土曜日, 6月 30, 2007

立川崖線散歩;立川から分倍河原まで


ほぼ立川崖線に沿って進む。先日、国立を歩いた時、このあたりには立川崖線とか青柳崖線が続いている、と。青柳崖線は先回、「くにたち郷土文化館」から谷保天神までの散歩を楽しんだとき、その崖下に沿って歩き、なんとなく雰囲気を感じた。で、今回はもうひとつの崖線・立川崖線を肌で感じよう、と思ったわけだ。
立川崖線といっても、はてさて、どこから続いているのかよくわからない。昔、立川の南、奥多摩街道を走っているとき、その南の多摩川の低地とは結構比高差があるなあ、などと思っていた。たぶんそれが崖線の流れあろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
で、どこからスタートするか、ふと考える。地図を見る。西立川に歴史民俗資料館。奥多摩街道とも近い。そこにいけば何らか手がかりもあるか、と。とりあえず資料館にむかうことにする。

本日のルート;JR青梅線・西立川>立川市歴史民俗資料館>首都大東京昭島キャンパス>郷地町交差点>奥多摩街道>歴史民俗資料館>奥多摩道路>東京都農事試験場>富士見町3丁目・富士見通りと交差>滝口橋・残掘川>残堀川筋>JR普中央線交差>普済寺>奥多摩街道>諏訪神社>多摩モノレール・柴崎体育館駅>立川公園・立川市民体育館>根川緑道>新奥多摩街道・根川橋>国道20号線・甲州街道>野球場・陸上競技場>至誠学園>甲州街道>矢川緑地公園>矢川>国立六小>甲州街道>滝野川学園>おんだし>ママ下湧水公園>石田街道>矢川(府中用水)・くにたち郷土文化舘下>ヤクルト中央研究所北>城山公園>谷保天満宮>立川崖線樹木林下>国道20号線・国立IC>上坂橋>日新町・NEC>市川緑道(中川用水・新田川)>鎌倉街道>中央道>新田川緑道・分梅橋>分倍河原合戦碑>中央道交差>京王線・分倍河原駅

青梅線・西立川駅
青梅線・西立川で下車。駅の北は昭和記念公園。むかしの米軍の基地跡。そのまた昔は陸軍の飛行場があった、とか。駅を南に進む。途中、首都大学東京昭島キャンパス。昔の都立短大ではなかろうか。仕事で来たことがあるような、ないような。

奥多摩道路

その脇を通り、しばらく進むと奥多摩道路。EZナビに従い細路を進む。お寺の塀。常楽院。その先は崖下。ガイドでは、「ここ」だとのたまうのだが、それらしき建物はなし。ナビを切り、奥多摩街道に戻ったり、またまたお寺方面に戻ったりと、あたりをうろうろ。
どうも崖下ではなかろうか、と降り口を探す。家庭菜園といった趣の畑地の脇に細い下り道。成算はないのだが、とりあえず下に。車道に出る。少し西に進むと、歴史民俗資料館があった。崖の下。この崖は立川崖線であるのだが、その崖に包み込まれるように建っていた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

歴史民俗資料館
展示室で立川の歴史・自然などのお勉強。ロビーにあったビデオも楽しんだ。記憶に残ったこととしては、このあたりは「立川氏」の勢力下にあった、こと。古社・諏訪神社が鎮座する。それと、立川って、陸軍の飛行隊、そしてその飛行場とともに発展してきた、といったこと。陸軍飛行第五連隊が駐屯し、大正11年から終戦まで、「空の都 立川」の代名詞でもあった。
で、例によっていくつか資料購入。
買い求めた「歴史と文化の散歩道」をもとに、本日のルートを考える。基本的には立川崖線に沿って分倍河原方面に向かう。これは基本。が、途中、立川氏舘跡に。そこからしばらく崖線を離れ、諏訪神社に。それから再び崖線に戻る。多摩川傍の「日野の渡し」に。しばらく崖線に沿って進み、日野に下る甲州街道を越えたところで、再び崖線を離れ清流・矢川の源流点である矢川緑地保存地域に。そこからしばらく矢川にそって下る。いくつかの湧水点を楽しみ、先回歩いた青柳崖線近くを進み保谷天神に。そこで、ふたたび立川崖線に戻り、後は府中に向かって崖下を歩く、といった段取りとする。

奥多摩街道

さてと、出発。資料館を離れ、崖下を少し進む。如何にも湧水、といった池を見やりながら、坂道をのぼり奥多摩街道に戻る。崖上の道を東に向かう。東京都農事試験場前を進み、富士見3丁目交差点で富士見通りと交差。奥多摩街道は車の通りが多い。トラックの風圧に結構怖い思いをしながら滝口橋で残堀川を渡る。

残堀川

残堀川って、いつだったか玉川上水を歩いていたとき出会った。西部拝島線の武蔵砂川駅の近く。記憶では交差する用水上を「立体交差」していたように思う。
残堀川は、瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池から流れ出し、立川市柴崎町の立日橋付近で多摩川に注ぎこむ。狭山池助水とも呼ばれるように、残堀川はもともと玉川上水に水を注いでいたのだが、明治になって残堀川が汚れてきた。ために、玉川用水と切り離すべく、工事をおこない、玉川用水が残堀川の下を潜らせた、と。

残堀川脇を進む

奥多摩道路から残堀川筋に下る道を探す。しばらく進むと下りの道筋。残堀川脇に出る。西を見ると、さきほどの滝口橋から南に下った残堀川が、その下で直角に曲がっている。人工の川筋ならではの流路。
川に沿って東に進む。JR中央線と交差。地図ではJR中央線を越えるとすぐに立川氏の館跡である普済寺なのだけれど、石垣が続くだけで、上にのぼる道がない。結構東に持っていかれた。

普済寺
根川緑道がはじまるあたりから、川筋からのぼる道をみつけ、そこからお寺に向かって西に戻る。根川緑道は清流の続く美しい道筋。とはいうものの、湧水は高度処理された下水である。
普済寺。中世に武蔵七党と呼ばれた西党の一族、立川氏の館跡。平安初期に立川二郎宗恒が地頭としてこの地に来た。それ以前の立川は、20戸程度の寒村に過ぎなかった、と。その後小田原北条に仕えるも、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城の落城とともに滅んだ。
境内には国宝六面石幢。場所を探していると、丁度通りかかった和尚さんに道を案内して頂く。感謝。厳重にガードされたお堂の中に格納されていた。崖上から多摩川を見下ろし次の目的地、諏訪神社に向かう。

諏訪神社

諏訪神社。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社から勧進された立川最古の神社。「お諏訪さん」として親しまれている。本殿は新しい。平成6年に火災に遭い新しく再建された、と。
多摩モノレール・柴崎体育館駅
神社を離れ、次の目的地・多摩の渡しの跡に向かう。住宅街を進み、多摩モノレール・柴崎体育館駅に。このあたりで再び立川崖線に戻る。

旧甲州街道の道筋
立川公園と市民体育館の間を進む。体育館の東に旧甲州街道の道筋。ちょっと旧甲州街道の道筋をチェック。国立方面から西に真っ直ぐ進んできた道筋は、日野橋交差点あたりで北に向かって円を描くように湾曲し、ここ柴崎体育館あたりに続いているよう。

根川緑道旧甲州街道の道筋を南に下り、根川緑道を越え、新奥多摩街道をわたる。新奥多摩街道、って西に向かって進んできた甲州街道が日野橋に向かって南にくだる交差点を、そのまま西に進む道筋。

日野の渡し碑
新奥多摩街道を越え、下水処理場に沿って南に進むと「日野の渡し碑」。「日野の渡し」は、現在の「立日橋」のあたり、立川の柴崎と日野を結んでいた渡し。大正時代に日野橋ができるまで、高遠藩・高島藩・飯田藩といった三大名家、甲府勤番、そして庶民がこの渡しを利用していた、と。ちなみに渡し賃は、馬と人は別途徴収。僧侶、武家は無料であった、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

甲州街道
下水処理場の南を、ぐるっと廻る。日野橋に下る甲州街道に。甲州街道を越えると野球場・陸上競技場。根川緑道は落ち着いたいい雰囲気。

根川貝殻坂橋

陸上競技場を過ぎると、「根川貝殻坂橋」に。吊橋を模したスタイル。案内によれば、「貝殻坂橋」の名前の由来は、「万願寺の渡し」にある、と。この万願寺の渡し、って先ほど見た、日野の渡しが出来る前に遣われていた多摩川の渡し。甲州街道を進んできた旅人は、国立市青柳で段丘を下り、国立市石田から多摩川を渡り日野市の万願寺に渡っていた。その段丘を下る坂道に多くの貝殻が
出てきた、と。ために、貝殻坂と呼ばれた。
矢川緑地公園

次の目的地は矢川緑地公園。橋を渡り、崖線を上る。このあたりは国立との市境。甲州街道まで進み、至誠学園のあたりで甲州街道を北にわたる。立川と国立の境を道なりに北にすすむと矢川緑地公園。緑地公園のある羽衣町は立川市となっている。緑地の西を台地にのぼる道筋から矢川緑地を眺める。湿地帯が美しい。台地下にもどり、緑地入口から木道のかけられた湿地に入る。水が湧き出る、というだけで、それだけで結構うれしい。この景色を楽しめただけで本日の散歩は大いに満足。

矢川に沿って甲州街道に
湿地を進み、湧水の水を集め清流として下る矢川に沿って歩く。ひたすら川筋に沿って進む。水草の生い茂る川面が美しい。国立六小前には、児童が育てる「ほたる」の飼育湿地もあった。
甲州街道手前には五智如来。先に進み甲州街道を再び越え、さらに川筋に沿って進む。

矢川は滝野川学園の敷地に
川は滝野川学園の敷地に入っていく。立ち入り禁止、かとおもったのだが、川脇にかすかな踏み分け道。先に進めそう。ほとんど敷地といった川筋を進む。森に囲まれたまことにいい雰囲気。

「おんだし」

学園敷地の森を抜ける。前方に中央高速が見える。水田のあぜ道といった道筋を進むと川はT字に合流。西から流れていた府中用水であろう。ということは、ここは「おんだし」。押し出し、と表記されるようであるので、「矢川の水が府中用水に勢いよく流れ込んださまを表したものであろう、か。
「おんだし」部分の川幅は結構広い。さすがにT字交差の用水を飛び越えることはできない。仕方なく、森のほうに引き返す。
矢川の流れの横にもうひとつ水路。森の手前から西のほうに伸びている。これって、「ママ下湧水」からの流であろう。ということで、矢川から「ママ下湧水」の水路にルート変更。

ママ下湧水
なんとか流れを飛び越え、流路にそって遡る。しばらくすすむと「ママ下湧水」。「ママ」って、「ハケ」とか「ハッケ」とも呼ばれる崖線のこと。崖下から、水が湧き出ている。結構な量。これほど勢いよく湧き出る水はあまりみたことがない。感激。感慨をもって崖線を眺め、また崖線を上ったり下りたり、しばし幸福な時を過ごす。

府中用水「ママ下湧水」を離れ、府中用水に沿って進む。先ほど歩いた矢川との合流T字路・「おんだし」に。水草の美しい流れ、矢川の名前の由来ともなった「矢のように速い流れ」そのものの水量。勢いのある澄んだ流れは心地よい。少し進むと先回「くにたち郷土文化館」に行く時通った道と交差。すこし北のほうに崖地が見える。青柳崖線。先日は、あの崖下の細流・せせらぎの小道、を辿ったなあ、などと思いにふける。
府中用水の流れにそって進む。ヤクルト中央研究所の手前で流れは南に。最後まで流れの行く末を見届けたいのだが、それよりなにより本日の散歩の目的は立川崖線を歩くこと。谷保天神のところで立川崖線が青柳崖線と合流する、ということであるので、北に歩をとる。

青柳崖線下を谷保天神に
ヤクルト中央研究所のフェンスに沿って青柳崖線下に向かう。細流・せせらぎの小道にかかる木橋を眺め先に進む。城山公園から谷保天神へと、勝手知ったる道筋を進む。谷保天神では先回見逃した「常盤の清水」に訪れ、しばし休憩。「ママ下湧水」ほどの勢いはない

ものの、「湧水」というだけで有難く思う。

上坂橋から日新町に

谷保天神を離れ、立川崖線に沿って進む。樹木林が生い茂る。崖下の道を進む。細流は府中用水、かと。国道20号線・国立ICとの道路。道路手前の崖線上には「下谷保遺跡」。螺旋階段を上り、国立ICへの道を越え、再び螺旋階段を下る。
崖線に沿って進む。崖線上には谷保東方横穴墓とか谷保東方遺跡。上坂橋を過ぎると日新町。NECの工場がある。このあたりから府中用水水は「市川緑道」と名前が変わっている。

市川緑道

市川緑道を進むと、今度はいつのまにか新田川の緑道となっていた。府中用水って市川とは新田川などと、場所によって呼び名が異なっているよう、だ。

鎌倉街道

しばらく進むと鎌倉街道。ここで、分倍河原の駅に向かおうか、などとも思ったのだが、なんとなく、昨
年だったか、多摩から分倍河原に向ってあるいた

ときに出会った、分倍河原合戦の碑を見ておきたくなった。新田川緑道脇にあったように思う。

分倍河原合戦の碑

街道を越え中央道の下をくぐり緑道を進むと分梅橋。分倍河原合戦の碑があった。分倍河原の合戦。新田義貞と北条軍の戦闘。緒戦新田軍不利。その際、武蔵の国分寺など焼失。が、翌日、陣容を立て直し、北条軍を破り鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼすことになる。

京王線・分倍河原


道を北に進み、ロータリーっぽい交差点。御猟場道と分梅通の交差点。分倍=分梅の由来が書いてある。「新田義貞が梅を兜につけて進軍したという逸話に由来する『分梅町』から取られた」、と。
とはいうものの分梅町って名前は近世になってから、とのことではあるし、なんとなくしっくりこない。また、「多摩川の氾濫により収穫が少ないので、口分田を倍に給した所であったため『分倍(陪)』や『分配』と呼ばれていた」との説もある。が、これといった定説はないようである。脇道を進み京王線・分倍河原の駅に到着。本日の予定終了とする。


火曜日, 6月 26, 2007

府中・国立散歩;崖線と湧水

京王線の駅で何げなくポスターを見ていた。府中郷土の森博物館で宮本常一さんの展示がある、と。民俗学者。とはいうものの、ひたすらに日本各地を歩き回った、といった断片的なことしか知らない。いい機会でもあるので宮本常一さんの業績・人生の一端にでも触れるべし、ということで、府中散歩にでかけることに。

地図を眺めていると、郷土の森博物館から6キロ程度西の国立に、城山公園とか「くにたち郷土文化舘」のマーク。距離も丁度いい。郷土館のあとは、府中から国立に歩くことにした。

本日のルート;京王線・分倍河原駅>南武線に沿って東に>かえで通り>税務署前>本町西・中央高速と交差>新田側緑道>郷土の森博物館>多摩川堤通り・府中多摩川かぜの道>県道18号線・関戸橋北(鎌倉街道)>京王線交差>府中四谷橋>石田大橋>100m程度で北に>泉地区>中央高速交差>南養寺南・くにたち郷土文化舘>青柳河岸段丘ハケの道>谷保地区・城山公園>浄水公園>厳島神社・谷保天満宮>国道20号線・甲州街道>南武線・谷保駅

京王線分倍河原駅


京王線に乗り分倍河原に。いつだったか、この駅の北にある高安寺に訪れたことがある。平安時代に俵藤太こと藤原秀郷が開いた見性寺がはじまり。俵藤太って、子供の頃「むかで退治」の物語を読んだことがある。また、先般の平将門散歩のときにメモしたように、将門を討伐した武将でもあった。
この見性寺、義経・弁慶主従も足を止めている。頼朝の怒りを解くべく、赦免祈願の大般若経を写した「弁慶硯の井」跡が残る。南北朝期には新田義貞が本陣を構える。戦乱の巷炎上し荒廃。室町期にはいり、足利尊氏が高安護国寺として開基。関東管領上杉憲実討伐のため鎌倉公方・足利持氏がここに陣を構えている。永享の乱のことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
また、足利成氏のこもるこの寺に攻め込んだ上杉軍を成氏が破っている。享徳の乱における「分倍河原の合戦」のことである。その後も鎌倉街道の要衝の地ゆえに、上杉・後北条軍の拠点として戦乱の舞台となる。で、度々の戦乱で荒廃し、江戸期に復興され現在に至る。

駅を下り、南武線に沿って東に100mほど進む。けやき通りを南に折れる。けやき、って府中市の市の木だったか、と。ちなみに市の花は梅。南に進む。税務署前交差点を越え、本町西で中央高速と交差。

新田川緑道

先に進むと新田川緑道に。分倍河原って、新田義貞と北条軍が争った分倍河原の合戦の地。新田川の名前の由来は新田義貞からきているものであろう、と思っていた。が、どうもそうではないらしい。読みも「しんでんがわ」。江戸時代の新田開墾に由来する、とか。

郷土の森博物館

新田川緑道に沿って、東南にくだる。緑の中に「郷土の森博物館」はある。入口で入場料200円を払って館内に。単に郷土館があるだけではなく、昔の民家などの復元建築物や水遊びの場所といった施設もある。

宮本常一さん

展示ホールに。「宮本常一生誕100年記念事業;宮本常一の足跡」という特別展示が行われていた。入口で宮本常一氏の足跡をたどった30分のビデオ放映。大雑把にまとめる;広島県の瀬戸内に浮かぶ周防大島の生まれ。教師になるべく、大阪の高等師範学校に。徴兵で大阪の8連隊に入営。
8連隊といえば、子供の頃父親に「大阪の8連隊はあまり強くなく、また負けたか8連隊」といったせりふが言われていたと、聞いたことがある。事実かどうか定かではない。ともあれ、この8連隊に入隊しているとき同期の人から民俗学のことを教わった、と。
除隊後、小学校の教員。このとき田舎の周防大島のことを書いた原稿が民俗学者・柳田國男の目にとまる。同好の士を紹介され研鑽に励む。渋沢敬三氏の突然の来訪。敬三氏は渋沢栄一の孫として、第一銀行の役員といった実業界での要職とともに、民俗学者としても活躍。宮本氏は渋沢敬三氏の援助もあり、大阪から東京に上京。敬三氏の邸内のアチック(屋根裏部屋)・ミュウジアム、後の「常民文化研究所」の研究員となる。

宮本常一は旅する民俗学者として有名。生涯に歩いた距離は16万キロにもおよぶという。全国各地を旅し、フィールドワークを行い、地元の古老から聞き書きをし、貴重な記録をまとめあげる。著作物も刊行し、実績もあげる。が、第二次世界大戦。渋沢邸も焼け、大阪の自宅も焼失。膨大な量のノートが消え去ったと。戦後は民俗学者というだけでなく、農林振興・離島振興に尽力。また、佐渡の鬼太鼓座とか周防の猿まわしといった芸能の復活にも尽力した。

後半生は武蔵野美術大学の教授、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト)の所長として後身の育成に努める。ちなみに、研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』のサンプルにおおいに惹かれる。どこかで実物を手に入れたい。
で、宮本氏と府中との関係は、昭和36年からなくなるまでの20年、自宅を府中に置いたこと。また、郷土の森博物館の建設計画にも参与した、と。著作物には『忘れられた日本人』など多数。未来社から『宮本常一著作集』が現在まで50巻刊行。すべてをカバーすると100巻にもなるという。

素敵なる人物でありました。歴史学者・網野善彦さんも『忘れられた日本人』についての評論を書いている。30分の紹介ビデオでも網野さんからの宮本常一さんに対するオマージュといったコメントもなされていた。
網野さんは『無縁・苦界・楽;平凡社』以来のファン。網野さんが大いに「良し」とする人物であれば本物に違いない。更に惹かれる。ちなみに網野さんは宗教学者の中澤新一さんの叔父さんにあたる。その交流は『ぼくのおじさん;集英社』に詳しい。

特別展示を眺め、関連図書を購入。買い求めた『忘れられた日本人を旅する;宮本常一の軌跡;木村哲也(河出書房新社)』を、帰りの電車で読んでいると、その本文に司馬遼太郎さんの宮本常一さんに対するコメントがあった;「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」、と。折に触れ著作物を読んでみたい。手始めに『忘れられた日本人』『塩の道』あたりを購入しよう。

多摩川堤「府中多摩川かぜの道」

2階の常設展示会場を眺め、博物館を離れ多摩川堤に。次の目的地である国立の城山(じょうやま)公園には、この堤防上の遊歩道・「府中多摩川かぜの道」を辿ることにする。距離はおよそ6キロ強、といったところ。
実のところ、先日の秩父の山歩きで膝を少々痛めていた。今週はアップダウンのある地域への散歩は控えるべし。ということで、この平坦な遊歩道は丁度いい。唯一の「怖さ」はサイクリング車。高性能の自転車なのだろうが、すごいスピードで走ってくる。それも半端な数ではない。「歩行者優先。自転車スピード注意」と路面に表示してはあるが、あまり効き目なし。こんな気持ちのいいサイクリングロード。飛ばす気持ちはよくわかる。

川の南に多摩の丘陵

川の南に聳える多摩の丘陵を意識しながら堤を進む。博物館の対岸の丘陵は多摩市・連光寺あたり。明治天皇行御幸の地とか小野小町の碑がある、と。乞田川が多摩川に合流している。後方、東方向に見える鉄道橋は武蔵野貨物線と南武線。先日南武線の南多摩駅で下り、城山公園をへて向陽台に向かったことを思い出した。城山は大丸城があった、というが、城主などはわかっていない。城山公園から西に続く広大な丘陵は米軍多摩レクリエーションセンターであろう。フェンスに沿って山道を城跡のある山頂までのぼっていったことが懐かしい。

関戸橋

1キロ程度西に進むと関戸橋。関戸橋の南は乞田川によって分けられた谷地。乞田川(こったかわ)は多摩市唐木田が源流。唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりまでは水路を確認できるが、それより上流は暗渠となっている。
乞田川によって開析されたこの道筋は多摩センターに続く。鎌倉街道上道と言われている。関戸5丁目と6丁目の熊野神社のところに霞ヶ関という関所があった。新田義貞と北条軍が戦った古戦場跡でもある。世に言う関戸合戦である。

関戸の小野神社に想いを馳せる

多摩川堤を少し西に進むと京王線と交差。対岸は関戸地区。関戸の渡しのあったところ。鎌倉街道の関戸と中河原を結んでいた。昭和12年の関戸橋の開通まで村の経営で運営されていた、と。
その少し東は一ノ宮。小野神社が鎮座する。古来、武蔵一の宮と称される古社。とはいうものの、先日歩いた埼玉・大宮の氷川神社も武蔵一の宮。大宮のほうが格段に規模も大きい。この小野神社はそれなりに大きいとはいうものの、氷川神社に比すべくもない。
どちらが「本家」という「元祖」一の宮かと、いろいろ説明されている。武蔵国成立時、それまでの中心地であった大宮を牽制すべく府中に国府を置き、国府に近い小野神社を一の宮とした、といった説もある。氷川神社に代表される出雲系氏族を押える大和朝廷の宗教政策、とも考えられるが、これは私の勝手な解釈。こ れといった定説は聞いていない。
もっとも、一ノ宮って、公的な資格といたものではなく、いわば、言ったもの勝ち、といったもののようだ。なにがしか、周囲が納得できる、「なにか」があれば、それで「一ノ宮」たり得た、とか。
小野神社の祭神は秩父国造と大いに関係がある。これは小野氏が秩父牧の牧司であったため。武蔵守に任官してこの地に来るときに秩父神社の祭神をこの地にもたらしたのではないか、と。ともあれ秩父と府中を結ぶつよいきずながあった、よう。大国魂神社も含めそのうちにちゃんと調べてみたい。

府中・四谷橋
更に西に1キロ程度進むと「府中・四谷橋」。国立・府中インターで下り、多摩センターのベネッセさんに行くときに通る道。その東は百草園。
いつだったか高幡不動から分倍河原に向かって歩いたとき、程久保川に沿って進んだ道筋。淺川も合流しており、川筋も広くこころもち、野趣豊かな風情である。ほどなく「石田大橋」。府中・四谷橋から2キロ程度の距離だった。

程久保川は日野市程久保の湧水を源流とし、多摩動物公園とか高幡不動の前を通り多摩川に合流する4キロ程度の川。古い名前が「谷戸川」。名前の通り、河岸段丘を穿って里山に谷戸とか谷津とよばれる谷地を形成していた、と。淺川は陣場山あたりを源流とする全長30キロ強の河川である。流路の長さに比して川床が高かったよう。ために氾濫を頻発する暴れ川であった、とか。川床が高かったことが、「浅川」と関係あるのかも?

国道20号線・日野バイパス

国道20号線・日野バイパスの通る「石田大橋」を越え、100mほど進み北に折れる。先日、娘の陸上競技会の応援で甲府に。帰路中央高速が渋滞し、甲州街道をのんびりと戻ってきたのだが、八王子の先、日野バイパスに出た。昔は、甲州街道を豊田・日野、そして多摩川をわたり、といった大騒動であったが、このバイパスだと、一挙に国立インター近くに。便利になりました。

くにたち郷土文化舘

しばらく進み、中央高速下をくぐると行く手に森の緑。これは南養寺の森。くにたち郷土文化舘はこの森の南端にある。森の端にそって東に進む。入口脇には近辺のハイキングコースをまとめた資料など用意されていた。助かる。
常設展示は半地下。デザイナーマンションならぬ、デザイナー郷土館といった特徴ある建物。常設展示場でビデオ放映を眺め、国立のあれこれを頭に入れる。
印象に残ったのは、このあたりの地形。武蔵野段丘、立川段丘、青柳段丘といった河岸段丘が並ぶ。河岸段丘とは階段状の地形のこと。河川の中流域や下流域に沿って形成される。当たり前か。階段状という意味合いは、平坦地である段丘面と崖の部分である段丘崖が形成されている、ということ。段丘崖の下には湧水が多いのは、国分寺崖線散歩で見たとおり。

地形について
地形についてちょっとおさらい。武蔵野段丘面の崖の部分が国分寺崖線。崖に沿って野川が流れる。この野川が流れる平地が立川段丘面。その崖の部分が立川崖線。その崖下を流れるのが矢川。そこは青柳段丘面。「くにたち郷土文化舘」はこの青柳段丘面の端。青柳段丘崖の近くにある。下には湧水が流れる、川というほどではないようだ。で、そこから多摩川にかけて沖積面が広がっている。
ということで、文化舘を離れ、崖線下の湧水に沿って先に進むことにする。この細流は矢川の支流のような気がする。矢川の源流はすこし北、南武線・西国立駅近くの矢川緑地あたりの湧水を集め、国立市外を流れ府中用水に合流。およそ1.5キロ程度の川である。

崖線下の湧水路に沿って城山公園に

崖線下の湧水路に沿って進む。崖線のことは「ハケ」と呼ばれる。中野の落合のあたりでは「バッケ」と呼ばれていた。また、このあたりでは「ママ」とも呼ばれるようである。本来であれば多摩川への沖積低地がひろがるはず、ではあるが、南は中央高速に遮られ、いまひとつ見通しはよくない。

城山公園
崖面を意識しながら進む。湧水路の上には木道が整備されている。細流である。ハケ下の道をしばらく進む。ヤクルト中央研究所の裏手を通る。細い道筋を進むと城山公園。
鬱蒼とした森が残されている。ここは城山と呼ばれる中世の館跡。青柳段丘崖を利用してつくられた室町初期の城跡。城主は三田貞盛とも菅原道真の子孫である津戸三郎ともいわれるが、定説はない。しばし森を歩き、次の目的地谷保天満宮に向かう。

城山公園を離れると、すこし景色が広がる。田畑が目につく。南に浄水公園がある、とのことだが、どれがその公園なのかよくわからない。東前方に広がる緑が谷保天満宮の鎮守の森だろう。

谷保天満宮

あたりをつけて進むと天神様の境内に。厳島神社。本殿裏手にある。弁天さまをおまつりした祠の周りは池。西側の「常盤の清水」からの湧水が境内に流れ込んでいる。天神さまのあたりは立川段丘と青柳段丘が交るあたり、とか。崖下からの遊水がこの「常盤の清水」となって湧きだしているのであろう。この清水は境内の中だけでなく、外にも流れだしている。周囲の水田の灌漑用水源としても使われたのであろう、か。

谷保天満宮は菅原道真をまつる。1000年の歴史をもち、関東最古の天神さまである。亀戸天神、湯島天神とともに関東三大天神様とも。このあたりの地名は「やほ」というが、この天神さまは「やぼ天満宮」と読む。通称「やぼてん」さまとも。「野暮天」の語源でもある。
由来は、道真が太宰府に配流になったとき、その三男道武もまた、この谷保の地に流された。わずか8歳のとき。そののち道真が亡くなったのを知り、それを悲しみ父の像を彫った、とか。が、その像があまりにあかぬけない、洒落ていない。ということで、「やぼてん>野暮天」となった、と言う。10歳の子供が彫ったわけで、あかぬけない、とは少々腑に落ちない。

また、別の説もある。この天神様のご神体を江戸の目白不動尊で出開帳することがあった。が、そのときは10月・神無月。八百万の神々が出雲に行く季節。そんなときに、江戸に出向くといった無粋なことを、と、揶揄した歌がある。「神ならば出雲の国に行くべきに 目白で開帳谷保の天神」、と。この歌に由来する、という人もいるようだが、定説はないよう。

あれあれ、鳥居が本殿より上にある??

本殿におまいり。もともとは多摩川の中州にあった。菅原道武が自ら彫った「野暮な」像を天神島にまつっていたようだが、後世、道武の子孫・津戸為盛がこの地に写した。あれあれ、鳥居が本殿より上にある。石段をのぼり、表大門に向かう。出たところは甲州街道。なんとなくしっくりこない。
チェックした。ことは簡単。昔の甲州街道は本殿より南にあった、ということ。新道ができたとき参拝の便宜をはかり現在の甲州街道沿いに表大門を設けたのであろう。

谷保の由来
メ モし忘れたのだが、谷保の由来。これは、文字通り「谷を保つ=谷を大切に守る」といった意味。段丘上にできた小さな谷地、谷上をなした湿地帯にその豊かな環境ゆえに人々が住み着いた。その環境の「有難さゆえ」にその環境を守るって地名にしたのだろう、か。別の説もある。谷地には違いないのだが、谷が八つあった。その八つの谷を守る、という意味で「八ツ保」、それが転化して「八保>谷保」との説である。はてさて。

南武線・谷保駅
今日の予定はここまで。甲州街道を越え、南武線・谷保駅まで歩き、分倍河原まで戻り、一路家路へと急ぐ。

日曜日, 6月 17, 2007

埼玉 越生散歩; 大田道潅ゆかりの越生から毛呂山町の鎌倉街道を辿る

大田道潅ゆかりの越生から毛呂山町の鎌倉街道を辿る

越生に出かけた。大田道潅ゆかりの地。道潅の父・道真の隠居所もあるという。少々遠いため、「越生に行きたしと思えども 越生はあまりに遠し」と、敬遠していたのだけれども、寄居や武蔵嵐山に歩を進めた昨今となっては、どうということもない、という気持ちになっていた。



本日のルート;東武東上線・東毛呂駅>出雲伊波比神社>毛呂川>東武越生線・越生駅>尾崎薬師>五大尊つつじ園>越辺(おっぺ)川>山吹の里歴史記念公園>県道30号線>鎌倉街道>呂山町歴史民俗資料館>東武越生線・川角駅

東武東上線・東毛呂駅
池袋から東武東上線で坂戸駅に。坂戸で東武越生線に乗り換え越生に進む。社内で地図を眺めていると、越生のふたつ手前の東毛呂に「出雲伊波比神社」がある。これはこれは、ということで急遽、東毛呂で下車することに。 東口に出る。駅前の案内をチェック。東のほう、500m程度のところに出雲波比神社。また、逆方向の西に3キロ程度のところに「歴史民俗資料館」がある。歴史民俗資料館って、どの程度のものかわからないけれども、結構気になる。はっきりとした住所はわからないのだが、大類とか苦林といった地名の近く、のようだ。越生を歩いたあと、「歴史民俗資料」を訪ねることにする。

出雲伊波比神社
駅を離れ神社に向かう。進むにつれ、鬱蒼とした森が左斜め前に見える。出雲伊波比神社の鎮守の森であろう。岩井地区で県道 30号線に。飯能市の国道299号線から分かれ、大里郡寄居町に続く。このあたりは重複して走っている。国道を渡るとすくに伊波比神社の境内。巨大である。独立丘陵上すべてが境内といった有様。本当のところ小さい祠程度かと思っていた。一昨年だったか、狭山丘陵を歩いていたとき、狭山湖の北西、入間の中野で「出雲祝神社」に偶然であった。こじんまりとした、田舎の社といった雰囲気であった。ために、この地の社も「祠+α」程度といったものかと思っていた。が、とんでもない。立派な構えの社でありました。

神社で手に入れた由緒によれば、祭神は大名牟遅神(大国主命)・天穂日命。創建は景行天皇53(123)に日本武尊(倭建命)が東征凱旋のおりに創建した、と。天皇から賜ったヒイラギの鉾を納め、神宝としたのもこのときといわれている。成務天皇のとき、出雲臣武蔵国造・兄多毛比命が祖先神・出雲の天穂日命を祀り、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされる。兄多毛比命って、出雲族を率いて武蔵にやってきた人物として、いろんなところで顔を出す。で、この神社、孝謙天皇の御世・天平勝宝7年(755年)に官幣にあずかる。光仁天皇の宝亀3年(772年)、勅により幣を奉られ、以降歴代天皇の祈願所でもあった。醍醐天皇の延喜7年(907年)には武蔵国入間郡五座に列せられた。 この神社は武家の信仰も篤く、康平6年(1063年)、源義家が奥州平定の凱旋の折、この社を訪れ鎮定凱旋を寿ぎ流鏑馬の神事を奉納した。これが現在、県の指定民俗資料となっている「流鏑馬」のおこりである。

建久年間(1190年頃)、源頼朝は畠山重忠を奉行とし本殿を桧皮葺に造営、神領も寄進した。永享の頃(1430年頃)は足利持氏が社殿を瓦葺の造営。その後焼失するも、大永8年(1528年)、この地に覇をとなえた毛呂顕繁によって再建される。その後も北条氏、徳川家の庇護を受けるといった具合である。 神社の名前は、中世から江戸期にかけて飛来明神(毛呂明神)と称される。幕末から明治時代に古来の出雲伊波比神社に改められた。
出雲伊波比神社という名前に最初に出合ったのは、先ほどもメモした入間の出雲祝神社。なぜ、武蔵に「出雲が」と持ち前の好奇心でチェックし、武蔵の国と出雲族の関係が少し分かった。武蔵を祭祀圏とする氷川神社も出雲族の祖先神であり、出雲の斐川=氷川、に由来する、ということは何度となくメモした。武蔵国造としてこの地を治めた出雲族は、物部氏に代表される大和朝廷の派遣される国司に取って替わられ、中央王権に屈していく。が、さすがに祖先の神々までを排することはできなかったのであろう。それにしても、「出雲伊波比」とか「出雲祝」とか、「出雲」そのままの名前まで残すって、朝廷も「出雲族」に配慮しなければならなかったのであろう、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

正倉神火事件 ついでのことながら、出雲伊波比神社で思い出すのは「正倉神火事件」である。これも出雲祝神社のときにちょっとメモした。概略をメモ;奈良時代末~平安時代初期、主に東国において「神火」によって、役所の倉・正倉が焼失するという事件が頻発した。「朝廷が神に幣帛を奉るのを怠ったたえ、神の祟りが起きた」ということ、である。そしてその怒った神がどうやら出雲伊波比の神であると、いう。地方からの報告を聞き、朝廷も最初はそれを信じていたらしい。が、その実態は神でもなんでもなく、どうやら各役所の官僚の悪知恵であったよう。米の横領を隠蔽しようとして倉に放火。その罪を神に被せようということであった、わけだ。また、上司を罪に落とし入れ、責任をとられ、自分が取って替わる、といった思惑もあったとも。あれあれ、といった事件でありました。

毛呂氏 
毛呂氏について、ちょっとまとめておく。毛呂氏は常陸国に流された藤原氏が、武蔵七党の丹党と婚姻関係を結んで土着したものといわれる。鎌倉政権では、藤原の流れというその貴種ゆえに、頼朝に重用される。「吾妻鏡」には毛呂季光を豊後国の国司に推挙するとある。南北朝時代には足利尊氏方に与力し活躍。15世紀末に太田道灌が死去すると山内上杉方に与する。大永4年(1524)に北条氏綱が江戸城を奪うと、その傘下に。山内上杉憲房の攻撃を受けるが、氏綱の救援。和議が成立。その後も後北条に属して活躍するが、豊臣秀吉の小田原征伐で運命をともにする。

毛呂川
神社を離れ、県道30号線を北に進む。東武越生線の跨橋を越え、岩井の交差点を西に折れる。「岩井」は出雲「伊波比」から転化したものだろう。しばらく進むと毛呂川橋。文字通り、「毛呂川」に架かる。毛呂川は毛呂山町の山間部からはじまり、越生で越辺川に合流する7キロ程度の川。
東武越生線・唐沢駅
川に沿って遊歩道が下流に続いている。歩いてみたい、とは思えども、越生へと、の思いも強く、先を急ぐ。武蔵越生高校前を過ぎ、東武越生線・唐沢駅手前で北に折れ、線路に沿って越生方面に進む。柳田川に架かる柳田橋を越え、五領児童公園前を進み、しばらくすると東武越生線・越生駅に。

東武越生線・越生駅

駅前で案内板をチェック。山吹の里は駅の東。西には五大尊つつじ公園。またいくつかお寺があるが、どれが道潅ゆかりのものか手がかりはない。どうしたものかとは思いながら、街を歩く。古い家並みがところどころ見え隠れする。
駅の正面に法恩寺。行基が開基と。天平13年というから、西暦738年のことである。それにしても、いたるところに行基が顔を出す。それほどに、ありがたいお坊さんであったのではあろう。その後、荒廃するも、文治の頃、というから、1190年頃、源頼朝の命により越生次郎家行が再興。源家繁栄の祈祷所となる、と。もとは報恩寺と書かれていたが、いつの頃からか法恩寺と書かれる様になった。
確か、墨田を散歩していたとき、道潅ゆかりの法恩寺があった。道潅が江戸城内に祀った平川山本住院を、後に孫の資高が墨田に移し平川山法恩寺とあらためた、とか。このお寺と名前が同じ。報恩寺が法恩寺となったのは、ひょっとしてこのあたりに原因が、と独り勝手に空想する。 

越生氏 
越生氏は武蔵七党のひとつ。鎌倉時代この地を領した。武蔵権守越生次郎家行の一族である越生新大夫有行が越生氏の祖といわれる。一族に黒岩氏、岡崎氏、鳴瀬氏、吾那氏などがある。越生の名前の由来でもある。越生氏は足利尊氏とともに南北朝を駆け抜ける。「太平記」には、越生四郎左衛門が南朝方の総大将・北畠顕家を討ち取った、とある。が、活躍もそのころまで。それ以降、越生氏は歴史に登場することはない。

土手道を進み、中央橋手前で車道に戻る。うちわの手づくりが体験できる、といった店がある。越生ってうちわで有名のようだ。最近テレビで見た旅番組でレポーターがうちわつくりを体験していた。駅前を抜け、越辺川に架かる山吹大橋を渡ると、正面に「山吹の里歴史記念公園」。 
で、そもそも「越生」の由来であるが、この地が平野と山地の接点にあり、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えねばならなかった。ために「尾根越し(おねごし)」から変化した、とか。 ちょっと気がついたのだが、この越生の「生」って読み方さまざまである。「越生;おご(せ)」、福生ふっ(さ)」、「生(いく)田」、埴生はにゅ(う)」、「早生(わせ)」、「生(なま)もの」、「生(い)きる」、「生(う)む」、「生(お)い立ち」、、「生(き)糸」、「芝生(ふ)」「実が生(な)る」などなど。読み方は50種類以上もある、という。何ゆえこういうことになったのか、日本語の先生にそのうち聞いてみようと思う。ちなみに、「生越」さんという人がいた。越生と真逆でありながら、同じく「おごせ」と読む。これも、そのうち確認してみたい。

尾崎薬師
どこに進もうか、ちょっと考える。山吹の里に直行しようか、それともどこか見どころは?結局、五大尊つつじ園に寄ることに。それほど、花を愛でるといったタイプではないのだが、1万本のつつじが咲く関東屈指のツツジ園ということであれば、どんなものかとちょっと眺めてみようと思う。 街の中を成行きで進む。越生町役場のところで車道から離れ、中央公民館とか町立図書館の前を進む。尾崎薬師の案内。ちょっと寄り道。 この薬師堂は越生一族の岡崎氏が館を構えたとき、薬師如来を安置したのがはじまり、と。その後岡崎氏は石見国に移り、北朝方として活躍したとされる。

五大尊つつじ園

岡崎薬師から道に戻り、先に進む。越生小学校のあたりから山に向かう小道。丁度ツツジまつりの最中でもあり、結構人が多い。入園料を払って園内に入る。といってもとりたててフェンスがあるわけでもなく、この季節に限り地元の人達が切符切りをしている、といった有様。急な坂道を上り、山肌一面のツツジを眺め、お不動さんにおまいり。ちなみに越生一族の黒岩氏の館はこのあたりにあった、とか。しばし休憩し、石段を下り、次の目的地「山吹の里」に向かう。ついでのことながら、昨年だったかつつじで有名な東青梅の塩船観音に行ったときのことを思い出した。擂鉢上の山肌一面のツツジも見事でありました。文京区の根津神社も美しいツツジでありました。歩いていれば、あれこれ繋がってくる。

越辺(おっぺ)川
車道に戻り、黒岩の交差点を東に折れる。車の多い通りを避け、川筋をあるこう、と思った次第。春日橋の手前を折れ土手道を歩く。この川は越辺(おっぺ)川。越生町黒山地区に源を発し、有名な越生梅林を経て越生の町を抜け、毛呂山町・鳩山町へと。で、坂戸市で高麗川、比企郡川島町で都幾川が合流し、川越で入間川に流れ込む。それにしても、この「おっぺ」って、なんともいえない音の調子。古代朝鮮語の「布」という意味だとか、アイヌ語だとかあれこれ説はありようだが、これといった定説はないようだ。


山吹の里歴史記念公園

太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。 話としては面白いのだが、もとより真偽の程は定かではない。それに、このエピソードというか伝説は散歩の折々に出合った。横浜の六浦上行寺あたり、豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋あたり、であったろうか。伝説は所詮伝説であるし、それほど道潅が人々に愛されていた、、ということであろう、か。 
台地のあたりをブラブラし、公園を離れる。入口に説明文。小杉の地に建康寺、山麓に龍穏寺など道潅ゆかりの史跡の案内。建康寺は道潅の菩提をとむらうため建立。近くには道真の隠居所・自得軒があった。道潅が歌人・万里集句と訪れたところ。伊勢原の糟屋館で謀殺されるひとつ気前のことである。親子最後の対面の場であったのだろう。
また、龍穏寺は6代将軍足利義教が、関東管領上杉持朝に命じて先祖の冥福と戦没者の菩提を弔う為に建立したもの。その後荒廃するも、太田道灌により再建される。道真はこのお寺の近くに「山枝庵」をつくるが、後に小杉に移った、と。道潅親子のお墓もある。 建康寺、龍穏寺にちょっと惹かれる。とはいうものの、結構距離かある。今回は諦める。越生は資料収集がいまひとつうまくいかず、「積み残し」が多かったようだ。建康寺、龍穏寺、そして越生神社。報恩寺をでたところを山に向かえば越生神社があった、よう。報恩寺再興をした越生次郎家行の氏神として祀ったもの。さらに、越生といえば、というほど有名な「越生梅林」。関東三大梅林のひとつである。次回はこのあたり、越生の丘陵地を中心とした散歩を計画いたしたく。時間があまりない。先に進むことに。

県道30号線

県道30号線を進む。すぐに丘陵地の裾に向かって脇道に入る。この丘陵地は入間カントリークラブとか武蔵富士カントリークラブといったゴルフ場。地名は如意。案内に如意輪観世音といった看板があったが、それが地名の由来だろう。稲荷神社を越え、箕和田湖前。ここで県道343号線である岩殿・岩井線に入る。先に進むと目白台。丘の上に目白台団地があるよう。西戸に国津神神社。いかにも出雲系の名前。由来などをチェックにと寄り道。案内はなにもない。境内に滑り台があるといった素朴なありさま。少し進み、すぐに右に折れる。東に進み川角リサイクルプラザを越えると越辺川に交差する。

鎌倉街道

少し進み、すぐに右に折れる。東に進み川角リサイクルプラザを越えると越辺川に交差する。橋を渡り先に進み大類グラウンドの手前に「鎌倉街道」の案内。南に細い道が続く。グラウンド脇の、なんということのない道を下る。グランドが切れるあたりから、木立の脇を通る道となる。昔の面影が少々残る。川角地区と大類の境あたりに掘割遺構が見える。 
鎌倉街道って、イザ鎌倉というときにだけに使ったわけではない。すべての道はローマならぬ幕府のある鎌倉に続いていたのだろう。鎌倉と諸国をつなぐ幹線道路であったわけだ。そのうち良く知られているのが、鎌倉を基点に埼玉の中央部を貫き群馬に抜ける「鎌倉街道上道」、東京から川口・岩槻・宮代を経て茨城の古河に続く「鎌倉街道中道」、そして、東京から千葉県市川市の下総国分寺に向かう「鎌倉街道下道」の三つのルート。
ここは鎌倉街道上道。埼玉の中央部というと少々違和感があるが、秩父も埼玉であるので、このあたりが埼玉の中央部ということらしい。 鎌倉街道上道をもう少々詳しくメモ;鎌倉>大和市>町田の七国山>町田・>小野路多摩市>府中・国分寺>小平市>東村山>>久米川所沢>入間>日高>毛呂山町・市場>川角>苦林>鳩山町>笛吹峠>嵐山町・菅谷>小川町>川本町>児玉>藤岡、へと続く。

毛呂山町歴史民俗資料館
鎌倉街道をそれ、少し東に進むと「歴史民俗資料館」。資料館にはいるまで、どこの資料館かよくわかっていなかった。毛呂山町の歴史民俗資料館であった。立派な資料館である。ハンドアウトも豊富。展示もわかりやすい。それほど期待をしていたわけではないのだが、予想外に素敵な資料館でありました。今回の散歩で最初に訪れた出雲伊波比神社も毛呂山町であったことが、ここに至って改めて認識した次第。



東武越生線・川角駅
しばし休憩し、最寄りの駅・川角駅に向かう。鎌倉街道に再び戻り南に下る。西久保地区に入ると、雰囲気のある道筋となる。掘割の遺構も残る。「歴史の道百選」にも選ばれている。さらに南に進むと川にあたる。葛川。高麗川の支流である。小さな川を渡り、市場地区を南に下り、東武越生線・川角駅に到着。本日の予定終了とする。



金曜日, 6月 15, 2007

北武蔵 武蔵嵐山散歩 ; 畠山重忠と木曾義仲の足跡を辿る

先日の寄居散歩の途中、気になっていた地名、武蔵嵐山・小川町・男衾あたりの地図を眺めていた。と、武蔵嵐山に県立歴史資料館のマーク。

菅谷館跡も近くにマークされている。菅谷館って、鎌倉武士の亀鑑・畠山重忠の館跡。歴史資料館があるということは、そこに行きさえすれば、なんらかの新たなる「発見」もあろうかと、例によって前もってなにも調べず、お気楽に武蔵嵐山に向かう。

この地が木曾義仲ゆかりの地であったことなど、そのときは知る由も、なし。




本日のルート;東武東上線・武蔵嵐山>道254号線>県立歴史博物館>畠山重忠の館跡>都幾川>槻川>鎌形八幡宮>班渓寺>渓流・武蔵嵐山>平澤寺>東武東上線・武蔵嵐山


東武東上線・武蔵嵐山


東武東上線・武蔵嵐山下車。駅前で軽く昼食、などと思っていたのだが、それらしきレストランなど見当たらない。閑散としている。商店街もほとんどシャッターが閉まっており、まことに静かなるものである。駅前で観光案内をチェック。菅谷館の案内。そのほかに、木曽義仲産湯の清水とか義仲の妻・山吹姫の墓といった案内があった。 北陸・倶利伽羅峠を歩き、木曽義仲のあれこれを調べたとき、木曽義仲って、木曽で育ってはいるが、生まれは奥武蔵(外武蔵?)であったことを思い出した。思いがけなく義仲の登場。畠山重忠ゆかりの地を歩く、といった思いでこの地に来たのだが、源平争乱の雄・義仲が現れた。行き当たりばったりの散歩の醍醐味ではある。急遽、重忠&義仲ゆかりの地を巡る散歩とする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

国道254号線
平屋建ての家並みの多い商店街を北にすすむ。国道254号線と交差。この国道、東京都文京区から埼玉、群馬を経て、長野県松本市に通じる。昔は、川越街道・川越児玉往還・信州街道とも呼ばれていた。国道254号線を越え、更に南に進む。菅谷中学校、菅谷小学校の間を抜けると大きな道。これも国道254号線。先ほどの道筋が旧道で、この道筋はバイパスとしてつくられたのであろう、か。

県立歴史博物館

国道を渡ると菅谷館跡。館跡の入口にある県立歴史博物館を訪ね、この地の歴史の概略を頭に入れる。菅谷館は鎌倉時代に畠山重忠が構えた館をその始まりとし、戦国期に小田原北条氏により館から平城へと拡張されていった。この地は鎌倉街道に面する交通の要衝でもある。元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠はこの館より鎌倉街道を下っていった、と『吾妻鏡』にある。また、1488年(長享2)には、近くの須賀谷原で、山内・扇谷両上杉氏が戦い戦死者700名、傷ついた馬数百等にもおよんだ、という事である。

畠山重忠の館跡
館跡を南に進む。遺構の規模も大きい。館跡は台地上にあり、南は都幾川によって浸食され屹立した崖。東と西は幾筋もの谷が走り外堀となっている。この館というか城跡は地形をうまく活かし、高い土塁と空掘に囲まれた縄張がおこなわれている。 土塁の規模も大きく、高さ12mにもなるものも、ある。本郭は南の崖線に近いところ。それを囲むように二郭・三郭・西郭・南郭の四つの郭が配置されている。こういった縄張りは小田原北条氏によるものであろう。さきほどの県立歴史博物館は二郭と三郭の間に建つ。二郭門の後にある土塁上には畠山重忠の像がある。

畠山重忠のあれこれ;頼朝のもっとも信頼したという武将。が、当初、頼朝と戦っている。父・重能が平氏に仕えていたため。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。上にメモした二俣川の合戦がそれ。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿である。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。
討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。

で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

都幾川
主郭に続く土橋を渡り都幾川へ下る崖線に向う。崖を下り、「ホタルの里」とか「蝶の里公園」の中を歩き、都幾川(とき川)に。都幾川の源流は比企郡ときがわ町大野地区。標高400mから900mという秩父山地東部の山間からはじまり、菅生のある比企郡小川町を経て東松山に進み、比企郡川島町長楽で越辺川と合流する。

槻川
この都幾川に秩父郡秩父村を源流とする槻川(つきかわ)が合流する地点にかかる二瀬橋を渡り、都幾川の堤防を南に下る。右手は山間の景観、左手は畑地、堤防は桜堤。ゆったりした時間が流れる。千騎沢橋を越え、八幡橋に。八幡橋を渡れば鎌形八幡宮に着く。


鎌形八幡宮
鎌形八幡宮は坂上田村麻呂が創建したとされる。代々源氏の氏神として尊祟された、とか。現在は、少々寂しい構え。往時の面影を偲ぶのは少々むずかしい。社にむかって右側にいかにも湧き水といった小さな池。境内の手水場に注がれる水は「木曽義仲産湯の清水」とあった。
義仲の生まれたところは比企郡嵐山町にある大蔵館。父・義賢の館である。鎌形神社から1キロほど東。ということは、このあたりに別邸でもあったのだろう。 義仲の父・義賢は帯刀(たてわき)先生と呼ばれる。帯刀の長ということ。で、帯刀は皇太子の護衛官である。義賢はもともと京都の堀川にある源氏館にいた。が、義賢の父・為義と争い相模に下っていた兄の義朝に抗すべく、上野国大胡の地を領する。大蔵に館を構えるのはその後のこと。

義朝の長男・義平が大蔵館を急襲し義賢を討ったのは、義賢が大蔵の地に移ったことと関係ありそう。相模,上野と互いに威をとなえ、バッファー地域であった武蔵の地に移った義賢の動きに危機感を抱き、事を起こすことになったのだろう。 父義賢を討たれた遺児駒王丸こと義仲を助け木曽に逃がしたのは畠山重忠の父・重能と斉藤実盛。斉藤実盛は武蔵の国・長井庄というから、いまの熊谷市が本拠。もともとは義朝派。が、武蔵に館をもった義賢に伺候した時期がある。義朝への恩義もあって畠山重能から託された駒王丸を助けたのであろう。 
木曽に逃れた駒王丸は木曽の豪族中原兼遠の庇護を受け、ために「木曽義仲」と呼ばれる。ちなみに、斉藤実盛は最後まで平家方の武将として奮戦。加賀・篠原の合戦で義仲軍に討ち取られる。命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、涙した、ということである。命の恩人斉藤実盛を討った義仲であるが、もうひとりの命の恩人・畠山重能の息子である重忠と宇治川の合戦で戦う。義仲は武運つたなく戦に敗れ、滅びることになる。なんとも因果な巡り合わせである。

班渓寺
鎌形神社を離れ、都幾川に沿って南に進む。ほとんど農家の庭先を歩く、といった按配。すぐに川筋は西に向かって湾曲。班渓寺橋手前を北に折れる。すぐに班渓寺。お寺の前の石碑には、木曽義仲生誕の地、とある。このお寺の裏に、木曽殿館跡がある。
寄り合いがあるのだろうか、地元人の出入りが多い。少々遠慮しながら境内に。 ここには義仲の妻・山吹姫の墓がある。義仲の妻は巴御前が知られるが、山吹姫も妻のひとり。平家物語には、『木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(美女)を具せられたり。山吹はいたはりあい、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。』とある。 巴御前は女武者で有名。倶利伽羅峠の合戦では一軍を率い、勝利に貢献。京の三条河原で畠山重忠と一騎打ちをした、と『源平盛衰記』にある。中原兼遠の娘と言われる。
山吹姫も妻のひとり。木曽義仲が逃れた、木曽・中原兼遠の縁の者とも言われるが、定かではない。ともあれ、このお寺は、山吹姫が義仲との間にできた子供・義高の供養のために建てたもの、と。鎌倉散歩のときメモしたように、頼朝の娘・大姫との縁組が決まっていた義高であるが、頼朝・義仲の争いに巻き込まれ、鎌倉を逃れる。が、入間川原で追っ手によって討ち取られた。これに嘆き悲しんだ大姫のあれこれは、唐木順造さんの『あずま みちのく(中公文庫)』に詳しい。

渓流・武蔵嵐山
班渓寺を離れ北に進む。一度、鎌形八幡宮社方面へと折れ、八幡橋の手前で北に進む。ちょっと小高い丘に進むと郷土館。旧日本赤十字社埼玉県支部社屋である。木造の建物。鎌形小学校の敷地内のようであった。とはいえ、館内に入れるといった雰囲気はなく、通り過ぎる。
学校の門の前を西にすすみ県道173号線に。 渓流・武蔵嵐山へと成行きで進む。冠水橋の手前まで進む。案内板をチェック。森へと続く細い小道に入る、槻川手前に出る。崖になっており、下りることができない。
川にそって森の中を東に進む。ブッシュが生い茂り、先に進むこと叶わず。南に農家が見える。失礼とは思いながらも庭先を犬に吼えられながら抜ける。元の道に戻る。で、成行きで進み、再び冠水橋を目指す。が、着いたのは槻川に架かる槻川南詰。橋の脇に嵐山渓谷バーベキュー場。多くの家族連れで賑わっている。ここまで戻ってきてしまえば、冠水橋にいく気力なし。ということで、次の目的地白山神社・平澤寺を目指す。平澤寺には大田資康詩歌会跡がある、という。

平澤寺
県道173号線を北に進む。国道254号線と交差。国道に沿って西に向かう。JA埼玉中央農産物直売所の交差点を左に折れ、大平山方面に。登り道。適当なところで北に下りる坂道。坂道を下りきったあたりに平澤寺、そしてその裏手に白山神社。 
このお寺、現在では堂宇ひとつ、といった構えであるが、往古、七堂伽藍を誇る、大寺院であった、よう。「まぼろしの大伽藍」と言われる。裏手の丘に白山神社。境内に大田資康詩歌会跡がある。資康は道潅の嫡子。父の仇・上杉定正を討つべくこの地に陣を張る。菅谷館跡の地に館を構えていた、とも言われる。上でメモした須賀谷原の合戦にも加わっている。

須賀谷原の合戦に際し、友人・万里集九との別れの歌宴をこの神社で開いたといわれる。この禅僧は道潅とも親交があり、越生に隠居した道潅の父・道真を訪れ、歌会を開いたりもしている。集九は室町期の禅僧・歌人。全国各地を旅している。そういえば、墨田散歩の時、梅若伝説の残る木母寺に集九が訪れていたって記録があったような気もする。

東武東上線・武蔵嵐山
白山神社を離れ、国道354号線に戻り、東へ進み菅谷館跡の交差点まで戻る。後は、来た道を駅に戻り、本日の予定終了。畠山と義仲という因縁浅からぬふたりの足跡を楽しめた一日であった

水曜日, 6月 13, 2007

北武蔵 寄居散歩 ; 鉢形城を訪ねる

埼玉を歩くと太田道潅とか小田原北条氏ゆかりの地に出会うことが多い。そのようなとき、折に触れて登場するのが鉢形城であり、その城を築いた長尾景春である。鉢形城って、荒川の断崖上につくられている、と。写真で見るに、なかなか魅力的な風情である。場所は寄居。荒川が秩父盆地から関東平野に流れ出るところ。少々遠い。が、思い切って散歩にでかけることに。


本日のルート;東武東上線・寄居駅 >荒川・正喜橋>鉢形城 >鉢形城公園・諏訪神社>釜伏峠の分岐点>車山>東武東上線・寄居駅 


寄居駅
東武東上線の急行に乗り、寄居に向かう。急行で、とはいうものの、川越から先は各駅停車。武蔵嵐山、小川町、男衾といった町を越えていく。なんとなく名前に惹かれる。近々にこれらの地に足を踏み入れる予感、あり。東武東上線・寄居駅で下車。「はるばる来たぜ」を小声で叫ぶ。
駅前で例のごとく見所案内をチェック。鉢形城の場所を確認。寄居近辺には、釜伏峠、日本水(やまとみず)、少林寺、そして北の円良多湖(つぶらた)、鐘撞堂山(かねつきどう)などなど面白そうなところが多い。釜伏峠は秩父往還・熊谷道の峠。日本水は名水百選に選ばれた「神秘の水」。円良多湖は桜の名所。鐘撞堂山は戦国時代、鐘をついて敵の来襲を鉢形城に知らせたことが名前の由来。 
よさげなハイキングコースに少々惹かれる。が、如何せん時間がない。いつものとおり出発が遅く、既にお昼はとっくに過ぎている。あれこれ行きたいのはやまやまなれど、まずは鉢形城に。その後は成行きで、ということで歩を進める。

荒川・正喜橋
駅前を南に下ると荒川。正喜橋がかかる。大正時代に地元の篤志家が私費で吊橋をつくったのがはじまり。大正の「正」と、橋をつくった神谷茂助さんの父・喜十郎さんの「喜」をあわせて「正喜橋」と。
つくられた当時、渡橋は有料であったらしい。その後県が買い上げ、現在の橋となった。少し上流の折原橋の近くに玉淀ダムがつくられるまでは、もっと水量豊かだったよう。橋の上から対岸の崖を見やる。写真で見慣れた鉢形城の景観。自然と足が速まる。

鉢形城
橋を渡り、すぐ右に折れると鉢形城の案内;「鉢形城は荒川に臨んだ断崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害を成している。文明8年(1478年)、長尾景春が築城し、その後上杉氏の持城となって栄える。室町末期に至り、上杉家の家老でこの地方の豪族であった藤田康邦が北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して、北武蔵から上野にかけての拠点とした。 
城跡は西南旧折原村を大手口とし、旧鉢形村を搦め手としている。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、西南部には侍屋敷や城下町の名称が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空堀が残っている。天正18年(1595年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守などに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、開城した」と。


長尾景春 案内では長尾景春のことはさらっと触れていただけ。鉢形城といえば長尾景春でしょう、ということで、少々メモを付け加える。 
文明5年(1473)のことである、関東管領山内上杉氏の家宰・長尾景信が死去。上杉顕定は景信の弟・忠景に家宰職を嗣がせた。怒ったのが長尾景信の子である景春。一時は居城・白子城(群馬県子持村臼井。沼田市の吾妻川東岸)でおとなしくしていたのだが、「やっぱり勘弁ならぬ」、ということでここ鉢形に城を築いて関東管領・上杉氏と対立することになる。これが世に言う「長尾景春の乱」のはじまり。 

翌年、景春は五十子城(いかつこ;本庄市東五十子)の上杉氏本陣を襲撃。上杉氏は上野に逃れる。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は景春に帰順を求める。が、景春は拒否。用土原(大里郡寄居町用土;市街地の北東)で合戦。景春は敗れて鉢形城に立て籠もる。
上杉氏は鉢形城を包囲。それに対抗すべく、景春は古河城の足利成氏と同盟を結ぶ。関東管領上杉氏と古河公方は犬猿の仲。敵の敵は味方、ってことだろう。
成氏が上野(滝)まで進軍。
本陣危うし、ということで、上杉軍は包囲を解いき、上野に引き上げる。 文明10年(1478年)、上杉氏と足利成氏の間で停戦成立。が、太田道灌は鉢形城を攻略。景春を秩父へ追放。鉢形城は上杉顕定の居城となる。その後、景春は秩父方面で文明十二(1480)年まで抵抗を続けるが、最後には上杉氏に降伏することになった、とか。これが長尾景春のあれこれ。

景春以降の鉢形城 ついでに、景春以降の鉢形城について補足;景春の後、一時上杉がこの鉢形城に居を構えたこともある。が、結局は小田原北条の拠点となる。そのことは案内板の通り。
上杉から小田原北条への潮目はやはり、川越夜戦か。天文15年(1546)の河越夜戦で上杉氏が北条氏に大敗。武蔵の土豪は次々に北条氏に帰順。天神山(秩父郡長瀞町岩田字城山1871 ;長瀞町の北部)城主・藤田重利(康邦)は北条氏康の三男・氏邦を養子に迎える。氏邦は永禄三(1560)年前後に本拠を鉢形城に移し、大規模な改修を行った。永禄十二(1569)年、武田信玄が小田原城攻撃のため上州から侵攻。鉢形城も攻められる。が、守りが堅いのを見た信玄はそのまま南下して滝山城に向かった、と。 
天正18年(1590年)の小田原の役では、北条氏邦は出撃論を主張。が、当主氏直以下の首脳部は小田原評定の結果、籠城策。氏邦は鉢形城に戻り守備を固めた。鉢形城はこれを最後に廃城となった。ちなみに、小田原評定って、あれこれ会議ばかりで、いつまでたっても結論がでないこと。








鉢形城公園・諏訪神社

荒川の崖に近づく。本丸のあったあたりをぶらぶら歩き、車道を越えて鉢形城公園に。西に諏訪神社。二の丸とか三の丸があったところ。公園の南の崖を下り、深沢川を渡る。外曲輪があったところ。鉢形城歴史館がある。残念ながら閉まっていた。はてさて、どうしたものか。公園に座り次のルートを考える。
里山を歩く
県道294号線の南にある標高227mの車山の裾野をぐるりと一周する道がある。一周し正喜橋まで戻ってくるのに6キロ程度。時間的には丁度いいか、ということで決定。里山の風景を楽しむことにする。
ちなみに、落合橋に続く県道であるが、後日、車で走ったことがある。山の中というわけではなく、ゆったりとした農村風景が広がっていた。

釜伏峠の分岐点

公園を離れ、県道294号線を西に進む。八高線を交差しさらに進む。折原小学校を越え、道が南に下るあたりが秋山地区。「釜伏峠、日本水」方面への案内がある。釜伏峠まで4キロ強といったところ。往時、秩父観音霊場に向かう人達がこの峠道をとおり、秩父に入った、という。
釜伏峠から1キロ程度のところに日本水(やまとみず)。美味しそうな水に惹かれはするが時間がない。次回のお楽しみということで、県道を南に下る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

車山
南に下る、といっても山間に向かっての緩やかな上り。この道は、小川町から西に進む川越道と落合で合流する。川越道とは、昔、江戸から秩父に入るときに利用した道筋。粥新田峠をへて一番札所・四萬部寺に出る。 道をしばし進むと、東に分かれる道。車山の裾を通る道。県道を離れて、野道に入る。のんびりとした里山の景色がまことに美しい。山容が穏やか、ということもあるのだろう。また、寄居と秩父を隔てる山並みも500mとか600m程度であることも、なんとなく圧迫感がなくいいのかもしれない。
 車山を眺めながら畑の脇の道を進む。車山は小田原の陣のとき、包囲軍・本田忠勝が鉢形城に向かって大砲をうった、とか。大砲ではなく、火矢を飛ばしたとも伝えられる。
『武州鉢形城』より;少し高みの諏訪曲輪の跡にのぼると線路があって電車が通りすぎた。城内を八高線が通過しているわけである。この曲輪には、諏訪神社という祠の前に大きな欅の木がある。鉢形合戦のとき、この曲輪へ徳川方の本多忠勝が車山から大砲で最初の一発を打ち込んだ。車山は真南の方角に少し霞んで見えていた。 
「運転手さん、ここから車山まで、一千メートルの上もあるだろうか。一千百か二百ぐらいだろうか。」 

「さあ、まだそれとは云わないでしょう。恰好がいい山は、近くに見えるんでしょうか。遠くに見えるんでしょうか。二千メートルに近いんじゃないでしょうか。一千七八百ぐらいですかね。」 
「鉢形合戦時代の大砲は、一千七八百メートルも飛んだろうか。あの山から、この曲輪に撃ち込んでいるのだからね。」 
「しかし、いいところ一千九百ですね。 

先日、古本屋で見つけた井伏鱒二さんの『武州鉢形城』の一節。鉢形城の落城の様子が静かに、しかし迫力をもって描かれている。
平倉地区に入ると民家・農家が増えてくる。のんびりとした風景。久しぶりにいい雰囲気の里山の景色を楽しめた。予想していなかっただけに、結構嬉しい。

白髭神社
道に沿って流れるのは深沢川。源流点は先ほどの県道を進んだ峠あたりであろう。道の南に白髭神社。白髭さまといえば、高麗王・若光。てっきり若光をおまつりしたもの、かと思ったのだが、この神社は第二十二代・清寧天皇をまつる、という。清寧天皇は生来白髪であった、と。白子というかアルバイノであったとも言われるが、白髭皇子(しらかのみこ)という名前に由来するとも言われ、真偽のほど不明。 
それにしても、なぜ清寧天皇がこの寄居にまつられているのだろう。熊谷市妻沼町に白髭神社があり、そこの祭神も白髮武広国押稚日本根子命、こと清寧天皇。この神社創建には清寧天皇の白髭部が関係しているとされる。白髭部って 、子のない大王(天皇)の諱〔いみな〕を後世に残すために置かれた部民。 清寧天皇にはこどもがいなかったとされるし、また白髪部は、山背・備中・武蔵・上総・美濃・遠江に分布ししていた、と。まったくの想像ではあるが、この地の白髭神社の創建にも清寧天皇ゆかりの人々が関係したのであろう。

東武東上線・寄居駅
東に進み八高線・折原駅近くを交差。八高線と平行に北に進む。鉢形城歴史観の近くまで進むと県道294号線にあたる。県道294号線を北に進み県道30号線と合流。東に折れると正喜橋に 。もと来た道を駅に戻る。
 駅に戻り、少林寺に向かう。五百羅漢に惹かれたから。駅の北口に回り、近代的な寄居町役場脇を進み、国道140号線を末野陸橋あたりまで歩いた。が、どうにも日がもちそうにない。日が暮れてきた。少林寺は山の中にある雰囲気。残念ながら、本日はここまでとし、駅に戻り家路に急ぐ。 
そうそう、「寄居」の由来であるが、 江戸時代に作られた『新編武蔵風土記稿』によると、「鉢形城落城の後、甲州の侍、小田原の浪士などより集まりて居住せし故の名なり」、と。また、中世の城郭の周囲に築かれた施設・集落などのことを「ネゴヤ(根古屋)」「ヨリイ(寄居)」等と呼んだとの説もある。そういえば、根古屋って、今までに散歩のときに、秩父でも、松戸でもであった。で、どちらが正しいのかわからないけれども、どちらにしても「人が寄り合う・集まる」ところ、ということに間違いないようではある。