水曜日, 12月 20, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅴ;第二回秩父札所巡り(2)

宿でのんびりしながら、翌日の予定をどうしたものかと、少々真面目に話し合う。当初の予定では、最初に長瀞に向かい、それから西武秩父へ成行きで戻り旅、などと考えていた。地図を見る。宿は語歌橋の近く。5番札所・語歌堂も直ぐ近い。ということは千体仏の4番札所金昌寺もその先に。ということは、先回の札所散歩のとき、時間切れで行けなかった1番、2番札所は、そのもう少々先にある。宿から西武秩父まで歩くのであれば、とっとと、1,2番札所に進むべし。 で、黒谷の和同開珎の露天掘り跡を経て長瀞へというコースに、急遽というか、計画しておけば当たり前というか、の段取りですんなり決定。(水曜日, 12月 20, 2006のブログを修正)



本日のルート;語歌橋>5番札所・語歌堂・長興寺>4番札所・金昌寺>2番札所・真福寺>1番札所・四萬部寺瑞岩寺>和同開珎>秩父鉄道・黒谷駅>上長瀞駅>長瀞>宝登山神社>西武秩父

朝、宿を出立。交通量の多い県道・11号を避け、一筋東に入った道を歩く。5番札所語歌堂前を通り、先回パスした5番札所の納所・長興寺にちょっと立ち寄り、先に進む。織姫神社。昔、このあたりに織物工場があり、織物にちなんだものではあろう。が、秩父夜祭、って秩父神社の織姫さまと武甲山の龍神さまの年に一度の逢瀬のとき。こちらのコンテキストで考えるほうが、なんとなく落ち着きがいい。

織姫神社のところを東に入り、4番札所・金昌寺の門前をかすめ、先に進む。山の端をしばらく歩き二番札所の納経所・光明寺に立ち寄り、2番札所真福寺に向かう。大棚地区の山道を進み、九十九折れ・急勾配の峠道を越えると木立に囲まれた真福寺に着く。4番札所・金昌寺から、50分程度の歩き。途中の峠あたりか らの武甲山など、山々が美しい。

2番札所・真福寺
観音堂は、屋根・向拝や彫刻も美しく、風格ある趣き。本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の作。長享の頃というから15世紀の末、水害に遭い札所からはずされていたようだが、信者からの復活要望も強く34番目の札所として再登場。現在の場所に移ったのは江戸時代初期のこと。当時はもっと大きな規模であったようだが、万延元年(1860)火災により焼失した、と。本堂の左手に注連縄を張った社というか小祠。春日神社、諏訪神社などがまつられている。ちなみの、長享頃って、どんな時代だったか、ということだが、室町幕府、将軍・足利義尚の子治世。加賀の一向一揆の門徒が、守護・富樫氏を攻め自刃においやった、といった時代である。
ご詠歌;「巡りきて願いをかけし大棚の誓いもふかき谷川の水」

真福寺を離れ山道を下る。結構急勾配。この道を上るのは大変であろう、と思いながら歩いていると、サイクリング自転車に乗った御仁が急勾配をものともせず上がり来る。脱帽。坂道を30分程度下ると四萬部寺に。

1番札所・四萬部寺
山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。紅葉が素晴らしい。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。
四萬部寺が札所一番になったいきさつは、上でメモしたように、江戸からのお客様対策。繰り返しになるが、江戸からの巡礼道としてもっともよく使われていた「川越通り(川越から小川、東秩父を経て粥新田峠(かゆにたとうげ)>三沢>曽根坂峠>秩父大宮)」にしても、熊谷方面からの「熊谷通り(中仙道>熊谷>寄居>釜伏峠>皆野>秩父大宮)」にしても、秩父へのゲートウエイとしては、結局はこの四萬部寺がベストロケーション。粥新田峠から皆野町三沢地区に下ると、四萬部寺までは県道82号(長瀞・玉淀自然公園線)の一本道。釜伏峠から下って来ても三沢地区で同じ県道に出る。ということは、川越通り、熊谷通りのどちらを歩いても、この寺が一番近い秩父札所ということ。
ご詠歌;「有難や一巻ならぬ法(のり)の花 数は四萬部の寺のいにしえ」

瑞岩寺
四萬部寺を離れ次の目的地・黒谷の和同開珎露天掘跡に向かう。野道を20分程度進み、国道140号線の手前あたりに瑞岩寺。秩父十三仏霊場のひとつ。裏山は岩肌の露な魅力的な風情。ツツジの名所とか。ツツジの季節に来てみたい。この岩山、戦国時代大田道潅と戦った長尾景春の居城跡と伝えられる。
長尾景春って結構面白い。室町から戦国時代初期にかけ、関東を戦乱・混乱に巻き込んだ立役者。ことの発端は、関東管領・山内上杉憲実の家宰・長尾景信の跡継ぎ騒動。景信は景春の父。景春はてっきり自分に家宰の跡目が廻ってくる、と思っていた。が、管領・上杉憲法は跡目を景信の弟・忠景に継がせた。怒り狂った景春は寄居の鉢形城に立てこもり上杉家に戦いを挑む。これが「長尾景春の乱」のはじまり。一時は上杉軍を破り、上杉・管領家は上野に退却。ここで扇谷上杉家の家宰・大田道潅の登場。道潅は景春に復帰を呼びかけるが不調。で、合い争い、結局景春は破れ再び鉢形城に籠城。上杉軍が鉢形城を包囲。景春は上杉と争う古河公方・足利成氏に支援要請。なぜ古河公方か。簡単に言えば、といっても、簡単には説明できないのだが、関東管領・上杉氏と犬猿の仲であった、ということ。もとは鎌倉において鎌倉公方であったのだが、公方の補佐役・管領上杉家と争い、結局は鎌倉から追い出され、古河に本拠地を構える。古河公方と呼ばれる所以。で、鎌倉の公方(堀越公方)・上杉管領家と関東を二分した争いが続く。
本題に戻る。成氏動く、との報に接し、上杉軍は包囲を解き足利軍に備える。結局、上杉と足利は停戦成立。取り残された景春に対し、大田道潅は鉢形城を攻め景春を秩父へと追放した。瑞岩寺の景春の居城跡、って、このとき拠点としたところだろう、か。 その後のこと:道潅死後は再び秩父から出兵し、群馬・渋川市にある白井城を拠点に上杉家と戦い続け、最後は小田原・北条早雲と同盟を結ぶことになるが、あくまでも上杉家と戦い続けた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

和銅露天掘跡
瑞岩寺から30分程度の歩きで秩父鉄道黒谷駅。駅を越え、再び山地に向かう。30分程度登り、ちょっと沢に下ると「和銅露天掘跡」。秩父市と皆野町にまたがる蓑山(587m)につくられた「美の山公園」の麓。蓑山って、秩父唯一の独立 峰、ってことをどこかで見たような気がする。ともあれ、ここは秩父古生層と第三紀層の大きな断層崖が形成された地。この露頭壁に走る自然銅の鉱脈を、露天掘りによって採掘したのであろう。この地で採掘された「にぎあかがね」・自然銅は精錬銅に対して熟銅とも言われる極めて純度の高いものであった、とか。慶雲5年(708年)、秩父から自然銅が元明天皇に献上される。天皇大いに喜び、詔を発布し年号を「和銅」と改元した。で、その銅をもとに日本での最初の流通貨幣「和同開珎」がつくられた。銅は秩父の広い範囲から産出されたが、和銅にちなむ名前が多いこの黒谷をもって昭和61年「和同開珎の碑」が建てられた。
秩父の歴史は古い。縄文遺跡は市内に五十ヶ所、弥生式文化も数ヶ所から出土している。「チチブ」という名が現れたのは旧事記、国造本紀の中で「崇神(すじん)天皇の時代、知知父国造(ちちぶくにのみやつこ)が任命された」がはじめて。この「知知父」が「秩父」に改まったのは元明天皇の和銅六年、国、郡等の名を二字の好字に定めたことによる。で、古い歴史をもつこの秩父が歴史上有名になったのは、なんといってもこの黒谷の和銅を天皇に献上したときであろう。なにせ、改元したほどであるわけだから。大赦もするわ、臣下や百官を昇進させたり、老いた人にはモミを配ったり、徳の有る人を表彰したり、武蔵国にはその年の庸(よう)、秩父郡は庸・調(ちょう)等の租税を免除した、というし、いやはや、国を挙げての一大行事であったのだろう。
和銅露天掘跡に登る道すがら、「聖神社」という趣のある社があった。時間がなくなり、気になりながらもパスしたのだが、この神社って採掘された自然銅を御神体にした神社。神社創建の式典には天皇からの勅旨が派遣され、その際「銅のムカデ」が授けられ、神社の宝物となっている、とか。「ムカデ」の意味合いは、渡来人との関連で考えるのがわかりやすい。渡来人の王・若光王をまつる「白髭神社」の神のつかいはムカデ。フイゴ祭りには藁でつくったムカデをまつる風習もあるし、ムカデの油漬けは火傷の薬としても効果ある。精錬・鍛冶・金工といった、一連の作業に関係するムカデの霊力をまつる行為は渡来人の間でおこなわれていた祭祀のひとつ。和銅の採掘には金上金上无(こんじょうむ)等、渡来人のもつ技術なくしては不可能であり、渡来人の信仰の対象であった「ムカデ」を天皇が記念に贈ったのであろう。この神社をパスしたのは少々残念。散歩の鉄則として、「とりあえず行く」の精神を再確認。

「和同開珎の碑」を離れ、秩父鉄道・黒谷に向かう。次の目的地は長瀞であるのだが、膝のガタもさることながら、時間が少々タイト。電車を利用し、上長瀞駅に。昨年紅葉の季節の見た、上長瀞駅近くの県立自然博物館付近の紅葉の美しさを再び、と思った次第。紅葉の中を長瀞駅までのんびり歩き、これも昨年食べた「田舎饅頭」の味を再び、と。なんとなく子供の頃、なくなった祖母がつくってくれた「饅頭」の味を思い出す。お土産に、「田舎饅頭」を買い求め、最後の目的地・宝登山神社に向かう。

宝登山(ほどさん)神社

秩父鉄道・長瀞駅から一直線に参道が。白大鳥居が目に付く。結構歩いた。山麓に宝登山(ほどさん)神社。秩父神社、三峯神社とともに秩父三社のひとつ。ここにも日本武尊が登場する。寺伝によれば、三峯とおなじく景行天皇の御世、その皇子である日本武尊がこの山に登る。突然の山火事。一面火の海。いずことのなく現れた「お犬さま」が奮闘し鎮火。危機一髪の難を逃れる。お犬さまは日本武尊を山頂に案内し、再び何処とも無く立ち去る。「お犬さまは、神のお使い」と感謝。この山を「火止山(ほどやま)」と命。山頂からの美しい眺めに神の山にふさわしい、と「神日本磐余彦尊(かみやまといわれひこのみこと;神武天皇のこと)」「大山祇神(おおやまづみじんしゃ;山の御神霊)」「火産霊神(ほむすびのかみ;火の御神霊)」の三柱をまつる。その後、火止山は霊場として続き、弘仁年中に宝珠が光り輝き山上に飛翔する神変。ために「宝登山」と称し、仏教、特に修験場として栄える。山麓には玉泉寺(真言宗)も開基され、神仏習合の宮として明治の神仏分離令まで続く。日本武尊伝説にちなみ防火、災難消除の神として信仰厚い神社となっている。

この神社の御眷属は三峰神社と同じく「お犬さま」、というか狼。御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。

石神井川散歩の東伏見稲荷のところでメモしたのだが、それぞれの神社が祭祀圏を広げるに際し、キャンペーンガールならぬマスコットをつくりあげ、市井の民にわかりやすい形を組み上げたうえで勢力拡大・販路拡大を図ったのであろう。巧みなマーケティング戦略ではありましょう。

予定では、ケーブルに乗り、奥宮へと考えていた。が、残念ながら、時間切れ。ケーブルもほぼ最終便といったところで、宝登山への登りはあきらめる。後から、宝登山から眺める武甲山の美しい姿などをおさめた写真を見るにつけ、あと一歩、先に進んでいたら、などとの思いもあり。が、今回は、時間が時間だけに景色もほとんど見えなかったはず、と思い込み、次回のお楽しみとする。
2回にわけて歩いた秩父札所。まだ半分ほど残っている。はじめた以上は全部クリアを、ということで、年明け、厳冬の秩父を歩こうと、同僚諸氏と話す。それより、個人的には、川越通りにそって、峠越えにて秩父へと歩いてみたい。春には決行、と。

火曜日, 12月 19, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅳ;第二回秩父札所巡り(1)

9月の第一回秩父行きに引き続き11月の末、会社の同僚と男ふたりで再び秩父に向かう。紅葉の頃である。1泊2日。初日は三峯神社。二日目は成り行きで札所を巡り、長瀞で紅葉見物。そして宝登山神社で締めくくるって段取り。先回の秩父神社と合わせ、三峯神社・宝登山神社を巡れば秩父三社におまいりしたことにもなる、と同僚の言。時空散歩というか、時=歴史、空=地理には大いに興味はあるものの、神や仏にそれほど思い入れのない我が身ではあるが、秩父といえば三峯でしょう、ということで少々のワクワク感は否めず。(火曜日, 12月 19, 2006のブログを修正)


本日のルート;西武秩父>三峯山>三峯神社>妙法ケ岳・三峯神社奥宮>西武秩父

朝8時半の池袋発の西武特急に乗り、西武秩父に。通常は秩父鉄道で三峯口まで行き、バスで大輪まで。で、ケーブルで登山、ということではあるが、現在は運行停止中。来春まで続く、とか。ということでもあり、西武秩父から三峯神社行きの西武直通バスにのり、神社を目指す。140号線・彩甲斐街道を進む。影森>浦山口>武州中川>武州日野>白久>そして三峯口と、秩父鉄道の駅と付かず離れず道は進む。

バスはさらに進み、大輪>大滝村を越えると秩父湖。二瀬ダムにより荒川を堰きとめてできた人造湖。ちなみに140号線ってどこに続くのか辿ってみると、秩父湖の先から南西に下り、全長6625mの雁坂トンネルを越え、山梨の西沢渓谷、そしてその先は塩山市。恵林寺のあたりに続いていた。秩父往還・甲州道とほぼおなじコースであろう。ついでのことながら、この恵林寺、織田信忠軍による武田方の武将の引渡し要求を拒否。焼き討ちにあった。その際の快川和尚が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発したことは、あまりに有名。

三峯神社は秩父湖からは10キロ程度。曲がりくねった道をどんどん上る。秩父湖の標高は600m。三峯神社は1060mであるので、400mほど一気に駆け上がる感じ。11月後半の紅葉の見ごろ、でもある。昨年は紅葉を求めて、鎌倉や高尾など歩き廻ったが、結局見事な「赤」の紅葉は秩父・長瀞でしかお目にかかれなかった。今回の秩父への旅も長瀞の紅葉を、などと思っていたのだが、思いがけなく、この秩父湖のあたりで美しい紅葉を見ることができ、大いに満足。大滝村営駐車場でバスを下りる。石段を上がり三峯神社に向かう。

三峯神社
最初に本殿に。イザナギノ尊、イザナミノ尊をまつる、と。春日造りのこの本殿はおよそ340年前に建てられたもの。神社の歴史は古く、いまから1900年ほど前、日本武尊が景行天皇の命により東征のおり、この地に赴き、その美しき景観を愛で、美しき国産みの神様であるイザナギノ尊、イザナミノ尊の二神をまつった、とか。三峯の名前は神社東方にそびえる雲取山(2017m)、白岩山(1921m)、妙法嶽(1329m)の三つの峯が美しく連なることから名付けられた。寺伝によれば、景行天皇が日本武尊の足跡を偲び東国を巡行されたとき、上総国(千葉)で、この三峯が美しく連なることを聞き、「三峯山」、そして社を「三峯宮」と名付けた。
神話の時代は所詮、神話。時代を下り「歴史時代」の三峯神社をチェックする。天平時代。国々に厄病が蔓延したとき、聖武天皇は勅使として葛城連好久公をこの宮に遣わし「大明神」号をさずける。平安時代になると、修験道の開祖・役小角がこの地で修行し、山伏の修験道場となる。伊豆からこの地を往来した、と。役小角って、いろんなところに現れる。実際この地に来たのかどうか知らないけれど、それはそれとして、黒須紀一朗さんが書いた『役小角』、『外伝 役小角』は真に面白かった。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻む。三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈って宮の本地堂とした。こうしてこの三峯宮は次第に佛教色を増し、神仏習合の社となってゆく。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、鎌倉武士の華・畠山重忠もこの宮を篤く祟敬した、と。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて大いに賑わった三峯宮も、その後に不遇の時代を迎える。正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つべく挙兵。戦い敗れて三峯山に身を潜めたわけだが、そのことが足利氏の怒りにふれて、社領を奪われる。こういった状態が140年も続く。再興されるのは後柏原天皇の文亀二年(1503)になってから。修験者月観道満は27年という長い年月をかけて全国を行脚し、資金を募り社殿・堂宇の再建を果たした、という。天文2年(1533)には山主が京に上り聖護院の宮に伺候。「大権現」の称号を授かり、坊門第一の霊山となる。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称する。札所巡りで、今宮坊が聖護院の系列である、ということと、ここでつながった感じ。
江戸時代には享保5年(1720)日光法印が各地に三峯信仰(厄除け)を広め、今日の繁栄の基礎を築く。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代。三峯神社の神の使い・眷属は狼。狼・山犬は不思議な力を持つと信じられ「大口真神(おおくちのまかみ)」とも呼ばれ、山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたかと信仰も篤く、この「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と。以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られる。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至る。
社殿前には青銅の鳥居。塩原太助の名前もある、とか。塩原太助も散歩をはじめ各地でお目にかかった。亀戸天神、江東区の塩原橋、そして足立だったか、太助のお墓。いろんなところで足跡に触れる。祖霊社、国常立神社、摂末社へと境内を進む。境内より少し下ったところに仁王門。随身門と称す。200年前に作られた、と。表参道からここを通るのが古来の正参道。表参道とは、ケーブルなどができるまで、麓の大輪から神社までおよそ2時間半ほどかけてのぼってきた道。随身門から見て少し小高い場所にある遥拝殿の脇にその道が続いている。で、遥拝殿。展望が美しい。ここは三峯神社奥宮を遥拝するところ。近くには日本武尊の銅像のほか、「朝にゃ朝霧、夕にゃ狭霧(さぎり)秩父三峰霧の中」と詠う野口雨情の歌碑がある。で、本日のメーンイベント、奥宮・妙法嶽への散歩を始めることにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


妙法ケ岳・三峯神社奥宮
杉並木の中、舗装された道が続く。南斜面に60戸ほどの集落。江戸時代までは神領村として、年貢を神社に納めていた。古風な神領民家は最近まで使われていた三峯の民家を移築、復元したもの。先に進むと「一の鳥居」。ここで舗装は終わりになる。20分程度歩いただろうか。本当のところを言うと、奥宮、とはいうものの、おだやかな舗装道の参道を歩いていくものだと、勝手に思っていた。それが、とんでもなかったのは後の祭り。「一の鳥居」をくぐってから、しばらくは雲取山への縦走路を歩くことになる。参道ではなく、これって登山。
15分程度歩くと「二の鳥居」。ここが妙法ケ岳への分岐点。雲取山への縦走路を離

れ、杉並木の中、きつい登りを進む。登りが一段落したところにベンチがあり休憩できる。これから先がもっと厳しい登り、となる。片側が急斜面のところもあり、高所恐怖症の我が身には少々厳しい。30分程度の苦行のあと、「三の鳥居」に到着。東屋もある。鳥居をくぐり尾根筋を進み、アップダウンを繰り返しながら進む。岩場も出始める。やがて小さい木の鳥居。鳥居があるたびに、奥宮か、などと甘い期待を裏切られながら進む。険しさの増す岩場が続く。山頂までは3つの岩峯越えとなる。急な階段もあり、傷めた膝には少々厳しい。
階段を下り、少し歩くと今度は急な登り階段。険しい登り。階段の上場は岩場であり、鎖にすがって登る。「三の鳥居」から20分程度。登りきったところが山頂。標高1392m。三峯神社奥宮が鎮座する。奥宮の創建は寛保元年(1741年)。小さな社ではあるが、風格がある。両脇には「お犬さま」が控える。山頂からは両神山(1723m)など奥秩父の山々、西上州の稜線が一望のもと。

三峰山博物館
少々休憩し、下山開始。下りは膝にきつい。艱難辛苦の末、三峯神社になんとかたどり着く。本来であれは、遥拝所脇から大輪に下る「表参道」を歩きたかったのだが、なにせ膝が限界。午後1時半の後は3時半まで無いバスを待つ。待ち時間を利用し、秩父宮記念「三峰山博物館」に。三峯講社の登拝・参籠に関する資料、三峯神社が修験の山として栄えていた別当・観音院時代の宝蔵・資料が展示されている。もちろん、秩父宮家ゆかりの品が展示されているのはいうまでもない。また、世界で7例・8例目のニホンオオカミの毛皮も展示されている。

三峯講についての資料に惹かれる。山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたか、という三峰の御眷属・「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と上でメモした。この記念館にはその道筋がパネル展示されていた。江戸からの道は、「熊谷通り」、「川越通り」、そして「吾野通り」。これら江戸からの道は観音巡礼でメモした。そのほか三峯詣でには上州、甲州、信州からの道がある。上州からの三峯詣・「上州道」は出牛峠>吉田・小鹿野>贄川>秩父大宮からの道筋にあたり、52丁の表坂(表参道)を三峯に上る。「甲州道」と呼ばれる甲斐からの道筋は秩父湖のメモのところで辿った道筋。三富村の関所>雁坂峠かみ>武州>栃本の関所>麻生>お山に、となる。「信州道」は信州の梓山>十文字峠(長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠)>白泰山の峠>栃本の関所>麻生>お山に。
三峯信仰は17世紀後期から18世紀中期にかけて秩父地方で基盤をつくり、甲斐や信濃の山国からまず広がっていった、とか。まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった、ということだろう。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだ。
山村・農村に基盤をおいた三峯信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で三峯信仰の中心となってくる、ということ。都市化への展開要因として木材生産に関わる生産・流通の進展が大きく影響する、との説もある(三木一彦先生)。江戸向けの木材伐採が盛んになった大滝村で三峯山が村全体の鎮守、木材生産に関する山の神としての機能が求められたことを契機にして、三峯信仰が浸透したと言う。秩父観音霊場の普及は秩父の絹織物の生産・流通と大いに関係ある、ともどこかで見たような気もする。信仰って、なんらかの政治・経済的背景があってはじめて大きく展開する、ってことは熊野散歩のメモで書いたとおり。

都市化された三峯信仰の例は散歩の折々に出会った。千住宿・氷川社末寺もそのひとつ。縁起には「宿内信心の講中火災盗難為消除、御眷属を奉拝」と、「猪鹿除け」は消えている。「白波は三峰山をよけて打ち」って川柳があるほど、だ。これって、歌舞伎の白波5人衆、泥棒5人組み、のことである。泥棒は三峯山(お札)を避ける、って意味。江戸時代後半以降、三峯講が盛んとなり、各地で講が組織される。組からは毎年2人ほどが代表となり参拝し、お札をもらってくることになるわけだが、講の加入者に渡される札は火防・盗賊除け・諸災除けの3枚、であり農作業に関わる願意は見られない。

信仰の都市化の傾向は江戸だけではない。島崎藤村が小諸市を舞台に描いた『千曲川スケッチ』の中で、村落部に張られたお札は「盗賊除け」と。時代・世相・生産基盤の変化に応じ、願意も変化していったのであろう。それに応じて、霊験もきっちりと変化していった、ということだろう。マーケティング戦略であろう、か。マーケティングの話のついでに、お札の話。社寺で宝物でもあれば、江戸で出開帳でもすれば大きな利益もでようものを、三峯にはこれといった宝物もない。ということで、講をつくり、あれこれとご利益のあるお札を配布し普及していった、とか。

現在の三峯講は代参・団参あわせて4000余社、崇敬社は20
万人以上といわれている。そういえば亀戸・香取社にも三峯神社があった。世田谷のどこだったか、にもあった。講といえば富士講が有名だが、富士講、白山講、そして三峯講も、現在、どの程度の規模でどのようにおこなわれているのだろう。そのうちに調べてみたい。
あれこれしているうちにバスの時間。西武秩父についた頃には日も暮れた。宿に向かい、本日の予定終了。温泉というか鉱泉で痛む膝を癒し明日に備える。


月曜日, 12月 18, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅲ;第一回秩父札所巡り(3)

2日目は横瀬地区を中心とした札所巡り。横瀬町には5番から10番までの札所がある。秩父市街からは台地で隔てられ、横瀬川によって切り開かれた地域。ガイドブックには東丘陵などと紹介されている。横瀬川は秩父連山の武川岳や二子山といった800mから1000m級の山地にその源を発す。いくつもの支流の水を集めながら芦ヶ久保地区を西に流れ、横瀬地区では平坦部を北に進み、秩父線・黒谷駅近くで荒川本流に合流。全長19キロ程度の荒川の支流。(月曜日,12月 18, 2006のブログを修正)


本日のルート;9番札所・明智寺>8番札所・西善寺>7番札所・法長寺>6番札所・ト雲寺>5番札所・語歌堂>4番札所・金昌寺>3番札所・常泉寺>10番番札所・大慈寺>11番札所・常楽寺>西武秩父駅

西武秩父線・横瀬駅

さてさて、横瀬地区札所散歩は西武秩父線・横瀬駅からはじめる。武甲山が美しい。散歩のはじめに少々気になっていた武甲山についてメモする
武甲山;昨年はじめて秩父を訪れたとき、御花畑から見たこの山の印象は強烈であった。秩父といえば三峯山、という程度の智識はあったので、てっきり三峯山と思い込んでいた。で、この武甲山、山容がいかにも猛々しいのはさることながら、これまた、いかにも切り崩されたような白い山肌に強く惹かれた。後からわかったのだが、それって石灰を切り出したためにできたもの。明治になってセメントの原料として採掘が進められ、特に1940年以降の採掘はすさまじく、山容が変貌。北斜面の崩壊が著しく、少々の衝撃を受けたのはこの崩壊した斜面であったわけだ。標高も明治期に比べて30mほど低くなっている。山頂部が削り取られたから、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
武甲山の名前の由来だが、日本武尊が東征のとき、甲を奉納したから、とか。しかし、これは江戸・元禄の頃に、なにが要因か しらないが、こういった伝承が伝わり、今に至る、というだけ。山の名前はあれこれ変わっている。武甲山資料館の資料によれば、最初は単に「嶽」とか「嶽山」と世ばれ、神奈備山(神のこもる山)として崇められてきた。はるか昔のことである。
次に、「知々夫ヶ嶽」とか「秩父ケ嶽」と呼ばれるようになる。秩父神社のメモで書いた、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、ご神体としてこの山をまつった頃のこと。その次の名前は「祖父ヶ嶽」。大宝律令が制定(701年)され、武蔵国初代の国司として赴任した人物/引田朝臣祖父の名前を冠した名前となった。平安時代には「武光山(たけみつ)」。山麓に武光庄という荘園があった、ため。武光とは荘園開発者であろうか、と。次は妙見山(ミョウケンヤマ)。これも秩父神社のところでメモしたが、1235年秩父神社は落雷炎上。再興に際し、秩父平氏の流れを汲む武士団が信仰した妙見大菩薩を習合し、名前も「秩父大宮妙見宮」と変わった。ためにお山の名前も「武光山」から「妙見山」に。で、最後が江戸になってからの武甲山、と。山の名前も、それがありがたい山であるがゆえに、信仰・政治的背景によって変わってきた、って次第。
はじめからの寄り道が、結構長くなった。散歩にでかける。最初の目的地・明智寺に向かう。横瀬の駅から線路にそって南方向に下り、のんびりとした田舎の風景を眺めながらすすむと目的の寺。

9番札所・明智寺
安産子育ての観音様として知られ、明智寺というより、「九番さま」との愛称で呼ばれる札所。縁起によれば、目のみえない母親の回復を祈り、日夜この観音堂におまいりする孝行息子の前に老僧が現れ、「無垢清浄光・慧日破諸闇」を唱えるべし、と。お堂にこもりこの二句を唱え続ける。と、明け方内陣より「明るい星の光」が親子を照らし、母の目が見えるようになった。ために、このお堂は「明星山」と。「明智」はこのお寺を開いた明智禅師から。なお、観音堂は平成になってつくりかえられたもの。
境内左手に小さな祠。女性の願いを納めたといわれる「文塚」と地蔵尊が祀(まつ)られている。文塚には「宝永元甲申年」の文字。1704年に建てられたもの。「ひだり十番」の文字も刻まれており、かつては道標を兼ねていたらしい。「文塚」って、女性の願いを埋めている、とはよく言われる。が実際は、それだけではないようだ。有名な文塚では「小野小町の文塚」がある。ここには深草少将をはじめとした千通にもなる恋文が埋められている、というし、平安期の三十六歌仙のひとり・能因法師の「文塚」には自作の和歌の草稿を埋めた、とか。
ご詠歌;「巡り来てその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるなん」

明智寺を離れ、南に進む。三菱マテリアル横瀬工場。いかにも石灰を切り出し、セメントをつくる、って雰囲気の工場。工場脇を進み西武秩父線を越え、線路に沿って続く道筋を進む。武甲山の麓といったところに西善寺。

8番札所・西善

秩父への巡礼道として飯能>旧正丸(秩父)峠を越える「吾野通り」を歩くと最初たどりつくのがこのお寺。この寺をはじめとして札所を巡った人も多かったのだろう。江戸時代、竹村立義が表した紀行文「秩父巡拝記」によれば、竹村は8番>9番>7番>10番と巡り、10番以降は札番の順に巡っている。江戸期は川越通りからの往還がメーンルートとメモした。とはいうものの、どの往還を選ぶかは人次第ではある。当たり前、か。
このお寺、古い正丸峠越え(665m)の苦労に報うだけの品のいい寺さま。境内に枝をひろげるモミジの巨木は、樹齢500年とも600年とも。紅葉の頃は、さぞ美しいことであろう。モミジの下に如意輪観音さまや六地蔵。如意輪観音は、「文字どおり」、意のままに願いが叶う仏さま。
お地蔵さんは「六道能化の地蔵尊」とも呼ばれる。六道とは「仏教で衆生が輪廻の間に、それぞれの業の結果として住む六つの境涯(広辞苑)」。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つ。お地蔵さんとは、釈迦入滅後、弥勒が出現するまでの間現世にとどまり、衆生を救い、また、冥府の救済者。つまりは、この世で困っている人なら誰でも助けてくれる仏さま。ここまで活動範囲が広ければこの六道すべてに関係から、六道能化の地蔵尊と。六地蔵とはこの六つの世界をそれぞれ表しているのだろう、か。六地蔵は六道能化の本尊は恵信僧都の作と言われる、十一面観音。秘仏のため拝観叶わず。
ご詠歌;ただ頼めまことの時は西善寺 きたりむかえん弥陀の三尊
次の目的地・法長寺に向かう。少し秩父方面に戻ることになる。西善寺を離れ、北に下る道筋を進む、途中に「御嶽神社」。この里宮は武甲山頂に鎮座する御嶽神社の遥拝所。もっとも、石灰の採掘により削られ、山頂が30mほど低くなった、とメモした。山頂の御嶽神社も移された、って、こと。
地図を見ていると、御嶽神社の西のほうに白髭神社がある。これって、高麗王若光をまつるもの。吾野通りを下った高麗の里は霊亀2年(716年)、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の 高句麗人 (高句麗からの渡来人)、1799人を武蔵国に移し、 高麗郡(こまぐん)としたところ。高麗王若光をまつる高麗神社や聖天さまがある。
秩父は渡来人の里とも呼ばれる。吾野通りを通り、正丸峠から芦ヶ久保そして横瀬、大宮郷と帰化人たちも歩いてきたのだろう。秩父に絹織物の技術を伝えたもの、和紙の製造技術を伝えたもの、そして黒谷での和銅の採掘技術を伝えたもの渡来人。そういえば、この芦ヶ久保のあたりは706年に高麗羊太夫が芦ヶ久保村楮久保で、和紙の製造をはじめたというし、近くの根古屋って、絹織物の産地として有名。白鬚神社があって当然、か。西武秩父線を越え、生川交差点で国道299号線を秩父方面に。横瀬橋交差点近くに法長寺がある。

7番札所・法長寺(牛伏堂)

山門に菊水の紋。「不許葷酒入山門」葷とはニンニク、ラッキョ、ネギ、ニラといった野菜。その強い臭いが他人に不快感を与えるため。酒はいわずもがな。お寺の中では葷酒はだめ、ということ。本堂は間口10間の堂々とした構え。秩父ではもっとも大きい構えを誇る。本尊は十一面観音。江戸期の作。本堂の前に牛の石像。寺伝によれば、ある牛飼いが餌の草を刈っていると、一頭の牛が現れる。が、その牛、その場から動こうとせず、やむなくその地で一夜をあかす。と、夢に僧が現れ、「我は観音の化身なり。この地に草堂を結べば、この世の罪贖を取り除いてくれん」と。夜があけ、草の中からでてきた十一面観音をまつった、とか。「牛伏堂」と呼ばれる所以である。この牛伏堂は当時、横瀬の牛伏地区にあったらしいが、江戸時代にその堂が失われこの法長寺に札所が移された、と。本堂の虹梁の文様は平賀源内図と伝えられる
ご詠歌;「六道をかねて巡りて拝むべし 又後世(のちのよ)を聞くも牛伏」

横瀬橋を東に丘陵に向かう。畠にそって道を登る。境内に登る坂の途中に小さな祠。「お願い地蔵」がまつられている。竹林を背景にしたお堂の風情はなかなかいい。「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」、と書かれた石標が入口に。正面に武甲山が美しい。

6番札所・ト雲寺;(ぼくうんじ;荻野堂)

このお寺、もとは別の場所にあった荻野堂が江戸時代にこの地にあったト雲寺に移されたもの。ト雲寺の名前の由来は、開山の嶋田与左衛門の法号が「ト雲源心庵主」である、から。本堂は、間口6間、奥行4 間。寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、荻野堂縁起絵巻そして山姥歯等がある。荻野堂縁起絵巻が有名。
が、山姥の歯とは、少々面妖。縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れる。武甲山に山姥が棲み、里人を食う、という話を聞く。で、武甲山頂の蔵王権現にこもり山姥退治の祈願。この神力呪力によって山姥も降参。遠国へ立ち去るべし、と。山姥は悔い改め、再び里人を食わ誓いの証として前歯1枚、奥歯2枚を折り、献じて何処ともなく去ったという。もっとも、棄て台詞ではないだろうが、立ち去るとき「松藤絶えろ」と叫んだため、武甲山には松と藤が育たなくなった、とか。 本尊の聖観音は行基菩薩の作、と。蔵王権現にまつられていたもの、とか。
こんな話もある。とある禅師が庵を結んでの修業三昧。と、どこからともなく、「初秋に風吹き結ぶ 荻野堂 やどかりの世の 夢ぞさめける」という御詠歌、が。荻野堂の名前の由来がこれ。
ご詠歌;「初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世に夢ぞ覚めけり」

ついでのことであるので「清涼寺形式の釈迦像」について。清涼寺のことをはじめて知ったのは、江戸の出開帳の記録を見ていたとき。成田山などとともに出開帳ベストテンに入っている。で、清涼寺についてチェックした次第。京都嵯峨野にあり、通称、嵯峨釈迦堂と呼ばれる。ここに伝わる国宝の釈迦像は請来されて以来、藤原摂関家以下朝野の尊祟をあつめた。ために、模刻が盛んにおこなわれ、これを「清涼寺形式の釈迦像」、と。つい最近、紅葉の嵯峨野を歩いたのだが、この嵯峨釈迦堂、拝観料を惜しみ、かつまた夕暮れ、雨模様という状況もありパス。残念。

ついでのことなので、もうひとつ寄り道。蔵王権現について;武甲山に蔵王権現がまつられていた、とメモした。観音霊場の起こりのときも、性空上人さまと13権者のひとりとして巡礼に従った、と。で、蔵王権現って、宮城というか山形というか、その蔵王のお山での信仰から、かと思い込んでいた。チェックしてみた。と、この神というか仏というか、ともあれ「仮の姿で現れた神仏」は日本固有のもの。インドに起源をもたない日本独自のほとけさま。役小角が吉野・金峯山で修行中に感得したという修験の神であり、釈迦・観音・弥勒の三尊の合体したもの、とか。で、蔵王山のことだが、これは古くから山岳信仰の対象ではあったが、平安の頃、空海の両部神道を奉じる修験者が修行の山とし、吉野の蔵王堂より蔵王権現を勧請し、お山の名前を「蔵王」とした、と。想像と順番が逆であった。

ト雲寺をはなれ、丘陵地帯をゆっくりくだり平地に下りる。県道11号線と横瀬川が交差する語歌橋に。県道11号線って、熊谷から小川町をへて秩父にいたる埼玉で一番長い地方道。約48キロある。11号線から少し南というか、東にはいったところに語歌堂がある。

5番札所・語歌堂(長興寺)

素朴な雰囲気の仁王様が睨む仁王門をくぐると、観音堂。その昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者。和歌の道に親しむ風流人。ある日一人の僧が訪ね来る。歌道の話に大いに盛り上がり、二人は夜を徹して論じ合う。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧は聖徳太子の化身であった ことがわかった。夜を徹し「語」り合い、和「歌」を呼んだ。これが語歌堂の名前の由来。もっとも、旅の人と和歌の道を論じあい、聖徳太子の話に及んだとき、突如消え去る。で、これこそ救世観音の化身と悟った、といった話もある。何ゆえ、聖徳太子であり、救世観音であることがわかったのか、少々疑問?
納経所は近くの長興寺にある。このお堂、秩父事件の中心人物である秩父困民党総理・田中栄助が捕縛・調書に登場する:「五番ノ観音ノ岩窟ニテ夜ヲ明ク時ニ 十一月十二日ナリ」、と。とはいうものの、岩窟など見当たらない、のどかな平地にあるのだが??
語歌堂の本尊は准胝(じゅんでい)観世音菩薩。「菩薩の母」、「仏母(ぶつも)」といわれ。母性を象徴し、子授けの観音菩薩。この観音様を本尊とするのはほかに西国霊場11番・上醍醐寺だけである。

ついでに観音さまについて。観音様のバリエーションは基本となる聖観音のほか、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音をもって六観音と称す。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
ご詠歌;「父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし」

札所5番から10番までは横瀬町。11号線を北に進むと秩父市に入る。県道から少し丘陵地に入ると金昌寺。

4番札所・金昌寺(新木寺)

二階造りの仁王門。秩父には、村子然とした素朴な仁王さまが多いなか、このお寺の仁王さまは、いかにも仁王然とした力強い形相。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士である。左右の柱に大草鞋。仁王は健脚の神ゆえの奉納か。金昌寺は石仏の寺として有名。1300余体の羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏が寺域に広がる。奥の院には大きな岩。清水が流れ出ていた。
この千体仏、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願。江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就。石仏寄進者のほとんどが江戸に集中。全体の7割,武州を合わせると9割。地元秩父の寄進者はわずか5%。秩父札所巡礼という流れに咲いた花であり、水元が枯れればすぐ萎える。その水源は江戸百万市民である、と上でメモした。
このお寺の石仏寄進者の半数以上が江戸の商人。豊かになった江戸の商人は信仰と行楽を兼ね、この地を訪れた。関所通行の煩わしさもなく、鉱泉もある、といえば願ったり叶ったりであった、ことであろう。また、秩父を支配していた忍藩の代官所も巡礼者を保護し、寛延3年1月から3月の3ヶ月には4万から5万の巡礼者があったとか。
ちなみに秩父と江戸の関係でいえば、巡礼を「待つ」ばかりでなく、秩父札所の「出開帳」が江戸でおこなわれている。明和元年、護国寺で開かれた「秩父札所惣出開帳」は、「前代未聞」の賑わい。将軍家治の代参、諸大名、大奥女中、旗本などの参詣があり、秩父札所の名声を高めた、とか。で、この興行の成功に味をしめ、その後も幾度か出開帳をおこなった、よう。境内にオビンズルさま。別名「酒飲地蔵」さま。散歩をはじめて、十六羅漢のひとり、このお地蔵さんに幾度出会ったことか。
ついでのことであるので忍藩。埼玉県行田市に本丸をもつ。開幕のころは家康の四男・信吉。その後、島原の乱の鎮圧の功により川越藩に移る前の知恵伊豆こと松平信綱や、阿部忠秋など「老中の藩」として軍事的・政治的に幕府の重要拠点藩でありました。
ご詠歌;「あらたかに詣りて拝む観音堂 二世安楽と誰も祈らん」

いかにも立派な、また、「秩父は江戸でもつ」ということを実感した金昌寺を離れ、県道11号線に下り、北に恒持神社あたりまで進む。秩父夜祭で冬を向かえた秩父路に春の訪れを告げる山田の春祭りで有名な恒持神社。古く江戸時代から続く。2台の屋台と1台の笠鉾が、勇壮な「秩父屋台囃子」とともに曳行される、とか。春にはお祭りに来てみたい、などと思いながら県道を西に折れ、横瀬川にかかる山田橋を渡って左折。少し歩く。丘陵地帯が前方に広がる。この台地の先は秩父市街。常泉寺はこの小高い山地の麓にある。

3番札所・常泉寺

本堂の石段を上がったところに観音堂。丘の中腹、林の中、といった雰囲気。もとの堂宇は、弘化年間(1844年頃)に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築した。本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫り。江戸時代の彫刻の高い技術を表している。寺伝によれば、ここの住職が重い病に伏せていたとき夢に現れた観音様からお告げ。「境内の水を服用せよ」、と。あら不思議、病気がすぐに治ったと。この長命水が本堂前にある。また本堂の回廊には「子持ち石」。抱けば、子宝を授かる、と。ご詠歌の岩本寺とは、この寺の山号。
ご詠歌;「補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝つ瀬」

常泉寺を離れ、丘陵地の麓に沿ってのんびり進む。南に戻る。秩父市から再び横瀬町に。語歌橋を越え、県道11号を一筋入ったところに大慈寺。

10番札所・大慈寺
延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると楼門形仁王門。形のいい仁王が構えている。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音。お賓頭盧さま、も。オビンズル様とは

、十六羅漢中第一の位にあったが、その神通力をもてあそび、酒癖も悪く釈迦のお叱りを受けて涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生を救いつづけたという白髪・長眉の仏神だったとか。山門からの眺めよし恵心僧都って、あの恵心僧都・源信のこと?天台宗の高僧。極楽浄土の思想をまとめた『往生要集』の著者として知られるが、仏さんを彫ったりもするものだろうか。少々疑問。
ご詠歌;「ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六(むつ)の巷の苦にかはるべし」

県道11号線を進み国道299号線に合流。丘陵地の切れ目なのか、工事によって切り通されたのか、定かには知らねども、秩父市街に向かってちょっとした峠道を進む。秩父側にでたところに常楽寺。今回最後の札所。


11番札所・常楽寺



この寺は秩父市と横瀬町のまたがる山の中腹にある。秩父の市街地や武甲山や長尾根丘陵、両神山まで一望できる。昔は堂々とした伽藍を誇った。が、明治11年の秩父の大火で焼失。その後、明治30年に建てられたのが現在の観音堂。上で秩父札所の江戸での出開帳のことをメモした。常楽寺も享保3年(1718年)、江戸湯島天神で観音堂修復のための出開帳をおこなった、と。本尊は十一面観音。その他、行基作といわれ釈迦如来像も。大正9年、秩父を訪れた若山牧水が、「秩父町出はづれ来れば機をりの 歌声つづく古りし 家並に」と詠んだのは、この常楽寺前の坂道でのこと。
本堂に、元三大師と普賢菩薩。元三大師って、慈恵(じえ)大師良源のこと。天台宗。比叡山中興の祖と言われる実在の人物。命日が正月三日のため元三大師、と。中世以来独特の信仰をあつめ「厄除け大師」として有名。佐野厄除け大師は、弘法大師ではなくこの元三大師をまつっている。普賢菩薩は辰巳の守り本尊。本堂に向かって右手に、新しい六地蔵。座像一本つくりの釈迦如来がある。
ご詠歌;「つみとがも消えよと祈る坂氷朝日はささで夕日かがやく」

1泊2日の秩父札所巡りを終える。17の札所を巡った。信仰心には縁遠く、B級路線まっしぐらの我が身も、辿るとともに、なんとなくの、修行者なる心持も。今回は秩父市と横瀬町が中心。秩父札所の所在地をみると、秩父市22カ所、横瀬町6カ所、荒川村、小鹿野町各2カ所、吉田町、皆野町各1カ所に広がる。次回はどこからはじめようか。

日曜日, 12月 17, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅱ ; 第一回秩父札所巡り(2)

観音霊場巡礼のなんたるか、についての「理論武装」に少々手間取った。秩父観音霊場散歩をはじめる。今回の散歩は秩父市街と横瀬町を中心とした札所を巡る。 西武池袋線の特急にのり、西武秩父駅に。熊谷方面から来た会社の同僚と駅前にて待ち合わせ、最寄りの札所からスタート。 初日は主に秩父市街の札所巡り。最初の札所は13番札所・慈眼寺。西武秩父駅から続くアーケードを歩き、秩父鉄道・御花畑方向に向かう。団子坂を下り秩父鉄道の踏み切りを越える。この団子坂は秩父夜祭のクライマックスを演出する坂である、と。笠鉾、屋台が急坂を登る、とか。お花畑駅から2分ほど歩く。秩父では「はけっと」とよばれる「はけの下」、つまりは崖の下に慈眼寺はある。崖の下といっても秩父市内の中心部。(日曜日, 12月 17,2006のブログの修正)



本日のルート;西武秩父駅>13番札所・慈眼寺>15番札所・少林寺>秩父神社>14番札所・今宮坊>今宮神社>16番札所・西光寺>23番札所・音楽寺>22番札所・太子堂>17番札所・定林寺>18番番札所・神門寺




13番札所・慈眼寺
市街地をはしる通りにそった入口には、切妻つくりの薬王門。境内には正面に観音堂。左右に鐘楼、経堂と薬師堂。明治11年の秩父大火で焼失する前は、大きな寺域を誇った、という、本尊は行基作と伝えられる聖観音。秩父札所を開いた、十三権者の像が祀られている。十三権者とは先にメモしたように、閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
このお寺、眼病、厄除けにご利益ある、と。薬師堂にまつられる薬師瑠璃光如来が、目の神様、ゆえか。飴薬師とも呼ばれ、境内には「ぶっかき飴」と呼ばれる飴を売る店がある。眼の手術を直後に控えた我が身としては、「ぶっかき飴」もさることながら、お賽銭も少々はずむことに。境内には幕末から明治にかけ社会救済事業につくした「秩父の聖人」と称えられる井上如常のお墓がある。
ご詠歌;「御手にもつ蓮のははき残りなく 浮世のちりをはけの下でら」

15番札所・少林寺(福寿殿)

慈眼寺を離れ、秩父線に沿って少し北に。15番札所・少林寺(福寿殿)に向かう。秩父鉄道を越えると、白塗り白亜の本堂がみえる。このお寺も明治の秩父大火に見舞われ、防火の意味も込めて再建時、木造の外側をすべて白色の漆食塗りで仕上げたもの。少々洋風建築風ではあるが、入母屋つくり・瓦葺といった和風建築の伝統は踏まえたものになっている。この寺は、もともと母巣山蔵福寺といい秩父神社境内にあった。が、明治維新の神仏分離令で廃寺に。札所15番がなくなることを憂えた信者が、市内柳島にあった五葉山少林禅寺をこの地に移し両寺合わせて札所15番を継承することにした、と。
石段を上がった右手のお堂は鎌倉の建長寺の山にある半僧坊からの分霊。半僧坊大権現は、特に火災予防の御利益があると。鎌倉・建長寺散歩のときの半僧坊への急な石段がなつかしい。また、先日歩いた新座の平林寺でも半増坊大祭がある。また京都の金閣寺にも半増坊がある、とか。結構ありがたい権現さま、のよう。静岡にある方広寺開山の祖・無文禅師が留学先の明から帰国するとき、暴風雨に遭い難破しかけたとき、「無事帰国し、正法を伝えるべし」と船を救う。また、後に禅師が方広寺開山のとき、禅師に教えを乞い、山をまもり鎮守となった。で、その姿が半俗半僧であったために、半僧坊と呼ばれるようになった、と。無文禅師は禅の高僧。後醍醐天皇の皇子でもある、とか。
境内のお地蔵さんは「子育て地蔵」。また、境内には「秩父事件」で殉職した警察官のお墓と、両警部補に対し、内務大臣山縣有内務大臣が贈られた碑文がある。秩父事件とは、明治17年11月、生活に苦しむ農民約1万人が蜂起し、各地で戦斗が展開された騒乱事件。
ご詠歌;「みどり子のははその森の蔵福寺 ちちもろともにちかいもらすな

ちょっと脱線。鎌倉の建長寺で半増坊の話が出てきたとき、何ゆえ鎌倉の大寺院の話の中に、半僧坊が登場するのか、いまひとつしっくりしなかった。何ゆえ、という最大の理由は、浜松という、どちらかというと地方都市にあるお寺の神様を、何ゆえ建長寺に関連付けなければならないのか、よくわからなかった。で、このメモをまとめるに際し、半僧坊由来のもととなった人物が無文禅師であり、後醍醐天皇の皇子であったことがわかった。ということは、宗良親王とは兄弟、ということ。浜松というか、浜名湖の北、無文禅師が開山した方広寺のあるあたりは、宗良親王が南朝方の拠点のひとつとして、南朝勢力を回復するため積極的に活動したところ。宗良親王も天台座主をつとめたほどの人物。半僧坊をまつる、方広寺、って、宗教的にも政治的にも大きな力をもつ地域にある大寺院であったのだろう。半増坊への疑問もひょんなところで解決した。あれこれが繋がってくるのも散歩の楽しみのひとつ。

秩父神社
秩父の国の総社。武蔵国より先に開けた知知夫の里を2000年まもってきた。主祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命、天之御中主神。もともとは武甲山を神奈備(かむなび;神の居ます山)として遥拝する聖地としておこったわけだが、知知夫国の国造に任じられた知知夫氏が祖神である主祭神・八意思兼命や知知夫彦命をあわせまつることになった。鎌倉時代に落雷により社殿焼失。再建時には、秩父平氏、つまりは武士団の信仰篤い星の信仰である妙見の信仰・妙見菩薩が習合し、明治の神仏分離令まで「妙見宮」として栄える。名称も本来の秩父神社というよりも、「秩父大宮妙見宮」が通り名となった。「秩父夜祭り」も妙見のまつりとし受け継がれたものである。

徳川時代には徳川家からの信仰も篤く、現在の社殿は家康により寄進されたもの。本殿左手には左甚五郎の作と伝えられる「つなぎの龍」がある。15番札所少林寺あたりの池に棲む龍があばれたとき、この場所に水たまりができた。が、龍をつなぎとめると、その後龍が現れることがなくなった、とか。東・西・南・北の鬼門を守護神「青龍」「百虎「朱雀」「玄武」にのっとり、表鬼門(東)を守る「青龍」であろう、と思ったのだが、南に「亀(玄武)」、北に「北辰の梟(朱雀)」となっており、西には虎ではなく「お猿」さん、とあり、どうも鬼門云々というわけでもなさそうだ。
で、このお猿さん、東照宮は「見ざる・言わざる・聞かざる」と、庚申信仰にのっとった様式であるのに対し、ここのお猿さんは「お元気三猿」。人間の元気の源を司る妙見信仰の影響もあるのだろうか。また、拝殿四面には虎の彫り物。武田信玄による焼き討ちのあと再建した家康が寅の年、寅の日生まれ、ということで虎のオンパレード。その中の子育ての虎は、左甚五郎の作。で、妙見宮も明治の神仏分離令で秩父神社に戻る。そのとき、妙見菩薩の「神様バージョン」が天之御中主神、ということで、この神様が主祭神として登場し現在に至る、って次第。

14番札所・今宮坊

少林寺を離れ、荒川方面に向かって北西に今宮坊に向かう。このお寺のあたり一帯は往古、近くにある今宮神社とともに「今宮坊」と呼ばれる聖護院直末の神仏習合の修験の地。聖護院とは修験道の中心寺院。白河上皇の熊野詣での先達をつとめた園城寺・増誉の開山。先達の功により、熊野三山検校、つまりは、熊野三山霊場のまとめ役となり役の行者創建といわれる常光寺を与えられた。それが聖護院のはじまり。つまりは、修験道者にとっては、ありがたいお寺さま、ということ。何年か前、家族で秋の京都に訪れた際、聖護院の宿坊に泊まった。最近はあまり名前を聞くことがなくなったが、弁護士中坊さんの経営する宿坊であった。
で、この今宮坊、701年役行者が、この境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつった。ために、今宮神社は八大宮とも呼ばれている。 現在の札所14番観音堂は、もともとは今宮坊の境内にある一堂宇。巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのが通例であった、とか。方形造りの観音堂。本尊は木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音。本堂のすぐ前に、石の後生車。輪廻塔とも呼ばれる。後生の幸せを願い、回すことになる。境内には樹齢1000年を越える古木・龍神木。幹の周囲9mという大ケヤキ。竜神池、今宮弁天堂などがある。
ご詠歌;「昔よりたつとも知らぬ今宮に 詣る心は浄土なるらん」

16番札所・西光寺
今宮坊から北東に少し歩くと西光寺。山門をくぐると正面に本堂がある。堂々とした構え。本尊は千手観音像。堂の東側にはコの字形の回廊。四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでいる。ここを廻れば四国お遍路道を歩いたと同じ功徳、と。もとは天明3年、というから、1783年の浅間山大噴火の犠牲者をとむらうためにつくられたもの。
回廊に囲まれた中庭には二つの小さな堂。金比羅堂と納札堂。金毘羅様は戦いの神でもあり、戦時中は出征兵士、最近は受験戦争に勝つべくおまいりするところ、とか。納札堂は、江戸時代には秩父札所の各寺に必ずあったもの。が、今ではこの寺に残るだけ。柱には無数の釘跡。札所を巡拝することを「札所を打つ」という。現在では納札は紙で各札所の納札箱に入れるわけだが、江戸時代の巡礼は、納札をお堂に打ち付けていた、から。
境内には大きな酒樽に草葺屋根をのせたお堂が。酒樽大黒様に。名刺を貼り付けると、お金が増える、とか。そうそう、四国八十八ヶ所をおさめた回廊にオビンズル様がいた。自分の体の悪いところと、オビンズル様(御賓頭盧)。のおなじ箇所をなでると、あら不思議、痛みを癒してくれる、とか。「撫で仏」といわれる所以。サンスクリット語(梵語)の「ピンドーラ」の音訳。東京都内散歩で何箇所かで出会った。最初に出会ったのはどこだったか忘れたが、足立区の関原不動・大聖寺の赤白青の着物・紐に結ばれたオビンズル様だけはなんとなく覚えている。
ご詠歌;「西光寺ちかいを人にたづぬれば ついのすみかは西とこそきけ」

西光寺の次は音楽寺。名前に惹かれる。また、観光ガイドで見た、峠に並ぶ地蔵尊の美しさにも惹かれた。が、場所が市街から少し離れている。荒川を隔てた長尾根丘陵の中腹にある。本日の計画からして往復徒歩は少々無理。ということで、行きはTAXI、帰りは歩きという段取りとする。荒川にかかる「秩父公園橋」を渡り、曲がりくねった道を上る。長尾根丘陵にある広大なレジャーパーク・「秩父ミューズパーク」への道でもあるので、きれいに整備されている。音楽寺に到着。

23番札所・音楽寺

名前の由来は、開山の聖が、山の松風を菩薩の音楽と感じたから、とか。この札所のご詠歌の中にある「峰の松風」ってそのこと、か。観音堂は三間四面、銅板葺きの方形造り。堂前に鐘楼がある。秩父事件のときは、秩父困民党の農民が、この鐘を打ち鳴らしながら市街地に攻め込んだ、と。鐘楼近くには「秩父困民党無名戦士の墓」がある。
観音堂の裏手の坂を登る。5~6分歩いた峠・小鹿坂峠に十三地蔵尊。なかなかいい風情。「小鹿坂」の名前の由来は、昔、慈覚大師がこの地で道に迷ったとき一頭の小鹿が現れて大師を案内した、から。秩父市街地や奥武蔵・武甲山など秩父連山が一望できる。
しばしば秩父事件が登場する。メモしておこう;開国以来、最大の輸出産品は生糸。生糸の生産地・秩父は生糸景気で大いに賑わっていた。が、その後のデフレ政策により、生糸の価格が大暴落。そのうえ、世界大恐慌の余波もあり秩父の生糸産業は大不況に見舞われた。その生糸生産農家を救うべく地元の有志がたちあがり、金利据え置きなどの救済策を郡役所に請願。その動きに自由民権運動が合流し「秩父紺民党」を組織。地元の侠客も幹部に加わるなどし、政府に請願を続ける。が、政府は無視。ために武装蜂起を決意。11月1日下吉田椋神社に農兵数千名集結。11月2日、小鹿峠を越えこの音楽寺に。
当初は警官隊を打ち破るなどして郡役所を占拠。が政府が鎮台軍や憲兵をもって鎮圧に乗り出し、結果秩父困民党軍は壊滅。蜂起からわずか9日間であった、と。ちなみに、秩父の自由党員は「自由党党首・板垣退助の命により立ち上がる」といったことを宣言しているが、当の退助は「あれは自由民権運動などではない」、と言った、とか。
ご詠歌;「音楽のみ声なりけり小鹿坂の しらべにかよう峰の松風」

小鹿坂峠から山道を麓に下る。今回はじめての山道。雑木林が心地よい。麓に降り、里の風景を楽しみながら童子堂に。

22番札所・太子堂(童子堂)
童子堂の名前の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、観音さまを勧請し祈祷したところ、疫病は治まる。以来子供の病気一切に霊験あらたか、ということで名づけられた。入口に茅葺の仁王門。茅葺の山門は秩父でもこのお堂だけ。童子堂と呼ばれる如く、仁王様、いかにも「子供向き」、というか子供がつくったのか、と一瞬間違うほど、まったくもっての、素朴な風情。「童子仁王」と呼ばれている、とか。境内といった仕切りもないようで、仁王門の先の、一見寺域と思われるところに畑があり、農作業をしておりました。
観音堂は方形瓦葺。昔、讃岐国の住人が旅僧の願う一食の布施を断わる。たちまちその人の息子が犬の姿に。この子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてこのお堂に訪れると、息子は元の姿になったといった話が伝えられている、とか。
ご詠歌;「極楽をここで見つけてわろう堂 後の世までもたのもしきかな」

童子堂を離れ、荒川に沿って秩父公園橋に戻る。この橋はハープ橋と言われる。周りが音楽寺であり、ミューズ(音楽;musicの語源)公園、であるので、てっきり楽器のハープ、からもってきた名前かと思った。が実際は、ハープ形式という橋の種類。斜張橋といわれ、塔から斜めに張ったケーブルで直接橋桁を支える工法。ハープに似ているからこの通称があるのは間違いない。が、世界中にあるわけで、とくに音楽寺やミューズが近くあるから、命名されたわけではないだろう。橋からの秩父市街、秩父の山々の姿は美しい。長尾根丘陵から荒川に向かってゆっくり下り、そして荒川を越えると今度は秩父の山地に向かってゆったりとのぼっている秩父の地形がはっきり見える。地形のうねりフリークとしてはありがたいひと時であった。

17番札所・定林寺(林寺)

ハープ橋を越え、先ほど訪ねた西光寺を過ぎ、再び秩父市街地に入る。市民病院前を北に折れ、しばし進むと定林寺。お寺の名前は、林太郎定元という武家の名前に由来する。東国の武将・壬生良門が寺に雨宿り。接待にあたったお坊さん、実はその昔、この殿様に諫言し暇を出された林定元のこどもであった。で、前非を悔い改めた壬生良門が、林定元の菩提をとむらうためにこのお寺をたてた、と。
どこかで、壬生氏と秩父霊場を開いた性空上人のつながりを書いたコメントを見たことがあるような、ないような。壬生良門って、平将門の係累であるとか、ないとか。そうでもなければ、突然の壬生氏の登場は唐突、か。観音堂は宝形屋根。周りに回廊が囲む。境内には諏訪神社や蚕影神社。蚕影神社は戦前養蚕が盛んだった秩父地方ならではのもの。梵鐘は昭和63年ころ造られたものだが、日本百観音の本尊、そのご詠歌を刻んでい
る。
ご詠歌;「あらましを思い定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける」

定林寺は初期の巡礼札所1番。32番札所・法性寺に残る秩父札所について記された最古の古文書「長享二(一四八八)年秩父札所番付」にその記録が残る。この文書により、室町のこの頃には既に33の札所ができているのがわかる。ただ、札所の番号は20番を除いてみな異なっている。札所1番はこの定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)、現在1番札所四萬部寺は当時24番となっている。先回のメモでものべたが、その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなもの。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたもの。西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたからだろう。
その後札所番号が変わったのは、これも先回メモしたが、時代によって秩父往還の主要道が変化したことによる。室町時代の秩父への往還は名栗>山伏峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷>皆野>鬼石といった南北路の往還か、飯能>正丸峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷といった「吾野通り」。ただ、その当時は秩父観音霊場巡礼って、それほどポピュラーであったわけではなかった、のだろう。すくなくとも敢えて札所を変えなくてはならないほどの外部・内部要因がなかった、ということ。
現在の札番号となったのは江戸時代となってから。豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
現在札番では栃谷の四萬部寺が1番となっている。理由は簡単。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。

18番番札所・神門寺

定林寺をはなれ、本日最後の札所・神門寺に向かう。「ごうとじ」と詠む。秩父鉄道を越え、彩甲斐街道・国道140号線近くにこのお寺はある。もとは今宮坊に属する一修験寺。神門の由来も、かつてこの地に神社があり、境内にはえる榊の枝が楼門のようであったから、と言われる。別の説もある。『秩父回覧記』には「神門」ではなく、「神戸」と記されている。神戸=カンベ、とは神社に諸税を収める神領域およびその民を意味する。神門寺の裏にある丘陵には9世紀から10世紀にかけて秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が最初にまつられたところ、とされる。で、現在の神門寺のあたりって、その妙見様の神域である可能性も高く。であれば、その神戸が神門に転化した、という。この説のほうがなんとなく納得感が高い。


観音堂は寛政(1789~1800)のころ焼失、現在の観音堂は天保時代(1830~1843)に再建された、と。堂は宝形銅葺き、名匠藤田若狭の作。正面の破風は秩父屋台・宮地屋台に似ている、と。藤田若狭はその屋台をつくった名匠の子孫であれば、むべなるかな。観音堂の寺額は幕末・秩父出身の彫刻家・森玄黄斉の作。印籠や仏像彫刻で有名。本尊は室町時代につくられた聖観音像。
このお寺には札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木がある。往古これを刷って信者に配ったと。「新編武蔵風土記稿」に、「別当神門寺。神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」と。現在は曹洞宗のお寺ではあるが、明治五年(1872)の修験道禁止まで今宮坊の修験寺として続いてきた。
ご詠歌;「ただたのめ六則ともに大慈をば 神門にたちてたすけたまえる」

本日の札所巡りはこれで終了。秩父鉄道・大野原駅に向かい、御花畑で下車。西武秩父駅に。お宿のある西武・横瀬駅に向かい本日のメモを終える。 



土曜日, 12月 16, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅰ;第一回秩父札所巡り(1)

秋から冬にかけ、2回にわけ秩父の札所を歩いた。ともに1泊2日。会社の同僚が如何なる信仰心のなせる業か、秩父札所巡りを企画した。昨年秋、紅葉を求めひとりで長瀞を歩いたのだが、札所巡りなど思いもよらず、でもあったので、いいきっかけと話にのった。最初は9月中旬。秩父市街・横瀬町を中心とした17ケ所の観音霊場巡り。二度目は11月末。美しい紅葉の中、三峯山とその奥宮のある妙法ケ岳、そして札所1番と2番、さらに長瀞を巡った。札所巡りということ で、あまりにお寺の数が多く、いまひとつ散歩メモを逡巡してはいたのだが、記憶もすでにおぼろげになりはじめた。思い切って、三峰と19の札所の散歩のメモをはじめることにする。(土曜日, 12月 16, 2006のブログを修正)



観音霊場巡礼のあれこれ
いつものことではあるが、霊場を巡る前には、観音霊場といわれてもなあ、といった程度の認識。そして、これもいつものことではあるけれども、札所を巡るうちにあれこれ問題意識も出てきた。後付けの理論武装ではあるが、散歩を始める前に、観音霊場巡礼についてまとめておく。

観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人

観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れる。曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印の意味合いだが、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型であろう、か。

観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇

今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
この花山法皇、熊野散歩の時に登場して以来、しばしば顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。

観音霊場巡礼の最初の記録は1090年
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

坂東三十三霊場

鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

秩父観音霊場の縁起

で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

はじまりは「秩父ローカル」
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから

この秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?

秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、15世紀はじめ大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、観音霊場巡礼のまとめを終える。散歩に出かえる前に結構手間取った。散歩メモは次回にまわすことにする。


水曜日, 11月 29, 2006

北陸 倶利伽羅峠散歩 そのⅡ;合戦の陣立て

先回のメモでは、倶利伽羅合戦前夜までのメモで終わった。今回は両軍が戦端をひらくあたりからメモをはじめる。(水曜日, 11月 29, 2006のブログを修正)


より大きな地図で 倶梨伽羅峠 を表示

本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


平氏の本陣は猿ケ馬場

先回のメモで、峠の隘路を押さえるべく、源氏方先遣隊・仁科党が源氏の白旗を立て、主力軍が布陣済みとの偽装した、と書いた。平氏の主力は11日朝、倶利伽羅峠に到着。が、山麓に翻る白旗を見て偽装を信じ、進軍を止め、倶利伽羅、国見、猿ケ馬場付近に陣を敷く。前線は「源氏ケ峰」より「党の橋」を経て、北の「埴生大池付近」に渡って布陣。「猿ケ馬場」の本陣跡に軍略図があった。それによると、中央に三位中将・維盛。軍議席、維盛に向かって右側に薩摩守忠度・上総判官忠綱・高橋判官長綱、向かって左側に左馬守行盛・越中権頭範高、河内判官季国が陣取る。

薩摩守忠度

ちょっと脱線。薩摩守忠度って熊野散歩のときメモした。魅力的武将であった。が、倶利伽羅合戦で名がでることはないようだ。合戦の後日談として、平氏西走の途中、忠度は京都に引き返し、藤原俊成に歌を託し、「勅撰集がつくられる時には一首だけでも加えてほしい」とたのんだ逸話が残る。「さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」。この歌が詠み人知らずとして、千載和歌集におさめられたのは周知のこと、か。

源氏の前線は矢立山
平氏の陣立ては上でメモした。一方、源氏の前線は「矢立山」。源平軍、数百メートルを隔てて相対陣。小競り合いはあるものの、戦端は開かない。源氏側は夜戦・夜襲の準備を整えていたわけだ。
陣立ては以下のとおり;「源氏ケ峰」方面には根井戸小弥太、巴御前の軍が対峙。「猿ケ馬場」方面には今井兼平軍。「塔の端・猿ケ馬場」の側面には義仲軍、「埴生大池」方面への迂回隊は余田次郎が。そして、樋口兼光率いる部隊は現在の北陸本線の北を大きく迂回し、竹橋に至り平家軍の背後に回りこんだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

源氏方の夜襲により戦端が開かれる
長旅の行軍と数度の小競り合いに疲れた平氏が夜半になり少々の気の緩み。甲冑を脱ぎ、鎧袖を枕にまどろむ。午後10時を過ぎる頃、竹橋に迂回した樋口隊が太鼓、法螺貝を鳴らし「ときの声」とともに平氏の背面より夜襲。機をいつにして正面の今井軍、迂回隊の余田軍、左翼の巴・根井戸軍の一斉攻撃開始。三方、しかも背後からの攻撃を受けた平氏軍は大混乱。

義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた
このとき、義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた、という。が、真偽の程定かならず。中国の故事に同様の戦術があるので、それを「盗作」したのでは、とも。「火牛」がいなくても、三方から奇襲され、逃れる一方向は「深い谷」。折り重なって谷筋へと逃れたのであろう。で、あまりに平氏の犠牲が大きく、この谷を後世「地獄谷」と呼ぶようになった。こうして砺波山一帯は源氏が確保。平氏は「藤又越え」、というから倶利伽羅峠の南西方向の尾根を越え加賀に敗走した。以上が倶利伽羅合戦の概要である。

巴御前
ちょっと脱線。巴御前ってよく話しに聞く。木曽義仲の妻。女武者振りが有名である。巴は義仲を助けた中原兼遠の娘、とか。樋口兼光・今井兼平の妹でもある。倶利伽羅合戦では左翼に一部隊を率いて勝利に貢献。その後、義仲が源範家・義経の率いる追討軍に敗れた後は、頼朝に捕らえられ和田義盛と再婚。
頼朝亡き後、和田義盛は北条打倒の陰謀に加担したとの嫌疑。北条義時の仕掛けた謀略とも言われるが、挙兵するも敗れる。巴は出家し越中に赴いた、と伝えられている。
今回の散歩では行かなかったのだが、旧北陸道から少し南に入ったところに「巴塚」がある。ここでなくなったわけではないが、陣立てからしてこの方面から倶利伽羅峠に攻め入ったのであろう。碑文:「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」、と。

猿ケ馬場を歩く

源平散歩に戻る。平家本陣となった「猿ケ馬場」には多くの記念物が残る。大きな石板は平氏軍議に使われたもの。石板を囲む席次は先ほどメモしたとおり。源平盛衰記に記された有名な「火牛の計」をイメージした牛の像も。この「火牛の計」、ネタ元は中国の史記に描かれた「田単の奇策」とも。もっとも田単のケースは、角に刃、尻尾に火のついた葦をくっつけて牛を追い立てた、とか。
源平供養の塔。近くに源氏太鼓保存会寄贈の「蟹谷次郎由緒之地」の碑。合戦に勝利した源氏軍は酒宴を張り、乱舞しながら太鼓を打ちならした。この「勝鬨太鼓」が源氏太鼓として伝承された、と。蟹谷次郎は源氏軍左翼根井小弥太軍の道案内をつとめた越中の在地武士。
「為盛塚」。平氏の勇将・平為盛を供養するため鎌倉時代にまつられたもの。倶利伽羅合戦に破れ敗走する平氏軍にあり、源氏に一矢を報いんと五十騎の手勢を引き連れて逆襲。樋口兼光に捕らえられあえなく討ち取られたという。
芭蕉の碑。「義仲の寝覚めの山か月かなし」。俳聖松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良と共にこの地を通ったのは、元禄二年七月十五日のこと。が、この歌自体は芭蕉が敦賀に入った時に詠んだもの、とか。
「聞くならく 昔 源氏と平氏」からはじまる、砺波山を歌った木下順庵の詩も。順庵は江戸時代の館学者。藤原惺窩の門下。加賀藩の侍講をつとめ、のちに将軍綱吉に召され幕府の儒官に。人材育成につとめ、新井白石・室鳩巣といった人材を輩出した。

倶利伽羅公園
先に進むと倶利伽羅公園。この倶利伽羅峠の頂上付近には、7000本近くのの桜がある。高岡市の高木さんご夫妻が長い年月をかけて植樹したもの。「昭和の花咲爺さん」とも呼ばれる。

倶利伽羅不動

倶利伽羅不動。日本三不動の一尊と言われる倶利迦羅不動尊の本尊は、718年(養老2年)、というから今から1300年前、元正天皇の勅願によりインドの高僧・善無畏三蔵法師がこの地で国家安穏を祈願した折、不動ヶ池より黒龍が昇天する姿をそのままに刻んだ仏様をつくったのがはじまり。
前回の散歩でメモしたように、倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。

手向神社
お不動さんの隣に手向神社。ここはもと長楽寺跡。倶利伽羅不動明王や弘法大師がこの寺にとどまり七堂伽藍を建て布教をおこなった。が、倶利伽羅合戦の折、兵火にあい焼失。その後頼朝の寄進により再興。慶長年間(1596年から1615年)には加賀藩の祈祷所となり、堂宇の復興が続けられる。天保7年(1836年)山門・不動堂が再び焼失。再建されないまま明治維新を迎え、神仏分離により長楽寺を廃し手向神社となった。
『万葉集』に大伴池主が 大伴家持から贈られた別離の歌に答えて贈った長歌の中に、「刀奈美夜麻 多牟氣能可味个 奴佐麻都里」(となみやま たむけのかみに ぬさまつり)と手向の神が詠まれている。そのあたりも名前の由来、かも。倶利伽羅不動、手向神社を離れる。あとは、麓のJR倶利伽羅駅に向かってのんびりと下り、倶利伽羅峠散歩を終える。

倶利伽羅合戦後の源平両軍の動向
倶利伽羅合戦後の源平両軍のメモ;能登方面、源氏・源行家隊と対峙した平氏・志雄 山支隊は形勢有利であった。が、主力が倶利伽羅峠で大敗の報に接し、退却。大野・金石付近、というから現在の金沢市の北端・日本海に面する金沢港付近で敗退してきた平氏・本隊に合流し源氏軍に対峙する。
源氏軍は源行家の志雄山支隊と石川郡北広岡村、というから現在の石川軍野々市町か白山市あたりで合流し平氏軍に対する。小競り合いの末、平氏軍は破れ、安宅の関あたりまで退却。そして、加賀市篠原の地における「篠原の合戦」を迎えることになる。平家方は畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟を正面に布陣。対するは今井兼平。辛くも今井方の勝利。次いで、平氏の将・高橋判官長綱と樋口兼光軍との戦い。戦意の乏しい高橋軍、戦うことなく撤退。平氏の将・武蔵三郎左衛門有国と仁科軍が応戦。有国おおいに武勇を発揮するも敗れる。

斉藤別当実盛

平家軍の敗色濃厚な6月1日、平家方よりただ一騎進む武者。源氏・手塚太郎光盛との一騎打ち。平家方の武者、あえなく討ち死に。この武者が斉藤別当実盛。義仲が幼少の頃、悪源太・源義平から命を救ってくれた大恩人。義仲は恩人のなきがらに、大いに泪す、と。
ちなみに、老武者と侮られることを嫌い、白髪を黒く染め合戦に臨んだ実盛の話はあまりに有名。倶利伽羅峠散歩の前日、車で訪れた「首洗池(加賀市手塚町)」は、実盛の首を洗い、黒髪が白髪に変わった池。ここには芭蕉の句碑。「むざんなや兜の下のきりぎりす」。
きりぎりす、とは直接関係ないのだが、実盛にまつわる伝承;実盛は稲の切り株に足を取られて不覚をとった。以来実盛の霊はイナゴなどの害虫となって農民を悩ました。で、西日本の虫送りの行事では実盛の霊も供養されてきた、と。もっとも、田植の後におこなわれる神事である「サナボリ」が訛った、といった説もあり真偽の程定かならず。

実盛塚(加賀市篠原)

前日には「実盛塚(加賀市篠原)」にも足を運んだ。実盛のなきがらをとむらったところ、と伝えられる。見事な老松が塚を覆う。「鏡の池(加賀市深田町)」は髪を染めるときに使った鏡を沈めた、と伝えられる。実盛が付けていた実際の兜は小松市の多太神社の宝物館に保管をされている、と。前日レンタカーで訪れたが、夕暮れ時間切れではあった。
斉藤実盛のメモ;武蔵国幡羅郡長井庄が本拠地。長井別当とも呼ばれる。義仲のメモできしたように、当時の武蔵は相模を本拠地とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の間にあり、政情不安。実盛は最初は義朝に、のちに義賢に組する。義朝の子・悪源太義平が義賢を急襲し討ち取る。実盛は義朝・義平の幕下に。が、義賢への忠義の念より、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能より預かり、信濃に逃す。この駒王丸が木曽義仲である。
その後、保元の乱、平治の乱では義朝とともに上洛。義朝が破れたあとは、武蔵に戻り、平家に仕えることになる。義朝の子・頼朝の挙兵。しかし実盛は平氏方にとどまり、富士川の合戦、北陸への北征に従軍。倶利伽羅合戦を経て、篠原の合戦で討ち死にする。
畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ

ついでに畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ:

秩父平氏の流である秩父一族。重能の代に男衾郡畠山(現在の埼玉県大里郡川本町)の地に移り、畠山と号する。 鎌倉武将の華・畠山重忠の父でもある。源義朝の長男・義平に駒王丸こと義仲の命を発つよう命ぜられるが、不憫に思い斉藤別当実盛に託し、その命を救ったたことは既に述べたとおり。
両兄弟のもつ軍事力は強力であった、とか。保元の乱(1156年)において、源義朝と平清盛の連合軍に敗れた源為義が、為義の長男である源義朝の情けにすがって降服を、と考えたとき、為義の八男・為朝が「坂東下り、畠山重能・小山田別当有重兄弟を味方に再起を図るべし」と 諌めたほど。
平治の乱(1159年)に源義朝が平氏に破れ、源氏の命脈が衰えたのちは平氏に仕え、篠原の合戦に至る。平氏敗走。都落ちの際、既に 頼朝の重臣となっていた畠山重忠の係累ということで、首を切られるところを平知盛の進言を受けた平宗盛に許され東国下行を許される。兄弟は平氏とともに西 国行きを望むが許されず、泪ながらに東国に下った、と。
この小山田氏って、多摩・横山散歩のときに歩いた小山田の里でメモしたように、源氏の御家人として活躍。が、重能のその後はよくわかっていない。

散歩の備忘録
倶利伽羅散歩の旅の前後に源平ゆかりの地も訪れた。実盛塚などいくつかの地は既にメモした。そのほか訪れたところでは、義経・弁慶の話で有名な安宅の関、安宅の関での詮議の厳しさ、その後の足手まといになることを憂い、断崖から身を投げた尼御前にまつわる尼御前岬など、メモしたいところも無いわけではない。 が義経の足跡までメモしはじめたらいつ終わるやら、との少々の恐れもあり、倶利伽羅合戦にまつわる尼御前岬の近くの「平陣野」のメモで終わりにしようと思う。

平陣野

「平陣野」は義仲軍を叩くべく北征する平維盛の大軍が陣をはったところ。加賀市黒崎町、黒崎海岸にある。海岸近くには、旧北陸道・木曽街道が通る。道幅は狭く、黒松・草木が茂る道であった。
「平陣野」近辺は松林はなく、展望が広がり、日本海が見渡せる。往古、見通しのよい砂原であった、とか。この景色を眺めながら平家軍は北に進んだのだろう。 「源平盛衰記」に、安宅の関から延々黒崎海岸に続く平氏の進軍の姿が描かれ れいる;「五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり」、と。倶利伽羅散歩というか、そこから拡がった倶利伽羅合戦の時空散歩はこれで終わりといたしましょう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

火曜日, 11月 28, 2006

北陸 倶利伽羅峠散歩 そのⅠ; 源平の合戦地を歩く

晩秋の連休を利用し、倶利伽羅峠を歩くことになった。源氏だか平氏だか、どちらが主人公かは知らないが、源平争乱の時代を舞台にした恋愛シミュレーションゲームがあるそうな。そのゲームに嵌った同僚諸氏が、行きませんか、とのお誘い。源平争乱絵巻は別にして、歩くことができるなら、と二つ返事で承諾。倶利伽羅峠って、木曽義仲が平家を打ち破った合戦の地。それなりに興味はあるのだが、どこにあるのかもよくわからないまま、加賀路に飛んだ。

2泊3日 の行程では、倶利伽羅峠を歩くほか、安宅の関、斉藤実盛ゆかりの地などあれこれ源平合戦の跡、また、名刹・那谷寺などを巡る。が、そこはレンタカーでの旅でもあり、散歩というほどのこともない。メモしたい思いもあるのだが、散歩のメモという以上、少々歩かないことには洒落にならない。ということで、今回は10キロ程度の行程ではあった倶利伽羅峠越えをメモすることにする。(火曜日, 11月 28, 2006のブログを修正)


本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


倶利伽羅峠

倶利伽羅峠とは、正式には砺波山のこと。倶利伽羅はサンスクリット語。「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」を意味する、とか。峠に倶利伽羅不動寺があり、日本三大不動でもある、ということで、砺波山ではなく「倶利伽羅」が通り名となったのだろう。
こ の倶利伽羅峠、富山県小矢部市埴生より石川県津幡町倶利伽羅・竹橋に至るおよそ10キロの行程。旧北陸街道が通る。標高は70mから270m程度。メモの前にカシミール3Dで地形図をつくりチェックしてみた。越中・砺波平野と加賀を隔てる山地の、最も「薄い」、というか「細い」部分となっている。どうせの山越え・峠越えであれば、距離が短く、標高差の少ないとことを選んだ結果の往還であったのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

和銅6年(713年)、この地に関が設けられる。砺波の関と言う。越の三関のひとつである。古伝に曰く;「京都を発し佐渡にいたる古代の越(高志)の道は、敦賀の愛発(あらち;荒乳山)を越える。ここから越前。次いでこの砺波山を越える。ここから先が越中。最後に名立山を越える。この地が越後。で、この峠の関を越の三関」、と。
この砺波山・倶利伽羅峠が有名になったのは、寿永2年(1183年)、木曽義仲こと源義仲が平家・平維盛(たいらのこれもり)を破ってから。天正13年(1586年)、豊臣秀吉が前田利長とともに佐々成政を破ったのも、この峠である。

JR石動駅(いするぎ)
さてさて、散歩に出発。今回のルートは富山側から石川県へと歩く。JR石動駅(いするぎ)からはじめ峠を越え、JR倶利伽羅峠駅に下りる、といったルーティング。金沢を出発し石動駅に。このあたりは昔「今石動宿」と呼ばれた北陸街道の宿場町。大名の泊まる本陣から庶民が宿をとる旅籠、木賃宿が集まり、大いに繁盛した、と。駅を降り、倶利伽羅峠への上り口のランドマーク、護国八幡宮に向かう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


護国八幡宮
もとは埴生八幡宮。奈良時代・養老年間に九州の宇佐八幡を勧請してつくられた、と伝えられる。万葉歌人としても有名な大伴家持、実は越中の国守でもあったわけだが、この神社で国家安寧・五穀豊穣を祈願したとも伝えられる。上に述べた「砺波の関」を舞台に東大寺の僧・平栄を接待して家持が詠んだ、『焼太刀を礪波の関に明日よりは守部やりそへ君をとどめむ』という歌が万葉集に載っている。「(奈良への)お帰りは早すぎます。もっとゆっくりしてください」といった意味、のよう。ちなみに、万葉集には家持の歌が473首載っているが,そのうち223首は越中で過ごした5年間に詠んだもの、とか。

大伴家持
ちょっと脱線。大伴家持って、万葉集の選者として知られる。が、万葉集のほとんどは、家持が親ともたのむ橘諸兄がまとめ終えてあり、家持が諸兄から依頼されたのは、「怨みの歌」であった、といった説もある。王家のために怨みをのんでなくなった人々、政治的犠牲者の荒魂を慰める、ために集められた、とか。悲劇の人々の歌を連ね、最後に刑死した柿本人磨呂の歌で終わらせる、といった構成。政敵・藤原氏の「悪行」を「表に出す」といった思惑もあった、とも言われるが、仏の力で鎮護国家を目指す大仏建立と相まって、言霊によって荒魂の怨霊を鎮め、王道の実現を目指すべく「恨みの歌」が集められた、とか。

木曽義仲は埴生八幡様に陣を張る
埴生八幡様に戻る。この埴生八幡が護国八幡宮となったのは、江戸慶長年間。領主・前田利長が凶作に苦しむ領民のために豊作を祈願。その効著しく、ために「護国」という名称をつけた、とか。埴生八幡が有名になったのは、源平・倶利伽羅峠の合戦において、倶利伽羅峠に布陣する平家の大軍を迎え撃つ源氏の大将・木曽義仲がこの地に陣を張り、戦勝を祈願。華々しい戦果を挙げた、ため。武田信玄、佐々成政、前田利長といった諸将が篤い信仰を寄せることになったのも、その霊験ゆえのことであろう。

佐々成政
そうそう、そういえば佐々成政も、この倶利伽羅峠で豊臣秀吉、前田利長と戦い、そして敗れている。佐々成政のメモ;織田信長に14歳で使えて以来、織田信長の親衛隊である黒母衣組(ほろ)の筆頭として活躍。上杉への押さえとして越中の国主として富山に城を構える。で、本能寺の変。信長の忠臣としては、その後の秀吉の所業を良し、とせず、信長の遺児・信雄(のぶかつ)を立て、家康を味方に秀吉と対抗。が、信雄が秀吉と和睦・講和。ために、家康も秀吉と講和。それでも成政はあきらめることなく、家康に立ち上がるよう接触・説得を図る。が、周囲は完全に包囲され、残された唯一の手段は真冬の立山越え。これが有名な「さらさら越え」。
この「さらさら越え」を描いた小説を読んだ覚えがある。確か新田次郎さんの作?ともあれ、雪の立山を越え、家康のもとにたどり着く。が、家康は動くことはなかった。天正13年(1585年)、秀吉の越中攻め。このとき、倶利伽羅峠での戦いに破れ、成政は降伏。秀吉の九州征伐に従い肥後一国を与えられるが、国人一揆の責めを負わされ切腹させられることになる。もっとも、雪の立 山越えに異論を唱える人も多い。またまた寄り道に。散歩に戻る。

倶利伽羅峠源平の郷 埴生口

護国八幡の前に「倶利伽羅峠源平の郷 埴生口」。歴史国道整備事業の一環として設立された施設。歴史上重要な街道である倶利伽羅峠の歴史・文化をまとめてある。峠の全体を俯瞰し、またいくつか資料を買い求め峠道に向かう。

旧北陸街道・ たるみ茶屋跡

道筋に医王院といったお寺。その裏手には若宮古墳。6世紀頃につくられた前方後円墳。埴輪が出土されている。
医王院を先に進み旧北陸街道に入る。整備された道を進むと「たるみ茶屋跡」。碑文には藤沢にある時宗・遊行寺総本山清浄光寺の上人とこの地の関わりが説明されていた。石動のあたりにあった、とされる蓮沼城主・遊佐氏と因縁が深かった、ため、と。「旅の空 光のどけく越路なる砺波の関に春をむかえて」といった上人さまの歌も。
ちなみに、この時宗ってこの当時、北陸の地にもっとも広まっていた宗教であった。そういえば、この倶利伽羅峠の前日に訪れた斉藤別当実盛をまつる実盛塚も、時宗・遊行上人がその亡霊を弔った、と。当時、この地の有力な宗教勢力が時宗であったとすれば、大いに納得。ちなみに浄土真宗というか、真宗というか、一向宗、というか、どの名前がいいのかよくわからないが、この宗派が北陸にその勢を拡大したのは、もう少し後のこと。もっとも時宗も浄土教の一派ではあるのだが。時宗の開祖・一遍上人は愛媛の出身。ちょっと身近に感じる。

峠の茶屋
先に進む。「峠の茶屋」の碑。碑文のメモ;「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九がこの地を訪れ、「石動の宿を離れ倶利伽羅峠にかかる。このところ峠の茶屋いずれも広くきれいで、東海道の茶屋のようだ。いい茶屋である。たくさんの往来の客で賑わっている」、と。倶利伽羅峠にはこういった茶屋が10軒もあった、とか。
道の途中、どのあたりか忘れたが藤原顕李(あきすえ)句碑があった:堀川院御時百首の一首 「いもがいえに くものふるまひしるからん 砺波の関を けうこえくれば」。藤原顕李、って何者?

源氏方の最前線・矢立山

峠の茶屋の少し先、旧北陸道と車道が合流するあたりが矢立山。標高205m。そこに「矢立堂」。ここは倶利伽羅合戦時の源氏方の最前線。300m先の「塔の橋」あたりに進出していた平氏の矢が雨あられと降り注ぎ、林のように矢が立った、ということから名づけられた。

源氏ケ峰

「塔の橋」で北の「埴生大池」方面からの道と車道が交差し十字路となる。車道を南に下ると「源氏ケ峰」方面、西に直進すると「砂坂」。この砂坂、かつては「七曲の砂坂」と呼ばれた倶利伽羅峠の難所であった。難所・砂坂に進む、といった少々の誘惑もあったが、結局は「源氏ケ峰」方向に。理由は、その道筋が「地獄谷」に沿っているようであった、から。

地獄谷は「火牛の計」の地

地獄谷って、あの有名な「火牛の計」というか、松明を角につけた牛の大群によって平家方が追い落とされた谷、のこと。はたしてどんな谷なのか、じっくり見てみよう、といった次第。「源氏ケ峰」には展望台がある。が、木々が茂り見晴らしはよくない。「源氏ケ峰」と言うので、源氏が陣を張ったところか、と思っていたのだが、合戦時は平家方が陣を張ったところ。義仲が平氏を打ち破った後に占領したためこの名がついた、と。勝てば官軍の見本のような命名。
近くに芭蕉の句碑。「あかあかと 日は難面も あきの風」。もっともこの句は越後から越中・金沢にいたる旅の途中でえた旅情を、金沢で詠ったもののよう。

猿ケ馬場に平家の本陣が

地獄谷を眺めながら進む。砂坂からの道と合流するあたりが「猿ケ馬場」。平家の大将・平維盛の本陣があったところ、である。
平家の本陣まで歩いたところで、倶利伽羅合戦に至るまでの経緯をまとめる。それよりなにより、木曽義仲って、一体どういう人物?よく知らない。で、ちょっとチェック。

木曽義仲
祖父は源為義。源義朝は伯父。両者敵対。祖父の命で武蔵に下ったのが父・源義賢。義仲は次男坊として武蔵国の大蔵館、現在の埼玉県比企郡嵐山町で生まれる。義朝との対立の過程で父・義賢は甥・源義平に討たれる。
幼い義仲は畠山重能、斉藤実盛らの助けを得て、信濃の国・木曽谷の豪族・中原兼造の元に逃れ、その地で育つ。木曽次郎義仲と呼ばれたのは、このためである。
で、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵。義仲は9月に挙兵。2年後の寿永元年(1182年)、信濃・千曲河畔の「横田川原の合戦」で平家の城資永(資茂との説も)氏の軍を破り、その余勢をかり、越後の国府(現在の上越市の海岸近く)に入城。諸国に兵を募る。

倶利伽羅峠での合戦
までの経緯
一方、当時の平家は重盛が早世、維盛が富士川の合戦で頼朝に破れ、清盛が病没、といった惨憺たる有様。平家の総大将・平維盛の戦略は、北陸で勢を張り京を覗う義仲を叩き、その後、鎌倉の頼朝を潰す、といったもの。で、寿永2年(1182年)全国に号令し北陸に大軍を進める。

平氏北征の報に接し義仲は平氏と雌雄を決し京に上ることに決す。先遣隊は今井兼平。寒原、黒部川を経て富山市から西に2キロの呉羽山に布陣。寒原って、親知らず・子知らずで知られる難所のあたり。「寒原の険」と呼ばれたほど。

一方の平氏。先遣隊長・平盛俊は5月、倶利伽羅峠を越えて越中に入る。小矢部川を横断し庄川右岸の般若野(富山県礪波市)に進。が、今井隊による夜襲・猛攻を受け、平氏は敗走。これが世に言う、「般若野の合戦」。結局、平家は倶利伽羅峠を越えて加賀に退却する。



本隊・義仲は越後国府を出立。海岸線を進み、5月9日六動寺国府(伏木古国府)に宿営。一方平氏の主力軍はその頃、加賀・安宅付近に到着。進軍し、安宅、美川、津幡、倶利伽羅峠に達する。また、平通盛の率いる別動隊は能登方面に進軍。高松、今浜、志雄、氷見、伏木付近に。


義仲は志雄方面に源行家を派遣。自らは主力を率い般若野に進軍。今井隊と合流。5月10日の夜、倶利伽羅に向かった平氏の主力は既に倶利伽羅峠の西の上り口・竹橋付近に到着の報を受ける。倶利伽羅峠を通せば自軍に倍する平家軍を砺波平野・平地で迎え撃つことになる。機先を制して倶利伽羅峠の隘路を押さえるべし、との軍令を出し、先遣隊・仁科党を急派。隘路口占領を図る。
仁科党は11日未明、石動の南・蓮沼の日埜宮林に到着。白旗をたなびかせ軍勢豊なりしさまを演出。同時に、源氏軍各部隊は埴生、道林寺、蓮沼、松永方面、つまりは倶利伽羅峠の東の上り口あたりまで進出。義仲の本陣は埴生に置いた。倶利伽羅峠を挟んで源平両軍が対峙する。思いのほかメモが長くなった。このあたりで一休み。次回にまわすことにする。

日曜日, 11月 19, 2006

北武蔵 野火止用水散歩 ; 玉川上水分岐点から平林寺へと

何も考えず、ひたすらに歩きたい、と思うときがある。そういった時は、川筋を歩くことにしている。川の流路にそって、川の流れのガイドに従って歩くことができるからである。
今回もそういう気分。それではと、前々から機会を伺っていた「野火止用水」を歩くことにした。いつだったか玉川上水を歩いたとき、西武拝島線・玉川上水駅あたりから野火止用水が分岐していた、との、かすかな記憶。地図で確認すると、玉川上水駅あたりから新座市の古刹・平林寺あたりまで川筋・緑道が続いている。野火止用水だろう。玉川上水駅から平林寺まで、およそ20キロ。ひたすらに歩こう、と思う。

野火止用水のメモ;武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に入府以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく開拓農民は困窮の極みとなっていた。
承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37・8年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。(日曜日, 11月19, 2006のブログを修正)


本日のルート;J
R立川駅>多摩モノレール・玉川上水駅>水道局監視所>(東大和市)>西武拝島線にそって・松ノ木通り>村山街道・青梅橋>(開渠)>栄町1丁目・多摩変電所>野火止緑地・野火止橋>東野火止橋>ほのぼん橋>土橋>元仲宿通り>(緑道)>野火止通り>(開渠)中宿商店街>西武国分寺線交差>九道の辻公園>八坂>西武多摩湖線>多摩湖自転車道>西武新宿線交差>新青梅街道交差>稲荷公園・稲荷神社>万年橋>所沢街道・青葉町交差点>新小金井街道合流>小金井街道・松山3丁目>水道道路>西武池袋線>新堀>御成橋通り合流>西堀公園>新座市総合運動公園>関越道>平林寺


玉川上水駅

さて、歩き始める。自宅を出て、JR立川駅に。多摩モノレールに乗り換え、玉川上水駅に向う。モノレールはほぼ「芋窪街道」に沿って北上する。今風に考えれば少々「格好よくない」この街道の名前の由来は、芋窪村(現在の東大和市の一部)に通じる道であったから。その「芋窪」も、もともとは「井の窪」と呼ばれていた、とか。
玉川上水駅に到着。ここはまだ立川市。とはいっても立川市、東大和市、武蔵村山市とのほとんど境目。立川市の地名の由来は、東西に「横」に広がる多摩丘陵地帯・多摩の横山から見て、多摩川が「縦」方向に流れる、立川・日野近辺が「立の河」と呼ばれていたから。この「立の河」が「立川」となった、とか。また、地方豪族・立河氏が居城を構えていたから、とか例によって説はいろいろ。

水道局・小平監視所

駅の南に玉川上水かかる清願院橋。少し東に進むと、水道局・小平監視所。現在は、ここが玉川上水の終端施設、といってよい。ここで塵芥を取り除き、沈殿槽を通った水はここから東村山浄水場に送られる。つまりは、ここから下流には多摩川からの水は流れていない。玉川上水、また野火止用水は昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理下水が流れている。「清流復活事業」といった環境整備のために作られた流れとなるわけだ。
事情はこういうこと;昭和48年、玉川上水とつながっていた新宿・淀橋上水場の閉鎖にともない、玉川上水の水を下流に流す必要がなくなった。が、後に上水跡・用水跡の清流復活運動がおこったため、その水源を求めることになる。玉川上水の水を流せばいいではないか、とはいうものの、その水は村山浄水場に送られ都民の上水となっているわけで、それを使うことは既にできない。で、代わりに昭島の水再生センターからの水を使うことになった、ということ。
ところで、何故、「小平」監視所?地図をチェックすると、ここは小平市。西武拝島線と玉川上水に囲まれる舌状地域が小平市の西端となっている。小平の地名の由来は、昔のこのあたりの地名であった「小川村」の「小」と、平な地形の「平」を合わせて「小平」と。

西武拝島線・東大和市駅

監視所を過ぎると、西武拝島線に沿って緑道が続く。松ノ木通りと呼ばれている、ようだ。このあたりは「野火止用水歴史環境保全地域」となっており、保存樹林が続く。緑道は西武拝島線・東大和市駅まで続く。
東大和市駅は村山街道と青梅街道が合流する青梅橋交差点近くにある。駅名の割には市の南端。昔は青梅橋駅と呼ばれていた、と。青梅橋の案内によれば、「300年の歴史を持つ青梅橋も、昭和35年村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水跡を利用した暗渠となったため取り壊された。この橋から丸山台(というから南街3丁目)あたりまで、4キロにわたって道の中央に一列に植えられた千本桜があったが、今はない」と。
東大和の地名の由来は、少々面白い。村制が施行されるとき、それまであれこれ争っていた六つの村が、大同団結、「大いに和するべし」というとこで、「大和村」となる。また、市制施行時に、神奈川県の大和市と区別するため、「東」大和、とした、とか。同じような例として、愛媛の松山市と区別した埼玉の東松山市、九州の久留米市と区別した東久留米市、などがある、とか。郵便番号が無かった時代を思えば、少々納得。

駅前を過ぎ、西武拝島線の高架下をとおり先に進む。ここから府中街道・八坂交差点までは東大和市と小平市の境を用水が続く。住宅街を走る緑道を少し進むと、親水公園に。川筋には「ホタルを育てています」といった箇所も作られていた。
先に進み、栄1丁目の多摩変電所を越えるあたりで親水公園が終わり、自然の川筋が現れる。雑木林の入口あたりに「野火止用水 清流の復活」と刻まれた石標が。都市化が進み生活用水で汚れた川を、東京都と埼玉県で復元・清流復活事業を行い昭和59年に完成した。玉川上水の清流復活に先立つこと2年、ということだ。
清流の元の水は上でメモしたように昭島市の多摩川上流水再生センター(昭島市宮沢町3丁目)で高度処理された下水処理水である。ちなみにこの再生センターで処理された、この地域一帯の下水は多摩川に放水される。また、多摩川に流される処理水をさらに砂濾過処理、オゾン処理をおこない、野火止用水とともに玉川上水、千川上水の清流復活事業に供している。昭島市の地名の由来は、「昭」和村+拝「島」村=昭島、と。

野火止緑地

しばらく雑木林が続く。いい雰囲気。野火止緑地と呼ばれている。けやき通りと交差。野火止橋。先に進むと東野火止橋。雑木林はここで一旦途切れる。住宅街に隣接した川筋を少し進む。用水の両側は木に覆われている。「ほのぼの橋」に。用水の北側はこのあたりで東大和市が終わり、東村山市になる。東村山 市と小平市の境の用水をしばらく歩く。「こなら橋」あたりから再び雑木林が現れる。土橋を越えたあたりから雑木林が終わり、両側に団地が現れる。川筋の廻りも広い舗装道路となる。少し進むと左手に明治学院東村山中・高校。グラウンドのあたりで一度暗渠となるが、学院正面の橋あたりで、再び水路が現れる。このあたりの川筋に沿った住宅には、その家専用の橋が架かっている。いつか、六郷用水の上流部分・丸子川を歩いたときも、おなじようなMy Bridgeをもつ瀟洒な住宅街を見た。いい雰囲気でありました。
東村山の地名の由来は、武蔵野台地の西端は昔、村山郷と呼ばれていた、狭山丘陵の群れあう山々=群山>村山になった、とか。村山郷の東のほうに位置するので、東村山、と。西に武蔵村山市があるから、その東って、ことかもしれない。ついでに武蔵村山は山形県の村山市と区別するために「武蔵」をつけた、とか。

九道の辻公園
西武国分寺線を越えると、九道の辻公園(小平市小川東町2-3-4)。往古、このあたりには鎌倉街道(上道)、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道、 宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道が交差しており、九道の辻と呼ばれていた。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の倒幕の命に呼応し、上州・新田庄で挙兵。武蔵野の原野を下ってきた新田義貞は、この辻にさしかかったとき、さて鎌倉に進むには、どちらに進めばいいものやら、と大いに戸惑った、とか。で、今後道に迷うことのないように、鎌倉街道沿いに桜を植えた。その名を「迷いの桜」と呼ばれたが、今はない。

多摩湖自転車道

公園が終わるあたりで府中街道と交差。八坂交差点。地名の由来は、交差点の北、府中街道に面したところに八坂神社があるから、だろう。府中街道を渡り西武多摩湖線の高架下を越えると多摩湖自転車道にあたる。この自転車道の地下には多摩湖~東村山浄水場~境浄水場~和田給水所を結ぶ水道管が通っている。小平市の境は、この西部多摩湖線に沿って南東に下る。つまりは、ここからしばらくは東村山市内を歩くことになる。

西武新宿線・久米川駅

多摩湖自転車道を越えたあたりから用水は一時暗渠となり、自転車歩行者専用の道筋となる。西武新宿線・久米川駅近くを越えると新青梅街道と交差。再び用水が姿を現わす。少し進むと稲荷公園・稲荷神社。江戸時代の大岱村の鎮守として京都伏見稲荷を分祀したもの。その先に恩田の「野火止の水車苑」。天保2年(1782年)から昭和26年まで、小麦等の穀物を製粉し、商品価値を高め江戸・東京に送られていた、と。
さらに少し進むと万年橋。万年橋のケヤキがある。ケヤキが用水を橋のように跨いでいる。用水を開削するとき、元からあったケヤキの大木の根元を掘り進んだからから、とか、用水ができたときに植えたケヤキが、橋づたいに根を延ばしたとか、説はいろいろ。

新所沢街道
万年橋を越え、しばらく進むと、車道と隣接して用水は進む。野火止通りと呼ばれている、ようだ。すぐに新所沢街道がT字に合流。ここからは南は東久留米市。東村山市と東久留米市の境を進む。しばらく進むと雑木林。野火止用水歴史環境保全地区となっている。雑木林が切れるあたり、青葉町1丁目交差点で所沢街道と交差する。
東久留米の地名の由来は、久留米村、から。久留米村は地域を流れる「久留米川」から。現在は「黒目川」と呼ばれているが、江戸時代は「久留目川」・「来目川」・「来梅川」と呼ばれていた。「東」久留米としたのは、前述の九州の久留米市と区別する、ため。

新小金井街道

野火止通りを進む。用水南にあるアパート(久留米下里住宅)が切れるあたりが東村山市の西端。清瀬市となる。清瀬市の地名の由来は、清戸村+柳「瀬」川=清瀬、と。しばらく歩くと用水脇に浅間神社(清瀬市竹丘)。富士塚が築かれており、ちょっと「お山」に登る。
浅間神社を越えると「新小金井街道」が野火止通りに合流。さらに歩を進めると小金井街道と交差。松山3丁目交差点。交差点を越えると、新座市。用水跡を南端に舌状に新座市が清瀬市と東久留米市に食い込んでいる。どういった事情かは分からないが、市境は用水を境に複雑に入り組んでいる。
新座市の地名の由来は歴史的名称から。758年、新羅からの渡来人がこのあたりに住み新羅郡が置かれる。その後、新倉郡、新座(にいくら)郡となった、その名称から。

野火止史跡公園

新座市に入った頃から川筋は「野火止通り」から「水道道路」と。西武池袋線を交差し、新堀交差点を越え、新座ゴルフ倶楽部を左手に見ながら先にすすむと、御成橋通りが南からT字に合流。さらに進むと富士見街道が北からT字に合流する西堀公園交差点に。
交差点を越えると野火止用水は水道道路とわかれ北に上る。このあたりは「野火止史跡公園」。用水も本流と平林寺堀と二手に分かれる。どちらを歩くか少々迷ったが、本流を進むことに。平林寺堀を進むと、用水は雑木林の中、細流となって続くようだ。

関越道と交差

遠くに雑木林を見ながら、のんびりとした田園地帯を進む。雑木林に入るころから、用水に沿って「本多緑道」がはじまる。桜並木が有名なようだ。雑木林と桜並木の道筋を進む。新座市総合運動公園を左手に見ながら進むと、関越道と交差。用水も関越道の上を懸樋でわたる。
関越道を越えると産業道路。野火止用水は産業道路を左手に見ながら緑道を進む。次第に深い緑。もうここは平林寺の寺域だろう。道なりに平林寺大門通りに向かい、やっと目的地・平林寺に到着。

平林寺

平林寺到着は午後5時。お寺は既に閉門。平林寺は次回のお楽しみとする。玉川上水をメモするとき、杉本苑子さんの『玉川兄弟;文春文庫』を詠んだ。絶版のためあきらめかけていたのだが、偶然入った古本屋で見つけた。その中で、取水口をどこにするか、技術的・政治的思惑が錯綜するストーリーが面白かった。

玉川上水の取水口は現在、羽村にある。が、当初日野・青柳村、次に福生、と通水失敗を重ね、三度目の正直で羽村になった、と。その間、というかはじめから松平伊豆守の家臣・安松金右衛門は玉川兄弟に羽村にすべし、とのアドバイスを繰り返した。羽村から取水しなければ玉川上水も通水しないし、羽村からでなければ野火止用水への導水など夢のまた夢、という事情もあったから、とか。結果的にはごり押しすることもなく、羽村に決まり、玉川上水も、野火止用水も完成したわけだが、その知恵伊豆の夢の跡を秋の一日、すっかり楽しんだ。

月曜日, 10月 30, 2006

中野区散歩そのⅡ;鷺宮・上高田・青梅街道・本町地区

本日の散歩は上高田地区の寺町を巡り、宝仙寺そして成願寺へと、というのがおおまかなルート。上高田地区の寺町は、江戸3大美人笠森お仙が眠る正見寺があるのが気になっていた、から。宝仙寺は杉並散歩のときから気になっていた古刹。成願寺は中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、ということでこれも少々気になっていた。今日はなんとなく「気になる」寺巡りの1日というところ、か。


本 日のルート;西武新宿線鷺宮駅>八幡神社>福蔵院>天神山の森>笠付きの庚申堂>つげのき地蔵>北原神社>西武新宿線鷺宮駅>(電車)>西武新宿線新井薬師駅前>氷川神社>高田中通り>功運寺>宝泉寺>境妙寺>金剛寺>願正寺>神足寺>早稲田通り>正見寺>青源寺>源通寺>高徳寺>龍興寺>松源寺>宗清寺>保善院>天徳院>中野6丁目>JR中央線>大久保通り・紅葉山公園下>中野1丁目>追分>鍋屋横丁>慈眼寺>明徳稲荷神社>宝仙寺>白玉稲荷神社>山手通り>氷川神社>塔山>桃園川緑道>神田川>淀橋>相生橋>長者橋>成願寺>象小屋の跡>お祖師様まいりの道>新橋通り>福寿院>地下鉄丸の内線・中野新橋駅


JR高田馬場駅

JR山の手線で高田馬場駅に。西武新宿線に乗換える。で、切符を買う際、なんとなく「鷺宮」って名前が気になった。鎮守の森に鷺が飛び交っていた、というのが地名の由来であるし、ということは、湿地帯であったのだろうし、妙正寺川が鷺宮あたりで大きく迂回している、ってことは、そのあたりって舌状台地がせり出しているのだろうし、ということで、「地形のうねり」を足で感じることを散歩の最大の楽しみとする我が身としては、少々予定を変更し鷺宮まで足を延ばすことにした。

鷺宮地区

西武新宿線・鷺宮駅下車
西 武新宿線・鷺宮駅下車。鷺宮とか、上鷺宮とか、白鷺とか、美しい地名が目に付く。大雑把にいって、15世紀の頃には、このあたりに既に村落がつくられていた、と。北のほうは杉並散歩でメモした今川家の支配地、妙正寺から南は幕府の直轄地であった、と。とはいうものの、直轄地の中に今川家の飛び地があったりと、江古田地区と同じように、領地が入り組んでいたとのこと。


八幡神社
八幡神社に向かって台地をのぼる。このお宮様、康平7年(1064年)の勧請。鷺宮一帯の鎮守さま。当初は、鷺大明神、と。正保2年(1645年)今川氏がこの地を支配するときに、八幡神社と名を改める。江戸幕府からは朱印7石を頂戴。区内唯一の御朱印神社、とか。

福蔵院
神 社のお隣に福蔵院。美しいお寺さま。紅葉の季節に再度おまいりするのも、いいかも。境内には十三仏。不動明王(初7日)、釈迦如来(27日)、文珠菩薩(37日)、普賢菩薩(47日)、地蔵菩薩(57日)、弥勒菩薩(67日)、薬師如来(77日)、観世音菩薩(100日)、勢至菩薩(1周忌)、阿弥陀如来(3回忌)、阿しゅく如来(7回忌)、大日如来(13回忌)、虚空蔵菩薩(33回忌)、と13体すべてそろっている。冥界で生前の審判を受ける近親者の救済を願っておまいりしたのだろう。白鷺の地名の由来は、このお寺様から。山号を白鷺山と呼ぶ。ためにこのあたりを「白鷺」と。鷺宮の地名の由来とは関係 なし。


台地上を成り行きで歩く。鬱蒼とした屋敷森をもつ旧家などを眺めながら、中杉通りを越え、台地の西端・天神山の森に。野方丘陵が妙正寺川の浸食をうけてつくられた崖地に公園が。見晴らしはよくない。早々に台地を下り、鷺宮駅に戻る。

新青梅街道
駅前から中杉通りを北に進む。新青梅街道に。少し西に進み新青梅街道の一筋南を通る旧道を歩き、再び新青梅街道にあたる。道の北側に「つげの木地蔵」。現在はつげの木もなく、お地蔵さまも盗難にあい、昭和29年につくられたもの、とか。

北原神社

北に進む。北原神社に。なんとなく名前に惹かれたから。何とか見つける。いやはや、こじんまりしたお宮さま。祠、と言うべけんや。道標を兼ねた庚申塔が:「右ぬくい道 左やわら道」と書いている、そうな。


上高田地区

鷺宮駅に戻る。後の時間のこともあり電車に乗ることに。当初の散歩プランであった上高田地区の寺町を訪れるべく西武新宿線・新井薬師前駅に。

氷川神社
駅を降り線路に沿って東に進む。上高田4丁目に氷川神社。上高田の鎮守さま。大田道潅手植えの松があるとか。もともとはこじんまりとしたお宮様。現在の規模になったのは、大正11年に氏子から土地の寄進を受けてから、と。

桜ケ池不動尊
お宮を離れ、桜が池通りに。道脇に「桜ケ池不動尊」(上高田4丁目―32-2)。池とちょっとした滝。現在はポンプアップではあるが、昔は池の大きさも現在の3倍くらいであり、清水こんこんと湧き出ていた、と。往古、「雑木林の中清水湧く所野佛在り」と記載されたところではあるが、今はすっかり開け、その趣少なし。

「垣根の垣根の曲がり角
上高田4丁目から少し駅方面へと台地をのぼり、上高田3丁目に。3丁目―26-17に鈴木家の 屋敷。江戸時代の上高田の名主さま。鈴木家の「垣根」は、あの「たきび」の歌のモデル、とか。上高田4丁目に住んでいた巽聖歌(本名;野村七蔵)が、このお屋敷のあたりを散歩しているときに詩情を湧かせた、と:
1 垣根の 垣根の 曲がり角
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  北風ピープー 吹いている
2 山茶花 山茶花 咲いた道
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  しもやけおててが もう痒い

上高田の寺町
上高田本通を下り寺町に。明治末期から大正にかけ、東京市の都市計画などによりこの地に集められた。浅草からの移転は区画整理。四谷・牛込からの移転は博覧会会場や明治神宮の敷地確保のため、とか。トラックとてない当時、大八車に墓石を乗せて移転するわけで、大変であっただろう。上高田4丁目に6寺、早稲田通り沿いの上高田1丁目にある10のお寺は大名や政治家、学者、芸術家など高名な人物が眠っている。寺の移転で思い出したが、墓石は移したが、骨もちゃんと運んでいったのだろうか。鈴木理生さんの本:『東京の町は骨だらけ』だったと思うが、墓石は移すが、あまり「骨」は大切にせず、結構そのままにしていた、といった記事が妙に記憶に残っているのだが。。。

功運寺には吉良上野介

上高田4丁目の台地上に功運寺。吉良家の墓所。さすがに立派なお寺さま。境内も広い。赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介など吉良家四代のお墓がある。そのほか今川長徳(義元の子)、水野十郎左衛門、歌川豊国、林芙美子のお墓もある。水野十郎左衛門って、旗本奴・大小神祇組を組織し町奴と対立。1657年(明暦3年)幡随院長兵衛を殺害。1664年(寛文4年)幕府によりに切腹を命じられ、家名も断絶した。

宝泉寺には板倉重昌

直ぐ隣に宝泉寺。「島原の乱」鎮圧軍の総指揮官・板倉重昌の墓がある。父は京都所司代・板倉勝重。三河以来の家康近習ではあり、能吏でもあったが、いかんせん、大大名といったわけでもなく、派遣軍の細川・鍋島藩といった大藩の部隊など、重昌をあなどり命令聞くわけもなし。で、状況打開をはかった幕府は大物・「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の派遣を決定。重昌は武士の面目なし、と死を覚悟した突撃をおこない討ち死。この攻撃での幕府側の死者4,000人。一方の一揆がわはわずか100人だった、とか。

境妙寺に塙保己一
宝 泉寺の南というか東の道を進むと境妙寺。ちょっと奥に金剛寺。どちらもこじんまりしたお寺さん。境妙寺は塙保己一の菩提寺とのこと。江戸時代の国学者。『群書類従』の編纂者。が、新宿の愛染院にお墓がある、ということだし、よくわからない。それよりなにより、このメモをする際、塙保己一、って盲目であった、とはじめて知った。七歳で失明。15歳で埼玉の保木野村(本庄市)より江戸に出る。按摩・音曲の修行をおこなうが、どうもうまくいかない。が、塙保己一の学才に気づいた弟子入り先の検校から学問させてもらうことに。誰かに音読してもらったものを暗記し学識を高め『群書類従』の編纂をするまでに。『群書類従』って江戸の初期までに刊行された史書や文学作品をおさめている。

金剛寺には内田百閒


金剛寺は内田百閒(うちだひゃっけん)のお墓が。夏目漱石に私淑。が、実家の老舗の酒屋の没落、そして借金地獄。「百鬼園先生言行録」や『百鬼園随筆』の「百鬼園」って「借金」のもじり。戦災でバラック生活。そのときにものしたのが黒澤明作品ともなった「まあだだよ」。百閒といえば「阿房列車」三部作だが、これって、特急に乗るためだけに大阪まで行ったときの話。なんとなく魅力的な人物。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

願正寺に新見正興

すぐ東に願正寺。新見豊前守正興の墓。江戸末期の旗本。安政6年(1859年)外国奉行に。万延元年(1860年)日米通商条約批准のためアメリカ船・ポータハン号に乗り込み、咸臨丸とともにアメリカにわたり条約批准の大命を果たした。その奥に神足寺。伊豆の武将・伊東氏の開基。もとは織田信長の旗下にあり、一向一揆勢力と戦っていた。が、本願寺・教如上人の矢文を偶然目にし、織田方の非を悟り、一揆軍に参軍。後に僧となった、とか。

正見寺には江戸三大美人・笠森お仙
台地上の寺町巡りを終え、高田中通りを下り早稲田通り・清原寺交差点に。交差点の東に正見寺。江戸三大美人・笠森お仙のお墓。先日の谷中散歩のとき、三崎坂の途中にあった「大円寺」にお仙の碑があった。鍵屋という茶屋の看板娘であったが、ある日突然失踪。鍵屋は大打撃、ってまことしやかな話しもある。が、実際は笠森稲荷の祭主、倉地政之助と祝言をあげたって、こと、らしい。倉地政之助さん、幕府の隠密・お庭番とかで、桜田御用屋敷に住んでおり、外部との付き合いは「制限」していた、との、それらしき説もあり。ともあれ、お仙は幸せな人生を送った、と。

笠森稲荷は谷中・感応寺門前にあったよう。ちなみに、江戸明和の三大美人って、お仙のほかは浅草観音裏の「柳屋のお藤」、二十間茶屋の蔦屋のおよし。お仙は鈴木晴信の浮世絵に描かれたり、歌舞伎や人情本に取り上げられたり、はては手ぬぐいとか人形までもつくられた、とか。アイドルであったのでありましょう。


青原寺に朱楽菅公
交差点から早稲田通りに沿って西にお寺が続く。青原寺。寛政年間(1789-1800年)の狂歌師・朱楽菅公(あけらかんこう)。「あっけらかん」からきていることは言うまでもない。幕臣。本名は山崎景貫。。「いつ見てもさてお若いと口々にほめそやされる年ぞくやしき」。
お散歩の折々に登場する人物として、蜀山人というか太田南畝、というか四方赤良がいる。ちょうど、蜀山人を描いた。『蜀山残雨;野口武彦(新潮社)』、『橋の上の霜;平岩弓枝(新潮社)』など読んでいるのだが、その中に朱楽菅公も登場しており、なんとなく身近な感あり。ちなみに狂歌師には結構面白い名前が多い。宿屋飯盛(やどやのめしもり、酒上不埒(さけのうへのふらち)、土師掻安(はじのかきやす、多田人成(ただのひとなり)、といったもの。

源通寺には河竹黙阿弥
横に源通寺。河竹黙阿弥の墓。歌舞伎「白波5人男」、「鼠小僧次郎吉」などの義賊を主人公にした生世話(きぜわ)狂言の作者として有名。幕末から明治にかけて活躍。七五の名セリフで有名。三人吉三での「月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ烏(がらす)のたゞ一羽塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手(ぬれて)で泡、思いがけなく手に入る百両」。
また、白波五人男・弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう  浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵、百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字、百が二百と賽銭の,くすね銭せえ段々に、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの、似ぬ声色でこゆすりたかり名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がこと だぁ!」などは、なんとなく、どこかで聞いたことが、ある。

高徳寺は新井白石

高徳寺には新井白石の墓。江戸中期、将軍家宣、家継に仕えた朱子学者。貿易の制限、通貨の改良、国内産業の振興といった、いわゆる正徳の治世、として名高い。

龍興寺には橘染子
龍興寺には柳沢吉保ゆかりの、というか側室橘染子が眠る。嫡男の生母。また後世江戸期における禅の研究テーマとなった『参禅録』を残している。
松源寺は「さる寺」とも
少し途切れて松源寺。江戸の触頭4カ寺のひとつ。さる寺。触頭とは、幕府からの通達を配下の寺院に伝へたり、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申する役のお寺さん。さる寺、とは、お猿にまつわる話が伝わっているから。かいつまんでメモする;いたずらお猿にこりごりした小坊主、こらしめようと。それを助けた和尚さんが、船の転覆という危難に際し、お猿に教えられてあやうく助かった、という猿の恩返しの話がつたわっている、から。

宗清寺に水野忠徳

宗 清寺には幕末の外交官水野忠徳の墓。旗本であったが、浦賀奉行から長崎奉行に。嘉永七年には日米和親条約締結に尽力。その後勘定奉行、安政五年にははじめての外国奉行に就任。翌年勃発したロシア海軍士官兵殺傷事件の責任を取り西の丸留守居役となる。が、実質的に外国奉行として腕を振るった。戊辰戦争の混乱の中、慶應四年に五十四歳で病死した。たつ寺、とも、なが寺、とも。

保善寺は信玄ゆかりの寺

保善寺。武田信玄の従兄弟が開く。このお寺様が牛込寺町にあったとき、同地の酒井邸を訪れた時、この寺に立ち寄った将軍家光から賜った猛犬が獅子のようでもあったため、獅子寺とも。

天徳院に梶川怱兵衛

隣に、天徳院。江戸城・松の廊下で浅野匠頭を抱きとめた梶川怱兵衛の墓。天徳院で寺町は切れる。

北野神社
早稲田通りを南に入り、中野6丁目をぶらぶら。桃園二小のあたりから西に進み、南北に下る大日橋通りに出る。少し西に北野神社。もとは打越天神と呼ばれていた、と。打越の由来は、このあたりは少し南に流れる桃園川に対する小高い台地となっており、北に向かうには、その台地を「打ち越えて」いく必要があったから、とか(「なかのの地名とその伝承;中野区教育委員会」より)。神社はこじんまりとしたもの。境内に三体の石仏。新井薬師参詣者の安全祈願をかねた道標の役割も。

道灌とりで
大日橋通りに戻り、JR中央線を交差、紅葉山公園脇をくだり、大久保通りに。東に折れ、少し進むと「谷戸運動公園」」。運動公園の北にあるマンションのあたりに土塁があったようで、堀江氏の屋敷跡、と言われる。
案内板をメモ:堀江氏は小田原後北条氏の中野五郷の小代官。豊臣秀吉の命を受けた中野の土豪。戦国末期の城山は小城塞を兼ねた土豪屋敷であった、よう。湧き水のある中野川の谷戸をおさえ、野方丘陵の東南を占める城山は平忠常、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌とりで」とも言われている、と。

桃園川緑道


横を下り、大久保通りを越えると桃園川緑道。桃園川は現在は完全に暗渠となっている。もとは、杉並区天沼の天沼弁天社内の弁天池を水源とし、東に進み杉並区立けやき公園のあたりで中央線を越え、そこからはほぼ大久保通りに沿って東に進み中野区と新宿区の境にある末広橋あたりで神田川に合流する。
いつだったか源流点を求め、歩いたことがある。弁天池はその地が西武グループの総帥であった堤氏の「杉並御殿」となったとき埋め立てられた、よう。また、当時、その「御殿」も工事中であった。時が時だけに、取り壊されていたの、かも(後日その地を歩いたとき、もうすっかり公園となって、いた。確か弁天公園だった、かと)。


鍋屋横丁

青梅街道・鍋屋横丁交差点に。鍋屋横丁って、杉並堀の内の妙法寺への参詣道。妙法寺横町とも呼ばれていたようだが、青梅街道からこの妙法寺横町への入口に「鍋屋」という茶屋があった。なにせ厄除けで有名な妙法寺・お祖師さまへの参道。おおいに賑わい、また、その鍋屋の屋敷内に立派な梅林があり、あれもこれもあいまって、妙法寺横町が、いつの間にか、「鍋屋横丁」になった、とか。

追分

鍋屋横丁交差点のちょっと西に「追分」。石神井道(井草、石神井、所沢方面)への分岐点。中野通りに向かって、ゆったりとしたカーブで道が分岐している。青梅街道を少し東に慈眼寺。桃園川慈眼堂橋脇からここに移転。東に進み、中野警察署西交差点あたりから北に入る。宝仙寺方面に、

明徳稲荷
中央2丁目を成行きで進むと明徳稲荷(中央2-52-1)。江戸時代、中野村の名主をつとめた堀江家の屋敷の鬼門よけ。堀江家の敷地は21,000平方メートル。このあたりから青梅街道まであった、とか。堀江氏の先祖は、天正4(1576)年戦国大名後北条氏領中野郷を治める小代官。秀吉の時代には秀吉に属 した中野の土豪、であった。城山のところでメモしたとおり。
山政醤油醸造所跡
明徳稲荷から宝仙寺に向かう途中の公園の中に赤レンガ。なにかと、ちょいと足を止める。「山政醤油醸造所跡」の案内。明治5年創業の醤油醸造所跡。この赤レンガ、セメントのない時代、石灰、つのまた(海草)、砂を混ぜてつくったもの。また、この醤油醸造の生産量は中野の80%。敷地も広く、青梅街道を越え、桃園小学校あたりまで続く広大な敷地であった、とか。

宝仙寺
宝仙寺に到着。杉並散歩のときメモしたように室町期に阿佐ヶ谷から移る。創建は平安後期の寛治年間,源義家によって創建されたという。奥州・後三年の役を平定して 凱旋帰京の途中で,陣中に護持していた不動明王像を安置するためにこの寺を建立した、と。
お寺をつくるとき、地主稲荷の神が出現して義家に「この珠は希世之珍 宝中之仙である 是を以て鎮となさば 即ち武運長久 法燈永く明かならん」と告げ白狐となっていづこともなく去った、とか。で、これが「宝仙寺」の由来。とはいうものの、杉並に覇を唱えた、阿佐ヶ谷殿がその力の証として阿佐ヶ谷の地にお寺をつくったのだが、その勢の衰えとともに、この地に移った、というのがほんとうのところか。その後、この地において寺勢拡大し大寺となった。
護持院住職の隆光(五代将軍綱吉に畜生憐れみの令を出させた僧)や桂昌院(綱吉生母)との関係も深く,護国寺を開山するに当たり宝仙寺属の子院を寄付したことが記録に残っているほど。仁王門を入ると、明治になっての中野町役場跡。その後東京市中野区の庁舎として昭和初期まで利用された。墓地には堀江家歴代の墓がある。

塔山
宝仙寺を離れ塔山(とうのやま)に向かう。途中山手通りに沿って白玉稲荷神社。中野下宿の鎮守さま。名前に惹かれて足を止める。こじんまりしたお稲荷さま。山手通りの東に塔山。区立十中敷地内。戦前まで江戸名所図会に描かれた三重塔があった。で、このあたりを江戸初期から「塔の山」と。むかしはこのあたりも宝仙寺の境内であった、ということ。三重塔は中野長者・鈴木九郎が寄進した、とか。

氷川神社

少し北に進み、大久保通りを北に入ったところにある。中野村の鎮守さま・氷川神社をおまいりして再び南に少し下り、桃園川緑道に戻り、歩を東にすすめ末広橋から神田川に。

淀橋
神 田川に沿って南に下り、青梅街道・淀橋に。この橋、「姿見ずの橋」とか「面影橋」などと呼ばれていた。「姿見ずの橋」の名前は、熊野からこの地に移り住み中野長者と呼ばれるほどになった鈴木九郎に由来する。
財宝を隠し場所に運んだ下僕を、そのありかを隠すためこの橋で殺したため、その姿が見えなくなったから、との説あり。また、父親の悪行のゆえ婚礼の直前に呪われて蛇となり、それを悲しみ長者のひとり娘が投身自殺。ためにその姿が見えなかったことに由来する、とか諸説あり。こういった伝説もあり、後世、婚礼の時、花嫁はこの橋を避けて嫁入りした、と。

淀橋、となった由来も諸説あり。鷹場に向かう途中、「姿見ずの橋」を通った徳川家光だか、徳川吉宗が橋の名前の由来が不吉であると、淀川に似ていたことから淀橋と改名した。川の流れが淀んでいたので淀橋と家光が名づけた。豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移してきた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」、さらには淀橋となった。 柏木、中野、角筈、本郷の4つの村の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。といった按配。淀橋には昔水車があった。淀橋の水車と呼ばれるが、ペリー来航をきっかけに火薬製造のために活用。が、嘉永7年(1854年)大爆発をおこした、とか。

成願寺
神田川に沿って、相生橋、長者橋と進み山手通りと交差。すこし北にのぼり成願寺に。今まで何度か登場した中野長者こと、鈴木九郎の屋敷跡。上の「姿見ずの橋」でメモした財宝にまつわる悪行の因縁で失った、ひとり娘のことを深く反省し、仏門に入り、供養のために自宅を寺としたのがはじまり。九州肥前・鍋島家累代の墓もある。
鈴木九郎は応永年間、というから14世紀末から15世紀はじめに、熊野よりこの地に来る。もとは、馬喰であった、とか。この地は多摩と江戸湊、そして浅草湊への交通の要衝。荷駄を扱う問屋場押さえ勢力をのばす。もちろん、熊野衆であるわけだから、水運を抑えていたわけで、陸運・水運を支配することにより「長者さま」となったのであろう。神田川沿いにある和泉熊野、尾崎熊野、善福寺川沿いの堀の内熊野神社を見るにつけ、熊野衆の勢力を大いに感じる次第。ちなみに西新宿にある十二社熊野神と社は鈴木九郎が勧請し、建てたもの。

象小屋の跡
成願寺を離れ一筋北の道に。朝日が丘児童館の公園のところに「象小屋の跡」の案内。享保13年(1728年)、安南国(べトナム)から吉宗に献上された象だが
、餌代なども大変ということで、「浜屋敷」において象の面倒をみていた中野村の農民源助にさげわたされた。
源助は象を見世物として金儲けをたくらむ。が、暖房費をけちったり、当初幕府からもらっていた餌代も、金儲けしているのであれば、ということで打ち切られ、3年もたたないうちに死んでしまったと。それにしても、長崎に到着した象は2ヶ月かけて江戸まで歩いてきた、と。街道は大騒ぎ。京都では天皇や法皇も見物にきた、とか。

お祖師様まいりの道を中野新橋駅に
象小屋跡から道なりに北に進む。本町2丁目43あたりで「お祖師様まいりの道」に当たる。杉並・妙法寺に通じる道筋である。お祖師様まいりの道を西に進み、新橋通りに。南に下り、丸の内線・中野新橋駅。昭和初頭、このあたりは花柳界で賑わった、とか。ともあれ、地下鉄にのり、自宅に向かう。

金曜日, 10月 27, 2006

中野区散歩 そのⅠ:沼袋・江古田・荒井地区

中野散歩をはじめる。どこから歩き始めたらいいものやら、いまひとつポイントが思い浮かばない。で、例によって、あれこれお散歩のフックを得るために中野区の歴史民俗資料館に。場所は新青梅街道沿いの江古田4丁目。電車の駅からは、どこからも微妙に外れている。なんとなく最寄りの駅、ということで西武新宿線・沼袋駅に向かう。


本 日のルート;西武新宿線・沼袋駅>氷川神社>禅定院>実相院>密蔵院>明治寺>貞源寺>正法寺>歴史民俗資料館>お経塚>氷川神社>下徳殿橋>江古田川(開渠)>豊玉中1丁目>豊中通り>北江古田公園>東福寺>江古田層発見の地>新青梅街道・妙正寺川合流>江古田古戦場の碑>北野神社>中野通り>哲学堂>野方配水塔>蓮花寺>光徳院>東光寺>新井薬師前>新井薬師>新井五差路>(中野通り)>早稲田通り・新井>JR中野駅>中野五差路>青梅街道・椙山公園交差点>十貫坂上>中野通りを離れる>杉並能楽堂>和田1丁目>和田2丁目交差点>駒の坂橋・善福寺川弥生町6丁目>方南町


西武新宿線・沼袋駅

西武新宿線、って明治28年開通の川越鉄道(国分寺と川越を結ぶ)、それと昭和2年開通の(旧)西武鉄道(東村山と高田馬場を結ぶ)が後年合わさったもの。当時、それほど乗客も多くないわけで、肥料や野菜を運ぶ「農業鉄道」の色彩が強かった、とか。駅名・沼袋の地名は妙正寺川によってつくられた低湿地・沼沢の地形による。文明9年(1477年)の太田道潅と豊島氏との戦いに「沼袋」の名が登場していると言うから、早くから開けては、いたのであろう。台地上は畑や果樹類栽培、川沿いの湿地は水田開墾地、といったところか。

氷川神社

駅を降り、線路沿いを少し東に戻り氷川神社に。沼袋の鎮守さま。創建は正平年間(1346-1370年)とも寛正年間(1460-1466年)とも。大田道潅が豊島氏との合戦のとき、戦勝を祈願して杉を植える。いまではその「枯根」が残るのみ。
氷川神社は出雲の簸川、から。往古、武蔵の地に移ってきた出雲族の心のよりどころであったのか。関東ローカルな神様。東京、埼玉だけで290弱を数える。関東ローカル、とはいうものの、昔の荒川の流れである元荒川の東側にはほとんどない。そこにあるのは香取神社。川を境に祭司圏がはっきり分かれている。ちな みに、両祭祀圏の間に、久伊豆神社群。岩槻とか越谷で結構立派な久伊豆神社を見かけたが、いまひとつ、そのはじまりなど、はっきりしない、とか。

禅定院
神社を離れ、台地を下る。少し駅方向に戻り、禅定院に。鎌倉幕府滅亡の際、この地に落ちのびた北条氏家臣・伊藤氏が運慶作の薬師如来をまつり、一族の菩提をとむらうため開いた、とか。「伊藤寺」とも。境内には樹齢600年とも伝えられるイチョウの古木がある。

実相院
お寺から続く道筋を駅に向かう。いかにも昔の参道、といった雰囲気。駅前に戻り、北に上る道に向かう。少し歩くと実相院。開山不詳。伝承によれば、新田一族の矢島氏が足利氏との合戦で破れ、この地に定住しこの寺を開いた、と。ために矢島寺とも呼ばれた。

明治寺
少し北に進み東に折れると明治寺。鉄筋の少々近代的なる建物。通常のお寺の雰囲気とは少々異なる。このお寺、明治天皇の病気快癒を祈念し観音様をまつったこ とにはじまる。開基は榮照法尼(えいしょうほうに)とおっしゃる尼様。観音信仰を支えに修行をおこない出家。篤志家の浄財もあつめ、百体の観音像を奉納。 百観音と呼ばれる。実際は180体、ということだが、境内、というか公園と一体になった敷地に西国三十三観音。関東坂東の三十三観音。そして秩父三十四観音がある。
観音巡礼の由来は、養老二年(718)大和長谷寺の徳道上人が生死の境をさまよい、地獄で苦しむ亡者の姿を見る。閻魔(えんま)大王がその夢の中に現れ、「衆生(しゅじょう)を救うべく、三十三ヶ所の観音札所を開設し、写経を納めて礼拝(らいはい)した人々には信心の証(あかし)として朱印(しゅいん)を授けるように」と告げて、三十三個の宝印を与えた、と。これが西国三十三ヶ所巡礼の始まり。
鎌倉幕府がはじまると、西国、つまりは京の朝廷に負けじ、と関東一円をカバーする坂東三十三所観音巡礼がはじまる。また、遅れて秩父三十三所観音巡礼も。時は戦乱の巷。関東一円を廻るなど、危険きわまりない、ということで秩父に霊場が生まれたとか。
西国・坂東・秩父それぞれ三十三の札所を合わせて九十九観音。それが百観音となったのは、折しも広まってきた百観音信仰。『今昔物語』にも登場するように、百観音は平安期にはじまっていたようだが、その百観音に合わせるべく、どこか融通つけろ、ということに。で、新参者の秩父がその札所を34とすることによって、その要請に応えた、とか。もっとも、秩父での札所割り込み運動が激しく、34カ所となってしまったので、後付けで百観音とした、って説もあり、真偽のほど不明。

寺町
明治寺の前に密蔵院、横に久成寺、少し北に歩いたところに貞源寺、正法寺。台地上には寺町がつくられている。お寺が集中したのは明治時代の「東京市区改正条例」と「関東大震災」で都心部から郊外へ移転させられた、ため。中野区の場合、明治時代からあった24寺に加えて、当時の東京市内から25寺が上高田・沼袋・江古田地区に移転。ちなみに杉並区では、高円寺南・梅里1~2丁目に24寺。世田谷区の北烏山4~5丁目には26寺が移転している。

中野区立歴史民俗資料館

新青梅街道に出る。新青梅街道って、昭和40年頃、交通量の増えた青梅街道のバイパスとして計画された。新宿区を基点に、西多摩郡瑞穂町まで青梅街道の北側を走る。中野区立歴史民俗資料館に。江古田村名主3家のひとつ、喜兵衛組の名主であった山崎家から敷地の寄付を受け開設。
江古田村って、現在の江古田、松ヶ丘、丸山、沼袋の一帯をカバーしていた。代官支配地と48人の同心の領地が入り組み、ややこしいので、江戸の中期には3組に分けられ、組ごとに名主以下の村役人がおかれていた。3つの名主は、庄左衛門組と孫右衛門家と前述の山崎家・喜兵衛組。山崎家は醤油醸造業を営んでいた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

民俗資料館で『常設展示目録』『中野史跡ガイド』なかの史跡マップなどを買い求める。はてさて、どこから、どこへとルートを調べる。民俗資料館の北に、江古田川が大きく迂回している。舌状台地に沿って流れているのだろう。その先、妙正寺川との合流点あたりには、「沼袋古戦場跡」、その先には哲学堂などがある。なんとなく、江古田川から妙正寺川に沿って歩くのが面白そう、ということで、とりあえず、江古田川に向かう。

氷川神社

民俗資料館を離れ江古田2丁目を北に進む。氷川神社。旧江古田村の鎮守。社伝によれば、寛正元年(1460年)創建。当初、牛頭天王(ごずてんのう)と。太田道潅が戦勝を祈願との話も。
牛頭天王といえば、京都祇園の八坂神社。牛頭天王は元、インドの神様。祇園精舎の守り神でもあり、祇園天神とも呼ばれた。ために、祇園さん、と。八坂神社となったのは明治の神仏分離の後の話。
牛頭天王は八坂神社だけでなく、氷川神社と名前を変えた例も多いという。ここもその一例、か。牛頭天王はインドの神様と言ったが、朝鮮半島慶尚道楽浪郡に牛頭山という山がある。そこの神様の名前はスサノオの命。ために、牛頭天王=スサノオ、ということになり、改名のとき、その候補としてスサノオの命を主神とする氷川神社としたのだろう、か。単なる空想。真偽のほど定かならず。
ちなみに、牛頭天王の名前を変えることになったのは、天王=天皇、ということで、不敬にあたると自粛したとか、しない、とか。ついでに、朝鮮半島の牛頭山のスサノオ様。これって、ひょっとして、日本で勝手につくった神話ではないのだろう、か。朝鮮に元からスサノオ神がいたとは思えないにだけど。そのうち調べてみよう。

氷川神社前の道を西に進み江古田合同住宅前を進む。ここは元、国立中野病院があったところ。この高台には昔、「江古寺」と呼ばれる寺があった、と伝えられている。

江古田川

台地を下ると下徳殿橋交差点。江古田川はここから上流は暗渠となっている。源流点は豊玉南3丁目・学田公園にあった池、とか。江古田川は、江戸中期に水が枯れたため千川上水から2箇所の分水も受けていた。開渠となった江古田川を台地下に沿って歩こう、と。が、台地沿って道はなし。結局豊玉中1丁目を成り行きで北に進み豊玉通りに。
豊玉通りを東に進むと川と台地が接近してくる。台地先端部のところで橋を渡り、「江古田の森公園」に。このあたりには縄文時代の低湿地遺跡北江古田遺跡があった。台地下の公園を進む。公園内の運動場は如何にも調整池、といったつくり。妙正寺川との合流点あたりで頻発する洪水対策として、ここに調整池がつくられたようだ。

東福寺

江古田川に沿って台地下の公園の中をぶらぶら進み、江古田川が東に流れを変えるあたりで川筋から離れ、少々南に進むと東福寺。徳川将軍御膳所跡。創建は鎌倉。弘法大師作の不動明王が本尊、とか。もとは江古田川東岸の大橋付近にあった、とのとこだが、元禄のころ、この地にうつる。古文書に「御林跡地 江古田新田東福寺」、と。江戸時代の初頭に、林や茅野を大規模に開墾し、このあたりが開発されていったのだろう。お寺の裏手には歌手・三波春夫さんの邸宅があった、とか。現在はマンションが建っていた。ちなみに東福寺のお隣には、先ほど訪れた氷川神社。台地下を逆回りにぐるっと一周した、というところ。
ところで、江古田。ここにくるまで、練馬区の西武池袋線の江古田しか知らなかった。中野区の歴史民俗館が江古田にある、ということで、思わず西武池袋線の江古田に行こうと、したほど。で、練馬の江古田って新田開発の地であって、本家本元はこの中野の江古田、のようだ。現在は江原町を挟んで中野と練馬に江古田がある。とはいうものの、江原町も元は江古田村と呼ばれていたわけで、このあたり一帯が江古田村であった、ということだろう。本家本元のこの地の江古田は、練馬の江古田を「向こう江古田」と呼んでいた、という。ちなみに、江古田の地名の由来。「えごの木」から、との説などもあるが、結論はその由来は不明。

江古田植物化石層発見の地
東福寺を出て江古田川方向に向かう。東橋に。「江古田植物化石層発見の地」の案内(江古田1-43);江古田川と妙正寺川流域に広がる最終氷河期(今から16000年から11000年前・先土器時代)の日本の気象と環境研究のスタート地点となった。橋の工事の際にみつかり、直良信博士が発見した世界的に有名な土層。カラマツなどの針葉樹が多く含まれることから、現在より10度ほど気温が低かったのでは、と言われている。

「江古田原・沼袋古戦場」跡

少し歩くと新青梅街道にあたる。そこは妙正寺川との合流点。東福寺のところでメモした「大橋」って、このあたりにかかっていたのだろう、と思う。この合流点は「江古田原・沼袋古戦場」跡。文明9年(1477年)、太田道潅と豊島泰経が激戦をおこなった地。
時は室町末期。足利将軍家にすでに力なく、豪族が割拠しはじめた頃。この地一帯を支配していたのは平安末期から続く名家・豊島泰経。本拠地は石神井公園南の台地に築いた石神井城。そのほか、平塚(北区西ヶ原;あの「浅見光彦さま」行きつけの団子屋のある平塚神社)にも城を構える。文明8年(1476年)長尾景春が関東管領上杉氏に反旗を翻す。これが長尾景春の乱。豊島氏も長尾氏に呼応。扇谷上杉の家宰大田道潅がこもる江戸城と扇谷上杉家の居城・川越城の分断を図る。新参者の上杉―道潅ラインが目障りだったのだろうか。
豊島氏の動きに対し道潅は4月13日、豊島泰明のこもる平塚城を攻略。豊島泰経は石神井城・練馬城から援軍派遣。翌14日、江古田原・沼袋原で太田軍と戦闘。泰明は戦死、豊島軍は大敗。これが「江古田原・沼袋合戦」。泰経は石神井城に敗走し立て籠もる。が、道灌の攻撃に耐え切れず泰経は4月18日、石神井城の取り壊しを条件に和議交渉。しかしながら、泰経は開城することなく、逆に石神井 城の守りを固めようとした。ために、4月28日、道灌の力攻めに遭い落城。泰経と残党は平塚城に敗走。その後は横浜方面に逃げたとか、三宝寺池に馬もろとも飛び込んで華麗な最後を遂げたとか、あれこれ。

北野神社
散歩に戻る。妙正寺川を渡り、台地に登る。台地上をブラブラと進み北野神社を目指す。結局、神社は台地下にあった。少々こじんまり、としたお宮さま。片山村の鎮守。もとは天満宮、と。片山村とは、現在の松ヶ丘1丁目を中心と した一帯。上高田村、上沼袋村、新井村にも領地をもつ領主の支配地。東西500、南北400m、16軒の民家があった、とか。後ろが崖で片側だけ傾斜をなす地形であったのだろう。

哲学堂
台地を離れ再び妙正寺川に戻る。中野通りにかかる下田橋に。川の北に哲学堂。哲学館(現東洋大 学)創立者・井上円了が学校移転用地として購入。が、学校の移転中止となり、明治39年から大正8年まで、精神修養公園として整地。公園内には哲学堂77場と称する建物が点在する。
代表的な建物;哲理門(妖怪門とも。入口にある。天狗と妖怪の彫刻。世界は不可思議なものが根底にある、ということ、か)、宇宙館(哲学は宇宙の真理を探究するもの、ということ、か)、時空岡(じくうこう)、四聖堂(釈迦、孔子、カント、ソクラテスの四聖人をまつる)、六賢臺(聖徳太子・菅原道真(日本)・荘子・朱子(中国)・龍樹・迦毘羅仙(印度)の六人を東洋的「六賢」として祀る)、三學亭(平田篤胤(神道)・林羅山(儒道)・釈凝然(仏道)の三者を祀る)、などなど。
ちなみにこのあたり、和田山と呼ばれ、和田義盛の館跡と伝えられる。川に沿った台地上でもあり、立地的に は納得感はあるのだが、中野・杉並にいくつか伝えられる和田義盛にまつわる「伝説」のひとつ、だろう。

野方配水塔
のんびりと公園内を歩き、哲学堂公園北の運動場脇を進む。新青梅街道を北に少し進むと野方配水塔。ここに来るまで、この給水塔が哲学堂と思い込んでいた。
中島鋭治博士の設計。新宿淀橋浄水場の設計を手がけた近代水道の父、とも呼ばれる人物。関東大震災以降、急激に増えたこの地の人口のため従来の井戸水だけではまかなえなくなったため、多摩川の喜多見で分水し、豊多摩・北豊島両郡が組合をつくり、この配水塔をつくった。この配水塔は村山浄水場ができる昭和41年までその役目を果たす。
解体計画もあったが、2000トンを貯水する災害用給水槽として現在も利用されている、と。当初、荒川まで通じる計画であったこの「荒(川)玉(川)水道計画」も、板橋の大谷給水塔で止まっている。また、大谷給水塔も先日訪れたときには、立て替え工事中であった。

蓮華寺

給水塔のすぐ横に蓮華寺。哲学堂をつくった井上円了の墓所がある。「略縁起」によれば、新しいお寺の建設が規制されていたとき、名主深野孫右衛門が寺社奉行であった大岡越前守に、とくに許されて、神奈川の星川村に名前だけ残っていた蓮花寺を継いだ形でこの寺をたてた、と。

東光寺

蓮華寺を離れ再び新青梅街道を渡り哲学堂公園に。台地下を流れる妙正寺川に沿った遊歩道を進む。ここにも川に沿って調整池がある。このあたり、川筋が大きくうねり蛇行しているわけで、ということは、傾斜が穏やかなわけで、つまりは水が溜まりやすい、つまりは洪水になりやすい、ということでの対策なのではあろう。
先に進み四村橋を渡る。川の南の台地にのぼると東光寺。上高田村の菩提寺。北側はかつて、遠藤山と呼ばれていた。

光徳院

横に光徳院。江戸御府内88ケ所巡礼58番。江戸御府内88箇所巡礼、って250年からの歴史がある割には、あまり知られていない。四国88ケ所を廻るのは少々時間に余裕がないが、御府内であれば、いいかも。とはいうものの、江戸のお寺って、あれこれ移転を繰り返しているので、江戸中期に決められた札所の順に御まいりするのは難儀であろう、。
境内に五重塔。御府内でここだけではないか、と。もっとも、少々可愛い五重塔ではあります。ちなみに東京近郊で思いがけず出合った五重塔としては、川崎市麻生区の香林寺が記憶に残る。高田の地名の由来は、高畑が転化した、とか。

新井薬師
お寺の近くに三井文庫。ちょっとおじゃまするが、展示館は開いていなかった。上高田5丁目の町並みの軒先といったところを進み西部新宿線新井薬師前駅に。商店街を南西に下ると新井薬師。
天正年間(1573-1591年)に僧行基によって開山。ということは、このころには村ができていた、ということか。

江戸期のこの村の人口は200名程度。戸数50軒と、どこかに書いていた。本尊は薬師如来。古来より、子育て、眼の治癒にご利益ある、とか。で、この本尊の薬師如来は、もとは新田一族の守り神であった、と。が、新田義貞の子・義興のとき、屋敷の焼失とともに消え去っていたものが、あら不思議、この地で真言の行をおこなっていたお坊さんが梅の根元で光るものあり、と。それが消え去っていた薬師如来であった、とか。先ほどの実相院も新田家と関係ある。 このお寺の縁起にも新田家が登場。
何故この地に新田氏が登場? ということだが、この地域は南北朝時代に南朝側(新田義貞)についた窪寺氏の本拠地があった、から。南朝についた窪寺氏は没落。新井薬師の梅照院は窪寺氏のお墓がある。ちなみに先に訪れた実相院の矢島氏は新田一族であった、かと。

ひょうたん池

新井薬師前の隣に北野神社。天正(1573~1591年)年間には、既に新井の里の鎮守であった、と。新井の由来は、室町幕府六代将軍足利義教の頃、関東管領・足利持氏が幕府軍に敗れる。敗残の士が現在の平和の森公園あたりに横穴を掘って生活、この地を開拓。地名を尋ねられたとき丁度新しく井戸を掘っていたときでもあったので、新井、と。神社の北に「ひょうたん池」。昔は湧水地であった、とか

中野駅

いよいよ日が暮れてきた。中野通りをどんどん進む。早稲田通りを越え中野駅に。ここから電車に乗る予定、ではあったのだが、ここまできたのなら家まで歩こう、と思い直す。ひたすら進むのみ。
中野五差路を進み、青梅街道・椙山公園交差点を越え十貫坂上に。地名の由来は中野長者が十貫文をいれた壷を埋めたとか、銭十貫でこのあたりの土地を買った、とか。中野長者は次回の散歩でメモいたしましょう。

中野通りを離れ、杉並能楽堂前から和田1丁目、和田2丁目交差点を越え、駒の坂橋・善福寺川弥生町6丁目から方南町に到着。商店街で家族の歓心を買うべくサーティワン・アイスクリームをお土産に買い求め、自宅に戻る。