金曜日, 4月 20, 2007

落合川散歩;清流・落合川を黒目川の合流点まで歩く

黒目川を歩いていたとき東久留米市が朝霞市に接するあたりで川が合流。これが落合川。この川も水量も豊かな美しい川であった。あれこれ調べてみると、湧水でまかなわれている川である、とか。いくつかの湧水点をもち、自然豊かな流れが楽しめそう、ということで落合川の源流を巡って歩くことに。
今回からは強力な散歩ツールが登場。携帯電話にあるNAVIウォークって機能。行きたいところに音声でガイドしてくれる。いままで1年以上、NAVIウォークの無料メニューで ある「GPS・現在地確認」だけを使っていたのだが、今回、月額315円の有料メニューを申し込む。テストもかねて、大体のルートを決め、目的地を事前に登録。その地に向かって音声ガイドに従って歩くことに。登録地は「北原公園」「白山公園」「多門寺」「向山緑地」「竹林公園入口」。前回歩けなかった黒目川の支流や湧水点を確認し、落合川の源流に向かう、という段取り、とした。

本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>西武拝島線・池袋線平走箇所>小平霊園東口>霊園内・さいかち窪>小平霊園北口>柳窪緑地地域・天神社>天神橋>北原公園>東久留米十小学校>新山通り>にいやま親水公園>新所沢街道・西団地前>新所沢街道>白山公園>新所沢街道>氷川神社>都大橋>西妻川・黒目川合流点>所沢街道>新小金井街道>前沢交差点>小金井街道>八幡町・落合川との交差点>落合川筋>氷川神社>南沢緑地保全公園>向山緑地公園・立野川源流点>氷川神社>落合川筋>毘沙門橋>多門寺>立野川・笠松橋>自由学園>西武新宿線交差>立野川筋>落合橋>黒目川との合流>西武池袋線・東久留米駅

西武多摩湖線萩山駅

自宅を離れ、京王井の頭線で吉祥寺。JRに乗り換え中央線で国分寺。西武多摩湖線に乗り換え萩山駅に。萩山駅から小平霊園。携帯には事前に登録はしていなかったので、携帯での地図上で目的地を霊園入口あたりに決め音声ガイドスタート。西武新宿線と西武拝島線が分岐するあたりを越え、霊園入口に。特に問題もなく目的地に案内してくれた。

小平霊園「さいかち窪」

小 平霊園に来たのは、通り道ということもあるが、霊園内にある黒目川の源流点「さいかち窪」をもう一度見ておこう、と思った次第。霊園内を歩き、北口近くの雑木林の中に分け入る。前回歩いた、いかにも川床といった窪みを歩く。先回見落とした、排水溝をチェック。相変わらず水はなかった。


霊園・北口を離れ、新青梅街道に。黒目川の川筋を確認。相変わらずごく僅かな水が流れている、だけ。排水といった程度のもの。北に進み再度、天神社に。湧水点を再度チェックするも、これまた、これといって水が滾々と湧き出ている、といった印象なし。森の中の道を天神橋のところまで下る。ここでNAVIスタート。「北原公園」にNAVIしてもらう。

北原公園

北原公園は黒目川に水を注ぐ湧水点と言われる。柳窪5-6辺り。公園というものの、調整池といったつくり。が、水はまったくなし。水路はほとんど暗渠となっているよう。どこで黒目川に合流しているのか確認すること叶わず。もっとも、天神橋から久留米西団地あたりまでは川筋を歩くことができないので、どうしたところで合流点は確認できない、かと。

白山公園
北原 公園から次の目的地・白山公園に向かう。NAVIのガイドに従って道を進む。下里3丁目あたりを進み、公園に。結構大きな公園。公園というか、これも調整池といった雰囲気。このあたり調整池が目に付く。湧水点を探す。公園は南北ふたつの公園に別れている。湧水点は北側の公園の端の湿地からごく僅か湧き出していた。これが黒目川の支流・西妻川の源流点。

公園を離れ新所沢街道から流れをチェック。僅かな流れが見える。川筋を歩くことはできそうにない。新小金井街道を北に。西妻川が交差する。先に進み所沢街道との交差点。所沢街道を東に折れ進む。ふたたび西妻川が交差。川は北に流れ、都大橋の下流で黒目川と合流する。


西妻川筋から離れ、落合川に向かう。所沢街道を東に進み前沢交差点で小金井街道と交差。交差点を北に折れる。しばらくすすむと川筋と交差。これが落合川。それほど水量か多くない。湧水点は、小金井街道の西、八幡町2丁目。最初、地図でチェックした時には、白山公園の直ぐ近くでもあり、白山公園が落合川の源流かとも思っていたのだが、どうもそうではないよう。住宅地の草むらに僅かに水が湧きでている、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

氷川神社の森
落合川の川筋に沿って東に折れる。しばらくは川筋を歩けたり、あるけなかったり。河川工事が行われている。旧川筋と新川筋が分かれたところもある。「湧水公園」といった場所もあった。



氷川神社
更に下ると氷川神社の森が見えてくる。そのあたりは、自然の流れを活かした河川整備がおこなわれている、よう。コンクリートの護岸がないだけで、結構心和む。氷川神社におまいり。「南沢緑地保全地域」に鎮座し、境内の東西を落合川の本流と支流に囲まれた高台にある。近くから土器なども出土するということだから、古くから人が住みついていた場所で、あろう。




緑地の中に湧水点
神社鳥居の先に川筋。これが落合川の支流。南沢浄水場あたりから流れ出る湧水である。極めて美しい。水量も多く、いかにも美しい水。川に沿った緑地の中に「東京名湧水」の案内。緑地の中に道があり湧水点まで続いている。ごく僅かな湧水が見られた。中に入ることはできなかったが、南沢浄水場あたりで湧き出る水は1日1万トン、と案内に書いてあった。いかにも湧水の里、といった場所である。





何ゆえ、この落合川あたりに湧水が多いのか、ということであるが、地下水を貯める砂礫層(武蔵野砂礫層)の上端が落合川に沿うようにあり、かつまた、黒目川とか落合川の南に分布する粘土層が落合川流域には、ない。つまりは、地表から浸透した地下水は粘土層を避け、落合川流域の砂礫層に十分に溜まり、その水が湧き出ている、ということ、らしい。
xそのためか、湧水は湧水点ばかりではなく、川床からも湧き出ている、と。その比率は半々、ということ、らしい。ちなみに南沢浄水場では地下300mの水源からポンプで汲み上げている、とか。

向山緑地公園

次の目的地は向山緑地公園。氷川神社の南。台地になっており、ぐるっと迂回して台地の南から回りこむ。野趣豊かな公園。自然のまま、といった雰囲気。
川筋を探すと、崖下に流れが見える。台地を下り、川筋に。ほとんど道なき道。極々僅か水が湧き出る場所を確認。
下るにつれ、小川っぽくなってゆく。これが落合川の支流・立野川。住宅街を崖線に沿って下り、自由学園の内をとおり、西武池袋線を越え、新落合橋のあたりで落合川に合流する。

多門寺
向山緑地公園を離れ、氷川神社のところに戻る。落合川にかかる毘沙門橋の袂に多門寺。鎌倉時代に開山。江戸時代につくられた山門が美しい。それにしても、多門寺という名前のお寺って、結構雰囲気のいいお寺が多い。中でも墨田区5丁目の多門寺が最も、いい。





竹林公園
落合川筋を「竹林公園」に向かって歩く。川筋の崖上に続く竹林を越えたあたりを南に下る。この崖線沿いの竹林は目的の公園ではなかった。道を進み、「竹林公園入口」を東に入る。ここも落合川の湧水地のひとつ。この竹林は新東京百景に選ばれている。公園内で湧水点は確認できず。台地を下る。北からの小さい水路を確認。水路に沿って歩く。西武池袋線の手前で黒目川と合流。

立野川を落合川との合流点まで歩く

さて、本日の予定終了としようか、とは思いながらも、どうせのことなら、先ほど向山緑地公園から流れる立野川を落合川との合流点まで歩いてみよう、ということに。NAVIで向山緑地公園の東、川筋が地図に確認できるところをチェックし、音声ガイドに従って歩く。

自由学園
川筋がはじまるところは住宅街の真ん中。先ほど確認した湧水点から台地下を流れてきているのだろう。川筋に沿って下る、とはいうものの、川筋に道はない。川筋をつかず離れず進む。まっこと、崖下に沿って流れている。たわむれに、台地上に廻ってみたが、直ぐに下りることもできず、といった按配でもあった。なんとか坂道を見つけ下る。
川筋は自由学園の敷地内に入る。学園脇を進むと西武池袋線。袋小路。NAVIで線路を越えて現れる川筋をチェックし、道を探してもらう。これは結構便利。

西武池袋線・東久留米
西武池袋線を越え、再び川筋近くまで。相変わらず川筋は歩けない。しばらく歩くと浅間神社。ちょっとおまいり。川筋はここで西に向かい、新落合橋の直ぐ下で落合川に合流する。あとは、落合川と黒目川の合流点まで進み、本日の予定終了。西武池袋線・東久留米に向かい、家路を急ぐ。

木曜日, 4月 19, 2007

黒目川散歩 Ⅱ;黒目川を新河岸川へと下る

黒目川散歩の2回目。前回は、思わぬ展開で出水川から黒目川源流点へと歩くことになった。今回は、出水川と黒目川の合流点から黒目川を下流に向かい、新河岸川との合流点へと向かうことにする。途中、ちょっと野火止用水の走る台地に登り、地形のうねりを少々実感したい、とも思う。



本日のルート:平成橋付近(出水川と黒目川の合流)>黒目川>東京コカコーラ・ボトリング多摩工場>上落馬橋・小金井街道>中橋>曲橋>大円寺>子の神社>小山台遺跡公園>小山緑地保全地域>野火止用水>西武池袋線>氷川台緑地保全地域>黒目川筋>厳島神社>門前大橋>浄牧院>門前大橋>黒目川筋>平和橋>神山大橋>宝泉寺>昭和橋>黒目橋>落合川との合流>栗原橋>貝沼橋>馬喰橋>川筋を離れ36号・保谷志木線>新座市歴史民俗史料館>産業道路交差>関越自動車道交差>黒目川筋に戻る・大橋>市場坂通り>市場坂橋>山川橋>陸上自衛隊朝霞演習場の台地下>川越街道と交差・新座大橋>川越街道>朝霞警察署前交差点>幸町3丁目>朝霞中央公園入口>青葉台公園脇>朝霞市役所前交差点>東武東上線・朝霞駅


西武・多摩湖線の荻山駅
西武・多摩湖線の荻山駅。例によって、出発時間が遅く、到着は1時過ぎ。合流点までの時間をセーブするためバスを探す。が、それらしき路線は、なし。ということで、合流点近くの「都大橋」までタクシーに。都大橋から少し下り、新小金井街道との交差手前の合流点に。ここから本日の散歩スタート。

平成橋下に「黒目川雨水幹線」の合流部
平成橋の下に開口部。先回の散歩でメモした「黒目川雨水幹線」の合流部、とか。川と野火止台地の間には下里本邑遺跡公園がある。結構大きな公園。旧石器から奈良・平安までの遺跡が残る。降馬橋を越えると川の東側に東京コカコーラ・ボトリングの多摩工場。ここからも浄化処理された水が排水される。黒目川の水源のひとつ、と言ってもいい、か。

大円寺
小金井街道に架かる上落馬橋を越える。中橋、曲橋を越えると大円寺。落ち着いた、いいお寺さま。馬頭観世音塔で知られる。道標も兼ねており、板橋・八王子・四谷・川越へとそれぞれ5里の距離にあるので、「ゴリゴリ馬頭」とも呼ばれる。

子ノ神社
大円寺を離れ、小山台遺跡公園に向かう。途中に「子ノ神社」。小山1丁目。黒目川の河岸段丘崖といったところ。以前、目黒区の立会川を散歩していたとき、碑文谷八幡近くの高木神社(第六天)で「子の神」に出合った。「子の神」と呼ばれた付近の集落の守護神であった、とか。その名前故、なんとなく気になりながらも、そのままにしておいたのだが、ここで再び出合ってしまった。

神社前に「子ノ神社略記」:「小山村の鎮守。文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ(中略)神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子(ね)を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われる。祀神大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして国土開発の神であると共に、縁結び・子孫繁栄・五穀豊穣の神とされている。(中略)創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の始め、三百石を賜り小山村の地頭となった」、と。


略記をきっかけに、あれこれ調べてみる。子の神、って、もともとは、「根ノ上社・根上明神・根之神社」、などと呼ばれていた、と。祭祀圏は南関東から東海にかけて集中的に分布。川崎というか昔の相模には4箇所ある、という。武蔵野線・矢部駅の近くにもある、とか。これって小田原・北条期の矢部氏の所領、との説も。矢部駅の近くには現在も小山という地名もあり、氏神さまも地名も一緒にこの地にもってきたのだろう、か。

もともと「根の神」など呼ばれていた「子の神」であるが、神社の由来・縁起も「根」に関連したものが目に付く。海上に突き出た大岩の「根」の部分に舟が乗り上げており、その中に神さんがいた、とか、やんごとなき君が放った矢の「根」をおまつりした、といったものだ。が、なんとなく、本当になんとなくだが、この「根」って「根の国」、黄泉の国のことではないだろうか、と想像する、というか、してみた。理由は単純。子の神社の祭神が大己貴(オオナムチ)命=大国主命であるから、だ。

神話に、「オオナムチ命はスサノオ命(須佐之男命)のいる地下界(根之堅州国)に逃れ、将来の妻となるスサノオ命(須佐之男命)の娘・スセリ姫(須勢理毘売)と出会う。夫婦となるために、スサノオ命から与えられた四つの試練を乗り越え、スセリ姫とともに「根の国」からの脱出を図る。スサノオ命も最後にふたりを祝福しはオオナムチ命を「大国主命」と命名する」、とある。スサノオ命曰く;「その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇津都志国主神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴。」、と。この神話から、根の神「根」って、根の国=根之堅州国、の「根」と関係あるのではない、かと、想像。神社の縁起にでてくる、岩とか矢なども、上にメモしたスサノオ命の台詞に散りばめられている。と考える。


少し横道に。諏訪大社の御柱祭の話である。「御柱道」沿いに「子之神」という地があり、そこに御旅「寝神社」がある。御柱を曳き下ろすときに、ここで「寝る」ために「寝神社」と呼ばれる、と。これもオオナムチ命の神話に、四つの試練のうち、初めての夜は蛇のいる室(ムロ)に「寝かされ」、次の夜にはムカデと蜂がいる室に「寝かされる」、といったエピソードと大いに関係があるのでは、と想像。諏訪神社の祭神・タケミナカタ命(建御方命)は、大国主命の第二子であるので、まんざらでもない解釈では、と思い込む、ことに。
根の国は「黄泉の国」=死者の国、ではある。が、同時に、オオナムチ命が大国主命に成長する、再生のプロセス、でもあろう。ということは、五穀豊穣と結びつく。また、根の神が子の神となった由来は「子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたもの」という。この神社略記からもあきらかなように、大国主命=大黒様、との関連から神仏習合の時に「根>子」となったのであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

想像の拡がりついでに、もう少し寄り道。大己貴(オオナムチ)命=大国主命、ということは、出雲系。武蔵の地はもともと出雲族の支配地、であった。出雲から信州を経て、武蔵の地に進んできたのだろう。古事記の上巻の大国主命の国譲りの条に、諏訪神社の由来が書かれている:「コトシロヌシの子のタケミナカタ神は国譲りに反対し、タケミカズチ神と力比べして破れ、科野国(しなの)の州羽海(すわの)に逃れて殺されようとしたところを命乞いして、「此処以外他所に出ず、また父の大国主の命に背かないことを約束して許された」、と。
こうして武蔵に入った出雲族の痕跡は南関東=荒川以西に多く分布する氷川神社の存在によっても明らか。氷川神社が出雲の「簸川(ひのかわ)」からきているし、武蔵一ノ宮が大宮にある氷川神社である、ということからも、武蔵における出雲族の力の程が偲ばれる。
子の神も南関東が祭祀圏である。また、祭神は大己貴(オオナムチ)命=大国主命。ということは、子の神=根の神は、大和朝廷の「尖兵」として物部氏が国造として武蔵支配する以前にこの地に住んでいた出雲系の氏族が信仰していた神さまであった、のだろう。と、あれこれ、自我流の解釈で空想・想像・を楽しむ。真偽の程定かならねども、自分としては十分に納得。このあたりで矛を収めて先に進む。

小山台遺跡公園
野火止用水が走る尾根道へと坂を登る。途中に小山台遺跡公園。縄文時代中期の住居跡が発掘されている。東南に傾斜した斜面にあるこの高台からは東久留米市を望むことができる。斜面下には黒目川が流れ、縄文の人々にとっても、暮らしやすい場所であった、ことだろう。

尾根道に「野火止用水」が流れる
公園を離れ「小山森の広場」を抜け尾根道へ。水道道路に沿って「野火止用水」が流れる。この水路を平林寺まで歩いたのは昨年の初冬であったろう、か。


と ころで、「野火止」って野焼き、というか焼畑の火を止める塚のようなものを指すのだろう。伊勢物語に「武蔵野は今日はな焼きそわか草のつまもこもれり我もこもれり」って歌がある。武蔵野には焼畑の伝統が昔からあったのだろう。草茫の地といわれる武蔵野だが、これは、夏まえに林の木々を伐採し、秋には西北からの風を利用し一帯を焼き尽くし、そのあとを畑とし、数年し地味が衰えると一旦お休みし草地とし、牧草にあてる。この繰り返しのなせる業であったのかもしれない。

氷川台緑地公園
西武池袋線を越えると、直ぐに台地を下りる。途中に、氷川台緑地公園・成美森の広場。東京都には43の緑地保全地域がある。そのうち東久留米には7箇所。先回歩いた柳窪もそうだが、この小山台緑地公園もそのひとつ。思わず足を踏み入れたくなる、美しい雑木林である。フェンスで囲まれているようでもあり、行き止まりになるか、などと少々気になりながらも、林の中を歩く魅力に抗えず先に進む。うまく台地下に下る 通路があり、緑地を抜ける。台地中腹の氷川神社におまいりし、台地を下り黒目川に戻る。門前大橋に

浄牧院
このあたり、門前大橋とか大門とか、由緒あるお寺がありそうな地名。地図をチェックすると近くに浄牧院というお寺さま。たぶんこのお寺さま故であろう、と門前大橋を渡り、大門1丁目にある浄牧院に。曹洞宗の立派なお寺様。
文安元年(1444年)、大石顕重によって創建、堂宇は最近になって建てかえられたように見える。お寺の前を浄牧院通りが走るが、これは1997年に都市計画によって浄牧院の敷地を分断してできたもの。ということは、堂宇の再建はその補償費でなされているもので、あろうか。つくりは安っぽくない。立派に造り直されている、よう。ここには南沢の領主・旗本の神谷家九代の墓所がある。

大石顕重
大石顕重が気になった。ひょっとして、あの大石一族?チェックする。八王子の滝山城を築いた大石定重などといった、あの大石氏の一統、であった。大石氏は木曽義仲の後裔と称し、戦国時代に武蔵で活躍した氏族。信濃国大石郷(佐久地方)に居を構え「大石氏」と。後に功あって足利氏より入間・多摩(八王子から秋川、村山、東久留米)に領地を拝領。あきるの市二ノ宮に居を構える。大石顕重は本拠を二宮から高月城に移した人物、である。

ちょっと脱線。高月城は秋川と玉川の合流点・加住丘陵にある。まだ行ったことがない。前々から気にはなっている。尾根続きといった滝山城には足を踏み入れた。とはいっても、到着したのが冬の午後6時過ぎ。あたりは真っ暗。ヘッドランプを頭につけ、城山に登った。枯れ葉の騒ぐ音に、身震いしたものである。もう1年以上前のこと。近々、昼間の滝山城から高月城へ行ってみよう、と思う(追記;その後、高月城も滝山城にも訪れた)。

厳島神社
浄牧院を離れ、門前大橋・黒目川筋に戻る。厳島神社。全国に500ほどある、という。田舎の愛媛には境内社も含めると300ほどある、とか。祭神は宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)。「いつくしま」は市杵島姫命=イツキシマヒメ、からきているのだろう。「イツキシマヒメ」は水の神という。
数日前京都に出張に出かけた。週末、京都御所に寄ったとき、京都御苑に厳島神社が鎮座していた。また、脱線。祇園女御が三女神に加えて祭神となっていた。これは、安芸の厳島神社を祟敬していた平清盛が母・祇園女御を合祀したもの。もともと神戸にあったものが、この地・九条家の邸宅に移した、と。直ぐ近くに、宗像神社もありました。

宝泉寺
厳島神社の近くの台地には「金山森の広場」。ここも東京都の緑地保全地域。先に進み、平和橋、神山大橋へ。台地中腹に宝泉寺。東久留米の七福神ひとつ。弁才天がまつられている。東久留米の七福神はそのほか、米津寺の布袋尊、多門寺の毘沙門天、大圓寺の恵比寿・福禄寿・寿老人、浄牧院の大黒天、となっている。

落合川との合流点
神山大橋に戻り、先に進む。昭和橋を越えると、落合川との合流点。美しい流れである。この川の源流へも歩いてみたい。
合流点の三角地には下谷ポンプ場、そして東久留米スポーツセンター。これらの施設の下は調整池となっていた。黒目川雨水幹線といい、白山公園の調整池といい、北原公園の調整池といい、そしてこの調整池といい水防対策が盛んになされている。豊かな湧水地帯も大雨時には、洪水地帯であったのだろう。

新座市歴史民俗資料館

落合川との合流点を離れ神宝大橋に。このあたりから埼玉県。護岸のスタイルも東京都とは心持ち異なっている。栗原橋、貝沼橋、馬喰橋と進む。馬喰橋からは川筋を離れ、片山にある新座市の歴史民俗資料館に。しばし展示資料を眺め、先に進む。

妙音沢
しばらく歩くと関越道と交差。道は関越道・新座料金所のすぐ下あたりを進む。しばらくすすみ、大橋で黒目川と再会。再び川筋を進む。市場坂通り。台地に登る市場坂橋の手前で南から川が合流している。妙音沢と呼ばれる、とか。新座高校近く、ふたつの水源から豊富な湧水が湧き出ている、と。

川越街道・新座大橋
山川橋を越え、東の台地に陸上自衛隊朝霞駐屯地・演習場。先にすすむと川越街道・新座大橋に。日もとっぷり暮れてきた。新河岸川合流点にはいけそうもない。方針変更し、川越街道を東武東上線・朝霞駅に向かうことに。

東武東上線・朝霞駅に
以前、白子の宿から平林寺へと下った坂道を上る。膝折公団前、朝霞警察署前と進み、第四小前で川越街道を離れ、北に折れる。幸町3丁目を越え、朝霞西高、青葉台公園に沿って歩く。このあたりはキャンプドレーク跡地。米国の第一騎兵師団が駐留した基地。朝鮮戦争、ベトナム戦争に出動した部隊でもある。本町1丁目で東に折れる。朝霞市役所前をとおり、東武東上線・朝霞駅に。本日の予定終了。

火曜日, 4月 17, 2007

黒目川散歩 Ⅰ;出水川から黒目川に

新河岸川を歩いた時のことである。黒目川との合流点で行き止まりとなり、結構辛い思いをしたことがある。そのとき以来、その黒目川が気になっていた。いつか源流点から新河岸川との合流点まで歩こうと思っていた。また、ひさしぶりに、何も考えないで、ぶらぶら歩きたい、とも感じていた。
最近の散歩は「歌枕巡り」、というか、名所旧跡・神社仏閣巡りの趣がちょっと強い、かも。秩父観音霊場にしても、千葉の国府台・真間散歩にしても、時空散歩、というか、時=歴史メモが続いている。本来は、気楽に、行き当たりばったりで歩くのが好きなわけである。で、「そうだ、黒目川を気ままに歩こう」ということに。



本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>多摩湖自転車道>萩山町>西部新宿線交差>水道道路>新青梅街道>小平霊園西端>出水川>恩多町>公園橋(東村山運動公園下)>下里地区・ごみ処理施設・リサイクルセンター>新所沢街道>東久留米卸売市場>所沢街道>黒目川合流・新小金井街道>都大橋>新宮前通り>氷川神社>新宮前通り>西団地前交差点>にいやま親水公園>柳窪野球広場(東久留米十小学校の東)>柳窪緑地遊歩道>天神橋>天神社・長福寺>新青梅街道>西武多摩湖線・萩山駅


西武・多摩湖線萩山駅
黒目川の源流点は小平霊園内の「さいかち窪」とか。中央線で国分寺駅。西武・多摩湖線に乗り換え、萩山駅に。
駅前に「多摩湖自転車道路」が走る。何度かメモしたように、多摩湖近くの村山浄水場から武蔵境近くの境浄水場まで、一直線に続くサイクリングロード。自転車道路を過ごし、萩山地区を成行きで進む。西武新宿線を越えると野火止用水にあたる。
昨年野火止用水を歩いた。歩いているときはわからなかったのだが、用水の流路は台地の尾根道といったところを走っていた。カシミール3Dで地形図をつくってはじめてわかった。黒目川はその台地の下、崖線の下を流れている。今回は台地上を流れる野火止用水、そして崖線を形づくる台地を「意識」しながら、黒目川散歩を楽しもうと、気持ちも弾む。新青梅街道を西に、小平霊園に向かう。

武蔵野線

ちょっと脱線。地図をチェックしていると、野火止用水と西武新宿線が交差するあたり、「武蔵野線」のルートが描かれている。地上にはなにもないわけであるので、これって地下のトンネルを走っている、ってこと。
路線を辿ると、新小平駅で一瞬地上に顔を出し、またすぐ地下に潜る。そういえば、多摩の稲城を散歩しているとき、トンネルの入口に出会い、出口を探すと川崎・宮前区の梶ヶ谷操車場まで続いていた。これも武蔵野線の一部。武蔵野南線とか、武蔵野貨物線と呼ばれる。土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっている、とか。
武蔵野線ができるきかっけは、1967年の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画がなされた、と。本来であれば貨物専用でいいわけであるが、住民の理解を得るために旅客営業もおこなわれることに、した。住宅開発が進むベッドタウンに貨物だけでは具合が悪かったのだろう、というまことしやかな説も。
とは言うものの、この武蔵野線が最初に計画されたのは1927年というし、戦中の中断を経て1964年頃には工事がはじまったようではあるので、こういった話は「都市伝説」のひとつ、かも。

武蔵野線は横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間である。が、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。武蔵野線に「寄り道」したのは、この路線開設が湘南新宿ラインとか埼京線のサービス開始に繋がっている、から。これらの路線は昔の山手貨物線を使っているわけで、埼京線や湘南新宿ラインを多用する我が身としては武蔵野線に「感謝」というわけである。寄り道が長くなった。散歩に戻る。

小平霊園の西端
小平霊園の西端に。新青梅街道から北にコンクリート護岸の川筋が現れる。これが黒目川?源流点は小平霊園内の「さいかち窪」ということであるので、霊園西端に沿って南に進む。塀というかフェンスに遮られ中には入れない、それらしき場所を眺めるが、それらしき水源などなにもなし。新青梅街道下からの突然の水が湧き出るはずもない。どこから水が流れてきているのか??小平霊園に沿った道が、いかにも川筋といった雰囲気。暗渠下というか道路下に川筋が続いている、とは思うのだが確認するすべもなし。ということで、源流探しをあきらめ、川筋を北に進むことにする。

出水川


この川筋、実のところ黒目川ではなかった。それがわかったのは、ずっと下って、本物の黒目川に合流する地点でのこと。この川は「出水川」であった。ともあれ、川筋に沿って恩田町を下る。典型的な都市型河川といった雰囲気。昔は生活排水などで河川汚染が結構大変であったように思える。
公園橋を交差すると西に東村山公園。リサイクルセンターを越えると新所沢街道。東久留米卸売市場の脇を進む。下里地区の新宮橋のあたりではコンクリート蓋水路。所沢街道の手前はコンクリート蓋に覆われた遊歩道となっている。下里団地のあたりもコンクリート蓋水路が続く。先に進み本村小学校を超えると水量豊かな川筋と合流。水草も美しく生い茂り、川筋の両側に遊歩道が整備されている。これが黒目川、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

黒目川の水源に向かう

少々迷った。このまま先に進むか否か。段取り優先であれば、そのまま先に、ということではあるが、黒目川の美しく・豊かな水量が、如何せん、気になった。水源がどのようなものか見たい、と思った。また、なによりも、豊かな水量が気になった。源流点はすぐ近くの小平霊園。深山幽谷でもあるまいし、これほどの水量が湧水だけから生まれているとは思えない。どこかの水処理センターで高度処理された下水が流されているのでは、などと、「豊かな水量」の原因を確かめたい、と思った。で、合流点から黒目川を源流点に向かい遡ることに、した。

こういった、気楽な散歩がいい。段取りも何もなく、成行きで歩くのがいい。道に迷えば、迷ったなりに 進めばいい。興味が向けば、それに向かってきままに進めばいい。国木田独歩の『武蔵野』の一節を思い出す:「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思 いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に 走て、終は暗澹たる雲のうちに没してしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。

都大橋で 西妻川が合流
合流点から新小金井街道に沿って流れる黒目川の川筋を上流に向かう。遊歩道が整備されて多くの人達が散歩を楽しんでいる。新宮前通りと交差する「都大橋」のあたりで別の川筋が合流。これは白山公園から流れてくる支流・西妻川。白山公園は滝山団地の水害防止のための調整池の役割も果たしている、とか。

氷川神社
都大橋を越えると遊歩道はなくなる。一時川筋から離れ新宮前通りを進む。少し歩くと氷川神社。新宮前通りの南を流れてきた黒目川は神社前で新宮前通りと交差し、神社の台地の下をぐるっと迂回する。
自然豊かな小川の雰囲気。台地下を少し川筋に沿って歩いたが直ぐに行き止まり。畠の中を新所沢街道まで続く。川筋から離れ、新宮前通りに戻り新所沢街道まで進む。

久留米西団地
新所沢街道を越えると久留米西団地。ここからしばらく川筋を歩ける。川の両側に芝生が植えられ、親水公園として整備されている。河川敷が広いのは増水時対策のための調整地も兼ねているのだろう。
この地域は大雨時の浸水常襲域であった、とか。ために、都市型水害に強い公共下水道雨水幹線の整備を行った。黒目川・出水川雨水幹線と呼ばれる。堤防の下を5キロ以上管が通っており、降雨時に一定以上増水した雨水は、この管を流れ、下流部平成橋のあたりで黒目川に合流することになる。これにより1時間当たり50mmの降雨に対しての安全が確保されることになった、とか。この親水公園は、この工事に際し、地表部分をコンクリート造りの護岸ではなく自然岸としてつくられたもの。
久留米西団地を越えると遊歩道が消える。川筋を歩くこともできない。水量もぐっと減っている。ということは、親水公園でなんらか人工的に水を「補給」しているのであろう。「豊かな水量」の源のひとつは、ひょっとしてこの辺り、かも。

再び川筋から離れて歩く。川から離れないように意識しながら先に進む。川は東久留米第十小学校をぐるりと迂回するように流れる。黒目川には柳窪5丁目にある 北原公園の湧水が、このあたりに流れ込んでいる、とか。とはいうものの、水量が増えているわけでもないので、それほどの湧水、というわけでもないのだろう。川筋を歩けないので合流点はわからない。


柳窪緑地
道は小学校の東を南に下る。柳窪野球場のあたりを西に折れ、川筋に出会う。このあたりから森・柳窪緑地自然公園がはじまる。深い森の中に散歩道が整備されている。とても東京とは思えないような自然が残る。

天神社
森の小道を進み天神橋に。橋のあたりから天神社への参道が続く。森の小道を進む。このあたりになると水量は極めて少なくなっている。ちょっとさびしい小川といった趣き。天神社前に湧水点がある。東京名湧水57に選ばれた、とか。とはいうものの、どこから湧き出しているのかもよくわからない、ほど。黒目川の貴重な水源と言われるとすれば、目には定かに見えねども、川底から湧き出ているのだろうか。

天神社にお参り。梅ノ木の脇に、「柳窪梅林の碑」。;西面に「柳窪里梅林之記」:、東面に「菅公(菅原道真)の碑」。「柳窪里梅林之記」は安政4年(1857年)、大国魂神社の宮司・猿渡盛章が書いたもの。久留米の地名が「来梅」とか「来目」とかかれている。東側には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はらだにあらば はるはみてまし」という菅原道真の歌が書かれている」、と。久留米の地名は「黒目川」に由来する、とされる。が、そもそも、黒目川の由来が何か分からないとことにはどうもしっくりこない。「来梅」ってなんとなく納得感が高いようには、思うが(追記;その後、この天神さまを数回訪れた。工事の最中であり、野趣豊かな雰囲気が少々損 なわれていたように見えた。さて、現在はどうなっているのだろう)。

新青梅街道脇
天神社から新青梅街道脇までは川筋は歩けない。川筋のとおる竹林を眺めながら川筋の西を平行に進み新青梅街道に。黒目川が新青梅街道に当たるあたりを確認。ほとんど
水はない。ということは、天神社あたりの湧水は黒目川の水源としては重要っていうこと、か。

小平霊園内の「さいかち窪」
小平霊園内に入る。なんとなく川筋っぽい地形を探す。雑木林が霊園入口近くに残っている。雑木林に向かう。木の生えていない窪んだ川床があった。ここが川筋だろう。水はないのだが、なんとなく、土が「ふわふわ」している、よう。適当に歩く。結局「さいかち窪」、ってところは確定できなかったが、なんとなくこの辺りであろう、というだけで十分に満足。

黒目川の水源は?
黒目川を一応源流まで辿る。あれほど豊かな水量の源はいまひとつわからない。なんとなく久留米西団地あたりの親水公園で供給される水が「源流」のひとつ、か。それから、あれこれチェックすると、天神橋の下流あたりで山崎製パン武蔵野工場からの浄水処理されたきれいな水が黒目川を潤している、とか。川筋は歩けないので、実際の合流点は見たわけではないのだが、天神社のあたり極めのて少ない水量が、氷川神社のあたりではそれなりの水量になっているわけで、ということは、その間でなんらかの給水がなされたわけで、湧水でもなければ、人工的に造水するしかないであろう。ということで、黒目川の源流は親水公園からの水と、パン工場からの水?どちらにしても、人工造水、と自分としては十分に納得。本日の散歩を終える。

月曜日, 4月 09, 2007

千葉 小金の牧散歩 ; 「小金の牧」と「小金城跡」を辿る

「小金の牧」と「小金城跡」を辿る
いつだったか、週末の午後、1時頃からフリーとなった。はてさて、何処へ。とはいうものの、それほど時間もない。気にはなりながら、行きそびれているところにヒットエンドランで駆け抜けよう、と。
それでは、と思いついたのは「小金の牧」と「小金城跡」。先日、松戸から市川に歩いたときにちょっと気になっていた。 小金の牧は下総台地に広がる野馬の放牧地。小金城は下総屈指の中世城郭跡とか。当時の姿など今に留めるわけなどない、とは思いながらも、なんとなく気になる以上、とっとと行くべし、といった心持ちであった。


本日のルート:常磐線・南柏駅>野馬除土手>常磐線・北小金駅>根木内歴史公園>富士川の氾濫原>本土寺>大谷口歴史公園・小金城址

常磐線・南柏駅

常磐線・南柏で下車。水戸街道を越えたあたりに「野馬土手」がある。「小金の牧」を歩こう、とはいうものの、柏や松戸といった都市に放牧場が残っているわけでもないだろう。牧の名残としては実際のところ、なにがあるのだろう、と思っていた。偶然のことながら、先回散歩のとき、松戸の駅で手に入れた観光パンフレットに、南柏の「野馬土手」が案内されていた。野馬土手は野馬除土手とも呼ばれる。野馬が牧の外に出て、人家や田畠を荒らさないようにと、つくられたもの。牧の名残りの一端でも感じることができれば、と南柏にやって来た。
「小金の牧」のことを知ったのは件(くだんの)の書・『江戸近郊ウォーク』。「小金の牧道くさ 下総国分寺」散歩随想の箇所があった。大江戸の散歩の達人・村尾嘉陵が、わざわざ訪ねきた「小金の牧」ってどんなところなのか気になっていた。文化14年(1817)の早朝に屋敷を出て小金牧を訪ねた、とある。 「松戸渡し、向ひにわたれば松戸宿、人家四五百戸...」 と、江戸川の松戸の渡しより松戸宿へ。さらに、馬橋村(まばしむら・松戸市)などを経て向小金村(むこうこがねむら・流山市)の小金牧に歩いてきたわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

『江戸近郊ウォーク』より小金牧の箇所をちょっとまとめる;「牧が7つある。水戸街道の北を上の牧。ヘイビ(蛇?)沢原、高田台(柏市高田辺り)、大田原。水戸街道の南を下の牧。日ぐらし山(松戸市日暮:白子についで多く馬100頭ほど)、五助原(船橋の台地)、平塚(印旛郡白井町)、白子(松戸の宿の東にあたり;500頭ぐらいの馬がいる)。西は船橋、中山、国府台、松戸、馬橋辺りの山を境にする。東南は下総佐倉の手前辺りを境として馬を放しているのだろう。上の牧は下の牧に比べてやや小さいと思われるが、確かなことはわからない。(中略)野馬は宵から暁にかけては、街道近くまで来て、人に馴れているような仕種を見せるが、昼間は人の近くには来ない。下の牧の中には、東北の果てに木立の茂っている山が見えるが、昼はその山に集まっている。この辺りには狼もいないので、馬が食われる心配はない。下の牧には追い込みの枡が3箇所。毎年11月15日過ぎに、江戸から吉川摂津守が来て、馬狩りをおこなう。牧師は全員ここに滞在し、毎日牧を見廻って損馬を改め、頭数を調べて台帳に記す。上・下合わせて1500、1600頭程度馬がいる。牧の入口に木戸がある。土居を築いて土に竹を植えて、里の牧との境としている。木戸に入ると小金の牧。」、と。南柏のこの野馬土手って柏市豊四季。千葉県流山市松ヶ丘との境界でもあるので、だいたいこのあたりを訪ねてきたのではなかろう、か。

野馬除土手

駅から北西に向かって進む。水戸街道の北に緑地が見える。そこが豊四季緑地。駅から500m程度だろう、か。なんとなくそのあたりだろう、と成行きで進む。緑地公園といった雰囲気。緑地の北端に掘・土塁といった「構え」が北に向かって続いている。何処にも案内板もなく、これが野馬土手だろうか、と思い悩みながらも土塁に沿って歩いていく。
土塁の北には住宅街が続いている。比高二重土塁。牧側が小土手、外側が大土手。堀底からの比高は大土手で3m、小土手で2m程度。小土手は馬の脚を痛めないようにと、少々なだらかにつくられている。こういった土手は柏市内に10箇所程度残っている、とか。
北にしばらく進むと土塁が終わる。その先にも小川に沿って土塁のような土手が続くのだが、野馬土手かどうかよくわからない。一応、野馬土手の雰囲気を感じることができたので、気持ち豊かに駅に戻る。ともあれ、豊四季緑地に残るこの野馬土手は規模・保存状態でもっともいい状態のものである、という。

野田市立図書館・電子資料室のHPなどを参考に小金牧についてのまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。 徳川幕府は、馬牧の経営や馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)。今日歩いた牧は、上野牧だろう。柏にはそのほか十余二に高田台牧があった。市の5分の1は小金牧であった、とも言われる。

牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。 牧の中には村が点在。そのため、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったほど、わけである。 村々の被害は馬だけではなかったようだ。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあった、よう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。今回歩いた豊四季もそのひとつ、である。
13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、先日会社の同僚と平将門の営所のあった、石井に出かけた。現在の坂東市である。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだけど、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしても想像するのは難しい。そのうちに、昔の姿を想像しながら下総の台地を巡ってみよう、と思う。

常磐線・北小金駅
野馬土手より南柏駅に戻り常磐線・北小金駅に戻る。郊外の小さな駅舎といった風情を創造していた。が、予想とは大きく異なり、駅前には大きなショッピングセンターが建てられている。 東漸寺 駅を南に下る。しばらく進むと東漸寺。江戸初期には広大な境内・多くの堂宇を抱える大寺院。末寺35を数えたとか。関東18壇林のひとつ、壇林とは僧侶の学校のこと、である。
このあたりは昔の小金の宿。江戸時代、江戸と水戸を結ぶ重要な街道が水戸道中として整備された。小金は松戸~我孫子間の宿場町として繁栄。東漸寺を中心に、上宿、中宿、下宿、横宿がつくられ、本陣・脇本陣・問屋場 をはじめ、旅籠(はたご)が設けられていた。

『江戸近郊ウォーク』にも、このあたり・お寺さんのことが描かれている。「曲がりくねった道を行くと、小金の宿(水戸街道の宿、松戸市小金)である。人家300戸ほどの宿で、松戸に比べると家のたたずまいからしてやや貧しそうに思える。宿の入口が二ツ木村(松戸市)で、その先が上総内村(松戸市小金清志町辺り)である。西側に黒観音福昌寺道があり、宿の中ほど西側に仙法山一乗院(東漸寺)という寺がある。関東18壇林のひとつである。寺中にみるべきほどのものはない」、と。みるべきほどのものはない、とはいうものの、現在でも結構長い参道がつづく、堂々とした構えのお寺さんである。

根木内歴史公園
東漸寺を離れ、根木内歴史公園に進む。お寺から東に進み水戸街道にあたる。公園は水戸街道に沿った台地にある。この公園は中世の城郭跡。寛正3年(1462年)、高城胤吉の築城と言われる。天文6年(1537年)に大谷口城(小金城)に移るまでこの城を居城とした。空掘、土塁、土橋が残る。
高城氏は千葉氏の重臣・原氏の寄騎として軍事力を誇っていた。その所領は流山から船橋に至る広大なもの。太日川、船橋そして市川真間といった舟運の要衝を押さえていた。また、中山法華寺、真間弘法寺、平賀本土寺といった大寺をその支配下におき、その覇をとなえた、と。千葉宗家にとっても高城氏は重要な存在であり、千葉介昌胤は妹を高城胤吉の妻としている。
小田原北条氏の下総攻略時には、原氏とともに北条氏の他国衆(直接支配)として活躍。国府台合戦のときは、北条方として戦っている。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦う。小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城し下野。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる、と。
高城胤吉は千葉宗家・千葉介昌胤の妹を妻とした、とメモした。あれ?高城胤吉は16世紀前半期の人物??どういうこと?千葉宗家は康正元(1455)年、というから15世紀の中頃には、小弓城主・原胤房や馬加城主・馬加康胤の攻撃により既に滅んでいる。で、その後、馬加康胤が千葉宗家を継いだ、というか、詐称(?)したわけである。ということは、高城胤吉の妻の実家・千葉宗家って、「本家」滅亡後のいわゆる後期千葉氏であろう。

あとひとつ?が。国府台合戦では小弓公方足利義明・上総武田氏・里見氏と、古河公方・北条氏・千葉氏・原氏らの勢力が戦った、とメモした。小弓公方って、小弓城を居城としたから、そう呼ばれるのだが、小弓城って原氏の居城では?また、千葉氏って原氏に滅ぼされたのでは?調べてみた。
永正十四(1517)年、真里谷城主武田信保は古河公方に対抗するため、足利義明を擁立し原氏の居城・小弓城を攻撃・奪取。足利義明は翌年に小弓城に移り、「小弓公方」と呼ばれることになる、と。つまりは、原氏はこの時期に小弓城を追い出されたわけだ。
国府台合戦でどうして千葉氏・原氏といった「千葉県勢」が小弓公方とか里見勢といった「千葉勢」に寄騎しないで、小田原・北条勢に加勢したか、これで納得。 城を追われた原氏と、千葉宗家とはいうものの、原氏に滅ぼされた本家・千葉氏ではなく、本家・千葉氏を滅ぼした馬加氏が「継いだ」(後期)千葉氏ということ、か。納得。ちなみに、ここに古河公方が登場しているのは、長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は(後期)千葉氏を頼んでこの地に逃れてきた、から。
なお、都内で幾度か出会った武蔵千葉氏、千葉実胤・自胤は、原氏らにより滅ぼされた千葉宗家の遺児。武蔵に逃れていたため、武蔵千葉氏と呼ばれることになった。経緯から見れば、本家筋といえるだろう。

富士川の氾濫原
台地の裾を歩く。東には湿地が公園として保存されている。昔の富士川の氾濫原であったところだろう。木でつくられた通路を歩き、富士川脇に。川に沿って進むと水戸街道と交差。道路下をくぐる通路があり、先に進む。川の西の方角には台地が見える。平賀地区を成行きで進む。北西に走る如何にも参道といった風情の道に。先に進むと本土寺が見える

本土寺
正式には長谷山本土寺。池上長栄山本門寺,鎌倉長興山妙本寺と並ぶ日蓮宗「朗門の三長三本」のひとつ。開創は,鎌倉時代の建治3年(1277),領主曽谷教信が,源氏の名門・平賀左近将監忠晴の屋敷跡に地蔵堂を移して法華堂としたのが始まりと伝えられる。 

中世,この地を支配した千葉氏の信仰を得て大いに栄えた。水戸光圀公が寄進したと伝わる古い杉並木の参道や,朱塗りの仁王門,回廊,五重の塔がある。「あじさい寺」として知られるが、それだけでなく四季折々の花が有名とか。拝観料500円、ってなんだかなあ、と思ってはいたのだが、境内を歩き、花々の手入れを見るにつけ、維持費としても結構なお金がかかりそうである。拝観料も納得。
平賀氏って、源平争乱期、源義家の孫が信濃国佐久平・平賀郷を拠点とし、平賀氏を名乗る。鎌倉初期、平賀義信、源頼朝に従い活躍、鎌倉幕府の重鎮となる。平賀朝雅など、北条時政に推され将軍職をねらったりもする。あと延々と続くが、このくらいにしておく。ともあれ、源氏の流れをくむ一族。讃岐の出身・平賀源内もその流れ、とか。

大谷口歴史公園・小金城址
台地を下り、ちょっと大きな通り・まてばしい通りに。通りの南に緑豊かな台地が迫る。大谷口歴史公園。ここに戦国の時代、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ城。下総屈指の城郭であった、と。現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけ。あとはすべて宅地なっている。台地東端の達磨口から入る。すぐに行き止まりとなる。おおきな土塁が残っている。引き返し、公園入口を探す。台地上にあるお寺の西に公園入口。金杉口の虎口。障子掘や畝掘が。畝掘など、いかにも畠の畝って感じ。粘土質の地ならではのつくり。武者も脚をとられたことであろう。
既にメモした経緯をへて、高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出。ために古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市河付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。その後の経緯は上でメモしたとおり。城跡を離れ、北小金駅に戻り、一路家路を急ぐ。