土曜日, 6月 30, 2007

立川崖線散歩;立川から分倍河原まで


ほぼ立川崖線に沿って進む。先日、国立を歩いた時、このあたりには立川崖線とか青柳崖線が続いている、と。青柳崖線は先回、「くにたち郷土文化館」から谷保天神までの散歩を楽しんだとき、その崖下に沿って歩き、なんとなく雰囲気を感じた。で、今回はもうひとつの崖線・立川崖線を肌で感じよう、と思ったわけだ。
立川崖線といっても、はてさて、どこから続いているのかよくわからない。昔、立川の南、奥多摩街道を走っているとき、その南の多摩川の低地とは結構比高差があるなあ、などと思っていた。たぶんそれが崖線の流れあろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
で、どこからスタートするか、ふと考える。地図を見る。西立川に歴史民俗資料館。奥多摩街道とも近い。そこにいけば何らか手がかりもあるか、と。とりあえず資料館にむかうことにする。

本日のルート;JR青梅線・西立川>立川市歴史民俗資料館>首都大東京昭島キャンパス>郷地町交差点>奥多摩街道>歴史民俗資料館>奥多摩道路>東京都農事試験場>富士見町3丁目・富士見通りと交差>滝口橋・残掘川>残堀川筋>JR普中央線交差>普済寺>奥多摩街道>諏訪神社>多摩モノレール・柴崎体育館駅>立川公園・立川市民体育館>根川緑道>新奥多摩街道・根川橋>国道20号線・甲州街道>野球場・陸上競技場>至誠学園>甲州街道>矢川緑地公園>矢川>国立六小>甲州街道>滝野川学園>おんだし>ママ下湧水公園>石田街道>矢川(府中用水)・くにたち郷土文化舘下>ヤクルト中央研究所北>城山公園>谷保天満宮>立川崖線樹木林下>国道20号線・国立IC>上坂橋>日新町・NEC>市川緑道(中川用水・新田川)>鎌倉街道>中央道>新田川緑道・分梅橋>分倍河原合戦碑>中央道交差>京王線・分倍河原駅

青梅線・西立川駅
青梅線・西立川で下車。駅の北は昭和記念公園。むかしの米軍の基地跡。そのまた昔は陸軍の飛行場があった、とか。駅を南に進む。途中、首都大学東京昭島キャンパス。昔の都立短大ではなかろうか。仕事で来たことがあるような、ないような。

奥多摩道路

その脇を通り、しばらく進むと奥多摩道路。EZナビに従い細路を進む。お寺の塀。常楽院。その先は崖下。ガイドでは、「ここ」だとのたまうのだが、それらしき建物はなし。ナビを切り、奥多摩街道に戻ったり、またまたお寺方面に戻ったりと、あたりをうろうろ。
どうも崖下ではなかろうか、と降り口を探す。家庭菜園といった趣の畑地の脇に細い下り道。成算はないのだが、とりあえず下に。車道に出る。少し西に進むと、歴史民俗資料館があった。崖の下。この崖は立川崖線であるのだが、その崖に包み込まれるように建っていた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

歴史民俗資料館
展示室で立川の歴史・自然などのお勉強。ロビーにあったビデオも楽しんだ。記憶に残ったこととしては、このあたりは「立川氏」の勢力下にあった、こと。古社・諏訪神社が鎮座する。それと、立川って、陸軍の飛行隊、そしてその飛行場とともに発展してきた、といったこと。陸軍飛行第五連隊が駐屯し、大正11年から終戦まで、「空の都 立川」の代名詞でもあった。
で、例によっていくつか資料購入。
買い求めた「歴史と文化の散歩道」をもとに、本日のルートを考える。基本的には立川崖線に沿って分倍河原方面に向かう。これは基本。が、途中、立川氏舘跡に。そこからしばらく崖線を離れ、諏訪神社に。それから再び崖線に戻る。多摩川傍の「日野の渡し」に。しばらく崖線に沿って進み、日野に下る甲州街道を越えたところで、再び崖線を離れ清流・矢川の源流点である矢川緑地保存地域に。そこからしばらく矢川にそって下る。いくつかの湧水点を楽しみ、先回歩いた青柳崖線近くを進み保谷天神に。そこで、ふたたび立川崖線に戻り、後は府中に向かって崖下を歩く、といった段取りとする。

奥多摩街道

さてと、出発。資料館を離れ、崖下を少し進む。如何にも湧水、といった池を見やりながら、坂道をのぼり奥多摩街道に戻る。崖上の道を東に向かう。東京都農事試験場前を進み、富士見3丁目交差点で富士見通りと交差。奥多摩街道は車の通りが多い。トラックの風圧に結構怖い思いをしながら滝口橋で残堀川を渡る。

残堀川

残堀川って、いつだったか玉川上水を歩いていたとき出会った。西部拝島線の武蔵砂川駅の近く。記憶では交差する用水上を「立体交差」していたように思う。
残堀川は、瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池から流れ出し、立川市柴崎町の立日橋付近で多摩川に注ぎこむ。狭山池助水とも呼ばれるように、残堀川はもともと玉川上水に水を注いでいたのだが、明治になって残堀川が汚れてきた。ために、玉川用水と切り離すべく、工事をおこない、玉川用水が残堀川の下を潜らせた、と。

残堀川脇を進む

奥多摩道路から残堀川筋に下る道を探す。しばらく進むと下りの道筋。残堀川脇に出る。西を見ると、さきほどの滝口橋から南に下った残堀川が、その下で直角に曲がっている。人工の川筋ならではの流路。
川に沿って東に進む。JR中央線と交差。地図ではJR中央線を越えるとすぐに立川氏の館跡である普済寺なのだけれど、石垣が続くだけで、上にのぼる道がない。結構東に持っていかれた。

普済寺
根川緑道がはじまるあたりから、川筋からのぼる道をみつけ、そこからお寺に向かって西に戻る。根川緑道は清流の続く美しい道筋。とはいうものの、湧水は高度処理された下水である。
普済寺。中世に武蔵七党と呼ばれた西党の一族、立川氏の館跡。平安初期に立川二郎宗恒が地頭としてこの地に来た。それ以前の立川は、20戸程度の寒村に過ぎなかった、と。その後小田原北条に仕えるも、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城の落城とともに滅んだ。
境内には国宝六面石幢。場所を探していると、丁度通りかかった和尚さんに道を案内して頂く。感謝。厳重にガードされたお堂の中に格納されていた。崖上から多摩川を見下ろし次の目的地、諏訪神社に向かう。

諏訪神社

諏訪神社。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社から勧進された立川最古の神社。「お諏訪さん」として親しまれている。本殿は新しい。平成6年に火災に遭い新しく再建された、と。
多摩モノレール・柴崎体育館駅
神社を離れ、次の目的地・多摩の渡しの跡に向かう。住宅街を進み、多摩モノレール・柴崎体育館駅に。このあたりで再び立川崖線に戻る。

旧甲州街道の道筋
立川公園と市民体育館の間を進む。体育館の東に旧甲州街道の道筋。ちょっと旧甲州街道の道筋をチェック。国立方面から西に真っ直ぐ進んできた道筋は、日野橋交差点あたりで北に向かって円を描くように湾曲し、ここ柴崎体育館あたりに続いているよう。

根川緑道旧甲州街道の道筋を南に下り、根川緑道を越え、新奥多摩街道をわたる。新奥多摩街道、って西に向かって進んできた甲州街道が日野橋に向かって南にくだる交差点を、そのまま西に進む道筋。

日野の渡し碑
新奥多摩街道を越え、下水処理場に沿って南に進むと「日野の渡し碑」。「日野の渡し」は、現在の「立日橋」のあたり、立川の柴崎と日野を結んでいた渡し。大正時代に日野橋ができるまで、高遠藩・高島藩・飯田藩といった三大名家、甲府勤番、そして庶民がこの渡しを利用していた、と。ちなみに渡し賃は、馬と人は別途徴収。僧侶、武家は無料であった、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

甲州街道
下水処理場の南を、ぐるっと廻る。日野橋に下る甲州街道に。甲州街道を越えると野球場・陸上競技場。根川緑道は落ち着いたいい雰囲気。

根川貝殻坂橋

陸上競技場を過ぎると、「根川貝殻坂橋」に。吊橋を模したスタイル。案内によれば、「貝殻坂橋」の名前の由来は、「万願寺の渡し」にある、と。この万願寺の渡し、って先ほど見た、日野の渡しが出来る前に遣われていた多摩川の渡し。甲州街道を進んできた旅人は、国立市青柳で段丘を下り、国立市石田から多摩川を渡り日野市の万願寺に渡っていた。その段丘を下る坂道に多くの貝殻が
出てきた、と。ために、貝殻坂と呼ばれた。
矢川緑地公園

次の目的地は矢川緑地公園。橋を渡り、崖線を上る。このあたりは国立との市境。甲州街道まで進み、至誠学園のあたりで甲州街道を北にわたる。立川と国立の境を道なりに北にすすむと矢川緑地公園。緑地公園のある羽衣町は立川市となっている。緑地の西を台地にのぼる道筋から矢川緑地を眺める。湿地帯が美しい。台地下にもどり、緑地入口から木道のかけられた湿地に入る。水が湧き出る、というだけで、それだけで結構うれしい。この景色を楽しめただけで本日の散歩は大いに満足。

矢川に沿って甲州街道に
湿地を進み、湧水の水を集め清流として下る矢川に沿って歩く。ひたすら川筋に沿って進む。水草の生い茂る川面が美しい。国立六小前には、児童が育てる「ほたる」の飼育湿地もあった。
甲州街道手前には五智如来。先に進み甲州街道を再び越え、さらに川筋に沿って進む。

矢川は滝野川学園の敷地に
川は滝野川学園の敷地に入っていく。立ち入り禁止、かとおもったのだが、川脇にかすかな踏み分け道。先に進めそう。ほとんど敷地といった川筋を進む。森に囲まれたまことにいい雰囲気。

「おんだし」

学園敷地の森を抜ける。前方に中央高速が見える。水田のあぜ道といった道筋を進むと川はT字に合流。西から流れていた府中用水であろう。ということは、ここは「おんだし」。押し出し、と表記されるようであるので、「矢川の水が府中用水に勢いよく流れ込んださまを表したものであろう、か。
「おんだし」部分の川幅は結構広い。さすがにT字交差の用水を飛び越えることはできない。仕方なく、森のほうに引き返す。
矢川の流れの横にもうひとつ水路。森の手前から西のほうに伸びている。これって、「ママ下湧水」からの流であろう。ということで、矢川から「ママ下湧水」の水路にルート変更。

ママ下湧水
なんとか流れを飛び越え、流路にそって遡る。しばらくすすむと「ママ下湧水」。「ママ」って、「ハケ」とか「ハッケ」とも呼ばれる崖線のこと。崖下から、水が湧き出ている。結構な量。これほど勢いよく湧き出る水はあまりみたことがない。感激。感慨をもって崖線を眺め、また崖線を上ったり下りたり、しばし幸福な時を過ごす。

府中用水「ママ下湧水」を離れ、府中用水に沿って進む。先ほど歩いた矢川との合流T字路・「おんだし」に。水草の美しい流れ、矢川の名前の由来ともなった「矢のように速い流れ」そのものの水量。勢いのある澄んだ流れは心地よい。少し進むと先回「くにたち郷土文化館」に行く時通った道と交差。すこし北のほうに崖地が見える。青柳崖線。先日は、あの崖下の細流・せせらぎの小道、を辿ったなあ、などと思いにふける。
府中用水の流れにそって進む。ヤクルト中央研究所の手前で流れは南に。最後まで流れの行く末を見届けたいのだが、それよりなにより本日の散歩の目的は立川崖線を歩くこと。谷保天神のところで立川崖線が青柳崖線と合流する、ということであるので、北に歩をとる。

青柳崖線下を谷保天神に
ヤクルト中央研究所のフェンスに沿って青柳崖線下に向かう。細流・せせらぎの小道にかかる木橋を眺め先に進む。城山公園から谷保天神へと、勝手知ったる道筋を進む。谷保天神では先回見逃した「常盤の清水」に訪れ、しばし休憩。「ママ下湧水」ほどの勢いはない

ものの、「湧水」というだけで有難く思う。

上坂橋から日新町に

谷保天神を離れ、立川崖線に沿って進む。樹木林が生い茂る。崖下の道を進む。細流は府中用水、かと。国道20号線・国立ICとの道路。道路手前の崖線上には「下谷保遺跡」。螺旋階段を上り、国立ICへの道を越え、再び螺旋階段を下る。
崖線に沿って進む。崖線上には谷保東方横穴墓とか谷保東方遺跡。上坂橋を過ぎると日新町。NECの工場がある。このあたりから府中用水水は「市川緑道」と名前が変わっている。

市川緑道

市川緑道を進むと、今度はいつのまにか新田川の緑道となっていた。府中用水って市川とは新田川などと、場所によって呼び名が異なっているよう、だ。

鎌倉街道

しばらく進むと鎌倉街道。ここで、分倍河原の駅に向かおうか、などとも思ったのだが、なんとなく、昨
年だったか、多摩から分倍河原に向ってあるいた

ときに出会った、分倍河原合戦の碑を見ておきたくなった。新田川緑道脇にあったように思う。

分倍河原合戦の碑

街道を越え中央道の下をくぐり緑道を進むと分梅橋。分倍河原合戦の碑があった。分倍河原の合戦。新田義貞と北条軍の戦闘。緒戦新田軍不利。その際、武蔵の国分寺など焼失。が、翌日、陣容を立て直し、北条軍を破り鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼすことになる。

京王線・分倍河原


道を北に進み、ロータリーっぽい交差点。御猟場道と分梅通の交差点。分倍=分梅の由来が書いてある。「新田義貞が梅を兜につけて進軍したという逸話に由来する『分梅町』から取られた」、と。
とはいうものの分梅町って名前は近世になってから、とのことではあるし、なんとなくしっくりこない。また、「多摩川の氾濫により収穫が少ないので、口分田を倍に給した所であったため『分倍(陪)』や『分配』と呼ばれていた」との説もある。が、これといった定説はないようである。脇道を進み京王線・分倍河原の駅に到着。本日の予定終了とする。


火曜日, 6月 26, 2007

府中・国立散歩;崖線と湧水

京王線の駅で何げなくポスターを見ていた。府中郷土の森博物館で宮本常一さんの展示がある、と。民俗学者。とはいうものの、ひたすらに日本各地を歩き回った、といった断片的なことしか知らない。いい機会でもあるので宮本常一さんの業績・人生の一端にでも触れるべし、ということで、府中散歩にでかけることに。

地図を眺めていると、郷土の森博物館から6キロ程度西の国立に、城山公園とか「くにたち郷土文化舘」のマーク。距離も丁度いい。郷土館のあとは、府中から国立に歩くことにした。

本日のルート;京王線・分倍河原駅>南武線に沿って東に>かえで通り>税務署前>本町西・中央高速と交差>新田側緑道>郷土の森博物館>多摩川堤通り・府中多摩川かぜの道>県道18号線・関戸橋北(鎌倉街道)>京王線交差>府中四谷橋>石田大橋>100m程度で北に>泉地区>中央高速交差>南養寺南・くにたち郷土文化舘>青柳河岸段丘ハケの道>谷保地区・城山公園>浄水公園>厳島神社・谷保天満宮>国道20号線・甲州街道>南武線・谷保駅

京王線分倍河原駅


京王線に乗り分倍河原に。いつだったか、この駅の北にある高安寺に訪れたことがある。平安時代に俵藤太こと藤原秀郷が開いた見性寺がはじまり。俵藤太って、子供の頃「むかで退治」の物語を読んだことがある。また、先般の平将門散歩のときにメモしたように、将門を討伐した武将でもあった。
この見性寺、義経・弁慶主従も足を止めている。頼朝の怒りを解くべく、赦免祈願の大般若経を写した「弁慶硯の井」跡が残る。南北朝期には新田義貞が本陣を構える。戦乱の巷炎上し荒廃。室町期にはいり、足利尊氏が高安護国寺として開基。関東管領上杉憲実討伐のため鎌倉公方・足利持氏がここに陣を構えている。永享の乱のことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
また、足利成氏のこもるこの寺に攻め込んだ上杉軍を成氏が破っている。享徳の乱における「分倍河原の合戦」のことである。その後も鎌倉街道の要衝の地ゆえに、上杉・後北条軍の拠点として戦乱の舞台となる。で、度々の戦乱で荒廃し、江戸期に復興され現在に至る。

駅を下り、南武線に沿って東に100mほど進む。けやき通りを南に折れる。けやき、って府中市の市の木だったか、と。ちなみに市の花は梅。南に進む。税務署前交差点を越え、本町西で中央高速と交差。

新田川緑道

先に進むと新田川緑道に。分倍河原って、新田義貞と北条軍が争った分倍河原の合戦の地。新田川の名前の由来は新田義貞からきているものであろう、と思っていた。が、どうもそうではないらしい。読みも「しんでんがわ」。江戸時代の新田開墾に由来する、とか。

郷土の森博物館

新田川緑道に沿って、東南にくだる。緑の中に「郷土の森博物館」はある。入口で入場料200円を払って館内に。単に郷土館があるだけではなく、昔の民家などの復元建築物や水遊びの場所といった施設もある。

宮本常一さん

展示ホールに。「宮本常一生誕100年記念事業;宮本常一の足跡」という特別展示が行われていた。入口で宮本常一氏の足跡をたどった30分のビデオ放映。大雑把にまとめる;広島県の瀬戸内に浮かぶ周防大島の生まれ。教師になるべく、大阪の高等師範学校に。徴兵で大阪の8連隊に入営。
8連隊といえば、子供の頃父親に「大阪の8連隊はあまり強くなく、また負けたか8連隊」といったせりふが言われていたと、聞いたことがある。事実かどうか定かではない。ともあれ、この8連隊に入隊しているとき同期の人から民俗学のことを教わった、と。
除隊後、小学校の教員。このとき田舎の周防大島のことを書いた原稿が民俗学者・柳田國男の目にとまる。同好の士を紹介され研鑽に励む。渋沢敬三氏の突然の来訪。敬三氏は渋沢栄一の孫として、第一銀行の役員といった実業界での要職とともに、民俗学者としても活躍。宮本氏は渋沢敬三氏の援助もあり、大阪から東京に上京。敬三氏の邸内のアチック(屋根裏部屋)・ミュウジアム、後の「常民文化研究所」の研究員となる。

宮本常一は旅する民俗学者として有名。生涯に歩いた距離は16万キロにもおよぶという。全国各地を旅し、フィールドワークを行い、地元の古老から聞き書きをし、貴重な記録をまとめあげる。著作物も刊行し、実績もあげる。が、第二次世界大戦。渋沢邸も焼け、大阪の自宅も焼失。膨大な量のノートが消え去ったと。戦後は民俗学者というだけでなく、農林振興・離島振興に尽力。また、佐渡の鬼太鼓座とか周防の猿まわしといった芸能の復活にも尽力した。

後半生は武蔵野美術大学の教授、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト)の所長として後身の育成に努める。ちなみに、研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』のサンプルにおおいに惹かれる。どこかで実物を手に入れたい。
で、宮本氏と府中との関係は、昭和36年からなくなるまでの20年、自宅を府中に置いたこと。また、郷土の森博物館の建設計画にも参与した、と。著作物には『忘れられた日本人』など多数。未来社から『宮本常一著作集』が現在まで50巻刊行。すべてをカバーすると100巻にもなるという。

素敵なる人物でありました。歴史学者・網野善彦さんも『忘れられた日本人』についての評論を書いている。30分の紹介ビデオでも網野さんからの宮本常一さんに対するオマージュといったコメントもなされていた。
網野さんは『無縁・苦界・楽;平凡社』以来のファン。網野さんが大いに「良し」とする人物であれば本物に違いない。更に惹かれる。ちなみに網野さんは宗教学者の中澤新一さんの叔父さんにあたる。その交流は『ぼくのおじさん;集英社』に詳しい。

特別展示を眺め、関連図書を購入。買い求めた『忘れられた日本人を旅する;宮本常一の軌跡;木村哲也(河出書房新社)』を、帰りの電車で読んでいると、その本文に司馬遼太郎さんの宮本常一さんに対するコメントがあった;「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」、と。折に触れ著作物を読んでみたい。手始めに『忘れられた日本人』『塩の道』あたりを購入しよう。

多摩川堤「府中多摩川かぜの道」

2階の常設展示会場を眺め、博物館を離れ多摩川堤に。次の目的地である国立の城山(じょうやま)公園には、この堤防上の遊歩道・「府中多摩川かぜの道」を辿ることにする。距離はおよそ6キロ強、といったところ。
実のところ、先日の秩父の山歩きで膝を少々痛めていた。今週はアップダウンのある地域への散歩は控えるべし。ということで、この平坦な遊歩道は丁度いい。唯一の「怖さ」はサイクリング車。高性能の自転車なのだろうが、すごいスピードで走ってくる。それも半端な数ではない。「歩行者優先。自転車スピード注意」と路面に表示してはあるが、あまり効き目なし。こんな気持ちのいいサイクリングロード。飛ばす気持ちはよくわかる。

川の南に多摩の丘陵

川の南に聳える多摩の丘陵を意識しながら堤を進む。博物館の対岸の丘陵は多摩市・連光寺あたり。明治天皇行御幸の地とか小野小町の碑がある、と。乞田川が多摩川に合流している。後方、東方向に見える鉄道橋は武蔵野貨物線と南武線。先日南武線の南多摩駅で下り、城山公園をへて向陽台に向かったことを思い出した。城山は大丸城があった、というが、城主などはわかっていない。城山公園から西に続く広大な丘陵は米軍多摩レクリエーションセンターであろう。フェンスに沿って山道を城跡のある山頂までのぼっていったことが懐かしい。

関戸橋

1キロ程度西に進むと関戸橋。関戸橋の南は乞田川によって分けられた谷地。乞田川(こったかわ)は多摩市唐木田が源流。唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりまでは水路を確認できるが、それより上流は暗渠となっている。
乞田川によって開析されたこの道筋は多摩センターに続く。鎌倉街道上道と言われている。関戸5丁目と6丁目の熊野神社のところに霞ヶ関という関所があった。新田義貞と北条軍が戦った古戦場跡でもある。世に言う関戸合戦である。

関戸の小野神社に想いを馳せる

多摩川堤を少し西に進むと京王線と交差。対岸は関戸地区。関戸の渡しのあったところ。鎌倉街道の関戸と中河原を結んでいた。昭和12年の関戸橋の開通まで村の経営で運営されていた、と。
その少し東は一ノ宮。小野神社が鎮座する。古来、武蔵一の宮と称される古社。とはいうものの、先日歩いた埼玉・大宮の氷川神社も武蔵一の宮。大宮のほうが格段に規模も大きい。この小野神社はそれなりに大きいとはいうものの、氷川神社に比すべくもない。
どちらが「本家」という「元祖」一の宮かと、いろいろ説明されている。武蔵国成立時、それまでの中心地であった大宮を牽制すべく府中に国府を置き、国府に近い小野神社を一の宮とした、といった説もある。氷川神社に代表される出雲系氏族を押える大和朝廷の宗教政策、とも考えられるが、これは私の勝手な解釈。こ れといった定説は聞いていない。
もっとも、一ノ宮って、公的な資格といたものではなく、いわば、言ったもの勝ち、といったもののようだ。なにがしか、周囲が納得できる、「なにか」があれば、それで「一ノ宮」たり得た、とか。
小野神社の祭神は秩父国造と大いに関係がある。これは小野氏が秩父牧の牧司であったため。武蔵守に任官してこの地に来るときに秩父神社の祭神をこの地にもたらしたのではないか、と。ともあれ秩父と府中を結ぶつよいきずながあった、よう。大国魂神社も含めそのうちにちゃんと調べてみたい。

府中・四谷橋
更に西に1キロ程度進むと「府中・四谷橋」。国立・府中インターで下り、多摩センターのベネッセさんに行くときに通る道。その東は百草園。
いつだったか高幡不動から分倍河原に向かって歩いたとき、程久保川に沿って進んだ道筋。淺川も合流しており、川筋も広くこころもち、野趣豊かな風情である。ほどなく「石田大橋」。府中・四谷橋から2キロ程度の距離だった。

程久保川は日野市程久保の湧水を源流とし、多摩動物公園とか高幡不動の前を通り多摩川に合流する4キロ程度の川。古い名前が「谷戸川」。名前の通り、河岸段丘を穿って里山に谷戸とか谷津とよばれる谷地を形成していた、と。淺川は陣場山あたりを源流とする全長30キロ強の河川である。流路の長さに比して川床が高かったよう。ために氾濫を頻発する暴れ川であった、とか。川床が高かったことが、「浅川」と関係あるのかも?

国道20号線・日野バイパス

国道20号線・日野バイパスの通る「石田大橋」を越え、100mほど進み北に折れる。先日、娘の陸上競技会の応援で甲府に。帰路中央高速が渋滞し、甲州街道をのんびりと戻ってきたのだが、八王子の先、日野バイパスに出た。昔は、甲州街道を豊田・日野、そして多摩川をわたり、といった大騒動であったが、このバイパスだと、一挙に国立インター近くに。便利になりました。

くにたち郷土文化舘

しばらく進み、中央高速下をくぐると行く手に森の緑。これは南養寺の森。くにたち郷土文化舘はこの森の南端にある。森の端にそって東に進む。入口脇には近辺のハイキングコースをまとめた資料など用意されていた。助かる。
常設展示は半地下。デザイナーマンションならぬ、デザイナー郷土館といった特徴ある建物。常設展示場でビデオ放映を眺め、国立のあれこれを頭に入れる。
印象に残ったのは、このあたりの地形。武蔵野段丘、立川段丘、青柳段丘といった河岸段丘が並ぶ。河岸段丘とは階段状の地形のこと。河川の中流域や下流域に沿って形成される。当たり前か。階段状という意味合いは、平坦地である段丘面と崖の部分である段丘崖が形成されている、ということ。段丘崖の下には湧水が多いのは、国分寺崖線散歩で見たとおり。

地形について
地形についてちょっとおさらい。武蔵野段丘面の崖の部分が国分寺崖線。崖に沿って野川が流れる。この野川が流れる平地が立川段丘面。その崖の部分が立川崖線。その崖下を流れるのが矢川。そこは青柳段丘面。「くにたち郷土文化舘」はこの青柳段丘面の端。青柳段丘崖の近くにある。下には湧水が流れる、川というほどではないようだ。で、そこから多摩川にかけて沖積面が広がっている。
ということで、文化舘を離れ、崖線下の湧水に沿って先に進むことにする。この細流は矢川の支流のような気がする。矢川の源流はすこし北、南武線・西国立駅近くの矢川緑地あたりの湧水を集め、国立市外を流れ府中用水に合流。およそ1.5キロ程度の川である。

崖線下の湧水路に沿って城山公園に

崖線下の湧水路に沿って進む。崖線のことは「ハケ」と呼ばれる。中野の落合のあたりでは「バッケ」と呼ばれていた。また、このあたりでは「ママ」とも呼ばれるようである。本来であれば多摩川への沖積低地がひろがるはず、ではあるが、南は中央高速に遮られ、いまひとつ見通しはよくない。

城山公園
崖面を意識しながら進む。湧水路の上には木道が整備されている。細流である。ハケ下の道をしばらく進む。ヤクルト中央研究所の裏手を通る。細い道筋を進むと城山公園。
鬱蒼とした森が残されている。ここは城山と呼ばれる中世の館跡。青柳段丘崖を利用してつくられた室町初期の城跡。城主は三田貞盛とも菅原道真の子孫である津戸三郎ともいわれるが、定説はない。しばし森を歩き、次の目的地谷保天満宮に向かう。

城山公園を離れると、すこし景色が広がる。田畑が目につく。南に浄水公園がある、とのことだが、どれがその公園なのかよくわからない。東前方に広がる緑が谷保天満宮の鎮守の森だろう。

谷保天満宮

あたりをつけて進むと天神様の境内に。厳島神社。本殿裏手にある。弁天さまをおまつりした祠の周りは池。西側の「常盤の清水」からの湧水が境内に流れ込んでいる。天神さまのあたりは立川段丘と青柳段丘が交るあたり、とか。崖下からの遊水がこの「常盤の清水」となって湧きだしているのであろう。この清水は境内の中だけでなく、外にも流れだしている。周囲の水田の灌漑用水源としても使われたのであろう、か。

谷保天満宮は菅原道真をまつる。1000年の歴史をもち、関東最古の天神さまである。亀戸天神、湯島天神とともに関東三大天神様とも。このあたりの地名は「やほ」というが、この天神さまは「やぼ天満宮」と読む。通称「やぼてん」さまとも。「野暮天」の語源でもある。
由来は、道真が太宰府に配流になったとき、その三男道武もまた、この谷保の地に流された。わずか8歳のとき。そののち道真が亡くなったのを知り、それを悲しみ父の像を彫った、とか。が、その像があまりにあかぬけない、洒落ていない。ということで、「やぼてん>野暮天」となった、と言う。10歳の子供が彫ったわけで、あかぬけない、とは少々腑に落ちない。

また、別の説もある。この天神様のご神体を江戸の目白不動尊で出開帳することがあった。が、そのときは10月・神無月。八百万の神々が出雲に行く季節。そんなときに、江戸に出向くといった無粋なことを、と、揶揄した歌がある。「神ならば出雲の国に行くべきに 目白で開帳谷保の天神」、と。この歌に由来する、という人もいるようだが、定説はないよう。

あれあれ、鳥居が本殿より上にある??

本殿におまいり。もともとは多摩川の中州にあった。菅原道武が自ら彫った「野暮な」像を天神島にまつっていたようだが、後世、道武の子孫・津戸為盛がこの地に写した。あれあれ、鳥居が本殿より上にある。石段をのぼり、表大門に向かう。出たところは甲州街道。なんとなくしっくりこない。
チェックした。ことは簡単。昔の甲州街道は本殿より南にあった、ということ。新道ができたとき参拝の便宜をはかり現在の甲州街道沿いに表大門を設けたのであろう。

谷保の由来
メ モし忘れたのだが、谷保の由来。これは、文字通り「谷を保つ=谷を大切に守る」といった意味。段丘上にできた小さな谷地、谷上をなした湿地帯にその豊かな環境ゆえに人々が住み着いた。その環境の「有難さゆえ」にその環境を守るって地名にしたのだろう、か。別の説もある。谷地には違いないのだが、谷が八つあった。その八つの谷を守る、という意味で「八ツ保」、それが転化して「八保>谷保」との説である。はてさて。

南武線・谷保駅
今日の予定はここまで。甲州街道を越え、南武線・谷保駅まで歩き、分倍河原まで戻り、一路家路へと急ぐ。

水曜日, 6月 20, 2007

見沼散歩 そのⅡ;見沼通船堀から赤山代官屋敷跡へ

見沼散歩の二回目。今回は見沼通船堀・八丁堤の西端からスタート。見沼代用水西縁を起点に芝川経由で見沼代用水東縁に。そこから上流・見沼公園に向かう。見沼田圃を先回とは逆方向から見れば、なんらか新たな発見が、といった心持ち。その後北向きの歩みを、どこかで適当に切り上げ、南に折り返す。歩くなり、または成り行き次第で電車に乗るなりして、最後の目的地伊奈氏の赤山代官跡に進もう、と。
赤山代官跡って、外環道路のすぐそば。一体全体、どういった雰囲気のところにあるのか、興味津々。伊奈氏は見沼溜井を作り上げた治水のスペシャリスト。玉川上水工事をはじめ、散歩の折々で顔を出す名代官の家系。先日たまたま読んだ新田二郎著『怒る富士』にも関東郡代・伊奈半左衛門が登場。宝永の大噴火で田畑を埋め尽くされた農民を救済すべく奮闘する姿が凛として美しかった。見沼散歩の仕上げとしては、伊奈氏でクロージングのが「美しかろう」とルートを決めた。
伊奈氏について、ちょっとまとめる。堀と堤は時代が異なる。先日の散歩メモの繰り返しにはなるのだが、頭の整理を再びしておく。

見沼のあたり一帯は、芝川の流れによってできた一面の沼というか低湿地。これを水田の灌漑用水として活用しようとつくったのが八丁堤。大宮台地と岩槻台地が最も接近するこの地、浦和の大間木と川口の木曽呂木の間、八丁というから、870mにわたって土手を築く。流れを堰き止め、灌漑用の溜井(たるい)としたわけだ。この工事責任者が伊奈氏。しかしながら、この溜井、灌漑用の池としては十分に機能しなかった、よう。全体に水量が乏しかったこと。また、溜井の北の地区には農業用水が供給されなかった。にもかかわらず、雨期にはそのあたりは洪水の被害に見舞われた、といった有様。見沼はこういった問題を抱えていた。
見沼溜井を干拓し水田に変える試みがはじまる。上でメモした諸問題があったこともさることながら、それ以上に、当時水田開発が幕府の大いなる政策課題となっていた。幕府財政逼迫のためである。で、米将軍とも呼ばれた八代将軍・吉宗の命により、水田開発の切り札として吉宗の故郷・紀州から呼び出されたのが、伊沢弥惣兵衛為永。見沼溜井の干拓に着手。まず、芝川の流路を復活させる。溜井の水を抜き溜井を干拓する。ついで、灌漑用水を確保するため、用水路を建設。はるか上流、利根川から水を導く。これが見沼代用水。見沼の「代わり」とするという意味で、「見沼代」用水、と。で、代用水を西と東に分流。新田の灌漑用水路とするため、である。これが見沼代用水西縁と見沼代用水東縁。この西縁と東縁を下流で結んだ運河のことを見沼通船堀、という。目的は、代用水路を活用した船運の整備。代用水路近辺の村々と江戸を結んだ、ということだ。



本日のルート:
武蔵野線・東浦和駅 > 見沼通船堀公園 > 見沼通船堀西縁 > 八丁堤 > 附島氷川女体神社 > 芝川 > 見沼通船掘東縁 > 木曽呂富士塚 > 見沼代用水東縁 > 武蔵野線 > 浦和くらしの博物館 > 大崎公園東 > 見沼代用水縁 > 国道46号線交差 > 東沼神社 > 川口自然公園 > 武蔵野線にそって東に > 東北道 > 北川口陸橋 > 石神配水場 > 妙延寺地蔵堂 > 外環交差 > 赤山陣屋跡 > 山王社 > 源長寺 > 新井宿

武蔵野線・東浦和駅


武蔵野線・東浦和駅下車。駅前の道を南に附島橋の方向に進む。すぐ東浦和駅前交差点。東に折れ、ゆるやかな坂道をほんの少しくだると水路にあたる。見沼代用水西縁。見沼通船堀公園の西縁でもある。公園の南縁は八丁堤の土手。土手の上には赤山街道が走る


見沼通船堀
通船堀を進む。土手道・八丁堤は堀の南に「聳える」。竹林が美しい。土手の向こうはどういった景色がひろがるのか、附島氷川女体神社に続く道筋をのぼる。赤山街道に。赤山街道、って関東郡代伊那氏が陣屋を構えた川口の赤山に向かう街道。年貢米を運んだ道筋、ってこと、か。赤山街道、とはいうものの、現在では車の行きかう普通の道路。道の南とは比高差あり。土手を築いたわけだから、あたりまえ、か。附島氷川女体神社におまいり。道路わきに、つつましく鎮座する。このあたり附島の地は先回歩いた氷川女体神社の社領があったところ。その関連で、この地に氷川女体神社が鎮座しているので、あろう。

再び通船堀に戻る。しばらく進むと、関がある。これって水位を調節し船を進めるためのもの。東西を走る代用水と中央を流れる芝川には3mもの水位差があった、ため。船が関に入る。前後を締め切る。水位を調節し、先に進む、といった段取り。ありていに言えば、パナマ運後の小型版。パナマ運河より2世紀も早くつくられた。日本最古の閘門式運河の面目躍如。こういった関が芝川に合流するまで二箇所あった。見沼代用水西縁から芝川まで654mほど。見沼通線堀西縁と呼ばれる。
芝川合流点。橋がない。一度赤山街道まで南に下り、といっても、どうという距離ではないのだが、芝川にかかる八丁橋を渡り、芝川の東側に。道に沿って進む。見沼代用水東縁まで390mほど。見沼通船堀東縁、と呼ばれる。その間に2箇所の関があった。西縁は竹林であったが、こちらは桜並木。あっという間に見沼代用水東縁に。

見沼用水東縁・富士塚

突き当たり正面に台地が聳える。なんとなく気になり、たまたま近くに佇む地元の方に尋ねる。富士塚とのこと。どんなものだろう、とちょっと寄り道。赤山街道に戻り、台地南を迂回して富士塚方面に。途中ありがたそうな蕎麦屋さん。あまり食に興味はなにのだが、なんとなく気になり立ち寄ることに。それにしても、このあたりの「木曽呂」って面白い地名。アイヌ語かなにかで、「一面の茅地」といった意味がある、とも言われる。が、定説なし。ちなみに。西縁の大間木の由来は、「牧」から。近くに大牧って地名もある。馬の放牧場があったのだろう、か。
しばし休息し富士塚に。蕎麦屋さんのすく横にあった。高さ5.4m、直径20m。「木曽呂の富士塚」と呼ばれ、国指定の重要有形民族文化財となっている。結構な高さのお山にのぼり、成り行きで見沼代用水への坂道を下る。

浦和くらしの博物館民家園


見沼用水東縁を北に。水路に沿ってしばらく進むと武蔵野線と交差。遠路を越えたあたりで水路からはなれ、「浦和くらしの博物館民家園」に寄り道。芝川と国道463号線が交差するところにある。道筋はなんとなく昔の見沼田圃の真ん中を進むといった感じ。とはいっても田圃があるわけでもなく、一面の草地。調整池をかねているようで、敷地内には入れない。フェンスにそって進む。下山口新田とか行衛(ぎょえ)といったところを進む。行衛って面白い地名。ところによっ ては、「いくえ」って読むところもあるが、ここでは「ぎょえ」。由来定かならず・
「浦和くらしの博物館民家園」に。なんらかこの地域に関する資料があるか、と訪ねたのだが、民家が保存されている公園といったものであった。先に進む。国道の北にある「グリーンセンター大崎」の東側にそって進む。園芸植物園を超えると水路にあたる。見沼代用水東縁。ここからは用水路に沿って南に戻る。 東沼神社
公園があった。大崎公園。先に進む。ちょっと大きな道を越え、どんどん進む。右手には広々とした風景。見沼田圃の風景である。どんどん進む。お寺を眺めながら湾曲する水路に沿って歩く。大きな神社。太鼓の音が聞こえる。その音に誘われ境内に。太鼓や神楽のイベントがおこなわれていた。この神社は東沼神社。結構大きなお宮様。もともとは浅間社。明治期にいくつかの神社を合祀して、東沼神社と。「とうしょう」神社と読む。

武蔵野線から女郎仏に


しばらく神楽の舞を楽しみ散歩に出発。先に進むと左手に公園。川口自然公園。その先に線路が見える。武蔵野線。赤山陣屋への道筋は、大雑把に言えば、武蔵野線に沿って東北道まで進み、その先は南に東京外環道まで下ればいけそう。武蔵野線に沿って残間の地を歩く。電車は台地の切り通しといった地形の中を進む。しばらく進む。東北道と交差する手前で南に折れる。高速道路に沿って下る。西通り橋を過ぎ、大通り橋を越え、北川口陸橋に。陸橋を渡り道路東側に。すぐ南に川筋が。見沼代用水からの水路のようだ。水路の南にはいかにも給水塔、といった建物。石神配水場であった。水路に沿って東に進み配水場を越える。南に下る車道。その道筋を進み、新町交差点に。交差点を東に折れる。少し進むと妙延寺。「女郎仏」がまつられている。昔、いきだおれになった美しい女性をこの地で供養したという。
女郎仏のそばで少々休憩。少し東に進み、すぐ南に折れる。道なりに南に進み、神根中学、神根東小学校脇に。今まで平坦だった地形がこのあたりちょっと、うねっている。学校の南には外環道の高架が見える。赤山陣屋はすぐ近く。外環道の下を南に渡り、落ち着いた住宅街を進む。新興住宅地といったものではなく、洗練された農村地帯の住宅街といった雰囲気。のんびり進むと森というか林がみえきた。地形も心持ち盛り上がっているように思える。微高台地というべきか。道筋から適当に緑地に向かう。赤山城跡に到着した。

赤山陣屋跡

赤山城跡、または赤山陣屋は代々関東郡代をつとめた伊奈氏が三代忠治から十代・忠尊までの163年間、館をかまえたところ。初代忠次は家康入府とともに伊奈町に伊奈陣屋を構えていた。当時は関東郡代という名称はなく、代官頭と呼ばれていた。関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤といった築堤など、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げる。常に民衆の立場にたった政治をおこない、治水はいうまでもなく、河川の改修、水田開発や産業発展に貢献。財政向上に貢献した。関東郡代と呼ばれたのは三代忠治から。関東の代官統括と河川修築などの民政に専管することとなる。治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くす。が、寛政年間、忠治から10代目にあたる忠尊の代に失脚。家臣団の内紛や相続争いなどが原因とか。
散歩のいたるところで、伊奈氏に出会った。川筋歩きが多いということもあり、ほとんどか治水、新田開発のスペシャリストとして登場する。玉川上水、利根川東遷事業、荒川の西遷事業、八丁堤・見沼溜井など枚挙にいとまなし。が、見沼散歩でちょっと混乱した。井沢弥惣兵衛である。はじめは、井沢氏って伊奈氏の配下かと思っていた。が、どうもそうではないようである。互いに治水のスペシャリスト。チェックする。
伊奈氏と伊沢氏はその自然へのアプローチに違いがあるようだ。伊奈氏は自然河川や湖沼を活用した灌漑様式をとる。伊奈流とか関東流と呼ばれる。自然に逆らわないといった手法。一方、見沼代用水をつくりあげた伊沢為永は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。紀州流と呼ばれた。
伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。
こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。
とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になる。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、素敵な一族であります。
赤山城は微高台地に築かれている。周囲は低湿地であった、とか。本丸、二の丸、出丸が設けられ自然低湿地を外堀としている。陣屋全体は広大。本丸と二の丸だけで東京ドームと後楽園遊園地を合わせたほどの規模となる。郡代とはいうものの、8千石を領する大名格。家臣も300名とか400名と言うわけで、むべなるかな。城跡を歩く、北のほうは林、中ほどはちょっとした庭園風。南は畑といった雰囲気。あてもなくブラブラ歩き、東に進み山王神社に。そこから赤山陣屋を離れ源長寺に向かう。
源長寺
源長寺。城跡で案内を見ていると、伊奈氏の菩提寺となっている、と。きちんとおまいりするに、しくはなし、と歩を進める。南に下る道を進み首都高速川口線と交差。赤山交差点。東に折れ、江川運動広場を越え、東に折れ、微高地に建つ源長寺に。いまでこそ、ちょっとした堂宇ではあるが、お寺の資料を見ると、明治のころには祠があっただけ、といったもの。伊奈氏の業績を考えれば少々寂しき思い。
新井宿
台地を下り、埼玉高速鉄道・新井宿に。このあたりは日光御成道が通っていた、と。日光御成道、って鎌倉街道中道がその原型。江戸時代に日光街道の脇往還として整備された、文字通り、将軍が日光参詣のときに利用された街道である。道筋は、東大近くの本郷追分で日光街道から離れ、幸手宿(埼玉県幸手市)で再び日光街道と合流する。宿場は、岩淵宿(東京都北区) 、川口宿(埼玉県川口市) 、鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)、大門宿(埼玉県さいたま市緑区) 、岩槻宿(埼玉県さいたま市岩槻区) 、幸手宿(埼玉県幸手市)。新井宿とは、いかにもの名前。ではあるが、日光御成道に新井宿という宿場名は見当たらない。そのうちに調べてみよう、ということで、地下鉄に乗り家路へ と。

月曜日, 6月 18, 2007

見沼散歩 そのⅠ;大宮から見沼通船堀まで

見沼田圃を通船堀に
見沼田圃 見沼田圃を歩こうと、思った。大宮台地の下に広がる、という。大都市さいたま市のすぐ横に、それほど大きな「田圃」があるのだろうか。ちょっと想像できない。が、先日の岩槻散歩の途中、大宮から乗り換えて東部野田線で岩槻に向かう途中、緑豊かな田園風景に接したような気もする。たぶんそのあたりだろう、と、あたりをつけて大宮に向かう。 
見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は? 見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。
堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。 
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する。


本日のルート:
JR 大宮駅 > けやき通り > (高鼻町) > 市立郷土資料館 > 氷川神社 > 県立博物館 > 盆栽町 > 見沼代用水西縁 > (土呂町・見沼町) > 市民の森 > 芝川 > 東武野田線 > 土呂町 > 見沼代用水西縁 > 寿能公園 > 大和田公園 > 大宮第二公園 > 鹿島橋 > 大宮第三公園 > 堀の内橋 > 稲荷橋 > 自治医大付属大宮医療センター > 大日堂 > 中川橋・芝川 > (中川) > 中山神社・中氷川神社 > 県道65号線 > 芝川 > 見沼代用水西縁 > 氷川女体神社 > 見沼氷川公園 > 見沼代用水西縁 > 新見沼大橋有料道路 > (見沼) > 芝川 > 念仏橋 > 武蔵野線 > 小松原学園運動公園 > 見沼通船掘 > JR 東浦和駅

大宮駅

散歩に出かける。埼京線で大宮下車。大宮といえば武蔵一之宮・氷川神社でしょう、ということで最初の目的地は氷川神社とする。とはいうものの、見沼関連でよく聞くキーワードに氷川女体神社がある。また八丁堤って名前は知ってはいるが、どこにあるのか、よくわかっていない。観光案内所を探す。駅の構内にあった。地図を手に入れ、それぞれの場所を確認。駅の近くに郷土資料館とか県立の博物館もあるようだ。見沼に関する資料もあろうかと、とりあえず郷土館に向かう。コースはそこで決めよう、ということにした。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





郷土資料館
駅の東口に出る。道を東にすすみ「けやき通り」に。そこを北に折れる。この道筋は氷川神社の参道。中央の歩道を囲み左右に車道が走る。参道の長さも結構ある。一の鳥居からは2キロ程度ある、とか。参道をしばらく進むと道の脇、東側に図書館。市立郷土資料館はその隣にある。地下にある常設展示で見沼に関する情報を探す。見沼溜井というか、見沼たんぼの概要をまとめたコーナーがあった。さっと眺め、見沼代水路西縁とか、芝川とか、見沼代水路東縁、氷川女体神社、八丁堤・見沼通船堀、といったキーワードと場所を頭に入れる。また、展示してあった見沼の地図で、見沼の範囲を確認。形は「ウサギの顔と耳」といった形状。八丁堤のあたりでせき止められた溜井が「ウサギの顔」。西の大宮台地と東の岩槻台地、そしてその間に岩槻台地から樹皮状に伸びた台地によって左右に分けられた溜井の端が「ウサギの耳」。西は新幹線の少し北まで、東は東部野田線の北あたりまで延びている。
郷土資料館であたらしい情報入手。見沼を左右にわける大和田の台地にある「中川神社」がそれ。氷川神社と氷川女体神社とともに「氷川トリオ」を形成している。氷川神社が上氷川、中川神社が中氷川、氷川女体神社が下氷川。一直線に並んでいる、ということである。見沼に面して、氷川神社が「男体宮」、氷川女体が「女体宮」、そして中間の中川神社が「簸王子(ひのおうじ)宮」として、三社で一体となって氷川神社を形つくっていた、とか。簸王子社は大己貴命(大国主神)、男体社はその父の素戔鳴命、女体社には母の稲田姫命を祀る、って按配だ。で、いつだったか、狭山を散歩しているとき、所沢・下山口の地で、中氷川神社に出会った。その時チェックした限りでは、奥多摩の地に奥氷川神社があり、これもトリオとして、一直線に並び、奥多摩は「奥つ神」、所沢は「中つ神」、そして大宮は「前つ神」として氷川神社フォーメーションを形つくっていた、と。

 氷川神社
氷川神社
郷土資料館を後に、氷川神社に。武蔵一之宮にふさわしい堂々とした構え。氷川神社については折にふれてメモしているのだが簡単におさらい;氷川神社は出雲族の神様。出雲の斐川が名前の由来。武蔵の地に勢を張った出雲族の心の支えだったのだろう。昔、といっても大化の改新以前、この武蔵の地の豪族・国造(くにのみやつこ)の大半が出雲系であった、とか。うろ覚えだが、22の国のうち9カ国が出雲系であった、と。
その出雲族も、大化の改新を経て、大和朝廷がこの武蔵の地にも覇権を及ぼすに至り、次第にその勢力下に組み入れられて、いく。行田の散歩で出会った「さきたま古墳群」の主、中央朝廷の意を汲む笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が、先住の豪族小杵と小熊を抑えたのがその典型例であろう。小杵は朝廷から使わされた暗殺者によって「誅」された、と。
ともあれ、政治的にはその勢力を奪い取った大和朝廷ではあるが、さすがに出雲族の宗教心まで奪うことはできなかったようだ。利根川以西に広がる出雲系神社の数の多さをみてもそのことがわかる。 氷川神社は武蔵一之宮、と。が、多摩の聖蹟桜ヶ丘にある小野神社も武蔵一之宮と称する。武蔵国に二つも一之宮があるって、どういうことであろう。チェックした。
一之宮って正式なものではない。好き勝手に、「われこそ一ノ宮」と、称してもいい、ということ。もちろん、おのずと納得感が必要なわけで、いまはやりの、それらしき「説明責任」がなければならない。氷川神社は大宮の地に覇を唱えた出雲系氏族が、「ここが一番」と称したのだろう。また小野神社は府中に設けられた国府につとめる役人たちによって、「ここが一番」と主張されたのかも知れない。小野神社は武蔵守として赴任した小野氏の関係した神社であるので、当然といえば当然。また、先住の出雲系なにするものぞ、といった気持もあったのかしれない。


県立博物館
次の目的地は県立博物館。境内を北に進む。それにしても池が多い。湧水なのだろう、か。台地の上にあるだけに、水源が気になる。池に沿って進むと県立歴史と民俗の博物館。見沼の情報をさっと眺め休憩をとりながら、先の計画を練る。いままで得た情報から、出来る限り見沼の上流からスタートする。さすがに最上端・上尾まで行くわけにはいかない。新幹線ならぬ、JR宇都宮線近くの市民の森・見沼グリーンセンターに向かう。そこから芝川に沿って下り、岩槻台地の樹枝台地先端にある中山神社に。そのあと見沼に下り、今度は大宮台地の先端にある氷川女体神社に。そのあとは見沼田圃を南にくだり、八丁堤に進む、という段取りとした。


盆栽町
県立博物館を離れる。すぐ北に東武野田線・大宮公園駅。北に抜けると盆栽町。西には植竹町。盆栽との関連は、とチェック。大正末期、当時土呂村であったこの地に盆栽業者が移り住んだ。昭和15年に旧大宮市に編入される際、「盆栽町」とした。盆栽町から土呂町に進む。台地をくだる。土呂町というか見沼地区にある市民の森に。すぐ手前に水路。チェックすると「見沼代用水西縁」。水路に沿って下りたい、とは思えども、とりあえず当初の予定どおり、芝川に進むことにする。市民の森を過ぎるとすぐに芝川。

芝川
芝川の土手を南に下る。周りは水田、というより畑。西にちょっとした台地。東に大宮の台地。その間を芝川は流れる。博物館で見た資料によれば、八丁堤で堰き止められた溜井の水は、このあたりの少し上流、JR宇都宮線の少し上あたりまできていたようだ。芝川に沿って下る。東武野田線と交差。あら?道がない。川の西側の道は車道であり、交差している。が、こちらは行き止まり。線路に沿って西に戻る。結構長い。が、仕方なし。少し進むと見沼代用水西縁。その先に踏み切りがあった。

見沼代用水西縁
見沼代用水西縁

踏み切りを渡り、東に戻ると見沼代用水西縁。芝川まで戻るのをやめ、この水路を下ることにする。水路脇は遊歩道として整備されている。少し下ると水路東に大和田公園、市営球場、調整池、大宮第二公園が広がる。水路西は寿能町。西に坂をのぼった大宮北中学のあたりに寿能城。そして見沼を隔てた大和田の台地には伊達城(大和田陣屋)があった。これらの城は、川越夜戦により北条方に落ちた川越城への押さえとして築かれたもの。寿能城には潮田出羽守資忠。軍事的天才と称された太田三楽斉資正(道潅の子孫)の四男。伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房が守る。これらの城は、岩槻の太田三楽斉資正、とともに、軍事拠点をつくっていた、と。

中山神社・中氷川神社

鹿島橋に。ここからは水路の東は大宮第三公園となる。白山橋、堀の内橋、稲荷橋と進む。水路東に自治医大・大宮医療センター。芝川小学校を超え朝日橋に。水路を離れる。見沼を隔てた東の台地にある中川神社に向かう。東に折れ芝川にかかる中川橋に。中川橋で芝川を渡り、中川地区を進み中山神社に。中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守。中山神社となったのは明治になってから。中氷川の由来は、先にメモしたように、見沼に面した高鼻(大宮氷川神社)、三室(氷川女体神社;浦和:現在の緑区)、そしてこの中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀っていた。で、この神社が大宮氷川神社、氷川女体神社の中間に位置したところから中氷川、と。 この神社の祭礼である鎮火祭りは良く知られている。この地区の中川の名前は、この鎮火祭りの火によって、中氷川の「氷」が溶けて「中川」になった、とか。本当であれば、洒落ている。

さきほどのメモで見沼の格好が「うさぎの頭:顔と耳」と書いたが、正確には、この中山神社あたりまで延びている沼がある。大きい耳の間に、ちょっとおおきな角が生えてる、って格好。こうなれば兎ではないし、どちらかといえば、鹿の角というべきであろうが、ともあれ、沼が三つにわかれている格好。三つの沼があったので「みぬま>見沼」って説もある。真偽の程定かならず。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)









氷川女体神社
氷川女体神社
次の目的地、氷川女体神社に向かう。県道65号線を下る。西には第二産業道路が走る。芝川の手前に首都高埼玉新都新線の入口があるよう、だ。芝川にかかる大道橋を渡るとすぐ見沼用水西縁にあたる。ここからは見沼用水西縁に沿って進む。北宿橋を越え、ここまで東に向かっていた水路が、大きく湾曲し、南に向かうところに氷川女体神社がある。 氷川女体神社。神社のある台地に登る。あれこれの資料や書籍に、「見沼を見下ろす台地先端にある」と表現されているこの神社の雰囲気を実感する。確かに前に一面に広がる沼に乗り出す先端部って雰囲気。しばし休息し、先に進む。これから先が見沼田圃の中心地(?)。敢えて兎というか、鹿で例えれば、「顔」の部分、ということか。
photo by Stanislaus


見沼田圃

氷川女体神社の前にある見沼氷川公園をぶらっと歩き、その後は見沼用水西縁を離れて、芝川に向かう。本日は予定に反してほとんど芝川脇を歩いていないので、なんとなく締めは芝川にしよう、と思った次第。成行きで東に進み芝川に。それほどきちんと整地されてはいない。土手を進む。周囲を眺める。「田圃」というより、畑地。低湿地であった雰囲気は残っている。見沼田圃を思い描きながら、しばらく下ると新見沼大橋有料道路と交差。下をくぐり進む。見沼地区を経て念仏橋を越え、大牧、蓮見新田、大間木を過ぎると武蔵野線と交差。



武蔵野線・東浦和駅

線路を過ぎると芝川を離れて西に向かう。小松原学園運動場の脇を南に下ると見沼通船堀公園。結構高い堤が前方に「聳える」。じっくりと歩いてみたい。が、残念ながら日が暮れてきた。通船のための水路もぼんやりと見える、といった按配。次回再度歩くことにして本日はこれで終了。公園近くの武蔵野線・東浦和に向い、一路家路を急ぐ。

日曜日, 6月 17, 2007

埼玉 越生散歩; 大田道潅ゆかりの越生から毛呂山町の鎌倉街道を辿る

大田道潅ゆかりの越生から毛呂山町の鎌倉街道を辿る

越生に出かけた。大田道潅ゆかりの地。道潅の父・道真の隠居所もあるという。少々遠いため、「越生に行きたしと思えども 越生はあまりに遠し」と、敬遠していたのだけれども、寄居や武蔵嵐山に歩を進めた昨今となっては、どうということもない、という気持ちになっていた。



本日のルート;東武東上線・東毛呂駅>出雲伊波比神社>毛呂川>東武越生線・越生駅>尾崎薬師>五大尊つつじ園>越辺(おっぺ)川>山吹の里歴史記念公園>県道30号線>鎌倉街道>呂山町歴史民俗資料館>東武越生線・川角駅

東武東上線・東毛呂駅
池袋から東武東上線で坂戸駅に。坂戸で東武越生線に乗り換え越生に進む。社内で地図を眺めていると、越生のふたつ手前の東毛呂に「出雲伊波比神社」がある。これはこれは、ということで急遽、東毛呂で下車することに。 東口に出る。駅前の案内をチェック。東のほう、500m程度のところに出雲波比神社。また、逆方向の西に3キロ程度のところに「歴史民俗資料館」がある。歴史民俗資料館って、どの程度のものかわからないけれども、結構気になる。はっきりとした住所はわからないのだが、大類とか苦林といった地名の近く、のようだ。越生を歩いたあと、「歴史民俗資料」を訪ねることにする。

出雲伊波比神社
駅を離れ神社に向かう。進むにつれ、鬱蒼とした森が左斜め前に見える。出雲伊波比神社の鎮守の森であろう。岩井地区で県道 30号線に。飯能市の国道299号線から分かれ、大里郡寄居町に続く。このあたりは重複して走っている。国道を渡るとすくに伊波比神社の境内。巨大である。独立丘陵上すべてが境内といった有様。本当のところ小さい祠程度かと思っていた。一昨年だったか、狭山丘陵を歩いていたとき、狭山湖の北西、入間の中野で「出雲祝神社」に偶然であった。こじんまりとした、田舎の社といった雰囲気であった。ために、この地の社も「祠+α」程度といったものかと思っていた。が、とんでもない。立派な構えの社でありました。

神社で手に入れた由緒によれば、祭神は大名牟遅神(大国主命)・天穂日命。創建は景行天皇53(123)に日本武尊(倭建命)が東征凱旋のおりに創建した、と。天皇から賜ったヒイラギの鉾を納め、神宝としたのもこのときといわれている。成務天皇のとき、出雲臣武蔵国造・兄多毛比命が祖先神・出雲の天穂日命を祀り、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされる。兄多毛比命って、出雲族を率いて武蔵にやってきた人物として、いろんなところで顔を出す。で、この神社、孝謙天皇の御世・天平勝宝7年(755年)に官幣にあずかる。光仁天皇の宝亀3年(772年)、勅により幣を奉られ、以降歴代天皇の祈願所でもあった。醍醐天皇の延喜7年(907年)には武蔵国入間郡五座に列せられた。 この神社は武家の信仰も篤く、康平6年(1063年)、源義家が奥州平定の凱旋の折、この社を訪れ鎮定凱旋を寿ぎ流鏑馬の神事を奉納した。これが現在、県の指定民俗資料となっている「流鏑馬」のおこりである。

建久年間(1190年頃)、源頼朝は畠山重忠を奉行とし本殿を桧皮葺に造営、神領も寄進した。永享の頃(1430年頃)は足利持氏が社殿を瓦葺の造営。その後焼失するも、大永8年(1528年)、この地に覇をとなえた毛呂顕繁によって再建される。その後も北条氏、徳川家の庇護を受けるといった具合である。 神社の名前は、中世から江戸期にかけて飛来明神(毛呂明神)と称される。幕末から明治時代に古来の出雲伊波比神社に改められた。
出雲伊波比神社という名前に最初に出合ったのは、先ほどもメモした入間の出雲祝神社。なぜ、武蔵に「出雲が」と持ち前の好奇心でチェックし、武蔵の国と出雲族の関係が少し分かった。武蔵を祭祀圏とする氷川神社も出雲族の祖先神であり、出雲の斐川=氷川、に由来する、ということは何度となくメモした。武蔵国造としてこの地を治めた出雲族は、物部氏に代表される大和朝廷の派遣される国司に取って替わられ、中央王権に屈していく。が、さすがに祖先の神々までを排することはできなかったのであろう。それにしても、「出雲伊波比」とか「出雲祝」とか、「出雲」そのままの名前まで残すって、朝廷も「出雲族」に配慮しなければならなかったのであろう、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

正倉神火事件 ついでのことながら、出雲伊波比神社で思い出すのは「正倉神火事件」である。これも出雲祝神社のときにちょっとメモした。概略をメモ;奈良時代末~平安時代初期、主に東国において「神火」によって、役所の倉・正倉が焼失するという事件が頻発した。「朝廷が神に幣帛を奉るのを怠ったたえ、神の祟りが起きた」ということ、である。そしてその怒った神がどうやら出雲伊波比の神であると、いう。地方からの報告を聞き、朝廷も最初はそれを信じていたらしい。が、その実態は神でもなんでもなく、どうやら各役所の官僚の悪知恵であったよう。米の横領を隠蔽しようとして倉に放火。その罪を神に被せようということであった、わけだ。また、上司を罪に落とし入れ、責任をとられ、自分が取って替わる、といった思惑もあったとも。あれあれ、といった事件でありました。

毛呂氏 
毛呂氏について、ちょっとまとめておく。毛呂氏は常陸国に流された藤原氏が、武蔵七党の丹党と婚姻関係を結んで土着したものといわれる。鎌倉政権では、藤原の流れというその貴種ゆえに、頼朝に重用される。「吾妻鏡」には毛呂季光を豊後国の国司に推挙するとある。南北朝時代には足利尊氏方に与力し活躍。15世紀末に太田道灌が死去すると山内上杉方に与する。大永4年(1524)に北条氏綱が江戸城を奪うと、その傘下に。山内上杉憲房の攻撃を受けるが、氏綱の救援。和議が成立。その後も後北条に属して活躍するが、豊臣秀吉の小田原征伐で運命をともにする。

毛呂川
神社を離れ、県道30号線を北に進む。東武越生線の跨橋を越え、岩井の交差点を西に折れる。「岩井」は出雲「伊波比」から転化したものだろう。しばらく進むと毛呂川橋。文字通り、「毛呂川」に架かる。毛呂川は毛呂山町の山間部からはじまり、越生で越辺川に合流する7キロ程度の川。
東武越生線・唐沢駅
川に沿って遊歩道が下流に続いている。歩いてみたい、とは思えども、越生へと、の思いも強く、先を急ぐ。武蔵越生高校前を過ぎ、東武越生線・唐沢駅手前で北に折れ、線路に沿って越生方面に進む。柳田川に架かる柳田橋を越え、五領児童公園前を進み、しばらくすると東武越生線・越生駅に。

東武越生線・越生駅

駅前で案内板をチェック。山吹の里は駅の東。西には五大尊つつじ公園。またいくつかお寺があるが、どれが道潅ゆかりのものか手がかりはない。どうしたものかとは思いながら、街を歩く。古い家並みがところどころ見え隠れする。
駅の正面に法恩寺。行基が開基と。天平13年というから、西暦738年のことである。それにしても、いたるところに行基が顔を出す。それほどに、ありがたいお坊さんであったのではあろう。その後、荒廃するも、文治の頃、というから、1190年頃、源頼朝の命により越生次郎家行が再興。源家繁栄の祈祷所となる、と。もとは報恩寺と書かれていたが、いつの頃からか法恩寺と書かれる様になった。
確か、墨田を散歩していたとき、道潅ゆかりの法恩寺があった。道潅が江戸城内に祀った平川山本住院を、後に孫の資高が墨田に移し平川山法恩寺とあらためた、とか。このお寺と名前が同じ。報恩寺が法恩寺となったのは、ひょっとしてこのあたりに原因が、と独り勝手に空想する。 

越生氏 
越生氏は武蔵七党のひとつ。鎌倉時代この地を領した。武蔵権守越生次郎家行の一族である越生新大夫有行が越生氏の祖といわれる。一族に黒岩氏、岡崎氏、鳴瀬氏、吾那氏などがある。越生の名前の由来でもある。越生氏は足利尊氏とともに南北朝を駆け抜ける。「太平記」には、越生四郎左衛門が南朝方の総大将・北畠顕家を討ち取った、とある。が、活躍もそのころまで。それ以降、越生氏は歴史に登場することはない。

土手道を進み、中央橋手前で車道に戻る。うちわの手づくりが体験できる、といった店がある。越生ってうちわで有名のようだ。最近テレビで見た旅番組でレポーターがうちわつくりを体験していた。駅前を抜け、越辺川に架かる山吹大橋を渡ると、正面に「山吹の里歴史記念公園」。 
で、そもそも「越生」の由来であるが、この地が平野と山地の接点にあり、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えねばならなかった。ために「尾根越し(おねごし)」から変化した、とか。 ちょっと気がついたのだが、この越生の「生」って読み方さまざまである。「越生;おご(せ)」、福生ふっ(さ)」、「生(いく)田」、埴生はにゅ(う)」、「早生(わせ)」、「生(なま)もの」、「生(い)きる」、「生(う)む」、「生(お)い立ち」、、「生(き)糸」、「芝生(ふ)」「実が生(な)る」などなど。読み方は50種類以上もある、という。何ゆえこういうことになったのか、日本語の先生にそのうち聞いてみようと思う。ちなみに、「生越」さんという人がいた。越生と真逆でありながら、同じく「おごせ」と読む。これも、そのうち確認してみたい。

尾崎薬師
どこに進もうか、ちょっと考える。山吹の里に直行しようか、それともどこか見どころは?結局、五大尊つつじ園に寄ることに。それほど、花を愛でるといったタイプではないのだが、1万本のつつじが咲く関東屈指のツツジ園ということであれば、どんなものかとちょっと眺めてみようと思う。 街の中を成行きで進む。越生町役場のところで車道から離れ、中央公民館とか町立図書館の前を進む。尾崎薬師の案内。ちょっと寄り道。 この薬師堂は越生一族の岡崎氏が館を構えたとき、薬師如来を安置したのがはじまり、と。その後岡崎氏は石見国に移り、北朝方として活躍したとされる。

五大尊つつじ園

岡崎薬師から道に戻り、先に進む。越生小学校のあたりから山に向かう小道。丁度ツツジまつりの最中でもあり、結構人が多い。入園料を払って園内に入る。といってもとりたててフェンスがあるわけでもなく、この季節に限り地元の人達が切符切りをしている、といった有様。急な坂道を上り、山肌一面のツツジを眺め、お不動さんにおまいり。ちなみに越生一族の黒岩氏の館はこのあたりにあった、とか。しばし休憩し、石段を下り、次の目的地「山吹の里」に向かう。ついでのことながら、昨年だったかつつじで有名な東青梅の塩船観音に行ったときのことを思い出した。擂鉢上の山肌一面のツツジも見事でありました。文京区の根津神社も美しいツツジでありました。歩いていれば、あれこれ繋がってくる。

越辺(おっぺ)川
車道に戻り、黒岩の交差点を東に折れる。車の多い通りを避け、川筋をあるこう、と思った次第。春日橋の手前を折れ土手道を歩く。この川は越辺(おっぺ)川。越生町黒山地区に源を発し、有名な越生梅林を経て越生の町を抜け、毛呂山町・鳩山町へと。で、坂戸市で高麗川、比企郡川島町で都幾川が合流し、川越で入間川に流れ込む。それにしても、この「おっぺ」って、なんともいえない音の調子。古代朝鮮語の「布」という意味だとか、アイヌ語だとかあれこれ説はありようだが、これといった定説はないようだ。


山吹の里歴史記念公園

太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。 話としては面白いのだが、もとより真偽の程は定かではない。それに、このエピソードというか伝説は散歩の折々に出合った。横浜の六浦上行寺あたり、豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋あたり、であったろうか。伝説は所詮伝説であるし、それほど道潅が人々に愛されていた、、ということであろう、か。 
台地のあたりをブラブラし、公園を離れる。入口に説明文。小杉の地に建康寺、山麓に龍穏寺など道潅ゆかりの史跡の案内。建康寺は道潅の菩提をとむらうため建立。近くには道真の隠居所・自得軒があった。道潅が歌人・万里集句と訪れたところ。伊勢原の糟屋館で謀殺されるひとつ気前のことである。親子最後の対面の場であったのだろう。
また、龍穏寺は6代将軍足利義教が、関東管領上杉持朝に命じて先祖の冥福と戦没者の菩提を弔う為に建立したもの。その後荒廃するも、太田道灌により再建される。道真はこのお寺の近くに「山枝庵」をつくるが、後に小杉に移った、と。道潅親子のお墓もある。 建康寺、龍穏寺にちょっと惹かれる。とはいうものの、結構距離かある。今回は諦める。越生は資料収集がいまひとつうまくいかず、「積み残し」が多かったようだ。建康寺、龍穏寺、そして越生神社。報恩寺をでたところを山に向かえば越生神社があった、よう。報恩寺再興をした越生次郎家行の氏神として祀ったもの。さらに、越生といえば、というほど有名な「越生梅林」。関東三大梅林のひとつである。次回はこのあたり、越生の丘陵地を中心とした散歩を計画いたしたく。時間があまりない。先に進むことに。

県道30号線

県道30号線を進む。すぐに丘陵地の裾に向かって脇道に入る。この丘陵地は入間カントリークラブとか武蔵富士カントリークラブといったゴルフ場。地名は如意。案内に如意輪観世音といった看板があったが、それが地名の由来だろう。稲荷神社を越え、箕和田湖前。ここで県道343号線である岩殿・岩井線に入る。先に進むと目白台。丘の上に目白台団地があるよう。西戸に国津神神社。いかにも出雲系の名前。由来などをチェックにと寄り道。案内はなにもない。境内に滑り台があるといった素朴なありさま。少し進み、すぐに右に折れる。東に進み川角リサイクルプラザを越えると越辺川に交差する。

鎌倉街道

少し進み、すぐに右に折れる。東に進み川角リサイクルプラザを越えると越辺川に交差する。橋を渡り先に進み大類グラウンドの手前に「鎌倉街道」の案内。南に細い道が続く。グラウンド脇の、なんということのない道を下る。グランドが切れるあたりから、木立の脇を通る道となる。昔の面影が少々残る。川角地区と大類の境あたりに掘割遺構が見える。 
鎌倉街道って、イザ鎌倉というときにだけに使ったわけではない。すべての道はローマならぬ幕府のある鎌倉に続いていたのだろう。鎌倉と諸国をつなぐ幹線道路であったわけだ。そのうち良く知られているのが、鎌倉を基点に埼玉の中央部を貫き群馬に抜ける「鎌倉街道上道」、東京から川口・岩槻・宮代を経て茨城の古河に続く「鎌倉街道中道」、そして、東京から千葉県市川市の下総国分寺に向かう「鎌倉街道下道」の三つのルート。
ここは鎌倉街道上道。埼玉の中央部というと少々違和感があるが、秩父も埼玉であるので、このあたりが埼玉の中央部ということらしい。 鎌倉街道上道をもう少々詳しくメモ;鎌倉>大和市>町田の七国山>町田・>小野路多摩市>府中・国分寺>小平市>東村山>>久米川所沢>入間>日高>毛呂山町・市場>川角>苦林>鳩山町>笛吹峠>嵐山町・菅谷>小川町>川本町>児玉>藤岡、へと続く。

毛呂山町歴史民俗資料館
鎌倉街道をそれ、少し東に進むと「歴史民俗資料館」。資料館にはいるまで、どこの資料館かよくわかっていなかった。毛呂山町の歴史民俗資料館であった。立派な資料館である。ハンドアウトも豊富。展示もわかりやすい。それほど期待をしていたわけではないのだが、予想外に素敵な資料館でありました。今回の散歩で最初に訪れた出雲伊波比神社も毛呂山町であったことが、ここに至って改めて認識した次第。



東武越生線・川角駅
しばし休憩し、最寄りの駅・川角駅に向かう。鎌倉街道に再び戻り南に下る。西久保地区に入ると、雰囲気のある道筋となる。掘割の遺構も残る。「歴史の道百選」にも選ばれている。さらに南に進むと川にあたる。葛川。高麗川の支流である。小さな川を渡り、市場地区を南に下り、東武越生線・川角駅に到着。本日の予定終了とする。



金曜日, 6月 15, 2007

北武蔵 武蔵嵐山散歩 ; 畠山重忠と木曾義仲の足跡を辿る

先日の寄居散歩の途中、気になっていた地名、武蔵嵐山・小川町・男衾あたりの地図を眺めていた。と、武蔵嵐山に県立歴史資料館のマーク。

菅谷館跡も近くにマークされている。菅谷館って、鎌倉武士の亀鑑・畠山重忠の館跡。歴史資料館があるということは、そこに行きさえすれば、なんらかの新たなる「発見」もあろうかと、例によって前もってなにも調べず、お気楽に武蔵嵐山に向かう。

この地が木曾義仲ゆかりの地であったことなど、そのときは知る由も、なし。




本日のルート;東武東上線・武蔵嵐山>道254号線>県立歴史博物館>畠山重忠の館跡>都幾川>槻川>鎌形八幡宮>班渓寺>渓流・武蔵嵐山>平澤寺>東武東上線・武蔵嵐山


東武東上線・武蔵嵐山


東武東上線・武蔵嵐山下車。駅前で軽く昼食、などと思っていたのだが、それらしきレストランなど見当たらない。閑散としている。商店街もほとんどシャッターが閉まっており、まことに静かなるものである。駅前で観光案内をチェック。菅谷館の案内。そのほかに、木曽義仲産湯の清水とか義仲の妻・山吹姫の墓といった案内があった。 北陸・倶利伽羅峠を歩き、木曽義仲のあれこれを調べたとき、木曽義仲って、木曽で育ってはいるが、生まれは奥武蔵(外武蔵?)であったことを思い出した。思いがけなく義仲の登場。畠山重忠ゆかりの地を歩く、といった思いでこの地に来たのだが、源平争乱の雄・義仲が現れた。行き当たりばったりの散歩の醍醐味ではある。急遽、重忠&義仲ゆかりの地を巡る散歩とする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

国道254号線
平屋建ての家並みの多い商店街を北にすすむ。国道254号線と交差。この国道、東京都文京区から埼玉、群馬を経て、長野県松本市に通じる。昔は、川越街道・川越児玉往還・信州街道とも呼ばれていた。国道254号線を越え、更に南に進む。菅谷中学校、菅谷小学校の間を抜けると大きな道。これも国道254号線。先ほどの道筋が旧道で、この道筋はバイパスとしてつくられたのであろう、か。

県立歴史博物館

国道を渡ると菅谷館跡。館跡の入口にある県立歴史博物館を訪ね、この地の歴史の概略を頭に入れる。菅谷館は鎌倉時代に畠山重忠が構えた館をその始まりとし、戦国期に小田原北条氏により館から平城へと拡張されていった。この地は鎌倉街道に面する交通の要衝でもある。元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠はこの館より鎌倉街道を下っていった、と『吾妻鏡』にある。また、1488年(長享2)には、近くの須賀谷原で、山内・扇谷両上杉氏が戦い戦死者700名、傷ついた馬数百等にもおよんだ、という事である。

畠山重忠の館跡
館跡を南に進む。遺構の規模も大きい。館跡は台地上にあり、南は都幾川によって浸食され屹立した崖。東と西は幾筋もの谷が走り外堀となっている。この館というか城跡は地形をうまく活かし、高い土塁と空掘に囲まれた縄張がおこなわれている。 土塁の規模も大きく、高さ12mにもなるものも、ある。本郭は南の崖線に近いところ。それを囲むように二郭・三郭・西郭・南郭の四つの郭が配置されている。こういった縄張りは小田原北条氏によるものであろう。さきほどの県立歴史博物館は二郭と三郭の間に建つ。二郭門の後にある土塁上には畠山重忠の像がある。

畠山重忠のあれこれ;頼朝のもっとも信頼したという武将。が、当初、頼朝と戦っている。父・重能が平氏に仕えていたため。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。上にメモした二俣川の合戦がそれ。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿である。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。
討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。

で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

都幾川
主郭に続く土橋を渡り都幾川へ下る崖線に向う。崖を下り、「ホタルの里」とか「蝶の里公園」の中を歩き、都幾川(とき川)に。都幾川の源流は比企郡ときがわ町大野地区。標高400mから900mという秩父山地東部の山間からはじまり、菅生のある比企郡小川町を経て東松山に進み、比企郡川島町長楽で越辺川と合流する。

槻川
この都幾川に秩父郡秩父村を源流とする槻川(つきかわ)が合流する地点にかかる二瀬橋を渡り、都幾川の堤防を南に下る。右手は山間の景観、左手は畑地、堤防は桜堤。ゆったりした時間が流れる。千騎沢橋を越え、八幡橋に。八幡橋を渡れば鎌形八幡宮に着く。


鎌形八幡宮
鎌形八幡宮は坂上田村麻呂が創建したとされる。代々源氏の氏神として尊祟された、とか。現在は、少々寂しい構え。往時の面影を偲ぶのは少々むずかしい。社にむかって右側にいかにも湧き水といった小さな池。境内の手水場に注がれる水は「木曽義仲産湯の清水」とあった。
義仲の生まれたところは比企郡嵐山町にある大蔵館。父・義賢の館である。鎌形神社から1キロほど東。ということは、このあたりに別邸でもあったのだろう。 義仲の父・義賢は帯刀(たてわき)先生と呼ばれる。帯刀の長ということ。で、帯刀は皇太子の護衛官である。義賢はもともと京都の堀川にある源氏館にいた。が、義賢の父・為義と争い相模に下っていた兄の義朝に抗すべく、上野国大胡の地を領する。大蔵に館を構えるのはその後のこと。

義朝の長男・義平が大蔵館を急襲し義賢を討ったのは、義賢が大蔵の地に移ったことと関係ありそう。相模,上野と互いに威をとなえ、バッファー地域であった武蔵の地に移った義賢の動きに危機感を抱き、事を起こすことになったのだろう。 父義賢を討たれた遺児駒王丸こと義仲を助け木曽に逃がしたのは畠山重忠の父・重能と斉藤実盛。斉藤実盛は武蔵の国・長井庄というから、いまの熊谷市が本拠。もともとは義朝派。が、武蔵に館をもった義賢に伺候した時期がある。義朝への恩義もあって畠山重能から託された駒王丸を助けたのであろう。 
木曽に逃れた駒王丸は木曽の豪族中原兼遠の庇護を受け、ために「木曽義仲」と呼ばれる。ちなみに、斉藤実盛は最後まで平家方の武将として奮戦。加賀・篠原の合戦で義仲軍に討ち取られる。命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、涙した、ということである。命の恩人斉藤実盛を討った義仲であるが、もうひとりの命の恩人・畠山重能の息子である重忠と宇治川の合戦で戦う。義仲は武運つたなく戦に敗れ、滅びることになる。なんとも因果な巡り合わせである。

班渓寺
鎌形神社を離れ、都幾川に沿って南に進む。ほとんど農家の庭先を歩く、といった按配。すぐに川筋は西に向かって湾曲。班渓寺橋手前を北に折れる。すぐに班渓寺。お寺の前の石碑には、木曽義仲生誕の地、とある。このお寺の裏に、木曽殿館跡がある。
寄り合いがあるのだろうか、地元人の出入りが多い。少々遠慮しながら境内に。 ここには義仲の妻・山吹姫の墓がある。義仲の妻は巴御前が知られるが、山吹姫も妻のひとり。平家物語には、『木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(美女)を具せられたり。山吹はいたはりあい、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。』とある。 巴御前は女武者で有名。倶利伽羅峠の合戦では一軍を率い、勝利に貢献。京の三条河原で畠山重忠と一騎打ちをした、と『源平盛衰記』にある。中原兼遠の娘と言われる。
山吹姫も妻のひとり。木曽義仲が逃れた、木曽・中原兼遠の縁の者とも言われるが、定かではない。ともあれ、このお寺は、山吹姫が義仲との間にできた子供・義高の供養のために建てたもの、と。鎌倉散歩のときメモしたように、頼朝の娘・大姫との縁組が決まっていた義高であるが、頼朝・義仲の争いに巻き込まれ、鎌倉を逃れる。が、入間川原で追っ手によって討ち取られた。これに嘆き悲しんだ大姫のあれこれは、唐木順造さんの『あずま みちのく(中公文庫)』に詳しい。

渓流・武蔵嵐山
班渓寺を離れ北に進む。一度、鎌形八幡宮社方面へと折れ、八幡橋の手前で北に進む。ちょっと小高い丘に進むと郷土館。旧日本赤十字社埼玉県支部社屋である。木造の建物。鎌形小学校の敷地内のようであった。とはいえ、館内に入れるといった雰囲気はなく、通り過ぎる。
学校の門の前を西にすすみ県道173号線に。 渓流・武蔵嵐山へと成行きで進む。冠水橋の手前まで進む。案内板をチェック。森へと続く細い小道に入る、槻川手前に出る。崖になっており、下りることができない。
川にそって森の中を東に進む。ブッシュが生い茂り、先に進むこと叶わず。南に農家が見える。失礼とは思いながらも庭先を犬に吼えられながら抜ける。元の道に戻る。で、成行きで進み、再び冠水橋を目指す。が、着いたのは槻川に架かる槻川南詰。橋の脇に嵐山渓谷バーベキュー場。多くの家族連れで賑わっている。ここまで戻ってきてしまえば、冠水橋にいく気力なし。ということで、次の目的地白山神社・平澤寺を目指す。平澤寺には大田資康詩歌会跡がある、という。

平澤寺
県道173号線を北に進む。国道254号線と交差。国道に沿って西に向かう。JA埼玉中央農産物直売所の交差点を左に折れ、大平山方面に。登り道。適当なところで北に下りる坂道。坂道を下りきったあたりに平澤寺、そしてその裏手に白山神社。 
このお寺、現在では堂宇ひとつ、といった構えであるが、往古、七堂伽藍を誇る、大寺院であった、よう。「まぼろしの大伽藍」と言われる。裏手の丘に白山神社。境内に大田資康詩歌会跡がある。資康は道潅の嫡子。父の仇・上杉定正を討つべくこの地に陣を張る。菅谷館跡の地に館を構えていた、とも言われる。上でメモした須賀谷原の合戦にも加わっている。

須賀谷原の合戦に際し、友人・万里集九との別れの歌宴をこの神社で開いたといわれる。この禅僧は道潅とも親交があり、越生に隠居した道潅の父・道真を訪れ、歌会を開いたりもしている。集九は室町期の禅僧・歌人。全国各地を旅している。そういえば、墨田散歩の時、梅若伝説の残る木母寺に集九が訪れていたって記録があったような気もする。

東武東上線・武蔵嵐山
白山神社を離れ、国道354号線に戻り、東へ進み菅谷館跡の交差点まで戻る。後は、来た道を駅に戻り、本日の予定終了。畠山と義仲という因縁浅からぬふたりの足跡を楽しめた一日であった