水曜日, 9月 17, 2014

矢倉沢往還・善波峠越え;弦巻温泉から善波峠を越えて大雄山駅まで

ご老公こと、元の会社の監査役であったK氏より、矢倉沢往還の善波峠越えのお声が掛かった。小田急線・弦巻温泉駅からスタートし少し北に進み矢倉沢往還に合流。そこから西に進み善波峠を越えて大雄山駅まで歩こうとことの計画と言う。
ご老公は東海道、中山道、奥州街道、日光街道などなどを歩き通しているのだが、「峠越え」萌えである小生には、峠に近づくとお声が掛かり、東海道の鈴鹿峠越え()、中山道の碓氷峠越え()、和田峠越えなどをご一緒した。今回も、ご老公は矢倉沢往還のスタート地点である東京から延々と街道を歩き、善波峠に近づいたためのご案内。ご老公に言わせれば、「いいとこ取り」とのことではあるが、峠をひとりで越えるのは少々難儀なようで、それなりに重宝してもらってはいるようである。
で、今回の矢倉沢往還の善波峠越えであるが、峠越えと言うほどのことなない。いつだったか、秦野から法弘山を越え吾妻山に向かう途中に、この峠を掠ったことがある、山奥でもなく、標高も160mほどの、どうということのない峠はあったのだが、これもいつだったか、大雄山から矢倉沢往還を辿り足柄峠を越えて御殿場まで歩いていたので、今回の峠越えの「ご下命」」は鶴巻温泉から大雄山までの矢倉沢往還を繋げるにはいい機会と思った次第である。

○矢倉沢往還(Wikipediaより)
矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)は、江戸時代に整備された街道で、江戸赤坂門から相模国、足柄峠を経て駿河国沼津宿を結び、大山への参詣道の一つであることから「大山街道」、「大山道」などとも呼ばれ、また、東海道の脇往還としても機能していた。現在は、ほぼこの旧往還に沿って国道246号が通っている。
律令時代には東海道の本道にあたり、「足柄道」(あしがらどう)または「足柄路」(あしがらじ)と呼ばれていた。万葉集に収録された防人の歌にも登場することから、8世紀頃には東国と畿内を結ぶ主要道として歩かれていた様子がうかがえる。富士山の延暦噴火(800-802年)で一時通行が困難になったが回復、その後は鎌倉時代に湯坂道(鎌倉古道のひとつ。江戸時代以降は東海道の本道になる。箱根路とも)が開かれるまで官道として機能していた。
江戸時代中期以降になると大山講が盛んになり、またの名を雨降山(あふりやま)とも呼ばれた大山への参詣者が急増したと言われる。そのとき、宿駅などが整備されていた矢倉沢往還が江戸からの参詣道として盛んに利用されたことから、「大山街道」(おおやまかいどう)、「大山道(青山通り大山道)」(おおやまみち)とも呼ばれるようになり、現在も神奈川県内の旧道などにはその名が定着している。
「矢倉沢」(やぐらざわ)の地名は現在の神奈川県南足柄市の足柄峠付近に残っており、この辺りではかつての街道筋を「足柄古道」(あしがらこどう)として整備されているが、他の神奈川県内の区間は大正時代なると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として拡幅やバイパス設置等の整備が進んだことから、一部の地域を除き往時の面影を辿るのは困難になっている。

人馬継ぎ立場(江戸時代) ;
三軒茶屋(世田谷区)>用賀(世田谷区)[1])>二子・溝口(川崎市高津区、1669年(寛文9年)宿駅設置)>荏田(横浜市青葉区)>長津田(横浜市緑区)>大ヶ谷(町田市)[1][2])>下鶴間(大和市)>国分(海老名市)>厚木(厚木市)>伊勢原(伊勢原市)>曽屋(秦野市)>千村(秦野市)>松田惣領(松田町)>関本(南足柄市>矢倉沢(南足柄市)>竹ノ下(小山町)


本日のルート;小田急・弦巻温泉駅>神明社>東明高速>太郎のちから石>神代杉>夜泣石>国道246号>古善場隧道>善場峠>曽屋>国道246号・名古木交差点を秦野へ>入船橋>庚申塔>馬車鉄道跡>秋葉神社・千手観音>水無川・秦野橋>双体道祖神>国道246・堀川入口交差点を越え北に>国道246・平沢西交差点を南に下りる>国栄稲荷>二つ塚>湯殿石碑>茶店跡>浅間大神塔>不動尊>小田急線を越える>八瀬川を渡る>国道246号>国道246号・蛇塚交差点で国道を離れる>神山滝分岐>東明高速を潜る>神山交差点>川音川を渡る>篭場交差点>石碑>松田駅>酒匂川・十文字橋>道祖神>足柄大橋西詰>石仏群>宮台の地蔵尊・摩耗した石仏>洞川を渡る>関本>大雄山駅

小田急線・鶴巻温泉
小田急線・鶴巻温泉駅で待ち合わせ時間である午前8時半に御老公と合流。鶴巻温泉は、いつだったか秦野からスタートし弘法山に登り、善波峠から吾妻山を経て下りてきたところ。
鶴巻温泉は大正3年(1914)、飲料水を求めて井戸を掘ったところ、温度25度ほどのカルシウム含有の地下水が湧きだしたのがきっかけ。温泉は当地の小字である鶴巻より「鶴巻温泉」と名付けた。
当初は鄙びた温泉であったのだろうが、昭和2年(1927)小田急線の開通にともない鶴巻駅が開業、昭和4年(1929)には関東大震災以来休業していた老舗温泉旅館も再開し、駅名も昭和5年(1930)に「鶴巻温泉」と改称し温泉地として発展したようだ。
此の地は江戸の頃は落幡村と称された、とのこと。明治21年(1888)には近隣五ヶ村が合併し大根村落幡となる。この「落幡」はいつだったか八菅修験の霊地・八菅神社を訪ねたとき、「幡の坂」という地名があり、その由来は中将姫の織った幡が落ちたところ、とあった。この地の落幡の由来も中将姫の織った幡が落ちた、といった伝承があるようだ。


神明神社
弦巻温泉駅を離れ、駅から北に矢倉沢往還の道筋へと向かう。しばらく進み緩やかな坂を上りきったところに小丘があり、そこに神明神社が祀られる。石段を上りお参り。祭神は天照皇大神。境内には境内社の地神齋、双体道祖神や道祖神が建つ。

箕輪駅跡
神明神社の一筋道を隔てた北の隅に鳥居と祠があり、そこに「箕輪駅跡」の案内があった。案内に拠ると、「箕輪駅跡; 市指定遺跡(昭和44年2月27日);箕輪駅は奈良時代の古東海道の駅跡と伝えられています。駅とは馬を置き、国司の送迎や官用に供された施設です。
古東海道とは、奈良時代からの官道で、相模国では足柄峠から坂本(南足柄市関本)をとおり、小総(おうさ。小田原市国府津)を経てここ箕輪に達し、さらに相模川以東に至ったものと考えられています。
後の矢倉沢往還(鎌倉時代以降の道)もこの地を通っており、この箕輪は古くから交通の要所になっていました」とある。
律令制度のもと、中央集権国家を目指す中央朝廷は、中国の交通制度をもとに、「駅制(駅路)」と「伝制(伝路)」を導入し、中央と地方のコミュニケーション機能の強化を目指した。「駅制」とは国家により計画された大道で、その幅10m程度。道筋は既存集落と無関係に一直線に計画され。おおよそ16キロから20キロ間隔で駅を置き、国府や郡家(ぐうけ)を繋いだ。 一方、「伝制」は国造など地方豪族が施設した交通制度。伝路は既存の道を改良し、幅はおおよそ6m程度とし、郡家に置かれた伝馬で郡家間を繋いだ。大雑把に言えば、駅制(路)はハイウエー、伝制(路)は在来地方道といったところではあろう。

○相模の駅路と駅
10世紀の平安時代に律令制の施行細目をまとめた「延喜式」には相模国内に 坂本駅、小総駅、箕輪駅、浜田駅が記される。坂本駅、小総駅は前述の案内の通りであり、浜田駅は「上浜田」「下浜田」の字名が残る海老名市大谷が比定されるが、箕輪駅に関してはこの地ではなく、当時の国府があった「平塚」とする説もある。
門外漢にはどちらが正しいのか不明であるが、ともあれ、浜田駅の先は相模国を離れ武蔵国店屋(まちや)駅に向かう。店屋(まちや)駅は「町谷原」の地名の残る町田市小川と比定される。

○古東海道・足柄峠以東の道筋
案内に「古東海道とは、奈良時代からの官道で、相模国では足柄峠から坂本」とあった。足柄峠から、その先は?ちょっと気になりチェック。
奈良時代以前は小田原方面から関本を経て足柄峠を越え、その後は御坂峠から甲府方面に抜けたようだ。東山道につながったのだろう。平安時代になると、足柄峠からは甲府に向かわず、御殿場から富士川に向かって下ってゆく。ついで、平安後期から鎌倉になると、御殿場から富士に向かわず、三島に下る。三島からは根方街道を富士川に向かった、と。
これらのルートは「天下の嶮」の箱根の山を迂回するルートであるが、箱根の山を越えるルートも登場する。ひとつは「湯坂路」。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂山、浅間山、鷹巣山への稜線を進み、元箱根から箱根峠に。峠からは尾根の稜線を三島へと下る。平安から鎌倉・室町の頃のルートである。話によれば、富士の大噴火によって足柄道が通れなくなったために開かれた、とも言う。

江戸になると、小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂路の山越えの道を避け、須雲川に沿って川沿いに進み、畑宿を経て元箱根に。元箱根からは箱根峠に至り、そこからは、湯坂路の一筋南の尾根道を三島へと下ってゆく。

丹沢山地と丘陵部の間に向かう
矢倉沢往還の散歩開始。道は神明神社と箕輪駅跡の間の道を北に向かい、東名高速に掛かる板東橋跨線橋を越え大住台地区に入り、善波川手前で左折し「さくら通り」を西に進む。
カシミール3Dで彩色した地形図を見ると、箕輪駅跡まで丹沢山地の南の平地を進んできた矢倉沢往還は、ここから丹沢山地と、その丹沢山地から平地部に八の字状に飛び出した丘陵部の間に入って行く。八の字となった丘陵部の西端が弘法山、東端が吾妻山、丹沢山地と平地に突き出す「八の字」の丘陵部「喉元」が善波峠となっている。で、なにゆえに平地を通らず嶮しくはないとは言え峠へと向かうのか気になりチェックする。
ここからは想像・妄想ではあるが、山間部へのルートとした理由は弦巻の地形にあるように思える。弦巻は往昔「どぶっ田」と称されていた。「どぶっ田」とは「底なし沼」とのことである。小田急線の南は窪地となっており、そのうえ弦巻には善波川、大根川、鈴川などが集まり、しかもその合流点は周辺より海抜が高く、水が滞留しやすく、大水の時には逆流していたとも言う。「笠窪」などと如何にも湿地帯であったであろう弦巻を避け、山間部の道を選んだのではないだろうか。

お地蔵様と愛鶏供養塔
道なりに進み、一度善波川を南に渡り直し少しすすむと道はふたつに分岐する。その分岐点にささやかな祠。祠にはお地蔵様2体と愛鶏供養塔が祀られている。供養塔は昭和17年の建立とのこと。

太郎のちから石
分岐を右に進むと、ほどなく道が再びふたつに分かれる。分岐点には右方向に「太郎の郷 太郎のちから石」の木標がある。矢倉沢往還は左に進むが、ちょっと寄り道。道を進み善波川を渡ると道脇に「太郎のちから石」の案内。「この石の上部にある二本の筋状の部分は善波太郎が下駄で力踏みした時の跡と言い伝えられています」とあった。
○善波氏
善波氏は出自不詳ではあるが、この地の在地領主とされる。「たろうの力石」の少し西、国道246号の北に三嶋神社が鎮座するが、その地に善波氏の館があったとされる。
善波太郎重氏は鎌倉幕府初期の武将で、その豪勇故に武勇譚が伝わる。この「ちから石」もそのひとつ。また、中将姫の織った幡に向かって射た弓の鈴が落ち、そこが鈴川となった、と言った奇譚が伝わる。
善波氏はその後も鎌倉公方足利氏のもとで活躍するも、室町時代となり、鎌倉公方足利持氏と関東管領の上杉憲実が争った永享の乱(1438)以降の消息は不明とのことである。

神代杉
右手が開けた小道を進む。簡易舗装も切れ、山道に入ると「神代杉(うもれ木)」の案内。「洪積世の後半頃に善波峠一帯に広がる火山灰土の地域に茂っていた大森林が大洪水のため倒伏埋没し、赤土(関東ローム層)の中で腐朽をまぬがれ長い年月の間に炭化が進んだもので、その後渓流によって赤土層が洗われ、露出したものである。考古学でいう旧石器時代に相当するといわれている(伊勢原市教育「委員会)」とあった。
植物にはそれほど「萌えない」ため、善波川へと下ることをスルーしたのだが、メモする段となり、崖下に農民手掘りの利水隧道があるとのこと。千葉や愛媛の手掘り隧道()を探し廻った我が身としては少々残念な始末となった。とりあえず、足を運ぶべしと、散歩の「原則」を再確認。

 「吾妻山」登山口の木標
先に進むと、「吾妻山0.35km」との標識。その分岐点には「矢倉沢往還」の案内がある。 「この道は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていました。江戸時代には裏街道として賑わい伊豆、沼津から足柄、秦野、伊勢原、厚木、荏田を経て、日常生活に必要な炭、わさび、干し魚、茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれ、人々に矢倉沢往還(矢倉沢街道)と親しまれていました。
また、大山、阿夫利神社に詣る道ということから大山街道の名でも親しまれていました(環境庁・神奈川県)」とあった。

○吾妻山
いつだったか、吾妻山を訪れたことがある。標高155mの山頂の眺めは良かった。 山頂には日本武尊の由来書があり、「日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から舟で房総に向う途中、静かだった海が急に荒れ出し難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ、海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています」との説明があった。


夜泣石
木立の中の山道を進む。分岐点からほどなく道脇に丸い石と案内板。「夜泣石」とあり、「その昔、旅人がこの石の辺りに誰助けることなく倒れていたそうだ。 以来、夜中になると助けを求める声が聞こえたという」との説明があった。

「弘法山ハイキングコース」標識
夜泣石から先に進む。右手が開け、善波地区辺りが畑地の向こうに見える。善波太郎の館があったと伝わる辺りではあろう。道の周囲が木々に包まれる道を進むと「弘法山ハイキングコース」の標識。「熊出没注意」が御愛嬌。夜泣き石からおおよそ20分弱だろうか。
弘法山は弘法大師が修行したとの伝説のある山。山頂には大師の木造を安置した大師堂、井戸、鐘楼などが残る。標高235m。


国道246号
「弘法山ハイキングコース」標識を越えるとほどなく道はふたつに分かれる。直進する道には「この農道はこの先通り抜けできません ハイキングコースは右折」とあり、右方向に「関東ふれあいの道 国道246号」とあった。直進はいい感じの道ではあるが、地図を見ると道が消えている。藪漕ぎをしてみたい、とは思いながらも、御老公の御伴としては国道に迂回する道を選ぶ。
国道246号を少し西に進むと「新善波トンネル」が見えてくる。昭和38年(1963)竣工。全長260mのトンネルである。幅員は13.5m、高さは4.5mとのことである。

旧善波隧道に
善波峠は旧246にある旧善波隧道の真上に位置する。旧国道246号は「新善波トンネル」の手前を左に折れる。旧国道に沿って立ち並ぶ日本独特(?)のホテル街を抜けて進むと旧善波隧道が見えてきた。道を進みながら、峠に取り着く場所を探すのだが、コンクリートで壁面が固められ、なかなま適当な箇所が見つからない。
入口方面からの峠への取り付きを諦め隧道の真上にあるであろう善波峠を想いながら隧道に。昭和3年(1928年)竣工、全長158m、幅5.5m、高3.7mと、新善波トンネルと比べ幅と長さは半分といったところである。
トンネルを抜け、峠への取り付き部を探すと、適当なところが見つかった。実のところ、旧国道をもう少し西に進めば峠に上る道があるのだが、峠を見ながら、それを見過ごすのは如何なものか、などと訳のわからぬ理屈で崖に取りつく。

善波峠への藪漕ぎ
崖に取り付き先を進むが、結構な藪。遮る木を折り敷き進むと山肌は2段に分かれており、下段を越えると藪も消える。と、ここでご老公が携帯を落としたとの「叫び」。折り敷いた竹藪を元に戻り携帯を発見。藪漕ぎを言いだした我が身としては一安心。
藪の開けた上段部に戻り、隧道出口の真上に向かって成り行きで進むと、隧道出口の上に向かって進む踏み分け道があった。隧道出口を眼下に見下ろし先に進むと隧道出口上辺りで結構整備された道に合流した。旧国道を先に進んだ辺りから峠に向かう道ではある。取り付き部から小径との合流点までおおよそ10分程度であった。

善波峠
道を上ると大きく開かれた切通しにでる。善波峠である。標高160mほどのこの峠は伊勢原市と秦野市の境でもある。切通しには5体の石仏が佇む。何故か首が切り落とされているのが痛々しい。峠には「弦巻温泉 弘法山」、また「大山9.5KM」といった木標が立つ。西の弘法山からこの峠を経て吾妻山から弦巻温泉に歩いたことを想い出す。北に進めば大山へと登れるのであろう。

峠にあった矢倉沢往還の案内には「矢倉沢往還; 近世の交通路は五街道を中心に、本街道の脇にある往還が陸上交通の要として整備されていました。矢倉沢往還は東海道の脇往還として発達し、江戸赤坂御門から厚木・伊勢原・善波峠・曾屋(十日市場)・千村・松田惣領・関本などを抜け、足柄峠を超え駿河沼津宿まで延びていました。大山への参詣路として利用されていたため、大山街道と呼ぶ所もあります。現在の246号線は、概ねこの矢倉往還に沿って通じています。また、当時秦野の経済活動の中心をなしていた十日市場で開かれる市において、矢倉沢往還は物資運搬に大きな役割を果たしていました(秦野市)」とあった。

矢倉沢往還は古くから人や物が行き交う道であり、日本武尊の東征の道筋が、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還とほぼ同じであったと伝わる。吾妻山で妻の弟橘比売を偲び「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」と詠んだことはメモしたとおり。
そしてこの「矢倉沢往還は公用の道、信仰の道、物 資流通の道と様々な機能を持つ。公用の道;徳川家康の江戸入府の折り、箱根の関所の脇関所の一つとして矢倉沢に関所を設ける。関所の名前が街道名の由来。また、後年、人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還・裏東海道の一つとなった。 信仰の道;江戸時代中期以降、大山信仰が盛んになる。各地から大山詣での道がひらけ、その道を大山道というようになったが、矢倉沢往還は江戸から直接につながっており、大山道の代表格。
物資流通の道:相模、駿河、伊豆、甲斐から物資を大消費地である江戸に運んだ道で、駿河の茶、綿、伊豆のわさび、椎茸、干し魚、炭、秦野のたばこなどが特に有名。

○御夜燈
切通しを弘法山のほうに少し廻り込んだところに「御夜燈」があったことを想い出しご老公をご案内。摩耗激しく原型を留めないが、「この御夜燈は、文政十年(1827年)に旅人の峠越えの安全のために、道標として建てられました。点灯のための灯油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油でした。この下に峠の茶屋が有り、その主人、八五郎さんの手により、明治末期まで点灯し続けられていました。その後、放置されたままになっていましたが、平成六年(1994年)地元の「太郎の里づくり協議会」の手により復元されました(伊勢原市)」と案内にあった。
峠の切り通しで峠の東で途切れた矢倉沢往還の道筋を探す。弘法山から弦巻温泉へと向かうハイキングコースの道筋を確認し、残った道筋が往昔の矢倉沢往還であろうと、その道筋を東へと歩いてみる。道はホテル群の辺りで行き止まりであった。いつだったか弘法山から弦巻温泉に歩いたとき、この善波峠を掠ったのだが、道筋がいくつもあり、矢倉沢往還がどちらからどちらへ進む道なのかわからず、ずっと気になっていたのだが、これで一件落着となった。

名古木
峠をから道を下り矢倉沢往還を西に向かう。前面に箱根の連山、富士山、そして街道の名前の由来ともなった「矢倉岳」が広がる。誠に素晴らしい景観である。
坂道を下りながら地名を見ると、「名古木」とある。「なごき」ってどう言う意味?チェックすると読みは「ながぬき」と読むとある。何故に「ながぬき」と更にチェックすると「まほら秦野 みちしるべの会」のHPにその解説が説明されていた。
まとめると、天保12年(1841)に編纂された『新編相模國風土記稿』には、「名古木村」を「奈古乃幾牟良=なこのき」と呼ばれたとある。また同書に「古は并椚村とも書す」とある。。「并」は「並ぶ」の意。椚は「くぬぎ」であり、「くぬぎ」は古くあ「くのき」と読まれたようで、「なくのき」と読まれたとのこと。慶安2(1649)年とのことである。さらに、、寛政4年(1792年)の『大山不動霊験記』には「長軒」とあり、「ながのき」と読んだ。まとめると、「名古木」は「并椚・ナクノキ」→「長軒・ナガノキ」→「奈古乃幾・ナコノキ」と変化し「名古木・ナガヌキ」に至った、とのことである。
因みに、「并椚」について「まほら秦野 みちしるべの会」のHPに興味深い説明もあった。原文を掲載させて頂く。「古の人たちもまた、われわれと同じように家と外を区別するために門を作った。そして門のことを「区の木」と呼んだ。門に使われたのは里山に自生している木だった。その「区の木」として使われた木がクヌギと呼ばれるようになった。「椚」は「区の木」当て字・国字である。
『并』は『竝=並』に近い意味を持つ。(『并』は縦並びを意味する文字)。地名『并椚』は、「区の木」が並んでいる、奥の方に家が並んで建っている様を表している。
「名古木」を「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ぶとき、「ナコ」は「和やか・穏やか」。「キ」は場所を表す語。あわせると「ナコノキ」はなだらかな地形の場所と説明できる」とのこと。なるほど、坂道は緩やかに下る。

(曽屋宿)

名古木地区を下り、国道246号に一瞬合流し、「名古木交差点」で国道を離れ県道704号に入り、落合交差点の先で金目川に架かる「入船橋」を渡る。橋の西詰めには馬頭観音などの石仏群が柵の中に佇む。道路工事などで取り除かれた石仏が集められたものだろう。
○曽屋宿
曽屋宿は矢倉沢往還の伊勢原宿の西に向かう次の宿。矢倉沢往還、太山みち羽根尾通り(小田原から大山に向かう道)、平塚みち、西には富士道がとおるこの曽屋村は交通・交易の中心地であったようで、かつて「十日市」で賑わい、曽屋村というより、十日市場が通り名でもあったようである。
村には「上宿」・「中宿」などの地名が記録に残るほか、小字として「十日市場」・「乳牛」といったものがある。「十日市場」は文字通りとして、「乳牛」とは結構面白い名前。
気になりチェックすると、「乳牛」は「ちうし」と読み牛乳を絞る乳牛のこと、と言う。『延喜式』に相模国から十六壺の蘇(そ;牛乳を発酵させてつくチーズのような乳製品、とのこと)を貢納したとある。この地に棲み着いた渡来人の手になるとのことである。因みに、「曽屋村」も「蘇」をつくる所に拠る地名言われる。

庚申塔
矢倉沢往還は緩い坂を上り曽屋宿(昔の曽屋村)に入っていくが、その入口を画するように下宿バス堤手前の電柱脇に嘉永4年(1851)建立の「庚申塔」がひっそり残されている。庚申塔は道標も兼ねており、右側面に「左いせ原道」、左側面に「右大山道」と刻まれていることのことである。

馬車鉄道・軽便鉄道跡
庚申塔から少しすすむと、右側にイーオンがあるが、その角に「馬車鉄道・軽便鉄道・湘南軌道の沿革」の案内があった。案内には「通称「けいべん」は、明治39年(1906年)に湘南馬車鉄道株式会社が秦野町(現在秦野市本町三丁目)~吾妻村(現在二宮町二宮)~秦野町(現在秦野市本町3丁目)間の道路9.6㎞に幅二尺五寸(762mm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりとなっています。
馬車鉄道は一頭の馬が小さな客車、または貨車を引くものでしたが、大正2年(1913年)には動力を馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関車)に代わり、社名も湘南軽便鉄道株式会社となりました。大正7(1918)年には、湘南軌道鉄道へ軌道特許権が譲渡されています。
当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。旅客は秦野地方専売局の職員や大山への参拝者で、貨物は葉たばこ、たばこ製品、木材、綿糸などで秦野地方の産業発展に大きな役割を果たしました。 この地付近には、大正10(1921)年からの軌道延長工事により、台町にあった秦野駅が移されています。大正12(1923)年には専売局の構内に煙草類専用積降ホームが設けられ、引き込み線の接続がされています。秦野には。この他台町駅、大竹駅がありました。 大正10年(1921年)には秦野自動車株式会社が秦野~二宮間の営業を開始し、大正12年(1923年)の関東大震災による軌道の損害、、昭和2年(1927年)の小田急開通などにより鉄道の経営が厳しくなり、昭和8年(1933年)に旅客運輸を、昭和10年(1935年)には軌道全線の営業を休止し、昭和12年(1937年)に軌道運輸事業を廃止しています。
明治、大正、昭和の時代を走り抜けた「けいべん」の思い出は人々の心の中に生き続けています。(秦野市制施行50周年記念事業「軽便鉄道歴史継承事業」秦野市)」とあった。

仲宿
街並みは古き宿の面影は少ないが、仲宿バス堤あたりには昔の趣を留める民家が幾つか残っていた。先に進むと「本町四ッ角交差点」にあたるが、このあたりが十日市の立つた場所であったとのことである。『風土記稿』には曽屋村の十日市場のことを「古き市場にして、今も毎月一六の日市立ちて雑穀、農具、薪等をひさぎ近郷の者集えり」と描く。

上宿観音堂
本町四ッ角交差点から少し西に進むと、道の北側に「上宿観音堂」がある。お堂にお参り。由来書をまとめると、「白雲山上宿観音堂。本尊は「千手千眼観世音菩薩」。行基の作と伝わる。「開運・厄除け」や「子授け・安産」を祈願し地元住民により建立。本堂の創建の時期は不詳であるが、天保時代の十日市場を描いた古絵図や寛政の年号が刻まれる半鐘の銘文等から寛政年間には原型がこの地にあった、とされる。その後龍門寺持ちとなり、現在に言いたる。
境内には火災鎮護の秋葉神社もあった。寛政年間に静岡県の秋葉神社から分霊し建立。その霊験はあらたかで、関東大震災の折には火災の類焼を免れた、とか。

「乳牛通り」と「醍醐みち」
先に進み横浜銀行を越えた先に北から合流する道があり、その道は「乳牛(ちうし)通り」と呼ばれる。上にメモした古代に乳製品をつ くる乳牛の牧場でもあったのだろうか。で、あれこれチェックしていると、その乳牛通りの西、市役所近くに「醍醐みち」がある、と言う。
醍醐(だいご)も、10 世紀頃、牛乳を煮詰めてつくるチーズのようなもの、とのこと。仏教で乳を加工する5段階のプロセスを「五味」と呼び、牛より「乳」をだし、「乳」より「酪」をだし、「酪」より「生穌」を出し、「生穌」より「塾穌」を出し、最後に最高の味である「醍醐」となす、とある。因みに「醍醐味」とは仏教用語で、経典の「位階」を定め、最高・最上の経典を醍醐のような最高の「味>教え=仏法」とし、それを醍醐味と呼んだ、とのことである。

水無川・秦野橋
道なりに南西に向かい「水無川」に架かる秦野橋を渡る。水無川は丹沢山系の塔ノ峰にその源流を発し南に下り、秦野盆地の中央部で南東に向きを変える。、秦野市河原町と秦野市室町の境界で室川に合流し、左右を丘陵に挟まれた盆地出口辺りで金目川と合わさり、金目川となって平塚へと下る。
水無川の所以は、川が秦野盆地に発達した扇状地の扇端部で地下に伏流するためである。実際秦野には多くの湧水で知られる。扇状地の扇端部で伏流した水が湧きだすことによる。
現在水無川には名前に反して水が流れるが、その水は市の北部に誘致された工場地帯からの処理水とも聞く。

○曽屋村と秦野

秦野橋を渡る。橋の南東、すぐの処に小田急線・秦野駅がある。「秦野」と言えば、ここまでメモしながら、今まで歩いてきた現在秦野市街、かつての「曽屋宿(村)」に、「秦野」の名前がどこにも登場してこなかった。これって、どういうこと?
チェックすると「秦野」という行政上の地名ができたのはそんなに古いことではない。明治22年(1889)の町村制施行時に、曽屋村(十日市場を含む)、上大槻村、下大槻村飛地、名古木村飛地が分合し大住郡秦野町となった。これが「秦野」の正式地名のはじまりであろうか。
ここで更にちょっと気になることが。この地は平安時代の後期、平将門討伐で名高い藤原秀郷の後裔と称する都の高級官僚が相模国波多野郷に下り波多野氏を称し、この地一帯に覇を唱えた。鎌倉時代には平氏に与し、所謂「負け組」とはなったが、「波多野」の名は厳然としてこの地に「君臨」したではあろうし、であれば、町村制施行時に「波多野町」となってもいいと思うのだが「秦野」となっている。
なぜ「秦野」?あれこれ妄想するに、はっきりとしたエビデンスは無いようだが、この地には帰化人である秦氏が古来移住したとされる。上でメモした「蘇」や「醍醐」といった乳製品をつくったのは秦氏一族とも言われるし、また、秦氏の一族である漆工芸の棟梁である綾部氏が東大寺建立に貢献し外従五位下を賜ったとの記録が『東大寺要録』に残るが、この綾部氏は後に相模国造となったとのこと。
それと関係あるの無いのか不明だが秦野市には綾部姓が100軒以上もある、と言う。つまるところ、町村制施行時に町名を決めるとき、地域を支配した「波多野」氏ではなく、この地に住みついた人々の祖先である「秦」を選んだのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

矢倉沢往還碑
秦野橋を渡り、水無川と小田急線の間の道を西に進む。道路の南北には清水とか今泉と言った、如何にも湧水豊富な地を連想させる地名が残る。湧水巡りの想いが募る。
その清水町を越えた先にある南中学校南の道路脇に「矢倉沢往還」の案内。 「矢倉沢往還 古道解説 矢倉沢往還は、東海道の裏街道として江戸赤坂から駿河国吉原を結ぶ主要な道路であり、商人や参詣の人々で賑わったという。秦野市内では千村・平沢・曽屋などの村を経て善波峠に至っており、千村は松田惣領と曽屋村間を、曽屋村では千村と伊勢原間の人馬の継ぎ立てを行っていた。この道は別に大山道・小田原道とも称し、現在県道平塚秦野線となっている」とあった。
平沢はこの地の南、小田急線の南に地名が見える。上で明治22年(1889)の町村制施行時に、曽屋村(十日市場を含む)、上大槻村、下大槻村飛地、名古木村飛地が分合し大住郡秦野町となった、とメモしたが、この平沢村一帯も、平沢村・今泉村・尾尻村・大竹村が合併し、これも大住郡南「秦野」村となっている。「波多野」を選ばなかった理由を益々知りたくなってきた。

双体道祖神
道はその先で三叉路となる。矢倉沢往還は右の道を進むのだが、分岐点を越えた直ぐ先の道脇に「双体道祖神」が佇む。酒を酌み交わす夫婦が刻まれるが、なんとなく新しいような気がする。
往還道は道なりに北西に進み、堀川交差点で国道246号を越え、更に北西に僅かに進んだところ、南中原バス停あたりで道を南西に折れ、西沢西交差点で再び国道246号を越える。その先に走る小田急線の踏切を渡るとすぐに道は西に進路を変え、小田急線に沿って稲荷神社前交差点へと向かう。

国栄稲荷神社
稲荷神社交差点のすぐ北に国栄(くにさかえ)稲荷神社。社にお参り。祭神は宇迦魂神(うかのみたまのかみ)・金刀比羅大神(こんぴらのおおかみ)・菅原大神(すがわらのおおかみ)で、境内社に水神社も祀られる。創立年代は不詳である。往古より養蚕家の信仰が篤く、競馬の神事が行われていたようであるが、小田急線開通にともない馬場は宅地となり競馬は絶えた、と。境内には秦野市指定の天然記念物「稲荷神社の大公孫樹(イチョウ)」。樹高は25m、樹齢は400年とのことである。
また、境内道脇には「矢倉沢往還」の案内の石碑があり、「矢倉沢往還 古道解説 ここは東西に通る矢倉沢往還(江戸赤坂と駿河国吉原を結ぶ)と渋沢峠を経て小田原に至る小田原街道が交差しており、大山や富士参詣をする人々で賑わった。曲松から北に進むと運動公園付近で水無川を渡り田原を経て大山に至る道を「どうしゃみち」と称し、季節になると参詣や巡礼の人々が行き交った。また、大山参詣者や大山講の人々によって数多くの道標が建てられ、近くに江戸屋喜平次の建てた道標もあり、旅宿も何軒かあったという」とあった。

道標
案内にあるように、境内道脇に大きな道標があり、道の正面には「左 小田原 い々すミ 道」、右側には「右 ふじ山 さい志やうじ道 左10日市場 かなひかんおん道」。裏手には「左大山道 願主富村 江戸屋喜平次」、左側には「寛政八年丙辰歳*月 石工*」と刻まれる。
「い々すミ」とは小田原飯泉観音、「さい志やうじ」とは「大山最勝寺」、「かなひかんおん」とは「平塚金目観音」のことである。追分の道標として旅人への便宜を図ったのであろう。




○小田原道
道標にあった小田原道は平安・鎌倉時代の矢倉沢往還道でもある。道筋は稲荷神社前交差点から南に秦野丘陵を越え道標にあった「渋沢峠」を越え、その名も「峠」と名付けられた集落を経て丘陵を下り、東名高速と川音川が交差する辺りの神山神社へと下りてゆく。標高160m当たりから最高点240mの丘陵を越え110m当たりへと下るこの道は、江戸の頃も、四十八瀬川に沿って下る矢倉沢往還が洪水で使用できないときなどは、この小田原道を迂回したとのことである。

(千村宿)

二つ塚
江戸の頃の矢倉沢往還は、稲荷神社交差点から西へと向かう。往還の北にある小田急・渋沢駅は標高163mと小田急線で最も標高の高いところにある。歩くこと10分程度、丘陵北端部近くを30mほど登ると道脇に「二つ塚」がある。「ふたんづか」と読む。
木標には庚申塔と地神塔も記される。小丘には庚申塔とともに、「報蒼天 三十三度」や「富士浅間大山」と言った富士講を記念する石碑とともに、正面に「堅牢大地神」と刻まれた石標があり、「右 大山 十日市場 左ふし さい志やうしみち」と刻まれている。文化14年(1817年)に建立され道標も兼ねている。
脇にある案内には「矢倉沢往還と千村地区 ;矢倉沢往還は、江戸時代に東海道の脇往還として制定された公道で、東京赤坂御門を起点として、静岡県沼津吉原まで続く道であり、富士山への参詣路でもありました。 今から約千三百年前の八世紀頃には、地域の主要な道として利用されていた様子もうかがえます。
千村地区は、矢倉沢往還の一部が良好な状態で保存され、不動明王像を戴く沓掛の大山道道標や 「茶屋」といった地名なども残っており、江戸時代後期に作成された地誌である「新編相模国風土記稿」に 「矢倉澤往来係る 幅二間半 陣馬継立をなす西、足柄上群松田惣領、北、本郡曽屋村へ継送る共に 一里八町の里程なり、但近隣十三村より人馬を出し是を助く」と記されており、 矢倉沢往還が通過する主要な村のひとつであったことがわかります(平成二十三年三月 矢倉沢往還道を甦らせる会)」とあり、おすすめのハイキングコースとして「渋沢駅~二ッ塚~茶屋~蛇塚踏切~河内橋~神山滝~頭高山~渋沢駅」が記されていた。

湯殿山石碑
宿の面影は何もなく、丘の上の住宅街の中を進むと民家脇に「湯殿山」」と刻まれた石碑が建つ。出羽三山信仰の記念碑であろう。千村は矢倉沢往還の主要な継立場の一つ。江戸時代には大山参りや冨士講、そして遠くは出羽三山詣りの道でもあったということだろう。矢倉沢方面から峠を登り、一息入れたのがこの千村宿ということ、かと。

茶屋跡
さらに西に住宅街を進むと民家の生垣に「矢倉沢往還」の案内。「矢倉沢往還道(750頃) この前側は茶屋跡 芝居小屋や饅頭屋がありこの周辺は街道一の賑わいがあった。また、荷物の中継所もあったようです」とある。
この辺りが千村宿の中心であったようではあるが、「750頃」って何のことだろう?と考えながら進むと、その先に道標があり、そこには「矢倉澤往還道(西暦750年頃) 沓掛・不動尊・双体道祖神、神山滝方面へ(矢倉澤往還道を甦らせる会)」とあった。先ほどの750頃って、西暦のことであったようである。
ということは、江戸・明治の頃の矢倉沢往還として歩いているこの道筋も平安の頃より開かれていた、ってことではあろうか。実際、西暦 770(宝亀元)年に京から東に向かう古東海道として開かれた路の一部である、といった説もあるようだ。

浅間大神塔
道標のあった民家辺りを過ぎると、宅地も次第に消え左手が畑地となり開けてくる。畑地の先は四十八瀬川の谷筋。谷を隔てたその向こう側に丹沢の山々が見える。
農地の中の道を四十八瀬川の谷筋にむかってうねうねと進むと道脇に「浅間大神塔」の木標。説明には「此の地より多くの賽銭(古銭)が出土している」とある。特に塔といった類のものは見当たらない。富士参詣の人々がここにあったであろう浅間大神塔にお賽銭をささげたものだろうか。


矢倉沢古道
「浅間大神塔」の先に「車止め」。その先は簡易舗装も消え、中央部分を掘り割った道が下る。道脇に「歴史の道 矢倉沢往古道」とあるように木々に覆われた雰囲気のある美しい古道が続く。藪に覆われた道を地元の人の手によって整備されたとのこと。感謝。

馬頭観音
道を進むと「矢倉沢往還道 沓掛 不動尊 あと400m」の木標。ほどなく小田急線の音も聞こえてくる。小田急線に沿って階段状の道を下ると道端に馬頭観音。大正9年(1920)の建立と言う。その頃まで矢倉沢往還は機能していた、ということだろう。因みに小田急線の開通は昭和2年(1927)である。



沓掛不動尊
馬頭観音の先、平地に降りきった辺りに不動尊。案内には「西の玄関口、沓掛とも呼び、わらじを履き替えたりほしたり、木に掛けました。茶屋、まちや(屋号)と呼んでいた。古井戸もある。不動尊は旅の安全をお守りした」、とある。また、不動尊の傍にも「この不動明王は安永3年(1774)11月28日、千村の半谷佐五衛門とその妻が「天下泰平」「国土安全」「誓願成就」を祈願するとともに大山参詣者の安を祈って祀ったものである」との案内があった。
台の正面には「川上 そぶつみち 大山道 天下泰平国土安全 川下 ふじみち さい志やうじみち」と刻まれる、と言う。「そぶつみち」って何だろう?

お不動様の近くに少々荒れた小屋があり,[西の玄関沓掛]の標題とともに,(山に向かった矢印 に[茶屋まで約1.5キロ 渋澤駅まで約3キロ],逆方向にには[蛇塚踏切約600m 河内橋 神山滝約1.2キロ 頭高山へ 約2.5キロ 渋澤駅へ 約5.5キロ]と書かれた木標がある。それとともに「お帰りなさい お不動さん ふるさとへ30年ぶり」といった新聞記事が貼られていた。

記事を要約すると、「昭和31年(1956)、木標の案内にもあった神山滝を観光地にしようとするも、滝に欠かせないお不動様がない。ということで、この沓掛のお不動様の台石だけを残し、台座と不動尊を神山滝に運ぶことに。が、台座はあまりに重たいと、途中で投げ出し、不動尊だけを滝に祀った。
しかしながら、思ったほどに観光客も増えず、お不動様は滝脇で荒れるにまかされていたが、30年経った昭和62年(1982)、滝開きで貸したきりになていた不動尊が地元民の願いが通じ、元のこの場所に戻ってきた」というものであった。

四十八瀬川を渡る
不動尊から先、右に見える小田急線を越える道はあるものかと進む。遮断機・警報機もついた踏切があり小田急を越えることができた。
小田急は越えたがその先に四十八瀬川。地図には橋もなく、どうしたものかとは想いながら踏み分け道を進むと前方に竹藪。四十八瀬川はその先に見える。 竹藪を踏み敷き川筋に出るが橋はない。水はそれほと深くもなく、飛び石伝いに川を渡る。
渡った河原に鉄板で造られた仮橋が転がっている。普段はその仮橋が掛かっているのだろうが、水流で流されていた。で、ご老公のために仮橋を担ぎ岸に仮橋を渡し、無事「お渡り」願う。これだけで本日の大役は果たせたようなものである。

国道246号
川原から道に上るところを探すと階段があり、階段を上り草むらを進むと国道246号に出た。今回歩いた矢倉沢往還のルートは大雨などで四十八瀬川が氾濫したとき、渋沢駅近くから南へ峠越えする「平安・鎌倉時代」の往還ルートを使ったというが、その雰囲気をちょっと実感した川渡りではあった。

国道246号・蛇塚交差点
しばらく国道を進み、蛇塚交差点で国道を離れ県道710号に入る。しばらく進み四十八瀬川を渡り直す辺りで右手から中津川が合流。四十八瀬川はここから下流は川音(かわね)川と名前を変える。
川音川左岸を進むと「神山滝 頭高山」への木標。滝までの距離が記されてなく、今回は見送ったのだが、メモの段階でチェックするとわたりほど離れてはいなかったようだ。


東名高速を潜る
砂利や生コンの工場が並ぶ道を進むと、先に東名高速の高架が見えてくる。東名高速の手前あたり、神山神社前を通る県道77号が県道710号にあたるところで、渋沢峠を越えてきた「平安・鎌倉時代」の往還道と合流する。

(松田惣領宿)

川音川・籠場橋
東名高速の高架を潜り、すぐ右に折れ川音川・籠場橋を渡ると「松田惣領宿」に入る。川音川と酒匂川に挟まれたこの宿は、、新編相模国風土記によると、戸数は185戸,「人馬の継立てをなせり」とある。酒匂川の渡船場でもあった。 籠場橋の西詰めの左手土手辺りに幾多の石仏・石塔が並べられていた。
「惣領」宿って、面白い。誰かの嫡子が領した地ではあろとは思いながらもチェックすると、現在松田には「松田町惣領」と「松田町庶子」という地名がある。その由来は松田郷を領する松田某が妻の子には本家を継がせ、妾腹の子には庶子として分家させた、とのこと。「松田町惣領」と「松田町庶子」はその二人の継いだ土地の名残ではあろう。平地部は惣領町、北の山地側に庶子町が多いように見える。パワーバランスがわかりやすい。

堅牢地神
県道72号を東名高速に沿って進み、国道255号の高架下を潜り、足柄上病院入口交差点の先、道の左手に石碑があり、「堅牢地神」と刻まれる。建立は文政9年(1826)。
「堅牢地神」は仏教十二天のひとつ。大地を堅固ならしめる女神として豊作を祈念して祀られたものではろう。千村の「二つ塚」にも祀られていた。松田惣領周辺にはこの神が結構祀られているようである。



JR御殿場線・松田駅
県道72号・新松田駅交差点を南に折れ県道711に入る。JR御殿場線・松田駅の東を通り、西に折れて小田急線・新松田駅との間の道を通る。
どうでもいいことなのだが、いつだたか、山北町の用水を辿ったとき、小田急線からJR線に乗り換えたとき、JR松田駅改札脇に「モンペリエ」という喫茶店があった。若き頃、20歳から3年ほど世界を旅したことがあるのだが、南仏のモンペリエの修道院跡に下宿し冬を越したことがある。懐かしく楽しい思い出だけの詰まる「モンペリエ」に魅かれえて一休みした。今回も、と思ったのだが残念ながら定休日となっていた。


酒匂川・十文字橋
道を進み、松田小学校手前の交差点を左に折れ先に進むと酒匂川に架かる「十文字橋」となる。橋を渡った西詰めの「けやき」の下に十文字橋の案内があった。
「十文字橋は明治22年(1889)東海道が開通し、それに伴い松田駅から大雄山最乗山道了尊に通じる幹線道路として出来ました。この木の橋は、地元有力者が建設し金銭を取り渡らせていました。度重なる豪雨でその都度流され、仮橋や仮舟で対応していました。
大正2年(1913)現在の十文字橋の原型となるトラス橋を県が完成させました。しかし、中心部の橋脚だけが石で積み上げ、その他は木製でした。その後。木製から鉄製になりました。大正12年(1923)の関東大震災で鉄製の橋脚は落ちてしまいましたが、石の橋脚部分だけが残りました。
昭和8年(1933)には、鉄製部分がすべてコンクリート製になりました。その後、歩道をつけたり、トラスをとる大改修をし、昭和51年(1976)からは松田町・開成町で管理することになりました。
昭和19年(2007)9月7日未明の台風で大正2年(1913)につくられた石の橋脚の一部が被害を受けてしまいましたが、平成20年(2008)現在の橋に復旧されました。
このモニュメントに使われている石は、大正2年(1913)の橋脚の石です(町田町役場)」とあった。
江戸末期の記録には伊能忠敬がをつくるようにと命じた土橋が架かったとの記録もある。場所は現在の位置よりかなり下流であった、とか。

○十文字の渡し
また、けやきの下に「十文字渡しのけやき」の案内がある。「遠い遠い昔、この付近を官道が都から東国に通じていました。江戸時代に入ると東海道の裏街道として整備され、駿河・相模・武蔵の三国を結ぶ重要な道になりました。その途中、酒匂川に設けられた渡し場を十文字の渡しといいました。最初は下流の足柄大橋付近にありましたが、時代とともに移動し、江戸時代の後期には、松田町町屋とこの付近を結ぶ、河原を斜めに通行するようになりました。夏は船、冬の渇水期は土橋がかけられましたが、対岸があまりにも遠いので、目印に植えられたのがこのけやきです。二百年以上にわたって、酒匂川を見つづける生き証人です」とあった。
松田市町屋って何処かはっきりしないが、あれこれチェックすると。酒匂川は昔から暴れ川として知られており、十文字の渡しは時代によって場所が変わっているようだ。江戸時代中期までは松田町町屋の物資の継立場と開成町の下島を結んで、現在の「あしがら大橋」付近にあったようだが、その後、酒匂川の流路の変化によって、より安全な上流へ移り、天保5年(1834年)の「新編相模国風土記稿」には、松田町町屋継立場より北に川音川を橋で渡り、小田急線の鉄橋の下あたりから酒匂川を「河原町の欅」の下に渡る道が描かれている、とのこと。
渡河は原則として歩行渡しだが、夏場は「船渡し」になり、十文字の名前の由来との説もある「十文」を渡し賃として取っていた、ともされる。

吉田島の道祖神
十文字橋を渡おり、最初の交差点を南に折れ、道は酒匂川の傍に広がる「花の広場」に沿って下り、行き止まりを右に折れ、先に進むと道脇に道祖神が祀られていた。

大長寺の石仏・石塔群
道を進みT字路を右に折れ、すぐ先の道を左に折れ、最初の角を左に進み大長寺へと向かう。お寺さまの塀にそって幾多の石仏・石塔が並んでいた。

石仏・石塔群
矢倉沢往還道は小田急線に沿って南に下り、足柄大橋から続く県道78号を越える。上でメモしたように、初期の「十文字の渡し」は、この足柄大橋の辺りであったようだ。
県道78号を越え南に下った往還道はT字路で右に折れ県道720号にあたる。交差点の少し手前の道脇に幾多の石仏・石塔が集められ祀らていた。


○足柄平野の治水・利水事業
県道720号の交差点から西にへと進む。進みながら道に交差する用水、小川の 多さが気になった。誠に多い。地図でチェックすると、吉田島、千津島、牛島、下島といった如何にも河川の自然堤防を表すような地名が周囲に残る。
チェックすると、江戸時代以前、酒匂川は足柄山地から酒匂川水系が足柄平野に出る県道74号の新大口橋辺りから大きく五つの流れが南に下っていた。自然堤防・微高地を表す地名はこの時代の名残ではあろう。
江戸時代に入ると小田原藩主である大久保忠世・忠隣親子により治水・利水工事が行われ複数の流れが東に移され一本化され、現在の流路とほぼ同じ河道となるとともに、灌漑用水路を平野に巡らせた。
酒匂川が足柄平野に出る大口付近に春日森土手、岩流瀬(がらせ)土手。大口土手を忠世が築き、水勢を制御し河道を一本化し、河道が確定した後、忠隣は酒匂川から水を引きこむ堰をつくり、足柄平野の新田を開発すべく多くの用水路を開削したと言う。
ただ、小田原藩主による治水事業により酒匂川が安定したわけではなく、その後も足柄平野は水害に悩まされ続け、更に富士山の宝永噴火後の大口土手決壊 (1711 年)による流路変動(河道が東に移動)、富士山噴火に伴う降灰による河床上昇に伴う大規模な洪水が多発し、田中丘隅やその女婿である蓑笠之助らによる治水工事が行われることになるが、それはともあれ、往還道に幾多の「水路がクロス理由は以上の歴史的事業の故であろうと思う。

牛島自治会館
水路筋などを見やりながら進むと「牛島自治会館」。その前に矢倉沢往還の案内があり、「矢倉沢往還 古代都より東国に通じた官道のなごりともいわれています。江戸時代、駿河・相模・武蔵の三国を結んだ東海道の脇往還として内陸部の物資交流の道であり、富士山、道了尊、大山を結ぶ信仰の道として栄えました(開成町教育委員会)」とあった。

宮台の地蔵尊
要定川を越え道なりに進むとちょっと開けた場所があり、ガラス張りの祠にお地蔵様が祀られていた。案内によれば、「両開きの扉に、それぞれ「登り藤」の家紋がついた黒漆塗りの立派な円筒形の厨子に納められたいます。
立ち姿の木像で唐金色の着色。台座・光背を含めた全高114センチメートル。左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、すべてをそなえた上品ないお姿です。この像は江戸時代には近くの本光寺地蔵堂にあり、やがて旧宮台公会堂へ。平成20年、地元の皆さんにより、現在地の立派な祠に移されました。
地蔵菩薩は、インドの仏教が起源ですが、その信仰がひろまったのは中国に入ってからであろうと言われています。日本では中国の影響を受けて、平安後期ころから、まず貴族の間にひろまり、鎌倉時代ころにはひろく一般にも浸透しました(平成24年 宮台地蔵保存会)」とあった。

切通し
遠くに箱根連山を見ながら往還道をひたすら西に向かう。単調な道を進むと前方が丘陵で遮られる。往還道は丘陵が平野部に突き出した末端部であり高度はあまりない。この丘陵部の切通しを越えれば関本に入る。
切通しを越えると関本の街、そしてその向こうに箱根連山の尾根に矢倉岳の独特な姿が見える。切通しの道を下り県道75号に合流し道なりに貝沢川を渡り龍福寺交差点に。

龍福寺
お寺さまにお参り。創建年代は永仁6(1298)年とされ、開山は元応元(1319)年、藤沢の遊行寺を本山とする時宗のニ祖の真教によるもの。本尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代作。像高88センチ、膝の幅が70センチある堂々としたもの、とのことである。
矢倉沢往還の宿である関本宿は、龍福寺から西に入った道であり、古代の坂本駅に比定されるとのことではあり、歩きたいのは山々ではあるが日も暮れてきた。今回の散歩はこれでおしまい。





龍福寺交差点から南に進み伊豆箱根鉄道・大雄山駅に向かい、一路家路へと。