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土曜日, 8月 15, 2009

古甲州道・大菩薩を超える;そのⅡ

本日のコースは石丸峠から牛の寝通り(尾根)を進み小菅村に下りる道。江戸時代、奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつ。そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩道。昨日歩いた旧大菩薩峠がこれ。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。
江戸時代は相模川に沿った甲州街道が開かれていたが、距離が2里ほど少ないといったメリットもあり、甲州裏街道として活用された。関所がなかったこともそのメリットかもしれない。これら大菩薩峠を越える道は、明治11年、現在の柳沢峠を開削し車道、といっても馬車ではあろうが、ともあれ道が開けることにより、物流幹線と してのその役割を終えることになる。

牛の寝の由来は、尾根筋が牛の寝姿に似ている、とか、牛の寝(1352m)という山というか、場所があるから、とか、ともあれ、名前からすれば、それほど厳しいルートでもないような印象である。ともあれ、小菅に向かう。



2日目;大菩薩峠から牛の寝通りを辿り小菅まで
二日目のルート:介山荘>熊沢山>石丸峠>牛ノ寝と小金沢山の分岐>牛ノ寝通り入口>榧ノ尾山>棚倉小屋跡に棚倉・大ダワ>モロクボ平・川久保分岐>田元バス停・小菅の湯分岐>登山口>小菅の湯>田元バス停

熊沢山
早朝、富士のご来光を見るため親知らず頭に。運良くご来光をGET。朝食を済ませ小菅村へと向かう。介山荘を出発。すぐ南に熊沢山。左右に笹原が広がる北の稜線とは異なり熊沢山は針葉樹に覆われている。道もあるような、ないような。最後の上りは結構きつい。20分弱でピークらしき場所に。標高は1978m。大菩薩峠から比高差100m弱といったところ、である。

















(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


石丸峠
尾根道を進むと南が開けてくる。南に続く稜線は笹子峠方面に続く山並み。稜線に連なる小金沢山とか湯の坂峠とか大蔵高丸といった山や峠は、笹子峠を越えたとき、そして日川に沿って天目山を歩いたときにはじめて知った地名ではあるのだが、なんとなく懐かしく、心嬉しくなる。富士も顔をだしている。これもなんとなく心躍る。
先に進むと鞍部が見えてくる。石丸峠。大菩薩峠と同じく笹の原が美しい。笹に囲まれた峠に下りる。標高1930m。介山荘から40分程度の行程ではあった。
江戸時代、この峠は大菩薩下峠と呼ばれていた。江戸から奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつあり、そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩 道。昨日歩いた旧大菩薩峠から荷渡し場に下る道筋、だろう。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。賽の河原のおかげか、介山文学碑のおかげか、大菩薩峠の名前は大菩薩上峠に占有されてしまったが、この石丸峠もれっきとした大菩薩峠。往古、旅人はここから現在の県道218号線の石丸峠登山口へと下り、上日川峠へと続いていたのだろう、か。

牛の寝通り分岐
石丸峠を離れ牛の寝通りに向かう。少し上り10分程度で道は分岐。右に折れると天狗棚山。標高1970m。こちらを先に進むと狼平、小金沢山、牛奥ノ雁ガ腹摺山、黒岳、湯ノ沢峠へと笹子峠方面に続く。今回歩く牛の寝通りは直進。小金沢連峰の縦走路から別れて下ってゆく。10分も歩かないうちに「長峰の尾根」への分岐。南西へと続く稜線上には白草の頭(1326m)がある。


ミズナラやダケカンバの自然林の中を行く。広葉樹林帯が続く。標高1720mあたりに熊笹が広がる。玉縄山のあたりらしいが、よくわからないままに通り過ぎてしまった。

榧ノ尾山
道はどんどん下る。「山道」の道標。いったいどんな道なのだろう、などと思いながら先に進む。やがて小さな伐採地の丘のようなところに出る。榧ノ尾山。標高1420m。南側が開け、長峰の稜線はほぼ同じ高さ、その先の小金沢山や雁ヶ腹摺山方面が高く聳える。ということは結構下ってきた、ということ、か。時間を見ると、石丸峠から1時間半弱歩いていた。

大ダワ
ここから小菅村への分岐点である大ダワまで穏やかな道が続く。標高1300~1400mの間で緩い下りと登り、まっすぐだったり曲がったり、を繰り返す。牛の寝(1352m)も知らずに通り過ぎる。狩場山(1376m)はピークを巻く。「ショナメ」と呼ばれる、なんとなくいわくありげな鞍部を過ぎて、10分弱で大ダワに。ここは小菅への分岐点。直進すれば松姫峠へと続く。牛の寝通りは一応、ここまで、らしい。「ショナメ」の意味不明。
大タワって、「大きなたわみ=鞍部」ということだが、実際はそれほど大きなスペースではない、ちょっとした伐採地といったもの。南北が開けている。道標には「棚倉」とある。小菅に折れず直進すれば大マテイ山(1409.2m)を経て松姫峠へと続く。
松姫は武田信玄の娘。悲劇の主人公としてなんとなく気になる。頼朝の娘大姫と木曽義仲の嫡子義高との悲劇とダブル。松姫の場合は相手は織田信長嫡子信忠。
松姫は幼くして織田信長の嫡子信忠と婚約。が、信玄上洛の途上、三方ヶ原で徳川と武田が合戦。織田は徳川に援軍。ために、武田と織田は手切れ。両家の婚約は解消。信玄亡き後、織田軍甲斐の国へ侵攻。総大将は嘗ての婚約者織田信忠。
武田軍形勢不利。松姫は兄の姫君を護り、道なき道を八王子方面へと逃れる。そのルートも諸説あり、松姫峠もそのひとつ、と言う。織田信忠は嘗ての婚約者の安否を心配したとか、しないとか。松姫は、幼き姫を育て、武田家滅亡後、家康に仕官した旧武田家の遺臣(八王子千人同心)の心の支えとして、八王子の心源院、その後信松院で一生を過ごした、と言う。

モロクボ平
ここから大マテイ山へ続く稜線を離れて左へ下る。モミジやカエデ、ミズナラなどの広葉樹林の木立の中、高指山(1274m)を巻くように30分強歩くと分岐点。モロクボ平である。ほどなく道標。右は「小菅の湯」方面。左は「小菅村」の道。川久保地区に下りてゆく。いずれにしても小菅村ではあるが、小菅の湯に下ることに。

小菅の湯
白樺らしき木も見える木立のノ中を15分程度下ると再び分岐点。直進すれば田元。右に折れると小菅の湯。植林地帯のジグザグの急な坂を下るとく登山口に。登山口には立派な道標が立っていた。大菩薩峠の介山荘から4時間強の行程であった。


山沢川に架かる橋を渡り舗装道路を道なりに進み小菅の湯に。一風呂浴び、田元のバス停に。小菅の湯から町までは結構下ることになる。途中、田元からの登山口などを見やりながら、小菅川にかかる田元橋を渡り田元橋のバス停に。バスの時間に余裕もあったので、町を歩くと川久保からの登山口もあった。バスを待ち、奥多摩駅へと、一路家路に向かう。念願の大菩薩峠は越えた。後は、早々に奥多摩から小菅への道をカバーしようか、と、  


金曜日, 8月 14, 2009

古甲州道・大菩薩峠を越える;そのⅠ

古甲州道歩きも3回目。 初回は秋川丘陵を戸倉まで。2回目は檜原本宿から小河内へと抜ける浅間尾根を歩いた。本来なら3回目は浅間尾根の終点であった数馬から小河内へ抜け、小河内から小菅村といった段取りではあるのだが、途中を飛び越え、一挙に大菩薩越えと相成った。小説『大菩薩峠』の主人公、机龍之介が辿ったであろう、古甲州街道・大菩薩峠越えの道へのはやる想いを、といったところ、である。
ルートは塩山から大菩薩峠に上り、石丸峠、牛の寝通りを経て小菅村に出ることに。日程は1泊二日。無理すれば1日でも歩けそうにも思うのだが、小菅から奥多摩へのバスの最終便が5時過ぎということである。時間配分がいまひとつ見えない初めての山塊でもあるので大菩薩峠の山小屋で一泊することにした。


初日;東京を出発し大菩薩峠に
初日のルート:裂石バス停>雲峰寺>車道を丸川峠分岐へ>千石茶屋跡>ロッジ長兵衛>福ちゃん荘>富士見山荘>勝縁荘>介山荘>大菩薩峠>大菩薩嶺付近>小菅村への道_荷渡し場>介山荘泊

塩山
東京を出発。中央線で塩山に向かう。車窓からは相模川の発達した段丘を眺め、川沿いに続く江戸時代の甲州街道に想いをはせる。大月には駅前に岩山が聳える。気になり調べると岩殿山とのこと。このときがきかっけとなって、後日小山田氏の居城・岩殿城を歩くことになった。
笹子トンネルでは、雪の笹子峠越えを思い出す。トンネルを抜けると甲斐大和駅。武田勝頼自刃の地、天目山への最寄り駅。目的の塩山はその次の駅。
塩山からは山梨交通バスに乗り、国道411号線を大菩薩山登山口である裂石に進む。411号線は八王子と甲府をつなぐ1級国道。新宿から続く青梅街道は青梅市内でこの国道411号線につながる。ために、国道411号線は青梅街道とも呼ばれている。またこのあたりでは青梅街道・大菩薩ラインとも呼ばれる。

裂石
30分弱バスに乗り裂石で下車。国道411号線はそのまま柳沢峠へと向かうが、大菩薩峠への登山口は国道を離れ県道201に折れる。県道201号線は正式には「山梨県道201号線塩山停車場大菩薩嶺線」と呼ばれる。終点は大菩薩への登山ルートでもある、ロッジ長兵衛のある上日川峠。そこから先に続く道は県道218号線(大菩薩初鹿野線)となり、甲斐大和へと下り国道20号線・甲州街道に合流する。

雲峰寺
バス停から東にのびる県道を進むとほどなく道脇に古刹・雲峰寺。徒歩5分といったところ。「うんぼうじ」と読む。198段の高い石段を上ると本堂、書院、庫裏が建つ。天平17(745)年行基菩薩を開山とする臨済宗妙心寺派の名刹。武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて重要文化財。室町時代に武田信虎によって再建された。
甲斐国の府中からみて鬼門にあたるこの寺は、武田家代々の祈願所。武田家の家宝もあった日本最古の「日の丸の旗」が残る。後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜され、その後甲斐武田氏に伝わったもの。また、この寺には天正10年(1582)武田勝頼が天目山で自刃したあと、家臣が再興を期してひそかに当寺に納めた「孫子の旗」六旒をはじめ、信玄の護身旗である「諏訪明神旗」、そして「馬印旗」といった武田軍の軍旗が所蔵されている。
ちなみに「日の丸の旗」って、「御旗楯無」の「御旗」。武田軍は「御旗楯無も御照覧あれ」との必勝の誓いのもと出陣していた、と言う。「孫子の旗」って、有名な「風林火山」の旗。
裂石の地名の由来はこの名刹、から。寺の縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れたとき、突然の雷鳴。砕けた大岩に十一面観音が現れ、そこに萩の木が生える。行基菩薩はその萩の木で十一面観音像を彫り、雲峰寺を開基した、と伝えられている。裂けた石はどこにあるのかわからなかったが、萩の木云々は、このあたり上萩原と呼ばれているわけでもあり、それなりのストーリー展開となっている。。

丸川峠分岐
お寺を離れ、最初の目的地である上日川峠に向かう。県道201号線を進む。舗装道路を20分程度歩くと丸川峠への分岐点に。この地点から北に折れると大菩薩嶺の北にある丸川峠(標高1700m)へと続く。

千石茶屋
丸川峠への分岐から20分弱、道が大きくカーブするあたりに道標。ここが登山道への分岐点。千石平と呼ばれている。この道標を目安に県道を離れ小道に入る。橋を渡ると千石茶屋。店は閉まっていた。千石茶屋から少し歩くと大菩薩峠登山道入口の標識。ここから林道へと入る。
ここから先、上日川峠のロッジ長兵衛までは樹林の中。おにぎり石を見やり、第一展望台、第二展望台に。ここでおおよそ上日川峠への半分くらい、だろうか。「やまなしの森林百選大菩薩のブナ林」の看板を過ぎると、傾斜が厳しく、つづら折れの道となる。あと残り三分の一弱。大きな栗の木を越えると傾斜が緩やかになり、ほどなくロッジに到着。ロッジ長兵衛。千石茶屋からほぼ1時間。裂石から1時間半強、といったところである。

上日川峠・ロッジ長兵衛
いつの頃だったか、大菩薩峠に来たことがある。まだ子供が小学校の低学年の頃なので10年も前のことだろう。そのときは、このロッジ長兵衛まで車で上ったのだが、ここが峠とはまったく思えなかった。上日川峠。裂石から上ってきた県道201号線はここで終点。ここからは県道218号線として甲斐大和に下る。
こ こが峠と知ったのはつい最近のこと。笹子峠を越え、甲斐大和に下ったとき、山の中腹に「武田家終焉の地・甲斐大和」の大きな看板。武田家終焉の地って確か天目山だった、かと。チェックすると、天目山って甲斐大和のすぐ近くにあった。日を改めて甲斐大和に訪れ、県道218号線を上り、武田家ゆかりの寺・景徳院や、天目山栖雲寺を訪ねたのだが、その道すがらバス停に眼をやると、「上日川峠行き」、との案内。地図でチェックすると上日川峠はこのロッジ長兵衛があ るところと分かった次第、である。
ところで、上日川って、「かみにっかわ」なのか「かみひかわ」なのか、どちらだろう。この峠から甲斐大和へ下る県道に沿って流れる日川は「にっかわ」と呼ばれる。が、その上流の上日川ダムは「かみひかわ」と呼ぶようだ。この峠も現在は「かみにっかわ」ではあるが、そのうちに「かみひかわ」となるのだろう、か。
ロッジ長兵衛の長兵衛とは、安政の頃、この峠に棲んでいた山窩(さんか)の名前のこと。山窩とは山に暮らす住所不定の山の民。この長兵衛さん、あれやこれやよからぬことをしたとかしない、とか。








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

福ちゃん荘
上日川峠を離れ、福ちゃん荘に向かう。舗装路が先に続く。舗装路に沿って林の中を続く山道に入る。ミズナラとかカラマツの樹林帯を30分ほど歩くと福ちゃん荘。標高1720m。福ちゃん荘は唐松尾根への分岐点。雷岩を経て大菩薩嶺へと続く登山道がある。
福ちゃん荘といえば赤軍派の逮捕劇で有名。武装蜂起を企て、この地に潜伏して山中訓練を行っていた赤軍派のメンバーが、未明の警察部隊の突入により、53名が逮捕された。世に「大菩薩事件」と呼ばれる。

富士見山荘
福ちゃん荘を離れしばらく平坦な道を進むと富士見山荘前。10年ほど前に来たときも閉まっていたし、今回も閉まっていた。建物脇に展望台。富士が見えるというが、先回も今回も残念ながら姿現れず。子供とここに来たときのことを思いだし、と、少々の想いに浸る。

大菩薩峠・介山荘
ほどなく姫ノ井戸沢の脇に勝縁荘。福ちゃん荘から10分程度。このあたりまでは車道も通る。ここから先は小石が転がる山道となる。
ブナなどの林を抜けると笹に覆われた斜面が眼に入る。やや急な上りを越えると大菩薩峠。福ちゃん荘から30分強。上日川峠・ロッジ長兵衛から1時間弱。裂石登山口から2時間半強といったところであった。
大菩薩峠は標高1897m。ごつごつした岩場。その峠直下に介山荘がある。今夜の宿泊場所はここ。時間は少々早いので、玄関に荷物を置き、大菩薩嶺に向かうことに。
峠に建つ介山荘の前から奥多摩方面を眺める。集落らしきものは小菅だろう、か。天気がよければその先には奥多摩湖.背後には石尾根の稜線が見える、とか。塩山方面には南アルプス、そして手前に光る湖水は上日川湖であろう。
介山荘の前から北に稜線が続く。北に見えるピークは、親知らずの頭(あたま)と妙見の頭。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠、そして賽の河原。大菩薩嶺はその先、1時間半くらいの行程となる。

中里介山の文学碑
歩き始めるとほどなく中里介山の文学碑。1.5mの五輪塔には「上求菩薩下化衆生」、と。「上求菩薩、下化衆生」は仏教の教義を意味する。上求菩薩とは、悟りを求めて厳しい修行を行うこと。下化衆生とは、慈悲を持って他の衆生に救済の手を差し伸べること。仏の道を目指すものはこれら両方を合わせて修得すべきこととされている。


この文学碑は未完の長編小説『大菩薩峠』を記念するもの。「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡|萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
  標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺(みね)の頂(いただき)に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋(う)めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹(ふえふき)川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実(みの)らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿(しゅく)から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分(おいわけ)を右にとって往(ゆ)くこと十三里、武州青梅(おうめ)の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和(いさわ)へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊 (やまとたけるのみこと)、中世に日蓮上人の遊跡(ゆうせき)があり、降(くだ)って慶応の頃、海老蔵(えびぞう)、小団次(こだんじ)などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内(ぐんない)あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖(おそ)れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。(『大菩薩峠』)」
実のところ、つい最近まで小説の主人公である机龍之介が、何故に人里はなれた、標高2000m近い山奥を歩かなければならないのか、いまひとつ理解できなかった。それがなんとなくわかるようになったのは街道歩きを始めてから。古甲州道のルートを調べていると、江戸以前の甲州街道はこの大菩薩峠を越えていた。江戸期に相模川沿いに甲州街道が開かれてからもここは甲州裏街道。今で言えば国道1号線といった大幹線道路。であれば、そこを机龍之介、旅人が歩いていてもそれほど不自然ではない、などと納得した次第。









(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



旧大菩薩峠
稜線の登山道は親知らずの頭に登っていく。親知らずの頭は富士の展望ポイント。明朝はご来光を期待しよう。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠。賽の河原と呼ばれる鞍部には丸太組の避難小屋がある。このあたりが昔の大菩薩峠であった、とか。


峠はその昔、交易の場であった。『大菩薩峠』より;「妙見(みょうけん)の社(やしろ)の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑(やきばた)も作るという人たちであります。 
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅(こすげ)から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩(ぎょえん)を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。(『大菩薩峠』)」。
妙見の社がどこを指すのかはっきりしないが、賽の河原の先にあるピークが妙見の頭と呼ばれ、そこには妙見大菩薩が祀られていたというわけだから、このあたりのことなのだろう。
「荷渡し場」は峠から丹波・小菅に下る道にその跡が残る、と言う。ここ旧大菩薩峠は風の通り道でもあり、遭難も多かったため、場所を移したとも。おそらく昔は妙見の頭を巻くように小菅・丹波村へと続く道が伸びていたのだろう。現在、丹波・小菅に下る道は介山荘のそばから下っている。後ほど荷渡し場の跡まで歩く。

大菩薩嶺
妙見の頭のピークをそれ、なだらかな斜面を左に横切り先に見えるピークに進む。このピークは神部岩(神成岩)。標高2000m。神部岩から先に進み、標高を30mほどのぼったところが雷岩。ここは唐松尾根ルートの分岐。下れば福ちゃん荘脇に出る。介山荘からほぼ1時間といったところ。雷岩を過ぎ、10分強歩くと大菩薩嶺に。大菩薩嶺山頂は木々に囲まれ視界はない。標高2057m。日本百名山のひとつ。介山荘から1時間半弱といった行程であった。

荷渡し場跡

一休みし、荷渡し場跡に向かうため大菩薩峠へと戻る。「小菅村・丹波山村」ヘの指導標を目安に道を下る。所々に石畳の道、石組みの跡も残る。右側は崖。10分強下っただろうか、そこに荷渡し場の標識。「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。

『甲斐国誌』によれば、「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、とある。信用取引といったところ、か。実際の荷渡し場は、ここからもう20分弱下ったフルコンバ小屋(標高1680m)のあたりではないか、とも言われる。初日はこれでおしまい。介山荘に戻り一夜を過ごす。

木曜日, 2月 26, 2009

古甲州道そのⅡ:浅間尾根を歩く

古甲州道散歩の第二回は浅間尾根を歩くことに。南・北浅川が合流する檜原本宿付近を東端とし、奥多摩周遊道路の風張峠へと東西に延びる15キロ程度の尾根道。標高は概ね900m前後の山稜からなり、比較的穏やかな尾根道となっている。

この尾根道は中世の頃の甲州街道。風張峠から小河内に下りた道は、小菅村、または丹波村から牛尾根に上り、大菩薩を越えて甲斐の塩山に抜けたと言う。江戸期に入り、小仏峠を越え相模川沿いに上野原の台地を通り、笹子峠を抜けて甲斐に進む甲州街道ができてから後も、この浅間尾根は甲州裏街道などと呼ばれ、人々の往還に利用された。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 


散歩の途中、払沢の滝近くにあった、浅間尾根道の案内をメモする;奥多摩の主稜線から風張峠で離れ、東西にゆるやかな上下を繰り返すのが浅間尾根。浅間という名称は富士山の見えるところにけられており、この尾根からも、時々富士山が遠望できる。この尾根に付けられた道は、以前は南・北秋川沿いに住む人々が本宿・五日市に通うた大切な生活道路でした。また、甲州中道と呼ばれ江戸と甲州を結ぶ要路になっていたこともあります。昭和のはじめ頃までは檜原の主産物である木炭を積んだ牛馬が帰りには日用品を積んでこの峠を通っていました」、と。


甲斐と武蔵を結ぶだけでなく、浅間尾根を挟んで南北に分かれる秋川の谷筋に住む人々にとって、川筋に馬の通れる道もなかった昔は、この尾根を越えるしかすべはなかったのかもしれない。昔といっても、大正末期の頃まで、尾根道を使った炭の運搬の記録もあり、浅間尾根が主要往還であったのは、そんなに昔のことでは、ない。小河内といた青梅筋の人達も、この尾根を利用したという。
古甲州道散歩の第一回は、秋川丘陵から秋川南岸を辿り五日市の戸倉まで進んだ。本来なら第二回は戸倉から、ということになるのだが、戸倉の戸倉城と檜原本宿の檜原城は既に訪ねたことがある。戸倉と檜原本宿の間の川沿いの車道には歩道などもなく、車に怖い思いをするのは、ご勘弁ということもあり、実際は、歩きではなくはバスに乗ったのだが、それはそれとして、既に足を踏み入れた戸倉から檜原本宿の部分はカットすることにした。

第二回は檜原本宿を始点にと当初考えていた。ルートを検討するに、浅間尾根を先に進んだ数馬方面にはバスの便があまり、ない。終末の午後など数時間に一本といった状態である。数馬方面まで尾根を進み、里に下りてもバスがなく、そこから歩くって想像もしたくない。
ということで、今回は、檜原本宿からずっと先までバスに乗り、その名も、浅間尾根登山口というバス停でおり、そこから檜原本宿に引き返すことにする。もっとも、どうせのことなら、尾根の高い方から低い方に歩くことに魅力を感じたのは否めない。ともあれ、散歩に出かける。おおよそ8キロの道のりである。



本日のルート;浅間尾根登山口バス停>入間白岩林道と交差>数馬分岐>猿石>藤倉分岐>人里峠>浅間嶺>小岩分岐>瀬戸沢の一軒家>峠の茶屋>時坂峠>払沢の滝>

浅間尾根登山口バス停
浅間尾根登山口でバスを降り尾根道へのアプローチを探す。バス停から少し戻ったところに、南秋川を越える橋への分岐がある。分岐点にある道案内で大雑把なルートを確認し、先に進む。橋からの眺め楽しみ南秋川を渡る。民家の間を進み浅間坂に。道は上りとなる。次第に勾配がきつくなる。初っ端から急坂の洗礼を受ける。南秋川の谷筋を見やりながら先に進む。誠にキツイ上り。
入間白岩林道と交差
浅間坂を越えると舗装も終わり登山道に。ジグザクの上りを幾つか繰り返すと舗装された林道に当たる。この林道は入間白岩林道。地図をチェックすると浅間尾根登山口から入間沢西の支尾根をのぼり、浅間尾根道の藤原峠下をかすめ、尾根を越える。林道その先でふたつに分かれ、ひとつはヘリポートへと進み、もうひとつは白岩沢を下り、北秋川筋の藤倉に続く。
壊れかけの「浅間尾根登山道」の案内に従い、再び登山道に入る。杉林の中を進む。途中「熊に注意」の案内。ひとりでは少々心細い。実際、この翌週、有名なアルピニストがこのあたりの尾根道で出会い頭にクマと遭遇。大怪我をした、ってニュースが流れた。尾根道はひとりではなく誰かと一緒に歩きたいのだが、かといって、どうということのない尾根道歩きにお付き合い頂ける酔狂な人も少ないわけで、結局は怖い思いをしながらの単独行となる。

数馬分岐
大汗をかきながら尾根道に到着。数馬分岐となっている。バス停からの標準時間は1時間となっているが、少し早足であるけば30分もかからないようだ。分岐点を左に折れる道筋は、藤原峠、御林山を経て奥多摩周遊道路に続く浅間尾根の道筋。尾根道の途中には数馬温泉センターへの下山道がある。また、浅間尾根を奥多摩周遊道路まで進み、その先を都民の森へ向かったり、奥多摩周遊道路の風張峠を越えて奥多摩湖へ下るルートがある。これらは今回のルートとは逆方向。次回の古甲州道散歩のお楽しみとしておく。

猿石

数馬分岐から人里峠へと向かう。分岐点を右に折れ浅間尾根に。鬱蒼とした杉林。熊が怖い。道脇に佇む石仏に手を合わせ先に進むと、少し開ける。尾根の北側の山稜の結構高いところまで民家が見える。何故、あのような高いところに、と疑問に思っていた。先日古本屋で見つけた『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』を読んで疑問氷解。日当りを考えれば、高ければ高い程、日照時間が長くなる。歩く事さえ厭わなければ、日当りのいい南向き斜面の高所にすむのが理にかなっている、とか。納得。
馬の背のような尾根道を進むと猿石。「猿の手形がついた大きな石 手形は探せばわかるよ」と案内あるが、探してもわからなかった。同じく案内には「昔ここは檜原村本宿と数馬を結ぶ重要産業道路」とあった。

藤倉分岐
ときに狭く、少し崩れたような道筋を進むと藤倉分岐。北秋川渓谷の藤倉バス停への下山道。標準時間1時間程度。状態のあまりよくない道を進むと道脇に「浅間 石宮」の案内。誠に、誠につつましやかな祠が佇む。馬の背の尾根を進み、崩れた道を補修した桟道を歩く。崖に張り付くようにつくられた木の道であり、崖下を思うに少し怖い 。注意して桟道を進むと人里峠に。

人里峠
標高850m。数馬分岐からの標準時間は1時間とあるが、実際は30分程度だろう、か。人里への下山道があり、標準時間40分程度で人里のバス停に着く、とのことだ。
峠には小さな地蔵塔。享保というから18世紀初めころのものと言う。人里の読みは「ヘンボリ」。モンゴルの言葉に由来する、との説がある。往古、武蔵に移り住んだ帰化人の中で、檜原まで上ってきた一団があった、とか。で、「フン」は蒙古語で「人」を、「ボル」は新羅の言葉で「里」を意味し、「フンボル」」が転化して「ヘンボリ」になった、と言う。重箱読み、当て字もここに極まれり、ということで、いまひとつしっくりしないが、そういう説がある、ということにしておこう。
人里と言えば、先日古本屋で見つけた、『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』(昭和44年刊)で檜原の五所神社という記事を読んだ。祭礼のシシ舞はよく目にするが、平安時代に建てられた神社の本尊は五大明王。蔵王権現、不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉と五つの明王が揃うのは京都の教王護国寺など全国にも数カ所しかない、と言う。何故この山里に、ということだが、武蔵国分寺にあった五大明王がここに移されたのでは、という説もある。南北朝の戦乱期、国分寺が焼かれた時、何者かの手により、人里の部落に避難したのでは、ということだ。その真偽は別にしても、この集落は以外に古くから中央と交流をもっていたのだろう、と。神社に本尊、というのは神仏習合から。木の根元に佇む、如何にも年月を重ねた風情の石仏にお参りし、浅間嶺に向かう、

浅間嶺
尾根道を進む。このあたりの道は木々は杉ではなく落葉樹。木々の間から陽光も漏れてきて、いかにも、いい。
人里峠から10分程度で道は浅間嶺頂上と浅間嶺広場の二方向に分かれる。浅間嶺頂上に向かうことに。10分程度で頂上らしきところに着くが、いまひとつ頂上といった風景感がない。木々に囲まれ、見晴らしはよくない。これではどうしようもない、ということで、広場方面へと下りてゆく。途中につつましやかな浅間神社の祠。
浅間神社って富士山が御神体。祭神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)。浅間嶺は昔、富士峰とも呼ばれていた。富士山も眺める事ができるのであろう、か。祭神の木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は大山祇神(オオヤマズミ)の娘。天孫降臨族の瓊杵命(ニニギノミコト)と一夜を共にし、子を宿す。が、瓊杵命が、誠に我が子かと、少々の疑念。木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は身の潔白を証明するため、燃える炎の中で出産。浅間神社=富士山の祭神が木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)であるというのは、こういうストーリーからだろう。
浅間神社を離れ、成り行きでブッシュを進むと開けたところに出る。さきほど分岐した浅間嶺広場。浅間嶺の休憩所となっている。広い平坦地にあり東屋やベンチなどがある。休憩所の広場からは北は三頭山、御前山、大岳山などの馬頭刈尾根が見える。
少し休憩し、先に進む。広場の近くに展望台があったのだが、頂上、広場、展望台と浅間嶺にまつわるターミノロジーが入り乱れ、なにがなにやら、と相成り、パスしてしまった。展望台からは北の馬頭刈尾根だけでなく、南の笹尾根の稜線も見えるとのことである。浅間嶺からは上川乗バス停への下山道がある。2.9キロ、標準時間1時間となっている。


小岩分岐
浅間嶺を離れ尾根道を進む。細い道が交差。そこに道標。小岩への分岐。『浅間嶺0.4km 展望台0.7km 小岩バス 停2.3km』とある。標準時間はほぼ1時間で北秋川渓谷に下りてゆく。
道標を越えると道は大きくカーブ。尾根道は緩やかなアップダウンを繰り返す。快適な尾根道。比較的平坦な尾根道。落葉樹が多く見晴らしもよくなる。浅間尾根でもっとも人気のあるところ、と言う。木々はそれほど密でもなく、木漏れ日の中の凹面の道。ちょっと街道の雰囲気、も。


瀬戸沢の一軒家

大岳山などを左手に見ながら進むと、道は鬱蒼とした樹林に入る。真ん中がえぐれた凹字形の道となる。道は次第に谷筋への下りとなる、勾配のきつい、石が転がる沢沿いの急坂を下る。沢を木橋で渡り先に進むと杉林の中に民家の屋根が見えてくる。
大きな入母屋作りの屋根の民家。「代官休憩所跡 おそば御用達 峠の茶屋チェーン みちこ」とある。かぶと造りの家。瀬戸沢の一軒家、とも地図に書いてあった。民家の前には水車がある。蕎麦が食べれるようだが、当日は閉まっていた。
『み ちこ』と言う、少々景観に似つかわしくない名前はともかく、この瀬戸沢の一軒家は昔は、瀬戸沢の馬宿と呼ばれていた。かつてはここで馬の荷を積み替えていた。檜原本宿にある口留番所では檜原産以外の人や荷物は通さなかったため、小菅や小河内産の薪や炭は、この地で檜原の馬に積み替え、檜原の村人によって運ばれた、と言う。昔の名残だろうか、店の前に「駒繋ぎ」の碑が残る。明治になると口留番所は廃止。馬宿はのその 役割を失うことになる。
代官休憩 所跡の「代官」って、檜原本宿にある口留番所の役人のことだろう。地元の名主が八王子代官(十八代官とも呼ばれる)のひとりから代々委任されていた、と言う。先日檜原本宿辺りを歩いていた時、本宿バス停脇に、堂々としたお屋敷があったのだが、その吉野家がこの名主であった。ちなみに口留番所とは、江戸幕府が交通の要衝を管理するために、主に関東と中部地方に設けた「関所」みたいなもの。関所は20カ所であったが、口留番所は33カ所あった。出入口を押さえ る、という意味で「口留番所」とされた。
ついでに、「かぶと造り」。数馬あたりによく見かける、屋根が兜によく似た入母屋造りの民家。3階または4階建ての高層建築で、1階は居間、2階以上は蚕室などとして使われていた。この様式は甲州の都留地方がオリジナル。江戸の頃、数馬にもたらされた。言わんとすることは、南秋川筋って、甲州の経済圏に組み込まれていた、ということ。南秋川沿いは断崖絶壁で馬の通る道も無く、浅間尾根に上ろうにも、北岸ならまだしも、南岸から南秋川を渡る橋もなく、結局は南の笹尾根を越えて上野原方面に出るのが普通であったのだろう。谷筋に車道が走る現在の交通路から往古の流通経済圏を判断するなかれ、と言うこと、か。

峠の茶屋

「みちこ」を越えると、その先に「払沢の滝」の道案内。この分岐を下れば沢沿いに払沢の滝にショートカットできるのだろうが、古甲州道を辿る我が身としては時坂峠を越えねば、ということで先に進む。
沢 の雰囲気の場所をかすめ、樹林の多い薄暗い道を上ると道脇に小さな祠。大山祇神社であった。浅間神社の祭神・コノハナサクヤヒメの父親におまいり。すぐ横にある休憩所が峠の茶屋。江戸時代貞享3年(1688年)創業。と言う。これまたあいにく閉まっていた。冬にこの地を歩く酔狂な人などいない、ということだろう。峠の茶屋の前には北谷の眺めが広がる。東西に走る北秋川の谷、その向こうに三頭山、御前山、鋸山、大岳山といった奥多摩山系が連なる。

時坂峠

峠の茶屋のあたりからは舗装道路となる。平坦な尾根の車道を400mほど進むと時坂峠。
「トッサカ」と読む。標高530m。「トッサカ」の由来は、浅間尾根への「トッツキ(取っ付き)」の坂との説がある。また、時坂の「時」は、鬨(トキ)の坂、との説も。勝鬨の鬨、である。『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』に、時坂の住人は檜原城の番人であった、と言う地元の人のコメントを載せていた。檜原城は時坂峠から瀬戸沢の谷を隔てた南の山稜にある。城から裏道が時坂峠に通じていたとの説もあるようだが、瀬戸沢って、背戸=裏口、という説もあるくらいであるから、檜原城のある山稜から尾背戸の沢を迂回し、根道をぐるりと時坂峠に至る山道があっても、それほど違和感は、ない。
いつだったか、檜原城跡に上ったことがある。麓の吉祥寺から、その裏山に張り付いた。結構な急坂を上り、山頂に。どうみても砦、と言うか、狼煙台といった

程度。東に戸倉城の山が見える。秋川筋からの武田方の進軍の兆候あれば、この檜原城、戸倉城、秋川丘陵の根小屋城、高月城と狼煙を連絡し滝山城に伝えたのであろう。
檜原城は足利持氏が平山氏に命じ、南一揆を率いこの地に城を築かせた。代々、この地で甲州境の守りの任にあたるが、秀吉の小田原攻めの時、北条方として戦った平山氏は、八王子城から落ち延びてきた城代横地監物を匿うも、多勢に無勢ということで討ち死とか、小河内に落ち延びた、とか。
道標近くに小さな祠と2体
の小さな地蔵塔。ちょっとおまいりし、峠を下ることに。山道に入る。急な坂。ほどなく舗装された林道に。ここからは杉の木立の中の細い急坂を下りたり、開けた山腹の踏み分け道を下りたり、山道と林道歩きを繰り返す。民家の軒先をかすめたりもする。里の風景が、如何にもいい。眼下に見えるのは檜原本 宿のあたりではあろう。車道を先に進むと浅間橋。北秋川の支流セド沢に架かる。ここまで時坂峠から2キロ弱浅間嶺から5キロ強歩いてこたことになる。

払沢の滝

袂を折れて払沢の滝に向かう。払沢橋を越え、土産物屋を眺めながら5分も進むと沢が近く。ほどなく滝壺に。結構多くの観光客が来ていた。滝は26.4mの高さがある。も

っとも、滝壺からは見えないが、4段に分かれており、全部合わすと60mほどになると、言う。浅間尾根の端、もうこれ以上、水により開析できない固い岩盤に当たった、という箇所だろう。もとは、沸沢。沸騰するように流れ落ちたから、と言う。また、ホッス、僧侶の仏具、とも、法師がなまった、との説もあるが、例によって定説、なし。
『武蔵野風土記』によると、滝は昔から本宿部落の雨乞いの場であった、とか。日照りが続くと、太鼓を打ち鳴らし、「大岳山の黒雲 これへかかる夕立 ざんざんと降って来な」と口を揃えて歌った、と言う。大岳山は標高1237m。雨はここからやってくると人々は信じていた。大正5年か6年に一度雨乞いをし、それが最後であった、と(『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』)。

「払沢の滝入口」バス停
滝を離れ、大きな車道に進み西東京バスの「払沢の滝入口」バス停に。五日市駅へのバスに乗り、本日のお散歩終了。次回は、数馬分岐から尾根道を藤原峠、奥多摩周遊道路、風張峠へと進み、そこから青梅の谷の小河内へと歩こうと思う。

古甲州道 そのⅠ;秋川筋を歩く

秋川丘陵・秋川筋を五日市・戸倉まで
中里介山の小説に『大菩薩峠』がある。主人公の机竜之介が大菩薩峠で人を殺める。このシーンがずっと気にかかっていた。何故、1,900mもある峠に浪人がぶらぶらする必要があるのか、まったくわからなかった。この大菩薩峠が中世の甲州街道、今で言う主要国道筋であると知ったのは、つい最近のこと。武蔵と甲斐を結ぶ幹線道路であるとすれば、浪人や商人が往還してもなんら不思議では、ない。
現在の甲州街道は国道20号線。高尾から大垂水峠を越え、山梨に進む。江戸時代の甲州街道は高尾から小仏峠を越え相模湖付近の小原に下り、上野原から談合坂方面の山裾を通り鳥沢に下り、大月の西で笹子峠を越えて甲斐に至る。
今回辿る中世の甲州街道、別名、古甲州道は、府中からはじまり日野に進み、日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹 で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り青梅筋の小河内に下り、小菅を経て大菩薩を越え塩山に抜ける。
古甲州道を辿っての大菩薩行きを何回かに分けて歩く事にする。第一回は秋川丘陵の東端からはじめ、尾根道を進み、秋川筋の南側を五日市・戸倉まで歩くルート。おおよそ16キロとなった。


本日のルート:JR武蔵五日市線東秋留駅>東秋留橋で秋川を渡河>七曲り峠を越えて戸吹町>古甲州道の道筋滝山街道>上戸吹で秋川丘陵下の里道を経て尾根筋>尾根道を辿って御前石峠で旧鎌倉街道山ノ道に合流>網代から秋川南岸の谷筋の道>高尾、留原、小和田>佳月橋で北岸に>小中野で檜原街道に出る>JR武蔵五日市駅に出る


JR武蔵五日市線の東秋留駅
さて、散歩をどこからはじめようか、と少々考える。府中から日野ははじめからパス。車の騒音激しい国道歩きは御免蒙りたい。日野から先の滝山街道は、滝山城への散歩で既に歩いているし、これとても通行量の多い車道筋である。
車の騒音に煩わされないスタート地点を探す。秋川丘陵に入る手前の戸吹あたりがよさそう。が、交通の便がよろしくない。最寄りの駅はJR武蔵五日市線の東秋留駅だが、結構歩かなければならない。致し方なし、ということで中央線、青梅線と乗継ぎ拝島で武蔵五日市線に乗り東秋留駅に。

地蔵院
駅を降り、ひたすら秋川を目指す。南に向かって成り行きで進む。秋川

に近づくと川筋に向かって坂を下る。崖に沿った道は河岸段丘のハケの道。左手には加住丘 陵、右手には今から目指す秋川丘陵が見える。と、坂の下にお寺さま。用水路に沿って進むと門前に。門前にたたずむ3体の石仏にお参りし先に進む。

東秋留橋
ほ どなく秋川に架かる東秋留橋の袂に。秋川はその源を三頭山に発し、福生と昭島の境目あたりで多摩川に合流する。多摩川水系で最大の支流でもある。橋の北詰 に西光寺。境内に観音様があり、ために寺横にある坂は観音坂と呼ばれる。この西光寺のあたりには昔、渡しがあった。鎌倉街道のメーンルートは、この西の秋 川丘陵の中を通るが、ここにはその支道や間道が通っていたのだろう。

七曲り峠
人道橋も併設した東秋留橋を渡り秋川の南岸に。目の前には加住丘陵が横

たわる。スタート地点の戸吹に行くには、この丘陵の七曲峠を越えることになる。峠道を上る。昔は七つのカーブがあったのだろうが、現在はふたつ。大きな道路道となっており、古道の面影は、ない。
時に後ろを振り返り、秋川やその後ろに控える秋留野の台地の景色を楽しみながら、峠を越える。下りは一直線。ほどなく滝山街道との交差点・戸吹町に出る。滝山街道は古甲州道。大菩薩へと向かう古甲州道散歩のスタート、である。

谷地川
滝 山街道を進む。車の通行が多く、時に怖い思いも。滝山街道のすぐ西側には谷地川が流れる。秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵の流れを集めた谷地川は、上戸吹から滝山街道にそって南東に流れ、日野に入ると日野台地の北かすめて東に流れを変え、JR中央線の鉄橋のすぐ上流で多摩川に合流する。北を北加住丘陵、南を南加住丘陵に挟まれた回廊のような低地を進む古甲州道は、谷地川沿いに開かれていったのだろう。
いつだったか滝山街道沿いの滝山城跡に上ったことがある。この城もそうだが、あと五日市・戸倉の戸倉城、檜原の檜原城など、何故に、こんなところに城を築く必要があるのだろう、と考えたことがある。ほとんどが小田原北条氏が甲斐の武田に備えたもの。今回古甲州街道のルートを見て、それぞれの城は、この古甲州街道の道筋にあることがわかり、大いに納得。散歩を続けると、あれこれが繋がって、わかってくる。

桂福寺
滝山街道を北上すると道の右手に朱色の鐘楼山門。美しい門に惹かれて足を止めると、そこは桂福寺という禅寺。17世紀の始め、寛永の頃に開かれたお寺。このお寺は
新撰組の隊長である近藤勇が体得した天然理心流発祥の地。創始者近藤長裕は上州館林藩の出。浪人となりこの戸吹の地で道場を開く。二代目近藤三助、三代目近藤周介と続き、江戸に道場を開いた周介の後を継ぎ四代目となったのが近藤勇である。寄り道したおかげで、思いがけない史跡に出会った。とりあえず足を運ぶ、ってスタンスを再確認。

分岐点「上戸吹西」
滝川街道を進むにつれ、次第に秋川丘陵が近づいてくる。バス停「上戸吹」を過ぎると「上戸吹西」。滝山街道はここで大きくカーブし秋川丘陵を越えてゆく。古甲州道はこの分岐点で滝川街道と離れ、谷地川にそって秋川丘陵の南麓を進むことになる。

根小屋城址
分岐道へ入ると静かな集落。上流部に近づき、細流となった谷地川に沿って里を進む。
ほどなく、「根小屋城跡(二条城跡)この先800m」といった道標。道を右に折れ、秋川丘陵の尾根道に向かう。竹の葉で覆われた山道を上り尾根道に。そこにぽつんと祠が残る。そこが根小屋城址。
城址と言われても、何があるわけでもない。近くに空堀の遺構が残るというが、門外漢のわが身には、いまひとつよくわからない。よくわからないが、戦国の昔、この地に砦はあったのは事実のよう。滝山城を手にいれた北条氏は、秋川筋からの武田に備え、この砦を監視場とした、と言う。とはいうものの、永禄12年(1560年)、小仏峠からの武田軍の急襲以来、北条氏は加住丘陵の滝山城を捨て、裏高尾に八王子城を築く。ために、秋川筋の戦略的重要性も減り、この砦は不要となり捨て置かれてしまった。なお、この城というか砦は二条城とも新城(ニイジョウ)とも呼ばれる。サマーランド近くにある二条山の因るのだろ う。


「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

秋川丘陵の尾根道
根小屋城址から先、古甲州道は秋川丘陵の尾根道を走る。山道を進み、少し下った先に
T字路があり、ここで古甲州道は秋川丘陵の幹線尾根に当たる。道標があり、「網代弁天5.0km、武蔵増戸4.8km、二条城0.3km、秋川駅4.2km」といった表示。右に折れ網代弁天方面に進む。網代は「漁場」と言った意味。
T字路からは道幅はやや広くなる。が、周囲に雑草が茂る。少し進むと、道脇にふたつの石仏。石仏の後ろの石段を上るとささやかな祠。十一面観音が祀ってある。先に進み、深い谷筋脇の尾根道を過ぎると道は上り。上りきったところは木が払われ明るく開けた広場となる。再び道標「網代弁天4.3km、上戸吹バス停2.1km、二条城1.0km」と。
この広場から先は起伏もそれほどなく、ゆったりした尾根道。笹の茂る道は心地よい。しばらく進むと左手にゴルフコース。八王子ゴルフ場。ゴルフ場のフェンスにそって、ふたつほどささやかな広場をやり過ごして進むと霊園に近づく。上川霊園である。菊田一夫さんが眠る。ラジオドラマ「君の名は」で有名な脚本家である。とはいっても、「君の名は」を知っているのは、我々団塊の世代くらいまで、だろう、か。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」といった番組冒頭のナレーションとか、「君の名はと たすねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとり来て 浜昼顔に きいてみる」という歌など、きっちり覚えているのだけど。。。

鎌倉古道と合流
緩やかな坂を下ると尾根道は左右に開ける。鞍部になっているこのあたりは駒繋峠とか御前石峠と呼ばれる。道標には「右手は二条城2.8km、秋川駅6.7km、左手は網代弁天山2.5km、武蔵増戸2.3km」と。
この峠に南から向かってくる道は鎌倉街道山ノ道、通称秩父道と呼ばれる。秩父方面と鎌倉を結ぶ主要往還である。尾根道を進んできた旧甲州道はこの峠で秩父道と合流し、秋川に下るまでしばしの間、同じ道筋を進む。
鎌倉街道、って「いざ鎌倉」、と一旦鎌倉で事が起こった時に馳せ参じる道のこと。もっとも、こういった軍事面だけでなく、経済の流れにも欠かせない道筋であった、よう。また、鎌倉街道といっても、とりたてて新しく道を作った、というより、それまでにあった道筋を整備し、鎌倉との往還を容易にしたもの、と。ために鎌倉街道は間道や支道までを含めると数多くあるのだが、主要なものは秩父道と呼ばれるこの鎌倉街道山ノ道、上ノ道、中ノ道、下ノ道といったもの。鎌倉街道のあれこれは、先日高尾から秩父まで歩いた散歩のメモをしたので、ここでは省略。

駒繋石(御前石)
鞍部を離れ、秋川筋に向かう。道はカーブしながら少し上りとなる。道脇の草むらに駒繋石(御前石)。鎌倉武士の鑑と目される畠山重忠が秩父から鎌倉への途中、馬を繋いだとされる石。三角錐の石には馬を繋いだとされる穴が残る。小さい穴であり、これが本当に駒繋の石なのか、何度も見直したほど、ではあった。言い伝えによると、駒を繋ぐ適当な石がなかったので、重忠が指を押し当ててあけた穴、ということであり、それであれば、それなりの穴であろう、と納得。駒繋峠(御前石)峠は、この石に由来すること

は、言うまでもない。
畠山重忠は文武に秀でた鎌倉武士。秩父や奥武蔵、そして青梅などに重忠ゆかりの地は数多い。妻との別れを惜しんだ妻坂峠、待ち構える女性を避けて山道を歩き、持っていた杖が折れたことが名前の由来となった棒の折山、遊女との恋の道行がその名の由来となった恋ヶ窪などなど、数え上げればきりがない。北条の謀略により二俣川で討たれた、悲劇の主人公であったことも一因ではあろうが、武蔵で最も人気のあった武将のひとりであったようだ。

網代トンネル出口
道を進む。道の北側はフェンスが張られている。そのむこうは木々が伐採され、開けてい る。そこは廃棄物処理場。しばらく道を下ると道の左脇はゴルフ場となる。東京五日市カントリークラブ。先に進むと道の両側にグリーンが広がる。そこまで下ると前方に秋川の北岸の丘陵地帯が見えてくる。草花丘陵だろう、か。さらに下り網代トンネル出
口あたりに出る。




山田大橋南詰め
トンネルから出た車道の先は山田大橋。橋まで進み、秋川の流れを楽しむ。駒繋ぎ峠から重なってきた秩父道と旧甲州道は秋川のほとり、山田大橋南詰めで再び別れる。秩父道はここから秋川を渡り馬引沢峠、または梅ガ谷峠を越えて青梅の軍畑に進み、そこから榎峠、小沢峠を越えて名栗の谷に入り、妻坂峠を越えて秩父に向かう。旧甲州道は秋川を越えることなく、秋川の南岸を五日市の戸倉へと進むことになる。

弁天橋
山田大橋南詰め手前から坂を下り、坂道が山田大橋の下に入り込む手前で、民家前の路地を左に折れる。路地に入ると杉林の中を進む小道となる。しばらく進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。この橋からの眺めもなかなか、いい。
弁天橋を渡ると橋の袂に禅昌寺。先に進むと車道に合流。道端にお地蔵様が2体。その後ろの丘にお稲荷さんの祠があった。この合流点を左に折れれば網代温泉へと続くのだが、旧甲州道はそのまま直進。旅館「網代」脇の坂を下るとT字路にぶつかる。網代橋から上ってきたこの道を左に折れ、高尾、留原へと向かう。

網代城址
山裾の道を進む。ほどなく秋川が近づく。美しい秋川渓谷を眺めながら先に進むと、やがて民家が現れる。先に進むとT字路。右に行けば高尾橋。旧甲州道はここを左に折れる。
坂道を上って行く。坂の途中に高尾公園には梅林が見える。道の反対側には大光寺。大光寺を越えると坂は終わり。その左手に高尾神社。社殿はちょっと奥まった所にある。足早にちょっとお参り。
このあたりまで来ると民家も少なくなる。ほどなくT字路に。道標があり、「網代城址、弁天山」と。網代城址って、もとは南一揆のこもった砦、とか。南一揆って、15世紀の中頃、地侍を中心にまとまった農山村民の自衛集団。が、この南一揆も16世紀の中頃となると、滝山城の北条氏によって潰され、ここにあった砦も甲斐の武田に備える滝山城の支城となった。それが網代城である。南一揆の頭領としては小宮氏、貴志氏、高尾氏、青木氏などがいる。

留原

T字路帯横には天王橋と言う橋。やがて道の両サイドに畑が広がる。ほどなく小峰峠から下り降りてきた秋川街道と交差する。「留原」(トトハラ)交差点。秋川街道を北進すると秋川橋で秋川を渡りJR武蔵五日市の駅に至る。
旧甲州道は交差点を横切り更に真っ直ぐ進む。樹木で覆われた山裾の長い下り坂となる。HOYAの工場の裏手をかすめ、小和田グランド脇を先に進むと秋川沿いの道となる。
留原は中世には「戸津原」、近世は「渡津原」と書かれている。「トツハラ」>「トッパラ」>「突つ原」、ということで、「突き出した原」。地形的にはよくなじむ説である。また、「トドハラ」と濁ると、「トド」は「イタドリ」。イタドリの採れた原っぱ、という説もあるが、定説はない(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。
ちなみに、愛媛では「たしっぽ」、関西では「すかんぽ」などと呼ばれる茎に酸味のある山菜。子どものころ、よく山に採りにいったものだ。先日、津久井の丘陵地を歩いていた時、道ばたにタシッポを見つけ、子どもへのお土産に持って帰ったのだが、子どもたちは嫌々、一口歯を入れただけて、それっきり見向きもしなかった。

小和田橋
前方上流方向に堰。その先に小和田橋が見える。対岸に阿伎留神社がある。いつだったか阿伎留神社を訪ねたことがある。歴史は古く、延喜式には武蔵多摩郡八座の筆頭。武将の信仰も篤く、藤原秀郷は将門討伐の祈願に訪れたと言うし、頼朝、尊氏、後北条氏、家康などからの寄進を受けている。秋川沿いの古木に囲まれた境内は、いい雰囲気であった。小和田橋の手前から川沿いの小道を進み、橋の袂からは南に折れ、小和田の里を進む。小和田(オワダ)の「和田(ワタ)」は「川岸や海岸の湾曲した地形を表す、と。地形的には、その通り。また、「オワダ」には小さな集落との意味もある、と言う(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。はてさて、地名の由来に定説なし、がまた増えた。

広徳寺
畑の広がる道を歩く。左手になだらかな丘陵が見える。日向峰と呼ばれるようだ

。ゆったりとした坂を上ってゆくと、丘陵へ小径が分岐。広徳寺への参道である。参道入口には庚申塔など石仏・石塔が並ぶ。
丘陵を上ると境内に。開基は南北朝期というから14世紀の末、この地の長者の妻による。戦国期は北条氏の庇護を受けた。とか。本堂、山門、ともに堂々とした構え。特に山門は、如何にも「渋い」。如何にも、いい。道から離れ、丘に上るのには少々躊躇いもあったのだが、やはり、とりあえず行ってみる、って精神を改めて確認。

佳月橋
広徳寺を離れ、道に戻る。先に進み民家の中を歩くと分岐点。「佳月橋」の道案内。古甲州道は、佳月橋へと続く。急な坂を下り、ちいさな沢を渡り、分岐点を右に折れると佳月橋に。旧甲州道はここで秋川南岸から北岸に渡ることになる。橋の上からは秋川上流に戸倉城山が見える。戸倉城山には一度上ったことがあり、その特徴的な山容を覚えていた。留原あたりから遠くに見え始めてはいたのだが、ここまで来ると、くっきり、はっきり迫ってくる。
戸倉城は15世紀頃、南一揆の頭領のひとり、小宮氏により築かれたとする。戦国期には大石氏が居城であった滝山城を離れこの戸倉城に隠居した、とか。元は関東管領上杉方の重臣であった大石氏ではあるが、川越夜戦での勝利などで力をつけた小田原北条氏の圧力に抗しきれず、北条氏照を娘婿に迎え滝山城を譲り、自身はこの地に移った。とはいうものの、一筋縄ではいかない大石氏故に、諸説あれこれあり、大石氏のその後の動向についての定説はない。
この戸倉城、上りは結構怖かった。麓の光厳寺から上っていくのだが、南の盆堀川の崖上を進む尾根道にビビリ、山頂寸前の岩場に溜息をついた。山頂はほとんど狼煙台程度の

広さ。東の眺め眼下一望。西はここからは今ひとつよくなかったが、南北秋川の号合流点にある檜原城からこの戸倉城山はよく見えた。檜原城、秋川渓谷入口にあるこの戸倉城、秋川丘陵にある根小屋城、秋川と多摩川の合流点にある高月城、そして滝山丘陵にある滝山城へと続く「煙通信」の砦、と言うか、狼煙台であったのだろう。

檜原街道


佳月橋を渡り秋川沿いの道を進む。渓谷の雰囲気が増す道を進むと川沿いの道は行き止まり。ここからは道を右に折れ、民家の軒先をすり抜け急坂を上ると檜原街道に。そこはほとんど、檜原街道と本郷通りの分岐点である小中野の交差点。角には料亭黒茶屋。落語家、三遊亭歌笑さんの生家、とか。
古甲州道はここを本郷通りに折れ、沢戸橋を渡り、すぐ先で右に折れ、戸倉城山下の道(本郷通り)を通って再び檜原街道に戻り、檜原本宿へと向かう。が、今回の散歩はこれでおしまい。ぶらぶらと、途中五日市郷土館に立ち寄ったりしながら武蔵五日市駅に向かい、一路家路へと。