金曜日, 9月 30, 2005

多摩丘陵から杉並へ Ⅲ;調布から永福へ

襷リレーの最終区、調布から杉並・和泉に。調布から和泉まではふたつのルートで歩いた。
ひとつは調布から京王線に沿って、旧甲州街道・甲州街道を杉並・和泉まで歩くルート。これは会社の社員の家が国領にあり、ちょっとした御もてなしを受け、お開きとなり歩いて帰宅した時。
もうひとつは調布から深大寺、東八道路をへて久我山から杉並・和泉へのルート。これは娘の調布マラソンの応援に出向き、帰り道を歩くことにした時。もう半年もむかしのことなので、記憶ほとんど残ってはいない。が、ともあれ調布>甲州街道ルート。
 

調布>甲州街道ルート

国領

調布駅スタート。旧甲州街道を布田方面に。布田は麻布の材料となる麻生の材料が植えられた土地・田があったのだろう。国領駅に。日本橋から数えて4番目の宿場。駅前に異様な高層マンション。ランドマークにはなるだろうが、少々違和感。で、国領の由来。古代から中世にかけての国衙領、つまりは荘園に対する公領がこの地にあったからだろうか。そういえば近くに、飛田給とか、上給といった地名もある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


国領駅を過ぎると、旧甲州街道は甲州街道に合流。これからしばらくは車の排気ガスをたっぷり吸うことになる。調布警察署前を越えるとすぐに野川と交差。柴崎駅を越え、つつじケ丘交番前を右折。
京王つつじケ丘駅前に入る。駅前に書源という書店。どこにいっても金太郎飴みたいな書店が多いこのご時世、この本屋さんだけは品揃えに何かを感じる。とはいいながら、一時期いろんな店を探し回ったがなかなか見つからなかった『国銅(上・下)』(帚木蓬生著・新潮社刊)がこの店にあったという理由だけなのだが。見つけたときは結構うれしかった。

国分寺崖線
京王線にそって進む。入間川を越えたあたり、前方に壁。いわゆる国分寺崖線であるのだが、そのときは崖線といった言葉も知る由もなく、ひたすら、壁に圧倒される。どこから上ればいいか、壁の割れ目を探す。急な坂。上りきる。と、脇に実篤公園があった。実篤公園については先日の散歩でメモしておいた。

仙川駅を越え、足元に京王線を見ながら進む。結構丘が高い。丘を下り仙川に。川沿いの遊歩道を甲州街道まで戻り、再び旧甲州街道に。

給田地区。給田という以上、このあたり、幕府や荘園領主が御家人・荘官に給料のかわりに「田」をあたえていたのだろう。こうして律令制の基本となる、公地公民制が崩れていくのだろう。

ともあれ、京王線千歳烏山、芦花公園と進む。烏山はカラスの多く巣くう森があったからとか、黒い土からなっていたとか。千歳は歴史的由来なし。いくつかの村が合併するとき、御めでたい名前をつけただけ。芦花公園は明治の文豪徳富蘆花の住居「蘆花恒春園」が近くにあったから。「不如帰」とか「自然と人間」などで知られる。
そういえば、逗子の海岸端、田越川が逗子湾に注ぐ河口に蘆花記念公園があった。その地が「不如帰」を執筆したところだと。また、逗子海水浴場の鎌倉寄りのところに浪子不動がある。不如帰の舞台ともなったところであり、ヒロイン浪子の名前をとったお不動さんがつくられたのだろう。

環八手前で旧甲州街道は甲州街道と合流。環八を過ぎ、八幡山、上北沢、桜上水から下高井戸に。八幡山は八幡神社がある里山というか森、というか林があったから。「桜上水」は、近くの玉川上水の堤に桜並木があったことから。高井戸は、高いところに井戸があったから、とか、高いところにお堂=高いお堂=たかいど、となったとか、これも例によっていろいろ。下高井戸は日本橋から数えて2番目の宿場町。あとは、神田川沿いに遊歩道を歩き和泉の我が家まで歩き本日の予定終了。

甲州街道
で。甲州街道。徳川幕府が制定した5街道のひとつ。日本橋から甲府、ではなく信州・下諏訪までの53里の街道。このメモをまとめるまで、甲州=甲府まで、と思い込んでいた。江戸初期は参勤交代にこの街道を利用するのは、伊那の高遠藩、飯田長姫の飯田藩、諏訪の高島藩の3大名のみ。中仙道に比べて閑散としていたようだ。下高井戸宿あたりなど、昼なお暗きといった様相だったとか。が、将軍家御用のお茶を宇治から江戸まで運ぶ「お茶壺道中」がはじまった頃、5代将軍綱吉の頃からは少々賑わいをみせてくる。ちなみに徳川幕府制定の5街道とは、東海道、中仙道、甲州街 道、日光街道、奥州街道。


調布>深大寺>東八道路
調布から杉並・和泉への散歩道のあとひとつは、甲州街道を離れ深大寺>東八道路>中央高速道交差>環八>和泉へのルート。
調布から旧甲州街道を布田駅まで歩き、布田駅交差点を左折、甲州街道の下布田交差点を北に三鷹通りに。八雲台交差点を越え、野川と交差。佐須町の交差点を越え、中央高速の下をくぐれば深大寺湿地。
が、しかし、ここに湿地があることは、このメモをまとめることになってはじめてわかった。深大寺散歩をした当時、といっても半年前だが、その頃はただひたすら歩くだけ。地形のうねりも、湧水も、崖も、城址も頓着しなかった。
で、深大寺湿地を見落とし深大寺小学校前に。結構歴史のありそうな学校。実際、前身となる学校は明治6年、というから、「邑ニ不学ノ戸ナク 家ニ不学ノ人ナカラシメン」といった明治5年の学制令発布の翌年に建てられたという。深大寺の末寺、多門院を使ってはじめたとのこと。左に曲がれば深大寺の入口だったようなのだが、道案内がよくわからず坂を直進。青渭神社前に。

青渭神社
縁起;往古、この辺りに大きな青い沼。ために、青沼大明神とも呼ばれる。祭神は青渭神。出雲系・農耕・農作物の神。本殿の建築は、江戸時代初期のもの。ケヤキは、市天然記念物。 

深大寺
神社を出て、結構今風の公園脇を深大寺植物公園に向って奥に進む。適当なところで左折し深大寺へと。途中鬱蒼とした森というか林を進む。つまるところは、深大寺の裏手からアプローチとなったわけ。深大寺は天台宗の古刹。天平5年(733)、満功(まんくう)上人によって創建されたと伝えられる、関東では浅草寺についで古い寺。
深大寺周辺は国分寺崖線が通り、「ハケ」から湧く豊富な水が、せせらぎや滝をつくる。釈迦堂には白鳳仏。奥の木立の中に、秘仏をまつる水神深沙大王堂がある。

深沙大王堂といえば、深大寺縁起にこんな話しが;その昔、この地は郷長右近(さとおさうこん)によって治められていた。福満(ふくまん)という青年が現れる。右近の娘と恋に落ちる。右近は二人の仲を許さず、娘を池の島へ隠す。福満は深沙大王にお願いの儀。「大王様のお力で、島に渡らせてほしい。願い叶えば、里の鎮守としておまつりする」と。池から霊亀が現れる。福満は亀の背中に乗り島へ渡り娘を助け出す。右近も二人の仲を認め、結婚を許す。子は満功(まんくう)。父と深沙大王との約束を受け継ぎ、唐へ渡り、教義を究めてこの地に戻り、733年に深大寺をつくったと。福満といい満功といい、いかにも渡来系。古来、調布から狛江にかけて移り住んでいた渡来系氏族と武蔵野の地に住んでいた先住氏族の異文化交流を表しているのかも。

深大寺からは三鷹通りを離れ住宅街というか農家・畑の間を東に向う。中央高速手前、昇華学園交差点あたりで北に。原山交差点、中原3丁目の交差点、杏林大学病院入口を越え、仙川公園を過ぎれば仙川と交差。新川交番前交差点で東八通りに。

東八道路を天神前北浦、新川天神前、三鷹台団地入り口と進む。このあたりで道路が狭くなる。牟礼地区を進む。が、歩道はない。車に気を使いながら国学院久我山を過ぎ、NHK運動場の近くを進む。このあたり、玉川上水散歩で歩いた。ずっと続いた玉川上水の開渠が暗渠と消える地点。さらに進み中央高速にあたる。後は中央高速に沿って、高井戸出口、第六点神社を越え環八から一路和泉まで。

深大寺湿地、そしてそ深大寺城址
で今回見逃した深大寺湿地、そしてその中にある深大寺城址についてメモしておく。本当にこの時代は敵味方錯綜し、なにがなんだかわからなくなってしまう。はてさて、この深大寺城址をめぐる人物・イベントであるが;
1.作った人;扇谷上杉朝定。武州松山の難波田弾正広宗に命じ古い砦跡を急遽改修してつくった
2.目的;後北条氏、北条氏綱の侵攻に備える。後北条氏とは、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)を初代とする小田原北条氏五代。鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」と呼ぶ。
3.経緯;室町幕府の支配権が衰えると世は戦国時代へ。そんな16世紀前半、関東は管領上杉氏と北条早雲を祖とする新興勢力の後北条氏との覇権を争う場となっていた。北条氏綱が高縄原合戦(現在の高輪台)で勝利し江戸城を奪取。扇谷上杉氏の本拠・河越城攻撃を計画。それに備えるためつくったのが深大寺城。
4.カウンター:北条氏綱は牟礼・烏山に砦、深大寺城に対する付け城を築いて封鎖し、深大寺を力攻めすることなく、河越城へ進む。
5.武藏三ツ木原(西武新宿線・新狭山)で扇谷上杉軍と合戦。北条氏勝利。一気に上杉勢の本拠地である河越城まで一気に侵攻。
6.結果;上杉軍は総崩れ。河越城を捨てて松山城に退却。江戸城攻防から河越城攻防までは一方的に北条氏の勝利。その後の第一次国府台合戦、そして日本三大夜戦のひとつとも呼ばれる河越夜戦において北条氏決定的勝利。関東の覇者として君臨
7.深大寺城の位置づけ;戦略的意味がなくなり。廃城。
8.ついでに;高縄原の激戦(高輪台)。大永4年(1524年)、江戸城を守る扇谷上杉朝興(太田道灌を暗殺した扇谷上杉定正の2代あと)と、関東攻略を図る北条氏綱が高縄原(今の高輪台辺)で激突した。上杉軍、江戸城へ退却。太田道灌の孫、太田資高、資貞兄弟の内応で江戸城は陥落。そして夜になると闇にまぎれて川越へ落ちる朝興を板橋近辺まで追撃。勝った北条軍、一ッ木原(赤坂),勝鬨を。
ともあれ、この深大寺あたり、お寺とかそば以外に地形的にも面白い。日を改めて再度歩くべし。

木曜日, 9月 29, 2005

多摩丘陵から杉並へ Ⅱ;分倍河原から調布まで

分倍河原から調布まで:分倍河原の高安寺。京王線の社内・京王線沿線案内だったかと思うが、高安寺の案内を目にした。由緒深げなお寺。出かけてみようとなり、それが調布まで、調布から和泉まで、そして先回メモの多摩の南大沢から分倍河原まで、という襷リレーの発端となった。



高安寺
高安寺。分倍河原の駅を下りて旧甲州街道・片町2丁目の交差点を過ぎ境内に。由来は、足利尊氏が戦でなくなった将士をとむらうため全国66カ国2島に建てた寺・安国寺のひとつ。どっしりとして、素朴な山門が名高い。
この古刹のある地区・片町の由来は甲州街道の南側がこのお寺で占められたおり、道の北側にしか町屋がなかったため。この寺の往時の隆盛がしのばれる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


このお寺、歴史はずっと昔に遡る。天慶9年(西暦940年)俵藤太秀郷がここに館を構えたとか。俵藤太秀郷といえば、なんとなく記憶にあるのは「ムカデ退治」、そして「平将門討伐」ということ。境内には秀郷稲荷が。また、分倍河原の合戦の折、新田義貞がここを本陣とした。室町時代には鎌倉公方・足利氏の戦陣・本営として、また戦国時代には上杉氏や後北条氏の戦略上の要となっている。つまりは、武蔵野国の中心であった、ということか。

で、なぜ府中なのか、とは思うが、鎌倉というか藤沢の腰越で鎌倉入りを許されなかった義経が、頼朝宛に書状をしたためるときの硯に注いだ水といわれる弁慶硯の井戸が。なぞだ?、というか伝説ってそんなもんかも。
俵藤太秀郷についてちょっとメモ。秀郷は平将門の乱に際して押領使(おうりょうし;暴徒鎮圧の任にあたる。国司・郡司・地方の豪族が任じられることが多い)に任ぜられ、将門追討の勅命。一度は敗退。が、平貞盛らと協力し下総国(現・茨城県)にて将門を破り、乱を平定。この功積によって秀郷は従四位を賜わり、下野守に任ぜられた。

大国魂神社
旧甲州街道を進み、JR武蔵野線、府中街道を越え旧甲州街道沿いに大国魂神社。大国魂神社と呼ば れるようになったのは明治から。神社の東・宮町には古代、武蔵の国府があったところ。で、この神社、国司が武蔵の一宮から六宮までの六社をこの地にまつり、武蔵の総社としたのがはじまり。ために、六所宮・六社神社とも呼ばれていた。
本殿のうち中殿には大国魂大神・御霊大神・国内諸神、東殿には小野大神・小河大神・氷川大神、西殿には秩父大神・杉山大神・金佐奈大神がまつられる。現在の本殿は寛文7年(西暦1667年)徳川家綱がたてたもの。また 本殿の隣に東照宮が。いかにも徳川家の庇護篤かりしことが偲ばれる。

府中駅の東・都道133号線は、往古大国魂神社の参道。正面大鳥居から約500mに渡って欅(ケヤキ)並木が続く。 平安時代末に源頼義が前九年の役への出陣に際し、戦勝を祈願して奉納したのが始まり。江戸時代には徳川家康がその故事にならい、関が原の戦い・大坂の陣の折に奉納。 国の天然記念物に指定されている。この神社、毎年、5月5日に開催される「くらやみ祭り」で有名。で、前九年の役のメモ;平安時代中期、朝廷(源頼義・義家)と東北の豪族安倍氏の戦い。源氏方が清原氏の味方を得て平定。源氏が東国に覇を唱える礎となった。

宮前地区を越え、八幡宿の交差点。聖武天皇の時代に建てられた武蔵の国の八幡宮があるのだろう。地図にでていなかったのでスキップした。京王競馬場線と京王本線が接近。旧甲州街道が京王本線と交差。越えるとすぐ京王競馬場線の始点・東府中駅。

道なりに進み白糸台1丁目の交差点を越え、不動尊前交差点。北に向かえば多摩霊園。ちょっと手前に染屋不動尊。身の丈50センチ程の阿弥陀如来像が奉られてる。新田義貞の挙兵に馳せ参じたものが、この地に残したと。染屋の地名は布を染める染屋があった、とか。

車返団地入口
西武多摩川線と交差。少し歩くと車返団地入口交差点。昔同じ職場で働いていた人がここに住んでおり、一度車で送ってきたことがある。で、そのときの刷り込みで車=マイカー=新しい地名、と思っていた。調べてみると。由緒書きに「地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したところ、夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれます。」と。

白糸台地区を越え飛田給駅入口交差点に。交差点のちょっと手前の道路脇に薬師堂と行人塚。江戸の頃、仙台藩の医師、松前何某が自ら彫った薬師如来像を残し、穴を掘って入定。村人が堂を建てて薬師如来を奉ったのが由来となっている。

飛田給
飛田給。味の素スタジアムには何度か。で、飛田給の地名の由来、例によっていくつか、飛田給とは悲田給(ヒデンキュウ)のこと。奈良時代、孤児・貧窮者を救済する悲田院の給地(所有地)がこのあたりにあった。で、その悲が後に飛に転化したのだという説。また、当時荘園を管理する荘官の名前、飛田氏が領主から この土地を与えられた、といった話も。どちらも在り得る話。

調布
上石原1丁目あたりで中央高速くぐると西調布駅。後は一気に調布駅まで。本日の予定は終了。

で、 高安寺・俵藤太秀郷のムカデ退治。大津・瀬田の唐橋を渡る田原藤太。橋に大蛇。怯むことなく通り渡る。その武勇を見た大蛇、女に変身し藤太のもとへ。仇敵 ムカデ退治を依頼する。藤太、ムカデを射抜き退治。藤太のもとへ贈り物が。いくら裁断してもなくならない巻絹、ほしいものが何でもでてくる鍋、そして、口をあければいつでも米が流れ出る俵。爾来、「俵」と。
それにしても、なんでムカデ退治の物語を覚えていたのだろう。子供のときの記憶に残っている。桃太郎、金太郎と同じ程度にポピュラーに、大江山の酒呑童子と同じ程度にクリアをもっているのだが、ムカデ退治の話しがそれほどこども向けの話とも思えないし、謎だ。

水曜日, 9月 28, 2005

多摩丘陵から杉並へ Ⅰ;南大沢から分倍河原へ

南大沢から分倍河原:娘の陸上競技大会の応援に出かけた。上柚木陸上競技場。京王線南大沢にある。参加種目をビデオでおさえ、とっとと散歩に出かける。分倍河原まで歩こうと決めた。理由は、先日、分倍河原から調布まで、さらに日をあらため調布から杉並・和泉まで歩いたことがあり、駅伝ではないけれど、とりあえず「襷」ではなく、「歩線」をつなごうと思ったわけである。


南大沢
上柚木陸上競技場を出て、南大沢の駅前に戻る。駅前はアウトレットショップが並び、いかにも多摩ニュータウン。駅前、というか駅の北に首都大学東京南大沢キャンパス。キャンパスに沿って歩き柳澤を経由し、坂を大栗川との交差まで下る。
大 田平橋を渡り右折、道なりに下柚木まで。大栗川は多摩川の支流。多摩の横山(多摩丘陵)の西端、絹の道で知られる鑓水付近が水源。南多摩の真っ只中を「野猿街道」につかず離れず東に流れ、聖蹟桜ケ丘付近で鎌倉街道を横切った後、乞田川と合流し関戸橋の3km下流で多摩川に注ぐ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

野猿街道
「野猿街道」。野猿という以上、このあたり、おサルでも多いのかと思った。が、そうでもないらしい。以前は「猿丸峠」や「猿山峠」という名であった。もっと古くは「甲山峠」。それが「申山峠」に転じ、「申」が「猿」となったものらしい。

下柚木で左折、というか「野猿街道」をちょっとかすめ下柚木中央小方面に。玉泉寺の近くを北に歩く。帝京大高校の正門前に。が、行き止まり。戻る。道なりに適当に歩き大栗川橋北に出る。堀の内地区のいかにも宅地開発用空き地を北に上る。自動車の通り激しく、あまり愉快ではない。多摩散歩などと洒落たつもりが、生活道路のど真ん中。

帝京大中高北の信号を越え、自動車併用トンネルをくぐり、排気ガスをたっぷり吸収。東京薬科大学の信号を越え、 またまたトンネル。堀の内第三トンネルをくぐり出口。平山台小入口の信号あたり、右は多摩テックの森。こどもが小さいときはよく来たものよ、などと感慨に浸りながら歩くと平山城址公園入り口。

平山城址公園
平山城址公園。その昔、源氏方の侍大将・闘将で知られる平山季重の砦があったと伝えられる場所。季重は、武蔵七党のひとつ西党日奉(ひまつり)氏の一族。源義朝に従い、平治の乱(1159)の折、圧倒的多勢の平重盛の軍勢に少人数で戦いを仕掛ける。義経のもとで戦った宇治川合戦では木曾義仲の軍勢に先陣を切って斬り込む。一の谷の合戦では逆落しに駆け降り平家を破る。頼朝・義経兄弟の対立後は頼朝に従い、奥州平泉の義経征伐に加わる。

北野街道
奥山橋下のロータリー(?)。ここを右に行けば多摩テックや多摩動物公園。が、直進し平山五丁目で北野街道と交差。右折し南平駅を越え、高幡不動に向かう。 北野街道は八王子の北野町から、淺川に沿ってつかず離れず日野市に至る。北野町は「北野天神」から。創建年代は不明。鎌倉時代にこのあたりを支配した武蔵七党のひとつ横山氏が京都北野天満宮を勧請したのが始まりという。祭神はもちろん菅原道真。

高幡不動
北野街道を進み、高幡橋南で川崎街道と交差。少し進み高幡不動に。高幡山明王院金剛寺。真言宗智山派の別格本山。成田山(千葉県)、大山(神奈川県)と共に関東三大不動のひとつ。不動堂、仁王門は国の重要文化財。奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられる。不動堂は清和天皇の勅願により慈覚大師が関東鎮護の霊場として山中にお堂を建てたのが始まり。室町時代は、鎌倉公方・関東管領・上杉氏等有力武将の信仰を得る。

このお不動さん「汗かき不動」と呼ばれる。戦乱の度毎に不動明王が全身に汗を流されて不思議なできごとを起こしたため。境内に近藤勇・土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」も。篆額の筆者は元会津藩主松平容保、撰文は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は近藤・土方の良き理解者であった元幕府典医頭の松本良順。
松本良順はすこぶる魅力的な人物。安政 4年、幕命により長崎遊学し、オランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学ぶ。日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力。江戸にて西洋医学所の頭取となる。幕医として近藤勇と親交。戊辰戦争時は、会津若松に入り、藩校・日新館に診療所を開設し、戦傷者の治療にあたる。 幕府方として働いたため投獄。のちに兵部省に出仕し、明治の元勲のひとり山県有朋の懇請により陸軍軍医部を設立。初代軍医総監。貴族院議員。男爵。

程久保川
高幡不動を出て、駅前のみやげ物屋をひやかしながら歩く。近くに程久保川が多摩川まで流れている。川筋を多摩川合流点まで下る。程久保川。日野市程久保に始まり多摩川へ注ぐ。総延長4kmほど。古い名前は「谷戸川」。谷戸とは 丘陵地の谷間での小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。湧水に端を発し、水の豊かな農村風景というか、里山の風景をつくりあげていたのだろうか。

中河原
多摩川との合流点から堤防上の遊歩道を少し下り、多摩川にかかる府中四谷橋に。橋を渡り、四谷地区の住宅街に右折。適当に道なりに歩き中河原駅に。中河原は、もと大道(大堂とも)と呼ばれていた。が、天文年間(1532-55)の多摩川の洪水により、石の河原になってしまった。で、集落が古多摩川(古玉川)と浅川との間の河原にあったため、それ以降は中河原と。古く、多摩川は中河原のはるか北側を流れており、中河原は多摩川の南側に位置していたと掲示にあった。

分倍河原古戦場碑
中河原の駅を越え、すこし歩き右折。分倍河原への国道18号を進み、中央高速の手前に分倍河原古戦場碑。元弘三年(1334)、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるべく、上野国(現群馬県)から南下。所沢の小手指ケ原、久米川の戦いで幕府軍に連勝。大敗を喫した北条軍は鎌倉に使者を急派。北条高時の実弟北条泰家を大将とする援軍来陣し兵力倍増。
新田義貞、北条泰家率いる幕府軍と分倍河原にて戦端を開く。 新田軍、緒戦敗れる。新田軍は堀兼(埼玉県狭山市)に退き軍勢を立て直す。このとき、武蔵国分寺は新田軍により焼失。新田軍に、相模の豪族三浦義勝など援軍が。新田軍、分倍河原の北条軍を急襲。北条軍大敗。新田軍鎌倉侵攻。鎌倉幕府は滅亡。これが分倍河原の合戦。
分倍河原周辺にはこの合戦に関して「三千人塚」と呼ばれるものが残されている。これは分倍河原合戦で戦死した新田・北条両軍の戦死者を弔った後だと伝えられている。

分倍河原古戦場碑のところから、多摩川沿いの郷土の森公園まで遊歩道の案内。残念ながら日没近く。早々に分倍河原の駅に向かい本日の予定終了。

そういえば、この分倍河原って名前、どこから?この駅近くの地名は分梅町だし、分梅駐在所だし、分梅橋だし、分梅公園だし、分倍って地名も分倍河原って地名も見あたらない。 調べてみた。「分倍=ぶばい」という名前については、「新田義貞が梅を兜につけて進撃したという話に由来する分梅から」とか、「この地 が多摩川の氾濫により収穫が少ないことがしばしば。故に、口分田を倍に給した所であったため分倍(陪)や分配と呼ばれていた」などいろいろ。古くは「分倍(陪)や分配=ぶんばい」と呼ばれていたこともある。が、近世以降には「分梅」が用いられたと。
ともあれ、駅名の「分倍河原」は地名とはどうも関係なさそう。また、玉南電気鉄道(のちに京王線と合併)開業時は、当時の地名から「屋敷分駅」と呼ばれていた。が、いつから「分倍河原」となったかは資料に残っていないとか。ちなみに。屋敷分という地名は、国府のお役人で、その後、六所宮(現・大国魂神社)の神官の屋敷があったことに由来する。

本日結構きつかった。散歩道としてはそれほど快適ではなかった。多摩丘陵とはいいながら、丘陵散歩といった趣に少々欠ける。今回は散歩そのもの、というより、分倍河原まで歩く、そして「襷」をつないだ、ということでいいとしよう。

月曜日, 9月 26, 2005

多摩川堤散歩;喜多見・狛江周遊

野川も歩いた。野川に注ぐ仙川も歩いた。そして道の途中、喜多見、狛江が気になっていた。野川に注ぐ入間川も、その名前が気になっていた。埼玉・高麗郷と入間川、狛江と入間川。なにか関連があるのだろうか。六郷用水で出会った次太夫、その記念公園・次太夫堀記念公園も気になっていた。で、今日は、これら気になっていた、そして取りこぼしていたところをまとめて面倒、ってルートを歩く。スタート時点の設定ルートは;仙川―入間川―次太夫堀記念公園―狛江の多摩川土手、そしてその後はケセラセラ、ということで京王線に乗る。


今回のルート;
仙川>実篤公園>入間川>明照院>糟嶺神社>中央研修センター>百万遍供養塔>喜多見不動尊>次太夫堀公園・民家園>宇奈根>観音寺>氷川神社>多摩川土手>多摩川土手・猪方地区>多摩川土手・小田急交差>多摩川土手・和泉地区>多摩川土手・水神前>多摩川土手・西河原公園>万葉碑>京王線国領駅

京王線仙川


仙川下車。駅前の案内図で入間川の流路チェック。京王 線をくぐったあたりから入間川が開渠となっている。線路に沿って調布方面に。道の途中、先日の散歩で偶然出会った実篤公園に寄る。子供のころから、水のあるところに住みたいと願っていた作家武者小路実篤氏が70歳から20年間住んだところ。崖線の特徴を生かした家のつくり。尾根道部分に入口。坂をくだり家屋、湧水池。規模の違いはあるにしろ、目白崖線にあった黒田家、細川家の大名屋敷のつくりと構想は同じ。

実篤公園を出て、道なりに歩き、入間川の開渠部に。H鋼で補強されたコンクリート敷きの河川。中央の溝に水がわずかに流れる。川沿いの散歩道はあったり、なかったり。ほとんど無かった。流路から離れないようにと、右に行ったり、左に行ったり。何回か行き止まりにも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


明照院
仙川駅から下りてくる114号線をこえ入間町アパートとかNTTアパートのあたりを歩く。突然目の前にすごい石組み。まるでお城のようなお寺。明照院(みょうしょういん)。16世紀中旬開基。天台宗。本堂、観音堂、えんま堂、地蔵尊、六地蔵、巡拝供養塔など。観音堂には調布七福神の一つ「弁財天」が。

糟嶺神社
お寺の隣の小高い岡に糟嶺神社(かすみねじんじゃ)。陵山といわれる小高い丘を、高い所の糟嶺神社、低所の明照院と二分している。糟嶺神社は農業の神・糟嶺大神をまつる。社殿は多摩地に残る4つの墳陵のうちの一つといわれる。高さ3.81m、周囲127mの墳陵となっている。

道なりに進み、野川と合流。谷戸橋をこえ、パークシティ成城前の整地された芝生公園でちょっと休憩。なんとなく左に「そびえる」崖線が気になりる。野川に沿って喜多見不動に直行する予定変更し住宅街を入間公園に。

左手の崖に向かう。そびえる崖。行けども、行けども金網でガード。大回りに周り、歩けども金網。後でわかったのだが、中央研修センター(NTT関連だと思うが)の巨大な敷地、というか森であった。

百万遍供養塔
丘の上で114号線に出る。中央研修センターに沿って坂を下りる途中に百万遍供養塔が。天明元年(1781)、当時の入間村 原の念仏講の人たちが、泉村泉龍寺(狛江市)の延命子安地蔵尊に詣でる人たちのために建てたもの。塔身に「是より泉むら 子安地蔵尊二十五丁 右 世田谷 目黒道 左り 江戸四ッ谷道」と。参詣者たちの道しるべとしての役割も。 往古、このあたりは七曲り道と呼ばれた。小道・藪道・坂道が多く、ひとけもなく道に迷いやすいところであったとのこと。参詣者たちはこの道標を見て安堵したに違いない。道路標識のありがたさは、身をもって知る昨今。ちなみに、このあたりの地名・入間って、渓谷の入り込んだ場所のこと。また、野川にかかる谷戸橋の谷戸とは 丘陵地の谷間で小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。

喜多見不動
坂道を下り、再び入間町アパート、NTTアパートの敷地内から明照寺・糟嶺神社前を抜け野川に。またまたパークシティ成城前をとおり、小田急線との交差まで。ちょっと手前で崖線・神明の森みつ池へと一筋内側の道に。
神明の森みつ池の湧水地を越え、小田急線との交差直前の坂道。あれ、これって前回上った道?で、喜多身不動はその坂道と小田急高架の間に挟まれてひっそり鎮座していた。入口にハケから勢いよく滝が落ちている。喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王座像。創建は明治。喜多見の住人が成田山新勝寺から不動明王座像に入魂。堂宇と並んで、岩屋不動、玉姫稲荷、蚕所大神をまつった小祠も。

次太夫堀公園・民家園
おまいりを済ませ、小田急線の下をくぐり、次太夫堀公園・民家園に向かう。この公園には名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現している「次太夫堀」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から十五年をかけて完成。
「次太夫堀」は正式には「六郷用水」という。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、「次太夫堀」と呼ばれていた。が、現在の六郷用水(次太夫堀)は丸子川として一部残っているだけとなっている。その丸子川は先日、仙川散歩のとき偶然出会い、そのスタート地点の流路の素朴な赴き・野趣豊かなせせらぎに結構感激した。

宇奈根
次太夫堀公園・民家園から先のコースは11号線・大田調布線を下り、東名高速を越えたあたりの宇奈根を歩き、そのあとは狛江に戻るといった段取り。宇奈根に行く理由は特に無く、単に地名の「うなね」という響きに魅せられただけ。

宇奈根に、なにかランドマークを、ということで、東名高速近くの観音寺と氷川神社。観音寺は天台宗の古刹。永正年間(1504~1521)川越喜多院・実海僧上の創立。氷川神社は宇奈根・喜多見・大蔵の三ヶ村に祭られた氷川三所明神の一社。「建速素戔嗚尊を祭り、宝永年間観音寺の別当として再建。天明の末年、橘千蔭が氷川神社におまいりし、[うしことのうなねつきぬきさきくあれとうしはく神にぬさ奉る]と歌をよむ。

江戸のころにはこの宇奈根地区、多摩川に注ぐ細流に蛍が棲み、初夏の蛍狩に多くの文人が訪れた、とのこと。橘千蔭もそのひとりだったのだろう。で、その宇奈根の由来だが、これがはっきりしない。古代稲作では、溝渠(こうきょ:水田用の水路)を「ウナニ」と呼び、これが訛って「宇奈根」となったとする説。 うなね(項根) 首の付け根。後頸部。くびねっこ。宇奈根の地名も、この地域の形状が多摩川に突き出した首ねっこに似ていたためという説など諸説ある。さてどちらだろう。


神社を出て多摩川堤へ。堤防はすぐ近く。途中、宇奈根の歴史を書いた案内が公園に。昔は蚕の畑が多かった。暴れ川故、川筋が今とは結構違っていた、といったことが書いてあった。
当初の予定では、多摩川堤からすぐに戻り、街中の道を狛江の氷川神社、慶元寺、須賀神社といった段取りで、と考えていた。が、堤上の散歩道が非常に心地よい。
夕刻。夕日に向かって歩く。川向こうの多摩の丘陵地帯の夕景など、逆光の効果もあり、往古・大古の昔もかくやあるらん、といった趣。去りがたく、結局狛江市内の神社巡りはやめ、多摩川堤の散歩道を小田急・和泉多摩川駅まで歩くことに。

岸辺のアルバム

小田急との交差近く、猪方地区。ここはあの「岸辺のアルバム」の舞台のはず。山田太一さんの作品だったと思う。昭和49年 (1974)9月1日、狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流出した大洪水を伏線においた名作ドラマ。ジャニスイアンの主題歌とともに結構記憶に残る。

六郷用水の取水地に水神さま

小田急と交差。右手に和泉多摩川駅。まだまだ歩き足りない、というか夕景が魅力的。地図をチェック。狛江市中和泉、西河原公園のところに水神前が。次太夫堀公園・民家園で六郷用水の取水地点は和泉村、と書いていた。この水神は六郷用水の取水地と関係あるにちがいない、と仮説設定。
堤防に沿った散歩道を歩き、取水塔のあるところへ。たぶん和泉の取水地点であろうと右端の公園をチェック。西河原公園。向かいにこじんまりした神社、というか鳥居とあとは、なんだかなあ、といったさっぱりしたもの。
由来書:水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。  この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」と。

万葉碑

水神社前の信号のところに「万葉碑」への標識。住宅街をちょっと中に入る。100メートルも行かないうちにこ石碑が。横にある家の庭といったこじんまりしたたたずまい。石碑にの歌;
多摩川に さらす手づくり さらさらに何ぞこの児の ここだ 愛しき」
万葉集巻14
松平定信(楽翁・白河藩主)の書とのこと。

狛 江=「高麗」。ここに移り住んだ朝鮮からの渡来人が機織りの技術を伝えた。多摩川にさらす手づくり、とは多摩川で晒した布のこと。ちなみに、調布の由来、奈良時代、税制の「調(その地方の特産品を納める)」に多摩川で晒した布を納めたことから名付けられたとされている。この辺り、周囲には古墳や遺跡が多数分布している。が、本日は日没のためここでおしまい。暗闇のなか、京王線国領まで歩き帰途につく。

日曜日, 9月 04, 2005

仙川散歩 そのⅡ; 中流域を歩く

仙川の中流域:武蔵境からはじめ、京王線・仙川駅に 仙川散歩の2回目。武蔵境駅からはじめ甲州街道まで下る。仙川の中流域、といったもの。地図を眺めると、人見街道あたりまでは川筋は直角に曲がっている。川筋は自然の地形を反映する。高きところから低きところへの進むわけである。道理として、勾配が急なところは比較的まっすぐ、緩やかな勾配のとことでは蛇行を繰り返す。低きところを求めて試行錯誤を繰り返した結果でもあろう。
で、直角の流路。これは「自然」では稀な流路。河川改修が施されたのであろう。直角の流路のが繰り返される連雀町のあたりは明暦の大火のあと、焼け出された神田連雀町の人々によって開墾されたところである。直角の流路が当時の開墾地の反映なのか、時代がずっと下ってのものなのか分からないが、基本的には人の手がかかったものであるのは間違いない。人見街道より上流は平成4年までに河川改修を終えたというので、ひょっとすると、遠い昔のことではないかもしれない。
連雀町の開墾は明暦以降というから17世紀の後半のことである。玉川上水からの分水によるところが多かった、と。この近辺の新田開発の経緯をメモする:三鷹市の資料によれば、牟礼、上・中仙川村、そして大沢村は古くからあった、よう。牟礼は井の頭の南。仙川は現在の中原・新川あたりだろうか。大沢は国立天文台のあたりに地名が残る。その後、1690年頃までには、下・上連尺村、北野村、野川村、野崎村が開かれる。北野は現在も地名が残る。牟礼と中央道に囲まれた一帯、か。野川村、野崎村は現在の地名には無いが、位置から見て、連雀町と仲原町に囲まれた一帯のように思える。杏林大学の近辺かもしれない。玉川上水・街道の開発によるところが多い、と言う。これらの村々は古新田と呼ばれた。で、武蔵野新田と呼ばれる、井口新田、野崎新田、深大寺新田、大沢新田が開かれたのは1725年より後のことになる。幕府の財政立て直しの施策として八代将軍吉宗が各地で新田開発をおこなったが、その一環であろう。
直角の流路 > 人工 > 新田開発、といった連想ゲームで話が少々広がってきた。ともあれ、散歩に出かける。< <



本日のコース: JR線・武蔵境駅 > 水源の森 > 禅林寺 > 野川宿橋 > 仙川公園 > 勝淵神社と丸池公園 > 甲州街道・仙川崖線緑地 > 京王線・仙川駅

中央線・武蔵境駅
武蔵境って、このメモするまで、都心と郊外の「境」といったことであろう、と思っていた。がどうも大きな誤りのよう。名前の由来は、このあたりに「境新田」があった、ため。現在の境とか桜堤といった一帯だろう。で、「境新田」の由来は、出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏がご用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け、新田開発につとめた、ため、と言う。

武蔵野市境南町から三鷹市上連雀に
地図で見る限りでは、直角に曲がっている。いかにも人工的に作られた水路。味気のない溝が続くのであろうとの予想。予想通りの展開。中央線下をくぐってきた水路確認。武蔵野市境南町から三鷹市上連雀に向かって、直角ターンで溝が続く。あじもそっけもないH鋼、というか「つっかえ棒」で横強度を保たれている。

水源の森
上連雀5丁目あたりに、「水源の森」。森といっても森があるわけでもなく、雨水を浸透させ地下に貯め、湧水のように仙川に流し込む人工的な水の循環施設。ちょっとした公園、といったもの。仙川を水の流れる川にするための試み。そういえば、武蔵境より先の、仙川の源流からの水などほとんど流れていなかったよう。また、水源の森のあたりにも水はあまりなかったようだが???


禅林寺
三鷹通りの手前、市立第四中学校付近を過ぎるあたりで、仙川は暗渠に入る。この暗渠は、三鷹通りを 斜めに横切り、八幡大神社、禅林寺の裏から連雀通りを渡って下連雀7丁目の変電所あたりまで続く。地図には禅林寺裏から水路が書いてあるのだが、実際はみ つけることができず、連雀コミュニティセンターあたりの掲示板で開渠部を確認し進む。
黄檗宗、いかにも中国風の山門をもつ禅林寺には太宰治とか森鴎外のお墓がある。太宰は森鴎外を尊敬していたとのこと。「花吹雪」のなかでは「この寺には、森鴎外の墓がある。・・・墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と。玉川上水で入水自殺をした太宰治は森鴎外のお墓の斜め前で永久 の眠りについている。

野川宿橋
下連雀の7丁目で開渠となった仙川は9丁 目、8丁目へと、ジグザグ・直角ターンを続け新川に人見街道とは野川宿橋で交差する。仙川はこの橋を境に、いわゆる川らしくなる。野川宿橋というのは、この新川あたりは昔、野川宿とよばれていたから。人見街道は、現在の府中・若松町の旧地名人見村へと通じる道であるから。また、人見の地名は、人見四郎に代表される武蔵七党の人見一族から、とか。

仙川公園
野川宿橋から川幅も急に大きくなる。また、橋下から勢いよく湧き出している。湧水?ではなく、ちょっと下った新川4丁目あたりにある樋口取水場からくみ上げた湧水が、ポンプでこの橋まで送られてきているとのこと。東八道路にかかる新川大橋をこえ、遊歩道に。川の両側に緑の公園。仙川公園。公園の名を小川が流れている。もちろん、人工のせせらき・小川だし、樋口取水場から送られてきた人工の湧水だろう。仙川遊歩道が快い。

勝淵神社と丸池公園
新川3町目から5丁目あたりに勝淵神社と丸池公園。勝淵神社の祭神は水波能売命(みずはのめのみこと)。いかにも水の神。「明神さま」と呼ばれている。境内には、柴田勝家の黄金の兜を祀ったといわれる塚がある。
ところでこの「明神さま」っていったい何だ? どうも特定の神さまではないようだが? 調べてみた。広辞苑によると、「神を尊んでいう称号」「名神(みょうしん)の転」とあり、「名神」は「延喜式に定められた社格。名神祭にあずかる神々で、官国幣を奉られる大社から、年代も古く由緒も正しく、崇敬の 顕著な神々を選んだもの」とあった。つまり、古くから祀られた由緒正しい神や神社のことを、一般的に「明神(めいしん)様」と呼ぶのだそうだ。ただ、明神(みょうじん)さまが普及したのは神仏習合・本地垂迹とも呼ばれた仏教普及策が広がってからではある。
勝淵神社 の東はちょっとした丘。丘を散歩し下に下りる。南に丸池公園。ここが遊水地「丸池」があったところ。昔はこのあたりを「千釜」と呼ばれていた。釜とは湧水源のこと。釜の形のように多くの湧水噴出し口があったのだろう。一時埋め立てられたが、今は池のある公園となって往時の姿の一部を再現した。ちなみに、こ の「千釜」がなまったものが仙川の名前の由来、とか。

甲州街道・仙川崖線緑地
樋口取水場を越え新川天神山青少年広場の雑木林を眺めながら中央高速をくぐる。左手に白百合女子大学の緑の森が美しい。三鷹市東部下水処理場。高度処理された下水が仙川に放流されている。甲州街道の手前に仙川崖線緑地。崖地を登り、雑木林を歩き甲州街道に。甲州街道を少し調布方面に戻り、京王線仙川駅に。

土曜日, 9月 03, 2005

仙川散歩 そのⅠ; 源流点から武蔵境へ

川を歩こう、とするとき、源流点がいかにも気になる。その理由はよくわからない。が、中国地方や九州では川 = カワ、といえば井戸、というか、水源のことを指す。伊豆七島でも共同井戸のことを、「カァ」と言う(『川の文化誌』北見俊夫:日本書籍)。川 = 源、といったことが刷り込まれているのだろう、か。ともあれ、仙川の源流点に向かう。
仙川の源流点は東京都小金井市・東京学芸大学の近く。仙川に限らず、東京の川の源流点は、この付近に多い。ここから1キロ弱、嘉悦女子短期大学の構内には石神井川の源流点もある。仙川は多摩川水系、石神井川は荒川水系である。多摩川水系には仙川のほか野川が知られる。荒川水系は、石神井川のほか、東久留米の湧水に源を発する黒目川・落合川などがある
水系の境となるところを分水界、と言う。多くは尾根道がそれにあたるが、武蔵野台地のこのあたりでは、玉川上水の流路が分水界であろうかとも思える。実際、仙川の源流点・上流部の流れのすぐ北、緩やかな坂の上に玉川上水の流路がある。石神井川の源流点はその「尾根道」の向こうでもある。
玉川上水は多摩川・荒川の両水系の間を東流する。分水界の尾根道を辿りながら、四谷大木戸へと開削していったのであろう。玉川上水とつかず離れず、仙川上流部の散歩を始めることとする。




本日のコース: サレジオ小中学校 >>仙川開渠最上流部> 山王稲穂神社 > 築樋 >仙川・小金井街道 >三光院 >大尽の坂 >浴恩館公園 > 東大通り>市杵島神社>梶野大通り> 桜堤公園 >くぬぎ橋通り・仙川 > 亜細亜大学・仙川 >武蔵境通り・仙川 >仙川開渠に >JR武蔵境駅

サレジオ小中学校
JR 武蔵小金井駅で下車。成り行きで歩き、東京学芸大学を目指す。仙川の源流点は、大学の北隣、サレジオ小中学校内の池、といった記事を見たことがある。それをたよりにサレジオ小中学校に。構内には入れないだろう、とは思っていたのだが、開放されていた。感謝。広々と、自然豊かな構内を歩く。結構広い構内を巡ったが池らしきものは、見当たらず。学校を離れ、新小金井街道沿いの「仙川上流端」まで戻る。



新小金井街道・「仙川上流端」
新小金井街道・学芸大角交差点のすぐ北に「仙川上流端」の案内板。開渠部には水の流れはなにも、ない。秋の頃でもあり、落ち葉が重なる。新小金井街道下からは暗渠部となっている。サレジオ小中学校に一直線の道があるが、それが昔の川筋であったのだろう、か。湧水も枯れ、川筋も埋められたので、あろう。
小金井には湧水が多かった、という。この新小金井街道の「小金井」も、「黄金のようにすばらしい水が湧き出るところ」、という説もある。また、このあたりの地名・貫井にしても同じ。貫井って練馬にもあるが、「温かい(ぬくい)水が湧き出ることろ」といった意味のようで、ある。先日歩いた貫井神社、小金井の貫井南にあるこの神社では、崖下(はけ)から豊かな地下水が湧き出ていた。

小金井公務員住宅
学芸大角交差点を東に折れ、北大通りに。最初の信号を北に折れ、仙川脇に。周囲は小金井公務員住宅。川筋に沿って道が続く。とはいっても、水路の周囲はフェンスで囲まれ、中に入ることはできない。水の流れはなにも、無い。川筋の両側には桜の並木が続く。小金井公務員住宅の東に本町住宅。どちらも公務員宿舎である。ようだ。これらの公務員住宅は、作られた当時、大規模団地のモデルとして、大いに人気があった、と言う。

山王稲穂神社

本町住宅を抜けると道のすぐ南に「山王稲穂神社」。承応3年(1654年)、小金井新田開発の守護のため、麹町山王宮(赤坂の日枝神社)より勧請されたもの。稲穂神社、という名前は明治になってつけられたのだろうが、この「稲穂」、最近あることで有名になった。早稲田実業の夏の甲子園優勝が、それ。早稲田実業の校章は「稲穂」。その縁もあり、この山王稲穂神社の宮司さんが地鎮祭を行った。またまた、その縁もあり、甲子園での活躍を祈って、この神社の「お守り」をナインに贈る。で、優勝。ハンカチ王子こと、斉藤投手も身につけていたという、神社の「幸福守り」、大願成就のお守りとして少々有名になった、とか。

「築樋(つきどい)」
神社を離れる。神社のすぐ北で、仙川は南北に走る堤の下をくぐる。仙川が交差する堤上に「築樋(つきどい)」の案内板。築樋(つきどい):「築樋(つきどい)は、赤土を盛ってつき固め、土手を築いて、そこを用水路としたもの。武蔵野台地では水車用水や、起伏の大きい場所に水を通すときに用いられた土木工法。元禄9年(1696年)、飲用水として玉川上水を分水するために造られたもの。長さ104m、高さ5.4mあったと記録されている。当時は仙川のうえを一部掛樋で渡していた」、と。

小金井用水跡を歩く

南北に続く堤は、玉川上水から分岐された「小金井用水」の水路であった。いつだったか玉川上水を歩いたときにメモした、小金井分水の案内板のまとめ:「承応3年(1654年)に玉川上水が開設。付近の村々は呑用水、田用水として分水を幕府に願い出る。小金井村分水は元禄年間(1688 - 1704年)に許可が出る。水路は山王窪(稲穂神社北側)の築樋を通り、小金井村に分水された。明治3年(1870年)、玉川上水の通船事業(明治5年廃止)に支障があるとの理由で、旧分水樋口や、井筋が廃止・統合される。新たに砂川用水が延長され、小金井村分水はこの場で分水されるようになった」、と。
玉川上水の通船事業というのは、玉川上水を船運水路として活用する事業。江戸期から何度も意申請が行われたが実現したのは明治になってから。とはいうものの、上水が汚染される、ということで、2年程度で廃止となった。
小金井分水はこの通船事業が開始されるとき、玉川上水からの分水が止められ、砂川用水から分水されることになる。砂川用水は西武立川駅の東、東文化通りと玉川上水が交差するところで、玉川上水から分岐。五日市街道に沿って南東に下り、小平の上水本町で玉川上水と接近。このあたりでは玉川上水と平行で東流していた。
玉川上水の少し南に切れ切れに水路跡がある。砂川用水の跡だろう。分水は飲料水、灌漑、水車等に利用され、新田開発に大きな役割を果たしたが、昭和40年代になり都市化にともないその役割を終えた。

小金井街道・「大松木之下の稲荷神社」
仙川をまたぐ堤を北に進む。小金井用水跡はちょっとした遊歩道として整備されている。少し北に進むと、道脇に水路が続いている。水は何も、無い。更に北に進み、再び仙川に引き返すべく、成り行きで東に折れる。
すこし進むと小金井一中。学校の南端を進み、上水公園を越え、小金井養護学校のあたりから南に下る。道なりに進み仙川筋に戻る。
本町4丁目を仙川に沿って東に進む。水はなにも、無い。水路は北大通りと合流するあたりで暗渠となる。東に進むと小金井街道。本町2丁目交差点。交差点東詰めに「大松木之下の稲荷神社」。現在は暗渠となっているが、江戸時代の末頃、仙川の水路の縁にあたるこの稲荷神社には、御神木の松の大木があった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三光院
交差点を東に進む。すぐに仙川の開渠部にあたる。今まで東に進んできた水路は、ここから北に向かう。このあたりから水路脇に道はなくなる。つかず離れずの川筋歩きとなる。石神井川歩きでの右往左往の戸惑いを思い出す。同じことになるのであろう、か。水は相変わらずなにも、無い。
本町3丁目、川の少し東に三光院。境内に「山岡鉄舟先生之碑」がある、と言う。鉄舟って、江戸城無血開城の立役者。勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末の「三舟」と称される人物。剣・禅・書の達人といわれるが、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わせしめた人物。徳川慶喜に仕え、明治には明治天皇の教育係りをつとめあげたこともうなずける。
門は閉じられており、境内に入ることはできなかった。が、外から眺めても、所謂よくある「お寺」って感じがしない。なんとなく佇まいが気になる。すこしチェック(WEBサイト「坂東千年大国」より):この三光院は鉄舟が晩年の住処として買い求めた場所である、と言う。が、結局この地には尼寺が建てられることになる。昭和初期のことである。台東区谷中にある鉄舟開基の寺・全生庵ゆかりの女子が資財を投じて建てた、と言う。この女子、鉄道唱歌「汽笛一声新橋を」を冊子にして売り出して大成功を収めた、とか。三光院の初代住職は京都嵐山の曇華院から招かれた。曇華院は京都・嵯峨野にある尼門跡寺院(女宮様のお住まいの寺)。三光院では曇華院の流れを受けた竹之御所流精進料理がいただける、のはこういった経緯による。なんとなくの雰囲気を感じたのは、精進料理をもてなす尼寺、といったこともその因であったの、かも。
鉄舟が住処としてこの地を買い求めることになるのは、鉄舟と親交のあった侠客・小金井小次郎の口利きによる、と言う。幕府の重臣と侠客、このふたりが交わるまでには小金井小次郎の結構面白いストーリーがあった。前述、「坂東千年王国」からまとめる:小金井小次郎。三多摩から相模にかけての大侠客。元は小田原北条の武家の出。江戸時代、この地に移り関野新田を開墾し、名主となった関家の6代目。が、浪曲・講談ではないけれど、ガキの頃からばくち三昧。十代の頃には勘当され、無宿人に。草鞋を脱いだところが府中の大親分万吉一家。一宿一飯の恩義であろうが、「出入り」の末、凶状持ちに。江戸を逃れるも結局はお縄。石川島の人足寄場に送られる。二十歳過ぎのこと、と言う。
石川島の人足寄場で出会った人物が鉄舟との縁となる。新門辰五郎がそれ。辰五郎は大名火消しとの出入りでこの獄舎に送られていた。ここで二人は兄弟分となった。その後二人は石川島の人足寄場に類を及ぼすような大火に際し大活躍。その功績を認められ、晴れて自由の身となる。新門辰五郎はその後一橋慶喜の警護役として活躍。これまた有名な話。一方小次郎は府中の万吉の跡目をついで子分数千人という大親分となる。
十数年が過ぎる。小次郎親分、再びお縄に。積年の賭博の罪により三宅島に島流し。三十代も後半の頃、と言う。島から戻ったのは幕府の大政奉還の特赦。島にいた時には貯水槽をつくったりと、住民に感謝された、とか。
で、鉄舟と小次郎のかかわりは、新門辰五郎との両者の縁による。小次郎>辰五郎<慶喜<鉄舟、といった関連であろう。こういった縁で小次郎と知り合った鉄舟が、共にこの地を散策した、という。で、小次郎の口利きもあり、この地を買い求めるに至った経緯は、こういうことである。何気なく立ち寄ったお寺から、結構な時空散歩が楽しめることになった。先に進む。

大尽の坂
川筋に戻る。川の向こうに「大尽の坂」。名前に惹かれて北に進んだが、なんということのいない坂道、というか緩やかな上り。昔、この坂の西側、仙川の北に「お大尽 = 大金持ち」がいた、と言う。鴨下荘左衛門がそれ。醤油醸造業を営んで財を成した、とか。ちなみに、先ほどの侠客・小金井小次郎であるが、生家関家は小金井村鴨下の名主。先祖は北条の過家臣と書いたが、正確には鴨下出雲。鴨下家ゆかりの人物がこの地で関家を起こしたとき、昔の家名を地名としたのだろう、か。ともあれ、鴨下、ってこの地の有力者であったのだろう。

浴恩館公
仙川に戻る。川筋に人がひとり通れるかどうか、といった細路が続く。善福寺川筋もこういった、細路があったなあ、などと思い出しながら先に進む。緑中央通りと交差。川筋に沿ってはもう進めない。法政大学に向かって北に進む。明治の頃は法政大学のある一帯は大きな窪地。亀の子の形をしていたため亀の子久保地と呼ばれた田圃であった。
成り行きで東に折れ、浴恩館公園に。アカマツ、ナラ、ツツジなどの古木の茂る園内には昭和初期の家屋が残る。昭和5年、青年団指導者講習所として使われていた、という。その所長が下村湖人。『次郎物語』の舞台ともなっている。「次郎物語」を執筆した「空林荘」も残っている。
このあたり、緑町一帯は浴恩館を中心に雑木林や畑が残る。江戸時代には下山谷と呼ばれ、仙川の谷筋に新田が開かれた。緑町という名前は、緑豊かな地勢をもって命名された、と。

市杵島神社
浴恩館公園を離れ仙川筋に戻る。相変わらず水は何も、無い。川筋に沿って歩く道もない。仙川は、ここからすこし東に進み、東大通り手前で南に向かって流路を変える。川筋に沿って歩けるわけではないので、成り行きで東に進む。東大通り手前、小金井北高のテニスコールの東に沿って川筋が続く。水はなにも、ない。
東大通りと交差した川筋は、まっすぐ東に進み梶野通りへと進む。川筋には道はない。川筋の少し北に「市杵島神社」。細長い参道を進むと社があった。梶野弁天とも呼ばれている。
弁天様ってインド・ガンジス川市杵島神社の神。芸術、音楽、美の神様。川の恵みから転じて農業、富の神、ともなる。かくのごとき御利益多きインドの神様は、仏教とともに日本にもたらされ美貌の女神・市杵島姫命と習合する。市杵島神社が梶野弁天とよばれる所以である。市杵島姫命は北九州・宗像の海の民が祀った宗像三神のひとつ。古来、航海の安全を守る神として、海の民の間に広まる。瀬戸内の厳島神社もその名前は、「市杵島」に由来する。(『知っておきたい日本の神様』武光誠:角川文庫より)

梶野新田跡
市杵島神社を離れ、東に進む。梶野通りに。東大通りから東進した仙川は、東京電機大学中学・高校あたりで梶野通りに交差。流れを北に向ける。梶野通りに沿って走る水路を確認。水は、ない。東京電機大学中学・高校の北で仙川は梶野通りから離れ、桜堤2丁目にある上水南公園に向かって心もち斜めに上る。
梶野通り脇にあった案内によれば、このあたりに築樋があるとのことだが、見つからなかった。「梶野分水築樋」とのこと。このあたりの梶野新田の灌漑のため、玉川上水から分水されたもの。山王窪の築樋と同じく、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ230m・高さ4m)が造らた、ようだ。この梶野分水は、明治三年(1870年)の玉川上水通舟事業開始に際し、砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸びた、という。深大寺用水とも呼ばれた。

桜堤公園
上水南公園から仙川は東にまっすぐ進む。水はなにも、ない。周囲には桜並木が続く。川筋に沿って「くぬぎ橋通り」に。通りの手前に桜堤公園。仙川は公園の中に向かって南に下る。突然の水音。池から水が仙川に注がれる。この池、団地内に降った雨水を地下に貯め、ポンプアップして池の水とする。で、池に水があふれると、仙川に流している、と言う。人工とはいいながら、仙川で水をみたのはこれがはじめて。

「くぬぎ橋通り」
「くぬぎ橋通り」で交差した仙川は暗渠となる。川筋には道もないので、再び開渠となる亜細亜大学の北に向かって進む。くぬぎ通りを少し下り、東に折れ川筋をチェック。水はすでになくなって、いた。一瞬の「水辺」であった。
川に沿って道を下り、亜細亜大学のキャンパス内に。川筋は左に折れ、キャンパスを横切る。川筋に道はなく、なりゆきで南にくだる、のみ。アジア大学通りに交差。交差点を東に折れる。ここから武蔵境通りまで、川筋に道はない。

「武蔵境通り」
泣き別れでアジア大学通りを武蔵境通りまで進み、交差点を北に折れ、武蔵境通りと交差する仙川を確認。仙川は武蔵境通りからまたまた暗渠となり、開渠となるのは、アジア大学通りを少し東にいったところ。開渠部を確認し、仙川上流部散歩終える。水も無く、「川とは名のみの」といった風情ではあったが、小金井小次郎や分水築樋など、思いがけない時空散歩は楽しめた。