水曜日, 11月 30, 2005

秦野散歩;紅葉の頃、弘法山の丘陵を歩く

秋、紅葉を見たいと思い立つ。小田急に乗り秦野を目指す。秦野弘法山の丘陵に一度行ってみたいと思っていた。途中、小田急で行き先を間違い江ノ島方面に。大和を過ぎ港南台のあたりで気がつき相模大野まで引き返す。小田急小田原線に乗り換え伊勢原を過ぎ秦野で下車。
秦野の歴史;秦野の名前の由来は「秦」氏からという説も。渡来人が住み着いていたのだろうか。藤原秀郷。俵の藤太、むかで退治、平将門を倒した武将、その子孫藤原経範がこの地を開墾し波多野氏を名乗る。これが波多野氏のスタート。前九年の役、保元の乱と活躍。勢力をのばす。これが平安時代まで。鎌倉時代、波多野氏は当初平氏に組する。負け戦。当主、自害・所領没収となるが、のちに許され、幕府の要職に。越前の地頭職になったとき、曹洞宗の開祖道元を招聘し永平寺を開くほどに。(水曜日, 11月 30, 2005)


本日のルート;小田急・秦野駅>弘法山公園入口>浅間山>権現山>弘法山>吾妻山>鶴巻温泉弘法の湯>小田急・鶴巻温泉駅

小田急線秦野駅

ともあれ散歩にでかけよう。途中車窓から目的の山というか丘陵地・浅間山は確認済み。駅からそれほど遠くない。駅前を北に。水無川にかかるまほろば大橋を渡り、右折。河岸を進む。車の往来激しい。平成橋、常盤橋を越え、新常盤橋を左折。川筋から離れる。

弘法山公園入口
川原町交差点を越え直ぐ、県道71号線脇に弘法山公園入口が。川筋に沿って道なりに歩くと浅間山への登り道となる。ここまで、駅から30分弱といったところ。上り道は結構厳しい。鎌倉の天園ハイキングコースを思い出す。20分ほどで広場に。ここが浅間山。秦野の町並み、箱根や丹沢の山のつらなりの眺めが楽しめる。

浅間山から権現山
浅間山の広場から権現山に。少し上り、すぐ下り、車道、というか山越えの道を横切り再び山道に入る。この上りも結構厳しい。が、ほどなく頂上。広場になっている。展望台からは富士山が見える、とか。相模湾の眺めはなかなかよかった。権現山からはよく整備された坂道、というか階段道を下りる。目的の紅葉、盛りにはほど遠い。ちらほら。桜並木の馬場道が続く。途中、秦野がタバコの里であったことを示す記念碑。
秦野とたばこの歴史(掲示案内文);「秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なものでした。 この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少していきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはたばこ耕作そのものが終わりを告げました。秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くしたたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの土地にしっかりと息づいています」と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


弘法山

しばらく歩くと分岐。下ると、めんようの里。いまひとつわかりにくいが、弘法「山」に行くわけだから分岐点を上り方向に進む。わずかに上ると弘法山。弘法大師が修行したとの伝説のある山。山頂には大師の木造を安置した大師堂、井戸、鐘楼などが残る。

峠の切り通しは切通しは矢倉沢往還
次の目的地吾妻山。釈迦堂脇から山道に入る。みかん畑の脇を上りゆったりとした道筋を進み善波峠に。弘法山、吾妻山、大山の分岐点。峠のちょっと手前の階段っぽい崖道にくずれかけた常夜灯がある。これは「文政10年(1827)に旅人の峠越えの安全のために道標として立てられたもの」で「御夜燈」と尊称されている、と。
峠の切り通しには地蔵と馬頭観音。この切通しは矢倉沢往還の道筋。矢倉沢往還の道筋は江戸城の「赤坂御門」が起点。多摩川を二子で渡り、荏田・長津田、国分(相模国分寺跡)を経て相模川を厚木で渡り、大山阿夫利神社の登り口の伊勢原に。さらに西に善波峠を経て秦野、松田、大雄山最乗寺の登り口の関本、矢倉沢の関所に。その後足柄峠を越え、御殿場で南に行き、沼津で東海道と合流する。これが矢倉沢往還の全ルート。矢倉沢往還は古くから人や物が行き交う道。日本武尊の東征の道筋が、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還とほぼ同じであったよう。矢倉沢往還は公用の道、信仰の道、物 資流通の道と様々な機能を持つ。
公用の道;徳川家康の江戸入府の折り、箱根の関所の脇関所の一つとして矢倉沢に関所を設ける。関所の名前が街道名の由来。また、後年、人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還・裏東海道の一つとなった。
信仰の道;江戸時代中期以降、大山信仰が盛んになる。各地から大山詣での道がひらけ、その道を大山道というようになったが、矢倉沢往還は江戸から直接につながっており、大山道の代表格。
物資流通の道:相模、駿河、伊豆、甲斐から物資を大消費地である江戸に運んだ道で、駿河の茶、綿、伊豆のわさび、椎茸、干し魚、炭、秦野のたばこなどが特に有名。

吾妻山へ
分岐を右に。というか、3箇所分岐となっており少々分かりにくい。すこし下る感じの道筋が吾妻山へのオンコース。長い道筋の割には道路標識がなく不安になりながら、ともあれ歩く。1時間近くもあるいたろうか、吾妻山の山頂に。ここからの眺めは結構いい。お勧め。日本武尊の由来書;「日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から舟で房総に向う途中、静かだった海が急に荒れ出し難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ、海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています」と。

弦巻温泉駅

あとは緩やかな道をひたすら下る。30分もすれば東名高速に。下をくぐり、温泉旅館の看板などを眺めながらのんびりあるくと弦巻温泉弘法の湯。市営の日帰り温泉。一風呂浴びて、弦巻温泉駅から一路自宅に。紅葉見物とはいいながら、紅葉には少々早い秦野散歩ではあった。

火曜日, 11月 29, 2005

熊野散歩 Ⅵ:一遍上人

いつだったか、佐江衆一さんの書いた一遍上人の本を読んだことがある。『わが屍は野に捨てよ-一遍遊行,(佐江 衆一,新潮社)』)という本。きっかけは、これもいつだったか埼玉の狭山丘陵を散歩しているとき時宗のお寺があったから。お寺に興味をもったわけではない。時宗=開祖一遍上人、ということ。
とはいうものの、一遍上人って、一体どういう人物かよくしらない。で、前々から気にはなっていた栗田勇さんの『一遍上人』を探した。が、なかなか見つからない。そうこうしているうちに、どこかを散歩しているとき、ふと立ち寄った古本屋で見つけたのが佐江さんの本。
読んでみた。一遍上人って伊予・愛媛の人。身近に感じた。読み終えた。その後、しばらくして書店で栗田勇さんの『一遍上人』も手に入れた。文庫版になっていた。読み終えた。なんとなく一遍さんとか時宗について、「つかんだ」。で今回の熊野。一遍上人が大きく登場してきた。時空散歩がつながった。(火曜日,11月 29, 2005のブログを修正)

蟻の熊野詣

蟻の熊野詣のメモ;上皇の御幸>浄土信仰>貴族の熊野詣で>鎌倉武士の熊野詣>熊野神社の全国普及>一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛>熊野比丘尼の全国遊歴>15世紀末に民衆の熊野詣ピーク=蟻の熊野詣、を迎えることになる。
院政期から中世には、熊野御師・先達制度の発達、熊野修験・熊野比丘尼などの活動によって、熊野三山信仰が諸国に流布し、幅広い人々の熊野詣が行われるようになった。また、遠隔地の山々や島、村落では、熊野三山を勧請し、そこで熊野信仰が行われることになる。ちなみに、全国に熊野神社は3800ほどあるという。熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである。
上の蟻の熊野詣のメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛が民衆の熊野詣への大きな要因となったと書いた。もう少々詳しく、とは思ったのだが、いつになったら第一回のメモが終わるものやらと省略。 熊野散歩のメモは先回で一応終わりのつもりではあった。が、一遍上人と熊野の関わりを省くことがなんとなく収まりが悪い。で、もう少々付け加えることにする。

熊野詣のきっかけは上皇の熊野御幸。白河上皇9回。鳥羽上皇21回。後白河上皇34回。鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回。院政期、上皇の熊野御幸はほぼ年中行事と。このように熊野信仰にドライブがかかったのは、修験者(山伏)・園城寺派の修験僧の働きかけがあってのこと。
当 時、熊野は修験道の一大中心地。修験者が熊野詣の道案内人をつとめる。この道案内人を先達(せんだつ)と呼ぶ。先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行った。先達に案内された熊野御幸、上皇には政治的・経済的理由があったろう。宗教的理由は言うまでもない。時代背景から考えても必然的。
平安後期、白川上皇の院政の開始(1086年)から鎌倉幕府に政権が移るまでの100年は天下大乱・末法を思わせる時代。貴族の支配体制が崩れ、上皇が絶大な権力を握る。武士が台頭。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)など源平の争乱で京は戦場に。武士や僧兵、群盗が都大路を闊歩する。飢餓の死者は数知れず、貴族の館は乱暴狼藉の巷。貴族・支配階級が抱いた観音浄土への信仰はこのような時代背景からくる、すさまじい危機感・恐怖感ゆえのもの。
上皇・貴族が核となり一路、熊野詣へ。が、1221年、ひとつの事件が起きる。「承久の乱」。才能にあふれた後鳥羽院が武家から王権を取り戻すべく起こした企て。ちなみに後鳥羽院、熊野詣は28回。熊野の僧兵を味方に引き込む目的もあったとのではなかろうか、とも思える。熊野三山検校の勧めのより上皇が挙兵した可能性も高い。
上皇のもとには熊野の衆徒たちが多く馳せ参じる。鎌倉軍に瞬く間に制圧される。上皇方に参加した熊野権別当とその子・千王禅師(せんのうぜんじ)も討ち死。ともあれ、後鳥羽院敗れる。
鎌倉幕府によって院政は停止。敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流。熊野御幸を宗教的・経済的・政治的行事として行ってきた院政政権はこの乱の敗北により崩壊。熊野御幸は終焉に。承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が3回、亀山上皇が1回詣でているのみ。
また、承久の乱で上皇に組みした熊野は、鎌倉幕府から冷遇される。1282年熊野別当家断絶。熊野は衰退。上皇中心・熊野修験勢力中心の熊野詣での終焉。
が、しかし、南北朝から室町にかけて、新しい動きがでてくる。民衆中心の熊野詣で。それまでの熊野修験僧に代わり、時衆(じしゅう。のちに時宗)の念仏聖たちが熊野信仰をもりたてていくことになる。で、この核となるのが一遍上人、というか一遍上人が開いた時宗・踊念仏。
承久の乱から半世紀の後、熊野権現との出会い・さとり(熊野成道)を得た一遍上人が「時宗」を開く。時衆は鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に『念仏踊り』の熱狂の渦を巻き起こした。時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占。説経『小栗判官』などを通して熊野の「ありがたさ」を 広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などのものであった熊野信仰を庶民にまで広めていった。熊野詣でのメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛と書いたのはこのこと。

一遍上人

がしかし、我々あまりに一遍上人のことを知らない。栗田勇さんが『一遍上人;旅の思索者』(栗田勇;新潮文庫)で書いている;一遍上人の名は、鎌倉初期をかざるほぼ同時代に輩出した、法然、親鸞、道元、日蓮とくらべると、ほとんど知られることが少ない。ましてや、鎌倉中期から室町にかけて、浄土真宗や真宗をはるかに凌ぐ、大教団としてとくに「念仏踊り」が、上は大名、武士から町人、百姓浮浪者にいたるまで、ほとんど、日本の全土を風靡していたことは全く忘れ去られている。
そのころ、日本の街の辻や村の集まりでは、盆・暮はもちろん、毎月、おつとめの日には、今日の六斎念仏踊りに似た、「念仏踊り」がもよおされ、人々は、狂喜したように南無阿弥陀仏を大声で合唱しながら、円陣をつくって、踊り狂っていたのである。」、と。
結構すごかったわけだ。こういったパワーが背景にあったとすれば、蟻の熊野詣を演出したのはこの教団である、といわれても納得。
で、一遍上人は言う;「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」、と。一遍上人の熊野成道(じょうどう;悟りを開くこと)、そのきっかけとなったのは中辺路のとある場所。伏拝王子の近くか、とも思うが定かではない。あまり宗教的イベントに興味はないのだが、一遍上人と熊野のかかわりのきっかけでもあるので、熊野成道(じょうどう)についてメモ:
一遍上人は人々に念仏札を与えながら熊野へと向かっていた。念仏勧請とはいうものの、一紙半銭の喜捨を受ける、一種の無銭旅行の方便といったもの。それほど宗教的高みを目指す「巡礼」でもなさそう。で、中辺路の山道で、品性卑しからぬ一人の僧に「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と念仏札を。が、その僧、「念仏に信心がわかないから、お札はいらない」と拒否。一遍は慌て、かつ、不本意 ながらも「信心が起こらなくてもいいから」と強引に僧に念仏札を渡す。
一遍は悩み、煩悶。本宮で。夢うつつに一遍の前に白髪の山伏が。山伏が熊野権現であることを直観した。権現は告げる:「融通念仏をすすむる聖。いかにねんぶつをば、あしくすすめられるぞ。御坊の勧めによりて、一切衆生ははじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に(十劫の昔に悟りを開かれたそのときに)、一切衆生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信を選ばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」。
このときから真の一遍の念仏が始まり、一遍は時衆の開祖となる。一遍自ら「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」と語っており、そのため、この本宮での出来事のことを時衆では「熊野成道(成道とは宗教的な覚醒のこと)」という。
念仏聖と蟻の熊野詣の関係は以上で納得。で、蟻の熊の詣でについてもうひとりの立役者、熊野比丘尼についてももう少し整理しておく。

熊野比丘尼

熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである、とメモした。そのはじまりを、熊野三山に仕える巫女に求める説もある。先達・御師の妻だ、という説もある。ただ、諸国をまわって熊野への参詣を勧誘したことにあると考えれば、それほど昔に遡ることはないだろう。交通路や宿泊施設が整備し、案内役としての先達の役割が少なくなり、それにかわるものとして登場してきた。とすれば、一般民衆の参詣が高揚する十五世紀広範化、それがやや衰える十六世紀に、熊野比丘尼の活躍の時代があると考えるのが自然、かも。
室町時代、絵巻を使って地獄・極楽の絵解きをしたり、歌念仏を唱えたりして熊野への寄付を勧め、女性を拒まない熊野への信仰によって女人救済を説いてまわった。また、熊野三山の発行する厄除けのお札「午王宝印」を全国に売ってまわった。熊野の午王宝印は熊野の神の使いである烏を図案化したデザイン。サッカーの全日本のお守りマークとして使われているので目に した人も多いだろう。さらに、室町時代から江戸時代にかけてお札の裏が起請文や誓詞を書くのに盛んに使われた。

高野澄さんの『熊野三山・七つの謎;祥伝社ノン・ポシェット』にこんな興味深い記述が;「熊野速玉神社(新宮大社)の近くに神倉神社がある。この神社が比丘尼の統括機関。もっとも、中世の神倉神社を運営したのは神倉聖とよばれるいくつかのお寺。なかでも妙心尼寺が中心となった。神倉山ののぼり口にある。熊野比丘尼が全国を勧請してまわり集める浄財はいったん妙心尼寺に献金され、妙心尼寺から熊野三山それぞれの大社に対して、社殿の維持や修理の費用として配分されてゆく。
妙心尼寺から比丘尼に対する反対給付としては、熊野比丘尼の名称を使うことが許され、年の暮から正月にかけての三山参籠が義務つけられ、新年になってそれぞれの持ち場に戻っていく比丘尼に対して、新しく印刷された熊野牛王が給付されるという仕組みであった。」。熊野比丘尼も経済システムにきっちりと組み込まれていたようだ。

中世、日本最大の霊場として栄えた熊野。が、やがてその熱狂振りも衰微する。熊野信仰を広めた熊野比丘尼も江戸時代になると歌比丘尼などと遊女になるケースも。お伊勢参りにその座を譲ることになる。また、江戸時代、熊野三山は紀州藩の宗教政策・神道化政策により、熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動を抑えた。熊野信仰は衰退。明治になってさらに衰退。その最たる原因は、明治元年(1868年)の神仏分離令。本地垂迹思想により仏教と渾然一体となっていた熊野信仰にとって、国家による神道重視政策は大きなダメージ。これにより熊野を詣でる人は激減した。
なんとなく気になっていたことのメモは終了。本当のところ、小栗判官とか、熊野牛王とか、安珍と清姫とか、和泉式部伝説とか、花山院伝説とか、あれこれメモできなかったこともある。鎌倉で花山院の足跡に出会ったように、いつかどこかで「襷」がつながることを楽しみにして、熊野散歩を終えることにする。いやはや、長かった。

月曜日, 11月 28, 2005

熊野散歩 Ⅴ;熊野古道・中辺路を進む(牛馬童子からネズ童子)

本日もコーディネーター女史の采配により、時間の割りに距離を稼ぐ、早い話がレンタカーやバスで標高の高い散歩開始ポイントに進み、ひたすらに下り道を歩く。で最終地点だけ、少々の険路を味わうって段取り。(月曜日, 11月 28, 2005のブログを修正)



3日目土曜;熊野瀬>牛馬童子口バス停>牛馬童子像>近露王子>バス>野中の清水バス停>継桜王子>比曽原王子>近露王子>バス>牛馬童子口バス停>高原熊野神社>車>>滝尻王子>熊野古道館>不寝王子>南部梅記念館>南方熊楠記念館>白浜温泉 銀翠

牛馬童子像
宿のある渡瀬温泉から車で「道の駅・熊野古道なかへち」に。そこに車を止め散歩のスタート。熊野本宮大社に向って歩く。はじまりは結構厳しい上り。森を進む。杉木立の中に古い宝筐印塔(花山院が法華経と法衣を埋納したと)と小さな牛馬に乗った旅装の童子の石像・牛馬童子像。花山法皇の熊野詣の旅姿であるとも言われている。箸折峠に静かに佇む。もっとも、この牛馬童子、「明治のころ俺がつくった」という人も現れたようで、由来の真偽のほど不確。
また、この花山法皇、いろんなところで顔を出す。那智の西国33観音巡礼伝説しかり、先日鎌倉を歩いていたときにも顔を出した。一体どういった法皇なのか一度調べてみたい。

近露の里
箸折峠からの道を結構下り近露の里に。花山法皇の一行、箸のかわりに傍らの、茅(かや)を折る。茎から赤い血のような、露のようなものが滴り落ちる。で、これは血か露か=近露、折って箸=箸折。日置川の流れと大塔山系の峰々を背景にした広々としたのどかな里。熊野山中にしては開けたところで、かなりの田地がひろがる。

近露王子
里の道を歩き日置川にかかる北野橋の隣に近露王子。最も早く現れた王子。鎌倉末期の熊野縁起には准五体王子と して名前がある。参詣者は神社脇の日置川で禊を。天仁二年(1109)、藤原宗忠の『中右記』には、「近津湯の川を渡って祓い、近津湯王子に奉弊す」とある。後鳥羽上皇はここでも和歌の会を。明治末期の神社合祀で廃社となり、近露王子の跡を示す石碑が残されている。
近露王子あたりの標高は290m程度。目的の小広王子の標高は550m程度。上り道は避けたい、ということで、近露からバスで小広王子近くまで進み、そこから近露王子に戻ってくる方針に。おおよそ7キロ、2時間強の歩きとなる。

小広王子

小広峠のバス停でおり、熊野古道の案内をたよりに山に向う。といっても完全舗装。結構上る。車道の小広峠の道端に小広王子。むかしはもっと高いところにあったとか。この王子は中世の記録にはない。道は狭いが以前は国道311号線として田辺から本宮までの唯一の道。

中ノ河王子

小広王子から30分程度で中ノ河王子に。高尾隧道口の少し東、車道からすこし上ったところに中川王子と刻んだ石碑。かっての熊野参詣道の道跡。ここは比較的早くできた王子。この王子から先に道があるような、ないような。案内がなければ道に迷う人が多いのではなかろうか。元に引き返す。

安倍清明の腰掛石

少し歩くと民家が。「安倍清明の腰掛石」が民家の庭先に。恐る恐るではあるが、腰かける。「平安時代の陰陽道(おんみょうどう)の大家安倍晴明が腰を下ろして休んでいるとき、上方の山が急に崩れそうになったが呪術(まじない)で崩壊を防いだと伝えられている。」と案内板に書いてあった。
何故陰陽師が?御幸は陰陽道の占いによって行動の指針を得ていた、ということだった。もっとも、安倍晴明の屋敷が那智にあったとも言うし、そもそも安倍清明と花山院は仲良しであった、とも言うし、安倍清明の伝説があるのはあたりまえか。

桜継王子
で、中ノ河王子から15分程度で桜継王子。野中地区の氏神でもある王子社。社殿もある。境内の斜面に一方向に枝の伸びた一方杉が。県指定の天然記念物。この王子社の名前の由来ともなった、継桜が社前にあり、それが秀衡桜と呼ばれ、この王子社の東にある。

野中の清水

王子の前の崖を少し下りると日本名水にも選ばれた「野中の清水」がある。傍らに、松尾芭蕉の門人、服部嵐雪(はっとりらんせつ)の句碑;「すみかねて道まで出るか山清水」
また、斎藤茂吉の歌碑も;「いにしえのすめらみかども中辺路を越えたまひたりのこる真清水」
昭和9年(1934)に土屋文明とともに熊野に来て、自動車で白浜に向かう途中に立ち寄って、この短歌を詠んだ、とのこと。

伝馬所跡や一里塚跡

少し歩くと「伝馬所跡」(てんましょあと)や「一里塚跡」の案内板や碑。「伝馬所」とは街道沿いに設けた役所で、公用の文書や荷物を中継するなどの役目をもち、馬や人足が常駐していた、とのこと。近露にも設置。が、この先本宮向きは約16km先の伏拝までない。野中は熊野街道の中でも要所だったわけだ。

比曽原王子
野中の一方杉から15分ほど歩くと、再び少し広い車道・旧国道311号線に合流。継桜から20分程度の行程で比曽原王子に。車道脇の山の斜面に。江戸中期にはすでに社殿はなかったようである。1739年の熊野めぐりにこんな記載が:「道の傍らに蒼石を以って比曽原と彫付けたり。所のものに尋ぬれども其の事実を知らず」、と。この頃にはもう誰も知らなかった、ってこと。

近露王子

比曽原王子から近露王子までほぼ50分。近露に近づくにつれ、少し熊野古道らしい道を緩やかに下っていく。が、またすぐに舗装路に。近露の里になって人家が多くなる。そのまま里道を下り、10分ほどで近露の中心地に。

高原熊野神社
近露王子からバスで道の駅まで戻り、再びくるまで先に進む。次ぎの目的地は高原熊野神社。山の上。幸運にも一発で目的地に着いた。駐車場から「下界」の眺めが美しい。高原熊野神社はこの高原地区の氏神。高原王子と呼ばれることもあった。1403年に若王子を熊野から勧請したと。社殿があり、春日造り。室町時代の様式を今に伝える。熊野街道の中では最も古い神社建造物である。

滝尻王子

高原熊野神社から滝尻王子に向う。中辺路ルートの開始地点。滝尻王子は熊野九十九王子のうち最も重要な王子のひとつ。五体王子であった。石船川が冨田川に合流する地点、滝尻橋のそばに位置する。
滝尻という地名の由来は、川の流れが激しく、石に触れ音高く滝のような様であるため。古道は背後の山・剣ノ山への上りとなる。熊野の聖域への入口。「初めて御山の内に入る」(藤原宗忠)、のコメント。参拝者は川で禊、社前で経供養や里神楽を。後鳥羽院の和歌会も。剣ノ山への上り開始。「滝尻につきたまい。。。、険しき岩場を攀じ登り(源平盛衰記)」、「おのが掌を立てたる如し、まことに身力尽きをはんぬ(中右紀)」などとある。またこの険阻な桟道、藤原定家などのびてしまい、12人の力者法師のかつぐ輿にのったとか。ともあれ結構険しいのぼり。

ネズ王子
山道を登りネズ王子まで。急な山道を400mほど登るとネズ(不寝)王子に。秀衡伝説の乳岩・胎内くぐりのちょっと上にある。
秀衡伝説とは;奥州平泉の藤原秀衡は強烈な熊野信者。妻が子宝に恵まれたお礼に妻共々熊野参詣。滝尻で、にわかに産気づき、出産。「道中足手まといになる赤子を岩屋に置き、疾く熊野へ詣でよ」との、熊野権現の夢告、あり。滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続ける。野中まで進む。赤子のことが気になり、秀衡、桜の木の杖を地面に突きさし、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護あり、赤子の命あるのならば、桜も枯れることはない」と祈り、参詣の旅を続ける。帰り道、野中まで来ると、桜の杖は見事に根づき、花を咲かせていた。滝尻に向かうと、赤子は乳岩で、岩から滴り落ちる乳を飲み、山の狼に守られて無事に育っていた。熊野権現へのお礼に秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めた。黒漆小太刀は滝尻王子の宝として今に至る。また、秀衡が祈願し根づかせた桜は「秀衡桜」と呼ばれる、と。ネズ王子の名前は古い記録にはない。九十九王子に入ることもない。元禄になって「ネジ王子」の記録がある。ネズ王子から再び滝尻に戻り、中辺路散歩をおしまいとする。

先にも挙げた『梁塵秘抄』に、
「熊野へ参らむと思へども
徒歩(かち)より参れば道遠し 
すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜(た)べ 若王子」

という今様がある。辺境の山岳地帯にある熊野へ詣でることは都人にとってまさしく苦行の旅であって、苦しみながら詣でるからこそ、熊野の神様の御利益があるのだとされた。そのため、上皇であろうが女院であろうが貴族であろうが、馬や輿は用いず、徒歩で行くことが原則とされた(往路に関しては。復路に関しては馬などを利用することも可で、淀川と熊野川の往復は船を利用するのが一般的でした)、と。
とはいうものの、先ほどの定家のように輿に乗ったという記録もある。熊野の記事はあまりに宗教的意味づけが強すぎるようにも思える。

神坂次郎さんの『熊野まんだら街道』にこんな記事がある;本宮大社の傍らに玉置縫殿の墓。この人物は熊野三山貸付業を一手に引き受けた人物。この三山金貸付業というのは銀行のはしりみたいなもの。将軍吉宗の寄進した三千両、幕府や大名から集めた勧化金、預金、富くじの収益金元本十万両を基金に金貸し業を行い、。。。、莫大な利益がころがりこんだ」、と。

鈴木理生さんの『幻の江戸百年』(筑摩書房)にもこんな記事がある;
「熊野信仰およびその名の下の流通行為は、鎌倉幕府成立と同時に制度的定着をみて盛大になった。やがて、足利尊氏が建武式目を制定した建武三年(1336年)の、室町幕府の発足をひとつの契機として、熊野に代わり伊勢大神宮の御師・先達の伝道行為が主流をなすようになる。
これを単なる「神信心」の流行の変化とみるか、はたまた、"さいはて"を意味する「クマ」の国の湊を中心とした海運事情が、日本三津のひとつの伊勢安濃の津、つまり伊勢湾を中心とした海運網へ再編成されたことの象徴的変化とみるか。。。
いずれにせよ物流・流通を問わず、ここでは人と物と情報の移動は、政治的・軍事的中立性を建前とする寺社の名を借りなければ、一切の"動き"が不可能だった時代の特質があったことを再確認しておきたい」、と。
もっとフラットに、政治的・経済的視点から熊野を扱った記事を探し、さらなる時空浴を楽しみたい。

土曜日, 11月 26, 2005

熊野散歩 Ⅳ;熊野古道・中辺路を歩く(発心門童子から熊野本宮)


スタート早々に計画の見直し。最初の予定では車を熊野本宮大社の駐車場に置き、バスで発心門王子まで行く。そこから熊野本大社に向って戻ってくる、ということであった。が、道路工事のためバスは走らない、との情報。タクシーに乗り、ぎりぎり道路封鎖を免れる。(土曜日, 11月 26, 2005のブログを修正)
2日目旅程;くまのじ>熊野速玉大社>熊野本宮大社>発心門王子>水呑王子>伏拝王子>三軒茶屋跡>祓戸王子>熊野本宮大社>渡瀬温泉 熊野瀬

発信門王子

発信門王子から熊野本宮大社までほぼ7キロ。標高314mから89mまでほぼ下り道。里山もあり鬱蒼とした森もあり、距離の割に変化の富んだ道。おおよそ3時間弱の散歩。発心門王子は五体王子のひとつ。11世紀初頭の文献にこの地に大鳥居があったと。それが発心門。「菩提心を発す門」。門前でお祓いをし、王子に参る。発心門は本大社への入り口であった。明治の神社合祀後、王子神社遺址の碑が立つだけであったが、近年整備され社殿が建てられている。

水呑王子
発心門王子からは舗装された道路。里山の風景を楽しみながら30分程度歩くと水呑王子。小学校分校の一隅に石碑が。古い記録には内水飲という記録も。12世紀初頭の記録に、この王子が新王子と。設置時期は平安末期だったのだろう。

伏拝王子

水呑王子から伏拝王子までは30分程度。森に入る。植林された杉林。森に深みはない。古道の森を抜けると伏拝地区の里山風景。遠くに三里富士。趣のある山容。伏拝地区は「伝馬所」として栄えたところ。標識に従って丘に登ると伏拝王子。ここまで来ると森が開ける。本宮旧社地・大斎原が眼下に、とはいうものの、はるか・かなた。
「はるばると さかしき峯を 分けすぎて 音無川を 今日見つるかな(後鳥羽上皇)」
あまりの感激に、「感涙禁じがたし」と、本宮を伏し拝んだ、というのが、この王子の名前の由来と。我ら、ほとんど歩いてもおらず、感慨起こるわけもなし。
石造りの祠の横に和泉式部の供養塔と言われる卒塔婆が。この王子中世の記録にはない。とはいうものの、和泉式部の伝説って日本全国にある。あり過ぎ。以仁王とか小野小町とか、それから花山院もしかり。熊野比丘尼とか高野聖とか、全国を遊歴するエバンジェリストが大きな役割を果たしたのだろうが、ともあれ、そのうちに伝説が全国に広がるプロセスをまとめてみよう。

三軒茶屋

で、伏拝の里を抜け、鬱蒼とした森。途中三軒茶屋。高野山を起点とする小辺路との合流点というか、分岐点。三軒茶屋を少し歩くと見晴台へのバイパス。少し坂を登るが、整備された公園から大斎原が見下ろせる。見晴台を下り、石畳の坂を下る。

祓所王子

伏拝王子からほぼ50分、標高差も250mから90mまで下ると祓所王子。熊野本宮大社のすぐ裏手、杉やイチイガシの林の中に石造りの小さな祠がある。ここは旅のけがれを祓い清める潔斎所。名前の由来もそこにある。で、熊野本宮の駐車場に戻り、今夜の宿に。2日目の予定終了。

薩摩守忠度

今日気になったことがひとつある。熊野本宮のすぐ近く、宮井のあたりを走っていると「薩摩守忠度の生まれたところ」って標識。子供のころから無賃乗車するときに、「さつまのかみ」をする、って普通に使っていた。が、今回の同行者、それほど若くない男性と女性の誰もが「そんなん知らん」とノタマった。そもそも、ただ乗り=忠度、で正しいのか、また、なにがきっかけで、この表現が刷り込まれたのであろうか:
「忠度=ただ乗り」は狂言にあった;狂言の「薩摩守」の内容はこんな感じ。(『世界大百科事典』より)
「住吉の天王寺参詣を志す僧が,摂津の国神崎の渡し場の近くまで来る。茶屋で休息し,代金を払わずに出て行こうとし,亭主にとがめられる。が,真実無一文と 知って亭主は同情し,この先の神崎の渡し守は秀句(洒落)好きなので,船にただ乗りできる秀句を教えようといい,まず〈平家の公達〉と言って,その心はと問われたら〈薩摩守忠度(ただのり)〉と答えよと知恵を授ける。さて,船に乗り船賃を要求された僧は,教えられたとおり〈平家の公達〉といい,秀句らしいと気づいた渡し守が〈その心は〉と喜んで問うと,〈薩摩守〉までは答えたが,〈忠度〉を忘れて苦しまぎれに〈青海苔(あおのり)の引き干し〉と答えて叱責される」。
ただ乗り=忠度、という表現はあった。狂言で使われ、どういう経路か、ただ乗り=忠度、ってフレーズを覚えていたわけだ。で、忠度さんってどんな人?ついでに忠度さんの人となりを調べておく。
1.熊野・宮井生まれの女性が鳥羽上皇の御所で働き平忠盛の恋人に
「雲居より ただ漏りきたる月なれば おぼろげにては いわじとぞおもう」
宮中にて忠盛とのことを噂され、中途半端な応答はしません、と。ただ漏り=忠盛、にかけた粋な歌。
2.宮井に戻り忠度を産む
3.忠盛の出世とともに、忠度も出世;忠盛の嫡男・清盛の弟として。
4.この忠度に恋焦がれたのが「立田腹の女房(弁慶の祖母にあたる人)」の娘。
5.話は、河内源氏の五代当主為義に遡る。
6.河内源氏の流れは;初代頼信>二代頼義>三代八幡太郎義家=義家の孫>五代為義
八幡太郎義家の孫河内源氏五代の為義は検非違使・六条判官などを歴任。
7.為義の目標は子供66人つくること。日本全国66余州に我が子を配置といった壮大な目標。実際は46名。長男・義朝は熱田神宮の大宮司の婿と結婚するなど所定の目標は達した、か。
8.為義は熊野別当の娘・立田御前と縁を結び、息子と娘をもうける;新宮で生まれ新宮で育つ。この娘が立田腹の女房。ちなみに、新宮十郎も為義と立田御前の間の子;立田腹の女房の弟。
9.立田腹の女房;熊野別当湛快と縁を結ぶ。ふたりの間の子供が湛増、娘は乙姫(とする)。ちなみに湛快は清盛に京都進軍を勧めた人。
10.立田腹の女房は湛快が亡くなると、行範という熊野の神職と再婚。生まれた子供・行快も別当に。
11.乙姫;行快と結婚。兄弟が結婚!?。
12.しかし、乙姫は行快と別れ、京都へ。お目当ては平家の御曹司;薩摩守忠度であった。
13.忠度の最後;一の谷の合戦で華々しく討ち死に。これも、どこで覚えたのか分からないが、小学唱歌「青葉の笛」の2番に忠度最後の姿が歌われている。
1.一(いち)の谷の 軍(いくさ)破れ
  討(う)たれた平家(へいけ)の 公達(きんだち)あわれ
  暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐(あらし)に
  聞こえしはこれか 青葉(あおば)の笛 
2.更(ふ)くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き
  わが師に託(たく)せし 言(こと)の葉(は)あわれ
  今(いま)わの際(きわ)まで 持ちしえびらに
  のこれるは 「花や 今宵(こよい)」の歌

一番は同じく一の谷で戦死した平の敦盛の笛の故事。2番が忠度。
一の谷の合戦が近づいたある夜、陣を抜け出し京の歌の師・藤原の俊成に自作の歌を手渡す。
俊成に託された歌の中から「千載和歌集」に選ばれた歌;
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを むかしながらの 山さくらかな」
また、討ち死にしたとき、えびらに結んだ辞世の句「旅宿の花」:
「行きくれて 木の下かげを宿とせば 花よ 今宵のあるじならまし」
ただ乗り=忠度、というのは結構失礼な、上質の人物であったよう。

金曜日, 11月 25, 2005

熊野散歩 Ⅲ:新宮へ

本日の計画は補陀洛山寺>新宮>本宮>中辺路の最終部分をちょっと歩く、と言う段取り。(金曜日, 11月 25, 2005のブログを修正)



2日目;くまのじ>補陀洛山寺>熊野速玉大社>熊野本宮大社>発心門王子>水呑王子>伏拝王子>三軒茶屋跡>祓戸王子>熊野本宮大社>渡瀬温泉 熊野瀬

補陀洛山寺
宿を出て補陀洛山寺に向う。平安時代からおよそ千年に渡って、海の彼方に観音浄土・補陀落浄土を求め、死を賭して漕ぎ出す「補陀落渡海」信仰で知られた寺院である。釘付けされた船の中に座り補陀洛渡海に出発した渡海上人達をおまつりしている。補陀落=梵語・サンスクリット語でpotalaka、とは観音(観世音菩薩)が住む聖地のこと。
観音菩薩ってどんな神さま;調べてみた;観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍。観音菩薩は慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。
観音菩薩は33の姿に変身して衆生の苦悩を救済してくれる。京都の三十三間堂、西国三十三観音霊場の由来はここにあった、とはじめて分かった。
長い仏教の歴史の中で、観音の出現は結構画期的だった、とのこと。衆生済度を本願とする、というか衆生それぞれの魂の救済が観音さまの最大のミッションである。天下・国家の鎮護は他の菩薩にお任せし、「観音さま、助けてください」と念じれば観音様は現れ、魂の救済の手段を考えてくれる、っていうありがたい仏様である。
熊野三山が仏教の理論的裏打ちにより、本宮=阿弥陀仏=極楽浄土の中心にある仏であるので西方浄土。新宮=薬師如来=東方瑠璃浄土。そして那智=千手観音=観世音菩薩の住む補陀落浄土、というように熊野全体が広義の「浄土」とみなされたが、特にこの那智の地は昨日メモした樋口忠彦さんの『日本の景観(ちくま学術文庫)』の描写でわかるように、那智の大滝=本地仏は千手観音>那智権現の主神・牟須美神(ふすみのかみ)の本地仏も千手観音=西国三十三観音、第一札所前の観音様>補陀落山寺=観音浄土を求める補陀落渡海、といった山>滝>海が一体となった観音信仰のトータルセットとなっている。
ちなみに、この補陀落渡海、信仰上の渡海もあったが、水葬の変形であったものもある。また、この儀式自体が興行化され、イベント同行ツアーなどもあったとか、なかったとか、途中で死ぬのが怖くなって逃げ出そうとした渡海上人さまを興行主が撲殺したとか、しなかったとか、それが契機となりこの渡海が禁止されたとか。

新宮
補陀洛山寺を離れ新宮に。車で30分程度。新宮・「熊野速玉大社」を参拝。再び車で40分程度だったろうか、「熊野本宮大社」に向う。で、ふたつまとめて、というか那智も含めて三つまとめて熊野の神さまの整理をしておく;
熊野三山とは、紀伊山地の南東部、相互に20~40キロメートルの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺からなる。三山は「熊野参詣道中辺路」によって相互に結ばれている。熊野詣が盛んになる平安時代後期に本宮・新宮・那智が一体化し熊野三山と呼ばれるようになるが、以前は別々の神。三つの神社は、ともに自然崇拝に起源を持ち、それぞれが独自の神として生まれる。
先にもメモしたが、平安時代中期の延喜式に、本宮;熊野坐神社(います)、新宮;熊野早玉神社との記述がある。神社の格から言えば、9世紀半ば頃は本宮も新宮の同格。863年頃には新宮のほうが本宮より格が高かった。940年頃に同格に戻る、とある。ただ、この延喜式には那智の記述はない。神社ではなく、修験道の「権現」さんとしてうまれたのだろう、とは先に述べたとおり。
熊野三所権現が成立したのは11世紀末。熊野坐神社=本宮。速玉神=新宮、という名称が一般化し同時に那智も世に知られるようになる。そして、熊野三山が一体化し相互に祀りあう現象の象徴>熊野三所権現として信仰されるようになる。
もとより、仏教の影響・理論的教義付け>神仏習合の影響を受けて「熊野三所権現」として信仰されるようになったということは言うまでもない。また、「権現」なるがゆえに、仏が衆生を救済するための仮の姿を現したのが神だとする「本地垂迹説」により、主祭神がそれぞれ阿弥陀如来(本宮=家津御子神(けつみこ))、薬師如来(新宮=速玉神)、千手観音(那智=熊野牟須美神)とみなされた。熊野の神々が本地垂迹思想によって説明されるようになったわけだ。結果、熊野は阿弥陀の浄土の地として信仰を集め、これらを巡礼する「蟻の熊野詣」でにぎわうことになる。
ちなみに新宮は本宮に対するものではない。もと神倉山に鎮座していた神を現在の社地に遷したために「新宮」と呼ばれる、と言われる。神社の格が新宮のほうが本宮より高い時期があった、と上にメモした。何故?って疑問があったわけだが、この「新宮説」であれば明解。
熊野三山の社殿は他の神社建築に類例をみない独特の形式を持ち、全国各地に勧請された熊野神社における社殿の規範となっている。十二所権現(三所権現+五所王子+四所明神=十二)という構成で、三山それぞれの主神をともにまつる、って構成だ。先日散歩した鎌倉に十二所権現があった。また、新宿に十二社が熊野神社のすぐ近くにある。
熊野神社は全国で3800ほどあるとも言われる。1042の熊野神社の勧請時期を調査した資料によれば;奈良時代以前 112社(11%) / 平安時代248社(24%) / 鎌倉時代102社(10%) /南北朝時代45社(4%)/室町-戦国時代239社(23%) /江戸時代270社(26%) /明治以降26社(2%)、となっている。
室町から江戸にかけての勧請がほぼ五割。熊野信仰の発展に伴って、というか、熊野神社の全国展開と相まって、というか、互いの相乗効果というか、ともあれ熊野神社フランチャイズが全国に ひろまったわけだ。東京には47の熊野神社。神社以外にも王子、とか八王子とか、音無川(石神井川)とか、飛鳥山(熊野新宮の飛鳥社をこの地に勧請)といった地名が残る。
全国でもっとも多いのは千葉県。268の熊野の社がある。で、先日、まったく別の機会に読んだ『幻の江戸百年(鈴木理生;筑摩書房)』に熊野信仰の全国展開に関する非常に納得感のある記事があった。メモする;
1.熊野信仰は、全国的に海岸地帯に多くの末寺が分布するという形で普及した。
2.それは源平、南北、戦国時代まで、勇名を馳せた熊野衆と呼ばれる強力な水軍の存在と表裏一体。
3.普及の方式は;熊野側は御師・先達制度を形成し、各地の信者と結びつくとともに、熊野に中心をもつ修験道の山伏姿での海陸両面からの伝道活動。御師とは御祈祷師のこと。全国各地に檀那(信者)を作って教導。檀那が参拝の折には拝礼、祈願の仲立ちのほか、宿泊などの世話もする。先達とは参詣の道先案内人、といったところ。
4.御師は地方相互間のコミュニケーション伝達者であり、商業活動の要素を併せ持つ存在。市庭(>市場)の多くは、社寺境内に成立>市場>中世都市
5.熊野信仰に関する最も古い資料;九条兼実『玉葉』1164-12005年11月15日に現れている。つまり、源平争乱の時代>広範囲に移動できる時代。
6.熊野を中心に日本列島の沿岸は、非常に広範囲に熊野信仰の拠点がつくられ、それを中心に伝道と商行為が継続的に行われる社会的成熟が見られた。
つまりは熊野信仰の拡大=熊野神社の拡大は、単に宗教的活動だけではなく、経済行為・活動と不即不離の形でおこなわれた。また同時に大交通時代の始まりの時期でもあり、人・物の交流が活発になった時代背景も大きく影響している。

で、この熊野神社の全国展開に力を発揮したのが鈴木さん。熊野三党として鈴木氏、榎本氏、宇井氏の三氏があるが、もっとも商売上手だったのが鈴木さん、だったのではなかろうか。全国に熊野商法(神社&商行為&イベント請負=熊野詣の団体参拝)といったことで商圏を拡げ、全国の熊野神社関係の「有力者」に。
これは私の勝手な推測であるが、鈴木姓が多い理由も、この熊野神社の有力者と大いに関係あるのではないだろうか。つまりは、明治になって国民すべてが姓を使 うようになったとき、「地元有力者=鈴木」って刷り込みがあり、「おらは鈴木にする」ってことになったのではなかろうか。ちなみに新宿の十二社というか熊野神社は室町時代に鈴木九郎さんが故郷の紀州熊野三山から、十二所権現を移して、お祀りしたもの。中野長者とも呼ばれる。いろいろな説はあるけれど、熊野神社を核とした商売で財を成した、と思う。
また、熊野神社の神官として豊島・王子の地にすんだのも鈴木さん(鈴木権頭光景)。東京ではないけれど、有名どころとしては鉄砲を駆使し信長を苦しめた雑賀孫一も本名は鈴木である。
いやはや熊野の時空浴は結構大変だ。挫けず、旅を進める。
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木曜日, 11月 24, 2005

熊野散歩 Ⅱ;那智熊野大社


大門坂の案内板から「蟻と王子」の時空浴にはまり、初回のメモは終わった。2回目は大門坂を登るところからスタートする。(木曜日, 11月 24, 2005のブログを修正)

那智熊野大社

大門坂の途中に多富気王子。中辺路、最後の王子社。ただ、この王子の名は中世の記録にはない、とのこと。江戸時代に登場。「たふけ」は手向けの意味、とか。 苔むした石段を30分弱登る。那智山神社お寺前駐車場・バス停に。階段を上ると那智熊野大社;御祭神は熊野十三神。御主神は熊野夫須美大神。すぐ横に那智山青岸渡寺。本尊は如意輪観世音菩薩。西国三十三観音霊場第. 一番札所。
神と仏が隣り合うこの那智熊野は熊野三山(本宮・新宮・那智)中もっとも神仏習合時代の名残りを残している。現在は神と仏にはっきりわかれてはいる。が、かつての那智は神社と仏寺とに分離できるものではなかった。
那智熊野大社と呼ばれるようになったのは明治になってから。また、青岸渡寺と呼ばれるようになったのも、同じく明治。それまでの那智は、那智山熊野権現とか、那智権現と呼ばれて神と仏は渾然一体のものであり、熊野修験の一大本拠地であった。
神と仏に分かれたのは明治の神仏分離令によって。もともと神も仏も一体であった権現さまに、神か仏かのどちらか一方を選択するようにとの命。本宮も新宮も神を選び仏を捨て、寺院は取り壊された。この那智でも、神を選び、廃仏毀釈を行い、那智権現は明治4年(1871)に「熊野那智神社」と称し、仏教・修験道を排した神社となった。
本堂であった如意輪堂は、西国三十三所霊場の第一番札所でもあり、さすがに取り壊されることはなかった。が、仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され空堂に。明治7年(1874)になって、熊野那智神社から独立。「青岸渡寺」と名付け、天台宗の一寺として再興された。

熊野那智神社は熊野三山のひとつである。熊野詣が盛んになる平安時代後期に本宮・新宮・那智が一体化し熊野三山と呼ばれるようになるが、それ以前は本宮・新宮・那智は別々の神であった。平安時代中期の延喜式によれば本宮は熊野坐神社(います)、新宮は熊野早玉神社と呼ばれていた、との記述。しかしながら那智の名前は出てこない。どうも、那智は本宮・新宮とは異なる形で生まれたようだ。
異なる、と言う意味は、もともと修験道の流れをくんでできたもの、ということ。那智神社ではなく、那智権現と呼ばれていた、と言うことからも、そうではないかと思う。
上に、那智大社の御主神は熊野牟須美神とメモした。この神さまも後付けの名前である。熊野牟須美神はそもそも、熊野本宮の神であった。奈良時代、本宮は熊野牟須美神と呼ばれていた、とある。
その本宮の御主神が熊野牟須美神から家津御子神(けつみこ)となり、那智が熊野牟須美神となるに至った理由は;
1.出雲に熊野大神;御主神は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)。くし=美妙、みけ=食、ぬ=主;美妙なる食を司る神。家津御子神(けつみこ)はこの櫛御気野命(くしみけぬのみこと)が転化したもの。熊野本宮>熊野牟須美神から家津御子神(けつみこ)にシフト。
2.本宮でもともと使われていた牟須美神は忘れられる。9世紀半ば以降は熊野坐神と呼ばれる。
3.で、つかわれなくなった、牟須美神は平安時代後期になって那智が注目されるようになった頃、ちょうどいい名前がある、ということで、那智で使われるようになった。むすび;産霊の神;豊かな生殖力を象徴。
ちなみに権現さん、って;
「権現(ごんげん)」とは「かりにあらわれる」ことを意味し、仏教の仏さまが日本の神様としてすがたを変えて現れたもの。本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現された。この様に仏が神の姿を権りて現れることが本来の意味のよう。奈良時代頃から流行。天台・真言宗のような密教系の宗派から広まり、さらに発展して、修験道ではより明確に本地垂迹の考えがまとめらた。

青岸渡寺
散歩に戻る。青岸渡寺、というか如意輪堂の本堂に。織田信長の軍勢によって焼き討ちされた後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が弟秀長に再建、と。本堂の右側から那智大滝や三重塔を遠望できる。本堂横を北側に下りると朱塗りの三重塔。三重塔の下の車道を少し歩くと鎌倉式石段。

那智大滝

石段を下ると飛瀧神社の境内入口。石段は約100m続く。那智大滝。その落差133m。滝口が三筋になっている。これが那智の滝の特徴。滝口の上に注連縄(しめなわ)。この滝は滝壺の近くにある「飛瀧神社」のご神体とされている。熊野は熊野十二所権現とも言われる。三所権現+五所王子+四所明神=熊野十二所権現、ということだが、那智はこの十二所権現に飛滝神社・滝宮の飛滝権現を加え熊野十三所権現とも。
那智権現はこの那智大滝を神とする自然崇拝からおこったと言われる。飛瀧(ひろう)神社には本殿も拝殿もなく、滝を直接拝む形になる。社殿がないことからもはっきりとこの大滝が御神体であることをわかる。かつての熊野の自然崇拝の有り様を今に伝えている。
滝をはなれ一路宿に。長いメモの一日が終了した。

那智の大滝をとりまく、那智熊野の景観について樋口忠彦さんが書いた本、『日本の景観(ちくま学術文庫)』を読んだことがある。那智の風土を景観の観点からまとめた箇所があった。メモを以下まとめておく;
1.那智熊野の景観を隠国型景観と呼ぶ
2.上代の土着計画としては、安住の地を求めて、水の音を慕って、川上へ遡った。上流遡行;精神の高揚感;日本の川は滝のよう>より遡行の感覚が明確になる。 この高揚感は遡った奥に別天地が開けるのでは、という期待感>水分神(みくまりのかみ;水の恵みを配ってくれる神)を中心とした安住の地であるとともに死者の霊が上昇し昇華していく聖なる場所。
3.柳田邦夫;曽ては我々はこの現世の終わりに、小闇く寂かなる谷の奥に送られて、そこであらゆる汚濁と別れ去り、高く昇つて行くものと考へられていたらしいのである。我々の祖霊は既に清まって、青雲たなびく嶺の上に休らひ、遠く国原を眺め見おろして居るよ うに、以前の人たちは想像して居た。それが氏神の祭りに先だって、まづ山宮の行事を営まうとした、最初の趣旨であったように私は思はれるのである。
4.山沿いの集落、そこを流れる川を上流に遡った小闇く寂かなる谷の奥の山宮、自分たちの集落のある国原を眺め見下ろすことのできる秀でた峰の霊山、これがセットになって、この世とあの世の共存する安住・定住の景観が成立。
5.谷はこの世からあの世に至る通路。谷の奥は現世とあの世の境目。こうった谷の奥の景観=隠国の景観;隠国=もとは、両側から山が迫っているこもった所、の意味。
6.那智湾に面する浜の宮から、そこに注ぎ込む那智川の深い谷を上流に約6キロほど遡った谷の尽きる所に那智滝があり、其の近くに青岸渡寺、那智大社がある。滝により、奥まった景観が形成。那智の滝の上流は妙法山。秀麗な山谷・滝・山の1セットで死霊が送られる隠国型の空間。妙法山;死者を送るときに用いられる「しきみ」が積み重なってできた山、とか、日本中の霊が集まってくる山、とも
7.五来重氏;熊野は「死者の国」:死者の霊魂が山ふかくかくれこもれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。
8.海、谷、滝、山のセット;古代日本の他界観。山の奥から天に昇る
①海岸の洞窟などに葬られて、そこから舟に乗って海の向こうの補陀落へ行く
②熊野にはこのふたつが並存
③隠国型景観=谷の景観:宗教的空間の性格が強い。
集落の周辺の奥まったところが死者を葬るところにふさわしい。其の場所の上方に秀麗な山が存在するなら、死者はそこから他界に昇ってゆく。あるいは、そこから祖霊として村人たちを見守るというイメージ。安息に満ちた生と死のイメージの基礎となり日本人の心に安らぎをあたえ続けてきた。
この本を読んだときには、こんなところで・こんなかたちで役に立つとは想像もしなかった。海、谷、滝、山のトータルコーディネーションによる那智=観音浄土のイメージ戦略、大いに納得。

水曜日, 11月 23, 2005

熊野散歩 Ⅰ;熊野へ

会社の仲間に言われた。「熊野へ行きませんか」。とりたてて熊野に行きたいわけではないけれど、例によって「ええよ」、と言ってしまった。で秋の連休の中日に1日休暇をとり3泊4日の予定で熊野路に。結論から言えば、散歩はそれほどできなかった。コーディネーター女史が、悪路・険路は見事に避け、時間の割に距離を稼ぐという見事な采配。で、今回は散歩の記録というよりも、いきあたりばったりで出会った事象から好奇心のなすがまま、あれこれ調べ、自我流で強引なる結論づけを行いメモをまとめる、神坂次郎さん流に言うならば、『時空浴』と洒落てみたいと思う。が、相手は何せ世界遺産の熊野さま。どこまで時間・空間を越えた熊野シャワーを浴びることができるだろうか。(水曜日, 11月 23, 2005のブログを修正)

ともあれ、1日目;品川から新幹線、名古屋で紀勢本線・ワイドビュー南紀に乗り換え紀伊勝浦駅下車。結構遠い。朝8時頃東京を出て、午後2時前にやっと着いた。
1日目の予定;大門坂>熊野那智大社>青岸渡寺>那智の滝>紀伊勝浦駅>TAXI>国民年金健康保険センターくまのじ。

大門坂

駅前からバスに乗り、大門坂バス停で下車。熊野古道の案内。数軒の民家。少し進むと「振ヶ瀬橋」。この橋を渡ると大門坂が始まる。道の端に文化庁と那智熊野大社がつくった大門坂の案内。文化庁の案内板;「大門坂=平安時代(907年)宇多上皇の熊野御幸が「蟻の熊野詣」のはじまりであった。熊野御幸とは上皇の熊野詣のことで弘安4年(1281年)の亀山上皇まで374年にわたっておこなわれたという。難渋苦行のすえ、熊野九十九王子の最終地であるこの大門坂で名瀑・那智の滝を眺めて心のやすらぎを覚えた。古人のロマンがしのばれるところである」と。
那智熊野大社の案内板;熊野古道大門坂・那智山旧参堂の杉並木=那智山は都より山川80里・往復1ヶ月の日数をかけ踏み分けた参詣道が「熊野道」である。熊野九十九王子としても知られた往古の歴史を偲ぶ苔むした道でもあり、那智山の麓から熊野那智大社への旧参堂です。この石畳敷の石段は267段・その距離約600m余、両側の杉並木は、132本で他に老樹 が並び、入口の老杉は「夫婦杉」と呼び、幹周り8.5m余、樹高55m、樹齢約800年ほどとされている。途中には熊野九十九王子最終の多富気王子跡がある。この所に大門があったので「大門坂」とも呼ばれます、と。

この案内を読んでふたつチェックしたいことがあった。その一;蟻の熊野詣。そのニ;九十九王子。
その一;蟻の熊野詣
蟻の熊野詣って、文字からすると、蟻のように陸続と続く人の群れって印象だ。が、一体どの程度の人が歩いたのだろう。調べてみた:多くの民衆が熊野詣でに出かけるのは江戸時代中期以降。紀伊田辺の宿帳には6日間で4,776名の宿泊客があったという記録が残っている。この記録から熊野詣の参詣者数を推測し、1日約800名、年間で約24万人とする人もいる。
この数が多いのか少ないのか、よくわからない。幕末のお伊勢さんへのおかげ参りなどその数500万人とも言うし、誰がが、何処かでこう書いている;多くの庶民が熊野参りするのを「蟻の熊野詣」と言っているのではなく、平安から鎌倉時代に上皇達数百人が列を作って熊野詣するさまを「蟻の熊野詣」と表現したように思えてならない、と。私もどちらかといえばこちらに納得感がある。
何故に熊野詣でが盛んになったのか
で、何故に熊野詣でが盛んになったのか、気になった。あれこれ本を読み考えてみた;
1.熊野は奈良時代から山林修行の地として知られる。役の行者(えんのぎょうじゃ)を始まりとする修験者が修行の地としてこの地に入っていた。この傾向は平安時代になっても続く。

2.しかし、修験者だけの修行の地であれば、それだけのこと。世間に広まるきっかけ、それは法皇というか上皇がこの地に訪れる(=御幸)ようになってから。

3.何故上皇がこの地に御幸するようになったのか。信仰上の理由もあるだろう。が、政治的・経済的理由がなければものごとは動かないし、続くわけがない、と思う。
①信仰上の理由はあまり興味が湧かない。当たり前といえば当たり前だし、それより何より、「狸」、いや「鵺」の上皇がそれほどナイーブとも思えない。
②政治的理由;藤原一門(摂関家)への対抗策だろう。天皇を取り込み、天皇をも陵駕する藤原一門>天皇=伊勢の神・アマテラス>アンチ藤原一門としては熊野の選択が良策か。なにせ、熊野の神さまって、イザナギ・イザナミ、と言う人もいる。これってアマテラスの両親。伊勢の神を親として「包む」立場の熊野の神へのつながり強化。天皇+上皇=大朝廷>熊野へのシフト。このスキームなら藤原一門も文句は言えまい。
③経済的理由;荘園を認めるのは天皇・朝廷=藤原一門の特権。この特権を取り戻す手段としては、「荘園の本所(荘園領主)になる」と上皇(大朝廷)が宣言すること。天皇・藤原氏の名義の荘園を上皇に変更する>熊野の神も上皇の保護のもと荘園所有者となる>熊野は全国に100箇所以上の荘園をもつ>熊野別当・熊野三山検校=上皇の支配下>熊野の荘園が増えることは、結果的・間接的に大朝廷(天皇・上皇)の経済基盤を強化することに。

4.上皇にこの政治的・経済的スキームを提案したのは一体誰だ?;それは天台宗・寺門派の園城寺(三井寺)の僧。奈良時代、特に後期以降に世俗的な寺から離れ、熊野・大峰の山中で修行・修験道に励んでいた園城寺の修験僧が上皇に「熊野参詣」スキームを提案。熊野の神を名目に政治・経済的リターンを取る。上皇はハッピー。園城寺も熊野を統括する三山検校となりこれもハッピー。

5.このスキーム実現の結果、それまで独自に発達していた熊野の修験道が中央の寺社勢力に組み込まれた。当然、熊野信仰に仏教の色彩・影響が色濃くでることになる。神社には教義はないわけだから、熊野が寺社勢力に組み込まれることにより、宗教的「深み」ができる。本地垂迹説=神は仏が仮の姿であらわれたもの>熊野が阿弥陀の浄土に>で、浄土信仰が生まれる。

6.上皇の御幸>浄土信仰>貴族の熊野詣で>鎌倉武士の熊野詣>熊野神社の全国普及>一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛>熊野比丘尼の全国展開>15世紀末に民衆の熊野詣ピーク=蟻の熊野詣、を迎えることになる。院政期から中世には、熊野御師・先達制度の発達、熊野修験・熊野比丘尼などの活動によって、熊野三山信仰が諸国に流布し、幅広い人々の熊野詣が行われるようになった。また、遠隔地の山々や島、村落では、熊野三山を勧請し、そこで熊野信仰が行われることになる。ちなみに、全国に熊野神社は3800ほどあるという。熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである。

最後に、「蟻の熊野詣」って表現はいつから使われ始めたのか;
『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、1439年、「雁の長空を飛ぶ、蟻の熊野詣りの如し」といった表現が。また、1603年イエズス会によって刊行された「日葡辞書(日本語・ポルトガル辞書)」に;Arino cumano mairi food tcuzzuitayo(蟻の熊野参りほと続いたよ)などと。少なくとも15世紀の中ごろまでには、蟻の熊野詣というフレーズが市民権を得ていた、ということ。
「蟻の熊野」はこの程度にして、第二の疑問のメモを。
九十九王子とは;
いろいろ本を読んだが上に挙げた『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』の説明が自分的には納得感高い。まとめると、
1.王子とは休憩するところ、とか熊野三山を遥拝するところ、と言う人もいる。が、そんな事実はない。
2.王子で行われる儀式としては幣を奉ること(奉幣)と般若心経を読む経供養。経供養をしたあとに里神楽、乱舞。和歌の会も王子社に奉納する法楽のひとつ。王子社での儀式は神仏混合の結構にぎやかなもの。
3.五体王子と言う王子がある;五体王子とは若宮・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮>熊野の主神の御子神ないしは眷属神として三山に祀られている>ということは、熊野三山から勧請されたもの。
4.王子が熊野権現の分身として霊験あらたかに出現すると認識される=熊野権現の御子神である。
つまりは、王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神である。参拝者を保護する熊野権現の御子神である。
5.王子は神仏の宿るところにはどこでも出現した。中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」の存在がその起源というか、出現のヒント:奇岩・奇窟・巨木・山頂・滝などが「宿」となっていた。つまりは、王子の発想は、大峰修験道の「宿」をヒントとし、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって参詣道にもちこまれた。
6.紀伊路・中辺路に集中し、しかも大量に王子がつくられた理由もこれにある。伊勢=天皇・藤原一門>伊勢路を避ける>紀伊路にシフト。12世紀の院政時代の最盛期の80にのぼる王子の大半は、上皇・女御の参詣の活発化にともなって園城寺・聖護院系山伏によって組織化。地元も王子設置を歓迎し数が増えたことは言うまでもない。

九十九は実数を表すものではない。多い、ということを示すもの。三十三間堂とか西国三十三箇所とか、観音信仰には「三十三」がありがたい数字のよう。また、「三」もありがたい数字か。熊野三山とか出羽三山とか、そもそも山伏の「山」って「三つ」の縦軸を横軸で結んで「一つ」にするにしている。三身即一、三部一体、三締一念といった意味付けも。ありがたい数字の掛け算、33 X 3=九十九、って結論は強引か?

紀伊路・中辺路とは、についてまとめておく;

「熊野へまいるには 紀路と 伊勢路と どれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば 紀路も 伊勢路も 遠からず(『梁塵秘抄』)」

熊野詣での道は伊勢路と紀路がある。伊勢路は言わずもがな。紀路は都を立ち、紀州田辺から道を東にとり、山中を熊野本宮にいたる道筋を中辺路。海岸沿いに紀伊半島を廻る道筋を大辺路。小辺路は高野山から熊野本宮を南北に結ぶ道筋。あとひとつ大峯道。吉野から熊野本宮に至る、山越えの険しい峠道。現在も、「大峯奥駈け修行」が行なわれている修験道の道。

いやはや、蟻と王子のメモだけで結構大変なことになった。大門坂散歩のメモは次回にしょう。

参考にした本;『熊野中辺路 古道と王子社(熊野中辺路刊行会;くまの文庫)』、『熊野詣(五来重;講談社学術文庫)』『熊野三山・七つの謎(高野澄:詳祥伝社ノン・ポシェット)』、『時空浴(神坂次郎NHK出版)』、『熊野まんだら街道(神坂次郎;新潮文庫)』、『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』、『日本の景観(樋口忠彦:ちくま学術文庫)』、『幻の江戸百年(鈴木理生;筑摩書房)』

火曜日, 11月 01, 2005

世田谷区散歩 Ⅰ:烏山川緑道・北沢川緑道を歩く

とある秋の日、前々から気になっていたこのふたつの川を源流から歩くことにした。烏山川跡と北沢川跡。ふたつの流れは国道246の近く、池尻で合流し目黒川となって南にくだる。 大雑把なルートとしては、久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川、といったところ。(火曜日, 11月 01, 2005のブログを修正)



本日のルート;久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川>北沢川緑道との合流点から淡島通り>代沢>代田>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>赤堤>京王下高井戸駅

井の頭線久我山

井の頭線久我山下車。駅の近く、神田川上水が東西に流れる。商店街を南に少し歩くと玉川上水・遊歩道と交差。このあたりが神田川・井の頭上水と玉川上水が最も接近しているあたりだろうか。「くが」とは「陸(くが=りく)」のこと。「くぼ(窪)」とは逆の意味。川などの近くで小高い地形のうねりを意味する、との説がある。久我山の起伏がふたつの上水路の分水嶺となっているのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


玉川上水・岩崎橋

岩崎橋を渡る。左・岩通ガーデン、右・岩崎通信機。岩崎橋は岩崎通信機から来た名前だろう。少なくとも、橋が先にあったわけではない。なにせ、岩崎通信機は渋谷・代々木上原がスタートの地と聞いている。ともあれ、更に南に。久我山病院の手前、久我山1丁目を右折。久我山盲学校を越え、國學院大學付属幼稚園のあたり、歩道のない道路道を少々怖い思いしながら歩く。大きく曲がるカーブが終わるあたりで住宅街へと左折。烏山寺町通りへと。

烏山寺町
烏山寺町。1キロ程度の区間に26のお寺が集まる。関東大震災の後の区画整理により、下町にあったお寺さんがこの地に移ってきた。小京都、という人もいる。が、それは言い過ぎか。とはいいながら閑静な町並み。ここに移り住んだ住職各位が環境保全に努めたとか。

烏山川の源流のひとつである高源院の池
寺 町通りの北端に高源院。烏山寺町に来た理由は、高源院内にある池をチェックすること。烏山川の水源のひとつと言われている。もっとも、お寺が浅草から移ってくるまでは田畑の中の湧水池であったことは言うまでもない。シベリアから渡ってくる鴨がここで骨休み。ために鴨池とも。
烏山川水系にはこの湧水を水源とする流れ以外に、玉川上水からの分水(烏山用水)もあった、とか。ために湧水池からの川筋を古烏山川とも呼ばれていた。

寺町を巡る

次の目的は古烏山川筋のチェックと玉川上水からの分水口および烏山川用水の水路の確認。とはいうものの、ついでのことなので、寺町通りの左右に並ぶお寺を眺めながら進む。道左手に専光寺。喜多川歌麿の墓があった。妙寿寺は結構大きい。辛龍寺は江戸名所図会の挿絵画家・長谷川雪旦・その子雪堤の墓。称住院には俳人・宝井其角の墓。忠臣蔵で有名。

古烏山川筋をチェック
お寺巡りを終え、古烏山川筋のチェックに戻る。道端にある地図をみると、高源院の裏手あたりに、いかにも水路跡といった趣の道筋。寺町通りのひとつ東を通る松葉通りを少し北に戻る。
玄照寺の北にそれらしき細路。道は高源院裏手まで続いていた。民家の間を続く細路であり、お寺の塀で行き止まりになるあたりでは、道端で遊ぶ子どもたちに少々怪訝なん顔をされてしまった。
松葉通りまで戻る。水路は松葉通りを越え団地内に続き、団地中央あたりで南に折れ、中央道烏山トンネルの西端辺りに向かって下る。道筋は如何にも水路跡といった雰囲気が残っていた。

玉川上水からの分水口

古烏山川筋から離れ、次は、玉川上水からの分水口および烏山用水の水路チェックに向かう。玉川上水の分水口は岩崎橋の少し下流にある、と。玉川上水まで戻り、橋のあたりであれこれ分水口を探すが確認できず。分水口からの流れは岩通ガーデン内を南下し久我山病院あたりに出る。そこから、久我山病院前を走る下本宿通りを東に折れ、団地東端に沿って南下する。古烏山川と平行して団地内を下っている。

団地内に水路の痕跡
水路跡を求めて団地に戻る。あちこち歩く。一瞬、川筋が数m現れる。すぐ隠れる。どこへ?結局、川筋はこの数m以外見つけられなかった。すべて埋められているようだ。で、いかにも川筋を埋めたと思える道筋を下る。多分これが烏山川の道筋だろう、。金網で川筋跡を確保しているところもあれば、民家の軒先を走るところもある。川筋というか、道筋に沿って、甲州街道まで下る。

芦花公園駅

芦花公園の近くで甲州街道と交差。さらに進み、芦花公園駅の西端のあたりに如何にも水路跡といった痕跡。線路を迂回し水路の痕跡を探す。ちょっとした木立の中に痕跡発見。南方向から東に向って大きく曲がり世田谷文学館方面へと続いている。ここからはちょっぴり遊歩道といった雰囲気の道になる。(これは2005年のメモ。最近この辺りを歩いたときは、駅前が再開発され見違えるようなモダンな街並に変わってしまっていた)

世田谷文学館

世田谷文学館で休憩。いろんな発見もあった。が、もっとも印象的だったのは、世田谷の往時の写真。といっても昭和30年頃なのだが、世田谷の各地、ほんとうに武蔵「野」。世田谷の地に幾多の文人が武蔵野の自然を求めて移り住んだ、というフレーズも写真をみて納得。それにしても、この数十年の日本の変化って、結構すごかったわけだ。これも実感・納得。世田谷文学館のメモは別の機会にするとして、先を急ぐ。

環八
世田谷文学館前の遊歩道を東に。芦花中、芦花小、都営八幡山アパートを越え、環八に。陸橋を渡り川筋・道筋を探す。環八に沿って川筋が。暗渠でもなく、土で覆っているだけ。環八に沿って南に下り、芦花公園の交差点に。

芦花公園

前から気になっていた芦花公園にちょっと寄り道。芦花公園・芦花恒春園。徳富蘆花が愛子夫人と晩年を過ごした地。文豪トルストイに憧れ、ロシアの大地・自然につつまれた生活を送った徳富蘆花がロシアから帰国後すぐ、この地に住む。当時はこのあたり、雑木林と畑が一面に広がる地。芦花の『自然と人生』から:「余は斯(こ)の雑木林を愛す。木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗(きれい)に払ひあり。稀に赤松黒松の挺然林(ていぜんりん)より秀でて翆蓋(すいがい)を碧空に翳(かざ)すあり。霜落ちて、大根ひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林(ふうりん)を羨まず。
 ・・・
春来たりて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄(どんこう)など和(やわら)かなる色の限りを尽くせる新芽をつくる時は、何ぞ独り桜花に狂せむや。
青葉の頃其林中に入りて見よ。葉々日を帯びて、緑玉、碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面も青く、もし仮睡(うたたね)せば夢又緑ならむ。・・・ 。」
武蔵野の豊かな自然が彷彿とする。昔は一体どういった詩趣をもつ地だったのだろう。とはいいながら、国木田独歩の『武蔵野』の冒頭;「武蔵野の俤(おもかげ)は今僅かに入間郡(こおり)に残れり」と。これって明治37年頃の文章。今は今で、昔は昔で、そのまた「昔」の風情を懐かしむってわけ。これ世の習い。

蘆花記念館

夫妻の住居跡から蘆花記念館を廻る。記念館に行くまでは、芦花って『不如帰』のイメージが強く、『思出の記』『自然と人生』は文学史の試験対策で覚えたくらい。が、清冽なる人物であった。大逆事件で死刑判決の出た、幸徳秋水の助命嘆願書を天皇宛に出し、一高生に向っての大演説。素敵な人物である。奥さんの家系には幕末の思想家・経世家の横井小楠も。勝海舟が西郷以外に「怖い人物」と称した人物。人物をもう少し知りたい、小説を読んでみたい、と思った。ちなみに『思出の記』の舞台は愛媛の今治だとか。身近に感じる。

船橋
芦花公園を離れ、烏山川緑道に戻る。明治大学八幡山グランドに沿って南東に。船橋7丁目、希望が丘公園前に。船橋の地名、往時このあたり湿地帯であり、船で橋を渡したとか、船橋さんが住んでいたとか、例によっていろいろ。古文書にこのあたり「船橋谷」と書かれている、とも。このあたり、ちょっとした「谷地」だったのではなかろうか。そういえば芦花公園の南端を粕谷から流れてくる川筋、烏山川の支流だろうが、この地で合流している。湿地帯であった、というのが船橋の地名の由来であろう、と自分ひとり納得。

烏山川緑道

希望が丘公園の東隣・希望が丘団地あたりから烏山川緑道は始まる。が、案内はない。ここから小田急線・経堂駅の手前で小田急線を越えるあたりまでは南東にほぼ一直線で下る

。団地内を横切り、希望が丘小学校の東、船橋交番前交差点の南を通り、荒川水道と交差。

経堂3丁目で小田急線と交差
船橋3丁目と5丁目の境を下り、経堂3丁目で小田急線と交差。経堂中村橋あたりで東に向きを変え、車道に沿って続く。

世田谷線・宮の坂駅

経堂大橋・農大通りを越え、宮坂1丁目、鴎友学園前。「万葉の小径」の表示。植物に万葉時代の名前とともに、万葉集の歌。が、すぐ終わる。歩いていると突然行き止まり。はてさて、と思ったら、世田谷線との交差。宮の坂駅。

環七と交差

迂回し、再び緑道に。豪徳寺の南、世田谷城址公園の南を通り、おおきく北にカーブ。先日歩いた国士舘大学・若林公園・松蔭神社裏を越え、環七若林踏み切りに。環七と交差した世田谷線とほぼ平行に太子堂から三軒茶屋方面に。
世田谷城跡は足利一門でもある吉良氏の築城と言われる。鎌倉公方の足利基氏によりこの地を拝領し居城とした。長尾景春の乱に際しては、太田道灌方に与し豊島氏と戦い、道灌の居城でもある江戸城を守った。後に北条氏の傘下となり、吉良氏の蒔田城(横浜市南区の東洋英和女学院の敷地となっている)への移動とともに、北条直轄の城となる。
松蔭神社は吉田松蔭を祀る。安政の大獄で刑死し小塚原の回向院に眠る松蔭を、高杉晋作などの門下生がこの地に移した。

目青不動

三軒茶屋の北・太子堂4丁目と5丁目の境を通り、茶沢通りを交差。茶沢通りの西では八幡神社、目青不動、東では太子堂のある円泉寺などにちょっと立ち寄り。ちなみに、茶沢=三軒「茶」屋+下北「沢」。
目青不動は江戸五色不動のひとつ。目黒不動は目黒区下目黒の瀧泉寺。目白不動は豊島区高田の金乗院(明治期は小石川の新長谷寺。第二次世界大戦で焼失し金乗院に移る)。目赤不動は文京区本駒込の南谷寺。目黄不動はいくつかある。江戸川区平井の最勝寺や台東区三ノ輪の永久寺など。五色不動の由来は定説なし、と。もともとは目黒・目白・目赤の3不動との説も。目黄不動がいくつかあるのも、後発組ゆえのあれこれ、か。

山川緑道と北沢川緑道の合流点

三宿1丁目と2丁目の境を進む。三宿池尻の交差点の北あたり、池尻3丁目・4丁目と三宿1丁目・2丁目のクロスポイントに烏山川緑道と北沢川緑道の合流点が。仲東合流点。
三宿は水の宿=水宿=みしゅく、水が集まったところ、というのが地名の由来とか。隣の池尻は池の水の落ち口というし、井の頭線には池の上という駅も。このあたりはふたつの川が合流し、大きな池というか湿地帯になっていたのだろうか。

246号線の南から目黒川が流れる


で、烏山川と北沢川が合わさった川筋は、ここからは目黒川となる。左手は小高い丘。見晴らし公園とあった。駒場東邦学園も丘の上。合流点からしばらくは親水公園、というか水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が引き込まれている。目黒川清流復活事業の一環。先日歩いた呑川と同じ。
崖に沿って246号線まで下り、横断歩道を南に渡り目黒川が開渠となる地点を確認。それにしても結構な水量。源流点からまったくの暗渠。姿を見せたらこの水量。すぐ近くで「補給」された落合処理場からの高度処理水なのだろうが、少々複雑な気持ち。そもそも「川」とはなどと一瞬頭を過ぎる。が、それまで。本日のメーンエベントは完了。

当初の予定ではここで終了の予定だった。が、先ほどの北沢川合流点、その先が気になった。水源は京王線・上北沢の近く。どちらかといえば家路への方角。どうせのことならと、北沢川緑道を水源に向かって歩くことにした。


合流点から北沢川緑道を遡る合流点に戻る。合流点から北沢川の源流点に向って歩きはじめる。遊歩道は中央に水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が代沢4丁目のせせらぎ公園経由でひかれているとのこと。

淡島通りと交差
池尻2丁目と4丁目の境を北西に上り、淡島通りと交差。淡島通りは 代沢3丁目にある淡島神社 (森巌寺)に由来。

環七交差

淡島交差点で淡島通りを渡る。前にせせらぎ公園。代沢3丁目と4丁目の境を進み、茶沢通りを越え、代田1丁目と2丁目の境を通り、小田急・世田谷代田の南、宮前橋交差点のすぐ北で環七と交差。ここまでは、一部工事中の箇所を除き、水の流れる気持ちのいい遊歩道。が、環七を越えると事情が一変。水なき普通の遊歩道となる。代沢=代「田」+下北「沢」。代田は以前にもメモしたが、伝説の巨人「ダイダラボッチ」の足跡から。これが詰まって「ダイダ」となった、と。

梅が丘駅の東で小田急と交差

環七を渡る。遊歩道の入口は通行止め。横の駐車場から入る。北西に一直線、梅が丘駅の東を小田急と交差。

世田谷線・山下駅

羽根木公園手前で西に振れ、小田急に沿って豪徳寺駅の北へ。突然道が切れる。無理して進むと民家に入ってしまった。こんなに早く緑道が終わるはずはないのだが、日も暮れ地図も見えない。仕方なく豪徳寺駅に行き地図を見る。世田谷線・山下駅で遮断されただけ。世田谷線の西から緑道は続いていることを確認し、出発。

赤堤1丁目からユリの木緑道

経堂駅あたりまでは小田急線に沿って続く。赤堤1丁目のユリの木公園を越えたあたりから、ユリの木緑道となる。宮坂3丁目のあたりからは北に振れる。

緑道の終点に佐内弁財天
赤堤小学校の裏手を北西に登る。赤堤3丁目の交差点あたりで赤堤通りと交差。東経堂団地前の交差点の北を進み、団地内の道を進み、団地の端で緑道が終わる。道端につつましい弁天の祠。このあたりの名主・鈴木佐内の屋敷内にあったもの。ために佐内弁財天、と。

この先一時緑道は切れ、再び日大桜ヶ丘高校と緑丘中学の間、勝利八幡神社と競技場の間、都営上北沢アパートから都営第二上北沢アパートのほうに川筋っぽい道が続く。その先は都立松沢病院。構内には入れないが池もある。そのあたりが北沢川の水源なんだろうと、辺りを歩き、最寄の京王線の駅、下高井戸に戻り、本日の予定を終える。


メモに際し北沢川のあれこれをチェック。この川、水量がそれほど多いわけでなく、玉川上水から養水をおこない、この地域一帯の生活・灌 漑用水として使われる。ために、北沢用水(上北沢用水)とも呼ばれる。京王線の桜上水あたりにも分水口があったよう。地図をチェックすると桜上水駅あたりから、松沢中、松沢高、日大文理学部に向かって南東にすすむ、いかにも水路跡といった道がある。桜上水支流なのだろう。尾根道を進んできた玉川上水が、尾根を下り烏山川であれ北沢川であれ、水量の少ない自然の川を養水し地域に水を供給してきたことを実感した。