土曜日, 3月 27, 2010

日野散歩 そのⅡ;豊田からはじめ小宮まで、日野の河岸段丘を辿る

日野は丘陵、台地、低地からなる地形をその特徴とする。市の北端を多摩川、中央部を浅川が流れ、この二つの河川に挟まれた一帯は、数段の河岸段丘からなる日野台地とその最下面の沖積低地が広がり、浅川の南には起伏に富んだ多摩丘陵・七生丘陵が連なる。
日野の低地は先回の散歩で彷徨った。多摩丘陵・七生丘陵も既に歩いた。残るは日野の台地部分を辿ること。「日野っ原」とも呼ばれる日野台地は数段の河岸段丘からなる。日野段丘面、多摩平段丘平面、豊田段丘面、石田段丘面などがそれ。悠久の昔、多摩川が運んだ礫による洲(日野段丘面)ができ、次いで浅川の流れにより多摩平段丘面がつくられ、さらには流路定まらぬ多摩川・浅川の流れにより豊田段丘面、石田段丘面などが出来上がっていたのだろう。
いつだったか甲州街道を車で走ったとき、JR日野駅あたりで低地から坂を上り台地に進み、しばらく台地を走り大和田あたりで再び台地を下り八王子に入ったことがある。道すがらの日野台とか、多摩平とか、豊田、そして石田といった地名がその段丘面の名残であろう、か。

日野台地散歩はJR豊田駅からはじめる。多摩平段丘面を下り、浅川北岸の河岸段丘崖を辿った後、一旦多摩平段丘面上る。その後、台地突端部をJR日野駅あたりへと下り、そこからは多摩川西岸の河岸段丘に沿ってJR八高線・小宮へと進もう、と。崖線に沿った湧水、台地上の西党・日奉氏の館址など時空(歴史+地形)散歩が楽しそうである。


本日のルート;JR豊田駅>清水谷公園>黒川>梵天山古道>日野台地・日野段丘面>JR日野駅>薬王寺>日野宮神社>日野用水>成就院>七ッ塚古墳>神明社>JR八高線・小宮駅

JR豊田駅
豊田駅で下車。駅の近く、崖線に沿って黒川湧水が流れる。先日、日野本陣跡にある観光協会を訪ねたとき、黒川湧水の案内を手に入れ、機会があれば歩いてみたいと思っていたところである。駅は崖面にあり南口は崖下、北口は崖上に出る。南口は豊田段丘面、北口は多摩平段丘面ではなかろう、か。豊田の名前の由来は、文字通り「豊かな地」、から。日野の低地は縦横に巡らされた用水路により実収3000石余あり、多摩の米蔵とも呼ばれる穀倉地帯であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

清水谷公園
駅を離れ、成り行きで崖線へと進み坂を下る。雑木林と池があり、標識に清水谷公園とある。坂道からは谷戸奥の池の上流端には進めない。いかにも湧水池といった雰囲気もあり、谷戸奥に進もうと坂道を戻り、ぐるっと迂回するも、道は池から離れるばかりで、結局谷戸奥に進むことはできなかった。
崖上の道を進み多摩平第六公園脇を道なりに坂道を下る。道の左に黒川防災公園、右には山王下公園。山王下公園にはその昔、日枝神社があったとのことだが、現在では若宮神社に合祀されている。この若宮神社って、JR中央線の東、東豊田陸橋の近くにある若宮神社のことだろう、か。

山王と日枝について;日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。

黒川
黒川防災公園の広場に沿って進む。この公園は下水処理場跡、とか。ぐるっと一周すると四阿(あづまや)が見える。その四阿は湧水池・あずまや池で囲まれる。豊富な水量である。日野台地で涵養された地下水が崖線下から湧き出ているのだろう。横には山葵(わさび)田があった。 黒川はこのあずまや池からはじまる。その昔は多摩平段丘面が湧水によって刻まれた自然の河川であったのだろうが、現在は人工的に整備された小川となり崖線下を進む。崖線一帯に雑木林が広がり、林の中から幾多の湧水が黒川に注がれる。雑木林の中を進む。このあたり一帯の雑木林は黒川清流公園と呼ばれる。1975年には多摩平第六公園、清水谷公園を合わせた六万㎡もある緑地帯は東豊田緑地保全地域に指定され、自然保護が進められている。
「おお池」を過ぎJR中央線が緑地を切り開く手前に「ひょうたん池」がある。清水谷公園からおおよそ1.7キロ程度だろう。黒川の流れはこのひょうたん池の先で中央線に遮られ、排水溝へと吸い込まれてゆくが、地図を見ると中央線の少し東まで暗渠が続き、その先の神明第10緑地脇、日野市役所から下って来るあたりで再び地上に現れている。
ところで「黒川」の由来であるが、はっきりしない。はっきりしないが、『新編武蔵風土記』の豊田村のところに「村内スベテ平地ニシテ。土性ハ黒野土ナリ。田少ク畑多シ。民戸ハ七十五軒。處々ニ散住ス」、といった記述がある。この地ではないが、黒川の由来として「川の水が澄んで川底が黒く見えた、ため」といった記事もある。真偽のほどは定かではないが、黒土の中を流れる澄んだ川、といったところが黒川の由来だろう、か。

梵天山古道
中央線を越えるため国道20号線バイパスに上る。日野跨線橋で中央線を越え神明2交差点で再びバイパスを離れ脇道へ。道脇に「梵天山古道」の案内があった。梵天山って、神明第10緑地の昔の名前、とか。案内によると、「梵天山古道;往時の鎌倉道。八王子のさらに西からこの地をへて鎌倉に進んだ。昭和の初め頃までは稲城往還と呼ばれ、七生から日野台地へ、また稲城や多摩から八王子へ往来する人や荷馬車で賑わっていた。このあたりだけが往時の面影を残している。「ぼんせん坂」とも呼ばれる」、と。『新編武蔵風土記』にも「東西凡八丁。南北モマタ同ジ。土性黒野土ニシテ。水陸ノ田相半セリ。村内ニ一條ノ往還アリ。橘郡稲毛領ノ方ヨリ。郡中八王子宿ヘノ道ナリ」とある。

日野台地・日野段丘面
神明第10緑地をのんびりと進み、神明1丁目交差点あたりで再びバイパスを越え、崖線に沿って台地に向かう。これからは少しの間、日野台地を歩くことになる。
日野台地は明治・大正にかけ、「日野っ原」と呼ばれる雑木が一面に茂る台地であった、とか。明治22年、甲武鉄道が立川と八王子を結んだ頃も集落はほとんどなかったようだ。最大の理由は水が確保できないから、だろう。大正10年には、この「日野っ原」で陸軍大演習が行われたわけで、ことほど左様に人の住まない一帯であったのだろう。
一面に桑畑の広がる日野台地の様子が変わってきたのは昭和11年頃から。豊富な地下水をもとに工場誘致を行い日野五社と呼ばれる、六桜社(コニカミノルタ)、吉田時計店(オリエント時計)、東京自動車工業(日野自動車)、神鋼電機(現在都立日野台高校と市立大坂上中学校となっている)などがこの地に進出した、と。

JR日野駅
日野台地を進み、実践女子短大前交差点を越え神明4丁目交差点を過ぎると「市立新撰組のふるさと歴史館」。残念ながら休館日。先に進み神明3交差点で北に折れ、中央高速をくぐり台地を下りる。さらに進み都道256号線・市役所入口交差点を左に折れJR日野駅に。ここからは再び、崖線につかず離れず多摩川低地を進むことになる。

薬王寺
日野駅前の日野駅北交差点を北に進む。ほどなく水路に。日野用水上堰だろう。水量豊富な流れである。その先、道路右側に薬王寺。昭和50年代の頃までは少々朽ちた感があったと思うのだが、境内は再建され洒落たお寺さまに様変わりしていた。
寺の開基年代は不詳だが、開山は慶長11年(1606年)との記録がある。高幡山金剛寺・高幡不動の末寺、と言うか、高幡不動の住職の隠居寺、とも。江戸時代には御朱印九石五斗の寺として幕府よりの保護を受け、寺の西北にある日野宮権現の別当寺として明治の神仏分離のときまで続いた。
朱印寺とは税の免除された土地を幕府より与えられたお寺さま。将軍の名に朱印を用いたことでこの名がついた。一石は人ひとりが1年間に食べるお米の量。米俵2.5表、150キロ程度。10斗で一石であるから、九石五斗とは9.5人の人が1年間に食べるお米の量で、およそ24俵といったもの。もっとも現代人が1年間に食べる量は65キロ程度というから、22人分となる。

この薬王寺のあたりは、江戸時代に甲州街道が開かれる前の日野の中心地であったところ、と言う。薬王寺の南に日野本郷と呼ばれる村があったとの記録が残るし、日野宮神社周辺の栄町遺跡、薬王寺付近の四ッ谷前遺跡などで遺跡が発掘されており、薬王寺周辺は奈良平安時代から中世にかけて、この辺り一帯の中心地であったのだろう。実際、このお寺さまが再建される前、寺の敷地には小田原北条家臣・竹間加賀入道の館跡の土塁が残っていたとのことである。

日野宮神社
薬王寺の西北に日野宮神社。武蔵七党のひとつ、西党の祖・日奉宗頼の子孫が祖先を祀って日野宮権現を建てたと伝わる。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか。それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、との説もある。

日野用水
日野宮神社を離れ、道なりに多摩川の堤に向かう。途中に用水路。日野用水下堰であろう。日野市内には全長170キロにも及ぶ用水路網が広がる、とメモした。幹線用水だけでも多摩川と浅川の間の低地に8つ、浅川とその支流である程久保川の間に6つの用水路が流れ、多摩の米蔵とも呼ばれた穀倉地帯を支えていた。日野用水もそのひとつであり、最も古い歴史を持つ用水と言われる。
現在日野用水は八王子の北平町の平堰で取水され、日野市の北部を進む。途中で下堰堀と上堰堀に別れ、甲州街道に沿った日野市の中心部を挟むように舌状の沖積地を下り多摩川に注ぐ。取入口を含めて現在の姿になったのは戦後のことではあるが、日野用水の歴史は古く奈良時代まで遡る、とも。室町後期、永禄10年(1567)には、大規模改修工事を行った、との記録が残る。「永禄十年北条陸奥守様より隼人殿罪人をもらゐ、此村之用水を掘せ、茶屋・小屋をひつらゐ百姓之用水を取、東光寺之のみ水二成、大小之百姓末々迄難有可奉存候、当主計殿松を植候を拙者共聞申候(上佐藤家 「挨拶目録」より)」とある。美濃からやってきた上佐藤家の先祖・佐藤隼人が、滝山城主であり後に八王子城主となる北条氏照の力を借りて、罪人を使用しての工事であったようだ。ちなみに上佐藤家とは日野宿で大名が宿泊する本陣が置かれた名主の家柄。ついでに下佐藤家とは脇本陣が置かれた名主の家。もっとも幕末には下佐藤家が本陣となった、とか。

成就院
多摩川の堤に上り、多摩川の流れを眺めながらしばしの休憩の後、日野用水下堰に沿って先に進む。進むにつれて南の河岸段丘が近づいてくる。低地との比高差は20m弱といったところ。用水路を離れ、低地との比高差数メートルといった坂を上ると成就院に。
先ほど辿った日野用水は東光寺用水とも呼ばれる。近くには東光寺団地とか東光寺小学校といった名前が残る。このような地名にのみ名残を残す東光寺とは、この成就院の南にある台地に館を構えた、西党・日奉氏が建てた寺。館の鬼門に薬師堂と共に建てられた、とか。成就院は東光寺の一子院であったが、鎌倉期に日奉氏の凋落にともない東光寺ともども廃寺となる。その後、成就院は16世紀末に再建され、昭和46年には都市計画によって薬師堂を成就院の境内に移築し現在に至る。薬師堂は安産薬師として知られる。





七ッ塚古墳
成就院を離れ日奉氏の館があった伝わる台地へと向かう。道の途中に日野用水上堰にあたる。水路に沿った水車堀公園などを見やりながら台地へと取り付く。坂道をショートカットして段丘崖を直登といった案配。緑豊かな一帯は東光寺緑地と呼ばれ緑地保護地域となっている。
館跡の痕跡を求めて台地上を崖線に沿って彷徨う。これといった痕跡なし。成り行きで進み栄町5丁目交差点から上って来る坂道、たぶんこの坂道って「東光寺大坂」と呼ばれた坂道なのだろうが、その坂道が台地に上りきったあたりを西に進むと広場に出る。地図らしきものをチェックに向かうと「七ッ塚古墳群」の案内。シートで覆われ如何にも発掘作業中といった状況ではあったが、この古墳群は8世紀頃のもの。横穴式石室からは埴輪とか勾玉が発掘されている、と。古くから開けたこのあたりに日奉氏の館があったとの説もある。

神明社七ッ塚古墳から谷地川方向へむかう。緩やかな坂の途中には埴輪公園などといった公園もあり、いかにも古代より開けた一帯といった感がある。先に進むと崖にあたり、下には谷地川が流れる。崖上から小宮の街並みを眺めながら崖線に沿って台地北端に向かう。北に多摩川を臨み武蔵野が一望のもと。西には谷地川を隔て加住丘陵の遥かかなたには秩父・奥多摩の山容が連なる。誠に見晴らしのいい台地である。日奉氏の館跡の特定はできなかったのだが、このあたりであったのだろう、ということで矛を収める。
崖線間際からの多摩川を眺めようと崖端に進むと社があった。崖面を少し下ると神明社とある。日奉氏の子孫が伊勢神宮を勧請したとの説もある。神明社の祭神って、天照=日神、であろうから太陽祭祀を司る日奉氏が勧請したとするのは、それなりに納得感が高い。





JR八高線・小宮駅

社にお参りし、崖線を南に戻り谷地川に下りる。谷地川は秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵からの水を集め、上戸吹から北の加住丘陵、南の犬目・矢野丘陵に挟まれた低地を、滝山街道に沿って下る。日野に入ると日野台地の北側をかすめる様に東流し、JR中央線の鉄橋付近で多摩川に注ぐ。谷地とは湿地の意味。内陸部の山間や丘陵地等の沼などの湿
地が多いところを谷地と呼ぶことが多い。現在は護岸工事がなされ湿地の名残はこれといって見ることもできないが、ともあれ谷地川を渡りJR八高線・小宮駅に向かい、本日の散歩を終える。

日野散歩 そのⅠ;多摩川と浅川に挟まれた低地を歩く

先日、百草園から高幡不動や平山城址など多摩丘陵を辿った。丘陵からは浅川・多摩川によって発達した沖積低地、その先に河岸段丘と台地などが見える。丘陵、台地、平地、これが日野の地形の特長、とか。丘陵散歩は終わった、次は沖積低地をさまよい、さらには日野台地を歩こう、と。今回は低地編。高幡不動からはじめ、浅川・多摩川沿いの沖積低地を歩こうと思う。



本日のルート;京王線・高幡不動駅>若宮愛宕神社>向島用水親水路>石田寺>八幡大神社>安養寺>万願寺の一里塚>源平島>万願寺の渡し>都道256号線>日野本陣跡>問屋場・高札場跡>普門寺>大昌寺>八坂神社>宝泉寺

京王線・高幡不動駅
北口に下り浅川へと向かう。駅のすぐ北に水路がある。場所から言えば、高幡用水だろう。浅川と程久保川を繋いでいる。浅川の南には、この高幡用水のほか、西から平山

用水、南平用水、向島用水、落川用水、そして一宮用水と並ぶ。大雑把に言えば、それぞれの用水は浅川から取水し浅川に流す、浅川から取水し程久保川に流す、程久保川から取水し浅川に流すといった水路網となっている。ついでのことながら、浅川の北には多摩川から取水し多摩川へ流す用水、それと湧水を水源として浅川に流す水路網が残っているようだ。ことほど左様に、日野には全長180キロとも言われる用水網がある。

若宮愛宕神社
水路を越えるとすぐ若宮愛宕神社。いかにもあっさりとしたお宮さま。創建の年代は不詳だが、縁起が残る。若い旅の僧が高幡不動金剛寺を訪れ、不動明王に脇士がいないのは残念と二童子を彫りあげる。別れを告げる僧を見送りに集まる村人の前で、その旅僧は忽然と姿を消す。村人は旅僧を神仏の化身と崇め、その地に祠を祀り別旅(わかたび)明神と名付ける。その祠が若宮神社の前身であり、その後、高幡不動裏の丘陵地にあった愛宕神社を合祀し現在の若宮愛宕神社となった。

向島用水親水路
若宮愛宕神社を北に、潤徳小学校脇を過ぎると再び水路。向島用水と呼ばれ、浅川から取水し程久保川に流す。高度成長期には、コンクリート護岸の排水路・ゴミ捨て場と化していた水路であるが、現在では土で固めた護岸に戻され向島用水親水路として美しく整備されている。潤徳小学校には水路を引き入れつくったビオトープがある、とか。ビオトープはドイツ語。もとはギリシャ語のビオ(「命」)+トポス(「場所」)から。生物が棲みやすい環境に変えた場所、と言ったところか。

石田寺
浅川に出る。少し堤を進み「ふれあい橋」を渡り浅川北岸に。浅川に沿って東に進む。多摩都市モノレールが走る新井橋を越え、日野高校の手前を北に抜け石田寺に。このお寺様には新撰組の土方歳三のお墓がある。お墓があるといっても、ここに眠るというわけではなく、このお寺は土方一族の墓所であり、墓碑といったもの。明治100年を記念して土方家が建立した土方歳三顕彰碑が榧(カヤ)の大木の木陰にあった。
石田寺の東隣に浅川水再生センターがある。土方歳三の実家は、この下水処理場の北のはずれにあったと言うが、度重なる多摩川の氾濫のため屋敷は500m程西に移った。それはそれとして、多摩川と浅川の合流点の三角州にあった土方歳三の実家の家業は散薬つくり。浅川の土手に茂る「牛革草」という野草をもとに打ち身薬をつくった。新撰組も打ち身治療の常備薬として使った、とも伝わる。熱燗と一緒に服用といったなんともユニークな薬であったようだが、昭和23年に成立した新薬事法では認可されず製造は終わった、とか。

石田寺を離れ土方歳三の実家に向かう。なるほど、道すがらの家には「土方」姓が多い。成り行きで進み土方歳三の実家に。古本屋で買った書籍(昭和49年刊)には藁葺きの古民家といった写真が掲載されていたのだが、平成の今では美しく建て替えられていた。




八幡大神社
多摩都市モノレールの万願寺駅を経て国道20号線・日野バイパスに沿って西に進む。万願寺は寺跡も寺歴もなにもわかっていない。文政11年(1828年)に著された『新編武蔵風土記』にも「万願寺ノ名ハ古キモノニモイマタ所見ナシ」とあり、当時から既に万願寺の所在が不明であったようだ。
バイパスの一筋北に八幡大神社がある。一帯は万願寺中央公園の東端といった処。鬱蒼とした鎮守の杜と言うよりは、至極あっさりとした広がりをもつ境内。昭和24年、境内神木を伐採し拝殿を新築したとの記録が残るが、そのこととも関係あるのだろうか。
創建の年代は不詳ではあるが、14世紀の前半、武蔵七党の西党・田村駄二郎が男山八幡を勧請した、と。境内の南、道路に面して宝篋印塔と六基の庚申塔が並ぶ。宝篋印塔など多摩地方にはそれほど多く残るわけではないのだが、四本のパイプでガードされただけであり、少々寂しそう。宝篋印塔は墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。

安養寺
八幡大神社の横の道を進むと安養寺に。西党・田村氏の館跡と伝わる。西党は日奉(日祀)氏とも称する。日奉(日祀;ひまつり)は音読みすれば「にし」ともなる。西(日奉)宗頼をその祖とし、日野・八王子の周辺地域に形成された地方武士団。武蔵守として武蔵国府に下向した宗頼は、任期満ちても都に戻らず日野市東光寺あたりに土着。鎌倉期に多摩川・浅川・秋川流域の氏族を広げる。由井氏、平山氏、川口氏、立川氏、そしてこの田村氏である。延喜式に挙げられた勅使牧のひとつである石田牧はこのあたりとする説もある。
この地は田村氏の後裔・田村安栖の在所でもある。田村安栖は、小田原合戦で敗れた北条氏政・氏照の切腹の場として小田原の屋敷を当てる。京都三条戻り橋に晒されたふたりの首級を、秀吉に懇願し引き取り荼毘に付し、小田原と八王子に埋葬した。





万願寺の一里塚
安養寺を離れ、万願寺の一里塚に向かう。万願寺中央公園の北端に水路。上田用水だろう。道なりに北に進み多摩都市モノレールが中央高速に交差する少し手前に万願寺の一里塚。 案内文によると、「江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あたりから多摩川を渡り、市内源平島に通じ、万願寺を経て日野宿に入った。この一里塚は日本橋から9里目のもので、慶長年間甲州街道が開かれた折につくられたものと伝えられる。径7~8m、高さ3m、塚上には榎が植えられていた」、と。
一里塚は江戸五街道整備のとき、旅人の行路の目安として一里毎に小塚を造り榎の木を植えた。万願寺の一里塚は大久保長安の監督のもと築かれた、との記録がある。通常道の両側にあるのだけれど、この一里塚は南側の一基のみ残る。その塚は一昔前まで塚は雑木に覆われていたようだが、平成15年頃から雑木は取り払われ公園風に整備されている。北にあった塚は昭和43年に取り壊され住宅地となっている。

源平島
一里塚から少し南に戻り多摩都市モノレールの道筋から離れ、都道503号へと折れる。北に進むとほどなく水路。日野用水上堰だろう。先に進むと中央高速手前に公園がある。何気なく見ると「源平島西公園」とある。少し東には「源平島東公園」もある。ということは、このあたりが先程の一里塚にあった「源平島」であったのだろう、か。






万願寺の渡し
中央高速をくぐり高速道路に沿って道なりに進むと多摩川にあたる。土手に「万願寺の渡し」の案内。取り立てて何があるわけではない。多摩川を眺める、のみ。万願寺の渡しは、対岸の国立市青柳とこの地を結ぶ。当初の甲州道中の道筋は六社宮(現大国魂神社)がある府中宿で鎌倉道から分かれ、多摩川沿いの低地を分倍河原、本宿、四谷に進み、「石田の渡し」で多摩川を渡り、石田村から「万願寺の一里塚」を経て日野宿に進んだ。しかし、この道筋は多摩川の氾濫などで不安定でもあり、多摩川の低地を避け崖線を進み、国立市の青柳からこの「万願寺の渡し」で多摩川を渡る道筋に変更された。
この「万願寺の渡し」ルートも17世紀後半になると、少し上流にある「日野の渡し」に変更される。それ以降公道は「日野の渡し」となり、「万願寺の渡し」は地元の人たちのための生活道となった、とか。将棋に「王手は日野の万願寺」というセリフがある。江戸防衛の戦略拠点としての日野・多摩川の重要性を示す言葉でもある。

都道256号線
土手でしばしの憩いの後、日野宿に向かう。多摩都市モノレールの道筋まで戻り、成り行きながらも、江戸初期の甲州道中をイメージしながら進む。大雑把に言って甲州道中は万願寺の一里塚からほぼ一直線に都道256号線の日野警察前に進む。道筋にはお寺もあっただろうと、万福寺脇まで進むも、なんらかの名残も見あたらず。中央高速をくぐり再び日野用水上堰を越え、江戸道の道筋であろう通りを日野警察前交差点に進む。新奥多摩街道とのT字路を越え川崎街道入口T字路へ。T字路の西に日野本陣跡がある。

日野本陣跡
本陣跡に入る。奥まで進むと日野観光案内所があり地図や案内パンフレットなどが揃っている。七生丘陵を歩いた時、日野市郷土資料館を訪ねたことがあるのだが、そこではお散歩関連資料が手に入らなかっただけに、誠に有り難かった。
本陣跡は幕末当時の名主屋敷を今に残す造り、という。入り口には明治天皇ご休憩の記念碑があった。幕末の当主は佐藤彦五郎。天然理心流の剣技に優れ、同門の近藤勇とも親交があった。また、土方歳三の姉と縁を結ぶなど、後の新撰組との結びつきも強く、鳥羽伏見で敗れた後、ふたたび兵を挙げ甲陽鎮撫隊として甲州に向かう
新撰組を援助。自らも義勇軍・春日隊を率いて進軍するも、甲陽鎮撫隊は既に勝沼の戦いにおいて官軍に敗れ去った後。彦五郎は出兵を咎められ一時身を隠すも、有志の懇願により後に公職に復帰。初代の南多摩郡長となる。
明治天皇がこの地に訪れたのは明治14年2月。八王子御殿峠での兎狩りを楽しみ、あまりの愉快さ故に、予定を変更し、翌日も雪の蓮光寺の丘(聖蹟桜ヶ丘近く)での兎狩りを思し召す。その道すがら、休憩のために立ち寄ったのがこの屋敷であった。お酒の好きな明治天皇のため地酒でもてなした、と。
おもてなし、と言えば、太田直次郎こと蜀山人・太田南畝との交流が面白い。幕府のお役人太田直次郎は玉川通普請掛勘定方として、玉川(多摩川)巡検のためしばしば当

地を訪れ、佐藤家に止宿。当時の佐藤家当主であった彦右衛門が、取り寄せた信州のそばを手打ちでもてなした。太田直次郎はその味に感激し表したのが、世に伝わる「そばの文」である。 蕎麦の文:それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど食料にあつる故に麦と名つくる事加古川ならぬ本草綱目にみえたり、されど手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり、もろこしにては一名を鳥麦といひ、そばきりを河濡麺といふ事は河濡津の名物なりと方便の説をつたふ、(中略)ことし日野の本郷に来りてはじめて蕎麦の妙をしれり、しなのなる粉を引抜の玉川の手づ
くり手打よく素麺の滝のいと長く、李白か髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ、これなん小山田の関取ならねど日野の日の下開山といふべし そばのこのから天竺はいざしらず  これ日のもとの日野の本郷 」 

問屋場・高札場跡
本陣跡から道を隔てて日野図書館がある。ここはもと日野宿の問屋場・高札場のあったところ。問屋場は宿の公用業務管理センターと言ったもの。公用の旅人のため人馬を取り継ぐ業務と、同じく公用の書類や品物を次の宿に届ける飛脚業務を行った。高札場は公用文を掲げておくところ。

普門寺
日野図書館脇を北に入る。ほどなく普門寺に。創建は室町初期。元は日野本宿(日野駅の東方)に牛頭天王社ともにあり、牛頭天王の本地仏である薬師如来を祀る神仏習合の寺であった。室町末期には普門寺、牛頭天王(現在の八坂神社)はともに現在の地に移るも、明治の神仏分離の時まで牛頭天王の別当寺として続いた。
普門寺に観音堂がある。元は下河原西明寺の閻魔堂であったものを明治にこの地に移した。旧本堂でもあったこの観音堂は小ぶりではあるが誠に流麗。散歩で多くにお堂を訪ねたが、その中でも印象に残るお堂である。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、明治の初期は850坪もあった、と言う。その境内では、本陣の名主・佐藤彦五郎が代官・江川太郎左衛門の下知のもと組織した日野農兵隊が洋式軍事調練に励んだ。





大昌寺
都道256号線に戻り、西へと進み成り行きで南へ下ると日野用水下堰にあたる。用水を越えると大昌寺に。江戸開幕期、八王子の名刹・大善寺(関東十八壇林のひとつ;壇林とは僧侶の教育機関)の高僧の隠居所として開かれた。開設間もない日野宿に人々の懇請に応じてのことであろう。この寺は名主・佐藤家の菩提寺。ゆったりとした品のあるお寺さまである。

八坂神社
大昌寺を離れ、用水に沿って西に進むと八坂神社。通称「天王さま」。木々は切り払われ、社は結構現代的な建築様式でつくられている。歴史は古い。普門寺のところでメモしたように、創建は室町初期。牛頭天王と呼ばれた。縁起によれば、近くの土淵の地で洪水の後、淵に光り輝く牛頭天王の神像を見つけ、その像を祀ったのが社の起源、と。祭神は素戔嗚尊。
牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

宝泉寺
六脚ひのき造りの山門をくぐり境内に。本堂は平成13年に新築落成。境内もきれいに整備されている。この寺には新撰組六番組隊長・副長助勤の井上源三郎が眠る。日野宿名主・佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したのは源三郎の兄・松五郎と言われる。客殿の南には、裏山を借景にした庭園がある。
日野の低地散歩はこれでお終い。JR 日野駅に戻り、家路へと。次回は河岸段丘と台地を歩く。 日野は飛火野(烽火;のろし)から興ったとの説がある、奈良時代の和同3年、飛火野を嘉字に改めるべしとの勅宣によって「日野」となった、と。また、西党の祖である日奉宗頼が日野宮権現を勧請したのが由来との説もある。日野中納言次朝ゆかりの者がこの地に来住したことに関連づける説もある。またまた、日当たりのいい土地といった地形からの命名、