金曜日, 4月 15, 2022

伊予 歩き遍路道;久万高原町から三坂峠 ②千本峠越え遍路道合流点から三坂峠まで

先回は久万高原町に入るあたりから遍路道としても活用された土佐街道・松山街道を辿り、千本峠を越え高野、槻ノ沢集落が国道33号に下る遍路道合流点に立つ遍路標識までメモした。ここまでのルートは一部藪道はあるものの、町並みの中、耕地の畦道といったものでありそれほど厳しい道ではなかった。
今回は千本峠越え遍路道合流点から三坂峠までをメモする。いつだったか千本峠を越えて高野、槻ノ沢集落を経て国道33号まで下りて来たのだが、その時はこの先三坂峠まで国道筋を辿るものと思い込み、さらっと「国道を三坂峠まで進む」とメモした。
が、先般、遍路道を兼ねた土佐街道を三坂峠を辿ったのだが、それは国道を進むことなく、国道の西に逸れ、東に逸れ、藪や崖を抜けるルートであり「国道を三坂峠まで進む」といった単純なものではなかった。
実際のところ、歩き疲れたお遍路さんが国道を逸れて遠回りしたり、藪道を進むとも思われないのだが、取敢えず旧遍路道(土佐街道・松山街道)と比定されている以上、そのルートをガイドすることにした。
今回のルートの概要であるが、先回の千本峠越え遍路道とは趣を異にし、崖道、藪道といったものもある。国道を逸れることにはなるが、国道からそれほど離れることはないため、気持は楽ではある。とは言いながらあまり快適な道ではない。
メモはしたものの、このルートお遍路さんが歩くとも思えないが、取敢えず旧遍路道ということだけを眼目にメモをはじめることにする。
本日のルート;
千本峠越え遍路道合流点の遍路標石から六部堂越え遍路道合流点まで
千本峠遍路道合流点の遍路標石>遍路標石より国道を逸れ畦道を進む>国道をクロスし畦道を進む>牛頭天王社>常夜灯>遍路標石と遍路墓>河内神社の社碑と注連縄>高山寺と六地蔵>六里の里程石常夜灯>久万川左岸の里道を北進する>国道33号に出る>レストパーク明神>国道を逸れる>久万川堰堤を渡り川の右岸に移る>土佐街道標識と廻国供養塔>川沿いの崖道は途中でブロックされているため、土佐街道標識まで引き返し一旦国道に出る>六部堂越えの遍路道下り口・皿ヶ嶺登山休憩所
六部堂越え遍路道合流点から三坂峠へ
国道33号右手に徳右衛門標石>国道を逸れ藪道に入ると馬道>土佐街道標識>小川を越え国道に向かう>3基の遍路墓>国道33号右手に遍路標石>駒つなぎ石・駒つなぎ杉>地蔵尊>旧三坂峠>(国道33号三坂峠に戻る>桧垣翁顕彰碑)

千本峠越え遍路道合流点の遍路標石から三坂峠まで


千本峠越え遍路道合流点の遍路標石から六部堂越え遍路道合流点まで

千本峠遍路道合流点の遍路標石
久万川に架かかる新大橋手前で国道に出ると、橋を渡った北詰め、道右左手に遍路標石と小さな石仏が並ぶ。遍路標石には「浄るりじ道 三り四丁半 いわやじ江 四り」と刻まれる。
また「遊山会」の資料には、此の地が「槻ノ沢、畑野川を経て岩屋寺へ行く道の分岐点となっている」とある。

遍路道
遍路標石に「いわやじ江 四り」と刻まれ、「槻ノ沢、畑野川を経て岩屋寺へ行く道の分岐点となっている」との記述は、この標石は松山の第四十六番札所浄瑠璃寺から久万の第四十五番札所岩屋寺へと向かう、所謂、逆打ち遍路道の案内ということだろう。 
何時だったか歩いた順打ちの遍路道は第四十四番札所大宝寺を打ち終えた後、畑野川筋河合を経て第四十五番札所岩屋寺へ向かった。
岩屋寺を打ち終えた後、河合まで打ち戻りその先で千本峠越えの山道に入り、高野の集落を経て槻ノ沢の集落に出る。そこからは成り行きで仰西渠の辺りにでたのだが(千本峠越え前半部千本峠越え後半部)、「遊山会」の資料では槻ノ沢からこの標石へと繋ぐとの記述となっている。
実際歩いた印象では、槻ノ沢から標石への道筋には大除城址のある山に大きな採石場があり、山裾を進めそうもなく、道なりに仰西渠辺りに出たのだが、ひょっとすると砕石場の西端を抜けこの標石の地まで歩けるのかもしれない。

遍路標石より国道を逸れ畦道を進む
畦道、農道を右折・左折・右折し国道へ
遍路標石対面より国道を逸れ畦道へ

土佐街道を調査した「遊山会」の資料には、遍路標識から先の遍路道は国道を左に逸れ、少しの間、国道の西側を進むとある。が、そこに道はなく耕地が広がる。また、トラックログの国道から逸れる辺りには民家が建つ。
「遊山会」の土佐街道をトレースすべく、民家の敷地に入らないよう左手の草地を迂回し耕地の畦道に入る。トラックログに従い畦道を進み農道に出る。そ子を右折し直ぐ畦道へと左折。その先、農道に出た所で右折し国道に出る。

国道をクロスし畦道を進む
国道クロスし畦道に

農道を左折し国道に戻る
国道をクロスした遍路道(土佐街道)は生活道を少し進んだ後耕地の畦道へと左折し、その先農道に出た後左折し国道に戻る。土佐街道を踏査した「遊山会」の資料には「天王から先は耕地区画、排水路、農道整備といった圃場整備の影響を受け痕跡らしきものはほとんど残っていない」とある。それが畦道を歩くということになっているのだろう。

牛頭天王社
国道33号をしばらく先に進むと、国道左手に大きな石碑が立つ。石碑に天王社と刻まれる社は牛頭(ごず)天王社。
牛頭天王と言えば京都の八坂神社の元の祭神。明治に八坂神社と改名する以前は祇園社とも祇園感神院と呼ばれていたわけだが、牛頭天王は祇園精舎(釈迦が説法をおこなった聖地)の守護神。日本では神仏混淆の代表的な神さまとなる。
明治元年(1868)の神仏分離令において、「中古以来某権現或ハ牛頭天王之類其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候何レモ其神社之由緒委細ニ書付早々可申出候事」と、権現と天王の神名が付く社はすべて改名すべしとの名指しのお達しにより、祇園さんは社のある地名より八坂神社と改名。祭神も本地垂迹では牛頭天王を本地とするスサノオを祭神とし、全国の祇園社も右へならえと八坂神社としたようだ。
真偽のほどは不明だが、明治期、(牛頭)天王>天皇との連想より、天皇復権の時代ゆえか不敬にあたると考えたといった記事を目にしたことがある。また、疫病退散の神として庶民信仰に深く根付いた天王さんが、天皇神格化を目する新政府にとって目障りな存在であったゆえとの記事もあた。
とはいうものの、政府の締め付けにもかかわらず地域に根付いた天王信仰が、お上の御触れだけで消えるわけもなく、現在でも牛頭天王を祀る社の数は稲荷、八幡、伊勢、天満宮、熊野、諏訪に次いで7番目に多いという。この社もそのひとつかも。

常夜灯
牛頭天王社から国道を少し進むと国道左手に大きな常夜灯が立つ。常夜灯には天、金、石の文字が刻まれる。天は天照皇大神宮を指し伊勢神宮の伊勢信仰、金は金毘羅神宮・金毘羅信仰、石は石筒神社・石鎚信仰を指す。慶応三年三月吉日 組中の銘も刻まれる 慶応三年(1867)の建立。組中はこのあたりは中組と称される地区。中は講中といった風に使われるのを見かける。(中)組中とのことだろうか。
この頃には四国の石鎚巡礼、金毘羅巡礼だけでなくこの地よりお伊勢参りに出かける人も多かったのだろう。途次出合った伊勢大神宮がお伊勢参りの先達である御師の滞在所であるとのことがそれを証する。
御師逃散を畏れ、村を離れることが許されなかった庶民も、江戸の頃になるとより当局の許しを得れば神社・仏閣への参拝の旅は許されるようになった、とか。
江戸期には宗教礫・経済的相互扶助組織の講が組織され、進行と娯楽を兼ねた神社仏閣参拝が盛んに行われたと言う。
遍路道はこの常夜灯より左に逸れる道に入り、国道の西を北進する。

遍路標石と遍路墓
常夜灯の立つところから国道を逸れると直ぐからに出る直ぐ小祠に地蔵立像と石仏、そしてその横に手前に遍路標識。「遊山会」の資料には小祠には遍路墓が祀られるとある。 遍路標石は風雨に摩耗し文字は読めない。
土佐街道を調査した「遊山会」のトラックログは遍路標石より右に折れ北西に進む。

河内神社の社碑と注連縄石
トラックログに従い道を進むと河内神社がある。「遊山会」の資料には河内神社には三輪田米山の揮毫になる社碑と「大順成徳」の文字を刻んだ注連縄石が見えるとある。道脇のある社にお参り。
三輪田 米山(みわだ べいざん)
河内神社の注連縄石。「大順成徳」が左右に
社碑
文政4年1月10日(1821年2月12日)- 明治41年(1908年)11月3日)は江戸末期から明治にかけての書家。僧明月、僧懶翁とともに伊予三筆と並び称される。 伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。嘉永元年(1848年)、父死去、神官を嗣ぐ。
国学、漢学、和歌を国学者大国隆正に学ぶ。また書を日下陶渓(字・伯巌)を手本に学び、僧明月、細井広沢、王羲之の書法を研究。
明治4年(1871年)、旧松山県より日尾八幡神社祠官に任命。
明治13年(1880年)、隠居。愛媛県中予地方を中心に約3万の揮毫を残す。酒が入らぬと良い書は書けぬと二、三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前まで飲んでおもむろに筆を取るのが常であったという。書風は豪放磊落にして気宇壮大、雄渾にして天衣無縫、何物にも捉われない破格の書体は、近代書の先駆としていまなお独自の輝きを放つ。また明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった」とWikipediaにあった。

高山寺と六地蔵
高山寺

六地蔵
河内神社の隣に高山寺。先に進むと道脇に六地蔵が並び立つ。
六地蔵
地の蔵。生きとし生けるものを涵養する大地。釈迦(仏陀)滅後、はるかな年月をへて次の仏陀(弥勒菩薩)が現れるまで、仏陀にかわり六道輪廻を巡る衆生を救済するのが地蔵菩薩と言う。六地蔵はこの六道(仏教の輪廻(りんね)思想において、衆生がその業に従って死後に赴くべき六つの世界。 地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道をいい、六趣ともいう)の衆生を救済する菩薩さま。

六里の里程石常夜灯
その対面に常夜灯
土径に六里の里程標石

道成りに進み土径に入ると道の右手に六里の里程石とその対面に常夜灯。
里程標石には「松山札の辻から六里」と刻まれる。松山城下、現在の市電本町三町目停留所近くのお濠そばに松山藩の高札場があり、その札の立つ場所より土佐街道を予土国境の黒滝峠まで一里ごとに里程石が立つ。
越ノ峠から黒滝峠までの里程石
一里の里程石は不明。二里の標石は重信大橋北詰近く。八坂寺の北の遍路道に三里、一遍上人修行の場として知られる窪寺に四里の里程標石に出合っている。五里の里程石は不明。
久万高原町の中心部に七里の里程標、越ノ峠からすぐ八里里程標石、有枝川の谷筋へと向かう色ノ峠手前に九里里程標石、七鳥かしが峠を越え面河川の谷筋に出ると十里の里程標石、面河川を渡り高山通りの尾根筋手前に十一里の里程標石、黒滝峠へ向かう尾根道の猿楽岩傍に十二里、黒滝峠には十二里十六丁の里程標石。昨年の土佐街道歩きでこれらの里程標石はすでに確認済。 

久万川左岸の里道を北進する
舗装道から見た常夜灯

舗装された里道を進む
六里の里程標石を離れると直ぐ舗装された農道に出る。久万川の左岸に沿って道なりに進むと前方に三坂道路の高架橋が見えてくる。



三坂道路
三坂道路が見えてくる
三坂道路は屈曲・急勾配の続く国道33号(現国道440号)三坂峠越えのバイパス道として建設されたものであり、2012年の3月に全線開通した(現在国道33号)。
松山市久谷で国道33号(現在国道440号)と分かれ、ふたつのトンネル、8つの高架橋で三坂峠を迂回する。久万高原側の第一三坂トンネルは3キロ、松山側の第二三坂トンネルは1.3キロ。三坂峠の山腹を穿った全長8キロ弱の三坂道路は久万高原の東明神で国道33号(現国道440号)に合流する

国道33号に出る
三坂道路の高架を潜り橋を渡る
三坂道路(現在国道33号)の高架を潜り、小川に架かる橋を渡る。その先に「土佐街道」と書かれた標識が立つ。遍路道(土佐街道・松山街道)をオンコースで進んでいることを確認する。標識の先は数段の段差となって国道筋に上る。ジグザグに上る道筋には桜が植えられている。後述する「桧垣伸翁の顕彰碑」にあった「桧垣桜公園」がこれなのだろうか。

土佐街道標識。その南に三坂道路が走る
鉄柵の切れ目から国道筋に出る
土佐街道を調査した「遊山会」のトラックログは国道に出ることなく久万川左岸と国道33号の間を進むように見えるが、それは破線で記されている。比定されていないのか危険個所を指すのか不明だが、とりあえず一旦国道筋に出ることにする。
国道に上るステップを探し鉄柵の間から国道筋に出る。


レストパーク明神
鉄柵を出たところはレストパーク明神と呼ばれる休憩スポットとなっている。その公園の一角に桧垣伸翁の顕彰碑が立つ。顕彰碑から久万川筋を見ると結構開けている。前面には三坂道路が見え、久万川はその下を潜る。川筋まで結構比高差があった。
桧垣伸翁の顕彰碑
「久万地域の発展を願って明治14年第2代の上浮穴郡長となった桧垣伸さんは、上浮穴郡の発展には道路を整備することが重要だと考え、各方面に熱心にはたらきかけ、郡民の先頭に立って多くの困難を乗り越え、7年間の歳月をかけて、国道33号の開通を成し遂げました。
そのほか、久万凶荒予備組合結成の基礎をつくったり、また、植林や三椏の栽培を進めるなど、上浮穴郡の発展に大きな力を注がれました。
垣伸さんの業績をたたえる、道路開通の記念碑は、現在も三坂峠に建てられています。
伸さんのお孫さんで東京にお住まいだった、桧垣端さんは、おじいさんの素晴らしい業績に強く心を打たれ、久万地域の人々が、地域を大切にする心を一層強め、久万の地域がますます栄えることを願い、平成13年、久万町に3,000万円というたくさんのお金を寄付されました。
桧垣伸さんの尊い業績と、桧垣端さんのご意志に深く感謝し、そのご意志を受け継ごうとの強い決意で、桧垣端さんの寄付金をもとに、ここに「桧垣桜公園」をつくり記念碑を建てて記念します。平成24年3月吉日 桧垣伸翁を顕彰する会」。

国道を逸れる
国道を離れ藪に入る


成り行きで進むと採石置き場に出る
レストパーク明神から国道33号を進む。国道から逸れ旧遍路道(土佐街道)へのアプローチを探すが、国道と久万川の間が狭く樹林が茂る急斜面となっており、ガードレールが切れる下り口もみつからない。
国道を先に進み、国道と久万川戸の間が広くなるあたりで、樹林が切れ草が茂るで一帯となり、また国道左手も切り立った斜面に替わり国道より一段高くなる。取敢えず成り行きでブッシュの中に踏み込む。踏み込んだ左手、ブッシュの先は急斜面でとても足を踏み入れようとは思えない。無理しないで国道を迂回したのが正解だった。
ブッシュに踏み入れ、トラックログに従い右に進むと砕石置き場に出る。


久万川堰堤を渡り川の右岸に移る
砕石場前を右折し先に進むと水路にあたる

水路の先で堰堤を渡り久万川右岸に
採石置き場を進むと、国道から採石工場へのアプローチ道に出る。「遊山会」の土佐街道(遍路道)のトラックログは国道にでることなく、久万川左岸を進む。
トラックログに従い、採石工場のアプローチ道を左折、その直ぐ先、工場敷地手前の三差路を右折し先に進むと水路にあたる。水路に沿って進むと久万川に出る。橋はない。河に設けられた堰堤を渡り久万川右岸に出る。

土佐街道標識と廻国供養塔
道の左手に土佐街道標識

土佐街道標識の裏手に回国供養塔
堰堤を渡り簡易舗装の道を国道筋へと上ってゆくと、道の左手に円柱の「土佐街道」の標識が立つ。また、土佐街道標識の直ぐ裏手、杉の木に隠れるように供養塔が立つ。「遊山会」の資料には「天下泰平 九州筑後久留米 奉納神社仏閣回国供養塔 日月清明 光厳大徳 文政八乙酉七月 施主同行妻さよ 同娘とも」とある。六部回国供養塔である。
回国供養塔
大乗妙典回国(廻国)供養塔。六十六部供養塔と、略して六部供養塔とも言われるもの。日本各地の66の代表的寺院(国分寺など)に写経した大乗妙典(法華経)を各一部奉納すべく全国各地を巡礼してまわる。通常、祈願成就の折建立するものではあるが、この供養塔は「九州筑後久留米」とあり在地ではないため祈願成就ではないだろう。供養塔は祈願成就だけでなく、回国途次なんらかの縁ができた地、または途次倒れた地に建立することもあるとのこと。
文政二乙酉(きのととり)
既にメモしたのだが、復習のため元号と干支の関係を再掲する;
回国供養塔に刻まれた「文政八乙酉」の銘。文政は元号、乙酉(きのととり)は干支(えと)。乙酉(きのととり)は干支と呼ばれる60を周期とする数詞の22番目。古代中国にはじまる暦法上の用語であり、暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。
干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類)の組み合わせよりなり、甲子よりはじまり、乙丑 ,丙寅,丁卯,戊辰,己巳,庚午,辛未,壬申,癸酉,甲亥、、と十干と十二支がひとつずつずれる組み合わせで進み、、60番の癸亥で一巡する。ぱっと見には10と12であれば120のようにも思えるが、61番は最初の組み合わせに戻るため60通り。そういえば10と12の最少公倍数は60だ。
で、前々から干支が元号(この場合は文政)とペアで並ぶのは?と思っていたのだが、よくよく考えればお上の都合でころころ変わる元号では経年がわからない。 例えば、文政の三つ前の元号は寛政だが、例えば、寛政五年と文政八年までは何年あるかこれだけではわからない。
が、干支と合わせると、寛政五年(1793)は癸丑(みずのとうし)で干支の50番目。文政八年(1825)は乙酉(きのととり)は干支で22番目。60-50 +22=32。1825-1793=32。これなら商人も10年でいくらといった利子をつけた商いも安心してできるかも。なんとなく納得。
因みに、干支は通常十二支とするが、本来は十干と十二支の組み合わせであり上述の60の組み合わせを言う、また還暦を61とするのは干支(暦)が一巡し元に還ることに拠る、と。

川沿いの崖道は途中でブロックされているため、土佐街道標識まで引き返し一旦国道に出る
土佐街道標識より杉に覆われた崖道に入る

ほどなく前面が鉄柵で完全ブロック。撤退

土佐街道を調査した「遊山会」のトラックログは、国道に出ることなく国道と久万川に挟まれた崖道を進む。トラックログに従い、土佐街道標識を左に折れ、国道下、久万川に挟まれた杉林の崖道をしばらく進むとフェンスが国道から沢筋まで設置されそれ以上進めない。獣除なのだろうか。どこか入り込める箇所はないかと探したが、完全にブロックされておりそれ以上進むことはできない。撤退を決め土佐街道標識のところまで戻り国道に出ることにした。

六部堂越えの遍路道下り口・皿ヶ嶺登山休憩所
簡易舗装の道を上り国道筋に
皿ヶ嶺登山休憩所
土佐街道標識より簡易舗装の道を上り、フェンスの切れ目から国道筋に出る。国道を隔てた東側は広場となっており、駐車スペースや建屋が見える。地図には皿ヶ嶺登山休憩所とある。ということは、この地は六部堂越えの遍路道が国道筋に下りてきたところである。
六部堂越えの遍路道
荒れた林道
六部堂越え
六部堂越えの遍路道は、第四十五番札所より有枝川の谷筋・河合の集落まで戻り、そこから有枝川の谷筋を上流域へと北進。河之内の集落辺りから有枝川の支流に沿って西進し林道を峠へと上ることになる。
が、この林道は荒れ放題。倒木を乗り越え、茨を踏みしだき峠へとむかう。その上、峠(六部堂越え)近くで林道は突然消える。その先、峠までそれほど距離はないのだが、深い藪。GPSを頼りになんとか辿りつけるといったルートであった。このルートを辿るお遍路さんがいるとは思えない。
この有枝川の谷筋から六部堂越えに上るルートと対照的に、六部堂越えから国道33号・皿ヶ嶺登山口休憩所へと下るルートは整備されている。その名が示すように、六部越えを経て皿ヶ嶺に登る登山者のために整備されているのだろう。
下山ルートは良しとするも、上りの荒れ具合・道なき藪漕ぎを考えれば、往昔の六部堂越えの遍路道を辿るのはお勧めできない。


六部堂越え遍路道合流点から三坂峠へ

国道33号右手に徳右衛門標石
徳右衛門標石

国道のガードレール切れ目より藪に入る
皿ヶ嶺登山休憩所より国道33号を進む。「遊山会」の比定する国道下の崖道を進む土佐街道(遍路道)に下りるアプローチを探すが、国道と久万川に挟まれた崖道を越えた先は深い藪。
下に下りる道がないものかと国道左手を注意しながら進むと、国道右手に徳右衛門標石が立つ。「是より浄るり寺へ二里」「東明神村中」と刻まれる。「遊山会」の資料には四国新道開通後に旧道から移されたとあった。
国道から見た土佐街道筋。藪漕ぎで進む

「旧道から移された」とある以上、取敢えず旧道に入ろうと、「遊山会」の比定する土佐街道(遍路道)のトラックログが示す、国道下へとガードレールの切れ目からステップを下り藪地に入る。
武田徳右衛門
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

国道を逸れ藪道に入ると馬道
藪を進み山裾に

踏み込まれた道に掘り切り風の道。馬道?
藪に入り土佐街道のトラックログをチェックしながら比較的藪の薄いところを成り行きで進み、小川というか湿地を抜けて山裾に接近すると比較的広い踏み込まれた道に出る。
少し進むと掘り切りと言われればそうとも見える箇所がある。「遊山会」の資料にある「典型的な堀切の景観を示す「馬道」なのだろうか。はっきりしない。

土佐街道標識
踏み込まれた道に土佐街道標識

笹原に土佐街道標識

馬道(?)の直ぐ先、踏み込まれた道の左手に円柱の「土佐街道」標識が立つ。国道改修前の遍路道(土佐街道・松山街道を)を辿っているようだ。
踏み込まれた比較的広い道はその先で消える。時に木に括られたリボンを頼りに藪を進むと。山裾の樹林と藪となった平場の境、笹の茂る中を成り行きで進むと再び円柱の「土佐街道」標識が立っていた。

小川を越え国道に向かう
土佐街道標識の小川を渡り国道に向かう

「土佐街道」標識の先でふたつの小川が合わさる。「遊山会」の調査したトラックログは国道33号に向かって北西。トラックログに従い小川を渡り、草の茂る平場を進むと幾多の大岩が草地から山裾を流れる小川の手前に沿って置かれている。
岩を乗り越えると一帯は切り開かれ広い敷地となっている。国道筋にあった土地分譲 住宅建設企業の敷地のようだ。
敷地内を抜け先にすすむ。

3基の遍路墓
道の右手に遍路墓3基

その直ぐ先で遍路道は国道に出る
広い敷地をふけると国道に向かう道に出る。右折し先に進むと道の右手、民家の裏手、生垣というか木立の中に3基の石仏。「遊山会」の資料には遍路墓とあった。遍路道であることを確認。そのまま先に進むと国道33号に出る。

国道33号右手に遍路標石
国道を少し進むと道の右手に遍路標石が立ち、そこから国道を逸れて進む道がある。標石は新しい。「南無大師遍照金剛 浄瑠璃寺八.二粁」と刻まれる。
土径の左手に古い遍路標石。「右 へんろみち 左 松山道 浄るり寺へ二里 明治廿三年六月建立 鈴木覚蔵」と刻まれる。
南無大師遍照金剛
「南無」は「帰依する」。「大師」は高僧没後、朝廷より賜る尊称。「遍照金剛」は空海が唐で真言密教の正式な継承者としての儀式(潅頂)時に賜った潅頂名。光明があまねく照らし、金剛(ダイヤモンド)のように壊れることなく不滅である、の意。

駒つなぎ石・駒つなぎ杉
駒繋ぎ石?

土径を進むと民家があり、遍路道はその庭先を進む。と、庭の植木の中にちょっと気になる形状の石がある。案内はないのだが、「遊山会」の資料にある「駒つなぎの石」に似ているようにも思える。
駒つなぎの石
「遊山会」の資料には「三坂峠前後の道は、「土佐街道」であると同時にへんろ道でもあり、国道が開通するまでは大変にぎわったようである。次に紹介する三坂馬子唄に歌われる「馬子」は賃金をもらって、物を目的のところへ運搬する人で、「駄賃持ち」と呼ばれ、「馬追い」「なかせ」「馬方」とも呼ばれていたという。
三坂越えすりゃ雪降りかかる戻りゃ妻子が泣きかかる
むごいもんぞや久万山馬子は三坂夜出て夜戻る
わしも若いときゃ城下まで通うた高井の川原で夜が明けた
馬よ歩けよ沓買うて履かそもどりゃとうきび煮て食わそ
馬による物資輸送は、当時、最大最良の方法だったようで、多くの「駄賃持ち」がいたらしいが、道の幅員が狭いので、振り分け荷物を満載した馬と馬との行き違いは困難を極めたようで、馬の首に鈴をつけて往来し、鈴の音を聞けば手前の広い場所で待って離合するようにしたのだという。人馬往来の多さを物語るように、今も峠の近くには、「駒つなぎの杉」「駒つなぎの石」残っている」とあった。
駒つなぎの杉
駒つなぎの杉
なんとなく民家庭崎の石は「駒つなぎの石」のように思える。では「駒つなぎ」の杉とはどれ?民家前を右に折れ国道に向かう道筋に杉の木立が並ぶ。「遊山会」資料の写真と見比べると、如何にもそれっぽい。案内はないがこの杉の子立が駒つなぎの杉なのだろう。
なお、「三坂峠について述べた文献には、必ず「鈴木の茶店」が登場するが、その鈴木の子孫の家の前を通り国道三三号へ出る手前にへんろ標があり」と記される。とすれば途次、庭に「駒つなぎの石」らしき石のあった民家が鈴木の茶屋があったところだろう。

地蔵尊
民家庭先を抜け先に進むと、国道33号より逸れて来た道に当たる。合流点を右に折れ、森の小径を進むと、三坂峠から札所46番浄瑠璃寺、47番八坂寺の先辺りまでの今回の「あるき遍路」のルート案内がある。また道の右手一段高いところに地蔵尊が祀られる。
さらに先に進むと、道脇に「四国八十八カ所へんろの旅」の案内。「四国八十八カ所へんろの旅;四国八十八カ所へんろの旅は、阿波の発心の道場(1-23)に始まり、土佐の修行の道場(23―39番)を経て、伊予の菩提の道場(40-65番)に入り、讃岐の涅槃の道場(66-88番)を巡って結願となります、全行程約1440km、なだらかなみちもあれば、険しいみちもあり、あかたもわたしたちの人生に似ているようです」とあった。
阿波で悟りの心を思い立ち、土佐の海岸線に沿った長丁場で修行の心を鍛え、伊予の山懐を辿る遍路みちで煩悩を解き悟りの心を養い、讃岐であらゆる煩悩から解き放たれた境地に至るってことだろうか。
発心・修行・菩提・涅槃と四国四県
この発心・修行・菩提・涅槃を四国四県と関連付けたのはいつ、誰なのだろう。 発心・修行・菩提・涅槃は仏道修行の「四門思想」に由来するとのことであり、お釈迦さまが「東方」で発心し、「南方」で修行を行い、「西方」で菩提をて、「北方」で涅槃の境地に入るとのこと。位置関係も四国四県に一致している。見事なブランド戦略を立案したのは誰なのか結構気になる。

旧三坂峠
国道から5分強土径となった土佐街道・遍路道を歩くと三坂峠の案内。「標高720メートル 久万高原町 伊予と土佐を結ぶ土佐街道にある急峻な峠です。江戸初期に久万の商人山之内仰西によって拓かれました。明治27年に三坂新道(国道33号)ができるまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。峠からは松山市内が一望でき、茶屋もあり、久万山馬子や四国遍路をはしめ多くの旅人が行き交ったことが絵図からわかります」とあった。
峠は切り通しとなっており、切り通しの上にはお地蔵様が佇むとのこと(「えひめの記憶」)。常光寺(松山市恵原町)の僧が文政9年(1826)、四国・西国霊場巡拝記念に造立したものと言うが見逃した。
で、人馬や遍路や往還したこの三坂峠、藩政時代には要害の地として幕末動乱期には砲台を据え付け、備えを固めた、と。松山藩は親藩ゆえ討幕派の土佐藩に対するものであろうか。とはいえ、土佐藩の松山藩征討軍に対し松山藩は抵抗することなく開城した。
久万の商人山之内仰西
三坂峠を拓いたとの案内のあった山之内彦左衛門翁(仰西は仏門に入ってからのもの)であるが、久万高原町に今も残る「仰西渠」でも知られる。久万川との川床の格差が10mもあり、豊かな久万川の水を耕地に引くことができず困っていた村人のため、私財を投げ打ち、農業用水路を開削した。岩盤を穿ち幅1.2メートル、深さ1.5メートル、途中約12メートルの隧道を通し全長さ57メートルの水路を3ヶ年の歳月をかけてつくった、と。仰西渠は越ノ峠への途次出合うことになる。

三坂峠は所謂「片峠」。四国山地の北端、松山のある道後平野に向かって山地が落ちてゆくものであり、松山方面からは上りだけ、高知方面からは下りだけの峠ではある。遍路道はここから久谷の里にある第四十四番札所浄瑠璃寺へと三坂峠を下ることになる。

国道33号三坂峠に戻る
国道合流点にも遍路標識
旧三坂峠から国道33号三坂峠に戻る。道を戻り、「駒つなぎ石」らしき岩のあった民家へと左に逸れることなく、研修所跡(ドライブイン跡?)の空地に沿って直進し国道33号に合流。
合流点左手には「46番浄瑠璃寺 8.5km」「45番大宝寺 46番岩屋寺」と記された木の標識が立つ。その対面にあるコンクリートブロックはかつてこの地を訪れた時、バスから降りた停留所があったところ。バス停の案内標識もなくなっており、バス停はなくなったのだろうか。
桧垣翁顕彰碑
国道右手、研修所跡(ドライブイン跡?)入り口傍に桧垣翁顕彰碑。明治期の上浮穴郡郡長。地域の発展に道路整備が不可欠と、三坂峠開削に尽力し所謂四国新道の一環として明治24年(1891)三坂峠道の開削が実現。
さらに郡長退任後も松山と土佐の佐川を結ぶ四国横断鉄道建設計画を推進するも志半ば大正13年(1924)に没した、といったことが刻まれていた。 
旧国道33号(現国道440号)の歴史
その後、大正9年(1920)には県道松山―高知線として認定され、昭和27年(1952)には国道33号に昇格した。昭和初期には運搬主体が馬車からトラックに代わり、昭和9年(1934)には省営バス(国鉄、JRバスの前身)が松山と久万を結んだとのことである。
しかしながら、この国道は明治時代の運搬の主力である「荷馬車規格」であり、自動車道としては狭く、特に三坂峠付近の天狗鼻の険路は安全な交通の障害ともなっていた。そのため、昭和34年(1959)から国道の大改修が始まり、昭和42年(1967)には幅員も6mから6.5m、全線舗装の道に改修された。
この改修時、それ以前のルートも変更されている。当初のルートは大体は現在の旧国道33号(現国道440号)と同じではあるが、360度回転の塩ヶ森トンネル(全長152m)付近は、塩ヶ森トンネル開通以前、トンネル北側に道があり、そこから大友山の西麓を現在の砥部町総合公園の東側を通って砥部町の宮内へ出ていた、という。また、三坂隧道が開削され、現在も残る三坂隧道の付近、ヘアピンカーブから旧国道33号に沿って続き三坂隧道辺りで突起する天狗鼻を通るルートは変更され、新しいルートが開かれ、天狗鼻部分は開削され現在の三坂隧道を抜けるルートとなった、と言う。
斯くして改修された旧国道33号であるが、依然峠付近の急カーブの連続や冬の積雪、また240mm以上の雨が降れば通行止め、といった状況であり、それを解決する事業として三坂峠を回避する計画が昭和60年(1985)にはじまり、平成8年(1996)に事業化決定、着工平成11年(1999)、三坂第一トンネル(延長3,097m)と三坂第二トンネル(延長1,300m)の2本のトンネルと9本の橋梁によって、三坂峠を回避する自動車専用道路である「三坂道路」が開通した。構想から実現まで30年を有した事業であった(「えひめの記憶」より)。
現在は三坂道路が国道33号となり旧国道33号は国道440号となっている。
四国新道
上に、「上浮穴郡長に赴任した桧垣伸氏は、上浮穴の発展は道路の整備にあると四国新道(三坂新道)建設に尽力し」とメモした。正確には、四国新道の御坂峠道周辺の建設に尽力した、と言うことではある。
四国新道とは、香川出身の政治家である大久保諶之丞の構想によるものである。明治17年(1884)に「四国新道構想」を発表。そのルートは当初、丸亀、多度津から琴平、阿波池田、経て高知へ至る計画であったが、後で高知から佐川、須崎へ至る路線、更にそこから松山に至る計画も追加された。総延長は約280km。 1886年(明治19年)に起工。起工から8年後の1894年(明治27年)に四国新道は完成した(「Wikipedia)より)。

過日辿った土佐街道歩きのメモをもとに、いつだったか千本峠越えの遍路道メモで、高野、槻ノ沢の集落を越え国道筋に出た後、国道33号を三坂峠へと言った漠としたルート案内ではなく、往昔の遍路道を久万高原町の中心部から旧三坂峠までをトレースした。
歩き遍路さんが、疲れた体でわざわざ遠回りとなるルート、藪漕ぎ道を歩かれるとも思えないが、取敢えず旧遍路道としてトレースしておく。