日曜日, 8月 04, 2019

讃岐 歩き遍路;七十九番札所 天皇寺・高照院から高家神社を経て八十一番 白峰寺への登山口へ② 逆打ルート

今回は天皇寺・高照院から白峰寺へ向かう逆打ち遍路道をカバーする。このルートが開かれたのは江戸の中期以降、と言う。国分寺から一本松峠へのへんろころがしの急登を避け、七十九番札所である天皇寺高照院から高家神社に向かい、八十一番白峰寺、八十二番根香寺を打ち、八十番国分寺へと下って行くルートである。高屋口ルートと称される。
国分寺仁王門前の標石は八十三番札所・一の宮へのルートを案内していた。この逆打ちコースは多くの遍路に利用されていたのだろう。

メモは天皇寺高照院から標石を目安にお高家神社に向かい、白峰神社参道への分岐点までとし、その先稚児ヶ嶽を左手に見遣りながら西行の道を白峰寺へと上るルートは既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。

高家神社経由の八十一番札所白峰神社への遍路道
衛士坂の遍路道>予讃線踏切>県道33号を交差>原集落四つ辻の標石>原集落の標石>民家塀角の石灯籠>茂兵衛道標(137度目)>長命寺跡碑>姫塚>中川原集落入口の標石>県道16号アンダーパス前に石灯籠>雲井御所>中川原集落の標石>県道脇に標石>田圃の畦道を白峰中学校北側の道に>県道16号北側の標石>神谷川東詰めの標石>遍照院分岐点の石柱と標石>石灯篭と標石>遍照院経緯の遍路道合流点の標石>(遍照院>遍照院東側の標石>防火用水池脇の標石)>高家神社>高家神社傍、県道180号脇の標石>高家神社から白峰寺参道分岐点へ


高家神社経由の81番札所白峰神社への遍路道


衛士坂の遍路道
前述の如く、天皇寺高照院の正面赤鳥居を左折し旧丸亀街道の四つ辻に。既述の如く、左手に石灯籠と標石、右手に茂兵衛道標、四つ辻から北に下る坂道の右角に舟形地蔵が立つ。
国分寺への遍路道はここを右に曲がったが、茂兵衛道標も舟形標石も四つ角を直進する高家神社への遍路道を指す。
舟形石仏の傍に「衛士坂の遍路道」とある。この坂道は「衛士坂」と呼ばれるようだ。案内には、行き倒れとなった遍路を弔う石地蔵とあり、時代は明治かそれ以前か定かではないが、石工の刻んだ「へんろ」の文字がかすかに残る、とあった。地蔵標石の手印に従い坂道を下る。

予讃線踏切
緩やかな坂を下ると予讃線の踏切。「遍路踏切」と称される、と。巡打ちルートである80番国分寺から81番白峰寺への「へんろころがし」の急登を避け、逆打ちルートである79番高照院から81番白峰寺・82番根来寺、そして80番国分寺を打つこのルートを辿った遍路道の名残だろうか。

県道33号を交差
右手に八十場駅を見遣り、踏切を渡ると県道33号。県道を越えた遍路道はちょっと右手、駅方向に進み、田圃を北に進む道へと左に折れる。
八十場
古くは矢蘇場、弥蘇場、八十蘇場とも書かれた、と。景行天皇の御代、南海の悪魚を制すべく出向いた讃留禮王子と八十人の軍勢が、王子の持参した泉(前述の八十場の泉)の水で蘇生したが故の地名であることは既に記した。

原集落四つ辻の標石
畑の中を北西に直線に進んだ道は、ほどなく北東へと進む比較的大きな車道に合わさる。遍路道はここを右に折れて東へと向かう。
しばらく進むとこれも比較的大きな車道と交差。遍路道は坂出市役所西庄公民館の少し北、西庄の原集落の四つ辻を直進するが、四つ辻右角の民家の壁前に標石がある。手印と共に「扁路う道 是与白峯寺五十丁 嘉永五」といった文字が刻まれる。

原集落の標石
原集落の中を少し進むと、道の右手、電柱の根元に小さな標石があり、手印と共に「へん**」と刻まれる、と。摩耗しほとんど読めない。遍路道はここを左折する。






民家塀角の石灯籠
ちょっと進むと塀に囲まれたお屋敷の角に石灯籠がある。火袋の下に、「金」、「白」と刻まれる。金毘羅さんと白峰寺への奉灯の意。文化十四年のもと、と言う。遍路道はここを右折する。





茂兵衛道標(137度目)
道を進むとT字路の突き当り。その正面電柱の前に茂兵衛道標がある。手印と共に「右 天王 明治に二十七年」といった文字が刻まれる。逆打ち遍路の道案内だ。茂兵衛137度目の巡礼時のもの。





長命寺跡碑
道は綾川の土手に向かう。土手に上る手前、道の右手に4mほどの大きな石柱。長命寺跡の石碑。大正時代に建てられたもの。
長命寺
保元の乱に敗れ讃岐配流となった崇徳上皇が住んだ雲井の御所(後述)との説もあるお寺さまであった。長曾我部勢の兵火により焼失し、現在はこの石柱だけが残る。


姫塚
道が綾川の土手に上る長命寺石碑から200mほど西、田圃の中に如何にも塚を想わせる緑が茂る。Google Mapでチェックすると「姫塚」とある。ちょっと立ち寄る。
四方をブロック塀で囲まれた中に自然石があり、「崇徳天皇姫塚」と刻まれる。 上述、前述の菊塚は男児であったが、こちらは崇徳上皇と綾高遠の息女の間に生まれた皇女の墓とのことであった。



中川原集落入口の標石
往昔の遍路道は長命寺跡の石碑から綾川の土手に出た辺りより川を渡ったようだが、そこには橋はない。左岸を少し、県道16号に架かる新雲井橋を渡り、橋の東詰めを右折した後、直ぐに中川原の集落へと、道を左に折れる。土手を下りるとすぐに標石。手印と共に「左扁ろ道 寛政十」といった文字が刻まれる。遍路道は左に折れる。



県道16号アンダーパス前に石灯籠
標石を左に折れた遍路道は、すぐに右に折れ県道16号に沿った旧道を進むが、右に折れず左に向かうと県道16号アンダーパス前に石灯籠があり、「白峯」と刻まれる。このアンダーパスを抜けると崇徳上皇ゆかりの「雲井御所」へと通じる。
雲井御所
県道16号に架かる新雲居橋の東詰め、堤防から少し離れた中川観音堂の隣に「雲井の御所」があった。 案内を簡単にまとめると;崇徳上皇が讃岐に配流されたとき、いまだ御所ができていなかったので、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられる。
上皇はこの御所で3年を過ごしながらも、都を恋しく思い詠んだ歌か「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」。月の光が雲次第で思うに任せられないように、ここも思いもよらない住処(御所)になってしまったなぁ...、と言った意味。雲井の御所の名はこの歌に由来する、と。また里の名も雲井の里とも称されるが、上皇が愛でた「うずら」をこの里に離されたが故に「うずらの里」とも。
崇徳上皇は府中鼓ケ丘木ノ丸殿の完成をもって遷御され、時代が経るにつれこの雲井の御所の場所もはっきりしなくなったが、天保6年(18835)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立された,とあった。

中川原集落の標石
道を少し東に進むと、道の右手民家のブロック塀の前に標石。手印と供に、「是ヨリ白峯江三十六里 弘化四」といった文字が刻まれる。
県道脇に標石
この標石の少し手前に県道16号に出る道があり、県道角に標石。「雲井御所跡 西二丁」とある。アンダーパスができる前は、ここから雲井御所へと向かったのだろう。と言うか、現在は新雲井橋を渡り、東詰めを直ぐに左折すると道なりに雲井御所があるが、新雲井橋ができたのが昭和54年(1979)と言うから、それ以前はこの標石の道筋が雲井御所へのメーンルートであったのかもしれない。



田圃の畦道を白峰中学校北側の道に
旧道を進むと道は左に折れ、県道16号に合流するが、遍路道は直進し、田圃の畦道を抜け、県道187号を横切り、白峰中学校北側の道に出る。中学校の敷地が切れるところで左折し、県道16号を横切る。





県道16号北側の標石
県道を越え50mほどのT字路角に標石。手印と共に「八十一番 八十二番 八十番 左へんろ逆べんり」と刻まれる。八十一番>八十二番>八十番と進む逆打ちがべんり、と示す。
遍路道はここを右折すると思うのだが、手印は更に北方向を示す。昔は電柱に南東面してもたれかかるようにあった、といった記事もある。それならルートに合うのだが、現在はシッカリ固定されている。据え付け直されたのだろう。


神谷川東詰めの標石
手印で少々混乱し、ひょっとしたら間違い、などと思いながら道を進むと神谷川にあたる。そしてその東詰めに誠に立派な標石が立つ。オンコースであることがわかり一安心。
笠石のついた標石には、手印と供に「すぐ扁ん路ミち 四国八十一番霊刹 これより弐拾五丁三拾間 南此方 国分寺 壱里弐拾四丁 瀧之宮 弐里弐拾四丁四拾間 高松 四里弐拾六丁 一之宮 三里弐拾八町二拾間 仏生山 四里拾八町五拾間 寛政六」といった文字が刻まれる。




遍照院分岐点の石柱と標石
神谷川を渡り少し進むと、道の左手に2基の石柱。ひとつは寺名石碑。「厄除大師御旧跡 納経御祈願所 慈氏山 松浦寺」とある。もうひとつは標石。手印と共に、「厄除大師**みち 当山ハ大師乃かいき 本尊ハ四十二歳自作のみゑい** 慈氏山遍照院 *門内より**」といった文字が刻まれる。
高家神社への遍路道はここで二つのルートに分かれる。ひとつは直進し白峰山の山裾を高家神社にすすむルート。もうひとつはこの標石を左に曲がり遍照院前を経由して高家神社に向かうもの。

ついでのことではあるので、ふたつのルートを辿ろうと思うが、先ずは標石から直進するルートを進むことにする。

石灯篭と標石
北東に道を進み比較的大きな車道・鴨川(停)五色台線を横切り山裾に。山裾を左に弧を描火袋がない石灯籠と標石がある。
石灯籠には「白峯大権現 天照皇大神宮 金毘羅大権現 氏神 嘉永七年」といった文字が刻まれる。
標石は二面の角に大師像を浮き彫りにする。あまり記憶にない造りだ。また手印は右手の山方向を指し、「志ろみ年江是与六丁」と刻まれる。ここから左に折れ山道を白峰寺への遍路道があったのだろう。それにしても六丁とは。700m弱ということはほぼ直登ルートとなるようだ。

遍照院経緯の遍路道合流点の標石
集落の中を進み、坂を上ると松井春日神社。道はそこから下りとなり、右から道が合わさるT字路。そこが遍照院経由の遍路道との合流点。そこに標石が立つ。手印と共に「扁んろミち 安政四年」といった文字が刻まれる。





遍照院経由の遍路道
遍照院への分岐点の標石を左に折れ道を直進すると遍照院の石段前に出る。石段は草に埋もれている。
遍照院
弘法大師が四十二歳の厄年のとき、この寺で修行されたと伝わる。その故に「厄除大師」として知られる。境内には大師修行の求聞持石と呼ばれる大石がある、と。かつては多くの遍路が立ち寄った寺と言う。
遍照院東側の標石
遍路道は石段前を右折。民家と田圃の間の細路を進み、車道・鴨川(停)五色台線に合流したところ、道の左に小さな標石。手印と共に「すぐ扁んへん** 文久三」といった文字が刻まれる。
防火用水池脇の標石
車道を分かれ斜めに数メートル進むと道に出る。前面に防火用水があり、その前に三角形の自然石標石がある。手印と共に「へんろミち」と刻まれる。 遍路道はここを左に折れ、道なりに進むと状上述遍照院経由の遍路道合流点の標石箇所に出る。



高家神社
遍照院経由のルートを合わせた遍路道は、ほどなく道を進むと県道180号にあたる。T字路を右に折れ県道180号を進むと高家神社に着く。
参道入り口に「血の宮」、鳥居には「崇徳天皇」、随身門にも「崇徳天皇 高家神社」とある。「国史見在之社 高家神社 崇徳天皇御舊跡 血ノ宮」と刻まれた古い石碑もあった。
坂出市のWEBサイトには「昔からここには高家首(たかやおびと)の一族が居住し,遠い祖先である天道根命(あめのこやねのみこと)をお祀りして氏神としました。里の人には森の宮とも呼ばれ,貞観九年従五位下を奉られています。 崇徳上皇崩御ののち,白峰山に遺体を運ぶ途中,高屋村阿気(あけ)という地に棺を休めた時,にわかに風雨雷鳴があり,棺を置いた六角の石に,どうしたことか血が少しこぼれていたといいます。
葬祭の後,里の人は上皇の神霊を当社殿に合祀し,また,血のしたたった石も社内に納めました。俗に血の宮と称される理由です。また,朱(あけ)の宮ともいわれています。
地名の阿気(揚)も,そこから出たことなのかもわかりません」とあった。 死後十数日が立つにもかかわらず鮮血が零れ落ちたという台石も境内に祀られている。

高家首とか天道根命などちょっと気になるのだが、本筋からはるか離れてしまいそうであり、高家神社は崇徳上皇と深く関係した由緒をもつ社ということを以て思考停止。隣の観音寺にお参りし境内を離れる。
国史見在之社
コトバンクには、「六国史(りっこくし)に神名、社名がみえるが、『延喜式(えんぎしき)』巻9、10の神名帳には登載されていない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられる。その数は60余か国390余社に及び、記載の事由は授位、奉幣(ほうへい)、祭祀(さいし)、祈請(きせい)、鎮祭などによる。著名な社(やしろ)として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、大原野(おおはらの)神社、香椎宮(かしいぐう)などがある。また所在未詳のものが少なくない」とある。

高家神社傍、県道180号脇の標石
県道180号と高家神社参道との分岐点の左右に標石がある。道の右手に3基。「二十七丁目」「左しろみね道 是より二十七丁 大正二年」、手印と共に「白峰御陵参道 昭和十年」とある。
県道左手、「四国のみち」の木標の脇に2基の標石。小さな標石には手印と共に 「志ろ*ね」、大きな標石は茂兵衛道標。手印と共に八十一番 旧道 へんろみち 明治二拾七年」といった文字が刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。



高家神社から白峰寺へのルート
高家神社から先は旧遍路道はなくなっているようだ。県道180号・鴨川(停)五色台線を1.7 キロほど進み、左に「白峰寺(徒歩)1km」の木標で車道を離れ白峰寺へと向かうことになる。
正面には稚児ヶ嶽が見える。ここはいつだったか国分寺から根香寺、そして白峰寺へと歩き、麓の青海神社(煙の宮)へと下ったルートの途中。これから先は先回のルートメモに渡すことにして、今回のメモはこれで終了。
順打ち・逆打ちで天皇寺高照院と国分寺、白峰寺、根香寺への遍路道を繋いだ。次回は順打ちであれば八十二番・根香寺から八十三番・一の宮、逆打ちであれば八十一番・国分寺から八十三番・一の宮への旧遍路道を歩くことにする。

土曜日, 8月 03, 2019

讃岐 歩き遍路;七十九番札所 天皇寺高照院から八十番札所 国分寺を打ち八十一番 白峰寺への登山口へ ①順打ちルート

七十九番札所 高照院・天王寺を打ち終え八十番札所・国分寺へ。そしてその次は八十一番札所・白峰寺ということになるのだが、国分寺から白峰寺、更には八十二番札所である根香寺はすでに歩き終えている。
そのートは国分寺から北に向かい、一本松峠への急登を上り八十二番・根香寺から八十一番白峰寺を打ち、稚児ヶ嶽を右手に見遣りながら西行の道と称される長い石段を麓の青海神社へと下った。
その当時は特段遍路歩きといった想いもなく、山好きの弟に、どこか讃岐で面白い散歩道は?といってガイドしてもらったルートであった。
今回、遍路歩きというコンテキストでその時歩いたルートをチェックすると、そのルートは古い遍路道。江戸中期以降はこの急登ルートを避け、高照院・天王寺から白峰山西の山裾にある高家神社に向かい、そこから白峰寺へと向かう高屋口ルートが利用されという。国分寺から白峰寺へと向かう順路に対し、81白峰寺・82番根香寺・80番国分寺と辿る逆打ちルートである。天皇寺高照院から国分寺・白峰寺・根香寺を打つ遍路道はふたつあったようだ。
このふたつの遍路道のうち逆路ルートは次回に廻し、今回は順路ルートをカバーする。天皇寺高照院から国分寺を打ち、次いで白峰寺へと順路の遍路道を一本松峠に上る登山口までをメモし、その先は既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。

本日のルート;
七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺へ
七十九番札所 天皇寺高照院>表参道の標石>旧丸亀道との四つ辻の標石>八十場駅前の六地蔵>城山(きやま)神社標石>開法寺>鼓岡神社>内裏泉>菊塚>椀塚>柳田の碑>讃岐国府跡>国府印鑰明神遺跡>綾坂橋西詰めの標石>綾坂説教所跡>国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石>日向王の塚>第八十番札所 国分寺
八十番札所国分寺から八十一番白峰寺への登山口へ
築地塀に沿って北に>地神と二丁標石>三丁目標石>四丁目標石>3基の標石>六丁標石>神崎池>神崎池東の標石>一本松峠への登山口に


七十九番札所 天皇寺高照院

当日は八十場の清水から裏参道を辿り白峰宮境内に。七十八番札所金華山天王寺高照院の本堂・大師堂は白峰宮境内につつましく建っていた。
崇徳上皇の霊を慰めるその歴史的経緯故か、院号より寺号が先にくる珍しい寺。元は天皇寺を抱く金山(標高280m)の中腹にあり、古くは金華山妙成就寺摩尼珠院と称された。金華も摩尼珠も空海ゆかりの縁起をもつ。
金華は金山権現が左右に持した金剛鈴と白蓮華より。空海が八十場の霊泉を閼伽井とし秘法修行のとき金山の守護神である金山権現(金山権現の化身である天童とも)が現前した、と伝わる。摩尼珠は大師修法の間、嶺に舎利(如意宝珠とも摩尼珠)を埋めた故。
大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置。寺は霊場とされ、七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛したという。
その後、嵯峨天皇の御代になり、保元の乱(1156)に敗れ、讃岐に配流され更には誅された崇徳上皇の霊を慰めるため、この地に崇徳天王社が建立される。それに応じ院宣をもって摩尼珠院は崇徳天皇社の別当寺となり金山山麓よりこの地に移った。この故に、人は摩尼珠院を「天皇寺」とよび、崇徳天皇社を「天皇さん」と呼んだ
。 明治初年、神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となる。79番札所は筆頭末寺の奇香山高照院(約2km北の林田町にあった)が引き継いだ。崇徳天皇社は白峰宮と改称。また、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯神宮へ戻った。 その後、高照院は、明治20年(1887)摩尼珠院跡の現在地に天皇寺高照院として移転した。

寺の歴史的経緯を眺めると、寺号が院号の先にあること、本堂や大師堂が白峰宮の境内につつましく建つ所以も納得できる。
札所
ところで、札所について、江戸時代、1653年に著された澄禅の『四国遍路日記』に、「大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也」とある。現在は荒れ果てているようだが、金山に当寺の奥の院である瑠璃光寺(金山薬師)がある。行基が薬師如来を本尊として堂宇を開創したとの縁起が残る。
空海の開いた摩尼珠院は、荒れ果てた行基開創の堂宇を再興したものとも伝わるが、それはともあれ、『四国遍路日記』に従えば、江戸の頃まで札所は現在地ではなく摩尼珠院の元地であったようにもとれる。

続けて『四国遍路日記』には、「子細由緒ヲモ知ラズ 辺路修行ノ者ドモガ、此寺ヲ札所ト思ヒ 巡礼シタルガ初ト成、・・・金山薬師ハ在テ無ガ如ニ成シ」とする。由緒を知らない遍路は、崇徳天皇社を札所と思い込み、いつしか金山薬師は在って無きが如し、となってしまった」とする。


七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺への遍路道

天皇寺から白峰寺・根香寺へと辿る順路の遍路道である次の札所・国分寺へと向かう。

表参道の標石
朱に塗られた三輪鳥居を潜り境内を出る。表参道は東へと直進するが、鳥居を出てすぐ、境内に沿って北に進む道の角に標石。「白峯寺へんろみち 是ヨリ五十六丁 明治七」と刻まれる。八十番国分寺ではなく、八十一番白峰寺を案内する。
上述の如く、国分寺から白峰寺へと順路で進む、国分寺・一本松峠経由の遍路道ではなく、白峰寺から根香寺、そして国分寺へと進む遍路道の案内となっている。手印は表参道ではなく北を示す。標石に従い左折し境内に沿って北に進む。




旧丸亀道との四つ辻の標石
ほどなく道は旧丸亀街道に当たる。前回歩いた八十場の清水の標石を右折し裏参道に進むことな、標石を直進すればここに進む。表参道から向かう遍路道でもある。
この四つ辻に大きな自然石の灯籠、標石、舟形地蔵が立つ。自然石の燈篭前にある標石には、「天皇社 札所 摩尼珠院 寛政十二」といった文字が刻まれる。寛政十二年と言えば西暦1800年。1653年の澄禅の『四国遍路日記』では本来の札所は金山山麓の薬師堂であるのに、由来の知らない遍路は天皇社を札所と勘違いしている、などとの記述があったが、19世紀に入る頃には札所は摩尼珠院となっていたようだ。
四つ辻東角には茂兵衛道標。「明治二十七年」、茂兵衛135度目巡礼時の道標。指を二本伸ばす手印はあまり見ない。その指し示す方向は北。国分寺ではなく白峰寺への遍路道を示す。四つ辻北角の船形標石も「左 へんろ道」と白峰寺への遍路道を指すが、国分寺への遍路道はこの四つ辻を右に折れ、東へと向かうことになる。




八十場駅前の六地蔵
道なりに進むと八十場駅南の六地蔵堂脇に出る。駅前を南北に走る道を横切り白峰宮の赤鳥居に向かう表参道も横切り、国道11号バイパスの高架を潜り予讃線の南に沿って続く道を進む。別宮とか醍醐とか、別宮八幡や醍醐寺に因む地名が続く。別宮など如何にも崇徳上皇に関係ありそうな地名である。
3基の石仏が並ぶ民家を見遣りながら進むと、遍路道は予讃線鴨川駅手前で予讃線を越え県道33号に合流する。

城山(きやま)神社標石
国道を少し進み、弘法寺地区で県道33号を離れ右に折れ、再び予讃線の踏切を越え鼓岡神社への道を進む。
鼓岡神社手前の四つ辻に石碑があり、手印と共に「讃岐国之始祖 延喜式内当国廿四社之一明神大 県社城山神社」「此西鎮座 大正二年」といった文字が刻まれる。
その傍の石碑には「本村は古の甲知郷(こうちごう)仁にして国府のありし所也 仁和四年大旱仁当たり国主菅公が讃岐八十九郷二十萬蒼生の為仁雨城山(きやま)神仁祈りし処は是より二十二丁頂上にあり 昭和八年 府中村」とある。 ●菅公
菅公とは菅原道真公のこと。仁和四年(888)、43歳の頃讃岐守(讃岐国司)を拝任し、2年間讃岐に下向した。その後宇多天皇の信任を受け要職を歴任するが、異例の出世への妬みなのか、宇多天皇と醍醐天皇との確執なのか、ともあれ讒言により大宰府に左遷される。昌泰四年(901)というから56歳の頃だろう。



城山神社
なんとなく気になりちょっと立ち寄り。石碑を右に折れ道なりに進むと西山神社の先に城山神社が鎮座していた。こじんまりした社ではあるが社格は讃岐に三社ある式内社(明神大社)のひとつ。祭神は折に触れ登場する神櫛(かみくし)別命。景行天皇の御代、悪魚退治で知られ、讃岐国造の祖とされる




開法寺
遍路道に戻り、鼓岡神社へと向かうと、趣のある鐘楼が建つ。石碑には白鼓山開法寺とある。近くに奈良時代以前の古寺、讃岐最古の寺であったという開法寺跡があり、なんらかの関係があるのか?と思ったのだが、どうも関係はないようで、浄土真宗の寺とあった。




鼓岡神社
開法寺前の道を進むと鼓岡神社に着く。いつだったか白峰寺から根香寺を辿った時、崇徳上皇ゆかりの地ということで一度訪れたことはあるのだが再訪。 城山(標高162m)の山裾に鎮座する神社入口の石碑に「鼓岡神社 崇徳上皇行在所」とある。石段を上ると、広い境内、その奥に鳥居。鳥居から先に続く石段を上ると拝殿がある。
案内には、「鼓岡神社由緒 当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛二年(1164年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り仙居あそばされた聖蹟である。
建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峰御陵に移し跡地に之に代えるべき祠を建立し上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の創草と云はれている。伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い。
鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす
と御製された。 時鳥 上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。
境内には、木の丸殿、凝古堂、観音堂、杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫などがあり、付近には、内裏泉、菊塚、ワン塚などの遺跡がある」とあった。
境内には「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」と刻まれた石碑、案内にもあった「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」由来の杜鵑塚(ほととぎす塚),「
などがあった。
擬古堂
また、境内には大正2年(1913)、崇徳上皇没後750年祭を記念し、木の殿を再現すべく建てられた「擬古堂」もあった。
案内には「保元元(1156)年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと配流され、長寛2(1164)年、ここ鼓岡で四十五歳の生涯を終えます。
上皇が暮らしたところは御所(天皇が住む屋敷)であるにも関わらず、とても粗末な造りであったため「木の丸殿」と呼ばれ、上皇を慕って訪れた笛の師蓮如(結局上皇と会うことは叶いませんでした)にも次のように詠まれています。 朝倉や 木の丸殿に入りながら 君にしられで 帰る悲しさ
この建物は大正二(1913)年、崇徳上皇750年大祭が挙行された際に造られたものです。粗末だったとされる木の丸殿を偲び、その雰囲気を模して造られているため「擬古堂」という名称が与えられました。
また、『白峯寺縁起』によると、実際に上皇が暮らした木の丸殿は、上皇亡き後その菩提を弔うため、遠江阿闍梨章實という人物により御陵(上皇のお墓)近くに移され、これが今の頓証寺殿となったとされています」とあった。
御所としては粗末なのだろうが、田舎のどこにでもある民家といった風情。都に送った大部の写経をおこなったのもこの場所とのこと。大河ドラマでは、都に送ったものの、無残にもつき返され、怒りのあまり「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら憤死する、ということであるが、それはどうも、『保元物語』や『雨月物語』の筋書きのようであり、実際は、この地で穏やかな日々を送ったとの説もある。
「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」も、上皇の嘆きを察し、地元の人々がホトトギスの鳴き声が聞こえないように、追っ払っていた、とも伝わる。
また、木の丸殿は、その名の如く丸太で組まれた簡素な館との説とされるが、3年の歳月をかけたとの記録や古絵図にある上皇崩御後この御所を移した言われる頓証寺(白峰寺にある。現在のものは再建)の規模を示す古絵図などからして、立派な御所であったとの説もあるようだ。

ついでのことでもあるので、鼓岡神社の案内にもあった、付近の崇徳上皇の遺跡を巡る。


内裏泉
鼓岡神社北東端の四つ辻傍、擬古堂北側の斜面下に内裏泉(だいりせん)と称される水場がある。「内裏泉 木丸殿御井 崇徳上皇は長寛二年(1164)に崩御されるまで六年間、府中鼓ヶ岡の木ノ丸殿にお住いになられました。この泉はその頃に上皇の飲用に供された泉で、内裏泉と呼ばれ、地形上も谷筋に位置していることもあり、決して大旱魃にも枯れない泉であると伝えられています」とある。
この水で、目を洗うと目が悪くなる、との言い伝えがあるようだ。? チェックすると、高貴な人が飲んでいた水を大切に守るため、村人が意図して流した噂との記事もあった。
菊塚
内裏泉から開法寺方面に少し戻ると道に沿った民家敷地に「菊塚」がある。崇徳上皇の御子の墓と言う。崇徳上皇が雲井御所(後述)に居たとき、警護役の綾高遠(あやのたかとう)の息女との間になした男子。上皇の一字を与え顕末と称した、と。
椀塚
菊塚の先を右に折れると、道の左手、畑の中に「椀塚」がある。案内を簡単にまとめると、「讃岐配流となった崇徳上皇は松山の津という港に着船し、林田町にある仮の御所(雲井御所)で2年間過ごした後、国府に近い鼓岡の木の丸殿に移された。
国府の厳しい監視の中、人に会うことも、出歩くこともせず、淋しい日々の中この地で崩御し、白峯に祀られた。
この椀塚は、崇徳上皇が使用していた食器を埋めたとされる塚。年代不詳だが(?冢;わんづか))と刻まれた石が残る。
その真偽のほどは定かではないが、崇徳上皇の地域の与えた影響の程はわかる」といった案内があった。
松山の津
場所は県道161号・さぬき浜街道沿いにある。道は山稜の間をすり抜ける。道の左右の山は雄山(標高139m)と雌山(164m)。「松山の津」の案内は、その雄山を抜ける手前の道路脇にあった。案内には、崇徳院の讃岐配流までの経緯と、松山の津の説明がある。
「敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となり、ここ松山の津に着いたとされる。津とは港のことであり、当時の坂出地域の玄関口となる場所であった。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、この雄山のふもとも海であったと考えられる」、と。津=港ではあるが,松山は古くから条理制地割りの設けられているところで,海岸から府中の国府に至る重要な場所でもあったのだろう。
案内に「浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく 保元物語」の歌も添えられていた。讃岐に到着した崇徳上皇が都を恋しく思って詠んだ歌とされるが、江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」では、讃岐配流の後、写経に勤しんだ上皇が、せめてお経の筆跡だけでも京の都に置いて欲しいと朝廷に送った歌ともされる。上で鳥羽上皇の弔いのために送った写経が都で受け取りを拒まれ、崇徳院が激怒し怨霊したとメモしたが、その写経と関係があるのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
柳田の碑
県道33号のJA香川の国道を隔てた対面にある自動車整備工場(?)の裏手の予讃線の線路脇に「柳田」の碑がある。誠にささやかなこの石碑は、崇徳上皇暗殺説にまつわる地。讃州府誌にも長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたり(二条帝は讃岐の武士・三木近安(保)というものに命じて、崇徳上皇暗殺を計画した)と記されている。
その説によると、刺客の知らせを聞いた上皇は木の丸殿から綾川方面へと逃れる。川沿いには柳が立ち並んでおり、上皇は柳の根元の穴に隠れるも、衣が川面に映り刺客に誅せられた。以来、この地では柳が育たなくなったとか、刺客が白馬の馬に跨り紫の手綱であったことから、「紫」は禁色とされた、とか。
いつだったか白峰寺を訪れた時、白峯寺の幕には五色あったにもかかわらず、頓証寺殿の幕には紫と白が除かれ、三色の幕となっていた。この暗殺話と関係があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。因みに現在の綾川は当時の流路と変わっているので、柳田の碑と川筋が離れている。

讃岐国府跡
内裏泉まで戻り四つ辻を東に進む遍路道に戻る。予讃線手前、道の右手に「讃岐国司庁」の木標が立つ。国司庁とは国府の中枢施設。国司が政務を執る施設である。大化の改新後、国ごとに設けられた方5町の国府跡が残る。
国府印鑰明神遺跡
国府関連の遺跡と言えば、崇徳上皇の遺跡を求め柳田に向かう途中、水田の真ん中に石碑が見えた。柳田の碑かと思い、畦道を進むに、石碑には「国府印鑰明神遺跡」とある。
印鑰(いんやく)とは国庁の印鑑や鍵の保管庫こと。印鑑や鍵の重要性に鑑み、明神として祀り、関係役人のモチベーション高揚に役した。石碑の別面には、"府中邨奨學義田" と刻まれる、と。大正4、5年(1915,16)の頃、"奨学義会"という組織が、この周辺の民有地を買い上げ、遺跡として、当時の府中村に寄付した、ということである。
この国府印鑰明神遺跡に限らず、この辺りの本町には帳次(ちょうつぎ:諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ:書状を扱った所)、正倉(しょうそう:国庁の倉)、印鑰(いんやく:国庁の印鑑、鍵の保管所)、聖堂(せいどう:学問所)といった地名が残っている、との記事もあった。

綾坂橋西詰めの標石
予讃線、県道33号を横切り綾川に。綾川に架かる綾坂橋の西詰に標石が立つ。 「城山神社七丁 鼓岡神社五丁 国庁之跡 西四丁 綾坂橋架設記念 昭和十年」と刻まれる。
更に橋の少し上流に2基の標石が見える。手印と共に「左へん路道 是与国分寺十八丁」の遍路標識と「延喜式内明神大社 城山神社 是よ里西に御座 天保六」と刻まれる。

綾坂説教所跡
橋を渡ると道は緩やかな上りとなる。国道11号坂出丸亀バイパスに沿って上りつめたところでバイパスと最接近する。
道なりに下ると道の右手、民家の玄関前に綾坂説教所跡の石碑が立つ。 説教所とは一般的に言えば、宗教法人法に縛られることなく、一般の建物に仏像を安置し、定期あるいは随時に布教を行う場所とされるが、この綾坂説教所がどのような性格のものであったか不詳である。



国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石
説教所を後に東に下る遍路道は県道33号の北で左に折れ、国道11号坂出丸亀バイパスの高架下を潜る。国道の東側は細い急坂となる。坂を上り緩やかに下る道を少し進むと、道の左手に遍路墓と地蔵標石があった。
遍路墓には「四国遍路常次郎墓 安政五年」、地蔵の台座には「国分寺江五丁 天王江七十丁 文化九 世話人前谷講中」といった文字が刻まれる。

日向王の塚
北東に進む遍路道が県道33号に最接近するところに日向王の塚があった。松の木の下に小石が積まれているのがその塚のようだ。その名が刻まれた灯籠が傍に立つ。
『全讃史』に景行天皇の御代、南海に大魚があり船を呑み込むなどして人々を苦しめていたため、武穀王(たけかいおう)に命じて退治させた。
武穀王は讃留霊王(さるれおう)とも称され、讃岐の国造であったとも伝えられる。日向王は讃留霊王の七代目の子孫。古代に綾川流域を中心とした阿野郡に勢力を誇った綾氏の祖先とされる。この塚が王の墓跡とされる」とある。
この南海の悪魚、武穀王・讃留霊王は、折に触れて登場する。南海の悪魚とは海賊のことであろうか。その海賊を退治したのが景行天皇の御子である日本武尊の第五子である武穀王。武穀王は讃留霊王とも称されるとあるが、讃留霊王は景行天皇の御子である神櫛王ともある。はるか昔の伝説であろうから、どちらがどちらであっても門外漢にはかまわないが、ともあれその讃留霊王は讃岐国造の始祖であり、綾氏の祖先とするようだ。
で、讃留霊王って、讃岐に留まる霊なる王と読める。武穀王であれ、神櫛王であれ「讃岐に留まり国造の祖となったが故の讃留」か?と妄想したのだが、本居宣長はこの漢字は後世の当て字であり。「サルレ」の音のみが有意とするとある。妄想だった。


第八十番札所 国分寺

道なりに進むと四国霊場第八十番札所国分寺の仁王門前に着く。国分寺には一度訪れたことがあるのだが、記憶は薄れイメージしていた国分寺は、備中の国分寺ではあった。それはともあれ、結構な構えのお寺さまである。
仁王門脇の「縁起略記」によると、「天平13年(741)、聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により国ごとに建立された讃岐の国分寺(金光明四天王護国之寺)。創建当時は二町四方(東西3町、南北2町、とも)あり、南より南大門を入り、東に七重の塔、中央に中門・金堂、講堂などの諸堂があった。現在古義真言宗御室派の別格本山で四国第八十番の札所である」とのこと。
仁王門前の標石
仁王門前、左手に4基の標石が並ぶ。手前の摩耗激しい標石には「扁ん路道  是与り** 寛延元」といった文字が刻まれる。ついでちょっと縦長の標石には「是よ里白峯五十丁 一のミや七十五丁 文化八」、その隣は茂兵衛道標。「一之宮道 是ヨリ七十五丁 左高松 明治十九年」と刻まれる。茂兵衛88度目の四国霊場巡礼時のもの。四つめの標石は、仁王門前、左手に立つ常夜灯傍にあった。自然石の標石には「右一の宮」と刻まれていた。
一の宮
一の宮は第八十三番札所。ここで八十三番札所を案内するということは、七十九番札所から八十一番白峰寺、そして八十二番根香寺を討ち終え、八十番国分寺へと下り、八十三番一の宮寺へと辿る遍路が多くいた、ということだろう。この逆打ちの高屋口ルートは後述。
七重塔礎石
仁王門を潜り境内に。参道の左右に八十八ヶ所霊場の石仏が並ぶ。参道右手に千躰地蔵堂。その前に大きな礎石が並ぶ。仁王門前の案内にあった七重の塔跡。であろう。
境内にあった「国分寺由来」によれば、「創草寺の七重塔礎石。すべての国分寺は五重塔ではなく七重塔であった。この塔址は心礎(中心柱が乗る礎石)とともに合計17個の礎石があり、5間四方の塔で、京都の東寺の五重塔(高さ東洋一)以上の大塔であった」と。現在は礎石の上に鎌倉時代に造られた石造りの七重の塔が残る。
梵鐘
参道左手に鐘楼。当山創建当時、奈良朝鋳造の旧国宝・重要文化財との案内があった。歴史のある鐘だけに、その歴史に相応しい伝説・実説も伝わる。大蛇の伝説や高松城の時鐘がそれである。
大蛇の伝説とは、その昔讃岐のある淵に棲む大蛇が近隣の人々を苦しめていた。それを聞いた弓矢の名人が、国分寺の千手観音の御加護のもと鐘をかぶり、現れた大蛇を退治。その鐘は国分寺に奉納された、といった話である。
また、高松城の時鐘とは、国分寺の鐘の音が気に入った高松の城主生駒一正公が、田一町を寄進し、その代わりとして鐘を城内に運び時鐘にせんとした。が、その鐘は少しもならず、城下では怪異な出来事が起き、また殿様までが病にかかり、その夢枕に毎夜鐘が立ち「もとの国分にいぬ いぬ」と。
これは鐘の祟りかと、鐘を国分寺に戻すと元の平静な城下に戻った、といった話である。「鐘がものいうた 国分の鐘が 元の国分にいぬというた」。この歌はそのときつくられたもので、そのことを記した証文が残る、という。実説とされる所以である。
金堂礎石
正面に本堂。その手前、梵鐘の左手に閻魔堂、梵鐘と本堂の間に毘沙門堂が建つが、そのあたり一面に礎石が並ぶ。その数三十三個。その昔の金堂(本堂)跡である。「国分寺由来」には。「実測間口東西14間(1間=1.8m)。奥行(南北)7間の大堂」とあった。
本堂
池に架かる橋を渡ると本堂。創建当初の講堂跡に建てられたものであり、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。鎌倉中期の建築といわれ重要文化財に指定されている。本堂には本尊の千手観音が佇む。約5m、欅材の一本造りの観音さまは重要文化財である。
大師堂
本堂前の池の脇には弁財天の小祠と七福神の石像が並ぶ。国分寺は「さぬき七福神」の中、弁財天を主尊としている。願かけ金箔大師像にお参りし、右手に進むと大師堂と納経所があった。多宝塔のような二重の塔が大師堂、手前の建物が納経所。堂の前には千体地蔵が群立する。

国家鎮護、社会の安定を祈願し建立された国分寺ではあるが、古代律令国家体制の崩壊とともに、国家による管理・庇護が受けられなくなり衰退する。そしてその中興の祖が弘法大師空海とも伝わる。弘仁年間(810-824)に弘法大師が訪れ、行基作の5・3mの大立像(本尊)を補修した、と。
しかしながら、中興された堂宇も、天正年間(1573-1592)、土佐の長曽我元親軍の兵火に晒され、本堂と鐘楼だけを残し全て焼失。慶長年間(1579~1614)、讃岐国主である生駒一正によって再興され、江戸時代には、高松藩主松平家代々によって庇護された、とのことである。


国分寺より八十一番札所白峰寺登山口までの遍路道


国分寺を討ち終えれば次は八十一番札所白峰寺。何度かメモしたように国分寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺は既に歩き終えている。国分寺から北に進み一本峠への急登を上っていったわけだ。
国分寺から先はその時のメモに任せてもいいかとも思ったのだが、当時は「遍路歩き」といった想いはなく、山歩きの面白いコースとして弟にガイドしてもらったということもあり、標石を目安にした旧遍路道を捜し歩いたわけではない。
その時歩いたルートは国分寺仁王門前にあった「歩きへんろさんへ」に案内のある、仁王門から東に進み次いで北へと向かうコースであるが、遍路標石は逆方向、西に少し戻りそれから北に進むルートに残っているとのこと。
どうせのことなら、白峰寺への登山口までは標石の残る旧遍路道をトレースし、そこから先は、既に歩き終えたメモに託すことにする。

築地塀に沿って北に
仁王門から少し西に戻ると直ぐに理髪店があり、その手前に北に進む細路がある。理髪店手前を右に折れ、復元された国分寺の築地塀に沿って進む。




地神と二丁標石
田圃の中を進むと緑に茂る木立が前面に見える。その木立の下は塚状となっており地神の小祠と舟形地蔵、そして石仏があった。舟形地蔵は標石となっており、「二丁目」と刻まれる。


三丁目標石
二丁目標石を右に折れ、田圃の畦道を進み、用水路を渡ったところに舟形地蔵。標石となっており、「三丁目」と刻まれる。








四丁目標石
用水路に沿って先に進む。ほどなく用水路から離れ左に弧を描く道の先に車道が見える。遍路道は車道に出ることなく先に進む。と、水路に沿った道端に舟形地蔵。「四丁目」と刻まれる標石となっている。





3基の標石
遍路道はT字路に当たる。左に折れ車道に出ると、その四つ辻の少し南に3基の標石が並ぶ。「五丁目」「*丁目」、手印と共に「へん***」といった文字が刻まれる。道路整備の折、どこからか移されたものだろう。






六丁標石
四つ辻からほんの少し北に車道を進むと、道の右手に舟形地蔵。「六丁目」と刻まれる。





神崎池
車道を進むと神崎池。「四国のみち」の木標に従い、遍路道はここで右に折れ、この池の南堤を東に向かう。








神崎池東の標石
神崎池の土手を東に進み、集落に入る。途中、国分寺仁王門から東に進んだ後北へと向かう遍路道とT字路で合流。そこから少し東に進みT字路角に標石。「扁ん路道」と刻まれる


一本松峠への登山口に
遍路道はここを左に折れ登山口へと向かう。しばらく歩き、墓地の辺りで舗装が切れ一本松への山道となる。ここから先はいつだったか歩いた散歩のメモに任す。



もうひとつの遍路道
神崎池を左に折れて一本松経由の遍路道に進むルートとは別に、神崎池の西側に標石が続く。ここから北に進み国分台の中央を直登し白峰へと進む遍路道もあったようだ。
2基の標石
車道を少し北に進むと2基の標石が立つ。手印と共に「右へんろ道」と刻まれた標石と、「八丁目」と刻まれた舟形地蔵標石。遍路道はここで車道を離れ、田圃の中を進む。





九丁目
田圃の畦道に小さな覆屋のついた舟形地蔵。「九丁目」と刻まれる。







十丁目
舗装された道に出る。少し左に北に進む道。その角に「十丁目」と刻まれた舟形地蔵と手印と共に「へんろ道」と刻まれる。
比較的新し目の石柱。「新へんろ道 (四国のみち)へ」とあり、手印は東を指す。




十一丁目
北へと国分台へと進む道の右手に十一丁目と刻まれた舟形標石。標石はこれで終わる。昔はここから白峰へと這い上がる遍路道もあったのだろう。