木曜日, 8月 23, 2007

下末吉台地散歩;大倉山から鶴見まで

多摩の丘陵に惹かれて川崎市麻生区から横浜市青葉区、都築区そして港北区・大倉山まで下ってきた。はじめは、「なんとなく新百合ヶ丘」といった程度ではじめた散歩。何回にも分けて歩くことになろうとは思ってもいなかった。それだけ、丘と谷、入り組んだ谷戸の景観に惹かれたのであろう。
先回の散歩では、都築区から、これも「なんとなく大倉山」に下った。なぜ「大倉山」という地名が記憶に残っていたのか、よくわからない。ともあれ、大倉山まで下ってきた。で、大倉山から南を眺めたとき、これも結構入り組んだ感じの丘陵が見えた。大倉山の近くには中世の城址がある。また、鶴見の近くにも城跡がある。で、どうせのことなら、あと少し足を延ばし、城跡を辿りながら海岸まで下ってみよう、多摩の丘陵地帯から海まで襷を繋げよう、と思った。多摩から歩いてどの程度で海にたどり着くのか、少々のリアリティを感じてみたかったわけである。




本日のルート;東急東横線・綱島駅>綱島公園・綱島古墳>綱島街道>鶴見川・大綱橋>綱島街道>東急東横線・大倉山駅>綱島街道・交差点>環状交差点>環状大倉山2号交差>みその公園>尾根道>獅子ケ谷横溝屋敷>獅子ケ谷市民の森>二ツ池>三ツ池公園>釣鶴見高校>別所交番前>第二京浜・北寺尾交差点>響橋>第二京浜・東寺尾交差点>馬場町公園>殿山>白幡公園・白幡神社>寺尾小学校>第二京浜・東寺尾交差点>(鶴見獅子ケ谷通り)東寺尾交番前>亀甲交差点>JR鶴見駅

東急東横線綱島駅
渋谷で東急東横線に乗り、大倉山駅に向かう。急行でもあり、一駅前の綱島に止まる。普通電車を待つのもウザッタイので、綱島で降りて歩くことに。綱島って、川の中州や湿地に点在する島、「津の島」のこと。すぐ南に流れる鶴見川、東を流れる早淵川によって形つくられた「川中島・中州」であったのだろう、か。
綱島古墳
駅に降りて案内をチェック。駅の近くに綱島古墳。直近まで全く興味のなかった古墳時代ではある。が、最近娘の宿題のお手伝い、といった事情もありに少々の問題意識を持つことにもなっている。つい先日、吉祥寺の古本屋で『まぼろし紀行;稲荷山鉄剣の周辺(奥村邦彦:毎日新聞社)』を買ったばかりではある。それはともあれ、線路に沿って少し戻る。少し歩くと小高い丘。古墳はこの綱島公園の中にある。公園の最も高いところに古墳があった。案内をメモ;「5世紀に造られた円墳で、墳丘頂部の埋葬施設から鉄刀、鉄子、鉄鏃などの副葬品が発見され、古墳の周辺からは須恵器甕や円筒埴輪などが出土し、地域首長の墓と考えら れる」、と。綱島公園は戦時中高射砲陣地があった、とか。

綱島街道・鶴見川
公園を離れ、大倉山に向かう。一旦、綱島駅に戻る。バスセンターが賑やか。駅前の道を綱島街道に出る。綱島街道は東京の五反田を起点に、丸子橋をへて横浜市神奈川区浦島までの道筋のうち、丸子橋より西を指す。都内は中原街道と呼ばれる。先に進むと「大綱橋」。名前の由来は大綱村から。鶴見川を渡り、樽町を進む。「樽」って、「伊豆・河津の七樽」ではないけれど、「滝」ってこと。鶴見川が氾濫してなかなか水が引かず、「樽に溜まった水」のようであった、ため。鶴見川の氾濫は昔から多かったようである。
大倉山の台地の北端は鶴見川で切られる。鶴見川によって開析された台地と平地との境目、といった風情。地形図でチェックすると、綱島の台地が平地にポッカリと浮かぶ。綱島街道を隔てた諏訪神社のある台地と共に「連れになった島>つなしま」、って知名の由来もあるのだが、地形図で見ると大いに納得。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

師岡熊野神社
道の両側に丘陵が迫る。向かって右手が先日歩いた大倉山の台地。左が熊野神社のある「熊野市民の森」の台地だろう。道を進むと熊野神社入口交差点。熊野神社は御園城跡(獅子ケ谷城跡)を拠点とした国人たちの心のより所であった、とか。ちょっと立ち寄る。台地を少しのぼり、ちょっと下ると熊野神社。境内前に池。「い」の池。灌漑用の溜め池。雨乞神事とか、片目の鯉の伝説が残る。
神社がひらかれたのは、8世紀前半・聖武天皇の頃。誠に由緒ある社である。9世紀末には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向。「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜り、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所となる。また、戦国期の小田原北条、江戸期の徳川家からの信仰も篤く、幕末まで御朱印を受けた、とか。
石段を上り本殿に。新しい。平成に大修理がなされた、と。なんとなく本殿裏手の姿に惹かれる。古い社とともに、雰囲気のある池。「の」の池。まわりは神域となっている。池の傍に裏山にのぼる道。のぼりきったところに展望台。師岡貝塚の碑もあった。縄文海進期の頃は、このあたりまで海であったのだろう。少し休み、綱島街道に戻る。

東急東横線・大倉山駅
熊野神社入口交差点からゆるやかな坂を大倉山駅方面に下る。綱島街道を離れて大倉山駅に行く。例によって、駅前での名所案内をチェックするため。いくつか散歩コースが案内されていた。目的地は御園城跡(獅子ケ谷城跡)。城跡の案内はどこにもない。この城の名前はいつだったか古本屋で購入した『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』にあったもの。そこの紹介でも、地元の国人たちの軍事拠点といった程度のもの。城というほどのものではなかったのかもしれない。『多摩丘陵の古城址』によれば、場所は横溝屋敷の北にある台地である、と。駅前の案内には「みその公園・横溝屋敷」と紹介してあっ
たので、とりあえず「みその公園」に進むことにする。
駅の北には大倉山が広がる。結構広い。山頂には大倉山記念館。ギリシャの神殿を思わせるような堂々とした建物である。実業家大倉邦彦氏が昭和7年につくった研究所がはじまり。当時名もないこの丘も、大倉氏の名前をとって大倉山、と。ちなみに、太尾駅と呼ばれていた駅も大倉山駅に改名。記念館の北、谷戸の風情を残す公園も、太尾公園から大倉山公園に改められた。

御園城
大倉山駅前の通りを進む。前方に新幹線の高架。商店街の上に新幹線が走る、って姿をみたかったのだが、残念ながら列車には出合わなかった。先に進み綱島街道・大豆戸交差点に。ここで環状2号に交差。目指す「みその公園」は環状2号線の南に広がる台地の上。信号を渡り、すぐの石段を登る。台地上から眺めると、環状2号は台地を「切り通し」ていた。
台地上は住宅街。ちょっと道に迷うが、先の緑の台地が「みその公園」であろう、と台地上の尾根道を進む。台地を少し下り、またすぐのぼると「みその公園」。御園城といわれていたのであれば、この台地が城跡であるのだろう。先に進む。雑木林が開けると、ちょっとした広場。このあたりが城跡であったのだろう、と、とりあえず思い込む。先に進む。「横溝屋敷」の案内。尾根道を進み、くねくね道を下ると台地下に「横溝屋敷」があった。

横溝屋敷
「横溝屋敷」。慶長年間から寛永にかけて名主を務めていた小田切氏の館跡に建つ。茅葺き屋根の母屋・表門(長屋門)・穀蔵・文庫蔵・蚕小屋などが残る。ゆったりとした、いい気持ちのひととき。台地崖下からの湧水池も、いい。
さて、これから先はどうしたものか。本日の最終目的地は、いままで二度チャレンジし、結局お店が休みで手に入らなかった、「よね饅頭」を買うこと。「お江戸日本橋七つ立ち」の歌に出てくる、あの「よね饅頭」である。といっても、会社の同僚でこの歌を知っている者はごく僅か。鶴見に行く目的はお饅頭ばかりでなく、あとひとつ。鶴見近くの寺尾にある、これも、お城といっていいのかどうかわからないような寺尾城跡をチェックすること。そこまでは、成行きで進もう、といった段取り。

獅子ケ谷市民の森

横溝屋敷前にある案内をチェック。南に広がる台地上に展望台のサイン。台地、谷戸といった地形 のうねりが大好きの我が身としては一も二もなく台地に向かう。道を南東に進み台地下に。「獅子ケ谷市民の森」と書いてある。台地下の公園から段を上る。少し湿った土。朝の雨の影響なのか、それとも湧水なのだろう、か。チェックする、池は地下水のポンプアップではあるが、崖地からは湧水が滲み出ていた。尾根道に進む。道は南北に通っているが、北に進み、しばらく雑木林の中を歩き、里に下りる。このあたり、樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。






二ツ池
さて、ここから先は、と、地図をチェック。近くに二ツ池、三ツ池公園、それと鶴見への道筋に下末吉といった地名が目に入る。池は谷戸からの湧水であろう。また、下末吉って、地質学で言うところの下末吉台地となんらか関係があるのだろう。ちょっと惹かれた。で、大体のコースを二ツ池>三ツ池公園>下末吉地区の順とする
谷戸を歩き、光明寺へ。ちょっとお参りし、それほど幅のない台地を越え東におりる。ゴルフ練習場脇を進み、車道に。少し北に戻ると道の東に二ツ池。池の中央に堤がつくられ、ふたつの池に分けられている。西は葦のような草が茂る野趣豊かな池。東側はふつうの池。多くのひとがつりを楽しんでいた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三ツ池公園
池に沿って進み、再び台地に上る。鶴見女子学園のグランド南を進むと三ツ池公園に着く。こんな台地の上に池があるとは思えない。予想通り、崖地の下に池が見える。如何にも谷戸の姿。台地に囲まれた窪地から水が湧き出ているのだろう。結構大きい池である。池の周りを囲む崖上の遊歩道を進み「上之池」南端に下る。家族連れが多い。しばし休憩。

下末吉台地
公園を離れ、下末吉地区に進む。公園に沿って台地に上る。上りきったところに鶴見高校。ブラスバンドの練習の音。いかにも青春って風情。高校に沿って歩く。道は大きな下りとなっている。真っ直ぐ進むのもいいのだが、進行方向右手、つまりは道の西の地形が魅力的。一度下った谷地の向こうに再び台地が盛り上がっている。第二京浜の走る尾根道だろう、か。結構複雑な地形となっている。
この地形の「うねり」に抗すべくもなく、鶴見高校を越えたあたりで右に折れる。道の東は下末吉6丁目。当初、故なく下末吉1丁目一番地に行ってみようとも思ったのだが、行って何があるわけでもない。下末吉に足跡を残した、というだけで留めておくことに。それより、下末吉台地についてちょっとまとめておく。
下末吉台地・下末吉層;関東での地形の資料を見ているとしばしば登場する用語。この下末吉で発見された発見された地層により、往古、間氷期に現在より海面が上昇し、内陸奥地まで海が入り込んでいたことが明らかになった、とか。このとき堆積された地層を「下末吉層」、そして、海進が進んだ時代を「下末吉海進期」、そのときに形成された段丘面を「下末吉面」と呼ぶ。下末吉面の台地にあたるのが「下末吉台地」。鶴見高校のあったあたり。この洪積台地の下が沖積平野となる。そして、この上下の面の間は浸食されてできた段丘崖で隔てられている。神奈川県東部の北には多摩丘陵が広がる。神奈川県域では標高70mから90mといったところ。下末吉台地は、多摩丘陵の南、横浜市港北区、鶴見区、神奈川区に広がる。標高は多摩丘陵より一段低い40mから60mといったもの、である。

第二京浜・北寺尾交差点
下末吉面の台地を下る。下りきったところが別所交番前交差点。左手に見える白い建物が気になり左に折れる。少し進むと台地に上る。上りきったところが、第二京浜・北寺尾交差点。で、気になった建物は、道路わきに建つ聖ジョゼフ学園であった。交差点の手前にあるスターバックスで休憩。次の目的地、寺尾城跡への道順をチェック。響橋交差点で水道道に入り、馬場を経て、殿山に行けば、そのあたりが寺尾城跡の。よう。

東寺尾交差点
スターバックスを離れ、第二京浜に沿って南に進む。道の東に聖ジョゼフ学園を眺めながら進む。前方に第二京浜を跨ぐ道。この台地を繋ぐ道が響橋の、よう。第二京浜からははるか高いところを通っており、水道道に進めそうもない。響橋右折を諦め、少し進み東寺尾交差点で第二京浜から離れる。

馬場町公園
脇道はしばらく第二京浜に沿って進む。道が三叉路にわかれるところで台地に上る。台地を登りきり、住宅街を西に進むと馬場町公園。公園の北には谷地を隔てもうひとつ台地が見える。その台地に寺尾城跡があるのだろう。ということは、響橋からの道とい
うのは、その尾根道なのだろう。結構比高差のある台地を下り、窪地を進み、すぐに再び台地に取り付く。なかなか複雑な地形。上りきると結構交通量の多い車道。水道道に出た。少し北に鶴見配水場があるので、そう呼ばれるのだろう。

寺尾城
水道道・馬場3丁目交差点を少し南西に進む。殿山バス停。バス停脇から斜めに入る道。水道道を離れ脇道を少し上ると寺尾城跡の案内。案内と『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を参考に、寺尾城についてかいつまんでメモする。



寺尾城跡:この城は入江川の谷戸を支配した豪族が築いたもの。城主は諏訪氏と言われる。諏訪氏について詳しいことはわかっていないが、早い時期に北条幕下に入っている。関東管領上杉氏のもとで長尾氏や大田氏が台頭することを快く思っていなかった、から。北条氏が上杉謙信と同盟を結んだときは、北条氏とともに武田信玄に備え、また、信玄と誼を通じたときは、謙信に備え川越の寺尾城に詰めた、とも。
ちなみに、寺尾と諏訪は深い関連がある、よう。川崎市、川越、そして秩父の寺尾の地はすべて諏訪氏と深い関係をもつ地である。鎌倉時代、川越の諏訪氏が寺尾姓の改姓しているほど、である、と。ちなみに、この城は北条とともに駿河に出向いているときに、武田信玄の軍勢により焼き払われた、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

入江川
先に進む。台地上は住宅街。城跡の赴きは何もなし。取り付く島もない。仕方ないので、台地を下り、寺尾城主・諏訪氏が創建の白幡神社に向かうことに。窪地に下りると川筋。入江川。地図でチェックするとこのあたりが源流のよう。流れは西に進み、西区寺尾付近でJR横浜線に沿って南に下り、神奈川区子安通りで横浜港に注ぐ。このあたりの複雑な谷戸の景観は昔入江川によって開析されたものであろう。とはいうものの、現在はほとんどが暗渠である。

白幡神社
白幡神社は向いの台地の上。坂道を上り白幡公園内にある白幡神社に。室町時代中期(1435)に創建された、と。神社を離れ、寺尾小学校に沿って台地を下る。道なりに進むと、先ほど馬場町公園に折れた交差点に。先に進み、第二京浜・東寺尾交差点に。交差点を渡り、台地に上る。今日はどれほど台地の上り・下りを繰り返した ことだろう。で、この台地がどうも最高点のような気がする。成行きで進み、鶴見獅子ケ谷通りに。東に下りると鶴見駅。西に進むとさきほどの水道道になっている。

総持寺

鶴見駅方面に下る。道の南には総持寺の寺域が広がる。遠くから見えていた青銅色の屋根は総持寺の甍であった、ようだ。総持寺は曹洞宗の大本山。はじまりは、7世紀の能登。明治31年に全山焼失。明治40年、この地に移る。移転の理由は、発展する京浜への教線を広げる、とか、海外に禅の教えを広める二は、海に面し開けたこの地がいい、ということのようだが、はてさて。ともあれ、移転を巡っては大騒動があったことであろう。そのうちに、調べてみよう。

よね饅頭
駅北にある古本屋でしばし古本を探し、最後の目的地、「よね饅頭」を売る、和菓子屋・青月に。しかし、またもやお休み。祝日は休み、日曜は休み。三度目の正直とも成り得ず。鶴と亀との「よね饅頭」になかなか、お目にかかれない。ちなみに、鶴と亀とは鶴屋と亀屋。鶴見橋のあたりにあった店の名前。よね、は浅草待乳山下にあった鶴屋の娘の名前。よね、さんがつくったのだ、と。

それにしても今回散歩の地形は実に面白かった。樹枝状に開析された丘陵地帯は、谷戸が入り組み複雑このうえない。鶴見といった海岸近くは、平坦なる低地であろうかと思っていたのだが、下末吉台地が鶴見川などによって複雑に開析され、結果、アップダウンに富んだ、魅力的な地形であった。結構満足。



月曜日, 8月 20, 2007

多摩丘陵散歩 そのⅣ:丘陵南端を歩き大塚・歳勝土遺跡に出会う

 田園都市線・荏田駅から東横線・大倉山駅に

多摩丘陵を数回歩き、横浜市青葉区市ヶ尾まで下ってきた。地形図をチェックすると、丘陵はまだまだ南に続いている。どうせのことなら、多摩丘陵の南端まで歩こう、と思った。
地図を眺め、コースを想う。田園都市線・荏田駅から南東に2キロ強、早淵川を下ったところに横浜市歴史博物館がある。実のところ、この港北地区の時空については、まったくもって、何も知らない。とりあえず博物館に行き、あれこれお勉強をする。散歩のコースはそれから考えようと、いうことに。結果的に、横浜市都築区・港北区を歩くことに。(月曜日, 8月 20, 2007のブログを修正)



本日のルート;田園都市線・荏田駅>東名高速>国道246号線>荏田町>剣神社>緑地・愛和幼稚園>神社裏>荏田南町>荏田東町>早淵川・矢先橋>13号・横浜生田線>区役所通り>横浜市歴史博物館>大塚・歳勝土遺跡>13号・横浜生田線>早淵川>最乗寺>勝田町>勝田団地>第三京浜交差>新田・庚申堀>市営地下鉄三号線・新羽(にっぱ)町>鶴見川・新羽橋>太尾町・大曽根台町>大倉山公園>東急東横線・大倉山駅

田園都市線・荏田駅
田園都市線・荏田駅に。「荏田」とは「湿地」の意味。早淵川沿いの湿地であったのだろう。また、この地は江田氏の本拠。義経や頼朝に従って活躍した、と。江田が荏田になったのがいつの頃からか、はっきりしない。荏田駅の南口に下りる。駅前に道路が複雑に交差する。あざみの駅方面から南北に通る道。北東から南西に通る国道246号・厚木街道。同じく北東から南西に走る高架は東名高速。地図を見ただけではわからないが、地形図を見ると、厚木街道も東名高速も、台地の高みを避けて走っている。そして、荏田で交差したふたつの道は、多摩丘陵を越え、鶴見川によって開析された谷地へと走ってゆく。川もそうだけれども、道も自然の地形に抗うことなく、素直に続いているよう、である。

剣神社
歴史博物館に行く途中に、どこか見どころはないかと地図をチェ

ック。駅の南東、1キロ弱のところに剣神社。名前に惹かれた。とりあえず進む。厚木街道を少し引き返す。台地に向かって上ってくる道を逆に歩き、最初の交差点・荏田西団地入口に。そこで右折し台地へと上る道に。荏田第二公園脇を進み、台地上に上る。で、何処で左に折れたのか今となっては定かではない。あたりは畑。目印がないわけだ。とりあえず台地を下る。眺めはいい。下は早淵川で開かれた「谷」ではあろう。
のどかな畑地をゆっくり下る。道に「縄」。とはいうものの、なんとなく動いている。蛇。結構大きな蛇。勘弁してほしい。お蛇様がゆったりと道を横切るまで待機。見えなくなって、小走りに進む。細路を進む。蛇を見た直後でもあり、少々緊張。ほどなく剣神社に裏手に出る。
剣神社。いままであれこれ歩いたが、この名前の神社ははじめて。縁起とか由来案内がなかったので、ちょっと調べる。どうも「本家」は、越前にある剣神社ではなかろう、か。越前では気比神社についで二宮ということだから、それなりに格式のある神社なのだろう。別名織田明神。越前の領主であった、朝倉・斯波・織田氏の庇護を受け、特に織田氏はこの神社を氏神として祟敬した、と。

WEBで調べていると、違う視点からの「剣」に関するアプローチがあった。音韻、というか「音」からのアプローチで、その説によれば、剣も都築も、表記は異なるが、「音」は同じ「tungus」である、と。また、敦賀も駿河も津軽も角も鶴も、筑紫も、戸越も、富樫も櫛も楠も、みな音は同じである、とする。真偽の程は分からないので、このあたりに留めておく。が、剣と都築が同じってことは、なんらか意味があるのか、単なる偶然か、はてさ。。。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


早渕川
神社の前に車道が見える。そのまま里に下りようか、とも思ったのだが、台地をもう少し歩いてみたい、先はどうなっているのかちょっと知りたい、との想い、あり。という事で、神社裏手の小道を引き返す。畑の畦道といった台地中腹の道筋を進む。成行きで進むと愛和幼稚園。南に進むとT字路。東に折れ、下ると車道・神社裏交差点に出る。
車道を越え、荏田南町にある台地の裾を迂回する。北端近くで台地に上る道に進む。すぐに台地を下りると荏田東町。早渕川が流れる。地形図でチェックすると、このあたり、いかにも開析谷。多摩丘陵が早渕川によって「開かれ」ている。早渕川は、青葉区の美しが丘、というから、田園都市線・あざみの駅の北が源流。都築区、港北区を流れ鶴見川に注ぐ。蛇行を繰り返し、早瀬や渕があったのが、名前の由来。荏田駅へと台地を上る国道246号線は、この早渕川の低地から上ってきていたわけだ。

横浜市歴史博物館
川に架かる矢先橋を渡る。台地手前を東に進む。早渕川の両サイドは丘陵地。緑が深い。太古の地形に想いを馳せる。しばらく歩くと、急にモダンな街並み。区役所通りと交差。センター北、といった地下鉄の駅がある。このあたりは港北ニュータウンの中心(センター)なのだろう。自然豊かな丘陵地とのコントラストが印象的。区役所通りを越え、地下鉄なのだろうか、高架を過ぎ、右に折れると横浜市歴史博物館がある。ここに来るまで、博物館が、どうしてこの場所にあるのか、意味不明、であった。なにせ、このあたりの地名は中川であり、牛久保、といった「ローカル」な名前。が、来てみて納得。都築の中心地であった。
横浜市歴史博物館に。横浜市の太古より現代までの歩みをスキミング&スキャニング。印象に残ったことは、このあたりも海進・海退が繰り返された、ってこと。どのあたりまで海が入り込んできていたのか、いまとなってははっきり思い出すことはできないのだが、海進期の地層が下末吉層であり、その段丘面が下末吉台地であるとすれば、今歩いている多摩丘陵あたりまで海が入り込んできていたのだろう、か。多摩丘陵の南には下末吉台地が広がっているわけであり、その比高差はおおよそ10m程度といったところ。その崖線が太古の海岸線であったのであろう。
また、もうひとつ印象に残ったことは、このあたりに古墳というか遺跡が非常に多いこと。この博物館に来るまで全く知らなかったのだが、大塚・歳勝土遺跡といった国指定の弥生時代の遺跡がある、と。もっとも、これほど古墳が多く見つかったのは、港北ニュウタウンの開発と大いに関連あるようにも思える。往古の人は台地上に集落を造らざるを得ないわけで、というのは低湿地など川の乱流・氾濫が怖くて住めるわけもないわけであり、そういった台地を掘り返せば遺跡・古墳が出てくるのは当たり前といえば当たり前のこと、である。
開発主体がお役所がらみであったことも、多くの遺跡がみつかったことと関係あるように思える。お役所がらみの大手ディベロッパーが開発主体であれば、工事現場から遺跡が見つかれば、きちんとレポートせざるを得ないわけで、結果的に多くの遺跡が見つかったのではなかろうか。ちなみに、文化財保護法って法律ができて以来、遺跡の発見・報告の数が激減した、といった記事をどこかで読んだ記憶がある。工事中に遺跡が見つかれば報告すべし、というのがこの法律。で、遺跡の調査、となれば、工事が中断。段取りが狂う。お金が入ってこない。結果として、頬かむり、となるわけだ。が、お役所主導の大規模開発ゆえに、キチキチと遺跡が発見・発掘された結果が多くの遺跡が見つかった主因ではなかろう、か。
そうそう、メモし忘れそうになったのだが、博物館で印象に残ったこととして、中小の河川流域を開発した古墳時代の人達は、その後、枝分かれし、谷戸の窪地への開発へと移っていった、ということ。勿論集団の規模は小さくなる。先日市ヶ尾の横穴古墳の主は、谷地の村の長、といった案内があり、いまひとつ、よくわかっていなかったのだが、ここにきて納得。

大塚・歳勝土遺跡

さてさて、次の目的地は、といっても、大塚・歳勝土遺跡と決まってはいるのだが、どこにあるのか、と地図をチェック。あれ、博物館のすぐ隣にある。博物館をブラブラしていると、大塚・歳勝土遺跡へのアプローチにのぼるエレベータもあった。エレベータで屋上に。歴博通りを跨ぐ陸橋を渡り、大塚・歳勝土遺跡公園に。入口で案内を眺め、まずは大塚遺跡に。
大塚遺跡;弥生時代の環濠集落跡。今からおよそ2000年前の竪穴住居、高床式倉庫などが復元されている。およそ100人ほどの弥生人が住んでいた、とか。歳勝土遺跡はこの地の人達のお墓である。港北ニュータウンの開発にともなう事前事業として昭和48年(1973年)から51年(1976年)にかけて発掘調査がおこなわれた、と。やっぱり。で、全貌があきらかになった1986年に国の史跡として指定された。ありがたい遺跡ではある。が、最近は遺跡・古墳への興味関心が急速に薄れている。娘の古墳・埴輪のレポートのお手伝いが終わったせいでもあろう。ということで、遺跡公園をあっさりと眺め、つぎの目的地をあれこれ想う。

最乗寺
次の目的地は大倉山とする。理由はよくわからない。なんとなく。昔から気にはなっていた地名。それが何故だかわからない。水道の配水塔があるのだろう、と何の根拠もなく思い込んでいる。距離も7キロ程度。日暮れも迫ってきており、丁度いい距離。で、遺跡公園を出発。公園内を東へと進む。フォレストパーク、というのだろうか、高層マンションあたりで南に折れる。こんなところ進んで大丈夫か、といった細路を下る。右手に竹林。一瞬中に入るが、やっぱり戻る。で、車道に下りる。大棚町。
道の南を流れる早渕川を渡り、茅ヶ崎東地区の小高い丘を迂回。廻りきったところに最乗寺。メモをするために地図をチェックしていると、そこからちょっと進んだところに杉山神社がある。この神社は鶴見川流域のみのローカルなお宮さま。50程度あるようだ。続日本後記にも登場する、ということは千数百年の歴史をもつ。延喜式では都築唯一の式内社。武蔵六所宮の「六の宮」といわれている。が、その「本家」というか「元祖」がどこなのかはっきりしないようではある。今回は実際に行ったわけでもないので、メモはこの程度にしておく。また、そのうちにどこかで出会うであろう。

市営勝田団地
最乗寺を越えると、またまた前方に小高い丘。樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。台地に上り、といっても宅地ではあるのだが、再びその台地を下る。目の前に再び坂道。交通量の多い車道。道を上ると市営勝田団地。少々の「歴史」というか「風雪」、というか「年輪」を感じる団地の坂道をのんびり下る。新栄高校交差点。少し進むと第三京浜と交差する。

新羽消防署前交差点

第三京浜を越えると、ゆったりと南東にカーブする道筋を進む。細い水路が見えるあたりで道筋は、今度は東に進み、新羽消防署前交差点に。水路の名前はわからない。地形図でチェックすると、この道筋は台地に挟まれた谷筋。多摩丘陵の最南端といったあたりのように思える。

鶴見川・新羽橋
新羽消防署前交差点からは交差点を南に。地形をチェック。このあたりまで来ると、多摩丘陵からはなれ、鶴見川によって開析された低地になっている。横浜市営地下鉄線あたりまで進むと、庚申堀に。少々騒がしい町並みとなる。更に南に。港

北産業道路と交差。道を東に進むと横浜市営地下鉄線・新羽駅に。新羽駅(にっぱ)東側交差点を越え、新田緑道を過ぎると鶴見川・新羽橋。前方に見える台地が大倉山であろう。あと一息、である。新羽の名前の由来は「新しく開墾された山の端(は)」といったところからくる、よう。地形から見れば、その通り、である。

大倉山記念館

新羽橋を渡ると太尾地区。往古、下末吉海進期にはこのあたりまで海岸線が上がってきており、そこに浮かぶ大倉山の姿が動物の尾っぽのように見えたから、と。新羽橋東側交差点に。南東に折れ、太尾堤交差点に。そのまま進めば東急東横線・大倉山駅ではあるが、大倉山に上るため道を左に折れ、龍松院前の道に入る。ゆったりとした台地、というか公園への上り道を進む。公園の中を進み、台地の上に大倉山記念館があった。


大倉山記念館は実業家・大倉邦彦氏が私財をなげうち建てたもの。東西の精神文化研究のためにつくられた「精神文化研究所」がはじまりである。ギリシャ神殿といった重厚なる建物。この台地は記念館が建てられるまでは、名無しの台地。それが、この研究所の完成をきっかけに、大倉山、と。また、駅も太尾から現在の大倉山という名前に変わった、と。
記念館の中をぶらぶらと眺め、しばし休憩。台地上から南方向を眺めると、多くの台地が見える。複雑な地形。なかなか面白そう。次の散歩は、この大倉山からはじめ、南に下ろう、との想いを抱き、東急東横線・大倉山に下り、本日の散歩を終え一路家路へと。

水曜日, 8月 15, 2007

多摩丘陵散歩 そのⅢ:生田緑地から、とんもり谷戸へ

先回の散歩で多摩川・鶴見川の分水界を歩いた。新百合丘から弘法松公園を経て、尾根道を生田南郵便局交差点まで進み、そこからは尾根道をはずれ南の王禅寺に向かった。その時に見た、生田南郵便局交差点から東に向かって続く尾根道が如何にも魅力的であった。もっとも尾根道とは言うものの、宅地開発された住宅街が続いているだけではある。が、ともあれ尾根筋に惹かれた。
今回は、生田南郵便局交差点から続く尾根筋を東に進んでみよう、と思う。その先には生田緑地もある。そこには枡形城跡もある、と言う。ということで、今回もまた新百合ヶ丘方面から散歩を始める事にする。(水曜日, 8月 15, 2007のブログを修正)




本日のルート;小田急線・百合丘駅>第二児童公園北側>百合丘第二公園>百合丘第五公園>生田南郵便局前>高石水道局配水塔>南生田中学>長沢浄水場>専修大学入口>生田緑地>桝形山>東生田4-22>飛森(とんもり)谷戸(初山1-17の東)?初山交差点>平瀬川>平瀬川分岐・南の川筋>源流点(尻手黒川道路の北)>菅生3丁目>稗原団地入口交差点>菅生こども文化センター>平瀬川交差>東長沢交差点>五反田川交差>小田急線生田駅

百合丘駅
小田急線に乗る。たまたま到着したのが普通電車。たまにはのんびりと読書をしながら、ということでそのまま飛び乗る。新百合ヶ丘駅手前の百合丘駅に停車。急行か何かの待ち合わせであった、のだろう。時間待ちをするくらいなら、と百合丘駅で下りることにする。新百合ヶ丘の駅前とは少々様変わり。昔風の商店街、といった趣き。駅前にはゆるやかにカーブし弘法松公園へと向かうのぼり道。

生田南郵便局交差点
第二児童公園北側交差点まで上る。道はここから一旦沈み、ふたたび弘法の松交差点へと上る、よう。第二児童公園北側交差点で車道を離れ脇道を進む。百合丘第二公園に。坂道に沿った窪地にある。公園南の道を南東に進む。百合丘第五公園へと少し坂道を上る。百合丘第二団地の中を南に進むと、先回の散歩で弘法の松交差点から生田南郵便局へと進んだ尾根道に出る。
先回の散歩では気がつかなかったのだが、生田南郵便局交差点手前の坂道からの眺めが美しい。しばし丘陵下の景観を楽しむ。生田南郵便局交差点に。この尾根筋では最も標高が高い、よう。110m強ある、だろうか。先回の散歩ではこの交差点から南に下ったのだが、今回は北東へと続く尾根筋に向かう。

高石配水塔
車の数も多い。しばらく進む。高石6丁目で分岐。車は東へと折れる尾根筋に流れる。が、尾根筋は北東へも続いている。どちらに進もうと少々悩む。が、結局は北東方向に。車道ではなく宅地の中の道筋。台地下の景観などを見やりながら進むと水道局配水塔脇に。 高石配水塔。さきほど生田南郵便局あたりの標高が高いといったが、川崎市多摩区の最高標高地点は配水塔近くの生田病院の裏側。そして二番目はこの高石配水塔である、と。
高石配水塔は台地の突端。塔の周囲をぐるっと廻り込む。1年ほど前にこの地を歩いたときは、配水塔の南の崖線上は林が残っていたのだが、今では宅地開発されすっかり様変わりとなっていた。

南生田7丁目・三田4丁目
崖線に沿って東に進む。道の南の南生田2丁目は、台地下に見える。ほどなく結構大きな通りに出る。ゆったりとした下り。道路の東に南生田中学校。ここからは再びゆるやかな上り道。中学校を超え「春秋苑」の脇を抜け再び坂を下る。賑やかな道筋に。この道を北に進めば小田急線・生田駅に続く。南を見ると、道路を跨ぐ橋のようなものが見える。生田中谷第一公園へと上りチェク。なんとなく配水管のように思える。すぐ近くに長沢浄水場がある。そこへの導水管であろう。

長沢浄水場
公 園を下り、道路道に。成り行きで道の東の台地に上る。長沢浄水場。東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている、と。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は

世田谷、目黒、太田区の一部に給水。川崎はここから鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。鷺沼配水池といえば、いつだったか鷺沼散歩のとき、結構立派なプール施設があったのを思い出した。

生田緑地公園
浄水場の北端を進む。しばらく進むと道の両側に大学。北は明治大学。南は専修大学。道を第六公園から専修大学記念館前あたりまで進み、そこからは専修大学入口方面辺と右に折れる。専修大学入口の前は深い緑。川崎国際生田緑地ゴルフ場。ここを東に進めば生田緑地公園。

稲毛枡形城
緑が深い。丘陵地の宅地開発が進む前に川崎市が緑地として計画・保存した、と。公園内の尾根道を進む。岡本太郎記念館とか日本民家園などもあるのだが、なんとなくパス。稲毛枡形城跡のある枡形山に進む。気持ちのいい散歩道を進むと、枡形、つまりは方形に整地された山頂に着く。中央に展望台のある公園となっている。展望台に上る。多摩丘陵の東端といった位置であり、東は多摩川により開かれた低地である。四方の見晴らし至極、いい。この枡形山に稲毛枡形城があった。
稲毛枡形城;鎌倉時代の御家人・稲毛重成の居城跡。といっても重成は麓の広福寺あたりに館を構えていたようではある。で、枡形山に城、という か砦が築かれたのは戦国時代の北条氏の時代になってから。また、規模もそれほど大きくはなかったようで、永禄12年(1569年)この地に侵攻した信玄は、この砦を無視している。その程度の陣城(砦)であった、よう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
稲毛氏。平安末期に登場した秩父氏の一派。秩父重弘の子・有重がこの多摩の地に 下り小山田氏となる。稲毛氏はその子の重成がこの地を領して稲毛を名乗った。ちなみに、畠山氏も秩父氏の一党。秩父重弘の子重能が畠山の地を領しその姓を名乗った。江戸氏も秩父氏の一派。秩父重弘の弟筋が墨田近辺に下り、地名を冠した名を興した。
枡形城について、もう少しメモ。稲毛重成が居を構える前、この地には松方重時が居を構えていた。松方氏は河越重頼の四男というから、これも関東八平氏の一党、つまりは、秩父氏の流れである。で、河越氏といえば、源義経の正妻となった百合野の出た家柄。義経との繋がり故に、頼朝によって滅ぼされることになる。で、桝形の館の松方重時も河越の出自ゆえに、身の危険を感じる。そこで重時がとった危機管理策は、頼朝の三男・島津忠久の薩摩下向に随行する、ということ。薩摩に落ちのびることにより、危機を脱した。重時がいなくなり、無人となったこの枡形城の地に移ってきたのが、稲毛三郎、ということである。
ついでのことであるが、この松形方氏って明治の元老・松方正義の祖。松方一族って、松方コレクションで有名。また、ライシャワー元駐日大使のハル夫人も松方氏の出である。それから、西下した島津氏、って、鎌倉散歩のとき、頼朝のお墓の近くに島津氏のお墓があった。どうしてなのか今ひとつわからなかったのだが、これで納得。ちなみに、その横にねむる毛利氏は頼朝の補佐役でもあった大江広元の流れ。広元の四男・季光が厚木近くの「森庄」を領したため、森>毛利と名乗るようになった、と。ともあれ、江戸「幕府」を倒した島津、毛利両氏が鎌倉「幕府」を開いた頼朝と深い関係があった、というのは何とも言えない巡り合わせ、である。寄り道が過ぎた。散歩に戻る。

とんもり谷戸
公園のベンチで先のコースを想う。これといって、次の目標が定まらない。とりあえず公園のある台地を南に下り、ぐるっと一回りして生田駅の方面に向かうことにする。公園を離れて台地を下る。公園駐車場に。南に上る坂道・車道を進む。尾根筋まで進み、車道を離れ脇道に。ゴルフ場の境に沿って台地を下る。谷戸に下りる。湿地の上に木の橋が続く。里山の雰囲気を楽しみながら遊歩道を進むと初山地区に飛森(とんもり)谷戸
。遊歩道を離れ、林に寄り道。いい雰囲気。台地下の窪地から湧き水が沁み出てくる。今までの散歩で湧水も結構見てきたが、このように、土の間から沁み出す、といったところははじめて。新鮮な印象。何度でも訪れたいところ、である。結構なる満足感。雑木林の中をしばらく歩き、遊歩道に戻る。

平瀬川
遊歩道を南に下る。道に沿って、水路が続く。ゴルフ場内の滝沢の池(初山の池)から流れ出る用水路(とんもり川)ということ、だ。台地が切れたところに比較的交通量の多い道筋が東西に走る。初山交差点を西に進む。飛森谷戸を形づくる樹枝台地の裾といった雰囲気。しばらく進むと川筋。平瀬川。おもわず川筋へと車道を離れ北に進む。源流点まで遡ることに。遊歩道を進むとすぐに分岐。どちらの川筋に進もうかと、ちょっと悩む。が、結局、西に進む川筋に。

尻手黒川道路
川筋を少し進むと比較的交通量の多い道路。地図でチェックすると、専修大学入口から下る道。浄水場通り。住宅街をどんどん進む。途中には湧水公園、といった公園もある。先にすすむと水路は台地下の溝に入り込む。これ以上は進めない。台地を上ると尻手黒川道路に出た。菅生3丁目と水沢2丁目の境目あたり、である。

平瀬川
そろそろ日が暮れる。最寄りの駅をチェック。どことも離れているが、どちらかといえば小田急の生田駅が近そう。北に3キロ程度。尻手黒川道路を離れ北に向かい、先ほどの平瀬川が「消える」ところに戻る。川筋から再び台地に上る。台地の東端には聖マリアンナ医科大学がある。また、西には潮見台浄水場がある。台地を再び下りると川筋。これって、先ほど分岐した平瀬川のもう一方の川筋。こちらが支川である、と。水源は麻生区東百合丘。生田南郵便局のある台地下、田園調布大学裏手あたりまで水路が続いている。多摩丘陵東部台地の森が養った水が、丘陵地の谷合を通り多摩川に注ぐ。今越えてきた台地は平瀬川の川筋を南北に分けている、ということだろう。

小田急線生田駅
平瀬川の支流を越え、またまた台地に取りつく。南生田6丁目と長沢2丁目の境あたりを上る。交通量の多い車道に出る。生田駅前に続く通り。長沢浄水場にのぼるとき交差した道筋だ。緩やかな坂道を下り、五反田川を渡る。五反田川は麻生区細山地区に源を発し、細山調整池をへて、小田急線に沿って東に下る。そうそう、いつかメモしたように、細山の水源近くには香林寺がある。五重塔前からの眺めは一見の価値あり。

世田谷通り、というか津久井道を右折すれば小田急線・生田駅に到着。一路家路へと。ついでのことながら、生田の由来。川の名前にもあったように、「五反田」と「上菅生」を合わしたもの、という説がある。生+田ということだ。地名のなりたちは、いつもながら、それなりも面白い。

月曜日, 8月 13, 2007

多摩丘陵散歩 そのⅡ:鶴見川・多摩川の分水界を歩く

先回の新百合ヶ丘からスタートした散歩では、真福寺川によって開かれた谷筋を歩いた。道の左右には標高70mから80m程度の丘陵が連なる。起伏に富んだあの丘陵の向こうには一体なにがあるのだろう、との想いが残る。という事で、再び新百合ヶ丘近辺を歩くことにした。
今回は散歩のコースを事前に、少々真面目にチェックする。WEBには「分水界を歩く」とか「王禅寺の丘陵を歩く」とか、思いのほか多くのコースが案内されている。「分水界」とは、河川流域の境となる尾根筋のこと。ここで言えば、鶴見川と多摩川の流域の境となる尾根筋である。また、「王禅寺の丘陵」コースも魅力的。その名前だけで大いに魅かれる。で、今回は、分水界&尾根道&丘陵歩き、ということにする。小田急線・柿生駅からスタートし、麻生川筋をのぼり、新百合ヶ丘へと進む。そこからは、尾根道に乗り、王禅寺に向かい、あとは丘陵をアップダウンしながら小田急線・柿生駅まで戻る、といった段取りとする。(月曜日, 8月 13, 2007のブルグを修正)




本日のルート;小田急線・柿生駅>麻生川>麻生川を北に>小田急線交差>隠れ谷公園>小田急線交差>檜山公園>弘法松公園>生田南郵便局前>王禅寺東一丁目>日吉の辻>王禅寺>王禅寺ふるさと公園>琴平神社>籠口の池公園>真福寺川交差>月読神社>おっ越山ふれあいの森>秋葉神社>小田急線・柿生駅

小田急線柿生駅
小田急線・柿生駅で下車。北口に出るとすぐ前に「津久井道」。江戸時代、神奈川県西部の津久井、愛甲地方の産物、とくに絹を江戸に運ぶルートとして栄えた道。東京の三軒茶屋で国道246号線(大山道)から分れ、多摩川を多摩水道橋で渡り、狛江市、川崎市多摩区、麻生区、町田市を経て津久井に進む。甲州街道の脇往還として使われた。現在、三軒茶屋から多摩川までは世田谷通り、その先、鶴川までを「津久井道」と呼ばれている。

麻生川
津久井道をすこし北に進み、麻生川脇に。川筋の両側に遊歩道が整備されている。「麻生」は「あそう」ではなく「あさお」。地名の由来は「麻」が生える地、ってこと。8世紀、朝廷への調・貢ぎ物であった麻布の原材料である麻の産地であった。南北朝時代には麻生郷という地名が記録に残っている。地名の由来といえば、駅名の「柿生」。これも「柿」故のもの。鎌倉時代に王禅寺の等海上人が見つけた「禅寺丸柿」がその名の由来である。
麻生川を柿生新橋、麻生川橋と北に進む。桜の並木が続く。桜の名所であるらしい。川筋の両サイドには丘陵地が見え隠れする。川の東の丘陵地が鶴見川と多摩川の分水界かとも思った。が、東の丘陵のその東には真福寺川が流れている。ということは、東の丘陵は未だ鶴見川流域である、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

小田急多摩線
小田急多摩線下をくぐり、津久井道との交差の少し手前で川筋を離れ右に迫る台地にのぼる。「隠れ谷公園」と。「かくれだに」ではなく「かくれやと」公園。谷戸というほどの、切り込んだ谷地は実感できなかった。地形図でチェックすると、どうもこのあたりが「分水界」の尾根道の始まりのよう。

こやのさ緑道

公園を抜け、麻生小学校前の道路に出る。再び小田急線を跨ぐ橋を越え、線路の南に。山口白山公園脇の道を南に下り、麻生スポーツセンター入口交差点に。五差路。右から左から、南や東から上ってくる車、北や西から下ってくる車とで混雑している。東に進み、成行きで進むと緑道に。小田急線に平行に緑道を北東に進む。
1キロほど続くこの道は、「こやのさ緑道」と呼ばれる。宅地開発の前はこの周辺は細長い沢道。周辺の山には茅を刈るための共有地があり、その管理「小屋」があったため、「小屋のある沢」>「こやのさ」、と。新百合ヶ丘の駅前に近づくと人通りも多くなる。さらに進むと住宅街に。駅からそれほど離れてはいないのだが、閑静な住宅街となっている。少し進むと「檜山公園」に着く。

万福寺檜山公園

「檜山公園」は崖線上にある。比高差は結構ある。この崖の東は多摩川流域だろう。分水界の上に立っている、という、誰とも共有できない、であろう、故なき感慨に浸る。現在は雑木林や松が生い茂るこの公園は、かつて、この尾根筋に檜を植えた山があった、とか。開発で消えた美しい檜山を惜しんで名付けられた、ということだ。

弘法松公園

公園を離れ、尾根道を「弘法松公園」に向かう。住宅街を南東に進む道筋の南に小高い緑の丘。そこが弘法松公園であろう、とおもうのだが、道の先に展望台のような場所が見える。標高もこのあたりでは最も高いよう。ちょっと寄り道、のつもりで進む。が、結局、そこが「弘法松公園」であった。
展望台の休憩所で一休み。さすがに眺めは素晴らしい。西が鶴見川流域。東は多摩川流域。分水界に立つ、ってイメージをあらためて実感。それにしても、いい景観である。「弘法松公園」と思い込んでいた緑の丘も眼下に一望のもと。単なる思い込みではあったのだが、その堂々とした山容ゆえに惹かれ、それゆえに「弘法松」を意識するようになり、再びの歩みとなり、素晴らしき景観を堪能できたわけである。「思い込みも」それなりに意味あった、よう。
公園につつましやかな松。それが弘法の松。昭和37年に植えられたもの。伝説の弘法松は昭和31年に火難に遭い、その後、枯れてしまった、と。

弘法松の由来:弘法大師ゆかりの伝説が残る。大師がこの地に訪れる。百の谷があればお寺を建てよう、と。が、九十九の谷しかない。で、お寺のかわりに松を植えた、と。なにを言いたい伝説なのか、よくわからない。もっとも、「江海之所以能為百谷王者、以其善下之。故能為百谷王。(容納百川)」;(大河や海が百川の水を集め得るのは、つつましやかに低地にいるから。だからこそ、百川に帝王としていられるのだ)、といったフレーズもあるわけで、仏教では「百の谷」って、なんらか意味があるのかも。とはいうものの、弘法大師が関東に来たってことはないようだ。伝説は所詮伝説として楽しむべし、ということか。
弘法松はかつての都築郡と橘樹郡(たちばな)の境界にあたる峠であり、旅人にこの巨松はよき道標であった、と。都築郡は横浜市の北西部、橘樹郡は川崎市全域と横浜市の北東部。ちなみに橘樹郡って、先般、行田市の「さきたま古墳群」を歩いたときメモした、笠原直使主が朝廷に献上した4箇所の「屯倉(みやけ)」のひとつ。武蔵国造・笠原直使主が同族の小杵(おぎ)と争ったとき、助けてくれた、と言っても暗殺者を派遣し小杵を殺めた、ということなのだが、ともあれ朝廷への感謝のために献上した地域である。また、そのときに献上した久良岐の地は、現在の横浜市の東南部である。

生田南郵便局交差点
公園内を成行きで歩く。南側は崖となっている。石段を下りると弘法松交差点。交差点の西は丘陵を下る道。東の尾根道を進む。王禅寺西2丁目と百合丘3丁目の間の尾根道・車道を進む。眺めが素晴らしい。生田南郵便局交差点はすぐ近く。どうでもいいことなのだが、この郵便局が、なぜ生田南局というのか、わからない。近くに生田区とか、多摩区西生田といった地名はあるものの、ここはまだ麻生区百合丘である。
生田南郵便局交差点から北東方向に車道が続く。交通量も結構多い。標高も高くなっており、尾根道は生田のほうに続いている。どういった地形かチェックするため、交差点から少し尾根道を先に進む。道を少しはずれると崖上に。確かに生田方面に尾根道が続く。このまま進んでみたい、という思いはあるものの、本日のメーンエベント「王禅寺」は真逆の方向。生田方面への尾根道散歩は次の機会のお楽しみとして、交差点に戻る。

日吉交差点

交差点を南に下る。しばらく進むと尻手黒川道路と交差。王禅寺東1丁目交差点。交差点を越え、更に南に進むと日吉交差点。道の両側に丘陵が迫る。いままでこれでもか、って住宅街を歩いてきたので、急激なコントラスト。谷戸の雰囲気が残る。道の東に川筋。黒須田川。この辺りを源流とし、市ヶ尾高校近くで鶴見川に合流する。

王禅寺

しばらく歩くとT字路。日吉の辻。南東に折れ、少々の坂をのぼる。車の交通量も多い。そのわりに歩道がないので、ちょっと怖い。坂を上りきったところに南からの道が合流する。その上り道をちょっと進み、すぐに緑の中に続く道に移る。案内もなく、よくわからないままに進むと王禅寺の入口になっていた。あたりは一面の鬱蒼とした森である。王禅寺の寺域であったのだろう。
星宿山華厳院王禅寺。名前のどれを取っても、有り難そう。真言豊山派の古刹。はじまりは古い。考謙天皇(718-770)の勅命により、都築郡二本松で見つかった銅つくりの聖観音像をまつったのがはじまり。中世には禅・律・真言三宗兼学の道場として西の高野山とも呼ばれた、とか。王禅寺といえば、「禅寺丸柿」というほど、柿の話で名高いが、古い寺歴があったわけだ。

「禅寺丸柿」の話をまとめておく;禅寺丸柿とは王禅寺中興の祖・等海上人が見つけた甘柿。新田義貞の鎌倉攻めのとき焼失した堂宇再建のため山中で木材を探していたとき見つけた、とか。建保2年(1214年)のことである。村人に栽培を奨励し、この地で柿の栽培が盛んになった。地名に「柿生」が生まれる所以である。境内には禅寺丸柿の原木が残されている。その傍らには、王禅寺の自然を愛して度々訪れた北原白秋の句碑がある。
白秋も散歩のいたるところで出会う。最初は世田谷の砧、次に杉並の阿佐ヶ谷。江戸川の小岩でも、そして市川でも出会った。東京で23回も引越しを繰り返したわけで、当たり前といえば当たり前である、ということか。「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド」は、白秋のフレーズであった、かと。

王禅寺ふるさと公園

王禅寺を離れて、王禅寺ふるさと公園に向かう。寺域と接しており、成行きで進めばなんとかなるだろう、と、雑木林をのんびりと歩く。石段を下り、如何にも谷戸といった雰囲気の里を進む。しばらくすると寺の入口に。それにしても、これが表門だろうか。よくわからない。ともあれ、入口を出て、寺域というか緑に沿って西に進む。すこしの上り。のぼり切ったあたりで、これも成行きで公園に入る。整地されていない雑木林。いい感じ。どんどん進む。が、結局行き止り。これまた成行きで引き返していると、大きな道にでた。道を進むとトンネル。トンネルを抜けると、そこは如何にも「公園」といった風景が広がっていた。
公園の案内をチェック。「見晴らし広場」の名前に惹かれて、北に向かう。小高い場所ではあるが、見晴らす対象は公園の景色であった。引き返すのもなんだかなあ、ということで、これも成行きで北に。なんとなく裏門通りの方面に出る。次の目的地は琴平神社。公園の南西端にある。公園に沿って南に下る。道の西に「化粧面谷公園」。これって、「化粧料(面>免)除」ってこと。江戸時代この王禅寺あたりが二代将軍秀忠夫人・お江与の方の「御化粧領地」であり、幕府から諸役負担の一部が免除されていた、から。
琴平神社
しばらく歩くと琴平神社。地元の名主・志村文之丞が、文政9年(1826)に讃岐の金刀比羅宮を勧請したもの。入口に立ち入り禁止のサイン。どうも放火で焼失したようであった。金刀比羅>金毘羅とはサンスクリット語の「クンビー ラ」の音を模したもの。ガンジス川に住むワニを神とみなし、仏教の守護神としたもの。

稲荷森稲荷社

琴平神社を離れ、神社の儀式殿の前を通る道を南西に下る。少し進み、消防団の倉庫のところを右に入る。緑地の裾を西に進む。神明神社の祠を見ながら進み、稲荷森稲荷社に。ちょっとした台地上に鎮座する。石段を上りおまいり。周囲は竹。立ち入り禁止のため、石段を下り先に進む。

籠口の池公園

道なりに進み、ジグザグ道を上る。のぼりきったところで西に進むと「籠口の池公園」に着く。こんな丘の上に何故池が、などと思ったのだが、池は公園を下ったところにあった。池も昔はこのあたり下麻生の田畑の灌漑用に使われたのであろうが、現在は雨水の調整池。

月読神社

池からの水路である暗渠に沿って下り東柿生小学校交差点に。少し北に進み、すぐ西に折れる。下麻生花鳥公園脇を進み、真福寺川に架かる不動橋を渡り「月読神社」を目指す。
神社は台地の上にある。雑木林の中の石段を登る。素朴なる祠程度かと思っていたのだが、結構立派な構え。1534年、麻生郷領主小島佐渡守によって伊勢神宮の別宮

から勧請されたもの。
今まで散歩し、結構神社で休んではいるのだが、「月読神社」に出会ったのはこれが初めて。古事記によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天照大神の次に産んだのが月読尊(つくよみのみこと)と。あとひとりの兄弟である素盞嗚尊(すさのおのみこと)と合わせ、三兄弟というか三貴子と呼ばれている。有力なる神様であったわけだ。元々は壱岐の島の海上の神様であったようだが、渡来氏族、特に秦氏の力もあって、山城の地にもたらされた、と。古代京都の神仰や、渡来文化を考える上で重要な意味を持つ神様であるよう。姉の天照が太陽・お昼、この月読がお月さん・夜をつかさどる。夜のうちに作物が育ち、暦が変わるといったアナロジーで「成長・再生」のイメージをもっているのだろう。で、この神様の普及には、出羽三山の修験道が大きな役割を果たしたよう。修験者とともに全国各地に月山神社と月読神社が広まっていた、とか。

源内谷公園神社を離れ、西に進み麻生台団地の端を北に折れる。少し進むと、雑木林に入る。源内谷公園脇を進む。右手は崖。左手は鬱蒼とした谷戸、といった地形。結構な比高差がある。尾根道を進むと左手下にお寺か神社といった屋根が見える。尾根道をはずれ南に下る坂道を少し進むと秋葉神社。
秋葉神社
紅葉の中に秋葉神社。日除けの神様。江戸時代、領主三井家が遠州秋葉神社の火伏の神を勧請したもの。『神社の由来がわかる小事典:三橋健(PHP新書)』によれば、静岡県周智郡・秋葉山に鎮座する秋葉神社が「本家」。江戸時代に秋葉山の神輿が京と江戸に向かって渡御したことがきっかけとなって秋葉神は全国に勧請され有名になった、とか。江戸の中期には東海道や信州から秋葉詣でが盛んに行われた、という。

浄慶寺

秋葉神社のすぐ隣、というか同じ敷地内に浄慶寺。j神仏習合の名残であろうmか。小ぶりではあるが落ち着いた雰囲気のお寺様。千本を越えるアジサイが植えられ、「柿生のあじさい寺」と呼ばれている、とか。


おっ越し山ふれあいの森
先ほど下った坂道を再び尾根道に戻る。ほどなく「おっ越し山ふれあいの森」。「おっ越し」って、興味を引かれる名前ではあるが、もともとは「丸山」と呼ばれていた、よう。由来のほどはよくわからない。先に進むと、すぐに下り階段。柿生中学脇に下りる。交通量の結構多い車道。ゆるやかな坂をくだり小田急線・柿生駅に進み、本日の散歩は終了。一路、家路へと急ぐ。

木曜日, 8月 09, 2007

多摩丘陵散歩 そのⅠ;寺家ふるさと村から市ヶ尾の古墳群に

川崎市麻生区から横浜市青葉区に

日曜日、例によって散歩にでかけようとした。が、少々の野暮用がありあまり時間がない。近場でどこか、と地図をチェック。川崎と横浜の境、横浜市青葉区に「寺家ふるさと村」がある。里山が美しいといった記事をどこかで読んだ。小田急の新百合ヶ丘から歩けば5キロ程度。で、ふるさと村から田園都市線・青葉台まで歩けば、合計で10キロ程度になるだろうか。距離も丁度いい、ということで、本日は川崎市麻生区から横浜市青葉区への散歩にでかける。(木曜日,8月 09, 2007のブログを修正)




本日のルート;小田急・新百合ヶ丘駅>南口>上麻生1丁目>弘法松公園>南百合丘小学校>吹込>真福寺小西>真福寺>真福寺川>不動橋>宿地橋>鶴見川合流>水車橋>寺家町>(寺家ふるさと村)>ふるさと村郷土文化舘>熊野神社>むじな池>河内橋・鶴見川交差>横浜上麻生道路>桐蔭各園入口>中里学園入口>佐藤春夫・「田園の憂鬱」由来の碑>黒須田川交差>稲荷前古墳群>市ヶ尾横穴古墳群>地蔵堂下>国道246号線・市ヶ尾駅前>田園都市線・市ヶ尾駅

小田急線・新百合ヶ丘駅

小田急線・新百合ヶ丘駅。以前、駅の北東、2キロ強のところにある読売ランド方面からスタートし、千代ヶ丘の香林寺の五重塔を眺め、この新百合ヶ丘駅まで歩いたことがある。五重塔から眺めた丘陵下の風景はまことに美しかった。それはそれとして、そのときは新百合ヶ丘駅の北口しか見ていなかったのだが、今回降りた南口は全く様変わり。津久井道の走る北口とは異なり、南口駅前は一大ショッピングセンターである。事実、首都圏でも特に目覚しい発展をした街である、とか。新百合山手といった巨大住宅開発が実施され、丘陵を切り崩し巨大な住宅地が丘の上に開けている。ちなみに、百合丘の地名の由来であるが、百人の地権者がこの地の開発に力を合わせたとか、県の花であるヤマユリが自生していたから、とか、百の丘があったからとか、例によって諸説あり(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

吹込交差点

南口に降り、大型商業施設の中を成行きで南に向かう。成り行きで進み少し大きい車道に出る。坂道を南西に向かって下る。南百合丘小学校脇を下り最初の大きな交差点に。吹込交差点。王禅寺西2丁目と3丁目の境にあるこの交差点からは大きな車道の一筋南に進む道に入る。しばらく進むと南に下る大きな車道に出る。この道が、目的地・寺家ふるさと村に向かってのオンコース。ちなみに王禅寺の地名の由来は、古刹・王禅寺、より。

真福寺川
しばらく進むと、道脇に真福寺小学校。小学校の裏 手には豊かな緑が見える。後から地図をチェックすると、「むじなが池」や白
山神社などがある。いつか歩いてみたい。道に沿って川筋がある。真福寺川。麻生区百合丘カントリークラブあたりを水源とし下麻生で鶴見川に合流する2.5キロの川。真福寺小学校を超えたあたりで、西に折れまたすぐ南に。
先ほどの車道の一筋西を真福寺川に沿って下る。左手には白山南緑地の緑。それほど美しくもない川筋を進む。王禅寺地区から下麻生地区に。不動橋の西に見える小高い緑の中には月読神社がある、という。「月読」って名前も神秘的。また、月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。結構面白そうな神様ではある。

寺家ふるさと村

宿地橋を過ぎると真福寺川は鶴見川に合流。水車橋を渡り、鶴見川の西岸に移る。橋を渡ってすぐの民家の脇に「寺家ふるさと村」の石碑。道の西には小高い里山が迫る。山裾を南に進む。桜ゴルフコースの案内を眺めながら南に。里山の南端に。田圃を隔てて南にもうひとつの里山。その間に田圃が西に続く。典型的な谷戸の景観。山の端を西に進むと「ふるさと村郷土文化舘」に。文化舘とはいうものの、おみやげ物の展示が中心。併設される喫茶で一休み。
「ふるさと村郷土文化舘」を出る。南に進み、田圃で隔てられた、もう一方の里山に移る。入口にある熊野神社を眺めながら、山裾を進む。「むじな池 右折」の案内。里山に入る。雑木林の道を上る。すぐさま尾根筋に。尾根、というのはおこがましいほど、つつましやかな「尾根」を越え、少し下ると「むじな池」。どうということのない、こじんまりした池。池の前には田圃が広がる。「ふるさと村郷土文化舘」前の道筋を真っ直ぐ進むと、ここにあたる。
それにしても、典型的な谷戸の姿である。これほど長く切れ込んだ谷戸って、あまりお目にかかったことがない。「むじな池」に限らず、「大池」とか「新池」とか「熊野池」とか、水源があり、そこから流れる水が谷地を潤す。心休まる景観。ちなみに、寺家は「じけ」と読む。「寺領」の意味。どこかのお寺の「寺域」であった土地。寺家町の中心には古くから東円寺というお寺があった、とか。

鶴見川
田圃の畦道に腰を下ろし、次の予定を考える。このまま青葉台の駅に進み、おとなしく家路に向かうのも、いまひとつ盛り上がりに欠ける。はてさて、どこか見どころは、と地図をチェック。田園都市線・市ヶ尾駅近くに、稲荷前古墳群と市ヶ尾横穴古墳群。とりあえず市ケ尾方面に進むことに。
「ふるさと村」前の道を東に進む。しばらく進むと鶴見川。河内橋を渡り、横浜上麻生道路に。環状4号入口交差点手前で、台地下を走る道路に入る。台地下とはいうものの、ちゃんとした車道。台地の上は横浜桐蔭学園。

佐藤春夫・田園の憂鬱の碑

桐蔭学園入口交差点を越え、中里学園交差点に。佐藤春夫の「田園の憂鬱」由来の地の記念碑があった。いつだったか古本屋で『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』という本を買った。その中で、「佐藤春夫の近郊の風景」という箇所があった。なんとなく「田園の憂鬱」のことを書いていたのでは、と思い本棚から取り出した。まさしくその通りであった。「田園の憂鬱」は大正5年の晩春から晩秋までの半年ほど居住した神奈川県都築郡の寒村の生活を回想したもの。このあたりの風景を描いたところをメモする。
主人公が移り住むのは、「広い武蔵野が既にその南端になって尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入ろうとするところにある、山の辺の草深い農村である」「それは、TとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、たとえば三つの劇(はげ)しい旋風(つむじかぜ)の境目にできた真空のように、世紀から置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押し流されて、しょんぼりと置かれているのである」「この丘つづき、空と、雑木林と、田と、畑と、雲雀と村は、実に小さな散文詩であった」「とにかく、この丘が彼の目をひいた。そうして彼はこの丘を非常に好きになっていた」「フェアリー・ランドの丘は、今日は紺碧の空に、女の脇腹のような線を一しおくっきりと。浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に聳えて末広に茂った梢のところから、いとも軽々と浮いて出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける」


『田園の憂鬱』ではないが、同じ頃書いた短編『西班牙(スペイン)犬の家』には、このあたりの雑木林を描いた箇所がある。メモする。「何でも一面の雑木林である。その雑木林はかなり深いようだ。正午に間もない優しい春の日ざしが、楡や樫や栗や白樺などの芽生したばかりの爽やかな葉の透間から、煙のように、また匂いのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向との加減が、ちょっと口では言えない種類の美しさである」、と。
当時佐藤春夫が住んでいたという家の周りを映した写真があるが、まっこと純正の「田園」である。佐藤春夫というか主人公は多摩の丘陵や美しい雑木林で癒されていた、ようだ。急激な市街地化が起きる前の、ほんとうに静かな田園の景観が目に浮かぶ。ちなみに上でメモしたTは東京、Yは横浜、Hは八王子である。

稲荷前古墳群



中里学園交差点を越え、南に進む。川筋と交差。黒須田川。王禅寺の日吉あたりに源を発し、市ヶ尾高校のところで鶴見川に合流している。川を越えるとすぐ道の左手の住宅の建つ台地上に緑の一角。稲荷前古墳群であろう。道を離れ、住宅地の中を台地にむかって上る。入口から石段をのぼると雑草に覆われた丘となっている。
ここが前方後円墳をふくめた三つの古墳跡、という。そう言われれば、そうかなあ、と思う程度の知識しかない。発見当時は前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基、横穴墓9基が発見され、「古墳の博物館」と呼ばれたようだが、現在では市街地開発で失われ、三基が残る、のみ。このあたりの古墳は4世紀から6世紀の頃のもの。近畿地方に遅れること1世紀、ということである。鶴見川(谷本川)を見下ろす丘の上に力をつけた首長が登場していた、ということ、か。

市ヶ尾横穴古墳群
丘の上に座り、しばしのんびり。得がたいひと時。丘からの眺めを楽しみ、次の目的地・市ヶ尾横穴古墳群へと向かう。住宅街を下り、薬王寺脇を通り大場川を渡り、大雑把に言えば南東に進む。一度丘を下り、低地で川を渡りふたたび丘に上る、って感じ。横浜市青葉区市ヶ尾町の北端、市ヶ尾小学校の北側に「市ヶ尾横穴古墳群」がある。六世紀後半から七世紀後半にかけての、いわゆる「古墳時代」の末期に造られたもの、と。市ヶ尾遺跡公園となっており、園内に入ると散策路が延び、その奧に広場がある。このあたりは鶴見川を見下ろす丘陵地であるのだが、公園前に建つ住宅のために、眺望はあまりよくない。家々の間から、かろうじての丘陵下の景色が見える。ただ、それだけでも結構爽快ではある。
公園内の各所に、市ヶ尾横穴古墳群の案内板があった。メモ;市ヶ尾の周辺には丘陵の谷間の崖面に造られた横穴墓群が多く、この「市ヶ尾横穴古墳群」はその代表的なもの、と。この地方の有力農民の墓ではないかという。公園内には「A群」12基、「B群」7基の横穴式古墳が残されている。横穴の周囲はコンクリートで固められてあり、少々情緒に欠ける。公園の中に案内が。
抜粋メモする。「市ヶ尾横穴古墳群は禅当寺谷の奥まった崖面にある。谷本川(鶴見川)の平地と富士山や丹沢が眺められる。
周辺にはいくつかの横穴群。東北には小黒谷横穴群、尾根を越えた北側に大場横穴群が背中合わせにならび、稲荷前には前方後円墳を含む稲荷前古墳群がある。南には朝光寺古墳群。
付近の台地の上には鹿ケ谷遺跡をはじめとする古代遺跡が発見されている。そしてこれらの東方に掘立柱建の残る長者ケ原遺跡が発見されている。これは律令時代の郡役所跡」と。「古墳時代の後期になると、豪族のもとで貧富の差が広がり、家父長を中心とする農民の家族が成長してゆく。古墳が盛んに作られた時代を古墳時代(4世紀―7世紀)という。古墳は九州から東北まで広がる。古墳は、支配する地域を見渡すような場所に、自然の地形を利用したり、人工的に土を盛り上げたりしてつくられた。彼らは水田耕作に適した中・下流域ばかりでなく、上流域の丘陵地帯にも耕地を開き、集落を営み横穴墓や円墳などの群集墳をつくった」、と。

東急田園都市線・市が尾駅
公園を離れ、道なりに東急田園都市線・市が尾駅に進み、本日の予定は終了とする。それにしても、何も考えず、特に何があるとも思わず歩きはじめたわけだが、川あり、里山あり、古墳ありといった盛りだくさんの一日となった。が、それよりなりより印象に残ったのは急激な市街地化。丘陵を切り崩し、住宅地を開発していたわけだ。


丁度読んでいた『都市と水;高橋裕(岩波新書)』にこの鶴見川流域の記事があった。抜粋:「鶴見川は1975年より実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的事例。高度成長期を経て顕著な都市化が進行、かつ低平地を流れているため、江戸時代以 来、氾濫対策に苦慮していた、と。鶴見川は町田市内の多摩丘陵に源。長さ43キロ弱。流域の7割が丘陵、台地、残りが下流の沖積低地。標高は80mから70mといった低い丘陵が分水界。
全流域がきわめて平坦。流域は宅地化の最も激しかった地域。この流域の土地利用は1950年以来急変。宅地化が山林、低平地の水田などで進行。
65年以降、毎年流域の2ないし5パーセントが新しい市街地に変わる。特に恩田川流域が激しかった。鶴見川流域全体では、55年までは流域の10%。66年には20%。75年には60%。85年には75%まで市街化されていた」と。最近では宅地化が85%にまでなっていると、どこかで読んだことがある。50年で一面の山林・水田が宅地に変わった、ということ、である。新百合ヶ丘駅前で受けた、一体全体この賑わいは何?と思った素朴な驚きは、結構「当たり」であったわけである。散歩って、
あれこれとした発見がある。