月曜日, 9月 19, 2016

予土国境 坂本龍馬脱藩の道を歩く そのⅤ;土佐の梼原から予土の国境の峠を越えて伊予の大洲へと(新田集落・白岩・弦巻集落・小田川筋・亀の甲)

坂本龍馬脱藩の道のうち、予土国境山越えの道を辿る散歩も、残すは石上峠を少し下った新田(にいだ)集落から、龍馬が舟にのり長浜に向かった小田川筋の亀の甲までを残すのみになった。
当初の予定では、山越えの道を里に繋げてお終い、と思っていたのだが、新田集落を衛星写真でチェックすると、未だ山間の集落。里に繋いだ、とは言い難い。これでは画竜天晴を欠く、ということで今回、日帰りで残り区間を歩くことにした。
今回は、山間の集落とはいいながら、ほとんど里に近づいているわけで、それほど木標の見落とし、道間違いなどないだろうと、家を出る時間も遅く、誠にお気楽に出向いたのだが、事はそれほど簡単ではなかった。

事の発端は新田集落から土径に入り、快適に進んでいたのだが、木標の無い土径の分岐での道の取り間違いにより、舗装道に出てしまい、車デポ地に戻り、そこから車で白岩集落を越え、弦巻集落で少し土径はあったものの、あっと言う間に、小田川筋・亀の甲集落に近づいてしまった。
そんなはずはない。『坂本龍馬脱藩の道を探る;村上恒夫(新人物往来社)』には、「石上峠から白岩までは、旧街道はほぼ昔のままで残っている」とあるし、「龍馬がここを通ったら、必ず白岩の大清水で休んだはずである」といった記述にある、白岩集落を素通りしている。ということで、白岩集落辺りを進むであろう土径を探し、行きつ戻りつ、ドタバタ行となってしまった。

今回の散歩を、時系列でメモしても「坂本龍馬脱藩の道」のルート案内は混乱するだけであろう。ために、今回のメモはドタバタの結果一応繋げた「坂本龍馬脱藩の道」をまず整理し、その後で、行きつ戻りつ、終いには藪漕ぎまでして繋げた、脱藩の道探しを時系列でメモする。 時系列のメモは、自分用忘備録といったものであるが、脱藩の道のルートの補助説明として番号をつけておく。坂本龍馬脱藩の道のトレースに参考になればと思う。

本日のルート;
新田集落から白岩集落・弦巻集落を経て、小田川筋・亀の甲集落へ
①新田集落に車デポ:11時4分>②石上峠近くの舗装道脇木標から土道に;11時28分>③新田集落の木標から土径に;11時42分>④木標;11時55分>⑤木標の無い分岐;12時>(道間違い)>⑥分岐を右折し舗装道に出る;12時5分
⑦新田集落のデポ地に戻る(ピストン;歩き);12時24分 >⑧新田集落からの土径から舗装道に出た箇所に戻る>(ピストン戻り:車)>新田集落>(車移動)>⑨弦巻の木標から土径に;12時40分>⑩亀の甲近くの舗装道に出る;12時59分>(白岩集落に戻る)
⑪土径木標を探して右往左往>⑫白岩集落に車をデポし脱藩の道の取り付口を探す;13時47分>⑬道脇のガードレール下に木標を発見>⑭脱藩の道らしき土径発見;13時57分>⑮木標;14時>⑯木標にない分岐を間違い林道に入る;14時3分>⑰藪漕ぎ開始;14時28分>⑱新田集落から白岩集落への脱藩の道を繋ぐ;14時51分
⑲分岐木標;14時58分>⑳林道間違い箇所:15時17分>脱藩の道を白岩集落・舗装路に戻る;15時22分>㉒舗装路から土径に;15時24分>㉓白岩の大清水;15時26分>㉔弦巻近くの舗装道に出る;15時35分>㉕白岩のデポ地に引き返す(歩き);15時45分>㉖亀の甲近くにデポ・車移動;15時58分>㉗亀の甲の木標;16時>㉘亀の甲;16時2分


坂本龍馬脱藩の道;石上峠から新田・白岩・弦巻集落を経て小田川筋亀の甲まで

以下、当日の行動ルートを整理し、龍馬脱藩の道を示す。囲み数字は当日の行動ルートに付けた番号。参考になればと付記した。
●石上峠
●木標を斜めに土道に入る
●ほどなく舗装された林道に出る
●土径が舗装林道に出たところに木標(②)
●舗装林道を離れ右手斜めに土径に入る
●石仏群を見遣りながら進むと新田集落の木標箇所(③)に出る
●新田集落の木標を右手斜めに土径に入り、白岩集落に進む。途中、「坂本龍馬脱藩の道」の木標(④)から5分ほど進んだところにある、木標のない分岐点(⑤)は注意し、右に曲がることなく直進する。
その先の上下に分岐する箇所は木標(⑲)に従い上段に入る。脱藩の道は舗装道の進む250m等高線に沿って、50m高い標高300m辺りを進むと脱藩の道の木標がり、そこから10分ほどで林道にあたる(⑯⑳)
●そのT字路を右に折れ白岩集落に。途中に「坂本龍馬脱藩の道」の木標がある(⑮)
●白岩集落の民家の納屋横に出た脱藩の道は、舗装路に合流。そこから100mほど戻りのガードパイプを土径に入る(⑬㉒)と脱藩の道の木標
●土径を進むと白岩の大清水に出る(㉓)
●舗装道の少し上を進む土径を進むと弦巻集落で舗装道に出る(㉔)
●舗装道を少し進むとヘアピンカーブのところに木標があり、土径に入る(⑨)
●お堂の横の木標に従い土径を下ると舗装道に出る(⑩)
●舗装道を少し進みヘアピンカーブの突端に木標(㉖)
●木標から舗装された径を下ると亀の甲集落(㉗)
●県道を渡ると小田川の亀の甲の舟着場跡に到着(㉘)


新田集落から白岩集落・弦巻集落を経て、小田川筋・亀の甲集落へ(実際の行動ルート)

新田集落に車デポ:11時4分・標高350m
愛媛県の東予にある新居浜から松山道に乗り、中予から南予へと進み内子・五十崎インターで下り、小田川筋を県道32号、228号と進み、ナビに導かれ新田集落に。
車を道脇にデポし、先回の散歩で確認した新田集落にある「坂本龍馬脱藩の道」の木票を見遣りながら舗装された林道を上り、先回の散歩の往路で見逃し、復路で見つけた、石上峠から斜めに下る土道が舗装道に合わさる箇所にある、「坂本龍馬脱藩の道」の木標に向かう


石上峠近くの舗装道脇木標から土径に;11時28分・標高470m
石上峠への舗装された林道を歩くこと20分、石上峠から下る土径との合流点に。道脇に木標立つ木標から左に土径が下っている。
土径に入ってすぐは雑草で覆われた道も、木々に蔽われた土径となり、里に近づいたのか竹林を抜けると幾多の石仏が佇む。石仏にお参りし先に進むと、新田集落の「坂本龍馬脱藩の道」の木標がある場所に出た(11時42分;標高355m)。 舗装道脇の木標からおおよそ15分弱であった。

新田集落の木標から土径に;11時42分・標高355m
「坂本龍馬脱藩の道 新田」と書かれた木標は、まことにわかりにくい。ちょっと見には、舗装林道を石上峠へと戻る舗装林道方向と見える。実際は、木標から右の土径に入る。木標辺りは雑草が茂り、道筋は見えないが、草を掻き分けて進めばいい。



木標;11時55分・標高300m
ほどなく雑草も切れた土径を10分ほど歩くと「坂本龍馬脱藩の道」と書かれた木標がある。オンコースであることが確認でき一安心。

木標の無い分岐;12時・標高290m
しかし、ここから先が要注意。木標から5分ほど歩いたところで道が分岐する。標識もなく、右の道をとる。
これが、「行きつ戻りつ」の1日となった端緒。この道を直進というか、左に進めば、舗装道路に沿って白岩、更には弦巻まで進めたのだが、それがわかったのは、後ほど、白岩から逆に戻り、道を繋げた後のことであり、その時は知る由もなし。

分岐を右折し舗装道に出る;12時5分・標高260m
標識のない分岐を、右の道をとると、5分ほどで舗装道に出た。その時は、新田ん集落の車デポ地からそれほど離れてもいないので、ピストン距離も比較的短く、ラッキーと思っていたのだが。。。

新田集落のデポ地に戻る(ピストン;歩き);12時24分
舗装路に出たため、車をデポした新田集落に戻る。舗装道を20分ほど歩き、車に乗り、次の木標を探しながら舗装道を下ることにする。



新田集落からの土径から舗装道に出た箇所に戻る(ピストン:車)
新田集落から車で分岐点に戻る。ここから先、舗装道脇に木標を求めながら先に進むことにする。次の土径の木標はすぐ現れるだろうと思いながら車を進める。







弦巻の木標から土径に;12時40分・標高160m
車を進め、木標に注意しながら進むも、白岩集落辺りを過ぎても道脇に木標は見つからず、更にその先の弦巻の集落にある173mピークに突き当たるヘアピンカーブのところでやっと木標を見つけ、道脇に車をデポし土径に入る。






茶堂と木標
耕地の上に延びる細い一本道を進み、173mピークを巻くと茶堂があり、脇の「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、竹林の中を等高線に対し「くの字」を書くように下りる





亀の甲近くの舗装道に出る;12時59分・標高85m
弦巻の木標から土径を15分ほど歩くと舗装道に出る。目の前には小田川が見える。龍馬が舟に乗り長浜に向かったという、川傍の集落・亀の甲のすぐ傍である。







土径木標を探して右往左往
これはもう、どう考えてもおかしい。車で走る途中、木標を見落としたのだろう。上にメモしたように、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には「石上峠から白岩までは、旧街道はほぼ昔のままで残っている」とあるし、「龍馬がここを通ったら、必ず白岩の大清水で休んだはずである」といった記述があるが、その白岩集落を素通りしている。
とりあえず、車で白岩集落まで戻り、土道への取り付き口を探すべし、と車で向かう。弦巻集落越え、白岩集落の道脇にあるだろう、木標を求め、ゆるゆると車を進めるが、それらしき木標は見当たらない。数回往復したのだが、結果は同じである。

白岩集落に車をデポし脱藩の道の取り付口を探す;13時47分・標高230m 
が、地図をチェックするとい、白岩集落には、行きつ戻りつした舗装道から、ひとつ山側の民家に向かう分岐道がある。その道筋に入り、車を停めて木標を探す

道脇のガードレール下に木標を発見;13時50分・標高230m
と、道のガードレールが切れたところに、下に下るガードパイプがあり、その道筋に木標があり、「坂本龍馬脱藩の道」とある。 ということは、このガードパイプに続く土径が集落の山側にあるだろうと、民家脇から山側に入り込む。







脱藩の道らしき土径発見;13時57分・標高240m
民家倉庫裏の藪を右往左往していると、ひょこりと土径が現れた。道の方向からすれば、ガードパイプの木標方向と違和感はない。ひょっとすれば、これが脱藩の道かも、と山方向へと道をとる。






木標;14時・標高250m

道を数分進むと「坂本龍馬脱藩の道」と書かれた木標が現れた。『坂本龍馬脱藩の道を探る』にあった、「石上峠から白岩まで残る旧街道」はこの道だろう。道を戻れば石上峠から新田集落に下り、白岩に向かう土径と繋がるだろうと道を先に進む。上述⑤の木標のない分岐点まで辿った道と繋がれば、との想いである。





木標のない分岐を間違い林道に入る;14時3分・標高260m
歩くこと数分、その時はそれほど意識もしなかったのだが、分岐があり比較的道幅の大きい右手の道を進む。後で分かったことであるが、坂本龍馬脱藩の道は左手というか、直進しなければいけなかった。
石上峠方面から下るときには、この分岐点に木標は不要であろうが、木標がないため、あらぬ方向に進むことになってしまった。




藪漕ぎ開始;14時28分・標高420m
道はどんどん高度を上げる。どこかと途中で左に折れる道があるに違いないと、その時は思い込み先に進んだのだが、それらしき道は現れない。道はどんどん舗装道から離れてゆく。木標のない分岐点(⑮)の道を意識していたならば、そこまで戻って道を進んだのだろうが、その時は分岐先に道があるとも思えず、適当なところで藪漕ぎして、舗装道に出てしまった土径(⑤)に下りて行こうと決める。
藪漕ぎ地点は沢を渡る可能性を避けるため、北に突き出た尾根を回り込んだ辺りで下ろうと、結局分岐点から25分ほど歩き、標高420m辺りから力任せに山を下る。

新田集落から白岩集落への脱藩の道を繋ぐ;14時51分・標高290m
倒(こ)けつ転(まろ)びつ、GPS だけを頼りに標高を90mほど下げる。雨も降ってきて、衣服は泥まみれ。途中作業道らしき道があればそこを進み、適当なところでGPS に表示される、地点⑤へのトラックログに向かって藪漕ぎをすること20分強。なんとなく踏み込まれた土径に出る。
GPSでチェックすると、地点⑤に近づいている。道を石上峠方面に進むと「坂本龍馬脱藩の道」の木標があった。繋がった。余りの嬉しさのあまり、木標の写真を撮ることも忘れてしまった。

分岐木標;14時58分・標高200m
繋がった坂本龍馬脱藩の道を白岩集落に向かう。途中、木標のない分岐(⑤)がある。お昼頃、この道を歩いたときはそこを右に折れ、5分ほどで舗装道に出てしまった。
その時は、舗装道に沿って進めば土径に入る木標があるだろうと先に進んだのだが、あっと言う間に弦巻まで出てしまったのは前述の通りである。 今回は、右に折れることなく直進し、数分進むと、道は上下に分かれる。はてさて、上下どちら?上の道に「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、道を上にとり、等高線300mの辺りを進む。舗装道は等高線250m辺りを進んでおり、舗装同に沿って50mほど上を進むことになる。

分岐点から5分ほど進むと、「坂本龍馬脱藩の道」の木標識があり(15時5分)、オンコースを確認し、安心して先に進む。








林道間違い箇所:15時17分・標高260m
木標からさらに10分ほど進むと、T字で道にあたる。この分岐点が、道とは思わず、林道に向かった分岐点(⑮)であった。ここで分岐に気付いていれば、藪漕ぎもせず道を繋ぐこともできただろうが、後の祭りである







21;脱藩の道を白岩集落・舗装路に戻る;15時22分・標高240m
土径を白岩集落へと向かう。「坂本龍馬脱藩の道」の木標(⑭)を見遣りながら分岐点から5分ほど進むと民家の納屋裏に出る。
民家脇で道は切れる。右に曲がれば民家の庭を通ることになる。左に曲がり、石仏が祀られる祠の前の道を下ると、舗装された道に出る。この舗装道は、白岩での土径を求めて右往左往した舗装道から分岐し、車をデポした道(⑫)。この道から白岩集落の脱藩の土径を求めて山に入っていった。

舗装路から土径に;15時24分・標高230m
舗装されたスロープ状の道を舗装道に合流し、先ほど見つけた木標のあるガードパイプの箇所(⑬)に100mほど下る。
ガードレールの切れた箇所からガードパイプに沿って土径に入ると、「坂本龍馬脱藩の道」の木標が立つ。



白岩の大清水;15時26分・標高230m
木標から数分歩くと「白岩の大清水」に到着。四阿(あずまや)の横の豊かな湧水で、体を冷やす。小雨の中での藪漕ぎの汗と泥を洗い流しリフレッシュ。因みに、白岩の大清水の手前で右に折れると、白岩の土径を求めて右往左往した舗装道に出る。そこには「白岩の大清水」の木標があったが、見逃していた。

弦巻近くの舗装道に出る;15時35分・標高270m
白岩の大清水から、土径を進む。ほぼ250m等高線に沿って緩やかに下る舗装道に沿って、その少し上を進むことになる。雰囲気のある土径を10分ほど進むと土径は弦巻の集落で舗装道にでる。舗装道路のすぐ先は、弦巻の集落にあった脱藩の道の木標がある、ヘアピンカーブとなる。


白岩のデポ地に引き返す(歩き);15時45分・標高230m
これで、新田集落からの土径の分岐を間違い、すぐに舗装道に出たため、すっぽりと抜けていた、新田集落から白岩集落、白岩の大清水をへて弦巻に出る、「坂本龍馬脱藩の道」が繋がった。
土径から車をデポした白岩集落まで歩きで戻り、そこから車で亀の甲へと下る。

亀の甲近くにデポ・車移動;15時58分・標高70m
車で進み、弦巻の木標からの土径が舗装道に出たすぐ先のヘアピンカーブを曲がり、さらにその先でもう一度ヘアピンカーブを曲がる箇所に「坂本龍馬脱藩の道」の木標が立つ。
ヘアピンカーブを曲がった少し先にあった舗装道のスペースに車を停め、小田川の川筋を見遣りながら亀の甲の木標に向かう。

亀の甲の木標;16時・標高75m
木標のある箇所から、竜馬が舟に乗った、であろう小田川の船着場といった雰囲気の広場が見える。舗装された急坂を下ると小川に架かる小橋に「坂本龍馬脱藩の道 亀の甲」の木標がある。







亀の甲;16時2分・標高50m
集落を抜け、県道32号を渡ると広場があり、そこに「坂本龍馬脱藩の道 宿間村(亀の甲)」の案内があり、「文久二年(1862年)3月24日。同志沢村惣之と土佐を脱藩した坂本龍馬は、26日、大野ヶ原は韮ヶ峠の国境を越え泉ヶ峠に宿泊した。27日(新暦では4月25日)朝、泉ヶ峠を立ち、耳取峠、石上峠、白岩、弦巻を経て、宿間村に着いた。
かつてここ宿間村の亀の甲は川舟による交通の要所として栄えていた。ここで道案内の那須俊平と別れ、龍馬と沢村惣之丞は川舟に乗って、小田川、肱川を下り、大洲、長浜を経て、長州は下関を目指した
龍馬の歩いた旧街道は、まさに新しい時代の黎明を告げる、新生日本の維新の道であった。 平成2年 五十崎町教育委員会」との解説が記されていた。

これで1泊2日を2回、日帰り1回の計5日かけて歩いた、坂本龍馬脱藩の道のうち、予土国境越えから小田川筋までを歩き終えた。単独行、車での移動のため、車デポ地へのピストンが必要であったため、通常の倍日数がかかってしまった。
とりたてて龍馬フリークと言うわけでもないのだが、脱藩の道という響き、峠越えというキーワードに惹かれてはいたのだが、何せ段取りのいいルーティングが思い描けず延び延びになっていた。が、今回、「えいや」と車移動でピストンと思いきり実行。なんとかなるものである。坂本龍馬脱藩の道の他にも、同じように段取りのいいルーティングができず、「保留」にしている歩き遍路も、車移動でピストン、と思いきれば、どこなと行けそうに思える。今回の散歩で得た最大の「ご褒美」は、そのことかと思う。
それはそれとして、横通集落と日除集落で2箇所ほど土径に入る木標を見逃し、その部分は不完全であるが、それも距離はそれほど長くない。今回歩いた当初、特に高知県内の坂本龍馬脱藩の道の木標はしっかりしており、地図は不要であると思っていた。が、愛媛に入ると、肝心な分岐に木標がなかったり、木標の方向指示が分かりにくかったと、道に迷うことも多かった。実際に歩いたトラックログで作成した坂本龍馬脱藩の道のルート地図を活用して頂き、道間違いが少しでも少なくなれば幸いである。

日曜日, 9月 18, 2016

予土国境 坂本龍馬脱藩の道を歩く そのⅣ;土佐梼原から予土の国境の峠を越えて伊予の大洲へと(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)

一泊二日の旅、二回目の二日目。初日は河辺川の谷筋・神納集落からキビシ川の谷筋・三杯谷集落を経て尾根に上り日除集落から水ヶ峠まで進んだ。計画時には、三杯谷から日除、水ヶ峠の箇所のルーティングが全く思い描けず、どうなることかと思っていたのだが、まったく歩くことなく車であっという間に着いてしまった。脱藩の道の土径を見逃し・見間違えた故の車行であったのは先回メモしたとおり。
予定では当日水ヶ峠から泉ヶ峠まで進む予定であったのだが、突然の豪雨のため中止。そのため、二日目の本日は、当初描いた泉ヶ峠から出発の予定が狂い、水ヶ峠から泉ヶ峠までの往復8キロ弱の歩きが加わることになった。
更に間が悪いことに、道間違いの歩きが加わる。石上峠から里に下る道の木標を見誤り、尾根道を先に進んでしまい、往復1時間、おおよそ4キロ弱が余分に加わり、結局合計で24キロ近く歩くことに。
水ヶ峠から泉ヶ峠間のピストンは、まだ元気であり、どうということはなかったのだが、泉ヶ峠から耳取峠・石上峠・新田集落へは下り一辺倒。行きはよいよい帰りはこわい、ではないけれど、新田集落から石上峠、耳取峠を泉ヶ峠へと戻る、上り一辺倒のピストン復路6キロは結構厳しいものになった。
6キロで比高差300mを上るわけだから、普通であれば、緩やかな上り程度ではあるが、酷暑の中を既に18キロ歩いた身体には結構きつく、数回に渡って歩いた坂本龍馬脱藩の道の中で、最も苦しい一日となってしまった。
因みに、この間の坂本龍馬脱藩の道は、水ヶ峠から新田集落までは、おおよそ10キロ程度ではある。


本日のルート;
PartⅠ(往路;脱藩の道);水ヶ峠から泉ヶ峠まで水ヶ峠から石崎峠の南を巻き、大森山の北を進み泉ヶ峠に
水ヶ峠;7時16分>土径に入る;7時21分>舗装道に出る;7時32分>土径に入る;7時47分>分岐(標識なし);8時10分>美しい景観:8時15分>泉ヶ峠;8時24分>県道310号切通し;8時31分

PartⅠ(ピストン往復);泉ヶ峠から水ヶ峠のデポ地に戻り、車で再び泉ヶ峠まで
泉ヶ峠出発;8時32分>(歩き)>水ヶ峠のデポ地到着;9時57分
水ヶ峠出発;10時>(車)>泉ヶ峠到着;10時21分

PartⅡ(往路;脱藩の道);泉ヶ峠から尾根道を進み、耳取峠をへて石上峠から新田集落に下る
泉ヶ峠出発;10時22分>耳取峠;10時38分>石上峠;11時2分>●道を間違い京ヶ森往復●>石上峠に戻り脱藩の道に復帰;11時52分>石上峠から土径を下る;11時58分>舗装道に出る;12時2分>新田(にいだ)集落・脱藩の道の土道確認;12時23分

PartⅡ(ピストン復路);新田集落から石上峠、耳取峠をへて泉ヶ峠の車デポ地に戻る
新田集落を出発し、舗装道を上り石上峠に到着;12時52分>耳取峠;13時24分>泉ヶ峠到着;13時58分(標高650m)



龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)

龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)
龍馬脱藩の道(水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落)標高図



PartⅠ(往路;脱藩の道);水ヶ峠から泉ヶ峠まで水ヶ峠から石崎峠の南を巻き、
大森山の北を進み泉ヶ峠に■

4キロ・1時間10分

水ヶ峠;7時16分(標高653m)
大洲の宿を出て国道197号、県道32号、228号と乗り換え、御禊川(みそぎ)に沿って進む。御禊川の谷地が切れる最奥部まで進み、大瀬南集落辺りで県道324号に乗り換え、細い山道を走り水ヶ峠に到着。
水ヶ峠では、少し日除集落側に寄った箇所に広いスペースがあり、車をデポする。




土径に入る;7時21分(標高649m)
身支度を終え、水ヶ峠から「泉ヶ峠 3.7キロ」「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、舗装道を泉ヶ峠方面に向けて進む。数分歩くと「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装道から土径に入る。





舗装道に出る;7時32分(標高660m)
緩やかな尾根道を歩く。左手下には分かれた舗装道が見える。のんびりと10分ほど歩くと土径は舗装道に出る。舗装道は一瞬、尾根道を進む。舗装されていなければ、痩せ尾根道といったものだろう。道はその先で大森山を巻いて進み、土径出口から15分ほど舗装道を歩くと、再び土径に入る。

土径に入る;7時47分(標高697m)
土径に入った脱藩の道は尾根道を進むことになる。おおよそ等高線に沿って緩やかに下る舗装道は尾根道から離れてゆく。大森山に近づくと(8時3分;標高715m)少し傾斜があるが、それほど険しいといった道ではない。
大森山を過ぎると「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い、道は南に向きを変え、少し下る。

分岐(標識なし);8時10分(標高682m)
前面が開けた雑草の中を進むとT字路にあたる。T字路には標識がない。右手には道の左右に農家の作業場が見える。民家に入るわけにはいかないと、左に折れるが、地図を確認すると実線ルートが泉ヶ峠から離れてゆく。
民家の中を通るのか?などと心配しながら作業場に近づくと、ご夫妻がトマトの選別をなさっていた。この道は脱藩の道ですか?と尋ねると、オンコースと。道は作業場の間を抜けて進んでいた。奥さんからトマトを頂いた。感謝。

美しい景観:8時15分(おn標高682m)
作業場から少し進むと、進行方向左手にキビシ川の谷筋の集落、その向こうに雲を抱いた山々が見える。昨日の雨上がりのためか、谷間に湧く雲と集落、そして山々。なかなか、いい。





泉ヶ峠;8時24分(標高648m)
作業場から15分ほど歩くと、突然平坦地に出る。覚に「泉ヶ峠ニ至ル 龍馬俊平ト供ニ泊マレリ」とある、龍馬が梼原を出てはじめて泊まった泉ヶ峠である。 平坦地には龍馬のポスターを貼った建物があり、山小屋か茶店と思い近づくが、現在は休業中とあった。
小屋の廻りには石碑、祠、建物の礎石らしき石組み、往昔の泉ヶ峠の賑わいを示す旅館、餅屋、鍛冶屋、馬つなぎ場、馬の鉄入れ作業場、相撲場などを描いた木の案内板などがある。
『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、泉ヶ峠は道路が整備される以前、山越えが往来の基本であった時代、「河辺・肱川と五十崎を結ぶ往来の中心地としてにぎやかであり」「新谷の琴平祭や五十崎の牛市などの紋日には数百人の往来があったそうである。平日でも材木、三ツ椏(私注;みつまた;和紙の原料)、蚕のまゆなどを運ぶ牛馬が四十頭あまり、魚・肉・酒などの日用品を売る商人など、四、五十人の往来があり」と記されていた。
見落としたが、同書には、祠の近くに井戸跡があった、とある。泉ヶ峠の名前の由来ともなっていたが、現在の県道310号の前身となる道を開くに際し、峠の尾根の切り通し工事に伴い水路が絶たれた、とのことである。

県道310号切通し手前に木標;8時31分(標高650m)
泉ヶ峠を離れ、舗装道に下りる。舗装道理脇には「坂本龍馬脱藩の道」の案内があった。
「泉ヶ峠 文久2年(1862年)春、土佐の郷士坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。 3月24日、同志沢村惣之丞と高知を発った龍馬は、25日梼原の那須俊平、信吾 父子の家に泊まり、翌26日(新暦では4月24日)大野ヶ原は韮ヶ峠の国境を越えた。その夜ここ泉ヶ峠に着き、沢村惣之丞、そして道案内の那須俊平とともに一夜の宿をとった。
かつてこの峠には、旅館などがあり、土佐街道の交通の要所としてにぎわっていた。脱藩後の最初の夜、龍馬はこの峠でどんな夢を見たであろう。
平成19年3月 河辺坂本龍馬脱藩の道保存会 河辺観光推進協議会 内子町教育委員会」。
脱藩の道・取り付き口確認
舗装道に下り、泉ヶ峠から先の脱藩の道の取り付き口を探す。と、県道の尾根切通し手前に「坂本龍馬脱藩の道」の木標がある。木標の先は土径となり、尾根に向かっている。ここが取り付き口であろうと、確認を終え、水ヶ峠へと戻る








PartⅠ(ピストン往復);泉ヶ峠から水ヶ峠のデポ地に戻り、車で再び泉ヶ峠まで■

泉ヶ峠から水ヶ峠のピストンは、何も考えず舗装道を戻ることにした。これが結構大変。標高を650mから550mまで下げ、それから標高700mまで上げるわけで、こんなことなら脱藩の道を戻ればよかった、などと思うも後の祭り。累計比高差150mほどを上り下りすることとなった。

泉ヶ峠出発;8時32分
泉ヶ峠を8時32分に出て、県道310号を南に下り、北に突き出た尾根筋を廻り込んだ後は、等高線にそって北に向かって半円を描く道筋を進み、三久保集落の上で県道から分かれ、大森山の南を進み尾根筋に近づき、道なりに進み水ヶ峠に戻る。

水ヶ峠のデポ地到着;9時57分
水ヶ峠のデポ地到着は9時57分になっていた。舗装道歩きピストンは5キロ・1時間半であった。

水ヶ峠から泉ヶ峠に(車);10時出発・10時21分到着
そこから往路、というか、泉峠への引き返し。10時に水ヶ峠を出発し、歩きピストンで確認した同じ舗装道を走り、県道310号を経て泉ヶ峠に10時21分に到着。5キロを21分で移動した。



PartⅡ(往路;脱藩の道);泉ヶ峠から尾根道を進み、
耳取峠をへて石上峠から新田集落に下る■

10キロ・2時間


泉ヶ峠から石上峠を経て新田集落までは、順調に進めば6キロほど。が、前述の如く石上峠で脱藩の道の木標の指示を見誤り、あらぬ方向へと尾根道を進み続け、往復で4キロの無駄足とはなった。が、尾根道は基本緩やかな下り。往路は快適な歩みではあった。

泉ヶ峠出発;10時22分(標高650m)
県道310号・峠の切通し手前に立つ「坂本龍馬脱藩の道」の木標から急な土径を尾根に上る。679mピークは南を巻くも、基本尾根を進む。等高線の間隔も広く、緩やかな下りであり、ピッチが上がる。




耳取峠;10時38分(標高608m)
泉ヶ峠から15分ほど歩き、標高を40mほど下げると左手が開け、前方に平坦地が見える。「坂本龍馬脱藩の道 耳取峠」の木標が立つ。平坦地の端にコンクリートの休憩所らしきものがあり、奥に石仏が祀られる。昔の茶堂を模したものかもしれない。
耳取峠は、風が強く耳が取れてしまいそう、とか、この地に侵攻した土佐の長曽我部の軍勢が敵の耳を切り取り塚に祀ったとか、諸説あるようだ。

石上峠;11時2分(標高503m)
耳取峠の先も、基本尾根道であるが、ピーク部分は北や南を巻きながら進む。610mピークを巻いた先で左手が開け折り重なる山並みが目に入る。その先で分岐(10時52分:標高565m)となるが、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、左手を進む。
道は林道の趣が強く、脱藩の道?と心配になるが、その先にも「坂本龍馬脱藩の道」がありオンコースであることを確認し、先に進むと石上峠に到着する。耳取峠から20分で標高を100mほど下げたことになる。
峠は四差路となっており、北の御禊川の谷筋から上ってくる道は舗装されている。峠には木材が積まれ、トラック積み込みのためなのかフォークリフトも置いてあった。往昔、肱川筋は、日本三大木材山地であったと言う。現在でも林業が盛んなのだろうか。
広い林道、積み上げられた木材、そしてフォークリフトと、今ひとつ、峠の風情に欠るが、峠の四差路を越えた道の左手にささやかな祠に石仏が祀られる。藩政時代の茶堂跡のようである。

木標見間違い
祠の道の反対側に「坂本龍馬脱藩の道 石上峠」とある。方向は道を直進とある(とその時は思っていた)。林業用に整備された広い林道を尾根道に沿って先に進む。後からわかったことではあるが、直進は間違い道であった。WEBでチェックすると、ここで道を間違う方がいたが、オンコースは木標から林道を斜めに土径を下ることになる。

道を間違う
オンコースの土径がわかったのは、後のこと。その時は林道を進み、大迫山を巻き(11時17分;標高530m)、京の森まで進んだ(11時31分;標高521m)。と、道は行き止まりとなる。地形図を見ると、そこから先は尾根筋を下ることになる。
事前にチェックした龍馬脱藩の道の経由集落である、白岩、福岡、下宿間は京の森から真北にある。どこかに脱藩の道の木標がないか、道はないかと探すが、それらしきアプローチは見つからない。仕方なく、歩いた道すがら、木標がないかと探しながら道を歩くと石上峠に戻ってしまった。

石上峠に戻り脱藩の道に復帰;11時52分(標高503m)
石上峠に戻り、さてどうしたものかと「坂本龍馬脱藩の道 石上峠」の木標を見ると、木標から斜めに草に蔽われた土径がある。木標の示す方向は林道を斜めに下りる、この土径であった。それにしても、少しわかりにくい。






石上峠から土径を下る;11時58分
木標から斜めに、草に蔽われた土径に入る。ほどなく草はなくなり、中央の窪んだ滑りやすい下りとなる。足元に気を付け道を下ると、舗装道が見えた。石上峠の木標からほんの数分の土径であった。







舗装道に出る;12時2分(標高466m)
舗装された道を木標を下ってゆく。特に木標は見つからず、結局舗装された道を20分ほど歩くと前方が開け、新田の集落に出る。








龍馬脱藩の道見逃し
舗装道に出ると直ぐ、「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、舗装道から直ぐ土径に入っていた。往路、舗装道に下りた時は全く気付かず、復路で木標に気が付いた。疲れて、見れども見えず、であったのだろうか。
なお、後日わかったことではあるが、この木標から続く土径は、下に記す新田集落の木標の箇所に続いていた。





新田(にいだ)集落・脱藩の道の土道確認;12時23分(標高355m)
舗装道が山から新田の集落に入る箇所に、「坂本龍馬脱藩の道 新田」の木標がある。方向は今下ってきた舗装道を示している。そんな馬鹿な?と、木標から右斜めに草に蔽われた道筋がある。これが新田集落から先に続く土径であろう。
これで、山越えから里への「坂本龍馬脱藩の道」は繋がった、とその時は心で万歳三唱した。実際は上で先回、今回のメモで記したように、5か所ほど土径へのアプローチを見逃しており、繋がってなどいないのだが、その時は知る由もなし。
また、里に繋がった、とは思ったのだが、衛星写真でチェックすると新田集落は未だ山間部の集落である。少々気落ちするも、残りは、日を改めて歩いて見ようと、泉ヶ峠の車デポ地に戻ることにする。

■PartⅡ(ピストン復路);新田集落から石上峠、
耳取峠をへて泉ヶ峠の車デポ地に戻る■

6キロ・1時間半強

新田集落から車デポ地の泉ヶ峠に戻る。標高350m新田集落から650mの泉ヶ峠まで比高差300m、上り一辺倒のルートである。距離は6キロ程度だが、本日は道間違いもあり、歩きだけで既に18キロ歩いている。戻り6キロは誠に厳しいものになった。

新田集落を出発し、舗装道を上り石上峠に到着(12時52分;標高503m)
途中土径から舗装道路に出た対面に、往路で見逃した「坂本龍馬脱藩の道」の木標をみつけたのも、この石上峠への戻りの途中である。結構気落ちした。






耳取峠;13時24分(標高608m)
石上峠から耳取峠まで、比高差100mの上りは誠に厳しい。3本用意したペットボトルの水の残量を気にしながら、40分ほどかけて耳取峠に到着(13時24分;標高608m)。
石仏が祀られる、茶堂を模したコンクリートの四阿に、身も世も無く倒れ込む。散歩で休憩することは、ほとんどなく、倒れ込むといったことははじめてのこと。10分ほど大の字になって休みをとる。

泉ヶ峠到着;13時58分(標高650m)
大休止の後、へとへとの体で比高差50mを上り、泉ヶ峠に到着(13時58分:標高650m)。新田集落から6キロを1時間半で戻ってきた。ふらふらとはいいながら、結構なスピードで戻ったようだ。





泉ヶ峠の車デポ地に向かい、県道310号を下り、実家に戻る。坂本龍馬脱藩の道も、舟で長浜に向かったという肱川の支流小田川の亀の甲集落までを残すのみ。当初脱藩の道を計画した時は、山越えし里に出れば終わりとしよう、と思っており、新田とか白岩の集落まで繋げは十分かと思っていだのだが、衛星写真でチェックすると、小田川筋の亀の甲あたりまで山地が続いている。これはもう、小田川に当たるまで進むべし、と心に決める。