土曜日, 11月 26, 2022

伊予 大洲街道散歩 その②;郡中から犬寄峠を越え、伊予中山駅まで

大洲街道散歩の2回目は郡中よりはじめJR予讃線・伊予中山までをトレースする。距離は17キロほどだろうか。当初通常の如く車を適宜デポしピストンで戻る、それを繰り返し進もうと思っていたのだが、このルートに沿って予讃線が走る。ピストンの繰り返しをしなくてもよさそうだ。 で、ルーティング。当初予讃線伊予市駅に車をデポし犬寄峠を越え、伊予中山まであるこうか、などと思ったのだが、その距離18キロほど。途中今回の眼目でもある犬寄峠越えがある。比高差はないが、藪漕ぎになるかも?また、その先中山までの間に愛媛県歴史の道調査報告書 大洲道」のルート図に「破線」で描かれた箇所が数か所ある。山際や川沿いのルートであり、道に迷ってもエスケープできそうだが、犬寄峠越えもそうだが、藪漕ぎとなれば厄介だ。日没までに伊予中山駅まで着けるかどうかちょっと心配。
ということで、今回は郡中の伊予市駅のひとつ先、伊予大平駅までは車で道をトレースし、伊予大平駅に車をデポし、11キロほどを歩き伊予中山駅まで進み、そこから列車でデポ地の伊予大平駅まで戻ることにした。列車は1時間に一本走っているので気持ちは楽だ。
で、結果は、郡中から伊予大平駅までの道をトレースし、伊予大平駅から歩き始めたのが午前9時。伊予大平駅着が午後3時。歩きでおおよそ6時間かかったことになる。その因は犬寄峠越えの猛烈な藪。比高差は200mほどであり、どうということはないのだが、藪漕ぎに疲れ、沢に入り込み沢筋を犬寄峠方面へと辿った。
また、犬寄峠を越えた先、中山川沿いの土佐街道ルート破線部も強烈な竹藪。これも竹藪と格闘するのに疲れ果て、中山川にエスケープ。浅瀬を渡り県道に出て伊予中山駅へと向かった。 これで伊予中山駅到着が午後3時頃。当初の目論見であった伊予市駅から歩いていたら、日没になったことは間違いない。ルート傍には県道が走っており日没となったとしても、山中ビバークといった為体になることはなかっただろうが、伊予大平駅からの歩きスタートにしてよかったとしみじみ思う。安全第一を肝に命じる。
ともあれ、メモを始める。


本日のルート;伊予市米湊に入る>国道378号の五差路に標石>伊予市三島町の町並みを進む>伊予市市場の茶堂>六十六部供養塔>三叉路に金毘羅標石>溜池堤下に金毘羅標石>常夜灯と一字一石供養塔>市場かわらがはな古代窯跡>>馬渡橋で森川を渡り国道56号に出る>閻魔堂と地蔵堂>石原集落の石造物>>JR四国・伊予大平駅>県道225号交差部に石仏2基>犬寄トンネル入口>犬寄峠道始点>簡易舗装の道を進む>藪に阻まれ沢筋に入る>沢筋右手に廃屋>舗装道に出る>旧国道三叉路に>犬寄集落四つ辻の標石>犬寄集落のの大師堂>>県道221号の切通しの先で旧道に逸れる>山吹御前神社・五輪塔>県道221号と225号分岐点に標石>影浦橋手前に金毘羅標石>舗装道を逸れ草道に入る>佐礼谷クリーンセンター>大師堂の先から崖道に入る>途中で撤退。中山川の浅瀬を渡り県道225号に出る>榎集会所>大師堂前を下り国道56号に出る>町道高岡線入口(大洲街道入口)>JR四国予讃線・伊予中山駅


国土地理院地図

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伊予市米湊
米湊の花かつお工場
道を南下し法昌寺を越えると湊町・灘町を離れ米湊地区に入る。現在の地名、伊予市米湊の地域は広い。郡中三町と言われた湊町、灘町、三島町も米湊村から別れたものである。
それはともあれ、道の左手に「マルトモ」、「ヤマキ」の工場が建つ。共に「花かつお」で知られる。平成31年・令和元年(2019)の農水省の調査では鰹削り節の全国生産量の30%が愛媛産とのこと。伊伊予市の「マルトモ」、「ヤマキ」に「ヤマニ(現ベストプラネット)」を加えた三社がその主なものだろう。
が、鰹もとれないこの地で何故に鰹削りが盛んになった?。チェックすると『郡中町屋物語;アトラス出版』に以下のような記述があった。
「当初「郡中花かつお」の名で売られていたのは、ほとんどが宇和海や九州のアジ、サバ、ソウダガツオのほか、このあたりで豊富に獲れるイワシを原料にしたものだった。昭和四十三年に原料名の表示が義務づけられ、JAS (日本農林規格) 規定で「花かつお」の名が許されるのは本カツオとソウダガツオだけになり、本物のカツオが削り節の主流になっていったが、最初はカツオ以外の魚が花かつおの名で売られていたからである」とある。
同書には「花かつお」とはいうものの、元は鰹ではなかったということだ。「伊予市で最初に削り節をはじめたのはヤマニの岡部仁左衛門。削り節機をつくり大正5年に創業。翌年には城戸豊吉がヤマキを創業、その翌年の大正7年にはマルトモを明関友市が創業した」とある。原材料はともかく、花のように薄い「鰹」の削り節の技術がこの地で蓄積され現在に至るのだろう。
また同書には伊予市で花かつお生産が盛んに行われた因として「第二は流通の便。海陸ともに輸送機関に恵まれていた。第三の要因は雨が少なく乾燥している瀬戸内の気候。冷蔵庫のない時代、原材料の貯蔵にはこの天候が大きく寄与した」と言う。米湊の地名が示す通り、この地は往昔、米の積み出し湊でもあったのだろう。
また「当初、伊予市には15,6もの削り節屋があったが、経営努力により上述三社が抜けだし、昭和40年代、小袋に入れるカツオパックの開発、また窒素ガスを充填したポリ袋の開発、小袋に細かく切り刻んだ花かつおを入れた「カツオパック」の開発といった容器革命により商いを飛躍的に増大し全国への販路を拡大することになった(『郡中町屋物語』)」と記されていた。

国道378号の五差路に標石
マルトモ、ヤマキの工場前を越えるとほどなく四差路。そこを左に折れ南下すると国道378号にあたる。そこは五差路となっており、国道の南側に標石が建つ。「昭和御大典記念建立」とあるこの石柱は標石となっており、「右カミナダエ三リ ナガハマエ七リ」「左ナカヤマエ五リ ヲオズエ十一リ」と刻まれる。指示に従い二つに別れる左側の道を進む。

三島町の町並みを進む
金子天神社
JR 四国予讃線の踏切を渡り伊予市三島町の町並みの中を進む。大洲街道の東西の町並み部をカバーする狭い町域となっている。三これが湊町、灘町と共に郡中三町のひとつとされる町なのだろうか。元は灘町と同じく米湊村の分村であり、愛媛県生涯教育センターの「えひめの記憶」には「三嶋町 米湊村のうちで、笹原で人家もまばらのところであったが、一六三九(寛永一六)年天神社祭札の市を許されて町形になり、町号は三嶋町、御免地となった。商札九枚を与えられ、うち二枚は町並尾崎へ下付された。藩主泰興が鷹野の節、失われた鷹が、代官高橋作兵衛の天神若宮社祈願によって、泰興の手にもどってきたので、大いに嘉賞、市を許されたことが繁盛の基であるという」とある。この天神社って伊予市三島町にある金子天神社のことのようだ。境内摂社に若宮神社も祀られている。
また、三島は陶器つくりが盛んでそのピークは第一次世界大戦の終わりの頃、15軒ほどの窯元があった、とのこと。東の稲荷地区に良質の粘土があったため、と(『灘町町屋物語』)。

伊予市市場の茶堂
三島の町並みをぬけた大洲街道は国道56号をクロスし伊予市市場に入る。この市場も三島町の三島焼と同じく市場焼きと称される陶器づくりが盛んであったよう。江戸の頃はじめられたと言う。 国道をクロスした大洲街道は南西に進む道に入る。ほどなく道の左手に木造りのお堂建つ。茶堂といった記事もあるが、スペースも憩いの場としての茶堂というほどの大きさはなく、なんとなく地蔵堂といった雰囲気。最近建て替えられたような趣ではある。
茶堂
「茶堂」とは、かつて村の境や峠に設置された小さなお堂で、建物の三面に壁がなく、村人の憩いの場、また旅人にお接待を供するお堂。

六十六部供養塔
直ぐ先、これも道の左手に小祠と石柱。石柱には「奉納大乗妙典日本廻国六十六部供養塔」の文字が刻まれる。六十六部供養塔である。
六十六部供養塔
六十六部とは法華経を書写し全国六十六ヶ国の霊場にお経を1部ずつ奉経する巡礼行者のこと。六部または廻国聖とも称された。鎌倉末期から室町時代にかけ経蔵に奉納されたり、土中に埋納された事例が確認されている。
六十六部巡礼が盛んになったのは江戸期、18世紀前半以降とされる。江戸期は幕府の寺請制度により原則自由な往来は禁止されたが、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂など特定の会所のの支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ていたようである。
この時期には六十六カ国を廻ることは多くなく、実際は西国巡礼や国分寺などを訪れたようであり、また、中世のような経筒を奉納する事例は、近世ではほとんど見られることはなく、それにかわって、行者に結縁したことを記念するための、石造供養塔を建立することが行われたとのことである。

三叉路に金毘羅標石
道なりに進み松山自動車道へのアプローチ高架下を潜り直進。ほどなく三叉路に金毘羅標石。「左金毘羅道 右谷上山道」と刻まれる。金毘羅道は今辿った道筋。谷上山道は三叉路を左にヘアピン状に折り返し北東に進む。標高455mの谷上山(たがみさん)の山麓に宝球寺、山裾に福田寺といったお寺が見える。そのお寺様への道案内なのだろうか。

溜池堤下に金毘羅標石
直ぐ先、溜池の堤の南西端下に金毘羅標石。「金毘羅大門ヨリ十二リ」と刻まれる。久万高原町の松山街道(土佐街道)を辿った折にも金毘羅標石が建っていた。往昔の金毘羅さんへの巡礼の人気のほどが偲ばれる。

常夜灯と一字一石供養塔
金毘羅標石の先、左手に常夜灯と石柱。常夜灯には「大神宮」、「本村安全」の文字が刻まれる。本村はこのあたりの地区名、大神宮とあるのは金毘羅大神宮のことだろうか。
その右隣の石柱には「奉納大乗妙典一石一字塔」の文字が刻まれる。一字一石供養塔である。
一字一石供養塔
「コトバンク」」には、「経典を小石に1字ずつ書写したもの。追善,供養などのために地中に埋め,その上に年月日,目的などを記した石塔の類を建てることが多い。江戸時代に盛行した」とある。

市場かわらがはな古代窯跡
窯跡上り口
一字一石供養塔より少し先に進み左に逸れる道に入る。溜池堤下を進み山裾手前で右折し、松山自動車道に沿って南西に向かう。道が旧国道に合流する手前、山側に案内板が建つ。
「市場かわらがはな古代窯跡群 愛媛県指定文化財 史跡 昭和四十三年三月八日指定
市場かわらがはな古代窯跡群は、伊予市市場の通称「かわらがはな」といわれる山腹の自然の傾斜地を利用して造られた古代の登り窯である。窯跡は十数基確認されているが、そのうち約七メートルの三基の窯が調査され公開されている。
構造はいずれも有段の半地下形式の登り窯で、それぞれに燃焼部・焼成部・煙道部がある。三基とも天井部がほぼ残っており、古代の登り窯で天井部が残っているのは珍しいとされている。伊予市教育委員会」とある。
案内板傍の登り口から窯跡に。崖の斜面に大きな穴が開いている。
ここにも案内板があり、「市場かわらがはな古代窯跡群 窯は自然の傾斜を利用し、燃焼室・焼成室・煙道部からなる。天井及び側壁は、ガラス状のコバルト色をしているが、小石まじりの焼粘土塊である。
南端の一号窯は、燃焼部の奥行一・五メートル、幅一・三ニメートル、天井部までの高さ一・五メートルである。焼成部は四十二~四十八度の傾斜に八段の階段がつけられ、段の横幅は一段目は一・五五めーつる、八段目は〇・七五メートルの隧道型をしており、窯の内部高は、中央部で〇・八メートル、窯尻は〇・五メートルとなっている。
出土した瓦は軒丸瓦・軒平瓦で、ともに重弧文が施されている。また、須恵器・土師器も出土している。築造年代は八世紀前半と推定されている。 伊予市教育会」とあった。 重弧文とは半円形またはカーブを描く線を何本も重ねた模様とのこと。門外漢にはよくわからないので、この辺りで思考停止としておく。

馬渡橋で森川を渡り国道56号に出る
馬渡橋
国道出口。閻魔堂が見える
市場かわらがはな古代窯跡群を離れると直ぐに旧国道に合流。道なりに進むと国道56号に出る。少し国道を進み下片山集会所のところで左に逸れる道に入る。道なりに進みJR四国予讃線の高架を潜ると大平橋。大洲街道は大平橋を渡ることなく森川右岸を進み、ひとつ上流の馬渡橋を渡る。 橋を渡ると今度は森川左岸に沿って少し進み国道56号に出る。
JR四国・予讃線
市場かわらがはな古代窯跡群を離れ直ぐに旧国道に合流する直ぐ西側、jR予讃線・向井原駅を出た鉄路はふたつに別れる。右に曲がり海沿いを進む海岸周りの路線が本来の予讃線。左に折れ森川の谷筋を進み犬寄峠のトンネルを抜け内子に向かうのが新線路。昭和10年(1935)に大洲まで開通した海岸周りの本線は地滑り地帯ということもあり、そのバイパス路線として昭和61年(1986)に犬寄峠下をトンネルで穿ち向井原駅から内子駅まで建設されたのが左に進む新路線・バイパス路線である。予讃線の特急列車はこのバイパス路線を走るが、この路線は支線。本線は海周り路線となっている。 昭和61年(1986)に開通した支線は向井原駅と内子駅、その先新谷駅と大洲駅となっており、内子駅と新谷駅の間は内子線で結ばれている。
〇内子線は大正9年(1920)海岸周りの長浜駅大洲駅を結んだ愛媛鉄道の支線として開通。元は現在の若宮信号所(現在の海周りの路線とバイパス路線が合流する辺り)と内子を繋いだ。昭和8(1933)年、愛媛鉄道が国有化され愛媛線となり、支線分岐点も海岸周り路線の五郎駅となり、名称も内子線となった。
昭和61年(1986)、上述の新路線・バイパス路線開通にともない、内子線は内子と新谷を結ぶルートとして旧路線の改修工事を行い、五郎駅から新谷駅、またその先曲線緩和工事によって内子線と切り離された旧路線は廃線跡となって今に残る。

閻魔堂と地蔵堂
閻魔堂
堂内の閻魔さまと十王
国道56号に出ると右手山側にお堂が見える。閉ざされた戸の奥に閻魔さまと十王が並ぶ。その左手に2基の地蔵尊が並ぶ地蔵堂と、その外側にも石仏が佇む。
『愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道』にある大洲街道は、この閻魔堂の辺りから山側を進んでいたとの推定ルートが破線で示され、石原集落手前で実線に変わる。それほど破線部の距離もないようであり、どこかアプローチ口はないものかとあ、あたりを彷徨ったのだが、それらしきアプローチ口は見つからない。進むとすれば力任せの藪漕ぎしかないようにも思える。この先犬寄峠越えが待ち受けており、どの程度時間がかかるかもわからない。ために、藪漕ぎとなりそうなこの区間に時間を使うことをやめ、おとなしく国道56号を歩くことにした。何となく心残り。
閻魔さまと地蔵尊
地蔵堂
地蔵堂脇の地蔵尊。アプローチ口はない
Wikipediaには「『十王経』等においては地蔵菩薩と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされている。後に閻魔の本地とされる地蔵菩薩は奈良時代には『地蔵十輪経』によって伝来していたが、現世利益優先の当時の世相のもとでは普及しなかった。平安時代になって末法思想が蔓延するにしたがい源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には預修十王生七経から更なる偽経の『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が生み出された。これにより閻魔の本地が地蔵菩薩であるといわれ(ここから、一部で言われている閻魔と地蔵とを同一の尊格と考える説が派生した)、閻魔王のみならず十王信仰も普及するようになった。本地である地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来るとされる」とある。
石造層塔
閻魔堂より少し北に戻ったところに石造層塔と地図に示される。お堂の傍の案内に「愛媛県指定文化財 有形文化財(石像美術)石造層塔
高さ三・三m。凝灰岩(ぎょうかいがん)製五重の層塔で、造立当時は七重の層塔であったと思われる。
軸部四面には雄渾(ゆうこん)な筆文字で金胎両部(こんたいりょうぶ)の種子梵字(しゅしぼんじ)・弥陀三尊(みださんぞん)・釈迦三尊(しょかさんぞん)はじめ計十二の梵字が刻まれている。さらに軸部背面には造立の紀年銘が次のように刻まれている。(……真為……建治三年丁丑八) 願主の意趣等は石質が風化しているため読みとることができない。
建治二年(一二七六年)の紀年銘を有する地方色豊かな鎌倉時代の遺品である。同じ年紀銘は、廃寺多喜寺跡の五輪塔残欠にも残っている」とある。

大平集落の石造物
大平集落の大洲街道出口
大洲街道沿いの石造物
国道を進み『愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道』にある大洲街道の破線推定ルートが国道に出る大平集落の辺りに山側から国道に下りる道筋が地図に描かれている。なんとなく『愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道』に描かれた実線部と重なるように見える。ちょっとチェックするため国道から農道といった趣の道を進むと重ねられた丸い石と、その横に2基の石柱が並ぶ。石柱の文字は読めない。『愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道』には茶屋跡・五輪塔とされていた。重ねられた丸石は五輪塔の名残りなのだろうか。はっきりしない。

JR四国・伊予大平駅;午前9時5分
地蔵堂
山側から国道に出る道を下り、国道をクロスし左に逸れる道に入る。途中道の右手に地蔵堂を見遣り森川に架かる橋を渡りJR伊予大平駅に。本日は大平駅に車をデポし、JR四国・伊予中山駅までおおよそ12キロほど歩き、そこから列車で伊予大平駅まで戻ることにする。列車の時刻も1時間に1本ほどあり気持ちは楽だ。準備を整え午前9時過ぎに伊予大平駅から歩き始める。


県道225号交差部に石仏2基;午前9時16分
県道53号大平砥部線を南に進むと直ぐ向井原駅と内子駅を結ぶ予讃線支線の高架。高架を潜ると直ぐ県道53号を逸れ南への道に入る。しばらく進むと県道225号中山伊予線にあたる。合流点の対面、県道225号より左に逸れる道の角に2基の石仏が立つ。
県道53号大平砥部線
森川に架かる橋西詰を南に進む道は県道53号。大平より山越えし伊予市砥部町に至る。

JR予讃線支線・犬寄トンネル入口:;午前9時27分
県道225号の一筋東の道をしばらく進むと再び県道225号に合流。大洲街道は県道を少し進むが直ぐ南に逸れる道に入る。
道の左手の上には国道56号、掘割状のところにはJRが走る。道なりに進むとJRの犬寄トンネルの入口(起点に近いほうを入口、と言うようだ)の上に乗る。
犬寄トンネル
犬寄トンネルは全長6,021m。四国最長の鉄道トンネル。 昭和61年(1986年)の向井原駅 – 内子駅間の支線開業に合わせて建設された。

犬寄峠道
  

犬寄峠道始点:午前9時38分
森川支流の右岸を進み、尾中左岸に渡り道なりに進むと道がヘアピン状に曲がる箇所があり、そこから右に逸れる道がある。大洲街道は右に逸れる道に入る。分岐点には「新海農道竣工記念」と刻まれた石碑が立つ。

簡易舗装の道を進む; 午前9時40分
森川支流というか沢の左岸に沿って簡易舗装の道を進む。数分で右岸に移る(午前9時40分)。その先も苔に覆われるが舗装道された道が続く。この間、下を向いてあるいていたのだろう、この沢筋を跨ぐ国道56号犬寄大橋を見逃した。

藪に阻まれ沢筋に入る; 午前10時9分
道は藪に阻まれる
沢筋にエスケープ
右岸に渡って数分(午前9時48分)道は藪で行く手を阻まれる。草藪を分け入り先に進むが、立木の藪となり、少々格闘したのだが、どうにもこうにも勘弁してほしいといったありさまとなり、沢筋に下りて先に進むことにした。「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」にあったルートも沢筋を進んでいたようであり、あたらずといえども遠からずの大洲街道トレースと自分を納得させる。

沢筋右手に廃屋;午前10時15分
沢右手に廃屋
沢筋も藪が激しい
藪ほと激しくはないが、それでも倒れた立木が行く手を阻む沢筋を先に進むと沢の両岸がコンクリート護岸壁となり、右手を見ると廃屋が見える。廃屋があるということは、そこに通じる道があるだろうとコンクリート壁を攀じ登る。推定どおり廃屋前には沢にそって簡易舗装の道があった。

簡易舗装の坂道を上る;午前10時21分
簡易舗装の道を辿る。数分で2軒目の廃屋(午前10時19分)。その先、道は沢筋を離れ右に曲がり竹藪の中の坂道を上る。



舗装道に出る;午前10時34分
舗装道への出口は草で覆われている
電柱横で舗装道に出る
比高差30m強の坂道を上り切ると舗装道路に出る。草に覆われた簡易舗装道の出口横には電信柱が立っていた。
出口の場所の道を東に進めば国道56号、西に進めば旧国道に出る。藪漕ぎで疲れた体を癒すべくここで小休止。

舗装道を逸れ、小径を上り杉林に入る;午前10時48分
舗装道より右側の坂道を進む
道を進み杉林に入る
小休止の後、沢筋より舗装道に出た直ぐ東、山側を上る坂道に入る。左手には国道56号を見遣りながら坂道を上ると杉林に入る。杉林の中、比高差40mほどは等高線にほぼ垂直に上ることになる。 

旧国道三叉路に;午前10時57分
杉林を抜けると
旧国道三叉路に出る
舗装道から道を上ること10分強、杉林を抜けると前方にガードレールが見えてくる。上り切ったところは旧国道56号。三叉路というか旧カーブで曲がる旧国道先端部より東に向かう道が伸びる角に標識が立ち、方向を示す矢印と供に「赤海・平岡 / R56 / 中山・佐礼谷R56」の文字が記される。
「赤海(あかさこ)・平岡」は旧国道を離れ東に向かう道。「R56」は旧国道を西へと向かう方向。曲がりくねった旧国道を下り、犬寄大橋辺りで合流する国道56号への案内だろう。 「中山・佐礼谷R56」は旧国道を南へと進み犬寄隧道を抜けてきた国道56号に合流する道を示す。
旧国道56号
「えひめの記憶」をもとにまとめると、「藩政時代の大洲街道の難所の一つが犬寄越えであった。伊予市大平付近より谷筋を通り峠までかけ上がる急坂を解消するため、明治二三年に改修が計画され、松山より工事が行われたが、海岸筋の村から道路を海岸回りにするよう要望が出されたため一時中止になった。しかし、工事が再開され、明治三六年頃、郡中より犬寄峠までの新道建設が完了した。 続いて同三九年(一九〇六)には中山村・出淵村を新道が通過した。郡中から峠にいたる新道は緩やかな坂とはなったが、屈曲が大変多く、通称「ぜんまい道」と称されていた。
昭和二八年に二級国道松山―高知線と認定されたが、同四〇年には一般国道五六号となっている。犬寄峠周辺の本格的改築は昭和四二年より始まり、犬寄隧道(748.5m)、東峰隧道(105m)、犬寄大橋(105m)などが建設され、昔の難所も一変した」とある。
「中山村・出淵村を新道が通過した」との記述は、犬寄峠より先も中山村のあった辺りまで道がでいたといことだろう。中山村は元喜多郡、出淵村は元下浮穴郡。位置的には下浮穴郡が北で、喜多郡が南。共に後年合併し佐礼谷村とともに中山町となったが、役所は出淵地区にあったというから、犬寄峠を越え、出淵村から中山村へと中山川の谷筋へと続く道が開かれたということではないかと想う。

犬寄集落四つ辻の標石;午前11時10分
標識「中山・佐礼谷R56」の示矢印方向に従い道を南に進むと犬寄の集落に入る。明治の道建設の折に山地を削り切通しとなった集落の道を進むと四つ辻に標石が立ち、「郡中町へ三里七丁 右中山町ヘ一里三十一丁 左佐礼谷役場へ二十五丁」と刻まれる。
峠にこんな大きな集落があるのは珍しい。新たに国道が犬寄隧道を抜けるまで、この往還道は人や車の往来で賑わっていたのだろう。
犬寄峠
藩政時代の犬寄峠は、旧国道の切通部の西側、道より20m強高い所を抜けていたようだ。「えひめの記憶」には、「犬寄の地名は、昔この辺りに山犬が多く出没し、旅人を襲ったことに由来すると言う。松山から大洲に向かう飛脚が山犬に追われ松の木の上に逃げ登ったとか、畑野左衛門が山猫を退治したなどの伝説が今も語り伝えられている」とあった。
畑野左衛門が山猫を退治?犬と何の関係が?チェックすると、これは飛脚と山犬の話の後日談。飛脚の持つの柄にある鶏の目貫金具があら不思議、夜明けを告げる鶏の鳴き声を出し、それに驚いた山犬は退散し飛脚は難を逃れたわけだが、山犬が去り際「左衛門の女房の山猫がおったらなぁ」と言ったとか。左衛門とは猟師の畑野左衛門と言う(猟師に苗字?)。
この話を聞いた大洲の殿様は、左衛門に山猫である女房を撃つべしと。殿さまの命には逆らえず、殿様から下された八幡大菩薩の威が込められた最後の一発で仕留めたと。
なんだかよくわからない話ではあるが、お話はお話として聞いておくへき、か。
犬寄峠への沢筋の農道
集落で偶々出合った犬寄集落の方と話をしていると、犬寄峠へと上ってきた沢筋には簡易舗装された農道が沢筋を上り切ったところまで通っていたという。その方も数年前歩いたときは藪で難儀したという。犬寄峠への上り口にあった「新海農道」ってその沢筋に敷かれた農道のことなのだろうか。今回藪漕ぎで難儀したが、その農道に入ることができれば廃屋と繋がり、もっと容易に犬寄峠にあるけたのだろうか、単なる妄想。根拠なし。
またその方は昔、その農道を通り牛が行き来した、と。その昔、松山や郡中の農家が峠の南側の山間部の農家へ牛を預ける「里牛」とのことのようだ。この里牛は昭和40年代頃まで続いたという。最盛期には位置日に6、70頭の牛が預けられ、多い時には年に1000頭以上の牛が往来したとのことである。

犬寄集落の大師堂;午前11時16分
集落の道を進む
犬寄集落の大師堂
大洲街道は集落の四つ辻から切通部へと少し戻り、右手に上る坂道に入る。旧国道開削の折、山地が切り下げられ旧道が通る前は犬寄峠の鞍部からこの道へと抜けていたのかと妄想する。 坂道を上り集落を進むと道の左手に大師堂。一見無住の農家かとも思うのだが、奥まったところに祭壇らしきものが見える。
大師堂にお参りし、先に進むと立派な門構えのお屋敷。その前の舗装された細い道を進む。道の右下に旧国道らしき道筋を見遣りながら道を進み県道221号中山双海線に出る。

県道221号の切通しの先で旧道に逸れる;午前11時22分
県道切通しを越えた先で、右の小径に逸れる
川沿いの道は手摺もあり整備されていた

旧道は中山川水系の支流右岸を下る。川の東、県道225号中山伊予線を見遣りながら山吹の集落へと+南に進む。
中山川
愛媛県中西部を流れる川。肱川(ひじかわ)水系の一。伊予市中山町の階上(はじかみ)山(標高899メートル)に源を発して南流し、喜多郡内子町で肱川支流の小田川に合流する。

山吹御前神社・五輪塔;午前11時38分
20分ほど道を進み山吹の集落が切れた先に山吹御前と刻まれた鳥居が建つ。また、山吹御前の社の直ぐ北にある民家横の坂道を下ったところに五輪塔が立つ。山吹御前の墓と伝えられている。 山吹御前について、Wikipediaには「吹御前(やまぶきごぜん)は、平安時代末期の女性。源義仲の便女(召使)といわれている。
『平家物語』によると、巴御前と共に信濃国から京へと付き添ってきたが、義仲の敗北の際には病で動けなかったため同行できなかったとされ、名が出るのみで直接的には登場しない。また名が記されているのは軍記物語の『平家物語』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』にはその存在は確認されない。
『平家物語』でも語り本系のみに登場し、読み本系の「延慶本」や『源平盛衰記』には登場しない」とあるが、続けて山吹御前に関わる伝承として「愛媛県伊予市(旧双海町と旧中山町)にかけての一帯に、山吹に関する伝承がある。義仲が伊予守であったという事実から、山吹が伊予国まで逃避行し、双海町上灘の沿岸部に上陸し、上灘川に沿って東方向に移動する中で息を引き取り、中山町佐礼谷の山中に埋葬されたという内容である。
このルート上で、伊予市立翠小学校付近の大栄口から佐礼谷方面への上り坂は、病に倒れた山吹の屍を笹舟に乗せて引き上げたことから「曳き坂」という名前が残り、山吹の墓とされる五輪塔が残る集落は山吹集落という名前であり、山吹神社が鎮座する。佐礼谷には山吹集落の北側に「源氏」という名前の集落もある。また、伊予市立翠小学校付近の集落では、山吹が追手から見つかるのを防ぐため、幟を揚げることを控えたとされ、現在も住民は慣習として鯉のぼりを揚げない。同様の例は平家の落人の里にも散見される。
また、滋賀県大津市には、京洛より義仲を追って逢坂山を越え近江へ入ったところ、現在のJR大津駅の地にあった秋岸寺で敵刃に倒れたとの伝承がある。現在大津駅のそばに「山吹地蔵」の小祠がある。 山吹の供養塔と言われるものが、三条京阪駅南の旧有済小学校の敷地内にある。樹齢350年という椋の木の下に、五輪塔と石碑があり、「山吹御前供養塚」と読める」と記される。

人道橋を渡り県道に出る;午前11時42分
正面山吹神社。左手民家脇を下り人道橋を渡る
一筋北の橋を渡ると県道脇に標識が立つ
五輪塔の先に橋は無いため山吹御前神社前まで戻る。神社前から山際を道が続くが、「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」に記載の大洲街道の道筋は県道225号弘田双海線に出た後、破線で県道を南下するように記される。
神社の少し南の民家傍から坂道を下りると人道橋があり、そこから県道に出る。なお、その一筋北に山吹の集落から県道に出る橋が架かっており、県道合流点には「山吹神社 山吹御前の墓 3分」の標識が立つ。

県道221号と225号分岐点に標石;午後12時10分
左手一段高いところに観音堂
県道221号と225号分岐点に標石
県道を歩くこと10分ほど。道の左手一段高いところに建つ観音堂を見遣りながら県道221号中山伊予線と225号弘田双海線分岐点に。分岐点北側の民家のブロック塀の端に標石が立ち、「右中山 左みやもと」と刻まれる。大正年間に立てられたもの。「みやもと」がどこにあるのか特定できなかったが、県道225号を中山川支流に沿って東に進んだ辺りに宮本鉱山があった、との記事もある。位置的には合っている。
尚、山吹神社からこの標石まで時間がかかっているのは、五輪塔を探して山際の道を進んだり、折り返ししたりして時間がかかったため。実際は上述の如く10分程度の距離である。

影浦橋手前に金毘羅標石;午後12時15分
分岐点を右折し佐礼谷郵便局を左に見て道を進むと、県道から別れ中山川に架かる影浦橋がある。橋の手前に金毘羅標石があり、「金毘羅大門ヨリ三十四里」と記される。
愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」の大洲街道ルートは橋を渡り中山川右岸を進むと実線で記される。
佐礼谷
「えひめの記憶」には佐礼谷の由来として、「佐礼谷村 『佐礼谷村郷土誌』の記録、「峰の薬師の本堂の棟札」に拠れば「(前略)茲に到り必ず左顧して之に礼す。邑の名此に原すと云う」とあり、「左顧礼之邑」が転化して佐礼谷村となったといわれている。古い書物には左礼谷と出ている例もある。また、佐礼谷地区は、いったん村に入ると寺も社も左側に見えて、左に礼をすることになる。そこで佐礼谷の地名がついたという古老の話もある」とある。もっとも、佐礼は「され、ざれ」といったザレ場、即ち「崖崩、小石の多いところ」と地形由来との説もあるようだ。

舗装道を逸れ草道に入る;午後12時21分
中山浄水場
ここから草道に入る
橋を渡り舗装された道を進む。道の下には中山浄水場が見える。浄水場から5分ほど進むとガードレールに切れ目があり、舗装道から右下に逸れる土径がある。舗装道は山へと上っていくようにも思える。特段の標識もないのだが、ここを下に逸れるのが大洲街道であろうと舗装道を逸れて草道に入る。

土径を進む;午後12時30分
荒れてはいるがしっかり踏まれた道を進む。右手が開け田畑や集落の家が見え気持ち楽に進める。水路溝に沿って先に進むと道幅も広くなる。

佐礼谷クリーンセンター;午後12時36分
正面佐礼谷クリーンセンター
15分ほど歩くと大谷橋南詰のひらけた所に出る。そこに建屋があり、近づいて確認すると佐礼谷クリーンセンターとあった。ゴミ処分場といった雰囲気ではない。よくみると「農業集落排水事業 佐礼谷クリーンセンター」と記されていた。ここで小休止。
農業集落排水事業
「農業用用水の水質保全、施設の機能維持又は農村の生活環境の改善を図り、併せて、公共用水域の水質保全に寄与するため、農業集落におけるし尿、生活雑排水などの汚水や汚泥を処理する施設、または雨水を排水するための設備又は改築を行い、もって生産性の高い農業の実現と活力ある農村社会の形成に資することを目的としています」といった趣旨の説明があった。

大師堂の先から崖道に入る;午後12時50分
大師堂。その先アプローチ口が見つからない
仕方なく、竹藪の崖に入る
小休止の後、佐礼山クリーンセンター山側を上る坂道を進む。数分進むと道の右手に大師堂が建つ。大師堂の先で右に曲がると農具物置小屋がありその西側に続く細路に入り先に進むとそこには耕作地となっていた。
耕作地の先にアプローチ口を探すが入り込めそうな場所は見当たらない。唯一竹藪となっている急な崖面は何とか先に進めそう。「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」のルート図も大師堂先から川の右岸傍を「破線」で記される。ちょっと悩みながらも、取り合えず急斜面の崖道を進むことにした。

途中で撤退。中山川の浅瀬を渡り県道225号に出る:午後13時40分
踏み跡かと川筋まで出るが
その先は泥濘
竹が生い茂る急斜面を進む。どこかに踏み跡でもないものかと辺りに注意しながら進む。川傍に何となく踏まれた感のある箇所があり中山川傍まで崖面を下るが、踏み跡も一瞬で消え、その先は更に強烈な竹藪が行く手を遮る。

泥濘をぬけると今度は竹藪
撤退を決め県道にエスケープ
竹藪の枯れた竹を折り、踏みしだき先に進むが、旧跡があるわけでもなく、竹藪の藪漕ぎに疲れ果て、出口まで半分ほど残したところで藪漕ぎ撤退を決め、中山川の浅瀬を対岸に渡り県道225号に迂回することにした。
が、飛び石で浅瀬を渡ったのはいいのだが、石をコンクリートで埋めた川の護岸壁が予想外に高く、護岸壁を上がることができない。川床を彷徨い、コンクリートが剝がれ埋め石の上部が穴になったところを見つけ、そこを足がかりに力任せに護岸壁を這い上がり、田圃の畦道を通り県道に出た。 結論としてこの区間の破線部ルートには足を踏み入れないことをお勧めする。

榎集会所;午後14時5分
榎集会所
川筋から道が繋がる。大洲街道?
県道を進み「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」の大師堂から続く「破線」ルートの出口部となっている榎集会所に行ってみる。県道307号野中長沢線との合流点を左折し県道307号に乗り換え、長沢橋を渡りヘアピン状の坂道突端部内側に榎集会所。その突端部から県道を逸れ山に入る道がある。 破線ルートはこの道筋に出るのだろうか。
少し道に入って見ると、川筋側から道に繋がる土径がある。そこが破線部の出口なのか、それとも更に道を進んだところにあるのか、確認したいとは思うのだけど1時間近い急斜面の竹藪漕ぎに疲れ果て、その気力は残っていなかった。

大師堂前を下り国道56号に出る;午後14時22分
大師堂
榎集会所から国道56号へと進むと、国道合流点直ぐ手前に左に上る舗装された坂道があり、上り切ったところ、民家の庭先といったところに大師堂が建つ。大師堂の前の舗装道を下り国道56号に出る。
この辺り、地図に「榎峠」とあるが、峠といった雰囲気はない。「えひめの記憶」には「昔、大師堂の前が小さな峠となっていて、榎の大木が三本あったのでつけられた地名」とあった。大師堂前を抜け知らず峠を越えたということか。
  

町道高岡線入口(大洲街道入口);午後14時39分
大洲街道は右の町道に逸れる
山側は法面。森も深い。大洲街道はたいh
国道を進む。「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」のルート図には国道筋を進んだり、左に逸れたり、右に逸れたりしながら続いている。とはいうものの、左は中山川、右は山肌に法面工事が施されており、取り敢えず国道筋を進むことにした。
しばらく進むと「伊予大権現」の大きな看板とその傍から国道を右に逸れる道があり、「高岡方面入口」の標識も立つ。かつては伊予大権現の看板傍に巨大な観音像が建っていたようだが、現在は取り壊されたのか見ることはできなかった。
大洲街道は高岡方面と記された町道高岡線へと入り、途中から町道を逸れて杉木立の中を進むようだが、先ほどの藪漕ぎの記憶が未だ残り、史跡があればまだしも、再び藪漕ぎをする可能性もあろうかと思うし、また、県道は法面工事が行われており藪漕ぎからのエスケープも難しそうでもあり、今回はおとなしく国道筋を進むことにした。

JR四国予讃線・伊予中山駅:午後15時5分
国道を1キロほど進むと山側に戦捷記念碑(午後14時56分)。その先ほどなく道の左手に伊予中山駅。隣接する物産販売所で渇きを癒し、午後15時44分発、伊予市行きのワンマン列車を待ち、犬寄トンネルを抜け、車デポ地の伊予大平駅に戻り本日の散歩を終える。 次回は内子に向かおうと思う。