木曜日, 3月 30, 2006

中央区散歩 そのⅡ:月島から築地へ

(佃島・月島)から(明石町・築地)へ
下町散歩第二回は中央区の佃島・月島を巡り、隅田川にかかる勝鬨橋を渡って築地に戻る。江戸時代の絵図を見ると、霊岸島の南、隅田川の河口に小さな島・三角州がある。石川島、佃島と描いてある。住吉社を囲むほんの小さな島である。現在の月島あたりは何も無い。月島地区が埋め立てられたのは明治になってからのこと、である。
前回の散歩で、「江戸港(湊)発祥跡」に出合った。佃島の対岸の地である。このあたりは江戸期の海上交通の要衝であったのだろう。佃の漁師が、徳川家との結びつきの強さのゆえ、漁だけでなく、海上交通の「見張り」役でもあった、といった「それらしき」話も、妙に真実味を帯びてくる。ともあれ、散歩に出かける。



本日のルート:
中央大橋から佃島 ; 佃公園・「石川島人足寄場」・「石川島灯台跡」 ; 住吉神社 ; 佃の渡し跡 ; 佃大橋 > 月島西仲通の「もんじゃ焼き」 ; 勝鬨橋 ; (築地) ; 聖路加ガーデン ; アメリカ公使館跡 ; 明石町・「築地居留地跡」 ; 聖路加国際病院 ; 聖路加看護大 ; 中央区郷土資料館天文館 ; 慶應義塾開塾の地 ; 蘭学事始の地 ; シーボルト銅像 ; 築地川公園 ; 芥川龍之介生誕の地 ; 浅野内匠頭邸跡 ; 築地本願寺 ; 新大橋通り・晴海通り・築地4丁目 ; 晴海通り・「日比谷線東銀座駅」

中央大橋から佃島に
。中央大橋を渡り佃島に。現在このあたりは佃島、月島地区といった埋め立て地からなっている。おぼろげな記憶によれば中央大橋を渡ったあたりには昔、IHI石川島播磨重工業の工場があったような気がする。そのあたりには現在、大川端リバーサイドという高層マンション群が立っている。尾張屋版江戸切絵図と照らし合わせてみた。稲荷橋から続く鉄砲洲・船松町の沖合に石川島、佃島が描かれている。石川島は元々、鎧島と呼ばれていた。のちに佃島の一部になるが、幕府船手頭石川大隈守正次が徳川家光よりこの地を拝領し、石川島と呼ばれていた、とか。


佃公園に「石川島人足寄場」と「石川島灯台跡」

中央大橋を渡り大川端リバーサイド脇を右折、公園を隅田川に沿って歩く。佃公園に石川島灯台跡。1866(慶応2年)、人足寄場奉行の命により、人足たちの手でつくられた常夜灯。石川島人足寄場とは、江戸の無宿者を収容し職業訓練を行う更正施設。寛政2年というから1790年、長谷川平蔵の建言を入れ、老中・松平定信が設置したもの。収容人員は多いときで600名。大工、鍛冶などの訓練を受ける。労賃の3分の一は出所時に自立資金として積み立てられていた、とか。結構先進的。
長谷川平蔵って、『鬼平犯科帳』の鬼平。火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官。火付盗賊改とは町奉行から独立した警察組織。町奉行の管轄外である武家・寺社地や江戸市外に対して捜査権を持つ、一種の特捜隊といったところ。

住吉神社
佃公園を進む。きれいに整備された公園。昔の掘入といった雰囲気の水路,船溜り、というか溝渠にそって歩く。佃小橋を渡り、民家の軒先を進み住吉神社に。佃島は隅田川の河口にできた寄洲。江戸時代初期に、大阪・摂津西成郡佃島から漁民がこの地に移り住んだことからこの名がついた。
その由来についてもあれこれ諸説あり。で、住吉神社の由来書をメモすることにする。「神功皇后が三韓征伐よりの帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃)で住吉三神を奉斎された。これが大阪佃の田蓑神社の創祀である。天正14年(1586)、本能寺の変に際して、堺に滞在していた徳川家康は、摂津の多田の廟(池田市の多田神社)を参拝することを名目に三河への脱出を計った。この時、神埼川で進退が取れなくなった家康一行に対し、田蓑島の庄屋・森孫右衛門が漁師たちに声をかけて舟を集め、無事渡ることができた。これによって家康と田蓑島の漁民のつながりが深まり、家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた。
天正18年(1590)、家康が江戸に移った際、森孫右衛門を筆頭とする佃の漁民30余名と田蓑神社の神職・枚岡権太夫好次も江戸に移住した。さらに寛永 7年(1630)、幕府より鉄砲洲の向かいにある干潟を拝領して島を築いた。竣工したのは正保2年(1645)、故郷の名にちなんで佃島と名づけた。翌年、ここに鎮守として田蓑神社の御分霊と東照権現を奉斎したのが佃島の住吉神社の起こりである。佃島の漁民はもとより、海上安全の守護神として広く崇敬された。
中央区指定文化財の水盤舎は天保12年(1841)年に寄進されたもので、欄間には当時の佃島近辺の情景を描いた浮彫が配されている。また、正面の鳥居に掲げられた陶製の扁額は有栖川宮熾仁親王の書で、同じく区の文化財に指定されている」と。
家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた、とある。佃=人偏+田=人が田をつくる、ということ。埋め立てでも、開墾でも、ともあれ人が荒地を開いて田を作れ、ということ、か。この佃、って日本人がつくった漢字。言いえて妙なる造語である。
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佃の渡し跡堤防近くで「佃の渡し跡」らしき雰囲気を感じ、水路にもどり尾崎波除稲荷横を進む。こじんまりした神社。由来もない。波除稲荷って築地にもある。埋め立て工事が難航を極めていたとき、波間にお稲荷さんが。それをお祀りしたところ、波もぴたりとおさまった、とか。


月島西仲通の「もんじゃ焼き
佃大橋からの道筋を越え、商店街に。月島西仲通。右を見ても左を見ても「もんじゃ」。月島って明治から昭和にかけて埋め立てられた土地。隅田川が運んできた土砂の堆積により、このあたり一帯は浅瀬。船の運航もままならなくなっていった。築島=つきじま=月島、島を築く「築島」が「月島」となった理由ははっきりしない。が、宝井其角の句

「名月ここ住吉の佃島」にあるように、月見の名所であった、のであろうか。定かならず。
ちなみに、「もんじゃ焼き」って「文字焼き」からと言われる。鉄板の上に水で溶いた小麦粉で文字を書き遊びながら、親子団欒、といった風情である。真偽のほどは定かではないが、それはそれとしていい話。

勝鬨橋を渡り明石町・「築地居留地跡」に
月島川を越え晴海通りに。北に向かい隅田川にかかる勝鬨橋を渡り、橋西詰めに。勝鬨の由来は、明治・日露戦争の戦勝を祝った「勝鬨」から。昔は中央部分が開閉していた、とのことである。

晴海通りを右に折れ築地7丁目から明石町に入り聖路加ガーデンに。「築地居留地跡の碑」が。概略をメモする。「安政5年の日米修好条約の結果、江戸の地に外国人のための居留地をつくることを義務付けられた。幕府はこの地を居留地と定め明治元年、築地居留地が完成した。築地居留地は他の居留地とは異なり、商館はそれほど多くなく、公使館・領事館のほか宣教師・医師・教師といった智識人が多く住み協会や学校を開いて教育を行っていた。このため地雉居留地は日本の近代化に大きく影響を与えた地域となっていた」、と。
この地に、アメリカ公使館跡、立教学院発祥の地、女学院発祥の地、雙葉学園発祥の地、それからいまもこの地にある聖路加病院、といった施設のある・あった理由がやっとわかった。明治32年に条約改正とともに居留地は廃止された。ちなみに、太平洋戦争の東京空襲のときも、アメリカ聖公会・トライスターのつくった聖路加病院は爆撃目標からはずされていたとか、いないとか。聖路加ガーデンの東に塩瀬総本家。650年の歴史をもつ和菓子屋。

中央区郷土資料館天文館

聖路加看護大学の西にある中央区保健所等複合施設6階に中央区の郷土資料館天文館。中央区の埋め立ての歴史など結構参考になった。先にすすむと慶應義塾発祥の地、それと並んで「蘭学事始の碑」。この地はもと豊前中津藩奥平家の中屋敷があった。藩医前野良沢はこの屋敷内で『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳作業をおこなっていた。また、少し時代は下るが、中津藩士である福沢諭吉は、慶應義塾のはじまりである蘭学塾をこの地に開き、芝に移るまでここで講義をしていた。ちなみに地下鉄築地駅の近く、築地2丁目に甫州屋敷跡もある。蘭学医。前野良沢、杉田玄白とともに、『解体新書』の翻訳をおこなった。
築地川公園脇に「芥川龍之介生誕の地の碑」や「浅野内匠頭邸跡」
聖路加看護大学と築地川公園の隅に芥川龍之介生誕の地の碑。ちなみに、巣鴨の染井霊園近くの慈眼寺には芥川龍之介お墓があった。直ぐ横に「浅野内匠頭邸跡」播州赤穂藩・浅野家の江戸上屋敷跡。敷地面積は約2万9千があったという。元禄14年(1701)浅野内匠頭長矩の起こした松の廊下刃傷事件により、この江戸屋敷・領地は没収。赤穂藩浅野家は断絶となった。上屋敷とは、大名とその家族、および江戸詰めの家臣が住むところ。幕府から拝領の地である。中屋敷は嫡子および隠居、また参勤交代で江戸に出てきた家臣が住むところ。下屋敷は別邸であったり、畑地であったり、海岸近くでは荷揚地であったりした、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

築地川支流跡から晴海通り・「日比谷線東銀座駅」に
築地川公園沿って築地本願寺方面に。この川筋は築地川の支流。本流は現在では首都高速の走る道筋の上を三吉橋から南に、亀井橋、祝橋、万年橋、采女橋、千代橋、新尾張橋、そして南門橋で浜離宮公園の築地川の堀に。支流は三吉橋から東に築地橋、入船橋。入船橋で直角に曲がり、暁橋、境橋、そして築地本願寺裏手の備前橋へと続く。もちろん水など流れているわけではない。備前橋もほとんど駐車場といった場所ではある。
川筋が埋め立てられた時期はいくつかある、ひとつは戦災、空襲・爆撃跡の瓦礫の片付けに川筋を埋めた。もうひとつは、東京オリンピックの時期。土地買収が困難なため川筋を埋めその上に高速道路を通した。もちろん河川の汚れを『蓋』をすることによって解決しようとした時期。こういったものだろう。ともあれこの中央区の川筋、ほとんど埋め立てられている。上の三つのどれかにはあてはまる、かとも。
築地本願寺前の新大橋通を少し浜離宮方面に進み晴海通りとの交差点・築地4丁目に。交差点を右折し、晴海通りを銀座方面に進み日比谷線東銀座に到着。本日の散歩終了。中央区の散歩も後、日本橋地区を残すだけ。次回は萱場町から日本橋川を渡り、人形町・浜町・小伝馬町に進む。

火曜日, 3月 28, 2006

中央区散歩 そのⅠ:八丁堀から霊厳島

(八丁堀・湊)から(新川・霊厳島)へ
東京は山の手と下町に別れる。地形としては、山の手は武蔵野洪積台地、下町は沖積低地である。往古、下町の沖積低地はほとんどが葦の生い茂る低湿地である。江戸開幕の頃の海岸線は現在の総武線のあたり、と言われる。もう少々時代を遡り、室町の頃の古地図を見ると、海岸線は更に上がり、寺島(墨田区東向島)から平井を結んだ線である。つまりは、中央区とか江東区といったあたりは、海の中。台東区にしても、浅草近くの墨田川沿いの微高地を除けば一面の湿地帯である。
このような湿地帯が町屋に生まれ変わったのは、家康が江戸に幕府を開く頃から。天下普請とも呼ばれる一大開発事業・埋め立て事業を行い、宅地開発を進めたわけだ。堀を開削し、その残土を埋め立てに使う。小山を切り崩すといった、大工事も行っている。御茶ノ水の台地や浅草の待乳山を切り崩している。江戸の町が大きくなった後は、市中からでる塵芥をつかって埋め立て事業をおこなってもいる。なかなか面白い。

ということで、埋め立ての歴史をイメージしながら、東京下町低地を歩こうと思う。中央区からはじめる。中央区も当然のことながらほとんどが海の中。皇居のあたりまで日比谷の入り江が入り込んでいた、という。入り江の東には江戸前島という砂洲が東から西に広がっていた。神田あたりから新橋の手前まで延びていた、とも。その砂洲の外海側は現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりではないか、ということだ。
下町散歩の第一回は中央区の八丁堀・湊から新川・霊岸島を巡る。鈴木理生さんの『幻の江戸百円;筑摩書房』によれば、隅田川の中洲を埋め立て霊岸島ができたのが寛永元年(1624年)。八丁堀の埋め立ては、それより少し後。八丁の船入堀を開削し、日本橋川に沿った茅場町に堤を築き、周囲を囲んで埋め立てを行った、とのことである。中央区散歩は八丁堀からはじめる。理由は特に無い。たまたま休日、ある会合で八丁堀に行ったから、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




本日のルート: 八丁堀の与力・同心組屋敷 ;桜川公園 ;gt鉄砲洲稲荷神社 ;亀島川・南高橋 ;亀島川・高橋 ;亀島川・亀島橋 永代通り;亀島川 ; 豊海橋 ; 越前掘児童公園 ;「江戸港(湊)発祥跡」 ;亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」

地下鉄・八丁堀駅近くに「八丁堀の与力・同心組屋敷」
八丁堀地下鉄・八丁堀駅を降り鍛冶橋通りを銀座方面に少し戻ると京華スクエアがある。昔の小学校を生涯教育センターとして使っているよう。その入口わきに「八丁堀の与力・同心組屋敷」の案内。八丁堀といえば与力・同心の屋敷があったところ。案内板に目をやる;「江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に、江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は萱場町から八丁堀一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人からはじまってのち、南北町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300-500坪、同心は30俵二人扶持で100坪ほどの屋敷地でした、これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るために町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られている」、と。
大江戸の街の治安をこの程度の与力・同心で果たして護れるのかどうか、とはおもうのだが、町年寄りとか名主を中心とした自治組織が一方にあり、大概のことは自治組織内で解決するというか、事件など起こしにくい向こう三軒両隣の目があったのだろう。 そもそも八丁堀の名前の由来だが、八丁というから800mほどの水路・八丁堀舟入りがこの地にあったから。現在の八丁堀の北、高速道路、江戸川ランプから京橋ランプにかけて、昔は楓川(かえでがわ)の水路が通り、その水路に沿って10の船入掘がつくられていた。江戸城普請のための荷揚げ場であったわけだが、海防の意味もあってその南側に埋立地がつくられた。ために、海から船入掘に進む水路がつくられることになるが、その長さが八丁。八丁の(船入)掘をもってこの地名とした、と。もっとも、池波正太郎さんの『江戸切絵図散歩』では、家康入府とともに江戸に移ってきたこの地の名主岡崎十左衛門が、故郷岡崎の八丁堤にちなみこの名をつけた、としている。

桜川公園;桜川は八丁堀船入りの水路跡

新大橋通りを渡る。右側に公園。桜川公園。今は埋め立てられているが、この桜川って、八丁掘船入の水路跡。堀川とも呼ばれていた。船入掘のあった水路が楓川、また楓川から外濠、今の東京駅前の道筋がその濠跡だが、その外濠に通じていた水路に紅葉川といった名前の水路がある。楓・紅葉に対して桜、とは、いつ名付けられたのか定かには知らねども、粋な計らいであろう。

入船・湊地区を進み「鉄砲洲稲荷神社」に

公園に沿って道なりに進む。入船1丁目から湊1丁目あたりに。入船とか湊とか、いかにも大江戸の海の玄関、江戸湊って感じ。中央小学校の南の公園を歩く。左手に神社が。鉄砲洲稲荷神社。八丁堀稲荷とも湊稲荷とも呼ばれた。江戸時代には全国から集まる荷物を荷揚げした江戸湊に臨んでいた神社であり、船員や海上守護の神様として人々の信仰を集めてきた。
鉄砲洲の由来;神社にあった御由緒によれば、「鉄砲洲の地は、徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口(*河口)の島であり、今の湊町や東部明石町の部分がこれに相当します。寛永のころはここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています」、と。またこの出洲が鉄砲の形に似ていたから、という説もある。

亀島川に沿って「南高橋」に

神社を後に少し東に進むと川筋に。隅田川と亀島川の合流点近くの「亀島川水門」のあたりに出る。亀島川の川向こうの地・新川地区って亀島川と日本橋川と隅田川に四方を囲まれている。もともとはこのあたりは霊厳島と呼ばれていたあたり。一面葦の生い茂る隅田川の中洲を埋め立ててできたのが寛永元年(1624年)。八丁堀周辺の埋め立てより時期は少々はやい、と言われる。
霊厳島を川向こうに眺めながら亀島川に沿って歩く。最初の橋は南高橋。この橋がつくられたのは昭和6年。関東大震災で被害を受けた両国橋の部材を再利用してつくられた。明治時代の鉄鋼トラス橋が今に残る。土木遺産としては結構貴重なものである。ちなみに、過日深川の富岡八幡宮を歩いたとき出会った、八幡橋(元の弾正橋)が都内に残る鉄鋼トラスト橋としては最も古い。トラスとは主構造にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋。
亀島川;鍛冶橋通り・「高橋」

日比谷稲荷桜川が亀島川に合流した、であろう場所、つまりは八丁堀船入り口のあたりに稲荷橋の跡。八丁堀と湊町をつないでいた橋。
先に進み鍛冶橋通りに。「高橋」が架かる。日本橋川散歩の時にもメモしたが、江戸時代、このあたり船舶の往来激しく、橋脚の高い橋をつくった。それが「高橋」の名前の由来。この橋の八丁堀側が日比谷河岸、新川側が将監河岸と呼ばれる。
なぜここに日比谷が?近くにいかにもこじんまりした日比谷稲荷もあった。どうも、新橋日比谷町の代地がここにあったらしい。稲荷神社も大塚山(日比谷公園)にあったもののよう。 将監河岸の将監とは徳川の水軍を指揮した向井将監のこと。この地に向井将監の御船手組屋敷がこの地にあった。大砲といい、水軍といい、海からの攻撃への備えに配慮していたわけだ。ちなみに、日比谷の「ヒビ」って、海苔の養殖用に浅瀬に立てられた竹の束のことである。


亀島川;八重洲通り・「亀島橋」には堀部安兵衛武庸の碑
八重洲通まで進み亀島橋に。この橋、最初につくられたのは天禄時代と言われている。亀島の由来は、このあたりに小島が点在し、それが亀の姿に似ていたから、とか。橋の北詰に「堀部安兵衛武庸の碑」が。このあたりに住んでいたのだろうか。赤穂浪士が討ち入りの後、この橋を渡っていった、とか。ちなみに泉岳寺までのルートは、両国の「回向院」から「両国橋東詰め」、小名木川に架かる「万年橋」を経て「永代橋」。霊岸島に架かる「湊橋」を渡りこの「高橋」から「稲荷橋」、「聖路加病院(浅野内匠頭江戸上屋敷跡)」、「築地本願寺」、「歌舞伎座(浅野内匠頭嫡男浅野大学屋敷跡)」、「蓮莱橋」、「新橋」、「金杉橋」、「芝浜」、「泉岳寺交差点」といった道を通り「泉岳寺」に向ったようである。

亀島川;永代通り・霊岸橋
八丁堀・湊地区から、新川・霊岸島に移る。平成7年に架け替えられた新亀島橋を越え永代通りに架かる霊岸橋に。霊岸島に架かる橋であるから霊岸橋。結構古いものだろう。霊岸橋を渡り、霊岸島に。霊岸島の名前の由来は、江戸期、ここに霊厳寺があった、ため。寺は明暦の大火で焼失し、その後、現在の江東区白河に移った。

日本橋川と隅田川の合流点・豊海橋には「御宿かわせみ」が

日本橋川に沿って歩くと湊橋。新川地区と日本橋箱崎を結ぶ。先に進み豊海橋に。豊海橋といえば、江戸時代の船手番所であり、明治では日本銀行発祥の地のあたり、ではあるが、それよりなにより、平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』の舞台。そのお宿のあったところである。善き人だけが登場する小説は、まことに読後、心地よい。

永代橋
隅田川に沿って南に進む。永代橋に当たる。元禄11年というから1698年につくられた当時は、豊海橋の北詰めにあった、よう。赤穂浪士もこの橋を渡って泉岳寺に進んだ、と。名前の由来は、永代島にあった永代寺の門前、門前仲町に向うことから。富岡八幡宮の別当としてつくられた永代寺ではあるが、明治の廃仏毀釈のあおりで廃寺となり、今は無い。
大川、と言うか、隅田川にそって隅田川テラスと呼ばれる散歩道が整備されている。直ぐに「新川の跡」。その昔、永代通りを一筋西に入ったあたりに亀島川と隅田川をつなぐ水路があった。それが新川。万治3年というから、1660年商人である川村瑞賢が荷揚げの便をはかるため開削した、と。ちなみに川村瑞賢の屋敷跡が永代通りと湊橋に続く箱崎湊通りの交差点近くに。

川村瑞賢の屋敷跡

教育委員会の説明版:「江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618-1699)の屋敷があった。瑞賢(瑞軒、随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となる。明暦3年(1657)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財を なし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築いた。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことが挙げられる。晩年にはその功績により旗本に列せられた。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(1684-1688)ころに南新堀1丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島一円を占めていた、と記されている。表門はいまの永代通りに、裏門はかって新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵4棟があり、広壮な屋敷を構えていたようだ。『御府内沿革図書』延宝年間(1673-1681)の霊巌島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる掘割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができる。所在地は新川1丁目8番地域」、と。

新川跡を越前掘児童公園・越前掘に
新川跡に沿って島の中央あたりに。明正小学校の横に越前掘児童公園。霊岸島の由来書が;「当地区は、今から三百七,八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の湿地葦原であった。寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人が創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が2万7千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南三面に船入掘が掘られて後に越前掘の地名の起こる原因となった。明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊厳寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となった市内の町々が、替地として集団的に移ってきた」。
同じ公園に越前掘の由来書も。概要をメモする;「江戸時代、このあたりは越前福井藩主松平越前守の屋敷があった。屋敷は3方が掘に囲まれ、越前掘と呼ばれていた。堀の幅は20mほどもあり運河として使われていた。明治になり、越前守の屋敷地が越前掘という地名になったが、次第に埋め立てられ、大正の関東大震災以降、完全に埋め立てられ、地名も越前掘から新川となり、現在に至る」、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

隅田川・中央大橋から亀島川・「江戸港(湊)発祥跡」に

再び隅田川の川筋に戻る。中央大橋が。新川と佃島を結ぶ橋。霊岸島を一周しよう、ということで、橋を越え亀島川との合流点に。北に上り亀島水門近くに「江戸港(湊)発祥跡」が。慶長年間、幕府がこの地に江戸湊を築港して以来、水運の中心地として江戸の経済を支えて、昭和のはじめまで、房総の木更津や館山、相模・伊豆七島などへは浦賀、三崎、下田、伊豆諸島を結んだ船便がここから発着していた、と。ここから汽船が発着していたわけだ。


亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」
霊岸島、ぐるっと一周の最終地、「南高橋」の北詰に。徳船(とくふね)稲荷神社の由来書;「徳川期、この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと いう。


御神体は徳川家の遊船の舳(とも、へさき)を切って彫られたものと伝えられる。明暦3年、世にいう振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼 の寸前、難を免れ、大正11年(1922)に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災で再度救出され、昭和6年(1931)、隅田川畔(現中央 大橋北詰辺り)に社を復活し、町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年(1954)、同所に再現のあと、平成3年(1991)、中央大橋架橋 工事のため、この地に遷座となる。例祭は11月15日である。 中央区(八丁堀・湊)から(新川・霊厳島)散歩はこれでお終い。次回は佃島に向かう。

土曜日, 3月 18, 2006

多摩丘陵散歩;穴澤天神から稲城の丘陵を縦走し若葉台へ

壊滅的に気力を失った稲城丘陵越えの敗者復活戦。どこからはじめるか、少々迷った。先回挫折の稲城駅から、とも思ったが、稲田堤から小沢城址を歩いたとき、うっかり行き忘れた穴沢天神が気になっていた。で、結局は京王読売ランド駅で下車。リベンジ散歩を始める。


本日のルート;京王読売ランド駅>穴澤八幡>威光寺>弁天洞窟>読売ゴルフ倶楽部>日本山妙法寺>稲城駅>鶴川街道>(坂浜)>駒沢学園入口>高勝寺通り>高勝寺>東京よみうりカントリークラブ>平尾浄水場>平尾・坂浜境界尾根道>京王若葉台駅

京王読売ランド駅

結構素朴な駅。遊園地への入口というからにはもう少々はなやかな雰囲気とは思った。が、ローカル色一杯の駅である。周辺の町並みは平屋が多い。駅前の案内で天神さんをチェック。京王線に沿って東に戻る。
道なりに進んでいると神社への登り口。坂道をのんびり進む。あとでわかったのだが、登り口はいくつかある。三沢川沿いの鳥居から石段を登るのがメーンエントランス、かも。ともあれ神社に。

穴沢天神
境 内にはいかにも天満宮といった拝殿と神明造りの本殿。近辺にある洞窟というか横穴墓がその名の由来か、阿那臣(アナノオミ)之祖といわれる天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)をお祀りしているのがその名の由来か、定かには知らねども、天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)って小野臣の祖ともいうし、小野一族って小野田の小野神社に祀られているように多摩に覇を唱えてた、ともいうし、なんとなく阿那臣がアナザワ神社の由来では、とひとり解釈で大いに納得。


弁天社御神水
境内を離れる。弁天社御神水の案内。石段を下りる。ポリタンクに名水を入れる多くの人たち。どんなもんか飲んでみたいとは思ったのだが、順番待ちをするのもなんだかな、ということで、横の弁天様の洞窟にひょいと足を踏み入れ、そしてお宮を離れる。

弁天洞窟

弁天洞窟のある威光寺に向う。読売ランド駅の西より、丘陵を越える車道を登る。この道は、先日稲田堤から歩き、寿福寺、そして細山地区の香林寺に行く途中で交差した丘陵越えの道。
すこし上ると威光寺。お寺そのものは、さりたることもなし。弁天洞窟に。この洞窟、もとは横穴墓。明治に入って石仏を祀るために拡張したもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

中にはいると、二匹大蛇の彫り物や、23体の石仏が祀ってある。十五童子の石仏は、もとは穴澤天神の弁天社に安置されていたものという。洞窟内は明かりな ど、なにもなし。拝観料300円を払って、蝋燭と蝋燭立てのセットを渡され明かりをとる。洞窟は全長65メートル・広さ660平方メートル。横浜市栄区の「田谷の洞窟」には規模で少々劣るものの、それでも関東屈指の胎内巡りの洞窟ではありましょう。

峠道を登る
威光寺を離れ、峠道を登る。途中、日向ぼっこのおじいさんに、「稲城に向う尾根道はありますか」と。峠近くまで登り、そこから日本山妙法寺に向かう脇道に入れば行けるとのこと。
車の往来の激しい峠道とは別に、バイパス、といっても直登ルートを歩き、お寺への案内を目印に脇に入る。


日本山妙法寺
道なりに進む。左手はゴルフ場・よみうりゴルフ倶楽部。フェンスに沿って進む。日本山妙法寺に。お寺さん、って感じがしない。いわゆる新興宗教っぽい雰囲気もあるのだが、そういった団体のもつ安っぽさは感じられない。とはいうものの、仏舎利塔にしても本堂にしても、日本風なのかインド風なのか、という感じ。 こんないい場所、こんな広い敷地をもてるなんて、一体全体どんなお寺さん、か。調べてみた。
藤井日達師がはじめた宗派。黄色いインド風の僧衣をまとい、団扇太鼓で「南無妙法蓮華経」と唱えながら歩いている人たちがこの宗派。藤井日達師といえば世界の平和運動に貢献された方として有名。

尾根を成り行きで西に向かう
本堂脇の雑木林に入る。すぐに行き止まり。もとのゴルフ場脇の道に戻り、先に歩を進める。しばらくはフェンスに沿って歩く。が、フェンスから離れてくる。はてさてどこに連れてゆかれるものやら。

道 なりに進む。畑地に。なんとなく先回歩いた畑地のような気もする。少々悪い予感。が、なんとか先に続く道。いくつか分岐もあった。右にも左にも折れることなく、イメージを頼りに西に向う。どうせなら尾根道を進みできる限り西に下り、少々オーバーではあるが尾根道縦走を試みる。

しばし歩く。と、谷戸を隔てて西に別の尾根が見える。なんとなく駒沢女子大・短大のある丘陵ではないか、と。もう一筋南に進んでおれば、とは思うも、後の祭り。道は次第に下りに。しばし進むと里山というか麓の畑地に。更に下る。広がり感のある眺めが心地よい。

百村地区

低地に線路。京王相模原線だろう、か。川筋が。三沢川だろう、か。右前方に高架。武蔵野貨物線にちがいない。ここは百村にちがいない。
先回向陽台から下ったほとんど同じあたりに下りてきた。百村地区。ひと尾根北ではあったけれど、ほぼ縦走、したと言えないこともない。

鶴川街道・駒沢学園入口交差点
少々満足し、京王線をくぐり鶴川街道にそって流れる三沢川脇の遊歩道に。坂浜地区に進む。東橋で鶴川街道と交差。車の往来の多い鶴川街道を登る。駒沢学園入口交差点に。車の排気ガスもうざったい。

高勝寺
眺めると、京王相模原線の東に、線路に沿っての上り道。高勝寺通り。少々きつい坂を登る。坂の途中に高勝寺。品のあるお寺さん。真言宗の古刹。カヤの大木が保存されている。ケヤキ一本つくりの聖観音像が有名。有名という所以はそれが平安時代の作であろう、ということ。平安時代にすでに仏像をつくり寺院をつくる勢力がこの地にいた、ということだ。

坂浜上水局交差点を黒川方面に

お寺を出て先に進む。長い峠道。進むと天神通りと合流。道筋に天満神社があるからだろう。道路左手はゴルフ場・東京よみうりCC。更に進み、坂浜上水局の交差点に。道なりに下れば平尾、金程をへて新百合丘。以前歩いた道と繋がる。はてさてどうしよう。先に進むか、右に曲がるか、左に曲がるか。
結局右に折れ、尾根道をひたすら黒川方面から若葉台へのルートを選ぶ。理由は、新百合ヶ丘で小田急に乗るより、若葉台で京王に乗るほうが家路への段取りがいい、と思った次第。

学園通り

右折し道を進む。学園通りと呼ばれている。稲城二中とか日大のグランドがあったり、若葉総合高校が道筋にあるから、だろう、か。稲城二中からブラスバンドの曲が流れる。青春であるなあ、と、心躍る。
日 大商学部稲城総合グランド脇に。見晴らしすこぶる良し。素敵な眺め。この坂浜地区は坂と丘陵のまち・稲城の中でも特に豊かに広がる景観が魅力的な地区。三沢川・鶴川街道を隔ててみえる、長峰地区の団地群、多摩カントリークラブの丘陵地の広がり感も心地よい。このあたり、鐙原(あぶみがはら)とか鐙野(あぶみの)の峰とも。

鐙原の峰
『古くより世に武蔵鐙と称するものあり、此処に遷されたる高麗人の造るところと云。【盛衰記】に、畠山 重忠小坪合戦の時、武蔵鐙を用ゆと云。。。(新編武蔵風土記稿・高麗郡総説)』、と。1180年、神奈川・逗子の小坪坂で行われた畠山重忠と三浦一族との合戦の時、重忠が乗った馬のあぶみに「武蔵鐙」が使われていたとする。坂浜で発見されている鍛冶工房址も9世紀前半のものではないか、と言われている。
坂浜村;「小沢郷諸岡庄府中領と唱う。橘樹、都筑両郡の界に接す。村名の文字はいま「坂」の字を書きてサガと唱う。正字に書くときは嵯峨浜なり。鄙野の方言にて坂をサガと唱うることあり。嵯峨と坂を誤れることにぞ。又、一説に、ここに古え武蔵鐙を作りしもの住せし地ありともいえり。武蔵鐙は高麗人が作りはじめしといえば、按ずるにその鐙師の先祖高麗人の名などよりはじまりて村名に伝えしにやと伝うれども、信用なりがたし」。

鐙野;村の小名なり。伝云 ここは往古鐙作りの住せし地なるゆえ、名に唱うと。さすれば、古えの名産なる武蔵鐙と称せしものならん。その鐙師の祖は高麗国より帰化せしものの子孫なり。又云武蔵鐙は五六鐙のことにて、その製軽くして軍用に便りよきゆえ用いられたる製作なり。いつの頃より始まれるということも詳かならねど、或説云光仁天皇宝亀十一年(七八○)勅して、諸国にて造れる年料の鉄甲胃はみな革を以て造り前例の如く上貢せよ。革の製は躬をつつみて軽便なり。箭にあたりて貫きがたし。その製作もなし易しと

のことを以て、諸国へ命じ給いし頃、鉄鐙もまた軽きを用いられし勘より高麗人の工夫を以て作り出せしものならんといえり」、と。高麗郡と密接な関係がある伝承でもあり、日高・高麗の地に高麗郡をつくる以前の高麗人が住んでいたのは、このあたりだったのだろうか。想像が拡がる。

京王若葉台駅
道なりに進めば若葉総合高校前を通り若葉台駅に至る。が、左に雑木林。あの林の向こうは黒川方面。以前歩いたときは日が暮れて真っ暗。歩道もなく車に惹かれそうになりながら越えた、あの黒川って、どんな
ところか見たくなった。
で、 雑木林方面に。畑地が。進む。行き止まり。少し戻る。なんとなく先に続く雰囲気の道筋。雑木林に入る。次第にブッシュ。どんどん進む。左手は畑地が広がる。イメージとしては、丘陵から黒川が眺められると思ったのだけれども少々期待はずれ。が、里山の景色はなかなかいい。ゆったりと道をくだる。京王線の高架下をくぐり、線路にそって西に。三沢川を越え、京王若葉台駅に到着。本日の予定終了。坂浜の里山は結構よかった。

金曜日, 3月 17, 2006

多摩丘陵散歩;南多摩駅・大丸城址から稲城の丘陵に

先日、稲田堤で降り、小沢城址のある丘陵地を歩いた。が、車窓から小沢城址があるこの丘陵より北にも、東西に広がる丘陵がある。京王多摩センターとか南大沢、唐木田などに行く途中、丘陵に囲まれた低地を若葉台まで進む。そんなときにも車窓から眺め、北に広がる丘陵が結構気になっていた。
丘陵の「向こう」はどうなっているのだろう、と。『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を見ていると、多摩川にかかる是政橋の近くに大丸城址がある。是政 の渡しのあった交通の要衝の地。とりあえず、この大丸城址からはじめましょう、ということで、最寄の駅JR南武線・南多摩駅に。京王稲田堤で降り、商店街をJR南武線稲田堤まで歩く。


本日のルート;南武線・南多摩>医王院>大丸公園>普門庵>円照寺>止乃豆乃神社>城山公園>城山交差点>稲城五中入口>百村(もむら)>鶴川街道>武蔵野貨物線>京王稲城駅>尾根越え・迷い道>京王稲城駅

JR南武線・稲田堤駅

JR南武線・稲田堤駅。南武線を利用したのはこれで2回目。最初はもう30年以上も前になるだろうか。印象としては、あまり美しくない客車、どこかの路線からのお下がりといった印象であった。
南武=南武蔵=川崎を主舞台とするこの路線、はじまりは多摩川砂利の運搬、その後は青梅や五日市の石灰を京浜工業地帯に。日本鋼管とか浅野セメントに運んで いた、とか。そういえば秩父駅で見た武甲山など、石灰の採掘のため山肌が強烈に削り取られている。また、先日歩いた青梅の辛垣城址も大正時代まで石灰の採掘が続いていたとのこと。

ともあれ、南武線、なんとなく野暮ったい、と思っていたのは砂利とか石灰の運搬、といったところにあったのだろうか。が、今回乗って車体も新しい。川崎と立川を結ぶ、あたりまえのコミューター列車と様変わりしていた。

南多摩駅
矢野口駅、稲城長沼駅と進む。矢野口って合戦、矢合わせの名残の地名だろうか。電車はどんどん丘陵から離れてゆく。が、南多摩駅に近づくにつれ、電車は再び丘陵に接近。一安心。南多摩駅で下車。いやはやローカルな雰囲気一杯の駅。ともあれ、本日の散歩を開始する。

例によって駅前の案内板で大丸城址と付近の見所を確認。大丸城址は案内にはない。城山公園の表示。それが城址だろう。駅付近に医王院とか普門院とか円照寺といったお寺。そして円照寺の近くに大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)。なんとなくありがたそうな名前。

大麻止乃豆乃天神社
駅を離れ、川崎街道に出る。右手に進み医王院。左手に戻り小高い丘にある普門院、円照寺をちらり拝見しお寺左手にある石段をのぼる。大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)に。ひっそりと、かつ、こじんまりした神社。延喜式内社と言われている。が、青梅の武蔵御獄神社も延喜式の大麻止乃豆乃天神社である、と。どちらもエビデンスに乏しい。武蔵府中の大国魂神社も武蔵の六所宮を集めて総社となる以前は、大麻止乃豆乃天神が祀られていたわけで、どうしたところで大麻止乃豆乃天って、神結構由緒ある神社ではあったのだろう。

祭神は櫛真知命(くしまちのみこと)。火難・盗難よけの神。江戸時代には「丸宮社」と呼ばれていた。地名の大丸(オオマル)も大麻止(オオマト)の訛りではないかとも言われている。ちなみに、川の中洲のことを間島(まと)、とも。間島への船着場を「大間島の津」=おおまとのつ、と言う人もいる。川の中州の船着場がそれほどありがたいともおもえない。ともあれそのうちにこのお宮さんの由来など調べておこう。

力任せに丘陵に取り付く
お宮を後に城山向う。川崎街道に戻り、南多摩駅交差点を左折し峠道に進む。直ぐに右手に丘陵へ登る道。城山への道には少々早いかとも思ったが、丘に登る。これが大失敗。道なき道を進むはめになる。すぐに休憩所。

なんとなく道がある。先に進む。金網が続いている。金網に沿って踏み分け道。何とか進める。どうしたところで、オンコースではなさそう。進む。左下にいかにもオンコースの舗装した道が見える。が、ここまで来た以上、進むしかない。ということでなんとか広場に到着。
後からわかったのだが、この金網の向こうはどうも米軍多摩サービス補助施設らしい。米軍で、働く人のレクレーション施設です。野球場、ゴルフ場、アーチェリー、などなどがあるようだ。?昔は陸軍の弾薬庫だったわけだし、不法侵入しなくてよかった、よかった。


大丸城址
広場から尾根に向って登る木の階段。結構きつい。尾根に上ると快適な散歩コース。が、どこにも大丸城址の案内はない。何回かおこなわれた発掘調査によれば、山頂部には主郭とかちょっとした建物跡、その周りには空堀と土塁といった曲輪程度。要は見張り台程度の山城があったよう。

城山交差点
道なりに下ると向陽台の城山交差点に出た。城山交差点あたりの景色、なんとなく見覚えがある。会社の同僚を車で送ったのはたしか、このあたり、などと思い起こしながら、向陽台2丁目の稲城5中入口交差点に。東に向って道路が作られている。

稲城駅
百村(もむら)に入り、松の台通りを鶴川街道に下る。結構な坂道。魅力的な地形のうねり。鶴川街道に下り、武蔵野貨物線の高架下を通り、三沢川を過ぎ稲城駅に到着。
稲城駅からは、よみうりゴルフクラブのひろがる丘陵を横断することに。道があるのかないのか、そもそもゴルフ場を突っ切ることができるのか、すべて不明。とりあえず、当たって砕けるだけ。折りしも雨。雨あしも次第に激しくなる。傘を差し、城址橋から山裾に続く大通りを進む。

行き止まりにパン屋。脇から少し進むが結局行き止まり。戻る。山裾を少し西に。山に入る道を探す。武蔵野貨物線・生田トンネルの入口近くから山に入る道。ちゃんと整備されている。これなら、と進む。

道に迷い右往左往
成り行きに進む。西に進んでいるよう。畑地に。さらに進む。行き止まり。戻る。東に進み、南に下る。西と南に進む道の分岐。はてさてどちらか、と迷う。南に。後から分かったのだが、西に進めば尾根道に通じていた。が、南に進む。
東に折れ、北に進みそれから大きく時計方向逆回り。里に下りる。着いた。丘陵を越えた! あれ、どこかで見たことがある景色。結局廻りまわってもとのパン屋の近くに戻ってきた。ガックシ。本日、これ以上歩く気力なし。雨も更に激しくなる。中止。次回再チャレンジとする。

稲城の地名の由来

稲城の地名の由来は不明。稲毛一族の本拠の地であるので、「稲毛」であれば問題もないのだが、どこかの記録に、どういった理由か分からないが「稲毛」を不可 とし「稲城」とした、と。稲をつかって小沢城とか大丸城を護ったことに由来する、などと言われる。が、真偽の程不明。ともあれこの地名は明治22年につくられた。東長沼、矢の口、大丸、百村、坂浜、平尾の6つの村があつまり稲城村となった、という。

木曜日, 3月 16, 2006

多摩丘陵散歩;登戸から多摩丘陵を南に下り鷺沼。そして溝口に

3月1日の多摩丘陵散歩:稲田堤から新百合ヶ丘に続く2回目は川崎・宮前区に。きっかけは会社の常勤監査役殿との話であった。地震になったときに、自宅までどの程度かかるのかわからない、と。であれば、私が歩いてあげましょう、ということになった。宮前区・鷺沼が監査役殿のご自宅。川崎に足を踏み入れるのははじめて。で、どのルートから歩こうか、と迷った。なんとなく名前が気になっていた登戸が頭に浮かんだ。

本日のルート;登戸>西宿河原>府中街道・ニケ領用水>長尾橋>神木本町・等覚院>神木で東名高速と交差>平瀬川>神木橋>東名高速に沿って神木本町4丁目>平6丁目>尻手黒川道・土橋交差点>鷺沼>矢上川>宮前平>宮崎台>宮崎団地前>246号・梶ヶ谷交差点>市民プラザ通り・梶ヶ谷駅入口>梶ヶ谷駅>高津区役所交差点>南武線交差溝口>栄橋>溝口神社・溝口駅入口>ニケ領用水>府中街道・高津交差>大山道>光明寺>二子新地駅

小田急線登戸

登戸で下車。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。
昔は江戸から津久井に通じる、津久井往還の要衝の地。津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人で賑わったはず。当然多摩川の渡しもあったのだろう。果たして今は、という興味もあり登戸から散歩をはじめることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



ニケ領用水・新川
南の方、丘陵を目安に成り行きで進む。登戸、宿河原地区をなんとなく南に進む。車の往来の激しい道筋に。府中街道だ。
道筋に沿って水路が。ニケ領用水・新川。この流れは菅稲田堤にある布田橋、新布田橋近くの稲田取水場から取り入れられた流れ。六郷用水散歩のときメモした、川崎のニケ領、武蔵国橘樹(たちばな)郡と幕府直轄地の稲毛郡の二カ国に通した灌漑用水・ニケ領用水がこれ。ちなみに登戸近く、宿河原から取り入れられたニケ領用水の別水路も近くを流れている。龍安寺近く、本村橋で府中街道とニケ領用水は別れる。

向ケ丘遊園
川筋に沿って歩く。向ケ丘遊園が丘の上に。とはいうものの、どうも開園している雰囲気がしない。向ケ丘ボーリング場も閉まっている。昭和2年、小田急の開通とともに営業を開始したこの遊園も、2003年の2月に75年の歴史を閉じたとのこと。こどもが小さいときに連れ歩いた。仮面ライダーショーでこどもが逃げ廻った記憶が懐かしい。

低地から丘陵に
向ケ丘遊園を少し進み長尾交差点で右折。丘陵への登りとなる。結構な傾斜。多摩川の低地との境をなす多摩丘陵の東端といった雰囲気。が、如何せん、車の通りの多い峠道。排気ガスを浴びながら進む。峠を越え住宅街に。五所塚地区。起伏に富んだ多摩丘陵の台地斜面が削られ住宅地となっている。

長尾神社
左折し長尾神社に。長尾神社と通りをへだてた公園には、五つの円形塚が残されている。『新編武蔵風土記稿』では、「墳墓五ヶ塚」と言われている。が、川崎市教育委員会は「村境や尾根筋に築かれた信仰塚のようなもので、一種の民俗信仰上の記念物」と。五所塚地区はその塚にちなんだ名前。
また「長尾」の地名は、多摩丘陵の長く連なる尾根に沿った地形から生まれたといわれる。尾根の南の方を「神木長尾」、北の方が「河内長尾」「谷長尾」。長尾神社は、河内長尾の鎮守だった五所塚権現社が、明治時代の神木長尾の鎮守だった赤城社を合祀し今にいたる。

等覚院
長尾神社を離れ進む。南東方向に品のいい丘陵が見える。緑の丘を目安に進む。神木本町。いかにもありがたそうな地名。そしてこれまた品のいいお寺さん。等覚院、である。神木(しぼく)の由来は、往時日本武尊が東征のみぎり、渇きを覚えた、としよう。鶴の舞い降りるのを見、水辺あれかし、と。水で渇きを癒し、英気回復。神水というか霊水とあがめ、その地に木を植える。で、代々その木を神木と。後に智証大師円珍、その神木をもって不動明王をつくる。この不動明王は等覚院本堂脇の岩穴に置かれている。これが神木の地名の由来。

神木山等覚院(神木不動)は天台宗のお寺。不動明王が本尊。広い境内はつつじの名所。別名、つつじのお不動さんとも。また、すぐ横を走る東名高速などの都市化の進行から自然環境を保全するため、お寺の裏山は緑保全の森となっている。

平地区
等覚院を離れ車の往来の多い通りに沿って進む。平地区。「平」の地名の由来は、領主・葛原(かつらはら)親皇の後裔である「葛山平」(かつらやまたいら)の名によるとか、この地にある室町時代開山のお寺・泰平山東平寺の山号でもある、「天下泰平」を願って名づけられた、とか、平瀬川が流れる地形からきたとか、これも例によっていろいろ。

東名高速と交差


東名高速と交差。東名を越えたところで平瀬川と交差。地図でチェックすると王禅寺、東百合丘あたりが源流点のよう。神木本町交差点を右折。東名高速との交差手前で高速に沿って、高速道路の南を西に向う道に入る。

手黒川道路・土橋交差点

向丘中学脇、平小学校脇をとおり土橋地区を進む。尻手黒川道・土橋交差点に。土橋(つちはし)の地名の由来は、源頼朝がこの地を通ったとき、谷合から流れ出る谷戸川に橋を架けることを命じた。樹木を切り、土を盛り土橋をつくる。これが地名の由来。で、この谷戸川とは矢上川のこと。この川沿いの湿地・湿田が現在の市道尻手黒川道路。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

矢上川

矢上川の源流は宮前区水沢1丁目あたり。菅生緑地の湧水を集め清水谷、犬蔵をへて土橋に。矢上の意味は、谷の上=やがみ、小高い丘=弥上=やがみ、とかいろいろ。
土橋は明治・大正はタケノコの名産地。「竹の里」と。昭和に入るとこの地は陸軍の軍用地として接収。軍用道路、北の台地上には高射砲陣地と探照灯基地が設けられる。戦後は宅地開発と高速道路による都市化の波。農地と山林原野の地が大きく変わる。

鷺沼
土橋交差点は東名高速の川崎インターから出たすぐのところ。会社の同僚を車で送って何回かきたことがある。交差点から道なりに坂道をのぼり、鷺沼プール入口交差点をこえ、本日のターゲットポイント鷺沼に到着。

鷺沼駅の西は地下トンネル。トンネルの上に住宅街が乗っかっている。結構奇妙な光景であった。鷺沼は、東急が開発した街。それ以前は、農地と山林からなる丘陵地。丘陵に挟まれて低湿地帯が長く伸びており、鷺沼谷と呼ばれていた。246号線から鷺沼小学校を経て、日本精工のグランドあたりまで延びる谷筋がそれにあたる。

鷺沼配水池
鷺沼を離れ東京地下鉄鷺沼電車区と水道配水所の間の坂道を下る。川崎市水道局の鷺沼配水池は高津・宮前区の一部と中原・幸区の水道水を確保するためにつくられたもの。給水人口は38万人。市内最大の規模の配水池。川崎市の水源は、多摩川・相模川・酒匂川の3つの水系からなるが、鷺沼配水池は、相模川水系。取水口から長い導水トンネルを通り、多摩区三田にある長沢浄水場に運ばれ、そこで処理された水を集めている。

宮前平
東急田園都市線に沿って宮前平の駅に進む。「宮前平」の駅名は、明治時代に五つの村(野川・梶ヶ谷・馬絹・土橋・有馬)が合併して生まれた「宮前村(みやざき)」の地名から。女躰権現社(現在の馬絹神社)のあたりから梶ヶ谷にかけて宮前という小字名があったとか。宮前駅付近は、江戸時代は湿田が広がっていた、とか。矢上川沿いに広がった湿田は、いまの尻手黒川道路沿いに細長い谷間に広がり、「谷戸田」とも呼ばれていた。

宮崎台
矢上川を越え宮前平駅前を越え、宮崎台に。宮崎は、もとは宮前(みやざき)。が、昭和10年に川崎市と合併するとき、ほかに宮前小学校とかいった名前もあり、ややこしい、ということで宮前>宮崎、となった、とか。

この地は昭和15年には陸軍の軍用地として接収され、大塚三ツ叉を中心に馬絹・上作延・下作延から向ヶ丘・菅生地域にまたがった広大な演習場・溝口演習場となる。連隊本部は宮崎の丘の上。現在の宮崎中学校に。兵舎や弾薬庫などがに配置されていた。

部隊編成は、歩兵五個中隊と機関銃二個中隊、八センチ連隊砲と速射砲一個中隊、そして土橋には高射砲隊。これら東部六二部隊の任務は、召集兵のトレーニング。三ヵ月程度の訓練もあと、実線配備に送り出す。この軍用地も昭和26年には返還され、このときに「宮崎」という大字名がつけられた。

梶ヶ谷
宮崎台団地前交差点を越え、ゆったりとした坂道を登り、梶ヶ谷交差点で246号と交差。市民プラザ通りを進み、最初の交差点を左折し梶ヶ谷駅方面に入る。

梶ヶ谷は鍛冶ケ谷と読み替えるべし。北に矢上川が流れるこの地は南に「金山」と呼ばれる台地がある。馬絹との境にある梶ヶ谷金山公園(R武蔵野南線の貨物ターミナルの少し南)の脇には、「稲荷坂」の地名、そして坂の途中の稲荷社がある。
稲荷社は、鉄鍛冶や鋳物師の神様。また、南野川に下れば別所と呼ばれ区域もある。別所は虜囚となった蝦夷人びとを移住させたところ。上作延・平・長尾にも「別所」の地名が残っている。蝦夷虜囚は、産鉄の技術者集団。「梶ヶ谷」=「鍛冶ヶ谷」の所以である。
梶ヶ谷地域一帯は、産鉄と深い関係がある地名が多い。金山、稲荷、別所のほか、有馬には赤い鉱泉の「有馬療養温泉」がある、とか。鷺沼には、「金糞谷」の地名が残っている、とか。金糞は「鉄滓(てっさい)」のこと。

JR武蔵野南線の貨物ターミナル
「梶ヶ谷」にJR武蔵野南線の貨物ターミナルがある。これって謎の鉄路?稲城近くからトンネルに入り、10キロ以上も地中を走る。いつこんなものが掘られていたのだろう。なんとなく好奇心が湧き上がる。チェックすると、最初に計画されたのは戦前の1927年のこと。その後、戦時中の中断をへて、1964年から工事が始められた、とか。貨物線とはいいながら、ホリデー快速鎌倉号といった列車が、土休日に大宮から鎌倉まで走っているとか、いない、とか。一度、10キロのトンネルを体験したいものである。


溝口
梶ヶ谷駅から溝の口に向う。溝の口の街並みが丘の下に広がる。結構な標高差。坂道をくだり246号線にそって歩を進め、高津区役所交差点に。右折し田園都市線手前の交差点に。溝口のど真ん中。数年前まで、正月に年始・新年会のためで会社の元の先輩の家にお邪魔していた。そのころは、この溝口の駅前は毎年大きく変わっており、毎年道に迷っていた。最近は都市開発も一段落したようで、迷うことはない。

いまはビルが林立するこの溝口。溝のような幅の狭い小さな川が流れ、その溝の入り口にあたるところから「溝口」の地名は生まれた、と。
大山街道の宿場町だった溝口は、多摩川の流れの中から生まれた。『新編武蔵風土記稿』によれば、「白波、岡の下を洗い渺々(びょうびょう)たる流れ」だった多摩川は、その後、川幅も狭まって砂地が生まれる。そこに人家が増え宿場が開ける。僅か百軒程度しかなかった溝口の宿も、いまは川崎市の副都心。JR南武線と東急田園都市線の溝の口駅を利用する一日の乗降客は30万人近い、とか。
ちなみにJR南部線のはじまりは大正初期。多摩川砂利鉄道から出発。路線は南武鉄道と改称。昭和十九年(1944)の春に国有鉄道に買い取られ、国鉄の民営化でJR南武線となっている。

宗隆寺
田園都市線手前の交差点を左折。南武線と交差し栄橋交差点を越える。左手に「興林山宗隆寺」。日蓮宗のお寺である。山門を入ると、本堂の手前左に俳人・松尾芭蕉の句碑がある。 「世を旅に代(とも)かく小田の行き戻り」。

境内の墓地には、この地ゆかりの陶芸家・浜田庄司の墓石もある。溝口駅入口交差点手前左手に溝口神社。どんなものかちょっと覗いてみる。おまいりをすませ歩を進める。

ニケ領用水・新川

少し歩くときれいに整備された水路が。遊歩道になっている。ニケ領用水・新川。水路をチェックすると南に下り、幸区の下平間、横須賀線の新川崎にあたりまで水路が見て取れた。その先は多摩川まで遊歩道っぽい道筋になっている。いつか歩いてみようと思う(後日、稲田堤の取水口から武蔵小杉までニケ領用水を歩き終えた)。

府中街道・高津交差点

高津交差点で府中街道を越える。交差点を越えると町並みが急に落ち着いたものになる。ここは大山道。「溝口村は橘樹郡の北二子村の西に隣れり、江戸日本橋より五里の行程なり、相模国矢倉沢道中の宿場にて、此道村係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、総ての戸数は九十四軒に及べり....村内総て平にしてただ、西の方のみ丘林あり水田多くして陸田少し、土性は真土に砂交じれり」と。
「矢倉沢道中」とは、大山詣りで知られる矢倉沢往還、すなわち「大山街道」のこと。「二子の渡し」、「蔵造りの店」、「溝口・二子宿の問屋跡」「庚申塔と大山道標」など昔の大山街道の名残を残している。

二子新地駅
道脇にある光明寺におまいりし、歩をすすめ二子新地駅で田園都市線に乗り本日の散歩はおしまい。本日のルートは多摩丘陵に連なる下末吉台地にある宮前区の南半分。地形は、小さな谷が入り込み、起伏に富む、地形散歩にとっては魅力的な1日であった。


金曜日, 3月 10, 2006

霞丘陵散歩;東青梅から霞丘陵・金子丘陵を経て飯能へ

青梅・二俣尾の辛垣城跡への散歩のあと、勝沼城を歩いてみたくなった。なんといっても青梅市周辺、昔の呼び名で言えば「杣保(とまのほ)」に覇をとなえた三田一族の居城の地。戦に破れ追い詰められた辛垣城だけでは少々寂しすぎる。三田一族の本拠地を歩きたかった。青梅観光センターで手に入れた地図をチェック。勝沼城の近く、塩船観音のあたりから岩蔵温泉まで続く霞丘陵ハイキングコースの案内がある。

霞丘陵といえば、加治丘陵・金子丘陵の東京側の呼び名。この丘陵は以前から至極気になっていた。金子十郎を筆頭とする金子一族の本拠となった丘陵地も歩けるし、青梅というか東京と、飯能というか埼玉を遮る丘陵地帯ってどんなものか歩ける。ということで、勝沼城から霞丘陵ハイキングコース・岩蔵温泉までを本日の散歩コースとしてルーティングした。


本日のルート;JR東青梅>光明寺>妙光院>勝沼城>宗泉寺>塩船観音寺>霞丘陵ハイキングコース>笹仁田峠>岩蔵温泉・七国峠ハイキングコース>飯能・落合方面>阿須交差点・駿河台大学>加治橋・入間川>218号線>西武飯能駅

JR東青梅駅

最寄りの駅はJR東青梅駅。北口で下り、成り行きで北に向う。道の途中で酒饅頭を買う。秩父で買った酒饅頭というか田舎饅頭が、こどもの頃食べた柴餅に似ており、其の味を今一度、といった思い。ともあれ、お饅頭屋さんで光明寺への道を確認。

師岡神社

城前橋を渡り少し光明寺に。勝沼城跡への登り口を探す。目印はない。お寺左手に石段。師岡神社。師岡神社 の師岡って、三田氏滅亡後、勝沼城に入った北条方武将・師岡山城守将景からきたのだろう。境内にはシイの巨木が。神社に登ったが、行き止まり。
石段を下り、神社脇を登る小道に入る。結構丘に登る。が、どうも様子が違う。金網で入れない保護林の方面がどうも城跡といった雰囲気。尾根道からは入れ込めるかと思ったのだが、金網が延々と続く。あきらめて登り口まで戻る。 -->(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

妙光院
道に沿って東に向う。少し進むと、妙光院。このお寺の裏山であれかし、と進む。赤い帽子と前掛けの6体のお地蔵さん。「おん かかかび さんまえい そわか」ってご真言を3回お唱して、お参りいたしましょう、ってガイド。「おん かかかび さんまえい そわか」「おん かかかび さんまえい そわか」「おん かかかび さんまえい そわか」。

勝沼城跡

境内右手に裏山への道筋。登り口に勝沼城跡歴史環境保全地域の案内。ゆったりとした道を上る。丘の上は比較的平坦面が広い。辛垣城跡の狭隘な砦を見た後だけに立派な造作・遺構と思える。なんとなく石神井城跡といった雰囲気。それより広いかも。

城跡から青梅市街を見渡す。三田氏は往時、この青梅、秩父、そして入間にかけての一帯を支配していた。ちょっと目にはそれほどの要害の地とも思えないが、昔は多摩川を外堀とし、あたりは低湿地で囲まれた要害の地であったのだろう。

三田氏
三田氏についてまとめておく;鎌倉末期、青梅一帯、「杣保(とまのほ)」に覇を唱えた一族。勝沼城はその居城。室町期、三田氏は関東管領・山内上杉氏の陣営に。一時期、北条早雲からはじまる小田原北条氏、つまりは後北条の臣下となる。が、上杉謙信の関東攻めに呼応して、後北条を離れ謙信とともに小田原城攻めに参陣。謙信が越後に戻った後、ほとんどの武蔵の豪族は後北条氏に帰陣。しかし、三田氏は謙信陣営に留まる。ために、滝山城の北条氏照の攻撃を受け、この1563年、勝沼城を放棄。辛垣城に逃れ抵抗するも翌年落城。三田綱秀は太田資政をたより岩槻城に落ちのびる。が、そこで自刃し三田氏は滅びる。

吹上げしょうぶ園
城跡を下り、東青梅6東交差点を左折。城山通りと言うのだろうか、ともあれ山裾を進む道。「吹上げしょうぶ園」前を進む。美しい里山の景観。この景色を楽し めただけでも十分。少し進むと宗泉寺。立派な鐘楼が印象的。境内のカヤの大木も雄大。車道脇、歩道もない道を進む。「塩船観音寺 この先700m」の案内。左折しこの道、観音通りを進む。途中、ゆるやかな峠道。また美しい里山の景観が拡がる。

塩船観音寺

道なりに進むと塩船観音寺に。美しい。茅葺屋根の落ち着いた雰囲気の堂宇。キンキラキンのお寺を想像していたので、望外のよろこび。重要文化財の仁王門、本堂も渋い味わいを出している。
塩船観音寺は真言宗醍醐派の別格本山。大化年間、若狭の八百比丘尼が千手観音をおまつりしたことに始まる。天平年間、僧行基が、周囲の地形が船の形に似ていることから、塩船と名づけた、とか。

ともあれ、平安末期には加治丘陵、というかその名も金子丘陵と呼ばれるこの丘陵に覇を唱え高麗・入間・多摩に勢力をふるった金子一族が深く帰依。金子十郎家忠源平合戦出陣のみぎり、戦勝を祈願して山門、仏像を奉献。また、鎌倉末期には三田氏の帰依を受け堂宇・仏像の修復が行われている。
ちなみに、八百比丘尼は「やおびくに」。決して800人の尼さんが来たわけではない。また、なんで「塩」の船なのかよくわからない。が、法華経に説く千手観音の広大な慈悲によって、人々を苦海から救って、彼岸に渡す弘誓(ぐぜい)の船、ということで、ありがたいもの、なくてはならないもの=塩が頭についたのか、と自己流解釈でとりあえず納得。

尾根道に
霞丘陵ハイキングコースに進む。境内から続く尾根道を上ればコースに続くとのこと。本堂左手の道を進むと鐘楼が。鐘楼脇に7社権現。脇を抜け尾根道に。
尾根道からの眺めは壮観。まるで円形劇場、というかコロセアムといった景観が広がる。基底部の舞台部分には堂宇、そして境内。舞台を囲む周囲の丘は全山つつじ。開花時期は4月頃で今はなにもない。が、花見時期には10万人もの人がつつじ見物に集まる、という。さぞ見事だろう。あまりあれこれに感激しない性格ではあるが、ここのつつじは結構すごいだろう、と少々心躍る。

霞丘陵ハイキングコース

尾根道をあがりきると霞丘陵ハイキングコースへの案内。素晴らしい散歩道。洗練された景観。左手はゴルフ場ということもあり、広がり観が心地よい。尾根道を進む。車止め。直進し植林帯に。要所要所に「七国峠、岩蔵温泉」という案内があり迷うことはない。

熊笹の茂る横木の階段を下り、ブッシュを進むと金網。右方向に「七国峠、岩蔵温泉」。舗装道路を進む。再び車止め。間を抜け進む。大学のキャンパスといった道が続く。立正佼成会の敷地内だった。しばし進むと再び車止め。間をすり抜け、正面の茶畑を回りこむように坂道をおりると笹仁田峠に。ここまでの散歩道は明るい高原地といった雰囲気であった。

笹仁田峠の交差点
車の往来の激しい笹仁田峠の交差点を渡り、七国峠に向う。再び森に入るとあたりの雰囲気は一変。スギ、ヒノキの森となる。少々の登り。しばらく歩き七国峠に。笹仁田峠から10数分といったところか。

七国峠

峠とはいうものの、ちょっとした広場になっている。七国峠と言うからには、相模・駿河・甲斐・武蔵・上野・下野・常陸の七つの国が見渡せるはず、と期待していたのだが展望などなにも無し。それにしても七国峠って、いろんなところで出会ったよな。狭山丘陵の七国山、多摩丘陵・町田市野津田の七国山などなど。散歩の日々をあらためて想い起こす。

岩蔵温泉か、金子丘陵か

七国峠を過ぎ少しあるくと、左「岩蔵温泉」、右「飯能 落合」の道標。 予定通り「岩蔵温泉」に進もうか、それとも、と結構迷った。迷った理由はただひとつ。加治丘陵というか金子丘陵に歩を進めたかっただけ。金子一族の本拠地でもあった金子丘陵ってどんなところだろう、と気にはなっていた。で、結局は金子丘陵に。

ちょっと前、飯能からの帰り道、丘陵の北の元加治、仏子あたりを車で走った。また駿河台大学脇の峠道を走り、金子丘陵を越え金子十郎の墓のある木蓮寺・瑞泉院に訪れたことがある。
金子一族のまとめ;金子氏は武蔵七党の名族村山党からわかれこの金子の地で金子氏を興す。平氏とのつながり深い金子氏は保元の乱では後白河帝に味方し祟徳院・藤原頼長・源為義・為朝と戦う。平治の乱では戦に破れ金子の地に戻る。その後、頼朝挙兵に際しては、陣に加わり一の谷では義経を助け功をたてる。
頼朝上洛の折は、重臣として随員に加わり都大路を堂々の行進。金子十郎の後も一族は、和田義盛の乱には鎌倉北条に味方し幕府の難を救った。戦国時代が終わるころ、八王子城の武将に金子家重の名。北条と結び秀吉と戦い力尽きた、とのこと。ともあれ、当初の予定を変え金子丘陵に歩を進める。

金子丘陵

気持ちのよい散歩道。品のいい森。一面の落ち葉の上を歩く。ところどころで分岐。道標などなにもない。感で進む。北東に向っているような気がする。狭山丘陵もそうだが、このあたりの丘陵地帯は本当に気持ちいい。どんどん進む。と、すごい下り坂。坂と言うよりも壁、といったほうが正確。下りでよかった。なんとかかんとか降りる。右手に沢道。川筋にそって下る。あれだけの急な坂を下りたのだから、てっきり里についた、と思っていたが、どうもそうではないらしい。ゆったりとした道を歩く。

で、突然迷彩服にマシンガンの一団に包囲される。結構ビビル。マジ緊張。で、よくみればモデルガン。コンバットゲームの一団であった。こんな山の中でマシンガンに囲まれたら、いやはや、ゲームでよかった。

飯能に

で、歩をすすめる。やっと民家が見えてきた。さらに進むとお寺。長沢寺。これって前車で峠越えした駿河台大学の脇の阿須の交差点。ともあれ、里に下り、後は一路飯能まで歩き本日の予定終了。

塩船観音、霞丘陵ハイキングコースすべて満足。又、予想外の展開で金子一族の拠点となった丘陵地帯を歩けたのが本日最大の喜びでありました。また今回行けなかった岩蔵温泉には、後日会社の同僚と訪れた。七国峠から、左「岩蔵温泉」の道標に迷う事無く従ったことは、言うまでもない。

木曜日, 3月 09, 2006

青梅散歩;青梅丘陵ハイキングコースから辛垣城跡へ

青梅の丘陵地を歩いた。先日買った本『多摩丘陵の古城址;(田中祥彦;有峰書店新社)』にも記載のあった二俣尾の辛垣城跡、中世の奥多摩渓谷を支配した三田一族の終焉の地を歩こうと思った。


JR青梅線・青梅駅
Jr青梅線・青梅駅で下車。駅前に青梅観光案内所。近辺の地図を手にいれる。青梅丘陵ハイキングコースを経て、その先の辛垣城までの山道の案内が載っている。ガイドに従い、線路脇を少し東に戻る。
すぐにT字路。左折し青梅線を跨ぐ陸橋を越え道なりに進む。永山公園通りに。テニスコートを左に眺めながら坂道を上る。おおきくS字に蛇行する急勾配の坂。上りきり尾根道に。十字路の右手は青梅鉄道公園。道標に従い左に折れると青梅丘陵ハイキングコース。

青梅丘陵ハイキングコース

ハイキングコースはすこぶる気持ちいい。左手に青梅の市街が広がる。木の名前でも知っておれば、あれこれ情景描写もできるのだろうが、なにせ、スギ・ヒノキではない、と自信なく言える程度の我が身が少々情けない。

金比羅社
少し進むと「風の子太陽の子広場」への分岐。かまわず直進。ちょっとした上り。上りきったあたりに金比羅社。さらに進み、さらに坂を登ると第一休憩所。このあたりで簡易舗装は切れる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

叢雨橋
少し歩き第二休憩所。休憩所近くに大きな石の塔と石仏が。石仏からは多くの手が出ている。千手観音菩薩だ。道なりに進むと叢雨橋(むらさめばし)。橋の下は川という感じではなく、峠道といった雰囲気。とはいっても誰も歩いている感じはしない。
橋の下は丁度、小曽木街道の青梅坂トンネルの上あたり。昔はこの小曽木街道を通り、丘陵北側の成木地区で算出する石灰や、山々で伐採された木材を江戸に運んでいたのだろう。

第四休憩所
先に進む。尾根下の森下町とか裏宿への分岐が。かまわず進む。麻利支天尊梅園神社経由裏宿町への分岐。麻利支天は武士の護り本尊。
再び急な坂。南側斜面が開ける。送電線の鉄塔を越え第四休憩所に。ここからの青梅市街の眺めは美しい。しばし眺めを楽しみ再び歩を進める。

矢倉台の休憩所
ゆるやかな上り坂。樹林の中を進むと宮の平駅・日向和田駅方面への分岐。かまわず進むと急な坂。本日の散歩道で最大の勾配。上りきったところが矢倉台の休憩所。第四休憩所よりさらに美しい眺め。

由来書によれば、ここは物見櫓のあったところ。物見櫓(矢倉台)の由来書;青梅市、かつての杣保(そまほ)に拠点を置いた豪族三田氏は代々、市内東青梅の勝沼城に居住していたが、北条氏照の八王子滝山入場による、多摩地方の情勢の変化を受け、永禄年間(1556年から1569年)の初め頃、二俣尾の辛垣山に城を築いたと言われる。物見櫓(矢倉台)はこの辛垣城(西城)から南東役3キロメートルに位置し、戦略上重要な物見の場所であった」という。

三方山の頂上
矢倉台を下り樹林の中を進む。道標。「左 日向和田 右辛垣城」。ここからはアップダウンの激しい山道となる。「辛垣城 左へ2.7km」と。左折して西へむかう尾根道に。樹林を越えると送電線の鉄塔。さらに尾根道そして上り。結構きつい。ピークに上り切る。北側が開ける。眺めは圧倒的に素晴らしい。三方山の頂上だろう。標高454m。

名郷峠

ピークを越え尾根道を進む。右手斜面が伐採されている。足元は少々怖いが、眺めは素晴らしい。「辛垣城跡700m 電電山1.2km」の道標。アップダウンの尾根道が続く。いやはやきつい。

「二俣尾方面」の道標のある分岐点からは急激な下り。下りきったところが名郷峠。標高400m。道標によれば「辛垣城200m 電電山700m 二俣尾1.6km 成木1.2km」。城跡まであと一息。それと、ここから二俣尾に下りられる。それがなによりうれしい。いま降りてきたあの坂を、また上りたいなどとは金輪際思わない。
名郷峠は二俣尾から成木地区に抜ける峠道の交差点。往時の交通の要衝。長尾峠の別名もある。この峠道を「おかね道路」と呼んだとも。

辛垣城跡

峠を越え尾根道を進む。道の左手にある山に登る分岐が。「辛垣城跡登り口」と手書き文字。すごい坂道。勘弁してほしい、って感じ。膝というか足の蝶番(ちょうつがい)がギクシャク。
狭小な曲輪跡を越え大岩を切り取った急な坂を登りきる。削平地が。200坪程度か。周囲は急斜面。城址と言われれば、そういうもんか、といった状況。少なくともここに篭城できる、といった城構えではない。山の砦でといえば正確であろうか。

辛垣城の由緒書が。辛垣城跡;「この辛垣山(標高450メートル)の山頂には、青梅地方の中世の豪族三田氏がたて籠もった天嶮の要害である辛垣城があり、市内東青梅6丁目(旧師岡)の勝沼城に対して西城と呼ばれる。
永禄6年(1563年)、八王子の滝山城主北条氏照の軍勢に攻められ落城、城主三田綱秀は岩槻城(埼玉県岩槻市)に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田一族は滅亡した。
城跡にあたる山頂の平坦部は大正末期までおこなわれた石灰岩の採掘により崩れ、往時の遺構ははっきりしない」、と。

三田氏
平将門の後裔とする三田氏、奥多摩・青梅地方の50数カ村、つまり日向・日蔭の河岸段丘とその周辺、つまりは多摩川の谷奥=三田谷と呼ばれ杣の保を支配し文化を伝えた三田一族は小田原・北条氏と奥多摩の谷筋で激戦を繰り返す。上杉の勇将・岩槻の太田正資と連携しながら奮戦。しかし、五日市、戸倉、檜原での戦いに破れ、二俣尾の辛垣城での決戦で敗れた。「カラカイノ南ノ山ノ玉手箱アケテクヤシキ我身ナリケリ」。落城の時、三田綱秀が詠んだと言われる歌。二俣尾の谷合家に日記に伝わる。辛垣城の南にあるなにか、多分砦かなにかだろう、そこでなにか予想外の展開が起こり、結果的に勝敗を決するなにかが起きた、のだろう。一説によれば、辛垣城の南尾根にある砦・桝形城がその舞台とか。

ともあれ、この激しい武蔵野合戦は谷底の合戦、段丘上の合戦と呼ばれる。付近には軍畑、首塚などの激しい合戦にまつわる地名がのこる。とはいうものの、当時の合戦は殲滅戦ではない。主郭の家屋が炎上した時点で勝敗が決し、主将の降伏か自刃で終了し、それ以上の殺戮はなかったわけだから、常のこととして少々の誇張もある、かも。

二俣尾駅
しばし休憩し再び急坂を名郷峠まで戻り、二俣尾へのルートを下りる。二俣尾は交通の要衝。西は青梅街道または甲州裏街道とも呼ばれ大菩薩へ通じる道。北は名栗を経て秩父大宮へいく古道がここでわかれるので二俣尾という名前がついた。現在は北の飯能へと県道193号線が走っているが、この道は往時の鎌倉街道山ノ道、 通称秩父道。いつだったか、高尾から秩父に向かって歩いた道。昔は軍事、経済の往還として賑わったことだろう。勿論、信仰の道としても北の秩父盆地から御岳権現社への参拝道もここを通ったのだろう。で、二俣尾駅に戻り本日の散歩の予定終了。

青梅の由来

そうそう、青梅の由来。昔平将門が杖代わりにしていた梅の木をこの地に植える。が、実が赤くなることなく、青いままであるので青梅となったとか。それからまた、青梅の梅の名所を吉野郷と。何故。吉野って、桜の名所。実のとこと、この郷、桜の郷にしようとした、とか。それがうまくいかず、梅の郷とはなったが、吉野の名前だけが残った。桜の話はどこかで聞きかじった話。吉野の解釈は自分なりの田舎解釈。真偽の程は定かならず。

ちなみに日向道(ひなた)と日蔭道。お世話になっている先生に日向先生がいる。気になって調べてみた。あたりまえの解釈は「陽の当たる道と陽が当たらない道」。なかには神奈川日向薬師
のように、日向薬師までの「日向道は、もともと修験者が通る道で、それ以外の参拝者は、日陰道を通ったそうです」と。先生の名前の由来はどちらからであろうか。

水曜日, 3月 01, 2006

多摩丘陵散歩:稲田堤から小沢城址を経て新百合ヶ丘に

都下稲城市と川崎市多摩区の境あたりを歩く。過日多摩丘陵の横山の道散歩のとき、途中の車窓から眺めたこのあたり、多摩川を渡ると迫り来る丘陵地帯が結構気になっていた。いつか歩こう、と思っていた。が、なんとなくきっかけがつかめない。と、思っていたところ、ふとしたきかっけである本を見つけた。仕事で一ツ橋大学に出かけたときに、国立・学園通りにある古本屋に立ち寄り『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を手に入れた。稲田堤のあたりに小沢城址がある、とのこと。いいきっかけができた。行かずばなるまい、ということで京王稲田堤に降り立った。


本日のルート;京王稲田堤>府中街道>JR稲田堤駅入口を右折>(三沢川・国士舘大学裏あたりが源流点>黒川>鶴川街道に沿って稲城・稲城からは鶴川街道から離れて)>天宿橋>多摩自然遊歩道・小沢城址緑地の入口を確認>旧三沢川>指月橋>大谷橋>薬師堂>菅北浦緑地>法泉寺>子ノ神社>福昌寺>玉林寺>小沢城址緑地の入口>浅間山・小沢城址(高射砲探照灯・物見・浅間神社・鷹狩・)>寿福寺>フルーツパーク>菅仙谷3丁目>NTV生田スタジオ>多摩美ふれあいの森>多摩美公園>細山6丁目・細山5丁目>西生田小前交差点で右折>細山神明社>香林寺・五重塔>細山郷土資料館>千代ヶ丘2丁目・1丁目を経てもみじケ岡公園東側>万福寺>十二神社>新百合ヶ丘駅

京王稲田堤


駅前で案内地図チェック。駅前を走る府中街道を少し南に下り、三沢川の南にある薬師堂のあたりから始まり丘陵地帯を越え、小田急のよみうりランド駅に抜ける遊歩道がある。案内図には「小沢城址」のマークはない。が、途中寿福寺を通る。小沢城址は寿福寺の近く。遊歩道にそってあるけば小沢城址に行けるだろう。ということで、この案内図に沿って歩くことにした。

京王稲田堤駅は京王線の中では数少ない、川崎市に位置する駅。駅のある川崎市多摩区あたりの歴史は古い。奈良時代、大伴家持らの手によって編纂された 『万葉集』にも「多摩川」の名で登場するいくつかの歌がある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

稲田堤の由来
稲田堤の名前の稲田の由来:多摩川は暴れ川。洪水・氾濫により上流から土や砂を運び堆積されて肥沃な土地が生まれた。で、「稲毛米」という高品質な米が生産された。これが「稲田」の由来。また暴れ川の治水工事のゆえに堤防ができ。「稲田」+「堤」=稲田堤、ってわけ。稲田堤は昔、桜並木で有名であったようだ。が、いまはその面影はない。

三沢川
府中街道に沿って菅、菅稲田堤地区を少し下る。菅小学校を超えたあたりで三沢川と交差。鎌倉・室町の頃多摩川は多摩丘陵の山裾を流れていた。が、川筋が次第に北に移り、天正年間の大洪水により現在の流路に。で、このあたりにスゲが群生していたのが「菅」の由来。

三沢川筋を遡り丘陵地帯に向かう。地図で確認すると、三沢川は多摩横山の道散歩の時に目にした国士舘大学近くの黒川が源流点のよう。鶴川街道に沿って黒川駅、若葉台駅を経て京王稲城駅近くまで北東に走り、稲城からは東に向って稲田堤の近くで多摩川に合流する。

旧三沢川
ともあれ、川筋を丘陵方向に向かって西に歩く。川が丘陵に近づくところに「小沢城址緑地」の案内図。ラッキー。いつも上り口を探すのに苦労するのだが、今回はついている。上り口を確認し、気分も軽やかに薬師堂に向う。


指月橋
丘陵に沿った別の川筋・旧三沢川に沿って歩く。指月橋。義経・弁慶主従が頼朝の勘気を蒙り、奥州・藤原氏を頼って落ち行くとき、この地で月を眺めた、とか。

薬師堂

小沢城址とは別の丘陵・菅小谷緑地を越え、またもうひとつ東の丘陵の麓に薬師堂。稲毛三郎重成建立。毎年9月12日、魔除神事の獅子舞が行われる。東に更にもうひとつの丘陵。法泉寺、福昌寺、玉林寺がある。

子ノ神社
おまいりをすませ、東隣にある子ノ神社(ねのじんじゃ)に。名前に惹かれる。由来書は読んだが要点わからず;「菅村地主明神は大己貴神であるが、創立の年代不明。本地は十二面観音。薬師第一夜叉大将を習合し子ノ神と。保元の乱の白川殿夜討ちの折、鎮西八郎為朝が、左馬頭義朝に向けて放った矢を義朝のこどもが受け継ぎ参籠の折、地主明神に納め以降根之神と。新田義貞鎌倉攻めのとき社殿焼失。北条氏康により再興」、といった由来書。
根之(ねの)神社は南 関東から東海地方にかけて集中的に分布するローカルな神様。18人も子どもがいたという、子だくさんの神様である大己貴神=子ノ神と、神代の根之国の神様である根之神の関連などよくわからない。今度ちゃんとしらべておこう。ちなみに白川院は先日の京都散歩のとき、岡崎で偶然出会った。

小沢城址緑地への上り口

再び旧三沢川を西に、小沢城址緑地への上り口に戻る。丘陵に上る。尾根道が続く。案内板が。高射砲探照灯基地がこの地下あった、と。ここで首都圏場爆撃に来襲のB29を探照灯で捉え、登戸近くの枡形城のある丘陵地の高射砲が射撃した。
「物見台」の案内。江戸から秩父連峰まで関八州が見渡せたとか。「鷹の巣」の案内。家光公が鷹狩のみぎり、稲城の大丸、というからJR南武線・南多摩駅あたりからはじめ、夜はこの地の寿福寺とか、庄屋の屋敷に泊まる。で、鷹匠が泊まる屋敷を鷹の巣と。
「浅間神社」の案内。尾根道に一握りといった小さな石のお宮さま。これが浅間神社。富士山の守り神。富士山への民間信仰・富士講にでかける多摩の人々がこの尾根道を越えて菅村、そして調布、甲州街道を経て富士山に。道中の無事を祈ってつくられたものであろう。結構続く尾根道を歩き、城址に。

小沢城址

小沢城の案内が。「この地域は、江戸時代末から「城山」と言い伝えられ、新編武蔵風土記にも小沢小太郎の居城と記録されています。この小沢小太郎は、源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子でこの地域を支配していた人です。ここは、丘陵地形が天然の要害となり、鎌倉道や多摩川の広い低地や河原がそばにあったことから、

鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となりました。城の形跡として、空堀、物見台、馬場などと思われる物があり当時を偲ばせますが、現在は小沢城址緑地保全地区に指定され、自然の豊かな散策路としても貴重な存在です」、と。「馬場址」の案内。鎌倉から戦国時代に至る380年の間、この地は鎌倉幕府の北の防衛線。この馬場で武士たちが武術を磨いた。その間6,7回の合戦。
最も激しい戦いは新田義貞と北条高時の分倍河原合戦。鎌倉時代末、1333年。新田軍は分倍河原。高時軍は関戸に布陣。新田軍の勝利。怒涛の新田軍は関戸もこの小沢城も陥落。一気呵成に鎌倉を陥落させた。

南北朝には、足利尊氏と足利直義の対立から起きた観応の乱の舞台となる。1351年、小沢城にこもる足利直義の軍勢と尊氏軍との間で合戦がおこなわれる。戦国時代には、後北条、つまりは北条早雲の「北条」氏と上杉氏との勢力争いのフロントライン。

1530年には武蔵最大の支配力をもつ上杉朝興に対し、後北条氏の軍勢は小沢城に陣を張り、これを撃破。北条氏康の初陣の合戦でもある。世に言う小沢原合戦がこれ。

小沢小太郎重政

丘陵地形が天然の要害を形づくっているこの地は、鎌倉道が通る戦略的要衝(ようしょう)の地。多摩川の広い低地や河原をひかえていたため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になったわけだ。ちなみに案内板にあった小沢小太郎重政は、鎌倉幕府が源氏3代で滅びたあと、北条一族の時代になって悲劇的な最期を遂げる。

小沢小太郎重政の最後は、鎌倉武士の鑑とされた畠山重忠の謀殺と大いに関係する。直裁に言えば、畠山重忠謀殺に加担したのが、この小沢小太郎重政。武蔵を歩けば折にふれ、畠山重忠由来の地に出会う。そんな「有名人」重忠の騙し討ちから自滅までの小沢小太郎重政の軌跡を時系列にまとめる;
1.稲毛三郎重成は執権・北条時政の娘婿に
2.時政とその後妻・牧の方は稲毛三郎重成に「あなたの従兄の畠山次郎重忠・重保父子が謀反」と、いう謀略を仕組む。
3.畠山重忠は、源頼朝の旗揚げから忠臣・重臣。その重忠の従弟である稲毛三郎重成は、北条時政と牧の方の謀略に加担。畠山父子を殺す手引きし、父子を鎌倉へ呼び出す。
4.鎌倉は「謀反人を討つべし」との声、騒然。自分たちがトラップにかけられていることなど露思わず、畠山重保は郎従3人とともに由井ヶ浜へ。
5.北条時政の命を受けた三浦義村軍に取り囲まれ、重保は奮戦むなしく惨殺。二俣川では重忠が謀殺された。
6.翌日には稲毛三郎重成・重政父子も誅殺される。畠山一族に代わって稲毛一族が強大になることを恐れた北条時政は、「畠山父子を謀殺したのは稲毛の策略」と、二重のトラップをかけていたわけだ。

寿福寺雑木林の城址で少々休憩の後、丘陵を下る。臨済宗の仙石山寿福寺。このあたりは菅仙石と呼ばれる。山あり、谷あり、仙人の住む谷戸、である。寺伝によれば、とある仙人が子の地で修行。ために、「仙石」と呼ばれた、とも。
寿福寺の歴史は古く、『江戸名所図会』によれば、古墳文化時代の「 推古天皇6(598)年に聖徳太子が建立」とも書かれている。指月橋にも登場したが、このお寺にも義経と弁慶主従の伝説が。鎌倉から奥州平泉に逃れる途中、ここに隠れ住み、その間に「大般若経」を写した経文がある、とか。また、義経と弁慶の鐙二具と袈裟も残されている、とか。本堂裏の五財弁尊天池の近くには「弁慶のかくれ穴」、千石の入り口には「弁慶渡らずの橋」という土橋、その近くには、「弁慶の足跡石」もある、とか。

西南にゆったりと下る丘陵地、そこに広がる景観は美しい。 しばし休憩し、再び歩きはじめる。歓声が聞こえる。読売ランドからの響きだろう。しばらく進むとフルーツパーク。温室栽培の果物が。イチゴ狩りがあるのかどうか知らないが、宅地化が進んだこのあたりは桃や梨で有名、と聞いたことがある。たしか、「多摩川梨」だった、と

思う。とはいうものの、男ひとりでフルーツ園もなんだかな、ということで先に進む。

多摩自然遊歩道

菅仙石3丁目の交差点近くに菅高校。ちょっとした登りの坂をNTV生田スタジオ、読売日本交響楽団の練習場に沿って登る。
上りきったあたりに「多摩自然遊歩道」。小田急・読売ランド駅方向に下っている。「市民健康の森」を右手に眺めながら雑木林を歩く。と、後ろから追い抜かれたご夫人に声をかけかられる。散歩好きの感じ。稲田堤から読売ランド駅まで歩いてきた、と。話の中で少し戻れば、丘陵地帯を新百合ヶ丘に進む道がある、という。
どこかで読んだのだが、新百合丘の近くの丘陵地に万福寺あたりに鎌倉古道が残っている、と。行かずばなるまい。とは思いながらも、結構分かりにくそうではある。が、このまま進み読売ランドの駅から百合丘、新百合ヶ丘に津久井道を進むのもなんだかなあ。ということで、「市民健康の森」あたりまで引き返すことに。

五重塔が見える

「市民健康の森」に入り込み、雑木林を進む。「多摩美ふれあいの森」の裾に沿って少し歩くと住 宅地。多摩美2丁目。ちょっと離れた西の別尾根筋に五重塔が見える。多摩の地に五重塔があるなど、思ってもみなかった。行かずばなるまい。一体どのあたりかは定かではない。成り行きで進むしかない。
細山神明社
もう少し丘陵地の裾を進む。細山6丁目で交通量の多い道筋にでる。この道は読売ランドの丘陵地を越え、京王読売ランド駅の西から南武線・矢野口駅近くで鶴川街道に連なる道。読売ランドとは逆方向に進み、なんとなく西生田小学校交差点で右折。少し進むと細山神明社。とりあえず道の脇にある鳥居をくぐり石段を登る。

社殿は丘の上の鳥居をくぐり別の石段を下りたところにある??普通は坂を登ったり、石段を登ったところに社殿があるはず?これって一体なんだ?由来書にその理由が書いてあった。
神社を創建時、社殿は東向きだった。が、一夜にして西向きに。村の人々は不思議に思いながらも再び東向きに戻す。が、夜が明けるとまた西向きに。そんなことが3度も続いたある夜、名主の夢枕に神様が立ち曰く、「神明社は細山村の東端。東向きでは村の鎮護ができない。氏子をまもるため西に向けよ。西の伊勢の方向へ向けよ、大門が逆になっても良い」というお告げ。それ以後、社殿は西向きになり、大門はいわゆる「逆さ大門」となった。ちなみに、「逆さ大門」は関東に3社ある、とか。

五重塔は香林寺

道を進む。が、五重塔が見えなくなった。はてさて。細山2丁目の細山

派出所交差点あたりに偶然、五重塔への案内が。ラッキー。車道筋からはなれ、小高い丘をの ぼる。香林寺。里山の斜面に諸堂が並ぶ。三門、本堂、鐘堂、そして岡の最上部に五重塔。ここからの眺め、里山の姿は本当に美しい。こんな景観が楽しめるなど考えてもみていなかった。偶然散歩の途中に五重塔が目に入り、それを目指して歩いてきた、といったいくつかの偶然の恩寵。里山百景として絶対お勧め。
ちなみに、この五重塔は1987年創建。結構新しいのだが、外装は木造、内部は鉄筋コンクリート、といった意匠のため落ち着いた雰囲気を出していた。いやはや、この眺めはいい!

細山郷土資料館

香林寺を出る。すぐ前に細山郷土資料館。江戸時代だったかどうか忘れてしまったが、この細山から金程といったあたりの立体地形図があった。細山と呼ばれたように、細い丘陵が幾筋も広がっていた。

千代ヶ丘

道に戻り、一路新百合丘を目指す。千代ヶ丘の交差点まで直進。このあたりが丘陵地の南端か。あとは下るだけ。千代ヶ丘1丁目の住宅地を下り、もみじケ丘公園東側交差点に。南に新百合丘に至る道。人も車も急に増える。

道を進む。道脇の標識でこのあたりが万福寺である、と。宅地開発の真っ最中。いくつかの不動産会社が共同して開発しているよう。自然の丘などありゃしない。削り取られ、整地された分譲開発地。これでは鎌倉古道跡など望むべくもなし。

新百合ヶ丘駅

丘の南端に十二神社。このあたりだけが昔のまま、か。神社への石段を登る。宅地開発の恩恵か、石段もなにも、新調されている。分譲地のアクセントとしてはいいかも、といった印象。早々に引き上げる。で、目的の万福寺を探す。が、それっぽいお寺などありゃしない。どうも万福寺って、お寺の名前ではなく地名で あった。ということで少々収まりが悪いながらも、本日の予定は終了。新百合ヶ丘駅から家路に急ぐ。

帰宅し調べたところによると、江戸時代江戸時代に林述斎を総裁に間宮士信ら四十数人が編纂した『新編武蔵風土記稿』にすでに「古、万福寺と云寺院ありしゆへかゝる名もあるにや、今は土地にも其伝へなし、またまさしく寺跡と覚ゆる地も見えず」と記されていた。

2009年の3月に再び小沢城址から香林寺へと歩いた。香林寺からの眺めを楽しんでいると、南の高台に神社らしき構えが見える。このあたりで最も高い場所のように思える。さぞや眺めもいいだろう、と歩を進める。高石神社であった。まことにいい眺めであった。