月曜日, 2月 16, 2015

南多摩 大丸用水散歩 そのⅣ;大丸用水の幹線水路のひとつ、「大掘」を辿る

二ヶ領用水散歩のほんのついでにと、戯れに訪れた大丸用水ではあるが、その規模は予想外に大きく、大丸用水の二つに分かれれる幹線水路のひとつである「菅掘」を三度に分けてを歩くこととなった。
四度目の今回は、「菅掘」と共に大丸用水の幹線水路の残りのひとつである「大堀」を辿ることにする。「大堀」は南武線・南多摩駅北の「分量樋」で「菅掘」と分かれ、南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される、おおよそ5キロ強の用水路である。

本日のルート;南武線・南多摩駅北の分量樋>都道9号を越えると開渠となる>宿掘分岐>稲城第四保育園>五反田掘が分かれる>稲城第三小学校辺りで暗渠に>青渭神社>五反田掘が合流>久保堀が合流>都道9号に接近し開渠となって姿を現す>都道9号バイパスを越える>稲城第一小学校南へ開渠で下る>中掘が分かれる>柳田掘合流点>都道19号を越える>豊堀が合流>川崎市立菅中学校の敷地を潜る>京王線の高架を潜る>三沢川に注ぐ

南武線・南多摩駅北の分量樋
大丸用水堰で多摩川から取水された水は「うち掘」を流れ、南武線・南多摩駅北の分量樋で「菅掘」と「大掘」に分かれる。右手に分かれた「大掘」は南武線高架工事の跡地の駅前に細い水路となってその姿を残すが、すぐに工事跡地の地中に潜り、都道9号・大丸交差点方面へ下る。




都道9号を越えると開渠となる
都道9号の大丸交差点辺りで水路を探すと、交差点の少し西に水路が顔を出している。交差点を渡り、水路に沿って進む。結構雰囲気のいい用水の景観を呈する。








宿掘分岐
先に進むと、道が二つに分かれる辺りで一瞬暗渠となるが、道の左手に水路が見える。今までのきっちりした用水掘とは異なり、二手にわかれる左手の水路は宅地工事の影響の残る、雑とした雰囲気で民家の前を進む。一方、右に分かれる水路は上を鉄板で覆われ民家に間に入ってゆく。本流は右手に分かれた水路。左手に分かれた水路は「宿掘」である。

◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流した後、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。


稲城第四保育園
「宿掘」との分流点では宅地工事の影響か、結構「雑」な姿であった「大掘」は民家の間を「しっかり」とした用水の姿に戻って南東に進み、稲城第四保育園の南をぐるりと廻って結構大きな車道に出る






五反田掘が分かれる
車道脇の歩行者道路に沿って流れる水路はほどなく直角に曲がる。直角に曲がる地点の水路にゴミの流入を防ぐ柵のついた「取水口」が見える。この取水口の先は「五反田掘」のようである。

◎五反田掘;「宿掘」分流点を先に進み、開渠部分が直角に曲がる地点で分流し、そのまま東流し、都道9号まで接近したところで流路を南東に変え、「久保掘」が「大堀」に合流する少し手前で「大堀」に合流する。


稲城第三小学校辺りで暗渠に
「五反田掘」分流点で直角に曲がった「大掘」はその先の車道で再び直角に曲がり、道に沿って開渠で進むが、先の稲城第三小学校辺りで暗渠となる。









青渭神社
稲城第三小学校を越えると青渭神社が水路の北に佇む。周囲を宅地に囲まれ、社殿も昭和49年(1974)造営のコンクリートの建物ではあるのだが、境内の醸し出す雰囲気は古い趣を残す。
鳥居脇の案内には「昔はこの付近に大きな青い沼があり、その神霊を祀ったことが起源とされる。そのために別に青沼大明神とも称される。祭神は出雲系の青渭神で農耕や生活に霊験あらたかな神である。本殿は昭和49年に改築されたものである。
毎年10月1日の祭礼には、市指定文化財の獅子舞が奉納される。この獅子舞の起源を明らかにするものはないが、大正4年より23年間中断していたのを、昭和12年に復活して現在にいたる。舞の形は、大獅子、女獅子、求獅子の三頭の獅子と天狗によるもので、はやし方は笛吹、貝吹、歌方によって構成される。(稲城市掲示より)」とあった。
また、拝殿脇の由緒には「当社創建の年代は詳らかでないが、光仁年中の創立との伝承がある。延喜式神名帳所載の多摩八座の一社で古社である。祭神は青渭神猿田彦命天鈿女命を祀る。昔は大沼明神又は青沼大明神と称した。大祭には青渭獅子舞奉納の神事がある。現社殿は昭和四十九年の造営であるが本殿は往昔のままで数百年を経ている。明治六年郷社に列せらる」とあった。
由緒には、延喜式神名帳所載の多摩八座の一社とある。延喜式の「武蔵國多磨郡 青渭神社」の論社には、この社の他、深大寺の北、青梅市沢井にも青渭神社がある。実際、『新編武蔵風土記稿』の東長沼村・青沼社の件(くだり)には、「村の西に在。猿田彦命を祀れり。青沼大明神と号す。相傳ふ此邊に大なる沼ありて、その沼より神体出現せり。故に昔は大沼明神とかきしと。されどこの説もかたりつたへのみなれば、いかがはあらん。「神名帳」にのせたる青渭神社は、もしくは当社ならんかとおもはるれど、郡内上澤井村(現青梅市)にも青渭神社と称する社あり。かの社傳もたしかならざれば、いささかここにも記しおくのみ、今はおしなべて水田となれり。小社にて三間半に四間半の覆屋あり。前に鳥居をたつ。村内の鎮守なり。神主福嶋左内」とあり、沢井村の青渭神社も論社として記載されている。


五反田掘が合流
暗渠を先に進むと梨畑の脇から水路が合流する。水は流れてはいないが、この「溝」は先ほど分かれた「五反田掘」であり、この地で「大掘」に戻る。








久保掘が合流
「五反田掘」が合流した地点の直ぐ先、南北に走る道路が「大掘」の道筋と交差する地点に北から水路が合わさる。「久保掘」がこれである。道の南には「切方掘」が進むと言うが、暗渠のため、流路は不明である。
◎久保掘;南武線・稲城長沼駅の南を進んできた「新掘」が、南武線・稲城長沼駅の東で高架を潜る手前で「新堀」から分かれ南に下り「大掘」に合わさる。既にメモしたが、「新掘」からの分流点は駅前再開発なのか、宅地化工事のため分流点は確認できなかった。
◎切方掘;「久保掘」が「大堀」に合流する地点で分流し、三沢川に向かって南流し、三沢川の少し北を川に沿って進み、穴沢天神の少し東で三沢川に合流する。




都道9号に接近し開渠となって姿を現す
「久保掘」が合わさる地点から都道9号に向かって進み、道が緩やかに弧を描く辺りの民家に近づくと、突然大きな水音が聞こえ、開渠となる。この音は、水路脇に住んでいる方には結構きついのでは、などといらぬお節介を抱くほどの勢いであった。





都道9号バイパスを越える
開渠となった水路は民家の間を縫って進む。水路に沿っては簡単に勧めない。行きつ戻りつを繰り返しながら先に進むと、都道9号バイパス手前で水路はコンクリートの蓋で覆われ、都道9号バイパスをコンクリートの箱形樋で渡る。






稲城第一小学校南へ開渠で下る
都道9号を越えた水路は開渠となり、南へ流れを変えて都道19号を越え、時に水路脇を辿れるとは言うものの、基本民家の間を縫って稲城第一小学校南へとくだってゆく。







中掘が分かれる
小学校を越えると水路に水門が現れる。水門手前に取水口らしきものが見えるが、これは「中掘」への分流点であろう。
◎中掘;稲城第一小学校の東で「大堀」から分流し、「切方掘」の北を併走し、稲城第七小学校の南で「切方掘」に合流する。





柳田掘合流点
「中掘」合流点から開渠を辿り、水路がクランク状に曲がる地点で「柳田掘」が合わさる。水路沿いに道はなく、クランク状「大掘」の流れに注ぐ水流が見えるが、そこが合流点のように思える。
◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する

都道19号を越える
柳田掘の合流点から先、水路は地中に姿を消し、都道19号・鶴川街道に向かって進む。途中、「下新田掘」、「大和掘」が「大掘」に合わさるようだが、合流する水路も本流も地中に潜るため、合流点は確認できない。都道19号に接近した水路は開渠となって進む。

◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、「柳田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する、とのこと。 ◎大和掘;「新掘」が「菅掘」に合流する少し手前で「新堀」から分流し、南東に下り、「下新田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する、とのこと。


豊堀が合流
都道19号を越えた水路は開渠で先に進む。基本、水路に沿って道があるのだが、しばらくすると宅地から耕地となり「この先行き止まり」といった案内。なんとかなるか、と先に進むと、笹薮に前を遮られ先に進むのが難しそうになる。
が、その笹薮の先には水路が見えている。「豊堀」であろうから、なんとか合流点を確認しようと、文字通り竹藪漕ぎ。結構丈夫な竹を折り敷き、なんとか藪を抜け「豊堀」の水路に。
細い水路を跨ぎ、「豊堀」が「大堀」に注ぐ箇所の写真を撮り、さてこれから先はどうしようと、少々悩む。再び反発力の大きい竹を折り敷き元の道に戻るか、「豊堀」の左手の畑を抜けて道にでるか、H鋼で補強された「大堀」のコンクリート護岸壁の上を進むかの三択。結局先に進めるかどうかの保証はないのだが、H鋼で補強された「大堀」に沿って進むことにした。幸運に成り行きで進むとっ水路は道路に辺り、道に復帰できた。

◎豊掘;南武線・矢野口駅の西、都道9号から南下し、すぐ南を流れる「大堀」に合流する短い水路


川崎市立菅中学校の敷地を潜る
水路は川崎市立菅中学校の校庭に開渠で進む。校庭を抜けると開渠なるが、再び学校の東を敷地に沿って暗渠となって進み、学校敷地南端で左に折れ学校の敷地に沿って進み、中ほどで流路を南に変え開渠となる。






京王線の高架を潜る
開渠となった水路は都市型の水路となり民家の間を南に下る。水路に沿って進むことはできないが、時に水路に延びる道があれば中に入り込み水路を確認しながら先に進むと前方に京王相模原線の高架が見えてくる。










三沢川に注ぐ
京王線を越えた水路は民家の間を南へ進む。水路に沿って進むことはできないため、水路に沿った道を進むが、水路を渡る小橋があると橋まで進み水路を確認。先に水門施設が見えてくる。成り行きで進み成り行きで右に折れると水門脇に出る。
「大堀」はここで三沢川に注ぎ、「大堀」散歩はここで終了。後は三沢川に沿って成り行きで京王線・稲田堤駅に向かい、一路家路へと。

長かった大丸用水散歩もこれで一応終了。これでやっと本来メモする予定であった「二ヶ領用水散歩」に移ることができるようになった。

日曜日, 2月 15, 2015

南多摩 大丸用水散歩 そのⅢの②;大丸用水の幹線水路のひとつ、「菅掘」から分かれる「押立用水掘」を辿る

先回の散歩で、南武線・南多摩駅北の分量樋で「大堀」と分かれる大丸用水の幹線水路のひとつ、「菅掘」からの分流用水路である「新堀」と「中野島用水堀」、そして、準幹線水路とも言える、このふたつの用水堀から更に分流、または用水堀に合流する支流を辿った。 今回は、「菅掘」から分かれる、もうひとつの準幹線水路といった「押立用水堀」を辿ることにする。
「押立用水掘」は分量樋の少し東で「菅掘」から分流し、多摩川堤に向かって進み、都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。

本日のルート;南武線・南多摩駅>押立用水堀の分流点>末新田堀交差>「いちょう並木通り」手前で分流>「いちょう並木通り」を越え自然護岸で水路が並走>並走した「新田掘支流」が南東に分かれる>多度神社>多摩川堤に沿って東流>向田堀が分流>川間堀が分流>開渠>本田堀が分流>梨花幼稚園>都道9号バイパス>バイパスを越えて東流>枝流が分かれた先は自然の水路となる>押立堀公園>押立緑道>稲城第四中学校を越えると開渠に>押立堀用水排水機場>多摩川に注ぐ


南武線・南多摩駅
最寄り駅の南武線・南多摩駅で下車。南多摩駅は東京都稲城市にある。この地は鎌倉の頃、稲毛一族の本拠地であり、にもかかわらず、「稲毛」ではなく「稲城」としたのは?チェックしたが、由来は不明。明治22年(1889)、東長沼・矢野口・大丸・百村・坂浜・平尾の六ヶ村が町村制の施行に際し合併し「稲城村」となった。合併に際し「稲毛村」を上申するも神奈川県の許可が得られなかった、とか。その理由は不明。 また、「稲城」が候補として挙がった経緯は、矢野口・東長沼・大丸の地に砦(小沢城・長沼城・大丸城)があったこと、そして、この地が稲の産地であったことを勘案しての案とも伝わるが、詳細は不明である。

押立用水堀の分流点
駅北の分量樋を見遣り、「菅堀」に沿って「吉田新田堀」の交差水路橋、「下新田堀」の分流点まで東流し、「下新田堀」の分流点から南東に流れを変えた水路を少し下ると「押立用水堀」との分流点となる。
◎吉田新田掘;大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでを「うち掘」と称されるが、「吉田新田掘」はこの「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流か定かではないが、「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。

末新田堀交差
柳の木広場を右手に見遣りながら、豊かな水量の用水脇の道を辿ると「末新田堀」がコンクリートの箱型樋で「押立用水堀」を立体交差する。
◎末新田掘:南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。


「いちょう並木通り」手前で分流

「末新田堀」との交差を越えた水路は「いちょう並木通りに向かう。通りの手前で水路は大きくふたつに分かれる。







「いちょう並木通り」を越え自然護岸で水路が並走
通りを越えると、ここでも分流樋が見える。水路も三つの流れとなっている。「いちょう並木通り」手前に分流箇所があったので、そこが「新田堀一派」かとも思ったのだが、「いちょう並木通り」を越えた先の分流樋から右に分かれるのが「新田堀一派」のように思えるので、「いちょう並木通り」手前で左手に分かれた水路は、三つの流れの左手の流れかもしれない。
民家の間を流れる水路に沿って少々強引に道を進む。と、すぐ先で風情は一変。誠に美しい自然護岸の流路が現れる。水路は三つの自然な流れとなって並走する。大丸用水散歩を通して、最も美しい箇所であった。

並走した「新田掘支流」が南東に分かれる
少々足元の覚束ない自然護岸を進むと、その先で結構大きな道が水路を遮る。柵を乗り越え道に出る。並走した「新田堀一派」はこの道を南に下るが、本流はそのまま多摩川の堤に向かって進む。
「押立用水堀」はこの先、畑地を通り、水路に沿って歩くことはできない。水路には末流からの水路だろうか、コンクリート箱型樋が畑地と畑地を結んでいる。
◎新田掘支流;「押立用水掘」が「いちょう並木」を越えた先で分流し、しばし「押立用水掘」と併走した後、多摩川堤で流路を南東に変え、稲城市第四図書館南で「菅掘」に合流する

多度神社
多摩川堤に沿って通る道に迂回し先に進む。道の下に水路を見遣りながらすすむと神社が見える。多度神社である。下を流れる用水と相まって、なかなかいい風情である。
この多度神社、主祭神は多度大神と言う。多度の大神と言えば伊勢の豪族が多度山を神体山として祀った桑名の多度大社が知られるが、この社は天明四年(1784年)に多摩川の堤防を守ることを願い、その桑名の多度大神を勧請したものと伝わる。
○多度大神
因みに、多度大神と言えば、神仏習合のはしりの社として知られる。仏教が伝来し、次第にその教えが普及するにつれ、奈良時代には日本の神々も仏教に帰依する、といった流れができてくる。「神の身を受けているゆえに苦悩は深い。よって仏法に帰依して神道から逃れたい」ということである。「八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国各地で地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることを苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依することを求めるようになってきた(『神仏習合』義江彰夫著)」とのことだが、常盤国鹿島大神、若狭国若狭彦大神とともに、伊勢国多度大神もこの託宣を奉じた神として知られる。

多摩川堤に沿って東流
水路は多摩川堤の道路下を東に進む。堤の北の河川敷は「稲城北緑地」となっている。ちょっと風情あるメガネ橋を越え、堤に最接近した水路は流れを南東へと変える。





向田堀が分流
南東に流路を変えた水路が東流し始めてほどなく「向田堀」が分かれる。誠にささやかな、自然の流れとなって南東へと梨畑の中を下る。
◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する。





川間堀が分流
「向田堀」が分かれたすぐ東、水路が比較的大きな道と合流する手前で「川間堀」が分かれる。自然な水路で分かれる「向田堀」とはことなり、こちらはコンクリートの小さい溝となって分流する。道路を南に越えた水路は自然水路として梨畑の中を下ってゆく。
◎川間掘;「向田掘」が「押立用水掘」から分流するすこし先で分流し、「向田掘」にほぼ平行に南東に下り、都道9号バイパス越え、「向田掘」が「中野島用水堀」に注ぐ少し東で同じく「中野島用水掘」に合流する。

開渠
「川間堀」分流点から先、水路は暗渠となって東に進むが、道が北に向かって大きく曲がる地点で水路は開渠となって右に折れる。








本田堀が分流
開渠となって進む「押立用水堀」は次の曲がり角で北に流れを変える。正面に開渠の水路が都道9号バイパス方面へと東流するが、それは「本田堀」。本流は暗渠となり北に向かう。 ◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号手バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。




梨花幼稚園
暗渠で北に向かった「押立用水堀」は梨花幼稚園の東で開渠となり、少し先で右に折れて都道号バイパスへと向かう。右に折れた水路は自然水路となって梨畑脇を進む。





都道9号バイパス
バイパスを渡った先の「押立用水堀」は自然な流れとなって梨畑の中を進む。このまま先に進もうとも思ったのだが、「押立用水堀」が都道9号バイパスを渡る少し南で先ほど分かれた「本田堀」、「向田堀」、「川間堀」が都道9号バイパスを渡る。如何なる風情かちょっと立ち寄り。




○本田堀
バイパス手前は自然の流れ、バイパスを越えると護岸工事された水路として開渠となるが、その先は暗渠となっている。









○川間堀
バイパス手前はコンクリート製の溝として、バイパスを越えると同じく水路溝として民家の間を縫い溝が「中野島用水堀」に繋がる。







○向田堀
バイパス手前はささやかな溝で交差点脇まで進み、バイパスを越える同じく溝となって進み、最後は自然な流れで「中野島用水堀」に注ぐ。







バイパスを越えて東流
バイパスを越えた「押立用水堀」は開渠で東に進む。道路側は改修されているが、梨園のある北側は自然のままの堤となっている。先を進むと耕地は切れ住宅地となり、改修工事が施された水路が東へと進む。




枝流が分かれた先は自然の水路となる
南北に通る道を越えると、水路はふたつに分かれる。右手は枝流のようである。左手の本流を進むと、水路は自然の流れとなる。結構趣のある一帯である。






押立堀公園
自然な流れを先に進むと結構大きな道に接近し、道の南を進む。と、ほどなく前方に火の見櫓が見える。辺りは「押立堀公園」として整備されている。
火の見櫓の脇には案内があり、「大正八年押立地区の大火(島守神社含む十一戸の家屋焼失)を踏まえ防災のシンボルとして、大正十三年月、財政豊かならざる折、前年の島守神社再建に続き、四十二世帯一丸となって目を見張るような火の見櫓を当時の東京府北多摩郡多摩村押立六百三五番地押立掘用水上に完成させた。
二、昭和の国策により、昭和六年の満州事変、日中戦争、第二次世界大戦と続き、国の鉄材不足に伴い、昭和十八年五月供出撤去となった。木製の櫓約十米の高さを備え約八米程度の所に半鐘をつるし(半鐘は供出せず)代用とした。
三、押立地区の稲城村編入半年後の昭和二十五年二月、東京都所有の鉄骨が旧村役場付近に放置してあるものを、当時村会議員の清水九一氏が払い下げ手続きを行い、村民の協力により元の場所に再完成させた。
四、平成十年五月、市民やすらぎの押立堀公園内に移築し、現在に至る。(川崎 栄一記 平成十七年十月吉日 稲城市押立自治会)」と、」火の見櫓の変遷とこの地に建つまでの経緯が説明されていた。

この説明の中に「市民やすらぎの押立堀公園」とあるが、これがこの公園の正式名ということであろう。その名称はともあれ、この公園は施設の企画・設計から施工まで全て地域の住民が行った、稲城唯一の市民手作り公園として知られる。
その背景は稲城大橋有料道路の建設。この道路の建設により、地域が分断されることになった。ために、道路建設に先立ち、市と押立地区の樹民がまちづくりのガイドラインを策定。その中に稲城市内を網の目のように流れる農業用水路の一部である「押立用水堀」を親水公園化することもうたわれていた。しかし、財政難といった事情もあり企画が停滞。そこに地域住民から提案されたのが「住民参加型公園整備」のアイデア。結果、行政の補助金を核にこの親水公園が実現した。平成10年(1998)の開園後は、「かんきょう委員会」が住民によって組織され、公園の維持管理をはじめ地域の環境美化に取り組んでいる、とのことである。

押立緑道
押立堀公園の先、押立緑道を開渠で進んだ水路はほどなく暗渠となり、稲城第四中学校前の道を南東に下る。通りの南には「中野島用水掘」が通り、「中野島用水掘」から支流が分かれ南武線・矢野口駅の北を進む辺りでもある。



稲城第四中学校を越えると開渠に
暗渠として下る水路は稲城第四中学を越えた辺りで左手に折れ開渠となって姿を現す。水水路に沿って進むことはできないため、迂回し一筋先の角を左におれると水路は暗渠となる。





押立堀用水排水機場で多摩川に注ぐ
暗渠となった水路は南武線・矢野口駅の北を進み県道19号を渡ったところで開渠となって姿を現す。水路脇には押立堀用水排水機場。ここで「押立堀用水堀」の水は多摩川に注ぐことになる。訪問した時は、排水門の先の多摩川河川敷は水路に沿って工事が行われていた。

これで本日の散歩は終わる。「菅堀」本流、その循環線水路である、「新堀」、「中野島用水堀」、「押立用水堀」とカバーし、大丸用水散歩も残すのは南武線・南多摩駅北の分量樋で「菅堀」から分かれる、大丸用水のもうひとつの幹線水路である「大堀」だけとなった。