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月曜日, 5月 01, 2017

兵庫 加古川の谷中分水散歩 そのⅡ:加古川に見る中央分水界と谷中分水界、そして河川争奪の峠を辿る

加古川の谷中分水界を辿る旅の二日目。先回に続き、堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある加古川の谷中分水界を辿る。今回は同書にある「日本海と瀬戸内海の水争い:由良川による加古川の争奪」の地である鼓峠と栗柄峠、そして「真っ平でファジーな分水界:源流で水のつながる加古川と武庫川」の舞台であるJR宝塚線・篠山口駅辺りを訪れる。
栗柄峠と鼓峠は共に由良川水系による加古川水系の河川争奪の地ではあるが、鼓峠にはその結果としての「片峠」を見ることができると言う。片峠自体は、先日訪れた土佐・窪川盆地を囲む幾多の片峠()に限らず、中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠、愛媛の三坂峠など、それほど珍しいものではない。また河川争奪も都内でも王子付近の石神井川、世田谷等々力渓谷の谷沢川、そして相模湖の南を流れる串川など、これも結構見かける。
だが、河川争奪による片峠といった「合わせ技」の地を訪れるのはこれがはじめてであり、文字面(づら)だけでないリアリティを感じることができ誠に面白かった。
また、篠山口の「真っ平でファジーな分水界」では、今回の旅の起点となる篠山口へと向かう際、つかず離れずその流れを見せていた武庫川がその主人公であった。前回のメモで記載の如く下流域では渓谷を刻む武庫川が、篠山口近くになると「知らず」消え去っており、その源流付近は真っ平な谷底平野で加古川水系の水路と繋がっている。通常の河川発達のプロセスからすれば「普通」ではない。
結論から言えば、両水系を繋ぐ水路は人工的に掘削されたものではあるが、それでも、真っ平な谷底平野で両水系が「超接近」するその因は、遥かはるか昔、加古川による武庫川の河川争奪にあった。旅の初日に見た、石生の日本一低い中央分水界形成のその因が、由良川流路の南流から北流への「逆転」にあったと合わせ、思いもかけず川の歴史での大きなドラマの一端に触れることができたように思う。丹波篠山、結構遠いよな、などと少々腰が重たかったのだが、行ってよかった。
以下、メモはじめるが、見出しのコピーは前述書籍の記事コピーを使わせて頂いた。地名は平成の大合併以前のものであり、現在の地名は本文にメモする。

(2日目) 本日のルート;
日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう>「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
 ■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)
鼓峠>由良川水系・友淵川の谷筋>鼓峠を越えて上る友淵川>谷中・中央分水界>宮田川を下る
栗柄峠;河川争奪
倶利伽羅不動尊の案内>杉ヶ谷川>倶利伽羅不動に>栗柄峠の谷中分水界

真っ平でファジーな分水界
JR宝塚線篠山口駅>北の堰(第一水門)>田松川>南の堰(第二水門)


■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■

由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)

篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう
篠山口のホテルを出発し鼓峠と栗柄峠のある篠山市栗柄に向かう。篠山口から15キロ弱、車でおおよそ20分ほどの距離である。折悪しく当日は朝から雨。足元は悪いが、分水界散歩であり、晴れの日より水の流れはわかりやすいか、と。 カーナビの誘導で、国道176号を北に進み、篠山川に栗柄峠から下る宮田川が合わさる篠山市明野で県道97号に乗り換える。
2車線の広い県道を宮田川に沿って北東に上り、篠山市栗柄に。『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には多紀郡西紀町とあるが、平成の大合併で篠山町、今田町、丹南町と合併し篠山市栗柄となったこの地に栗柄峠と鼓峠が隣り合って並ぶ。

篠山市栗柄・「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
道脇に大きな「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内が立つ。「河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里 栗柄は三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
右側の県道(丹南三和線)を2kmほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側に流れた水は宮田川(右側の河川)となり、篠山川、加古川を経て瀬戸内海に注ぎます。 正面から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川と合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で突如西へ折れ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の尻川、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこのふたつの川(私注;宮田川と杉ヶ谷川)が、谷中の平地内で百数拾米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見渡せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地であります。一つの地区に二つもの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです」とあった。

さて、ふたつの分水界のどちらからはじめよう。なんとなく「杉ヶ谷川」と「宮田川」の栗柄峠・谷中分水界は解説にもあるように、結構わかりやすそう。一方、河川争奪による片峠となっている鼓峠、そしてその谷中分水界ってどんなものか、今一つ想像できない。「?」を早く解決しようと、先ずは鼓峠へと向かう。

■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)■
鼓峠


左手は栗柄峠で谷中分水界となった中央分水界(日本海と太平洋へと水を分ける)が、再び山稜の分水界となり鼓峠の鞍部へと落ちる山地。右手は水田など。水田の南には晴れていれば多紀連山の西ヶ嶽や三嶽が連なるのだろうが、生憎の雨。山霧にかすみ、その姿はみえなかった。
車はほどなく鼓峠に。この鞍部が由良川水系と加古川水系の分水界となる。栗柄峠の谷中分水界から再び山稜に登った中央分水界がこの峠に落ち、10mほどだろうかその鞍部を谷中分水界となして南の山稜へと上ってゆく。
鼓峠から先の中央分水界
Google Earthで作成
鼓峠からの先の中央分水界となる山稜を、由良川水系と加古川水系に注意しながらチェックする;分水界は鼓峠から南東の小金ヶ嶽に上り、稜線を北東に進み藤坂峠に。藤坂峠の東西で由良川水系と加古川水系・藤坂川が接近している。ほとんど繋がりかけている。藤坂峠から先は、板坂峠、雨石山へと続いているようである。
水系を頼りに中央分水界を辿ることに嵌ってしまいそうだが、本筋からあまりに離れてしまうため、この辺りで思考停止とする。

由良川水系・友淵川の谷筋


鼓峠までは緩やかな坂・平坦な県道であったが、峠を越えるとしばらくはちょっと急、その先ではドーンと落ちる。ドーンと落ちるとは言っても、県道は等高線に沿って100mほど高度を下げると緩やかな勾配で流れる由良川水系・友淵川支流の谷底に至るが、県道から見る対岸は多紀連山への連なりもあり、谷の深さが一層増し屏風のように屹立して見える。典型的な片峠となっている。
県道を下り、ヘアピンカーブを曲がり切ったところにある四阿(あずまや)近くに車を停める。そこから下流は友淵川支流が緩やかに谷底を流れる。一方その上流は友淵川が谷を刻みはじめる境目。下流の開けた谷と真逆の、木々に覆われた狭く深い谷を水路が上る。谷筋を少しだけ上り、谷を刻む雰囲気だけを感じ車に戻る。
中央分水界の峠を越えても篠山市
当日は気にならなかったのだが、メモの段階で鼓峠を越えても行政区は篠山市であることが気になった。通常、峠を境に行政区が変わるのが普通だろうと、その経緯をチェック。
この地は前述書籍の記事にあるように、元は兵庫県多紀郡西紀町。それが平成の大合併で篠山市となった。西紀町は、もと南河内村、北河内村、草山村が合併した西紀村がその母体。鼓峠を越えた一帯は草山村であったようだ。
それはそれでいいのだが、峠の向こうの草山村は福知山のほうがなにかと便利そう。何故に峠を越えた村々と合併し、かつまた福知山市ではなく、篠山市となったのだろう?幕政期の篠山藩の領地を見ると、草山村が含まれていた。その故だろうか。

鼓峠を越えて上る友淵川への流れ
峠近くに車を停め、谷を刻み峠に近づく友淵川支流の流れをチェック。深い谷を刻み県道からしばらく見えなかった友淵川支流は、峠近くで県道に接近し道脇を自然な溝となって峠を越えて上に続く。当日は雨であり、水の流れが日本海側へと流れるのをはっきり確認できた。
友淵川支流へ続く自然に刻まれた溝は、そのまま鼓峠を越え、耕地と山地の境、畦端を細い溝となって上へと続き、鼓峠へと南から落ちる山地の谷からの流れと繋がる。

水田の中、1メートルを隔てた谷中分水界
一方、ゆるやかな傾斜となる右手の耕地の畦道に沿った水路、というか溝を流れる水は、瀬戸内へと注ぐ宮田川に向かって下る。耕地の中、ほんの1メートルを隔てて日本海と瀬戸内に流れる水がニアミスしている。耕地の畦が中央分水界ということになる。

友淵川水系による宮田川上流部の河川争奪と片峠の形成
鼓峠へと落ちる南側山地の谷筋の水が友淵川支流の谷へと流れ、宮田川流域とニアミスする姿を眺めながら、この南側山地の谷筋も本来は宮田川へと流れていたのでは? そのほうが自然だよな、などと妄想する。
堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には、「鼓峠という片峠も、おそらく友淵川支流による宮田川上流部の奪取によって生じたものであろう。宮田川の源流は、昔は鼓峠の北東部にあったが、争奪後鼓峠の西側に引っ越してきたのだ。ただ、この場合は多分一度にすっ飛んできたのではなく、宮田川の源流部が頭のほうからじわじわと友淵川支流にかじり取られるのにつれて、徐々に今の場所まで後退してきたのであろうと思われる」とある。

遥かはるかの昔、今眼前に見る鼓峠へと落ちる谷筋の、更に大きく水量も多い谷筋が宮田川へと下っていたのだろうが、深い谷を刻んできた友淵川水系によってその上流部の谷を奪取された、ということだろう。
峠近くに流れ落ち、宮田川上流域とニアミスしながらも、友淵川支流へと下るささやかな谷筋の流れと書籍の記事を重ね合わせ、なんとなく同書の河川争奪・片峠形成の記事がわかったように思う。

光秀と鼓峠
鼓峠は織田信長の下知のもと、奥丹波攻め主将であった明智光秀が危機に瀕した峠とも言う。猛将赤井(荻野)直正のこもる黒井城(JR福知山線黒井駅北)の攻略戦に敗れた光秀の軍勢を、草山城(鼓峠を下った本郷)主・細見氏、八百里(篠山市北東の八百里山)城主・畑氏がこの峠で待ち伏せ光秀軍を敗走させた、と言う。
時期は天正6年(1578)との記述があるが、黒井攻めは二度あり、第一次攻略戦は天正3年(1575)、第二次攻略戦は天正5年から7年(1577‐1579)とされ、第一次攻略戦は光秀が敗れ、第二次攻略戦で黒井城を落としたという。天正6年と光秀敗走と繋がらないのだが、とりあえず「ママ」にしておく。

宮田川を下る
鼓峠近くでは源流部を失い、耕地の畦の雨水を集めた宮田川上流部も田圃を少し下ると沢からの水を集め川の姿を呈す。鼓峠の地名の由来は、山地に囲まれたこの地が、真ん中がくびれた鼓形で、その両側に川(>皮)がある「鼓田」に由来すると言われるが、両側に川があるところは、この沢が合流するあたりではあるのだが、くびれた鼓は想像できなかった。ともあれ、宮田川は県道97号を北に横切り左右の沢からの水を集め栗柄峠の南へと下る。

■栗柄峠;河川争奪■
倶利伽羅不動尊の案内

「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内地点に戻り、駐車する場所を探す。なかなか適当なところが見つからなかったのだが、行き来しているとき、案内板の箇所のある県道97号から分かれ、栗柄峠へと向かう県道69号から右に入り観音堂に向かう道脇に「倶利伽羅不動尊」の案内があった:
「郡内で一番高い高所に営まれた栗柄集落。竹田川に水を分かつ谷中分水界の起点となる峠に落差4メートル余りの滝があり、この滝壺に石造りの不動明王が祀られています。古くは三嶽修験の行場として栄えたと伝えられます。
この場所に立つと、激しく落ちる滝と憤怒の形相で静立する不動明王が、訪れる人々の心の内まで見透かし、隔世と安堵といった一種独特の雰囲気に誘ってくれます」とある。
三嶽
郡内とあるのは、この案内が篠山市に合併以前に制作されたと言うことだろう。三嶽?御嶽?地図を見ると、南の多紀連山に三嶽があり、その頂上付近に鳥居が記されている。この三嶽が山岳修験の場であり、お山に向かう身を清める水垢離の場所であったのだろうか。不詳である。それはともあれ、栗柄峠は、この倶利伽羅不動尊に由来する。

杉ヶ谷川
結局車は案内板にもあった、観音堂の境内にデポし、由良川水系・滝の尻川による加古川水系・杉ヶ谷川の河川争奪の地を辿る。
観音堂の少し西に柵に囲まれた杉ヶ谷川が北から下る。コンクリート護岸された川の上流にはダムが見える。栗柄ダムと呼ばれるこのダムの目的にはFNWとある。F:洪水調節・農地防災、N:不特定用水・河川維持用水、W:上水道用水であるから、多目的ダムということだろうか。
堤高26.7メートル、総貯水量383立法メートル。それほど規模が大きいわけではないが、ダムを造れるぐらいであるから杉ヶ谷川はそれなりの水量があった、ということだろう。

倶利伽羅不動に
観音堂から倶利伽羅不動参道を少し西に歩くと、杉ヶ谷川の手前が柵でブロックされている。猪でも出るだろうか。ともあれ、厳重な柵の閂を外し、さらに元に戻したうえで参道を先に進む。
河川争奪の地
参道に沿って流れる杉ヶ谷川は支尾根先端部でその流れを西に変える。もとは南へと下り加古川水系・宮田川に合わさっていた杉ヶ谷川が、倶利伽羅不動尊のある谷を刻んできた滝の尻川によって河川争奪され西へと下ることになったということが実感できる。
参道下を流れる水路の傾斜は緩やか。コンクリート護岸も無く、自然な姿でゆったり西に下る。
倶利伽羅不動の滝
ほどなく倶利伽羅不動尊に。落差4mという滝が見える。滝壷のお不動様にお参り。滝もさることながら、その下流も谷が深く刻まれている。滝のある固い岩盤に阻まれ、それより上流には谷を刻めなかったとはいえ、ゆるやかな宮田川の勾配と比較すれば、こちらの谷筋への流勢に抗し得なかった杉ヶ谷川の「事情」も現地に来て、はじめてわかったように思う。
片峠
栗柄峠も滝の尻川の谷底との比高差は70mほど。峠付近に谷筋を囲む山地がそれほど高くなく、鼓峠ほどの「屏風」感はないが、峠を隔てた栗柄の平坦な地を思うにつけ、ここも片峠と言ってもいいのではないだろうか。

栗柄峠の谷中分水界
倶利伽羅不動から戻り、流域を確認。おおよそ県道97号の北は杉ヶ谷川から滝の尻川といった由良川水系、県道から南は加古川水系宮田川に耕地畦からの水が流れ込んでいた。
宮田川と杉ヶ谷川という異なる水系、それも日本海と瀬戸内へと分かれる分水界を挟み、その間の距離は100メートル強、ではあるが、そのインパクトは、先ほど規模は違えども鼓峠で見た、その距離1メートル弱でニアミスする、沢から日本海へと流れる水、そして耕地の畦を瀬戸内へと下る雨水の印象に勝ることはなかった。


■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)


篠山口
鼓峠・栗柄峠を離れ「真っ平でファジーな分水界」の舞台である、JR宝塚線篠山口駅に戻る。地図で確認すると、「源流で水のつながる加古川と武庫川」の水路は、JR宝塚線篠山口駅のすぐ東に見える。成り行きで車をデポし、フラットな谷底平野にある日本海と瀬戸内を分ける中央分水界、しかもそれが区切れることなく一本に繋がる水路を辿る。

北の堰(第一水門)
国道176号大沢交差点を東に折れ、JR篠山口駅の北で福知山線(福知山線の篠山口駅までは「宝塚線」が愛称となっている)の踏切を渡り五差路を南東に進み丹南弁天交差点に。交差点から北東に進む県道299号に橋が架かり、その下をコンクリート護岸の水路が流れる。水は北へと流れ加古川水系・篠山川に注ぐ。(安田川と呼ばれるといった記事を目にした)。
水路に沿って南に進むがほどなく民家で行く手を遮られる。なりゆきで迂回し県道299号篠山口駅東交差点で水路へと向かい、橋を少し篠山川方向へと戻ると水門(堰)がある。堰を区切りに、ささやかではあるが北に流れる水と、堰に止められ淀む水に分けられる。

田松川
水路は南にも堰があり、南北どちらにも動いていない。地図にはこの水路を「田松川」と記す。明治7年(1874)篠山川と武庫川を繋ぐため人工的に開削されたもの。高瀬船を使って舟運を構想した当時の豊岡県役人田中光義氏と松島潜氏の頭文字をとったもの。舟運は数年で廃止されたが、用水路として整備されているようだ。

谷中分水界を掘り割り、人工的に開削された水路のため、加古川水系と武庫川水系を分ける分水界は曖昧とはなっているが、この水路のどこかだろう。とはいうものの、この辺りの等高線は標高200メートルと一面同じであり、どちらに「転ぶか」は人工的な何か次第ということだろうか(水路に分水界を示す木標が立つといった記事もあったが木標は見逃した)。

南の堰(第二水門)
左右に水田の広がる水路に沿って進み、田松川が篠山盆地に入る狭隘部の少し南に堰があった。その堰から、水は南へと下り武庫川となる。



武庫川源流
現在武庫川の起点は、この堰より少し南に下った宝塚線南矢代駅辺りで田松川に西から注ぐ真南条川の合流点とされる。源流は真南条川が谷底平野を遡り、真南条上で右へと山地に入った愛宕山の山麓であるようだ。
ところで、地図を見ていると、真南条川が谷底平野を遡った上流部と、篠山川へと下る水路が鍋塚池を境にニアミスしている。と言うか、鍋塚池で両水系が繋がっているようにも見える。この地武庫川と篠山川水系が繋がる谷中分水界となっているように見える。

●「真っ平でファジーな分水界」形成のプロセス●
真っ平でファジーな分水界を歩き、それではこのような地形がどのようにして造られたのかちょっと気になりチェック。その因は、これも遥かはるか昔、武庫川と加古川で起きた河川争奪にあるようだ。
「武庫川のふしぎな地形と地質;加藤茂弘」にあった野村亮太郎氏の説に拠ると、その川幅に比してアンバランスに広い谷底平野を形成することから、かつての武庫川は水量も多く、浸食力も強かったとし、そのことから篠山盆地一帯は武庫川上流の広い谷と繋がっていたと言う。そのプロセスは以下の通り;

◆約3万年前まで、古武庫川は幅広い河谷を砂礫で埋めながら、篠山盆地から当野付近の狭窄部を抜けて、丹波山地・三田盆地へと抜けていた
◆約3万年前頃、当野付近の山地小流域から武庫川に向けて大量の土砂が供給され、麓屑面や扇状地が造られる。古武庫川は堰止められ、当野付近から篠山盆地にかけて湖や湿地(古篠山湖)が造られた。その後、湖や湿地は埋め立てられていく
◆一方、約3万年前に、篠山盆地西の山間部を源流としていた古篠山川は、その後も山地を掘り込み、篠山盆地を流れる古武庫川との分水界を低下させた。 (私注;この篠山川は現在の篠山川の中・下流域、篠山盆地の西の山地、現在の川代渓谷辺りを源流点とし西に流れ加古川に注いでいたようだ)。
◆堰止めによる古武庫川上流部の川床高度の上昇もあり、古武庫川と古篠山川の分水界の差がなくなり、約1万年前、古篠山川は古宮田川を争奪し、次いで武庫川の上流部も争奪した。
(私注;この場合の武庫川上流部とは篠山盆地に注ぐ現在の篠山川をも含むものである。ここで先ほど栗柄峠で出合った宮田川が登場した。遥か昔、武庫川水系であった古宮田川は上流域であった杉ヶ谷川を由良川水系に争奪され、下流域では加古川水系に争奪されたということ、か)。
◆古武庫川を争奪した古篠山川は水量をまし、浸食力を強め、それまでの盆地床を掘り下げて両岸に現在の川代渓谷に見られるような河岸段丘を形成し、加古川へと注いだ。

そして、上流部を奪取された武庫川は水源を失い、埋め立てられた湖・湿地の真っ平な谷底平野に取り残されることになる。こうして真っ平な谷底平野の中に加古川水系と武庫川水系のファジーな分水界が形成され、しかも、舟運のため両水系を繋ぐ水路が開削された結果、武庫川水系と加古川水系がひとつに繋がった、ということだろう。

Wikipediaの武庫川の説明にも「最終氷河期までの武庫川は篠山川の下流であった。これは川代渓谷の標高が176mであることと篠山盆地の堆積物を除いた基盤の丹波層群の基盤の標高が160mであることから判明している。最終氷河期までの篠山川は傾斜の緩やかなことから排水が悪く、当野付近の基盤岩が武庫川に堆積し、さらに流れを堰き止めた。川代渓谷の誕生とともに排水は改善し、盆地に堆積されていた堆積土の侵食が始まる。武庫川の水は篠山川に奪われた結果、分水嶺は盆地南部に移動する。篠山川の流れは速くなり、盆地を侵食していった」との同様の説明があった。

源流部を失い、この辺りでは小川となった武庫川であるが、周辺の谷筋からの水を集め往路で眺めた武庫川渓谷の姿を呈し瀬戸内へと下っている。
相野川
地図を眺めていると、武庫川が三田盆地に出る手前、宝塚線藍本駅辺りで強烈に蛇行しているが、その蛇行起点辺りから宝塚線に沿って如何にもかつての川筋といった地形が見える。そこには相野川が流れるが、どうも元の川筋はこの相野川のようだ。
さらに地図を睨むと、相野川の源流域付近で西に流れる東条川と谷中分水界を成しているように見える。更に言えば、武庫川はこの東条川へと流れていても違和感がない。チェックすると、30万年以上前、武庫川は東条川を下り加古川に合わさっていた、との記事も目にした。本日の本筋とは関係ないが、地図を睨んでいると先ほどの真南条川といい、この相野川といい、好奇心を擽り妄想をたくましくする。

これで一泊二日の加古川に見る谷中分水界の散歩を終える。トピック満載の散歩であった。

土曜日, 4月 29, 2017

兵庫 加古川の谷中分水散歩 そのⅠ:加古川に見る中央分水界と谷中分水界、そして河川争奪の峠を辿る

先日堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』を読み,毎月の田舎帰省の折り「海に背を 向けて流れる」土佐の四万十川の源流と片峠を辿った。これが結構好奇心に「刺さる」旅であり、それならと、今度は田舎への行き帰りに立ち寄れる「意外な分水水源・不思議な分水」は他にないものかと同書をチェック。
すると兵庫を流れる加古川に関係する谷中分水界、河川争奪やそれに伴う片峠などの4つの記事が目に止まった。谷中分水界には標高95mといった、日本で一番低い中央分水界もある。
これは面白そうとルーティング。記事にある4箇所は西から、加古川が市川と繋がりそうな青垣峠,日本一低い中央分水界(加古川と由良川)のある石生、加古川と武庫川の谷中分水界がある篠山口,加古川が由良川水系に河川争奪された結果誕生した片峠(鼓峠と栗柄峠)である。

地図を睨むと、起点を篠山口にとり、お昼前後からレンタカーで走れば1泊2日ですべてカバーできそうである。初日は午後に青垣峠と石生、翌日は午前中に鼓峠・栗柄峠と篠山口とし、篠山口にあるホテルとレンタカー(24時間)を予約。田舎から東京に戻る途中、起点となる篠山口に向かった。

(初日)
本日のルート;
丹波篠山口に
水がつながりかけている?
笹山口から青垣峠へ
国道176号から県道7号に>丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に>峠近くの狭い国道を進む>青垣峠
日本海と瀬戸内海に分かれる水
石生(丹波市氷上町石生)>「中央分水界と石生の水分れ」の案内板>中央分水界を水分れ公園へ>𡶌部(いそべ)神社>水分れ資料館>谷中分水界を歩く>藤の木橋>おおかみ橋>水分れ橋>石生交差点>由良川水系・黒井川の水路に向かう

(初日)

丹波篠山口に

丹波篠山口に昼前には着きたいものと、田舎の新居浜を7時過ぎに出発。新大阪駅から大阪駅に移り、JR宝塚線丹波路快速に乗り篠山口に。大阪駅発10時21分、篠山口駅着11時28分。
およそ1時間強の列車の旅。はじめて訪れる地であり、列車の進行と地図を見比べながら進む。大阪駅を出た列車は、大阪平野から伊丹台地に入り、伊丹台地と北摂山地の境を走った後、六甲・北摂山地に入り、武庫川渓谷をトンネルと鉄橋で越え三田盆地に。
三田盆地を武庫川に沿って北に抜けると丹波山地に入り、武庫川に沿って北に進むと篠山盆地に目的地である篠山口駅があった。平野から台地、そして山地、次いで盆地、その先に山地がありそして盆地と変化に富んだ地形でもあり、篠山口までの景観をメモしておく:
大阪平野と伊丹台地
大阪駅を出たJR宝塚線(福知山線の篠山口までの愛称、とか)丹波路快速は尼崎駅で北に折れ,伊丹駅、川西池田駅へと猪名川に沿って北に進む。猪名川と武庫川によって造られた伊丹台地のほぼ東端辺りだろうか。
北摂山地
川西池田駅から西に折れ、北摂山地の麓を西に宝塚駅へと向かい、そこからは伊丹台地と分かれ、武庫川の河岸段丘上にある生瀬駅を越えると長いトンネル(生瀬トンネル)に入る。
六甲・北摂山地と武庫川渓谷
トンネルを出ると西宮名塩駅。武庫川を跨ぐように感じる駅のすぐ先にも六甲山地を穿つトンネルが迫る。何故にこんな山間の地に駅が?チェックすると、西宮名塩ニュータウン開発に応じたもののようだ。元の福知山線は武庫川を縫うように走っていたが、昭和61年(1986)福知山線の複線・電化に際し従来の武庫川沿いのルートを大幅に変更し、山地を穿つ長いトンネルのルートとなり、その際に当駅が新設されたとのことである。
西宮名塩駅から長い名塩トンネルを抜けると武田尾駅。この駅も武庫川を跨いでおり、ホームは川向うの第一武田尾トンネルに続く。第一武田尾トンネルを抜けると直ぐに第二武田尾トンネル、トンネルを一瞬抜け直ぐに第一道場トンネル、第二道場トンネル、第三道場トンネルと続き道場駅に。
福知山線
明治32年(1899)、阪舞鉄道によって尼崎・福知山間が開業。明治37年(1904;日露戦争開戦年)対ロシア軍用路線として舞鶴鎮守府まで急ぎ敷設された官設の福知山・舞鶴間の路線の貸与を受け阪舞鉄道は大阪と舞鶴を結んだ。明治40年(1907)には国有化され阪舞線となり、明治45年・大正元年(1912)の山陰本線の開通を受け、尼崎・福知山間を福知山線とした。
武庫川渓谷の旧福知山線
複線・電化以前の旧福知山線は、基本屈曲する武庫川に沿って進んでいる。生瀬駅から武庫川右岸を進み、途中左岸に移り武田尾に。武田尾の先でトンネルに入り、東南に突き出た馳渡山の尾根筋を抜けると武庫川右岸に移り、道場駅手前で左岸に移る。
廃線跡は道場から武田尾は未整備。武田尾から生瀬方面は整備されて廃線歩きが可能となっているようだ。歩いてみるのも面白そうだ。
三田盆地
六甲・北摂山地のトンネルを抜け、武庫川を鉄橋で渡った鉄路も道場駅を越えると三田盆地に入る。渓谷から一転、平坦な谷底平野となる。宝塚線(福知山線)は武庫川に沿って進む。武庫川は直線化工事がなされているようだ。平坦な谷底平地の水の出口が渓谷の狭隘部となっているわけで、往時は洪水被害も多かったのだろう。
丹波山地
三田盆地を進むと広野駅辺りから丹波山地に入る。宝塚線は蛇行する武庫川から離れ相野川沿いを進み、相野駅辺りから弧を描き東に向かい藍本駅付近で武庫川に接近し、丹波山地の間を流れる武庫川に沿って北上する。宝塚からずっとつかず離れず流れていた武庫川は、知らずその姿を消していた。
篠山盆地
山地を抜けると篠山盆地に入り、目的地である篠山口駅に到着する。

加古川
これから「加古川に見る中央分水界と谷中分水界、そして河川争奪の峠を辿る」ことになるのだが、散歩に先立ち加古川についてWikipediaを参考に概要をまとめておく;
加古川(かこがわ)は、兵庫県中央部を流れる一級河川。本流(幹川)流路延長96km、篠山川など支流数も多く、兵庫県に河口を持つ河川水系の中では、本流流路延長・流域面積ともに最大である。
その流域は東播磨全域及び丹波南部だけでなく、神戸市北区、灘区の一部(六甲山系北稜)、さらには県外の大阪府能勢町天王峠周辺の地域も含む(篠山川上流域水無川上流部)。瀬戸内海の明石海峡・鳴門海峡以西に流れ込む水系としては、流域面積で高梁川、吉井川、旭川に次ぐ規模である。
現在本流(幹川)と比定されている河流の源流は、丹波市の北西の粟鹿山(標高962m)付近に発する一の瀬川である。この河流は大名草で石風呂川と合流した後、佐治川と名を変え、篠山川合流点まではこの名で呼ばれてきた。
佐治川・篠山川合流点から美嚢川が合流する三木市が中流域。その先は加古川市と高砂市の境として播磨灘に注ぐ。市川、夢前川、揖保川、千種川とともに、播磨灘に流れ込む「播磨五川」と総称される。本流の河床勾配は日本列島の河川としては緩い。

加古川水系の大きな特徴の一つは、隣接水系との谷中分水界の多さである。隣接水系のうち、武庫川水系(①田松川、篠山市当野)、由良川水系(②「石生の水分れ」、③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)、市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)とはそれぞれの本・支流で谷中分水界を形成する。
④以外の谷中分水界については、およそ一億年前を境とする長期間、大きな湖が篠山盆地に位置していたことによるところが大きい。③のように二つの異なる谷中分水界かつ本州中央分水界がわずかの距離に並ぶのは非常に珍しい。また、鼓峠の場合、一枚の小さな田圃から水が両水系に流れ出ている」とある。

今回訪ねることにした4箇所は『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある以下の記事である。

(初日)
■水がつながりかけている?■
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)
■日本海と瀬戸内海に分かれる水■
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)
(二日目)
■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■ 由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)
■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)

この4箇所は前述Wikipediaの挙げる、以下の4箇所と一致する。
●(加古川水系と)市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)●
●(加古川水系と)由良川水系(②「石生の水分れ」)●
●(加古川水系と)由良川水系(③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)●
●(加古川水系と)武庫川水系(①田松川、篠山市当野)●

特に意図したわけではないのだが、奇しくも今回前述の書籍よりプラニングした4箇所は、Wikipediaに記されたこの4つの谷中分水界を辿ることとなっていた。プラニングの際は、地理不案内の土地であり、4記事の地を1泊2日でカバーするのは厳しいかとも思ったのだが、エイやで性根を決めてよかったと、メモの段階で自画自賛。

水がつながりかけている?
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)

篠山口から青垣峠へ
11時28分、定刻にJR宝塚線・篠山口に到着。駅の少し南のレンタカー会社に向かう。その会社のすぐ裏手が、今回の訪問地のひとつ、「真っ平でファジーな分水界 源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)」の舞台ではあるのだが、段取り上、「知らず消えてしまった」武庫川と、これも当たり前のように「北の篠山川水系と繋がる水路」を辿る旅は最後に廻し、最初の目的地である青垣峠へ向かう。
国道176号から県道7号に
篠山口から青垣峠へのナビ設定。43キロ、おおよそ58分とある。国道176号沿いにあるレンタカーを借りた場所から、そのまま国道176号に乗り、加古川水系・篠山川を越え、篠山川の支流・大山川に沿って北に進み新鐘ヶ坂トンネルを抜ける。新鐘ヶ坂トンネルの峠の尾根筋が篠山市と丹波市の境となっている。 加古川水系・柏原川の支流の谷を下り柏原の町を越え、加古川によって開かれた平地を進み、これも後ほど訪れる「日本海と瀬戸内海に分かれる水 黒井川・高谷川間の水中分水界」の舞台である石生の加古川水系・高谷川を越えた先で県道7号に乗り換える。
丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に
加古川、そして北近畿豊岡自動車道に沿って北上し、西から東へと流れてきた加古川が、その流れを南に変える丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に乗り換え、しばらく進み、途中427号と分かれ左に折れて青垣峠へと国道429号を進む。 国道429号と427号が分かれる辺りで、青垣峠への谷筋とは別に、左に分かれる川筋が栗鹿山へと向かう。これが加古川本流の源流点のある一の瀬川だろうか。
峠近くの狭い国道を進む
国道429号を進むと里は切れ、二車線の道も一車線となり、車一台分の谷筋の道を杉林の中上る。カーブは少なく走りやすい道ではあるが、予想以上に車、特にバイクが多くゆっくり走る。「酷道」とのもっぱらの評価ではあったが、四国の険路を走りまわっている我が身には、なんということはない道であった。 次第に深くなる谷筋を見遣りながら進むと前方に「青垣峠」の看板。3月にもかかわらず雪の残る切り通しの鞍部を乗り越え、すこし下った先は平坦地。水田、そしてその先に民家も見える。先日土佐で出合った「片峠」となっていた。

青垣峠
『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:(堀淳一)東京書籍』では兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町を分ける峠となっているが、現在は平成の大合併を経て生野町側は朝来市黒川、青垣町側は丹波市青垣町大名草となっている。




●市川が北から下る
道脇に車をデポし、「つながりかけている?」加古川と市川の最接近場所を探す。峠を少し下り平坦地となったところを北から小川が流れる。この川が市川。地図を見ると少し北から下る。
その市川と「つながりかけている?」加古川源流を探す。峠から下る道の左手に水の流れる筋があり、市川の手前辺りが如何にも源流域といった風情である。

●加古川源流部は国道改修により峠で断ち切られていた
「つながりかけている?」と言えばそうでもあるのだが、如何せん青垣峠手前まで谷を刻んできた加古川の支流・石風呂川とつながってはいない。前述書籍に拠れば、石風呂川源流域の谷筋は現在の峠道の少し下を刻んでいた、とのことだが、現在の青垣峠の前後は国道の法面補強されており、昔の姿は残っていない。
雪の残る峠を行きつ戻りつ、谷筋が残っていないかと探したのだが、峠鞍部の左右は比高差30mほどの尾根筋が迫っており、峠を抜ける水路が通る余地はなかった。

市川とつながりかけた加古川(石風呂川)源流域の水は、峠の前後で完全に切り離されており、今では市川に向かって下るしか術はない。自然の力でつながりかけていた加古川と市川は、人の手によって切り離されてしまったようである。



市川
加古川はそれなりに聞く川ではあるが、市川ははじめて聞く。残念ながら、加古川とつながりかけてはいなかったが、加古川と分水界をなす水系でもあるのでちょっとチェック。 Wikipediaに拠れば、市川は「兵庫県中部、丹波国、播磨国との境界近くにある朝来市生野町(旧但馬国)の三国山(標高855m)に源を発して南流。途中神崎郡各町と姫路市を流れ、姫路市飾磨区で播磨灘に注ぐ」とある。三国山は青垣峠から南東、丹波市、朝来市、多可郡多可町の行政区が接する箇所にある。で、何気なく市川の流路を地図で見ていると、生野ダム湖を経て播但線・生野駅辺りまで下った市川の北に円山川源流が接近している。
市川・円山川が日本海と瀬戸内を繋ぐ
地図を見て驚いた。日本海へと流れる円山川と市川を隔てるものは、ささやかな生野北峠だけである。この峠を越えれば播磨国から但馬国となる。日本海と瀬戸内を繋ぐ道が、こんなに敷居の低いものであれば、古来往還道として重宝したのではとチェック。
古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、この市川(播磨)・円山川(但馬)ルートが、加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートとともに重用された。日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えた、とのことである。
近世に入っても、西廻り海運の捷路として両河川を利用した舟運輸送路が計画されたようだが、わずかな距離ではあるが陸路部分がネックとなり大量輸送が実現できず、西廻り海運の捷路としての目的は達成できなかったようである。

今回の散歩での最初の「つながりかけている?」加古川と市川は残念ながら切り離されてしまった事実を確認しただけに終わったが、偶々ではあるが、市川とつながりかけている円山川、そして両河川を通しての日本海と瀬戸内を結ぶルートといった歴史を知ることができ、それなりに満足。とは言ってもの、このことはメモの段階。当日は出だしからこれ?といった心持ではあった。


日本海と瀬戸内海に分かれる水
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)

青垣峠を離れ、次の目的地である「日本一低い中央分水界」のある丹波市氷上町石生に戻る。中央分水界は日本列島の「背骨」として、水を日本海側と太平洋側に分ける分水界のこと。その中央分水界がこの石生では聳える山地の脊稜部ではなく、わずか標高100m前後の谷底低地にある、という。書籍の記事を読んでもいまひと実感が湧かないのだが、現地に行けばなんとかなるだろうと来た道を石生へと戻る。

石生(丹波市氷上町石生)
とりあえず石生の水分公園に向かう。青垣峠から来た道を逆に国道429号、国道427号、県道7号へと乗り換え福知山線・石生駅の西、稲継交差点に。ここまで支流・本流を集めて次第に川幅を広げる加古川に沿って国道を下ることになる。
稲継交差点で左に折れ、加古川から分かれ、国道175号を進み、石生交差点、福知山線を越え水分れ交差点に。水分れ交差点からは並木の続く小川に沿ってそのまま東に向かうと、道の北側に広い水分れ公園の駐車場(公園大駐車場)があった。車を停め「水分れ公園」に向かう。

「中央分水界と石生の水分れ」の案内板
駐車場脇に案内板があり、地図とともに「中央分水界と石生(いそう)の水分(みわか)れ ここは日本列島の背骨『中央分水界』の線上にあるところです。この看板の右側の道路の中央が「分水界」で、中央より左側(北側)の雨水は由良川を流れて日本海へ、一方右側(南側)の雨水は高谷川から加古川に注いでいます。後方に見える山のふもと「石生交差点」から前方の山すそ「水分れ公園」の奥までの1,250メートルの間は全く平地のなかで分水しており標高95.45メートルは日本一低い谷中分水界です」との解説があった。

石生交差点から、知らず「中央分水界」を走ってきたようだ。道の右の小川が瀬戸内へと下る加古川水系の高谷川であった。また、車を停めた駐車場は日本海へと注ぐ由良川水系ということになる。

中央分水界を水分れ公園へ
知らねばごくありふれたん舗装道を、これが日本で一番低い中央分水界か、などと左右を見遣りながら水分れ公園へと高谷川に沿って進む。ほどなく公園に。公園自体はなんということのない、少々人工的過ぎる親水公園といった風情。

水分れ公園の分水堰
公園脇の高谷川に如何にも人工的な水分れの水路が造られていた。高谷川の真ん中に水を北の由良川水系へと分ける水路が造られ水門ゲートもある。ゲートの先には特に川といったものはなく、畑地に沿って側溝が続く。水門ゲートからの水路はそこに繋がっているのだろうか。

𡶌部(いそべ)神社
水分れ水路を離れ、公園案内図にあった水分れ資料館に向かう。手前に𡶌部(いそべ)神社。古社の風情を残す神社にお参り。案内には; 「𡶌部(いそべ)神社 剣爾山は、三角形の美しい形をしています。こういう山を昔の人は「神奈備山(神様の山)」と言いました。山上近くにある大岩は、神様が天から下りてこられる拠り所と考えて、こういう岩を「磐座」(いわくら)と言いました。
その山の前に建てられたのが𡶌部神社です。このあたりのご先祖、部の民は、大きな岩をつかって、古墳を造ったり、たんぼを造ったり(後には条里制水田造りもした)する土木工事が得意な人たちでした。
その部の人達の祖先、奇日方命(くしひがたのみこと)をおまつりしたのが𡶌部神社のはじまりは(和銅三年、今から約一,三〇〇年前頃)です(私注;ママ記載)。後に、八幡宮を勧請(神様のおいでを願う)して、八幡さんとなりました。 なお、この八幡さんは、柏原の八幡さんより歴史が古く、昔から、この𡶌部神社のお祭をして、その次の日に神様を、柏原の八幡様にお送することになっておりました。その後、𡶌部神社には、いろいろな神様をお招きして、たくさんの神様がおまつりされて、石生の人達の守り神さまとしてお祭りされております」とあった。

水分れ資料館
社の西に水分れ資料館。入場料〈200円だったか〉を払って入館。ビデオで水分れの概要をかじった上で、解説のボードを読みジオラマを見ながら、館内を巡る。
石生の谷中分水界
「この平地の分水界(谷中分水界)は、石生奥山から流れる高谷川の右側(北側)の堤防上で、奥山から尾根を下り、山裾から西に向かい、石生宿畑まで約1,250m。そこからは行者山、城山へと山を上っていきます。最も低い所は宿畑で標高94.5mです。水分橋では標高101.04mです」との解説パネル。
谷中分水界とは尾根筋ではなく、谷底平野にある分水界のこと。奥山から尾根(𡶌部神社の前の西ヶ原の尾根)を下った石生の谷中分水界は、石生交差点のある宿畑までであるが、その先は行者山・城山へと尾根を上っていくようだ。 石生では山を下りた谷中分水界とはなっているが、この分水界は日本列島の脊稜として日本海と太平洋へと水を分ける中央分水界の一部である。
石生前後の中央分水界
石生前後の中央分水界は「多紀郡の山岳連山から西へ鏡峠・黒頭峰を経て、柏原町の清水山等の頂上をつらねて走る稜線で、それはさらに延びて石生奥山の最高点に達し。それより少し南から、急に西へ降る支稜を伝わって西ヶ原に至り平地と接する。
西ヶ原の稜線端からは奥山から流れ出る高谷川の右岸(北側)の堤防上を通って、石生新町の宿畑に至る。この西ヶ原の稜線端から宿畑までの約1250メートルの間が平地で、谷中分水界。
宿畑から再び山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」より)」とある。

谷中分水界から南北への流れ
「ここより北の水は竹田川から由良川に入り、南側の水は高谷川に入るか、溝を流れて稲継で共に加古川に合流して瀬戸内に入る。(中略)現在水分橋より下流は国道175号線が最も高い所となっているけれども、高谷川堤防と国道との間の水は、暗渠によって国道の下をくぐり、北側に抜けるようになっており、前から高谷川右岸が分水界であったことを示している。現在JR福知山線と国道176号線は分水界を横切って通っている。しかし、分水界を通っている感じは何もしない。生郷村志 細見末男より」

北の水は竹田川に入る、とはいうものの、中央分水界から川は見えず、側溝の水、悪水落しの水を集めた水路が石生の中央分水界の北に見える黒井川に繋がる。この黒井川が竹田川に落ちている。
国道175号云々は、国道175号が高谷川に沿って少し北を通っているが、中央分水界より北に落ちた水は、分水界より高くなった国道は暗渠を通して北に流している、ということだろう。
南への流れは高谷川を西に下り、先ほど通った稲継の先で加古川に注ぐ。分水界であれば、分水界と垂直に下っているかと思っていたのだが、分水界は西に向かってゆるやかに傾斜している故であろう。

由良川の分水界
展示パネルには「由良川の分水界 移動説の模式図」というものがあり、「もと由良川は福知山付近から南に流れて、現在の竹田川を逆流し、石生付近を通って、加古川に注いでいたといわれています。これを古加古川といいます。ところが、由良川下流の大江町付近が低下したため排水が悪くなって湿原が生まれたとされています」という解説とともに、「由良川下流の各時期の河床縦断面の変化から見た分水界移動の模式図」というタイトルで、由良川の分水界が南有路(私注;大江町)から福知山、竹田、石生と南に移っている図があった。
何の事?さっぱり理解できずにいたのだが、その傍に「石生を含む氷上盆地(私注;柏原・青垣・春日町などの平地は山に囲まれた盆地)は丹波山地の西の端に当たります。丹波山地が隆起するとともに、その西の端は沈降しました。その沈んだところに上流や付近から流されてきた小石、砂、粘土等が積もり、長い間に埋まって平になり盆地となりました。
ところが水はけが悪いため一時(2万年ほど前)は湿原となり、湿原植物は今、地下に泥炭層となっています。この湿原の上に石生奥山から雨毎に流れ出て扇状地ができ、その上を高谷川が流れ、大水ごとに土砂があふれて自然堤防をつくり、その自然堤防がこの付近で最も高いところになったため、堤防の上が分水界になったのです」との解説があった。

谷中分水界形成のプロセス
また、上のふたつのパネルの解説をまとめたような記事が、水分れ資料館で購入した前述の小冊子「森と水と人のふれあいの径 水分れ」にあった。以下概要を引用する。
「この盆地の東側は古い地層から成る丹波山地で、遠く琵琶湖まで続く。西側の山は播但山地といい、火成岩よりなる。この平地は東西の山地が隆起するとともに、逆に沈降したところである。
沈降したところを地溝帯といい、そこに周囲の山や上流から流れてきた土砂が埋まり、さらに大雨ごとに洪水の中の泥が沈んで、長い間に厚い粘土層を堆積して地溝帯は埋まった。
今から2万年ばかり前。石生附近は氷上郡春日町から柏原町に続く平坦な湿原であった。それは、もと由良川が福知山付近から、現在の武田川を逆に流れて、石生を経て氷上町稲継付近から加古川に注入していたが、京都府大江町附近の地盤が低下して傾斜がほとんどなくなったためである。この平らな湿地に、石生奥山から雨ごとに風化した土砂を流し。それが積もって石生の扇状地をつくった。
扇状地ができると、平らな湿地はここで南北に分断されることになった。そうして、奥山から流れ出る谷川(高谷川)は、扇状地の上を流れ、大雨ごとに水と土砂があふれ、両岸に自然堤防ができた。そのためこの自然にできた堤防は、この付近の最高所となり、この上に降った雨は、北側に流れると、下流の低下によって日本海側に注ぐようになった由良川に入り、南に流れると、高谷川に入り、加古川に流入して瀬戸内海に注ぐようになったのである(丹波史第八号遺稿より抜粋)」。

ふたつの解説パネルと小冊子の記事を読み、最初は何の事か分からなかった分水界の移動と、西の端(分水界移動前の由良川源流域)の標高低下、緩やかな傾斜、湿地、分水界形成を繋ぎ合わせてみる:
もとは北から南に傾斜をもって流れていた由良川が、地殻変動により上流部の標高が、遥かなる年月をかけてではあろうが次第に低下、傾斜がなくなった由良川は石生の辺りで湿地となり、流れを失った湿地は山地からの土砂で扇状地が造られ分水界が形成された。分水界の移動は、流れを失った由良川が、北へと流れる河川により争奪されてゆくプロセスであったように思えてきた。
また、この地で分水界が形成されたのは、傾斜がほとんどなく、北へ流れる由良川に下刻・浸食して谷を刻み、更に南へと分水界を移す力がなかったためではないだろか。

こんなことを考えながら地図を見ていると、稲継辺りで高谷川ともに加古川に注ぐ柏原川は、その流路から見て、遙か昔のある時期、由良川水系であったものが加古川に争奪されたのではないかと妄想してしまった。

希少魚ミナミトミヨ
展示パネルには「希少魚ミナミトミヨ」の解説があり、本来は由良川水系のこの魚が、谷中分水界を越えて加古川水系にも生息していたとあった。由良川が南に流れていた頃に遡ったものの、分水界が石生に形成され、取り残されたもののようだ。
この魚以外にも日本海系の「ヤマメ」が加古川水系に生息していた(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」)ことなどにより、由良川の南流があったことのエビデンスとして挙げられていた。もっとも、最近はヤマメも人の手で放流されているので、境界は無くなってはいるのだろうが。。。

氷上回廊
「加古川と由良川は、石生の水分れをはさんで坂がなく、氷上回廊と称されるほど低いので古代より南北の交通路となっていました。弥生時代の磨製石剣や銅鐸は、この二つの川に沿って出土し、石剣の道と名付けられています。
江戸時代には加古川に舟路が開かれて、頻繁に舟が行き来しました。由良川流域の福知山や丹後の物資も、青垣町穴裏峠を陸路で越し、同町東芦田から小舟で船座のある氷上町本郷へ運ぶか、または石生へ廻って本郷に達し、本郷から滝野や高砂へ下りました。こうして南北の交流がおこなわれ、物資や文化も伝わりました。
このルートは、さらに北陸から上方へ物資を運ぶ北前船の通路を短縮する計画も考えられ、大阪天満の岡村善八が丹後栗田から穴裏峠を経て本郷に至る通路の改修を試み、後には石生付近を運河とする松宮構想も生まれましたがいずれも実現しませんでした。しかし、なんと言っても低い分水界を利用して南北を結ぶ計画でした」。

青垣峠でメモしたように、古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、市川(播磨)・円山川(但馬)ルートとともに、この加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートも、日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えたということであろうか。

本郷の船座
加古川は石剣の道と言われ、弥生時代から南北を結ぶ交通路であった。この川に丹波まで舟運が開かれたのは慶長4年(1604)で、河東郡滝野の阿江与助と多可郡黒田庄の西村伝入斉が滝野から本郷まで開いた。
水路は本郷から高田(黒田庄)までを本郷川といい、高田から滝野までを高田川と呼んだが、船座は本郷・滝野間を運営しはじめは西村伝入斉の経営であった。
寛永17年(1640)からは二年毎の入札により落札者が請負い、幕府(京都奉行)に運上金を納めて営業した。認められた舟は16そうで、底の浅い高瀬舟を用い、本郷では長さ8mの⒖石積が多く、積荷は川の水量の多数により加減した。通船期間は灌漑用水の不要となる秋の彼岸から、翌年の八十八夜までであった。 高瀬船には3人が乗り、船頭は舳に、中乗は櫂を持ち、ともは櫓を漕ぎ、ムシロの帆も用いた。板橋があると船から下りてこれをのけ、船を通すとまた元のように直して通った。
上りの急な所では、岸の船道から綱で引き、船頭だけが舵をとり、これを「さる引き」といった。
荷物は領主の大阪蔵詰にする年貢米が最も多く、その他米・大豆・薪炭等を下し、上りは塩・藍玉等で明治の頃からは燈油があった」。

加古川の舟運のことも、面白そうだが、本筋から離れていきそうでもあり、展示パネルの引用に留めて置く。

谷中分水界を歩く
水分れ資料館での知識をもとに、日本一低い中央分水界を水分れ公園から西の端、谷中分水界が尾根道に上る宿畑まで歩き、そこから北に流れる水路を辿ることにする。

藤の木橋
高谷川に沿って中央分水界となる道を下ると、ほどなく藤の木橋詰めに案内。 「藤の木橋物語 昔、地頭に、石負(いそう)の玉の太夫という大金持ちが住んでいました。 一人娘の玉姫は、玉のように美しく近在の若者達のあこがれの的でした。そのうちどこからともなく真っ青な直垂(ひたたれ)をつけた、りりしい水もしたたる美しい若者が玉姫のもとに通ってくるようになりました。
その若者がどこから来るのかつき止めようと腰に赤い糸をつけて 後を追っていくと藤ノ木橋を渡り遠い山里の大きな池の深みに入って行きました。古池の大蛇の化身だったのです。驚いた玉の太夫は、 の神様のお告げを受け藤ノ木橋の 「藤ノ木」にお願いしたところ、その夜のうちに藤のツルが伸びて橋を塞ぎ蛇のうろこがいっぱい落ちていました。それからは二度とその男は来なくなったということです」とあった。

おおかみ橋
更に下ると、おおかみ橋。橋詰の案内には、「昔、このあたりに狼が住んでいました。この狼をとらえて、売ったお金でこの橋をかけたから「おおかみ橋」と名付けられたと、伝えられています(丹波史より)。
しかし、上となりの「藤の木橋」は「縁切り橋」、下となりの「水分れ橋」は「身分れ橋」。だから、真ん中の「おおかん橋」「おかん橋」は、神様が守って下さる安全な「大神橋」「お神橋」だ、とも言われたと伝えられています」とあった。 藤の木橋の伝説が、何を言いたいのか今一つわからなかったのだが、「縁切り」を伝えんとしていたようだ。

水分れ橋
国道176号にT字で合わさる水分れ交差点には高谷川に水分れ橋が架かる。橋の傍に「水分れ橋と氷川回廊」の案内。水分れ資料館で氷上回廊のことはメモしたように、「(前略)山地に挟まれた南北に伸びる細長い低地帯で、両水系を繋ぐ一つの道であり『氷上回廊』と名付けられています。太古の昔から人・物・文化、さらに生き物が行き交うルートであり、交通の要衝としても栄えました」との案内があった。

石生交差点
国道175号を西に進むと、前方に丘陵が見えてくる。案内にあった宿畑で谷中分水界が終わり、山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する中央分水界の尾根筋に入るところである。取り付き部分には「これより山に登る」との木標があった。

由良川水系・黒井川の水路に向かう
分水界から南北に分かれる水系のうち、南流系加古川に注ぐ水路は高谷川としてはっきり目にすることができたのだが、北流系由良川に注ぐはっきりとして川筋は分水界から直ぐには流れていない。
地図をチェックすると、国道175号が中央分水界の尾根でもある城山を穿つ城山トンネルを抜けたあたりから悪水落としといった水路が見え、その更に北、春日和田山道路の大崎横田トンネルが中央分水界の尾根筋を抜けたあたりから少し水路がはっきりし、黒井川となって北へと進む。
とりあえず、黒井川の始まり部分でも確認しようと、石生交差点から国道175号に向かう。成り行きで進むと側溝に集まった水が北へと向かう。地図には国道175号の先から水路がはじまっていたが、如何にも川筋に「発達」しそうな側溝が国道手前から始まり、国道を越えた北からはコンクリート溝ではない、自然の流れとなって畑地の中を北に流れていた。
これで初日の散歩は終了。起点とした篠山口のホテルに向かいゆったりと。