土曜日, 3月 16, 2019

讃岐 歩き遍路:七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼陀羅寺へ ①海岸寺道

弥谷寺を打ち終え次の札所七十二番 曼陀羅寺へと向かう。曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。ひとつは弥谷寺から南西に直接曼荼羅寺を目指す道。もう一つは一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと折り返す道である。
直接曼荼羅寺を目指すルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強の曼荼羅道を歩く。海岸寺経由の遍路道は、弥谷寺護摩堂から本堂の逆方向、天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の間の鞍部から山道を里に下り、予讃線海岸寺駅近くにある海岸寺へと北に向かう。その距離おおよそ5キロほど。そこから5キロほど南へと折り返し曼荼羅寺を目指す道である。
曼荼羅道は弥谷山西麓の土径を進むもの。海岸寺道は荒れているではあろう山道を下るもの。どちらにも惹かれる。ということで、曼荼羅寺への遍路道はふたつともカバーすることにした。最初は海岸寺道経由、次いで曼荼羅道を辿り曼荼羅寺への遍路道をメモする。

本日のルート;
海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道
弥谷寺護摩堂を左に>48番西林寺の石仏>52番太山寺の石仏>泰山寺の石仏>番道の合流点に石仏2基>白方遍路道分岐点>(天霧城跡へ)>犬返し・犬走り道分岐点>犬走り道から二の丸跡に>天霧城跡>犬返しの険>白方遍路道への分岐点に戻る>岩屋霊場>砂防ダム>車道に出る>虚空蔵寺>畠の中に標石>観音堂川傍分岐点の標石>民家脇の標石>白方小学校傍の標石>県道21号合流点手前に2基の標石>海岸寺>海岸寺奥の院>県道21号右角の標石>仏母院>熊手八幡宮>JR予讃線踏切>遍路道はふたつに分かれる>東西神社参道口に標石>県道48号の茂兵衛道標>曼陀羅寺手前の茂兵衛道標>曼陀羅寺


海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道

弥谷寺から海岸寺へ

弥谷寺護摩堂を左に:9時38分 
海岸寺経由の道は弥谷寺の護摩堂から本堂とは逆、天霧山への尾根道を進むことになる。護摩堂前の標石には正面に「七十一番当寺本堂道 明治四十三年」といった文字が刻まれ、その右側面には「海岸寺道」と刻まれる。また、「天霧城跡」と書かれた木の標識も立つ。案内に従い護摩堂を右に折れる。



四十八番札所西林寺の本尊石仏;9時40分
簡易コンクリートの道を進むとすぐに「天霧城跡へ 白方へ(へんろみち)」と書かれた標識が立つ。白方は明治23年)1890年の町村制施行時に西白方、東白方、奥白方村が合併してできた、かつての多度郡白方村のこと。海岸寺のある旧地名。現在海岸寺のある辺りは那珂郡と合併し仲多度郡多度津町西白方となっている。
そのすぐ先、道の右手に石仏が立つ。台座に「四拾八番 西林寺」と刻まれる。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿。本尊の十一面観音だろう。松山市の札所。
多度郡・那珂郡
多度郡も那珂郡、古代律令制度下の郡名。地名の由来もすぐわかるかと思ったのだが、当該行政域にその説明は見当たらない。あれこれチェックすると、多度の「度」は得度からとの記事もあった。官の得度を得た僧、私度僧(官許を得ないで得度した僧尼;沙弥・優婆夷・優婆塞)、自度僧(師につくことなく自ら剃髪・出家)など、多くの僧尼の住まう郡、ということだろうか。
また、那珂は全国各地にある地名。海部族に関わる地名のことのよう。「なか」の「な」は「灘」の「な>海、海岸線」、「か」は格助詞「の」の連体修飾語、「学校の友達」の「の」の意とも言う。「なか」は「海の(ある)郡」といった由来だろうか。単なる妄想ではある。

第五十二番 太山寺の本尊石仏;9時45分
簡易舗装も切れ、土径の尾根道となった遍路道を5分ほど進むと左手に石仏。「第五拾二番太山寺」と台座にある。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿は前述西林寺に同じ。本尊十一面観音かと。松山市の札所。

五十六番札所 泰山寺の本尊石仏:9時50分
更に遍路道を10分ほど歩くと、道の左手の木立の中に石仏が立つ。台座には「第五拾六番 泰山寺」と刻まれる。右手に錫杖、左手に如意宝珠をもつ本尊地蔵菩薩像だろう。今治市の札所。





 道の合流点に石仏2基;9時52分
その先、右手から道が合わさる。地図に天霧山南麓からの道が描かれる。その道だろう。合流箇所の角に石仏が2基並ぶ。その内、大きめの舟形地蔵の下部には手印が刻まれ道標ともなっている。

この先遍路道に四国霊場の本尊石仏は見当たらない。五十六番札所で切れるのも、ちょっと中途半端。見つけられなかったのだろうか。
それにしても弥谷寺の石仏の並びはどのようになっているのだろう。先回の散歩で仁王門手前、弥谷寺入り口ともいえるところに第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)が置かれていた。場所柄、とってつけた、というか唐突な印象を受けた。元々はどのような配置で石造が並んでいたのだろう。

白方(海岸寺)遍路道分岐点:9時59分
10分弱歩くと道の左手に2基の石仏。大日如来、釈迦像と刻まれる。大日如来は宝冠をかぶり智拳印(左手をこぶしで握り立てた人差し指を右手で握る)を結ぶ。右手は仏、左手は衆生。煩悩の衆生を包み込むということか。通常、如来は装身具を身に着けない薄衣だけの姿であるが、大日如来は王者の如く宝冠などの装飾を見に纏う。釈迦如来は見慣れたお釈迦さまの姿。
2基の石仏の先に「白方へ へんろみち」左の木標と、「天霧城本丸」への木標が立つ。弥谷寺に来るまでは天霧城のことは何も知らなかったのだが、寺入り口の案内にあった「国指定史跡」の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄ることに。

犬返し・犬走り道分岐点;10時14分
遍路道分岐点に立つ舟形地蔵にお参りし、尾根道を進む。5分ほど歩くと隠砦跡の標識。城への道を土塁で隠している、といった記事もあるが、門外漢には土塁と自然地形の区別がつくわけもなく、先に進む。
それから更に5分、犬返し・犬走り道分岐点に。右手の上りが犬返し道、左手の尾根を巻く道が犬走り道。犬も通りたくないような険路は勘弁と、迷うことなく犬走り道を選ぶ。犬走り道は「空堀/古井戸」と続くとの案内もあった。

犬走り道から二の丸跡に這い上がる;10時25分
始めはよかったのだが、犬走り道は次第に踏み跡も消えてゆく。犬走り道には「井戸」にも出合えるとの案内もあり、すこし我慢し道なき道を進んだのだが、踏み跡が全く消えてしまった。峠越えは萌えるも、古城にそれほど萌えるわけでもないため、これ以上は勘弁と犬走り道を離れ尾根道に這い上がることにする。
GPSを頼りに結な構傾斜を30mほど尾根に向かって這い上がる。とそこ天霧城二の丸跡とあった。もう少々犬走り道を我慢すれば古井戸があり、そこから本丸に上れるようであった。

天霧城跡
弥谷寺入り口にあった天霧城跡の縄張り図の写真で位置を確認。二の丸の西にある本丸跡に一旦戻り、そこから二の丸の東にある三の丸、空堀、方形郭と進み、北東端の方形郭に。
北東端の方形郭の標識には「東西神社へは降りることができません」と書かれている。天霧山の南麓が採石場として山肌が大きく削られている。それが通行止めの因だろうか。
途中空堀への案内はあるのだが、いかにも空堀跡といった崖と平坦部コントラストを感じるところに肝心の空堀の標識は無く、ちょっと戸惑ったりはしたが一応天霧城跡をカバー。遺構らしき遺構を見分ける力があるわけでもなく、城跡からの遠景を楽しみ遍路道分岐点に下り返す。
天霧城
弥谷寺入口にあった案内を掲載する;
「国指定史跡 天霧城は、山の地形などを利用した天然の要塞(砦)を造り出した山城です。古代から鎌倉時代にかけて造られた城はそのほとんどが山城で、柵をめぐらし、要所に門や櫓(やぐら)を設ける程度の簡単なものでした。室町時代に入り戦乱が長期化するようになり、戦闘の規模が大きくなると城郭の規模も次第に大きくなっていきました。中世の城郭は有事に対しての構えを持った在地の武将の居館跡等も含めると、その数は香川県下だけでも四百ヶ所近くが確認されています。その中で天霧城跡はその自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実践的な確かな縄張り(構造形式)といい、いかにも要害堅固であり、陸海との方向の動向にも十分に対応ができるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。
その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。
天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(16世紀後半頃)に該当しますが、東方尾根の調査では、出土遺物等から15~16世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています」。

この城は土佐の長曾我部氏の四国制覇の折に降伏し臣下の礼をとる。その後秀吉の四国攻めの折には城を棄て長曾我部氏のもとに逃げ廃城となったようである。 なお、この城は大化の改新の時、東讃の屋島軍団(牟礼軍団)、中讃の城山軍団(阿野軍団)とともに、西讃の多度郡三井郷に天霧軍団(白方軍団)が置かれたとき、その居城をこの城に求めたとも言われるが、定かではない。

犬返しの険;10時52分 
往路は結構急な斜面を下る。虎ロープが延々とはられる。犬返しの険と称される所以である。「犬返しの険」の木標の少し先で犬走り・犬返し分岐点に戻る。
尾根道を隠砦へと向かう途中、送電線鉄塔のある辺りから天霧山から瀬戸の海の遠景を楽しみ遍路道分岐点に戻る。



白方遍路道への分岐点に戻る;11時18分
十一面観音(三十三番谷汲山華厳寺
天霧山と遍路道の分岐点に戻る。分岐点から遍路道を下りはじめる道の右手に石仏が立つ。「三十三番 谷汲山」とある。西国三十三観音霊場三十三番谷汲山華厳寺の本尊十一面観音である。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもつ。





遍路道に立つ西国観音霊場の本尊石仏
聖観音(三十一番姨綺耶山 長命寺)
千手観音(二十番西山善峯寺)
遍路道を下ると路傍に石仏が立つ。縁者の供養の石仏、中には石祠に祀られるものもあるが、西国三十三観音霊場の本尊石仏が並ぶ。出だしは三十二番繖山観音正寺の本尊千手観音、三十一番姨綺耶山 長命寺の本尊聖観音と続く、すべて揃っているわけではないが結構揃っている。
実のところ、遍路分岐点にあった三十三番も含め、遍路道に並ぶ番号付きの石仏は里に下るまで四国霊場の札所と思い込んでいた。これが西国三十三観音霊場の本尊石仏では?と思ったのは、山道を下り切った里の虚空蔵寺にあった石仏に「一番 那智山」とあったため。
馬頭観音(二十九番青葉山 松尾寺)
さすがに那智山といえば青岸渡寺でしょう、それならいままでの石仏も四国霊場ではなく西国三十三観音霊場ではと思い直し、ピストン往路では注意しながら石仏をみるとすべて観音さまであり、観音霊場のお寺さまであった。ピストン往復ならではの「成果」ではある。
観音菩薩
Wikipediaをもとに簡単にまとめる;観音菩薩は大慈大悲を本誓とする菩薩。ために、あまねく衆生を救済すべくさまざまな姿に変えて現れる。基本となる一面二臂(ひとつの顔とふたつの腕)からなる聖観音(しょうかんのん)のほか、千手観音、十一面観音など、変化観音と呼ばれる様々な形で現れる。あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂(多くの顔と多くの腕)の超人間的な姿に表されたわけである。
六観音
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。
この山道に並ぶ観音像には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音があった。准胝観音(十一番深雪山醍醐寺の本尊)もあったように思う(?)のだが、写真を撮り忘れた。

岩屋霊場;11時44分
西国観音霊場の本尊石仏に一礼しながら遍路道を下る。途中少々わかりにくい箇所もあるが、木に張られた赤いリボンを目安に30分ほど下りると岩壁前にお堂が建つ。お堂前には西国観音霊場十五番 新那智山観音寺の本尊である十一面観音の石仏。 石段を上りお堂に。お堂の左に「天霧八王山奥之院 本尊薬師如来」、右には「弘法大師御修行之御遺跡 涅槃岩屋霊場 愛染明王、弘法大師之尊像安置」と書かれた木札があった。
「天霧八王山奥之院」とは、これから下る里にある虚空蔵寺の奥の院とのこと。お堂内部の石窟は幅・高さは4m、奥行き2m弱といったものであった。ここで空海が修行した、とのである。

砂防ダム:11時59分
不空羂索観音(九番興福寺)
荒れた沢筋の遍路道を下る。途中沢に架けられた簡易橋(11時55分)で沢の右岸に渡りそこから数分歩くと道の右手に西国観音霊場九番 興福寺の本尊である不空羂索観音が立つ。その辺りになると空も開け、里が近づいた実感。大きな砂防ダム脇にでる。

不空羂索観音
Wikipediaには、「「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する」とある。

車道に出る;12時5分
砂防ダム脇の急な階段を下りる。砂防ダムから数分、道の右手に西国観音霊場四番 槇尾山 施福寺の本尊千手観音(12時4分)、その先に車道が見える、車道の沢に架かる橋袂に西国観音霊場三番 風猛山 粉河寺の本尊千手観音石仏が立つ。 尾根道の遍路道分岐点からおおよそ50分で里に下りてきた。

西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏;12時5分 
車道を下ると道の右手に西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏。遍路道を下りはじめた頃は特段意識することなく、何気なく写真を撮っていたのだが、霊場番号が少なくなるにつれ、この西国観音霊場石仏は、里のどこからはじまるのだろうとの好奇心から、結構真剣に追っかけることになった。 ここが二番ということはすぐ先にある虚空蔵寺から始まるのでは、との予感。
天霧城の案内
石仏対面には天霧城跡案内。おおよそは前掲の弥谷入り口にあった説明と同じだが、最後に「多度津町奥白方から天霧城に登るルートは、古くから弥谷寺への巡礼ルートとなっており、また海岸寺を起点とする七ヶ所まいりのルートとも重なっています。道道には三十三観音霊場としての石仏が並ぶなどの信仰の道としても現在も利用されています」と付け加えられていた。
七ヶ所まいり
Wikipediaには「七ヶ所まいり(しちかしょまいり・ななかしょまいり)とは、四国八十八箇所霊場のうち、香川県にある第71番札所弥谷寺から第77番道隆寺までを遍路する参拝方法の総称。江戸時代後期の寛政12年(1800年)に書かれた『四国八十八番寺社名勝』には「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあり、古来1日で巡礼できる遍路として利用されていたことが窺える。
また、71番より遍路を始める風習は、弥谷寺ふもとの多度津湾が金刀比羅宮に参拝するための海の玄関口として栄えていたこと。1770年以降より旅籠屋で配られた道中案内記によれば、善通寺(私注;第75番)を誕生の地、弥谷寺を入学の地、海岸寺を産湯の地として金比羅山とあわせて紹介しており、四国八十八箇所遍路の大衆化以前より、弘法大師ゆかりの三箇所と金比羅山の参詣がすでに一般化していたことなどが理由とされている。
「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあるように、足弱きが故に四国八十八箇所を巡ることができない人も、この七ヶ所、七里を巡ることにより四国遍路巡礼と同じ功徳を得ることができる、ということだろう。なお、Wikipediaに産湯の地海岸寺とあることから、この七か所まいりは、今から訪れる海岸寺から始めるように思える。

虚空蔵寺;12時7分
道なりに虚空蔵寺の裏側から境内に入る。境内には石仏、石塔が多い。お寺様はお堂といった風情。弘法大師開基とのこと。本尊も大師の守本尊とされる虚空蔵菩薩とのことである。
虚空蔵菩薩
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

空海が弥谷寺の大師堂獅子窟で虚空求聞持法を修したとあった。室戸岬の洞窟・御厨人窟に籠り虚空求聞持法を修したとは知られる話ではあるが、あちらこちらに同様のお話が伝わる。
西国観音霊場一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音
如意輪観音(一番 青岸渡寺)
境内で西国観音霊場の一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音の石仏を探す。お堂の前、水場の近くの緑に隠れ気味の本尊石仏があった。
如意輪観音
Wikipediaには、「如意輪観音は基本、座像または半跏。片膝を立てる六臂が多いが、これとはまったく像容の異なる二臂の半跏像もある。手には尊名の由来である如意宝珠と法輪をもつ」とあるが、この石仏は方膝を立てた二臂の座像。手には如意宝珠と法輪をもっていた。遍路道にあった西国観音霊場の本尊石仏は確かにこの虚空蔵寺からスタートしていた。



境内の標石
境内を表口に進む左手に標石があり、「従是 弥谷寺** 屏風白方海岸寺十四丁 文化六巳**」と刻まれた標石がある。小石を固めたような礫岩の標石はあまり見たことがない。
また、表参道口の右手、車道のガードレール脇に「是ヨリ十八丁 右彌谷寺道 左山道」と刻まれた標石が立つ。





畠の中に標石
車道を進む。ブドウ棚が目につく。少し里に下りたところ、道の右手の畠の中に標石が立つ。虚空蔵寺で見た礫岩の小石を固めたもの。風化が激しい。「左屏風浦白方**道 右彌谷寺道」と刻まれるようだ。





観音堂川傍の標石
道を進み観音堂川の右岸に出る。観音堂川は山道を下ってきた遍路道谷筋の沢からの流れである。その左岸から来る道に架かる橋を左に見やり、少し進むと道は二つに分かれる。その分岐点に標石が立つ。「左屏風浦白方海岸寺奥院・たと津・丸可め 道」と刻まれる。




民家脇の標石
標石の指示に従い左手の道を観音堂川に沿って進む。ほどなく道の左手、民家脇の細路角に標石が立つ。「右たとつ 丸かめ道 左屏風浦白方海岸寺」と刻まれる。
この標石、よく見ると「右」と「屏風浦白方海岸寺」の部分が硯彫りとなって窪んでいる。伊予の札所散歩の折、同名であった円明寺という寺名での混乱を避けるため、延命寺と改名した寺名を硯彫りで刻み直していたが、「右」と書き直す前は「左」と言うことになる。とすれば元の場所は道の反対側、その場合、「左」方向は「弥谷寺」と書かれていたのであれば辻褄が合うのだが、はてさて。

白方小学校傍の標石
民家の間の細路を進むと小丘に上ることになる。坂道を上り切り、白方小学校前の車道に出る合流点手前に標石が立つ。手印と共に「屏風浦道 いやたに道」と刻まれる。







県道21号合流点手前に2基の標石
白方小学校の西側の坂道を下ると道は予讃線海岸寺駅に当たる。往昔の道は先に続いていたのだろうが、現在は駅と線路に阻まれ迂回することに。
駅の西の踏切を渡り、一旦駅前まで戻り、一応道をつなぎ県道21号へと進む。県道合流点手前の左右に標石が立つ。
右側の標石には「屏風ケ浦 左屏風ケ浦 右まんたら寺道」、左側は「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」と刻まれる。道を渡ると前に海岸寺がある。



海岸寺

正面に二王堂。常の金剛力士ではなくここには地元出身の相撲の力士が左右に立つ。元大関琴ケ濱と元関脇大豪の等身大の彫刻である。
案内を簡単にまとめると、「二王門(二力士門) 正式には金剛力士といい、仁王という。正し、昔朝鮮に王(ワン)という兄弟があり、佛門の警護に当たったことに因み二王とも。当寺はその故事による。
貧寺として後世に残る像を造る資力なく、郷土出身の力士の顕彰を兼ねて造立。地元の彫刻家の手による」とある。

境内に入ると本堂。真言宗醍醐派。納経山迦毘羅衛院(かびらえいん)海岸寺と称す。寺伝によればこの地は空海の母である玉依御前の出身地であり、空海はこの寺の奥の院のある地で生まれたとも言う。奈良時代後期、宝亀5年(774)のことである。
迦毘羅城はネパールで生まれた釈尊の地。当寺の院号を迦毘羅衛院(かびらえいん)とするのは、釈尊と対比しての日本の聖地・空海誕生の寺ということを示すのだろう。
大同2年(807)大師34歳のとき弥勒菩薩を刻み堂宇に祀ったのが当寺の開創とされ、往時七堂伽藍を建立し四十九坊を数える大寺であったそうだが、現在は境内には鐘楼と一つの堂宇が残るだけ。境内裏手は海岸に続く公園となっていた。道脇に十三佛が並ぶ。
十三佛
十三佛とは、先日弥谷寺でみた十王堂に祀られる十王、地獄において亡者の審判をおこなう十尊をもとに、江戸時代に日本でつくられた十三の仏。
十王は平安末期、末法思想と共に深く日本に浸透し、初七日、四十九日といった十の節目に、地獄に送るか否かといった審判を行う閻魔王を代表とする十の諸王であるが、鎌倉時代となって十王それぞれに本地としての仏と相対させるようになった。それが十三佛である。
閻魔王の本地仏は地蔵菩薩。閻魔王以外はそれほど知名度がないため省略する。


海岸寺奥の院

大師生誕の産屋旧跡は海岸寺奥のにある。海岸寺から県道を少し西に戻り、予讃線を渡ったところ。森の上に奥の院の二重塔が見える。田舎帰省の折、車窓から見える印象的な塔として記憶に残るが、奥の院の大塔・多宝塔であっ。 鐘楼を兼ねた山門を潜り境内に。山門は仁王様ではなく四天王が護る。
山門前に標石
山門前に手印と共に、「タドツ十八丁 右弥谷寺三十丁 明治二十四年」と刻まれた標石がある。








産井
境内右手、赤く塗られた覆屋は大師誕生のときの「産井(井戸)」。産湯に使う水を汲んだ、と。
湯手掛の松
産井の対面の、これも赤く塗られた覆屋は湯手掛の松。産婆が手拭を掛けた松、とか。今は枯れて切株だけとなっている。
産屋も湯手掛の松も平安末期に大師信仰故に造られた、とも。


大師堂
境内正面に大師堂。大師童形の像が祀られる、と。
大塔
薬師如来の祀られる大塔。これが帰省の旅に車窓から眺めていた二重の塔。






文殊堂
納経山に造られたミニ四国霊場の石仏を見遣りながら丘を上ると文殊堂。瀬戸の眺めを楽しむ。
烏瑟沙摩(うすさま)堂
ミニ四国霊場を上り切ったところに烏瑟沙摩堂がある。烏瑟沙摩明王を祀る。 Wikipediaによれば、烏瑟沙摩明王とは「人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊(中略)心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。」とある。
「不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い」ともあった。

これで弥谷寺から海岸寺までのメモは終了。ここから第七十二番札所曼陀羅寺に折り返す。

海岸寺から曼陀羅寺へ

遍路道を曼陀羅寺へと向かう前に、近くにあるもうひとつの大師ゆかりの寺を訪ねる。仏母院がそれである。
海岸寺二王門前、弥谷寺からの遍路道が県道21号にあわさる箇所にあった標石、「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」に従い、大師の母の生まれた地に建つ仏母院に向かう。

県道21号右の標石
県道を東に進み、広田川を渡ってしばらく歩くと県道右手に標石2基が立つ。大きく平たい石の前には仏母院の看板が立ち少し見づらいが、「弘法大師御えな塚 南一丁 御母公旧跡 仏母院」、脇の角柱の標石には「弘法大師御母公旧跡 屏風ヶ浦 仏母院」と刻まれる。
標石に向かって西の広田川方面から道が続く。県道整備以前の遍路道は県道21号の南を進むこの径であったかもしれない。県道を右に折れ仏母院に進む。

仏母院
2014年(Google street view)
2019年現在
南に少し進むと仏母院。道の左手が本堂、右手は比較的新しい建物が立っている。御母公堂・位牌堂とある。Google Street View(2014年)にはお堂が写っている。それがもとの御母公堂だろう。?16年老朽化のために建て替えられたようだ。建物正面に「御母公 不動明王 弘法大師」とある。元の御母公堂に祀られていた尊像名が昔の名残を留めるのみ。
本堂
山門を潜り、道の左手の本堂境内に。真言醍醐派。「八幡山仏母(ぶつも)院三角(みすみ)寺と称す。こじんまりとした本堂。玉依御前がこの地の産土神熊手八幡宮の八幡神に祈りここで空海を出産したと伝わる。
唐から帰国した空海が寺院を整備し三角寺と名付けた、と。熊手八幡宮の別当寺院となり山号を八幡山とした。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)に戦乱により荒廃したが、その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も大善坊と称したが、江戸時代前期の寛永15年(1638年)嵯峨御所より「仏母院」の院号を下賜され、寺院名が大善坊から仏母院に改められた。

「仏母院」は、仏とも仰がれる大師の母公の御屋敷の地であったことから、一切仏を生み出す胎蔵界曼陀羅仏母院(遍智印)よりのアナロジーにより「仏母院」、三角寺は、胎蔵界曼陀羅仏母院の中央にあり、すべての如来の知恵を象徴する燃え盛る三角の印(三角智印)に由来するようだ。
虚空蔵のお堂
山門の左手に虚空蔵のお堂。大善坊の祈願仏であった虚空蔵菩薩を現在荒魂神社のある八幡山(仏母院のすぐ東の山)の御堂より昭和2年(1927)に移した、と。修験者大善坊は大師が虚空蔵持聞法を修したと伝わる八幡山の御堂で修行の日々であった、とか。
御住(みすみ)屋敷跡
本堂の道を隔てた逆側は、御母公堂・位牌堂から北の駐車場を底辺とした三角形となっており、三角(みすみ)地と称する。三角寺、大師母公の御住(みすみ)と、「みすみ」で揃える。三角の地形故か、御住の故か、はたまた曼陀羅由来の三角寺名の故か、なんらかの強い「意図」を感じる。
大師産湯の井
三角地の北端、駐車場の道端に大師産湯の井。覆屋で囲まれるが少々殺風景。
施入八幡銘石碑
駐車場と御母公堂・位牌堂の境、道に平行に3基の石塔が並ぶ。「施入」とは寺社に物や財を奉納すること。八幡様に奉納するということだろうから、八幡神社の別当寺当時の名残を示すものかと思う。


甑(こしき)灯籠
施入八幡名石碑に垂直に3基の石造物が並ぶ。飯を蒸す甑に密閉された仏さまが石灯籠の内に安置される、と。古代からの保食神(うけもちの神;財宝の神)への信仰。10世紀初頭の建立、と。
えな塚
御母公堂・位牌堂の南端を建物裏手に廻り込み、耕地の端の細道をちょっと進むと笹に囲まれた小さな祠。「大師胞衣(えな)塚」。五輪塔と石造物があり、大師の「へその緒」が祀られると伝わる。大師産湯の井戸は各所にあるが、胞衣はここだけだろう。


道標2基
御母公堂・位牌堂前に2基の道標。1基は「左 弘法大師胞衣塚 御母公旧蹟」と刻まれる。もう一基には、手印と共に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」と刻まれる。300mほど南から移されたものだろう。







熊手八幡宮
仏母院の縁起にあった大師ゆかりの熊手八幡にもちょっと立ち寄り。県道21号に戻り少し東に進み左手の道に入る。ほどなく熊手八幡。
随身門には神馬と共に高麗犬が社を護る。木製彩色の古風を残す。町有形文化財。社殿にお参り。境内に残る、古の社であろう石の小祠群に惹かれる。
熊手の由来は、神功皇后征韓の折りに用いた御旗、長鉤(熊手)がご神体の故と。凱旋の時、屏風浦に至り蔵を造りてこれを蔵め、とある。
なお、熊手八幡の先、県道合流点に荒魂神社がありお参りしたが、仏母院の縁起にある荒魂神社は八幡山にある荒魂神社ではあった。ちょっとはやとちり。 ともあれ、これで海岸寺周辺の大師ゆかりの地を廻り終えた。ここから第七十二番札所 曼陀羅寺へ向けて遍路道を進む。

JR予讃線踏切
熊手八幡より仏母院に戻り、道なりに南に進み広田川に架かる橋を渡る。橋を渡ると県道217号にあたる。県道を左に折れるとJR予讃線踏切。
この踏切手前の田んぼの端に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」標石があった、という。現在は見当たらない。と、そういえば先ほど仏母院の御母公堂・位牌堂前前に、同じ文字の刻まれた標石があった。この地から移されたものであった。

遍路道はふたつに分かれる
踏切を超えると遍路道はふたつにわかれたようだ、ひとつはそのまま県道217号を進む。もう一つは天霧山の東裾を東西神社に向けて進むもの。大きく整備された県道を避け、山裾を進む道をとる。
線路を渡ったところで大きく右に折れ民家の間の道を進む。

東西神社参道口に標石
山裾の道を進むと東西神社に出る。東西神社の名前の由来は?境内にあった案内にも特に記されていない。古くは善通寺の鎮守である五社明神のひとつ塔立明神と称されたが、天霧城の東麓、伊豫街道に接する要路にあったため中世の戦乱災禍により衰退。天正年間天霧城主香川之景(信景)が再興し後世東西大明神と称された、といった記事も見かけたが、これも何故東西神社となったかは不明である。
それはともあれ、神社参道口の伊予街道(旧太政官道)と交差する箇所に標石があり、「従是まんたらしへ十四丁」と刻まれる。
七人同志碑
標石左手に「七人同志の碑」が立ち、「森甚右衛門」の略伝が示される。先回の散歩で出会った七義士神社に祀られる七万人にも及び農民一揆を指揮したひとりである。


県道48号の茂兵衛道標
国道11号、高松自動車道を越え県道48号に当たる。曼荼羅寺へはここを右に曲がるが、左折し茂兵衛道標を確認に向かう。
この茂兵衛道標は予讃線の踏切でふたつに分かれた県道217号を進む道筋。県道は高松道まで続き、そこで左に折れるが、遍路道はそのまま直進し県道48号に合流。その角に茂兵衛道標が立つ。
手印と共に「曼荼羅寺 出釈迦寺 弥谷寺 明治四十四年」と刻まれる。茂兵衛241度目の巡礼時の道標である。

茂兵衛道標
元に戻り少し西に進んだところで県道を左折し曼荼羅寺に向かう。道の右側に「右甲山寺 明治十九年」と刻まれた茂兵衛88度目巡礼時の道標である。
この道標から民家の間を道なりに進むと、ほどなく七十二番札所曼荼羅寺に着く。
これで弥谷寺から海岸寺を経由する曼荼羅寺へのメモはおしまい。次回は弥谷寺から直接曼荼羅寺に向かう曼荼羅道の歩き遍路ルートをメモする。