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火曜日, 10月 07, 2014

甲斐 御坂峠散歩;天下茶屋から御坂峠に上り、尾根道を縦走し旧御坂峠から甲斐の御坂路に下る

先日伊予の歩き遍路で久万高原北端の「三坂峠」から下り46番札所・浄瑠璃寺、47番札所・八坂寺を辿ったとき、フェイスブック(FB)に「三坂峠に月見草は咲いていますか」、とのコメントをN女子から頂いた。太宰治の有名なフレーズである、「富士には月見草がよく似合う」の洒落ではある。井伏鱒二に呼ばれ、御坂峠近くの天下茶屋に3ヶ月ほど滞在したときのことを書いた『富嶽百景』に載る。
で、「月見草のよく似合う」御坂峠に行きますか? とのFBコメント返しに、即答で「行きたい」と。散歩の時の四方山話でわかったことではあるが、N女子は大学院で太宰の研究をしていたとのこと。このことが今回の散歩のきっかけではある。
実のところ、前々からこの地を歩きたいとは思っていた。それは太宰でも天下茶屋でもなく、往昔、奈良・平安の頃、都と相模・武蔵を結んだ官道である御坂路に立ち塞がる旧御坂峠を越えたいと思っていたからである。
しかし、御坂峠は余りに遠く、二の足を踏んでいたのだが、FBのやりとりがあった少し前、奥多摩山行の帰りに「ホリデー快速富士山」に出合ったばかりであった。この列車を利用すれば新宿から河口湖まで乗り換え無しで行けそうである。ということで、「月見草のよく似合う」御坂峠行き計画は即実行に。 ルートを想うに、太宰の天下茶屋を見たいN女子と、単に旧御坂峠を越えたいだけの我が身の希望を叶えるルートとして、天下茶屋を始点に御坂峠に登り、尾根道を縦走し旧御坂峠から山梨県笛吹市の藤野木へと下りるコースを想う。歩きは3時間程度であり、それほど大変でもなさそうではある。
スケジュールについて、ちょっと心配なのは河口湖から天下茶屋までバスの連絡と、山梨側に下りた笛吹市のバスの連絡。チェックすると、午前8時14分新宿発の「ホリデー快速富士山(9月28日までの土曜・休日運転)」に乗れば、河口湖駅着10時26分、バスは河口湖駅を10時35分に出るという、これ以上ないような「繋ぎ」。また、山梨側も下山予定の3時台からは、1時間に1本ほど山梨駅に向かうバスがある。これであればバスの心配はなく、成り行きでなんとかなるだろうと天下茶屋・旧御坂峠への散歩に向かう。メンバーはN女子、その同僚のT氏、そして私と娘の4人である。

本日のルート;富士急・河口湖駅>天下茶屋;11時3分?標高1247m>登山スタート:11時45?標高1290m>御坂峠:12時8分?標高1450m>御坂山;12時44分?標高1594m>御坂城址東端部;13時15分>旧御坂峠;13時26分?標高1517m>峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m>子持ち石;14時2分標高1463m>馬頭観世音:14時39分?標高1284m>行者平;14時43分?標高1264m>沢を渡る;15時01分?標高1181m>峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m>藤野木バス停;15時35分?標高933m

富士急・河口湖駅

新宿を定刻の午前8時14分に出発した「ホリデー快速富士山」は6両(?)編成。うち1両だけが指定席車輌。連休で込むかと指定券を買ったのだが、自由席が十分に空いていたので、自由席を対面にして河口湖に向かう。娘も太宰治に興味を持っているらしく、N女子も研究成果を存分に披露しながら2時間程度の列車の旅を終え定刻通り富士急・河口湖駅に。

天下茶屋;11時3分
10時35分河口湖駅を主発したバスは河口湖畔の国道137号を進み11時に「三つ峠入口」バス停に。我々以外の人たちはこのバス停で下りる。国道137号はここから御坂山地を穿つ「新御坂トンネル」を通り山梨県笛吹市に抜けるが、天下茶屋はこのバス停から県道708号に入り、くねくねした山道を上り11時3分に「天下茶屋」に到着する。
「天下茶屋」は営業していた。1階は食事処。2階は太宰治文学記念館」となっており、N女子と娘は速攻で2階に。情緒のかけらもない我が身は下で「木の実煎餅」などを見繕うが、どうも記念館は無料のようであり、それではと2階に上る。
2階には太宰が逗留した部屋が昔の姿に戻され公開されていた。

富士山と河口湖を一望できる6畳間には。当時使用した「机」や「火鉢」などが置かれ、床柱は、初代の天下茶屋のものをそのまま使用しているとのこと。「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などの初版本、「太宰治」「斜陽館」などの写真パネルが展示されている。
天下茶屋ができたのは昭和9年(1934)の秋。木造二階建て、八畳が三間の小さな茶屋。昭和6年(1931)に御坂隧道(延長396m)を含む現在の県道708号の開通を受けてのことである。
正面に富士を臨むその景観から富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれていたが、徳富蘇峰が新聞に「天下茶屋」と紹介したことがきっかけで、「天下茶屋」との名称が定着した。
天下茶屋には多くの文人が訪れたとのことだが、中でも井伏鱒二、太宰治の滞在は特に知られる。太宰治が天下茶屋に逗留するきっかけは前述の如く井伏鱒二(創業から太宰が逗留する前までの先代とのやりとりを作品「大空の鷲」に残している)。
太宰は昭和13年(1938)9月に、およそ三カ月の天下茶屋の滞在し、小説「富獄百景」を残す。その後、昭和23年(11948)に太宰治が入水自殺したのを受け、昭和28年(1953)に井伏鱒二が発起人となり太宰治文学碑を建立。 昭和42年(1967)、新御坂トンネル開通により、天下茶屋は約10年の間休業。昭和53年(1978)に営業再開した(「天下茶屋」のHPを参考にメモ)。

富士と月見草
茶屋を出て道路脇で「月見草」ってどれ?と教えを請う。道路脇の草むらに咲く黄色の花びらの草がそれである、と。散歩に先立ち、間髪置かず送られてくる太宰の資料に、少々戸惑いながら、もっとも、大学院での研究テーマが太宰であれば当然と言えば当然ではあったのだが、それはともあれ、送られてきた『富嶽百景』には、太宰はこの天下茶屋から眺める富士を、「風呂屋のペンキ画だ、芝居の書割りだ」、ということで、それほど有り難がっていない。 論文か散文しか読まず、情感のかけらもない我が身としては「富士には月見草がよく似合う」って、その表現の通り「秀麗なる富士に可憐な月見草がよく似合う」と言うことだろうと想っていたのだが、どうもちょっと違うよう。 「富士には月見草がよく似合う」って、どういうこと、とN女子に山を登りながら問う。「不変・不動なるもと(富士)」と「遷ろうもと(月見草)」の云々との説明。N女子の息があがっていたのか、こちらが「不変と遷ろう」というキーワードだけで分かったつもりになったのか、後半部の説明は聞き漏らした。

このメモをする段になり少し気になりあれこれチェックすると、『富嶽百景』に、郵便を受け取りに河口湖町に下った帰りのバスで隣り合わせになった老婆が、他の観光客の歓声もしらぬげに、富士には一瞥も与えない。その様子に太宰は共鳴するわけだが、その老婆は「おや、月見草」といって路傍の1箇所を指さす。「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。「富士には月見草がよく似合う」」と描かれる。
「遷ろうもの(月見草)」ではあっても、「不変なるもの(富士)」に伍して厳然と咲くその姿をして「富士には月見草がよく似合う」と表現したのではあろう。か。太宰の心象風景とダブらせるのは考えすぎ?N女史のご高説拝聴すべし、か。

御坂隧道
天下茶屋の横に御坂山地を穿つ御坂隧道が見える。案内銘板には「富嶽百景で知られ、太宰治も歩いたであろうこの峠は、旧・国道8号線(現県道河口湖御殿場線)で、昭和5年10月着工、翌11年就労人員延べ36万人余りを動員し竣工しました。双方の入り口から出口は見えず、暗闇の中、土工達は、景気よく唄いながら、セメントを練ったそうです。全長396メートル、幅員6メートル、高さ4メートルに及ぶこの御坂隧道は、この度文化財の指定を受けました」とあった。

隧道建設の経緯
案内にあるように現在は県道河口湖御殿場線(県道708号)となっている道筋ではあるが、この道筋が県道に至る経緯は誠に面白い。昭和6年(1931)、この御坂隧道(延長396m)を穿ち、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。これにより、富士吉田と甲府を結ぶバス路線も開通し、御坂山地と大菩薩嶺によって画された山梨県東部地域である「郡内地域」と西部のである「国中」地域の連絡が容易となった。
ここに至るまでの顛末はそんなに簡単ではなかったようだ。旧・国道8号は元々は大月、笹子、勝沼、甲府を結ぶ旧甲州街道筋であったが、昭和2年(1926)に県会は旧国道8号を、「大月から吉田へ通じ御坂峠を越え、黒駒、甲府に結ぶ」ルートに変更する予算案を知事が計上した。笹子峠に隧道を通す工事より、御坂峠に隧道を通すほうが工事が容易ではあったのだろう。
しかし、事はすんなり進むことはなかった。当時は政友会内閣であり、知事も政友会、県議会も政友会が多数を占めていたので予算案は楽勝で可決と思いきや、甲州街道沿いの議員の猛反発に合い頓挫。1年間着工を延期といった調整案で一旦は落ち着いた。政友会内閣への事前調整も十分に行われていなかったようである。
で、1年後予算執行の時になる。が、当時は不況が深刻化し、国も県も財政難で工事着工ができない。また、総選挙の結果、政友党から民政党に政権が移り緊縮財政のため旧・国道8号工事も延期となる。
しかし、旧・国道8号の意義を認めた当時の知事が昭和5年(1930)に「失業対策事業」として予算案を県会に提出。これに対して今度は、県会の多数を占める政友会議員は反対。その理由は知事が民政党である、というだけのこと。もともと8号線改修議案を提出したのは「政友会」知事であった、という「面子」だけが反対の理由であった、と言う。
すったもんだのプロセスはあったが、結局「失業者就労には県民を優先する」と「面子」を保つ条件付きで改修工事案は可決。工事に取り掛かり、昭和6年(1931)御坂隧道(延長396m)が貫通し、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。
こうして誕生した旧・国道8号であるが、昭和27年(1952)、新道路法制定にされ、旧・国道8号が国道20号に変更されるに伴い、国道20号の道筋が笹子峠を越えるルートに変更された。昭和13年(1936)には笹子峠に笹子隧道も貫通していた。このとき、御坂峠越えの道は国道137号となった。
その後、昭和40年(1965)、県営の有料道路として着工し、2年後に完成、平成6年(1994)には無料となった「新御坂トンネル」を抜ける道筋が国道137号となり、結果、この御坂峠を抜ける道は県道708号となった。

太宰治文学碑
登山スタート。登山道のスタート地点に「富士には、月見草がよく似合ふ」と刻まれた文学碑がある。昭和28年(1953)、井伏鱒二氏などの尽力により造られた。大きな安山岩に刻まれた文字は、太宰のペン字を大きく拡大して刻まれているとのことである。
太宰は昭和10年(1935)に書いた『逆行』で第一回芥川賞候補になるも、その年に自殺未遂、昭和12年(1937)にも自殺を想う。また薬物中毒にかかり、荒廃した日々を送っていた。
天下茶菓に訪れたのは、このような破滅的生活から抜け出し新たな人生をはじめる思いを新たにする旅でもあったよう。天下茶屋に滞在中に甲府に住む女性と婚約し、翌年結婚。精神的に安定しすぐれた作品を世に出すも、昭和23年(1948)玉川上水での入水自殺で人生を終えた。この文学碑はその死を悼んで建てたものである。

登山スタート:11時45分?標高1290m
登山スタート。太宰治文学碑の脇に「旧御坂峠まで70分」との木標がある。 その先に木で整備された登山道。針葉樹と異なり広葉樹林は明るくて、いい。広葉樹と言えば、ブナとかミズナラくらいしか名前を知らないし、どれがどの木かもわからないまま、直線距離で800mほどを200m弱を上ることになる。ちょっと急な九十九折れの道を上り、木で整備された階段がなくなった斜面をトラバースすると尾根道に到着。20分程度で尾根道に到着した。

御坂峠:12時8分?標高1450m
便宜的に「御坂峠」と書いたが、ここが峠であったわけではないだろう。「御坂峠」と表記した木標もないし、甲斐へと下る道も見当たらない。思うに、今から辿る「旧御坂峠」が甲斐と駿河を繋いだ官道のあった峠であり、そこが本来の「御坂峠」であり、昭和初期、国道8号を開き御坂山塊を穿った御坂隧道ができたとき、その隧道の抜ける峠道故に、こちらを「御坂峠」とし、本来の「御坂峠」を「旧御坂峠」として区別したのだろう。「御坂峠」に立つ木標にある「旧御坂峠」の矢印に従い、尾根を西へと御坂山へと向かう。

御坂山;12時44分?標高1594m
御坂峠から直ぐ先は一旦鞍部におりるが、すぐに1472ピークに向かっての上りとなり、あとは御坂峠に向かって、ちょっとしたアップダウンを繰り返しながらも、御坂峠から直線距離800mを120mほど上ることになる。広葉樹林の気持ちのいい山道である。
御坂峠から30分程度で御坂山に到着。ここで小休止。情感乏しき我が身と異なり、T氏と娘は道端の草花の写真を撮りながらの、ゆったりとした山行である。





見晴らしポイント_13時5分_標高1530m
御坂山を後に鞍部に下り1591mピークを越え、ちょっとした岩場を過ぎると北が大きく開ける。残念ながら富士は雲海に隠れている。時刻は13時5分。見晴らしポイントのすぐ下の鞍部には送電線の鉄塔が立つ。鉄塔からは送電線が三つ峠から河口湖町方面へと続く稜線に向かって延びる。
鞍部を少し上ると木標があり、「天龍南線右92 左93」と書いてあった。鉄塔巡視路の木標である。木標からすれば、先ほど立っていた鉄塔はNO93鉄塔ということだろう。
メモの段階でチェックすると、天龍南線とは、山梨県釜無白根変電所(南アルプス市上今諏訪)から静岡県東富士変電所(静岡県小山町)までをおよそ170基の鉄塔で結ばれている。建設は昭和5年(1930)に大同電力によってなされた。大同電力は大正から昭和初期に存在した電力会社。昭和39年(1964)には国策会社日本発送電に事業を移管し解散。戦後電力再編に際し、大同発電の建設した発電所は関西・中部・北陸電力に引き継がれることになる。

新御坂隧道
送電線鉄塔を少し西に進んだ足の下、御坂山地の標高1000m地点辺りを新御坂隧道が通る。昭和40年(1965)4月着工の全長2,778mの隧道は「水との戦い」であった、とか。着工以来8月頃までは工事は順調に推移し、翌昭和41年(1966)10月には予定通り完成とも思われていた。しかし、隧道が800mほど掘り進められた頃より湧水が出始め、10月に入り1000mほど掘り進んだ地点で断層破砕帯に突き当たる。
Wikipediaによれば、断層破砕帯とは、「トンネル工事で大量出水事故の原因となる地質構造。断層は岩盤が割れてずれ動くものであるから、断層面周辺の岩盤は大きな力で破砕され、岩石の破片の間に隙間の多い状態となっている。これが断層破砕帯で、砕かれた岩石破片の隙間に大量の水を含み、また地下水の通り道となっている。掘削中のトンネルがこの場所に当たると大量の水が噴出して工事を著しく妨げる。破砕帯の幅は断層によって異なり、数十mに達する場合もある」とある。
この断層破砕帯に突き当たったことにより毎分5000リットルの出水、11月には6000リットルにも達し、工事の進捗が危ぶまれた。調査・検討の結果、断層破砕帯の辺りに幅100mに渡り、本道の下70m地帯に水抜き隧道を堀り工事を推進。水抜き隧道が完成した昭和41年(1966)5月にはおおよそ毎分1万リットル弱、1455mを掘り進んだ地点では毎分1万3千リットルもの湧水を水抜き隧道で処理しながら工事を進め昭和42年(1967)開通の運びとなった(「県営御坂有料道路建設事務所資料」より)。

御坂城址;13時15分‗標高1546m
送電線鉄塔のある鞍より旧御坂峠に向かって道を上ると、なんとなく「人の手が加わった」ような地形に出合う。下部は空堀りのようにも見えるし、上部は土塁の掻き上げがおこなわれたようにも見える。
この辺り、旧御坂峠を中心に南北にそれぞれ長さ数百メートル、幅100m強に渡って御坂城が築かれていた、といったことをどこかの資料で読んでいたので、そう思い込んだだけかも分からないが、そこからピークに上り切ったところに開ける平坦地の東の斜面も、西の斜面も如何にも人工的な段差となっており、西側斜面は二重になっているようにも見えた。
御坂城の築城年代は不明だが、甲斐の武田氏によって築かれたとされる。城とは言っても、交通の要衝である御坂峠に構えた砦や狼煙台といったものではあろう。
天正10年(1582)3月、武田氏が織田勢により滅亡するも、その織田信長が天正10年(1582)6月本能寺において討ち死にすると、切り取り次第となった甲斐の地には徳川と小田原北条氏が攻め入る。そして、この御坂城は笹子峠から御坂山地の稜線より以東の「郡内」地帯を制圧した北条氏が、以西の「国中」地帯を制圧した徳川氏に備える出城となったようである。
しかし徳川と小田原北条氏は徳川が甲信両国、北条が上野国を治めることで兵火は収まり、北条氏直が家康の娘を迎えることで和議が成立し、北条勢は同年11月には帰陣することになる。和睦により甲斐を領した徳川は御坂城を廃城とする。徳川勢の備えで急ぎ普請工事された御坂城は5ヶ月ほどでその役割を終えることになる。

緩やかな上りとなる平坦部を越えると、道は旧御坂峠に向かっての下りとなる。道の両側には「人の手が加わった」ような堀が平行に下る。平坦部にあった横堀が竪堀となってそのまま峠まで下っているようにも見える。下ること5分強で旧御坂峠に到着する。峠手前の平坦部も西の斜面の堀切部が回りこみ堀切状になっていた。

旧御坂峠;13時26分?標高1517m
旧御坂峠は平坦地となっており、閉鎖された茶屋が残る。天下茶屋のスタート地点からおおよそ1時間45分程度で到着した。峠の南北は木々で遮られ見晴らしはよくない。
「みさか」を冠した峠は多い。今回の散歩のきっかけとなった愛媛の歩き遍路で辿った三坂峠、また、いつだったか信越国境・塩の道を辿ったときは、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。
「峠」は「たむけ=手向け」との説もあり、道中の安全を祈って手向け=神に供えて、いたのだろうが、これは日本で独自に造られた国字(漢字)であり、往昔、「み坂」を以て、峠を意味していたようである。

御坂路
御坂峠は、古代、奈良・平安の頃、都から甲斐国の国府を経て、相模から武蔵へと向かう菅道であり、鎌倉時代には鎌倉街道とも称された「御坂路」の「国中」と「郡内」を分ける峠である。
律令制時代、平安中期に編纂された『延喜式』には「甲斐国駅馬 水市、河口、加吉各5疋」とある。甲斐国にはこの峠を挟んで3駅が設けられた、ということである。各駅に馬5疋、ということは、当時、大路は20疋、中路は10疋、小路は5疋と規定されており、御坂路は小路という位置づけではあったのだろう。
甲斐国の国府は御坂町国衙と比定されるが、御坂路の経路や駅の所在は不詳である。古代の経路がはっきりしない理由には延暦19年(800)、貞観6年(864)、承平7年(937)に大噴火した富士山の影響も大きいのだろう。それはともあれ、駅については、水市は一宮一之蔵との説、黒駒の説がある。河口駅は河口湖畔の河口湖町河口のようだ。加吉駅は籠坂の北、山中湖岸の山中湖村山中にあったとされる。籠坂は、もとは加古坂と称し、延喜式の加吉は加古の誤り、との説もある。
河口湖からの経路は、三ッ峠の麓を西桂に出たと言う。現在の道路表示にある「御坂みち」とは大きく異なり、桂川の川幅が最も狭い箇所を求め遡ったようである。
桂川を渡ると明見地区を通り鳥居地峠に進み、そこからは内野へ下り、またまた山を越えて、山中湖畔南の加吉(古)に出たと言う。
御坂路は、中世に入って、鎌倉への道として政治・軍事上の要路となり鎌倉往還と呼ばれるも、江戸に入り甲州街道が江戸と甲州の幹線路となり、鎌倉往還としての重要性は薄れることになるが、相模・駿河・伊豆を結ぶ商品流通のを担う。加吉(古)駅から先は東海道の横走駅(御殿場)に到り、足柄峠を越えて、矢倉沢道を相模へと向かったようである。

旧御坂峠からの下り;13時51分
旧御坂峠でちょっと遅い昼食を摂り、休憩をとった後、御坂路を下ることにする。峠の南側にも御坂峠の遺構が残るようであるが、藤野木バス停まではおおよそ1時間半。15時58分藤野木バス停発のバス乗るにはちょっと時間に余裕はなさそうであり、遺構巡りはやめにした。
ここから先は行者平辺りまでは道がしっかりしているようだが、その先が沢の防砂工事の影響でなんとなくはっきりしない。ともあれ、13時51分、道標に従い御坂道を下りはじめる。道の右手が土塁の掻き上げのように感じるのは、御坂城があったとの先入観故であろうか。

峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m
結構道幅も広くしっかり踏み固められた道を10分程度進む。この峠道は幕末に塩山の上萩原から樋口一葉の父と母が夜中に逃避行に上った道。御坂峠を越え籠坂峠から御殿場、そして横浜を経て江戸に落ち着いた、と聞く。
ほどなく道脇に「峠道・文化の案内」。峠道の森を中心に、史跡や名所が記載されていた。下りの道筋は、行者平の先で「小川沢川」を渡り、小川沢川が合わさる金川左岸を藤野木まで下っているようである。

子持ち石;14時2分標高1463m
「峠道・文化の案内」から数分。倒れた標識。「子持ち石」とある。辺りを見るに、それらしき「大岩」は見えない。どれが「子持ち石」かと周囲を見回すと、小石が積み上げられような塚がある。どうもそれが「子持ち石」のよう。塚の脇に消えかけた手書きの案内があり、安産を祈って小石を積み上げた、とあった。
「子持ち石」とは本来、「石の中に小粒の石の入っているもの。特に,?石(はつたいいし)のこと」を指す。大雑把に言って礫岩(れきがん)の俗称とも。御坂山地の地層の上部層に堆積する凝灰角礫岩などのサンプルには、なるほど石の中に小粒の石が入っていた。
よく踏み込まれたジグザグの道を更に20分程度下ると「(下方向 )藤野木 (上方向)御坂峠」の標識がある。この辺りの標高は1300m弱。木々も杉などの針葉樹が多くなってきたように思う。

馬頭観世音:14時39分?標高1284m
木標からさらに10分程度下ると大きな石碑が佇む。道側から裏に回ると「馬頭観世音」と刻まれていた。往来の運送を担っていた馬を護り、往還を旅する人々の安全を祈念したものではあろう。

行者平;14時43分?標高1264m
馬頭観世音の石碑から5分弱下ると、「行者平」の標識が立っている。辺りは杉林に囲まれた平坦地となっている。左手は開け沢筋とその向こうの尾根筋が目に入る。
沢側の岩の上に二体の石仏が佇む。岩の脇に消えかけた木標があり、「役行者が修行云々」との説明があった。



沢を渡る;15時01分?標高1181m
行者平の左に沢が見えるのだが、どこで沢を渡るのか不明である。とりあえず、成り行きで進み、沢を渡る箇所を探すことにする。ほどなく「御坂峠(50分)藤野木(50分)」の標識。藤野木バス停発が15時58分であるので、なんとか間に合いそうではある。

先に進むと左手が大きく開き、いくつもの堰堤が沢に造られている。土砂を堰止める堰堤ではあろう。沢に沿ってロープでガイドされた道を進む。途中倒木で道が塞がれているところは少々難儀したが沢脇に出る。
沢の右岸にも草で覆われた踏み分け道はみえるのだが、バスの時刻の関係で安全ルートを選び、沢を渡り林道に入る。

峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m
林道に沿って道を下る。沢を渡って15分ほどで「峠道・文化の森入口」の標識。入口がどこだかはっきりしていないが、峠道にあった同じ案内によれば、今歩いてきた林道がその入口ではあろう。
標識の傍に「小川沢土砂崩壊防止総合治山事業地」の案内。「この地区は、富士川の支流、金川の上流に位置し、標高1050~1790m地形は複雑にして急峻、地質は新第三紀御坂層群で脆弱であり山腹及び渓岸崩壊地が随所に発生し渓流内は、流下した不安定土砂礫で極度に荒廃しているので土砂礫発生源を直接抑えるため山腹の復旧、治山ダム群の設置と、土砂流等の流下を緩和させるための土砂等拡散防止林造成及び防災機能の強化を目ざす森林の造成等を、昭和62年より63年までの3年間に総合的、集中的に実行し、国道137号線及び国道沿の人家、下流一帯の果樹園等を直接保全するものである(山梨県甲府駿務事務所)」とあった。沢筋に幾つも築かれた堰堤もその一環の事業ではあろう。

「天然記念物 藤野木のオオバボダイジュ」の案内;;15時27分?標高987m
林道を先に進む。乱暴に切り開いた林道ではなく、結構落ち着いた気持ちのいい道である。15時半頃、「天然記念物 藤野木のオオバボダイジュ」の案内。「オオバボダイジュは北海道、東北地方、北関東地方、北陸地方、北信地方、飛騨地方の温帯に属し、温度のある肥大な土壌において最もよく生育し、生長はやや早い。
オオバボダイジュ(シナノキ科)は落葉高木で、通常10mから15m、胸高直径0.4mから0.5mであるが、大きいものは樹高25m、胸鷹1mに達する。葉は互生し葉柄は淡褐色を密生し葉身は左右小斉の円心系で、先はするどく尖り、縁には三角形の鋸葉がある葉の上面は深緑色、下面には淡褐色の星状毛が密生する。
花は夏に開花し長い柄をもった散房状の集散花序を腋生し、花序の柄のほとんど基部から包葉が出て、下半に沿着している。花は小さく淡黄色で香気がある。 オオバボダイジュは北海道、東北地方、中部日本の日本海側に分布されるものとされているため、本町で発見されたことによって、その分布が北関東から分かれて富士山方向に支脈があることが証明されたことになり、また御坂山地のオオバボダイジュは日本における分布の南限に当たるものとして、植物分布上きわめて貴重な存在である(笛吹市教育委員会)」とあった。

藤野木(とうのきう)バス停;15時35分?標高933m
オオバボダイジュから5分ほど歩くと民家が見え、道なりにすすむと国道137号に。藤野木バス停は峠から下ってきた道が国道に当たる脇にあった。バス程横には焼きトウモロコシの売店があり、到着の15時35分頃から58分等到着を待つ。定時より少し遅れてきた甲府行きバスのJR石和温泉駅で下車。ラッキーなことにホリデー快速山梨が3分の連絡で到着とある。大急ぎで切符を購入し一路家路へと向かう。

土曜日, 8月 22, 2009

天目山散歩;武田家終焉の地を歩く

天目山が武田家終焉の地である、ということは知っていた。が、天目山がどこにあるのか、つい最近まで知らなかった。それがわかったのは数ヶ月前。笹子峠を越えたときのことである。雪の峠を越え、甲斐大和・駒飼の里まで下ってきたとき、山腹に「武田家終焉の地、甲斐大和」と書かれた特大看板が眼に入った。あれ?ひょっとして天目山って、このあたり?チェックする。天目山って、甲斐大和駅から日川渓谷を大菩薩方面に7キロほど上ったところにあった。こんな近いところに、天目山が!
天目山。山とはいうものの、「山」でもないようで、栖雲寺という武田家ゆかりの山号のようである。道も車道が走っておりアクセスは容易。日川渓谷に沿って遊歩道もある、ようだ。歴史も自然もまとめて楽しめそう。ならば、行かずばなるまい、と言うことで、笹子峠越えから日を置かず、甲斐大和、へと。



本日のルート;甲斐大和駅>日川渓谷>四郎作古戦場碑>鳥居畑古戦場跡>景徳院>竜門峡入口>土屋惣蔵片手切跡の碑>大蔵沢>天目山栖雲寺>竜門峡遊歩道>甲斐大和駅

甲斐大和駅
中央線で甲斐大和駅に。地名は甲州市大和町初鹿野。平成17年11月1日に塩山市・勝沼町・大和村が合併して甲州市となった。駅のホームは切通しの底。駅舎は切通しに架けた橋の上。駅を離れ国道20号線・甲州街道に出る。
国道を1キロほど進むと景徳院入り口。道はここから国道20号を離れ、県道218号線に。県道は日川(にっかわ)渓谷に沿って上日川峠へと続く。国道との分岐点の標高は660m程度。ゆるやかな坂道を上っていく。
道の左手を見やると、分岐点で離れた国道20号線が新笹子隧道(トンネル)に吸い込まれてゆく。新笹子トンネルが完成したのは昭和32年。33年には有料トンネルとして開通した。このトンネルができるまで、東京方面から山梨へは標高1096mの笹子峠を越えていた。県道があったわけだが、とてものこと幹線道路とは言えない峠道。ために、東京と山梨を結ぶ幹線道路は河口湖方面から御坂峠を越える国道8号線であった、よう。


日川渓谷
道は日川に近づく。日川は大菩薩から南に伸びるふたつの尾根筋に挟まれた渓谷。ひとつは、大菩薩嶺(2057m)―大菩薩峠―小金沢山(2014m)―牛奥ノ雁ガ腹摺山(1985m)―黒岳(1988m)―湯ノ沢峠―大蔵丸(1781m)―米背負峠―大谷ヶ丸(1643m)―大鹿峠―笹子雁ガ腹摺山(1357m)―笹子峠(1096m)とのびる尾根筋。もうひとつは、大菩薩嶺から上日川峠(1590m)―砥山(1607m)―下日川峠―源次郎岳(1477m)―宮宕山(1309m)とのびる尾根筋。つまりは、日川渓谷を上っていけば、大菩薩峠に進む、ということ。
この地を歩くまで、天目山と大菩薩峠はまったく結びつかなかった。それがむすびついたのは、どこだったか、日川沿いの道筋でバス停の案内を見たとき。行き先に「上日川峠」とある。上日川峠、って大菩薩峠に上るロッジ長兵衛があるところ。大菩薩を越えれば奥多摩である。勝頼が何ゆえ、天目山などという三峡の地に進むのかよくわからなかた。武田家ゆかりの地で自刃するため天目山を目指した、との説もあるが、いまひとつ納得できなかった。だが、峠を越え奥多摩・秩父へと脱出するため、天目山から大菩薩峠を目指した、と思えば結構納得。真偽のほどは知らないけれども、自分なりに一件落着、と思い込む。

四郎作(つくり)古戦場碑
国道分岐点から1キロ程度進む。日川に沿った道の脇に石碑がある。立ち寄ると、四郎作(つくり)古戦場碑。武田家の忠臣・小宮山友晴を顕彰するもの。主家存亡の危機に臨み、蟄居の命を破り勝頼のもとに馳せ参じた忠臣。跡部勝資・長坂光堅、秋山摂津守といった武田勝頼の側近、また、穴山梅雪・木曽義昌といった武田御親類衆と相容れず、讒言などもあり勝頼より疎んじられ蟄居させられていた、と。織田方に寝返った穴山梅雪や木曽義昌、一戦も交えず逃亡した武田信廉や武田信豊といった武田御親類衆の動向を見るにつけ、勝頼は己の不明を恥じた、と言う。幕末の儒学者・藤田東湖は、友晴のことを「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」と称えている。
四郎作は織田方を迎え撃つための柵といったもの、か。織田方滝川一益の軍勢は数千。対する四郎作を守る小宮山友晴等の武田軍は数名であった。と言う。友晴は奮戦するも衆寡敵せず討死を遂げた。

鳥居畑古戦場
四郎作(つくり)古戦場碑のすぐ先、日川に架かる橋を渡ると道脇に鳥居畑古戦場の碑。天正15年(1582)3月11日、この地で武田家最後の戦いが始まった。とはいうものの、武田方は総勢50数名、そのうち16名は姫や御付の女性であり、戦闘勢力は40名強といったものであったらしい。
古戦場跡は現在、広い車道が通っている。が、昔は渓谷沿いの細路ではあったろうし、いくら軍勢が多くとも一時に大軍勢が攻め込めるわけもなく、少人数でもそれなりに防御はできるだろう。とは言うものの、ものには限度がある。戦いになるとも思えない。この地のすぐそばに勝頼自刃の地があるわけで、主家の最後をまっとうするための時間をつくる、戦いであっただけ、か、とも思える。
それにしても、武田方の人の減り方。これまた、ものには限度がある。天下の武田軍が 50名弱とは。ちょっと推移を振り返る。木曽義昌の謀反を鎮圧すべく諏訪に向かったときの軍勢は1万五千名とも言う。途中で引き返し、新府城に入城。軍議の末、大月の小山田氏の居城・岩殿城への撤退決定。3月3日、新府城を打ち棄て撤退するときには700名に。武田信虎の弟・勝沼友信の娘である理慶尼が庵を構える勝沼の大善寺に一泊し、岩殿城に向かうべく笹子峠に。このときには200名。小山田氏の裏切り。笹子越えは諦め、3月10日、天目山を目指し日川 渓谷に入る。
で、3月11日、日川渓谷田野の地にある鳥居畑の戦いのときには50名弱となっていた。なんだか、なあ。
武田家武将の勝頼離反の理由は良く知らない。長篠の合戦で譜代の重臣を多数失った。ために、重鎮・纏め役がいなくなったのだろう、か。徳川勢の高天神城攻撃に際し、援軍送らず。勝頼頼むに足らず、と威信大いに失墜。これを契機に一門や重臣の造反がはじまった、とも。防御拠点として縄張りを始めた韮崎の新府城築城の是非、また金銭負担に穴山梅雪など家臣の間に不協和音が高まっていた、ことも一因、だろう、か。また、近習・側近の重用も家臣間での諍いの火種でもあった、などなど遠因は想像できるのだが、それにしても、ものには限度がある。なんだか、なあ。

景徳院
鳥居畑古戦場を離れ先に進む。ほどなく景徳院。国道20号線から1.5キロ程度。ここは武田勝頼自刃の地。四郎柵でメモした小宮山友春の弟で僧侶となっていた拈橋が、勝頼と一門をとむらう。で、天正16年(1588年)、家康がこの地に田野寺、現在の景徳院を建立。拈橋をその住持とした。
山門は安永8年(1779年)建立。本堂前に旗堅松。武田家累代の重宝「御旗」を松の根元に立て、勝頼の嫡子「楯無の鎧」を着させて、「かんこうの礼(元服の儀式)」を執り行ったという伝説がある。甲将殿には勝頼、夫人、信勝の影像を祀る。甲将殿の裏に勝頼、夫人、信勝の墓。没200年を期し、安永4年(1775年)に建てられた。
甲将殿前に3名の生害石。自害したと言われる平らな大きい石が残る。勝頼37歳、嫡男信勝16歳、夫人19歳。勝頼の辞世の句;「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れて行衛(ゆくゑ)の西の山の端」。信勝は鳥居畑で武運つたなく討ち死に。夫人は小田原北条の出。小田原に戻れとの勝頼の言にも関わらず、勝頼と運命を共にした。
境内には首洗い池が残る、と言う。勝頼の首を洗った池、と。なんとなく行く気になれず、パス。境内を出て、道路に面した駐車場に。駐車場の奥、日川の崖上に姫ケ淵の案内。勝頼の正室・北条夫人の侍女16人が身を投げた淵である、と。

竜門峡入口
寺を離れ天目山栖雲寺を目指す。おおよそ4キロ強といた行程。1キロほど進むと道脇に大和村福祉センター。温泉施設があり、一般の人も歓迎との案内。そこを越えると橋があり、竜門峡入口の案内。橋を渡ると日川渓谷に沿った遊歩道がある。竜門峡散歩は帰り道のお楽しみとして車道を先に進む。

土屋惣蔵片手切跡の碑
ほどなく道脇に土屋惣蔵片手切跡の碑。千人切りの碑、とも。碑の脇に大正時代の写真。いまでこそ、立派な車道ではあるが、大正の頃を狭い崖路。往時は人ひとり通れるかどうか、といった崖路である。この地で武田の家臣・土屋惣蔵は川上から攻めよせる織田軍に対し、片手で藤蔓につかまりながら奮戦。その流された血により川は三日三晩、朱に染まった。「鮮血流れて止まず河水赤きこと三日」との記述が残る。ために川を「三日血川(みっかち)」と呼ぶようになった。後 に、三日(みっか)川となり、現在は「日川(にっかわ・ひかわ)」となった、とか。

大蔵沢
土屋惣蔵片手切跡の碑から道脇のお蕎麦屋などを見やりながら500m弱も進むと大蔵沢。どうもこのあたりで織田方が勝頼主従の行く手を阻んだらしい。一説には、武田を裏切った小山田一党が、勝手知ったるこの地へと織田軍を先導した、とも。
武田を裏切った小山田信茂は、笹子峠や大鹿峠など大菩薩から大月方面へと通じる主な峠を抑え勝頼の進路を阻む。ために、勝頼主従は、田野から日川渓谷を遡り武田家ゆかりの天目山栖雲寺(せいうんじ)に入る。そこから大菩薩峠を越えて多摩秩父方面へ。その後は真田一門を頼って上州に抜けようとした、とも言われる。
いっぽうの織田軍は、小山田軍の先導のもと天目山方面へ進出。大月・小菅方面から湯ノ沢峠や米背負峠(湯ノ沢峠と大谷ケ丸)などの峠を越えて日川の支流・大蔵沢一帯へと進出。天目山へ向かう勝頼一行の逃避行を阻んだ、と。また、勝沼深沢口から栖雲寺を経て大蔵沢方面に進出していたとの説もある。
僅か数十人の落ち武者一向に対し、少々大仰な気もするのだが、ともあれ行く手を阻まれた勝頼一行は日川を戻る。が、川下から攻め上ってきた織田方の滝川一益の軍勢により挟み撃ち。で、鳥居畑で最後の合戦となる。

天目山栖雲寺
大蔵沢を越え、ほどなく橋を渡ると日川渓谷レジャーセンター。バーべキュー、釣堀、キャンピング、バンガローなどアウトオアを楽しむ家族の姿を見やる。先に進むとヘアピンカーブの急坂。上りきったところが天目山トンネル。トンネルを抜けると「やまとふれあいやすらぎセンター」という温泉施設がある。その先に沢。焼山沢。沢を上ると湯の沢峠に進む。沢にかかる橋を渡りしばらく歩くと木賊(とくさ)の集落に。景徳院からおよそ4キロ。天目山栖雲寺はこの集落にある。
天目山栖雲寺。武田氏の招聘により業海本浄が開く。寺号の天目山は、業海本浄が修行した中国の杭州天目山に地形が似ていたから。庫裏は文禄元年(1592年)建立。解体修理が終わり、新しくなっている。
境 内には武田信満の墓と伝えられる宝篋印塔がある。応永23年(1416)上杉氏憲(禅秀)の乱に甲斐守武田信満(禅秀の舅))は氏憲に与し都留郡で戦う。が、武運つたなく、応永24 年(1417年)2月6日天目山にて自害した。宝篋印塔は高さ1m。周囲に家臣の塔が囲んでいる。
このとき、武田は一度滅んだと言われる。ということは、この天目山、勝頼も含めると二度滅んだとも。それと、いろんなところで、勝頼が天目山を目指したのは、先祖の武田信満が自害した、ここ天目山を死地と定めて登ってきた、と書かれている。が、先にメモしたように、どうもそういう気はしない。根拠はないのだけど、この日川をずっと上って行けば大菩薩峠に出るわけで、大菩薩峠から小菅へと歩いた(大菩薩越え)わが身とすれば、なんとなく、天目山への遡行は脱出行であったように思える。なんとなく、である。
庫裏の右手裏山は巨大な花崗岩の庭園。2ヘクタールある、とか。確かになかなか迫力のある巨石が山腹に見える。磨崖仏もある、とか。禅僧が修行したとのことである。
天目山はこの栖雲寺の寺号から、とメモした。それはそうなのだが、栖雲寺の近くに木賊山とか大天嶽とか、大天狗山と呼ばれたりする山がある。その山も天目山 と呼ばれるようだ。寺が先か、山が先か、普通に考えれば寺が先なのだろから、やはり天目山ってお寺、から、と思い込む。

竜門峡遊歩道
寺を離れ県道に戻る。道を上り、そのまま上日川峠まで進みたいとは思うのだが、距離をチェックすると13キロほどもある。即中止。予定通り、竜門峡へと下ることに。このあたり、天目地区から田野地区にかけての日川渓谷を竜門峡と呼ぶ。看板でチェックした、「竜門峡遊歩道天目地区入口」を探す。天目山栖雲寺を少し戻ったあたりの道脇に案内がある。
急な下りを一気に下りる。栖雲寺のあたりの標高が1030mほど。川沿いは960mであるので、比高差70m程度。渓谷沿いに遊歩道、と言うより、山道と言ったほうがいい、かも。あたりは花崗岩の巨石がゴロゴロ。栖雲寺の巨石も、このあたりの巨石群を見れば、あって当たり前、といった雰囲気。
渓谷に蜘蛛淵。花崗岩の谷に多い、巨石で埋められた淵といったもの。道を進むと「木賊の石割けやき」。転げ落ちてきた花崗閃緑岩が二つに割れ、その間からけやきが伸びている。その先にで「平戸の石門」をくぐる。これも転げ落ちてきた巨大礫であろう。
休憩舎のあたりで日川を対岸に渡り、ゆるやかな傾斜となった遊歩道を進む。秋の紅葉はさぞ美しいであろうな、などと思いながら進むと、今度は竹林が現れる。 天鼓林、炭焼窯跡、そして東電取水口などを経て竜門峡入口に戻る。2キロ強。標高810m程度であるので、比高差200mほど下ってきた。あとは上ってきた同じ道を甲斐大和駅まで戻り、本日の散歩終了。