月曜日, 3月 29, 2021

土佐北街道散歩 ;高知城下からはじめ權若峠取り付き口の釣瓶まで そのⅠ

土佐北街道散歩も高知城下から権若峠への取り付き口である釣瓶までを残すのみになった。今回も『土佐の道 その歴史を歩く:山崎清憲(高知新聞社)』に記されるポイントとなる地名、史跡を追っかけてその道筋をトレースする。詳しいルートは記載されていないが、ポイントさえ見つかればなんとかなるだろう、との想い。
同書に記される土佐北街道の道筋は、お城を出て大手筋を進み、江ノ口川・山田橋南詰めの山だ番所、久万川に架かる比島橋を渡り掛川神社前を進む。
それより東に転じ、鳥付橋を渡り石淵の送り番所を経て布師田の布師田御殿に入る。布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。
そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。 亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、同書に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。メモは途中郷土の偉人の案内なども多く結構長くなった。今回は城下から布師田までと布師田から釣瓶まで2回に分けてメモする。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
直接領石を目指すルート
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
比江経由のルート
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口


高知城下から布師田御殿跡まで


高知城
参勤交代のスタート地点として高知城を訪れる。土佐北街道のルート探しにどの程度時間がかかるかわからないため、足早に取り合えず「足跡を残す」といった思い出はある。
比較的新しそうな初代藩主山内一豊公の騎馬像を見遣り先に進むと追手門手前に「野中兼山先生邸跡」の石碑が立つ。宿老ゆえ、追手門すぐ傍に屋敷があったのだろう。
追手門を潜り城内に。板垣退助銅像(昭和31年(1956)造立)を見遣り石段を上ると、左手石垣から石樋が突き出る。なんだか面白い。これだけは案内をメモしておく;
石樋(いしどい)
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。 石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されているが、下になるほど排水量が なるため、この石樋が一番大きく造られている」とあった。


三の丸へ。往昔、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などからなる三の丸御殿が建っていたところ。いまは広場となっている。
二の丸は藩主の居住空間である二ノ丸御殿があったところ。高知城下を眺める。
天守には本丸御殿が接している。天守と本丸御殿が残るのは高知「城だけとのことである。本丸御殿は二の丸御殿ができるまでは一豊公とその妻、賢妻で知られる千代の居宅であったと言う。
高知城
愛媛に育った者として折に触れ高知城は訪れている。 とはいうものの、過日、歩き遍路の過程で高知城が国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地することに初めて気づいた。で、そのメモにデルタ地帯に城下町ができた経緯と治水対策が気になりメモをまとめておいたのだが、ここには城下町普請の経緯を再掲しておく(治水施策に興味のある方はこちらの記事をご覧ください)。
元は大高坂山城
高知城は北は久万川、南は鏡川、東は国分川に囲まれた氾濫平野、三角州からなる低湿地帯のほぼ中央、標高44mほどの大高坂山に築かれている。大高坂山に城が築かれた、といっても砦といったののではあろうが、その初出は南北朝の頃、南朝方についた大高坂松王丸の居城であったとされるが、北朝方の細川氏に敗れ廃城となった。
長曾我部氏の城普請
戦国時代に入り、四国統一を目前に秀吉に敗れた長曾我部元親は、秀吉の命により居城を岡豊城からこの地に移すことになった。
デルタ地帯の水はけの悪さに加え、度重なる洪水被害に城普請は難渋を極め、城を本山氏の城塞のあった浦戸に移し浦戸城を整備したとの記事もある。が、地図で見る限りその地で本格的城普請が行われたとは考にくい。浦戸湾口に西から東に突き出た狭い岬に家臣団の住む城下町は考えられない。使われた瓦も安普請であり,浦戸城は朝鮮出兵に際しての出城であったとする説に納得感がある。事実、朝鮮出兵中も大高坂山城の整備が続けられていたとの説もある。
山内氏の城普請
長曾我部氏は関ヶ原の合戦で西軍に与し改易。山内一豊が土佐一国を与えられ掛川城から転封し、浦戸城に入るも、大高坂山を居城と定め城普請を始める。築城に際し、織田信秀の家臣として西軍に与し蟄居処分となっていた百々綱家(どど-つないえ)の登用を幕府に願い出でる。 百々綱家は元は浅井家の家臣であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」との繋がりが強く、石垣普請の名手と称されていたようだ。幕府の許しを得た山内氏は6千石で百々氏を召しかかえ、総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。石垣は浦戸城のものを流用したという。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際、城の名を河中山城(こうちやまじょう)と改名された。 普請開始は慶長6年(1601)9月といった記事もあるのでおよそ2年の工期。人足として山内家臣団も加わったという。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧の助言を受け高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。

追手筋を東進
追手筋の高知城を出ところに県立高知城歴史博物館がある。高知北街道に関する資料はないものかと訪れるが、特にそれらしき資料は展示されていなかった。上述の書、『土佐の道』にある記事だけ(ルートは概要図のみ)を頼りにルートハンティングするしか術はない。仕方なし。 高知のお城を出た参勤交代の列は大手筋を東進したようだ。藩政時代の高知はお城を囲む一帯は重臣の居宅のある郭中、お城の西側は家臣・商人・職人の住む上町、郭中の東も家臣・商人・職人の住む下町といった3つのゾーニングに分かれていた。
郭中の追手筋を東進した参勤交代の一行は現在の廿代橋から南に下る道を境に下町に入る。「寛政七年(1667)高知城下図」には東西に走る追手筋の南に水路が見える。外堀の役割を果たしていたのだろうか。
郭中から下町に入り、かつての西蓮池町、播磨屋町、蓮池町と進み現在の国道32号を横切り県道249号の一筋手前を左に折れ北進しかつての山田町方面に向かう。ちなみにこれら旧地名は現在「はりまや町」となっている。

山田橋
北進すると江ノ口川に架かる山田橋にあたる。この橋は伊予の川之江に出る土佐北街道・北山越え、室戸岬東岸の甲浦に出る野根山越えの、通称「東街道」の起点でもある。「東街道」は土佐北街道が開かれる以前の初期の参勤交代道。野根山街道を甲浦に抜ける。
山田橋の南詰めは少し広くなっているが、そこにはかつって山田橋番所があった、と言う。 この山田橋は遍路道筋でもある。真念はその著『四国遍路道指南』に「過ぎてひしま橋山田橋という。次番所有、往来手形改。もし町に泊まる時は、番所より庄屋にさしづにて、やどをかる」と記す。 山田橋の由来は長曾我部氏が城下町を建設するにあたり、土佐山田の人が移り住んだ故と言う。
江ノ口川
細藪山地西端近くの山裾(高知市口細山辺り)に源を発し、西から東へと流れ高知城の直ぐ北を経由して更に東進し国分川に合わさり浦戸湾に注ぐ。江ノ口川はその流路故に、江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、高知城北側、江ノ口川に面する北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。
江ノ口川の名前の由来は、現在の高知駅、入明駅周辺にあった江ノ口村に由来するようだ。

旧道に茂兵衛道標(100度目)
山田橋を渡ると現在の相生町に入るが、直ぐ先に土讃線の高架があり旧路らしき道筋は残っていない。次のポイントは久万川に架かる比島橋であるので、そちら方向に成り行きで進み一度県道249号に出る。
しばらくすると右に逸れる如何にも旧道らしき道がある。県道を逸れゆるやかに曲がる道を進むと道の左手に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「安楽寺 左 高智 左国分寺 明治二十壱年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。
安楽寺は明治の神仏分離令に際し、廃寺となった善楽寺に替わり明治8年(1875年)に札所となったお寺さま。当地より南西5.5kmの所に建つ。

茂兵衛道標の直ぐ先、道の左手の古き趣のお屋敷端に「久保添家伝薬発売元」と刻まれた石碑が立つ。旧家には「クボゾエ外科科胃腸科」の看板がかかっていた。「*家伝来」は 家業意識の高さを示すもの。かつて家業として薬を販売していたのだろう。
この辺りの土佐北街道は高知城下を経由する遍路道と同じである。

久万川に架かる比島橋を渡る
旧道は旧家の先で県道249号にあたる。合流点である三差路を北進すると久万川に架かる比島橋。
比島は「山の形がひ;箕のこと)に似ている島の意味(「土佐地名往来」より)。箕は穀物の餞別に使われていた農具だろうと思うのだが、それを裏返した形に似ていたということだろうか。とはいうものの、往昔湿地に浮かんでいたであろう島の痕跡は今はない。
久万川
国分川水系の川と言う。が、東から西へ、物部川の発達した扇状地に阻まれ高知市内に注ぐ国分川とは真逆、高知市の北の細藪山地にその源を発し西から東へと流れ浦戸湾河口部で国分川に合流する。 現在は陸地化されているが、かつての久万川は氾濫平野を流れ、河口部は三角州であったわけで、とすれば両河川の浦戸湾への注ぎ口は現在より上流点であったろうし、であれば往昔は国分川と久万川は合流することもなく浦戸湾に注いでいたようにも思う。
それが国分川水系とされるのは?水系の定義である分水界を同じくする、を元にチェック。国分川と久万川の共通点は、東を土佐山田台地で物部川との分水界を画し、北は細藪山地が吉野川水系との分水界となり、西も南に突き出した細藪山地により鏡川と分水界を画している。要は北と西は細藪山地、東は土佐山田台地によって囲まれた流域であるということだ。
この定義にもとり、両河川は同一水系と考えてもよさそうだ。国分川水系とされたのは国分川も久万川も共に2級河川であるが、その流路距離や流路面積が一見して国分川が圧しているためだろうか。上述江ノ口川も国分川水系とされるもの、このゆえのことだろう。
国分川
国分川は、その源を高知県香美市土佐山田町 と平山 の甫喜 ケ峰 (標高 611m)に発し、領石川 、 笠 ノ川川等の支川を併せながら香長平野を南西に流れた後、下流部において久万川、江ノ口川 、舟入川等の支川を合わせ、浦戸湾に注ぐ。

掛川神社
久万川を渡り土讃線・薊野(あぞの)駅手前、県道249号の左手に掛川神社がある。遠州掛川5万石の藩主であった山内一豊が関ヶ原の合戦での功により土佐20万石の藩主に封 ぜられたわけだが、この社は二代目藩主忠義が掛川より勧請したもの。鳥居傍の石碑には「合殿 龍宮神社、東照神社、海津見神社」と刻まれる。
案内には「掛川神社 江戸時代の寛永十八年(一六四一)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭天王を遠州掛川 (静岡県)から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめである。
以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(一八六八)現社に改称した。 合祭神社→龍宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも明治三十二年(一八九九) 合祭した。
東照神社は延宝八年(一六八〇)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(一八一四)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、 明治元年東照神社と改称、明治十三年(一八八〇) 合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋、三つ葉葵がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。 高知市教育員会」とあった。
江戸の頃、澄禅もこの社に詣でており、その著『四国遍路日記』に「(観音院)・ 夫与西ノ方ニ一里斗往テ小山在、美麗ヲ尽シタル社也。是ハ太守、天正ノ昔、遠州懸川ノ城主夕リシ時ノ氏神ヲ、当国ニ勧請セラレタリ、天王ニテ御座ト云ウ」と記す。
このような由来ゆえか、藩主は掛川神社前で駕篭から下りて礼拝していたようだが、寺の僧が気をきかせ、駕篭を下りることなく「そのまま」で礼拝を勧めたため、以降掛川神社前では、「そのまま そのまま」と言う俚諺が出来たと『土佐の道』にある。俚諺(里人の言葉)、「そのまま そのまま」ってどういうコンテキストでつかわれたのだろう。
江戸の頃、牛頭天王と称していた社が明治に改名しているところが結構多い。一説には天王>天皇の連想から不敬に当たるとしての対処とも言われる。
国清寺
神社参道左手にお寺さま。牛頭天王の別当寺であった国清寺。案内には「陽貴山見龍院国清寺は、元和三年(一六一七)比島の龍乗院の開基でもある日讃和尚の開基で、寛永一八年(一六四一)牛頭天王宮 (現掛川神社) の別当寺となった。
二代快彦・三代快充・四代黙堂と次々に高僧が出て、藩主の帰依を得、上級武士や学者文人などとの交流が深かったといわれる。
もとは天台宗で、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺門主支配の寺であった。慶安四年(一六五一)には三重の塔、続いて護摩堂が建立されるなど、藩主山内家の尊崇が篤かったが、明治 維新後の廃仏毀釈によって廃寺となった。
この廃寺に、明治四年(一八七一)四月から六年五月まで、明治政府によるキリシタン弾圧のため土佐に預けられた、長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた。
明治一三年(一八八〇)、京都相国寺の独園大禅師が参禅道場を開き、退耕庵と名付けた。二代実禅大禅師も参禅を広め、門下の坂本則美・中山秀雄・弘田正郎らの協力を得て再興し、寺号 も旧に復して国清寺となった。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、本尊は釈迦如来である。 高知市救向要員会」とあった。
〇明治政府のキリシタン弾圧
幕末、キリシタン禁止政策のもと、隠れキリシタン弾圧を受けた長崎の浦上村は「浦上四番崩れ」と世にいう4度目の弾圧により、一村全体、およそ3000名(3400名とも)が捕縛・拷問を受ける。幕府崩壊後もその政策を受け継いだ明治政府は村民すべてを流罪とし、流罪先は21藩に及んだ。ここ高知では当初赤岡(香南市)と江ノ口(高知市街)の牢舎に停め置かれたが、その後廃寺となっていた国清寺に移された。
キリシタン禁制が廃止されたのは明治6年(1873)。不平等条約改正のため欧州に赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達し廃止となった。
獄中は劣悪な状態であり、おおよそ三分の一が帰らぬ人となったとのことである。
●薊野(あぞうの)
野アザミの里が通説。莇は薬草のクコ。別説は海が 入り込む浅海・あさみ説。崩れた岸や崖のあず (?)説も(「土佐地名往来」)

鳥付橋
掛川神社を離れた土佐北街道・県道249号は北東に進み 薊野東町で右折。県道384、44号、高知東部自動車道の高架を潜る。この高架下に水路がありそこに架かるのが『土佐の道』にあった鳥付橋であった。






土佐神社お旅所
をクロスし土讃線に沿って東進。一宮中町2丁目、川の西詰に社と、川沿いの道に鳥居が建つ。 何故に境内横の川沿いの道に鳥居が?ちょっと気になり境内に入る。案内には、「土佐神社お旅所 明治十三年建立 土佐神社の大祭「志那禰祭」の神幸祭に際して神輿が仮に鎮座する場所です。
神殿造りのお旅所は珍しく一宮ならではの建物です。古くは、須崎市浦ノ内に祀られる鳴無神社をお旅所とし、江戸時代からは、高知市五台山の小一宮様(現在の土佐神社離宮)をお旅所としていずれも海路御神挙しました。初般の都合により明治十三年当地に建立し徒歩にて御神幸するようになったものです。
お旅所祭は祭儀上重要なもので現在も鳴無神社に向かい巫女により神楽を奉納しています」とある。
現在御神幸は海路を進むことなく、このお旅所まで神輿神幸が行われているようである。川沿いにある鳥居を潜り北進すると土佐神社がある。
土佐神社
土佐神社の礫石
先般、歩き遍路で30番札所善楽寺を打ったとき、お隣にある土佐神社に参拝した。土佐一の宮、 『日本書紀』や『土佐国風土記』にも記される古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された神社である。
その境内を彷徨っているとき、上述お旅所の経緯に関係する「礫石」に出合った。畳二畳ほどの自然石の傍に案内があり「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。 この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある。
鳴無(おとなし)神社
高岡郡浦の内、現在の須崎市内の浦に鳴無神社がある、古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。
それもあってか海辺に鳥居が建ち、参道は海に向かっている。

岩を投げたかとうかは別にして、鳴無神社の祭神は一言主。土佐神社の祭神と同じである。Wikipediaの鳴無(おとなし)神社の社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた。雄略天皇4年の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとし、土佐神社は鳴無神社の別宮であったとされる。 一方、土佐神社の社伝には祭神は、古くは『日本書紀』に「土左大神」とする。地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載されるが、この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。
その後、710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)には「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ」と神名が「土佐大神」から変わっている。
この記事の意味するところは、大和葛城地方の豪族である賀茂氏が土佐に勢力を及ぼすに際し、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏祖先神の神格を加えるべく、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだとされる。
賀茂氏とその祖先神一言主神と味鋤高彦根神
奈良県御所市に高鴨神社、葛城一言主神社がある。この社の祭神は共に味鋤高彦根神、一言主神。 大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる。
『古事記』や『日本書記』には、雄略天皇が葛城山で一言主と問答をした、といった記述があるようだ。また、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流された、といった記述と変わる、さらに『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)には、葛城山で「一言主神」が雄略天皇と出会ったとし、一言主は土佐に流されて「土佐高賀茂大社」に祀られた、となっている。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。

四国霊場遍路道
土佐神社の隣に四国霊場30番札所善楽寺がある。善楽寺から31番札所竹林寺への遍路道は大きく分けて2つある。一つは高知城下を経て竹林寺へ向かうもの。もうひとつは城下を経由することなく善楽寺・土佐神社から南下し直接竹林寺を目指すもの。
高知城下経由の道は善楽寺・土佐神社の表参道を南に下り、県道384号を南西に進み、途中土佐北街道へと道を分ける県道249を越え掛川神社前を通り、久万川に架かる比島橋、江ノ口川に架かる山田橋を渡り、橋詰の番所で札改めを受け下町を南に下り鏡川に沿って南東に進み青柳橋を渡って五台山にある竹林寺に向かう。遍路は城下の郭中に泊まることは許されなかった。
もう一つの直接竹林寺へ向かう遍路道は、土佐神社の表参道を南に下り、土佐神社お旅所のあるこの地で左折、少し東に進んだ後土讃線一宮駅の東から南進し竹林寺に向かったようである。 土佐藩は遍路に対し厳しく城下町を経由する遍路道を避けこの道を進んだ遍路も多いと言う。

石淵送り番所
お旅所横の鳥居にフックがかかり、あれこれと寄り道メモが多くなった。お旅所を離れ土佐北街道を進む。Google Mapにはこの辺りから県道249号に「土佐北街道」と記される。 県道を東に進み土讃線土佐一宮駅を越えると直ぐ、道の左手にお堂が建つ。その直ぐ東に南に下る道がある。この道は30番札所から高知の城下を避けて直接竹林寺に向かう遍路道である。 この道の先、道幅が一車線に狭くなり石渕の集落に入る。

集落に入ると直ぐ、道の右手民家の前に案内が立つ。案内には「「石渕送り番所・参勤交代の道筋」とあり、「江戸時代初期の資料と推測される「御国村数名書帳」(皆山集)によると、高知城下より東方江ノロ村の次一里の場所に布師田村があり、「布師田村・大道筋・馬継」という記載が見られます。

「大道筋」は土佐藩内の東方面の他国に出る一番大きな道で、幅三間(約5.4m)と定められており、布師田は重要な交通の要所であったことが伺われます。 「馬継」とあるのが“石渕送り番所”です。他の地域に比べてとても多くの馬が飼われていた記録も残されています。送り番所は村役人待遇の送番頭が常勤し、通行手形のチェックや出張役人の対応、また馬や駕籠などをそなえて公用の書状や荷物の搬送などにあたりました。たびたび夫役として農民が労働を課され、地域村民の負担となったこともありました。
参勤交代が北山道を通るようになり、藩主第一泊目の布師田御殿がヒツ城(現在の布師田ふれあいセンター付近)に作られると、石渕送り番所の重要性はいっそう増していきました。
坂本龍馬や武市半平太など幕末に活躍した多くの人々もこの送り番所で通行手形のチェックを受けて旅立って行き、往来していたことでしょう。
※石送り番所の位置には諸説ありますが、この地であるという説が有力です。
龍馬青春の道
嘉永6年(1853年)3月17日、当時19歳の龍馬は藩から15ヶ月の国暇を得て私費での剣術修行のため、溝渕広之丞と江戸へ出立して行きました。城下を離れて最初の石淵送り番所で通行手形のチェックを受けたことでしょう。その後は参勤交代の北山道を通って、布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざしたと思われます。『龍馬青春の道』とも言えるのではないでしょうか」とあった。
折越峠はどこか不明だが、西谷と蒲原の間とすれば、後ほど歩く県警交通機動隊の建屋前に抜ける丘陵切通しのあたりかもしれない。西谷・蒲原・小蓮は龍馬も後程その道筋を歩くことになる。

岡村十兵衛先生住居跡
山裾に沿った石淵の集落を進むと、道の左手に「岡村十兵衛先生住居跡」の案内があり、「岡村十兵衛先生住居跡 岡村十兵衛の先祖は、戦乱の京を逃れて土佐に下向した一条教房の従者として土佐に入国しましたが、主家が長宗我部元親に滅ぼされた後浪人し、後に土佐に入国した山内氏の中村城主(山内修理大夫)に仕えることになります。
布師田に在住した十兵衛は、天和元年(1681年)羽根浦(私注;室戸市羽根町)分一役を命ぜられ、羽根浦に着任しました(同郷布師田の大先量一本権兵衛が亡くなったわずか二年後)。分一役”とは軽格の武士が任命され、諸税の徴税や民生に当たりました。
当時土佐藩の疲弊は激しく、特に安芸の東部沿岸は相次ぐ野中兼山の殖産興業策が民力を削ぎ、浦奉行の苛政も加わり、身売りや逃散が続いていました。羽根村も例外ではなく、十兵衛赴任の前から風水害が相次ぎ、漁もなく凶作で村人の生活は困窮の極に達していました。
十兵衛は民情を詳しく視察し、惨状を救うのに心を砕きました。売掛米を貸し付けたり、藩に願って黒見(私注;羽根川上流に黒見の地名が地図に記される)の御留山を明けてもらい、松材を上方方面に売り、その利益を地下に用立てたりして滞人の救済を図りました。こうした努力にもかかわらず、十兵衛赴任後の天和の三年間も災害や凶作・不漁は続き、その後も事態好転の兆しは一向に現れませんでした。
十兵衛は御米蔵の年貢米を施すより外はないと判断し、再三にわたって藩庁に窮状を報告し、御米蔵の米を救い米として放出することの許しを願い出ました。一ヶ月が過ぎても藩からの沙汰は一向になく、十兵衛は責任を一身に負う覚悟を決め、庄屋を呼び尾僧(私注;室戸羽根町の国道55号傍に尾僧の地名が記される)の米蔵を開いて餓死寸前の村人に施米をして人々を救いました。 許可なく藩の米蔵を開いた罪は軽くなく、追っての沙汰を待つように謹慎を命ぜられた十兵衛は、事務整理を終え、貞享元年(1684年)七月十九日未明、罪を一身に背負って役宅で切腹して果てました。
村民は嘆き悲しみ、八幡宮の傍らに募って香華を絶やすことはなかったと伝えられています。また、死後、時を置かず庄屋や年寄りたちが連名で十兵衛の罪に対する願書を提出しています。 天保四年(1833年)七月十八日、百五十年祭が挙行されています。
弘化四年(1847年)第十三代藩主山内豊熈は東巡の折、参拝して十兵衛の忠義を称える漢詩を贈っています。また、豊熈は高知に帰り、十兵衛の子孫を探し出して召抱えようとしましたが、跡目が絶えていて果たすことができませんでした。
明治四年(1871年)組頭・地下惣代十数名が願い出て“神社”として祀り、明治七年正遷宮の儀を営んでいます。
昭和二十七年(1952年)十一月、羽根十兵摘会は二百七十年祭を村と共催で盛大に行って遺徳を偲び、その仁政を顕彰しました。
毎年11月第2日曜日には鑑雄神社境内で岡村十兵衛先生追善相撲大会が盛大に開催され、布師田の子供も参加しています。また米をかたどった“お蔵饅頭”が羽根名物として百年以上線く老舗で販売されており、平成7年4月からは“十兵衛手打ちうどんのお店も営業しています。
高知の作家田岡典夫は、小説「武辺土佐物語」の中の“羽根浦救民記”で、岡村十兵衛が住民が藩に一揆などおこすことのないよう気を配り、「皆の者、やっとのお許しが出たのでお倉の米を配給する。」と告げて御米蔵を開放し、住民がに大いに感謝したとして著わしています。当時の想像を絶する状況と人物の大きさが伝わってきます。
以上を引用した“室戸市史 上巻第九章 二人の義人の二人とは、岡村十兵衛《貞喪元年(1684年)許可を得ずに御米を開放して自刃》と一木権兵衛《延宝七年(1679年)室津港大改修完成後自刃》であり、いずれも布師田に在住した藩の役人でした。
ここ住居跡と言われる場所の庭には、先生の心を和ませたと思われる"十兵衛牡丹”が伝えられていて季節には美しい花を咲かせています。狩野様のご厚意により布師田小学校にも株分けされています」とあった。

一木権兵衛先生の墓所
岡村十兵衛先生住居跡を越えると道は山裾を北東に進む。道の左手に社が建つ辺りから道は東進するが、土佐北街道は最初の四つ角を左折し北進する。道の右手に建つ布師田小学校を越え右折すると直ぐ、道の左手に「一木権兵衛先生の墓所」の案内があり、一木権兵衛先生の肖像画と共に記事があった。
「豊臣氏が滅んでわずか2年後の元和三年(1617年)現在の高知市布師田に長宗我部氏の元家臣(一領具足)の家に生まれた一本権兵衛先生は、布師田の権兵衛井流を造ったことを山田堰工事の検分に向かっていた野中兼山に認められて、正保二年(1645年) 29 歳頃百人並み郷士に取り立てられます。野中兼山は家老として二代藩主山内忠義の信任を一身に受け土木灌漑新田開発・港湾工事・産業奨励等土佐藩の基盤づくりの大改革を進めていましたので有能な者は身分を問わず取り立てていたのです。
物部川の山田堰関連工事に参加した一木先生は確かな業績が認められ、慶安元年(1648年)32歳の時、異例の大抜擢を受けて初めて普請奉行に任ぜられます。仁淀川に八田堰を造り用水路を整備して春野地方に広大な水田を拓く大工事の現場最高責任者として着任します。
堰は“糸流し工法”や“四つ枠工法”等で、 用水路は“提灯測量”や“千本突き”等で、“ずいき” を 焼いての削岩法“いもじ十連”等の言葉も残る岩山を切り裂く『行当(ゆきとう)の切り抜き」と呼ばれ る難工事もありましたが、承応元年(1652年)五ヶ年に及ぶ大工事は完成し広大な水田が出現しました。
その後も宿毛の大堤や幡多方面の堰や用水路工事にも関わり、寛文元年(1661年)の津名港や室津港改修等の港湾事業にも関わっていきます。これら大きな功績により“御馭初式”(おのりぞめしき)という毎年正月に藩主の閲兵を受ける武士としての晴れ舞台に参加できるようになり、寛文四年(1664年)48歳の時には郷士7組中最高の189人を従えていた記録が残っています。
三代藩主山内忠豊に変わったのを機に、工事続きでの財政難や民衆の苦しみを失政として訴えられついに野中兼山は寛文三年(1663 年)失脚し同年49歳で急死します。兼山の多くの部下は一緒に失脚しますが、一木先生などわずか数名が特に罪に問われることはありませんでした。一木先生 47歳の時でした。技術面や資金面で常に支えてくれた最大の理解者兼山を失って大きな落胆と悲しみのどん底にありました。
兼山失脚から十四年、延宝五年(1677年)3月になってようやく江戸幕府の許可を得て土佐藩を挙げての室津港大改修工事が始まります。普請奉行として61歳の一木権兵衛先生が再び重責を背負って“延宝の堀次”と言われる難工事に着任することになります。湾内は完成間近でしたが、港の入り口になかなか砕けない大岩があり、一木先生は工事の成功を自身の命にかえて海神に祈願しました。ツチやノミを持って皆でかかったところ大岩は血のようなものを吹きだして砕けていき、延宝七年(1679年) 三ケ年に及ぶ難工事は完成します。
一木先生は報告のため城下へ行こうと浮津のあたりまで来ますが体がしびれて動けません。室津に帰ると楽になります。何度かこのようなことがあって海神との約束を果たすのは今だと確信します。城下から人を呼んで引き継ぎを済ませ、家族を呼び寄せ後のことを託しました。
延宝七年(1679年)六月十七日の夜、海上に祭壇を設け鎧兜並びに太刀を海神に献じたのち、未明に自ら人柱となって切腹して亡くなりました。
一木先生は大幅な出費の責任を取り亡くなったと言われていますが墓碑には病死”となっています。 一木先生は公儀からの借財を支払うため延宝六年四月十四日付で、自身の約五町歩の土地を藩に売り渡し、室津港改修の莫大な支払いに当て自ら全てを投げ打って責任をとっていることがわかります。いつもバックアップしてくれていた兼山はすでになく、孤軍奮闘一木先生の想像を絶した苦悩のほどが察せられます。
工費と人役には諸説がありますが、『室津港忠誠伝』によると、役夫は約百七十三万人、工費は約十万一千三百両とも見積もられていました。
港内面積はそれまでのほほ二倍の約一町九反となり、参勤交代の御座舟や五百石積み廻船が停泊可能等航海が安全になり皆に大変喜ばれました。
一木先生の死は、日頃野中兼山から「御普請には存分の金銀をついやしてもかまわぬ、ただ完全なものを仕上げることだ。」と教えられていて予算以上の莫大な費用となったのでその責任を取ったとも言われています。また兼山に取り立ててもらった大恩を忘れずにいて、藩による兼山の失脚や遺族に対する厳しい処置への抗議の意味も含まれていたとも言われています。
一木先生は野中兼山の国中に於ける土木工事を補佐し、七人扶持二十四石となり、延宝年中には永年の功により分限七百石となっていて三男二女にも恵まれていました。 三男市三郎さんが家督を継ぎ、二男市之助さんは横山新兵衛として一木先生の奥さん“福”さんの里の横山家を継いでいます。
室津港はその後拡張整備され、土佐古式捕鯨や近代鰹鮪漁業の基地となり、世界の海に雄飛しました。今日、その基盤を作った先人の偉業を長く顕彰し忘れられないよう語り伝えて行かねばなりません。 室津港を見下ろす高台にはお墓も建てられ立派な一木神社も建立されています。高知県漁協室戸統括事業所(旧室戸漁協)を中心に篤くお祭りが引き継がれています。室津港のすぐ上の太田旅館では宴会時の皿鉢料理の中の一品として“権兵衛寿司”が伝わっています。散らし寿司の上にあらかじめ味付けされた3~4種類の新鮮な刺身がふんだんに散りばめられ、大きな海鮮丼のような豪快で大変おいしいお寿司です」と記される。

案内には記事と共に、その下に《室津の一木神社≫、≪ 一本権兵衛先生布師田の墓所≫、《一木先生(右)と福さん(のお墓)≫、《一木先生室津の墓所≫、《 権兵衛寿司≫などの写真、また《 権兵衛井流(ゆる)≫の現在の写真と解説(一本権兵衛先生が指揮して造ったといわれる用水路の水門。増水時に国分川に水を流して下流域の浸水や土手の崩壊を防ぐための仕組み。現在もほぼ当時のままの位置に2ヶ所残っていて機能を果たしています)といった写真と記事が補足されていた(室津漁港の写真と記事もあったのだが、写真がうまく撮れていなかったので省略する)。
 
過日歩き遍路や土佐北街道散歩の折、物部川仁淀川(本山の上井・下井戸),行川さらには春野の利水
・治水の事績に出合った。その時は野中兼山のことのみをメモしたが、それらの事績は一木權兵衛といった腹心の存在があったればこそという事を改めて認識した。

布師田御殿跡
道を東進し国分川にあたる手前、道の右手に布師田ふれあいセンターがあり、その敷地内に「布師田御殿跡」と刻まれた石碑、「参勤交代 北山道 布師田御殿跡の案内と北街道のルート図があった。石碑台座の石は取り壊された布師田御殿の石垣の石を残したものである。






案内には「参勤交代制度」、「師田御殿跡」「野中兼山と一木権兵衛」が記される;
参勤交代制度
参勤交代制度は3代将軍徳川家光の時代寛永12 (1635)年の“武家諸法度”で制度化されました。江戸に妻子を住まわせ、1年交代で江戸と領国を往復させ諸大名の財力をそぐという大名統制政策で、幕末まで維持されます。一方この制度で各ルートは公道として整備され、往来も盛んになり、産業・学問・文化の交流窓口ともなって行きました。

参勤交代の規模は、大名の石高に応じた従者の数が定められていました。土佐藩では1,500~2,700人・元禄元(1688)年には総勢2,531人で片道30日ぐらいを掛けて往復した記録が残っていて道中の大変さが偲ばれます。
当初は高知からの海路を利用していました。17世紀後半以降、甲浦まで陸路でここから海路を取ることも多かったようです。しかしながら天候に左右されることや遭難もあり、享保3 (1718)年6代藩主山内豊隆から“北山越え"の利用が始まり、次第にこのルートが整備されて主流になって行きます。
北山道を取る場合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天保4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります。
北山道は愛媛県側からは、「土佐街道」「立川街道」と呼ばれていました。文久2(1862) 年、16代豊範の時にはそれまでの隔年から3年に一度となり、在府日数も削減され妻子の帰国も承認されるようになりました。この政策は、15代豊信(容堂)が政事総裁職松平春嶽と計って進めたものでした。
宿泊地 (ルート)
布師田御殿または比江高村家⇒本山土居⇒立川番所 ⇒ 馬立本陣 ⇒ 川之江⇒ 丸亀又は仁尾 ⇒海路本州へ
布師田御殿
布師田は国庁のあった国分の地に隣接した土佐郡の主要な中心地として古くから交通の要所でした。
江戸時代になって山内氏が入国後、参勤交代制度が始まった時、古代から交通の重要な拠点であった布師田に第一泊目の藩主の泊まる“本陣”やお供の泊まる"脇本陣”などが置かれたのも当然のことでした。
江戸に上る「参勤」の場合は、布師田で高知城を発した時の正装を解き長期の旅支度に着替えて出発して行きました。土佐に帰る「交代」の場合は、この布師田での最終泊後、正装して行列を整え城下に入って行きました。
「宿場としての布師田橋付近は非常に繁昌し、商店は軒を並べ旅館あり料亭あり、明治になっても人力車は梶棒を並べて客を呼び、清流国分川には屋形船を浮かべて風雅を楽しむ客などもあり、その賑わいぶりは御殿宿場としての名に恥じないものがありました。」と「布師の里」に記されています。
野中兼山と一木權兵衛
土佐藩は江戸時代初期から、幕府から申し付けられる普請役や参勤交代の出費などにより財政が行き詰ってきていました。そのような中、野中兼山は、若干17歳で藩の奉行職となり2代藩主山内忠義の強力な後ろ盾のもと藩政の基礎を確かなものにするために、約30年に及ぶ大改革に取り組むことになります。物部川や仁淀川・四万十水系などに堰を造り、用水路を引いて広大な 水田を開き米の増収を図りました。海路船での参勤交代の安全や海運・漁業などを盛んにするため、室津港や津呂港・手結港などの整備も行いました。
布師田出身の義人一木権兵衛は、国分川からの用水路に“権兵衛井流”を造った功績で野中兼山に郷士として取り立てられます。兼山の代表的な政策である土木灌漑港湾事業の多くの場合に於いて、権兵衛は普請奉行など現場の技術責任者として約35年間にも及び強力に兼山を支えていくことになります。兼山失脚後も遺志を継ぎ海神に一命を捧げる覚悟で最重要な難工事の室津港大改修を完成(延宝7(1679)年)した後、自ら人柱となるため自刃して63歳の生涯を閉じました。今は室戸市の一木神社に祀られており、又その墓所は西谷地区にあります。
このように、参勤交代の経路となる海港の整備も進められましたが天候不順や危険性の心配の伴う海路ルートよりは、陸地を進む山越えのルートが、徐々に主流となって行きました。

記事は今まで処々でメモしたおさらい、といったものではあるが唯一疑問となっていたことが解消されたことが有り難かった。それは何故に布師田(ないしは比江)を初日の宿泊地にしたのか?ということである。城下からあまりに近く、二日目の本山までの距離はあまりに遠い。その理由が城下を進む正装を解き旅支度にするため、また逆に旅装束から正装に威儀を正して城下入りをするためであったようである。

北街道ルート図
それよりなにより有り難かったのが北街道ルート図。上述お旅所の辺りから南国市岡豊町八幡あたりまでのルートが記されている。そのルート図に拠れば、布師田までは今まで辿ったルートの他、土佐一宮・土佐神社に参拝しお旅所まで南下し布師田に向かうルートもあったようだ。 また、布師田から先は二つに分かれ、ひとつは国分川の北、現在の高知大学医学部の北を向かうもの、もうひとつは布師田の先で国分川を渡り中島を経由し現在の岡豊橋辺りで国分川を北岸に渡り、岡豊町八幡でふたつの道は合流する。


実のところ、この地図を見るまではGoogle Mapに「土佐北街道」と記された道があり、その道を辿るつもりであった。その道は29番札所国分寺からの遍路道でもあり、高知大学医学部手前の川崎川蒲原橋で、案内にあった北に進む北街道と分かれ医学部の南を国分川に沿って岡豊橋北詰で中島経由の北街道と合流する。遍路道はその先、笠ノ川川の下乃橋を渡り29番札所国分寺に続く。



布師田金山城跡
布師田ふれあいセンター敷地内に「布師田金山城跡」の案内。「「土佐川郡誌」(※1)に「古城蹟 在布師田山東峯或日元親置斥候所」と記され、『南路志』(※2)には「古城石谷民部少輔(領千石一宮社職)後号執行宗朴為元親落城其後久武内蔵助居之」と記録に残るように、城主は細川氏の末流と伝えられる石谷民部少輔 源重信 で、後に長宗我部元親に降伏して執行宗林と名乗り、一宮にある土佐神社の神職になったといわれています。その後元親は当城を久武内蔵助に与えたと伝えられています。
また、「土佐物語」(※3)では、すぐ南に見える大津城やその南の下田城などが激しい戦いの末、長宗我部氏によって相ついで滅ぼされてゆくのを間近に見て、金山城主石谷民部は重臣たちと計って長宗我部氏に降伏した様子が記されています。以後、岡豊城を中心に東方の久礼田城と西方の金山城などが連携して、岡豊城の防御と周辺進出の拠点となっていたことがうかがえます。 金山城は国分川を眼下にする要害の地で、周辺が遠く見渡せる好位置にあって小規模ながら遺構のよく残る中世・戦国時代の城跡の一つであります。元親の本拠地である岡豊城は2.5kmのすぐ東方に望めます。

標高113.6mの山頂の詰ノ段はややいびつな楕円形をなし、高さ 1.3~1.6m の土塁がめぐらされています。
詰ノ段下の二ノ段は一部に土塁を残して東から南~西と広がっています。
ニノ段から急斜面の約10m 下には三ノ段が配置され、幅は5mから広い所で9m ほどあります。 三ノ段から下は急斜面が東から西方に裾を広げているが一か所東方下の尾根に向かって降りる道があります。
三ノ段の南方下には四ノ段が認められます。
詰ノ段北の二ノ段西側下には珍しい遺構の深い空堀が残り、更に周辺には竪堀・堀切や曲輪跡が認められます。
北西に延びる北山の尾根には峰を平坦に削った防御施設としての曲輪がそれぞれ堀切に区切られて二つ連なっています。

眺望としては、遠くは高知龍馬空港・太平洋・岡豊城・高知大学医学部・岡豊高校・大津城・五台山・浦戸湾・筆山・高知市街など、近くは国分川・あけぼの街道・RKC アンテナ広場・JR 布師田駅・サンピアセリース・じばさんセンターなどが一望できます。
※1・・・・・・土佐藩政中期に藩の儒学者緒方宗哲の編纂した歴史・地理・統計等 藩政史の重要資料 全47 冊
※2……文化 12 年(1815 年)高知城下豪商美濃屋の武藤父子が学者を動員して編纂した歴史・地理・故実等の資料
※3.……戦国時代初期から江戸時代初期頃までの主に長宗我部元親の生涯を中心にした軍記物語
金山城へは、当ふれあい広場西北側のフェンス出入口からお登りください。」とあった。

詳細な案内板の解説が多くメモが長くなった。高知城下から權若峠取り付き口・釣瓶までの土佐北街道メモの第一回はここまでとしう、次回布師田から權若峠取り付き口・釣瓶までのルートをメモする。

水曜日, 3月 10, 2021

土佐北街道散歩 川之江へ:法皇山脈北麓の四国中央市半田平山集落から川之江へ

先回の散歩では国見山を越えた下山口から立川川の谷筋にある柳瀬集落までをメモした。国見山()下山口から四国山地の真ん中、北嶺地域の要衝の地である本山を経て吉野川を下り、川口で吉野川の支流・立川川の左岸に入り、現在の県道5号を北上、往昔立川川右岸に渡り山麓の道を進むことになる土佐北街道を柳瀬集落までを辿った(現在は柳瀬で右岸に渡る橋が崩壊しており、土佐北街道はひとつ手前一の瀬集落の金五郎橋で右岸に渡ることになる)。
今回は法皇山脈・横峰越えの下山口集落、四国中央市半田平山より川之江までをメモする。

柳瀬で立川川右岸に渡り、立川番書院まで進んだ土佐北街道は、そこから笹ヶ峰を越え新宮の谷筋に一度下り、再び法皇山脈を上り返し堀切峠近くを抜け.下った先で最初に出合う集落である。 
平山より先の土佐北街道は金生川支流に沿って山裾まで下り、金生川との合流点辺りからはその左岸を少し進んだ後、大きく蛇行する川筋から離れ北進し、蛇行し西流してきた金生川を渡り返し川之江の町に入ることになる。
法皇山脈・横峰越えは平山集落よりスタートし峠を越えて新宮に下りたのだけれど、今回は横峰越えのスタート地点であった平山集落から逆方向、山を下り川之江へと向かう。



本日のルート;平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点>お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑>県道5号に下りる>県道5号を右に逸れ土径に入る>枝尾根突端部に土佐北街道標識>東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標>標石>大西神社南の道標>東金川バス停(金田町金川)傍の道標>土佐北街道分岐点>金生川に沿って「四つ辻」へ>槍下げの松>四つ角に標石と常夜灯>上分を離れ金生町下分に入る>金生橋を渡り川之江町に>陣屋跡>大標石>御本陣跡>高知藩陣屋跡>川之江八幡


新宮から平山;土佐北街道横峰越え



■平山集落からスタート■

平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点
上掲ルート図の如く、法皇山脈・横峰越えの土佐北街道が堀切峠傍を下り平山の集落に下りてくる。T字路となった下り口には土佐街道の石碑、それと並んで地蔵丁石と茂兵衛道標が立つ。(念のため新宮から平山集落の土佐北街道委と遍路道分岐点までの土佐北街道横峰越えルートを上に載せて置)く。









土佐街道石碑
石碑には「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれる。
茂兵衛道標と地蔵丁石
地蔵丁石には「奥の院まで四十八丁」と刻まれ、茂兵衛道標は手印で雲辺寺を示す。
遍路道
この道標の立つ地は伊予の最後の札所65番札所三角寺から、讃岐の最初の札所66番雲辺寺へと向かう三つの遍路道の合流点でもある。
一つは三角寺から一度金田町金川まで山を下り再び平山へと上るルート。金川から平山までは土佐北街道と重なる。今回平山から下る土佐北街道のルートでもある。
もう一つは三角寺から麓に下ることなく、佐礼を経由して山腹を進みこの地に達する。
三番目の道は三角寺の奥の院経由の道()。三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて、銅山川の谷筋に下り奥の院・仙龍寺を打ち終え、一部往路を戻った後、北東へと法皇山脈を上り峰の地蔵尊で法皇山脈の尾根を越え北東に少し下った後、土佐北街道に合流し、平山のこの地へと下りてくる。地蔵丁石に「奥の院まで四十八丁」と刻まれるのは、このルートを示す。

お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑
T字路より少し西に進むと、比較的新しい石碑が立ち、南面には「お小屋倉跡」、西面には「旅籠屋・嶋屋跡」の案内が刻まれる。。眼下一望の場所である。
お小屋倉跡
「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。
土佐街道横峰越えの折、このお小屋倉跡を訪ねた。その場所の案内には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。
先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」とあり、その傍ブッシュの中の泉の跡には「お茶屋跡」との案内があり、「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた」とあった。
旅籠屋・嶋屋跡
案内には「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」とある。
兼山とは土佐北街道・本山の町や土佐の遍路歩きの途次でメモした通り、利水・治水の河川改修、港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣も見当たらない。実際は、今は無いとのこと。石碑下の、今は畑となっている北側に石垣があったようで、往昔の土佐街道・遍路道はその石垣下を廻り上ってきたようだ。なお、嶋屋に土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。
平山
「えひめの記憶」には、「この集落は法皇山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている」とある。

県道5号に下りる
石碑の左手の坂を下ると県道5号に出る。県道5号に出たところにある民家右手に「土佐北街道」の案内石碑が立つ。





県道5号を右に逸れ土径に入る
県道を右に逸れトンネルを潜る
大きく北へと向きを変える県道を進むと、道の右手に「四国のみち」の指導標が立ち、「三角寺」「椿堂」への案内。椿堂はこの地より東、金生川の谷筋にある平山の集落から雲辺寺を目指すお遍路さんが多く立ち寄るお堂である。
土佐北街道はここで県道を右に逸れ県道下のトンネルを潜り、県道西側を下る土径に入る。トンネルは県道改修工事の際にでも造られたものだろう。
実のところ、金田町金川から平山までは三角寺からの遍路道をトレースする際に一度歩いたことがある。その道筋が土佐北街道と重なっていたため、このトンネルを潜り「椿堂」の標識を見ていたこともあり迷うことなくルートをメモしたが、はじめて歩くとしたら結構難儀するところかと思う。注意必要。

枝尾根突端部に土佐北街道標識
土径を少し進むと簡易舗装の道となり、その先で民家の間を抜けるとT字路に出る。角の民家のコンクリート塀には「土佐北街道」の標識が今来た道を指す。
「土佐北街道」の標識のある民家の辺りは、枝尾根突端といったところ、この角を左に折れ5mから10mほどの急坂を下り東金川の集落に向かう。
地図に記載された土佐北街道
左に折れ金田町金川の集落に向かう土佐北街道のルートは、三角寺から一旦西金川の集落まで下り、三角寺川に沿って西金川バス停まで進み、そこを右折し東金川の集落から平山に進む遍路道を辿った折、西金川バス停傍に「立川街道」の標石が立っており、その案内に従い遍路道と重なるルートを辿り、この地の「土佐北街道」の標識まで進んだわけだが、地図を見ると金田町金川の辺りから南に進む道筋に「土佐北街道」と記載されている。地図上では途中で「土佐北街道」の名は消えるが、その消えた辺りはこの枝尾根から真っすぐ下ったところにある。
なにか名残り、案内はないものかと林の中の土径を下り地図に示される「土佐北街道」と繋いだが、特段の案内はなかった。また地図に記載された「土佐北街道」が消えるあたりから東金川の集落に入る道筋もあるいたが、特段の案内はなかった。
メモは遍路道との重複ルートを案内するが、枝尾根部から北に下るルート、東金川の集落と繋ぐルートも一応記載しておく。

東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標
枝尾根突端部を左に進むと東金川の集落に入る。道の左手、石垣上にある東金川集会所を少し先に進むと四つ辻に茂兵衛道標が立つ。南に向かう面には「奥の院 土佐高知」の文字が刻まれる。


標石
茂兵衛道標が示す先がどうなっているのか南へと坂を上ると車道に合流。そこに標石が立ち、左は「雲辺寺 箸蔵寺」 、南方向は「奥之院」と刻まれる。左に進むと上述県道5号の「四国のみち 三角寺 椿堂」の立っていた地点に合流するが、南を示す方向には道らしきものはなかった。
新土佐街道
「えひめの記憶」には「茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる西方(さいほう)のバス停留所前にも道標が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である」とする。新土佐街道のルート詳細は不詳。

標石
茂兵衛道標の立つ四つ辻から少し進み、東金川集落のはずれに標石が立つ。天保(1831‐1845)と記された道標には、手印と共に「遍んろみち」と刻まれる。

大西神社南の道標
更に緩やかな坂を下ると道の右手の小高い丘にに大西神社が建つ。その東南、白石川に神社の丘が突き出す車道右手に道標がある。文久(1861-1864)と記された道標には「右 金毘羅道 此方 へんろ道」の文字が刻まれる。
「此方」の面の手印は南を示す。「右 金毘羅道」は境目峠をトンネルで抜け徳島に向かう国道192号沿いの金比羅さんの奥の院である箸蔵寺()への道を指すのかもしれない。
尚「えひめの記憶」には、江戸時代の遍路道は、この少し先、東金川橋袂の道標までは行かず、三角寺川の北傍にある正善寺を過ぎたあたりで三角寺川・白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道(笹ケ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標が立っている、とする。この道標が江戸時代の遍路道との合流地点ということだろう



東金川バス停(金田町金川)傍の「立川街道 」標石
先に進み白石川が三角寺合流した先、橋を渡ると東金川バス停。その角に標石がある。大正の銘が刻まれる道標は「左 奥の院 「右 立川街道」と読める。土佐北街道はここを右折する。
立川街道
立川(たじかわ)街道とは土佐北街道の別名。土佐北街道のルート上、高知県長岡郡大豊町立川下名に立川口番所がある。藩政時代は土佐藩主参勤交代の際の本陣であり、遥か古代に遡れば古代官道の立川駅のあった地でもある。土佐北街道を立川街道とも称する所以である。
金川
金川の由来は近くの淵から金の仏像が彫り出された故とのこと。もっとも、この辺り、後程出合う金生川とか銅山川筋の金砂とか、金を冠する地名が多いが、これら川筋で砂金が採れた故との話はよく聞く。この川から金の仏像云々も、砂金故?といった妄想も膨らむ。

地図に記載の「土佐北街道」分岐点
地図に記載の土佐北街道分岐点
道を先に進むと地図上に記載される「土佐北街道」の分岐点にあたる。道は南へと向かい途中で記載が消えるのは既に述べた。記述メモに示したように、念のため分岐点を右折し南に進み、東金川の集落へと続く道、上述「土佐北街道」の標識のある枝尾根突端部へと辿ってはみたが、特段の標識・案内はなかった。常識的に考えれば、直接枝尾根突端部と繋がる道が土佐北街道であったようにも思える。
道を進むと前面に松山道の高架が見える。古き趣の商家といった風情の建屋が残る。

古き趣の残る街道を進み松山道高架を潜る

古き趣の商家の残る道筋を進み三角寺川などの支流が金生川に合わさる松山自動車道の高架あたりで金田町を離れ上分町に入る。




国道を右に逸れ金生川に沿って「四つ辻」へ
国道を右に逸れる
松山道を潜ると一瞬国道192号に入るが直ぐ右に逸れる金生川沿いの道が土佐北街道。 道を進み金沢橋の西詰で川沿いの道を離れ、川筋より一筋西の「四つ辻」へ向かう。
「四つ辻」
「四つ辻」は藩政期の頃、上分(町)の商業の中心地であったところ。「四つ辻」から北は本町、南の道筋は土手城下と呼ばれ、金生川を背にした片側町となっている。「えひめの記憶」には昭和初期の街並みとして「土手城下の上手は片側町であり、金生川ぞいには馬のつなぎ場があった。そこには近在の農家が副業として営む馬方が、嶺南地区から馬の背によって、楮皮・葉たばこ・木炭・材木などを運搬してきた。
四つ辻付近
一方、上分からは、日用雑貨品、食料、肥料などが運搬されていった。街道ぞいには日用雑貨品店が多いが、その顧客には山間部の住民が多かった。また旅館、飲食店が多いのも物資の集散地である街村の特色をよく反映している」と記す。本町には紙問屋など商家が建っていた。
上分
上分について「えひめの記憶」には「上分は川之江市を潤す金生川の谷口に立地し、川之江市域では川之江に次ぐ商業集落である。この地点は土佐街道と阿波街道の分岐する交通の要衝であり、近世以降背後の山間部の物資の集散地として栄えてきた集落であり、典型的な谷口集落といえる。
天保一三年の『西条誌』には、当時の上分の状況が次のように記載されている。「……川あり上分川と言う。此の川に土佐と阿波とへの道二筋あり。南へ向き金川村の方へ入れば土佐路也。川を渡り東へ行けば阿波路也。阿波境まで二里余、上佐境まで五里余あり。阿波の三好郡の内十ヶ村余、土佐の本山郷の内十ヶ村程の者、楮皮、櫨実を始め色々の物産を出すには、必ず当所を経、三島・川之江等の町にひさぐ。近来当所に商家多く出来、かの物産を買取る内に、土地自然と繁昌し屋を並べて街衢の如し。留まるもの少なかららず見ゆ。土佐侯江戸往来の路すじあり………」。
当時の上分は、土佐本山郷と阿波三好郡を後背地に控えた物資の集散地として大いに賑い、街村が形成されていたことがよくわかる」とある。
明治期似入っても土佐・阿波・嶺南地区などの山間部の物資-葉たばこ、楮皮などの集積地として栄え 明治17年(1884)の最盛期には120戸もあったと言われる商業地区であった上分も、大正から昭和にかけて整備されていった交通網の発達により、山間の地からの往来交通の要衝の地としての利点を失うことになり、現在静かな街並みをとどめている。
上分と下分
散歩の折々に上分と下分という地名の出合う。あれこれチェックしたのだが、なんとなく納得できるものに出合わなかった。少し寝かせておく。
上分町と金生町下分
地図を見ると、上分町は金生川支流三角寺川が金生川に合流する辺り、現在の松山道高架のあたりでは金生川右岸も一部町域に含まれれるがおおよそ金生川左岸にあり、北は金生町下分と、西は妻鳥町と、南は松山道の南で金生町金川に接する。
また金生町下分は金生川右岸の上分町の北側では金生町山田井に接し、金生川左岸の上分町の北側では蛇行し西進してきた金生川を境に川之江町に接する。
上分町に対し下分は金生町下分となっている。その理由は?下分町は下分村が町制施行し上分町となったのに対し、下分村は山田井村と合併し金生町となり、その後上分町、金生町などが合併し川之江市となったのがその因だろう。
金生川
金生川は伊予と阿波の国境、境目峠辺りを源流点とし、旧川之江市(現四国中央市)川滝・金田町と下り、松山道の先で左岸を上分町、右岸を金生町下分を分けて下り、川之江町を南北に分けて瀬戸の海に注ぐ。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「川之江は金生川とその支流の流れによる堆積作用により形成された沖積平野にあり、(金生)川の畔故の地名である。室町の頃から「かわのえ」と呼ばれたようである。
金生川は暴れ川であったようで洪水被害に見舞われることが多く、その暴れ川故、地味が豊かであり古代より開け、本川・支川流域には有力豪族の古墳が点在する。
その古墳石室に使用される巨石は、金生川の流れを利用して運ばれた、とされる。流域には金川、金生などの地名が残るが、これは、かつて流域で砂金が採れたことに由来する、とも。7世紀初め、渡来人である金集史挨麻呂(かねあつめのふひとやからま ろ)の存在も認められ、古来より砂金等が採取されていたようである」とある。

槍下げの松
「四つ辻」を北進するとほどなく道の左手に堂宇があり、その門傍に「槍下げの松と土佐街道」の案内:
「川之江市指定記念物 槍下げの松と土佐街道 この位置は昔の土佐街道の一部で、土佐の山内公の行列が参勤交代でここを通ったときのことである。
道にはり出している松の枝が邪魔で、家来たちが枝を切ろうとしたとき、山内公が「良い枝ぶりの松である 捨て置け」と言われ、以来ここでは槍を下げ、馬上の武士は身をかがめて通ったと伝えられている。これがこのや松の名づけられた由来である。
橋下げの松 目通り 二・七m 高さ 七m 樹齢数百年 川之江市教育委員会 松月庵」とあった。
松月庵
槍下げ松のある松月庵はお堂といったこじんまりとした堂宇。境内には石仏やミニ四国霊場、新四国は八十八ヵ所のいくつかの石仏が並ぶ。結願の八十八番大窪寺もあれば、二番、四番、五番や二十番代のいくつかの札所石仏も並び、何となくこの庵を含めた一帯にミニ四国霊場が広がる予感がする。本堂にはかつての槍下げの松の写真が飾られていた。


境界石
松月庵の北隣に境界石が建ち、「従是南 西条領」とある。この地の南が西条藩領となったのは新居浜市の別子銅山の歴史と関係がある。これを知ったのはつい先日別子銅山の遺構散歩の折のこと。四国山地銅山峰の南、天領の地に開かれた別子銅山であるが、峰の北は西条藩領。ために別子銅山で採掘された粗銅は峰を越えて北に運ぶことができず、大きく東に廻り宇摩郡土居町(現在の四国中央市)の天満まで運び瀬戸の海を大阪の鰻谷にある住友の製銅所まで運ぶしか術はなかった。
峰を越え西条藩領を運べば16キロ、土居への天領運搬路は36キロ。西条藩に運搬路を開くことができれば20キロの短縮となる。西条藩領を運ぶ住友の願いは財政難解消に腐心する幕閣の支援もあり、寶永元年(1904)西條藩に對して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山 (立川銅山)、両角野(西、東角野) 、 新須賀の五個村を公收し、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寶永3年(1906)に宇摩郡の津根、野田兩村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增侯に對して、さきに上野村の替地として與へたる津根五千石を公收するため、播州美嚢郡高木(三木町外) 五千石に移封するというものであった。

これが上分が天領から西条藩領となり、境界石が立つ因ではある。が、ここでちょっと疑問。これも過日遍路歩きで四国中央市を歩いていたとき、天領・西条藩・今治藩領を示す案内板に出合った。 その図によれば西条藩領と天領の境界は上分と下分となっている。その図に従えば、この境界石から南が上分となるが、地図によれば現在の上分と金生町下分の境はもう少し北の川原田橋の辺りとなる。往昔の上分と下分が現在の街域と同じがどうか不明だが、ひょっとするとこの境界石は往昔はもう少し北にあったものが何等かの事情でこの地に移されたものかとも妄想する。
特段のテーマはないものの、あれこれ歩いていると、あれこれのものが繋がってくる。面白い。

四つ角に標石と常夜灯
槍下げの松から直ぐ、唐突に「土佐北街道」の標識が立つ古き風情のお屋敷前を過ぎると、四つ角(上述「四つ辻」と区別するため四つ辻とする)。上分大橋から西に新町商店街交差点に続く道筋を交差する。
その交差点の東北角に常夜灯。西北角に標石。南面には「左 みしま 五十町 西条 十里 八和多浜 三十六里」 東面には「右 川之江 二十五丁 こんぴ羅 二十五里 丸がめ(?)十里二十五丁」と読める。四つ角を横切り直進する。
新町
一筋西の新町筋は上分町の商業の中心地。大正15年(1926)に道が整備され第二次大戦後は商店街が栄えたが、その後の新たな道路整備により交通路の重点が西に移ることになったため商業の重心も西に移ることになる。新宮往還の交通の要衝地であった谷口集落としての上分のポジショニングが変わってしまった、ということだろう。

上分を離れ金生町下分に入る
四つ角を直進、ほどなく金生川筋に出る。道の右手に地蔵。「新四国霊場八十七番長尾寺」とある。川原田橋西詰あたりで大きく左に蛇行する金生川から離れ北西する。この川原田橋の辺りが現在の地図にある上分と金生町下分の境界である。
ほどなく道の左手にお堂と常夜灯。お堂は近年修築されたものだろうか。お堂には台座に「萬霊」と刻まれた地蔵座像が祀られる。お堂の傍には常夜灯が立つ。
三界萬霊
散歩の折々に「三界萬霊」と刻まれた石仏に出合う。
三界萬霊(さんがいばんれい)とは三界のすべての精霊を供養するもの。三界とは欲界、色界、無色界。
欲界は三界の最下層のレイヤー。 淫欲・食欲・睡眠欲など、人の本能的な欲望が強い世界であり、20から36階層に分けられる。
色界は欲界の上位レイヤー。欲望は超越したが、物質的(色)な束縛はまだ残っている段階です。 16~18の段階に分けらる。
無色界は、欲望も物質的な面も超越した、精神的な要素(無色)のみからなる世界。四段階に分かれ最上位は「有頂天」。有頂天を軽々しく使うことを躊躇うべきか。
この三界の上のレイヤーが仏の世界となる。

とすれば、三界とは、仏の世界ではなく、「この世」のあらゆる生命あるものの霊を、その先祖も含め供養するためのもの、またはこの世にある人の修養の発達レベル、仏の世界に達するためのメルクマールといったような気もする。単なる妄想ではある。
国道11号バイパス
土佐北街道とはまったく関係ないのだけど、旧伊予三島市(現四国中央市)中之庄町の通称、「遍路わかれ」辺りから海岸線を走る国道11号から離れ内陸部を抜ける国道11号バイパスが川原田橋近くまで通じている。国道11号の混雑緩和と松山自動車道へのアプローチルートであることはわかるのだが、川原田橋辺りでルートは終点となり一般道に合流し、国道11号に戻るには一般道を北に走らなければならない。これってバイパス?前々から気になっていたのでメモのついでにチェック。どうも現在の終点から金生川右岸に進み、宇摩向山古墳を避けJR川之江駅の東へと抜ける計画があるようだ。前々からの疑問はこれで解決。

金生橋を渡り川之江町に
古き趣の屋敷が時に残る金生町下分の街を進むと、道の右手に地蔵座像。台座に「三界萬霊」と刻まれる。
その先で道は川原田橋辺りで、大きく右に蛇行した後西進してきた金生川に架かる金生橋を渡り川之江町域に入る。



陣屋跡
金生橋を渡ると直ぐ、左に逸れる道がある。それが土佐北街道。先に進むと四差路があり、そこに常夜灯が立つ。土佐北街道はここを北東に向かう道をとり、ほどなく予讃線の踏切を越えて東進。二つ目の角を右折し北進する。東西に走る二つ目の通りで土佐北街道から離れ、陣屋跡にちょっと立ち寄る。
栄町商店街を右に折れスーパーフジ川之江店を少し東に進みすスーパーフジ納入業者駐車場の東隣にひっそりと「一柳直家公御陣家跡」の石碑(注;「陣家」はママ)。その傍に「一柳陣屋の広さは約88,000平方メートル以上の広さを誇り、東は栄町通り、西は新町沿いの区間まで、また、南は愛媛銀行やフジ川之江店、北は吉祥院や天神ノ森あたりまでを含む規模であった。
一柳家が播磨小野に去ったあと、陣屋は半分に縮小され、新たに松山藩御預かり代官陣屋、幕府直轄代官陣屋となってからも、川之江は旧宇摩の政治の中枢として海陸交流の要衝とし、発展を続けた」との解説があった。
場所は少し分かり難いが道を隔てた南側に愛媛銀行川之江支店がある。
一柳直家
慶長4年(1599年)、一柳直盛の次男として伏見に生まれる、父の直盛は関ケ原の戦いで戦功をあげ伊勢神戸5万石の所領を賜り、また大坂の陣でも戦功を挙げ寛永13年(1636年)6月に直盛は1万8000石余の加増を受けて伊予国西条に転封される、石高は計6万8000石余。このとき直家は加増分の中から播磨国加東郡内5000石を分け与えられている。
同年8月、西条に向かう途上で直盛が死去。直盛の遺領6万3000石余は3人の子(直重、直家、直頼)で分割されることとなった。直家が相続したのは2万3600石で、さきに与えられていた磨国加東郡内5000石と合わせ、伊予国宇摩郡・周敷郡にまたがる2万8600石の大名となった。
直家は伊予川之江に陣屋(川之江陣屋)を定め、川之江藩を立藩。播磨国は分領とし小野に代官所を置いた。直家は川之江の城山(川之江城跡)に城を再建する構想もあったようだが、実現しなかった。
翌寛永14年(1637年)に初の国入りが認められるが、同年播磨小野の代官所を陣屋に改めて拠点を移しており(『寛政重修諸家譜』では当初から小野に居したとある)、実質的に小野藩が成立した。
寛永19年(1642年)に死去、享年44歳。直家には娘しかいなかったため、末期養子がまだ許されていなかった事情もあり、家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった。これにより小野藩の所領は播磨国内のみとなり、川之江藩はわずか6年で消滅した。その後は天領となり、陣屋跡に川之江代官所が設けられた。
直重と直頼
なお、長男の直重は直盛の遺領3万石を継ぎ二代目西条藩主。三男の直頼は小松藩1万石を立藩した。
西条藩の直重は正保二年(1645)に死去し、遺領は二人の息子が分割相続する。兄の直興は西条藩を相続した。弟の直照は5000石を分知され、のちに津根村八日市に陣屋を構えた。旗本一柳家の始まりである。旧土居町(現四国中央市)津根八日市に「一柳公陣屋跡」の碑が残る。
寛文五年(1665)に兄の直興は不行跡により改易となり、領地を召し上げられる。西条藩はその後、徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族(御連枝)が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。
津根の八日市陣屋の分家2代目の直増は、宝永元年(1704)に播磨高木へ移封となり、八日市陣屋もその役割を終えた。因みに、この旗本一柳家9代目が浦賀奉行の直方。 ペリー来航の7年前浦賀軍艦2隻を率いて現れたアメリカのビッドル提督に対応した浦賀奉行である。

大標石
陣屋跡を離れ土佐北街道に戻る。少し東に戻り北進。ほどなく道の右手に大きな標石。「左 阿波とさ 於久の似んミち」「右 満津やま」「左 こんぴら道」と読める。「於久の似んミち」は奥の院道。この奥の院って金毘羅さんの奥の院箸蔵寺のことだろうか。 「満津やま」は松山だろうが、そうとすれば、 なんとなく指示方向と場所が合っていないように思える。どこかららか移されたのだろうか。

 

御本陣跡
大標石から直ぐ、道の左手の古き趣のお屋敷のブロック塀の内に「御本陣跡」と刻まれた石碑が立つ。土佐藩参勤交代時藩主の5日目の宿泊地である。




高知藩陣屋跡

本陣跡のお屋敷の斜め向かい、民間前に石碑が立ち「高知藩陣屋跡」とある。これって何だ? 思うに、明治維新の政変の折、朝敵となった幕府方の高松藩、松山藩に土佐藩兵の征伐軍が進軍している。この川之江は松山藩預かりの幕領でもあり、土佐軍兵が進軍。松山藩、高松藩共に恭順の意を示し戦端が開かれることはなかった。

川之江に進駐した土佐藩は厳しい軍律のもと軍政を実施し不安におののく人心は安定した。その役所名jは川之江陣屋のほかに土州鎮撫所、御陣屋などを使用している。また明治初年の土佐藩の正式名称は高知藩となっている。とすれば、この「高知藩陣屋跡」は土佐藩進駐下の役所跡のように思える。
軍制下によって人心が落着くと、土州政府は川之江の経済発展や生活安定のための民生策を実施。陣屋は慶応四年七月ごろに川之江政庁と改められ、その後川之江出張所、川之江民生局と名称を変え、「その治政は廃藩までの僅かな期間ではあったが、明治以降の宇摩地方発展の大きな布石となった。(中略)高知藩の役人は善政を行った話が語り継がれている。廃藩置県の動きが起きると、川之江の有力者たちが高知県へ入りたいとの血判した嘆願書を中央政府へ提出したほどである」と「えひめの記憶」にある。
それにしても、参勤交代の土佐北街道が松山藩預かりの川之江、高松藩征伐(実際は慶喜追討の東征軍として土佐を出たようであるが、途中で高松・松山藩征伐の追討令を受けたようである)の進軍路となったことは、歴史の流れとは言え、ちょっとした感慨を覚える。

川之江八幡
地図に「土佐北街道」とある道筋を北に進むが、途中地図から「土佐北街道」の記載が消える。 後は成り行きで土佐藩主が参勤交代の旅の安全を祈願した社である川之江八幡に進む。
太鼓橋を渡る。この橋は天明の昔、煙草屋喜兵衛、竹屋清兵衛を中心として村人達は、山田郷総鎮守川之江八幡神社に太鼓橋を奉納したものだが、近年懸け替えられた、と。
最近随身門を潜り境内に。
土佐灯籠と陣屋門
境内には海路の安全をお礼に土佐藩主が寄進した土佐灯籠も立つ。また、境内には新町の陣屋門が移され解体しその材料を使って復元されている。石碑に刻まれた案内には「この建物は旧川之江藩一柳陣屋門」の遺構である。江戸初期に乳児門様式を知る上からも極めて重要で、末永く後世に伝えるものとしてこの度文化庁より登録有形文化財に指定された」とあった。
乳児門様式はあれこれチェックするもヒットしなかった。


土佐北街道標識
社を彷徨い何気に境内北東より道に出る。と、そこに「土佐北街道」の標識。西を指す。案内に従い道を進むと道の左手に標石が立つ。「こんぴら道」と読める。


大鳥居
その対面に鳥居が建ち、案内には「川之江八幡大鳥居 川之江市指定文化財 この鳥居は畠山から現在地に奉遷されたとき、大庄屋三宅七郎右衛門家経が献じたものである。慶安四年〈1651)の作で一石づくりの笠石が特徴となっている。規模、古さともに現存する鳥居としては全国二番目である。
型式 明神形 高さ 約5メートル 幅 約3メートル」とあった。 この八幡様って、アプローチが多くどこが正面かはっきりしなかったが、ここが正面のようだ。なんとなく落ち着いた。
奉納者として記載される、川之江村大庄屋三宅家には川之江藩陣屋門が移されているとのことである。
八幡神社由緒
神社由来に拠ればこの社は推古天皇6年(598年)に 宇佐本宮より勧請し、当地切山にお祀りしたのが始まりとされている。その後、源頼義により康平7年(1064年)が畠山山頂に遷宮されたが、長宗我部元親の手で焼かれた。現在地の遷宮されたのは正保3年(1646年)のことと言う。
畠山って何処にあるのかはっきしないが、予讃線が川之江駅を越えた少し先、海に突き出た丘陵裾の海岸線を走る丘陵に畠山城跡がある。築城年代ははっきりしないが、川之江城の支城であったよう。その辺りだろうか。切山は金生川中流、下川町の北の阿讃山脈の峰にほど近い山中に切山と冠する地名がある。町域は金生町山田井となっている

常夜灯から土佐北街道を繋ぐ
大鳥居から先、土佐北街道の案内はないのだが、地図上に記載された「土佐北街道」へと繋ぐ、最も自然と思われる道を進む。と、ほどなく常夜灯。なんとなく旧街道のエビデンス。そこを西進しう、地図に記載された「土佐北街道」と繋いだ。これで本陣跡からなんとなくもやっとした土佐北街道の八幡様への道筋がちょっと見えてきたように思える。




■川之江から先の土佐藩参勤交代道■

高知の城下を発し、初日は布師田本陣(ぬのしだほんじん)、二日目は本山本陣、三日目は立川番所院、四日目は新宮の馬立本陣、五日目は川之江本陣と土佐北街道を進んだ土佐藩参勤交代の一行は、ここから船に乗ったわけではないようだ。
川之江八幡で旅の安全祈願をした後、海岸線に沿って讃岐に入り観音寺市豊浜町の和田浜を経て三豊市仁尾に進み、初期の頃はそこから船に乗り播磨の室津に向かったようである。後になって更に丸亀まで進み、そこから船出したともある。実際、丸亀には丸亀本陣もあったようだ。 土佐藩参勤交代道をトレ-スするには仁尾、丸亀までも進むべきかとも思うが、なんとなく土佐北街道と言うには違和感もあり、土佐北街道散歩の瀬戸内側はこの川之江で打ち止めとする。 残るは高知の城下から権若峠への上り口までを繋ぐ道筋だけとなった。

ちょっと寄り道;川之江城
土佐北街道とは直接関係ないが、市街の西の城山に建つ川之江城がちょっと気になり訪ねてみた。
天守を構える城ではあるが、これは川之江市制施行30周年を記念して建設されたもので史実に即した城ではないようだ。天守は犬山城を模したとも言われる。
城は歴史を踏まえたものではないが、伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝であり、南北朝から戦国時代にかけて山城、というか砦が築かれていたようである。
南北朝時代、南朝方の河野氏の砦が築かれた。その後北朝方、四国の守護と称する讃岐の細川頼春氏の攻撃を受けて落城するも、その後もこの城をめぐる攻防が幾たびかあり、河野氏の所領に復する。
河野氏の所領に復した川之江城は、元亀3年(1572年)に阿波の三好勢の攻撃を受けている。その後、、川之江城を預かる河野氏重臣は土佐の長宗我部氏へ寝返るが、河野勢の攻撃を受けて落城。が、天正13年(1585年)に土佐の長宗我部氏の攻撃を受けて、川之江城は再び落城する。
長宗我部氏の攻略からわずか数ヶ月後、豊臣秀吉の四国平定軍が四国へ侵攻を開始(四国攻め)。川之江城も豊臣軍による攻囲を受け、長宗我部氏は降伏し川之江城は開城となった。 以後の川之江地方は小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏と目まぐるしく領主が変わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に伊予国に移封された加藤嘉明が川之江を領すると、慶長7年(1602年)に城を織豊系城郭へと改築した。しかし、嘉明が居城を伊予松山城へ移すと川之江城は廃城になった。
一柳直家が寛永13年(1636年)に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが、寛永19年(1642年)に死去。領地は収公され、以後の川之江は天領になったため再築されることはなかった。