土曜日, 8月 22, 2009

天目山散歩;武田家終焉の地を歩く

天目山が武田家終焉の地である、ということは知っていた。が、天目山がどこにあるのか、つい最近まで知らなかった。それがわかったのは数ヶ月前。笹子峠を越えたときのことである。雪の峠を越え、甲斐大和・駒飼の里まで下ってきたとき、山腹に「武田家終焉の地、甲斐大和」と書かれた特大看板が眼に入った。あれ?ひょっとして天目山って、このあたり?チェックする。天目山って、甲斐大和駅から日川渓谷を大菩薩方面に7キロほど上ったところにあった。こんな近いところに、天目山が!
天目山。山とはいうものの、「山」でもないようで、栖雲寺という武田家ゆかりの山号のようである。道も車道が走っておりアクセスは容易。日川渓谷に沿って遊歩道もある、ようだ。歴史も自然もまとめて楽しめそう。ならば、行かずばなるまい、と言うことで、笹子峠越えから日を置かず、甲斐大和、へと。



本日のルート;甲斐大和駅>日川渓谷>四郎作古戦場碑>鳥居畑古戦場跡>景徳院>竜門峡入口>土屋惣蔵片手切跡の碑>大蔵沢>天目山栖雲寺>竜門峡遊歩道>甲斐大和駅

甲斐大和駅
中央線で甲斐大和駅に。地名は甲州市大和町初鹿野。平成17年11月1日に塩山市・勝沼町・大和村が合併して甲州市となった。駅のホームは切通しの底。駅舎は切通しに架けた橋の上。駅を離れ国道20号線・甲州街道に出る。
国道を1キロほど進むと景徳院入り口。道はここから国道20号を離れ、県道218号線に。県道は日川(にっかわ)渓谷に沿って上日川峠へと続く。国道との分岐点の標高は660m程度。ゆるやかな坂道を上っていく。
道の左手を見やると、分岐点で離れた国道20号線が新笹子隧道(トンネル)に吸い込まれてゆく。新笹子トンネルが完成したのは昭和32年。33年には有料トンネルとして開通した。このトンネルができるまで、東京方面から山梨へは標高1096mの笹子峠を越えていた。県道があったわけだが、とてものこと幹線道路とは言えない峠道。ために、東京と山梨を結ぶ幹線道路は河口湖方面から御坂峠を越える国道8号線であった、よう。


日川渓谷
道は日川に近づく。日川は大菩薩から南に伸びるふたつの尾根筋に挟まれた渓谷。ひとつは、大菩薩嶺(2057m)―大菩薩峠―小金沢山(2014m)―牛奥ノ雁ガ腹摺山(1985m)―黒岳(1988m)―湯ノ沢峠―大蔵丸(1781m)―米背負峠―大谷ヶ丸(1643m)―大鹿峠―笹子雁ガ腹摺山(1357m)―笹子峠(1096m)とのびる尾根筋。もうひとつは、大菩薩嶺から上日川峠(1590m)―砥山(1607m)―下日川峠―源次郎岳(1477m)―宮宕山(1309m)とのびる尾根筋。つまりは、日川渓谷を上っていけば、大菩薩峠に進む、ということ。
この地を歩くまで、天目山と大菩薩峠はまったく結びつかなかった。それがむすびついたのは、どこだったか、日川沿いの道筋でバス停の案内を見たとき。行き先に「上日川峠」とある。上日川峠、って大菩薩峠に上るロッジ長兵衛があるところ。大菩薩を越えれば奥多摩である。勝頼が何ゆえ、天目山などという三峡の地に進むのかよくわからなかた。武田家ゆかりの地で自刃するため天目山を目指した、との説もあるが、いまひとつ納得できなかった。だが、峠を越え奥多摩・秩父へと脱出するため、天目山から大菩薩峠を目指した、と思えば結構納得。真偽のほどは知らないけれども、自分なりに一件落着、と思い込む。

四郎作(つくり)古戦場碑
国道分岐点から1キロ程度進む。日川に沿った道の脇に石碑がある。立ち寄ると、四郎作(つくり)古戦場碑。武田家の忠臣・小宮山友晴を顕彰するもの。主家存亡の危機に臨み、蟄居の命を破り勝頼のもとに馳せ参じた忠臣。跡部勝資・長坂光堅、秋山摂津守といった武田勝頼の側近、また、穴山梅雪・木曽義昌といった武田御親類衆と相容れず、讒言などもあり勝頼より疎んじられ蟄居させられていた、と。織田方に寝返った穴山梅雪や木曽義昌、一戦も交えず逃亡した武田信廉や武田信豊といった武田御親類衆の動向を見るにつけ、勝頼は己の不明を恥じた、と言う。幕末の儒学者・藤田東湖は、友晴のことを「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」と称えている。
四郎作は織田方を迎え撃つための柵といったもの、か。織田方滝川一益の軍勢は数千。対する四郎作を守る小宮山友晴等の武田軍は数名であった。と言う。友晴は奮戦するも衆寡敵せず討死を遂げた。

鳥居畑古戦場
四郎作(つくり)古戦場碑のすぐ先、日川に架かる橋を渡ると道脇に鳥居畑古戦場の碑。天正15年(1582)3月11日、この地で武田家最後の戦いが始まった。とはいうものの、武田方は総勢50数名、そのうち16名は姫や御付の女性であり、戦闘勢力は40名強といったものであったらしい。
古戦場跡は現在、広い車道が通っている。が、昔は渓谷沿いの細路ではあったろうし、いくら軍勢が多くとも一時に大軍勢が攻め込めるわけもなく、少人数でもそれなりに防御はできるだろう。とは言うものの、ものには限度がある。戦いになるとも思えない。この地のすぐそばに勝頼自刃の地があるわけで、主家の最後をまっとうするための時間をつくる、戦いであっただけ、か、とも思える。
それにしても、武田方の人の減り方。これまた、ものには限度がある。天下の武田軍が 50名弱とは。ちょっと推移を振り返る。木曽義昌の謀反を鎮圧すべく諏訪に向かったときの軍勢は1万五千名とも言う。途中で引き返し、新府城に入城。軍議の末、大月の小山田氏の居城・岩殿城への撤退決定。3月3日、新府城を打ち棄て撤退するときには700名に。武田信虎の弟・勝沼友信の娘である理慶尼が庵を構える勝沼の大善寺に一泊し、岩殿城に向かうべく笹子峠に。このときには200名。小山田氏の裏切り。笹子越えは諦め、3月10日、天目山を目指し日川 渓谷に入る。
で、3月11日、日川渓谷田野の地にある鳥居畑の戦いのときには50名弱となっていた。なんだか、なあ。
武田家武将の勝頼離反の理由は良く知らない。長篠の合戦で譜代の重臣を多数失った。ために、重鎮・纏め役がいなくなったのだろう、か。徳川勢の高天神城攻撃に際し、援軍送らず。勝頼頼むに足らず、と威信大いに失墜。これを契機に一門や重臣の造反がはじまった、とも。防御拠点として縄張りを始めた韮崎の新府城築城の是非、また金銭負担に穴山梅雪など家臣の間に不協和音が高まっていた、ことも一因、だろう、か。また、近習・側近の重用も家臣間での諍いの火種でもあった、などなど遠因は想像できるのだが、それにしても、ものには限度がある。なんだか、なあ。

景徳院
鳥居畑古戦場を離れ先に進む。ほどなく景徳院。国道20号線から1.5キロ程度。ここは武田勝頼自刃の地。四郎柵でメモした小宮山友春の弟で僧侶となっていた拈橋が、勝頼と一門をとむらう。で、天正16年(1588年)、家康がこの地に田野寺、現在の景徳院を建立。拈橋をその住持とした。
山門は安永8年(1779年)建立。本堂前に旗堅松。武田家累代の重宝「御旗」を松の根元に立て、勝頼の嫡子「楯無の鎧」を着させて、「かんこうの礼(元服の儀式)」を執り行ったという伝説がある。甲将殿には勝頼、夫人、信勝の影像を祀る。甲将殿の裏に勝頼、夫人、信勝の墓。没200年を期し、安永4年(1775年)に建てられた。
甲将殿前に3名の生害石。自害したと言われる平らな大きい石が残る。勝頼37歳、嫡男信勝16歳、夫人19歳。勝頼の辞世の句;「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れて行衛(ゆくゑ)の西の山の端」。信勝は鳥居畑で武運つたなく討ち死に。夫人は小田原北条の出。小田原に戻れとの勝頼の言にも関わらず、勝頼と運命を共にした。
境内には首洗い池が残る、と言う。勝頼の首を洗った池、と。なんとなく行く気になれず、パス。境内を出て、道路に面した駐車場に。駐車場の奥、日川の崖上に姫ケ淵の案内。勝頼の正室・北条夫人の侍女16人が身を投げた淵である、と。

竜門峡入口
寺を離れ天目山栖雲寺を目指す。おおよそ4キロ強といた行程。1キロほど進むと道脇に大和村福祉センター。温泉施設があり、一般の人も歓迎との案内。そこを越えると橋があり、竜門峡入口の案内。橋を渡ると日川渓谷に沿った遊歩道がある。竜門峡散歩は帰り道のお楽しみとして車道を先に進む。

土屋惣蔵片手切跡の碑
ほどなく道脇に土屋惣蔵片手切跡の碑。千人切りの碑、とも。碑の脇に大正時代の写真。いまでこそ、立派な車道ではあるが、大正の頃を狭い崖路。往時は人ひとり通れるかどうか、といった崖路である。この地で武田の家臣・土屋惣蔵は川上から攻めよせる織田軍に対し、片手で藤蔓につかまりながら奮戦。その流された血により川は三日三晩、朱に染まった。「鮮血流れて止まず河水赤きこと三日」との記述が残る。ために川を「三日血川(みっかち)」と呼ぶようになった。後 に、三日(みっか)川となり、現在は「日川(にっかわ・ひかわ)」となった、とか。

大蔵沢
土屋惣蔵片手切跡の碑から道脇のお蕎麦屋などを見やりながら500m弱も進むと大蔵沢。どうもこのあたりで織田方が勝頼主従の行く手を阻んだらしい。一説には、武田を裏切った小山田一党が、勝手知ったるこの地へと織田軍を先導した、とも。
武田を裏切った小山田信茂は、笹子峠や大鹿峠など大菩薩から大月方面へと通じる主な峠を抑え勝頼の進路を阻む。ために、勝頼主従は、田野から日川渓谷を遡り武田家ゆかりの天目山栖雲寺(せいうんじ)に入る。そこから大菩薩峠を越えて多摩秩父方面へ。その後は真田一門を頼って上州に抜けようとした、とも言われる。
いっぽうの織田軍は、小山田軍の先導のもと天目山方面へ進出。大月・小菅方面から湯ノ沢峠や米背負峠(湯ノ沢峠と大谷ケ丸)などの峠を越えて日川の支流・大蔵沢一帯へと進出。天目山へ向かう勝頼一行の逃避行を阻んだ、と。また、勝沼深沢口から栖雲寺を経て大蔵沢方面に進出していたとの説もある。
僅か数十人の落ち武者一向に対し、少々大仰な気もするのだが、ともあれ行く手を阻まれた勝頼一行は日川を戻る。が、川下から攻め上ってきた織田方の滝川一益の軍勢により挟み撃ち。で、鳥居畑で最後の合戦となる。

天目山栖雲寺
大蔵沢を越え、ほどなく橋を渡ると日川渓谷レジャーセンター。バーべキュー、釣堀、キャンピング、バンガローなどアウトオアを楽しむ家族の姿を見やる。先に進むとヘアピンカーブの急坂。上りきったところが天目山トンネル。トンネルを抜けると「やまとふれあいやすらぎセンター」という温泉施設がある。その先に沢。焼山沢。沢を上ると湯の沢峠に進む。沢にかかる橋を渡りしばらく歩くと木賊(とくさ)の集落に。景徳院からおよそ4キロ。天目山栖雲寺はこの集落にある。
天目山栖雲寺。武田氏の招聘により業海本浄が開く。寺号の天目山は、業海本浄が修行した中国の杭州天目山に地形が似ていたから。庫裏は文禄元年(1592年)建立。解体修理が終わり、新しくなっている。
境 内には武田信満の墓と伝えられる宝篋印塔がある。応永23年(1416)上杉氏憲(禅秀)の乱に甲斐守武田信満(禅秀の舅))は氏憲に与し都留郡で戦う。が、武運つたなく、応永24 年(1417年)2月6日天目山にて自害した。宝篋印塔は高さ1m。周囲に家臣の塔が囲んでいる。
このとき、武田は一度滅んだと言われる。ということは、この天目山、勝頼も含めると二度滅んだとも。それと、いろんなところで、勝頼が天目山を目指したのは、先祖の武田信満が自害した、ここ天目山を死地と定めて登ってきた、と書かれている。が、先にメモしたように、どうもそういう気はしない。根拠はないのだけど、この日川をずっと上って行けば大菩薩峠に出るわけで、大菩薩峠から小菅へと歩いた(大菩薩越え)わが身とすれば、なんとなく、天目山への遡行は脱出行であったように思える。なんとなく、である。
庫裏の右手裏山は巨大な花崗岩の庭園。2ヘクタールある、とか。確かになかなか迫力のある巨石が山腹に見える。磨崖仏もある、とか。禅僧が修行したとのことである。
天目山はこの栖雲寺の寺号から、とメモした。それはそうなのだが、栖雲寺の近くに木賊山とか大天嶽とか、大天狗山と呼ばれたりする山がある。その山も天目山 と呼ばれるようだ。寺が先か、山が先か、普通に考えれば寺が先なのだろから、やはり天目山ってお寺、から、と思い込む。

竜門峡遊歩道
寺を離れ県道に戻る。道を上り、そのまま上日川峠まで進みたいとは思うのだが、距離をチェックすると13キロほどもある。即中止。予定通り、竜門峡へと下ることに。このあたり、天目地区から田野地区にかけての日川渓谷を竜門峡と呼ぶ。看板でチェックした、「竜門峡遊歩道天目地区入口」を探す。天目山栖雲寺を少し戻ったあたりの道脇に案内がある。
急な下りを一気に下りる。栖雲寺のあたりの標高が1030mほど。川沿いは960mであるので、比高差70m程度。渓谷沿いに遊歩道、と言うより、山道と言ったほうがいい、かも。あたりは花崗岩の巨石がゴロゴロ。栖雲寺の巨石も、このあたりの巨石群を見れば、あって当たり前、といった雰囲気。
渓谷に蜘蛛淵。花崗岩の谷に多い、巨石で埋められた淵といったもの。道を進むと「木賊の石割けやき」。転げ落ちてきた花崗閃緑岩が二つに割れ、その間からけやきが伸びている。その先にで「平戸の石門」をくぐる。これも転げ落ちてきた巨大礫であろう。
休憩舎のあたりで日川を対岸に渡り、ゆるやかな傾斜となった遊歩道を進む。秋の紅葉はさぞ美しいであろうな、などと思いながら進むと、今度は竹林が現れる。 天鼓林、炭焼窯跡、そして東電取水口などを経て竜門峡入口に戻る。2キロ強。標高810m程度であるので、比高差200mほど下ってきた。あとは上ってきた同じ道を甲斐大和駅まで戻り、本日の散歩終了。    

土曜日, 8月 15, 2009

古甲州道・大菩薩を超える;そのⅡ

本日のコースは石丸峠から牛の寝通り(尾根)を進み小菅村に下りる道。江戸時代、奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつ。そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩道。昨日歩いた旧大菩薩峠がこれ。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。
江戸時代は相模川に沿った甲州街道が開かれていたが、距離が2里ほど少ないといったメリットもあり、甲州裏街道として活用された。関所がなかったこともそのメリットかもしれない。これら大菩薩峠を越える道は、明治11年、現在の柳沢峠を開削し車道、といっても馬車ではあろうが、ともあれ道が開けることにより、物流幹線と してのその役割を終えることになる。

牛の寝の由来は、尾根筋が牛の寝姿に似ている、とか、牛の寝(1352m)という山というか、場所があるから、とか、ともあれ、名前からすれば、それほど厳しいルートでもないような印象である。ともあれ、小菅に向かう。



2日目;大菩薩峠から牛の寝通りを辿り小菅まで
二日目のルート:介山荘>熊沢山>石丸峠>牛ノ寝と小金沢山の分岐>牛ノ寝通り入口>榧ノ尾山>棚倉小屋跡に棚倉・大ダワ>モロクボ平・川久保分岐>田元バス停・小菅の湯分岐>登山口>小菅の湯>田元バス停

熊沢山
早朝、富士のご来光を見るため親知らず頭に。運良くご来光をGET。朝食を済ませ小菅村へと向かう。介山荘を出発。すぐ南に熊沢山。左右に笹原が広がる北の稜線とは異なり熊沢山は針葉樹に覆われている。道もあるような、ないような。最後の上りは結構きつい。20分弱でピークらしき場所に。標高は1978m。大菩薩峠から比高差100m弱といったところ、である。

















(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


石丸峠
尾根道を進むと南が開けてくる。南に続く稜線は笹子峠方面に続く山並み。稜線に連なる小金沢山とか湯の坂峠とか大蔵高丸といった山や峠は、笹子峠を越えたとき、そして日川に沿って天目山を歩いたときにはじめて知った地名ではあるのだが、なんとなく懐かしく、心嬉しくなる。富士も顔をだしている。これもなんとなく心躍る。
先に進むと鞍部が見えてくる。石丸峠。大菩薩峠と同じく笹の原が美しい。笹に囲まれた峠に下りる。標高1930m。介山荘から40分程度の行程ではあった。
江戸時代、この峠は大菩薩下峠と呼ばれていた。江戸から奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつあり、そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩 道。昨日歩いた旧大菩薩峠から荷渡し場に下る道筋、だろう。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。賽の河原のおかげか、介山文学碑のおかげか、大菩薩峠の名前は大菩薩上峠に占有されてしまったが、この石丸峠もれっきとした大菩薩峠。往古、旅人はここから現在の県道218号線の石丸峠登山口へと下り、上日川峠へと続いていたのだろう、か。

牛の寝通り分岐
石丸峠を離れ牛の寝通りに向かう。少し上り10分程度で道は分岐。右に折れると天狗棚山。標高1970m。こちらを先に進むと狼平、小金沢山、牛奥ノ雁ガ腹摺山、黒岳、湯ノ沢峠へと笹子峠方面に続く。今回歩く牛の寝通りは直進。小金沢連峰の縦走路から別れて下ってゆく。10分も歩かないうちに「長峰の尾根」への分岐。南西へと続く稜線上には白草の頭(1326m)がある。


ミズナラやダケカンバの自然林の中を行く。広葉樹林帯が続く。標高1720mあたりに熊笹が広がる。玉縄山のあたりらしいが、よくわからないままに通り過ぎてしまった。

榧ノ尾山
道はどんどん下る。「山道」の道標。いったいどんな道なのだろう、などと思いながら先に進む。やがて小さな伐採地の丘のようなところに出る。榧ノ尾山。標高1420m。南側が開け、長峰の稜線はほぼ同じ高さ、その先の小金沢山や雁ヶ腹摺山方面が高く聳える。ということは結構下ってきた、ということ、か。時間を見ると、石丸峠から1時間半弱歩いていた。

大ダワ
ここから小菅村への分岐点である大ダワまで穏やかな道が続く。標高1300~1400mの間で緩い下りと登り、まっすぐだったり曲がったり、を繰り返す。牛の寝(1352m)も知らずに通り過ぎる。狩場山(1376m)はピークを巻く。「ショナメ」と呼ばれる、なんとなくいわくありげな鞍部を過ぎて、10分弱で大ダワに。ここは小菅への分岐点。直進すれば松姫峠へと続く。牛の寝通りは一応、ここまで、らしい。「ショナメ」の意味不明。
大タワって、「大きなたわみ=鞍部」ということだが、実際はそれほど大きなスペースではない、ちょっとした伐採地といったもの。南北が開けている。道標には「棚倉」とある。小菅に折れず直進すれば大マテイ山(1409.2m)を経て松姫峠へと続く。
松姫は武田信玄の娘。悲劇の主人公としてなんとなく気になる。頼朝の娘大姫と木曽義仲の嫡子義高との悲劇とダブル。松姫の場合は相手は織田信長嫡子信忠。
松姫は幼くして織田信長の嫡子信忠と婚約。が、信玄上洛の途上、三方ヶ原で徳川と武田が合戦。織田は徳川に援軍。ために、武田と織田は手切れ。両家の婚約は解消。信玄亡き後、織田軍甲斐の国へ侵攻。総大将は嘗ての婚約者織田信忠。
武田軍形勢不利。松姫は兄の姫君を護り、道なき道を八王子方面へと逃れる。そのルートも諸説あり、松姫峠もそのひとつ、と言う。織田信忠は嘗ての婚約者の安否を心配したとか、しないとか。松姫は、幼き姫を育て、武田家滅亡後、家康に仕官した旧武田家の遺臣(八王子千人同心)の心の支えとして、八王子の心源院、その後信松院で一生を過ごした、と言う。

モロクボ平
ここから大マテイ山へ続く稜線を離れて左へ下る。モミジやカエデ、ミズナラなどの広葉樹林の木立の中、高指山(1274m)を巻くように30分強歩くと分岐点。モロクボ平である。ほどなく道標。右は「小菅の湯」方面。左は「小菅村」の道。川久保地区に下りてゆく。いずれにしても小菅村ではあるが、小菅の湯に下ることに。

小菅の湯
白樺らしき木も見える木立のノ中を15分程度下ると再び分岐点。直進すれば田元。右に折れると小菅の湯。植林地帯のジグザグの急な坂を下るとく登山口に。登山口には立派な道標が立っていた。大菩薩峠の介山荘から4時間強の行程であった。


山沢川に架かる橋を渡り舗装道路を道なりに進み小菅の湯に。一風呂浴び、田元のバス停に。小菅の湯から町までは結構下ることになる。途中、田元からの登山口などを見やりながら、小菅川にかかる田元橋を渡り田元橋のバス停に。バスの時間に余裕もあったので、町を歩くと川久保からの登山口もあった。バスを待ち、奥多摩駅へと、一路家路に向かう。念願の大菩薩峠は越えた。後は、早々に奥多摩から小菅への道をカバーしようか、と、  


金曜日, 8月 14, 2009

古甲州道・大菩薩峠を越える;そのⅠ

古甲州道歩きも3回目。 初回は秋川丘陵を戸倉まで。2回目は檜原本宿から小河内へと抜ける浅間尾根を歩いた。本来なら3回目は浅間尾根の終点であった数馬から小河内へ抜け、小河内から小菅村といった段取りではあるのだが、途中を飛び越え、一挙に大菩薩越えと相成った。小説『大菩薩峠』の主人公、机龍之介が辿ったであろう、古甲州街道・大菩薩峠越えの道へのはやる想いを、といったところ、である。
ルートは塩山から大菩薩峠に上り、石丸峠、牛の寝通りを経て小菅村に出ることに。日程は1泊二日。無理すれば1日でも歩けそうにも思うのだが、小菅から奥多摩へのバスの最終便が5時過ぎということである。時間配分がいまひとつ見えない初めての山塊でもあるので大菩薩峠の山小屋で一泊することにした。


初日;東京を出発し大菩薩峠に
初日のルート:裂石バス停>雲峰寺>車道を丸川峠分岐へ>千石茶屋跡>ロッジ長兵衛>福ちゃん荘>富士見山荘>勝縁荘>介山荘>大菩薩峠>大菩薩嶺付近>小菅村への道_荷渡し場>介山荘泊

塩山
東京を出発。中央線で塩山に向かう。車窓からは相模川の発達した段丘を眺め、川沿いに続く江戸時代の甲州街道に想いをはせる。大月には駅前に岩山が聳える。気になり調べると岩殿山とのこと。このときがきかっけとなって、後日小山田氏の居城・岩殿城を歩くことになった。
笹子トンネルでは、雪の笹子峠越えを思い出す。トンネルを抜けると甲斐大和駅。武田勝頼自刃の地、天目山への最寄り駅。目的の塩山はその次の駅。
塩山からは山梨交通バスに乗り、国道411号線を大菩薩山登山口である裂石に進む。411号線は八王子と甲府をつなぐ1級国道。新宿から続く青梅街道は青梅市内でこの国道411号線につながる。ために、国道411号線は青梅街道とも呼ばれている。またこのあたりでは青梅街道・大菩薩ラインとも呼ばれる。

裂石
30分弱バスに乗り裂石で下車。国道411号線はそのまま柳沢峠へと向かうが、大菩薩峠への登山口は国道を離れ県道201に折れる。県道201号線は正式には「山梨県道201号線塩山停車場大菩薩嶺線」と呼ばれる。終点は大菩薩への登山ルートでもある、ロッジ長兵衛のある上日川峠。そこから先に続く道は県道218号線(大菩薩初鹿野線)となり、甲斐大和へと下り国道20号線・甲州街道に合流する。

雲峰寺
バス停から東にのびる県道を進むとほどなく道脇に古刹・雲峰寺。徒歩5分といったところ。「うんぼうじ」と読む。198段の高い石段を上ると本堂、書院、庫裏が建つ。天平17(745)年行基菩薩を開山とする臨済宗妙心寺派の名刹。武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて重要文化財。室町時代に武田信虎によって再建された。
甲斐国の府中からみて鬼門にあたるこの寺は、武田家代々の祈願所。武田家の家宝もあった日本最古の「日の丸の旗」が残る。後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜され、その後甲斐武田氏に伝わったもの。また、この寺には天正10年(1582)武田勝頼が天目山で自刃したあと、家臣が再興を期してひそかに当寺に納めた「孫子の旗」六旒をはじめ、信玄の護身旗である「諏訪明神旗」、そして「馬印旗」といった武田軍の軍旗が所蔵されている。
ちなみに「日の丸の旗」って、「御旗楯無」の「御旗」。武田軍は「御旗楯無も御照覧あれ」との必勝の誓いのもと出陣していた、と言う。「孫子の旗」って、有名な「風林火山」の旗。
裂石の地名の由来はこの名刹、から。寺の縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れたとき、突然の雷鳴。砕けた大岩に十一面観音が現れ、そこに萩の木が生える。行基菩薩はその萩の木で十一面観音像を彫り、雲峰寺を開基した、と伝えられている。裂けた石はどこにあるのかわからなかったが、萩の木云々は、このあたり上萩原と呼ばれているわけでもあり、それなりのストーリー展開となっている。。

丸川峠分岐
お寺を離れ、最初の目的地である上日川峠に向かう。県道201号線を進む。舗装道路を20分程度歩くと丸川峠への分岐点に。この地点から北に折れると大菩薩嶺の北にある丸川峠(標高1700m)へと続く。

千石茶屋
丸川峠への分岐から20分弱、道が大きくカーブするあたりに道標。ここが登山道への分岐点。千石平と呼ばれている。この道標を目安に県道を離れ小道に入る。橋を渡ると千石茶屋。店は閉まっていた。千石茶屋から少し歩くと大菩薩峠登山道入口の標識。ここから林道へと入る。
ここから先、上日川峠のロッジ長兵衛までは樹林の中。おにぎり石を見やり、第一展望台、第二展望台に。ここでおおよそ上日川峠への半分くらい、だろうか。「やまなしの森林百選大菩薩のブナ林」の看板を過ぎると、傾斜が厳しく、つづら折れの道となる。あと残り三分の一弱。大きな栗の木を越えると傾斜が緩やかになり、ほどなくロッジに到着。ロッジ長兵衛。千石茶屋からほぼ1時間。裂石から1時間半強、といったところである。

上日川峠・ロッジ長兵衛
いつの頃だったか、大菩薩峠に来たことがある。まだ子供が小学校の低学年の頃なので10年も前のことだろう。そのときは、このロッジ長兵衛まで車で上ったのだが、ここが峠とはまったく思えなかった。上日川峠。裂石から上ってきた県道201号線はここで終点。ここからは県道218号線として甲斐大和に下る。
こ こが峠と知ったのはつい最近のこと。笹子峠を越え、甲斐大和に下ったとき、山の中腹に「武田家終焉の地・甲斐大和」の大きな看板。武田家終焉の地って確か天目山だった、かと。チェックすると、天目山って甲斐大和のすぐ近くにあった。日を改めて甲斐大和に訪れ、県道218号線を上り、武田家ゆかりの寺・景徳院や、天目山栖雲寺を訪ねたのだが、その道すがらバス停に眼をやると、「上日川峠行き」、との案内。地図でチェックすると上日川峠はこのロッジ長兵衛があ るところと分かった次第、である。
ところで、上日川って、「かみにっかわ」なのか「かみひかわ」なのか、どちらだろう。この峠から甲斐大和へ下る県道に沿って流れる日川は「にっかわ」と呼ばれる。が、その上流の上日川ダムは「かみひかわ」と呼ぶようだ。この峠も現在は「かみにっかわ」ではあるが、そのうちに「かみひかわ」となるのだろう、か。
ロッジ長兵衛の長兵衛とは、安政の頃、この峠に棲んでいた山窩(さんか)の名前のこと。山窩とは山に暮らす住所不定の山の民。この長兵衛さん、あれやこれやよからぬことをしたとかしない、とか。








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

福ちゃん荘
上日川峠を離れ、福ちゃん荘に向かう。舗装路が先に続く。舗装路に沿って林の中を続く山道に入る。ミズナラとかカラマツの樹林帯を30分ほど歩くと福ちゃん荘。標高1720m。福ちゃん荘は唐松尾根への分岐点。雷岩を経て大菩薩嶺へと続く登山道がある。
福ちゃん荘といえば赤軍派の逮捕劇で有名。武装蜂起を企て、この地に潜伏して山中訓練を行っていた赤軍派のメンバーが、未明の警察部隊の突入により、53名が逮捕された。世に「大菩薩事件」と呼ばれる。

富士見山荘
福ちゃん荘を離れしばらく平坦な道を進むと富士見山荘前。10年ほど前に来たときも閉まっていたし、今回も閉まっていた。建物脇に展望台。富士が見えるというが、先回も今回も残念ながら姿現れず。子供とここに来たときのことを思いだし、と、少々の想いに浸る。

大菩薩峠・介山荘
ほどなく姫ノ井戸沢の脇に勝縁荘。福ちゃん荘から10分程度。このあたりまでは車道も通る。ここから先は小石が転がる山道となる。
ブナなどの林を抜けると笹に覆われた斜面が眼に入る。やや急な上りを越えると大菩薩峠。福ちゃん荘から30分強。上日川峠・ロッジ長兵衛から1時間弱。裂石登山口から2時間半強といったところであった。
大菩薩峠は標高1897m。ごつごつした岩場。その峠直下に介山荘がある。今夜の宿泊場所はここ。時間は少々早いので、玄関に荷物を置き、大菩薩嶺に向かうことに。
峠に建つ介山荘の前から奥多摩方面を眺める。集落らしきものは小菅だろう、か。天気がよければその先には奥多摩湖.背後には石尾根の稜線が見える、とか。塩山方面には南アルプス、そして手前に光る湖水は上日川湖であろう。
介山荘の前から北に稜線が続く。北に見えるピークは、親知らずの頭(あたま)と妙見の頭。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠、そして賽の河原。大菩薩嶺はその先、1時間半くらいの行程となる。

中里介山の文学碑
歩き始めるとほどなく中里介山の文学碑。1.5mの五輪塔には「上求菩薩下化衆生」、と。「上求菩薩、下化衆生」は仏教の教義を意味する。上求菩薩とは、悟りを求めて厳しい修行を行うこと。下化衆生とは、慈悲を持って他の衆生に救済の手を差し伸べること。仏の道を目指すものはこれら両方を合わせて修得すべきこととされている。


この文学碑は未完の長編小説『大菩薩峠』を記念するもの。「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡|萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
  標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺(みね)の頂(いただき)に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋(う)めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹(ふえふき)川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実(みの)らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿(しゅく)から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分(おいわけ)を右にとって往(ゆ)くこと十三里、武州青梅(おうめ)の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和(いさわ)へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊 (やまとたけるのみこと)、中世に日蓮上人の遊跡(ゆうせき)があり、降(くだ)って慶応の頃、海老蔵(えびぞう)、小団次(こだんじ)などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内(ぐんない)あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖(おそ)れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。(『大菩薩峠』)」
実のところ、つい最近まで小説の主人公である机龍之介が、何故に人里はなれた、標高2000m近い山奥を歩かなければならないのか、いまひとつ理解できなかった。それがなんとなくわかるようになったのは街道歩きを始めてから。古甲州道のルートを調べていると、江戸以前の甲州街道はこの大菩薩峠を越えていた。江戸期に相模川沿いに甲州街道が開かれてからもここは甲州裏街道。今で言えば国道1号線といった大幹線道路。であれば、そこを机龍之介、旅人が歩いていてもそれほど不自然ではない、などと納得した次第。









(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



旧大菩薩峠
稜線の登山道は親知らずの頭に登っていく。親知らずの頭は富士の展望ポイント。明朝はご来光を期待しよう。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠。賽の河原と呼ばれる鞍部には丸太組の避難小屋がある。このあたりが昔の大菩薩峠であった、とか。


峠はその昔、交易の場であった。『大菩薩峠』より;「妙見(みょうけん)の社(やしろ)の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑(やきばた)も作るという人たちであります。 
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅(こすげ)から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩(ぎょえん)を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。(『大菩薩峠』)」。
妙見の社がどこを指すのかはっきりしないが、賽の河原の先にあるピークが妙見の頭と呼ばれ、そこには妙見大菩薩が祀られていたというわけだから、このあたりのことなのだろう。
「荷渡し場」は峠から丹波・小菅に下る道にその跡が残る、と言う。ここ旧大菩薩峠は風の通り道でもあり、遭難も多かったため、場所を移したとも。おそらく昔は妙見の頭を巻くように小菅・丹波村へと続く道が伸びていたのだろう。現在、丹波・小菅に下る道は介山荘のそばから下っている。後ほど荷渡し場の跡まで歩く。

大菩薩嶺
妙見の頭のピークをそれ、なだらかな斜面を左に横切り先に見えるピークに進む。このピークは神部岩(神成岩)。標高2000m。神部岩から先に進み、標高を30mほどのぼったところが雷岩。ここは唐松尾根ルートの分岐。下れば福ちゃん荘脇に出る。介山荘からほぼ1時間といったところ。雷岩を過ぎ、10分強歩くと大菩薩嶺に。大菩薩嶺山頂は木々に囲まれ視界はない。標高2057m。日本百名山のひとつ。介山荘から1時間半弱といった行程であった。

荷渡し場跡

一休みし、荷渡し場跡に向かうため大菩薩峠へと戻る。「小菅村・丹波山村」ヘの指導標を目安に道を下る。所々に石畳の道、石組みの跡も残る。右側は崖。10分強下っただろうか、そこに荷渡し場の標識。「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。

『甲斐国誌』によれば、「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、とある。信用取引といったところ、か。実際の荷渡し場は、ここからもう20分弱下ったフルコンバ小屋(標高1680m)のあたりではないか、とも言われる。初日はこれでおしまい。介山荘に戻り一夜を過ごす。

日曜日, 8月 02, 2009

箱根越え:旧東海道・西坂

箱根峠から三島へと
箱根越えの二日目。今回は箱根峠から三島へと下る。歩くまでは峠から坂道を下り、その後平地を三島まで歩くと思っていた。東坂の湯本から小田原へは平地を進む、といったイメージを描いていた。が、実際は大違い。峠から一直線に三島に向かって下る、といったものであった。当初心配だった道も、道標がしっかりしており間違うことはない。箱根八里越えの後半戦を始める。


本日のルート;箱根峠>箱根西坂旧道入口>甲石坂>兜石跡>接待茶屋>永禄茶屋跡・徳川有徳公遺跡>甲石>施行平>石原坂>大枯木坂>小枯木坂>山中新田>駒形諏訪神社>カシの巨木>山中城跡>宗閑寺>山中新田>富士見平>上長坂>笹原地区>笹原の一里塚>笹原新田>長坂>こわめし坂>三つ谷新田>松雲寺>小時雨坂>臼転坂>初音ヶ原松並木>錦田一里塚>愛宕坂>東海道線>大場川>三島大社前>三島駅

元箱根
前日は強羅にある会社の保養所に宿泊。朝、登山電車で強羅から小涌谷へ。そこからは駅傍の国道にあるバス停より元箱根に向かう。途中、車窓より、湯坂道入口のバス停や曽我兄弟の墓を見やる。近くには六道地蔵もある、と言う。
湯坂道入口は鎌倉・室町期の箱根越えの古道。鷹巣山、浅間山から湯坂山を経て箱根湯本に下る。曽我兄弟のお墓は国道の直ぐ傍。そのうちに、箱根東坂の権現坂手前にあった六道地蔵への指導標から歩みをはじめ、曽我兄弟・六道地蔵をへて湯坂道を辿ってみたい、と思う。バスは元箱根に

杉並木
元箱バスを下り、元箱根交差点を西に進み元箱根港手前で国道1号線に合流。ほどなく杉並木がはじまる。東海道といえば松並木を思い浮かべるが、箱根といった高所では松は生育が悪かったのだろう。はじめから杉が植えられていたとするには杉の樹齢が少し若すぎる、とか。試行錯誤の末の杉、ということだろう、か。

吉原久保の一里塚跡
杉並木の始点近くに吉原久保の一里塚跡。江戸の日本橋から数えて24番目。塚はすでになく碑が残るのみ。名前の由来は、往時このあたりの入り江を葭原久保と呼ばれていたから。


恩賜箱根公園
杉並木が切れるところに恩賜箱根公園。芦ノ湖に突き出した半島となっている。聖武天皇の頃、この地に観音堂が建てられ、堂ヶ島と呼ばれていた。明治5年からは明治天皇の箱根離宮跡となっていたが現在は恩賜公園となっている。旧東海道は、このあたりで少し半島方面へと右に少し折れる。

箱根の関所
恩賜公園を道なりに進み箱根関所跡に。慶長19年(1614年)の『徳川実記』に「今日より東海・東山の両道に新関を置きて、無券の往還を許さず」とあるので、関所開設はこのあたりだろう、か。関所の仕事は「入り鉄砲、出女(でおんな)」の監視。武器の流入防止、人質として江戸に詰めている諸藩大名の妻女の国元への逃亡監視、である。営業時間は午前6時から午後6時までとなっている。
関所の取り調べ項目は、「関所を出入りする者は笠や頭巾をとる;乗り物で出入りする者は戸をあける;関より西に出る女性はつぶさに証文に引き合わせる;乗り物で西に出る女性は番所の女性を差し出して相改める;手負い・死人ならびに不審なるものは証文なくして通してはならない;朝廷や大名は前もって連絡あれば、そのまま通してもいい」などと示してある(『あるく 見る箱根八里』)。西に向かう女性に対しては結構厳しい項目となっている。
箱根関所跡は立派な施設がつくられており、観光客もすこぶる多い。なんとなく施設

に入る気にならず、国道へと戻り関所を迂回する。関所裏の国道は切り通しの道。昔はここに道があるわけでもなく、関所前を通るしか道はなかったのだろう。

箱根宿
箱根の関を越えると昔の箱根宿跡となる。箱根宿は箱根の関所が設けられる頃と相前後し造られた。人里離れた山中に好んで住みたい人もいるわけでもなく、小田原藩から50戸、天領三島から50戸をこの地に移住させることに。移住に際しては支度金を用意したり、年貢を免除するなど、移住へのインセンティブを用意している。
19世紀の中ごろには160戸に。住民のほどんどは、茶屋や宿屋、運送業や飛脚といった宿場関係の仕事に従事していた。当たり前といえば当たり前。本陣と脇本陣合わせて7軒。通常の宿は2,3軒が普通のようであるので、規模は大きい。とはいうものの、箱根宿に泊まる大名はあまりいなかったようである。
箱根の関を越え、溝といった流川のあたりが小田原からの移住者が住んだところ。その先の大明神川という小川のあたりが三島からの移住者の町があったところである。途中、箱根駅伝記念館などを眺めながら道なりに進み、国道と県道737号線の分岐点に。旧東海道は県道737号線へと折れる。

駒形神社
県道737号線は湖岸を深良水門、湖尻方面に進む。県道とはいうものの、この道は自動車道はすぐ終わり、あとは歩道となるようだ。深良水門と言えば、先日、深良水門から裾野市の岩波までの深良用水跡を歩いた。江戸時代、芦ノ湖の水を引くため、箱根外輪山を1キロ近く掘りぬき水を通したもの。すごいものである。
県道を少し進むと芦川に当たる。芦川の手前に駒形神社。箱根宿の鎮守さま、と言う。ということは、この芦川の集落は結構古い歴史をもつ、ということ。箱根の関とか箱
根宿ができる以前の鎌倉時代、湯坂道を通る鎌倉街道を往来する人たちの宿場であったのだろう。
境内に犬塚明神社。お犬さまを祀る。箱根宿の建設がはじまった頃、付近には狼が多く、宿場の人を悩ました。で唐犬二匹をもって狼を退治し宿場が完成。傷つきなくなった二匹の犬を「犬塚明神」としてここに祀った、と。ちなみに唐犬とは戦国時代、南蛮より日本にもたらされた大型犬の総称である。

向坂
神社を後に芦川を渡る。すぐ県道と別れ左に進む道が旧東海道。峠道へと進む。ほどなく道脇に六地蔵。道の反対側には庚申塔とか巡礼塔。そこが峠道の最初の坂、向坂の
入口である。名前の由来は箱根宿の向かい、といった意味合いだろ
う。軽くおまいりを済ませ坂を上る。
ここからはいままでの開けた景観から一変し杉並木、と言うか山道に入る。向坂の石畳は国指定の石畳となっている。向坂を進み、国道1号線の下を潜り、石畳石が大きく右にカーブするあたりが釜石坂。次いで左に大きくカーブするあたりが風越坂。大きく迂回し峠を上ってきた国道1号線に合流する手前に挟石坂。木の階段を上り終わると国道に出る。

箱根峠
国道に出ると、鬱蒼とした峠道からは一変。国道1号線、箱根新道の出入り口、箱根外輪山を北に向かう芦ノ湖スカイラインと道路が入り組み誠に目まぐるしい。歩道があるわけでもなく、怖々進み、恐る恐る道を横断し豆相国境の箱根峠に進む。標高846m。湖畔の標高は740mといったとこであるので、100mほど上ってきたことになる。

親不知子不知の石碑峠の茶店というか自販機の並ぶ脇に親不知子不知の石碑。お地蔵さまはないのだが、親知らず地蔵とも脚気地蔵とも呼ばれる。昔々、勘当した息子を探して箱根峠を上ってきた商人が脚気を患いこの地で動けなくなる。通りかかった雲助が介抱しようとするに、懐のお金に目がくらみ殺害。財布を開けると名札にわが父の名。実の父を殺めた雲助は自害した、と。

茨ヶ平
箱根峠を離れ箱根西坂旧道入口に向かう。国道沿って進み、広い駐車場を越えるあたりで国道を離れ右に折れ芦ノ湖カントリークラブの南端と言うか、東端を進む。このあたりは茨ヶ平と呼ばれる。今はハコネダケが茂る一帯ではあるが、往時は茨の原であったのだろう。

箱根西坂旧道入口
道を200mほど進むと道標。箱根西坂旧道入口である。石碑には「是より京都百里、是より江戸25里」とある。入口は見落とすことはないだろう。これから箱根越え・西坂を下ることになる。

甲石坂
道に入るとすぐに休憩所。甲石休憩所とある。足元を直し、西坂の最初の坂である甲石坂を下る。ハコネダケのトンネルの中を進む、といった雰囲気。石畳も笹の葉に覆われている。坂名の由来は兜石があった、から。
ほどなく道脇にお地蔵様。三面八臂の馬頭観音。八つ手観音とも呼ばれる。坂の途中に兜石跡の石碑。兜石そのものは、現在は道を少し下った接待茶屋のところに移されている。『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の詠んだ歌。「たがここに 脱捨おきし かぶといし かかる難所に 降参やして」。

接待茶屋
ほどなく旧街道は国道に出る。接待茶屋バス停のところを大きくカーブすると、道は再び国道から離れる。道脇に接待茶屋の説明板と道標。道標には「三島宿二里二十一町(10.3km)、箱根峠三十三町(3.6km)」と。
接待茶屋とは、峠を越える人馬のお助け所。お茶や飼い葉、薪などを無償で接待した。元々は江戸時代後期、箱根権現の別当がはじめたもの。箱根越え・東坂の畑宿手前にも接待茶屋があったが、それも箱根権現の別当、今で言う事務長さんがはじめたもの。
で、この接待茶屋も次第に財政が苦しくなり、江戸の豪商の助けを求めることにした。文政7年というから、1824年のことである。この接待(施行)も弘化2年というから、1845年頃まで続いたが、そこで再び財政難に陥り、江戸時代には再開されることなく終わった。
接待茶屋が再開されたのは明治12年。農民運動の指導者大原幽学率いる理性協会が施行を始める。理性協会が衰えた後も、鈴木さんといった個人がボランティアを続け昭和25年まで続く。まったくの無料奉仕。明治天皇が接待茶屋で休んだとき、お礼にお金を置いたがそれも受けとらなかった、とか。

山中一里塚
道を進むと山中一里塚の碑。江戸から26番目。塚はすでに無い。ちなみに、一里塚には榎木が植えられることが多い。謂れは、家康に塚の建設を命ぜられた大久保長安が、塚に植える木を何にしようかとお伺い。と、「そのほうの ええ(好きな)木に植えよ」、と言ったとか、松のかわりに「余(よ)の木にせよ」と言ったのを聞き違いえた、とか。榎の根の強さ故が、本当のところだろう。

兜石
道の逆側に兜石。もとは甲坂にあったもの。由来は、小田原征伐のとき、秀吉が兜を置いた石であったから、とか、頼朝がどうとか、と。ここに移したのは箱根宮下・富士屋ホテルの料理人、鈴木某氏。このあたりを観光開発するために移したと言う。

徳川有徳公遺跡
道の左手に大きな石碑。有徳公・徳川吉宗が将軍になるため箱根を越えるとき、この地で休憩。茶店に永楽銭を賜ったとか。鈴木某氏が観光開発の目玉とすべく、この碑を建てた。

石原坂

分岐を進むと石原坂。石荒坂とも。石畳が続く。坂の途中に明治天皇御小休・御野立所への案内。細路を進めば石碑があるようだが、道はハコネダケで覆われており、なんとなく行きそびれる。

念仏岩
坂の途中に大石と石碑。石碑は、行き倒れの旅人を山中集落の宗閑寺で供養したもの。ために、岩は念仏岩と呼ばれる。「南無阿弥陀仏 宗閑寺」とある、ようだ。

仇討ち場
七曲とも呼ばれるカーブの坂道を下る。カーブの終わるあたりが、上でメモした吉宗公ゆかりの永楽茶屋があったところ。明るく開けた茶屋跡に仇討ち話が残る。
仇討ち事件は三島で起きた。明石の殿様の行列に幼女が闖入。一時は幼女のこととて、放免といった次第に。が、その子供の親が元尾張藩士と聞いた明石の殿さんは、幼女を手打ちに。さぞや尾張嫌いであったのだろう。で、怒り心頭の父親による仇討ちの現場となったのが、この地である、と。
この話には尾ひれがつく。明石の殿さんが三島宿で見染めた遊女。しかし、その遊女にすっぽかされ、機嫌が悪かったのも手打ちの一因、と。また、その遊女は手討ちになった子供の実の姉であった、とも。話がどこまで広がるのやら。
ちなみに、その子供、助けを求めて、「言い成りになりますから、どうか助けてください」と命乞いをした。で、その幼女の冥福をいのって造られたのだ「言成地蔵尊」ということだ。三島市内に残る、とか。

大枯木坂

少し窪地となった新五郎久保を通り、大枯木坂を下ると道は民家の庭先に出る

。本来の街道は直進し、小枯木坂へと進んだようだが、道は左に折れ国道に戻る。バス停は山中農場となっているので、先ほどの民家はその農場の一部であったのだろう。

願合寺石畳
国道を渡り階段を下りる。道はここで国道の谷側に移る。再び石畳の道、このあ
たりの石畳は結構最近のもの。平成7年に三島市が整備したものである。願合寺石畳と呼ばれる。

雲助徳利碑
西坂に入って始めての杉林の中を歩く。道脇に雲助徳利碑。雲助が酒飲みの仲間のために建てたもの。案内によると、酒でしくじり国許を追放された剣道指南の元武家が、この地で雲助に。この碑は、その武芸・教養ゆえに仲間に親分として慕われるようになったそのお武家を偲んで造られた。
雲助の由来はさまざま。住所不定で雲のように漂うから、とか、街道でお客を求め蜘蛛の糸を張り巡らせたていたから、とか、あれこれ。あまり評判のよろしくない雲助にもランクがあり、最上級は長持ちかつぎ。継いで、駕籠かつぎ、そして、一人持ちの道具類かつぎ、といったランクになっていた。

山中新田
雲助徳利碑を過ぎると、ほどなく国道に合流する。このあたりは山中新田と呼ばれる。新田とはいうものの、西坂の新田は、通常の田畑開墾のため、というものではない。箱根越えの人馬への便宜を図るためつくられた「間(あい)の宿」、とか「(継)立場」といったもの。三島代官の斡旋により、三島あたりの農家の次男、三男に呼びかけ移住させた。年後の期限付き免除といったインセンティブも用意したようだ。西坂には山中新田、笹原新田、三ツ谷新田、市山新田、塚原新田と5つの新田が開かれた。

駒形諏訪神社
山中新田入り口に念仏石、無縁塚、三界万霊塔。三界万霊塔とは、欲・色・無色の三界、あらゆる生物が生死輪廻する世界のすべての霊があつまるところ。鎌倉のはじめより供養はじまった、とか。
国道を渡ると駒形諏訪神社の鳥居。山中城の北丸のあったところ。境内に庚申供養塔
そしてアカガシの巨木が残る。巨木といえば、この近く、山中城跡に「矢立ての杉」がある。戦の勝敗を占ったもの、とか、国境を見立てる、といった目的で矢を射る。いつだったか笹子峠を越えたときにも「矢立ての杉」があった。
矢ではないのだが、先日信州の塩の道を歩き、大網峠を越えたとき、「なぎ鎌」といって、鎌を神木に打ち付ける神事があった。この神社と同じく、諏訪神社の神事である。諏訪神社って、木にまつわる神事が多いのだろう、か。そういえば御柱祭も諏訪大社の神事。

山中城跡
諏訪神社から道なりに山中城跡に進む。山中城は北条氏康が小田原防衛のために築城したもの。永禄年間、と言うから、16世紀後半のことである。秀吉の小田原征伐のとき、この城は北条方の拠点として秀吉の軍勢と戦う。が、味方4,000に対し、敵方3万とも5万弱という圧倒的勢力差のため、半日で城が落ちた。この城で印象的であったのが、障子掘。棚田といった美しいつくりであった。

宗閑寺
城跡から国道に戻る。国道脇に宗閑寺。このあたりは山中城三の丸跡。北条、秀吉側両軍の戦死者をとむらうため江戸期につくられた。境内には山中城の守将であった松田康長や副将間宮康俊、秀吉側の一柳直末がまつられる。一柳直末はその討ち死にを聞き、秀吉が「関八州にもかえがたい人物。小田原攻撃はやめ」との取り乱したほどの逸材であった、とか。寺の開基は間宮康俊の妻。小田原落城後、家康に仕えた。

芝切地蔵
国道を少し下ると芝切地蔵。山中村で行き倒れになった旅人が、「なくなった後も、故郷の相模が見えるよう、芝で塚をつくり、その上に地蔵尊としてまつってほしい」と。村人は地蔵をまつり、供養した。で、接待につくったおまんじゅうが評判を呼び、多くの人が参拝に訪れ、村は大いに潤った、とか。

大高源吾の詫び証文

逸話と言えば、この地には大高源吾の詫び証文の話が残る。あらすじは箱根越え・東坂の甘酒茶屋での神崎与五郎と同じ。討ち入り前、大事の前の小事、ということで、ぐっと我慢。箱根峠を境に登場人物が変わって話が出来上がっている。三島宿にその侘び証文が残ると言うが、それによれば主人公は大高源吾である。

山中城岱崎(だいざき)出丸

国道を渡り山中城岱崎出丸に。尾根を活用した曲輪となっている。北条主力がここに籠もって秀吉軍を防ぐといった戦略でつくられた。こう見てくると、山中城って誠に大きな構え。もともとはここに北条の大軍が籠り秀吉勢に対峙する計画が、主力が小田原籠城と決まり、結果わずかな守備兵力しか残らず、ために広い城の構えが活かせず終わった,と言う。

山中新田石畳
出丸を離れ、ふたたび杉林の中を進む。道脇に箱根八里記念碑、司馬遼太郎さんの書いた北条早雲が主人公の『箱根の坂』の一文が刻まれている。

韮山辻
ほどなく国道に。このあたりは昔の韮山辻。伊豆の韮山に続く道があった。往古、このあたりも山中城の内。北条方の戦略拠点でもあった韮山城との往還を繋いでいた。その往還は、今は荒れ果て歩くことはできそうもない。道は国道を離れ、Uの字に大きく迂回する国道を一直線にショートかとする。

富士見平

道が再び国道に出るところに芭蕉の碑。風景は大きく開け、晴れた日には富士が見える。ということだが、当日はあいにくの曇り空。芭蕉がここを通った時も富士が見えなかったようで、「霧しぐれ 冨士を見ぬ日ぞ 面白き(野ざらし紀行)」などと詠んでいる、気持ちは大いにわかる。
この地は富士の名所。東海道名所図会にも 「三島より海道筋二里ばかりにあり。正面に冨士山・三保の松原、はるかに見ゆる」とある。
蜀山人こと大田南畝も『改元紀行』に、「やや行きて霧晴れわたり、四方の山々あざやかに見ゆ、富士見だいらといへる所のよしききつるに、ふじの山のみ曇りて見へぬぞ恨みなる。遠く川水も流れ行くは、黄名瀬川なるべし、南のかたに幾重ともなくつらなれる山あひより、虹のたちのぶるけしきいはんかたなし」と書いている。

上長坂
芭蕉の碑の先、道は再び国道を離れる。今度は、逆U字の基部をショートカットする。
階段をくだり石畳に。三島市が整備したとのことである。このあたりを上長坂と呼ぶ。途中明治天皇御小休所といった石碑もある。笹原地区石畳を国道に進む。

元笹原

国道に出る。しばらく国道に沿って進む。このあたりは元笹原。少し進み、道はモー

テル脇から再び国道を離れる。道はここから笹原新田まで一直線に下る。下長坂と呼ばれる。

笹原の一里塚
道を下り、民家が見える頃になると道の左手にシイの林。笹原の一里塚はその中にある。日本橋から27番目となる。塚は一基だけ残る。塚の上のシイの根元に箱根八里記念碑。「森の谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」は詩人の大岡信の碑文。

笹原新田
笹原の一里塚を越えると道は国道に出る。街道は国道を横切り一直線に下る。急坂の両側には笹原新田の民家が並ぶ。今まで見たことのない、印象に残る景観である。
坂の途中に一柳庵。山中城の攻防戦で亡くなった豊臣方の武将一柳直末の胴塚が祀られる。首は敵に奪われることを恐れ三島市に近い長泉に祀られた、と言う。山中新田の宗閑寺の一柳氏のお墓は、ここから移された、と。
集落を過ぎても坂は続く。坂の名前は下長坂と呼ばれる。この坂は、別名、こわめし坂とも呼ばれる。こわめしの由来は、あまりの急坂のため、背中の米が汗と熱で強飯に「ゆであがるほど」であるから、と。西坂第一の急坂であるのは間違い、ない
。ハコネダケの生い茂る急坂を下ると国道に出る。

三ツ谷新田
国道に沿って三ツ谷新田の集落が続く。国道は尾根を通り、集落はその両側に連なる。この地の名前の由来は、その昔、ここに茶店が三軒あったため。当初は、三ツ屋と呼ばれていた。その後、大久保長安が家康の命により西坂に新田をつ
くったとき、三ツ屋を三ツ谷と改名した、と。

松雲寺
国道を進む。国道とは言うものの、三ツ谷新田の手前から国道はバイパスが別れている。車はそちらを走るので、集落中の国道は、比較的静かである。先に進むと松雲寺。江戸期に開山の寺。多くの大名が休息をとったところ。寺本陣と呼ばれる
。境内には明治天皇が腰掛けた石が残っていた。お寺の近くには、茶屋本陣も。言うまでもなく、本陣として使われた元茶屋跡である。
題目坂
国道を進む。集落を外れるころになると坂は急になる。ほどなく道は国道から離れる。このあたりの坂を小時雨坂と呼ぶ。坂小学校の横を通り、坂幼稚園手前を右に進むと階段となる。この坂は大時雨坂、別名題目坂と呼ばれていた。題目坂は、その昔、坂小学校のあたりに、日蓮宗のお寺があり、そこに「南無妙法蓮華経」の七文字が彫られた石、題目石があった。から。東海道名所図会には「市の山・法華坂、ここに七面祠(ほこら)・法華題目堂あり 」と記載されているように、法華堂からは一日中、お題目を唱える声が聞こえたのだろう、か。

市山新田

馬頭観音を見やりながら題目坂を上ると車道にでる。この道は元山中に続く道。元山中は鎌倉・室町の頃の箱根越えの道筋。鎌倉との往還でもあり、鎌倉街道とも呼ばれる。今回歩いた旧東海道のひとつ北の尾根筋を三島に向かって下ってゆく。そのうちに歩いてみたい。
道を左手に折れ国道に出るとそこは市ノ山新田。名前の由来は、箱根に上りはじめた一番目の山であったため、一山と。それが市山に転化した、と言う説と、市が立った山から、との説がある。

法善寺

国道に沿って歩くと右手に山神社。境内に道祖神がたたずむ。西隣に法善寺。題目坂の手前、坂小学校のあたりにあったものが、題目石とか、七面大明神、帝釈天などとともにこの地に移された。
七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂。七面堂と言えば『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の狂歌がある。「 あしかがの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いふべかりける 」。足利の(武将の建てた七面堂)と、(無精の七面倒)をかけている。七面堂は足利尊氏が建てたと言われる。この七面堂は、この地に移される前の法善寺にあった七面堂であることは、言うまでもない。
先に進むと市ノ山地蔵堂。六地蔵、と言うか、性格には、六地蔵が2セットと一体の地蔵の計13地蔵が知られる。
臼転坂
地蔵堂を先に進むと、道はまた国道から離れる。石畳の道は臼転坂と呼ばれる。臼が転がったから、とか、牛が転がったことからの転化、とか、あれこれ。石畳の道はすぐに終わり、再び国道に。

塚原新田
国道を進むと普門庵。境内には観音坐像、馬頭観音などが佇む。このあたりから塚原新田がはじまる。名前の由来は、この近辺に円形古墳が多いから。塚原古墳群とも呼ばれるようだ。道脇に宗福寺。境内には三界万霊塔や六地蔵。弘法大師が富士を見に、この寺に立ち寄ったとの話が伝わる。宗福寺を過ぎると集落も終わり、ほどなく国道のバイパスと合流。

初音ヶ原松並木
現東海道に沿った石畳の遊歩道を進む。整備された松並木となっている。初音ヶ原松並木
と呼ばれる。『豆州志稿』に「官道の老松背後に列立し、遠く駿遠の峯を望む風景頗る佳なり」と。初音ヶ原の名前の由来は、頼朝が箱根権現に詣でるとき、鶯の初音を聞いたから、とか、箱根に入るはじめての峯、初峰が転化したとか、これも例によってあれこれ。本当に地名の由来って、定まるところなし。


錦田一里塚
初音ヶ原の中ほどに一里塚。日本橋から28番目。地名は、錦の郷と谷田郷を足して二で割ったという、これも地名をつくるときによくあるパターン。初音ヶ原一里塚とも。元の姿が保存された、堂々とした塚である。

箱根大根恩人碑

1キロほど続く松並木も終わり、街道が再び国道と別れで右に入る手前に箱根大根恩人碑。
箱根の西坂でとれる大根とかニンジン、牛蒡など、所謂「坂もの」と呼ばれる農産物を世に広めようとした平井源太郎氏を称えるもの。昭和5年頃、東海道線が開通し、箱根の往来が寂れた村々を救おうと、はじめたのが坂もの販売のためのキャンペーンソング作戦。で、目に付けたのがこの地に伝わる「ノーエ節」。「富士の白雪や ノーエ富士の白雪やノーエ 富士のサイサイ 白雪は朝日に溶ける・・・」の、あのノーエ節。
ノーエ節は、もとは秀吉が小田原の陣を張ったとき、その場で歌われた今様、「富士の白雪朝日でとけて とけて流れて三島へ注ぐ」がはじまりと言われる。その後、農民の田草取り歌や盆踊り歌として伝わり、幕末にはやった尻取歌をへてノーエ節が出来上がっていた。そのノーエ節を「農兵節」と歌詞をアレンジ。「箱根の山からノーエ 箱根の山からノーエ 箱根サイサイ 山から三島を見れば 鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ 鉄砲サイサイ かついで前へ進め・・・」と。陣羽織に菅笠姿、願人坊主さながらの姿で歌い踊りながらキャンペーンを展開した。

愛宕坂

現国道から離れ、右に別れ坂を下る。この坂は愛宕坂。名前の由来の愛宕神社から。神社は今はなく、そのあとに三島東海病院が建つ。

東海道線

愛宕坂を下ると東海道線に当たる。いやはや、はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ。線路を越え。今井坂を下る。山田川に架かる愛宕橋を渡り道は国道に合流する。

川原ヶ谷陣屋跡
国道を進むと道脇に立派な塀構えの屋敷。川原ヶ谷陣屋跡。小田原藩の支藩荻野山中藩の役所跡である。このあたり一帯、東は塚原新田、西は三島宿にはさまれた地区(川原ヶ谷)は、元々は幕府天領として三島代官の管轄であった。が、18世紀の初め頃から幕末にかけて荻野山中藩となったり、韮山代官の支配になったり、またまた荻野山中藩と変わったりしているのだが、その際の荻野山中藩の役所跡である。陣屋の道を隔てた南には足利二代将軍足利義詮や堀越公方足利政知のお墓のある宝鏡院があるとの
ことだが、日も暮れてきた。今回はパスし先に進む。

新町橋
ほどなく国道は大場川を渡る。架かる橋は新町橋。橋を渡れば昔の新町。三島宿の東口である。箱根八里の終点。長かった箱根越えもこれでお終しまい。日も暮れた。お寺が並ぶ新町、現在の日の出町をどんどん進国道を進み、三島大社にお参りを済ませ三島駅にたどり着き、一路家路へと。