日曜日, 9月 16, 2007

秩父 秩父往還を辿る ; 釜伏峠越え

寄居から釜伏峠を越え、日本水源流点に
釜伏峠を越えた。過日、秩父往還を実感しようと川越道・粥新田峠を歩いたのだが、釜伏峠も秩父往還・熊谷道。そのうち歩いてみようと思っていた。

で、先日、寄居散歩のとき、県道294号線脇に「釜伏峠」そして「名水日本水源流点」の案内を見つけた。秩父往還への強き思いもさることながら、川とか源流点とか清水、というだけで嬉しくなる我が身としては、はやる気持ちを抑えがたし、といった按配であった。



本日のルート;東武東上線・寄居駅>関所跡>釜山神社>奥の院から日本水源流地点>日本水源流点>日本(やまと)の里>秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅>少林寺

東武東上線・寄居駅

土曜日。9時起床。ちょっと遅いかとも思いながら釜伏峠行きを決める。池袋より東部東上線小川町行き急行に乗る。急行とはいいながら、川越から各駅停車。小川町で寄居行きに乗り換え。到着したのがお昼過ぎ、であった。 秋山・釜伏峠への分岐点 駅前の観光案内所でパンフレットを手に入れる。が、釜伏峠方面の地図はしっかりしたものがない。仕方なし。駅前から県道294号線・登山口への分岐までタクシーを利用。3キロ以上もあるし、先回歩いた道筋でもあるので、カットしようと思った次第。タクシーで鉢形城公園脇を走り、秋山の釜伏峠への分岐点に。ここから峠に向かって上ることになる。登山道、とはいいながら、この道は車道。峠に上る車も結構走っている。
中間平
曲がりくねった道を上っていく。およそ2.5キロ程度進むと「中間平」。別方向から中間平に登ってくる道がある。これって、本来の熊谷道かもしれない。あれこれ調べてみると、熊谷道って、現在の八高線が荒川を渡るあたりに「渡し」があり、そのあたりからこの中間平に向かっていたようだ。
中間平には緑地公園もある。公園には行かず、展望台で小休止。車やバイクで登ってきた人達も幾人かいた。寄居の町が眼下に。車山、荒川にかかる正喜橋などが見える。素晴らしい展望である。 少し休み、釜伏峠へと進む。およそ2.7キロ、と。「中間平」とはよく言ったものである。勾配も心持ちきつくなった、よう。峠から降りてくる車も結構多い。途中、「ポピーの花、咲いてました?」などとドライバーに聞かれたりする。まったくもって、花を愛でる情感が少々乏しい我が身には、何のことやらさっぱりわからず。

関所跡
少々汗をかきかき峠へと進む。途中「関所跡」。説明によれば、この関所は他の関所とは役割が違ったようだ。通常関所って、「入り鉄砲 出女」の監視といったものである。が、ここは険路であるこの釜伏峠を上る旅人・巡礼者を助けるためのものであった、よう。関所を越えてしばらく進むと釜伏峠に。
釜伏峠
峠道には車が多い。粥新田峠近くから、「ふれあい牧場・秩父高原牧場」、二本木峠を経て尾根道を進む県道361号線が釜伏峠に続いている。また、国道140号線のバイバス・皆野長瀞ICあたりから三沢川を上り、芳ノ入からこの峠に登る車道、それと、秩父鉄道・波久礼方面から風布地区を通りこの峠に上る道、この三つの車道がこの釜伏峠で合流している。
道路が交差するところにある道案内をチェック。大雑把な道案内であり、はてさて、日本水(やまとみず)へのルートがよくわからない。釜山神社が近くにあるようで、その近くに日本水源流点があるようで、といった、心もとない案内図。EZナビで「日本水 寄居」で検索。ヒット。ナビをたよりに歩を進める。

釜山神社
歩き始めると、すぐそばにいかにも神社らしき雰囲気の空間。釜山神社って、もっと道からはなれた山に入らなければ、と思っていたので、予想外の展開。ナビを切り、神社参道に。
釜山神社の起こりは不明。伝説によると、紀元504年、第九代開花天皇の皇子が武蔵を巡幸したとき、この地で国家安康を祈った、とか、紀元770年頃、日本武尊がこの地に立ち寄り、神に供する粥を釜でたき、その釜を伏せて祈った。ために、釜伏山であり、釜山神社である、と。別の説もある。この山の形が釜を伏せたように見えるから、とも。
神社の狛犬はここでは山犬というか狼。これって、秩父の三峰神社の流れ、か。火災除け・盗難除けに効能あり、とするのも三峰神社に同じ。
それにしても秩父には日本武尊の話が多い。先般の粥新田もしかり。また粥新田峠からこの釜伏峠の途中にある二本木峠は、日本武尊が地面に突き刺した箸が木になったから、と。秩父と日本武尊の関係をそのうちに調べてみよう、と思う。

奥の院から日本水源流地点
お参りを済ませ本殿脇を見ると「奥の院から日本水源流地点」への案内図。車道を通る道ではなく、山道コースのよう。本殿のペンキ塗りをしていた地元の方に道を尋ねる。「先に進みT字路を右に行けばいい」、と。途中に、「ハイキングスタイル必須」といった案内。軽く考えたのが大間違い。
山頂に向かってどんどん登る。結構な岩場。予想外の展開。グングン、上に上にと引っ張られる。痛めた膝にこれでもか、といった負荷がかかる。結局奥の院って、山頂に鎮座していた。石の祠、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

急峻な下り道

奥の院・山頂から先はまさしく急降下、といった急峻な下り道。岩場に鎖やロープがある。とんでもないところに来たものだ、と少々弱気に。釜山神社に寄り道せず、車道を下っておれば、などと考えながら、とりあえず直滑降で下る。しばらく悪戦苦闘の後、「日本水源流点へ40m」の案内。ほっと一安心。

日本水源流点へ40m
案内板をチェック。岩盤崩落の危険あり、と、立ち入り禁止のお知らせ。釜山神社の日本水への案内板に、それらしきことが書いてあった。が、それは、日本水へ向かうルートに通行禁止のところがある、といった程度にしか読めなかった。ここに来て「不可」とは殺生。それも40m先に目的地がある、という。

日本水源流点
少し悩んだ。が、結局どういう状態かちょっと入ってみよう、ということにした。危険であれば即引き返す、といことで進む。日本水の源流点はすぐ着いた。百畳敷岩とよばれる垂直に切り立った巨大な岸壁。その間から流れ出している水をペットボトルに入れ、即撤収。

尾根道ルートを下ることに
元に戻る。案内板をチェック。道は2ルート。日本水源流点を経て下に下る。これが、逆に言えば車道から入ってくるルートなのだろう。それと、尾根道を下るルート。どちらにしようか、と少々悩む。結局尾根道ルートにしたわけだが、これがなんともはや、といったルートであった。

道に迷う
尾根道ルートには途中、風布だったか、どこだったか、ともあれ里まで750mといった案内があった。それを目安に道を下る。次第に道がわかりにくくなる。が、なんとか先に道は続く。しばらく進むと道筋が全くわからなくなった。ここで引き返すか、もっとよく道筋を調べればよかったのだが、なんとかなるだろう、と力まかせで下に進む。
杉の木立に赤いリボンが結ばれている。どう見ても、道などないのだが、リボンを目安に下ればなんとかなるかと思い、とりあえず進む。次第に状況は悪くなる。リボンも見当たらなくなった。勾配もきつくなる。斜度45度以上と思えるほどの急峻な山肌をころびつつ、まろびつつ「落ちる」。少々パニック。
状況はますます悪くなる。先に進もうにも木立、ブッシュが前を遮る。木立を折り、ブッシュを掻き分け進む。どうなることやら。気持ちは焦る。ひょっとしたら、にっちもさっちも、いかなくなる、との怖れ。が、先に進むしか術はなし。 直滑降で真下に進む。先は谷地。行き止まり。谷があれば川があろうと、谷筋に沿って川下に向かう。木立を掻き分け、ブッシュをなぎ倒し、とりあえず先に進む。気持ちが焦る。何度転んだかわからない。秩父で遭難って洒落にならん、と思えども、携帯も繋がらないし、こんなところで人が迷っているなど、誰も思わないだろうし、家族にはどこに行くとも言っていないし、どうしたもんだ、と、頭の中はパニック状態。
里が見えた
と、下のほう、木立の間に、すこし屋根のようなものが見えた。実際は屋根でもなんでもなかったのだが、力任せにそこに向かう。突然、里が見えた。木立を折り、なんとか里に出る。汗びっしょり。言葉が出ないほど消耗。畑のむこうに車道が見える。あとからわかったのだが、国道140号線バイパス寄居・風布IC入口付近。寄居で一度トンネルに入ったバイパスは、この地で一度開け、再びトンネルに入る。バイパスのトンネルの上で悪戦苦闘をしていたのであろう、か。


里に下りる
それにしても、ほんとうにこの尾根道って、登山ルートであったのだろう、か。案内にはそのように書いてはあったと思うのだが、この道は絶対道に迷う。実際、HPなどでルートをチェックしてみると、「地図をもっていなければ迷う」といったコメントもあった。そんなところを案内するのは如何なものであろうか。ともあれ、自然に手を合わせる。神仏にマジ感謝。
ほとんど呆けた状態でフラフラ歩く。しばらく歩くと少し大きな車道。この道は、釜伏峠から下る道。本来であればこの道を下ってきたのだろう。釜山神社に寄り道しなければ、この道を楽しく下ってきた、はず。が、今となってはあとの祭り。

日本(やまと)の里

このあたりは「日本(やまと)の里」、と。日本武尊との由来があるのだろう。が、当面、何を見る気力もなし。しばらく進むと休憩所。食事ができる。実も世もないといった状態でお店に。うどんを注文。人心地ついた。うどんがおいしかった。腰がある。秩父うどん、って、あなどれない。
また、ここに田舎饅頭があった。ゆっくり、じっくり休み、気持ちを鎮め、お土産に饅頭を買い求め店を出る。お店で茶飲み話をしていた地元のおばあさんに、遭難するところでしたよ、などと笑いながらも少々の同感を求め訴えるも、一笑に付される、のみ。なにが嬉しくて、また、なにが悲しくて、薮の中を歩き廻るのか、私達にはわからない、といった顔つきでありました。

釜伏川を下り、秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅
休憩を終え、川に沿って下る。風布川かと思っていたのだが、釜伏川であった、よう。2キロ弱歩き荒川にかかる寄居橋に。川の流れはない。玉淀ダムの貯水池となっている。秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅は近い。よっぽどこのまま電車に飛び乗り家に帰ろうか、とも思ったのだが、最後の締めは、五百羅漢の少林寺としようと、もうひと頑張り。橋の袂から2キロ弱、といったところ。








少林寺
国道140号線を進む。車の通行量すこぶる多し。歩道がはっきり分かれているといったところが、あったり、なかったり。その都度、少々怖い思いをする。しばらく進むと、国道から離れる。一安心。末野地区を進む。

山間に進むと少林寺。本堂自体はそれほど大きくはない。このお寺に来たのは、五百羅漢さまに会いたいため。境内のどこに、と探す。本堂脇から裏手も山にのぼる道が。
山道を進むと道脇に石つくりの仏様。荒削りの小さな羅漢、道にそって絶えることなく続く。九十九折れの山道を羅漢様のお顔を見ながら進む。夕暮れとなり、日蔭の道は薄暗く、どうとも、思わず手を合わせてしまう。本日の遭難寸前といった状況に対し、思わず知らずご加護を感謝する、といった思い。それほど信心深いわけではないのだけれども、まかり間違えば、といった状況から運良く、ほんとうに運がよかったということであるのだが、その幸運に対して大いに感謝する。

五百羅漢さま

道端の羅漢像は山頂まで続く。円良田湖とか、鐘撞堂山へのルートもあるが、時間もないので本日はこのあたりで散歩を終える。それでも、先回の寄居散歩のとき少林寺の羅漢様を見ようと途中まで歩いたのだが、日没のため中止。少々心残りでもあったが、これで十分満足。本日の予定はこれで終了。
寄居の駅に向かって歩き、一路家路へと急ぐ。ともあれ、本日は結構危なかった。気をつけなければ、と。そして、せめては、どちら方面に行く、といったことは家族に伝えて出なければ、と反省しきり。





土曜日, 9月 15, 2007

秩父 秩父往還を辿る ; 粥新田峠を越え

秩父観音霊場34札所もすべて歩き終えた。最後の締め、というわけでもないのだが、秩父往還・川越道を歩き、一番札所に至る道筋を辿ろうと思った。江戸の人達が、どういう道筋、峠道を通り観音霊場を訪れるのか、実際に体験してみたい、と思ったわけだ。
 秩父往還には大きく分けて3つのルートがある。ひとつは吾野道。飯能から吾野、そして芦ヶ久保へと続く、現在の正丸峠を通る道。次いで、熊谷道。荒川が秩父盆地を離れ、武蔵の平野に入る辺りの寄居から、釜伏峠を経て秩父に入る道。
そして、今回歩いた川越道。小川町から山間の道を進み、粥新田峠を越えて秩父に入る。 川越道は江戸時代に最も多くの人が往還した道、と言う。また、この道がポピュラーになったため、川越道を下った栃谷の四萬部寺が一番札所となった、とか。それ以前は何番札所だったか忘れたが、江戸からはるばる歩いてきてくれたお客様に、どうせのことなら、一番札所から秩父観音霊場巡りを始めてもらおう、といった心配りであろう。江戸の人達と同じ風景を眺めながら、秩父観音霊場・一番札所へと歩を進めることにする。



本日のルート;東武東上線小川町>橋場バス停>粥新田峠>秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場>榛名神社>秩父往還・釜伏道に合流>曽根坂一里塚の阿弥陀塔>秩父観音霊場1番札所・四萬部寺


東武東上線小川町
東武東上線小川町に。駅前から白石車庫行・イーグルバスに乗る。川越に本社をもつこのバス会社は、もともとは企業や学校の送迎とか観光バスを中心に事業をおこなっていたが、路線バス事業に乗り出した、ということらしい。1時間に1本のサービス。電車が到着したのは、発車10分程度前。乗り遅れたら大変、ということで、街を見物することもなくバスに飛び乗る。 小川町をバスは進む。古い家並みがところどころに見え隠れする。県道11号線を進む。この県道は熊谷市から小川町をへて、定峰峠方面へと登る。峠からは栃谷の四萬部寺近くに下り秩父市に至る、およそ48キロの道。

橋場バス停
バスは進む。下古寺というか腰越地区のあたりで槻川が接近。この川は武蔵嵐山で嵐山渓谷に流れ込んでいた川筋である。山間の道を北西に進み、東秩父村役場を越え、落合橋で大内沢川を渡ると県道は南に下る。落合橋から1キロ弱進むと橋場バス停。峠道に最短のバス停はここであろう、と当たりをつけて下車。

峠道を進み栗和田集落に
バス停から西に上る車道がある。これが峠へと続く道であろう。峠道を進む。もっとも、峠道とはいっても完全舗装。車の往来も多い。走り屋には有難い道の、よう。しばらく進むと道脇にハイキング道の案内。これが旧道。車道を離れ森の中を進む。 杉林の山道を上る。林を抜け景色が開ける。大霧山であろうか、奥秩父というか外秩父というのか、ともあれ秩父の山並みが眼前に開ける。山並みを楽しみながらブッシュを進むと車道に出る。このあたりは栗和田集落。ハイキング道はおよそ500m程度であった。ワインディングロードを避けた直登ルートといったものであろう、か。

杉林の中を粥新田峠に
しばらく車道を進む。比較的農家が集まる栗和田地区のメーンストリートのあたり、左に入る道筋。「関東ふれあいの道」の案内。「粥新田峠」「皇鈴山CP」といった案内。CPって何だ?チェックポイントのことであった。 旧道を進む。農家が途切れるあたりから舗装もなくなる。杉林の中を進む。見晴らしはよろしくない。が、こういった道を昔の人々も歩いたのか、と思うだけで結構嬉しい。しばらく進むと舗装された林道に合流。粥新田峠に到着する。バス停からおよそ1時間で到着した。予想よりはやい展開であった。

粥新田峠
粥新田峠。「粥仁田峠」とも書かれる。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中、この地でお粥を食べたとか、日本武尊が粥を食べたとか、名前の由来はあれこれ。標高は540mほど。秩父困民党が東京の鎮台軍と戦い敗れたところでもある。 峠の「あずま屋」でちょっと休憩。あずま屋脇には、大霧山への登山道。標高767mの山頂まで1時間程度、とか。大霧山から定峰峠へと抜けるルートが定番のようだ。少々惹かれはするのだが、本日は巡礼道巡り。奥秩父の山登りは別の機会とすべしと、はやる心を静める。

尾根道散歩
休憩のあと、尾根道をちょっと歩こう、と思った。当初、粥新田峠からは秩父、また小川方面・外秩父の眺望が楽しめる、と思っていたのだが、まったくもって見晴らしが利かない。南へのルートは大霧山への登山ルートであり、尾根道散歩といった雰囲気ではない。地図をチェックすると、北に「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」のマーク。北に向かって展望のいいところまで進むことにした。 峠からもと来た道を少しくだり、「二本木峠」「皇鈴山CP」の案内方向に進む。舗装道。ドライブを楽しむ人もときに見かける。しばらくは見晴らしよくない。が、少し歩き、牧場が近づくあたりから眺望が開ける。西は秩父の山並み、東は外秩父の山並み。山が深い。豊かな眺めである。

秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場
牧場のあたりから、三沢方面に下る道がある。その道を越え、500mほど北に進むと「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」。売店もある。実のところ、喉がカラカラであった。駅で買い求めた水をどこかで落とした。なんとか水を補給したいと少々焦っていたので一安心。 売店で水を買い、新鮮な牛乳を飲み、さらに食堂で「うどん」を食べる。これが、結構「こし」があり美味であった。お勧めである。眺望を楽しむ。大霧山の山麓、だと思うのだが、山肌がゴルフ場のように下刈りされているのは、牧場敷地であろう、か。 秩父高原牧場の敷地は広い。山稜の西の秩父郡皆野町三沢地区、東の東秩父郡坂本および皆谷地区にまたがり、二本木峠の北にある愛宕山から粥新田峠の南の大霧山稜線上に位置する。標高は270mから767m、広さは270ヘクタール、というから西武ドームの270倍にもなりという。

峠道を下る

少し休憩し、粥新田峠に戻り峠道を下ることにする。峠から100mほどはちょっとした登り。その後は、牧場脇の道をグングン下る。結構膝にくる。牧場用に保存している牧草地が美しい。それにしても秩父は山が深い。秩父市街まで幾重にも尾根が見える。秩父市街の眺望を遮るのは、蓑山であろう。標高587m。先日黒谷の和銅遺跡を訪ねたとき途中まで登った山地である。ちょっとした丘陵地程度と思っていたのだが、蓑山は結構な山容であった。

榛名神社
坂を下ると次第に人家が見えてくる。広町の家並み、か。南にいかにも武甲山といった山容の山。霞みがかかって見づらいのではあるが、武甲に間違いないだろう。途中に榛名神社。案内;室町時代の昔からこの粥新田峠は、秩父と関東平野を結ぶ主要な峠であった。この榛名神社はその中腹に祀られ、上州(群馬)榛名神社の本家とも、または姉君の宮ともいわれている。

秩父往還・釜伏道に合流
峯地区をとおり里に下りる。広町。川越道と熊谷道が分岐するこの地は、宿場町として賑わったようだ。県道82号線に合流。長瀞玉淀自然公園線と呼ばれるこの道は、昔の秩父往還・釜伏道。長瀞から、蓑山と外秩父の山々の間の谷筋、三沢川の谷筋を進み、栃谷を越えると西に折れ、大野原で国道140号線に合流する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

曽根坂一里塚の阿弥陀塔
県道を南に進む。道の脇に「曽根坂一里塚の阿弥陀塔」。碑の中央に「南無阿弥陀仏」と刻んである。塔の左右に「みキハ大ミや」、「ひだり志まんぶ」と。右へ行くのが大宮(秩父市)道で、左が、四万部(札所一番)道、ということ。この阿弥陀塔は「道しるべ」でもありる。塔の建てられた年号は「元禄一五年」(1702)とある。江戸からの秩父巡礼の始まったのは、このころだった、とか。 道を進むと峠に差しかかる。蓑山からの稜線と外秩父の稜線が再接近するところ。湾曲した峠道を下ると秩父観音霊場1番札所・四萬部寺に到着。


秩父観音霊場1番札所・四萬部寺

山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。 本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


この四萬部寺、現在は一番札所である。が、昔は24番札所。札所番号が変わったのは時代状況の変化に即応した、というとことだろう。初期の札所1番は定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)といった秩父市街からはじまっている。
その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなものであったから、だろう。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたものであり、西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたから、であろう。
その後、江戸時代に、札所の番号は20番を除いてすべて変わってしまった。その理由は、秩父ローカルなものであった秩父観音霊場が、江戸の人をその主要な「お客様」に迎えることになったため、であろう。
豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。
秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
この栃谷の四萬部寺が1番となった理由を推論。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。
栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。 粥新田峠を越え、秩父往還・川越道を秩父観音霊場一番札所に歩き、江戸の人たちの巡礼と言うか、行楽気分をちょっとシェアし、本日の散歩を終える。

金曜日, 9月 14, 2007

秩父観音霊場散歩 Ⅶ:江戸巡礼古道を辿る

秩父札所巡りもほぼ歩き終え。あとは、皆野町の33番札所、吉田の里の34番札所、そして長尾根丘陵上の24番札所、25番札所を残すのみ。なんとか今回で終わりにしよう、と同僚と作戦会議。今回のメーンエベントは長尾根丘陵の江戸巡礼古道を歩くこと。少々不便な33番、34番をカバーし、残り時間で丘陵地帯を歩くにはバスでは少々心もとない。如何せん便数が少なすぎる。ということで今回は車を使い、東京を離れ秩父に向かった。
秩父市街に入り、国道140号線を北上。皆野町役場のあたりから国道を離れ、荒川方面に左折。栗谷瀬橋を渡り、荒川西岸に。少し南に戻り、国神交差点で県道44号線に移る。日野沢川に沿って皆野の町を北東に進む。深沢橋、根古屋橋を越え、どんどん進む。国神交差点から5キロ弱程度だろうか、34番札所・水潜寺に着く。ちなみに根小屋って、先日津久井湖散歩のとき案内版でわかったのだが、山城の裾野の広がる武家屋敷のこと。このあたりもなにかそれらしき館でもあったのだろうか。少なくとも秩父の横瀬町の根古屋は北条氏の根古屋城があった、とか。(金曜日, 9月 14, 2007のブログを修正)




本日のルート;34番札所・水潜寺>33番札所・菊水寺>24番札所・法泉寺>25番札所・久昌寺

34番札所・水潜寺
百観音の結願寺。百観音って、西国33観音霊場、坂東33観音霊場、そしてこの秩父34観音霊場を合わせて百観音、とする。元々は秩父も33観音霊場であったわけだが、34霊場となったことをきっかけに、百観音というマーケティング戦略に転換した、ということだろう、か。
本堂の前に結願の「御砂ふみ」がある。百観音御砂と掘られた足形。「足形のうえで祈れば、百観音の功徳あり」ということ、だ。観音堂は寛政の頃、というから、18世紀末、江戸の人々の寄進により再建された。「檀家をもたない秩父の札所は江戸でもつ」と言われる所以である。観音堂の右奥に岩の絶壁。岩屋があり清水が湧く。「長命水」、と。巡礼を終えた人が水垢離をとる。水潜りの岩屋と呼ばれる。これが寺名の由来。
讃仏堂内に、オビンズルさま。十六羅漢のひとつ。オビンズル様こと、ビンズル尊者には散歩の折々に出合った。撫で仏様として坐っていることが多かったように思う。赤ら顔の飲ん兵衛がキャラクターイメージ。放蕩の末、反省し仏弟子となった、はず。十六羅漢とは、仏を護持する16人の佛弟子のこと。本堂の右手に子育て観音像。本堂下参道脇に六地蔵。六道能化のご利益。六道能化とは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のそれぞれの衆生を救うお地蔵様。讃仏道の左には七観音。七観音って、野坂寺でメモしたのだが、六観音が真言系と天台系では少し異なる。聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音までは同じであるが、あとひとつが真言系では准胝観音(じゅんていかんのん)、天台系では不空羂索観音。これがいつのまにか、すべて合わさって七観音になった、とか。
ご詠歌;萬代のねがいをここに 納めおく 苔の下より いづる水かな

34番を終え33番に向かう。これが結構遠い、今回車を使うしかないだろう、となった工程である。ルートは一旦、国神まで戻る。国神交差点からは荒川西岸を大渕まで進む。大渕交差点からは荒川を離れ、赤平川の北を進む。国神交差点から5キロ程度走ったところで左折。奈良川橋を渡り、赤平川の南側に移る。奈良川橋から2キロ程度赤平川に沿って進み、番戸大橋で赤平川の支流を越える。橋を渡るとすぐに南に折れ、2キロ弱進むと33番札所・菊水寺に。時間があれば吉田の里、秩父困民党の決起した椋神社などに寄りたいのだが、何せ時間がない。またいつかの機会、この吉田の里から札立峠を越えて34番札所・水潜寺へと歩く、2・5時間の峠越えをするときにでも寄ることにしよう。

33番札所・菊水寺
正面に観音堂。本尊は聖観音。藤原時代の作。井上如水が奉納した「子がえしの絵図」。生活苦から子供をあやめることを諌めたものである。芭蕉の句碑:寒菊やこぬかのかかる臼のはた。菊水寺の名前の由来は、菊水の井戸から。山賊が雲水の法力で非を悔い改め身を清めた井戸が菊水の井であった、とか。また山賊が行基の教えに改心したといった説も。
ご詠歌;春や夏 冬もさかりの菊水寺 秋の詠めに おくる年つき

江戸巡礼古道散歩
さてさて「僻地」の札所を車でさっと廻る。歩きではないので、少々のウシロメタさもありメモもあっさりにならざるを得ない。が、これからが今回のメーンエベント・江戸巡礼古道散歩となる。
スタート地点は23番音楽寺あたりからはじめよう、と。江戸巡礼古道自体は21番札所・観音寺の少し南あたりにのぼり口はある。が、そのあたりは先回の散歩で長尾根丘陵を横切って国道299号線に降りていったとき、少々の雰囲気を感じてはいる。また、いつだったか、23番札所・音楽寺から22番童子堂に下るときに、これも少々の古道の雰囲気などを感じてはいる。で、観音寺から音楽寺までの巡礼道散歩は「まあ、いいか」となった次第。
スタート地点の23番札所・音楽寺へのアプローチはどうするか。音楽寺の駐車場に車を停めるって案もあるのだが、歩いた後にまた車を取りに戻らなければならない。少々ウザったい。西武秩父からシャトルバス・ぐるりん号が音楽寺まで出ていたような気もする。西武秩父駅に行けばなんとかなるだろう、と言ったこれまたアバウトな確信で車を置きに西武秩父に。
道を南に下り、泉田交差点で国道299号線に。先回の32番札所・法性寺からバス停のある国道299号線までは、結構きつかった、と少々の思い出に浸る。車は東に向かい、道なりに秩父ミューズパークに向かって進み、公園のある長尾根丘陵を越え、荒川を渡り西武秩父駅に。車は秩父市役所横、秩父市民会館の駐車場に停める。秩父に日参したおかげで、どこに車を停めることができるか、ってことも分かるようになっている。
市民会館に車を置き、西武秩父駅に。それほど遠くにない。駅前のバスターミナルで「ぐるりん号」の時間をチェック。残念ながら全然便はない。1日に数便といったもの。どうしたところで、利用できる便はない。あきらめて、タクシーで23番札所・音楽寺に行くことにする。

江戸巡礼古道スタート。音楽寺駐車場から長尾根道・山腹を進む江戸巡礼古道を進むことに。江戸巡礼古道、とはいうものの、江戸時代にこの名称があったわけではあるまい。秩父市観光振興課が作成している観光パンフレット「秩父札所 江戸巡礼古道」によれば、寛延3年(1750)には一番札所のある栃谷村には5万弱、30番札所のある白久村にも5万強の巡礼者が訪れている、と。元禄時代、裕福になった江戸市民の信仰を兼ねた行楽の旅が盛んになった、ということだ。こういった観光客のために、多くの道しるべがつくられた。「右++ 左**」といったもの、である。馬頭観音の石碑もつくられた。で、それをつなげ合わせ江戸の巡礼道を組み上げたのが「江戸巡礼古道」である、と前述のパンフレットにある。秩父市の観光マーケティング施策にまんまと乗せられている、といった思いも残しながら、昔ながらの面影の残る道筋であることを期待しつつ、先に進む。
駐車場を越え梅林に沿って進む。少し下ると駐車場。駐車場を抜けると長尾根道がはじまる。杉林の中を進む。道脇に馬頭観音。杉林をしばらく進むと、「天保9年・二十二夜碑」。ついで、延暦年間・弁才天碑。このあたりからの眺めは美しい。沢を渡る。桜久保沢。念仏坂のあたりには馬頭観音が残る。南は佐久良橋あたりであろう。再び美しい眺め。永源寺跡の脇を進み丘陵を下り、県道77号線近くまで下りる。72号線の一筋東の細路を進む。「江戸時代のみちしるべ石」を越えるあたりで県道72号線に合流。少し進むと24番札所・法泉寺。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

24番札所・法泉寺
長い石段。かなり急な勾配。116段。お堂は仁王門と観音堂を一宇とした造り。本尊は聖観音。室町時代の作と言われる。本堂の左手に六地蔵。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六道を能化する有難い佛様。寺の開基伝説によれば、毘盧遮那の仏勅によって、加賀の白山を勧請した、と。事実『長享二年秩父観音札所番付』では白山別所と記されている。白山系修験者によって奉祀されていたもの、であろう。当時の本尊は十一面観音。白山の本地仏である。本尊が聖観音に変わったのは、勢力強化のために関東を訪れた聖護院門跡道興准后の影響。それを契機に、白山系から本山派に転じて今宮坊の配下となり、さらに聖護院直末となったためであろう、と言われる。白山権現社は、明治期の神仏分離をへて白山神社として現存している。
ご詠歌;天てらす神のははその色かえて なおもふりぬる雪の白山(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

宝泉寺を離れ次の目的地25番札所・久昌寺に向かう。県道を少し進み、「江戸道しるべ石」のあるあたりから、案内にしたがい県道を離れる。北に進むと「酒つくりの森」。酒蔵資料館などもある。地元の酒蔵の経営のようである。すこし中を眺め先に進む。峠道へとのぼる雰囲気。眺めがいい。実にいい。
県道209号の脇の細道を峠へと進む。この県道は小鹿野町に続く。しばらくすると県道を離れ下り道に。案内に従い下ると、「寛政年間のみちしるべ」。眺望良好。東下る。馬頭尊。南に下ればミューズパーク入口あたりだろう。江戸巡礼古道はここから南西に向かう。長尾根道をはなれ「久那みち」となる。
しばらく進み舗装道から離れ脇道に。森というか林の中。沢を渡る。五百(いお)沢。県道72号線と平行に、少し西を進んでいる、よう。久那小学校の西をとおり25番札所・久昌寺に。野面を横切り、沢を渡るといった巡礼道であった。五百沢から25番までの雰囲気がなかなかいい。

25番札所・久昌寺
本尊は聖観音。入口に「御手判寺」の大石柱。このお寺は別名「御手判寺」とも呼ばれる。御手判って、性空上人らが冥土からもたらした石札。閻魔大王の手形石とも。閻魔大王の招きで冥府(めいふ)に赴いた性空上人は、石の手判と石の証文を授かる。その石の証文は西国十四番に、石の手判は秩父札所二十五番に納め置かれた、と。
西国十四番って、近江の三井寺というか園城寺。石柱のすぐ向こうに小さな茅葺の仁王門。観音堂には一木造りの観音さま、が。背後の土手に上ると弁天池。弁財天をまつるお堂がある。武甲山の山容も美しい。ご詠歌にある岩谷堂の由来は、鬼とよばれた母親を大切に孝行したきだてのよい娘が、なくなった母親を岩屋に祠を建てる。その心持にうたれた里人が建てたのがこのお寺のはじまりである、ということだ。
ご詠歌;みなかみは いづくなるらん 岩谷堂(いわやどう) 朝日もくなく 夕日かがやく

秩父鉄道・浦山口駅
荒川を久那橋で渡り、浦山川を常盤橋で渡り、秩父鉄道・浦山口に進み、西武秩父駅に戻り、車に乗り、一路家路を急ぐ。長かった秩父札所巡りもこれで一応結願と相成った。

木曜日, 9月 13, 2007

秩父観音霊場散歩 Ⅵ ;秩父鉄道白久から秩父市街、小鹿野へと

秩父札所巡りのメモもこれで6回目。5回までは昨年11月から12月にかけてメモした。その後、ことしの春先に2回に分けて札所を巡り、秩父巡礼は一応結願とはなっていたのだが、なんとなくメモをする気が起きなかった。理由は、春先の2度にわたる秩父行きは、本来の目的である「のんびり散歩」から少々離れ、スケジュール優先の仕切りとしていたため。歩くことは歩くのだが、段取り優先でバスを使ったり、電車を使ったり、あまつさえ、最終回など、ついに車を使っていた。
1泊2日のスケジュールを含め、秩父には既に延べ6日ほど秩父に来ていたように思う。このままではあと何回かかるやら。秩父地域経済に少々貢献するのはいいのだが、それにしても、なあ、といった気持ちもあった。また、いままでの巡礼道は、それなりに効率的に廻れる道順であったのだが、残された15ほどの霊場は、札所20番代はまだしも、30番代になると、あちらこちらとお寺が点在し、とてものことバスを利用しなければ、いつ結願となるかわからない。そういった事情もあった。ともあれ、なんとか、あと2回くらいでおさめたい。その思いが強く、バスや電車を乗り継いでの「旅」となり、散歩のメモ、というには少々面映い、といった心根ではあった。
そういった折も折り、秩父往還、そしてまた、川越往還を歩き秩父に入ることにした。昔の人と同じく、峠越えをして秩父札所に入る、って体験をしてみたわけだ。この往還のメモも済ませ、ブログにアップ、とは思ったのだが、なんとなく納まりがよくない。抜けている霊場メモが気になった。やはりメモしておこう、と相成った。薄れ行く記憶に抗いながらのメモ。どこまで思い出すものやら、あまり自信がない。ともあれ、散歩のメモをスタートする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

今回は1泊2日。1日目は秩父鉄道沿いの札所。26番から30番まで。二日目は、1日目の仕上がり次第できめることに。西武秩父駅に到着。そこから秩父鉄道・お花畑駅に。ここには何度きたことやら。で、秩父鉄道にのり、最初の目的地30番札所・法雲寺のある白久駅に。



本日のルート;(初日)30番札所・法雲寺>29番札所・長泉院>28番札所・橋立寺>27番札所・大淵寺>26番札所・円融寺>12番札所・野坂寺>()>19番札所・龍石寺>20番札所・岩之上堂>21番札所・観音寺>
(2日目)本日のルート;31番札所・観音院>32番札所・法性寺

(初日)


30番札所・法雲寺
白久駅から谷津川に沿って歩く。札所は山の斜面を活かしたつくり。正面に「浄土楽園」と呼ばれる庭園。沢の水を引き入れた池。この「心字池」を渡り石段を登る。脇に石仏。観音堂は、この池の後方一段高いところに建つ。本尊は如意輪観音。楊貴妃観音とも呼ばれる。寺伝によれば、1319年(元応元年)鎌倉・建長寺の高僧が、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈り彫った像をこの地にもたらした、とか。
ご詠歌;「一心に南無観音と唱うれば 慈悲ふか谷の誓いたのもし」

法雲寺の次は29番札所・長泉院。最寄りの駅は秩父鉄道・武州中川駅。距離は7キロ強。この間を歩くとなると2時間弱かかるよう。スケジュール優先の今回の旅、迷うことなく電車を利用する。

29番札所・長泉院
この寺は石札堂とも呼ばれる。1234年、性空上人が秩父巡礼の折に納めたという古い石札がある、と。性空上人が秩父に来たことはなかったことは、昨年散歩の折にメモしたとおり。伝説は伝説として物語を楽しむべし、と。台座の上に石の延命地蔵。 本堂正面の欄間に、寺宝の一つである板絵額がある。葛飾北斎52歳と署名入りの楼花の絵であるとか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
先日、会社の同僚と信州の川中島を歩いたとき、小布施に行った。小布施は北斎が83歳のときをはじめとして計4回訪ねてきている。江戸で知り合った、小布施の商人・高井鴻山を訪ねてのこと。小布施にある北斎館で印象的であったのは、「天、我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」という言葉。90歳でなくなったが、100歳まで生き れば、どういった傑作を描き出したのであろう。それにしても改名31回、転居92回、破天荒な人生であった。境内には古木のしだれ桜。本堂の前方に紅葉大権現。豊川稲荷もあった。寺伝によれば、小笹の茂る岩屋の中の観音像を見出し、お堂を建てた、それがこのお寺さまのはじまり、とか。
ご詠歌;「わけのぼりむすぶささの戸 おしひらき 仏をおがむ身こそたのもし」

長泉寺から28番札所・橋立寺には歩いて向かう。山道を進み、浦山川を渡る。山間には浦山ダム。鄙には稀な郷土資料館。ダム建設とのバーターであろう、と。予想通り、郷土資料館でもあり、浦山ダムのあれこれ展示会場でもあった。山道にとりつき先を急ぐ。しばし歩くと、道に沿って、というか、道の下にそれらしきお堂がちょっと見える。道の脇道から岩山を迂回すると橋立寺に

28番札所・橋立寺
朱塗りの観音堂は石灰岩の岩壁の下に建つ。岩壁は高さ65mもあるだろうか。古代、ここに人が住んでいた、とも。ために、岩陰遺跡とも呼ばれる。本尊は馬頭観世音。札所ではここだけ。鎌倉時代の逸品、と。馬頭観音は六観音・八大明王のひとつ。六観音って、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。八大明王とは不動・降三世・大笑(軍荼利)・大威徳・大輪・馬頭・無能勝・歩擲の各明王の総称。
堂の右手に馬堂。左甚五郎作という白馬の像がある。ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞がある。『秩父回覧記』には弘法大師にまつわる縁起が書かれている。 弘法大師が高野山に居た頃のこと。金胎両部の浄土が日本にあるはず、と。ある翁より、「秩父の橋立に行くべし」との御託宣。大師、この地に。再びかの翁が現れる。その案内で洞窟に。金胎の諸仏の姿を感じる。この地が金胎両部の浄土であると確信。馬頭観音を刻んで、堂宇を建立した、とか。この洞窟が橋立鍾乳洞である。ちなみに、金胎両部とは、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅のこと。密教独特の宇宙観のことである。この橋立観音は江戸時代には大宮郷の本山修験である今宮坊の持寺。明治の修験道禁止の頃まで修験道が続いていた。
ご詠歌;霧の海たちかさなるは雲の波 たぐいあらじとわたる橋立

橋立堂を離れ、県道73号線を下る。秩父鉄道と交差し、影森駅方向に向かう。国道140号線にそって走る小道を進み、成行きで右折し進むと、大淵寺。

27番札所・大淵寺
この寺の開基伝説にも橋立堂と同じく弘法大師が登場する。昔々、あるお坊さんがこの地に来た。が、病気で足が動かなくなる。たまたま通り合わせたのが弘法大師。観音像を彫って与える。その像を拝むとあら不思議、みるみる病が癒えた、とか。行基と双璧をなす開基伝説の主人公。29番札所・長泉院の性空上人ではないけれど、伝説は伝説として「楽しんで」おこう。本堂前に清水。飲めば長生きするとの言い伝え。境内には不動明王もまつられている。
このお寺には高さ16mもの観音像がある。高崎・大船とともに、関東の三大観音と呼ばれる。左手に蓮華の代わりに剣をもつ。つくられたのが戦前のこと。軍国主義華やかなりし頃のことでもあり、蓮華の代わりに剣をもつ。ために、護国観音、とも。と、見てきたようにメモしたが、実際に見たわけではない。この観音様は、少々山の中にある。20分程度歩くわけで、わかっておれば歩いたのだろうが、どうしたことか、気がつかなかった。大淵寺から護国観音、山腹の岩井堂、琴平神社をへて26番札所・円融寺に抜ける道がある。琴平ハイキングコースと呼ばれ、尾根道散歩が楽しめるとのことではあった。
ご詠歌;「夏山や しげきがもとに露までも こころへだてぬ月の影森」

26番札所・円融寺
大淵寺を離れ、秩父鉄道・影森駅を越え、成行きで右折。円融寺に着く。この寺には、寺宝として守られる鳥山石燕作の「景清牢破りの絵馬」と、石燕の門人石中女が13歳のとき描いたという「紫式部石山寺秋月の図の絵馬」が保管されている。県指定文化財の牢破りの絵馬は、近松門左衛門の浄瑠璃、『出世景清』を題材にしたものであろう、か。景清って、平景清とも藤原景清、とも。俵藤太こと藤原秀郷の子孫。平家方の武将。その勇猛さゆえに悪七兵衛景清と呼ばれる。屋島の合戦でその勇猛ぶりを示すも、壇ノ浦の合戦で破れ、捕らえられ、獄中で断食し果てた、と。が、景清牢破りの段ではないけれど、どういうわけか、全国に景清を巡る伝説が残り、ために、浄瑠璃や歌舞伎でもおなじみの人物となっている。または、浄瑠璃や歌舞伎で有名になったために全国に伝説が広まったのかもしれない。ま、いずれにしても、景清の何が民衆の琴線に触れたのであろう。そのうちに調べてみたい。鳥山石燕は狩野派の絵師。「画図百鬼夜行」といった妖怪絵師として勇名。ユーモアのある石燕の妖怪は水木しげるなどにも影響を与えた、と。
ご詠歌;尋ねいりかすぶ清水の岩井堂 こころの垢を すすがぬはなし

円融寺の次は12番札所・野坂寺。段取り優先の今回の散歩、というか旅のため、影森から秩父鉄道に乗り、西武秩父まで進む。西武秩父でおり、駅前の野坂町を進み、国道140号線に。南に少し進むと西武秩父線と交差。ガードをくぐり、西武線に沿って東に進むと野坂寺に。秩父への行き帰り車窓から何度も眺めたお寺さま、であった。

12番札所・野坂寺
参堂を通ると黒塗りの楼門。明治末期の火災で寺は焼失。山門だけは残る。楼上には阿弥陀・釈迦像・十三仏像が安置される。不動明王、釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿しゅく如来、大日如来、虚空蔵菩薩。これが13仏。階下両脇には十王が。地獄を統べる10人の王様。閻魔王が代表的、というか閻魔様以外、我々門外漢にはポピュラーでは、ない。この十王が現れることにより、他界にバリエーションが生まれた、と。この思想は江戸期になって13仏信仰に結実する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
本堂に安置する本尊は聖観世音。一木造り。藤原時代の作と言われている。昔、甲斐の国の絹商人がこの地で山賊に襲われる。神仏に助けを求め、南無観世音を唱え続ける。と、お守りが輝き、賊どもは眼を射られて退散。観音の功徳をありがたく思い、この地に堂宇を建て、観世音まつった。これがこの寺の草創、と。本堂の正面に童顔の六地蔵。本堂の右手にお堂。子授け観音と、呑龍上人が祀られている。呑龍様は戦国から江戸期の浄土宗の僧。親孝行ゆえに禁を犯した子供を手厚く保護したことから、「子育て呑龍」と呼ばれ民衆から尊敬された。
ご詠歌;「老いのみに 苦しきものは野坂寺 今おもいしれ 後のよのみち」

野坂寺を終え、はてさて次はどこに、と。今夜の宿は寺尾地区。荒川の西岸、札所22番・童子堂の近く。であれば、ということで宿までの道すがら、札所19番から21番までをカバーしよう、ということにした。すでにお昼もとっくに過ぎている。距離的には丁度いいかと。秩父鉄道に乗り、どちらかといえば最寄りの駅、と言えなくもない大野原の駅に。駅をおり、荒川方面に進む。大畑町に19番札所・龍石寺。

19番札所・龍石寺
砂岩の小山の上に観音堂が建つ。本尊の観音様は室町の作、と。ここにも弘法大師にまつわる由来。日照りで苦しむ人々の前に弘法大師が訪れる。雨乞いの儀式。大岩が二つに割れ、龍が天空に舞い上がる。大雨が降り、地が潤い、豊かな作物が、といったお話である。高い台の上には身代わり地蔵も。三途の川の奪衣婆をまつる三途婆堂も。『地蔵十王経』中に、三途の川や脱衣婆が登場するわけで、上でメモした十王信仰という、地獄の王にその慈悲を願う信仰のことである。
ご詠歌;「あめつちを動かすほどの龍石寺 参いる人には利生あるべし」

次の目的地である20番札所・岩之上堂は荒川の対岸。秩父橋を渡り荒川に沿って少し南に下ると荒川を望む崖の上に札所がある。

20番札所・岩之上堂
札所中最古の建物。荒川に臨む崖の上にある。本尊の聖観音は藤原時代の作。札所中最古の建物。堂内に「猿子の瓔珞」が垂れ下がっている。千疋猿とも呼ばれている。くくり猿をたくさんつくり千羽鶴のように紐をとおしたものである。子の健やかなる成長を祈って母親がつくったもの、とか。観音堂の裏の方に熊野神社があった。
ご詠歌;苔(こけ)むしろ しきてもとまれ 岩の上 玉のうてなも くちはつる身を

石段をのぼり、道にでる。寺尾地区を歩き、県道72号線に。小田蒔中学校、小田蒔小学校の前を進むと道脇に21番札所・観音寺。

21番札所・観音寺
平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂とも呼ばれる。また、もっと古くは日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り、鏑矢を納めたから矢之堂、とも。なおまた、八幡大菩薩の放った矢がここに落ちたためこの名がついた、とも。なおなお、またまた矢納村(現児玉)にあったお寺をここに遷座したので村の名を取って矢納堂、それが訛って矢之堂になったという説も。由来縁起は例によって、あれこれ説があり、定説はない。本尊は聖観音。大正12年の火災からも逃れ、ために「火除けの観音様」とも呼ばれる。行基作との伝えあり。またまた行基が登場。境内には延命地蔵、そして八幡様も。
ご詠歌;梓弓(あずさゆみ) いる矢の堂にもうできて ねがいし法に あたるうれしさ

日もだいぶ暮れてきた。県道72号線を南に進む。しばらく進むと県道を離れ荒川岸に。桜ゴルフ練習場あたりから、台地を荒川に向かってくだる。荒川の崖上といった雰囲気の場所にある宿に入り、本日の予定はこれで終了。散歩から少々時間がたっており、記憶も断片的にしか残っていない。メモはとっとと済ますべし、とあらためて思い直す。

宿で一泊。翌日はどこに、と検討。あれこれ地図を眺め、結局は小鹿野地区、というから西北方向。国道299号線を延々と進めば、志賀坂峠を越え佐久の方面に繋がっている。どうしたところでバスを使わなければ行けそうもない。どこからバスに乗るかとチェック。西武秩父に戻るのもなんだかなら、と調べる。根拠はないのだけれども、国道299号に出ればなんとかなろう、と宿から一直線に長尾根丘陵を越えて国道にでることに。で、就寝。

(2日目)
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宿を出て荒川の段丘崖をのぼり県道72号線に。県道を少し北に戻り、長尾根丘陵にのぼる道に。たまに車も通る道。ジグザクの道をのぼり尾根を越え、長尾根丘陵のその先にある風景をはじめて目にする。畑地が広がるのんびりとした風情。蒔田川を越え、国道299号に。運良く尾根から下ってきた道が国道と合流するところにバス停。また、運良く、ほとんど待つ間もなくバスが来る。
バスに飛び乗り、小鹿野に向かう。これが結構長い。10キロほどもあるだろう。山裾を走り、千束峠を越え、山を下り赤平川を渡り、小鹿野用水と交差するあたりで県道を離れ、街中に入る。小鹿野役場、小鹿野車庫を越え、黒海土バイパスで再び国道に合流する。31番札所・観音院への最寄りのバス停・栗尾はすぐ近く。バスの車窓から見える、稜線がギザギザの山は両神山であろう。
バス停から札所まで山道を歩く。4キロ弱はあろうか。山道といっても舗装道。岩殿沢にそって進む。光珠院を越え、しばらく進むと地蔵堂。新しいお寺様であろうかと思う。が、山腹に広がるお地蔵さんには少々圧倒される。トンネルを抜け、百観音の道案内とともに31番札所・観音院に進む。

31番札所・観音院

道路脇に山門。日本一といわれる石の仁王様。4mもあるだろうか。山門からは観音堂に向かって石段を登る。296段あるという。般若心経276字と、普回向20字の合計の数。普回向20字とは「願以此功徳  (がんにし くどく)普及於一切  (ふぎゅうお いっさい)我等與衆生 (がとうよ しゅじょう)皆共成佛道 (かいぐ じょうぶつどう)のこと。お坊さんが言う、「願わくば この功徳をもって普(あまね)く一切におよぼし 我らと衆生と皆ともに仏道を成(じょう)ぜんことを;十方三世一切(じっぽうさんぜいっさい)の諸仏諸尊菩薩摩訶薩(しょぶつしょそんぼさつまかさつ) 摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)」のあの台詞である。一段づつ、お経を唱えながら登っていくと、厄除けのご利益があるとも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
杉林の中を進む。観音堂は昭和47年に再建されたもの。境内には、大岩壁から落ちる滝がある。清浄の滝。滝下には不動明王。弘法大師が彫ったとされる磨崖仏も。西奥の院に石仏群や胎内くぐり、東奥の院には芭蕉句碑とか馬つなぎ跡なとがある。ここは修験者の修行の地であった、とか。
ご詠歌;みやま路を かきわけ尋ね ゆきみれば わしのいわやに ひびく滝つき

観音院を離れ次の目的地・法性寺に。来た道を戻り、小鹿野の市街まで戻る。小鹿野車庫からバスが出ている、と。バス停に着き時刻表をチェック。2時間だか3時間だか、バスが来ることは無い。枝線であり、確か町営バスであったかと。はてさて、どうしたものかと。できれば今日中に33番札所・菊水寺も廻っておきたい、ということもあり、法性院まではタクシーで行くことに。こうなってしまっては、散歩なのか、スタンプラリーなのかわからなくなってきた。メモを書くのを躊躇っていたのは、こういった「歩き」にもとる行動を散歩とすることへの逡巡のため。ともあれ、タクシーで法性寺に

32番札所・法性寺
道脇に鐘桜門。79段の石段をのぼる。本堂には薬師如来。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。観音堂は本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。宝永年というから、1707年につくられた。舞台造り。観音堂の背後には大きな岩窟。ここは長享二年(1488)当時、般若岩殿と呼ばれた第十五番札所である。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
この札所の寺宝は「長享の札所番付」。33札所までしかない、ということは初期の頃の資料。今回歩かなかったのだが、奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞきく

法性寺を離れ次の目的地は33番札所・菊水寺。お寺の前まで町営バスは来るようだが、なにせ数時間待ちといった時間帯。とてものこと、待っているわけにもいかない。歩きはじめる。どの程度あるいただろうか、長若交差点に。駒木野方面へのバス停がある。が、これって残念ながら南に進む。菊水寺は国道299号線方面というから、どちらかといえば北方向。国道299号線・松井田バス停に到着。残念ながら日没時間切れ。33番札所・菊水寺は次回に廻す。バス停で西武秩父行きのバスを待ち、一路家路へと急ぐ。


水曜日, 9月 12, 2007

大山散歩

ひさしぶりにちょっとした山登り。散歩は大好きではあるが、山登りはそれほど好みではない。だらだらといつまでも歩くのは気にはならないのだが、急勾配の山道を、息を切らし大汗をかいて、といったことは、できることなれば御免蒙りたい。これが本心である。ということで、丹沢山系の霊山・大山は前々から気にはなりながらも躊躇っていた。
なぜ大山に登る気持になったのか、実のところ、よくわからない。いつもより少し朝早く起きたこと、そして、これといって出かけるところが思いつかなかった、だけのような気もする。ともあれ、標高1252mの霊山・大山に出かけることにした。(水曜日, 9月 12, 2007のブログを修正)




本日のルート;小田急箱根線・伊勢原駅>(神奈川中央交通)>大山ケーブル駅バス停>大山ケーブルカー追分駅>下社駅>阿夫利神社下社>登山門>蓑毛裏参道分岐(16丁目)>ヤビツ峠分岐(25丁目)大山山頂>阿夫利神社本社>ヤビツ峠分岐(25丁目)>イタツミ尾根>ヤビツ峠>蓑毛バス停>(神奈川中央交通バス)>小田急線・秦野駅ケーブルカー追分駅>下社駅>阿夫利神社下社>登山門>蓑毛裏参道分岐(16丁目)>ヤビツ峠分岐(25丁目)大山山頂>阿夫利神社本社>ヤビツ峠分岐(25丁目)>イタツミ尾根>ヤビツ峠>蓑毛バス停>(神奈川中央交通バス)>小田急線・秦野駅

小田急線・伊勢原駅
小田急線で伊勢原駅に。イメージではもう少々大きな街かとは思ったのだが、思いのほか小じんまりとした駅前ではあった。北口バス停から神奈川中央交通バスで大山に向かう。バスの中で閑にまかせ、「観光お土産ガイドマップ」を眺める。駅で手に入れたものである。

道灌が謀殺された粕屋館をかすめる
バス道の近く、東名高速を交差してすこし上に「太田道潅の墓」の案内。どうせのこと、武蔵のいたるところにある道潅由来の地のひとつ、であろうと気に留めることはなかった。が、メモする段階でチェックしていると、この地ってあの「粕屋」の地。道灌が謀殺された扇谷上杉の館・粕屋館の地であった。粕屋って伊勢原であったのだ。が、今となっては後の祭り。前もってあれこれ調べない、ケセラセラ散歩の習慣ゆえの慙愧の念。仕方なし。

大山ケーブル駅バス停
大山上粕屋線をどんどん山に入る。山容がせまる。昨日、雨が降った名残か、山腹は霧で包まれている。果たして山に登れるのか、などと思い悩むうちに「大山ケーブル駅バス停」に着く。伊勢原駅を出て、20分程度であった。そうそう、忘れないうちに伊勢原の地名の由来。どうせのこと、お伊勢さんに関係あるだろう、とは想像がつく。チェックする。江戸時代、伊勢出身の人達がこの地を開墾し、そこに伊勢神宮の分社を設けた、と。現在の伊勢原大神宮がそれ。駅から北に進み、国道246号線手前に神社はある。

矢倉沢往還
ついでのことながら、この国道246号線は昔の矢倉沢往還。江戸の赤坂御門を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋より瀬田を経て、多摩川を二子で渡り、溝ノ口・長津田・下鶴間・国分・厚木・愛甲・伊勢原・曽屋・千村・松田惣領・関本と進み足柄峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道である。タバコ、生糸など相模地方の産物を江戸に送る道でもあった。
矢倉沢往還は江戸時代中期以後、江戸庶民の大山詣での道として盛んに利用され「大山街道」、「大山道」と呼ばれるようになる。もっとも、鎌倉街道ではないけれども、大山に至る道はすべて大山道と呼ばれるわけで、この矢倉沢往還だけが大山道ということでは、ない。「大小の岐路、いやしくもその一端が大山に達するものは、大山道と名付く。その岐路に至って、人の迷うところには必ず、大山道の石標を設立せり。」と、大山史に言うことであろう。
(2008年11月、紅葉見物をかねて足柄道を歩く。途中矢倉沢関所も訪れる。足柄峠からの富士の眺めは見事)

ケーブルの駅に向かう
バス停からケーブルの駅に向かう。お土産店、旅館が軒を並べる参道を進む。石段の脇には「**講」といった石碑が多い。大山詣の御師の「ブランド名」であろう、か。御師(おし)とは、ある特定の寺社に属し、信者を案内し、参拝・宿泊の手配をするツアーガイドといった人。大山を山伏修行の地としていた修験者たちは、徳川家康の命により山を下りる。修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、ということであろう。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。

豆腐が名物
参道には豆腐料理店も目につく。大山名物、とか。いい水があった、ということもさることながら、坊さんといえば「豆腐」でしょう、といったこと、そして、大量にかつまた保存に適した食べ物としては「豆腐」がベストチョイスであったのだろう。なにせ、上にメモしたように年間20万人の参拝客の食事を賄う必要があったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ケーブルカーの途中に大山寺

参道を登るとケーブルカーの追分駅。待ち時間は少々あったが、乗り込むと下社駅まではほんの6分程度。途中、お不動さんへの駅があったのだが、その有難さがいまひとつ分からず途中下車することもなく進む。このお不動さんが大山寺。天平勝宝7年(755年)良弁僧正の開山。良弁僧正って、東大寺の建立に尽くし、初代別当になったという高僧。大山山頂にある大山阿夫利神社・大山石尊大権現と相まって、山全体が神仏習合の信仰対象として崇拝されてきた、と。

阿夫利神社下社
大山ケーブルカー追分駅で下車。阿夫利神社下社に向かう。拝殿にのぼる石段の横に茶店。お昼時でもあり、おむずびを買い求め先に進む。鳥居を抜けるとひろびろとした境内。案内をメモ;「御祭神は大山祗神(おおやまずみのかみ)・高オカミノ神(たかおがみのかみ)・大雷神(おおいかずちのかみ)。大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。標高は、1,251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。
阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人たちの心のよりどころとなり、国御岳(くにみたけ、国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1,000年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式(えんぎしき)内社として、国幣(こくへい)の社(やしろ)となった。
武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。祭(ひきめさい)・簡粥祭(つつがゆさい)・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞(かぐらまい)・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されている。全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望もすばらしい。都市に近いため、多くの人たちに親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない」、と。大山祗神(おおやまずみのかみ)って、イザナミノミコトの子でコノハナノサクヤヒメの父、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

登山口
本堂の左手に登山口の案内。先に進む登山口にあった案内;「当阿夫利神社は、海抜1,252メートルの山頂に本社があり、現在地の下社御拝殿は700メートルに位置し古くより信仰活動の中心霊場。神仏習合時代には石尊大権現とも称せられ堂塔はその威容を誇った。が、安政元年12月晦日と明くる正月2日の二度にわたる山火事により焼失。仮殿が再建。明治33年に下社御造営事業が着手。本殿のみ新装。拝殿は手がつかぬまま。で、昭和52年に竣工を見た」、と。 
平安時代から朝廷の庇護(ひご)を受けていた大山信仰であるが、武士の世になっていよいよ盛んになる。源頼朝をはじめ、足利尊氏、小田原北条氏など多くの武士もこの山を信仰した。源頼朝は、天下泰平・武運長久を願って阿夫利神社に太刀を奉納している。武家政治の時代には将軍達は開運の神として武運長久を祈る。「時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王 雨やめたまえ」。鎌倉三代将軍の実朝が大山の山神に献じた歌と言われている。勿論、大山が全国的に有名になったのは江戸時代。庶民の間に大山信仰が広まってから、ということは上でメモしたとおり。

山頂への登山口は鳥居と片開きの扉、そしてその向こうには、急峻なる石段が続いている。登山口にあった案内;「明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(7月27日~8月17日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていた。登拝門の鍵は遠く元禄時代より、280年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年7月27日の夏開きには、お花講の手により扉は開かれる慣例となっている。
その後、明治20年には登拝者の増加に伴い、春山開き大祭(当時は4月5日~15日)が新たに設けられ、この期間の山頂登拝が出来得ることとなり、山頂登拝の規制は徐々にゆるめられる。更に、みのげ・日向・ヤビツ峠方面等の表参道以外よりの登山道が開かれると共に、昭和40年には国定公園に指定をされ登山者は急激に増加したので、現在では年間を通して常時庶民の山として登拝門は開かれるようになった。然し、その結果は、必然的に登拝門の伝統的意義と性格が失われてしまったので、ここに往時をしのびつつ登拝門のもつ史跡としての重要性を考え合わせて、一枚の扉のみを閉じて片開きといたし、その名残をとどめることした」と。

登山開始
さて、散歩、というか、本格的な登山開始。上社に向けて登山をはじめる。スタート地点が1丁目。頂上は28丁目となる。1丁目から3丁目までは急な石段。一気にのぼる。3丁目からはすこしゆるやか。6丁目に千本杉。杉の中を進む。岩の転がる山道を進む。昨日の雨により石が滑りやすくなっている。危ないことこの上なし。上りはまだしも、下りはこの道は避けたい。山頂から西にヤビツ峠に向かう道か、東に見晴台から日向薬師に下りるか、ふたつのルートがある、どちらかの尾根道を下ることにすべし、と。
8丁目には夫婦杉。樹齢600年を越す杉の大木。樹林の中を登る途中、時折、眺望の開けるところがある。が、天気が悪く見通しがきかない。霧というか水蒸気というか、ともあれ下界は白煙に包まれ、なにも見えない。16丁目で蓑毛からの裏参道と合流。石尊大権現と彫られた大きな石柱がある。
20丁目に富士見台。天気がよければ富士山の眺望が素晴らしい、と聞く。本日はなにも見えない。足場は依然よくない。雨で濡れ、滑りやすい。登山になれない若者が息も絶え絶えになりながら上っている。散歩で鍛えた我が身としては、必要以上に軽快なるふりをして、お先に失礼する。25丁目でヤビツ峠からの道が合流。ここまでくれば山頂までは10分ほど。鳥居を2つくぐると、28丁目・山頂に到着。のぼりはじめて1時間程度であった。

山頂
山頂には阿夫利神社・上社がある。山小屋風の社にて、少々情緒に欠ける。山小屋なのか退避小屋なのか、よくわからないが、小屋のまわりで食事をするパーティが多い。わたしゃ、ひとり旅。ひとりでしばらくぶらぶら。天気がよければ360度の眺望、とはいうものの、本日はまったくの霧の中。天気がよければ、真鶴半島と伊豆半島、小田原の海。利島、大島、三浦半島、房総半島。都心、多摩、丹沢山塊、富士山がずらりと見える、はず。まったくもって残念至極。
景色はあきらめ、お世辞にもホスピタルティ精神があるとは思えない売店で、これまたお世辞にも美味とはいえないお蕎麦を食べ、下山ルートを検討。「ヤビツ」という名前に惹かれてヤビツ峠ルートに決める。ヤビツの地名の由来は、武田と北条の合戦がこのあたりで行われ、そのときの矢櫃が発見された、とか、アイヌ語から来るとか、あれこれ。

ヤビツ峠ルートを下る

山頂から下る。下りは怖い。慎重に歩を進める。ヤビツ峠分岐まで戻り、ヤビツ峠に続くイタツミ尾根をひたすら下る。見晴らしのいいガレ場や尾根上の急激な下りなどを繰り返し進む。岩が転がる道と比べれば圧倒的に楽な道。この選択は正解。40分程度あるいただろうか、道はゆるやかになり、小さな広場に。ここを過ぎればヤビツ峠はすぐ。

蓑毛バス停


ヤビツ峠から本数はすくないもののバスは出ているよう。が、蓑毛まで山道を下ることに。ヤビツ峠の広場からは、蓑毛方面への案内に従い登山道を下る。杉林の中、九十九折れの道をどんどん下る。穏やかな下り。日陰が多いのか、薄暗く日暮れの、よう。ヤビツ広場から40分程度あるいただろうか、下りついたあたりから舗装された林道となる。沢沿いの林道をしばらく歩くと蓑毛バス停に。秦野駅までのバスの旅。途中、いつだったか秦野・弘法山散歩の折り歩いた丘陵を眺め、少々の感慨に浸る。秦野駅で小田急に乗り、一路家路へと急ぐ。

火曜日, 9月 11, 2007

千葉 印旛沼散歩 そのⅢ;印旛沼疎水路下流部・花見川を下り幕張へ


臼井そして印旛沼疎水路下流部・花見川を東京湾に下る


印旛沼散歩も3回目。印旛沼の畔を歩き、次いで印旛沼疎水路上流部・新川をほぼカバー。
残すは印旛沼疎水路下流部だけとなった。疎水を下れば東京湾に出る。
どうせのことなら、印旛沼疎水路下流部・花見川を下り、沼から海へと襷をつなぐことに、した。


本日のルート:京成線・臼井駅;稲荷台;中宿;臼井城址;太田図書の碑;星神社;主郭跡;雷電為衛門の碑;道誉上人の碑;京成線・大和田駅;印旛沼疎水路下流部・花見川;勝田川の合流地点;弁天橋;花島橋;総武線・幕張駅


京成線・臼井駅
都営新宿線で本八幡に。京成線に乗り換え先回の終点・勝田台駅に向かう。車内で地図をチェック。臼井城址が目に留まる。場所は勝田台と佐倉の間。印旛沼の直ぐ近くにあるのだが、先回時間がなくパスしたところ、である。少々の思い残し感もあり、急遽予定を変更し最初に臼井をカバーすることに。

稲荷台
京成線・臼井駅で下車。臼井駅は東・西・南を台地で取り囲まれている。開口部は印旛沼に向かう北方向、だけである。駅を北に下りる。駅前に台地が迫る。地名も稲荷台と呼ばれている。
住宅街の坂を上る。尾根付近、といっても住宅街には変わりは無いのだが、そこに雷電公園がある。佐倉の観光協会でもらった臼井の資料に、この地に雷電為衛門のお墓がある、ということであった。が、この公園にはお墓はない。地図をチェックすると、台地下のお寺の近くにある。とりあえず臼井城まで進み、そのあとこの江戸期の大横綱・雷電のお墓でもおまいりしよう、と。
尾根を下る。途中にお稲荷さん。雷電公園の隣、といったところ。稲荷台の由来のお宮なのではあろう。境内にはケヤキの大木。また、敷石は雷電が寄進した、とか。お隣の公園が雷電公園と呼ばれる理由がこれで納得。

中宿


坂を下る。国道296号線・成田街道にあたる。成田街道を少し東に進むと「中宿」交差点。街道はここで南東に折れ佐倉に向かう。中宿、って如何にも宿場跡って地名。チェックする。この地の歴史は古い。縄文期の貝塚や土器が発見されている。数千年前からこの地には人が住んでいたのであろう。大化の改新の頃も、この地方の中心地であった、よう。が、歴史上に臼井が登場するのは平安末期(12世紀)に千葉氏の一族である臼井氏がこの地に居を構えてから。以来、12代に渡って臼井氏およびその一門がこの地に覇を唱える。が、それも小田原北条氏の滅亡とともに歴史の舞台から去る。その後お城は徳川一門の居城、幕府直轄地をへて元禄3年(1700年)には佐倉領に組み込まれることになった、とか。
中宿、をきっかけに少々話が拡がってしまった。歴史的・政治的変遷はあったとはいえ、臼井は往古より、交通の要衝であった、よう。江戸時代には成田詣の旅人で賑わった、と。現在は地名として中宿が残るが、当時は上宿、中宿、下宿、新町という地名もあった。町には本陣・脇本陣を中心に多くの旅籠が並び、180軒あまりの人家があった、と言われる。明治になっても旅籠は6軒も残っていた、ようだ。また、この地は成田街道だけでなく、利根川>印旛沼>そして江戸へと続く水運の要衝でもあった、とか。

臼井城址
臼井城址に向かう。中宿交差点の一筋手前の道を台地へと進む。緩やかな坂道の途中に駐車場。駐車場の奥から城址に上る。上りきったところに道。遺構を守るために舗装されているが、往時の土橋、であろう。二郭と主郭をつなぐ。整備される前の写真が道脇にあったが、細い「通路」といった雰囲気。土橋の両側は堀であったのだろうが、現在はこれも少し埋められている、よう。
土橋を西というか北に進み二郭跡に。整地された大きな公園になっている。二郭を離れ三郭、というか外城をつなぐ土橋跡に出る。土橋とはいっても現在は車一台が通れる、といった生活道路。二郭を取り巻く堀はいかにも深い。上杉謙信の軍勢がこの城を落とすことができなかったと言われるが、成る程、この堀は難儀であっただろう。逆は自然の谷であろう、か。

太田図書の碑

土橋を先に進む。太田図書の碑。この地でなくなった太田道潅の弟・図書助資忠ほか53名をまつる。観光協会でもらったパンフレット『ゆったり臼井へ』によればその顛末は以下の通り;文明10年(1478年)千葉孝胤は、上杉家の重臣太田道潅に破れ、臼井城に撤退。翌年正月に道潅の弟・図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、戦死した、と。すっと流せばそれだけのことなのだが、ちょっと考え始めると、わかったようで、よくわからない。なぜ道潅が千葉氏と争う?なぜ千葉自胤は同盟軍?興味を覚えチェック。

大雑把にまとめてみる;ややこしさのすべては上杉管領家と古河公方の争いに端を発する。鎌倉公方を補佐する管領と公方に争い、である。鎌倉公方が京都に反旗を翻す。足利将軍家の関東名代だけでは面白くなく、将軍になりたかった、とか。京都方についた上杉管領家に鎌倉公方は破れる。鎌倉から逃れて古河に拠点を構える。ために古河公方,と言う。 この争いに千葉氏も巻き込まれ一族は二つに別れる。
千葉宗家は上杉管領側。そして一族の重臣である馬加康胤、原胤房は古河公方につく。結局、千葉宗家は馬加、原氏の軍勢に急襲され破れる。嫡子・千葉自胤、実胤は武蔵に逃れ上杉管領家の庇護のもと武蔵千葉氏、となる。平安時代末期、上総介平忠常からはじまり、頼朝の挙兵を助けるなど一時期を画した千葉宗家は滅亡することになった。 で、この千葉宗家の系統を継ぐのは自分だ、と千葉氏を称したのが馬加(岩橋)康胤。さすがに居城までは千葉宗家があった亥鼻城(いのはな;中央区亥鼻町)では具合が悪かろう、と新たに移ったのが「本佐倉城」、ということだ。
上のメモで太田道潅と争った千葉孝胤とはこの馬加(まくわり)康胤の嫡男。太田道潅が千葉孝胤と戦ったのは、道潅が関東管領側であり千葉孝胤は古河公方側であるから。また、千葉自胤が道潅の弟・図書助資忠と臼井城を攻撃したのは、千葉孝胤が親の敵である馬加氏の流れであるから、である。謎解きができて、少々すっきり。

星神社
太田図書の碑の近くに星神社。臼井妙見社とも呼ばれるように、妙見様をおまつりする。北斗七星を神としたもの。千葉氏の氏神様といったもの。千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。ちなみに妙見信仰といえば、先般歩いた秩父神社が思い出される。秩父神社は秩父平氏・平良文をまつる。平忠常を祖とする千葉氏も秩父平氏の流れを汲む、ということであり、これも大いに納得。 星神社を離れ台地上をブラブラ歩く。台地が北に続いている。どうもお城だけの独立丘陵といったものではないようだ。昔はこの台地上に出城というか支城というか、砦といったものが配置されていたの、だろうか。台地上から印旛沼を眺めよう、と思ったのだが崖線が近くにある、といった雰囲気でもない。お城跡へと引き返す。

主郭跡

二の郭から土橋を通り主郭に向かう。虎口を抜け主郭跡に。ここも公園となっている。主郭からの眺めは素晴らしい。印旛沼が一望のもと。昔は沼は台地下まで迫っていたのであろう。事実、いつだったか古本屋で買い求めた『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』に、安政年間(19世紀中頃)の臼井城のイラストが掲載されているが、確かにお城の台地下まで印旛沼が迫っている。
臼井城は、14世紀中頃に中世城郭としての形を整えたと言われる。臼井氏中興の祖と言われる臼井興胤の頃である。東西1キロ、南北2キロであった、とか。その後16世紀中頃には原氏が臼井城主となる。原氏が臼井氏の嫡子への後見役となったことがそのきっかけ、かと。原氏とは、上でメモしたように、馬加氏とともに千葉宗家を滅ぼした、あの原氏である。
城の主となった原氏は城の機能を拡充。戦国時代には、小田原北条氏の幕下に入り千葉氏をも凌ぐ勢力となる。永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退している。が、天正18年(1590)7月に原氏は北条氏とともに滅亡。翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城。文禄2年(1593年)に出火・消滅。その後、慶長9年(1604)、家次が上野国高崎に転封され臼井城は廃城 となった。

雷電為衛門の碑
臼井城址を離れる。次の目的地は「雷電為衛門」の碑。何故かは知らねど、雷電とか谷風といった江戸の相撲取りの名前を覚えている。子供のころ、なにかで読んでおぼえていたのであろう。
台地を下り、成田街道まで戻り、西に少し戻る。妙伝寺入口を北に折れ、お寺への台地手前を南に折れる。道成りに進み、公園というか地域のお年寄りの集会所といった施設の裏手あたりに進む。そこに、ひっそりと江戸時代の名大関の碑があった。
雷電は16年間大関をつとめた。とにかく強かったらしい。信濃生まれの雷電がこの地に眠るのは、妻がこの臼井上町にあった甘酒屋の娘であったため。ちなみに雷電は谷風(西の大関)の内弟子であった。刻まれた題字は幕末の名士佐久間象山のもの、と言われる。
と、あれこれメモしながら少し疑問が。これほど強い関取がどうして大関で、横綱でないのか。チェックする。 真相は単純。当時の相撲の最高位は大関であっただけ、のこと。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった、とか。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。
ちなみに、雷電って、結構インテリであった、とか。文字の読み書きができ、足掛け27年に渡って旅日記『諸国相撲和帳』、通称『雷電日記』を書いている。これって当時の力士としては稀有の存在であった、よう。どこかの古本屋で買い求めた雑誌の中に書いてあった記事のうろ覚え。出典定かならず。

道誉上人の碑
雷電の碑を離れ駅に戻る。稲荷台の台地に戻る。途中、ちょっと寄り道。少し台地を下り道誉上人の碑に立ち寄る。どこかで聞いたことがある名前である、と思うのだがどうも思い出せない。そのうちにわかるかと、ともあれ、お墓のある長源寺に向かう。境内、というより、道脇の台地の中腹にお墓があった。
道誉上人は当時下総生実(おゆみ;千葉氏中央区生実)に居を構えていた原氏の招きで下総に。増上寺9世管主を経て長源寺を開山した高僧。おまいりし、脇の道を台地に上る。どうも昔の臼井城の砦があったところのよう。『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』にもいかにもこのあたりに「トリデ」のマークがあった。台地上から臼井駅のある低地を囲む台地を眺め臼井駅に。本日のメーンエベント・花見川散歩のスタート地点である京成線・大和田駅まで電車で向う。

京成線・大和田駅

京成線・大和田駅で下車。成田街道は駅の北を通る。八千代市役所も成田街道沿いにある。江戸時代、成田詣のために早朝江戸を出立した旅人は、最初夜は船橋宿か、この大和田宿で一夜を明かした、と言う。成田街道から離れたこの駅はこじんまりとしている。大正15年開業の八千代市で最も古い駅である、とか。

印旛沼疎水路下流部・花見川
駅前を成行きで南に進む。直ぐに水路にあたる。源流を辿ると陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたりまで確認できる。が、水路の名前はわからない。印旛沼疎水路下流部・花見川に向かって東に進む。ほどなく川筋に。住所は横戸町。
勝田川が東側より合流する。鷹の台カントリークラブがある台地下に沿って花見川が湾曲するあたりで、である。地図で源流を辿ると、この川も陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたり。そこから四街道市、佐倉市の境を流れ、現在はこの地で花見川に合流し東京湾に下る。
現在、勝田川は花見川に合流する、とメモした。が。それは最近のこと。昭和23年(1948年)からはじまり昭和44年(1969年)に完成した印旛沼総合解発事業以降のことである。それ以前は、勝田川は現在の新川筋を流れ印旛沼に注いでいた。以前、印旛沼の水を東京湾に排水するため、印旛沼に注ぐ新川筋と、東京湾に注ぐ花見川を横戸のあたりで繋いだ、とメモした。ということは、その繋ぎの場所というのは、このあたりだったのだろう。

勝田川の合流地点
勝田川の合流部分は東西の台地が最も接近している。分水界となっていた台地を切り崩し、ふたつの川筋をつないだのであろう。二つの川筋を繋いだ、と書面だけで言われても、いまひとつ実感がなかった。どういうふうに繋げたのであろう、どういう地形なのだろう、などと疑問をもったのが、今回の花見川散歩の目的のひとつではあるのだが、勝田川の流路が逆転した、ということ、そしてその場所が如何にも狭隘な台地接近部であるという地形を見て、あらかたの疑問は解決。気持ちも軽く先に進む。



弁天橋

弁天橋を渡り花見川の東岸に移る。ここから花見川サイクリングコースがはじまる。川の両岸に台地が迫る。緑が深い。快い道筋である。散歩をはじめて、結構多くの遊歩道、緑道を歩いたが、その中でも印象に残る道筋のひとつと言える。
水色の水道橋が現れる。柏井浄水場から水を送っている。 弁天橋から1.5キロほど下ると柏井橋。道は橋の下をくぐる。新川筋と花見川筋を繋げるための分水界の開削は、弁天橋からこの柏井橋まであたりまでに及んだ、と。江戸時代幾度か開削が計画されながら、結局失敗に終わったということであるが、両側に迫るこの台地を切り崩すのは並大抵でなかったろう、と改めて実感。
で、ここまで歩いてきて、大和田機場に出会わないことに気がついた。印旛沼の水=新川を花見川に排水する施設であるが、後からチェックすると、場所は京成線より北、成田街道にかかる大和橋より更に北にあった。印旛沼の水を2日もあればすべて排水できるほどの強力なポンプがある、という。見てどうということはないのだが、とりあえずどんなものか見ておこう、と思ったのだが、後の祭り。とはいうものの、年に数回しか新川の水を汲み上げてはいないようなので、まあいいか、とも。
ところで、この大和田機場を境に新川と花見川の川床は数メートル差がある。花見川サイドの方が高い、と。それがこの排水機場でポンプアップする要因なのだろうが、これって何のため?チェックする。どうも設計段階から段差をつけた、よう。自然の勾配だけで印旛沼の水を流すと、勾配が緩やかになり、満潮時に海水が川筋を遡上し洪水の可能性がある、ということで、接合部の川床を高くした、と。わかったようで、よくわからない。

花島橋

あれこれと想いを巡らしながらも、まことにいい雰囲気の道を1キロ弱進むと花島橋。古い雰囲気の橋。500mほど下ると花見川大橋。結構新しそうな橋。道は青い橋桁の下を通る。橋の近くに赤い水道管が走る。少し下に水門。長作水門。水量を調節する、と。

直ぐ近くに天戸大橋。天戸大橋を過ぎると、台地から離れ平地に移る。牧歌的風景。 天戸大橋から1キロ程度進むと亥鼻橋。桜並木もさることながら、田園風景が美しい。もっと雑とした風景を想像していたので、予想外の展開。亥鼻橋からこれも1キロ弱進むと京葉道路と交差。
京葉道路手前に汐留橋。文字通り、汐留=海水の遡上をここで止めるわけであり、橋の下に堰が設けられている。ここまで汐がのぼってくる、ということであろうか。であれば上でメモした、大和田排水機場あたりの川床の高さや勾配に関するあれこれについて、急にリアリティが出てきた。

総武線・幕張駅

京葉道路をくぐり先に進む。川の東岸に花見川区役所。また西側前方には見慣れた幕張のビルが見えてくる。それにしても、少しは住宅が増えてきた、とはいうものの、ここまで下ってきても、のんびりした風景である。
更にくだると浪花橋。京葉道路から1キロほどのところ。ここから河口まで3キロ強、といったところだが、日没時間切れ。浪花橋を西に渡り、総武線に沿って進み総武線・幕張駅に進み、一路家路へと。本日の散歩はこれで終了。
ところで、花見川の名前の由来だが、川堤の桜が美しかったから、といった説もある。千葉実録には、源頼朝にこの地の桜の花の美しさを言上する千葉一門の口上がある。曰く:『この川上に桜の林これあり候、花盛りには吉野にも優り申すなり。この川の橋にて眺むる時は、川上より流るる花は水を包み、また川下よりは南風花を吹き戻す。よって水上へ花びら往来し、その景色言語に述べ難し』、と。
花見川の名前の由来は定まっているわけではないが、この口上ゆえに、結構納得。地名の由来のついでに、幕張。これって、臼井城のとことでメモした馬加(まくわり)から、との説もある、と。そういえば、馬加城って現在の幕張市幕張3丁目にあった、ということである。そのうちにこの馬加城、そして千葉宗家の居城のあった亥鼻城(いのはな;千葉市中央区亥鼻町)を歩いてみよう、と思う。


月曜日, 9月 10, 2007

千葉 印旛沼散歩 そのⅡ;西印旛沼から新川を経て勝田台に

西印旛沼から新川に歩き、勝田台に

印旛沼散歩の2回目。今回は佐倉からスタートし、印旛沼疎水の新川を歩き、成行きで勝田台まで下ろう、と。

何がある、というわけではない。ただひたすら、印旛沼の水を東京湾に流すために開削された水路、新川ってどういうものだろう、といった好奇心、故。



本日のルート:京成線・佐倉;台地上の城下町;佐倉城跡;鹿島川;西印旛沼;歴史民俗資料館;再び新川筋に;阿宗橋;京成線・勝田台駅


京成線・佐倉
都営新宿線で元八幡に。そこで京成線に乗り換え、一路佐倉へと。例によって駅前で観光案内をチェック。駅の直ぐ前に観光協会がある。
南口を進み少し大きい道路との交差点の角にある観光協会に入る。佐倉や臼井(うすい)の資料を入手。佐倉はともあれ、臼井って何処だ?そういえば、その昔この地に覇を唱えた千葉氏の関連で、どこかで聞いたような、そうでないような、といった程度の事前知識。が、あれこれ見どころもあるよう。途中時間があれば、寄り道でもしてみよう、ということに。
台地上の城下町 観光協会を出る。南に小高い丘。丘とか台地を見ればとりあえず上りたい、ということで、あてもなく台地に上る。住宅が建ち並ぶだけで、これといって見どころがあるわけでなないのだが、のんびり台地上を散策。住所は鏑木町。メモをするため地名をチェックしていると、台地下にも鏑木町が飛地のように残っている。中世期に鏑木村であったところが、台地上に佐倉の城下町ができたため、分断されてしまった、とか。 そうえいば、駅に下りても、どこに城下町の面影があるのかはっきりしなかった。この台地上にあったわけだ。
地図をチェックすると、東から延びる舌状台地上に神社・仏閣、そして公的機関が集まっている。そして台地の西の端に佐倉城址・現在の国立歴史博物館がある。台地上にお城がある、ってことはよくあるが、城下町が台地上にあるって、あまり聞いたことがない。佐倉の城下町の特徴、ということであろう、か。

佐倉城・城下町のメモ;本佐倉城に移封されていた老中・土井利勝が家康の命により慶長16年から元和3年の7年をかけて、築城半ばで廃城となっていた戦国期の鹿島城跡に佐倉城を築城。その周辺に城下町をつくった。以来西の小田原、北の川越などとともに江戸防衛の要衝として徳川譜代の有力大名が封ぜられる。老中も多く輩出したため『老中の城』と呼ばれた。築城から明治維新までの258年のうち141年に渡ってこの地を治めたのが堀田氏。幕末に筆頭老中として日米修好通商条約を締結した堀田正睦(まさよし)が有名。(「ブラリ佐倉へ;佐倉市観光協会」より)。
ちなみに本佐倉城とは、佐倉から東に3キロにある下総の有力氏族・千葉氏の本拠地。千葉氏とは言うものの、もともとの下総守護でもあった千葉宗家を滅ぼし、この地に居を構え「千葉氏」を称した千葉氏の重臣・馬加氏ではある。千葉宗家と区別するため後期千葉氏とも呼ばれる。ともあれ、その千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城、天正十八年(1590)に豊臣秀吉により滅ぼされるまで9代に渡り居城した。千葉氏滅亡後は徳川一門が陣屋を構えていたわけだ。

佐倉城跡
鏑木町の台地を下りる。前もって台地上が城下町、と知っていたなら、もう少々台地を歩き、西の端のお城跡まで進んだろうが、今となっては後の祭り。駅前の通りを西に進む。
市役所下交差点で国道296号線・成田街道に合流。西に進むと歴史博物館交差点。道路脇にはお堀がある。城下町をすっぽりと囲んだ総構え(堀)の名残であろう。台地に上れば歴史博物館がある。またその裏手には佐倉城跡。歴史博物館には一度来たことがある。今回はパスし、城のお堀あたりをぐるっと歩く。
歩きながら少々気になったことがある。そもそも、歴史博物館が何故佐倉にあるのか、ということである。チェックする。いくつか候補地はあったようだが、10万坪といった広大な国有地があり、歴史的にもそれなりの納得感があるところ、ということで佐倉になった、とか。国有地はともかく、掘田氏の居城があったとか、近くに本佐倉城といった千葉氏歴代の居城があった、というのが「歴史的」納得感ということであろうが、我々歴史の門外漢にとっては、少々強引な紐付け、かも。

鹿島川
歴史博前交差点を過ぎ、少し歩くと鹿島川にあたる。地図を辿ると、外房線土気駅近くの土気調整池あたりが源流のようである。全長29キロの一級河川。地形図でチェックすると、結構変化に富んだ地形を縫うように走る。そのうちに源流から佐倉まで歩いてみよう、と思う。 鹿島橋を渡り、西詰を折れ川に沿って印旛沼に向かう。工業用水道佐倉浄水所脇を過ぎると直ぐ先に京成線。踏み切りがあるのかどうか分からない。が、とりあえず進む。と、踏み切りが。一安心。踏み切りを渡り、川筋を下る。少し進むと堤防工事中。ということで、迂回。田圃の畦道を西に歩き、京成線に沿って走る道に進む。線路に沿って1キロほど進むと「佐倉ふるさと広場」に。印旛沼、正確には西印旛沼に到着。

西印旛沼
休憩所で一息。オランダ風車やチユーリップ畑を眺めながら、沼脇のサイクリングロードを進む。印旛沼取水場近くの道脇に歌碑。遠辺落雁;「手を折りて ひとつふたつとかぞふれば 満ちて遠べに落つる雁がね」。臼井八景のひとつ。臼井八景とは、元禄の頃、隠士 臼井信斎と臼井にある円応寺の住職宗的が北宋の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)にならって選定した景勝の地。またこのふたりによって歌がつくられた、と。

桜並木を先に進む。印旛沼浄水場を過ぎると再び臼井八景の碑。瀬戸秋月の地:「もろこしの 西の湖 かくやあらん には(注;水面)照る浪の瀬戸の月影(水面に瀬戸村の空に輝く月がうつっている。唐の名勝の地・洞庭湖の秋を思わす美しい景観である)」。すぐそばに「防人の碑」。印旛郡出身の人の歌碑とのこと。携帯での写真の写りが良くなく、なんとかいてあったのか不明。が、この地から防人として出かけた人がいた、というだけで、歴史上のことである「防人」に少々のリアリティが感じられるようになった。
水路脇の道を進む。臼井駅、臼井城址への案内。臼井城って、千葉一族臼井氏の居城。方向としては進行方向左手に見える丘が城跡であろう。行きたし、と思えども、どうしたところで本日は時間がない。次回のお楽しみとして、先を急ぐ。

歴史民俗資料館

橋を渡ると直ぐ左に道を折れる。田圃の中を道が続く。岩戸地区。台地の裾を進み、成行きで台地上への細道を上る。のぼりきったところに車道。舟戸大橋から続く道路に出る。台地上の道を少し進むと宗像小学校とか歴史民俗資料館への案内。それにしても久しぶりに家並を見た感じ、ではある。人家のない沼の畔を延々と歩いてきたわけで、少し人心地。 案内に従い道を左に折れる。小学校の中に進む。奥まったところに歴史民俗資料館。が、閉館。時間は未だ四時過ぎ。少々早い。案内を見ると、最近では事前予約があるときだけ明けている、とか。それならそうと、どこかでアナウンスして欲しいものだ。とは思うが、村の歴史資料館を訪れる人はそれほど多いとも思わないので、まあ、仕方なし。階段に座り一息つく、のみ。

再び新川筋に

休みながら先のルートを考える。地図を見ると、新川を少し上った、というか下ったところにある阿宗橋のまで橋は無い。とりあえずその橋まで進み、それからは台地上を勝田台まで進むことに。休憩終了。小学校前の道を西に進む。道は下り。ゆったりとした坂を下る。西部地区公園を過ぎると道は再び台地に上る。台地手前に水路。水路に架かる名護屋橋を越えたところで道を離れ、田圃の畦道に入る。 先に車が走っているのが見える。そこまで行けばちゃんとした道があるだろう、と、成行きで進み道に出る。が、どうせのことなら新川脇を歩こう、と先に進む。新川の手前に水路。もう先には進めない。雑草の生い茂る踏み分け道を水路に沿って進む。本当にちゃんと道が続くのか、少々不安。が、なんとか先に進み少々力任せではあるが、阿宗橋の手前に出た。

阿宗橋
阿宗橋。延々と続いたサイクリングロードもこのあたりで一区切り。なんとなく管轄が変わるのか道の整備状態も変化する。今までが国で、これから先が市といったとことだろう、か。ところで、この阿宗橋って、名前が少々ありがたそう。由来などあるのかとチェック。昔は阿蘇橋と呼ばれていた、とか。新川を渡った台地上が阿蘇地区とよばれていたのだろう。現在でも阿蘇中学とか阿蘇小学校という名前が残っている。で、この阿蘇地区と先ほどの資料館のあった宗像小学校ではないが、宗像地区を結ぶので阿(蘇)+宗(像)=阿宗、と。足して2で割る、よくある地名命名パターンであった。

京成線・勝田台駅
橋を渡り台地へと上る。新川に沿って台地の廻りをぐるっと、とは行きたいのだが、なにせ時間切れ。日の暮れないうちに勝田台まで進まなければ、ということで川筋から離れ台地上を歩くことに。おおよそ4キロ弱といったところ、か。 坂を上りきったあたりから道を離れ脇道に入る。左手の森は少年自然の家。周りは未だ畑地が続く。成行きで南へと道を進む。予想とは異なり台地上は平坦。幅3キロ強といった幅広い舌状台地となっている。新川がぐるっと廻りを囲む。あまりアクセントのない道を進む。下高野を過ぎ上高野まで歩くと道の周囲は工業団地となる。上高野工業団地。工業団地を抜け、道の右手に黒沢池市民の森の緑を見れば、勝田台の駅は直ぐ近く。ゆるやかに上り、そしてゆるやかに坂を下ると京成線勝田台駅に着く。本日の散歩はこれで終了。家路へと急ぐ。