金曜日, 9月 30, 2005

多摩丘陵から杉並へ Ⅲ;調布から永福へ

襷リレーの最終区、調布から杉並・和泉に。調布から和泉まではふたつのルートで歩いた。
ひとつは調布から京王線に沿って、旧甲州街道・甲州街道を杉並・和泉まで歩くルート。これは会社の社員の家が国領にあり、ちょっとした御もてなしを受け、お開きとなり歩いて帰宅した時。
もうひとつは調布から深大寺、東八道路をへて久我山から杉並・和泉へのルート。これは娘の調布マラソンの応援に出向き、帰り道を歩くことにした時。もう半年もむかしのことなので、記憶ほとんど残ってはいない。が、ともあれ調布>甲州街道ルート。
 

調布>甲州街道ルート

国領

調布駅スタート。旧甲州街道を布田方面に。布田は麻布の材料となる麻生の材料が植えられた土地・田があったのだろう。国領駅に。日本橋から数えて4番目の宿場。駅前に異様な高層マンション。ランドマークにはなるだろうが、少々違和感。で、国領の由来。古代から中世にかけての国衙領、つまりは荘園に対する公領がこの地にあったからだろうか。そういえば近くに、飛田給とか、上給といった地名もある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


国領駅を過ぎると、旧甲州街道は甲州街道に合流。これからしばらくは車の排気ガスをたっぷり吸うことになる。調布警察署前を越えるとすぐに野川と交差。柴崎駅を越え、つつじケ丘交番前を右折。
京王つつじケ丘駅前に入る。駅前に書源という書店。どこにいっても金太郎飴みたいな書店が多いこのご時世、この本屋さんだけは品揃えに何かを感じる。とはいいながら、一時期いろんな店を探し回ったがなかなか見つからなかった『国銅(上・下)』(帚木蓬生著・新潮社刊)がこの店にあったという理由だけなのだが。見つけたときは結構うれしかった。

国分寺崖線
京王線にそって進む。入間川を越えたあたり、前方に壁。いわゆる国分寺崖線であるのだが、そのときは崖線といった言葉も知る由もなく、ひたすら、壁に圧倒される。どこから上ればいいか、壁の割れ目を探す。急な坂。上りきる。と、脇に実篤公園があった。実篤公園については先日の散歩でメモしておいた。

仙川駅を越え、足元に京王線を見ながら進む。結構丘が高い。丘を下り仙川に。川沿いの遊歩道を甲州街道まで戻り、再び旧甲州街道に。

給田地区。給田という以上、このあたり、幕府や荘園領主が御家人・荘官に給料のかわりに「田」をあたえていたのだろう。こうして律令制の基本となる、公地公民制が崩れていくのだろう。

ともあれ、京王線千歳烏山、芦花公園と進む。烏山はカラスの多く巣くう森があったからとか、黒い土からなっていたとか。千歳は歴史的由来なし。いくつかの村が合併するとき、御めでたい名前をつけただけ。芦花公園は明治の文豪徳富蘆花の住居「蘆花恒春園」が近くにあったから。「不如帰」とか「自然と人間」などで知られる。
そういえば、逗子の海岸端、田越川が逗子湾に注ぐ河口に蘆花記念公園があった。その地が「不如帰」を執筆したところだと。また、逗子海水浴場の鎌倉寄りのところに浪子不動がある。不如帰の舞台ともなったところであり、ヒロイン浪子の名前をとったお不動さんがつくられたのだろう。

環八手前で旧甲州街道は甲州街道と合流。環八を過ぎ、八幡山、上北沢、桜上水から下高井戸に。八幡山は八幡神社がある里山というか森、というか林があったから。「桜上水」は、近くの玉川上水の堤に桜並木があったことから。高井戸は、高いところに井戸があったから、とか、高いところにお堂=高いお堂=たかいど、となったとか、これも例によっていろいろ。下高井戸は日本橋から数えて2番目の宿場町。あとは、神田川沿いに遊歩道を歩き和泉の我が家まで歩き本日の予定終了。

甲州街道
で。甲州街道。徳川幕府が制定した5街道のひとつ。日本橋から甲府、ではなく信州・下諏訪までの53里の街道。このメモをまとめるまで、甲州=甲府まで、と思い込んでいた。江戸初期は参勤交代にこの街道を利用するのは、伊那の高遠藩、飯田長姫の飯田藩、諏訪の高島藩の3大名のみ。中仙道に比べて閑散としていたようだ。下高井戸宿あたりなど、昼なお暗きといった様相だったとか。が、将軍家御用のお茶を宇治から江戸まで運ぶ「お茶壺道中」がはじまった頃、5代将軍綱吉の頃からは少々賑わいをみせてくる。ちなみに徳川幕府制定の5街道とは、東海道、中仙道、甲州街 道、日光街道、奥州街道。


調布>深大寺>東八道路
調布から杉並・和泉への散歩道のあとひとつは、甲州街道を離れ深大寺>東八道路>中央高速道交差>環八>和泉へのルート。
調布から旧甲州街道を布田駅まで歩き、布田駅交差点を左折、甲州街道の下布田交差点を北に三鷹通りに。八雲台交差点を越え、野川と交差。佐須町の交差点を越え、中央高速の下をくぐれば深大寺湿地。
が、しかし、ここに湿地があることは、このメモをまとめることになってはじめてわかった。深大寺散歩をした当時、といっても半年前だが、その頃はただひたすら歩くだけ。地形のうねりも、湧水も、崖も、城址も頓着しなかった。
で、深大寺湿地を見落とし深大寺小学校前に。結構歴史のありそうな学校。実際、前身となる学校は明治6年、というから、「邑ニ不学ノ戸ナク 家ニ不学ノ人ナカラシメン」といった明治5年の学制令発布の翌年に建てられたという。深大寺の末寺、多門院を使ってはじめたとのこと。左に曲がれば深大寺の入口だったようなのだが、道案内がよくわからず坂を直進。青渭神社前に。

青渭神社
縁起;往古、この辺りに大きな青い沼。ために、青沼大明神とも呼ばれる。祭神は青渭神。出雲系・農耕・農作物の神。本殿の建築は、江戸時代初期のもの。ケヤキは、市天然記念物。 

深大寺
神社を出て、結構今風の公園脇を深大寺植物公園に向って奥に進む。適当なところで左折し深大寺へと。途中鬱蒼とした森というか林を進む。つまるところは、深大寺の裏手からアプローチとなったわけ。深大寺は天台宗の古刹。天平5年(733)、満功(まんくう)上人によって創建されたと伝えられる、関東では浅草寺についで古い寺。
深大寺周辺は国分寺崖線が通り、「ハケ」から湧く豊富な水が、せせらぎや滝をつくる。釈迦堂には白鳳仏。奥の木立の中に、秘仏をまつる水神深沙大王堂がある。

深沙大王堂といえば、深大寺縁起にこんな話しが;その昔、この地は郷長右近(さとおさうこん)によって治められていた。福満(ふくまん)という青年が現れる。右近の娘と恋に落ちる。右近は二人の仲を許さず、娘を池の島へ隠す。福満は深沙大王にお願いの儀。「大王様のお力で、島に渡らせてほしい。願い叶えば、里の鎮守としておまつりする」と。池から霊亀が現れる。福満は亀の背中に乗り島へ渡り娘を助け出す。右近も二人の仲を認め、結婚を許す。子は満功(まんくう)。父と深沙大王との約束を受け継ぎ、唐へ渡り、教義を究めてこの地に戻り、733年に深大寺をつくったと。福満といい満功といい、いかにも渡来系。古来、調布から狛江にかけて移り住んでいた渡来系氏族と武蔵野の地に住んでいた先住氏族の異文化交流を表しているのかも。

深大寺からは三鷹通りを離れ住宅街というか農家・畑の間を東に向う。中央高速手前、昇華学園交差点あたりで北に。原山交差点、中原3丁目の交差点、杏林大学病院入口を越え、仙川公園を過ぎれば仙川と交差。新川交番前交差点で東八通りに。

東八道路を天神前北浦、新川天神前、三鷹台団地入り口と進む。このあたりで道路が狭くなる。牟礼地区を進む。が、歩道はない。車に気を使いながら国学院久我山を過ぎ、NHK運動場の近くを進む。このあたり、玉川上水散歩で歩いた。ずっと続いた玉川上水の開渠が暗渠と消える地点。さらに進み中央高速にあたる。後は中央高速に沿って、高井戸出口、第六点神社を越え環八から一路和泉まで。

深大寺湿地、そしてそ深大寺城址
で今回見逃した深大寺湿地、そしてその中にある深大寺城址についてメモしておく。本当にこの時代は敵味方錯綜し、なにがなんだかわからなくなってしまう。はてさて、この深大寺城址をめぐる人物・イベントであるが;
1.作った人;扇谷上杉朝定。武州松山の難波田弾正広宗に命じ古い砦跡を急遽改修してつくった
2.目的;後北条氏、北条氏綱の侵攻に備える。後北条氏とは、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)を初代とする小田原北条氏五代。鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」と呼ぶ。
3.経緯;室町幕府の支配権が衰えると世は戦国時代へ。そんな16世紀前半、関東は管領上杉氏と北条早雲を祖とする新興勢力の後北条氏との覇権を争う場となっていた。北条氏綱が高縄原合戦(現在の高輪台)で勝利し江戸城を奪取。扇谷上杉氏の本拠・河越城攻撃を計画。それに備えるためつくったのが深大寺城。
4.カウンター:北条氏綱は牟礼・烏山に砦、深大寺城に対する付け城を築いて封鎖し、深大寺を力攻めすることなく、河越城へ進む。
5.武藏三ツ木原(西武新宿線・新狭山)で扇谷上杉軍と合戦。北条氏勝利。一気に上杉勢の本拠地である河越城まで一気に侵攻。
6.結果;上杉軍は総崩れ。河越城を捨てて松山城に退却。江戸城攻防から河越城攻防までは一方的に北条氏の勝利。その後の第一次国府台合戦、そして日本三大夜戦のひとつとも呼ばれる河越夜戦において北条氏決定的勝利。関東の覇者として君臨
7.深大寺城の位置づけ;戦略的意味がなくなり。廃城。
8.ついでに;高縄原の激戦(高輪台)。大永4年(1524年)、江戸城を守る扇谷上杉朝興(太田道灌を暗殺した扇谷上杉定正の2代あと)と、関東攻略を図る北条氏綱が高縄原(今の高輪台辺)で激突した。上杉軍、江戸城へ退却。太田道灌の孫、太田資高、資貞兄弟の内応で江戸城は陥落。そして夜になると闇にまぎれて川越へ落ちる朝興を板橋近辺まで追撃。勝った北条軍、一ッ木原(赤坂),勝鬨を。
ともあれ、この深大寺あたり、お寺とかそば以外に地形的にも面白い。日を改めて再度歩くべし。

木曜日, 9月 29, 2005

多摩丘陵から杉並へ Ⅱ;分倍河原から調布まで

分倍河原から調布まで:分倍河原の高安寺。京王線の社内・京王線沿線案内だったかと思うが、高安寺の案内を目にした。由緒深げなお寺。出かけてみようとなり、それが調布まで、調布から和泉まで、そして先回メモの多摩の南大沢から分倍河原まで、という襷リレーの発端となった。



高安寺
高安寺。分倍河原の駅を下りて旧甲州街道・片町2丁目の交差点を過ぎ境内に。由来は、足利尊氏が戦でなくなった将士をとむらうため全国66カ国2島に建てた寺・安国寺のひとつ。どっしりとして、素朴な山門が名高い。
この古刹のある地区・片町の由来は甲州街道の南側がこのお寺で占められたおり、道の北側にしか町屋がなかったため。この寺の往時の隆盛がしのばれる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


このお寺、歴史はずっと昔に遡る。天慶9年(西暦940年)俵藤太秀郷がここに館を構えたとか。俵藤太秀郷といえば、なんとなく記憶にあるのは「ムカデ退治」、そして「平将門討伐」ということ。境内には秀郷稲荷が。また、分倍河原の合戦の折、新田義貞がここを本陣とした。室町時代には鎌倉公方・足利氏の戦陣・本営として、また戦国時代には上杉氏や後北条氏の戦略上の要となっている。つまりは、武蔵野国の中心であった、ということか。

で、なぜ府中なのか、とは思うが、鎌倉というか藤沢の腰越で鎌倉入りを許されなかった義経が、頼朝宛に書状をしたためるときの硯に注いだ水といわれる弁慶硯の井戸が。なぞだ?、というか伝説ってそんなもんかも。
俵藤太秀郷についてちょっとメモ。秀郷は平将門の乱に際して押領使(おうりょうし;暴徒鎮圧の任にあたる。国司・郡司・地方の豪族が任じられることが多い)に任ぜられ、将門追討の勅命。一度は敗退。が、平貞盛らと協力し下総国(現・茨城県)にて将門を破り、乱を平定。この功積によって秀郷は従四位を賜わり、下野守に任ぜられた。

大国魂神社
旧甲州街道を進み、JR武蔵野線、府中街道を越え旧甲州街道沿いに大国魂神社。大国魂神社と呼ば れるようになったのは明治から。神社の東・宮町には古代、武蔵の国府があったところ。で、この神社、国司が武蔵の一宮から六宮までの六社をこの地にまつり、武蔵の総社としたのがはじまり。ために、六所宮・六社神社とも呼ばれていた。
本殿のうち中殿には大国魂大神・御霊大神・国内諸神、東殿には小野大神・小河大神・氷川大神、西殿には秩父大神・杉山大神・金佐奈大神がまつられる。現在の本殿は寛文7年(西暦1667年)徳川家綱がたてたもの。また 本殿の隣に東照宮が。いかにも徳川家の庇護篤かりしことが偲ばれる。

府中駅の東・都道133号線は、往古大国魂神社の参道。正面大鳥居から約500mに渡って欅(ケヤキ)並木が続く。 平安時代末に源頼義が前九年の役への出陣に際し、戦勝を祈願して奉納したのが始まり。江戸時代には徳川家康がその故事にならい、関が原の戦い・大坂の陣の折に奉納。 国の天然記念物に指定されている。この神社、毎年、5月5日に開催される「くらやみ祭り」で有名。で、前九年の役のメモ;平安時代中期、朝廷(源頼義・義家)と東北の豪族安倍氏の戦い。源氏方が清原氏の味方を得て平定。源氏が東国に覇を唱える礎となった。

宮前地区を越え、八幡宿の交差点。聖武天皇の時代に建てられた武蔵の国の八幡宮があるのだろう。地図にでていなかったのでスキップした。京王競馬場線と京王本線が接近。旧甲州街道が京王本線と交差。越えるとすぐ京王競馬場線の始点・東府中駅。

道なりに進み白糸台1丁目の交差点を越え、不動尊前交差点。北に向かえば多摩霊園。ちょっと手前に染屋不動尊。身の丈50センチ程の阿弥陀如来像が奉られてる。新田義貞の挙兵に馳せ参じたものが、この地に残したと。染屋の地名は布を染める染屋があった、とか。

車返団地入口
西武多摩川線と交差。少し歩くと車返団地入口交差点。昔同じ職場で働いていた人がここに住んでおり、一度車で送ってきたことがある。で、そのときの刷り込みで車=マイカー=新しい地名、と思っていた。調べてみると。由緒書きに「地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したところ、夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれます。」と。

白糸台地区を越え飛田給駅入口交差点に。交差点のちょっと手前の道路脇に薬師堂と行人塚。江戸の頃、仙台藩の医師、松前何某が自ら彫った薬師如来像を残し、穴を掘って入定。村人が堂を建てて薬師如来を奉ったのが由来となっている。

飛田給
飛田給。味の素スタジアムには何度か。で、飛田給の地名の由来、例によっていくつか、飛田給とは悲田給(ヒデンキュウ)のこと。奈良時代、孤児・貧窮者を救済する悲田院の給地(所有地)がこのあたりにあった。で、その悲が後に飛に転化したのだという説。また、当時荘園を管理する荘官の名前、飛田氏が領主から この土地を与えられた、といった話も。どちらも在り得る話。

調布
上石原1丁目あたりで中央高速くぐると西調布駅。後は一気に調布駅まで。本日の予定は終了。

で、 高安寺・俵藤太秀郷のムカデ退治。大津・瀬田の唐橋を渡る田原藤太。橋に大蛇。怯むことなく通り渡る。その武勇を見た大蛇、女に変身し藤太のもとへ。仇敵 ムカデ退治を依頼する。藤太、ムカデを射抜き退治。藤太のもとへ贈り物が。いくら裁断してもなくならない巻絹、ほしいものが何でもでてくる鍋、そして、口をあければいつでも米が流れ出る俵。爾来、「俵」と。
それにしても、なんでムカデ退治の物語を覚えていたのだろう。子供のときの記憶に残っている。桃太郎、金太郎と同じ程度にポピュラーに、大江山の酒呑童子と同じ程度にクリアをもっているのだが、ムカデ退治の話しがそれほどこども向けの話とも思えないし、謎だ。

水曜日, 9月 28, 2005

多摩丘陵から杉並へ Ⅰ;南大沢から分倍河原へ

南大沢から分倍河原:娘の陸上競技大会の応援に出かけた。上柚木陸上競技場。京王線南大沢にある。参加種目をビデオでおさえ、とっとと散歩に出かける。分倍河原まで歩こうと決めた。理由は、先日、分倍河原から調布まで、さらに日をあらため調布から杉並・和泉まで歩いたことがあり、駅伝ではないけれど、とりあえず「襷」ではなく、「歩線」をつなごうと思ったわけである。


南大沢
上柚木陸上競技場を出て、南大沢の駅前に戻る。駅前はアウトレットショップが並び、いかにも多摩ニュータウン。駅前、というか駅の北に首都大学東京南大沢キャンパス。キャンパスに沿って歩き柳澤を経由し、坂を大栗川との交差まで下る。
大 田平橋を渡り右折、道なりに下柚木まで。大栗川は多摩川の支流。多摩の横山(多摩丘陵)の西端、絹の道で知られる鑓水付近が水源。南多摩の真っ只中を「野猿街道」につかず離れず東に流れ、聖蹟桜ケ丘付近で鎌倉街道を横切った後、乞田川と合流し関戸橋の3km下流で多摩川に注ぐ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

野猿街道
「野猿街道」。野猿という以上、このあたり、おサルでも多いのかと思った。が、そうでもないらしい。以前は「猿丸峠」や「猿山峠」という名であった。もっと古くは「甲山峠」。それが「申山峠」に転じ、「申」が「猿」となったものらしい。

下柚木で左折、というか「野猿街道」をちょっとかすめ下柚木中央小方面に。玉泉寺の近くを北に歩く。帝京大高校の正門前に。が、行き止まり。戻る。道なりに適当に歩き大栗川橋北に出る。堀の内地区のいかにも宅地開発用空き地を北に上る。自動車の通り激しく、あまり愉快ではない。多摩散歩などと洒落たつもりが、生活道路のど真ん中。

帝京大中高北の信号を越え、自動車併用トンネルをくぐり、排気ガスをたっぷり吸収。東京薬科大学の信号を越え、 またまたトンネル。堀の内第三トンネルをくぐり出口。平山台小入口の信号あたり、右は多摩テックの森。こどもが小さいときはよく来たものよ、などと感慨に浸りながら歩くと平山城址公園入り口。

平山城址公園
平山城址公園。その昔、源氏方の侍大将・闘将で知られる平山季重の砦があったと伝えられる場所。季重は、武蔵七党のひとつ西党日奉(ひまつり)氏の一族。源義朝に従い、平治の乱(1159)の折、圧倒的多勢の平重盛の軍勢に少人数で戦いを仕掛ける。義経のもとで戦った宇治川合戦では木曾義仲の軍勢に先陣を切って斬り込む。一の谷の合戦では逆落しに駆け降り平家を破る。頼朝・義経兄弟の対立後は頼朝に従い、奥州平泉の義経征伐に加わる。

北野街道
奥山橋下のロータリー(?)。ここを右に行けば多摩テックや多摩動物公園。が、直進し平山五丁目で北野街道と交差。右折し南平駅を越え、高幡不動に向かう。 北野街道は八王子の北野町から、淺川に沿ってつかず離れず日野市に至る。北野町は「北野天神」から。創建年代は不明。鎌倉時代にこのあたりを支配した武蔵七党のひとつ横山氏が京都北野天満宮を勧請したのが始まりという。祭神はもちろん菅原道真。

高幡不動
北野街道を進み、高幡橋南で川崎街道と交差。少し進み高幡不動に。高幡山明王院金剛寺。真言宗智山派の別格本山。成田山(千葉県)、大山(神奈川県)と共に関東三大不動のひとつ。不動堂、仁王門は国の重要文化財。奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられる。不動堂は清和天皇の勅願により慈覚大師が関東鎮護の霊場として山中にお堂を建てたのが始まり。室町時代は、鎌倉公方・関東管領・上杉氏等有力武将の信仰を得る。

このお不動さん「汗かき不動」と呼ばれる。戦乱の度毎に不動明王が全身に汗を流されて不思議なできごとを起こしたため。境内に近藤勇・土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」も。篆額の筆者は元会津藩主松平容保、撰文は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は近藤・土方の良き理解者であった元幕府典医頭の松本良順。
松本良順はすこぶる魅力的な人物。安政 4年、幕命により長崎遊学し、オランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学ぶ。日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力。江戸にて西洋医学所の頭取となる。幕医として近藤勇と親交。戊辰戦争時は、会津若松に入り、藩校・日新館に診療所を開設し、戦傷者の治療にあたる。 幕府方として働いたため投獄。のちに兵部省に出仕し、明治の元勲のひとり山県有朋の懇請により陸軍軍医部を設立。初代軍医総監。貴族院議員。男爵。

程久保川
高幡不動を出て、駅前のみやげ物屋をひやかしながら歩く。近くに程久保川が多摩川まで流れている。川筋を多摩川合流点まで下る。程久保川。日野市程久保に始まり多摩川へ注ぐ。総延長4kmほど。古い名前は「谷戸川」。谷戸とは 丘陵地の谷間での小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。湧水に端を発し、水の豊かな農村風景というか、里山の風景をつくりあげていたのだろうか。

中河原
多摩川との合流点から堤防上の遊歩道を少し下り、多摩川にかかる府中四谷橋に。橋を渡り、四谷地区の住宅街に右折。適当に道なりに歩き中河原駅に。中河原は、もと大道(大堂とも)と呼ばれていた。が、天文年間(1532-55)の多摩川の洪水により、石の河原になってしまった。で、集落が古多摩川(古玉川)と浅川との間の河原にあったため、それ以降は中河原と。古く、多摩川は中河原のはるか北側を流れており、中河原は多摩川の南側に位置していたと掲示にあった。

分倍河原古戦場碑
中河原の駅を越え、すこし歩き右折。分倍河原への国道18号を進み、中央高速の手前に分倍河原古戦場碑。元弘三年(1334)、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるべく、上野国(現群馬県)から南下。所沢の小手指ケ原、久米川の戦いで幕府軍に連勝。大敗を喫した北条軍は鎌倉に使者を急派。北条高時の実弟北条泰家を大将とする援軍来陣し兵力倍増。
新田義貞、北条泰家率いる幕府軍と分倍河原にて戦端を開く。 新田軍、緒戦敗れる。新田軍は堀兼(埼玉県狭山市)に退き軍勢を立て直す。このとき、武蔵国分寺は新田軍により焼失。新田軍に、相模の豪族三浦義勝など援軍が。新田軍、分倍河原の北条軍を急襲。北条軍大敗。新田軍鎌倉侵攻。鎌倉幕府は滅亡。これが分倍河原の合戦。
分倍河原周辺にはこの合戦に関して「三千人塚」と呼ばれるものが残されている。これは分倍河原合戦で戦死した新田・北条両軍の戦死者を弔った後だと伝えられている。

分倍河原古戦場碑のところから、多摩川沿いの郷土の森公園まで遊歩道の案内。残念ながら日没近く。早々に分倍河原の駅に向かい本日の予定終了。

そういえば、この分倍河原って名前、どこから?この駅近くの地名は分梅町だし、分梅駐在所だし、分梅橋だし、分梅公園だし、分倍って地名も分倍河原って地名も見あたらない。 調べてみた。「分倍=ぶばい」という名前については、「新田義貞が梅を兜につけて進撃したという話に由来する分梅から」とか、「この地 が多摩川の氾濫により収穫が少ないことがしばしば。故に、口分田を倍に給した所であったため分倍(陪)や分配と呼ばれていた」などいろいろ。古くは「分倍(陪)や分配=ぶんばい」と呼ばれていたこともある。が、近世以降には「分梅」が用いられたと。
ともあれ、駅名の「分倍河原」は地名とはどうも関係なさそう。また、玉南電気鉄道(のちに京王線と合併)開業時は、当時の地名から「屋敷分駅」と呼ばれていた。が、いつから「分倍河原」となったかは資料に残っていないとか。ちなみに。屋敷分という地名は、国府のお役人で、その後、六所宮(現・大国魂神社)の神官の屋敷があったことに由来する。

本日結構きつかった。散歩道としてはそれほど快適ではなかった。多摩丘陵とはいいながら、丘陵散歩といった趣に少々欠ける。今回は散歩そのもの、というより、分倍河原まで歩く、そして「襷」をつないだ、ということでいいとしよう。

月曜日, 9月 26, 2005

多摩川堤散歩;喜多見・狛江周遊

野川も歩いた。野川に注ぐ仙川も歩いた。そして道の途中、喜多見、狛江が気になっていた。野川に注ぐ入間川も、その名前が気になっていた。埼玉・高麗郷と入間川、狛江と入間川。なにか関連があるのだろうか。六郷用水で出会った次太夫、その記念公園・次太夫堀記念公園も気になっていた。で、今日は、これら気になっていた、そして取りこぼしていたところをまとめて面倒、ってルートを歩く。スタート時点の設定ルートは;仙川―入間川―次太夫堀記念公園―狛江の多摩川土手、そしてその後はケセラセラ、ということで京王線に乗る。


今回のルート;
仙川>実篤公園>入間川>明照院>糟嶺神社>中央研修センター>百万遍供養塔>喜多見不動尊>次太夫堀公園・民家園>宇奈根>観音寺>氷川神社>多摩川土手>多摩川土手・猪方地区>多摩川土手・小田急交差>多摩川土手・和泉地区>多摩川土手・水神前>多摩川土手・西河原公園>万葉碑>京王線国領駅

京王線仙川


仙川下車。駅前の案内図で入間川の流路チェック。京王 線をくぐったあたりから入間川が開渠となっている。線路に沿って調布方面に。道の途中、先日の散歩で偶然出会った実篤公園に寄る。子供のころから、水のあるところに住みたいと願っていた作家武者小路実篤氏が70歳から20年間住んだところ。崖線の特徴を生かした家のつくり。尾根道部分に入口。坂をくだり家屋、湧水池。規模の違いはあるにしろ、目白崖線にあった黒田家、細川家の大名屋敷のつくりと構想は同じ。

実篤公園を出て、道なりに歩き、入間川の開渠部に。H鋼で補強されたコンクリート敷きの河川。中央の溝に水がわずかに流れる。川沿いの散歩道はあったり、なかったり。ほとんど無かった。流路から離れないようにと、右に行ったり、左に行ったり。何回か行き止まりにも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


明照院
仙川駅から下りてくる114号線をこえ入間町アパートとかNTTアパートのあたりを歩く。突然目の前にすごい石組み。まるでお城のようなお寺。明照院(みょうしょういん)。16世紀中旬開基。天台宗。本堂、観音堂、えんま堂、地蔵尊、六地蔵、巡拝供養塔など。観音堂には調布七福神の一つ「弁財天」が。

糟嶺神社
お寺の隣の小高い岡に糟嶺神社(かすみねじんじゃ)。陵山といわれる小高い丘を、高い所の糟嶺神社、低所の明照院と二分している。糟嶺神社は農業の神・糟嶺大神をまつる。社殿は多摩地に残る4つの墳陵のうちの一つといわれる。高さ3.81m、周囲127mの墳陵となっている。

道なりに進み、野川と合流。谷戸橋をこえ、パークシティ成城前の整地された芝生公園でちょっと休憩。なんとなく左に「そびえる」崖線が気になりる。野川に沿って喜多見不動に直行する予定変更し住宅街を入間公園に。

左手の崖に向かう。そびえる崖。行けども、行けども金網でガード。大回りに周り、歩けども金網。後でわかったのだが、中央研修センター(NTT関連だと思うが)の巨大な敷地、というか森であった。

百万遍供養塔
丘の上で114号線に出る。中央研修センターに沿って坂を下りる途中に百万遍供養塔が。天明元年(1781)、当時の入間村 原の念仏講の人たちが、泉村泉龍寺(狛江市)の延命子安地蔵尊に詣でる人たちのために建てたもの。塔身に「是より泉むら 子安地蔵尊二十五丁 右 世田谷 目黒道 左り 江戸四ッ谷道」と。参詣者たちの道しるべとしての役割も。 往古、このあたりは七曲り道と呼ばれた。小道・藪道・坂道が多く、ひとけもなく道に迷いやすいところであったとのこと。参詣者たちはこの道標を見て安堵したに違いない。道路標識のありがたさは、身をもって知る昨今。ちなみに、このあたりの地名・入間って、渓谷の入り込んだ場所のこと。また、野川にかかる谷戸橋の谷戸とは 丘陵地の谷間で小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。

喜多見不動
坂道を下り、再び入間町アパート、NTTアパートの敷地内から明照寺・糟嶺神社前を抜け野川に。またまたパークシティ成城前をとおり、小田急線との交差まで。ちょっと手前で崖線・神明の森みつ池へと一筋内側の道に。
神明の森みつ池の湧水地を越え、小田急線との交差直前の坂道。あれ、これって前回上った道?で、喜多身不動はその坂道と小田急高架の間に挟まれてひっそり鎮座していた。入口にハケから勢いよく滝が落ちている。喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王座像。創建は明治。喜多見の住人が成田山新勝寺から不動明王座像に入魂。堂宇と並んで、岩屋不動、玉姫稲荷、蚕所大神をまつった小祠も。

次太夫堀公園・民家園
おまいりを済ませ、小田急線の下をくぐり、次太夫堀公園・民家園に向かう。この公園には名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現している「次太夫堀」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から十五年をかけて完成。
「次太夫堀」は正式には「六郷用水」という。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、「次太夫堀」と呼ばれていた。が、現在の六郷用水(次太夫堀)は丸子川として一部残っているだけとなっている。その丸子川は先日、仙川散歩のとき偶然出会い、そのスタート地点の流路の素朴な赴き・野趣豊かなせせらぎに結構感激した。

宇奈根
次太夫堀公園・民家園から先のコースは11号線・大田調布線を下り、東名高速を越えたあたりの宇奈根を歩き、そのあとは狛江に戻るといった段取り。宇奈根に行く理由は特に無く、単に地名の「うなね」という響きに魅せられただけ。

宇奈根に、なにかランドマークを、ということで、東名高速近くの観音寺と氷川神社。観音寺は天台宗の古刹。永正年間(1504~1521)川越喜多院・実海僧上の創立。氷川神社は宇奈根・喜多見・大蔵の三ヶ村に祭られた氷川三所明神の一社。「建速素戔嗚尊を祭り、宝永年間観音寺の別当として再建。天明の末年、橘千蔭が氷川神社におまいりし、[うしことのうなねつきぬきさきくあれとうしはく神にぬさ奉る]と歌をよむ。

江戸のころにはこの宇奈根地区、多摩川に注ぐ細流に蛍が棲み、初夏の蛍狩に多くの文人が訪れた、とのこと。橘千蔭もそのひとりだったのだろう。で、その宇奈根の由来だが、これがはっきりしない。古代稲作では、溝渠(こうきょ:水田用の水路)を「ウナニ」と呼び、これが訛って「宇奈根」となったとする説。 うなね(項根) 首の付け根。後頸部。くびねっこ。宇奈根の地名も、この地域の形状が多摩川に突き出した首ねっこに似ていたためという説など諸説ある。さてどちらだろう。


神社を出て多摩川堤へ。堤防はすぐ近く。途中、宇奈根の歴史を書いた案内が公園に。昔は蚕の畑が多かった。暴れ川故、川筋が今とは結構違っていた、といったことが書いてあった。
当初の予定では、多摩川堤からすぐに戻り、街中の道を狛江の氷川神社、慶元寺、須賀神社といった段取りで、と考えていた。が、堤上の散歩道が非常に心地よい。
夕刻。夕日に向かって歩く。川向こうの多摩の丘陵地帯の夕景など、逆光の効果もあり、往古・大古の昔もかくやあるらん、といった趣。去りがたく、結局狛江市内の神社巡りはやめ、多摩川堤の散歩道を小田急・和泉多摩川駅まで歩くことに。

岸辺のアルバム

小田急との交差近く、猪方地区。ここはあの「岸辺のアルバム」の舞台のはず。山田太一さんの作品だったと思う。昭和49年 (1974)9月1日、狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流出した大洪水を伏線においた名作ドラマ。ジャニスイアンの主題歌とともに結構記憶に残る。

六郷用水の取水地に水神さま

小田急と交差。右手に和泉多摩川駅。まだまだ歩き足りない、というか夕景が魅力的。地図をチェック。狛江市中和泉、西河原公園のところに水神前が。次太夫堀公園・民家園で六郷用水の取水地点は和泉村、と書いていた。この水神は六郷用水の取水地と関係あるにちがいない、と仮説設定。
堤防に沿った散歩道を歩き、取水塔のあるところへ。たぶん和泉の取水地点であろうと右端の公園をチェック。西河原公園。向かいにこじんまりした神社、というか鳥居とあとは、なんだかなあ、といったさっぱりしたもの。
由来書:水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。  この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」と。

万葉碑

水神社前の信号のところに「万葉碑」への標識。住宅街をちょっと中に入る。100メートルも行かないうちにこ石碑が。横にある家の庭といったこじんまりしたたたずまい。石碑にの歌;
多摩川に さらす手づくり さらさらに何ぞこの児の ここだ 愛しき」
万葉集巻14
松平定信(楽翁・白河藩主)の書とのこと。

狛 江=「高麗」。ここに移り住んだ朝鮮からの渡来人が機織りの技術を伝えた。多摩川にさらす手づくり、とは多摩川で晒した布のこと。ちなみに、調布の由来、奈良時代、税制の「調(その地方の特産品を納める)」に多摩川で晒した布を納めたことから名付けられたとされている。この辺り、周囲には古墳や遺跡が多数分布している。が、本日は日没のためここでおしまい。暗闇のなか、京王線国領まで歩き帰途につく。

火曜日, 9月 20, 2005

鎌倉散歩 そのⅤ;名越・釈迦堂切り通りから祇園山へ

逗子、名越・釈迦堂の切通し、そして祇園ハイキングコースへ
逗子からのアプローチ。名越の切通しを超えて鎌倉に入ることになる。その後は、お寺を巡りながら釈迦堂切通しに。ついで祇園山ハイキングコースを歩きJR鎌倉駅に、といったコース。通常、切通しは鎌倉と周辺地域とのゲートウエイではあるが、釈迦堂切通しは鎌倉市内のバイパスといったもの。この名越の地は北条一門の館があったところである。朝比奈方面からのアプローチを容易にするため、山が削られたのであろう、か。残念ながら崩落のおそれありと、通行禁止となっていた。



本日のコース;JR逗子駅>池田通り>久木郵便局前>小坪入口>岩殿寺>久木ハイランド入口>法性寺>名越切通し>まんだら堂>安国寺>妙法寺>釈迦堂切通し>大宝寺>安養院>八雲神社>祇園山ハイキングコース>高時切腹やぐら>東勝寺跡>宝戒寺>妙本寺>JR鎌倉駅

逗子駅
名越の切り通しへのアプローチを三浦半島方面から攻めようと逗子駅下車。逗子の名前の由来は「厨子」から。市内、延命寺に弘法大師が設けた厨子があった、から。逗子といえば、徳富蘆花、泉鏡花などの作家がこの地に住んでいる。蘆花の代表作『不如帰』は逗子が舞台。文人墨客だけでなく政治家・実業家が別荘を設けているが、そのきっかけは葉山に御用邸が設けられた、ため。道路などの環境整備が進んだのであろう。ともあれ、散歩に出かける。駅前を池田通り、久木郵便局前、小坪入口の交差点に。交差点を少し行ったあたりに岩殿寺への案内。

岩殿寺
坂東三十三観音第二番札所。頼朝とかその娘・大姫が足しげく通ったお寺。悲劇の姫君・大姫の話は、唐木順三さんの『あずまみちのく:(中公文庫)』に詳しい。民家の間を通り、谷戸というか谷津の奥に進むと岩殿寺、ガンデンジ、と読む。岩窟が自然の社のように見えることが名前の由来。山の斜面に観音堂、鐘楼堂が建つ。全体の雰囲気は大和・長谷寺を小ぶりにした感じだなあ、と思っていたら、長谷寺の開基徳道上人が、この地で熊野権現の化身に逢ったとの寺伝。
開創は僧行基とか。十一面観音の石像を安置し本尊とする。で、この観音様は頼朝の生涯の守り本尊。石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房に逃れるとき、観音さまが船頭として窮地を救ったとか。
建長寺での半僧坊伝説ではないけれど、船頭として窮地を救う話しって、多い。将軍家の信仰篤く御台所、大姫、実朝など一族の参詣もしばしば。『吾妻鏡』に「姫公岩殿観音堂に参りたもう」とある。正暦元年 (990)に花山法皇が、承安四年(1174)には後白河法皇が参詣したという。
熊野でしばしば顔を現した花山法皇もここにも登場。もっとも、花山法皇が関東に来たという事実はない。西国観音霊場を開いたという花山法皇の名前を出すことで、坂東観音霊場のブランドイメージを高めようとしたのだろう、か。
ともあれ、長い階段を 上り眺める谷津の景観は落ち着いて美しい。本堂左手にお稲荷さん(?)があり、右手には熊野社。どちらもそのまま先へ進んでいくと本堂の裏の山というか、 尾根道に。このまま名越に行けるか、とは思ったが、少し歩くと行き止まりではあった。階段を下り、元の道に戻る。ちなみに岩殿寺、明治の文豪・泉鏡花がすず女との恋愛模様の折り、逗子逗留。このお寺によく訪れたよう。鏡花の「普門品 ひねもす雨の桜かな」の句碑がある。泉鏡花の『逗子より』には、岩殿寺の在りし日の情景が描かれている。




法性寺
横須賀線に沿って鎌倉方面 に。久木ハイランド入口の交差点。横浜・横須賀道路の朝比奈インターで下り、朝比奈切通しというか、鎌 倉霊園の丘を越え、ハイランドの住宅街を登り下りし出てくるのがこの久木ハイランド入口。海岸道へのショートカットとしてよく使われる。交差点を進み、道路道が横須賀線と交差する手前を右に山、というか丘方面に進む。「法性寺・名越の切り通し」の案内。
猿畠山法性寺。日蓮宗のお寺。名越の山の反対側の谷(やつ)・松葉ケ谷に草庵を結んだ日蓮が、他宗派非難の激しさ故、鎌倉中の僧門から迫害を受け、草庵を焼き討ちされた。そのとき、山王権現の化身である数匹の白猿が現れ、名越の尾根沿いにこの法性寺の地まで日蓮を導く。で、岩窟に身を隠し法難から遁れた、という白猿伝説が残る。
山王権現=日吉山王権現。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

境内の坂道を尾根に向って進む。頂上あたりに、仏殿。その脇にちょっとした岩山。山王権現がまつってある。ここが白猿伝説の岩窟のあたり、と。伝説は別にしても、ここからの眺めは素晴らしい。海が広がるのびやかな風景だ。それにしても、日蓮が危難に遭う時には、白いお猿が現れる。確か、房総から三浦に渡ろうとして猿島に流れ着いたときも、白猿が現れた、とか。ともあれ、この猿畠山から墓地横の道を抜け、 尾根に進む。途中山肌に「やぐら」。磨り減った石段を登る。尾根に出る。「右・大切岸。左・名越切通し」の道標。

大切岸
名越の逆方向、右に行く。大切岸(おおきりぎし)がある。石切の跡とも、巨大な防御崖とも言われる大切岸に向い結構歩くが、どこにあるのか良く分からない。道標がない。足元の崖がそうなんだろうが、尾根から見れるわけでもない。どんどん進む。この先は一体何処まで。ハイランドへと続く尾根道だろうが、途中まで進み引き返し、名越の切り通しに向う。大切岸は法性寺からの尾根道で見るのがいい。



名越の切通し
途中、落葉樹と照葉樹に囲まれたコジンマリした広場。無縁仏をまつる石碑。少し下ると名越の切通し。大岩がゴロゴロしている。切り取った岩が転がっているだけなのか、防御用の意図的ものなのか、ともあれ野趣豊か。
名越の切通しは鎌倉七切通しのひとつ。鎌倉東南の出入り口。古代から旧東海道と思われるルートが名越の坂をこえて沼浜(ぬはま;逗子)に通っていた。名越の切通しは三浦半島から房総へと至る交通の要衝であった、とか。すこし下り気味に進むと「まんだら堂」への入口。普段は文化財調査のため工事・閉鎖中。 が、今回は幸運にも公開日にあたる。
「やぐら」群。石仏、というか石を積み重ねた仏様。石仏を見ながらしばし休息。切り通しに戻る。途中の崖にも「やぐら」の横穴が口を開いている。垂直に切り立った、いかにも切り通し、といったところを越えると山道が途切れ突然平地に。亀ヶ岡団地のはずれ。ちょっと団地の中を進むが、海岸線まで結構ありそう。で、名越切通しに引き返し、先日と同じルートを大町に下りる。

安国論寺
横須賀線にそって進み、逗子から続く県道に出る。長勝寺交差点で横須賀線を越え、道なりに進む。安国論寺が。日蓮宗の寺院。建長5年(1253)、安房から鎌倉に入った日蓮上人がこの地・松葉ケ谷(やつ)に来て、初めて草庵を結んだ所の一つ。この草庵で「立正安国論」を著して前執権・北条時頼に建白。為に、幾多の法難を受け、法性寺の白猿伝説と相成る。




妙法寺
道なりに行くと妙法寺。同じく日蓮上人が松葉ケ谷に結んだ草庵のひとつ。日蓮宗最初の場所。護良親王の遺子・日叡が、亡き父の菩提を弔ったお寺でもある。松葉ケ谷の草庵って、一体何処だったのか確定はしていないよう。いくつかのお寺が、「我こそは」といった由来を書いてある。道なりに歩く。





釈迦堂切通し
釈迦堂切通し「釈迦堂切通し」の道標。小さく通行止め、と書いてある。が、とりあえず進む。谷(やつ)の奥まったところに、釈迦堂切通し。切り通し、というより、岩をくり貫いた洞門のよう。洞門の向こうは釈迦堂谷戸。三代執権泰時が父である二代執権義時の菩提をとむらうべく建立した釈迦堂があったのが名前の由来。が、現在それがどこにあったか不明とのこと。
釈迦堂切通しの近くに「北条時政名越山荘」と伝えられる跡地がある、とのこと。立ち入り禁止のようだが、ここは時政の屋敷跡、政子の御産所とも、浜の御所とも。鎌倉の七つの切り通しの地には北条一族の館がある。外敵に対する抑えの意味をもつ。この地は、三浦半島への交通の 要衝。三浦半島に勢力をもつ頼朝以来の有力御家人、三浦一族に対する押さえとして住まいしたものだろうか。地図をよくよく確認すると、釈迦堂切通しの上の山は、先日登った衣張山。眺めが素晴らしいところ。ともあれ、この切通し、他の切通しは鎌倉と外部とのゲートウエイではあるが、ここは金沢街道から名越地区へのショーカット、鎌倉内部の連絡路。この地区に館を構える北条一門の力の象徴と考えてもいいかもしれない。ちなみに、時政の浜の御所、横須賀線を挟んで松葉ケ谷の反対側、海に近い谷・弁ケ谷、新善光寺のあたり、という説もある。
photo by jmsmytaste

安養寺・別寺
通りに戻る。道脇に安養院。北条政子の法名でもある浄土宗のこのお寺、政子が頼朝の菩提をとむらうために建立した長楽寺がその前身。別願寺。鎌倉における時宗の中心となった寺。室町時代には足利一門の信仰篤く、鎌倉公方代々 の菩提寺であった、とか。






八雲神社
別願寺から少し、大町四つ角手前を右に。八雲神社。祇園ハイキングコースの入り口がこの神社の境内にある。鎌倉最古の「厄除開運」の社。鎌倉で疫病が流行し、多くの人々が苦しむ様子をみた 八幡太郎義家の弟である新羅三郎・源義光が京都祇園社の祭神をここに勧請したのが始まり、と。祇園社の祭神、って「牛頭天王(ごずてんのう)」。牛頭天王は朝鮮半島慶尚道楽浪郡にある牛頭山に祀られる神さま。その名前をスサノオ,と言う。スサノオノミコトが朝鮮半島の神様である、というのも驚きだ。この話しは、鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ』に詳しい。「桜桃書房」、または「ちくま学術文庫」から出ている。ともあれ、この牛頭天王社、明治の神仏混交廃止令によって「天王・明神・権現」といった神仏習合の呼び名が禁止され、多くののところが、八雲神社と改名されている。この八雲神社もその伝、であろう。

祇園山ハイキングコース
ハイキングコースに上る。どこに続いているのだろう。うまくゆけば衣張山まで尾根が続いているかも、などと思いを巡らしながら登る。木立が茂りそれほど眺めはよくない。しかし、いい雰囲気のハイキングコース。尾根道を進む。15分か20分程度歩いたであろうか、道は急に下りはじめる。
北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ。

東勝寺橋
先に進むと滑川にかかる東勝寺橋。青砥藤綱の銭さらいの話の舞台。ある夜、この橋の辺りで、誤って十文の銭を落とす。
五十文で松明を買い、川ざらい。落とした銭をみつける。「愚かなり」と笑う人に、「十文は小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に 益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此辺に於て演ぜられしものならんと伝へらる(10文は小なりといえど失えば天下の損。50文の出費は自分には 損だが、人々のためになったのだからそれでよい)」と。
ちなみに、葛飾区青戸七丁目・環七沿いにある御殿山公園(葛西城址)は青砥藤綱の邸宅跡との説も。地名が青戸であるのに、京成線の駅名が青砥であるのは、このあたりに由来するの、かも。橋を渡ると右手に宝戒寺。左折し若宮王子幕府跡あたりから若宮王子をとおりJR鎌倉駅に戻る。

火曜日, 9月 13, 2005

鎌倉散歩 そのⅣ:朝比奈切通し・衣張山から名越切通しへ

先回は鎌倉へ西からのアプローチ。今回は東から。朝比奈の切通しを越えて鎌倉に入ることになる。そのあとはお寺様を巡りながら衣張山に。ちょっとした山登り、といった雰囲気ではあるが、山頂から見下ろす鎌倉の眺めはすばらしい。普通は、この山を下ったら市内へと、という段取りだろうが、勢いに任せて名越の切通しまで進んでしまった。




本日のコース:京急線・金沢八景駅 ; 上行寺 ; 朝夷奈切通し ; 熊野神社 ; 峠・磨崖仏 ; 十二所神社 ; 浄明寺 ; 報国寺 ; 衣張山 ; 巡礼古道 ; 名越切通し ; 八雲神社 ; JR鎌倉駅

京急線・金沢八景下車
京急線・金沢八景下車。最初の目的地「朝比奈切り通し」の最寄りのバスは朝比奈バス停。バスもいいが、今回は歩くことに。国道16号線を六浦の交差点へ。交差点で右折し横浜・横須賀道路の朝比奈インター方面に。金沢の地名は秩父の金沢郷、から。源氏武士の華・畠山重忠一党が、現在の釜利谷のあたりに住まいした。重忠に従って来たものの中には鍛冶職人も多く、地名を「金沢」としたとのことである。釜利谷のある谷戸には、重忠ゆかりの地も多い。金沢八景は、江戸期、妙見台から眺めた景色が美しく、明の名勝地にちなんで名づけられた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


上行寺
道沿いに上行寺。日蓮上人ゆかりの寺。当時、この寺あたりが海岸線。元は真言宗・金勝寺。日蓮上人が千葉・下総と鎌倉を往復する際に、船中にて在地豪族と問答。結果、真言宗から日蓮宗に改宗。これが「船中問答」。六浦地区を越え、大道地区に。道脇に摩崖仏。往時、この「鼻欠け地蔵」の手前を右に入り、天園の尾根道から鎌倉に入る道があった。天園ハイキングコースを歩いていたとき、いかにも釜利谷方面に抜けるような道筋があったが、朝比奈の切り通しができるまでは、こういった尾根道を通って鎌倉に入っていたのだろう。

朝夷奈切通し
朝比奈切通し朝比奈バス停から、すこし進んだところに「朝夷奈切通し 200メートル」の掲示。朝比奈?朝夷奈?一夜のうちに峠を切り開いたとされる「朝夷奈」三郎義秀の名前を忠実に峠道に使っているのだろうか。真偽のほど不明。ともあれ、左折し朝夷奈切通しの横浜側のスタート地点に。由来書:鎌倉七切通しのひとつ。国指定史跡。執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。朝執権自ら監督、と。鎌倉の外港、下総などとの窓口・六浦との連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路としての位置づけであったのだろう。
峠道への入口には、お地蔵さまが迎えてくれる。野趣豊かな道を進む。すぐ、横浜・横須賀道路の下をくぐる。石が多く足場のよくない坂を登る。峠の手間に「熊野神社左」のサイン。朝夷奈切通しの工事の無事をいのって頼朝が熊野三社を勧請したと。熊野神社に向う。この道も朝夷奈切通しができるまでは鎌倉に通じる尾根道。谷へと下り、そして太 刀洗方面に至るルートがあるのだろう。神社まではそれほど遠くない。5分程度か。到着。
photo by jmsmytaste

熊野神社
神社の階段スタート地点に鉄の進入禁止柵。なんのため?意味不明。階段を上りおまいり。先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり。
もっとも、この山吹の里って、散歩の途中であっただけでも数箇所ある。埼玉・越生、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということ、か。峠・磨崖仏、そしてお地蔵さま。
ともあれ、おまいりを済ませ、分岐へと戻る。峠を越えた下り道は水多し。湧き水だろうが、道を湿らす。足場よくない。途中、朝比奈切通しの由緒書が再び。そのあたりは、真に崖が切り取られている。磨崖仏も。結構な景観。道端にお地蔵さま。いい表情。更に坂を下り、出口、というか、鎌倉側の切通し入口に。水量の多い滝があった。三郎の滝。朝夷奈三郎から来たもの。平地を十二所方面に。太刀洗川に沿って歩く。梶原景時の太刀洗水があるとのことだが、見落とした。滑川と合流。すぐ先で朝比奈峠を越え鎌倉霊園から鎌倉に入る車道に出る。十二所は道の反対側。

十二所神社
十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる。十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。
熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。
そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。

浄明寺
稲荷小路、宇佐小路、明石地区と歩く。明石橋の交差点。左に坂を登れば、ハイランド住宅街。この道は逗子の駅前に抜ける近道としてよく利用した。道なりに直進。浄明寺地区に。道の北側に浄妙寺。浄明寺?浄妙寺?地区名と寺の名前が異なる。往古このあたりは浄妙村だった。が、江戸時代になり、浄妙寺中興の祖・足利貞氏の戒名が「浄妙寺殿」。畏れ多いということで、村の名前を浄「明」寺とした、と。で、この寺、鎌倉五山の第五位、結構あっさりとしたお寺さん。これといった印象に乏しい。境内の石窯ガーデンといった小洒落たカフェでお茶ができるのはいいかも。

報国寺
報国寺道の反対側に人が多い。報国寺への人波、か。臨済宗建長寺派の禅寺。足利貞氏(浄明寺中興の祖)の父・家時(尊氏の祖父)が開く。永享の乱のおり、幕府・関東管領軍に破れ、永安寺で自刃した鎌倉公方・足利持氏の長子・義久が自刃した寺でもある。悲劇の話はともかく、かやぶきの鐘楼などなんとなくいい感じ。拝観料を200円払う。何があるのか、と思ったが、孟宗竹の茂る庭園、やぐらを借景にした庭の拝観料といったところ。一周し寺をでる。
photo by compose-r.net


衣張山
山というか崖に沿って歩く。極力崖から離れないように歩いていると、「衣張山まで15分」といったしごく控えめな案内板。15分ならちょっと上り、戻ればいいか、と思ったのが、鎌倉散歩の中でも最高の眺めを楽しめることになる、衣張山へのプレリュード。
衣張山に向かって登る。結構きつい登り。15分? そんなはずはない。結構登る。森は深い。どこまで続くのか、と少々の後悔をしながら登る。山が開ける。尾根近くに。展望コースという掲示。
ハイランド住宅地方面が一望。途中、石切り場跡地。中に入るも少々気味悪く、すぐ退散。すぐに上り道。頂上。ここからの眺め、本当に素晴らしい。鎌倉の街並み、山々、相模湾、すべて一望のもと。天園ハイキングコースの峠の茶屋からの眺め以上、か。

衣張山の名前は、北条政子が、夏の暑い日にこの山を白い絹布でカバーし、冬山に見立て涼をとったという話に由来する。こんな大層な話はともかく、確か北条一族は、三浦半島地区に勢力をもつ三浦一族にそなえるため、名越地区に館をかまえていたはず。この山の近くの釈迦堂の切り通し付近という説、海より光明寺近く、弁ケ谷近くといった説もある。が、 ともあれ、このあたりが北条一族の本拠地。政子の話もこの地区における北条一族の力の象徴と意味合いとすれば納得。

巡礼古道
名残惜しくはある。が、頂上にあるお地蔵さんのお顔を心に留めながら下山。上りとは逆方向の下り道へ。結構長い。下っていたと思ったら、また登る。本当に大丈夫か、と不安になったころ麓、というか住宅地に。ハイランド住宅地区の一部だろうから、正確には未だ山の上のハズ。
掲示で、「左 巡礼古道5分、報国寺20分」「右 名越切り通し15分」。巡礼古道の名前に惹かれ、左に進む。5分行って、すぐ戻り、名越切通しへ、と決めた。左に進む。広い芝生の公園。遊歩道を進む。
住宅地の道路に出る。左手、山道方向に「巡礼古道」のサイン。報国寺まで15分と。最初は入口の雰囲気だけ、と思っていたのだが、やはり巡礼、しかも古道、これは歩くにしかず、ということで予定変更、報国寺まで歩く。
巡礼古道。かつて鎌倉ニ街道・杉本寺のあたりから逗子駅近くの岩殿寺にかけて巡礼の道があった。頼朝は岩殿寺の観音様を守り本尊しており、毎月18日の観音様の縁日には、必ず月詣にこの巡礼道を辿ったと「吾妻鏡」 は伝えている。現在ではハイランド住宅地の開発により、大半が潰え去ったが、一部、報国寺裏手から崖線に沿ってハイランド住宅地の瑞まで残っているってことのようだ。 崖道は誠に、いい感じ。道の途中に庚申塚、石仏・金剛窟地蔵尊も。森は深い。谷も深い。衣張山頂から、大して下りていなかったということだ。下り道。足を踏み外せば谷底に、といった急峻な道。道が開け、住宅街、報国寺の屋根が見下ろせるあたりまで下る。

名越切通し
もとの分岐に戻り、名越切り通しへ。このとき、名越切り通し、って舗装道路、幹線道路って勝手に決めていた。後になってわかったのだが、これって大間違い。極楽坂の切り通しと混同していたよう。ハイランド住宅地の外周部、 崖に沿って散歩道を進む。子ども自然ふれあいの森を越えたあたりから山道へ。結構進む。尾根道近く一軒の住宅が見えた。その家の裏、狭い道を進む。野趣豊か。どこまで続く?麓は未だか?不安になりはじめたころ、少し大きな道と合流。名越の切り通しの案内。
尾根道から名越の切り通しへの合流地点はごつごつした岩場。左に行けば逗子。右に行けば鎌倉市内に戻る。切り通しを越えて逗子に至る山道は往古、鎌倉を東西に走る二本の幹線道路のひとつ。相模と千葉・房総を結んでいた。名越の切り通しの道は、海側東西道。旧東海道である。ちなみにもうひとつの東西道は、朝比奈切通しから六浦に抜ける山側東西道、である。
右方向に進む。下り道。いい感じの道。すこし歩くと道が開き眼下に横須賀線が。足元はトンネル。横須賀線にそって崖道を下る。大町5丁目。 降りきったところで踏み切りを左に。少し歩き、交通量の多い道に当たり、道なりに踏み切りを右に渡る。鎌倉駅まで1キロ弱、といったところ。

八雲神社

駅への途中、八雲神社。仕上げも兼ねお参り。鎌倉最古の厄除け神社。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が疫病退散を祈願し京都祇園の八坂神社を勧請したもの。社殿裏から祇園ハイキングコースのサイン。道なりに歩き、鎌倉駅に到着。



日曜日, 9月 11, 2005

鎌倉散歩 そのⅢ:鎌倉山から天園へと、鎌倉を西から東に

今回は北鎌倉からのアプローチはお休み。鎌倉に西から入る。まずは鎌倉山のさくら道からスタート。途中、バスを利用しながらJR鎌倉駅に。そこからは、お寺様を巡りながら東に進み、東端・瑞泉寺に。そこから「天園ハイキングコース」に入り、北鎌倉へと歩く。天園ハイキングコースは、北鎌倉の建長寺からこの瑞泉寺まで続いているのだが、先回、途中で覚園寺に下りたため、再び尾根道にのぼることに。見所多い鎌倉ゆえに、選択肢は多い。



本日のコース:湘南モノレール・西鎌倉駅 ; 鎌倉山さくら道 ; 常盤口バス停 ; JR 鎌倉駅 ; 鶴岡八幡宮表参道 ; 宝戒寺 ; 永福寺 ; 瑞泉寺 ; 天園ハイキングコース ; 貝吹地蔵 ; 天園峠の茶屋 ; 大平山 ; 勝上嶽 ; 明月院 ; JR 北鎌倉駅

湘南モノレール・西鎌倉駅
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。

鎌倉さくら道
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。
モノレールに沿って北東に上り鎌倉山のロータリーに。「鎌倉山さくら道」の表示。当初、鎌倉山、とかいうくらいであるので、結構歴史のあるところかと思っていた。が、実際は、昭和初期、この先ほどの自動車専用道路の開通を待って始まった宅地開発の際に命名された、とか。実際の鎌倉山、って八幡宮の裏山である「大臣山」とも言われるが、定まったものではない、と。
住宅街が続く。山道・尾根道とは異なり、車の走る道。名前のとおり、桜並木は春には美しい、かと。道なりに歩く。鎌倉山1丁目、峠といっていいのかどうかわからないが、坂道を上りきったころから鎌倉の平地が眺められる。美しい。

『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』によれば、明治の頃、この地に国木田独歩が住んでいた、と。ある日田山花袋などととともに鎌倉山に上り、そのときの風景を描いた記事がある;「北の地平線は武蔵野、極目さへぎるものがない、また大山よりかけて武蔵の国境をめぐる連山!箱根足柄の諸山よりかけ伊豆の岬角に連なる山脈!此等の諸山を圧して立つ富士!大磯小磯の浜つづき、峰づたいに眺めつつ、路、林に入れば憩い、林を出づれば大洋!水平線は思いがけない所に高く一線を画して居る、小坪、葉山の磯は指点すべく、三浦の岬は遠く水平線に没しておる(『鎌倉の裏山』)。まさしく美しい景観である。
笛田公園の傍をくだり市役所通りと交差、常盤口に。車の往来激しい。この道は昔の深沢道。西の湘南モノレールあたりに深沢という地名があるが、そこに名前の由来があるのだろうか。ともあれ、この深沢道は昔の鎌倉に入るメーンルート。いまでは、北鎌倉から鎌倉を訪れる人も多いが、それはJR大船線ができて以来。それ以前はこの深沢道を通って山越えで大仏前に出るか、それでもなければ、藤沢宿から江ノ島を横手に見ての渚渡りしかなかったようである(『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』)。ここからはバスに乗り、鎌倉駅に。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


JR鎌倉駅
JR鎌倉駅からは、鎌倉市内を一気に東端まで歩き、天園ハイキングコースの東端・瑞泉寺に行く。そして、そこから西へと戻ることにした。

鶴岡八幡宮表参道

鶴岡八幡参道鎌倉駅下車。段葛を鶴岡八幡宮前まで歩く。段葛は鶴岡八幡宮の表参道、二ノ鳥居から三ノ鳥居までの道の中央の一段高い歩道。500mにわたり桜並木が続いている。碑文によれば、「置石(おきいし)とも。妻の政子の安産の願いを込 めて、頼朝が、この参道を築く。その土や石を北条時政(ときまさ)をはじめとした多くの武将たちが運んだ。明治はじめに、二の鳥居から南の方の道が無く なった」と。司馬遼太郎さんの『街道を行く;相模半島』だったと思うが、一段高くしているのは、山地に囲まれた鎌倉、雨が降れば土砂・ぬかるみ激しく、足 元を安んずるため、といった記述があったよう。
photo by compose-r.net



宝戒寺

八幡宮前右折。すこし進むと宝戒寺。開基は後醍醐天皇。二代執権・北条義時以来、北条執権家の跡地。西暦1333年(元弘三年)新田義貞により鎌倉幕府滅亡。北条一門も滅ぶ。北条九代の菩提をとむらい人材養成のため、後醍醐天皇の命により足利尊氏が 建てた天台宗の寺。金沢街道を進み、「岐れ道」という地名の分岐点をお宮通りに入り、鎌倉宮方面に。鎌倉宮前を右折。

永福寺
しばらくいくと永福寺跡。「えいふくじ」ではなく「ようふくじ」。開基は源頼朝。奥州平泉を攻め落とし、頼朝は鎌倉に凱旋。平泉の中尊寺大長寿院(二階大堂)をモデルに、永福寺・二階大堂の建立を決定。奥州征討の戦死者を祀ることが目的。ちなみに、このあたりの二階堂という地名はこのお寺・二階大堂から。おちついた住宅街を進み瑞泉寺に。

瑞泉寺
瑞泉寺瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。
photo by compose-r.net

天園ハイキングコース
瑞泉寺を出て、天園ハイキングコースへ。瑞泉寺の入口にハイキングコースの掲示が。掲示に従って動いたはずだが、住宅街の中で道に迷う。元に戻る。道脇にほんの人ひとり通れるくらいの細い道。これがハイキングコースの入口。多くの人は見逃すだろうな。ともあれ、山道を建長寺に向かって歩く。

貝吹地蔵
野趣豊かな尾根道を上るとお地蔵さん。貝吹地蔵。新田義貞軍に破れ、北条高時自害。その首を守りながら敗走する北条氏の部下たちを助けるべく、貝を吹き鳴らして 先導したという伝説のある地蔵。

天園峠の茶屋
アップダウンの山道を歩くと天園峠の茶屋。ちょっと休憩。眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから。このあたりは一部舗装。左手は鬱蒼とした森、右手はゴルフコース。このアンバランスはかえって新鮮。

大平山の頂
天園一部舗装の道を進み、ゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通ると眼前に岩場。岩場を上り、大平山の頂上に。鎌倉アルプスの最高峰、といっても159メートル。鎌倉アルプスの尾根道を進む。アップダウン、心地よい。道脇には無数の「やぐら」が。更に進むと覚園寺分岐に。更に尾根道を。左手は深い山々、右手は民家が迫る。このアンバランス。
photo by ulysses

勝上嶽
勝上嶽に。道案内に「明月院方面は右」と。まっすぐ進めば半僧坊から建長寺総門まで30分弱。はてさて、と一瞬の迷い。あじさい寺としても有名 な、明月院、ってどんなお寺さんかといった興味もあり結局右手に進む。狭いブッシュの多い下り道を進むと、宅地・住宅街に出る。ハイキングコースの掲示に瑞泉寺からここまで4.1キロと書いてあった。

明月院
明月院宅地を道なり、というか適当に歩き、明月院・北鎌倉駅への掲示を見つける。駅まで1.5キロ程度。左に折れ、坂道を結構下る。結構歩く。明月院前。このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。後は一路JR北鎌倉駅に。
photo by jmsmytaste
 ずっと気になっていた天園ハイキングコースも走破、というほど大そうなものではないけれど、ともあれ全コースを歩き終えた。本当にいい感じの山の散歩道。葛原岡ハイキングコースも大仏ハイキングコースもよかった。鎌倉は三方を山に囲まれたた要害の地で、鎌倉と他地との往来は七つの切り通しが、といった記述も歩いてみた本当にそのとおり、と実感。地形図をご覧のとおりである。
エトアニア室内管弦楽団の演奏会がきっかけで鎌倉に来た。1回のつもりが3回になってしまった。鎌倉にそれほど興味があったわけではないが、山の散歩道の素晴らしさ惹かれたのだろう。
で、メモをする過程で鎌倉とか頼朝とか北条とか、いろいろ整理することができた、いくつか気になることをメモしておく。真偽のほど定かならず。自分だけが納得。

1. 鎌倉に「幕府」はなかった。「幕府」とは一種の戦地作戦参謀室といったもの。鎌倉幕府と呼ばれたのは、徳川幕府ができてから。徳川幕府と区別するために、以降鎌倉幕府と呼ばれるようになった。で、鎌倉時代には「鎌倉殿」とだけ呼ばれていた。
2. 頼朝の鎌倉武士政権の歴史的意味は、律令制に対するアンチ・テーゼとして。律令制の根幹をなす、「公地公民=土地はすべて国のもの」に対し、開拓民というか屯田兵というか、ともあれ、武士が「自分で開拓し切り開いた土地は自分のもの」という主張を明確にしめした。律令制度の崩壊を決定的にしたこと。
3. 頼朝といったところで、御大将というよりも、関東武士団の対朝廷土地問題利益代理人といったところ。関東の土地問題を公平に裁き、その土地の所有権を朝廷から認めさすのが最大で唯一の職務。
4. 源氏は三代で滅ぶ。そのあと北条氏が執権として将軍を補佐。実質的に政権を動かす。で、将軍は?藤原氏や天皇家から将軍を迎えていた。いうまでもなく北条の傀儡将軍。
5. 北条氏って、頼朝時代の政子、時宗、滅亡時の高時など、あまりいい感じの人物がいないと思っていた。が、北条泰時さん。結構格好いい。じっくり調べて見たい人物、というのが今回わかった。
快適な3つの散歩道と北条泰時という人物に「出会った」のがこの鎌倉散歩の大きな収獲であった。

水曜日, 9月 07, 2005

鎌倉散歩 そのⅡ:葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコースへ

二回目は北鎌倉から大仏様へと向かう尾根道のハイキングコースを歩く。大仏さまからは、再び東に戻り、佐助稲荷から源氏山を越えて、寿福寺脇に下る。本来であれば、葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコース、そして江ノ島あたりでひとつ。葛原岡ハイキングコースから寿福寺、そして鎌倉市内がひとつ、といったものだが。今回は足に任せた欲張りなコースとなった、よう。ともあれ今回のコースは、野趣豊かなハイキングコースである。



本日のコース: JR 北鎌倉駅 ; 葛原岡神社 ; 日野俊基の墓 ; 化粧坂 ; 銭洗い弁天 ; 大仏切通 ; 鎌倉大仏 ; 佐助稲荷 ; 源氏山公園 ; 寿福寺 > JR 鎌倉駅

葛原岡ハイキングコース
JR北鎌倉駅で下車。道を進み、浄智寺への入口に葛原岡ハイキングコース・大仏ハイキングコース入口の案内が。浄智寺脇>葛原岡公園>源氏山公園>大仏へと 続くよう。源氏山公園から化粧坂に戻ればいいと方針変更、このルートから源氏山に向かう。

浄智寺脇の坂をゆっくり上る。次第に山道。アップダウンも激しい。木の根っこに足を掛けながら登り下り。1キロ、20分か30分程度の尾根道だと思うのだが、結構な山道である。途中下り坂っぽい分岐もあるが、案内は見当たらない。ルートを外れたのかと不安になりながら進む。

葛原岡神社・日野俊基の墓
開けた場所に。「文章博士の日野俊基の神社はこちら」の案内。葛原岡公園に着く。文章博士とは、作文が上手な人っていうわけではない。律令制の大学で詩文、歴史等を教える大先生ってわけ。

太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」に、 「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でた まう、心の中(うち)ぞ哀れなる」。
後醍醐天皇の意を受け、倒幕を計画。露見し逮捕され鎌倉送り。天皇の弁明もあり釈放。これが正中の変。これにめげず再 度倒幕計画。またまた発覚。元弘の変。再度鎌倉送り。上の文章はその折の作。きらびやかで、道行文の傑作とのことだが、内心はいかばかりか。重犯であり、 さすがに今回は助かるはずもなく、いつ殺されるかといった恐怖の中での文章。実際、この葛原で斬殺される。

化粧坂
葛原岡神社、日野俊基の墓をまわり、源氏山公園に向かう。道の途中に化粧坂。「化粧坂」の由来は、討ち取った平家の武将の首実検のため、化粧を施した、とか、坂の麓に遊女がいた、とかあれこれ。それよりも、ここは鎌倉七口のひとつであり、攻防戦の重要拠点。新田義貞の鎌倉攻めの場合も、この地で合戦があった。が、結局ここを破ることはできず、有名な稲村ヶ崎の渡り、鎌倉攻略と相成る。


源氏山公園
源氏山公園は白旗山、 旗立山とも。頼朝の祖先である源頼義、(八幡太郎)義家親子が後三年の役で奥州に向かう際、源氏の白旗を立て、勝利を祈願したことに由来する。頼朝も平家追討に際し、この地で戦勝を祈願したとか。頼朝の像もあった。
源氏山公園からハイキングコースはいくつか選択肢がある。化粧坂から海蔵寺へのルート、英勝寺に下りるルート(通れないとの案内があったよう)、寿福寺へ下りるルート、銭洗弁天へのルート、佐助稲荷へのルート、大仏ハイキングルート、など。今回は大仏ハイキングコースを歩くことにする。先回の天園コースに続き、鎌倉の尾根道を楽しむことになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



銭洗弁天
大仏ハイキングコースに向かうとすぐ、「銭洗弁天へ、150メートル」の案内。ちょっと寄り道を。坂を下り、洞穴をくぐり弁才天に。頼朝が夢に現れた老人のお告げで岩から湧き出る霊水を発見。社を建てて宇賀福神=弁天さまを祀ったという言い伝え。この霊水、鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を洗うとお金がたまるというが、ザルで小銭を洗うこともなく上之水神社に。脇からあふれ出る湧水が。また崖の中腹から滝のごとく水が流れ落ちる。素敵な眺め。コースに戻る。

大仏ハイキングコース
大仏ハイキングコース降り口大仏ハイキングコース。公園からしばらくは民家ある眺め。道幅も広い。が、次第に本格的ハイキングコースに入っていく。葛原岡ハイキングコース同様、急な上り・下り、木の根に足を掛けての山道が続く。途中で道が二手に分かれる。標識がなかったのでなんともいえないが、佐助稲荷へ降りて行く道だったのだろう。ともあれ、道なり、と思しき踏み分け道を歩く。きつい下り坂を乗り越え平地に。大仏トンネルの脇に出た。
大仏坂切通しはこのあたりの、はず。残念ながら案内がなく切通し跡を訪ねることはできなかった。あとから調べると、このトンネルの北から切り通し跡の道が続いているようだが、トンネルの出口あたりで道は切れていた。次のお楽しみ、と。2キロ弱の山道ハイキングであった。
photo by Koichi Suzuki

鎌倉大仏・高徳院
600メートルほどで大仏さんのある高徳院に。あまりの人の多さに圧倒され、大仏さんは頭だけ外から眺め、スキップ。みやげ物屋が並ぶ長谷通りを下り、長谷観音前を左折。由比ガ浜大通りを東へと。次は平地を少し東に戻り佐助稲荷へと。


佐助稲荷
浄智寺由比ガ浜大通を歩く。道脇に平盛久の碑が。戦に破れた平盛久は捕らえられて鎌倉へ。処刑の日を迎えたが盛久を斬ろうとした刀が何故か折れてしまう。日頃から清水の観世音を深く信仰していた故か。頼朝に許された盛久は、これも観音のおかげと喜びの舞を舞ったとか。
笹目の交差点あたりで左折し北に向かう。佐助1丁目から法務局前交差へ。銭洗弁天、佐助稲荷への案内掲示。銭洗弁天、佐助稲荷は結構近かった。佐助2丁目で左折し、佐助稲荷へ。
鬱蒼とした森を奥へと。赤い鳥居をくぐり社殿に。神社の縁起によると、伊豆配流 となっていた頼朝の夢枕に鎌倉鎮座の稲荷神と名乗る翁現れ、頼朝の平氏追討、天下統一を告げる。鎌倉幕府を開いた頼朝はこの地に稲荷社があることを知り社殿を立てたとか。よくある話。ちなみに佐助とは頼朝が右兵衛佐(うひょうえのすけ)の官職にあったため「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。で、佐助稲荷、「佐殿を助けた」の意味でこの名がつけられたと言われている。
photo by Sig.
源氏山公園から寿福寺
佐助稲荷から、源氏山公園は近い。ということで、源氏山公園に戻り、そこから寿福寺へ下りるコースに向かう。銭洗弁天横の坂を再び登り、源氏山公園に。寿福寺への下り口を探す。結構わかりにくい。あれこれ大回りし、なんとか下り口に。すこぶる険阻なる山道。整地されてなどいないし、すごい坂道。ブッシュもあるし、人ひとりかろうじて通れるような岩場の裂け目を下りるわけだし、途中には寿福寺の墓地に紛れ込みそうになるし、いかにも不気味な「やぐら」はあるし、いやはやな山道走破を求める方にはお勧め。

寿福寺

寿福寺臨済宗建長寺派の寺。鎌倉五山第三位。源頼朝没後、北条政子の発願で伽藍を建立。明庵栄西が開山。 頼朝の父義朝の館のあった所、とも。また、裏手の源氏山は源頼義・義家(八万太郎)が戦勝祈願をしたところ。源氏ゆかりの地である。ために、頼朝は当初ここに幕府を構えようとした、とか。境内には源実朝、北条政子の墓。そのほか、高浜虚子、大仏次郎さんなどが眠る。栄西の『喫茶養生記』や地蔵菩薩は国の重要文化財(「鎌倉国宝館」にある)。『喫茶養生記』はお茶の製造法、効用などが書かれている。栄西禅師が喫茶の習慣を日本にもたらした、という所以である。
photo by jmsmytaste
JR 鎌倉駅
寿福寺前からJRの踏み切りを渡り、雪ノ下地区を歩いていると、お屋敷。外国映画の輸入・配給でよくお名前を聞いていた川喜多かしこさんの邸宅だった。後は一路鎌倉駅に向かう。