木曜日, 3月 26, 2009

鎌倉散歩 そのⅣ:朝比奈切通し・衣張山から名越切通しへ

先回は鎌倉へ西からのアプローチ。今回は東から。朝比奈の切通しを越えて鎌倉に入ることになる。そのあとはお寺様を巡りながら衣張山に。ちょっとした山登り、といった雰囲気ではあるが、山頂から見下ろす鎌倉の眺めはすばらしい。普通は、この山を下ったら市内へと、という段取りだろうが、勢いに任せて名越の切通しまで進んでしまった。



本日のコース:京急線・金沢八景駅 > 上行寺 > 朝夷奈切通し > 熊野神社 > 峠・磨崖仏 > 十二所神社 > 浄明寺 > 報国寺 > 衣張山 > 巡礼古道 > 名越切通し > 八雲神社 > JR鎌倉駅

京急線・金沢八景下車
京急線・金沢八景下車。最初の目的地「朝比奈切り通し」の最寄りのバスは朝比奈バス停。バスもいいが、今回は歩くことに。国道16号線を六浦の交差点へ。交差点で右折し横浜・横須賀道路の朝比奈インター方面に。金沢の地名は秩父の金沢郷、から。源氏武士の華・畠山重忠一党が、現在の釜利谷のあたりに住まいした。重忠に従って来たものの中には鍛冶職人も多く、地名を「金沢」としたとのことである。釜利谷のある谷戸には、重忠ゆかりの地も多い。金沢八景は、江戸期、妙見台から眺めた景色が美しく、明の名勝地にちなんで名づけられた。

上行寺
道沿いに上行寺。日蓮上人ゆかりの寺。当時、この寺あたりが海岸線。元は真言宗・金勝寺。日蓮上人が千葉・下総と鎌倉を往復する際に、船中にて在地豪族と問答。結果、真言宗から日蓮宗に改宗。これが「船中問答」。六浦地区を越え、大道地区に。道脇に摩崖仏。往時、この「鼻欠け地蔵」の手前を右に入り、天園の尾根道から鎌倉に入る道があった。天園ハイキングコースを歩いていたとき、いかにも釜利谷方面に抜けるような道筋があったが、朝比奈の切り通しができるまでは、こういった尾根道を通って鎌倉に入っていたのだろう。

朝夷奈切通し
朝比奈切通し朝比奈バス停から、すこし進んだところに「朝夷奈切通し 200メートル」の掲示。朝比奈?朝夷奈?一夜のうちに峠を切り開いたとされる「朝夷奈」三郎義秀の名前を忠実に峠道に使っているのだろうか。真偽のほど不明。ともあれ、左折し朝夷奈切通しの横浜側のスタート地点に。由来書:鎌倉七切通しのひとつ。国指定史跡。執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。朝執権自ら監督、と。鎌倉の外港、下総などとの窓口・六浦との連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路としての位置づけであったのだろう。
峠道への入口には、お地蔵さまが迎えてくれる。野趣豊かな道を進む。すぐ、横浜・横須賀道路の下をくぐる。石が多く足場のよくない坂を登る。峠の手間に「熊野神社左」のサイン。朝夷奈切通しの工事の無事をいのって頼朝が熊野三社を勧請したと。熊野神社に向う。この道も朝夷奈切通しができるまでは鎌倉に通じる尾根道。谷へと下り、そして太 刀洗方面に至るルートがあるのだろう。神社まではそれほど遠くない。5分程度か。到着。
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熊野神社
神社の階段スタート地点に鉄の進入禁止柵。なんのため?意味不明。階段を上りおまいり。先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり。
もっとも、この山吹の里って、散歩の途中であっただけでも数箇所ある。埼玉・越生、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということ、か。峠・磨崖仏、そしてお地蔵さま。
ともあれ、おまいりを済ませ、分岐へと戻る。峠を越えた下り道は水多し。湧き水だろうが、道を湿らす。足場よくない。途中、朝比奈切通しの由緒書が再び。そのあたりは、真に崖が切り取られている。磨崖仏も。結構な景観。道端にお地蔵さま。いい表情。更に坂を下り、出口、というか、鎌倉側の切通し入口に。水量の多い滝があった。三郎の滝。朝夷奈三郎から来たもの。平地を十二所方面に。太刀洗川に沿って歩く。梶原景時の太刀洗水があるとのことだが、見落とした。滑川と合流。すぐ先で朝比奈峠を越え鎌倉霊園から鎌倉に入る車道に出る。十二所は道の反対側。

十二所神社
十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる。十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。
熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。
そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。

浄明寺
稲荷小路、宇佐小路、明石地区と歩く。明石橋の交差点。左に坂を登れば、ハイランド住宅街。この道は逗子の駅前に抜ける近道としてよく利用した。道なりに直進。浄明寺地区に。道の北側に浄妙寺。浄明寺?浄妙寺?地区名と寺の名前が異なる。往古このあたりは浄妙村だった。が、江戸時代になり、浄妙寺中興の祖・足利貞氏の戒名が「浄妙寺殿」。畏れ多いということで、村の名前を浄「明」寺とした、と。で、この寺、鎌倉五山の第五位、結構あっさりとしたお寺さん。これといった印象に乏しい。境内の石窯ガーデンといった小洒落たカフェでお茶ができるのはいいかも。

報国寺
報国寺道の反対側に人が多い。報国寺への人波、か。臨済宗建長寺派の禅寺。足利貞氏(浄明寺中興の祖)の父・家時(尊氏の祖父)が開く。永享の乱のおり、幕府・関東管領軍に破れ、永安寺で自刃した鎌倉公方・足利持氏の長子・義久が自刃した寺でもある。悲劇の話はともかく、かやぶきの鐘楼などなんとなくいい感じ。拝観料を200円払う。何があるのか、と思ったが、孟宗竹の茂る庭園、やぐらを借景にした庭の拝観料といったところ。一周し寺をでる。
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衣張山
山というか崖に沿って歩く。極力崖から離れないように歩いていると、「衣張山まで15分」といったしごく控えめな案内板。15分ならちょっと上り、戻ればいいか、と思ったのが、鎌倉散歩の中でも最高の眺めを楽しめることになる、衣張山へのプレリュード。
衣張山に向かって登る。結構きつい登り。15分? そんなはずはない。結構登る。森は深い。どこまで続くのか、と少々の後悔をしながら登る。山が開ける。尾根近くに。展望コースという掲示。
ハイランド住宅地方面が一望。途中、石切り場跡地。中に入るも少々気味悪く、すぐ退散。すぐに上り道。頂上。ここからの眺め、本当に素晴らしい。鎌倉の街並み、山々、相模湾、すべて一望のもと。天園ハイキングコースの峠の茶屋からの眺め以上、か。

衣張山の名前は、北条政子が、夏の暑い日にこの山を白い絹布でカバーし、冬山に見立て涼をとったという話に由来する。こんな大層な話はともかく、確か北条一族は、三浦半島地区に勢力をもつ三浦一族にそなえるため、名越地区に館をかまえていたはず。この山の近くの釈迦堂の切り通し付近という説、海より光明寺近く、弁ケ谷近くといった説もある。が、 ともあれ、このあたりが北条一族の本拠地。政子の話もこの地区における北条一族の力の象徴と意味合いとすれば納得。

巡礼古道
名残惜しくはある。が、頂上にあるお地蔵さんのお顔を心に留めながら下山。上りとは逆方向の下り道へ。結構長い。下っていたと思ったら、また登る。本当に大丈夫か、と不安になったころ麓、というか住宅地に。ハイランド住宅地区の一部だろうから、正確には未だ山の上のハズ。
掲示で、「左 巡礼古道5分、報国寺20分」「右 名越切り通し15分」。巡礼古道の名前に惹かれ、左に進む。5分行って、すぐ戻り、名越切通しへ、と決めた。左に進む。広い芝生の公園。遊歩道を進む。
住宅地の道路に出る。左手、山道方向に「巡礼古道」のサイン。報国寺まで15分と。最初は入口の雰囲気だけ、と思っていたのだが、やはり巡礼、しかも古道、これは歩くにしかず、ということで予定変更、報国寺まで歩く。
巡礼古道。かつて鎌倉ニ街道・杉本寺のあたりから逗子駅近くの岩殿寺にかけて巡礼の道があった。頼朝は岩殿寺の観音様を守り本尊しており、毎月18日の観音様の縁日には、必ず月詣にこの巡礼道を辿ったと「吾妻鏡」 は伝えている。現在ではハイランド住宅地の開発により、大半が潰え去ったが、一部、報国寺裏手から崖線に沿ってハイランド住宅地の瑞まで残っているってことのようだ。 崖道は誠に、いい感じ。道の途中に庚申塚、石仏・金剛窟地蔵尊も。森は深い。谷も深い。衣張山頂から、大して下りていなかったということだ。下り道。足を踏み外せば谷底に、といった急峻な道。道が開け、住宅街、報国寺の屋根が見下ろせるあたりまで下る。

名越切通し
もとの分岐に戻り、名越切り通しへ。このとき、名越切り通し、って舗装道路、幹線道路って勝手に決めていた。後になってわかったのだが、これって大間違い。極楽坂の切り通しと混同していたよう。ハイランド住宅地の外周部、 崖に沿って散歩道を進む。子ども自然ふれあいの森を越えたあたりから山道へ。結構進む。尾根道近く一軒の住宅が見えた。その家の裏、狭い道を進む。野趣豊か。どこまで続く?麓は未だか?不安になりはじめたころ、少し大きな道と合流。名越の切り通しの案内。
尾根道から名越の切り通しへの合流地点はごつごつした岩場。左に行けば逗子。右に行けば鎌倉市内に戻る。切り通しを越えて逗子に至る山道は往古、鎌倉を東西に走る二本の幹線道路のひとつ。相模と千葉・房総を結んでいた。名越の切り通しの道は、海側東西道。旧東海道である。ちなみにもうひとつの東西道は、朝比奈切通しから六浦に抜ける山側東西道、である。
右方向に進む。下り道。いい感じの道。すこし歩くと道が開き眼下に横須賀線が。足元はトンネル。横須賀線にそって崖道を下る。大町5丁目。 降りきったところで踏み切りを左に。少し歩き、交通量の多い道に当たり、道なりに踏み切りを右に渡る。鎌倉駅まで1キロ弱、といったところ。

八雲神社

駅への途中、八雲神社。仕上げも兼ねお参り。鎌倉最古の厄除け神社。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が疫病退散を祈願し京都祇園の八坂神社を勧請したもの。社殿裏から祇園ハイキングコースのサイン。道なりに歩き、鎌倉駅に到着。


水曜日, 3月 25, 2009

鎌倉散歩 そのⅢ:鎌倉山から天園へと、鎌倉を西から東に

今回は北鎌倉からのアプローチはお休み。鎌倉に西から入る。まずは鎌倉山のさくら道からスタート。途中、バスを利用しながらJR鎌倉駅に。そこからは、お寺様を巡りながら東に進み、東端・瑞泉寺に。そこから「天園ハイキングコース」に入り、北鎌倉へと歩く。天園ハイキングコースは、北鎌倉の建長寺からこの瑞泉寺まで続いているのだが、先回、途中で覚園寺に下りたため、再び尾根道にのぼることに。見所多い鎌倉ゆえに、選択肢は多い。






本日のコース:湘南モノレール・西鎌倉駅 > 鎌倉山さくら道 > 常盤口バス停 > JR 鎌倉駅 > 鶴岡八幡宮表参道 > 宝戒寺 > 永福寺 > 瑞泉寺 > 天園ハイキングコース > 貝吹地蔵 > 天園峠の茶屋 > 大平山 > 勝上嶽 > 明月院 > JR 北鎌倉駅

湘南モノレール・西鎌倉駅
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。

鎌倉さくら道
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。
モノレールに沿って北東に上り鎌倉山のロータリーに。「鎌倉山さくら道」の表示。当初、鎌倉山、とかいうくらいであるので、結構歴史のあるところかと思っていた。が、実際は、昭和初期、この先ほどの自動車専用道路の開通を待って始まった宅地開発の際に命名された、とか。実際の鎌倉山、って八幡宮の裏山である「大臣山」とも言われるが、定まったものではない、と。
住宅街が続く。山道・尾根道とは異なり、車の走る道。名前のとおり、桜並木は春には美しい、かと。道なりに歩く。鎌倉山1丁目、峠といっていいのかどうかわからないが、坂道を上りきったころから鎌倉の平地が眺められる。美しい。
『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』によれば、明治の頃、この地に国木田独歩が住んでいた、と。ある日田山花袋などととともに鎌倉山に上り、そのときの風景を描いた記事がある;「北の地平線は武蔵野、極目さへぎるものがない、また大山よりかけて武蔵の国境をめぐる連山!箱根足柄の諸山よりかけ伊豆の岬角に連なる山脈!此等の諸山を圧して立つ富士!大磯小磯の浜つづき、峰づたいに眺めつつ、路、林に入れば憩い、林を出づれば大洋!水平線は思いがけない所に高く一線を画して居る、小坪、葉山の磯は指点すべく、三浦の岬は遠く水平線に没しておる(『鎌倉の裏山』)。まさしく美しい景観である。
笛田公園の傍をくだり市役所通りと交差、常盤口に。車の往来激しい。この道は昔の深沢道。西の湘南モノレールあたりに深沢という地名があるが、そこに名前の由来があるのだろうか。ともあれ、この深沢道は昔の鎌倉に入るメーンルート。いまでは、北鎌倉から鎌倉を訪れる人も多いが、それはJR大船線ができて以来。それ以前はこの深沢道を通って山越えで大仏前に出るか、それでもなければ、藤沢宿から江ノ島を横手に見ての渚渡りしかなかったようである(『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』)。ここからはバスに乗り、鎌倉駅に。




JR鎌倉駅
JR鎌倉駅からは、鎌倉市内を一気に東端まで歩き、天園ハイキングコースの東端・瑞泉寺に行く。そして、そこから西へと戻ることにした。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


鶴岡八幡宮表参道

鶴岡八幡参道鎌倉駅下車。段葛を鶴岡八幡宮前まで歩く。段葛は鶴岡八幡宮の表参道、二ノ鳥居から三ノ鳥居までの道の中央の一段高い歩道。500mにわたり桜並木が続いている。碑文によれば、「置石(おきいし)とも。妻の政子の安産の願いを込 めて、頼朝が、この参道を築く。その土や石を北条時政(ときまさ)をはじめとした多くの武将たちが運んだ。明治はじめに、二の鳥居から南の方の道が無く なった」と。司馬遼太郎さんの『街道を行く;相模半島』だったと思うが、一段高くしているのは、山地に囲まれた鎌倉、雨が降れば土砂・ぬかるみ激しく、足 元を安んずるため、といった記述があったよう。
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宝戒寺

八幡宮前右折。すこし進むと宝戒寺。開基は後醍醐天皇。二代執権・北条義時以来、北条執権家の跡地。西暦1333年(元弘三年)新田義貞により鎌倉幕府滅亡。北条一門も滅ぶ。北条九代の菩提をとむらい人材養成のため、後醍醐天皇の命により足利尊氏が 建てた天台宗の寺。金沢街道を進み、「岐れ道」という地名の分岐点をお宮通りに入り、鎌倉宮方面に。鎌倉宮前を右折。

永福寺
しばらくいくと永福寺跡。「えいふくじ」ではなく「ようふくじ」。開基は源頼朝。奥州平泉を攻め落とし、頼朝は鎌倉に凱旋。平泉の中尊寺大長寿院(二階大堂)をモデルに、永福寺・二階大堂の建立を決定。奥州征討の戦死者を祀ることが目的。ちなみに、このあたりの二階堂という地名はこのお寺・二階大堂から。おちついた住宅街を進み瑞泉寺に。

瑞泉寺
瑞泉寺瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。
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天園ハイキングコース
瑞泉寺を出て、天園ハイキングコースへ。瑞泉寺の入口にハイキングコースの掲示が。掲示に従って動いたはずだが、住宅街の中で道に迷う。元に戻る。道脇にほんの人ひとり通れるくらいの細い道。これがハイキングコースの入口。多くの人は見逃すだろうな。ともあれ、山道を建長寺に向かって歩く。

貝吹地蔵
野趣豊かな尾根道を上るとお地蔵さん。貝吹地蔵。新田義貞軍に破れ、北条高時自害。その首を守りながら敗走する北条氏の部下たちを助けるべく、貝を吹き鳴らして 先導したという伝説のある地蔵。

天園峠の茶屋
アップダウンの山道を歩くと天園峠の茶屋。ちょっと休憩。眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから。このあたりは一部舗装。左手は鬱蒼とした森、右手はゴルフコース。このアンバランスはかえって新鮮。

大平山の頂
天園一部舗装の道を進み、ゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通ると眼前に岩場。岩場を上り、大平山の頂上に。鎌倉アルプスの最高峰、といっても159メートル。鎌倉アルプスの尾根道を進む。アップダウン、心地よい。道脇には無数の「やぐら」が。更に進むと覚園寺分岐に。更に尾根道を。左手は深い山々、右手は民家が迫る。このアンバランス。
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勝上嶽
勝上嶽に。道案内に「明月院方面は右」と。まっすぐ進めば半僧坊から建長寺総門まで30分弱。はてさて、と一瞬の迷い。あじさい寺としても有名 な、明月院、ってどんなお寺さんかといった興味もあり結局右手に進む。狭いブッシュの多い下り道を進むと、宅地・住宅街に出る。ハイキングコースの掲示に瑞泉寺からここまで4.1キロと書いてあった。

明月院
明月院宅地を道なり、というか適当に歩き、明月院・北鎌倉駅への掲示を見つける。駅まで1.5キロ程度。左に折れ、坂道を結構下る。結構歩く。明月院前。このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。後は一路JR北鎌倉駅に。
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火曜日, 3月 24, 2009

鎌倉散歩 そのⅡ:葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコースへ

二回目は北鎌倉から大仏様へと向かう尾根道のハイキングコースを歩く。大仏さまからは、再び東に戻り、佐助稲荷から源氏山を越えて、寿福寺脇に下る。本来であれば、葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコース、そして江ノ島あたりでひとつ。葛原岡ハイキングコースから寿福寺、そして鎌倉市内がひとつ、といったものだが。今回は足に任せた欲張りなコースとなった、よう。ともあれ今回のコースは、野趣豊かなハイキングコースである。






本日のコース: JR 北鎌倉駅 > 葛原岡神社 > 日野俊基の墓 > 化粧坂 > 銭洗い弁天 > 大仏切通 > 鎌倉大仏 > 佐助稲荷 > 源氏山公園 > 寿福寺 > JR 鎌倉駅

葛原岡ハイキングコース
JR北鎌倉駅で下車。道を進み、浄智寺への入口に葛原岡ハイキングコース・大仏ハイキングコース入口の案内が。浄智寺脇>葛原岡公園>源氏山公園>大仏へと 続くよう。源氏山公園から化粧坂に戻ればいいと方針変更、このルートから源氏山に向かう。

浄智寺脇の坂をゆっくり上る。次第に山道。アップダウンも激しい。木の根っこに足を掛けながら登り下り。1キロ、20分か30分程度の尾根道だと思うのだが、結構な山道である。途中下り坂っぽい分岐もあるが、案内は見当たらない。ルートを外れたのかと不安になりながら進む。





葛原岡神社・日野俊基の墓
開けた場所に。「文章博士の日野俊基の神社はこちら」の案内。葛原岡公園に着く。文章博士とは、作文が上手な人っていうわけではない。律令制の大学で詩文、歴史等を教える大先生ってわけ。

太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」に、 「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でた まう、心の中(うち)ぞ哀れなる」。
後醍醐天皇の意を受け、倒幕を計画。露見し逮捕され鎌倉送り。天皇の弁明もあり釈放。これが正中の変。これにめげず再 度倒幕計画。またまた発覚。元弘の変。再度鎌倉送り。上の文章はその折の作。きらびやかで、道行文の傑作とのことだが、内心はいかばかりか。重犯であり、 さすがに今回は助かるはずもなく、いつ殺されるかといった恐怖の中での文章。実際、この葛原で斬殺される。

化粧坂
葛原岡神社、日野俊基の墓をまわり、源氏山公園に向かう。道の途中に化粧坂。「化粧坂」の由来は、討ち取った平家の武将の首実検のため、化粧を施した、とか、坂の麓に遊女がいた、とかあれこれ。それよりも、ここは鎌倉七口のひとつであり、攻防戦の重要拠点。新田義貞の鎌倉攻めの場合も、この地で合戦があった。が、結局ここを破ることはできず、有名な稲村ヶ崎の渡り、鎌倉攻略と相成る。


源氏山公園
源氏山公園は白旗山、 旗立山とも。頼朝の祖先である源頼義、(八幡太郎)義家親子が後三年の役で奥州に向かう際、源氏の白旗を立て、勝利を祈願したことに由来する。頼朝も平家追討に際し、この地で戦勝を祈願したとか。頼朝の像もあった。
源氏山公園からハイキングコースはいくつか選択肢がある。化粧坂から海蔵寺へのルート、英勝寺に下りるルート(通れないとの案内があったよう)、寿福寺へ下りるルート、銭洗弁天へのルート、佐助稲荷へのルート、大仏ハイキングルート、など。今回は大仏ハイキングコースを歩くことにする。先回の天園コースに続き、鎌倉の尾根道を楽しむことになる。






銭洗弁天
大仏ハイキングコースに向かうとすぐ、「銭洗弁天へ、150メートル」の案内。ちょっと寄り道を。坂を下り、洞穴をくぐり弁才天に。頼朝が夢に現れた老人のお告げで岩から湧き出る霊水を発見。社を建てて宇賀福神=弁天さまを祀ったという言い伝え。この霊水、鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を洗うとお金がたまるというが、ザルで小銭を洗うこともなく上之水神社に。脇からあふれ出る湧水が。また崖の中腹から滝のごとく水が流れ落ちる。素敵な眺め。コースに戻る。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



大仏ハイキングコース
大仏ハイキングコース降り口大仏ハイキングコース。公園からしばらくは民家ある眺め。道幅も広い。が、次第に本格的ハイキングコースに入っていく。葛原岡ハイキングコース同様、急な上り・下り、木の根に足を掛けての山道が続く。途中で道が二手に分かれる。標識がなかったのでなんともいえないが、佐助稲荷へ降りて行く道だったのだろう。ともあれ、道なり、と思しき踏み分け道を歩く。きつい下り坂を乗り越え平地に。大仏トンネルの脇に出た。
大仏坂切通しはこのあたりの、はず。残念ながら案内がなく切通し跡を訪ねることはできなかった。あとから調べると、このトンネルの北から切り通し跡の道が続いているようだが、トンネルの出口あたりで道は切れていた。次のお楽しみ、と。2キロ弱の山道ハイキングであった。
photo by Koichi Suzuki

鎌倉大仏・高徳院
600メートルほどで大仏さんのある高徳院に。あまりの人の多さに圧倒され、大仏さんは頭だけ外から眺め、スキップ。みやげ物屋が並ぶ長谷通りを下り、長谷観音前を左折。由比ガ浜大通りを東へと。次は平地を少し東に戻り佐助稲荷へと。


佐助稲荷
浄智寺由比ガ浜大通を歩く。道脇に平盛久の碑が。戦に破れた平盛久は捕らえられて鎌倉へ。処刑の日を迎えたが盛久を斬ろうとした刀が何故か折れてしまう。日頃から清水の観世音を深く信仰していた故か。頼朝に許された盛久は、これも観音のおかげと喜びの舞を舞ったとか。
笹目の交差点あたりで左折し北に向かう。佐助1丁目から法務局前交差へ。銭洗弁天、佐助稲荷への案内掲示。銭洗弁天、佐助稲荷は結構近かった。佐助2丁目で左折し、佐助稲荷へ。
鬱蒼とした森を奥へと。赤い鳥居をくぐり社殿に。神社の縁起によると、伊豆配流 となっていた頼朝の夢枕に鎌倉鎮座の稲荷神と名乗る翁現れ、頼朝の平氏追討、天下統一を告げる。鎌倉幕府を開いた頼朝はこの地に稲荷社があることを知り社殿を立てたとか。よくある話。ちなみに佐助とは頼朝が右兵衛佐(うひょうえのすけ)の官職にあったため「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。で、佐助稲荷、「佐殿を助けた」の意味でこの名がつけられたと言われている。
photo by Sig.
源氏山公園から寿福寺
佐助稲荷から、源氏山公園は近い。ということで、源氏山公園に戻り、そこから寿福寺へ下りるコースに向かう。銭洗弁天横の坂を再び登り、源氏山公園に。寿福寺への下り口を探す。結構わかりにくい。あれこれ大回りし、なんとか下り口に。すこぶる険阻なる山道。整地されてなどいないし、すごい坂道。ブッシュもあるし、人ひとりかろうじて通れるような岩場の裂け目を下りるわけだし、途中には寿福寺の墓地に紛れ込みそうになるし、いかにも不気味な「やぐら」はあるし、いやはやな山道走破を求める方にはお勧め。

寿福寺

寿福寺臨済宗建長寺派の寺。鎌倉五山第三位。源頼朝没後、北条政子の発願で伽藍を建立。明庵栄西が開山。 頼朝の父義朝の館のあった所、とも。また、裏手の源氏山は源頼義・義家(八万太郎)が戦勝祈願をしたところ。源氏ゆかりの地である。ために、頼朝は当初ここに幕府を構えようとした、とか。境内には源実朝、北条政子の墓。そのほか、高浜虚子、大仏次郎さんなどが眠る。栄西の『喫茶養生記』や地蔵菩薩は国の重要文化財(「鎌倉国宝館」にある)。『喫茶養生記』はお茶の製造法、効用などが書かれている。栄西禅師が喫茶の習慣を日本にもたらした、という所以である。
photo by jmsmytaste
JR 鎌倉駅
寿福寺前からJRの踏み切りを渡り、雪ノ下地区を歩いていると、お屋敷。外国映画の輸入・配給でよくお名前を聞いていた川喜多かしこさんの邸宅だった。後は一路鎌倉駅に向かう。


月曜日, 3月 23, 2009

鎌倉散歩 そのⅠ:天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しへ

 
鎌倉は三方を山で囲まれている。鎌倉アルプスなどとも呼ばれている。アルプス、とは言うものの標高は150m程度。山登り、というほどのことはない。その尾根道にはいくつものハイキングコースが整備されている。尾根筋から眺める鎌倉の街並み、そして、その前に広がる湘南の海は、なかなかの景色である。
山に向かえば、「切通し」にも出合える。切通し、って山を切り崩した道である。昔、鎌倉に入るには、渚沿いの道のほかは、「切通し」を通るしかなかった、という。よく聞くのだが、歩いたことはなかった。ということで、鎌倉散歩は、古都を取り囲む山を歩き、そこに残る切通しの跡を巡る。あわせて、道すがら、名刹・古刹も訪ようと思う。
第一回は天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しを辿るコース。北鎌倉の名刹からはじめ、鎌倉アルプスと呼ばれる標高150m程度の丘陵にある天園ハイキングコース歩く。ハイキングコースは尾根伝いに朝比奈方面・瑞泉寺のほうまで続いているが、今回は途中で尾根をくだり、鎌倉幕府が開かれた大蔵の地に下りる。そこで頼朝のお墓など名所を巡り西に向かい、亀ケ谷坂切り通し・化粧坂の切り通しを経てJR鎌倉駅に至る。



本日のコース:
円覚寺 > 東慶寺 > 浄智寺 > 建長寺 > 半僧坊 > 覚園寺 > 鎌倉宮 > 荏柄天神 > 源頼朝の墓 > 毛利季光・島津忠久の墓 > 亀ケ谷坂切り通し > 岩船地蔵堂 > 海蔵寺 > 化粧坂 > 英勝寺 > 寿福寺 > JR鎌倉駅

円覚寺
円覚寺横須賀線北鎌倉下車。駅近くに円覚寺。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士をとむらうために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧、といた数々の難題。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。
舎利殿は国宝。
photo by jmsmytaste

東慶寺
東慶寺円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下り東慶寺に。お寺でもらったパンフによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
photo by lioil

浄智寺
浄智寺少し進んで浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提をとむらうために宗政夫人が開く。お寺から頂いたパンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。
photo by Koichu Suzuki

建長寺
建長寺JR横須賀線の線路を越えると建長寺。巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。
photo by detsugu



半僧坊大権現
「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。気になりチェック。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。

天園ハイキングコース
社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されていることもなく、野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上けん展望台」。名月院方面からの道が合流する。鎌倉の海の眺めが楽しめる。更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回は、覚園寺へと下る。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。

覚園寺
覚園寺手付かずの自然の中を下ると覚園寺の脇に出る。覚園寺の創建は13世紀初頭、北条義時が薬師堂を建てたことにはじまる。その後薬師堂は足利尊氏によって再建。現在の薬師堂は江戸時代に作り直されたもの、と。薬師堂前の地蔵堂には全身黒ずんだお地蔵さん。蒲原有明の随筆『鎌倉のはなし』に、このお地蔵さんの記述が;「覚園寺の地蔵尊は地獄で獄卒にかわって火を焚き、罪人の苦痛をやすめたといわれ、世間では火焚き地蔵とも黒地蔵とも呼んでいる」と(『だれも書かなかった鎌倉:金子晋(講談社)』)。近辺の谷戸(津)には紅葉の名所も多い、とか。「獅子舞」、瑞泉寺のある紅葉ヶ谷(もみじがやつ)などである。
photo by jmsmytaste
鎌倉宮
宮が。明治天皇が、後醍醐天皇の第1子護良親王(もり ながしんのう)を祭「神として創建したもの。大塔宮護良親王は建武の新政の際の征夷大将軍。が、足利尊氏と対立して鎌倉に流され、後に暗殺される。小説で呼んでいた、親王が幽閉されていたという土牢もこの裏手にある。黒須紀一郎さんの『婆娑羅太平記』」などでの護良親王の姿にリアリティが出る、かも。
次はどこに。案内掲示をチェック。荏柄天神>源頼朝の墓>大江広元の墓>鶴岡八幡経由の建長寺とする。

荏柄天神
荏柄天神は日本 三大天神社(福岡・太宰府天満宮、京都・北野天満宮)の一つ。学問の神様として信仰されている。祭神は菅原道真。創建は平安後期と伝えられている。


源頼朝の墓
ちょっと歩き源頼朝の墓に。白幡神社を過ぎ、大蔵幕府跡が一望できる大倉山中腹にある、高さ約2mの層塔が頼朝の墓。53歳で亡くなったが死因不明。この墓は江戸時代、18世紀、薩摩島津藩島津重豪がつくったとのこと。右奥には三浦一族をまつる、「やぐら」がある。

大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

源頼朝の墓の近くに大江広元の墓。あまり整備されていない階段をのぼり、結構寂しい場所の「やぐら」の中に祀られている。大江広元って結構面白い人物。無骨なる荒武者相手に文官として 頼朝の最高ブレーン、頼朝亡き後も北条政子や北条義時とともに北条氏の執権独裁体制を確立させるため奮闘した文治官僚。

で、この大江広元のお墓を囲むように、毛利季光、島津忠久のお墓。中国毛利家の藩主、薩摩島津家の藩主と大江広元や頼朝との関係は?
毛利季光(もおりすえみつ)。大江広元の四男。相模の国・毛利荘を領して、初めて毛利姓を称した。宝治・三浦の乱に三浦一門に組し、北条時頼軍に敗れ、源頼朝 の法華堂(白幡神社)で三浦一族郎党500名とともに自害。ちなみに、この戦いに参加しなかった毛利一族が安芸国に移り、これが、戦国大名毛利家の祖先と なる。 島津忠久。母は比企能員の妹・丹後局。一説には源頼朝のご落胤とも。宝治・三浦の乱で同じく法華堂で自決。薩摩藩主・島津氏の祖。島津家が頼朝の子孫と言うわけは、このあたりに。島津家が頼朝の墓をつくったりした理由も納得。

亀ケ谷坂切り通し
東御門から西御門地区、途中、頼朝が政務を行った幕府・大蔵幕府跡地、一遍上人が開山という来迎寺(あまりに普通のお寺さん)に寄り道しながら、鶴丘八幡を素通りし建長寺に戻る。西に向かい、「亀ケ谷坂切り通し」に。鎌倉七口のひとつ。観光用に一番綺麗に整備されている「切り通し」。

崖が「切り取られて」いる。国史跡、とはいうものの、地域の生活道路。山ノ内地区、つまりは大船・戸塚・武蔵方面と扇ガ谷(おうぎがやつ)地区を通じる路。亀ケ谷(かめがやつ)は扇ガ谷(おうぎがやつ)の古称。室町時代の関東管領が扇ガ谷上杉殿と山の内上杉殿に分かれて、といった話がよく小説に描かれているが、これがその扇ガ谷の地。ちなみに山の内地区は浄智寺のあたり。坂を下り住宅街に。

岩船地蔵堂
JRとの交差近くに岩船地蔵堂が。頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。




海蔵
JR横須賀線をくぐり海蔵寺近くへ。もうあたりは暗く、海蔵寺も階段の両側から草木が迫っているって感じを受けるだけ。海蔵寺の近くに鎌倉七切通しのひとつ、化粧坂への案内。とりあえず行けるとこまで行く。住宅街を進み、山道へ。整地なし。自然のまま。もう足元も見えなくなった。少々やばい。引き返す。で、英勝寺から寿福寺前を通り御成町から鎌倉駅に。本日の予定終了。化粧坂、あらから先はどうなっているのだろう、あのまま行けたのか、道に迷うことになったのか、心残り。明日も再度鎌倉だ!

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

後日談
家に戻り本棚を探し唐木順三さんの『あづま みちのく』を取り出した。大学生の頃読んだ本である。中に、「頼朝の長女」という記述がある。これって、つまりは、鎌倉・岩船地蔵尊で出会った大姫のこと。「頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。」と簡単にメモした。が、「頼朝の長女」を読んで、簡単なメモではなく、ちょっとまとめておこうと思った。以下、「頼朝の長女」からの抜粋;
1. 大姫は、女性史からだけでなく、中世史全体からみても留意すべき人であった、と唐木順三氏
2. 頼朝と木曽義仲の間柄が険悪になる。それは、甲斐源氏・武田太郎信光の讒言による。武田信光が娘を木曽義仲の嫡子・志水冠者義高にと思うが、木曽義仲にすげなくあしらわれプライドが傷ついたため。讒言の内容;木曽義仲が京に上るのは、平家と連合し頼朝を討つため、と。
3. 頼朝より;謀反なき証として、志水冠者・義高を鎌倉に送るなら、「父子の儀」をなすと。志水冠者は当時11歳。大姫6,7歳。許婚者となる。
4. 2ヵ月後義仲、京都に攻め込む。平氏西海へ逃れる。備中水島で平氏に敗れる。後白河法皇、鎌倉に義仲追討を命じる。範頼・義経軍に敗れ義仲、近江で敗死
5. 1184年(寿永3年)4月。頼朝が義高を亡き者にとの動きあり(「誅せらる可きの由、内々おぼしめし立ち。。。」:吾妻鏡)。大姫・大姫付きの女房たち、義高を逃すべ工作。義高女装。近習が冠者になりすます偽装工作。夕刻露見。頼朝激怒。
6. 頼朝;堀藤次親家に、義高を討ち取るべしとの下知
7. 大姫「周章して魂を、けさしめたまう」
8. 脱出6日目。堀藤次親家の郎党、藤内光澄帰参して曰く「志水冠者を入間川の河原で殺した」と。境川(東京都と神奈川県の境を江ノ島まで流れる)に沿って遡り、町田、府中、国分寺を過ぎて所沢に出て、そこから入間川に達したものと思われる。
9. 大姫、漏れ聞き愁嘆。母の政子も、姫の心中を察し哀傷殊に甚だしく、殿中の男女も嘆色を示す
10. 当時義高12歳。大姫8歳程度。
11. 政子の怒り;堀藤次親家の郎党、藤内光澄、斬首のうえさらし首。
12. 理由;志水冠者を殺して以来、大姫の哀傷いよいよ募り、病床に在って懊悩。日ごとに憔悴の度を加えている。志水冠者を殺したのが大姫憔悴の原因であるから、その郎党に責任がある
13. 1186年(文治三年)2月、吉野の蔵王堂で捕らえられた静御前が鎌倉へ護送。政子の再三の懇請により舞を。上下皆興感を催す。5月、大姫が鬱気を散ずるため参籠しているお堂に大姫の願いにより静が招かれる。2ヵ月後、静、義経の子出産。幕府の命により、由比ガ浜に棄てられる。大姫の愁嘆甚だしく、宥めるすべなし、と
14. 文治年間は大姫の病状は一進一退。大姫の発願により多くの寺で志水冠者の冥福をいのる催し。大姫も岩殿の観音堂に参詣。
15. 1191年(建久2年)、大姫15歳。病状、はなはだ御辛苦。御不例。頼朝、岩殿・大蔵の観音堂に参籠。大姫の快癒を祈る。「総軍家の姫君、夜よりご不例。是れ恒の事たりと雖も、今日殊に危急なり。志水殿の事有りしの後、御悲嘆の故に、日を追いて御憔悴、断金の志に堪えず。殆ど沈石の思いを為し給うか。且つは貞女の操行、衆人の美談とする所なり」と。頼朝、参詣・快癒祈願を繰り返す。
16. 京より一条高能、鎌倉に。頼朝の甥。大姫を一条高能に嫁せしめようと。鎌倉を離れることにより、過去を忘れさせんと。大姫、強いて言うなら「身を深淵に沈むべし」と。一途に亡き志水殿を慕っている。
17. 1195年(建久6年)、頼朝、奈良東大寺大仏落慶法要に。19歳の大姫も同行。在京100余日。大姫、後鳥羽天皇の妃として入内の工作。確か、平氏により大仏殿が焼け落ちたはず。
18. 京都から鎌倉に。大姫、いたく病む。入内拒否の故と。「心身常に非ず、偏に邪気の致す所か」。大姫拒否の理由は、志水冠者へのやみがたき思慕、懐旧に由ると『吾妻鏡』は言う。
19. 入内を自分の意思で拒んだ女性は歴史上、大姫以外に思い当たらない、と。このような未曾有のことが19歳ほどの若い女性によって行われ、その悩乱によって程なく死にいたったのである。1197年(建久8年)7月14日、「京へまいらすべしと聞こえし頼朝がむすめ久しくわづらひてうせにけり」と。
20. このような大姫、殺伐な世の中に己を持して生きていたということだけでも、私(唐木順三)は言っておきたい。
散歩のときの数行のメモ、ちょっと調べればその裏には、あたりまえのことながらすごい歴史が紐づいていた。そういえば、同じような生き方をした女性の本も最近読んだ。先日、渋谷散歩の際、学芸大学の古本屋で買った『千人同心』、また作家は忘れたが、『大久保長安』の中に登場した武田信玄の五女松姫の話。織田信長の長男・信忠との婚約の儀。松姫7歳、信忠11歳くらいか。輿入れの日を待つだけ。が、信玄と家康、三方が原で激突。信長は家康に援軍を。結果、武田・織田友好関係解消。松姫の婚約も解消。織田の武田攻めを逃れ、松姫武州恩方(東京都八王子)に逃れる。武田家天目山で滅亡。信忠本能寺で自刃。それより前、八王子に松姫がいることを知った信忠、妻に迎えたいとの使いを出し、松姫が信忠のもとに向かう途中で本能寺の悲報を聞いたといった、ドラマティックな説もある。松姫出家。信松尼で生涯を終えるまで、信忠の許婚としていき続ける。大姫も松姫も、雛人形のごとき思いを一生大切に、己を持して生きていた。
後日、義高が誅された入間の地、松姫が余生を過ごした八王子の心源院や信松院を訪れた。


金曜日, 3月 20, 2009

利根川東遷事業の川筋を歩く ; 中川水系合流点を辿り越谷から吉川に

昔、現在の利根川や荒川は埼玉の中央部を江戸に向かって流れ込んでいた。大雨ともなれば洪水が江戸の街を襲った。その洪水から江戸の町を守るためおこなわれたのが、利根川の東遷事業であり、荒川の西遷事業、である。舟運の水路を開くためのものでもあった、よう。
利根川の流れを東に移し、銚子方面へと瀬替えする試みが利根川東遷事業、荒川の流れを西の入間川筋に瀬替えする試みが荒川西遷事業、である。この瀬替えの跡を辿るべく、野田市の関宿や熊谷市の久下といった地を訪ねたことがある。また、東遷・西遷事業によって元の水源から切り離され、埼玉の沖積低地に取り残された昔の利根川水系、現在の中川水系ゆかりの地も巡った。その場所は、利根川に近い、どちらかといえば上流部といったところである。
で、水源を断ち切られ、「取り残された」川筋の中流域や下流域はどうなっているのだろう、ということで、古利根川、元荒川といった中川水系の川筋を見やる。これらの川筋は越谷市と吉川市の境にある吉川橋のあたりで、中川に合流している。その合流点って、どんな風景が広がるのか気になった。街工場の中を流れるのか、それとも緑豊かな郊外・牧歌的風景の中をゆったり・のんびり流れるのか、無性にその地を歩きたくなった。で、とある週末、中川水系合流の地に出かけた。



本日のルート;越谷駅>葛西用水・元荒川が並走>シラコバト橋>東京葛西用水>元荒川>元荒川の「葛西用水伏越吐口」>逆川>久伊豆神社>新方川>大吉調整池>松伏溜井>古利根川(大落古利根川)>大落古利根川・中川合流点>中川・新方川合流点>中川・元荒川合流点

越谷駅
越谷駅の東口に出る。例によって駅前の案内図でチェック。駅の近くに久伊豆神社がある。先日岩槻で思いもよらず出会った神社がここにもあった。岩槻の久伊豆神社は結構立派な構えであった。この地の久伊豆神社ははてさて、どのような構えであろうか。川巡りの道すがら立ち寄ることにする。
駅のすぐ近くには元荒川が流れている。と、その脇に、というか同じ川筋に葛西用水の流路がある。葛西用水は駅の少し南、瓦曽根のあたりで元荒川から別れ、南に下る。瓦曽根 って、瓦曽根溜井のあったところである。
葛西用水は上流地域では人工的に開削された川筋を進むが、中流域では古利根川とか元荒川といった東遷・西遷事業によって「取り残された」川筋を利用し水路が作られている、と言う。また、自然の川筋と溜井といった「農業用水の溜め池」をうまく組み合わせて送水路をつくられている。それが関東郡代伊奈氏によって開発された関東流の特徴である、と。その実物が駅のすぐ近くにあった。予想外の展開。これは行かずばなるまい、ということで、中川水系合流点巡りに先立ち、まずは元荒川と葛西用水・瓦曽根溜井に向かうことにした。

葛西用水・元荒川が並走
駅の東口から東へと進む。葛西用水・元荒川が並走する川筋に到着。川筋の手前に市役所と中央市民会館。市民会館は誠に堂々とした構えである。橋を渡る。葛西用水に架かる橋が平和橋。中央の土手から先、元荒川にかかるののが新平和橋、である。中央の堤まで進む。堤の東に元荒川の流れ。西側には葛西用水の遊水池が広がっている。この遊水池が瓦曽根溜井、だろう。その取水口の水門らしきものが川筋の南岸に見える。取水口に向かって堤を進む。




シラコバト橋
堤を下る。500mほど下流に「シラコバト橋」。美しい斜張橋である。堤は橋から少し下ったところで終わる。葛西用水が元荒川に合流する水門が見える。ちなみに、シラコバトって、埼玉の県鳥。天然記念物になっている。それにしても、この川筋、そしてこの橋は美しい。自然の残された川と人工的な橋のコントラストもその一因、か。

それにしても、この橋といい市民会館といい、周囲の景観といい、越谷って豊な感じがする。中川水系の川が合流する土地柄、昔は洪水多発の地域であったはずであり、なにがどうなって、こういった豊かな雰囲気の街となったのだろう、か。まさか、洪水対策故の大規模な公共投資事業がその因ということではないのだろうが、何となく気になる。





(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


東京葛西用水

シラコバト橋を渡り南詰めに。少し戻ったところに取水口。これは八条用水。葛西用水と同じく関東郡代・伊那氏が堀削したもの。現在、ここ瓦曽根溜井から南東に、ほぼ葛西用水と平行してくだり、足立区の手前、八潮で葛西用水に合流している。
そのすぐ隣に葛西用水。ここ瓦曽根溜井から下流は「東京葛西用水」とも呼ばれている。流れは、南東にほぼ一直線に草加市・八潮市を貫き、足立区の神明に下る。神明から先は、先日散歩した曳舟川の川筋となり、足立区を南下。葛飾区亀戸からは南西に流路を変え、四ツ木で荒川(放水路)を越え(といっても荒川放水路が人工的に開削されたのは、昭和になってから)、墨田区の舟曳・押上に続いている。 葛西用水は関東郡代・伊那氏によって開発された。万治3年(1660年)のことである。
埼玉県羽生市の川俣で利根川から取水され、加須市・鷲宮町・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・東京都足立区へと続き、足立区からは曳舟川となる。全長70キロ。見沼代用水(埼玉)、明治用水(愛知)とともに日本三大用水のひとつと言われる。


葛西用水は、自然の流路と溜井という遊水池を組み合わせた関東流の送水路のつくりをその特徴としている、と上で述べた。流路については、羽生から加須までは人工的に開削されているが、加須市から下流は、利根川の東遷・荒川の西遷事業により取り残された河道跡や廃川を整備しその流路がつくられている。大雑把に言って加須市大桑から川口までは「会の川」、川口から杉戸までは「古利根川」、杉戸から越谷までは「大落古利根川」、「元荒川」の河道を使っている、ということだ。
もうひとつの葛西用水の特徴である溜井とは、農業用の溜池といったもの。川のところどころの川幅を広げるなどして、水を溜め灌漑に使っていた。代表的なものはこの瓦曽根溜井と松伏溜井。松伏溜井は古利根川にある。葛西用水はその松伏の地から南西に一直線に下り、新方川を横切り、越谷の市役所の少し上で元荒川に合流している。道すがら松伏溜井、新方川、そして元荒川との「交差点」も立ち寄ってみようと思う。

元荒川
元荒川についてまとめておく。全長61キロ。埼玉県熊谷市佐谷田を基点として、おおむね南東に下る。行田市・鴻巣市・菖蒲町・桶川市・蓮田市・岩槻市をへて越谷市中島で中川に合流する。寛永6年(1629年)の荒川付替により、荒川が熊谷市久下で締め切られるまでは、この元荒川が「荒川」の本流であった。利根川が東遷され、荒川が西遷され、ふたつの水系は現在では別系となっているが、往古の荒川は利根川の支川であった。荒川付替の主たる理由は中山道を水害から防ぐためのものであった、とか。ちなみに、桶川市小針あたりの備前堤で元荒川は綾瀬川と分かれるが、どうもこの綾瀬川筋がもともとの荒川の川筋でもあった、とも。

元荒川の「葛西用水伏越吐口」
東京葛西用水の分流点から久伊豆神社に向かう。川筋を平和橋まで戻り、葛西用水の西岸を北に進む。「藤だな通り」と呼ばれている。進むにつれて、葛西用水は元荒川から離れる。ふたつの川筋の間は、三角州といった「島」によって隔てられる。
先に進むと御殿町のあたりで川筋は消える。地図を確認すると、その先に元荒川。そしてその元荒川を隔てて、再び葛西用水の水路が現れる。元荒川の下を「伏せ越し」ているわけだ。荒川の下を潜った水はサイフォンの原理で再び川向こうで浮上する。ちなみに御殿町の名前の由来は、徳川家康が鷹狩りの折り宿とした越ヶ谷御殿があった、から。
伏越の吐口へと向かう。先は行き止まり。少し戻り、新宮前橋を渡り元荒川の東岸に。橋の袂に久伊豆神社の参道が。ここは少しやり過ごし、葛西用水の吐口の確認に向かう。川の脇にある天嶽寺を越え、公園の手前に吐口があった。用水はそこから北西へと一直線に続く。

逆川
越谷市大沢の元荒川の伏越吐口から新方川、そして越谷市大吉・大吉調整池の近くにある松伏溜井までの葛西用水は、「逆川」とも呼ばれる。その理由は、この用水の流れは時として逆流する、から。松伏溜井のあった古利根川から瓦曽根溜井のあった元荒川へと送水していた逆川は、洪水時とか非灌漑期には元荒川から古利根川へと水が逆流するわけである。これは、先日の岩槻散歩のとき見た古隅田川と同じ。





久伊豆神社
新宮前橋の参道に戻ることなく逆川に沿って北に進む。遊歩道が整備されている。右手の鎮守の森を見ながら成り行きで進む。適当に右に折れ久伊豆神社に。岩槻の久伊豆神社と勝るとも劣らない立派な構えの神社。名前から、というか、由来のよくわからない神社ということで、小さな祠程度と思っていたのだが、とんでもなかった。神社の何たるか、については、先回散歩の岩槻・久伊豆神社でメモしたので、ここでは省略。ちなみに、境内で田舎饅頭を農家のおばあさんが売っていた。即購入。東京から最も近い田舎饅頭入手スポットをゲット!結構うれしい。田舎では、柴餅と言っておった。ちなみに、柴餅って、田舎の愛媛では柴、というか柏ではなく、山帰来、というか、サルトリイバラの葉っぱで包んでいた。

新方川
久伊豆神社を離れ、本日のメーンエベントである中川水系の川筋巡りをはじめる。久伊豆神社の北東を流れる「新方川」に向かう。花田2丁目、新方川に架かる宮野橋を目指す。県道19号線を1キロ程度進むと新方川に。「ニイガタ川」と読む。起点は春日部市増戸と岩槻の平野地区あたり。越谷市中島で中川に合流する11キロ程度の河川である。流域は元荒川、大落古利根川、古隅田川の自然堤防に囲まれた沖積低地であり、合之掘川、安之掘川、武徳用水などの用排水路として使用されてきた、ようだ。

大吉調整池
宮野橋のひとつ上流に「定使野橋(じょうつかいのばし)」。越谷市大吉にあるこの橋のの近くに大きな調整池・大吉調整池がある。このあたりは、大落古利根川と元荒川に挟まれ浸水常襲地域であった、とか。

それも、そんなに昔のことではない。昭和57年とか昭和61年の台風によって5000戸近い家屋が被害にあった、と言う。この調整値は水害被害の再発防止を図って造られた、と。 定使、って中世の荘園にいた下級役人。領家と現地を往復し命令を伝えたり、年貢の徴収などを受け持った。端的に言えば、「使い走り」ということ、だ。

松伏溜井
定使野橋の近く、定使野公園まで続いた葛西用水はここでも新方川の下を伏越で潜る。大吉調整池脇の吐口から「浮上」した葛西用水は更に北西に進む。昔は葛西用水が新方川の上を流れていた、と。しばらく進み県道19号線に架かる寿橋の西詰めで葛西用水は古利根川に到達する。

川には大きな堰がある。この古利根堰の上流は川幅も広くなっているが、ここは松伏溜井(ためい)と呼ばれる農業用水の貯水池。葛西用水はこの溜井に水を送水するために古利根川を利用しているとも言われる。で、松伏溜井の水はこの古利根堰で取水され、逆川(葛西用水)を経由して、瓦曽根溜井(元荒川、越谷市)へ送られ、瓦曽根溜井からは東京葛西用水、八条用水などに送水することになる。これは上にメモした通り。
元荒川の瓦曽根溜井からはじめ逆川を越え、ここ松伏溜井まで続いた葛西用水巡りも、ここで一応終了。次は、古利根川を下り中川との合流点を目指す。









(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



古利根川(大落古利根川)
大落古利根川とは古利根川の正式名。起点は久喜市吉羽・杉戸町氏下野あたり。そこで葛西用水と青毛掘川が合流しているのだが、そこから下流が大落古利根川となる。流れは杉戸町・春日部市へと下り、越谷市増森・松伏町下赤岩で中川と合流。地図をチェックすると、春日部から下の流れは「古利根川」と書かれている。全長27キロの中川水系の1級河川。

大落古利根川には多くの「落し」が合流する。古利根川が「大落古利根川」とも呼ばれる所以である。「落し」は農業廃水路のこと。掘とも呼ばれる。中川水系の低地に散在していた沼沢地を干拓するため江戸期につくられた排水路、である。この排水先が大落古利根川であった。これらの「落し」には見沼代用水の支線である騎西領用水や中島用水から取水し灌漑に使われたあとの悪水(農業用排水)も集められている。ということは、葛西用水は見沼代用水の排水路ともなっている、ということでもある。
大落古利根川はさまざまの「落し」から集められる水の「排水路」ではある。が、同時にこの川は葛西用水の「送水路」ともなっている。利根川の東遷と荒川の西遷によって取り残された利根川の旧河川、現在の中川水系の河川は江戸時代に農業用水路として整備され、見沼代用水・葛西用水を中心にした農業用水網が確立した。で、この大落古利根川であるが、大正から昭和にわたる大規模河川改修により排水改良工事が行われ、葛西用水の送水路、また見沼代用水の排水路として現在に至っている。もちろんのこと、時代の変化にともない工場・家庭からの生活廃水をさばく都市型河川の性格を強めているのは言うまでもない。

大落古利根川・中川合流点
古利根川の堤をのんびり歩く。自然豊かな川筋である。しばらく進むと増林に勝林寺。渋江氏ゆかりの寺。渋江氏って、岩槻に地名として残っており、ちょっと気になりチェックしていた。岩槻の地は中世、渋江郷と呼ばれたくらいであるから、渋江一族が威をとなえていたのだろう。そこに、太田道潅の父・道真(資清)が関東管領・上杉氏の家宰として岩槻に城を築く。渋江氏は太田氏の支配下に組み入れられるも、道潅の孫・資頼のとき北条氏に与し、一時太田氏を岩槻から除く。が、最終的には資頼に敗れる。で、この勝林寺は資頼との戦に破れた渋江氏が戦死者の菩提をとむらったお寺である、と。勝林寺からしばらく歩くと中川に合流。寿橋から3キロ弱。ここからは中川を下る。 資頼は太田道灌の孫、とはいうものの、その父・資家は道灌の養子。道灌が伊勢崎市の粕屋の館で主である扇谷定正によって謀殺された後、岩槻城主となった。

中川水系
先回、権現堂川を歩いたとき、権現堂川と中川の合流点にあった石碑の文章を参考に中川のメモをする。あれこれ複雑で、繰り返し、繰り返しメモしなければ、すぐに忘れてしまう、から;
中川の起点は羽生市。地図を見ると羽生南小学校近く、葛西用水路左岸あたりまで水路が確認できる。そこから埼玉の田園地帯を流れ中川と新中川に分かれ東京湾に注ぐ全長81キロの河川、である。 中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれたわけである。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。排水路や用水路を整備し「中川」ができるのは、時代を下った昭和になって、から。 中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川は、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年から昭和4年にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。 また、昭和22年カスリーン台風の大洪水のあと、24年から37年にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。

中川・新方川合流点
合流点から1キロ強下ると新方川が合流。いつだったか、新河岸川を歩いていたとき、朝霞市で黒目川が合流。合流地点近くに橋がなく、夕暮れの中、もと来た道を引き返したことがある。この新方川との合流点でも同じ羽目に陥る。合流点から1キロ弱、新方川を西に戻り昭和橋に。昭和橋脇にまことに大きな道路。東埼玉道路。東京外環八潮インターから庄和に向けてつなげようとしている。現在は八潮インターから、庄和橋のちょっと北あたりまで開通している、よう。


中川・元荒川合流点
昭和橋を渡り、新方川をふたたび中川合流点に。合流点から中川を600m強だろうか、南に下ると元荒川に合流する。あたりの景色は、のんびりした郊外の風景。町工場の密集した景色を想像していただけに、嬉しい誤算。

合流点に近い中島橋を渡り、さらには中川にかかる芳川橋を渡り、南に下りJR武蔵野線・吉川駅に。 利根川の東遷事業・荒川の西遷事業によって取り残された川筋が中川水系として合流するポイントを巡る散歩を終え、一路家路へと向かう。

「西郊の特色が丘陵、雑木林、霜、風の音、日影、氷などであるのに引きかえて、東郊は、蘆荻、帆影、川に臨んだ堤、平蕪などであるのは面白い。これだけでも地形が夥しく変わっていることを思わなければならない。林の美、若葉の美などは、東郊は到底西郊と比すべくもない。その代わりに、水郷の美、沼沢の美は西郊に見ることの出来ないものである。 荒川と中川と小利根と、この三つは東郊の中心を成している。林がない代わりに、欅の並木があり、丘陵のない代わりに、折れ曲がって流れている川がある。あんなところに川があるかと思われるばかりに、白帆が緩やかに動いていったりする。 蘆荻には夏は剖葦が鳴いて、魚を釣る人の釣り竿に大きな鯉が金色を放って光る。(『東京近郊一日の行楽(田山花袋)』より)」。まことにゆったりとした一日の行楽を楽しんだ。