月曜日, 8月 21, 2023

八幡浜街道散歩;八幡浜から三机に?;石神山を越え、堀切峠、小振峠を経て三机に

往還歩き3日目は石神山を越え、堀切峠を抜けて三机まで。石神山越えは上りは踏み跡もあり何とか三角点までたどり着いたのだが、下りは踏み跡もなく藪に阻まれ途中で国道197号にエスケープ。
その先堀切峠を抜けて三机までの往還も旧路に入る目安となる小振峠の一字一石塔が見つからず、町道を歩き三机まで歩くことにした。が、途次、小振峠へと上るかと思える往還らしき道筋を見つけトレースする。と、「調査報告書」に記される町道を潜るトンネルに繋がり、まま小振峠まで辿れるかと思ったのだが、途中で踏み跡も消え、小振峠を繋ぐことはできなかった。が、後日メモの段階で実行ログとGoogle Street Viewをあわせて確認すると、確証はないのだが、ほぼ小振峠から三机までの往還をトレースできていたように思える。一字一石塔が見つかっておれば完璧ではあったのだが、見つからなかったのが残念である。
ともあれ、三机の最終地点辺りの往還は何とか歩けたと思うので、よしとする。


3日目のルート;
石神山越え
石神山アプローチ口>一字一石塔と大草履>六部供養の祠>石神山三角点>作業道で国道にエスケープ>法面を国道に下りる
堀切峠を越え三机に
塩成の地蔵尊>141.7m水準点より国道を逸れ土径に入るが藪で撤退>県道254を進み堀切峠を抜ける>国道を左に逸れ小振峠(こぶのと)へ>丘陵先端部をぐるりと廻る町道を進む>道路から逸れる往還跡下り口の山側にアプローチ道>道路から逸れる往還跡下り口を三机の港に>侍番所跡>三机港>三机の町並み



石神山越え

石神山アプローチ口;午前8時20分
アプローチ口を上ると直ぐ草藪
草藪を抜けると踏まれた道になる
国道197号を逸れ佐市へと向かう道路わきに車をデポ。昨日探したアプローチ口らしきところから石神山を目指す。
最初は国道197号法面に沿って整備された手摺に沿って上る。結構な草藪。5分弱少々不安になりながらも先に進むと踏まれた感のある道筋に出る。一安心。
「調査報告書」には「ここからは尾根沿いの土道に入り、石神山を目指して登ってゆく。尾根上は三机 村と二見村(浦?町見村?)の境界(旧瀬戸町と旧伊方町の境界)となっていた。初めの勾配が急部分を登りつめると、急に西側の眺望が開ける所に出る。ここは「佐市分かれ」といい、佐市集落へ下る道が分岐している。この少し先が佐市峠で、かつて松があったとされるが、その場所は分からなくなっている 」とあるが、標識もなく記載箇所は不明。

一字一石塔と大草履;午前8時39分
一字一石塔と大草履
踏まれた道を辿ると

上り始めて20分ほど。道脇に「大乗妙典一字一石塔」と刻まれた一字一石塔と大草履があった。途中一里松跡もあったようだが、今はその場所は不明となっているようだ。 一字一石塔は、ひとつの石に法華経典の文字を一字記し地中に埋めた上に石碑を立てる。仏教の信仰形態の一つに「写経」がある。経文を心をこめて写すという行為によって功徳を得ようとするもので、在家の信者もこれを行うことによって祈願または供養の目的を果たすことができるという古来からの信仰習俗。
本来の写経は、紙または布に書写するものだが、その経文を長く記しとどめるため経文を石または瓦に記すという風習が生まれたようであり、その内でも小石に一字ずつ経文を書写して地に埋め石塔を立てたものが一字一石供養塔と伝わる。
「調査報告書」には「大草履は二見村の住民が毎年作り替えているもので、ここが三机との村境であることを意味している」とある。大草履は村境で悪霊や病疫を防ぐ意味を持つとのこと。

六部供養の祠;午前9時23分
六部供養の祠
踏まれた感のある道筋を40分ほど進み、石神山ピークの最後の上り辺りにコンクリート造りの祠があり、中に三体の石仏が祀られる。「調査報告書」には「六部の墓と伝わる祠がある。祠はコンクリート製で三体の石像が安置され、中央の地蔵の台座には「奉納明治廿六 五月上旬」と刻銘されている。祠の側には地元加周出身で大阪へ出た企業の経営者が、昭和六〇年(一九八五)に祠の寄進を行った経緯が陶板に記されている」とある。
六部は六十六部とも言い、全国六十六箇所の聖地に法華経を一部納める全国を辿る巡礼僧。

石神山三角点;午前9時39分
石神山ピークに標識が見える
三等三角点(302.9m)
六部供養の祠から15分ほどで石神山のピークに着く。案内も何もなく木々に覆われ見晴らしも効かない。唯一三等三角点(302.9m)でピークを確認する。
下山ルートについて、「調査報告書」には「往還は山頂西側を通っているが、山頂から往還にかけての緩斜面には石垣が多数残っており、かつては山頂付近にも人が暮らし、段畑等を経営していたらしい。 石神山山頂からの下りも緩やかな道であるが、尾根上の各所に石垣が見られ、これは村境を示すものといわれている。下るにしたがい往還沿いに高い木が少なくなり、笹、いばら、灌木が茂って通行が困難なほどに荒れているが、やがて左側を通る国道一九七号へ合流する」とある。
「調査報告書」に従い、取り敢えずピーク西側で下り口を探す。が、これと言って踏まれた道は密あからない。

作業道で国道にエスケープ;午前10時43
幾段も続く石垣の藪漕ぎに疲れ果て
偶々であった作業道を国道にエスケープ
これと言って案内もなく、成り行きで下り始める。先に進むと石垣がある。これが目安か、と思ったのだが、石垣は一箇所だけでなく幾段もあり,どこがオンコースかわからない。次から次に現れる石垣に困惑。石垣を下りて下りても石垣が現れる。しかも荒れた道筋。ほとんど藪漕ぎ状態となる。
ほとほと疲れ果てた頃、眼前に手摺の整備された作業道の石段が現れる。本来の往還はもっとずっと先で国道に出ることになるが、もう藪漕ぎは勘弁と国道にエスケープすることにした。ほぼ1時間ほど藪と格闘したことになる。
尾根上の石垣
下りても下りてもこのような石垣が続く
石垣に引っ張られ成り行きで進んだのだが、少し上の尾根の稜線に沿って下れば鞍部もあり、もう少し楽な下りになったかもしれない。実際「調査報告書」には「尾根上の各所に石垣が見られ」と「尾根上」と記されていた。地図を見ると尾根稜線突端部はエスケープ地点より結構先で国道に合わさっていた



法面を国道に下りる;午前11時10分
この10mほどの法面を下りた
作業道を国道へと下る。と、そこは国道と10mほどのギャップのある法面となっている。辺りに国道への下り口はないものかと少し辺りを彷徨ったのだが、それらしき箇所は見つからない。また藪に戻る気力はなく、法面を下りることにした。
実のところ、国道などにエスケープする時、法面とか落石防止柵などで阻まれるケースが多いことを経験上身に染みており、今回の国道脇を抜ける石神山越えも多分にその可能性もあるかと10mロープ2本を用意していた。ロープを繋ぎ、法面の突起物にロープをかけ10mほどの法面を下り、国道に。 国道に下りてみると、ちょっと西に進んだところに国道への下り口があった。ガックリ。
藪漕ぎで疲れ果て国道脇に呆然と座り込んでいると、身も世もない姿に見かねた方が自動車に拾ってくださり、車デポ地まで送って頂いた。反対車線に一度停まった車であったので、わざわざUターンして拾って下さったのだろう。灼熱の炎天下車デポ地まで1キロ弱ではあるが、歩く力は残っていなかった。深謝。

堀切峠を越え三机に

塩成の地蔵尊
車デポ地から国道197号を進み、愛媛での最初の道の駅とも言われる「道の駅 瀬戸農業公園」の500mほど手前、国道の右手にコンクリート造りの祠があり2基の舟形石仏と中央に台座に座る石仏が祀られる。台座には「三界萬霊 弘化五年申七月吉日 塩成浦 清水濱中」と刻まれる。道の南、宇和海に面した塩成(しおなし)集落の人々によって祀られたもの。現在は広い国道脇に立つが、往昔は石神山を越え稜線を進む往還がこの辺りを通っていたのだろう。

141.7m水準点より国道を逸れ土径に入るが藪で撤退
141.7m水準点脇より土径に入るが
獣侵入防止柵の先で藪となり撤退
地蔵尊の祠の少し西、国道の左手に少し広いスペースがありそこに141.7m水準点がある。往還は水準点脇から国道を左に逸れ土径を県道254号に向かって下る。
土径に入りしばらく進むと獣侵入防止柵。柵を開け先に進むがその先は藪。本日は十分に藪漕ぎを堪能しており、迷うことなく撤退し国道に戻る。

県道254を進み堀切峠を抜ける
堀切峠を跨ぐ国道197号堀切大橋
国道197号まで戻り、「道の駅 瀬戸農業公園」の直ぐ先で国道を左に逸れる県道254号に入り、国土地理院地図に県道254号から141.7m水準点方面へと記される破線部に到着。水準点までを繋ぐアプローチ点はないものかと結構探うしたのだが、それらしき箇所は見つけることができなかった。 県道254号と国道197号を繋ぐ道筋トレースを諦め、県道254号を西進し、T字路を右折。ほどなく頭上65mを国道197号堀切大橋が跨ぐ堀切峠へ。
この辺りは佐田岬でも宇和海側と伊予灘側が最も狭くなっている箇所。それもあってか、江戸時代初期には初代宇和島藩主だった富田信高が堀切峠を掘り下げて運河を開削しようとしたと言う。現在でも峠の標高は73mもある。2年半をかけた工事も運河が抜けるはずもなく、富田氏の改易もあり工事は中断した。酷使され犠牲者となった人夫を供養する経塚が残ると言う。
塩成(しおなし)
県道254号を堀切峠に向かわず宇和海側に下ると塩成がある。宇和島藩主参勤交代の折、宇和島から海路塩成に向かい、堀切峠を越えて三机から再び海路で瀬戸内海を進んだルートもあったようだ。
「調査報告書」には塩成について「塩成浦はかつて牛馬市が盛んであった。 佐田岬半島における牧畜の起源は、宇和島に伊達秀宗が入部して以後のこととされる。 秀宗は佐田岬半島一帯に繁茂するチガヤが馬の飼料に適していることに着目し、名馬の産地として知られる陸奥国名取郷(現宮城県名取市)から馬飼人を呼び寄せ、牛馬飼育を奨励した。
江戸時代末期のものとされる三机浦庄屋の記録によれば、同浦では牛が三二五頭、馬が四四六頭飼育されていた。明治に入ってからは、馬よりも牛の飼育が盛んとなり、「三崎牛」と呼ばれる子牛の生産で知られた。生産のピークは、昭和三〇年代であった
(『愛媛県史』 地誌Ⅱ)。塩成への道はきわめて緩やかで道幅も広く、牛馬の通行に適していることが分かる」と記される。

国道を左に逸れ小振峠(こぶのと)へ
国道255(254)号を左に逸れ丘陵へ
堀切峠を越えると直ぐ県道254は県道255に合流する。合流点からすぐ先、往還は県道255を左に逸れ丘陵を進む。「調査報告書」には「堀切峠の北西端に登り口があって、旧瀬戸斎場の方へ土道が続いている。斎場跡を過ぎてしばらくすると、路面はコンクリート舗装されているものの利用者はほとんどなく、舗装面を破って笹や灌木が茂り歩きにくい」とあるが、今日では道はきちんと舗装されている。



地形図ではこの鞍部が小振峠と思うのだが、
結構探したが一字一石塔は見つからなかった


しばらく進むと丘陵の鞍部に出る。鞍部には四つの舗装道が繋がる。「調査報告書」にはこの鞍部、小振峠と呼ばれるようだが、ここには堀切工事の犠牲者を供養する「一字一石塔」があると言う。結構な時間を掛けて探したのだが結局見つからなかった。道の状態など上述「調査報告書」の記載と現状は結構異なっており、調査報告書作成時とは状況が変わってしまったのだろうか。



道路の左右に往還への上下アプローチらしき道がある
道の両側に上り・下りのアプローチ口がある
「調査報告書」には「石碑のある場所は小振峠(こぶのと)といい、ここから舗装道路の下をくぐり、北西方向に下ると三机駐在所の前に出る」とある。歩道道路の下をくぐる?どういうこと。鞍部から北西方向へと歩けるようなアプローチらしきものも全くわからない。
国土地理院地図を見ると、丘陵をぐるりと廻わるルート実線の丘陵西側から三机に向かう破線ルートが描かれている。これが往還ではなかろうか、であればその近辺に鞍部と繋がるアプローチ口があるのではと、丘陵をぐるりと廻り道路と往還跡らしき破線が繋がる箇所に向かう。
舗装され快適な道を進み丘陵先端を廻り往還跡らしき「破線」ルートが道路に繋がる地点に到着。道路の右手に下に下りる手摺柵、山側に上に進む土径があった。

山側に上る小振峠へのアプローチ道らしきルートを辿る
上りの土径に入る
道はよく踏まれている
山側に上るを辿れば小振峠からの往還に繋がるのではとスロープを上る。草は茂るが道はよく踏まれておいる。20分ほど歩くと道路下のトンネルを抜ける。これが「調査報告書」が記す「 石碑のある場所は小振峠(こぶのと)といい、ここから舗装道路の下をくぐり、北西方向に下ると三机駐在所の前に出る」とある舗装道路下のトンネルだろう。
20分ほど歩くと町道下のトンネルを潜る
その先峠に続くかと期待したが草藪となり
道は消える
その先も踏まれた道があり、そこを辿れば小振峠に出れるかと思ったのだが、直ぐに藪。このまま進めば鞍部の小振峠から離れることになる。ということで撤退。成り行きで先ほど歩いた丘陵先端部を廻りこむ道路に這い上がる。結局小振峠を繋ぐことはできなかった。
Google Street Viewでトンネル下り口をチェック
道の右手の手摺柵を下りれば
トンネルを潜れたかも
当日は見逃したのだが、GPSログをとGoogle Street Viewをチェックすると、小振峠と思われる鞍部の直ぐ先、ログが道路下のトンネルを潜る辺りに、道路から下に下りる手摺柵が見える。「調査報告書」にある、「ここから(小振峠)から舗装道路をくぐり」というのは、この手摺柵を下りトンネルを潜るということかもしれない。未確認ではあるが、それ以外にっ舗装道路をくぐるアプローチ口らしき箇所は見当たらなかった。

道路から逸れる往還跡下り口を三机の港に
道の右手の手摺柵を下りると
踏まれた道が続く
再び丘陵先端部を廻り道路を右に逸れる国土地理院地図破線部に。道はしっかり踏まれており迷うことなく10分ほどで舗装道路に下りる。その先には三机の港が見える。「調査報告書」にあった三机駐在所も道の左手直ぐのところにあった。

往還の雰囲気を感じながら10分ほど歩くと
三机の港が見えてきた
それにしても「調査報告書」に記される小振峠からこの駐在所までのルート案内。「石碑のある場所は小振峠(こぶのと)といい、ここから舗装道路の下をくぐり、北西方向に下ると三机駐在所の前に出る」という記述は少々簡単過ぎるように感じる。もっとも一字一石塔を見つけることが出来て居れば、状況は変わったかとも思う。見つけられなかったのが残念。

番所跡
港へと向かうと、県道255号の山側に「侍番所」と記され、番所建屋が刻まれた石碑が立つ。「調査報告書」には「江戸時代、今の駐在所の前あたりに宇和島藩の海岸侍番所があったことが『三机古絵図』(伊方町指定有形文化財) より確認できる。絵図では、海岸に近い石垣上に瓦葺入母屋造二階建ての建物が描かれ、その前には刺股(さすまた)・袖搦(そでがらみ)・突棒(つくぼう)など捕物道具が立てられている。
三机は伊予灘を通行する船の寄港地であり、藩主の参勤交代にも利用されたことから重視されていた。 番所役人には八〇石から二五〇石の藩士が充てられ、二~三名の下番役人がついた。また番所の任務については、寛文七年(一六六七) 「三机番所御定書」に記されており、船と積荷の管理方法や、旅人の取締りについて、詳細な規定が設けられていた(『瀬戸町誌』)」とある。

三机港
三机の港に到着。宇和島藩主は参勤交代の折、この湊から兵庫の室津、または大坂へと船出したようである。Wikipediaにはこの湊は薩摩藩、熊本藩などの参勤交代時の中継湊でもあったと記す。 三机湾は伊予灘唯一の避難港・天然の良港であったようだ。この地は第2次世界対戦中には、特殊潜航艇の訓練基地となっていた。真珠湾と地形や水深が類似しているということで真珠湾攻撃を想定した訓練が行われていたと言う。九軍神は、特殊潜航艇に乗り込み、体当たり攻撃で真珠湾に散った9人の軍人を指す。
九軍神碑
港の先に鬱蒼と茂る森が見える。湾岸流により運ばれた砂礫が湾口に細長く堤状に堆積した砂嘴、別名曲がり橋立とも呼ばれるこの砂嘴に茂る須賀の森には真珠湾攻撃に特殊潜航艇で参戦した九軍神慰霊碑が建てられている。





三机の町並み
「調査報告書」には「番所跡を通過すると、当時の海岸に沿って往還が庄屋屋敷まで延びており、 十七軒家と呼ばれる格式の高い商家が軒を並べていた。これらの商家は参勤交代の折、家臣たちの宿泊所ともなった。 現在も道幅は約二・六メートルと当時のままとみられ、普通自動車が通行できるものの、時折トラックなどが軒先に接触することがあるという。
また、商家の途中から左折し坂を登ると、法性山長養寺がある。長養寺は臨済宗妙心寺派に属し、天正六年(一五七八)、井上善兵衛重房に招かれた乾光和尚により開かれた。 宇和島藩主が参勤交代の途上度々立ち寄っており、五代藩主村候が宝暦二年(一七五二)、六代藩主村壽が安永七年(一七七八)に詠んだ歌が残されている。境内の観音堂は、寛永一六年(一六三九) 宇和島藩士梶田権兵衛が 島原の乱から無事凱旋したことを記念し、藩主の許しを得て建立したものである。oん
御仮屋跡
現在の堂宇は昭和五八年(一九八三)に鉄筋コンクリートで再建されたものだが、建立当時の千手観音が祀られ、伊方町指定文化財となっている。
十七軒家を抜けたつき当たり、現在瀬戸公民館となっている辺りが庄屋屋敷跡で、そこから左折して一段高い場所が、三机御仮屋跡である。 御仮屋は宇和島藩主参勤の際の休息所として、三机浦庄屋が管理した。 御仮屋の設置年を、 『瀬戸町誌』では寛永六年(一六二九)としているがこれは確かではない。 御仮屋は享和三年(一八〇三)、文化一四年(一八一七)、文政四年(一八二一)、同五年と度々破損の記録があり、同九年にはついに大破してしまい天保二年(一八三二)には閉鎖となった」と記す。
「えひめの記憶」には殿さまは御仮屋より長養寺に泊まることが多かったとも記される。
また三机は古くは「御着江」とも書き、宇佐八幡の分霊が漂着した地とされるとWikipediaにあった。

これで2泊3日の八幡浜から佐田岬のほぼ中央部にある三机までの往還のトレースを終了。既に歩き終えた卯之町から笠置峠を越えて八幡浜まで、また八幡浜から夜昼峠を越えて大洲までの往還を加え、八幡浜街道トレースを完結する。

日曜日, 8月 20, 2023

八幡浜街道散歩;八幡浜から三机まで②;八幡浜市と西宇和郡伊方町の境辺りから石神山取り付き口まで

二日目は八幡浜市と西宇和郡伊方町の境辺りからスタートし伊方町の中心を抜けた後、伊方峠を越え、伊方町九町地区の三宝寺から山腹の道を南西に進み、平岩峠を経て石神山取り付き口までをトレースする。
伊方峠は取り付き口がわからず、下り口から逆に繋ごうとしたが伊方峠からの下りルートは大半をカバーするも、結局伊方峠への上り口から峠を越えたあたりまでのルートはトレースできなかった。 また三宝寺から伊方半島を東西に続く山地の宇和海側の山腹をトラバース気味に進むルートは、「調査報告書」記載のルート案内と現状が今一つ一致せず、ほぼ成り行き、後半の平岩峠への道筋はなんとなく往昔の往還道筋らしきところをトレースできた。
当日はその先、石神山の取り付き口を確認しその日を終えた。



2日目のルート;
大川左岸地蔵尊よりスタート>河内三波の常夜灯>大師堂と大草履>川永田の一里塚跡>伊方峠へ>町道から伊方峠手前までを繋ぐ>伊方町九町地区から山腹の三宝寺へ>三宝寺の一里塚跡>九町から上ってきた舗装された町道(?)に出る>町道を西進する>鳥津への分岐点から土径に入る>分岐点を左に折れると廃屋>廃屋の先、荒れた竹藪を抜け国道197号に出る>平岩峠>平岩峠の先で国道を逸れ町道を進む>国道197号を潜り佐市への舗装道に出る>石神山へのアプローチ口へ



大川左岸地蔵尊よりスタート
初日の最終地点、鼓尾集落から少し西に進んだ国道197号に沿って流れる大川左岸の町道(?)に立つ地蔵尊よりスタート。八幡浜市と西宇和郡伊方町の境といった辺りである。舗装された大川左岸をしばらく進むと伊方町河内で国道197号に戻る。

河内三波の常夜灯
往還は少しの間国道197号を進んだ後、国道を右に逸れ旧道に入る。旧道入口に常夜灯が立つ。河内三波の常夜灯。「当浦安全 嘉永七寅四月吉日」の銘が刻まれる。
「愛媛県歴史の道調査報告書(以下「調査報告書」)には「昔、大津波が三回にかけて襲ってきた。一番目の波が来た所を一の波、二番目の波が来た所を二の波、三番目の波が来た所を三の波といい、現在もその地名が残っている。また、海抜二〇〇メートル位の所に船頭ヶ崖という地名があり、何度目かの大津波で小舟が船頭を乗せたまま押し上げられた」 (「ふるさとの歴史と文化財』)。 この場所は海抜二〇メートルほどあり、本当に津波がここまで来たかどうかは科学的な調査が必要だが、伊方浦の住民の、津波への警戒を怠らぬようにという願いから、このような伝承が生まれたのかもしれない」とある。

大師堂と大草履
河内三波の常夜灯から先に進んだ往還はその先で国道197号をクロスし、そのまま国道の南、大川左岸を進み、浦湊地区に入ると直ぐ大川を渡り右岸へ移る。直ぐ先、スーパー手前、道の右手にコンクリート造りの祠があり、中央に大師立像、その左右に四基の石仏が祀られる。
「調査報告書には」、「コンクリート製の祠があり、中には首を修復して継いだ大師像が祀られ、次のような言い伝えがある。
昔、一人の百姓がいた。酒好きの怠け者で勝負事が大変好きだったので、ばくち場へも度々出入りしていた。ある日のこと、いつものようにぼくちに負けてしょんぼり帰ってくると、近所の年寄りが、「心配事があるなら、五本橋のお地蔵さんに頼めや」と言った。男は地蔵に願をかけ「ばくちに勝た せてくれたら赤いよだれかけをあげるし、毎日お参りに来る」と祈った。帰ってすぐ家屋敷を抵当にして借金をし、ばくち場へ出かけたがその晩も負けてしまった。
怒った男は、「このぼろ地蔵め」と蹴飛ばしたため、地蔵は川の中に落ち、首がぽろりと取れてしまった。それからしばらく経ったある日、男が薪とりに山へ出かけ帰ってこないので近所の人が探しに行くと、男は薪を背負ったまま谷底に落ち、首の骨を折って死んでいた。人々はお地蔵さんの祟りだと話し、川に落ちていた地蔵の首を見つけ、胴につないで祠に納めてお祀りした。
それから特に首の病気を治す地蔵として、お参りする人が絶えない。(『ふるさとの歴史と文化財』) ただし、この石像は右手の印の結び方や、台座部分に水瓶と沓の彫刻がなされていることから弘法大師像とみて間違いない。台座は一部剥離し、コンクリートで修復されているが、右側に天保五 甲午歳(一八三四)の銘がある。
また、祠に掛けられた大草履は、西予市宇和町永長の例と同様、村境で悪霊や病疫を防ぐ意味を持つ。」とあった。よく見れは大師像の首の辺りがコンクリートで補修されていた。

川永田の一里塚跡
その先、往還は伊方町の中心部を抜ける。山裾に湊浦八幡。お参りを済ませ小中浦、中浦を過ぎると川永田に一里塚跡を記念する石碑が立っていた。

伊方町
「愛媛県」の資料には「愛媛県の最西端、豊予海峡に突き出した“日本一細長い”佐田岬半島に位置し、南は宇和海、北は瀬戸内海と三方を海に囲まれている。半島の中央部は200~300m級の低い山地が東西に連なっており、平地が少ない。気候は、年間気温16~17℃で、著しい寒暖の差がなく温暖な海洋性気候である。
風光明媚なこの地域は「耕して天に至る」と言われる段々畑で温州みかん、清見タンゴール、デコポンなどの果樹栽培が盛んに行われている。また、天然の好漁場に恵まれ、高級魚の一本釣りや採介藻、底引き網漁業が主に営まれ、山の幸、海の幸を利用した加工品も多く生産され、これら特産品を求めて観光客が県内外から訪れる。
また、この地域特有の風を利用した風車建設を行うなど、自然エネルギーの利用を推進している。 「伊方」という名の起源はいつの時代からかはっきりしていないが『日本地名語源事典』の「イカタ」・「イガタ」の項に『土地がらがさまざまで地形語ではあるまい。「イヘカタ」(家方) か「イホカタ」(庵方)で、もと仮小屋のあった所をいうか、農業の小屋であったかもしれない』とある。
また、一説には「イカ」は山ろくなど後方に山を負うところにみられる地名で「タ」は土地の意味である。後ろに山をかかえた地形から名付けられたものか、はっきりしたところはわからない」とあった。

伊方峠へ
往還は川永田の一里塚跡から伊方峠に向かう。が、往還は伊方ダム、町民グラウンドなどの建設で道筋は消えている。
とりあえず道なりに進み伊方峠手前、町民グランド西端辺りで伊方峠への取りつき口を探すが見つからない。さてどうしたものか。と、国土地理院の地図には伊方峠から東に下りる破線が描かれている。で、破線に沿って逆方向から伊方峠越えのルートを探そうと、町民グラウンド西端を廻り込み国道197号に出て直ぐ、九町トンネルを抜ける。九町トンネルを抜けると左に折れ伊方峠方向への舗装された道がある。道を進み国土地理院地図の破線ルートが道と交差する地点へと向かう。

地図では、この辺りが九町への下り口なのだが
破線部が道に交差する地点に到着し伊方峠へのアプローチ口を結構探したのだが見つからない。またまた、舗装道から東へと九町方面へと下るアプローチ口も見つからない。場所からすれば道の右手にある柵で囲まれた平地あたりから下るかと思うのだが踏み跡もない。
結局、伊方峠からの下りはあきらめ、伊方峠から沢筋を下る破線ルートが九町方面の町道に合流する辺りにアプローチ口があることを願い、その地まで進むことにする。

町道から伊方峠手前までを繋ぐ
砂防堰堤脇から伊方峠方面に上る道がある
踏まれた道も消え、地図の破線ルートを上る
九町トンネル出口まで戻り、その少し西から国道を右に逸れ、国道を潜り国土地理院地図の破線ルートが町道(?)と出合うところまで進む。



上り切ったところに柵
先ほど見た柵に囲まれた平場に出た
そこには砂防堰堤があり、その左隣から沢筋へと向かうアプローチがあった。しばらくは踏まれた感のある道筋を進むが、崖面近くで踏み跡は消える。GPSを頼りに国土地理院地図に記される破線に沿って崖面を上ると先ほど見た柵に囲まれた平場に出た。
ここまでは道を繋ぐことはできたが、結局そこから伊方峠、伊方峠から町民グランドへのルートは見つからず、伊方峠越えトレースは西半分のみで終えることにした。

伊方町九町地区から山腹の三宝寺へ
ここから三宝寺への山道に入る
沢筋に沿って道を進み旧町見の町並みに入る。町に九町公園とか九町保育園と言った名前が目につく。町見は九町浦と二見浦が町村制施行時に合併し、ふたつの浦の地名をとり「町見村」としたのが前身。その後昭和30年(1955)に伊方村と合併し伊方町となった。現在の地名は旧九町浦地区は伊方町九町、二見浦地区は伊方町二見となっており、伊方町九町にも二見にも「町見」を冠した施設が残り、かつての町見村の歴史を残す。
町並みを抜け一里塚のある三宝寺へと向かう。三宝寺への道筋は「調査報告書」には「久保あたりから急斜面を登り」とある。はっきりとした取りつき口は不明だが、国土地理院地図に山腹の三宝寺に続く破線が描かれている。その破線を頼りに狭い民家の間を抜け山に上る道に乗る。

三宝寺の一里塚跡
小祠を見遣りながら山道を上ると
三宝寺。無住のようだ
途中小祠などを見遣りながら10分ほど道を上ると無住らしき寺がある。三宝寺だろう。その直ぐ先に大日如来をはじめとした四基ほどの石仏が祀られる。


「九町一里塚」の案内板
傍に4基の石仏
傍に「九町一里塚」の案内板。「伊方町指定史跡昭和53年(1978)12月20日 指定
江戸時代、主要な街道にそって一里(約4km)ごとに植えられていた一里松の跡地。宇和島領では2代伊達宗利の命で宝元年(1673)に黒松が植えられたとされている。三宝寺の前のこの地にあった松も、その頃に植えられたものと考えられている。
残念ながら松は明治末期に枯死し、その後植えられた2代目の松も昭和49年(1974)に虫害で枯死し伐採されているが、かつては「一里松」といえば三宝寺の通称であったといい、周囲はかつての往還道沿いで、「これより西へ二見を経て三机に至る」と記した石碑や、旅人の喉をうるおしたお茶の 水」と呼ばれる湧水があったと伝えられている。当時の主要な交通路を知る上でも貴重である」とあった。

平岩峠への道
ここから先、山腹の道を進むことになるが、「調査報告書」には「九町の一里塚からの往還は、みかん畑の中の道で若干道幅も細くなっている。(中略)約一キロ弱みかん畑の中の土道をたどると、中腹の町道に合流する。(中略)少し下ると国道と並行する細い農道があるので右へ分岐する。道路はアスファルト舗装で、そのまま道を約一キロ行くと、地元でサイレン山と呼ばれている場所にたどり着く。ここから鳥津方面に向かう土道を登り、送電塔まで登る手前で左折してみかん畑の中を行く。 約一キロで国道一九七号に出て、平石峠に至る」と記される。
この記事に従いトレースしようと思ったのだが、記事に「ミカン畑の中を抜ける」とある農道は獣侵入防止柵で行き止まりとなることが多く、また「国道に沿った舗装された細い農道」が何処を指すのか現在の地図と見比べてもわからない。途次出合った地元の方も旧道は現在の町道改修に際し分断されており、旧道をトレースするのは難しそう。
ということで、三宝寺から平岩峠までの往還は後半に旧往還の一部は掠めるも、おおよそ成り行きで進むことにした。以下、実行ルート記す。

町見から上ってきた舗装された町道(?)に出る
舗装道に出た山側に石仏が並ぶ
その先にも石仏が
三宝寺の石仏が佇む分岐点からミカン畑を西に向かう土径がある。これが往還だろうかと歩を進めるが直ぐ行き止まり。分岐点まで戻り坂道を上ると伊方町九町から登って来た舗装された町道(?)に出る。町道に出た山側に石仏が並ぶ。少し先の山側にも幾つもの石仏が並ぶ。
合流点手前に西進する道
宇和海をの眺めを楽しみながら
ミカン畑の間の道を進むが、ほどなく行き止まり
合流点手前にミカン畑の中を西進する舗装農道がある。これが往還だろうかと先に進んだのだが、しばらく行ったところで道が切れ行き止まりとなり元に戻った。道筋から眺める宇和海は美しかった。

石仏が並ぶ町道を西進する
合流点から少し上ったところで九町から上ってきた道は、山腹を東西に続く舗装道にあたる。ここの合流点にも幾多の石仏が並ぶ。


合流点を左に折れ、舗装された道を南西へと進む。道筋には時に石仏をみかける。道を進みながら「調査報告書」にあった「国道と並行する舗装された細い農道」がないものかと注意しながら進むが、それらしき道は見当たらない。途次1キロ弱のところにある集落で出合った地元の方にお聞きしても、町道の上下にあった旧道は町道整備の折町道に吸収されたり、廃道となったりと現在は往還は残らない、と。
想うに、道脇にいくつもの石仏が並ぶということは、この町道がかつての往還に何か関係ある様にも思えてきた。ひょっとすると、この舗装道が「調査報告書」にある「 国道と並行する舗装された細い農道」?この国道って稜線を走る国道197号?などと思いもするが、結局よくわからない。

鳥津への分岐点から土径に入る
電波塔脇で町道を逸れ土径へ
亀ヶ池を眺めながら進む
また、地元の方によれば、町道を先に進み、道が丘陵を南に大きく迂回する手前に電波塔施設があり、そこから鳥津方面へと土径に入れば平岩峠に続く「殿様道」が残るとのこと。アドバイスに従い500mほど歩くと道の山側に電波塔らしき施設があり、そこから町道を逸れる土径があった。国土地理院地図にはこの地から北に進み国道197号を越えて伊予灘側の鳥津(とりづ)に繋がる破線が記される。「調査報告書」にある「ここから鳥津方面に向かう土道を登り、送電塔まで登る手前で左折してみかん畑の中を行く。 約一キロで国道一九七号に出て、平石峠に至る 土道を登り」とあるのがこの地であろうと思い込む。
地元の方が最高の温泉とおっしゃっていた亀ヶ池温泉のある亀ヶ池のある湾を見遣りながら土径を進む。

分岐点を左に折れると廃屋
二つ目の分岐を左に折れると
廃屋があった
土径に入るとほどなく最初の分岐点。分岐点を左に折れ少し進むが直ぐに行き止まり。元に戻り少し北進すると2番目の分岐点。分岐点近くには送電塔は見当たらないが地図には上に送電線が走っており、分岐点を左折。
しばらくは草の生い茂る道。宇和海を眺めながら進むと廃屋があった。

廃屋の先、荒れた竹藪を抜け国道197号に出る
滅茶苦茶な竹藪を抜けると
国道197号に出る
廃屋から先、数分歩くと荒れた竹藪となる。滅茶苦茶な状態で道を塞ぐ竹藪に悪戦苦闘。オンコースではあろうと思うのだが、少々心配。かろうじて踏まれた感のある道筋に沿って細い水管が続く。水管があるだけで故無き安堵感。
竹藪を抜けた先で国道197号に出た。廃屋から40分もかかっていた。「調査報告書」のルート図にもこの道筋は概ね合致しているように見える。
鳥津への道
分岐を折れず直進すると国道に出る
道も踏まれており至極快適
二つ目の分岐点で左折することなく直進すると国道197号に出る。竹藪での藪漕ぎ格闘を避けたいなら、こちらのルートを進み国道に出るのがいいかと思う。国道からのピストン復路はこちらのルートを歩いた。至極快適。

平岩峠
国道197号を少し進むと平岩峠。国道197号建設により峠の面影は消えている。稜線を走る国道197号、東西南北遮るもののなく、風受けて回る幾多の風力発電のブレードが見える。
国道197号
現在の国道197号は稜線を抜ける快適な道であるが、この国道ができる前の旧197号の佐田岬部分は、それはもう「酷道」の際たるものであった。集落部での細路、ガードレールもない伊予灘の断崖絶壁上を走る山腹の道、思い出すだけでも当時の怖さが蘇る。「197」、別名「いくな;行くな」の国道と呼ばれた所以である。

平岩峠の先で国道を逸れ町道を進む
平岩峠の先で国道197号を左に逸れ町道に乗る。南西にすすむと分岐。右の道に入り国道197号に沿って進む。道は少し荒れているが舗装されており車で走ることも可能ではある。 上水施設などを見遣りながら進むと、道の山側に地蔵が佇む。

国道197号を潜り佐市への舗装道に出る
国道197号を潜り
佐市への舗装道に出る
先に進み国道197号を潜る。分岐点から20分弱歩いただろか。舗装された道は国道を潜った辺りで行き止まり。国道197号へと上る道を探す。国道を潜った先、国道に沿って緩やかなスロープがあり、そこを上り切ると国道197号から別れ佐市へと下る舗装道に出る。

石神山へのアプローチ口へ
石神山へのアプローチ口
国道から逸れた辺りから石神山へのアプローチ口を探す。広いスロープが南へと上るため先に進むが行き止まり。道路まで戻りよく見ると国道197号の法面へと上る手摺柵があり、そこに踏み跡もある。ここが石神山へのアプローチであろうと仮定し、二日目の往還トレースを終える。