木曜日, 10月 03, 2024

ふるさと新居浜散歩 船木地区:台(大)の山城跡と麓城跡を訪ねる

過日、新居浜史談会で活躍されているKさんより、「船木史跡めぐり」という資料を頂いた。38ほどの史跡が簡単な説明とともに載っている。生まれた家のある角野地区から国領川を隔てた東にある船木のことはあまり知らない。ついでのことでもあるので、さんぽの前に船木の歴史などをちょっと調べる。
船木は新居浜市の東南端に位置し、東は国道11号の関ノ戸という緩やかな峠を抜けると四国中央市土居町に接し、長野山の北に連なる山地で多喜浜地区と接する。南は四国山地北端部、国領川の西は泉川町、角野町と接する。
地形は市場川、客谷川、種子川によって形成された扇状地。東北から西南に向かって緩やかに下り国領川に合流する。平野部では伏流水となり東田の泉、高柳泉、吉岡泉にて湧出する。
船木の地名の由来は、江戸期の西条藩による『西条誌』には「村名を船木というは、昔、官船を造りたる時、当村より船材多く伐り出したる事あり。因って名づくという。然れども、いつの頃という事を知らず」とある。
船木公民館編の『船木物語』によれば、「歴史は古く、大化元年(645)の郡の発足依頼「神野(かんの)郡」とよばれていたとする。天平19年(747)の「法隆寺伽藍縁起並流記資材帳」には「合庄倉・・・神野郡一処」とあり、奈良時代中期にはすでに法隆寺の庄倉が置かれており、法隆寺の荘園として数えられている。
その後、東大寺領新居荘となる。東大寺の史料によると、天平勝宝8年(756)に東大寺墾田として制定された「新井庄について、「四至東継山、西多定(豆)川、南駅路、北至小野山」とある。継山は関ノ戸、多豆川は立川(この場合は国領川)、駅路は太政官道でる南海道。小野山は郷山と推定され、東大寺領新井庄は現在の船木、東田、光明寺あたりであったとされる。
神野郡は大同4年(809)新居郡となる。郡名が時の皇子神野(かみの)親王、後の嵯峨天皇の御諱(いみな)と同じであり、御諱(いみな)に触れる文字は畏れ憚るとの沙汰に従い新居郡とした。 新井庄はその後新居庄と改められおよそ400年続くが、平安後期から鎌倉時代にかけて武家勢力により荒廃し、仁平3年(1153)を最後に東大寺荘園としての姿は見えなくなる。
それに変わって鎌倉時代の文永9年(1272)には京都の遍照心院の荘園となる。京都の遍照心院 (大通寺ともいう)は、源実朝の未亡人が、実朝の霊を弔うために建立したお寺。新居荘は、鎌倉時代の初期には、幕府の直接支配地(関東御領)となっていたらしく、やがて、北条政子から未亡人(八条尼)に寄進され、さらに、未亡人から遍照心院に寄進された。
遍照心院領としての新居荘は、室町時代まで存続する (大通寺文書)。室町時代の嘉吉二年(一四四二年) 遍照心院雑掌(雑事を扱う役人)が、細川氏の押領 を排して寺領を回復することを幕府に訴えており、此の頃、荘園としての実質を失ったものと推察される」とあった。
新居郡とした、「新居」の由来などいくつか深堀りしたい箇所もあるのだが、それでは散歩の記事がいつまでたっても書けそうもない。あれこれの疑問は少し寝かすことにして散歩のメモに戻る。
「船木史跡めぐり」を眺めながら、38も記載される史跡のどこから歩き始めようかと考える。まずは大変そうな山間部から潰して行こうと史跡を眺めると、台の城跡と麓城跡が目に入った。麓城は家の近く、煙突山の稜線部にある生子山城の支城とのこと。船木の西端、種子川と西谷川に挟まれた標高181mほどの山城跡。台の城跡は新居浜と四国中央市の境をなす関ノ戸に落ちる尾根筋の稜線上、標高613mほどのところにある。ともに天正の陣にて落城した城とのことではあるが、それ以前より。四国守護、四国管領と称し、伊予にも触手を伸ばす細川氏と相争った山城のようである。
ということで、船木史跡散歩は台の城跡と麓城跡めぐりから始めることにした。予め散歩の概要を記すと、台の城跡は標高は高いが送電線巡視路が整備されておりアプローチは楽。が、城跡は言われてみればそれらしき土塁、石積みらしきものが残るといったもの。他方の麓城跡は標高はどうということもないが、はっきりとした踏み跡はなく、なりゆきで上るといったもの。力任せで直登で這い上がったが藪もなく楽ではあった。城跡は深く切り込まれた掘割が3か所もあり、結構見ごたえがあった。
痛めた膝が心配ではあったが、台の城跡はは上り2時間半、下り1時間半。麓城跡は上り、下り共に30分程度といったのものであり、なんとか1日で二つの城跡を潰すことができた。ともあれ、ルートメモを始める。





本日のルート;
台〈大)の城跡
関ノ戸>登山口>送電線鉄塔巡視路標識>送電線鉄塔巡視路標識>植林地帯を進む>植林帯を抜け緩やかな尾根道を進む>送電線鉄塔>住友共電物部線の巡視路標識>四国電力送電線巡視路標識>四国電力送電線巡視路標識>送電線鉄塔>四国電力送電線巡視路標識>四国電力送電線巡視路標識>送電線鉄塔巡視路標識が続く>台の城跡
麓城跡
アプローチ口>取りつき口>藪もなく成り行きでピークを目指す>最初の堀切>北の曲輪>曲輪の南に堀切>さらに堀切>南の曲輪

台〈大)の城跡散歩

関ノ戸
先ずは、きついほうから潰そうと台の城跡へと向かう。大の城とも記されている。国土地理院地図でチェックすると、台(大)の城跡は四国山地、下兜山(標高1233m)から北に下る尾根筋にあり、その尾根は関ノ戸へと落ちる。関ノ戸の北は長野山からの尾根が下り関の戸が鞍部となっている。台(大)の城跡へのアプローチ口は関ノ戸の南の山裾にあるようだ。 とりあえず国道11号を走り関ノ戸へと向かう。今でこそ国道が抜け大きく切り崩されているが、往昔は宇摩郡と新居郡の間を隔てる峠ではあったのだろう。なお、往昔の峠道は現在の関ノ戸の切通を抜ける国道11号の南を抜けていたようである。
関ノ戸の合戦
思うに関の戸(峠)は讃岐に本拠を置く細川氏が伊予に攻め込むにあたり、最初の関門ではあったのだろうし、とすれば関ノ戸では合戦が繰り広げられたのではないだろうか。台(大)の城が関ノ戸に下る稜線上にあるのは、関ノ戸の東の物見のためでもあったように思える。
ついでのことでもあるので、船木公民館編『船木物語』に記されていた関ノ戸の記事を引用する:
「度重なる関・長川の峠での戦い
(新居の関)
南北朝時代になると新居・西条両荘は、朝廷方の河野通盛の所領で、南朝方の軍に頼られる立場になり、足利方の土佐、阿波、讃岐の細川軍の勢力と対立し、地理的位置の関係上、二大勢力に挟まれている関の峠付近では、細川軍がしばしば攻めて来て、宇摩郡に入ると、郡境の関の峠で、生子山城の将士と戦になりました。
延元元年(一三三六年)から、正平二十四年(一三六六年)まで三十余年間は、関の峠と生子山城で絶えず讃岐勢と頻繁に戦闘があり、東予地方は、いつも細川軍のために圧迫を受けていました。 関の峠は、宇摩郡の方から来る敵を防ぐには屈強の地帯で、これを破って天険の要塞である生子山城を攻めます。 生子山城は地勢が険阻で、敵を防ぎ味方を守るには、非常に良い地形でした。 関の峠と生子山城での戦いを挙げますと、
一、延元元年(一三三六年)足利方の軍は、細川頼有を総大将として、伊予の朝廷方軍を破るために、宇摩郡に進入し、七月十七日に新居関、関の峠付近で、死傷者多数を出す戦いがあり、足利方は生子山城を攻略しました。この戦を宇摩・新居関合戦といいます。
二、応安二年(一三六九年)八月、河野通直を松木氏と宇高氏が援助し、一気に宇摩郡まで進出しましたが、細川頼之が大兵を率いて襲来したので退き、一条修理亮(松木俊村)の居城、生子山城で戦いが展開されました。
三、天授五年(一三七九年) 河野一族の一条修理が七百余騎で生子山城にたてこもりました。阿波・土佐・讃岐三国の兵四万騎が伊予の国に攻めてきて、最初に生子山城に押し寄せ、俊村は当城で討死し、七日にして落城。
四、文明十一年(一四七九年)細川讃岐守義春、阿波・讃岐・両国の兵を率い、宇摩・新居両郡を攻略。 五、天文八年(一五三九年) 細川讃岐守持隆、一万余騎で東予に侵入したが、利を失って敗退。 六、天正十三年(一五八五年) 八月六日、生子山城が秀吉の四国征伐の際、小早川隆景により落城し、城主松木三河守安村が自殺。城陥る。其の後隆景軍は宇摩郡に攻め入りました。
宇摩郡の将士は、氷見高尾城や、野々市原で多く討死しており、隆景勢は男子は山へかくれ潜み、老若婦女相手では、このあたりでは戦にならなかったと伝わっています」とあった。

台(大)の城に関する記述がどこにもない。この城が南北朝の戦乱期、また天正の陣でどの程度の位置づけの城であったのか不明である。ともあれ、先に急ぐ。 

 登山口:午前8時2分(標高176m)
台(大)の城へのアプローチ口に向かう。国土地理院地図には台の城から麓へと3つのルートが破線で記される。どれがアプローチ口?あれこれチェックするに、どうも3つの破線ルートの最も東のルートが台の城へのオンコースのようである。ルートは送電線鉄塔巡視路となっており、道はなんとなく踏まれているようだ。そういえば台の城跡には送電線鉄塔が建っている。
関ノ戸で右折、というか切り返し、金比羅街道・旧遍路道に入り、最初の道を左折。松山道に当たるまで北進し、松山道に沿って東に進み、最初の松山道を跨ぐオーバーブリッジを右折し山側に移る。 少しスペースのあるところに車を停め、国土地理院地図の破線が里に落ちるところ、小さな沢に架かる橋を探す。と、駐車スぺースの直ぐ東に沢に架かる橋があり、沢に沿って山へと入る道がある。沢側にはガードレールが設けられている。ここだろう。が、結構な藪となっておりちょっと先が心配。

送電線鉄塔巡視路標識:午前8時3分
ガードレールの設けられた道に入る。心配した藪も入口部だけ。すぐしっかり踏まれた道となる。そこにふたつの送電線巡視路標識。「住友共電物部線168、169,170」、「四国電力中央中幹線111」とある。国土地理院地図を見ると山麓を東西に2本の送電線網が走り、北側が住友共電物部線、台の城に建つ送電線鉄塔から東西に伸びる送電線が四国電力中央中幹線網のようである。
●住友共電物部線:高知県香美市の物部川に造られた川口、五王堂発電所で作り出された電気を仙頭発電所に集め、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜市の海岸近く、住友の企業群が並ぶ西の谷変電所まで送られる。
●四国電力中央中幹線:東温市則之内の川内変電所から四国中央市土居町の東予変電所を結ぶ

送電線鉄塔巡視路標識:午前8時24分
沢に沿ってよく踏まれた道を進むと道の左手に送電線鉄塔巡視路標識。「四国電力中央幹線111」、「住友共電物部線168、169,170」とある。巡視路標識に従い、ここで沢筋を離れ左に折れ尾根筋へと上る。
注意
あまりに快適な踏まれた道であり、道を進むと沢に砂防ダムがあり、その先で道がはっきりしなくなる。国土地理地図をチェックすると、砂防ダム手前で沢を離れ尾根筋へと左に折れている。引きかえしオンコースに乗った。この左手にある標識はうっかりすると見逃してしまう。注意が必要。
上記時間が午前8時24分となっているのは通り過ぎ、消えた道筋の先を探し、結局引き返したため最初の巡視路標識から20分程時間がかかっているが、実際は10分程度でこの標識に出合うかと思う。

植林地帯を進む
標高230mほどの2番目の鉄塔巡視路より沢筋を離れ尾根筋への上りに入る。道は整備されており快適。周りは植林された木立が立ち並ぶ。
道は等高線を斜めに進み、標高300mあたりで尾根筋に乗る。そこから先標高350mあたりまでは尾根を巻き気味に進む。

植林帯を抜け緩やかな尾根道を進む:午前9時7分(標高350m)
標高350mあたりにくると植林地帯は消え自然林の中を進む。尾根道を踏むが等高線の間隔も広く緩やかな坂道となっている。



送電線鉄塔:午前9時17分(標高380m)
尾根道を10分ほど歩くと、道の左手(東側)に送電線鉄塔が建つ。国土地理院地図にはこの地に送電線網はない。住友共電物部線は60m程標高の高い所を東西に走っている。鉄塔まで下りて鉄塔名を確認しようとしたのだが、どこにも鉄塔名は記載されていなかった。

住友共電物部線の巡視路標識:午前9時25分
が、尾根道に戻り少し進むと住友共電物部線の巡視路標識。「168、169」とあり168は明らかに今見た鉄塔を指しているように見える。念のためGoogle の衛星写真で確認すると送電線鉄塔が先ほどの箇所に建ち、左右にも送電線鉄塔が見える。逆に国土地理院地図に記される送電線網のところには鉄塔も何もない。思うに、国土地理院地図の送電線網の記載がずれているのではないかと思う。どう考えても、先ほどの送電線鉄塔は住友共電物部線168号ではないかと思う。
時刻が9時25分となっているのは、送電線鉄塔の周りをチェックしたため時間がかかっているが、相伝電線鉄塔からこの巡視路標識までは数分もかからない距離である。

四国電力送電線巡視路標識:午前9時28分(標高381m)
そのすぐ先に四国電力の鉄塔巡視路標識。「四国中央中線110」とあった。その先等高線400mあたりから少し等高線の間隔が狭まり、等高線を斜めに上り等高線450mあたりから少し傾斜が楽になった尾根の稜線部を先に進む。




四国電力送電線巡視路標識:午前10時1分(標高480m)
緩やかになった尾根稜線部を進むと四国電力送電線巡視路標識がある。「 四国中央中線110 111」とある。右に進めば111号、左は110号を指す。左の110号方向に向かう。
この標識のあたりで四国中央市方面が少し開ける。木立の間から土居町方面の平野部が眼下に広がる。

 

送電線鉄塔:午前10時5分(500m)
111号鉄塔が右下に見える
110号鉄塔
等高線500mを越えると等高線の間隔も広がりほぼ平坦な尾根筋となる。木々の茂るあたりを抜けるとその先に鉄塔が見える。記載はされていないが、巡視路標識から考えると四国電力送電線110号鉄塔ではないかと思う。東手下の山中にも送電線鉄塔が見える。111号鉄塔だろう。



四国電力送電線巡視路標識:午前10時16分(標高530m)
フラットな尾根筋、その先緩やかな尾根筋を10分ほどかけて標高を30mほど上げると四国電力送電線巡視路標識があり。「四国中央中線110,109」とある。110は北を指し、109は南を指す。先ほどの送電線鉄塔は四国中央中線110号で間違いないようだ。



四国電力送電線巡視路標識:午前10時23分(標高550m)
ゆるやかな斜面を8分ほど進むと四国電力送電線巡視路標識があり、「四国中央中線110、109」と記される。尾根筋を辿った道はここから稜線部を逸れ、台(大)の城跡のある613mピークを巻くように右(西)へと回り込む。
道には木にテープが巻かれオンコースであることが確認できる。
注意:言わずもがなではあるが、テープは林業作業用、登山者が個人的目的のために目印として巻かれる。または木に括られるものも多い。山中などで安易にテープに従い進むと、あらぬところに連れていかれることもある。


送電線鉄塔巡視路標識が続く
ピークを巻くゆるやかな傾斜の道を進み8分程歩き等高線を20mほど挙げると送電線鉄塔巡視路標識があり「四国電力 中央中線110,109」と記される(午前10時31分)。さらにそこから3分ほど先にも送電線鉄塔巡視路標識( 午前10時31分 )。これも^ 四国中央中線110、109」とある。 この最後の送電線鉄塔巡視路標識のあるところは、国土地理院地図に台の城跡のある613mピークから麓へと向かう破線ルートの3本のうち、西側のふたつのルートが記される尾根筋。送電線鉄塔巡視路標識から北東に少し進んだあたりで尾根筋が二つに別れ里に下る。

台の城跡:午前10時40分(標高613.3m)
613.3mの三角点
109号鉄塔

送電線鉄塔巡視路標識から南へと613mピークを巻くように標高を40mほど挙げると送電線鉄塔の建つ平坦部に出る。登山口からおおよそ2時間半で到着した。痛めた膝をかばいながらとすれはこの程度のペースだろうか。
送電線鉄塔には名称の記載はないが、巡視路標識から考えると四国電力中央中線109号鉄塔だろう。 鉄塔の建つ平坦部で少し休憩し、城跡の遺構などあるかと彷徨う。鉄塔の南西の平坦部に613.3mの三角点。


その南の木々の茂る中に入ると中央部に木標。南面には「大の城」、北面には「天神山」と記される。このあたりが主郭があったあたりだろう。




土塁跡?
南側から見た土塁跡?
その南に土塁と言われればそうとも見えるといったものがある。南側に回り込んで見るも段差1mほどであり、土塁なのかどうかはっきりしない。


石積み跡?
鉄塔の南側にも石積らしきものがある。といって規模はどういったこともなく城郭当時の石積みかどうかはっきりしない。ともあれ、台(大)の城跡の遺構は素人眼にははっきりとわかるようなものは残っていなかった。また、最後の巡視路標識から鉄塔の建つ平坦部に上る途中には堀切跡もあったようだが、特段目につくような堀切は素人には見分けられなかった。
台の城 (大の城、 柿迫城) (跡)
「船木の史跡めぐり」には:
国道11号から見た台(大)の城跡:中央の鉄塔の立つ山がそうだろう
「船木の標高、 最高地点である物住の頭から北へ、上兜山と下兜山と繋がり、 長川まで下っている郡境の尾根(かけさこの尾) 上の 613m付近に台の城があった。
今は電力会社の鉄塔が建っている東西20m、南北100m位の平らな場所である。応仁2年(1468年)、 加地備前守修理進彦三郎盛高が新居郡、 宇摩郡の守護職を命ぜられた際、 両郡境に関所を設け、台の城をつくったと言われている。天正13年(1585年) の天正の陣で台の城は陥落した。関・長川地区の人の話では、そこには瓦や刀の折れたものなどが残っていたと言われている。
※かけさこ:「掛け迫」と思われるが、「掛砂古」の表現も見られる。」と記される。 「迫」は尾根と尾根の間の谷間を意味もあるようだが、「掛け」の意味がよくわからない。が、「掛け迫」は「山間の小さな谷を指す」とCopilot君が教えてくれた。

城主には上野五郎右衛門義成 の名を記す史料もある。「船木の史跡めぐり」には宇摩郡の守護職とあるが、加地氏にしても上野氏にしても宇摩地域の小領主、つまり国人領主(こくじんりょうしゅ)として、戦国時代の伊予で活動していた武将だろう。国人領主は、特定の地域に根ざした地元の有力者で、戦国時代には各地で小規模な勢力を持っていた。国人領主は地方で独自に力を持ちながらも、しばしば上位の有力者に従属し、時には反抗することあったようだ。

登山口に戻る
午前11時13分、台の城を後に登山口へ戻る。上りと同じルートを下り上り口到着が午後12時48分。1時間半ほどで下りることができた。痛めた膝に負担をかける急な勾配もなく、道も送電線鉄塔巡視路で整備されており、結構早く下りることができた。
これならもうひとつの麓城跡も充分潰せそうということで船木の西の端への城跡アプローチ口に向かう。



麓城跡

麓城跡へ向かう
西谷川、種子川筋分岐点
台の城登山口のある船木地区の東端から麓城跡のある船木地区の西端(愛媛県新居浜市種子川字中野)へと向かう。地図を見ると西谷川と種子川が合流し種子川となって下るあたり、西を西谷川、東を種子川に挟まれた尾根筋北端部に城跡がある。 車で両河川の合流部に向かう。松山自動車道の高架手前、直進すれば西谷川に沿って魔戸の谷、左に折れ種子川橋を渡れば種子川に沿って進む分岐点に到着。
この分岐点を左に折れ種子川橋を渡り、アプローチ口を探す。

アプローチ口:午後13時44分
種子川に沿ってアプローチ口らしきところを探す。道で出合った地元の方に尋ねても、麓城跡のことはご存じない。あちこちと探した結果、種子川橋を渡り最初のカーブを曲がった直ぐ先、道の右手に尾根筋と里を画す広い切れ目が目についた。ここ以外は道路脇は岩場となっており、ここしかなかろうと入り込む。倒木が行く手を邪魔するが右手は平坦地、左手は尾根筋が落ちる。とはいうものの。どこから城跡への道が上るのかわからない。

取り付き口:午後13時44分
尾根が里に落ちる境を進む。小石が転がるが掘割状になっている道の両側に石垣がある。どこから上るか成り行きで西の端、その先は西谷川となって進めないところまで歩いてみる。
特段山に上る道といったものはないのだが、西端の少し手前に急登ではあるが山へと続くような箇所があった。麓城は標高180mほど。どこから攻めてもピークに行くのは問題ないだろうと、急登部より這い上がることにした。

藪もなく成り行きでピークを目指す
取りつき部の土の急登部を這い上がると木々の下には薄いシダが生える斜面となる。時に踏まれた道らしきものも現れるが、所詮は180mほどのピーク、とりあえずピークを目指し直登する。木立をつかみ、薄いシダの生える斜面を上る。幾度となく踏まれた道にも出合うが、ひたすらピークを目指して直登する。

最初の堀切:午後14時8分
上りはじめて20分強、眼前に大きな堀切が現れる。これだけおおきければ素人にもはっきりわかる。




北の曲輪:午後14時17分
堀切をクロスし先に進むと少し平坦な箇所に入る。麓城には北の曲輪と南の曲輪があったようだ。ここは北の曲輪のあったあたりだろう。主郭は北の曲輪にあったようだ。



曲輪の南に堀切:午後14時18分
南の曲輪をさらに進むと深く切れ込んだ第二の堀切が現れる。右手には生子山城跡のあった稜線が見える。掘割の道は左右に堅堀として造作されているようにも思える。


さらに堀切:午後14時24分
堀切をクロスし更に南に進むとまたまた大きく切れ込んだ堀脇が現れる。この辺りは岩場であり、普請は大変だったろうと思う。この城は生子山城の支城であったとのことだが、このように三重の堀切をみるにつけ、結構戦構えの城であったのだろうと想像できる。 南の曲輪 この堀切の南には南の曲輪があったようだ。が、夕刻より用事があり、ここらあたりが切り上げ時。この程度の山なら再度出直してもいいかと、ここで引き返すことしあ。
●麓城(跡)
「船木の史跡めぐり」には:
「麓城跡は、西種子川(西谷川)を挟んで生子山城跡とは向かい合わせ(東300m) に位置している。種子川橋東詰より南へ山道を約30分登ると平らな場所に出る。
山頂は、標高181.6mで、頂上付近は、累々とした岩石、 その後ろに東西20m、南北50m位の平地があり、 堀切3ヶ所と石積がある。
城は松木家10代景村の時に築城されたものである。天正13年(1583年) の天正の陣で、生子山城主松木三河守安村の嫡男新之丞が討死したと言われている。
また、生子山城(三河守安村の居城)との間に洞穴があると言われている。」とある。
台(大)の城と麓城跡をカバーした。麓城跡の南の曲輪がどうなっているのか、家から距離もそう遠くないため、その内に再訪しようかとも思う。
さて次の目的地だが、「船木の史跡めぐり」には麓から近い山間部にいくつか史跡が記載されている。正確な場所はイラストの地図ではわからないが、近々彷徨ってみようかとも思う。

月曜日, 7月 22, 2024

愛媛 ふるさとの山 ➂:内宮神社から物部線送電線鉄塔184号を経て瑞応寺へ下る

 過日、大永山の少し南、辻が峰へと向かう尾根道に有ると言う六地蔵と蔵王大権現を訪ねて内宮神社から山に入った。その途次50分ほど山道を進んだところに送電線巡視路標識があり、「左 物部線184号」と示す方向に踏まれた道が西に続いていた。山好きな弟などの話によると、そのルートは瑞応寺から上ってきた巡視路と言う。その時は六地蔵や石鎚蔵王大権現が目的でもあったためsのまま先にすすんだのだが何となくこのルートが気になり、日をおかず瑞応寺よりこの分岐点をつないでみようと道を辿った。

しかし、結構注意しながら尾根筋を上ったのだがこの分岐点に繋がることはなく、結局送電線鉄塔184号まで引っ張られることになった。

で、今回。最初の山入りで出合った瑞応寺に繋がるという巡視路標識分岐点から瑞応寺を繋いでみようと山に入った。分岐点からしばらくは谷筋のトラバース道は踏まれていたのだが、ほどなく道も消え、後は成り行きで瑞応寺から尾根道までトラバースするしかないかと先にすすんだのだが、瑞応寺から送電線鉄塔184号えへと上る尾根の一筋手前の尾根に踏まれた道があり、そこから一筋西尾根筋へとトラバースするルートはなく、結局この尾根筋を上り送電線鉄塔184号に引っ張られていった。

結局のところ、弟たちが言うような巡視路標識から瑞応寺へと直接下る踏まれたルートはなく、巡視路分岐点にあった「物部線184号」鉄塔に繋がり、そこから瑞応寺へと下りることになった。行程は4キロ弱、4時間弱であった。

これで田舎の家の直ぐ裏の山道を3回に分けて歩き終えた。送電線鉄塔を目安に歩いたこともあり、里から送電線鉄塔を見上げながら歩いたルートを想像する。見慣れた山も少し違って見える。


本日のルート:強足神の脇から送電線鉄塔巡視路に入る>鉄塔巡視路標識・物部線No.184>鉄塔巡視路標識・物部線NO.183,184を右に折れる>道が消え尾根筋に這い上がると踏まれた道>シダの藪が行く手を遮る>184号送電線鉄塔絵馬に強烈なシダの藪》住友共同電力物部線184鉄塔>鉄塔巡視路標識>鉄塔巡視路標識





            ■内宮神社から送電線巡視路184号分岐標識へ■


内宮神社と送電線鉄塔
国領川右岸より見たアプローチ点の内宮神社と、支尾根より大永山への尾根筋取り付きの目安となる鉄塔。国領川を隔てた山裾に内宮神社の大鳥居。
写真中央のピーク直ぐ下にある送電線鉄塔(住友共同電力送電線183号鉄塔)が尾根筋取りつき地点の目安。
国領川は西条市にある聖武天皇の神亀4年(727)の建立とされる古刹保国寺の領であったことがその名の由来といった話を聞いたことがある。

内宮神社の大鳥居を潜り参道石段を上る:午前9時41分
太鼓台の宮入り

田舎の家を出ると数分で内宮神社の鳥居に着く。鳥居からの参道の石段は石段の間の幅が広く傾斜も緩やかになっている。これは毎年10月16日から18日まで行われる「新居浜太鼓祭り」の初日。16日の早朝午前4時からスタートする新居浜市上部地区の4台の太鼓台の宮入りのため、舁き上げやすくするため整備されたもの。重さ3トン近くある太鼓台を150名ほどの舁き夫が石段を本殿まで舁き上げるのだが、昔自分も舁き夫として舁き棒に肩を入れ本殿まで上っていたのだが、確かに足元の石段の幅が狭く舁き上げにくかった思いがある。
それにしても、昔は石段舁き上げの宮入りなどなかった。いつ誰が「舁き上げよう」と発案したのだろう。
●内宮神社
由緒:当社は内宮天照皇大神宮と申し、今を去る千三百年の昔 慶雲三年八月伊勢国五十鈴川の川上から日本民族の大祖神 天照大神を勧請古来新居地方に在りて 西の伊曽乃(私注:西条市に鎮座) 東の内宮と並び称せらる。
Wikipediaには「天正年間、豊臣秀吉の四国攻めに巻き込まれて荒廃し、一時期は土佐に設けた仮殿に遷座した。1614年(慶長19年)、もとの社地に社殿を再興したが、周辺に人家が増加したことから、再び1698年(元禄11年)に遷座し、現在に至る」とあった。

参道は別子銅山下部鉄道線路跡をクロスし更に上に
参道石段とクロスする下部鉄道軌道跡

参道石段は別子鉱山下部鉄道線路跡とクロスする。下部鉄道は明治26年(1893)に、現在は「みちの駅マイントピア」となっている端出場から新居浜の港近くの惣開までの開かれた。同年銅山峰北嶺の角石原(海抜1100m)から石ヶ山丈(海抜850m)まで上部鉄道が開通し、銅山峰の南嶺、旧別子で採掘された銅の鉱石を角石原まで運び、上部鉄道で石ヶ山丈まで運搬。そこからから索道で端出場に下した鉱石を運んだ。
明治35年(1902)には銅山峰の南嶺と北嶺を穿つ第三通洞が完成。北嶺の東平(とおなる)へと鉱石が運び出せることが可能となった。これに合わせ、明治38年(1905)には東平から黒石に鉱石を索道で下した。これにより上部鉄道は明治44年(1911)その使命を終える。
大正4年(1915)第四通洞が完成。明治43年(1910)から開始された工事は並行して第三通洞と第四通洞を繋ぐ立坑の工事も開始しており、この第四通洞の完成により鉱石は端出場への搬出が可能となった。これにより鉱石は端出場から下部鉄道により惣開まで運ばれるようになる。
その後大正5年(1916)、採鉱本部を南嶺の東延から北嶺の東平に移し、さらには昭和5年(1930)採鉱本部を東平からここ端出場に移した。また、昭和10年(1935)には東平から端出場に索道を繋げた。
この下部鉄道は鉱石の運搬だけでなく市内にある社宅に住む鉱夫や職員の通勤、また昭和4年(1929)から昭和30年(1955)までは一般旅客営業も行っていた。一度運転席に乗せてもらった時の嬉しさは今でもよく覚えている。
このように鉱石だけでなく人の運搬の大動脈として働いた下部鉄道も、昭和48年(1975)の銅山閉山後も運行し、昭和50年(1977)廃止となった(昭和52年廃止の記述もある)。

山根収銅所
坑水路(右)は参道を潜り収銅所へ
山根収銅所
下部鉄道線路跡クロス部より石段を上ると、右下に山根収銅所が下部鉄道線路跡に沿って見える。ここは下部鉄道線路脇を暗渠となって流れてきた坑内排水を処理するための施設。明治38年(1905)に建設された。
ジグザグの構造の水路は狭い範囲で長い距離を稼ぐ工夫。その水路に鉄のスクラップを入れ銅成分を付着させ銅の成分を取り除く。坑内排水は、ジグザク水路の上端から下端まで2~5時間程度かけて浄化するとのこと。
端出場に第四通洞が完成して以降、別子銅山内の坑内排水は、全て第四通洞に集約され端出場に集められた。別子銅山は昭和48年(1975)に閉山となったが、坑水路は、現在でも第四通洞から山根収銅所まで約3.4キロメートル、さらにこの山根収銅所で浄化された後再び暗渠の坑水路を磯浦まで約6.4キロメートル、総延長約10キロメートルほど流れている。
子供の頃は現在のように完全に暗渠となっていなかったため、坑内排水とは知らず坑水路に入り込み「ウォータースライダー」を楽しんでいた。坑内排水を結構飲んだことだろう。また施設は「沈殿所」と呼んでいた。
因みに、開坑当時の坑内排水の水素イオン濃度は、第四通洞口ではpH3.2~3.3とレモン汁の少し強いくらいの酸性であり石灰を入れて中和処理もしていたようだが、現在では、普通の水と同じくらいの値となっているとのこと(besshi.net参照)。

合祀社の小祠が並ぶ:午前9時5分
このステップを上ると
一段高いところに合祀社が並ぶ
石段を上ると、大鳥居の少し南にある一の鳥居、二の鳥居、厄除け石段から来る参道とみぎ合流する。そこを左に折れると山側、一段高いところにに幾つもの小さな石や木造りの祠が見える。舗装されたアプローチを上ると総若宮、八幡神社などの小さな社、山神宮と刻まれ注連縄のはられた石などの合祀社が並ぶ。

強足神の脇から送電線鉄塔巡視路に入る:午前9時6分
右端の「強足神」小祠から山入り
直ぐ先に鉄塔巡視路標識
合祀社群の最右端に「牛馬社 強足神」と刻まれた石碑をもつ小さな社があり、その右手から踏まれた感のある道が続く。そこが鉄塔巡視路の入口であろうと歩を進める。直ぐ「住友共同電力」と記さえ巡視路標識。その先、しっかり踏まれた道が続く。

鉄塔巡視路標識・物部線No.184:午前9時20分
しっかりした踏み跡を上ると
鉄塔巡視路標識がある
道は南に向かい尾根筋へと向かって行く。植林された森の中を10分強歩き高度を70mほど上げると鉄塔巡視路標識がある。「住友共同電力 物部線184」とあり上りを指すマークが記される。
●住友共同電力 物部線
住友共同電力 物部線って何処から何処に?送電線をトレースすると高知県香美市物部町押谷の住友共同電力仙頭発電所(最大7,100kW・常時出力:1100kW:昭和32年(1957)7月運用開始)、仙頭発電所より物部川を上流に進んだところに川口発電所(最大7,100kW・1400kW:昭和32年(1957)11月運用開始)、さらに笹川を上流に上った高知県香美市物部中上に住友共同電力五王堂発電所(最大12,200kW・常時出力:2300kW;昭和35(1960)7月運用開始)と繫がった。
あれこれチェックすると物部線の要は仙頭発電所のよう。3発電所で作り出された電気は仙頭発電所に集められ、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜市の海岸近く、住友に企業群が並ぶ西の谷変電所まで送られるようだ。


■鉄塔巡視路標識を右に折れ送電線鉄塔184号に■


鉄塔巡視路標識・物部線NO.183,184を右に折れる:午前9時56分
よく踏まれた支尾根稜線を上ると
再び鉄塔巡視路標識
尾根筋に入り、よく踏まれた快適な道を30分弱、高度を130mほど上げると再び鉄塔巡視路がある。住友共同電力「物部線184」「物部線183」と記され「物部線184」は右手方向を示す。
右手に踏まれた道が続く。鉄塔巡視路のアプローチとして、古刹瑞応寺の奥の院である金比羅宮の東横にある梵鐘脇からも上る道があるとのことだが、先回瑞応寺からこの分岐点を繋ごうと道を辿ったのだが、結局184号引っ張られたてしまった。
この道が瑞応寺へと繋がっていることを願い踏まれた道を進む。


道が消え尾根筋に這い上がると踏まれた道:午前10時26分
踏まれた道も直ぐ消え
尾根筋に這い上がると踏まれた道
尾根筋を離れ。南に切れ込んだ等高線260mに沿って道をう進む。が、ほどなく道は消える。上方向にも踏まれた感の道があったが直ぐに道はぼやける。分岐点まで戻り一筋西に北に突き出た尾根筋へ取りつく。踏み跡はないのだが、先回瑞応寺から上った尾根筋は、さらにその西にあるため、そこまで進めばなんとか踏まれた道にでれるだろうとの想い。
成り行きで尾根筋にとりつくとそこには踏まれた道があった。

踏まれた道は道が消えたところに繋がっていた。尾根筋に戻る:11時1分
尾根筋を下るが、道の消えたあたりに繋がり
結局尾根筋に引き返す
この尾根筋を下れば瑞応寺に下りることができる?ちょっと期待して踏まれた道を下ったのだが、尾根道はすぐ行き止まり。右手の谷筋に下りていく。このまま瑞応寺へ、とおもったのだが、道は下ることはなく、東へと進み結局道が消えたあたりまで引っ張られた。道が消えたあたりでは尾根筋からの道も消えている。道が消えたあたりからこの尾根筋へと続くちょっと踏まれたルートに乗るのは無理ではあろうが、このルートが尾根筋へとオンコースでったのかと思う。結局、瑞応寺に下りることはないため尾根筋の踏まれた道まで戻る(午前11時1分)。

シダの藪が行く手を遮る:11時11分
シダの藪が行く手を遮り
藪漕ぎで疲れ果てる
今度は踏まれた道を尾根筋へと上る。どうも更に一筋西にある尾根筋にトラバースするルートはないようだ。とりあえず尾根筋を上ることにする。
数分歩くと体全体が埋まりそうなシダの藪。シダの下の踏まれた道を頼りに先にすすむ(午前11時3分)。シダの茂みは次第に深くなりその先に結構激しいシダの藪。こちらは藪漕ぎで疲れ果てるほと(午前11時11分)。

184号送電線鉄塔絵馬に強烈なシダの藪:午前11時26分
藪は一瞬切れるが
送電線鉄塔前に強烈な藪が現れる
シダの藪を抜け踏まれた道に出る(午前11時18分)。道から西に谷筋へとトラバースする道はないかと注意しながら進むがそれらしきところはない。
仕方なく送電線鉄塔184号へと尾根筋を進む。鉄塔が少し見え始めた箇所の行く手にシダが茂る。ここは結構強烈。さすがに半袖ではまずかろうと長袖をはおり藪漕ぎで抜ける。
送電線鉄塔前は伐採されている
5分ほど格闘し藪を抜けると送電線鉄塔184号。手前は刈り込まれ、木も切り倒されれており、スムーズに鉄塔まで上れた。
尾根筋に這い上がった地点から高度を70mほどあげ184号鉄塔に着いた。ここからは過日瑞応寺から上ってきた道を下ることになる。





送電線鉄塔184号から瑞応寺に


住友共同電力物部線184鉄塔:午前10時30分
184号送電線鉄塔に到着。184号鉄塔から里を見る。右手に183号鉄塔。一筋東の稜線先端部にエントツ山のエントツも見える。
物部線
物部線って何処から何処に?送電線をトレースすると高知県香美市物部町押谷の住友共同電力仙頭発電所(最大7,100kW・常時出力:1100kW:昭和32年(1957)7月運用開始)、仙頭発電所より物部川を上流に進んだところに川口発電所(最大7,100kW・1400kW:昭和32年(1957)11月運用開始)、さらに笹川を上流に上った高知県香美市物部中上に住友共同電力五王堂発電所(最大12,200kW・常時出力:2300kW;昭和35(1960)7月運用開始)と繫がった。
あれこれチェックすると物部線の要は仙頭発電所のよう。3発電所で作り出された電気は仙頭発電所に集められ、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜まで送られる。
住友共同電力の物部線の送電線ははるか高知の物部川に造られた発電所から四国山地を超えて瀬戸内に面した新居浜まで送られてきている。どうして物部川と言った100キロほども離れた遠くに発電所を作ったのだろう。ちょっと気になりその経緯をチェック。
住友共同電力 物部川発電所 建設の経緯
住友共同電力が物部川に発電所を建設したのは、大正8年(1919)のこと。当時、住友合資会社(現・住友グループ)は、愛媛県新居浜市に銅製錬所を運営していた。製錬所には膨大な電力がが必要であったが、当時は火力発電が主流であり、燃料費が高く安定供給も困難であった。
そこで、住友合資会社は水力発電に着目し、物部川に発電所を建設することを決意しました。物部川は四国山脈の中央部に位置し、豊富な水量と急峻な落差を有しており、水力発電に適していたのがその主因のようだ。
が、物部川は新居浜から約100km離れており、送電線の建設には莫大な費用と技術が必要であった。当時としては画期的な長距離送電技術を駆使し、大正14年(1925)に送電線を完成させ、物部川からの電力を新居浜製錬所に送電することに成功した。
物部川発電所の建設は、日本の電力史において大きな転換点となったと言われる。このプロジェクトは、長距離送電技術の発展に大きく貢献し、その後全国各地に水力発電所が建設されるきっかけとなった。
〇物部川発電所を選んだ理由
物部川発電所が建設されたのには、以下のような理由がある。 豊富な水量: 物部川は四国山脈の中央部に位置し、豊富な水量を誇っていた。これは、安定した発電量を確保するために重要。
急峻な落差: 物部川は急峻な落差を有しており、水力発電に適していた。落差が大きいほど、発電効率が高くなる。
送電線のルート: 物部川から新居浜製錬所までの送電線のルートは、山間部を避けて比較的平坦な地帯を通っていた。これは、送電線の建設コストを抑えるために重要であった。
当時の技術と課題
物部川発電所の建設には、当時としては画期的な技術が必要であった。特に、以下の技術が重要だたと言う。
長距離送電技術: 大正14年(1925)当時、100kmを超える長距離送電は技術的に非常に困難であった。住友合資会社は、独自の送電技術を開発し、この課題を克服した。
高圧送電技術: 送電損失を抑えるために、高圧送電技術が必要であった。住友合資会社は、日本初の66kV送電線を建設し、この課題を克服した。
物部川発電所の建設には、多くの困難が伴った。しかし、住友合資会社の技術力と努力によって、これらの課題を克服し、日本初の長距離送電を実現することができた。
物部川発電所のその後
物部川発電所は、1925年以来、100年以上にわたって稼働を続けている。現在は四国電力が運営しており、出力は約7万kW。
物部川発電所は、日本の電力史において重要な役割を果たしただけでなく、現在も地域に電力を供給し続ける重要なインフラ施設となっている。

鉄塔巡視路標識:午前11時43分
送電線鉄塔184号の北西端からトラーバース気味に西に進むる。谷筋の源頭部を越えており等高線に沿って10分弱進むと尾根筋を上って来た踏まれた道に出合う。その角に鉄塔巡視路標識。物部線184号、物部線185号鉄塔を案内する。


鉄塔巡視路標識:11時49分
尾根筋を下る道を数分くだると住友共電鉄塔巡視路標識があり、「左 物部線184 右 物部線185号」と記される。
傍に石柱が立ち、「境界明確化」のサインもあった。境界が不明確な森林において、森林境界(所有者界)を所有者立ちあいのもと実施されるようだ。石柱は境界標石だろう。



瑞応寺の金比羅大権現の梵鐘脇に下りる:午後12時48分
踏まれた道を尾根筋に沿って下ってゆく。先回の瑞応寺から山入りし、一筋西の尾根筋に下ったとき深谷川の支流の沢筋で浮き石を踏み、正座もできない痛めた左足を強制正座状態となったときに痛めた足が結構きつくなり。下りをへっぴり腰でよたよた下り、歩くより膝痛休みの時間が多いといった為体(為体)で標高を150mほど下げるだけで1時間ほどかかってしまった。
下に先回の山入りでのアプローチ口である瑞応寺の金比羅大権現、梵鐘の屋根が見えるのだがなかなか近づかない。が、なんとか最後の力を振り絞り、梵鐘脇の下山口に到着した。

この瑞応寺からの184号鉄塔への上りと下りを体験したのだが、枝道がいくつもある。先回金毘羅さんから80mほど高度を上げるとシダの茂る箇所があるとメモしたのだが、下りではシダの茂みをぬけることなく下ってきた。偶々下った枝道がシダの箇所を迂回したのだろう。その気になって道をみると、結構幾筋も尾根筋を通っていた。