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木曜日, 6月 06, 2013

八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。
その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。
で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。
搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。


本日のルート;JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅
集合は常の通りJR高尾駅。タイミングよく、「八王子城城跡」行きのバスがあり、これも常の如く廿里(とどり)の古戦場跡の丘陵を越え、城山川の谷筋に下る。左手に先回の散歩で辿った左手に御霊谷の谷戸や太鼓尾根を眺めながら、梶原八幡の谷戸と御霊谷の谷戸を切り裂いた中央高速をくぐり抜け、八王子城跡入口交差点を左折。終点手前の「八王子霊園南口」で下車し、最初の目的地である宗関寺に向かう。

中宿・根小屋地区
バスを下り、中宿地区を進む。この辺りは、かつては「中宿門」を隔てて城下町と区切られた内城地域。小宮曲輪の案内に「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」とあったが、根小屋とは「城山の根の処(こ)にある屋(敷)」という意味であり、「城山の麓につくられた家臣団の屋敷のあるところである。とすれば、この辺りが根古屋地区だろう。根小屋は「根古屋」とも表記され、千葉であり埼玉であれ、古城散歩の折々に登場する地名である。

宗関寺
道の正面に鐘楼が見えてくる。朝遊山宗関寺である。この曹洞宗の禅寺は卜山和尚(ぼくざん)の開山とされる。もとは、北条氏照が再興した牛頭山(ごずさん)寺。その寺が天正18年(1590)の八王子合戦により類焼したため、文禄元年(1592)に卜山和尚により建立。寺号を氏照の法号をもって、「宗関寺」と改めた。宗関寺の元の地は、現在の寺の西北の谷合にあり、この地に移されたのは明治25年(1892)のこと、と言う。

◯卜山和尚
『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、卜山和尚はその弟子3万7千余名と称される大指導者。この地に生まれ、13歳で山田の広園寺で出家、その後全国の名だたる禅寺に遊学し、天文10年(1541)に再び故郷の地を踏む。弘治2年(1556)、北条氏照の知遇を得、牛頭山寺に迎えられた。これを契機に北条一門より私淑尊敬され、正親町天皇により紫衣を賜り、また「宗関神護禅寺」の扁額を贈られるという高僧であった、とか。

○中山信治
宗関寺境内には銅造の梵鐘があった。案内には「元禄2年、氏照100回忌供養のため中山信治によって鋳造。中山信治は中山勘解由の孫。水戸藩家老三代目当主である。第二次世界戦時中、元禄年間以降の梵鐘は押すべて押収されたが、この梵鐘だけが残った」、とあった。中山勘解由は八王子合戦では山頂要害部の松木曲輪を守り、多勢に無勢で破れはしたが、その勇猛さが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ水戸家の家老にまでなった、とか。
遺児が取り立てられ、如何なる経緯で御三家水戸家の家老になったのか少し気になりチェック。八王子城落城時、中山勘解由の遺児ふたりは武蔵七党の一族である中山氏の本拠地、現在の埼玉県飯能に落ち延びる。家康はそのふたりを見つけ出し、小姓に取り立てる。長男が照守。家康・秀忠に仕え御旗奉行まで昇進。二男が信吉。駿府城の火災のとき家康の第11子である頼房の命を救うなど、家康の小姓としてよく仕え、その人柄故に家康の信任篤く、頼房(当時5歳)が水戸家を興すとき付家老としてその任にあたる。信吉33歳の時である、
その後二代将軍秀忠のとき、水戸家は徳川御三家となり、その二代目藩主に光圀を推挙したのが信吉とのこと。信治はその信吉の第四子である。宗関寺の本堂正面の「宗関寺」の扁額の文字も梵鐘銘も水戸光圀公が重用した明の僧・心越禅師の筆となる、との所以も納得。


横地堤
宗関寺を取り巻く築堤は「横地堤」と称される。もと、この地には八王子城代・横地監物の屋敷があり、その城の防御施設として長大な土塁と堀が築かれていた。といっても、寺を囲む石垣は新しそうだし、どこかに土塁でも残っているのだろう、か。いまだ、「これが横地堤」といった堤には出合っていない。
宗関寺から先に進む。寺の角が心持ち「クランク状」になっているのは、枡形の名残とも。『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、宗関寺が移る前の明治24、5年頃には枡形が残っており、また、現在幅の広い車道となっている宗関寺以西の道も未だ無く、荷車も通れないほどの道があっただけ。その道が2間幅に広げられたのは大正になってから、と言う。
よくよく考えるに、横地屋敷にしても、またそれ以外の家臣の屋敷にしても、屋敷はこの車道を跨いで南北に広がる敷地ではあったろうし、先回の散歩でもメモしたように、家臣が日常使用する「下の道」は城山川の北岸に沿って通っていた、とのことであるから、屋敷の門も川沿いにあるのが自然ではあろう。川沿いの道は整備されることはあっても、現在の車道あたりに道は必要ない、かとも。
また、八王子城落城後、戦乱で焼失した「根小屋地区」の家臣団の屋敷跡はどのような状態であったか門外漢には定かではないが、城山は幕府の直轄林とされ、代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、「江川御山」とも呼ばれ厳重に管理されていた、と言う。伐採した木材を運び出すことはあっただろうが、明治になり日露戦争のために大量の木材を伐り出す必要が生じてはじめてこの辺りに「道」が開かれ、木材伐採が本格化した大正期に現在の車道のもとになる道が整備された、と言うことだろう。
八王子城を初めて訪れた頃、攻城軍の陣立てを見て、どうしてこんなに「快適な」城下谷の道筋を侵攻しなかったのだろう、などと思っていたのだが、当時は現在のように平地の真ん中に道、といった「風景」はなく、この辺り一帯は、城山川の南の「上ノ道」に築かれた防御台と一体となった家臣屋敷の土塁と堀に阻まれ、川沿いにしか道はなく、しかも合戦時は城山川を堰止めて沼湿地と化していたであろうから、それほど「快適な」侵攻路ではなかったか、とも。単なる妄想で根拠はないのだが、謂わんとするところは、現在の地形・地理・町の姿から、昔をあれこれ想うのは相当慎重にすべしと、改めて心に刻む。

北条氏照墓所
宗閑寺から八王寺城の方へ向かい、「北条氏照の墓」の道標を目安に道を右に折れ。小径を進むと小高い丘の上に北条氏照と家臣の墓がある。墓というより、供養塔といったものではあろうが、供養塔は氏照の百回忌追善の際に水戸藩家老の中山信治によって建てられた。上でメモしたように中山信治は中山勘解由の孫。氏照の両脇に建つ供養塔は中山勘解由と中山信治のもと、と伝わる(中山信治ではなくその父の信吉との説もある)。

○妙行和尚
供養塔のある台地からは先日歩いた心源院から城山へと続く尾根道に(368ピーク手前の344ピーク辺り)道は続くようだが、台地の右下にある竹林のあたりが旧宗関寺の敷地跡と言われる。供養塔から続く台地の上にも石仏、宝筐印塔(ほうきょういんとう)残り、なんとなく厳かな雰囲気を感じる。また、台地の左、けいが谷川が開く華厳谷戸(けいがやと)の谷奥は延喜13年(913)に妙行上人が庵を結んだ地と伝わる。台地上でお参りした宝筐印塔が妙行和尚(後の華厳菩薩妙行)のもの、とも伝わる。 この妙行和尚、八王子城の命名と、その城下町としての「八王子」という地名に深く関係する伝説をもつ高僧である。

◯妙行上人と八王子の地名起源
宗関寺に伝わる『華厳菩薩記』によれば、平安時代の延喜13年(913)、京都から妙行という学僧がこの地に訪れ、深沢山と呼ばれていたこの城山で修行。夢の中に牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、八人の王子(将神:眷属(けんぞく)、従者。薬師如来の眷属が十二神将、釈迦如来の眷属が阿修羅を含めた八部衆、といったもの)をこの地に祭ることを託され、延喜16年(916)深沢山を天王峰に、周辺の8つの峰を八王峰とし、それぞれに祠を建て牛頭天王と八王子を祀った。これが八王子信仰の始まりである。 翌延喜17年(917)、妙行和尚の手により深沢山の麓 に寺が建立され伽藍も整備される。人々の間にも次第に八王子信仰がひろまり 、天慶(てんぎょう)2年(939)には妙行の功績が都の朱雀(すざく)天皇に認められ、「華厳菩薩(けごんぼさつ)」の称号が贈られる。それ以前は華厳院(蓮華院との説も)と称された寺名も八王子信仰ゆかりの「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改められた。
時代が下り、天正10年(1582)、北条氏照が居城を滝山城からこの深沢山(現在の城山)に山城を築くにあたり、その守護神、城の鎮守として、牛頭八王子権現を祭り、城を八王子城と名づけた。これが八王子という地名の由来になったとのである。

中山勘解由館跡
北条氏照の墓より車道に戻り先に進む。道脇の生垣に中にひっそりと中山勘解由館跡の石碑がった。八王子城は数回訪れているが、今回はじめて気がついた。道路南側の民家の敷地内のようであり、石碑を眺めるのみ。当然のことながら館は現在の道路を跨いだ敷地であったろうし、門は城山川の南岸に沿う「下の道」に面し、昭和30年(1955)代までは「勘解由」と呼ばれる土橋が城山川に架かっていたようである。登城のときは、橋を渡り太鼓尾根の中腹を御主殿へと向かっていたのではあろう。

八王子ガイダンス施設_午前9時28分
道を進むと近藤曲輪のあった手前当たりに「八王子城跡ガイダンス施設」がある。平成34年(2013)の4月にできたばかり、とのこと。施設内には八王子城とその時代を解説したビデオや、八王子城また城主北条氏照に関するパネル展示がされていた。また、八王子城に関する書籍の紹介や地図、そしてコンピュータグラフィックで八王子城を取り巻く山容や合戦の状況をジオラマ風に再現し、八王子城の全体像を把握するには誠に便利な施設となっている。

近藤曲輪_午前9時36分
八王子城跡ガイダンス施設を離れ駐車場の先の小高い場所が「近藤曲輪跡」。小高い場所の上は平坦地となっているが、この地にはかつて東京造形大学が建設された歴史があり、地ならしされてしまったのだろう。平坦地の中央には八王子城を取りまく山容のジオラマが展示されている。
近藤曲輪は八王子城の東端部。かつて家臣が日常の通路、物資運搬などに使用していた「下ノ道」は、中宿門から城山川の北岸を川に沿って進むが、この近藤曲輪の手前で川から離れ、近藤曲輪の下、馬防柵に沿って山裾に向かう。近藤曲輪を大きく迂回した「下ノ道」は「花かご沢」を「登城橋」で渡り登城門に向かっていた、と言う。登城橋があったのは現在の一の鳥居の先、新道と旧道が別れる辺り、とも。

◯近藤出羽守
近藤曲輪は近藤出羽守助実に由来する。近藤出羽守は北条氏照の重臣であり、氏照が大石家の女婿となったときに付き従った家臣のひとり。氏照の信任も厚く、氏照の下野攻略の後には下野国榎本城を預かる。八王子合戦に際しては榎本城を嫡子と家臣に任せ、八王子城に馳せ参じる。
合戦時には近藤曲輪、山下曲輪、アシダ曲輪を守り、前田勢や、降伏し最前線に投入された元北条方の松山衆(上田禅秀氏)や川越衆(大道寺政繁)との激戦の末に討ち死にした。
いつだったか八王子の湯殿川を散歩した降り浄泉寺に出合ったが、このお寺さまは近藤出羽守の開基とのこと。天正15年(1587)というから、北条市が秀吉勢を迎え撃つ臨戦体制をはじめた頃である。近藤出羽守の館はこの浄泉寺および御霊神社の当りにあったとのことである。


近藤曲輪から先は、八王子城の山裾の遺構、山麓遺構、山頂要害部の遺構、山頂要害部からは、尾根道を八王子城の西端の防御拠点である「詰の城」へのピストン山行となるが、以下概略のみをメモする。それぞれの詳しいメモは過去2回の、「八王子城趾散歩 そのⅠ」「八王子城趾散歩 そのⅡ」を必要に応じてご覧ください。


山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)
近藤曲輪を離れ、管理棟のある山下曲輪から林道に下り、城山川を渡り大手道に。左手に太鼓曲輪や堀切の残る太鼓尾根を眺めながら曳橋を渡り、御主殿跡に。御主殿跡から林道に下り、御主殿の滝でお参りし、林道を折り返し、管理棟へと戻る。






山麓遺構_午前10時42分(高丸)
管理棟から、山下曲輪と近藤曲輪を隔てた「花かご沢」の切れ込みを見やりながら、「一の鳥居」をくぐり登山道に。ほどなく登山道は新道と旧道に分かれるが、旧道は現在(2013年5月)倒木のため通行止めとなっていた。
ささやかな石垣の遺構、馬蹄段を見ながら金子曲輪に。金子曲輪から八号目の柵門台跡に。この地は搦手口からの道や山王台への道が合流する。九合目の「高丸」では、「下段の馬廻り道」が合流する。先に進むとほどなく東が一面に開け、見晴らしのいい場所にでる。山頂要害部まではもう少し。

山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)
眼下に広がる景観を楽しみ少し進むと「中の曲輪跡」に設けられた休憩所。休憩所の裏手から「小宮曲輪」に向かう細路に入り、小宮曲輪から尾根道を「山頂曲輪」に。そこから中の曲輪の八王子神社、その傍の横地社にお参りし、「松木曲輪」に。

尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)
「高尾・陣馬山縦走路」の道標を目安に山頂要害部の南をぐるりと廻る。ほどなく「坎井(かんせい))と呼ばれる井戸があるが、そこに続く道は「上段の馬廻り道」。「井戸」からジグザグ道を下り、山頂要害を廻り切ったところに「駒冷やし」。山頂要害部を守るため、尾根道を切り取った大きな「堀切」となっている。
「駒冷やし」から緩やかなアップダウンを繰り返し600mほど尾根道を進むと「詰の城跡」。その西にある堀切を眺め、再び山頂要害部に戻る。そこから八号目・柵門台まで下り、そこから搦手口への道へと下りてゆく。


ここからは新規ルートのメモ

八合目・柵門台_午後1時20分
柵門台から「松竹バス停」への道標に従い登山道を離れて左に折れる。正確にはこの道は登山道の旧道なのだが、現在旧道は通行止めとなっている。その旧道を少し下ると更に左に分岐する道に入る。この道が搦手口からの道筋である。この辺りは数回過去数回トライしたのだけれど、ブッシュに阻止され進めなかったように思う。その後道の整備をしたのだろうか。不思議である。

城沢分岐_午後1時25分
道筋を数分進むと、先日心源院から城山へと尾根道を辿り搦手口からの道と合流した地点に着く。そこから「松竹橋バス停」の道標に従い、左手の道に入る。道は思いのほか整備されている。この道は城沢道と呼ばれる。搦手口から柵門台へと向かう搦手口からの正式な登城道である。道の左には名前の由来でもある「城沢」と呼ばれる沢がある。城沢は滝沢川に合流する沢のひとつである棚沢の支沢である。


清龍寺の滝分岐_午後1時35分
木々に覆われた道を下ると全面が開けてくる。木々が一面伐採されている。伐採されたところを下り終えた辺りに「清龍寺の滝」の道標。予定にはなかったのだが、時間も十分余裕があるので、ちょっと寄り道。
少々ブッシュっぽい踏み分け道を進むと沢に当たり、それも二つの沢に分岐している。進行方向右手が清龍寺へ向かう「滝の沢」、左手の城沢道に近いほうが「棚沢」である。この棚沢からの道が八王子合戦の時、平井無辺の内通により秘密裡に搦手口から攻め上り、背後から小宮曲輪を攻撃した上杉勢の侵攻路との説がある。

○棚沢口からの侵攻路
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、この棚沢道が上杉勢の侵攻路とある。城沢道は正規ルートで奇襲はできないし、清龍寺の滝のある滝の沢は城外であり、修験者が住む信仰の沢で、西側の尾根に上る道はあるが細路で、しかも小宮曲輪に遠すぎる。棚沢道は正規の城沢道に対して背後から馬廻り道に上る通用路または「隠し道」であったのだろう。この道を這い上がれば棚門台を通らず直接山頂要害部にでることができる、とある。
地形図をチェックすると、沢頭は山頂要害部のすぐそばまで続いている。棚沢を山頂に上るには、棚沢の左岸を進み横沢までは急な道であるが、その先はほぼ水平の道となる。岩を割ってつけた道を進み、棚沢の滝の上を跨ぎ水汲み谷と呼ばれる小さな沢に至ると、そこが11段ある馬蹄段の最下段。この最下段には棚沢の滝から左手の斜面をよじ上っても這い上がれるようである。 上杉勢はこのような棚沢口を這い上がり、小宮曲輪に背後から奇襲をかけ、八王子合戦の勝敗を決した、と。詰の城からの石垣跡のある尾根道を下ると、棚沢の滝の近くに下れるようである。そのうちに棚沢を山頂要害部へと這い上がるか、詰の城から下ってみたい。

清龍寺の滝_午後1時50分
棚沢との分岐から15分ほど、倒木や沢道など足場の悪い道を進むと「清龍寺の滝」。活水期で水は全く流れていない。滝下にある水量計が手持無沙汰な風である。滝は3段に分かれており、水があれば結構見栄えがする滝ではあろう。

松嶽稲荷_午後2時15分
沢道を戻り、清龍寺の滝への分岐から林道を松竹バス停へと下る。ちょっとした段状地やその昔家臣の屋敷があったとも言われる平坦地を想い、左手には先日心源院から辿った尾根道を見やりながら800mほど道を進むと杉の巨木に囲まれた朱色の社が佇む。かつては、この辺りに搦手口の城門があったとも言われる。
既にメモしたように、初期の八王子城は北側の案下谷側に大手口が構えられていたとされ、後年八王子城を大改修する時期に大手口城下谷(中宿)側に変更されたとの説があるが、城山(深沢山)の北側に広がる「案下谷」には、下恩方地区の浄福寺城とその山麓の浄福寺や、上恩方の興慶寺といった室町期創建の寺院が点在する。甲斐の武田に備えたこの案下の谷筋は、比較的古い時代から開けていたのであろう。夕焼け小焼けの里から案下道を辿った記憶が蘇る。


○城山北川防衛ライン
城山搦手口の防衛ラインは、松嶽稲荷辺りの搦手口城門一帯と心源院から城山に続く尾根道、川町の城下谷丘陵北端部、そして大沢川。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「搦手口の松嶽稲荷から西方一帯は、山裾から北へ河岸段丘面・氾濫原・案下川と続き、川は水堀、段丘崖は防塁となっている。段丘崖は4,5mあり、段丘崖下に空堀。段丘面の端には柵が築かれ内側に家臣が詰める」とある。そう言われれば、松嶽稲荷南の段状崖も「土塁」のようにも思えてくる。
心源院からの尾根道の防御ラインは、心源院の土塁、尾根道上の向山砦、松嶽稲荷の東の尾根道下には「連廓式砦跡」が残る、とも。川町の城下谷丘陵北端部には小田野城(現在の都道61号小田野トンネル上)。小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した
大沢川沿いには段状地が築かれ、遠見櫓があったような尾根上の平坦地もあり、搦手口同様に重要な拠点であった、とのことである。

松竹バス停‗午後2時36分
松嶽稲荷から成り行きで東に進むと行く手を瀧の川に阻まれる。橋はないので、松竹橋まで引き返すことになったが、搦手口の場所は滝の沢川と案下川の合流点付近とか、松竹橋付近といった説もあるので、その雰囲気を味わったことでよしとする。 松竹橋まで戻り、本日の最後の目的地である心源院へと向かうが、先日の散歩でもメモした深沢橋まで橋は無い。陣馬街道を東に戻り、かつての鎌倉街道山の道の道筋で右に折れ、深沢橋へと進む。

○陣馬街道
陣場街道という名前は古いイメージがあるが、その名称は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは「案下道」とか、「佐野川往還」と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。

○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院‗午後3時
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
それはともあれ、心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。
この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。

○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。当時の心源院六代目住職は宗関寺でも登場した卜山禅師。卜山禅師の庇護のもと松姫は出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。

河原宿大橋バス停
心源院で先日歩いた秋葉神社やその尾根道から眺めた「寺の谷戸」や「寺の西谷戸」の地形をじっくりと下から確認し、北秋川に沿って河原宿大橋バス停に進み、本日の散歩は終了。バスでJR高尾駅に戻り、一路家路へと。

水曜日, 5月 29, 2013

八王子城址散歩 そのⅡ;太鼓尾根から富士見台を経て尾根道を八王子城址に向かう

初回の散歩から日をおかず、二回目の八王子城址散歩に出かける。メンバーは元会社の同僚とのふたり旅。今回のルートは、八王子城の南を護る「外廓」でもあった太鼓尾根を辿り、先回の散歩で富士見台から下った尾根道を逆に上り返し、富士見台、詰の城を経て城山へと向かう。
太鼓尾根にはいくつかの堀切、そして太鼓曲輪がある、と言う。また太鼓尾根の中腹には城への登城路であった「上の道」が続く、とも。現在八王子城址へは霊園口バス停から宗閑寺をへて城山方面に広い道が開かれているが、大正の頃までは道と言えるような道もなかったようである。戦国の頃はこの太鼓尾根の東端にある「上ノ山」の麓に大手口があり、そこから太鼓尾根の北の山腹を辿る「上の道」がメーンルートであった、とか。
現在では「上の道」は藪で覆われているとのことだし、太鼓尾根のルートもはっきりしない。人によっては険路、とあったり、何ということのない「軽い」ルートなどコメントもさまざま。念のためロープとハーネスと、ちょっと大層な準備をして散歩に出かける。
本日の本日のルート;JR高尾駅>宮の前バス停>梶原八幡>御霊谷神社>太鼓尾根への取りつき口>中央高速にかかる不思議な橋>上の山>太鼓尾根の尾根道>第一堀切>片堀切>第二堀切>第三堀切>太鼓曲輪>第四堀切>第五堀切>見晴らし所>太鼓尾根分岐>荒井バス停分岐>城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)>城山川北沢への分岐(標識なし)>小下沢道分岐(悪路)>富士見台>詰の橋・大堀切>堀切>馬廻り道(下段)>高丸>中の曲輪>八王子神社>山頂曲輪>小宮曲輪>松木曲輪>見晴らし所>八合目・棚門台跡>殿の道>山王曲輪>殿の道>御主殿跡>御主殿の滝>曳橋>大手道・大手門跡>上の道>大手道・大手門跡>山下曲輪>近藤曲輪>八王子城址ガイダンス施設>宗閑寺>中山勘解由屋敷跡>霊園口バス停

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である御霊谷の太鼓曲輪取り付き口の最寄りのバス停である「宮の前」に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

宮の前バス停
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前バス停。太鼓尾根への取り付き口に進む前に、宮の前の名前の由来でもある梶原八幡様に向かう。

梶原八幡_午前9時24分
御霊谷と逆方向の東側に道を渡り参道を八幡様に。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。 どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。


御霊谷の谷戸
梶原八幡からバス停まで戻り、バス停脇の雑貨店の南の道を御霊谷の集落に。この御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 当時の家臣の登城道はこの御霊谷門を大手口とし、御霊谷地区の北の太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」の鞍部を経て太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城山の麓にあった御主殿へと続いていたようである。

御霊谷(ごりやつ)神社_午前9時40分
御霊谷地区に入り、太鼓尾根やその東端の「上の山」を見やり、御霊谷地区の谷戸を進む。道が中央高速をくぐる手前に御霊谷神社。まずはお参り。古き趣のこの社は、梶原景時の祖先神である坂東八平氏のひとり、鎌倉を拠点とした故に「鎌倉権五郎影政」と称された平安後期の武将を祀る。神社の裏手にはいくつかのささやかな社が祀られるが、稲荷の裏手には、「北条菱」が刻まれた石塔が建つ、とのことだが見逃した。
天正18年(1590)の八王子城の戦いの際は、この神社辺りに南本営が置かれ、鈴木彦八の指揮のもと、豊臣勢の攻撃に相対した、と。当時は谷戸の一帯は湿地であったようで、御霊谷川を堰止めて池沼とし防御ラインを構築したとのことである。

太鼓尾根への取り付き口へ_午前9時51分
御霊谷神社を折り返し、太鼓尾根の東端である「上の山」に。取り付き部の目安は「竹藪とその手前の梅ノ木」といった情報を目安に、道から分かれる取りつき口を探す。今ひとつ確信はないものの、バス停脇から入ってきた道筋と沿って流れる御霊谷川が大きく湾曲して道から離れるあたりに建つ民家の西脇から竹藪へと向かう踏み分け道を見つけ、とりあえず車道を離れ竹藪へと向かう。

中央高速に架かる橋・中宿橋‗午前10時
踏み分け道を竹藪に入る。道らしきものはなく、竹藪の中をとりあえず中央高速の車の音のするほうへと突き進む。力任せの藪漕ぎで中央高速が見えるところまで這い上がる。と、左手に中央高速に架かる人道橋が見える。この橋を渡って太鼓尾根に入る、とのことであるので、中央高速と離れないように竹藪を進み、人道橋のある、と思うあたりで再び這い上がり人道橋南詰に。
しかし、不思議な橋である。橋を渡った南には橋から続く道はなく、崖を下りて道なき竹藪の中を進むしかない。なんとなく気になりチェックすると、中央高速建設に際し、当時の建設省と八王子市そして地域住民が協議し、高速道路によって行き止まりになってしまう杣道や畦道なとの「赤道」を、この橋の建設で代替とした、とのこと。
それにしても、疑問が残るのは中宿橋と呼ばれる橋の名称。中宿は、御霊谷の東端である「上の山」と梶原八幡のある丘に挟まれたところであり、外郭部の城下町と内城部分を仕切る中宿門(中門とも)が在った地区の名前である。場所からすれば、御霊谷橋といったほうが自然と思えるのだが、昔には御霊谷川に御霊谷と称する橋があったのだろう、か(今は見当たらない)、それとも、御霊谷の谷戸から中宿に抜ける道があったのだろう、か。妄想は広がるが、このあたりで止めておく。

御霊谷門・上の山
中宿橋の辺りは中央高速によって削られた太鼓尾根の東端は「上ノ山」のあったところ。上に御霊谷門が御霊谷川の左岸にあったようだとメモした。その位置は上ノ山の丘の南麓にあったとのこと。その場所は不詳であるが、『戦国の終わりを告げた城』には「(中宿橋を)御霊谷側に下ると竹林の中に小刻みの段状地が4段あり、ここを大手口と推定した」、とある。とすれば、御霊谷門は先ほど上り下りの藪漕ぎをした竹藪辺りかもしれない。
御霊谷門からは上ノ山の鞍部を越えて太鼓尾根の北側中腹を御主殿に向かって登城道が通り、その北には中宿門から西にはか新屋敷が連なる。そして尾根の南北に重要な門を見下ろす上ノ山には見張り台があり、ふたつの門の防御する指揮所でもあったのだろう。とはいうものの、合戦では中宿門も御霊谷門も、あっと言う間に破られている。(『戦国の終わりを告げた城』)を参考に合戦の状況をまとめておく。


 ○八王子合戦
攻城軍は寄居の鉢形城を落とし東松山の松山城に駐屯していた前田利家と上杉景勝の軍勢。その数は、降伏した大道寺(松井田城主)、難波田・木呂子勢(松山城の籠城軍勢;東松山)を含め2,3万と伝わる。攻城軍は松山城を出立。関東山地山麓よりの道を南下し、旧暦6月22日の夜更け、多摩川を大神(昭島)から金扇平(八王子市平町)に渡り(注;現在八高線が多摩川を渡る辺り)、南加住丘陵、北加住丘陵を越え暁町の名綱神社辺り(注;現在の小宮公園の南)で二手に分かれる。
一隊は搦め手口攻撃隊。川口川の北岸を西に進み、甲原(注;現在工学院大学のある辺り)をへて南に向かい調井の丘(注;現在の八王子市立川口小学校んの東;昔川口氏館跡あたり)から北浅川の北岸を西に進み、川を渡って案下(恩方)の搦め手口に。
別の一隊は名綱神社から南に進み浅川を渡って大義寺(元横山町)の辻から西に進み、南浅川を渡り横川を経て月夜峰(現在協立女子学園がある辺り)の丘陵に向かう。
一方の八王子城の北条勢。籠城態勢に入ったのは天正16年(1588)の1月。天正17年(1589)の夏には、城主の北条氏照は精鋭数千を引連れ小田原城に。留守を老将である横地監物、狩野一庵、中山勘解由に託す。城内には将士の他、各郷から集められた雑兵、番匠、鍛冶、修験者、僧、そして人質としての妻子など数千。

攻撃当日の天正18年(1590 )6月23日。攻撃開始は午前2時。上杉景勝勢8000は月夜峰から出羽山砦(注;は現在の出羽山公園辺り;八王子市城山手1-4近藤出羽守が築いたとされる砦。近藤出羽守は合戦当日には山下曲輪を護る。)へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃。別働隊は御霊谷の湿地を進撃し、御霊谷神社辺りにあった南本営を打ち破り、御霊谷の谷戸の更に奥の駒ケ谷戸や大谷戸方面から太鼓曲輪の奥に進み攻め入った、と。
一方、降伏した大道寺勢を前面に押し出した前田利家の軍勢15000は横山口の大城戸に攻め入り、中宿門を護る馬場対馬守を破り、午前4時頃には太鼓曲輪を破った上杉勢と合流し、八王子城の守備の要である山下曲輪に襲い掛かり守将の近藤出羽守を打ち取っている。
山下曲輪を破り城山にある金子曲輪に攻め入り、山頂の小宮曲輪で激戦となるも、内通者に率いられ、搦め手側から攻め上った上杉別働隊が背後から攻め寄せ落城となる。明け方には勝負がついていたようである(午後4時頃との説もある) 八王子合戦は秀吉の小田原征伐で唯一の「殲滅戦」とも言われる。埼玉・寄居の鉢形城の攻防戦など、その他の攻城線での穏便な、秀吉に言わせれば「緩慢な」攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田・上杉勢はこのときとばかり八王子で大殺戮戦を行った、とか。合戦の後の両軍の死者は諸説あるも、それぞれ1000名を越える、とも。いつだたか、八王子の湧水を辿っていたときに出合った相即寺には戦いで亡くなった将士を供養する地蔵堂があった。

埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。

太鼓尾根に入る
中宿橋を渡り、右にも左にも細道があるようなのだが標識がなく、なんとなく踏み分け道っぽい右側に回り込み緩やかな上りを太鼓尾根に入る。途中、御霊谷門から上ノ山の鞍部を越えて南に繋がるという「上ノ道」への道筋などないものかと注意しながら進んだのだが、それらしき踏み分け道も見つけることができなかった。安土城の6mを越える8m幅の登城路跡らしき道筋も残っているようである。そのうちに歩いてみたい。

286mピーク_10時23分
木々に覆われた緑の尾根道を進むと、竹林のトンネルが現れる。いつだったか歩いた旧東海道箱根越え・西坂を三島に下ったときの笹竹のトンネルを思い出した。270mピークの「じゅうりん寺山」を越え、ゆるやかなアップダウンを繰り返し尾根道を進む。じゅうりん寺山から北西に進んだ尾根道が南西へと向きを変える辺りの254m地点に「見張台」があったとのことだが、素人には遺構などはわからない。
尾根道南麓の木々の隙間から民家の屋根などを見やりながら10時23分に286mピークに。ここまで尾根道の踏み跡はしっかりとしており、道に迷うことはなかった。


第一堀切_10時35分;標高275m
尾根道を進み、286mピークから10分強歩くと、突然尾根道が寸断され崖っぷちに。ここが太鼓尾根の第一堀切。尾根道からの敵の侵攻を防ぐために人工的に岩盤を掘り切っている。掘り切った石は石垣などに利用されているようである。第一堀切の場所は、御主殿跡に向かう大手道東端の「進入禁止」の柵のあるところより少し東に入ったあたりである。
足元を注意しながら底に下り、左右の堀切崖面を見る。底から5m程度といったところだろうか。また、岩盤故か、倒木が多い。堀切の幅は結構広いが、これは倒木による掘り返しにより次第に幅は広く、丸くなってしまったのだろう。縄張り当時はもっと狭く、V字になっており、曳橋が架けられていた、と。

片堀切_午前10時41分;標高287m
第一堀切からほどなく「片堀切」の案内。両側を掘らず、片側だけを掘ったもの。比高差は4m程度である。この辺りから太鼓曲輪北麓下には御主殿続く大手道が見える。








第二掘切_午前10時52分:標高290m
片堀切から10分程度で第二堀切。底に下りて左右の崖を見る。東崖との比高差3m、西崖面との比高差12mほど。薬研堀と称されるようにV字に切れ込んだ雰囲気を残す。場所は御主殿に繋がる曳橋の少し手前といった辺りである。







第三堀切_午前11時7分;標高298m

第二堀切から10分強で第三堀切。太鼓尾根最大の堀切で「大堀切」とも呼ばれる。底から堀切東崖の比高差6m、西崖面の比高差15mとのことである。底が落石で埋まっているため、石を除けばもっと巨大な堀切であったのではあろう。尾根の北麓下には城主の館である御主殿がある。なお、第三堀切を過ぎたところに上杉勢が御主殿に侵攻する為に使った「連絡道」があるとのこと。連絡道は「御主殿の滝」に造られた堰の上を通り御主殿につながる、とのことである。

太鼓曲輪_午前11時13分;標高300m
第三堀切から少し進み、御霊谷の城山病院辺りから続く長尾根と交差するあたりのちょっとした平坦地に太鼓曲輪があった、とのこと。平坦地の幅は10m程度であり、それほど多くの兵士が詰めれるようにも思えないのだが、太鼓尾根全体の防御陣地を指揮する指令所でもあったのだろう、か。単なるも妄想。根拠なし。





第四堀切_午前11時18分;標高321m
太鼓曲輪から5分程度で第四堀切。位置は北沢と南沢が城山川として合わさる少し上流の南の尾根部分。底に下りて左右を見ると、今までの堀切の中では少し小振りで、東西ともに底から堀切の崖面の比高差は4m程度である。






第五堀切_午前11時25分;標高325m
更に尾根を進むとほどなく第五堀切。今までの堀切と異なり、御主殿に近い東端のほうが底からの高さが高く、その比高差は7mほど。一方西側は少し低く4m程度となっている。









これで本日のメーンイベントである太鼓尾根の太鼓曲輪と堀切を辿るコースは終了。後は先日富士見台から下ってきた「城山尾根」に上り、そこから城山へと上り返すルートを辿ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)














見晴らし所_午前11時43分;標高376m
第五堀切を越えると「城山尾根」の合流点に向かって上りが急になってくる。今までの尾根道の、のんびり、ゆったりとは異なり少々息が上がる。第五堀切から20分程度のところで、左手が一瞬開け、眼下の景観が楽しめる。見晴らし所という名称は便宜上名付けただけであり、正式名称ではない。





太鼓尾根分岐_午前11時47分;標高407m
見晴らしを楽しみ先に進むち、そこからほどなく太鼓尾根が城山尾根に合流する。標識には「城山入口 405m」と道標にあるが、太鼓尾根には城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山(「御主殿跡」のことだろうか?少々曖昧な表現である)に下るには、尾根道を切り取った堀切部分から大手道の東端に下るのだろうが、それにしては大手道へと下る道標はなかったように思う。 太鼓尾根を下ると、今辿ってきたようにその東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至り、橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる、と思うのだが。道標の見落としであろう、か。
太鼓尾根分岐を東に下れば、先日辿った地蔵ピークをへて裏高尾の駒木野の小仏関所に出るが、今回は逆に城山尾根を西へと上り返す。太鼓尾根分岐点で少し休憩。

荒井バス停分岐_午後12時14分;標高417m

休憩の後、10分程度で裏高尾への分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、この尾根道を裏高尾から上り、工事中の圏央道当たりから山に入り、中央高速に沿って進み尾根へと入っていったのだが、圏央道が完成した現在、ルートはどうなっているのだろう、か。

城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)_午後12時17分;標高410m
荒井バス停分岐のすぐ傍に「城山林道」から尾根に上る道の合流点がある。現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

城山川北沢への分岐(標識なし)_12時37分;標高479m
城山林道の合流点当たりからは525mピークに向かって急坂を上り、ピークを越えて下りきったあたりが城山川北沢からの山道の合流点。分岐点の標識はない。当初の予定では、この合流点が見つかれば、そこから御主殿跡へと下ろうと考えていたので、相当真剣に道を探したのだが結局見つからず、富士見台から城山へと向かうことになった。後日地元の方に聞いたところでは、見つけにくいが道はある、とのことであった。

小下沢道分岐(悪路)_12時44分;標高541m
城山川北沢からの合流点辺りからは再び富士見台に向かっての上りが続く。先回は逆の下りだったので、あまり厳しいとも思わなかったのだが、結構きつい上りであった。富士見台の少し手前に小下沢への分岐の道標。悪路とある。どの程度のものか、逆に訪ねてみたくもなる。






富士見台_12時57分;標高542m
小下沢から10分強で富士見台に。今まで数回富士見台に来たが、富士山が見えたのは今回がはじめて。休憩台では数グループが食事をしているのはいつもの通り。







詰の城・大堀切_13時8分;標高463m
富士見台で富士山の眺めを少し楽しみ、休憩することもなく富士見台の直ぐ傍の「陣馬山縦走路分岐点」を右に折れ、詰の城へと向かう。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」の道標がある。
10分程度、結構急な下りを進むと「詰の城」の西崖となっている「大堀切」に到着。西からの敵の侵攻を防ぐため尾根を断ち切った「大堀切」は、その名の通り、堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある巨大なもの。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。
大堀切から崖面の道を上り「詰の城」に。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。

馬冷やし・堀切_13時35分;標高401m
詰の城からおおよそ400m、城山が目の前に聳える姿を見ながら進むと、「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち「切り通し」としていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手の棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。

馬廻り道(下段)
駒冷やしの堀切からは、いつも歩く山頂要害部の南側を周り井戸のある「坎井(かんせい)」から上段の馬周り道を通り松木曲輪に出るコースと異なり、堀切から山頂要害部の北側をぐるりと回る「下段馬周り道」を辿る。道標もなく、はじめての道で、ちゃんと続いているかどうか定かではないが、とりあえず先に進む。途中切り立った崖面の細路があるなど、ハイキングコースとして案内しない理由も納得。どこに出るのかも分からず進むと、「9合目・高丸」のすぐ上に出た。そこにも道標はなかった。下段馬廻り道は上段馬廻り道のおおよそ20m下を巻いているとのことである。
ここからは下に下りたいところではあるが、同行の元同僚は八王子城址ははじめて。山頂要害部を見ないことにはと、山頂の曲輪跡へと向かう(以下は「八号目・柵門台」まで基本的に、前回メモのコピー&ペースト)

高丸_13時41分;標高431m
下段馬廻り道から城山登山道に出ると、「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識に上ってきている。思うに、高丸は先回心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれない。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図がある。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とある。
先回同様に、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道を進む。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。
案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。

○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもできそうだなあ、などと先回同様の妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

八合目・棚門台跡_午後14時13分;標高362m
城山山頂の要害部をひと回りし、城山を下り八合目・棚門台跡に。「八合目」と刻まれた石標がある。八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。

山王台_午後14時20分;標高376m
通常、この八合目からは金子丸から馬蹄段を経て登山口である一の鳥居へと下るのだが、今回はこの八合目から辿れるという山王台へと向かうことにする。道案内はないのだが、柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路があり、これが山王台への道であれかし、と願いながら先へと進む。道は沢頭に沿って通るが、整備されていないようで、少々難儀ではあったが、10分もあるなかいうちに平坦地に出る。そこが山王台であった。
地形図を見ると、山王台は柵門台と沢を隔てた舌状台地上にあり、その広さは80平米ほど。岩を削り取ってつくったものである。「南無妙法蓮華経」と刻れた石碑は昭和8年(1933)に戦いで亡くなった将士の霊を慰めるべく建てられた。

殿の道・石垣群
山王台から御主殿との間は「殿の道」で結ばれていた、と言う。その下り口を探すと、舌状台地南に西に向かって折り返すような小道があった。それが殿の道であろうと。ジグザグの道を下る。
道の途中には何段にもなった石垣群がある。石垣群は全部で4群あり、それぞれの群には数段に分かれて石段が築かれている。崩れている箇所もあるが、結構しっかりと組まれたままの状態で残っている石垣もある。
何故に山腹にこれほどまでの石垣を築いたのか、ということだが、この沢が比較的浅く傾斜であったため、石垣を築き敵が這い上がるのを阻止するため、と言う。
思わぬ石垣群に魅せられながら下山口に。場所は御主殿跡の西北端あたりにある。道標はない。

御主殿跡
御主殿跡は東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残る。

櫓門(やぐらもん)
御主殿の滝から再び御主殿跡に戻り、入口の冠木門から石段に出る。25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

虎口
石段を下りると道は右に折れる。ここは虎口虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。







曳橋
虎口を左に折れる城山川を跨ぎ御主殿跡と大手道を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と・。

大手道_午前10時28分;標高255m
曳橋を渡り、きれいに整地された大手道を下る。右手の太鼓尾根は先ほど堀切や太鼓曲輪を辿ったところであるなあ、などと想いを巡らしながら山腹中腹の道を下る。道を下り切り、城山川方面へと道が曲がる辺りに木の柵があり、大手道はここで終える。木の柵の脇にある案内には、;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。 現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から御主殿跡に向かって整備されているが、既にメモした通り、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていた。
御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 この大手道は「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。

○上の道
上の道の名残はないものかと木の柵を越え、小道に入る。木々の間の踏み分け道を進むも、次第に踏み分け道もなくなり、城山川の傍の藪に入り込み、今回はそこで撤退。冬になって藪が減った時にもう一度歩いてみようと思う。






山下曲輪
上の道跡といった小道を大手道の木の柵まで戻り、城山川を渡り山下曲輪に。山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。






近藤曲輪
山下曲輪から花かご沢の深いV字の谷を隔てた一帯が近藤曲輪。現在は公園となっている。空堀とか馬防柵があったとのことだが、特に案内もないようで、今回は公園にあるジオラマで本日辿った山稜を確認するに留める。もうあれこれ調べる気力も体力も少々乏しくなっているようである、


八王子城跡ガイダンス施設
近藤曲輪からすぐ傍の「八王子城跡ガイダンス施設」に。今年(2013年)の4月にできたばかりとのこと。八王子城合戦のビデオや資料を眺め、道脇の中山勘解由屋敷跡の案内を眺め、霊園口のバス停に本日の散歩を終える。