朽木峠まで500m>朽木峠から②鈴ヶ峠まで①松山街道を経由し1800m(②黒森山まで1200m。そこから鈴ヶ峠までは記載されていない)、と記される。黒森山を経由しない松山街道は3700mとなっている。道分れに車をデポすれば1回でピストン往復できそうだ。
清水の主な出来事と松山街道を通った著名人
「松山街道散策まっぷ」の下部に「清水の主な出来事と松山街道を通った著名人」が記される。唐突に「清水」が現れたが、チェックすると国土地理院地図に薬師堂集落の少し西、横畠展望所あたりに「清水」の地名が載る。清水の主な出来事。。。、の清水とはこの地のことのようにも思えるが、何ゆえにここに清水が登場するのか不詳。それはともあれ案内板には
□ 出来事 「自由は土佐の山間より出ず」という言葉ば、明治15年大山祇神社で行われた自由民権集会場でも筵旗に書かれていたという。
西暦     元号   人物                  出来事
1852 嘉永5   ジョン万一郎  アメリカより帰国のとき、役人11とともに7月11日に高知に着く
1859  安政6   長岡謙吾        医学を学ぶため長崎へ。シーボルトの子供に日本語を教える
1859  安政6     岩崎弥太郎     10月21日、長崎へ行くとき
1864  元治1   勤王志士脱藩   田中光顕ら5人が赤土峠に集合して脱藩
1868  明治1   松山征討    将兵1610人が1月23日、越知で一泊し黒森越えで松山へ進駐
1882   明治15   自由民権集会    5月22日、大山祇神社で「自由は土佐の山間より出ず」という額を掲げ大演説会
1906  明治39年 キリスト教会建つ  9月26日、薬師堂に2階建ての教会が建つ
と記されていた。
ジョン万次郎、勤王志士脱藩、松山征討は鈴ヶ峠で既に出合った。
「旧松山街道」案内板
「松山街道散策まっぷ」の横に「松山街道」案内板
「この道は土佐と伊予を結ぶ重要な往還で道幅が1間(一・八メートル)ありあり、当時としては結構広い。
伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。
薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。
藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物質交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。 一八五二年にはアメリカから十一人の役人とともに帰国したジョン万次郎、一八五九年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕といわれる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。
一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。
一八六八年には 土佐藩の兵一六一○人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、一八八二年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人たちも使用している。
街道は車社会の到来とともに荒れ果てていましたが、二○○八ー二○○九年度に実施した国交省の「新たな公」モデル事業等により「虹色の里横畠」と越知町が主導となって再整備し、登山道として親しまれるようになりました。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」」と記される。
〇「新たな公」モデル事業
「新たな公」モデル事業って何だ?チェックすると、「「新たな公」とは、国土形成計画(平成20年7月閣議決定)において、今後の地域経営の機軸となるべきものと位置づけられているもので、行政が提供していたサービスを行政に代わって提供していく、というだけではなく、従来行政が行ってこなかったような公共的な仕事(過疎地有償運送等)を行っていくもの、さらには、もともと民間の仕事であったものに公共的な意味を与えて提供するもの(空き店舗を活用した活性化活動等)など、多様な活動に係る「担い手」となるもの。地域づくりに取り組む住民、NPO、商工会、町内会等の多様な主体が「新たな公(こう)」という事だろう。この地においては地域グループ「虹色の里 横畠」がその主体となっているということだろう。
土佐街道の愛媛側は藪道ではあるが、それでもルート調査が実施され標識も充実していた。が、土佐に入ると状況は一変。調査ルートもなく、標識もほぼ皆無といった状態であった。が。この地において標識、案内などが充実して一体なにがおきたのだろうと思っていたのだが、その因がやっとわかった。伊予と土佐の国境、黒滝峠から水ノ峠を経て池川、池川から鈴ヶ峠までも旧土佐街道のルート調査、標識設置などがなされば、いいなあ、とは思うのだけれど、そんなことを望むのは酔狂者の戯言ということだろうか。

「旧松山街道」標識;午前8時7分(標高70m)。・標識1(焼坂):午前8時9分(標高90m)
取り付き口の旧松山街道標識
木柱に「堂ノ岡」と記され、坂をのぼる方向を指す「旧松山街道」標識より街道歩きスタート(午前8時7分)。県道18号から続く舗装された緩やかな坂を上る。道は小型車一台が通れる道幅。その直ぐ先で道はヘアピン状に曲がる。曲がって直ぐ道の右手に標識が立つ(午前8時9分)。

標識1(焼坂)
藪が行く手を阻む
「焼坂」と記された木柱に「樺休場」の標識(便宜上「標識1」とする;以下同じ)に従い舗装道を逸れる。その先は強烈な藪。まさか藪漕ぎをするとは予想外。どちらに進んだらいいものかはっきりしないが、地図を見ると10mほど藪を上れば標識1で別れた舗装道に出る。それを目安に6分ほど肩まで埋まるような藪を掻き分け舗装道に出る(午前8時12分)。
この箇所は藪漕ぎフリークはともあれ、そのまま舗装道を進むことをお勧めする。ヘアピン状に曲がる道を進むことになるが、それほど距離はない。

標識2(坂本)・焼坂案内板;午前8時15分(標高110m)
スロープに案内板が見える
スロープ下に標識2(坂本)

県道から続く道に出たあたりで、下へと指す標識を探すが見当たらなかった。上り口・入り口の標識(標識1)があって、その下り口・出口がないのは?
ともあれ、車道を先に進むと直ぐヘアピンカーブ。
曲がり角の先に、道の左を斜めに上るスロープが見え、その中程に案内板らしき掲示板も見える。スロープが車道に接するところに標識。木柱には「坂本」、標識は「樺休場」と記される(標識2(坂本);午前8時15分)。

標識2(坂本)
焼坂案内板
標識に従いちょっと足元の不安定な斜めに上るアプローチを進むと案内板。案内板には「焼坂 仁井田五所神社から樺休場まで登るこの坂道は「焼坂」と呼ばれ、昭和三十八年までは栂ノ森(つがのもり)の人々の生活道であり通学路であった。 昔は、栂ノ森へ荷物を上げる時、特別に重い物は牛の背に着けて運んだが、たいていは担ったり背負ってあげていた。
昭和五十年代ある老婆は、三八樽に入った醤油(約七十キログラム)を主人と二人でかき上げた時、余りのしんどさに、もうなんちゃあ食べんちかまん」と思ったと語ったそうである」とあった。

標識3(野稲ヶ窪);午前8時22分(標高135m)
掘割道も
標識3(野稲ヶ窪)
焼坂案内板から先は草が茂るが藪漕ぎをするほどではない。途地、掘割風の道もある。標識2より7分ほど歩き、高度を30m弱上げると車道に出る。県道18号から続く曲がりくねった道である。
車道に出た山側に標識。木柱に「野稲(?)ヶ窪」と記され、「樺休場」「堂岡」の標識が道筋を示す(標識3(野稲ヶ窪);午前8時22分)。
この箇所は車道を迂回しなくても、それほど苦労しない。

標識4;午前8時34分(標高145m)
仁淀川を背に藪漕ぎ
藪が薄くなったところに標識4
標識3(野稲ヶ窪)から舗装道を逸れ、「樺休場」の標識が指す道を進むが、すぐに再び強烈な藪。藪漕ぎをしながらちょっと後ろを見ると、仁淀川の流れが見える。県道筋より80mほど高度をあげただけ。
標識3より10分強、藪と格闘し高度を20m弱あげると、先に舗装道が見え、その手前の草叢に標識4が立つ(午前8時34分)。標識は「樺休場」と「堂岡」の方向を指し、「樺休場」は標識を右折と示す。右折すると直ぐ県道から続く舗装道に出た。
ここも標識3より舗装道を迂回しても、それほど距離はない。ここも舗装道を歩くことをお勧めする。

標識5(焼坂)と焼坂遺跡案内板;午前8時38分(標高150m)
標識5(焼坂)と案内板
焼坂遺跡案内板
舗装道に出た山側に木柱に「焼坂」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す標識が立つ(午前8時38分)。標識3で舗装道を逸れ、藪漕ぎ15分ほどで道に出たことになる。
その標識の先、草叢の中に白い案内板が見える。案内板には、「焼坂遺跡 昭和四〇年の秋、当時中学1年生だった小崎 秀彦 さん(栂ノ森)が、この辺りで弥生時代の石包丁を発見した。それを確認した堂岡中学校 の武田先生は、クラス全員を連れてここで社会科の授業をしたそうである。
その日、更に長 さ 十センチメートルの石斧が発見されたためここが「焼坂遺跡」 と名付けられた。(設置者「虹色の里横畠(二〇一〇年三月)」とあった。

標識6(西ノ向);午前8時45分(標高175m)
藪漕ぎするほどの藪ではない
藪の先は防御ネットに沿って進む
焼坂遺跡の案内の先は結構な草藪ではあるが、藪漕ぎするほどではない。草藪の先には作物防止ネットが見える。防御ネットに沿って8分ほど歩き、高度を30mほど上げると県道から続く道に出た。
道の山側に標識(標識6(西ノ向):午前8時45分)。木柱に「西ノ向」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。
この箇所は舗装道を迂回すると結構遠回りとなる。深い草叢はあるものの、藪漕ぎはしなくていいので、ここは標識通りにすすんでも問題ないだろう。
標識6(西ノ向)が見えてくる
標識6(西ノ向)
なお、藪漕ぎと記してはいるが、この旧松山街道は「新たな公」のモデル事業とあるとすれば、道の整備も時に応じなされているのかもしれない。私が歩いた時期は草刈りの端境期であったの、かも。また季節によっては藪も枯れている時期もあるかもしれない。なんとなく気になったので追記しておく。

標識7;午前9時14分(標高190m)
作業小屋の先で道は左右に分かれる
左は藪と急登
標識6(西ノ向)より標識に従い土径に入る。土径の東に立つ農作業小屋を越えたところで道は土径は左右に分かれる。標識はない。その分岐点を往路は左に進み、その先で10mほど藪の急登を這い上がり午前9時過ぎに県道から続く舗装道に出た。
右は強烈な藪
標識7は右の藪道と繋がる
道に出たところに標識はない。どこにあるのかと道を少し下ると、「樺休場」と「堂岡」を指す標識(標識7;午前9時14分)があった。「堂岡」の指す先は足を踏み入れたくない深い藪であった。
復路、この「堂岡」の指す藪に入ってみた。勘弁してほしいといったキツイ藪。草木を踏みしだき、立木を折り成り行きで進むと、往路で左右に分かれる土径分岐点に出た。標識6へと進むのであれば、往路左に折れたルートではなく、右へと折れて進むことになるが、結構な藪漕ぎが必要となる。この箇所も舗装道を迂回するのがいいかと思う。距離もそれほど余分に歩くこともない。

標識8(クツ打場):午前9時18分(標高200m
標識8(クツ打場)
標識8で舗装道を左に逸れ土径に入る
標識7の先、舗装(ほとんど簡易舗装といった状態)道がヘアピンカーブする手間のショートカット道(といっても直ぐ先がヘアピンカーブのためあまり有難味はない)を抜け、舗装道を少し進むと道の左手に標識(標識8(クツ打場):午前9時18分)。木柱に「焼坂」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。旧松山街道はこの標識より舗装道を左に逸れ土径に入る。

標識9・靴打場;午前9時21分(標高205m)
靴打場
ここは右の草道へ
直ぐ先に作業小屋がありその前に角柱の標識。「靴打場」と記されていた(午前9時21分)。「靴打場」の先、掘割風の道を進むと分岐点。左はよく踏まれた道。右は草に覆われている。一瞬左と思ったのだが、なんとなく下り道のよう。ここから下ることは無いだろうと右手の草に覆われた道を進む。結構深いが、藪漕ぎをするほどではなく、なんとなく踏まれた風の草の中を進むことになった。

標識10;午前9時32分(標高250m)
薄い藪を抜けるとガードレールが見える
スロープを上り切ると標識10
薄い藪といった道を進むと前方にガードレールが見えてくる。土径よりガードレールに続くスロープを上りきったところは広い車道(午前9時32分)。この車道は今まで幾度か交差した堂ノ岡の県道から続くものではなく、堂ノ岡の東、本村から栂の森(つがのもり)方面を繋ぐ道のようだ。堂ノ岡から続く舗装道は、直ぐ東でこの広い車道に合流していた。標識8(クツ打場)で舗装道から逸れた松山街道は、この舗装道に沿って一筋西を進んでいたようだ。
スロープを上り、広い車道のガードレールが切れたところに標識。「堂岡」と下り方向だけを指す標識となっていた(標識10)。

八里塚の石碑;午前9時32分(標高252m)
中央の石碑が八里塚跡
八里塚案内板
広い道路に出ると前面の法面を斜めに上るスロープがあり、そこに石碑と自然石、その傍に白い案内板が見える。石碑には「松山街道 焼坂 史跡八里塚」と刻まれる(午前9時32分)。
スロープを上ると八里塚の案内板、「八里塚 ここは高知市の江口番所から八里の所に当たるので「八里塚」と呼ばれている。
昔は一里塚といって街道沿いに一里ごとに土盛をし、木を植えて道標にしていたが、ここは土盛りの代わりに自然石を置いてあった。(設置者「虹色の里横畠」(二〇一〇年三月)」とあった。
石碑の横に加工された感のある石が置かれる。これが八里塚として置かれた自然石とは思えないが、特段の案内もなく不詳。
なおまた案内にある江口番所って?高知城下での番所は東の松ヶ鼻、西の思案橋、北の山田橋の三カ所とされるが、場所から考えれば西の思案橋番所だろう。近くに江の口川が流れている。それゆえ江口番所とも呼ばれたのであろうか。

標識11;午前9時42分(標高270m)
仁淀川
八里塚を離れ、よく踏み込まれた道を上る、左手下には先ほど分かれた広い車道、仁淀川の流れが見える。藪の中で眺めた仁淀川は堂ノ岡より上流域、ここから眺める仁淀川は堂ノ岡より下流域だろう。


標識11
掘割道を進む
掘割風の道、畑の脇を10分ほど上り、高度を20mほど上げると簡易舗装された農道らしき道に出る。国土地理院地図には描かれていない。そこに標識(標識11;午前9時42分)。木柱には何も記されず「樺休場」「堂岡」の方向のみをを示す。

標識12(宮ノ下)・茶店跡案内板;午前9時48分(標高300m)
振り返ると仁淀川
上り坂
標識の指す「樺休場」方向に進むと土径。直ぐ畠の横を上る簡易舗装の道となる。5分ほど歩き高度を30mほどあげると標識が立つ(標識12;午前9時48分)。木柱に「宮ノ下」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。

標識12(宮ノ下)
茶店跡案内板
標識の直ぐ上に案内板。「茶店跡 昔ここには店屋があり、きれいな水でトコロテンを冷やして売っていたそうである。
この難所を登ってきた旅人にとって、ここの店屋 は英気を養うありがたい存在だったに違いない。店屋は昭和の初期まであったという。(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

標識13;午前9時53分(標高315m)
一瞬藪
標識13
茶店跡案内板の先は一瞬藪となるが、直ぐ先によく踏まれた道が現れ、5分ほど歩き高度を15mほど上げると簡易舗装の農道に出る。国土地理院地図をみると、八里塚跡のところで出合った栂の森方面へと伸びる道から分かれた枝道がこの地に続く。
この枝道農道との合流点に標識(標識13;午前9時53分)。「樺休場」「堂」を指す標識が立つ。

標識14;午前9時57分(標高325m)
標識14
復路、標識14を下道に
「樺休場」の標識が指す枝道農道を数分進むと西に進む農道との分岐点にあたる。その角に「堂岡」とだけ記された標識(標識14;午前9時57分)。
往路は道なりに進めば問題ないが、復路はここで道に迷いそう。道なりに西へ向かう枝道の枝道(?)に進んでしまいそう。
この標識は「堂岡」方向だけを指していることから、枝道農道の枝道を進まず左に下る農道枝道を進め、という地蔵堂方面から下ってきた人のために立てられたものだろう。

標識15(野岩);午前10時(標高330m)
上に逸れる道に標識が見える
標識15(野岩);旧松山街道
枝道農道を数分進むと農道から上に逸れる道が現れ、その分岐点の先に標識が見える。枝道農道を逸れ一段上を進む道に乗り換え標識に。木柱には「野岩」と記され、標識に「旧松山街道」と進行方向を指す(標識15;午前10時)。
予土往還は高知城下から松山城下へ向かう場合は「松山街道」、松山城下から高知城下へ向かう場合は「土佐街道」と呼ばれるが、松山方向を指すこの標識はそれゆえに「旧松山街道」と記されるのだろう。
思えば、予土往還の伊予から土佐の国境までの標識は「土佐街道」と記され、今回歩く土佐から伊予へのルートは「旧松山街道」と記されていた。

標識16(石佛ノ下);午前10時3分(標高330m)
標識16(石佛ノ下)
仁淀川
右手に棚田を見遣りながら数分進むと前面が開け、眼下に仁淀川の眺望が楽しめる。そこにも標識。木柱に「石佛之下」と記され、標識は「樺休場」を指す(午前10時3分;標識16(石佛之下))。
仁淀川の流れをみながら木のベンチで一休み。

標識17(大谷水源);午前10時10分(標高360m)
標識17(大谷水源)
標識16(石佛之下)から先は、尾根筋稜線に向かうことになる。はじめは等高線の間隔も広く緩やかな上り。藪はあるが藪漕ぎはしなくてもよかった。その先、踏み込まれた道を進むと簡易舗装された農道に出る。そこに標識。木柱に「大谷水源」と記され、「樺休場」「堂岡」を指す標識が立つ(標識17(大谷水源);午前10時10分)。

標識18;午前10時24分(標高400m)
此処で道が切れる。右端を上段に上る
防御ネット脇の草道を進む
標識17(大谷水源)の標識に従い、農道を逸れ山側に進む簡易舗装の道を上る。5分ほど歩くと明瞭な道須筋は畠手前で切れる。整備された道はこの畑の農作業用の道であったようだ。
さてどうしたものかと畑手前で手掛りを求め辺りを見回す。と、畑の上段に防御ネットが見える。根拠はないのだが、どうしたところで尾根筋へと高度を上げる必要があるだろうと、畑端を上段に上り防御ネットに沿って先に進む。
その先杉林へ。尾根稜線へ
上り切ると標識18
草は結構深い。道筋は分からないが、踏まれた感のある草の中を進むと杉林の中、ふみこまれた坂道に出た。
坂を上りきったところに林道らしき道。その合流点に「堂岡」と記された標識が立っていた(標識18;午前10時24分)。

標識19(樺休場)・「樺休場」案内;午前10時27分(標高400m )
標識19(樺休場)
周りは平坦地
林道に乗って直ぐ先に平坦地がありそこに標識と案内板が立つ(午前10時27分 )。標識の木柱には「樺休場 標高三五〇m」と記され、「薬師堂へ2.5km」と薬師堂方向を指す。
その傍にある案内板には、「樺休場 ここは標高三五〇メートル。越知町役場から約三〇〇メートルも上がっている。昔は、通行人や旅人がここで一服して体調を整えた場所である。
慶応四年一月の松山征討の時は、佐川様が通るというので栂森の人たちがここで茶を沸かして接待したが、行列の後尾が越知まで続いており、その長さにびっくりしたそうである。(設置者「虹色の里横澤」(二〇一〇年三月)」とあった。
で、佐川様って誰?チェックすると征討軍副総督に佐川家老深尾刑部とあった。佐川様とはこの人物であろう。
土佐藩の松山征討軍
樺休場案内板
慶応四年一月十一日、朝廷は土佐藩主へ次の勅書を発せられ、錦旗を下賜された。
勅書
土佐少将江
徳川慶喜反逆妄挙ヲ助候条、其罪天地二不可容候間、讃州高松、豫州松山、同川之江始メ、是迄幕領、惣而征伐没収可有之被仰出候、宜軍威ヲ厳ニシ、速ニ可奏追討之功旨、御沙汰候事、
正月十一日
但、両国中幕領之義ハ勿論、幕吏卒ノ領地ニ至迄、惣而取調、言上可有之、且又人民鎮撫、偏ニ可致王化様可致処置候事、
土佐少将江
征討被仰付候ニ付、御紋付御旗二流下賜候事、
正月
この勅書に従い土佐藩は松山、高松藩征討の軍を編成。松山征討軍は一月二十日、本藩家老深尾左馬之助を総督、佐川家老深尾刑部を副総督に命じ、深尾刑部には軍律を保つ旨の命令が藩主より下されている。
一月二十一日鬆督深尾左馬之助率いる本隊は城下を進発、副総督深尾刑部率いる佐川隊は二十二日進発、越知で合流した。両隊は降りしきる雪中を仁淀川を渡り、街道最大の難所、黒森越えで池川に宿営し。街道の村々では、草鞋・松明・弁当などの提供を命ぜられていた。
征討軍は用居・瓜生野を経て、伊予の七鳥村に入った。ここで万一に備えて弾込めして、標高千メートルの尾根道を越えて、休む暇もなく行軍した。二千名近い行軍は寺院や民家に分宿できない者もあり、焚火をして野宿し、藁をかぶって仮眠する状態であった。
二十六日、久万に到着し大宝寺に宿営。久万山郷の庄屋・百姓共のあたたかい接待 を受けた。この日松山より飛報来り、長州軍出陣の由、一刻も早く進発すべしとの事で、二十七日早暁土砂降りの大雨の中を急いで進発した。
三坂峠を降ると、荏原で道後・立花口・麻生の三方面進軍の作戦をとり立花橋で合流し、午後六時ころ八股に到着した。城下の街並は藩主が朝敵となったためか、ひ っそりと静寂そのものであった。
征討軍は八股で集合した後、大砲や小銃の空砲を松山城に向かって一斉に発砲した。その響きは城山にこだまして、城下にたれ込めた夕間を貫き街並一帯にひろがった。すっかり暗くなった午後七時ころ、征討軍は隊列を正して堂々と入城した。土佐藩兵は総数九一五名、荷駄夫を合わせると約二千名の人員であった。

堂ノ岡の旧松山街道取り付き栗から直線距離2.6kiro ,比高差300mほどを2時間20分で尾根筋へと上った。ここでちょっと休憩。

峰興寺植樹林石碑(午前10時43分)
峰興寺植樹林石碑
樺休場は400m等高線が北東に突き出た尾根の稜線部(標識には標高約350mとあるが国土地理院地図では標高400m)。道はここから薬師堂集落手前まで多少のアップダウンはあるものの、尾根の北麓、等高線400mに沿ってほぼ平坦な道を進み、薬師堂集落手前で50mほど下ることになる。

10分程度休憩の後、午前10時40分前、薬師堂集落に向けて進む。杉林の中、右手が崖となっている道を数分進むと、道の右手に「峰興寺植樹林石碑」が立つ(午前10時43分;)。そのときはあまり気にもせず道を進んだのだが、植樹林らしき杉林、伐採された杉林が結構長く続くためメモの段階で「峰興寺」ってどんなお寺様とチェック。と、伊予との深い繋がりが現れてきた。
峰興寺
越知町に建つ法相宗のお寺さま。徳川家康の異母弟松・伊予松山藩初代藩主平定五行が三河の国より密山演静老師を松山に招き菩提寺とし栄えたが、明治の廃仏稀釈で衰退。が、その名跡を惜しみ官許を得て明治の中頃越知の屋敷跡に再建された、とある。
なぜ松山から高知の越知に?
越知は伊予の豪族越智氏の流れがこの越知一帯を支配していた、という。また峰興寺が再建された地にはかつて越智氏の菩提寺・円福寺が建っていたとの記事もあった。峰興寺が再建された越知の地が伊予と繋がりがあった、ということだけはわかったが、この地に再建された経緯は不詳。
本尊の智慧の文殊菩薩への県内外からの信仰篤く、加持祈祷の専門道場として名高いというから、再建への動機は十分にあったようには思える。
仁井田五所神社
堂ノ岡の仁井田五所神社
越智氏と言えば、堂ノ岡の旧松山街道の取り付き口に建つ仁井田五所神社も越智氏との関係浅からぬ社。最初に仁井田神社に出合ったのは土佐の遍路歩きの折、高知市仁井田であった。地名ともなっているその地に立派な仁井田神社があった。 その由緒などをチェックすると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある、とする。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神;四国遍路37番札所岩本寺の元札所)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
仁井田の由来については、伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。 それはともあれ、仁井田神社も伊予・越智氏とは深い関係があったことがわかる。とはいえ、土佐には33社ほどの仁井田神社があるわけで、越知が越智氏と深い関係があったとしても、何故峰興寺がこの越知に再建されたかは不明のままではある。

合中(あいなか・文政十二年の石碑跡);午前11時01分
石の転がる少し荒れた道を進む。雨で崩れた沢筋を越え15分ほど歩くと道の左手に案内板。「合中(相中) 平成五年に越知町史談会の人たちよって「文政十二年丑九月吉日・合中・せわや紀・順 蔵」と書かれた砂岩製の石碑が発見された。
現在は町立横倉山自然の森博物館に保存されており、ここにあるのは、その後に造った代わりの石だ。
合中案内板
「文政十二・・・」といった文字が読める
ここは八里塚と九里塚の真ん中に当たるところだが、他所では見当たらない大変珍しいものだという。おそらく、当時の清水村と栂森村とで街道の道普請の境として置いたものであろう。(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。 案内板傍には薄いプレート状の石造物。文字が記されているがほとんど消えかかっているが「文政十二・・・」といった文字が読める。案内板にある、代わりの石だろう。

壱口水;午前11時11分
壱口水の案内板
荒れた沢筋
土砂崩れて荒れた沢を越え10分ほど歩くと「壱口水」の案内板。「壱口水 今は空谷だが、昔から多くの通行ど人の喉を潤してきたところだ(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

傍には丸い木の柱に「一口水」と記された標識も立っていた。



石畳標識
地蔵堂の集落が見えてきた
多少のアップダウンはあるもののほぼ平坦な道を15分ほど進むと前面が開ける(午前11時25分)。先に見える集落は薬師堂の家並かと思う。
前面が開けた直ぐ先で道は鞍部に向けて下り始める。

石畳標識
石畳といえは石畳
坂道を20mほど下った道の左手に「石畳」と記された木柱がある。実のところ往路では見逃していた。復路でこの辺りに「石畳」があると注意して見つけたもの。辺りには明瞭に石畳と言えるようなものは見当たらない。よくよく見れば、それらしき少し大きめの石が敷かれているところもある。坂道ゆえに馬などが滑らないように敷かれてはいたのだろうが、今はその面影はあまり、ない。

標識20(石神);午前11時34分(標高360m)
標識20(石神)
標識20の建つ町道合流点
「石畳」から10m強下ると町道柚ノ木薬師堂線に合流。その合流点に標識。 「石神」と記された木柱に「栂ノ森」「薬師堂」「柚ノ木」の方向を示す標識が立つ(午前11時34分)。


石神様
石神様案内板
町道合流点、町道左手に小さな祠が建つ。その横に案内板。「石神様 昔の子供たちは、正月が近づくと「正月様、正月様、どこまござった。石神様までござった。 山草の蓑で若葉の杖でのそりのそりとござった。」と言って 正月を心待ちにしていたという。
右神様とは集落界や峠道に祀られた道祖神で、耳、鼻、口など穴の病気に霊験ありとして、解顔には穴あき石が供えられたりする。 設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

薬師堂集落;午前11時48分(標高360m)
町道を進む
左手下は仁淀川の谷筋だろうか
標高350mの鞍部を走る町道柚ノ木薬師堂線を進む。道の左手はるか下の谷筋に見える川は仁淀川だろう。
10分強歩くと大きな車道が集まる三差路に出る。周囲に民家が並ぶ。薬師堂の集落に到着。結構大きな集落だ。
地蔵堂集落の三差路
正面に大山祇の鳥居が建つ

横畠は7つの集落からなり200名の住民が住むというが、この薬師堂が最も大きな集落かもしれない。正面に大山神祇神社の鳥居が建つ。
因みに横畠の地名由来は、集落の畑はほとんどが南西を向き、横に長く広がっていることから来るとの説もあるようだ。
ともあれ、直線距離4キロ強、比高差350mほどを4時間ほどで歩き薬師堂集落に着いた。

薬師堂・
カトリック教会聖堂碑
プール手前にが薬師堂
カトリック教会聖堂跡地
薬師堂集落にも堂ノ岡の旧松山街道取り付き口で見た「旧松山街道マップ」があった。薬師堂集落であれば薬師堂などないものかと探すがそれらしき案内はない。ただ、集落の盆踊りはお薬師様盆踊りと称され、その所以は60年前、村に疫病がはやった折、お薬師様にお祈りし疫病退散しそのお礼のためとも伝わるようである。
薬師堂案内板どこにあるのかと郵便局の方にお聞きすると、町道が集落三差路に出る手前、進行逆方向に上るスロープがあり、その先元小学校プール手前に建つとのこと。そこには祠と共に案内板も立っていた。
「薬師堂 薬師如来が厨子とともに祀られており、一番古い棟札には元文元年(一七三八)と書かれている。
昔、横畠村は宮原寺 (佐川町宮ノ原)の管轄であり、祭祀は宮原寺の住職が行っている。
この辺りの地名も薬師堂といい、昔は盆踊りで大変有名であり、現在も八月には小学校 の校庭で盛大に行われている。(設置者「虹色の里 横畠」二〇二〇年 三月)」。

次いで、「旧松山街道案内マップ」で、最終目的地である「道分れ」へのルートを確認すると、車道三差路より大山祇神社鳥居前の車道を進むようだ。その分岐点に進むと角に「カトリック教会聖堂跡地」と刻まれた石碑が立つ。これが「旧松山街道マップ」にあった、 「1906 明治39年 キリスト教会建つ  9月26日、薬師堂に2階建ての教会が建つ」のことだろう。
「道分れ」はこの道を真っすぐ進めばいいのだが、これも「旧松山街道マップ」に 「大山祇神社(町指定文化財) 1879年、今井浅治、今井宗吉、今井友祐の3人の長州大工によって改築された。本殿は鞘堂で囲まれているため、新築同然の状態で保存されている」とあった大山祇神社に立ち寄ることに。鳥居を潜り参道を社殿へと向かう。

大山祇神社;午前11時55分(標高385m)
境内に入る。古き趣の社。境内に案内板がふたつ。ひとつは「大原千歳,自由懇親会で演説と書かれた案内板。
「大原千歳,自由懇親会で演説」
「明治5年(1882)5月9日、大山祇神社参道の鳥居に自由党万歳と大書したむしろ旗を立て、「自由は土佐の山間より出」と解される額を揚げ演説会が行われた。
来賓として、自由民主党幹部の西原清東、自由民権運動家坂本南海男(竜馬の甥・後に直寛と改名)等を迎え、発起人である横畠村の医師秦気魯男の開会宣言の後、西原清東、坂本南海男等 10人を越す壮士が熱弁し聴衆は沸き立った。
居並ぶ壮士の間をしとやかに地元の弁士 7才の大原十戚が登壇すると、興奮し沸き立っていた空気が和み、参加者の目は千歳に集中した。
「男女同等」という演題を与えられた千歳は、落ち着いた口調で「たくさんの方々から自由民権について貴重なお話を聞かせていただき、お礼をのべさせていただきます」と女性解放という先駆的な内容を十分理解した水準の高い話しをされ、最後に「たまあえる今日のまとひに日の本の大和和心のおくもしられて」と澄んだ声で朗詠した。当時の土陽新聞は会員員一同覚えず拍手して感動の意を表せりと報じた。千歳は、清水の大原輝夫氏の祖祖母に当たる。(令和元年10月吉日 虹色の里横畠 大原泰生建立)」とあった。
「旧松山街道案内マップ」に
「出来事。 「自由は土佐の山間より出ず」という言葉ば、明治15年大山祇神社で行われた自由民権集会場でも筵旗に書かれていたという。
1882 明治15  自由民権集会  5月22日、大山祇神社で「自由は土佐の山間より出ず」という額を掲げ大演説会」と記されていた。
大山祇神社(越知町指定文化財)
もうひとつの案内板は大山祇神社に関するもの。
大山祇神社社殿
本殿は鞘堂(覆屋)で覆われていた
「大山祇神社(越知町指定文化財)
本殿は明治十三(一八七九)年十一月に今井治郎、今井宗吉、今井友佑の三人の長州によ大工って新築されたものだが、本殿外部に施されている緻密で精巧な彫刻は、見る者を唸らせてしまう。
その本殿は、鞘堂で覆われているため彫刻は外部から見ることはできないが、築後一三〇年たった現在も新築時同然の状態で保存されている。
本殿彫刻(by仁淀ブルー観光協議会)
本殿天井絵(by仁淀ブルー観光協議会)
拝殿の天井には、当時地元の人が描いた三十八歌仙の人物画や花鳥画がきれいに残っている。三十八歌仙というのは紀貫之や 小野小町なと平安時代の有名な歌人たちである。
境内では、明治十五(一八八二)年五月、堂岡の医師秦気魯男らの世話で坂本直寛 (龍馬の甥)ら数人を招き「自由党万歳」と大書した筵旗を立て、鳥居には「自由は土佐の山間より出づ」という額を掲げ、自由民権集会が盛大に開かれた。
この説明文は二〇〇九年に実施した国交省の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。二〇一〇年三月
本殿の彫刻をご覧になりたい方は大原泰生(携帯番号)までご連絡ください」とあった。

立派な彫刻や天井絵があるようだが鞘堂(覆屋)で覆われて内部は窺いしれない。どんなものかチェックすると「仁淀ブルー観光協議会」のページに彫刻や天井絵の写真が掲載されていたので、ここで使わせて頂くことにした。

道分れ;午後12時9分(標高410m)
標識21
「道分れ」がみえてきた
社殿脇に先に進む道がある。成り行きで下ると鳥居前で別れた車道に出た。そこから10分ほど、途中「堂岡」を指す標識(標識21)を見遣り車道を進むと車道から左に逸れる道があり、その角に標識と案内板が見える。そこが「道分れ」。


「道分れ」の旧松山街道標識
旧松山街道案内板
木柱には「道分れ」と記され、「樺休場」「稲村・日の浦」の方向を示す標識が立つ。稲村・日の浦はこの先、稲村谷川の谷筋に下ったところに日の浦集落の地名が国土地理院地図に記される。
標識の左手には「旧松山街道」の案内。堂ノ岡の旧松山街道取り付き口でみたものと同じもの。その傍には「黒森山登山口 ジョン万次郎帰国道 志士脱藩道」そして「旧松山街道」」と書かれた標識が左を指す。
今回はここまで。次回はこの「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぐ。


追記;後日、地蔵堂の先、「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぎに行った折、越知の町にある横倉山自然の森博物館に展示されるという,合中の標石を見に行った。実物は思ったより小振りな直方体の石造物だった。