水曜日, 12月 14, 2022

伊予 大洲街道散歩 その④;水呑観音から千部峠を経て内子の福岡大師堂へ

先回は予定では予讃線伊予立川駅よりはじめ、休場峠を越え一旦水呑観音の谷筋に出た後、再び千部峠を抜けて内子の福岡大師堂までの大洲街道をトレースするつもりではあった。が、宿茂トンネル手前の激しい藪、また、アプローチ口のはっきりしない水呑観音より先のルート取りが難しく、後日、アプローチ口のはっきりしている内子側から水呑観音を繋ぐこととし千部峠を抜ける計画を断念。国道まで下り、伊予立川駅まで戻った。
水呑観音の先での撤退決定の時刻が早かったこともあり、午後日没まで時間に余裕があったため予定になかった伊予中山駅から伊予立川駅まで繋ぐことにした。
で、今回内子側から水呑観音を繋ぎ、うまく繋ぐことができれば、国道を内子側のアプローチ口まで歩いて戻り、そこから内子町の福岡大師堂まで繋ぐことにした。
結果は予定通り内子側から水呑観音までを繋ぐことができた。ルート取りが難しい場合の常として、アプローチ口がはっきりしているところからルート取りが難しいところを繋ぐことにしているのだが、今回もうまくいった。道筋も農道や踏まれた道がほとんど。少しわかりにくかったのは歩きはじめてほどなく農道へと崖を這い上がる箇所、先回撤退箇所あたりの背丈ほどもある草の生い茂る箇所の2か所だけであった。
が、大洲街道はなかなか楽にさせてくれない。水呑観音から内子側の水呑観音へのアプローチ口まで国道を戻り、そこから、大洲街道歩きのきっかけともなった福岡大師堂まで繋ぐことになるのだが、ここが予想外の展開。内子の町も眼下に見えるといった山際のルートであり、もう終わったも同然、楽勝ルートと思っていたのが大誤算。勘弁してほしいといった藪と格闘することになった。
200mほどの距離を進むのに40分以上もかかった藪を抜け畑地を成り行きで進むと、何と福岡大師堂傍の松山・大洲街道の案内のあるところにピッタリと出た。四国遍路歩きの途次、福岡大師堂傍、民家の間の細路に「松山・大洲街道」の案内を見て、この道ってどんなルートで松山と繋がるのだろう、そのうち歩いてみたいと思ったのが2017年6月。それから知らず5年半が経っていた。何だか感慨深い。
ともあれ、メモを始める。今回は内子側から水呑観音までのトレースメモを最初に書き、次いで、水呑観音側から内子までも「逆廻し」で編集しメモしておく。



本日のルート;
内子側アプローチ口から水呑観音へ
県道243号内子町城廻の大洲街道案内>橋の南詰に標石>民家の間の細路に入る>竹藪の崖を這い上がる>農道に出る>173.7三角点>分岐点の先に大洲街道標石>松尾大明神>道の両側に石仏が祀られる>道の左手直ぐ下に千部集落が見える>下りの山道に入る>分岐点>先回辿った林道に合流>林道を逸れヘアピン状に沢筋の道に下りる>大師石仏>水呑観音
水呑観音から内子町城廻のアプローチ口へ逆廻りガイド
水呑観音をスタート>林道に合流>林道より分岐>分岐点>大洲街道標石>松尾大明神と標石>舗装道が左に分岐する>173.3m三角点>耕地を抜ける農道が切れる>崖を下る>麓川南詰めの標石>県道243号脇に標石
内子町城廻の大洲街道アプローチ口から福岡大師堂まで
内子町城廻の大洲街道歩きスタート地点に戻る>福岡大師堂に向かって歩き始める>県道243号を右に逸れ旧道に>山道入口に標石>激しい藪に阻まれる>沢筋前で藪が切れる>耕地跡に出る>福岡大師堂傍の大洲・松山街道口に到着

国土地理院地図


NOTE:地図が表示されない場合は、検索窓に「八幡浜」などの地名(適当に「東京」などを入力しても表示されます)を入力し
エンターキーを押すと地図が表示されます


内子側アプローチ口から水呑観音へ

県道243号内子町城廻の大洲街道案内;午前8時6分
県道脇の標石
国道56号に沿って流れる中山川に麓川が合流する直ぐ先、右に折れ県道243号を少し進んだ右手に少し広いスペースがある。県道脇には「松山・大洲街道」と刻まれた結構新しい標石、中ほどには「松山・大洲街道」の案内板がある。案内板のルート図は概要だけであり、詳細なものではない。が、その案内に先回藪と格闘した宿茂トンネル出口あたりに「本来の街道はJR予讃線のほうに下りてゆくのだが、草木が生い茂り茂り通行困難なため、国道56号へ出て笹橋を渡り進む」の記載がある。本当に酷だった。伊予立川駅のほうにこういった案内が欲しかった。が、後の祭り。
車をデポし、標石の指す方向に従い麓川に架かる橋に進む。

橋の南詰に標石;午前8時9分
麓川に架かる橋の南詰、親柱の傍に「左 大洲街道」と刻まれた標石がコンクリートで固定される。 
麓川と梺(ふもと)
麓川と中山川に囲まれた南に突き出た台地は「梺」と記される。水呑観音から内子に歩いて戻るとき、梺下の道をあるいていると「曽根城址登り口」の石柱があった。梺の台地上には 曽根(祖祢)高昌により築城されたと云われる城跡がある。帯郭があり、東側に石垣、腰郭があると言われるが、門外漢にはよくわからない。
「えひめの記憶」には「曽根(祖祢)高昌 生年不詳~弘治2年(~1556)戦国時代の喜多郡の領主。治部大輔の官途を有し,内子町城廻の曽根城を居城とする。同城は,中山川と麓川にはさまれた要害の地に位置し,現在も広大な郭の跡が残っている。はじめ周防国熊毛郡曽根(現熊毛郡平生町)に住して大内氏に仕え,のち喜多郡に移ったという。天文年間に大内義隆が高昌充に発した書状が2通残されている。子の宣高(高房)の時,小早川隆景の招きによって毛利輝元に仕えることになり,孫景房は,慶長5年(1600)に毛利勢が松前の加藤嘉明を攻めた際,毛利氏の軍中にあって戦死した。内子町の高昌寺は,高昌が開いた曽根氏の菩提寺である」とある。
高昌寺の涅槃仏は5年前に訪れたのだが、未だ記憶に残る。

民家脇の細路を森に入る;午前8時11分
民家脇の細路を進み
森に入る。道は踏まれている
橋を渡ると大洲街道は民家の間の細路に入る。「愛媛県歴史の道調査報告書」の大洲街道ルートは、国土地理院地図の実線ルート上を進む。アプローチ口がはっきりしない水呑観音側からの大洲街道トレースを早々に打ち切ったのは、この内子側からのアプローチ口がはっきりとわかることが最大の要因でもあった。
道を進むと直ぐ森に入る。道はよく踏まれている。

竹藪の崖を這い上がる;午前8時20分
竹藪の崖を成り行きで這い上がると
偶々丘陵上に続く踏まれた道があった
少し進むと道が少しわかりにくくなる。国土地理院の地図に描かれた実線ルートはもう少し先まで続いているが、左手の比高差40mほど上にも国土地理院地図に実線ルートが描かれており、Google Mapの航空写真でチェックするとそれは耕地傍を通る農道のように見える。因みに水呑観音側からのルート探しを早々に切り上げ、内子側からのアプローチにしようと決めた因のひとつは、航空写真で見るとここも含めて大洲街道推定ルートが「道」としてはっきり見えることもその因のひとつである。 取り敢えず左の崖を這い上がれば農道に出ると竹の茂る崖を這い上がる。結構傾斜が激しく、直登を避け登りやすいルートを進むと想定ルートより大きく南に引っ張られるが、5分ほどすると丘陵上に出るような踏まれた道に出る(午前8時26分)。

農道に出る;午前8時29分
踏まれた道を上ると広い道に出る
その先、耕地傍の農道を進む
踏まれた道を上ると直ぐ道に出る(午前8時27分)。地理院地図で確認すると、この道は麓川傍の常久寺地区辺りから続いている。その先作業小屋を見ながら進むと周りが開け耕地のある農道に出る。

右手遠くに山並みが見える。竹藪の踏まれた道を上ったところの道からこのあたりまで航空写真に耕地脇に道が見える。
この航空写真に道筋が見えるのがわかったのも、水呑観音側からの大洲街道トレースを早々に切り上げ、内子側からのアプローチに切り替えた因のひとつでもある。

173.7三角点;午前8時37分
切通しを抜け森の中の整備された道を進む
数分歩くと173.7三角点。右手が開ける
道を進むと一瞬森に入る。切通し(午前8時33分)を抜け数分歩くと、右手が開ける。地図には173.7三角点のマークがある、左手の森の中にでもあるのだろうか。低いながらも道は等高線170mに左右を囲まれた丘陵部の尾根筋を進む。
森に入り航空写真には見えなくなった道筋は、三角点を越えた辺りから後述する松尾大明神のあたりまで再びはっきりと航空写真に現れる。

分岐点の先に大洲街道標石:午前8時41
舗装された道が右に分岐する。
分岐点の直ぐ先に「大洲・松山街道:標石
右手が開け耕地が続く道を数分歩くと分岐点にあたる。右に折れる道は舗装されており、丘陵地を大きく迂回しながら城廻集落、そして国道56号へと続いているようだ。
分岐点の直ぐ先、道の左手に「大洲・松山街道」と刻まれた標石がある。結構新しい。 このあたり航空写真にも開けた耕地の中に続く道筋が確認できる。

松尾大明神;午前8時43分
松尾大明神
獣侵入防止フェンス
標石から数分歩くと道の左手に鳥居があり、社には「松尾大明神」とある。チェックするが由緒など何もヒットしない。
等高線170mと180mの間の尾根筋を進む道を歩くこと数分、獣除けのフェンスが道をふさぐ(午前8時49分)。この先、集落の耕地があるのだろう。
パイプに通された上下二本の鉄棒を抜き、フェンスを開け通過し元に戻す。フェンスの先も道はよく踏まれている。

道の両側に石仏が祀られる;午前8時51分
左に緩やかにカーブしながら進むと等高線170mに囲まれた道筋から等高線160mに左右を囲まれた道に出る。緩やかな下りであり知らず下りた。道の両側の小さな石祠に石仏が祀られる(午前8時51分)。
地図を見ると等高線160mに左右を囲まれた先に等高線170mに囲まれた小さな丘が描かれる、北と南を等高線170mに囲まれ、この辺りは鞍部となっている。案内はないが、千部峠はこの鞍部を指すのかとも思える。
松尾大明神の先から航空写真に見えなくなった道筋は。石仏手前辺りから森に入る辺りまではっきりと見える。この辺り、山越え、峠越えというより、丘陵上の集落を抜ける道といった雰囲気。

道の左手直ぐ下に千部集落が見える;午前8時53分
右手下に千部の集落
上水施設?対面に標石(水呑観音側から撮る)
石仏より鞍部を数分進むと踏まれた道の右下に千部の集落が見える。この先航空写真で見える森に入って行くのだが、先回ルート取りが難しく撤退したこともあり、近くに集落があるのは心強い。 
その直ぐ先、道の左に上水施設らしき構造物。その対面に「左 大洲街道 平成二年」と刻まれた標石(午前8時53分)が立つ。
大洲街道標石
道を進むと獣除けのフェンス(午前8時57分)。こちらは北側から集落の耕地に入る獣を防ぐのだろう。上はパイプに通した鉄棒、下は紐で固定されている。これも鉄棒を抜き、紐を解きフェンスを通過し元に戻す。

下りの山道に入る;午前8時58分
下りの山道に入る
道は踏まれている
千部峠であろう鞍部もこの辺りで切れ、等高線170mに囲まれた小さな丘の西側を抜け、その先は森に入る。等高線160mに囲まれた道筋を進み、西に切り込んだ沢筋だろう箇所を緩やかに左に迂回し道を進む。

分岐点;午前9時10分
分岐点。水呑観音は左
等高線をほぼ垂直に等高線170mから160m,150mと踏まれた道を下ってゆく。急傾斜といった道ではなく至極快適。道は「愛媛県歴史の道調査報告書」にあった破線で描かれた推定ルート図に沿って下る。一筋左は先回、何となく、大洲街道じゃないよな、と違和感を感じ撤退した道筋。これはいい調子と道を下る。
が、等高線150mを過ぎた辺りから踏まれた道は破線推定ルート図から東へと逸れてゆく。ちょっとまずい。
と、等高線120mの辺りで踏まれた道は二つに分かれる。左に進めば先回辿ったルートに合流する。で、破線推定ルートに復帰しようと右の道を進む。が、破線推定ルートとクロスする辺りには踏まれた道はない。実線で描かれたルートであればともかく、破線ということは比定されていないルートであろうし、そこを力任せで下りるものなんだかなあ、と分岐点まで戻ることにした(午前9時21分)。こちらの道であればすんなり水呑観音まで出れることは先回で承知済みである。

先回辿った林道に合流;午前9時23分
分岐点から少し進むと先回辿ったルートに合流する。合流点では南に直進する前回辿ったルートのほうがはっきり踏まれた林道となっており、今回下りてきた道筋は草が茂りはっきりとわからない。本来ならこの「分岐点」を左に進めば今まで辿ってきた道に出たのだろうが、それは無理だろう。水呑観音側から大洲街道を辿る場合はここは注意すべき箇所かと思う。左に折れ直ぐ踏まれた道に乗ればそれがオンコース。
●道が繋がり安心したのか合流点の写真を撮り忘れた。水呑観音側からトレースする場合は、地図にプロットした、前回のトラックロブと分かれる辺りを注意して左に折れてください。

林道を下りる;午前9時25分
草は茂るが足元はしっかりして林道っぽい
林道を抜けると先が開け作業小屋もある
その先背丈ほどの草が茂る林道を成り行きで進む。草に覆われてはいるが足元を見ると林道といった道筋ではある。
東北に突き出た等高線129mラインに沿ってグルリと廻ると前方が開け作業小屋も見える(午前9時5分)。

林道を逸れヘアピン状に沢筋の道に下りる;午前9時28分
林道右下の沢筋に下りる
沢筋右岸に沿って草道を進む
大洲街道は作業小屋の手前、草の生い茂る林道下に見える小さな沢に下りる。背丈ほどの草が茂りちょっとわかりにくい。沢に下りた道は林道とヘアピン状といった状態で少し林道に沿って進む。
沢に下りた時間は9時25分となっているが、それは分岐点から右に折れ破線推定ルートチェックに行ったため。チェック後、分岐点に戻ったのは午前9時21分なので、分岐点から沢筋へ下りるまでは実際は5分ほどである。
内子側・水呑観音側からのアプローチ注意点
内子側から下りて来た場合は、この折り返し点はちょっとわかりにくいが、水呑観音側からの場合は、少し楽。沢筋の広い道を進むと成り行きで沢の源頭部の踏み分け道に入り、沢の石を踏んで右岸に移ると草の茂る林道に出る。背丈ほどの草は茂るが林道といった道ではあるので、林道に出れば左へと進めばいい。
左へと進んだその先はその逆。内子側から下る場合は成り行きで進めばいいが、水呑観音側から進む場合は先回私が進んだようにはっきりと道筋がわかる直進する林道を進むことになるかと思う。ちょっとわかりにくいが、地図に記した「分岐;先回はここを直進」ポイントを左に進めば踏まれた道に出る。
この2箇所が水呑観音から内子へと抜ける道の注意ポイントのように思う。

沢に置かれた石を踏み左岸に移り踏まれた道に出る;午前9時30分
沢左岸の草道を進むと
踏まれた道に出る(水呑観音側からの写真)
道は林道から次第に離れ、沢の石を踏み沢左岸に移る。その先少し草道を進むと踏まれた道に出る。





大師石仏;午前9時34分
支沢対岸に舗装道路がみえてくる
道の左手山側に大師石仏
次第に大きくなる沢筋(本沢?)を左に見ながら道を東進し、北から本沢に注ぐ支沢に沿って北進。沢の対岸には舗装された道が見える。 林道から小さな沢に折れたあたりから10分ほど歩くと、道の左手に石の祠に石仏が並ぶ。幟には「南大師遍照金剛」とある。石仏は大師像なのだろう。

水呑観音;午前9時35分
観音菩薩
水呑観音堂
大師像の直ぐ先に水呑観音堂。お堂の扉を開けることができたのでお像をゆっくり拝顔。美しいお姿。お礼に父母の菩提を弔うため毎朝読経しているうちに覚えた観音教(大乗妙典観世音菩薩普門品偈)をはじめて家の仏壇前以外で唱えた。人の気配のない山中、ちょっと大きめの声で。 お堂前には「大洲街道」と刻まれた標石も立つ。

水呑観音堂前の標石
これで内子側から水呑観音までの大洲街道を繋いだ。時間はおおよそ1時間半であった。調査報告書の推定ルートでは、支沢が本沢に合流した少し下流から破線でルートが描かれているが、上述分岐点から推定ルート筋を確認に向かったがそれらしき踏み跡もなく、また本沢に下り沢より上るアプローチ口はないものかとざっと見渡したが、それらしき上り口は見つけることができなかった。その推定ルートは調査報告書に「破線」で描かれていることでもあり、取り敢えず今回辿ったルートが大洲街道であろうと「思い込む」こととした。




水呑観音から内子まで〈赤;実行ルート/緑;先回撤退ルート/青;想定ルート)


「逆廻し再生」ルートガイド;水呑観音から内子町城廻の県道243号口まで

上に内子側から水呑観音までの大洲街道トレースをメモしたが、忘れないうちにこのルートの「逆廻し再生」ルート、水呑観音から内子町城廻の県道243号口まで の道筋ガイドをメモしておく。
水呑観音をスタート
小さな沢を越え水呑観音に
観音堂前の草道を沢に沿って進む
舗装道路から小さな沢を渡った水呑観音のお堂の前に「大洲街道」の標石。お堂前から小さな沢に沿った草道を進む。道はよく踏まれており、快適。



沢の左岸の道を進むと
草の茂る道になる(内子側から撮る)
沢に沿って道なりに進むと大きく右へと廻りこむ。道幅も大きくなる、左手には大きな沢。こちらが本沢、水呑観音前の沢は支沢だろうか。
本沢に沿って進むとほどなく沢の源頭部となり、道も細くなる。道なりに進み沢を石を踏んで渡り右岸に移る。その先草が生い茂る道を進むことになる。
林道に合流
右に小さな沢。この辺りから左の林道に乗る
草の茂る林道を左に進む(内子側から撮る)
草の茂る道を進むと林道にあたる。林道も草に覆われているが足元は何となく林道っぽい感じがする。右手に小さな沢が見える辺りで左の林道に乗る。林道の右手先は開け作業小屋などもあるが、大洲街道は左にヘアピン状に折れ林道を南に切れ込んだ120m等高線に沿って右へと廻りこむ。
林道より分岐
少し進むと分岐点がある。等高線に垂直に進む林道の道筋のほうがはっきりしており、前回は直進し林道が切れるところで撤退したのだが、大洲街道は分岐点を左に入る。草が茂り、特段はっきりした分岐点といった箇所ではない単なる草の茂るだけのところではあるが、地図に記した「分岐;先回はここを直進」辺りで注意し左に入ること。
上述の如く、ここは写真を撮り忘れた。国土地理院地図のプロット地点を参考に左に入ってください。
分岐点
踏まれた森の中の道を上る(内子側から)
分岐点。左の道が林道から逸れた道(内子側から)

草の茂った箇所を抜けると踏まれた道が現れる。少し進むと分岐点。ここは内子側から来た場合は注意する箇所ではあるが、水呑観音側から進んだ場合は特段留意することもなく、踏まれた道を道なりに進めばいい。その先もよく踏まれた道が森の中を通る。

大洲街道標石
森の出口(内子側から撮る)
右手に上水施設、その左に標石
踏まれた道を進むと森を抜ける。獣除けのフェンスを外し先に進むと道の右手に上水施設(?)、その対面に「左 大洲街道 平成二年」と刻まれた標石がある。開けた丘陵地の尾根筋を通る農道を進む。

左すぐ下に千部の集落
道の両側に石仏
左手直ぐ下には千部集落の家屋が見える。その先には道の両側に石の祠に祀られた仏がある。この辺りが千部峠かと思うが、峠といったイメージはなく丘陵地の鞍部といった風情ではあった。この先、最終地点近くで崖を下りるまでは整備された農道が続く。
松尾大明神と標石
松尾大明神
標石(内子側から撮る)
整備された農道を道なりに進むと、道の右手に松尾大明神。その先再び獣除けのフェンスが道を遮る。 閂(かんぬき)を外し(元に戻し)、先に進むと「大洲・松山街道」と刻まれた標石がある。


舗装道が左に分岐する
舗装された道が分岐する(内子側から撮る)
標石の直ぐ先、左に舗装された道が分かれる。国土地理院地図に実線で描かれた道であり、城廻の集落を経て国道56号を繋ぐ。
整備された道を進むと国土地理院地図に「173.3m三角点」と記された傍を通る。ここから先は国土地理院地図に実線で記されたルート(農道)を進むことになる。
耕地を抜ける農道が切れる
農道南端部(内子側から撮る)
丘陵部に登って来た道。この道より崖路に入る
耕作地のある丘陵地の尾根筋を進む農道は150m等高線が南に突き出た辺りで切れ、その先は踏まれてはいるが丘陵部へ上るといった道に変わる。道は麓川傍の常久寺地区から上ってきている。
崖を下る
丘陵道より崖に入るアプローチ道(内子側から)
竹藪の崖を下りる
この先で大洲街道は道を逸れ崖を下りることになる。「愛媛県歴史の道調査報告書」にある大洲街道ルートの崖を上る箇所のアプローチ口を見つけることが出来ず、当日は調査報告書のルートより少し南、国土地理院地図の実線部(麓川傍の常久寺地区から上る道)が右に折れる辺りに出た。そこには崖を下るアプローチ口がある。
が、それもすぐ切れ、その後は崖を下りやすい箇所を探し、竹藪の竹を支えに崖を下りることになる。40mほどの崖であり、直ぐ下に国土地理院地図に実線で描かれた大洲街道ルートが通るわけで、取り敢えず成り行きで実線部へと下るしか術はない(調査報告書ルートに道があれば御免なさい)。
麓川に架かる橋南詰めの標石
踏まれた森の中の道を進むと
民家の傍を抜け里にでる(内子側から撮る)
崖を下り、地理院地図の実線部に沿って森の中を進み、民家の間を抜けると麓川の流れる里に出る。





県道243号脇に標石
橋南詰めの標石
県道243号傍の標石
麓川に架かる橋を渡ると橋の南詰めの古い親柱傍に「左 大洲街道」と刻まれた標石がある。
橋を渡り右折し県道243号左の少し広いスペースのあるところに「松山・大洲街道」の案内板がある。また、県道脇にも「松山・大洲街道」と刻まれた結構新しい標石が立つ。
ここから先福岡大師堂までは以下にメモする。




内子町城廻の大洲街道アプローチ口から福岡大師堂まで

一度は途中撤退した水呑観音から内子町城廻地区の県道243号の大洲街道出口までを繋いだ。本日の予定はそこから大洲街道(松山街道)を歩くきっかけともなった同じく内子町城廻にある福岡大師堂までを繋ぐこと。距離は900mほど。町中の山際の道でもあり、楽勝だろうと思っていたのだが、これが大誤算。山際の道は荒れに荒れ、激しい藪。草藪ならまだしも、棘のある藪木に阻まれ上述の如く200m進むのに40分以上かかった。
それでもなんとか我慢し、藪を抜けた後はよく踏まれた道を道なりに進むと福岡大師堂傍の、大洲街道(松山街道)案内のあるところに出た。

内子町城廻の大洲街道歩きスタート地点に戻る;午前10時40分
大内山仏堂などを見遣りながら国道を歩き
アプローチ口の標石まで戻る
水呑観音から沢に沿って舗装道を下り、予讃線の高架を潜り国道56号に出る。スタート地点まではおおよそ4キロ。途中、国道山側にああった大内山仏堂にお参りし、松山道の高架橋などを見遣りながら、麓川筋に入り「曽根城址登り口」前を抜け、スタート時に見た麓川の橋を渡り親柱傍にある標石を再び目にし、県道243号傍スペースの車デポ地に戻る。おおよそ1時間の歩き。

福岡大師堂に向かって歩き始める;午前10時55分
曽根城主曽根高昌・宣高の墓所
曽根城主曽根高昌・宣高の墓所
10分ほど休憩し福岡大師堂に向かって歩きはじめる。県道脇の「大洲・松山街道」の標石を見遣り県道243号に出る。
直ぐ、県道右側に美しい塗塀。曽根城主関係の墓所とのこと。地名である城廻の由来ともなった、曽根城主曽根高昌・宣高の墓所。

県道243号を右に逸れ旧道に;午前11時
予讃線高架の先、一段高い面を奥に向かい
コンクリート面、最南部の山際まで進む
県道を少し進むと予讃線の高架があり、高架を抜ける道には「愛媛ゴルフ倶楽部」の案内がある、大洲街道は「愛媛ゴルフ倶楽部」の案内の反対側、予讃線のコンクリート壁面の前にある県道より一段高いコンクリート面に上る。
コンクリート面には車が置かれている。最南端、廃車が置かれ、コンクリート面が切れ山裾と接する辺りまで進む。

山道入口に標石;午前11時2分
山道に入ったところに標石
踏まれた上りの道が続く
コンクリート面の最奥部より山道に入ったところに「大洲街道・松山街道」と刻まれた標石。平成に建てられた新しいもの。その先踏み込まれた道を比高差20mほど上る。

激しい藪に阻まれる;午前11時6分
坂を上り切ると道は藪に覆われる
激しい藪と40分格闘し
快適に道を進んでいたのだが突然前面が藪に覆われる。左手は土砂崩れ防止時に備えられたという手摺があるので、道から落ちる心配はないが、茨のついた藪の木が多く、トレッキングポールで茨の木を排除しながらでなければとても前に進めない。結構時間がかかる。どこまで続くのか先を見るが見ただけではわからない。地図には200m強先に西に切れ込んだ沢筋が見える。その辺りまでの辛抱と藪と格闘する。

沢筋前で藪が切れる;午前11時44分
沢筋手前で藪が切れる
踏まれた道を沢筋迂回
予想通り、沢筋が西に切れ込む手前で藪は切れる。200mほどの区間に40分ほど掛かったことになる。街道、旧道歩きの常とはいい条、草藪は我慢できるとしても茨の藪は本当に勘弁してほしい。その先、踏まれた道を進み差切れ込んだ沢筋を迂回する。

耕地跡に出る;午前11時53分
道なりに進むと耕地跡(?)に出る
耕地を抜けると民家が見える
10分ほど歩くと周りが開け、段々となった耕地跡に出る。段差になった耕地端のコンクリート壁面脇を進むとその先民家が見えてくる。



福岡大師堂傍の大洲・松山街道口に到着;午前11時55分
福岡大師堂
お堂の右隣の石碑石段脇に大洲街道標石

民家の間の細い道を進み、舗装された道路に出ると、右に福岡大師堂。大師堂手前の「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑の石段脇には「大洲街道・松山街道」と刻まれた標石。



標石と道を挟んで大洲街道案内板
この道の風情を見たのが大洲街道歩きのきっかけ
大師堂より大洲街道を挟んだ道の左には「遍路道 松山大洲街道案内板」が立つ。案内板に描かれたルート図は概要図でありルート取りには使えないが、四国遍路歩きの途次、石段左の「大洲街道・松山街道」の標石、そしてこの案内を見て、そのうちに大洲街道を歩いてみたいと想った標石であり、案内板である。その時より知らず5年半の歳月を経て内子と松山を繋ぐことができた。

内子から先の大洲街道は基本、遍路道と同じのようである。年が明け、暖かくなった頃大洲までトレースしようかと思う。また、メモの段階でわかった江戸末期(江戸湖以前?)までの大洲街道、宿茂トンネルの辺りから山入りし北東進、一旦藤の郷川の谷筋に下り、永木辺りまで北進し、そこから重藤、柚之木、追俵峠、福元を経て中山の大興寺辺りに下るルートも来年のお楽しみとする。