土曜日, 2月 25, 2023

伊予 大洲街道散歩 その⑥ ;江戸期の大洲街道(内子町立山から伊予市一の瀬への山腹の道)

過日5回に分けて松山から大洲を繋ぐ大洲街道・松山街道を辿った。その時は伊予市一の瀬から内子町立山(伊予立川駅の南、国道56号立川橋)までは中山川に沿った国道56号を辿った。が、愛媛県県立図書館でお借りした「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」にはこの間、谷沿いのルートの他、山腹を辿るルートが地図に描かれており、「中山町域では、大洲街道というと大字中山の永木を経由するコースを指すことが多い。すなわち、中山の中心街泉町から西方に向かって山を登り、追俵峠、重藤峠を経て永木に至り、中川の支流藤の郷川沿いに下って内子町立山の上横平に出て、下横平、上立山を経て、下立山あたりで本道と合流するコースである」とし、また「永木には応永九年(一四〇二)の石造物(三島神社の一本鳥居)があり、中世様式の五輪塔なども数多く見られること、(中略)道沿いには、すけ塔(重籐)、三国 (山谷)、惣家(添家)、ひれい (北平)、長木(永木)、ユスノ木(柚之木)、トチノ木(栃之木)などの中世地名が数多く遺存していること、(中略)などを考慮にいれると、古い時代にはこのコースを通っていた可能性は高いといえよう。(岡田昌人「大洲街道を歩く―中山町永木から犬寄峠まで―」)と記す。尚また「泉町を経由しないで、榎峠の南1㎞のところにある一の瀬橋のあたりから山中に入り、高岡の集落を経て柚之木から永木に至るコースもあったと伝えられており、在町としての泉町が発達する以前は、このようなコースがとられていた可能性が高い」とも記されていた。
この間、谷沿いを避け、山腹を辿った因は藤の郷川を遡った永木が、前述三島神社鎮座が示すように古くから栄えていた所であったこと、また。これは妄想ではあるが、立木から一の瀬の中山川谷筋が急峻で川筋に道を通すことなどできなかったのかとも思う。土木建設技術が発達していない昔は土砂崩れの多い川筋を避け、山稜や尾根道に街道を通すのが常のことであり大洲街道もその例外ではなかったのだろう。
その山腹を辿るルートであるが、「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」には上述の説明と地図上にルート概略が記されているだけであり、詳細なルート案内は記載されていない。これではどうしようもない。で、あれこれ探していると「中山史談会」が作成した「旧街道は語る 大洲街道」が同じく県立図書館にあり、郷の川中流以東の旧中山町(現伊予市)の泉町や一の瀬までの大洲街道ルートと史跡などが記載されている。それによると、藤の郷川筋に下りた大洲街道は福住、永木まで藤の郷川の谷筋を上り、永木から谷筋を離れ重藤、柚之木、高岡を経て中山川の谷筋の一の瀬に下りる。通称このルートは「オオテンマツ街道」と呼ばれ江戸時代の中頃延享4年(1848)頃には開通したと言う。 ルートはもうひとつあり、それは江戸末期に開かれたもの。上述柚之木から追俵峠を経て福元から中山川筋の在町である泉町へと下り、上述一の瀬で「オオテンマツ街道」に合流するもの。「泉町街道」とも呼ばれるこのルートは在町である泉町が山産物の集散地として栄えたため開かれたものであろう。
「旧街道は語る 大洲街道」を参考に藤の郷川以東の大洲街道のルートは何となくわかったのだが、藤の郷川筋までの内子町内の大洲街道は上述の「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」説明と地図に描かれたルート図だけである。そのルート図を見ると、内子より千部峠に上り、一旦水呑観の谷筋に下りた大洲街道(松山街道)は、再び休場峠のある丘陵を越えて、内子町立山、現在の立山橋南詰から少し上ったところに出る。このルートは先日辿った。そこから東は中山川の谷筋に下りることなく、東に向かって山を上り現在の県道323号に出た後、山腹を北東進し、4キロ弱進んだ後、県道を逸れて山越えし藤の郷川の谷筋に下りている。そこから先は「旧街道は語る 大洲街道」に記されたルートを辿ることになる。
ルート全体はほとんど県道や町道らしきところを進む。Google Street Viewでチェックすると、舗装されておりほとんどは車で走れそう。今回は基本車で走り、山越え部とか道を逸れた旧道があればそこを歩くことにした。特段古き趣きの旧道が残るわけでもなく、往昔の人が眺めたであろう景観を楽しむことが主眼となりそうであり、それなら車で十分と考えたわけである。
スタート地点は休場峠のある丘陵を越えて下りてきた内子町立山、現在の国道56号立川橋南詰から少し上ったところ。先回の散歩で伊予立川駅の南、激しい藪に久しぶりに「泣いた」箇所をクリアし崖を這い上がった予讃線宿茂トンネル上の内子へと南に向かう休場峠への道と、東へと山腹の県道323号へと上る道の分岐点からはじめる。



本日のルート;
内子町立山から藤の郷川の谷筋まで
国道56号笹橋>車デポ地>作業小屋>大洲街道(山腹の道・谷筋の道)分岐点>作業小屋に戻る>県道323号に>山腹の県道323号を進む>山入り部>藤の郷川支流の沢筋より藤の郷川の谷筋を通る県道224号を繋ぐ
福住をへて永木まで
袋口の龍王神社>福住の谷のお堂>大木戸>福住の標石>県道224に合流>道路改修碑>弘法大師像>藤縄森三島神社>永木の標石>大乗妙典廻国供養塔>宝篋印塔>森のお堂>>弘法大師堂
永木から追俵峠へ
重藤のお堂>柚之木のお堂>追俵峠
泉町街道;追俵峠から泉町街道を中山川筋・国道56号泉町へ
福元>石仏>泉町
オオテンマツ街道;追俵峠から栃賀峠を抜け、高岡を経て中山川筋の一の瀬に
高岡のお堂に阿弥陀如来像>お堂と石像仏>一の瀬

国土地理院地図


NOTE:地図が表示されない場合は、検索窓に「八幡浜」などの地名(適当に「東京」などを入力しても表示されます)を入力し
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内子町立山から藤の郷川の谷筋まで



予讃線伊予立川橋の南、国道56号・笹橋を渡り立山の集落へ向かう
笹橋から立山(?)の集落へ
車デポ地。右下に下り街道分岐点に
国道56号を走り、予讃線伊予立川橋の南、国道56号・笹橋で中山川を渡り予讃線の高架を潜る。笹橋の左手、予讃線宿茂トンネルまでの間は激しい藪に悩まされた大洲街道旧路。内子側の千部峠に入る山入り部の案内には、この箇所は迂回し、立川橋へと下りて国道56号を進み、笹橋を渡り予讃線の山側を伊予立川駅方面へ迎えとあった。
それはともあれ、高架を潜り右に折れ少し進みヘアピンカーブで折り返し、後は道なりに進み立川橋南詰から道を上ったところにある立山(?)の集落へ向かう。過日内子に向かい休場峠へと進む道筋に通った作業小屋一段上、道が二手に別れる手前の小屋傍に車をデポする。
立山と立川
地名に立山と立川が混在する。チェックすると立川村は立山村と川中村が合併するに際し、それぞれ1字をとり立川村とした。立川村は昭和35年(1955)内子町やその他の村と合併し現在は内子町となっている。

大洲街道;山腹の道と中山川沿いの道の分岐点に
作業小屋。内子と中山方面への分岐点辺り
作業小屋から崖を下り
江戸期の大洲街道と中山川沿いの大洲街道の分岐点をスタート地点とする 車デポ地より左へと下る舗装道を進む。ヘアピン状に左に廻ったところより南に進む道は先般内子へと辿った休場塔へと向かう道。ヘアピンカーブを曲がりその先、先回大洲街道と思われる崖を上ったところにあった作業小屋に。内子へ向かう大洲街道は今辿ったヘアピンカーブへと南に進むが、中山に向かう大洲街道はこの小屋辺りから丘陵を上り東進する。
作業小屋から道に下りる。
山腹・谷筋道の分岐点
作業小屋から道に下りた箇所。
ここから作業小屋に戻る
江戸期の大洲街道と後世の中山川沿いの大洲街道の分岐点をスタート地点とすべく先回辿った作業小屋から下る崖道に入る。崖を下り宿茂トンネル上の道に出る。この地点が、先回大洲街道の中山川沿いの道として辿り、予讃線伊予立川駅の南、笹橋北詰を進み滅茶苦茶な藪で「泣き」。やっとの思いで這い上がったところ。国道56号立川橋南詰めから立山の集落へと続く簡易舗装の道だが車で通るのはちょっと怖い。

県道323号に入る
県道へと上ると対岸の山並みが見えてくる
県道323号との合流点に下立山集会所
大洲街道の山腹の道と谷沿いの道の分岐点を踏み、再び崖を這い上がり作業小屋まで戻る。小屋の辺りにはそれらしき道筋は見当たらない。集落の方に尋ねるが旧道は道の改修で残っていないとのこと。 車デポ地まで戻り、曲がりくねった町道(?)を「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」に描かれた大洲街道と重なる県道323号まで上る。途中、それらしき踏み跡道でもないものかと注意しながら走ったが、特段の道筋を見つけることはできなかった。
道を上り切り県道323号との合流点に下立山集会所。とすれば先ほどの集落は下立山の集落かも知れない。

山腹の県道323号を進む
県道からの遠景
集落の家を記載した案内板
県道は山腹を縫うように北東へ進む。右手、中山川の谷を隔てた山並みの遠景は美しい。 道を進むと大きな案内板がある。名所でもと思いチェックすると、そこには山腹に点在する家屋が記されていた。
その直ぐ先、曹洞宗・福成寺越えたをあたりから道は下りはじめる。

山入り部
林道に入り成り行きで右手の山へと入る
山道を進むと林道に出る
しばらく下り、標高180mあたりから県道を逸れ山越えし藤の郷川の谷筋に向かうと「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」の地図に記される。詳細なルートはわからないが、山に向かって簡易舗装の林道らしき道も見える。道脇に車をデポし山入り道に入る。
林道はあらぬ方向に向かうようであり、林道より逸れる踏み跡を見つけ山道に入る。これが大洲街道とも思われないが取り敢えず。コンパスを頼りに北へと向かう。
林道もここで切れ
その先は杉林を沢まで下る
と、ほどなく林道に出る。林道をしばらく進むと道が下りはじめ、その先で二手に別れる。なんとなく北へと下りる道筋を選び先に進むが、その先で林道は消える。
ここからは力任せで杉林の中を藤の郷川支流の沢筋に向かって下る。往昔大洲街道を辿った人も踏み跡はあったのだろうが、こういった急斜面を下りたのだろうと感じるだけ。沢筋まで下る。「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」には大洲街道は沢の左岸を渡り県道に出ている。沢に飛び石で対岸に渡れる箇所を確認しピストンで車デポ地に戻る。

藤の郷川支流の沢筋より藤の郷川の谷筋を通る県道224号を繋ぐ
県道224号から沢筋に入る
ルートにある左岸ではなく右岸を進む
車デポ地まで戻り、県道323号論田袋口(ろんでん・ふろく)線を中山川の谷筋まで下り、藤の郷川に沿って北進する県道224号永木内子線の交点に至る。交点の辺りが袋口ということだろう。 そこから県道224号に乗り換え藤の郷川に沿って上流に進むと直ぐ松山道の高架。その直ぐ先、藤の郷川に注ぐ支流の沢傍に車をデポし、先ほど下った沢筋までを繋ぐことにする。
沢と合わさり道が消える
道が消えた辺りで下った道と繋ぐ
「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」に描かれたルートでは沢に下りた後、左岸に渡って県道224号へと出ているのだが、道が荒れている。右岸にも道があり、そちらのほうがすこし歩きやすそうでもあり右岸を進む。道らしき踏み跡が切れる辺りが山越えで沢に下りてきたところ。上述の如く沢には対岸に渡れる飛び石はあるのだが、何となく左岸の道は荒れているように思い、山越えからの道を繋いだ後、往路と同じく沢の右岸を県道へと戻る。


福住を経て永木まで



袋口の龍王神社
県道を少し進んだところ、道の右側に龍王神社。住所は内子町袋口となっていた。道路の法面に沿った石段参道を少し上ると小さな祠がある。龍王神社を越えるとほどなく行政区域が内子町から伊予市に変わる。

福住の谷のお堂
お堂のある森(正面)。左福住集会所
谷のお堂
県道を進み福住に。藤の郷川に架かる橋の手前、県道脇に車デポ。橋を渡り右折し緩やかな坂を上ると三叉路があり角に福住集会所がある。この辺りに谷のお堂があると言う。



偶々出合った地元に方に尋ねると、三叉路の北にある森の手前の土径を少し上るとお堂があるとのこと。 お堂の角にはそれぞれ力石が残る。またお堂を囲む崖には穴が掘られ、そこには舟形石造物、座像石仏が祀られていた。

大木戸
県道に出る手前に民家(県道側から)
民家横に石碑と札所標石
谷のお堂から福住集会所の三叉路まで戻り、そこから藤の郷川を対岸に渡るのだが、三叉路の辺りから一段下に下りるステップがあり、その先に藤の郷川を渡る人道橋が見える。ステップを下り土径を進むと右手に民家が一軒あり、その道脇に石像仏が並ぶ。左から舟形石仏、中央に「奉供養 神社仏閣寄進心願成就塔、右手に「第三十七番札所 岩本寺」と刻まれた標石。なぜここに岩本寺の標石?傍の民家が岩本さんだと先ほどの地元の方に教えて頂いた。
ところでこのあたりを大木戸と呼ばれるようだ。「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には、「大木戸 旧街道から天山城下村落へ入る場合、 福住にある第一検問所関所)を通らなければならず、その周辺を大木戸といった」(「中山町誌」)
この辺りが大木戸?正面は谷のお堂のある森

「土橋あり。大洲・松山への旧街道で合之森城主頃大きな木戸があったものと思われる。」
「一説によれば、川の西側は大木戸と呼ばれ、戦国時代にあった天山城へ入る大木戸が設けられていたとされており、その名残であるのかも知れない。この天山城について 『大洲随筆』には次のように記されている。「足利の頃より城地と成、 天山ノ城と号、城主城戸右京太夫成直居ル、天正年中の頃廃城、子孫邑の長となる」とある。
天山城跡は福住の集落より西へと山に上り、猪の峠より尾根筋を北に進んだところにある。標高715mの山頂には主郭、北側には堀切なども残るようである。

福住の標石
県道右手のスロープを上る
土径を進み林に入ると

「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には「福住集会所下の集落の横を北進した後、大木戸の端を再び東岸へ渡る。旧道はそのまま県道を横切り、しばらく斜面を登り県道より一段高い位置を北へ向かう。 二十~三十メートルほど行った右手に道標がある」と記す。谷のお堂の場所を教て頂いた地元の方に尋ねても、この地に何十年も住むがそんなものは聞いたことがない、と。
踏まれた道の右手に標石
仕方なくこの説明だけを頼りに、藤の郷川を渡り県道に上る。と、県道法面上に上るコンクリートのアプローチがある。アプローチを上がると踏まれた道があり、畑地から林に入った土径を行きつ戻りつ標石を探す。結構探したが見つからず、諦めて引き返そうとした時、杉の根元に標石が見つかった。「右フクズミ 左ウチコ」と刻まれる。方向がちょっと会わない。どこからか移されあのだろうか。とはいうものの、わざわざこんな林の中へ移す理由もないし。はてさて。


県道224に合流
県道224一段上を進み松山道高架を潜る
高架の先県道329号。先に進めず県道を下る
標石から県道より一段高い土径を進む。「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」の概略地図には、現在南北に走る松山道を東に抜け、更に県道329石畳中山線をクロスしその先で西へと廻り込み県道224に合流するとある。先に進むと松山道の高架下を抜け県道329号までは道が続くが、その先は松山道にブロックされて道が続かないように見える。仕方なく県道329号を下り県道224号に戻り車デポ地へと戻る。

道路改修碑
県道224を北に進む。道の左手、消防団の倉庫の対面に4基の石碑。3基は道路改修碑、1基は鷹尾寅太郎翁顕彰碑。
右から、「道路改修促成会寄附 一金四百円 城戸庄五郎促成会建之 大正十四年十二月」、「立川上灘線 県道移管記念 昭和二十四年五月 昭和三十一年十二月 愛護会建之」、「鷹尾寅太郎翁之碑 昭和廿四年五月」、「町村道 改修記念碑 大正十二年十二月竣工 昭和七年四月建之」と刻まれる。 ここに限らず処々に道路改修記念碑が立っていた。
城戸、鷹尾氏共に地元の篤志家。僻地間の道路開通に尽力された、と。

弘法大師像
県道を少し進むと、道の右側の法面に石仏が祀られる。法面工事の際、そこだけを残したのだろうか。両側に舟形石仏、中央に弘法大師像。寛政七年(1796)の作。伊予市の指定文化財。

藤縄森三島神社
弘法大師像の直ぐ先、藤の郷川に架かる橋を渡る。白塗塀といった意匠が施されている。橋を渡ると正面に藤縄森三島神社。
●大鳥居
正面に大鳥居が建つ。「石柱の直径三十センチ、地上から笠まで三百八十センチ。石材は地元産出の安山岩で造られており、元禄十六年(一七〇三)年に建立された。(市指定文化財)と「旧街道は語る 大洲街道」に記される。
鳥居の手前に「 大山祇神社」と刻まれた石碑が建つ。本殿棟札に「天平勝宝元甲午年秋八月社僧慧海敬記  約千三百年前伊予の国大三島大山積神社より勧請奉祭」とあるようだ。奈良朝孝謙女帝の代、伊予の国大三島大山祇神社より勧請しこの地に奉斎した歴史を残すのだろう。
●一本鳥居
立派な造りの神門の手前左手に一本鳥居。一本鳥居傍の案内板には「三島神社 一本鳥居 愛媛梨指定有形文化財石鳥居遺構
所在地 伊予郡中山町大字中山午一七〇番地
直径 三七・三センチメートル
高さ 一八五・〇センチメートル
建設 応永九年八月二十二日(一四〇二年)
管理者 藤縄之森 三島神社
一本鳥居
ここにいう、愛媛県指定有形文化財石鳥居遺構は、本神社楼門前左側にある鳥居の片方の石 柱と附近に置かれてある笠石のことであり、いつの頃からか一本の石柱のみ原形のまま建ってい るどころから「一本鳥居」といい伝えられてきた。
この鳥居の原型は、古代式関東型で背丈が低く笠石の反りが非常に少なく中央の石が長方 形で、関西型に比し素朴で一見不恰好に感ぜられる。従って全国的に見ても数少ない鳥居の一 つであって文化財として貴重な建造物である共に、石柱の刻銘文字は「金石文字」研究の面 からも価値のある存在といわれている。
傍に笠石が置かれている
この鳥居遺構は、当地永木産黒雲母安山岩で造られていて、石面の刻銘に「當国守護河野通 之御代謹奉之鳥居之事、當?地頭合田道法大願主梅原沙彌、大工越智氏竜途中山 五十建 敬白、應永玖歳次五年八月念二日」とある。今を去る五八〇年前の建立である。何故一 本の石柱のみが原形のま、存在しているかについては明らかでない。然し文化財の価値は一本鳥居とい った変わった形にあるのではなく、約六百年前に建立された鳥居一部が現存しているというところにあるとの思いこの石柱を見るべきである。 昭和五十七年三月建之」と記される。
愛媛県神社庁の記事には「鎌倉時代伊予の国主河野通有、その子通吉、通朝、通貞の三子を伴い喜多郡中山の郷梅原の里に入り三子をこの地に止め、祖先の因縁により城戸、越智、合田の姓を名乗らせ共同領有の地と定めた。
その後合田家が隆盛を極め通基の代に到り一族を引き連れ高之森(合之森)に居城を構え、5382石を領有し23ヶ村を支配するに到る。通基は当神社を武運長久の守護神として奉祭し、厚く崇敬し応永9 年(1402) 自ら願主となり鳥居を建立し、神域の面目を一新すべく計画致するも、 何かの事情で完成に 到らなかったと。
その後合田家に代わり城戸家の勢力が高まり、天正文禄のころ高森城より天山城に転じ城戸右京守亮(たけし) が祖先の意志をつぎ社殿の造営境内地の整備拡張に意を注ぎ現在の神域を形成したと伝えられています。

慶長5年(1600)、 城戸右京守は朝鮮征伐の戦功により九州杵築城に転封され稲葉の姓を名のり五万石を領する大名となり、この地を離れるにあたり一子を残し、当神社の神官として長く祭祀に奉仕したと伝えられる。
江戸時代には大洲五万石加藤家の領域に属し、 代々の領主崇敬の念厚く年毎の例祭には「御召仕」と称する代官を差廻し、永木城戸家に館を構え城主の代参祭儀の指図を勤めていたと伝えられている。 このように当社は古き昔より地頭及び城主の崇敬特に厚く近郷住民の信仰と相俟って参詣者も多く隆盛を極めた古社であり、46町の地所持ちの大社であったようである。
現在の本殿は、 神明造りの石の口引き土台で江戸時代初期の建立であるといわれ古くは萱葺でありましたが昭和30年銅瓦葺きに改め内宮式棟造りを配し、豊かな社叢と相俟って静謐な神域を形成し大字中山の氏神として住民の信仰の的としてあがめられてる」とあった。

永木の標石
講堂裏の道入口に標石
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には永木地区に宝篋印塔、森のお堂、板碑地蔵彫刻などが紹介されている。板碑地蔵彫刻は天山城の近くであり、少し離れているので今回はパス。宝篋印塔、森のお堂を訪ねることにする。森のお堂はGoogle Street Viewでも確認できるが、宝篋印塔の場所は同書の説明では今一つはっきりしない。




右いしだたみ
左うしのみね・かみなだ
が、なんとなく永木小学校の裏手の森の中といった感もあり、アプローチ口を探す。と、小学校校舎と講堂の間を山へと入る道がある。そこから入ろうとすると入口に標石が立ち、「右 いしだたみ* 左 うしのみね一里三十* かみなだ二里十ニ丁」といった文字が刻まれる。








大乗妙典廻国供養塔
祠の後ろに廻国供養塔
標石より小学校校舎と講堂の間の道を進む。ほどなく土径となった道を進むと小祠とその裏に大きな石碑。大乗妙典廻国供養塔と刻まれる。なんらかの縁によりこの地に立てられた六部の供養塔だろう。周囲には座像石仏、舟形石仏などが並ぶ。

宝篋印塔
宝篋印塔
直ぐ上は三島神社御旅所?
廻国供養塔から左手獣防御の柵が張られた道を少し進むと、道の右手、一段高い所が少し平坦になっている。道を逸れて踏まれた道を上ると宝篋印塔があった。平坦な地には三島神社御旅道建設記念の石碑が立っていた。平坦な地は三島神社の御旅所なのだろうか。

森のお堂
宝篋印塔前の土径を進み
車道に出ると森のお堂
平坦地から道に戻る。道は上に続いている。場所からすれば、ひょっとして「森のお堂」に続くのではと先に進む。少し進むと車道に出て、道なりに進むと森のお堂が建っていた。茅葺の趣きのあるお堂。
お堂の傍に案内があり、「伊予市指定文化財 有形文化財(彫刻) 藥師如来像
中山町永木地区の通称「森のお堂」に安置されている。
お堂のまわりには石仏や
力石
この像は桧の一木造りの彫刻である。全高64cm、肩幅30cmの座像である。 製作年は不明であるが、鎌倉期もしくは、それ以前のものと推定される。 脇侍に日光菩薩・月光菩薩が安置されている。 この像は、藤縄之森三島神社構庭に安置されていたが、天保3年(1832)に「森のお堂」が建立され移転されたことが記録されている。
永木地区では明治初期にミニ山四国88ヶ所が設置され、このお堂は、毎年4月21日と8月21日の弘法大師の縁日には今も巡拝者のお接待場所として使用されている」とあった。
「旧街道は語る 大洲街道」には「お堂の軒下扁額に「天保十五甲辰年初秋に移築」と書かれているが、この時は三島神社拝殿横の御神輿倉付近にあった建物を、森へ移築したと伝わっている。疑問が残る」とある。移築の年代も異なるし、未だはっきりしないということだろう。

弘法大師堂
弘法大師堂
岩壁に大師像や石造物
県道224号が県道226串中山線に合流した少し先、県道226号が藤の郷川をヘアピン状に渡るその直ぐ北に弘法大師堂がある。川を渡った傍にある民家北側から県道を逸れて北に向かう土径があり、そこを少し進むと弘法大師堂に着く。
お堂は吹き抜け。「旧街道は語る 大洲街道」には「 弘法大師堂 地元の人は、「弘法さん」と呼んでいる。お堂の横の岩壁には、石の大師像が祀られている。この像には「元禄十六年十一月廿一日」と刻まれている。
大師像の近くには四体の石像が、岩の突起を利用したり壁を削ったりして祀られている。また、「嘉永三戌年七月廿一日」と刻まれている。ここのお堂では毎年四月二十一日に「お接待」が行われ、集まった人々にお茶や酒・料理がふるまわれる。なお、このお堂には力石が一個残っている」とあった。
お堂横の岩壁にはコンクリートで補強された覆屋が造られ、その中に大師座像や舟形石仏が祀られていた。「大師像の近くには四体の石像が、岩の突起を利用したり壁を削ったりして祀られている」とあるが、はっきりとわかる石像は見受けられなかった。

永木から追俵峠へ


重藤のお堂
切通し手前の県道
切通し右手の一段高いところにお堂がある
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」のルート概要図には弘法大師堂から先は、少し北に進んだ後、松山道をクロスし沢筋を東進し重藤の集落を繋いでいる。さてどうしようかと少し考えたのだが、はっきりとしたルートずでもなく、またこれといった史跡も見当たらないこともあり、重藤まで県道226号を進むことにした。
お堂には瑠璃殿の扁額
お堂寄進者石碑と札所石仏
松山道を越え左手、県道を左に逸れたところにあると言う合之森城跡(上述合田氏の城。現在畑地となっているよう)へのアプローチ道をやり過ごし、曲がりくねってはいるがよく整備された県道を進むと、重藤の集落手前に切通し。その切通しの右手一段高いところに重藤のお堂が建つ。切通しを抜けた辺りからお堂へ上る土径がある。少し上るとお堂があり、扁額に「瑠璃殿」とある。 お堂の廻りに遍路札所寺が刻まれた石仏が並ぶ。石仏左端の石碑には「昭和二十八年県道改修の為お堂敷地寄付者 拾*谷本磯吉 *平野武智郎」といった文字が読める。
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には、「石碑に「御堂移轉 昭和二十八年四月十六日」と刻まれている。
札所石仏
力石も
現在の位置より北にあったお堂を県道工事のため移転したのである。このお堂の横にあるミニ四国八十八箇所の馬頭観音には、文政十二丑四月八日の銘が見られる。
重藤という地名についても言い伝えが残されている。戦いの後、天山城主を追ってきた武将が峠で弓を放ち、それが危うく城主に命中するところであった。その武将が持っていた重藤の弓にちなんで、この名が付いたという話である。(岡田昌人)戦国時代 重藤の峠より力強い武将が天山城へ向かって籐かずらで巻いた強い重藤の弓を射たという伝説から生まれた地名(「中山町誌」)である」とある。
瑠璃殿の由来は不明。薬師如来の住む東方浄土は東方瑠璃国浄土と称される。お堂には薬師如来が祀られている(いた)のだろうか。因みに阿弥陀如来の西方浄土は、西方極楽浄土と称される。

柚之木のお堂
県道を進み
柚之木の観音堂に
重藤の集落を抜け県道を進み柚之木の集落に入る。柚之木集会所の手前に「柚之木観音堂」の看板。お堂は県道の一段下にある。柚之木集会所前に車をデポ。柚之木集会所裏手に廻り込み観音堂に。扉は閉められてなく、観音像を拝観できる。
お堂の周りに石仏
観音立像
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には、「柚之木集会所横のお堂には、観音像 (市指定文化財)が安置されている。木造桧造りの立像。 製作年代は鎌倉末期のものと推定されている。本尊として造られたもので檜の寄せ木造りで前後に分けられる。脇侍として毘沙門天が二体立っている。なお、このお堂には力石が二個残っている」とある。力石は見逃した。




追俵峠

道路改修記念碑より追俵峠へ歩く
道路改修碑脇から追俵峠への道
県道を少し進むと道の左手に道路改修記念碑。昭和七年六月建立。「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には大雑把ではあるが、この道路改修碑より県道を逸れて追俵峠へと大洲街道ルートが描かれる。道脇に車をデポし峠へと歩く。その直ぐ先には追俵峠へと上る車道もある。
往路
舗装された町道に出る

東に山並みの遠景
細いながら簡易舗装されている。上述ルート図では北東へと上り町道らしき道に繋がっている。舗装された町道を進むと切通しとなった追俵峠に着く。


追俵峠
左弘法大師、右不動明王
石に線描された不動明王
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には、「柚之木の道路改修記念碑を東方へ登っていくと、追俵峠へたどり着く。
追俵峠は、柚之木地区と福元地区の尾根にある。昔大洲街道として大洲藩と松山藩間の通行の要所であった。柚之木地区は、永木・満穂・横平(袋口)地区や中山地区の人々が頻繁に行き来していた。中山村庄屋(長岡家)が福元にあり、年貢米を庄屋に納めるため、この峠を背負子(別名おいこ)で米俵を背負っていたので、追俵峠と名付けられたのではないかと思われる。また、荷馬で物も運んでいた。 この峠には、通行の安全を祈るため不動明王を祀っている。この不動明王は、石に陰刻されている。もと柚之木に安置されていたが、流行病が蔓延したので祈祷師に拝んでもらうと、もっと賑やかな所へ安置せよとお告げがあり、現在の峠に移したとのことである。
不動明王の下には、お経の文字の書かれた沢山の川石が素焼きの壺に入れられて納められている。 不動明王像の周囲に左記の文字が刻まれている。
文政四辛巳年四月吉日
大乗妙典一字石書寫塔
導師靈雲 願主 定意
この不動明王の隣には弘法大師の石像があり、それには、安永八己亥年三月廿一日とある。 以前峠には大きな松の木が二本あり、二本松とも呼ばれていた。しかし、昭和五十年代に松食い虫の被害で枯れてしまった。
切通しを越えると急坂で福元に下る
追俵峠の切通し。不動尊は左手
付近には、旧中山高校(現 伊予農業高校)の追俵農場がある。現在は、柚之木・高岡・福元へ通じる立派な道路が開通し便利になった。
なお、最初の大洲街道は追俵峠の上方のトチガ峠を経て高岡を通り一の瀬へ抜けていたが、泉町が発展したので追俵峠を経て泉町へと変わったようである」と記す。
石に彫られたお不動さんはあまり見ない。印象的。法華教の経典の文字をひとつの石に一字づつ彫った一字一石供養の壺は見つけられなかった。
説明にある「トチガ峠を経て高岡を通り一の瀬へ抜けていた」大洲街道は、江戸時代の中頃延享4年(1848)頃には開通したと言う「オオテンマツ街道」。「泉町が発展したので追俵峠を経て泉町へと変わった」道が泉町街道。江戸末期に開かれたとのことである。
復路
掘割を抜け
耕地の脇を進むと往路の土径にあたる
車デポ地に戻る。「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」のルートは追俵峠へと県道からの上り口から一直線に西進しているように見える。復路はこのルートを辿ろうと道を探す。と、追俵峠から町道を少し戻った一段低いところの民家脇に踏み跡らしき筋が西に続く。取り敢えず行ってみようと町道から民家脇に設けられたステップを下り、民家の軒先を進む。道は少し荒れているがどうということはない。その先掘割道を抜けると耕地の畦道を進み往路で上った道に合流した。


追俵峠から泉町街道・オオテンマツ街道



追俵峠から先は泉町街道、オオテンマツ街道のルートを走る。日も暮れはじめ、とりあえず如何なる景観かと車を走らすだけとする。

泉町街道;追俵峠から泉町街道を中山川筋・国道56号泉町へ


泉町に向け下る
途中道脇に4基の石仏
在町である泉町が栄えるにつれ、江戸時代の中頃延享4年(1848)頃には開通したと言う高岡から一の瀬へと下りる「オオテンマツ街道」に代り江戸末期に開かれた道。追俵峠の切通し(如何にも道路建設に合わせて切通された感)を抜け、結構急な道を東に下り福元の集落に。
舗装された道は等高線に抗うことなく曲がりくねって下るが、往昔の大洲街道・泉町街道は山腹をほぼ直進して下る。 福元から先、屈曲した道を走ると農業構造改善の記念碑の傍に4基の舟形石仏が並ぶ。石仏の少し手前には舗装道を逸れるところもあったのだが、もう日暮れも近い。オオテンマツ街道を走る予定も残っており、道を下り取り合えず追俵峠と泉町を繋いだ。

オオテンマツ街道;追俵峠から栃賀峠を抜け、高岡を経て中山川筋の一の瀬に

主要往還が泉町街道に取って代わられるまでの大洲街道。、江戸時代の中頃延享4年(1848)頃に開通。

石仏(中央)から道を逸れると栃賀峠?
法面の切れたところに石仏
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」のルート説明には「栃賀峠を抜け」とあるが、いくら探しても栃賀峠が特定できない。追俵峠を西に大きく迂回した舗装道路を少し北に進むと法面が切れたところに石の小祠があり石仏が祀られる。そこから県道を逸れ山へと入る土径があるが、地形から読むとその先辺りが栃賀峠かとも思うがはっきりしない。時間に追われ確認に向かうことができなかった。
栃賀峠
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には「トチガ峠(栃賀峠) 柚之木地区と高岡地区の境。 栃賀峠は、中山町高岡地区の正岡宅南側を西へ三十メートル程登ったところに位置する。この峠は最初の旧大洲街道で、柚之木地区から高岡地区さらには一の瀬、榎峠へと通じていた。 しかし、泉町の人口が増え発展したので、柚之木から追俵峠を越え福元、泉町へと旧大洲街道の道程が変わった。
太平洋戦争時、戦勝祈願と出征兵士の無事を祈って「にっさん参り」と称し、この峠を越え、高岡地区の人々が順番に氏神さんである永木の三島神社へお参りをしていた。
また、高岡地区の人々は信仰心が厚く現在でも四月二十一日、八月二十一日のお大師さんの縁日のお接待、四月十八日、八十八日の黒滝山の観音さんの縁日のお祭り、(徳川三代将軍家光の頃、高岡出身の太兵衛が黒滝浅草聖観音さまを持ち帰り多くの人々にご利益を与えたと云う伝説がある。) 八月十三日の盆踊り、八月十四日の新仏さんを送る亡霊おどり、八月十五日の大山積神社でのおこもり、鶴岡天満宮での秋祭りの日の夜神楽など、地区を挙げて信仰と相互間の親睦を兼ねての伝統を積極的に継承している。
峠付近では、昭和四十九年度道路整備工事が行なわれ車の通行が便利になった。また当地区では、最近キウイフルーツの栽培が盛んに行なわれている。峠から下る。高岡地区である。正岡家、福岡家の下を通り、畑の中に残っているのが旧道。町道に合流し下った所にお堂がある」とある。
時間があれば「畑の中に残っている」とある旧道をトレースしてみたかったのだが、日暮れと競争。舗装道を車で進む。

高岡のお堂に阿弥陀如来像
ここを左に入る
高岡の阿弥陀堂
しばらく車で走り、「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」にある概要図から推測した(地図は縮尺などが実際と異なっている)高岡のお堂に向かう。町道を左に逸れる角に民家。民家の山側を少し上ると、道の左手にお堂があった。
「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には、「お堂 阿弥陀如来像 (市指定文化財) 阿弥陀如来像は、中山町高岡地区宮岡孟氏宅の上に安置されている。この像は、檜の寄せ木作りで、鎌倉時代の作と伝えられ、寿永二年(一一八三) この地に建立された豊国山寿永寺の本尊であったが、同寺が火災に遭い、泉町一丁目の浄光寺に移転する際にこの像も同時に移された。しかし、なぜか寿永寺があった方向に像の体の向きが変わるので、人々が「これは如来様が元の所に帰りたいのであろう」と考え、 浄光寺には別の本尊を作り、如来像を現在の所(宮岡氏宅裏)に戻して安置したと伝えられている」とある。

お堂と石像仏
遠景を楽しみながら道を下ると
T字路にお堂
町道に戻り道を下る。ほどなくT字路にお堂と周囲に幾多の石造物。「旧街道は語る 大洲街道(中山史談会)」には阿弥陀堂から先ののオオテンマツ街道について「お堂を過ぎ、高本家の前をまっすぐ東に下る。道標「右中山町に通ず、下一ノ瀬道」。旧道は、ここから町道を離れ下へ降りて行く。杉林の中を行くとしばらくして視界が開け、山の谷あいに水田が広がっているところに出る。道は水田のほぼ中央を横切っている。 途中の小川には大きな石が渡され、しっかりした道である。そこから一旦登り、牛舎の横を抜け、その先の栗園を行き、左に廻り込めば六郎屋敷である」とある。
お堂の周りに幾多の石仏
道路建設に際し集められたのだろうか
ルート記述・概略図から推定するとオオテンマツ街道はこのお堂の辺りに出てくるように思える。お堂の裏手は杉林。どこかにアプローチはないかとあたりを探すと、お堂から少し下ってところに町道から杉林へと逸れる土径があった。ひょっとするとそれが道筋かとも思うのだが、何せ時間がない。旧道を進み六郎屋敷に向かうことなく、町道を下り一の瀬橋まで下り、本日の散歩を終えることにする。

行く前には本日は基本車で江戸期の大洲街道の雰囲気を味わうだけのつもりではあったのだが、実際ルートを辿ると、追俵峠から福住を経由して泉町に出る泉町街道、栃賀峠から高岡を経て一の瀬に出るオオテンマツ街道の旧道を辿ってみたくなった。