水曜日, 8月 31, 2005

狭山丘陵散歩 Ⅲ:狭山湖を歩く

狭山丘陵散歩のサードラウンド。今回は狭山湖をぐるりと廻ってみようと思う。とはいうものの、どこからスタートしようかと結構迷った。地図を眺めていると、立川から狭山湖のほうに続く線路がある。多摩モノレールである。これは、いい、ということでアプローチ決定。

ところで、今日歩く狭山湖、正式には山口貯水池と呼ばれる。狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し昭和9年に竣工。既に工事のはじまっていた多摩湖(村山貯水池)だけでは、関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要をまかなえなかった、ようだ。
多摩湖もそうだが、狭山湖への水は多摩川から導かれる。小作で取水され、山口線という地下導管で狭山湖まで送られる。一方、多摩湖への導水は羽村で取水され、羽村・村山線という地下導管によって多摩湖に送られる。
狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られることになる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。
狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を ため農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、現代ではその狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している。さてと、そろそろ散歩にでかけることに。( 2月 , 2009年にブログを修正)



本日のルート:多摩モノレール上北台>県道55号線・所沢武蔵村山立 川線>武蔵村山歴史民俗資料館>野山北公園自転車道>尾根道を六地蔵に>宮野入谷戸>六道山>須賀神社>箱根ケ崎>狭山湖外周道路・北廻りコース>西久保湿地>出雲祝神社>西久保観音>大谷戸湿地>狭山湖堰堤>狭山不動・山口観音>

多摩モノレール上北台
立川でモノレールに乗り換え、上北台で下りる。前方に盛り上がる狭山丘陵が見える。山が群がったその山容が「ムレヤマ」>村山の名前の由来ともなった、とか。「群山」に向かい一路北に。青梅街道の芋窪交差点に。自動車道路道を湖に向かって登る。この道を進めば、多摩湖を左右に分けるの堰堤を経て西武ドーム方面へと続く。
尾根辺りに進むと、あれ、これって、どこかで見た景色。ここって狭山丘陵散歩ファーストラウンドで来た鹿島台。先回はここから北に、貯水池を上・下に分ける堰堤を渡ったが、今回はここから西に向かうことに。

県道55号線・所沢武蔵村山立川線
多摩湖自転車道を進む。水源保護のためか、柵があり湖は見えない。2キロ程度歩くと自転車道は県道55号線・所沢武蔵村山立川線に合流。合流といっても自転車道は自動車道脇を北に並走し、多摩湖と狭山湖の間を西武ドーム方面へと進む。
尾根道を西に進む道は一旦、この合流点で終わる。地図をチェックすると六道山方面への尾根道は丘陵を下った野山北公園からアプローチがあるようだ。自動車道を左折し、坂を下る。
坂を下り切ったあたり、学校給食センター脇に尾根道へ上る入口がある。野山北公園の入口ではないようだが、道は上に続いている。そこから上ろうとも思ったのだが、脇に案内図。この場所からすぐ下にカタクリの湯と武蔵村山歴史民俗資料館と、その脇に野山北公園がある。温泉はいいとして、どうせのことなら郷土資料館に立ち寄り、その後、野山北公園から尾根道に上ることにする。

武蔵村山歴史民俗資料館

しばらく武蔵村山歴史民俗資料館で時間を過す。狭山丘陵の成り立ちなどをちょっとお勉強。平地にポッカリ浮かぶ島といった狭山丘陵って、多摩川がつくった扇状地の真ん中に中州のように残された丘陵。西は青梅の草花丘陵、東は加治丘陵(金子丘陵)によって挟まれた扇状地。地形区分で言えば、、多摩川流域の沖積面(低地)、沖積面より一段高い立川面(立川、拝島、箱根ケ崎)、さらにその一段高い武蔵野面(東村山、小手指、所沢)の上に乗っかかる多摩面という丘陵地。ちなみに青梅の草花丘陵も加治丘陵も同じく多摩面である。常設展示はそれなりに面白かったが、手頃な郷土資料は揃っていなかった。購入書籍なし。残念。

野山北公園自転車道
資料館を離れる。ところで、資料館を少し南に下ったところに野山北公園自転車道がある。これって、羽村で取水され、地下導管によって多摩湖に送られる羽村・村山線の送水ルート。かつてここには羽村村山軽便鉄道と呼ばれる鉄道が走っていた。村山貯水場への導水管をつくるときの仮設のトロッコ道を再利用したもの。鉄道は、山口貯水場の建設工事の時に多摩川の砂利運搬のために使われた。現在は羽村から神明緑道としてはじまり、途中横田基地で途切れた後、この地まで野山北公園自転車道として続いている。
この自転車道は、この先丘陵地に潜り込み、1号隧道(横田トンネル)、2号隧道(赤堀トンネル)、3号隧道(御岳トンネル)、4号隧道(赤坂トンネル)として続き、その先の5号隧道は行き止まり。トンネルは多摩湖畔西岸まで続いている、ようだ。自転車道への寄り道は、今回は時間がないのでパス。そのうちに歩いてみよう。

尾根道を六地蔵に
資料館を離れ野山北公園に。野球などに興じる親子連れの姿を眺めながら尾根道へ上る。アスレチック広場もあるイントロ部分から次第にいい感じの雑木林。尾根道を進むとほどなく六地蔵へ。明治時代赤痢が大流行し、付近の村で51人が死亡したのを供養するために建立されたもの。

宮野入谷戸
さらに進むと、宮野入谷戸への分岐。里山や田圃などが残る、ということであり、再び尾根を下る。比高差もそれほどなく里山民家のあるエリアに。江戸時代の母屋を再現した茅葺き屋根の民家など里山の生活様式に触れる環境がつくられているようだ。田舎生まれ故に、古い民家はそれほど珍しくもなく、ちらりと眺め先に進む。
里山民家の西に岸たんぼ。水田体験を楽しむ水田のよう。田圃を見ながら先にすすむと宮野入谷戸。谷戸に沿って尾根にのぼるルートがある。谷戸の最奥部あたりは湿地。崖下から滲みだす地下水は如何にも、いい。武蔵村山歴史民俗資料館の展示コーナーの「丘陵と台地に生きた人々」で、往古丘陵地に住んでいた人々は、次第に丘陵地を下り谷戸で生活するようになった、とあったが、こういった湧水のある谷戸で生活したのであろう、か。

六道山
湧水、そして里山の風景を楽しみながら、里山ふれあいコースを進み尾根に戻る。尾根道に上り先に進むと六道山公園に。標高192m地点にある展望台は高さ13m。晴れたときには富士山、秩父連山、新宿のビルなども見渡せる、とか。
展望台を少し西に進んだところに出会いの辻。昔、狭山丘陵山麓の村に通じる六つの道がここで「出会って」いた。六道山の名前の由来でもある、とか。現在、尾引山遊歩道、石畑新道遊歩道、台坂遊歩道、天王山遊歩道、大日山遊歩道、高嶺山遊歩道といったハイキングコースがこの出会いの辻に向かって里から続いているが、こういった遊歩道が昔の里を繋ぐ道の名残であろう、か。

須賀神社

出会いの辻から台坂遊歩道、天王山遊歩道、大日山遊歩道といった遊歩道が尾根で合流するあたりに進む。なんとなく遊歩道の雰囲気を見たかった、ため。と、合流点近くに須賀神社。ちょっとお参り。やまたのおろちを平らげて、「我、この地に着たりて心須賀、須賀し、」といったかどうだか、素盞嗚命(スサノオノミコト)をおまつりする。ここ以外にも尾根道脇に同じく須賀神社がある。
須賀神社は島根と高知に多い、とか。元は「牛頭天王社」と呼ばれていたことろが多いようだ。牛頭天王って、インドで仏様のお住まいである祇園精舎の守り神。その猛々しさがスサノオのイメージとはなはだ近く、スサノオ(神)=牛頭天王(仏)と神仏習合された、と言われる。スサノオ、と言えば出雲の暴れん坊。先日の氷川神社と同様、この地を開拓した出雲族の名残であろう、か。


箱根ケ崎
遊歩道を下ったところが箱根ケ崎。国道16号線、青梅街道、新青梅街道、岩蔵街道(成木街道)、羽村街道と多くの道筋が交差する交通の要衝。昔も、鎌倉街道、旧日光街道、青梅街道などが通り、箱根ケ崎宿があったところ。9軒の宿があった,と言う。狭山神社、浅間神社といった神社も多く、また円福寺といった堂々としたお寺様も残る町である。旧日光街道は、八王子から日光勤番に出かける八王子千人同心が往還した道筋である。
ところで、箱根ケ崎という名前が気になった。由来を調べると、源義家が奥州征伐のとき、この地で箱根権現の夢を見、この地に箱根(筥根)大神を勧請した。それが現在の狭山神社である、という説、がある。また、瑞穂市教育委員会編「瑞穂の地名」によれば、この地の地形が箱根に似ていたの箱根神社を勧請。で、この地が箱根より先(都より遠くはなれた)ところであるので、「はこねがさき」となったとの説もある。例によってあれこれ。
町中に狭山池という残堀川の水源にもなっている池がある。これって鎌倉時代に「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」と歌われているように、昔は「筥の池」と呼ばれていた。この地が古くから伊豆の箱根(筥 根)となんらかの関係があったことは間違いない、かと。この箱根ケ崎の町は、数回来た事があるのだが、通り過ぎるか、六道山への遊歩道に向かう出発点といったところ。そのうち、狭山池、残堀川など、のんびり歩いてみたいもので、ある。

狭山湖外周道路・北廻りコース

さて、出会いの辻から尾根道、というか狭山湖外周道路・北廻りコースを先に進む。フェンスで中には入れないが、道の南の谷筋は金堀沢。現在は狭山湖で断ち切られて入るが、元々は柳瀬川の源流といったことろ。また、この金堀沢には引入隧道口と呼ばれる導水路がある、と。これって小作から取水され、地下の導水管を通り狭山湖に送られる多摩川の水の出口。実物を見てみたいのだが、現在金堀沢への立ち入りは禁止されているようだ。少々残念。導水管は狭山池の少し北の地下を一直線に狭山丘陵に伸びている、とか。

西久保湿地
しばらく歩くと西久保湿地への分岐。谷戸の湧水、というだけで心躍る我が身としては、一も二もなく尾根を下りる。谷戸田では古代米なども栽培されている。谷戸の奥に進む。じわり、と湧く水を飽きもせず眺める。木橋の道を離れて、湿地にはいってみたいのだが、要所要所に「マムシに注意」の警告。マムシの写真に睨まれると足がすくみ先に進むのを断念。


出雲祝神社
湿地を眺めながらしばし休息。 地図をチェックするとすぐ下の里に出雲祝神社と西久保観音。特に、出雲祝神社と言う、いかにも有難そうな名前に惹かれる。お隣にある大谷戸湿地に廻る前にちょっと寄り道。西久保湿地を離れ、民家の間を少し下ると神社入口。落ち着いた雰囲気。参道を進みお参りを。
出雲祝神社は文字通り、出雲族が祭った神様。氷川神社、須賀神社とは異なり、ストレートに出雲を示す名前である。そもそも出雲族そのものがはっきりしてはいないようだが、単に現在の島根県・出雲にいた豪族のみを指すものではないようだ。
大雑把に言って、大陸・朝鮮半島からの渡来系王朝・崇神天皇からはじまるいわゆる征服系王朝に対して、それ以前に日本国内で有力であった勢力すべてを総称したキーワードっぽい名称。古事記や日本書紀にある、渡来系王朝の神・アマテラス系天津神に対する、オオクニヌシ系国津神の神々をまつる勢力の総称、とか。梅原猛さんの『神々の流竄』によれば、新しい神さまとして仏教をいれてはみたものの、仏教のもつ四海皆平等って発想では、律令制度のもと中央集権国家を目指す王朝としては具合が悪い、ということで、神々のディレクトリーを整理し、伊勢神宮を大陸系征服王朝の「神」として置き、それ以外の神々を出雲の地に流す。出雲大社をシンボルとして「流竄されて」しまった神々をまつる、物部氏を筆頭とする旧勢力の総称が出雲族ってことのようだ。
武蔵に出雲系神社が多いのは、大陸系王朝の覇権から逃れこの地に移り住んだ氏族が多かったためか、大陸系王朝の政策により物部氏といった既存勢力を地方開拓の行政官として重用した結果なのか、実際、武蔵の国造は物部氏であり、武蔵一ノ宮の氷川神社をつくったのもこの物部氏であったわけで、専門家でもないのではっきりとはわからないけれども、こういった状況が複合的に重なった結果であろう、と納得しておく。
で、この出雲祝神社、由緒書によれば、延喜式入間五座の一に列せられ、郡第一等の社格。景行天皇の御代創立という。奈良時代に、ここの出雲伊波比(いずもいわひ)神さまが、中央政府からのお供えがない、とお怒り。ために、政府の米倉・正倉を燃やしたとかいう話が伝わっている。実際は、中央政府を快く思わない地方豪族が正倉を燃やし、それを神さまのせいにしたのだろうが、 それはともかく、この神社は、それほど昔からあった古い神社ではある、ということか。

境内奥に廻ると「茶場碑」。狭山茶の由来が書かれてある。お茶が日本で本格的にひろまったのは、臨済宗の開祖、栄西禅師が中国・宋から種子を持ち帰り、栽培するとともに、「喫茶養生記」を著したのがきっかけ。狭山地方に初めてお茶がもたらされたのは、鎌倉時代。京都の高僧明恵上人が「武蔵河越の地」に栽植したのがはじまりとのこと。そして、狭山茶として本格的にスタートしたのは、江戸時代。19世紀初頭頃、この出雲祝神社のある入間市宮寺の吉川温恭、村野盛政たちが自家用茶ではなく、商品として売るため茶園をつくってからだという。
このあたりだけでなく、入間から狭山にかけて誠に茶畑が多い。先日入間の入曽から箱根ガ崎まで、なにするともなく歩いたことがあるのだが、至る所の茶畑に、茶所狭山をあたらめて実感した次第。

西久保観音

茶場碑脇にお寺の屋根。辿ってゆくと西久保観音。8世紀前半、行基が開いた、と。行基はいたるところに現れる。縁起は縁起としておこう。安産祈願で有名なこの観音様の境内には樹齢800年と言われるカヤの木。境内とはいっても滑り台があったり、児童公園といった雰囲気ではあった。観音さまにお参りをすませ次 の目的地である大谷戸湿地に向かう。

大谷戸湿地

成り行きで里を歩き、西久保湿地に戻る。そこから道標に従い大谷戸湿地に向かう。 林の中を進み、一度狭山湖外周道路の尾根道の支尾根に上り、再び谷に向かって林の中を進むとほどなく大谷戸湿地に。深い谷戸の奥に近いあたりのようだ。名前に違わず、如何にも、大きな谷戸といった景観。西久保湿地に比べ、少々荒々しい、というか人の手が入っていない様子の谷戸の景色を楽しむ。ここでも、じわりと滲みだす湧水を飽きもせず、眺めた後、狭山湖外周道路に戻る。

狭山湖堰堤
道標に従い尾根道に向かって上る。それほどの比高差はないのですぐに尾根道に合流。あとは一路、狭山湖堰堤に。湖面側はフェンスがあり見晴らしがあるわけではない。北側はところどころ、里に下りる分岐路のことろあたりで風景が開ける。トトロの森5号地を越え、早稲田大学所沢キャンパスの南をかすめ、トトロの森4号地の脇を続く道を進み、狭山湖堰堤に到着。4キロ弱といった行程えあった。

狭山不動・山口観音
堰堤でしばし湖や、堰堤下から続く柳瀬川の谷筋、そして、その東に広がる遠景を楽しみ、狭山山不動寺に。このお不動さんは西武鉄道が建てたもの。芝プリンスホテルを増上寺徳川家霊廟のあったところに建てるに際し、そこに残る建物をこの地に移した、と。国の重要文化財なども有るお寺さまではあるが、なんとなく新しく建てられた、って印象のギャップがあるのは、そういった事情であろう、か。お隣には山口観音。こちらは新田義貞が鎌倉攻めのときに戦勝祈願をしたとも伝えられる古いお寺さま。ダムができ、遊園地が出来る前からこの地にあったのだろうが、現在はマニ車があったり、中国風東屋、ビルマ風パゴダなどが、いまひとつ、よくわからない。足早に先に進み西武球場前駅に歩き本日の予 定終了。

3回に渡った狭山丘陵散歩、思った以上に素敵であった。何度も繰り返すが、森の香りの素晴らしさはなにものにも替えがたい。丘陵地帯の森も、結構奥深そう。柳瀬川、空堀川といった川沿いの散歩もよさそう、などなど「狭山丘陵・散歩への誘い」、メモを書きながら結構強くなってきた。

火曜日, 8月 30, 2005

狭山丘陵散歩 Ⅱ;狭山丘陵の東・八国山周遊

セカンドラウンド。八国山に代表される狭山丘陵の東を歩く。当初このあたりを歩く予定はなかった。が、会社の同僚が、「八国山いいですよ。トトロの森もあるし。。。」と推薦。トトロで盛り上がる歳ではないのだが、八国山という「響き」に惹かれ歩くことになった。(2月 30, 2009年にブログを修正)



本日のルート;西武園駅>八国山・将軍塚>鳩峰八幡神社>久米水天宮>荒幡富士>山口城址>柳瀬川>堀口天神社>西武球場前駅

西武園駅
西武園線西武園駅で下車。いかにも西武園への入口といったエントランスの脇を下り、八国山緑地の入口に。芝生の丘のむこうに森が見える。案内版によれば八国山の散歩道は何通りかある。尾根道を進むこととした。いやはや、いい香り。先回もメモしたとは思うが、森の香り・フィトンチッドに感激したのはこの森での経験から。適度の湿気もあったのだろうが、芳香剤では出すことのできない、自然でありかつ強烈な香り。胸いっぱい吸い込む。


八国山緑地・将軍塚
この森のことをトトロの森3号地と呼ぶ。尾根道を進み将軍塚に。将軍塚のあたりが八国山の東の端。八国山の名前の由来によれば、「駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望められる」わけだが、木が生い茂り遠望不可。
将軍塚とは新田義貞が鎌倉幕府軍に相対して布陣し、源氏の白旗を建てたことが名前の由来。この地域で新田の軍勢と鎌倉幕府軍が闘ったことなど全然知らなかった。府中の分倍河原で新田軍が鎌倉幕府軍を破ったことは知っていたのだが、この地はその分倍河原の合戦に至る前哨戦であったのか。散歩をしていると思いがけなく「歴史イベント」の地に遭遇する。準備もなにもしない徒手空拳・無手勝流の散歩の楽しみのひとつだ。戦いの軌跡をまとめておく。

西暦1333年(元弘三年)新田義貞、鎌倉幕府を倒すべく上州で挙兵。5月10日、入間川北岸に到達。鎌倉幕府軍は新田軍を迎え撃つべく鎌倉街道を北進。5月 11日に両軍、小手指原(埼玉県所沢市)で会戦。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉軍は久米川(埼玉県東村山市)へ後退。翌5月12日新田軍は久米川の鎌倉幕府軍を攻める。鎌倉幕府軍、府中の分倍河原に後退。5月15日、新田軍、府中に攻め込むが、援軍で補強された幕府軍の反撃を受け堀兼(埼玉県狭山市)に後退。新田軍は陣を立て直し翌日5月16日、再度分倍河原を攻撃。鎌倉軍総崩れ。新田軍、鎌倉まで攻め上り5月22日、北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代が幕を閉じるまで、旗挙げから僅か14日間の出来事であった、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

鳩峰八幡神社
将軍塚を後にし、尾根道を元に戻る。道の中間地点から、北に階段を下りる。松ヶ丘団地を抜け、トロロの森2号地に。目安は鳩峰八幡神社と水天宮。神社の横の小道がトロロの森へのアプローチ。鳩峰八幡神社は西暦921年(延喜21年)、京都の男山鳩峰に鎮座する石清水八幡宮を分祀したものといわれる。新田義貞は八国山に陣を置いた時、源氏の守り神であるこの八幡宮に参拝し戦勝を祈願。鎧を置いた所に稲荷神社をまつり「鎧稲荷」、兜を掛けたと伝わる松が拝殿の左側に。




久米水天宮
八幡神社のすぐ隣に久米水天宮。水天宮って、安産の神様。私も子供が生まれるとき東京の水天宮さんに腹帯を頂きにいったのだが、いったいどんな神様なのか、調べてみた
水天宮の御祭神は天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) 、安徳天皇 (あんとくてんのう) 、高倉平中宮(たかくらたいらのちゅうぐう。建礼門院?)、二位の尼 (にいのあま) 。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)がどんな神様か知らないが、それ以外は壇ノ浦で滅亡した平家の貴種。1185

年、平清盛の血をひく安徳天皇は壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に入水。安徳天皇8歳のこと。高倉平中宮に使えていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)も壇ノ浦で共に入水しようとする。が、二位の尼に、「生きのびて、菩提をとむらうべし」、との命を受け遁れ、筑紫・久留米の千歳川(現筑後川)の辺りに、辿り着く。そして水辺に小さな祠を建て安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送る。これが今に続く水天宮の起源。
その後、久留米藩主有馬忠頼公の庇護を受け、広大な社殿が造られた。東京日本橋の水天宮は、参勤交代で領地を離れた有馬公が、江戸の地でもお参りをしたいということで江戸屋敷の中に屋敷神としてつくられたのが、その始まり。屋敷は慶応大学三田キャンパスのあたり。その後、この屋敷神が人々の評判になり、明治になって藩屋敷がなくなった後、日本橋に移った。この久米水天宮は武蔵国の中で日本橋にある水天宮についで由緒あるお宮さんとのこと。ちなみに、入水自殺を図った建礼門院(高倉平中宮?)、源氏に助けられ我が子の菩提をとむらうべく剃髪、隠棲生活されたのが京都大原の寂光院である。

荒幡富士


水天宮脇の道を進みトトロの森2号地に。雑木の森の中を進み、南部浄水場に。鳩峰公園をちょっと北に歩きはじめたが、どこに進んでいるのかわからなくなり、元の浄水場にもどり、わき道を下る。荒幡地区を歩き、ゴルフ場脇の丘を進むと荒幡富士。荒幡富士講を信仰する村内の氏子・信者はもとより、近隣の人々も協力し造りあげた、こんもりとした人工の塚。富士塚と言う。
富士山は古来神の宿る霊山として信仰の対象となっていた。富士山参詣による民間の信仰組織がつくられていたのだが、それが富士講。とは言うものの、誰もが富士に上れる訳でもない。で、近場に富士山をつくり、それをお参りする。それが富士塚である。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。新田次郎さんの『富士に死す;新潮文庫』に、富士講中興の祖である身禄もことが詳しい。

山口城址
荒幡富士市民の森を抜け、柳瀬川を越え、柳瀬川から西武狭山選下山口駅に。駅前の交通量の多い道を左折し、山口城址前に。山口城址は武蔵七党の村山氏からでた山口氏の館跡、とはいうものの、今となってはスーパーマーケットの脇に、案内が残る、だけ。

柳瀬川
柳瀬川は狭山丘陵から流れ出し、志木で新河岸川に合流する全長20キロ程度の川。新河岸川で最大の支流。武蔵野台地を刻む最大の川筋でもある。本流と支流の北川は狭山丘陵の中から、支流の東川は丘陵の北側・早稲田大学所沢キャンパスの東から、空堀川は丘陵の南・野山北公園から流れ出す。とは言っても、本流と北川は源流点は狭山湖の西にある金堀沢。現在は狭山湖・多摩湖の工事によって堰止められている。余水が流されているのだろう、か。

堀口天満神社

高橋を越え、トトロの森1号地に向かう。丘のように聳える貯水池の堰堤防の手前、清照寺方面に右折。堀口天満神社あたりから森に入る。トトロの森1号地。結構森が深い。案内板に従い森を楽しみ、尾根を先に進み藤森稲荷神社に廻りお参りする。

西武球場前駅
森の道を下り貯水池の堰堤防に向かう。結構な登り坂。運動場になっている。堤防上に上がり、景色を楽しみ、堤防を南に。狭山自然公園に沿って歩く、狭山不動脇を下り、西武球場前駅に。山口線に乗り、一路家路に。

日曜日, 8月 28, 2005

狭山丘陵散歩 Ⅰ:多摩湖(山口貯水池)を歩く

狭山丘陵を散歩する。狭山湖と多摩湖、正確には山口貯水池であり、村山(上・下)貯水池を抱くこの丘陵、前々から歩いてみたいと思っていたのだが、あまりにも遠く、先送りにしていた。が、先日、玉川上水散歩の時、多摩川とこの貯水池の水の「連絡」を知った。多摩川の羽村取水口から多摩湖、小作取水口から狭山湖への送水ルートがある。
石神井川散歩の時、「馬の背」に出会った。武蔵・境緑道下を、多摩湖から東村山浄水場・境浄水場への水の「連絡」ルートである。馬の背は、低地部分に盛り土し、水が流れるようにした築堤。
また、朝霞を歩いていた時、東村山浄水場と朝霞浄水場との原水連絡管のことを知った。ふたつの浄水場を介しての多摩川と利根川の「連絡」、水系同士の「水の貸し借り」がおこなわれている、と。散歩ルート同士の「連絡・ネットワーク」があれこれつながってきた。
ということで、出かけた狭山丘陵散歩。当初、1回で廻り終えるかなどと、結構お気楽にでかけた。が、結局3回に分けての散歩となった。一回目は多摩湖周遊というか半周。正確には村山下貯水池周遊。2回目は狭山丘陵の東・八国山周遊。3回目は狭山湖周遊。正確には村山上貯水池・野山北公園・六道山・狭山湖周遊。3回かけて狭山丘陵のみどころはほぼ歩いた、ってところか。(2月 28, 2009年にブログを修正)



本日のルート:西武多摩湖線西武遊園地>氷川神社>狭山公園>多摩湖周遊道路> 狭山緑地.鹿島橋>西武多摩湖線西武遊園地

西武多摩湖線西武遊園地駅
ファーストラウンドは多摩湖・村山下貯水池周遊。西武多摩湖線西武遊園地で下車。改札を出るとそのまま遊園地の入り口に向かう。途中住宅街に抜ける。が、どうもこれは多摩湖に向かうメーンルートではないようで、歩道がない。他にルートはあるとは思うのだが、とりあえず車道の端を多摩湖岸・多摩湖下堰堤に向かう。


氷川神社
道すがら氷川神社。いやはや武蔵の地を歩いていると、至る所で氷川神社が現れる。出身地の愛媛などであまり聞いたこともなく、唯一「氷川」というキーワードで知っていることといえば、勝海舟の書『氷川清話』くらい、であった。調べてみた。氷川神社は関東一円に220社ほどある。関東以外では北海道に1社あるくらい。これは関東から北海道開拓に移住した人が建てたものだろう。ともあれめちゃめちゃ関東ローカルな神様である。総本宮=大宮、は埼玉の大宮にある氷川神社。氷川の由来は、出雲の斐川から。武蔵国造をはじめとする武蔵開拓の一族の出身が出雲であったのだろう。ちなみに、大宮氷川神社と出雲大社の宮司さん、ともに千さんと言うらしい。

狭山公園
堰堤に沿ってある狭山公園を南に下る。堰堤あたりは工事中(2005年8月)。北川(宅部川)を渡る。この川は、多摩湖の余水を逃がす水路。階段状になっているのは水流の勢いを抑えるためのもの。12段ある、と言う。水路にかかる橋を滝見橋というのは、その流れが滝のように見えたから、とか。最近は、水はながれていないようである。
滝見橋の南に「たっちゃん池」。多摩湖が出来る前からあった溜池を、貯水池の工事のときに農業用貯水池としたもの。池の南西の湿地からの湧水が水源となっていう、ようだ。
この狭山公園。いい公園というか林、というか森。樹林、湧水池。本当に素敵な自然林。気持ちよく歩く。心地よい森の香り(フィトンチッドって言うらしい)。 ところで、いつも気になるのだけれど、森と林って明確な違いがあるのだろうか?林=生やす、で人の手が入ったもの、森=盛る、で自然の力で盛り上がっている、自然に生えているのが森、といった解釈もあるが、どうも我々は森も林も区別せずに使っている、といった説が一番納得。これからも森といったり林といったり、そのときの気分次第で使い分けていく。

多摩湖周遊道路
狭山公園を抜け、一般道へ。多摩湖周遊路。サイクリング道路にもなっている。石神井川散歩のときに出会った「馬の背」、あの狭山・境緑道にあったサイクリング道路がこの道に連絡している、と言う。周遊路をひたすら歩く。湖の周囲の緑地は東京都水道局の水源保護林となっており、立ち入り禁止。湖を覗うことはできない。飲みものの自販機がない。どこにでもあると高をくくっていたのだが、歩けど歩けどなにもない。正確には後ででてくる鹿島台まで途中1箇所だけあったのだが、タイミングを逃してしまった。いや、きつかった。

狭山緑地

湖畔地区の住宅街が切れたころ、ちょっとした森が道路左手に現れた。狭山緑地。森の散歩と水の補給もかね、雑木林を下に降りる。蔵敷・芋窪地区。名前から 言っても、古くからの集落の、よう。芋窪地区は多摩湖の工事によって移転した集落もある、と言う。水分補給し、再び丘を登り多摩湖周遊路へ。

鹿島橋
鹿島橋に進む。多摩湖は村山上貯水池と村山下貯水池に分かれている。 この鹿島橋地点が多摩湖の上貯水池と下貯水池を分けている道路・多摩湖上堰堤 の南側になる。鹿島橋は、多摩湖の上貯水池と下貯水池を分けている道路の上に架かる自転車・歩行者専用橋。全長160m。

西武多摩湖線西武遊園地駅
多摩湖一周とも思ったのだが、そろそろ日暮れ。少々出発が遅かった。ここで撤収決定。多摩湖周遊路から離れ、堰堤の上を通り北岸に。北岸の多摩湖周遊路を西武球場、西武山口線の一種の「モノレール」を左に見ながら、西部山口線遊園地西、西武遊園地を経由してスタート地点の西武多摩湖線西武遊園地に。今回の予 定終了。


水曜日, 8月 24, 2005

高麗の郷散歩

会社の同僚と雑談。国分寺崖線を紹介してくれた男。高麗川散歩がいいとのこと。ガイドブックなどで、「高麗の郷。歴史と文化そして自然の宝庫、巾着田」といったコピーは目にしていた。が、なにせ遠い。二の足を踏んでいた。しかし、国分寺崖線を教えてくれた男。結構ハケの道を堪能した。今回も外れはあるまい。高麗に行くことにした。



西武池袋線高麗駅
西武池袋線高麗駅下車。JR八高線の高麗川駅からのアプローチがいいのか、どちらがいいのかよくわからなかったので、とりあえず出たこと勝負で高麗駅に降りた。

駅前に天下大将軍、地下女将軍の真っ赤な将軍標。このトーテムポールっぽい標識、韓国の伝統的守護神。天・地の守り神がともに相ともに村の守りについている。駅前の坂を下り、高架をくぐり、299号線に。左折。少し進み、道脇に入る。高麗石器時代住居跡。縄文時代中期のたて穴式住居跡。

聖天院
299 号線に戻り、道路わきを久保の交差点から高麗川に。歩道がないので少々車の往来が気になる。高麗川に掛かる橋・高麗橋を右折、清川沿いにのどかな道を進む。鹿台橋を右手に見ながら、元宿公会堂の交差点に。ここからカワセミ街道、といってもなんと言うことのない田舎道ではあるが、高岡浄水場、下高岡公会堂と歩き、聖天院に。高麗王若光王一族の菩提寺として奈良時代に創建。品のあるたたずまいのお寺さん。本堂は新築したものか。山門に向かって右側に、高麗の王若光の墓が置かれている。次は高麗神社。

高麗神社
高麗神社は聖天院から歩いて5分くらい。高句麗からの渡来人の指導者高麗王若光(こま「こしき」じゃっこう)を祭った神社。716年、というから奈良時代の初め、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人1799人が武蔵國に遷され、高麗郡が設置された。高麗王若光は高麗郡の郡長に任命され、武蔵の国の開発に尽力し、この地で没した。またこの神社は出世・開運の神としても名高い。浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが、高麗神社に参拝した後、相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と崇められてもいる。
参道の奥に緑に囲まれた本殿があり、さらにその奥に重要文化財の高麗家住宅がある。

神社を出て、小道をゆっくり降り、高麗川にかかる出世橋を渡り、JR八高線高麗川方面に。もくせい通り、野々宮を通り、左手に丘陵地帯を眺めながら静かな野の道をのんびり歩く。栗坪地区の「麓道」を。高麗中学、学童保育所、万蔵寺と進み、高麗峠への登り口に。登り口を確認し、後は時間次第で再度戻ってくる、という段取り。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


巾着田
日も落ちてき始めたので急ぎ足で巾着田へと。歩行者専用の木製橋・あいあい橋を渡る。巾着田は、高麗川が大きく湾曲して、地形が巾着(口についた紐を引っ張ると口が縮んで閉まる袋。小銭入れ)の形に似ていることからつけられた名称。ここに移り住んだ高句麗からの渡来人が、蛇行する流れを巧みに利用して、川をせき止め、その内側にあふれた水を導き水田とした。つまりは当時高度な技術であった稲作を伝えたところといわれている。川原には川遊びを楽しむ家族が多い。巾着田を湾曲する川に沿って歩く。予定では湾曲部の「頭」あたりにある橋を渡り、高麗峠へ、と思っていたのだが、あいにく通行止め。峠道の日没も嫌であるので、結局は高麗峠行きは中止。後は、鹿台橋まで戻り高麗駅へ。本日の予定終了。


散歩をしながら考えていた。高麗、高句麗からの渡来人はどうして、この高麗の郷に来たのか。関東というか当時で言えば武蔵の国、これって結構広いのに、そのなかでこの郷に来ることになったのはなぜ?もちろん、自分たちの意思でというわけではなく、中央政府、西暦645年大化の改新から幾多の政争を経て西暦701年大宝律令を制定、律(刑法)と令(行政法・民法)をもとに、中央集権国家を目指し始めた大 和朝廷の指示によるのだけれども、この地が彼ら渡来人の終の棲家となった理由は?調べてみた。で、全くの推測、いつものとおり、自分として「筋が通ればいいか」ってスタンスでの我流解釈をしてみたい。

渡来人はどうして、この高麗の郷に来たの、か?
地理的解釈
まずは地理的解釈。この高麗神社のある一帯、現在の大都市東京に住んでいる我々から見れば関東のはずれ、のんびりとした田園地帯。が当時としては上野の国府(前橋市)から武蔵の国府(府中)に通じる幹線道路沿いの地域である。当時武蔵の国は東山道の中の一国。東山道とは近江国・美濃国 ・飛騨国 ・信濃国 ・武蔵国 ・上野国 ・下野国の7国。つまりは、上野の国府からは、東山道武蔵路を利用し、ここ高麗郡・入間郡をへて武蔵の国府に入ったわけで、昔は、メーンストリート。地理的に「はずれ」であったわけでなない。納得。
技術論(?)的解釈
次に、技術論(?)的解釈。渡来人のもつ技術力ゆえのこの地への移動。つまりは,西暦708年秩父(秩父鉄道黒谷駅の近く)で発見された和銅(にぎあかがね)という自然銅との関連。和銅の発見は画期的事件であり、朝廷はそれを祝って年号を慶雲から和銅に改元したほど。和銅の開発に関係する渡来人を監督するためかもしれない。また和銅を武蔵の国府に運搬する流通センターの機能を果たすためにこの地に集められたのかもしれない。高麗=駒、からも連想できるように、運搬手段としての馬の扱いは、ツングース系、騎馬民族の血を引く高麗人の得意とする「技術」であろう。ともあれ、秩父産出の銅にまつわる高麗人の「巧みさ」ゆえの移住。
政治的解釈
最後に政治的解釈。移転当時、この地は未開の大地。埼玉といえば埼玉古墳群がある行田市あたりが当時の「都会」だったのだろうか。こういった先住有力豪族が支配する「都会」を避けて、未開の地に移した理由は、地方での有力豪族に対する政治的施策か?つまりは先住の地方豪族に対する中央政府の橋頭堡つくり。先住の豪族の影響力がないところに、最新技術集団を落下傘降下。有無を言わさず開拓の実績をあげて中央集権化を進める中央政府の尖兵として力を見せつける、ってことか。渡来人は、高麗川筋を中心に開拓をすすめ、やがて、入間川(いるまがわ)、越辺川(おっぺがわ)、都幾川(ときがわ)と開拓をすすめていったわけであるが、巾着田における 水田開発なども押しも押されもしない実績のひとつとであろう。結局どの解釈を最終自分案として採用するかだが、3案足して3で割るといったところで自分としては結構納得。

武蔵のいたるところに渡来人の足跡がある
なぜ高麗の地に?ということを調べる過程で気づいたことがある。はじめ、高麗の地への移転はなんとなく「特別」な出来事、といった印象を持っていた。平家の落人的イメージというか、渡来人への態のいい「押し込め」といった、一種の「隠れ里」的印象をもっていた。事実はまったく違ったようだ。渡来人の移転、活躍は当時至極あたりまえのこと。武蔵のいたるところに渡来人の足跡がある。地名しかり、神社しかり。新座は西暦758年、帰化した新羅僧32人,尼2人、男19人、女21人の74人を武蔵国に移し設置した新羅郡が名前の由来。「志木」とは「志楽木=新羅」から。渡来人を核として高麗郡と新羅郡をつくったわけだから、これは当然といえば当然。その他東京都狛江市は「コマエ」と呼ぶが語源は高麗(こま)、三鷹市牟礼のムレとは朝鮮語で「聖なる高い場所」、といったように渡来人にまつわる地名は数限りない。
神社も同様。高麗神社とか駒形神社とか白髪神社といった渡来人系の神社の数は東京・埼玉で130箇所以上とも。高麗への移住はなにも特殊・特別なことではない。7世紀後半から朝鮮半島からの渡来人が続々と関東地方に現れている。文献上だけでも「西暦666年(天智5年)に百済人2千余人が東国移住」「西暦684年(天武13年)に百済人僧尼以下23人が武蔵國へ」「西暦687年(持統元年)には高麗人56人が常陸、新羅人14人が下野、さらに高麗の僧侶を含む22人が武蔵へ移住」。そして西暦716年(霊亀2年)の高麗郡が設置であり、西暦758年(天平勝字2年)の新羅郡設置である。天武・持統朝では渡来人を次々と東国各地に移住させていた。渡来人には田地や食料が与えられまた終身にわたり課役が免除されていた。当時の大和の中央政権にとって東国の支配と北武蔵の開発をすすめるためには、高い知識と技術をもった渡来人の力が必要不可欠なものであったのだろう。

飛鳥・奈良時代の日本列島には、何波にもわたって朝鮮半島から大量の渡来人がやってきた
武蔵の地に限らずマクロに日本を俯瞰しても、飛鳥・奈良時代の日本列島には、何波にもわたって朝鮮半島――伽耶や百済・高句麗から大量の渡来人がやってきた。5・6世紀には秦・漢・文氏・今来漢人等。7世紀から8世紀にかけては西暦660年の百済滅亡、西暦668年高句麗の滅亡にともない亡命してきた、百済王家・高麗王家らの亡命渡来人。4世紀以降8世紀の奈良時代まで,高句麗・百済・新羅などからの人々の移住が何波にもわたり繰り返されたわけである。
ここまでメモしてきて、「渡来人」ということを特殊なこととして考えること自体なんだかなあ、という気がしてきた。飛鳥文化発祥の地だった高市郡の人口の8、9割が、百済系渡来人の後裔だったというし、天智天皇は百済系、天武天皇は新羅系、こういった天孫系・征服王朝系も大陸との関わりがあるわけだし、出雲族といった征服王朝以前の有力豪族であってもその祭る神は大陸と深いつながりがあるというし、そもそも日本の神々などほとんどが大陸とのかかわりが強いわけで、渡来人が云々といった議論など意味がない、ということか。

とはいいながら、最後にこんな疑問がでてきた。渡来人の活躍が当たり前のことであったとして、ではなぜ高麗の地が、そして高麗王若光王が今にいたるまで「高麗の」といった形容詞で語られるのであろうか。調べてみた。結論は「高麗王若光が高徳の人」であったから。
神奈川県大磯に、高来神社がある。高麗王若光が祭られている。高句麗の使節としてとも、一族を引き連れての亡命とも言われるが、ともあれ、朝廷の指示で大磯に上陸、各地に散在して、この地方の人たちに、鍛冶、建築、工芸など各種の技術を伝えた。その徳ゆえに、高麗郡の郡長に任ぜられこの地を去って後も大磯の国人等は、長く王の徳を慕い、高来(たか神社をつくり高麗王の霊を祀った。ちなみに白髪神社も高麗王若光が祭られる。「高麗王はその髭髪白かりき、ゆえに 高麗明神を一に白髭明神とたたえ奉る」と言い伝えられている

土曜日, 8月 20, 2005

尾瀬散歩 Ⅲ:尾瀬について


今でこそ、の尾瀬の自然の有り難味であるが、それっていつの頃からその有り難味が評価されるようになったのか、ちょっと調べてみた。

尾瀬が環境的「歴史」に登場するのは、明治23年。平野長蔵さんが尾瀬沼のほとりに長蔵小屋をたててから。その頃尾瀬の水資源を利用するため尾瀬ヶ原を水没させる計画が出される。長蔵氏は反対を唱えたがなかなか賛同者が得られなかった。ということはこの時期は「世間」からその有り難味を認められていない。

昭和9年尾瀬は日光国立公園の一部に指定された。ということはこの時期に「国」から評価された。しかし、昭和19年尾瀬沼からの取水工事が開始された。平野長英氏は学者たちと反対運動を繰り広げたが,昭和24年工事が終了。沼尻に堰堤が三平下には取水門ができ,樹木や湿原の一部が枯れてしまった。ということは、この時期も「本当に」有り難味は評価されていない。

さらに,昭和30年代後半尾瀬に自動車道を通す工事が強行され,沼山峠・鳩待峠への自動車道が完成。大清水と三平峠を結ぶ自動車道は、平野長靖氏の建設反対への奔走、また、昭和46年環境庁の発足、なおまた、初代長官大石武一氏(かっこよかった政治家だったなあ)の存在もあり、その建設は阻止された。この時期に正式に「本当に」ありがたいものとして評価定着したということであろう。

こういう展開になるとは想像していなかったのだが、三平下で国道401号線が突然切れていた理由がこれでわかった。ここに道路が建設される計画だったのだ。 前述のごとく、戸倉から大清水を経て、沼山峠へ抜ける山道は、古くから上州と会津とを結ぶ交易の道であり、出稼ぎ人々が行き交う道でもあったわけだが、ほぼ、そのルートに沿って、経済成長から置き去りにされた山村の産業振興と観光を目的に、自動車道を建設しようと計画されていたのである。国立公園となろうがどうしようが、この時期までは自然の有り難味より、生活の重みを減らすことのほうが重要であったのだろう。親子3代にわたって尾瀬の有り難味を訴え続けた、その思いの強さもやっとわかった。国立公園に眠ることのその意味合いもやっとわかった。

尾瀬の名前の由来だが、これも例によっていくつもある。尾瀬大納言藤原頼国からきたという説。これは平清盛との恋の鞘当に破れ京を逃れた、とか平家追討の戦に破れたとか、宮廷内の抗争に敗れたとか、以仁王のお供で逃れてきたとか、また大納言の名前も尾瀬大納言尾瀬三郎房利、といったりで、あれこれあってわけがわからないが、ともあれ、この尾瀬の大納言がこの地に住んだことから来たとする説。とはいうものの、「おぜ」という名が歴史上登場したのは江戸時代からで、それも「小瀬沼」であり、それ以前は単に国境を表す「さかい沼」、ふるくは「長沼」「鷺沼」とも呼ばれていたわけで、いまひとつ納得できず。また、安倍貞任の子どもだったり、尾瀬の大納言の部下だったりとこれもあれこれあるが、つまりは悪いやから=悪勢がこの地を襲ったからといった「悪勢説」。これも出来すぎといった感があるので不採用。

尾瀬、って「浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原」の意味
で、結局は地勢的特長から来る「生瀬」(おうせ)からきたという説。つまりは、浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったという説で自分としては納得。
今回の尾瀬歩きで土地勘ができた。次回は大清水・三平平ルートとは異なるもうひとつの群馬側からのルート。鳩待ち峠ルートで尾瀬ヶ原に行ってみよう。そして三条の滝方面へ降りてみよう。今年の秋までには。

金曜日, 8月 19, 2005

尾瀬散歩 Ⅱ;尾瀬沼を歩く

2日目。本日の予定は尾瀬。大江湿原と尾瀬沼に。352号線を内川まで。ここで401号線と合流。352号線と401号線が共存する道を南下し檜枝岐に向かう。



檜枝岐
檜枝岐歌舞伎でよく聞くこの村、尾瀬への福島側から玄関口。江戸時代からの伝統を誇る歌舞伎、しかも、村人、といっても先回のメモのあるように、平家であり、藤原であり、橘である、といった貴種の末裔の誇り高い人たちだろうと思うが、その村人が自ら江戸からもちこんだ手作りの歌舞伎で有名である。であるからして、結構鄙びた村かと想像していた。が、村の造作は少々情緒に欠ける。ガイドの星さんの言によれば、この村、福島で個人所得の最も高いところである、と。観光・民宿で潤っておる。また、ダムの補償もあるとのこと。

沼山峠駐車場
ともあれ、檜枝岐を越え、御池に向かう。途中七入に大きな駐車場。水芭蕉の咲くハイシーズンには、マイカーはここで乗り入れ規制。シャトルバスで沼山峠に向かうことになる。今、8月のお盆はハイシーズンを越えており、御池まで乗り入れできる。ここの駐車場でシャトルバスに乗り換え20分くらいで沼山峠駐車場に。
バスを降り森を歩く。森の中のえも言われぬ「森の香り・フィトンチッド」、この香りは何ものにも変え難い。実は、森の香りで感動した体験がある。何ヶ月か前、狭山丘陵の森を歩いていたとき、本当に心身とも癒される、少々叙情感に乏しい私でも本心感動した森の香りに出会ったことがある。ここの森の香りはそれほど「しびれる」香りではなかった。が、身体一杯に香りを吸い込む。木道として整備されたゆるやかな登り道を15分程度登り、沼山峠の展望台・休憩所に。標高1781メートル。燧ヶ岳(標高2,356メートル。東北地方の最高峰。ひうちがたけ)や日光連山、尾瀬沼が見えてきた。

大江湿原
展望台から下ること20分程度、大江湿原に下りる。湿原の道をゆるやかに歩く。ニッコウキスゲ、水芭蕉、ツリガネニンジン、コハギボウシなど私にとっては宝のもちぐされといった感無きにしも非ず。が、湿原の中をただ歩く、というだけで、それだけで十分である。本当に素敵であります。草花で唯一アテンションが懸かった、というか、これ か!といった按配でガイドの星さんの説明に聞き入ったのは、トリカブト。先日の石神井川散歩の折、推理小説家内田康夫さんの隠れファンであることをメモしたが、彼の小説にはトリカブトがよく出てくる。が、どんなものか実物をみたことがなかった。いや、まさに兜をかぶっている。しかも、西洋風の兜を。トリカブト殺人事件というくらいであるので、毒草ではある。ともあれ実物を見て結構満足。

尾瀬沼東端


湿原のなかをゆっくり歩き沼山峠の休憩所から3.3キロ、ほぼ1時間弱。尾瀬沼東端に着いた。休憩所・尾瀬沼ビジターセンターがある。長蔵小屋がある。この山小屋は、尾瀬の自然を林道開発の「乱暴」から守った平野さんの経営する小屋。ちなみに大江湿原から尾瀬沼に歩く途中に平野家3代のお墓のある小さな「丘」があった。国立公園の中に個人・私人のお墓がある。平野さんの功績は国レベルのことであったということだろう。ちなみに平野さんは檜枝岐の出身。

尾瀬沼
尾瀬沼 は標高1,665m。燧ヶ岳の噴火によりせき止められてできた沼。これまたお恥ずかしい話であるが、尾瀬に尾瀬沼と尾瀬ヶ原があるってことも知らなかった。尾瀬は所詮尾瀬であり、そこが端から端まで、尾瀬沼から尾瀬ヶ原まで何キロもあるような広大な地域であることなど想像もしていなかった。沼を半周、というか四分の一周し三平下の休憩所まで歩く。途中、燧ケ岳のすばらしい眺めが。燧=ひうち=火打ち、といかにも火山のイメージが強い名前の由来もあれば、雪渓が「火ばさみ」に見えるから、といった説など燧ケ岳の由来はこれも例によっていくつか。ちなみに私の田舎愛媛県の瀬戸内に広がる海のことを燧灘と呼ぶ。この燧の由来も「日映ち=夕日に映えていかにも美しい海」だから、とか、星にまつわる伝説とかこれも、いくつかの説がある。

星伝説というのは、愛媛県伊予三島市のとある神社で大山祇(おおやまづみ)の神を迎えるに際し、海が荒れた。荒ぶる海を鎮めるべくお祈り。山に赤い星のような火が現れて海を照らす。と、海の荒れがおさまった。以来その山は赤星山、海を日映灘(燧灘)と呼ぶようになったとか。燧ケ岳の名前の由来も、星さん、星の里、といった展開で新たな由来の解釈もあるかもしれない、か?

三平下
三平下で休憩。ここの休憩所に立体地形図、立体地形模型図といったほうが正確だが、東京電力がつくった立体モデルがあった。尾瀬沼と尾瀬ヶ原を取り巻く地形を、標高差を実感しながら「鳥瞰」できる。尾瀬沼から尾瀬ヶ原にゆったりと傾斜し、尾瀬沼・尾瀬ヶ原からの流れが只見川となって三条ガ滝へと落ち込んでゆく。いやはや、百聞は一見にしかず、であるよなあ。

尾瀬へのアプローチはいくつかある。そのひとつが、群馬からこの三平下に出るコース。群馬県の大清水から一之瀬(登り60分)、三平峠を越えて三平下(登り150分)に至る、これは結構のぼりがきついとのこと。

沼田街道

このルート、地図を見てはじめて分かったのだが、国道401号線の一部?国道が「尾瀬を横切っている」?会津から桧枝岐・御池まで続きていた401号線が突然「切れ」、群馬の大清水あたりから突然「現れる」?調べてみると、この国道、昔は沼田街道と呼ばれ、会津若松から群馬県の沼田市、昔風にいえば、会津と上州を結ぶ交易路。徳川時代に沼田城主真田氏の命で道が整備され、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などが、尾瀬沼のほとりの三平下のあたりで盛んに交易されていた。
また幕末の戊辰戦争(1868年)の際に会津軍は、沼田街道を通って官軍が侵攻してくることに備え、大江湿原に防塁を築いたとのこと。会津軍は尾瀬を越え、戸倉で交戦したためこの地で戦いは行われなかったが、まかりまちがえば尾瀬に戊辰戦争戦跡地の碑が立ったかもしれない。ともあれ、尾瀬も今では観光地、癒しの地であろうが、ちょっと昔までは生活道路であったわけだ。尾瀬の評価が定まったのはいつの頃からなのだろう。 いつの頃から皆が「有難く」思うようになったのであろう。後日調べてみたい。

三平下で休憩後、今来た道を逆に戻り、大江湿原・沼山峠を越え、沼山峠駐車場に。あとはホテルに戻り、本日の予定は終了。片道一時間半強といった尾瀬の散歩ではあった。
昨日の駒止湿原のところでメモしたが、一般的に言えば、湖沼というものは、湖から沼で、沼から湿原へ、湿原から草原へと変わってゆく。今回歩いたこのルート大江湿原、尾瀬沼ではこの沼と湿原が同時にみることができた。10万年前、燧ケ岳の噴火でせき止められた川(大江川であり沼尻川)は湖となり沼となって窪地に満々と水をたたえる。湖は悠久の時間の中で周りから土砂が流入したり、植物が進入したり、川の解析作用が進み、徐々に浅くなってゆく。浅くなった湖に はヨシとかスゲとかミズゴケといった水生植物が堆積し泥炭化し湿原がつくられる。それは7000年前かはじまった。そして、悠久の時間の流れの中で、尾瀬沼は湿原となり、大江湿原は草原となっていくのであろう。

水曜日, 8月 17, 2005

尾瀬散歩 Ⅰ;駒止湿原を歩く

夏が来れば思い出していた、尾瀬に行く事にした。行きたいのだけれども二の足を踏んでいたのは、どこからどのルートで行けばいいのか?どのルートが大変で、どのルートが簡単なのか?日帰りができるのか?車の規制とかなんとか大変そう。と、よく調べれば分かりそうなことを理由に躊躇していた。が、いかなることか、家族で行ってみようと誰かが声を上げた。私ではない。で、言い出しっぺがいろいろ段取りを組み、会津高原にホテルを探し、かつまた、ホテルが主催するガイド付きの尾瀬散策ツアー・初心者向きを予約した。我々年代はあの「夏の思い出」の歌に、そこはかとない郷愁を感じるわけで、「水芭蕉の花が咲いている」尾瀬を思い起こすわけで、しかしながら、こどもたちは「夏の思い出」といえば、ケツメイシでしょう、といった、家族内での思いの濃淡を残しながら、ともあれ家族で尾瀬への道行きと相成った。

より大きな地図で 尾瀬散歩 を表示

会津高原下車

東武浅草駅から特急SPACIAにのり、下今市まで。下今市から新藤原までは東武本線鬼怒川線。隣のホームで待っていた。新藤原から会津高原へは野岩鉄道。乗り入れをしているので、これも隣のホームで待っていた。
会津高原下車。ガイドさんに迎えられる。星さん。この地方には多い名前であると。少々先走った話となるが、尾瀬への登山口、田舎歌舞伎で結構有名な檜枝岐村、星さん、平野さん、橘さんが非常に多いとのこと。平野は平、この村平家の落人伝説があるくらいだから当然か。星さんは藤原家の一族が棲みついた星の里から、橘は楠正成の流れをくむ武将橘氏から。平家の落人、源氏の落人、都落ちした公卿、戦に破れた戦国武将などなどが隠れ棲んだといった伝説に満ち満ちた この地ならばこそのありがたい、名前が満ち満ちている。それにしても日本の公卿になり得る四大姓、源、平、藤原、橘のうち3つをもっているとは。ガイドの星さんが、檜枝岐村は嫁、婿以外の移住は認めないと聞いたとき、えらい閉鎖的な村であるなあ、などと感じたが、貴種存続の歴史的使命を果たしているのかと納得。

会津西街道

ともあれ、世が世であればの、星さんの車で駒止湿原に。のんきなことに、駒止湿原が尾瀬とはまったくの別物、場所も会津高原を隔てて北・南であることがはじめてわかった。国道121号線を会津田島方面に北上。国道121号線は会津西街道、とも南山通りとも、下野街道とも呼ばれる。会津藩が参勤交代で江戸へ向かうために整備された往時の産業・文化のメーンルート。戊辰戦争のときに、官軍が会津に攻め入った道でもある。山川浩(大蔵)、佐川官兵衛といった魅力的な会津の知将・猛将もこの街道を転戦したのだろうか。調べてみよう。

駒込湿原
会津田島の手前で289号線に合流。左折し静川あたりで右に折れ旧道に。駒込峠のあたりに駒込湿原があった。標高は1000から1100メートル。会津高原が730メートルだから結構登ってきた。湿原は大谷地、白樺谷地、水無谷地の3つの湿原群から成る。植物にはとんと興味もなく、ただ歩きたいだけの私にはもったいない、猫に小判の世界。ともあれ、1時間ほど、大谷地、白樺谷地の途中まで歩く。ブナ、とダケカンバの違い、食虫植物の毛氈ゴケはなんとか覚え た。季節外れで姿・形のない水芭蕉、ニッコウキスゲの花を「想像」しながら、駒止湿地を後に。

帰りは駒止峠方面に。峠のある1100メートルから国道289号線のある地点、標高730メートルまでつづら折れの道を一気に下る。車窓から奥会津の山々が美しい。火山活動によると思える、なんともいえない山の相・姿がある。南会津の地形は過去、地質時代に起きた大規模火砕流噴火の遺物であり、火砕流大地と陥没地形が箇所に沢山残っていると言われる。いかにも「不自然」な山の相・姿が魅力的である。

駒止峠の由来は坂があまりにも急で馬を止めて休ませなければならなかった、とか、高倉宮以仁王の馬の歩みを止めた難路とか。以仁王 (もちひとおう)って平氏追討の命令を出した後白河天皇の皇子。1180年,源頼政の勧めにしたがって平氏追討の令旨(りょうじ・命令文書)を諸国の源氏に下し,挙兵をうながしたが事前に発覚。以仁王を支持する奈良の興福寺に向かう途中,宇治(京都府)の平等院で平知盛(とももり)・重衡(しげひら)らの追撃を受けて源頼政とともに戦死した、はず。実は、落ち延びてこの地にって、よくある伝説。

しかし、この地方には以仁王伝説が多い、いたるところにある。檜枝岐にもある。山を越えた群馬の片品にもあるらしい。植物の名前にまで以仁王に由来のものがある。アカミノアブラチャン。全国の山野にふつうに見られるクスノキ科クロモジ属の落葉低木であるアブラチャンの変種。赤い実をつけるというこの変種では、全国でも、只見町大字長浜地内だけに自生しているもの。伝説では、高倉宮以仁王と平家方の大戦闘がこの地で行われ、以仁王の郎党が平家の武将の首をはねた折、この辺一帯に野生していた黄緑のアブラチャンの実へ血潮が飛び紅く染めた。その後、この地に育つアブラチャンの実が紅くなったと言われている。 

サラサドウダンという県天然記念物のツツジ科ドウダンツツジ属の大木は、伝説では、高倉宮以仁王が越後小国に逃れるとき尾瀬より持ってきたもの、と伝えられている。平家の落人だけでなく源氏の貴種の落人も包み込んだ隠れ里であったのだろう。289号線を進み、401号線・沼田街道と合流。南下。内川で352号線に左折。舘岩村の会津高原のホテルに入り、本日の予定終了。

駒止湿原がどのようにしてできたのか、地質の専門でもないので、いかにも自分が納得できるようまとめるとすれば、火山活動で川が堰どめられる。溶岩台地といったところであるので水はけが悪い。湖ができる。沼になる。湿原になるってプロセスを悠久の時間の中でへてきたのであろう。で湖沼ファイナルステージは草原。駒止湿原も悠久の時間を経て日光の戦場ヶ原のような草原になるのだろう。明日は尾瀬である。

金曜日, 8月 12, 2005

神田から新宿散歩:


神田から新宿散歩:神田で友人と夜会食することも多い。勿論歩く。新宿まで。ルートはいくつか。神田神保町あたりから九段下、九段坂を田安門に向かって登る。ここまではほぼ定番。田安門がランドマーク。ここからはふたつのルートに分かれる。ひとつはそのまま坂を登り靖国神社から四谷へと。もうひとつは日本武道館方面に折れ、千鳥ケ淵から四谷に向かうルート。どちらのルートも四谷が次のランドマーク。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

九段坂の由来は坂の段差が石垣九層にもなったから
九段坂の由来は坂の段差が石垣九層にもなったから。田安門は徳川御三家の田安家があったから、と思っていた。が、調べてみると、このあたりは田安台と呼ばれていて、そこにあった門であるので田安門。田安門の近くに一家を構えたので田安家、と後先逆でありました。

直進するルートは、九段坂上を越え靖国神社の交差点を右折。靖国神社を通り抜け、白百合学園に沿って歩く。靖国神社境内に沿って左折、富士見坂をゆっくりと下り、法政大学のある新見付交差点に。外堀公園、というか濠端の土手の遊歩道を市谷駅前に。駅前で左折。新坂を五番町に向かって少し登り、すぐ右折。JRに沿って続く土手上の遊歩道を四谷双葉学園前から四ッ谷駅へ。後は新宿通りを四谷三丁目、四谷四丁目と。ここが大木戸門のあったところ。外苑西通りを少し南に下りれば玉川上水のゴール・四谷大木戸がある。四谷四丁目からは新宿通りを直進し駅に行くか、新宿御苑に沿って歩き新宿駅に。

市谷の地名の由来は山の手台地の一番目の谷
市ヶ谷駅からは四谷に向かわず外濠を越え、靖国通りを新宿まで歩くこともたまにある。市ヶ谷駅前を右折。外濠の坂を市谷見付に下りる。後は靖国通りを市谷八幡、防衛庁前,合羽坂下、曙橋、富久町、新宿五丁目と進み新宿駅に。
市谷の地名の由来は山の手台地の一番目の谷、「一の谷」ということがら。合羽坂は、坂の近くの池に獺(かわうそ)がよく現れた。かわうそ=かっぱ、となったとか。
もっとも地名の由来って、いくつもあり、どれがほんとかわかりはしない。自分が納得したものを好みで選ぶ。

日本武道館方面に折れるルートは、田安門を左折。日本武道館の脇を北の丸公園へと。科学技術館から北の丸出口と進み東京国立近代美術館工芸館へ。元近衛師団の司令部跡だ。近衛師団とは平たく言えば、天皇の親衛隊って存在。確か、西郷隆盛も近衛都督、というから近衛師団長であったかと思う。

千鳥ヶ淵。「淵」とは、上流からの川の流れをせき止めたもの
で、千鳥ヶ淵に沿って、歩道というか踏み分け道を進み、内堀通りとの交差、千鳥ケ淵交差点に。ちなみに、「淵」とは、上流からの川の流れをせき止めたもの。逆に、「池」は海からの塩水の遡上をせき止めたもの。同じ「水溜り」でも昔は厳密に使い分けていたようだ。で、千鳥ヶ淵、現在の皇居坂下門あたりからの小さな流れをせき止めた、江戸幕府最初の飲料水用のダム。家康家臣団の江戸入府に際し、水の確保が至上命題。なにせ、江戸城の前に広がるには日比谷の入り江。そして一面の湿地帯。塩辛い水など飲めるわけもなく、神田上水、玉川上水なども影も形もないわけで、自然の流れをせき止めた次第。北の丸公園の逆側の牛ケ淵も同じくもともとは飲料水のためのダム。それにしても、この北の丸を囲む千鳥ヶ淵、牛ケ淵一帯の地形。いかにも自然のまま。自然の流れをうまく利用し、最初は飲料用、そのあと、お濠として組み上げていったのだろう。

千鳥ケ淵の交差点を越え、英国大使館脇を直進。半蔵門通りと交差を越え、日本テレビ通りに。左折し善国寺坂をのぼり新宿通り。麹町四丁目から麹町六丁目、四谷駅から新宿へ。

四谷の由来は文字通り、四つの谷があったところから、とか梅屋・木屋・茶屋・布屋と呼ばれる四つの茶屋があったから、とかいろいろ。四つの谷があったから、で納得。それより麹町。麹を商う店が多くあったとからとも言われる。が、この地、往古より、府中にある国府(こくふ)に続く国府街道の出入口、すなわち国府路(こうじ)、と言うほうがなんとなくすっきり。この地の戦略的ポジションが明確になる。実際、この麹町、番町あたりには戦闘集団、大番組(番町の由来)を配置し、西からの脅威に備えていた。江戸城の前は日比谷の入り江で敵の脅威も少ないが、この地帯は台地の尾根道。お城を攻撃できる唯一のルートであるから、最強の部隊を配置した、ってことだろう。

休みに神田の古本街を歩く。こんなときの散歩ルートは時間をきにしなくてもいい別ルート。竹橋に回り、平川橋を渡り、平川門から皇居東御苑に入り江戸城跡を楽しむ。天守閣跡、松の廊下跡、富士見櫓などを辿り大手門から内堀通りに出る。後は、祝田橋から霞ヶ関の官庁街を歩き、虎ノ門から渋谷へ、というのがオーソドックスな散歩ルート。

地形図を見るにつけ、江戸城って、岬の突端といったところにつくったような感有り。等高線ごとに色分けした地図を見ながら、江戸のお城の前に広がっていた一面の海を想像した。

木曜日, 8月 11, 2005


銀座から渋谷散歩:銀座とか日本橋で夕刻、会食の機会も多い。最近、日本橋にほとんど日参したこともある。当然のことではあるが、会食後は歩く。渋谷まで。
ルートはいろいろ。ただ、昨日メモの三田から渋谷と同じく、いくつか分岐点、ランドマークもあるようだ。で、最初のランドマークは帝国ホテル。日本橋から丸の内のオフィス街経由であろうが、銀座から数寄屋橋経由であろうが、ともあれ帝国ホテルを目指す。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


次のランドマーク、分岐点は虎ノ門の交差点。日比谷公園に沿って歩いたり、西新橋から外堀通りに沿って進んだりと、そのときの気分次第。

虎ノ門からはルートはふたつに分岐する。ひとつは、虎ノ門から赤坂見付に向かうルート。もうひとつは、神谷町方面から六本木に向かうルート。

赤坂見付へのルートは、溜池交差点、山王下交差点を経て赤坂見付へ。外堀通りを歩くこともあるし、通りから一筋、ふた筋入った、みすじ通り、一ツ木通りを進むこともある。赤坂見付からは青山通りを青山1丁目、外苑前、表参道と進み渋谷へと進む。が、最近は山王下から左に折れ、赤坂小前を経て、乃木神社。乃木神社で外苑東通を右折して青山1丁目に。その後は一路渋谷へと向かう。青山一丁目もランドマーク。

溜池は浅野幸長が造成した人造の池
溜池は浅野幸長が造成した人造の池がこの地にあったから。山王は山王さんと呼ばれる日枝神社から。日枝=比叡=天台宗、と天台宗と関係深い。伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開山したとき、日枝の神を天台宗の守護神としたと。全国に多くの日枝神社は天台宗の拡大につれて広まったいったとか。神仏習合・密教なればこその業か。山王は唐の天台山の神として祀られていた,山王元弼真君に由来する。乃木神社は明治の軍人乃木希典将軍を祀る神社。

神谷町から六本木に向かうルートは虎ノ門交差点を右折し桜田通りを神谷町へ。神谷町を右折しホテルオオクラへの坂を登る。坂を登りきった後は、アメリカ大使館脇の霊南坂から続く道を左折。道なりに歩き、飯倉片町の手前の交差点を渡り、六本木交差点に。時には、虎ノ門交差点よりす。こし新橋寄り、西新橋一丁目を左折し、愛宕神社前まで。神社前交差点を右折、トンネルを抜け桜田通りにあたり、神谷町に出ることもある。神谷町もランドマークのひとつ。

神谷町って、三州神谷村から
神谷町って、ありがたい名前だけど、と調べてみた。神様に関係なく、この地に多く住んでいた中間(中間:武家の下僕)の生まれ故郷三州神谷村からの名前だと。それにしても、神谷町って言うけど、神谷町って町は無い?中間(ちゅうげん)とは江戸時代、武家に使われた下僕。平たく言えば、「てんてん、てんまり、てんてまり」の歌に出てくる「紀州の殿様...髯奴(ひげやっこ)」のこと。ちなみに、家っ子(奴)=奴=冷奴(ひややっこ)、もともとは家の子、ってある特定の武家の下僕だった。が、参勤交代といった時の臨時要員が必要になった。で、どこの家中でも働けるように、このフリーター達にお揃いの紋をつけることにした。そして、豆腐を切った形がその紋に似ていたので冷奴と。霊南坂はこの地に住んだ、嶺南和尚に由来。嶺南=霊南と。

三田から歩くときは、六本木からは青山一丁目方面と、西麻布方面と二つにわかれるが、日本橋・銀座ルートの場合は青山一丁目に向かうことはまず無い。ほとんど、西麻布から骨董り、表参道、そして渋谷へと歩く。

このコースも面白い地形。ホテルオオクラと首都高速都心環状線との間との段差など結構面白い。また、泉ガーデンタワーなど、丘側から入ると高速側の出口にはエスカレータを相当降りなければならない。それにしてもこの泉ガーデンって、一体!夜、はじめてこのビルを見たときは結構しびれた。異次元の世界に、は少々大袈裟か。
飯倉片町を越え、首都高速環状線と外苑東通り、六本木通り(首都高速渋谷線)に囲まれた地帯の地形のうねりも魅力的。一度明るいときに歩いてみたい。

水曜日, 8月 10, 2005

三田・六本木・渋谷散歩:


三田・六本木・渋谷散歩:昨日の宴会帰りと同様、慶應大学の三田で仕事があった時、会議の終わりが営業時間終了といった時間帯であれば、基本的に渋谷まであるくことにしている。コースはそのときの気分でいくつかある。

三田2丁目の交差点から国道1号線を東京タワー方面に。首都高速と交差。赤羽橋まで来て、ここで大きく2コースに分かれる。

ひとつはそのまま直進し、飯倉交差点から六本木交差点を目指すルート。もうひとつは、交差点で左折。一の橋から六本木ヒルズを目指すルートである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

六本木交差点を目指すルート
六本木交差点を目指すルートは赤羽橋からそのまま、国道1号線(桜田通り)を直進。坂を上りきった飯倉交差点を左折。ロシア大使館の前から、飯倉片町の交差点を越え六本木交差点に。たまに時間に余裕のあるときは国道1号線の坂を登る途中から左折、東麻布の町並みの中に入り、麻布台から麻布狸穴町の坂を上り下り。首都高速環状線飯倉出口あたりに出てからは飯倉片町に登ったり、一の橋の交差点に下ったりする。ともあれ坂のアップダウンを楽しむだけ。

六本木は文字通り、松が6本生えていた場所とも、上杉・朽木・青木・井桐・一柳・高木と名前に木のつく諸大名の屋敷があったからとも。飯倉は伊勢神宮の領地であり、稲倉があったから。狸穴とは文字通り、狸の穴が多かったから。近くに狸坂があるくらいだから。狸を「まみ」と読むのは?「まみ」=雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類、とのこと。

六本木交差点からはそのときの気分により2つのルート。ひとつは外苑東通りを乃木坂方面から青山1丁目の青山通り交差点に。交差点で左折し、あとは一路青山通を渋谷まで。宮益坂をのんびりくだり、渋谷駅に。
もうひとつは六本木交差点から六本木通りを西麻布方面に。六本木ヒルズの前を通りゆったり坂を下り西麻布の交差点に。西麻布の交差点でもふたつに別れる。

ひとつは、あまり遅くない時間であれば、青山墓地にそって外苑東通りを進む。日本学術会議のビルのあたりで、赤坂通り・乃木坂トンネルから青山墓地に向かう道にのぼる。青山墓地中央を西に進み、青山橋で外苑西通りを越え、南青山4丁目、根津美術館から表参道交差点へ。左折し青山通りを一路渋谷へ。

もうひとつは西麻布の交差点を越え、坂をのぼり首都高速3号渋谷線高樹町ランプ方面へ。
ここからは、骨董通りを斜めに上がり、青山5丁目で青山通りにあたり、左折し渋谷まで、とするか、もう少し渋谷方面まで歩き、渋谷4丁目あたりから青山学院脇を青山通りまで上り、渋谷へと歩くか、そのまま進み青山トンネルをくぐり渋谷まで。トンネル内で排気ガスを堪能できる。

一の橋から六本木ヒルズを目指すルート
一方、赤羽橋口で六本木ヒルズを経由するルートは高速に沿って一の橋交差点に。交差点を直進し、鳥居坂下から六本木ヒルズに。ヒルズ前、六本木六丁目の地下通路を通り六本木通りを越える。六本木トンネル内の歩道を進み日本学術会議のあたりから、前述青山墓地へと進むか、六本木ヒルズ前を西麻布方面に下り、前述西麻布交差点からのいくつかのルートのどれかを選び渋谷に歩く、といったもの。
どのルートを選ぶかわ、その時の気分次第ではある。しかし。しかしである。今回メモをまとめるについて、ちょっとまじめに地図を見た。いままで歩いたルート、結構遠回りでありました。三田から渋谷まで一直線で線を引いてみた。三田から三の橋、有栖川宮記念公園、日赤医療センター、渋谷が最短コース。次回はこのルートを歩くことにする。

火曜日, 8月 09, 2005


渋谷_永福散歩;本日渋谷で夜に会食。会食はひどいときには週5日、といったときもある。そんなとき、渋谷であれば自宅の杉並の和泉まで、銀座・日本橋での会食であれば渋谷まで、御茶ノ水あたりの場合は新宿まで歩く。恒例のごとく、本日は杉並和泉までのナイトクルーズ。

渋谷から自宅までのルートはいくつかある。昔は、渋谷駅から岸記念体育館脇の坂をのぼり、代々木公園の中を歩き、富ヶ谷の交差点で山手通りをこえ、後は一路、井の頭通りを永福町まで、といったルートを歩いた。しかし、如何せん、夜の代々木公園の道、といっても表参道から続く幹線道路脇を歩くのだが、無用心、というか、私が不審者と思われる怖れなきにしもあらず、ということで最近はご無沙汰している。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

本日は、最近のお気に入り、というか世が世であれば踏み分け道、といった按配で、ブラブラ歩き自分で見つけたマイルートを歩く。通常は渋谷駅前から、東急本店方面へ進む。東急本店を右手に眺め、松涛美術館を右手にゆったりとした坂を登り、旧山手通りと山手通りが合流するあたりの交差点に出る。が、本日は少々違った。会食がマークシティであったため、マークシティの道玄坂側出口に。道玄坂の飲み屋街、ホテル街にブラブラ入り込み、谷地のような井の頭線神泉駅辺りを登ったり下ったり、道に迷いながら、結果的には山手通りに。それからいつもの新・旧山手通りの合流点の交差点に戻った。

交差点を渡り、直進し、井の頭線に沿った坂道を下る。後は小さな商店街を道なりに駒場東大前駅に。駒場東大前では以前、駅前から井の頭線に沿って登る道を歩いたのだが、結局一週して元の場所につれてこられたことがある。そんな路ってあるのか?このメモのためにチェックすると、国家公務員駒場住宅の周りを一週させられた、ってことがわかった。

井の頭線の高架をくぐり、ゆっくりと坂をのぼり駒場留学生会館手前の井の頭線踏み切り。たまにはこの踏切を渡らず東大駒場リサーチセンター、駒場公園、小田急線東北沢、大山、笹塚、甲州街道、永福・和泉といったルートもとるが、最近は踏み切りを渡り、植物園、駒場国際高校の前の坂道を登るルートが本命、登りきったあたりで右折し住宅街に入り、井の頭線脇に。このあたりが、自分なりの踏み分け道。線路脇きの結構な坂道を下り、そして登り、井の頭線池ノ上駅に。駅からは井の頭線に沿ってゆったりとした坂道を下り、折りきったところが茶沢通りの交差点。
交差点を越え、下北沢の繁華街を駅前まで。駅前のほんの目立たないところにある階段を登り、小田急線を越え、井の頭線のホームにそって歩き、井の頭線の踏み切りに。普段は、ここから踏み切りを渡り、北に歩き、北沢中学校近くの交差点で井の頭通り。それから、道なりにすすみ環七の交差点を渡る。少し北に登り、代田橋近くで玉川上水の遊歩道を斜めに駅まで。後は甲州街道を渡り少々歩いて和泉の自宅へ、という段取り。が、今日はルートを変えた。永福町に行く用事があったから。

今日は井の頭線の踏切を渡らず、そのまま線路沿いを新代田方面に。住宅街を結構な坂道を降り、そして登り新代田駅に。駅前の交差点を渡り、適当なところで左折。住宅街を環七に沿って北に。和田堀給水所にあたり、左周りに迂回。京王線を越え、松原交差点で甲州街道を渡り、井の頭通りを。和田給水所のあたりから左に折れ、玉川上水遊歩道を進み、井の頭線を渡る橋まで。ここで、玉川上水のときに説明した大きな水道管が見える。が橋を渡らず、線路沿いに急な坂道を降り、あとは線路沿いを進み、神田川を渡り、ゆったりとした坂道を登り、永福町に。渋谷から1時間ちょっとの散歩であった。

「渋谷」って、「行き止まりになる谷、奥の谷、深山幽谷の谷」
地形図でわかるように、渋谷一帯って凸凹して結構面白い地形。地下鉄(銀座線)の渋谷が駅ビルの3階。井の頭線で神泉駅のトンネルを抜け駅につくと駅ビルマークシティの2階。東急東横線も然り。代官町の地下トンネルをくぐると、町並みを見下ろしながら高架を走り駅に着く。渋谷の駅前一帯は3方面を丘で囲まれた低地、というか谷地でありましょう。そういえば、渋「谷」、って地名そのものが「谷」であるし、「渋谷」って、結局、「行き止まりになる谷、奥の谷、深山幽谷の谷」であったのだ。
宮益坂でおおきく下る淀橋台地、道玄坂をくだる目黒台地、そして代々木の森、ぐるり3方面を台地で囲まれた渋谷の地は往古一面の海。何時の頃か海の水が引いた後は、新宿御苑あたりを源流とし原宿方面から流れ込む渋谷川、渋谷区西原や代々木上原を源流点とし松濤、神泉と下る宇田川の流れがつくりだす一面の湿地帯であったそうな。
いまや暗渠となったこのふたつの川、深山幽谷の往古を想像しながら、その川筋を訪ねてみよう。河骨(こうほね)と 呼ばれるスイレン科の多年草が咲き「春の小川」の舞台にもなった宇田川の支流、河骨川の往時を想像しながら。。。


月曜日, 8月 08, 2005

妙正寺川散歩:


妙正寺川散歩:神田川水系をまとめている。これを機会に妙正寺川を歩いてみようと思った。自宅を出て井之頭線・中央線と乗り継ぎ、荻窪駅。バスに乗り、妙正寺下車。公園は緑が目印。すぐにわかると思った。が、この辺り、緑深い邸宅多い。少々途惑った。道すがら天祖神社。先日祐天寺でも出会ったな、などと思っているうちに、公園に。湧水地。当然池がある。とはいうものの、最近湧水芳しくなく、地中深くから地下水を、とも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


妙正寺
妙正寺、という以上お寺さんも参っておこう。品格のある日蓮宗のお寺。将軍家光が鷹狩りの際にお参りし、朱印地を寄進したことから、御朱印寺と呼ばれた由緒あるお寺だった。これも将軍の鷹狩云々、よく聞く話ではある。

妙正寺川
遊歩道スタート。スタート地点に、「妙正寺川は、千川上水からの水もあつめ、神田川に合流する9キロなにがしの1級河川である」との掲示。「千川上水」の分水=「井草川」、ということだろうが、井草川=暗渠となっているので。。。
ともあれ、本天沼、鷺宮、野方と蛇行する川筋を進み、環七と交差。途中時に遊歩道は切れたり、繋がったり。それにしても、地名が気になる。なんとなく「湿地帯」といったイメージ。そうそう、環七を越えた先には沼袋もあるし。池、というか沼、といった水はけの悪い窪地が多く、沼地には多くの白鷺が集う村落(野方)、といった一帯だったのだろうか。

平和の森公園
環七を越え、切れた遊歩道から川筋に戻り歩く。右手にこんもりとした丘。平和の森公園とあった。中野刑務所の跡地につくられた公園。弥生時代の古墳跡も。刑務所と平和。どういうこと?
この刑務所は思想犯が数多く収容されていたとのこと。大杉栄、荒畑寒村、亀井勝一郎、小林多喜二、中野重治、埴谷雄高、河上肇、三木清、。。。言論・思想弾圧、その収容先、その反省=平和、といったプロセスで平和公園となったのだろうか。
それはともかく、この公園のある丘、新井薬師方面へのゆったりとした下がり等々、当たり一帯なかなか微妙な地形のうねりを感じる。このあたりで水量が増える。中野刑務所跡にある中野水再生センターからの「高度処理水」だろう。

江古田の古戦場碑
西武池袋線沼袋を越え、北に大きく振れた流れは、新青梅街道に接するあたり、江古田公園で哲学堂公園の丘の下に向かって南に向かう。この公園に江古田の古戦場碑。大田道潅と豊島氏の戦いの跡。大田道潅、豊島氏、江戸氏といった家康入府以前の武将についてもそのうち、整理しておこう。ここで江古田川も合流。

哲学堂公園
哲学堂公園、残念ながら4時半過ぎで閉門、次回のお楽しみ。哲学堂公園の川沿い、哲学堂サイドも逆サイドも雨水調整池。すぐ先にも上高田調整池。10万t以上もの水を蓄えることができる巨大なもの。いくつか調整池を見てきたが、大体上はテニスコートだったように思う。

神田川と合流
哲学堂を越え、中井駅近く、目白大学下になると、少々圧倒される崖線。西武新宿線との交差。近くの踏切りのある道まで迂回し、後は、神田川の合流地点まで。最終地点では暗渠となるため、正確には西武新宿線下落合駅近く、新目白通り脇。合流点手前まで歩き予定終了。
ちなみに、先日歩いた国分寺崖線。「ハケ」の道を歩いた。ここ、目白崖線では、「バッケ」と呼ばれる、とのこと。

日曜日, 8月 07, 2005

神田川を歩く 2

神田川上水散歩メモ_2神田川?神田上水?井の頭の湧き水を江戸まで引き込んで、とはよく聞くのだが、「川」が昔からあったのであれば、玉川「上水」といった力技の工事などしなくてよいだろうに?川があったのか、無かったのか、気になった。

往古は平川
川はあった、というか、昨日のメモにあるように、「井の頭の池から流れだした水は、善福寺川、妙法寺川の流れを集め、武蔵野台地の端の低地を縫うように、時には飯田橋や水道橋のあたりに白鳥池とか小石川大沼といった湿地、芦が一面に生える沼地を形成しながら海へとながれていた」わけで、自然の流れはあった。この流れ、往古は平川と呼ばれ、江戸時代になり神田川となる。が、その自然の流れに少々人の手を加えたときに出世魚っぽい名前がつく。つまりは、江戸市中に水を引き込むべく開削工事を行った区間、井の頭から関口の大洗堰までが「神田上水」、関口から飯田橋あたりの江戸城外堀あたりまでが「江戸川」、それより下流が「神田川」と。さらに、この水系は現在、昭和40年の河川法により、一気通巻で「神田川」と。神田川が機能別に名前を変えたことが「川」「上水」の混乱のもとでありました。

神田上水を中野弥生町からスタート
今回の散歩は、神田上水から江戸川ルートということになるか。で、神田上水を中野弥生町からスタート。このあたりは中野新橋あたりまで一部区間、遊歩道が切れることもある。ただ、おおむね良好。山手通りを越え、いかにも直近に整備されたような遊歩道を歩き青梅街道と交差。ここから落合中央公園・落合水再生センターまで快適な遊歩道。予想がおおきく狂った。てっきり、善福寺川の環八以西ルートのような、少々未整備の側道を想像していたのだが、きれいな路が続いていた。
妙正寺川と合流
西武新宿線「下落合駅」 付近で、妙正寺川と「合流・落ち合う」。この川も結構複雑な流路で流れてきている。地形の微妙なうねりを感じながら、次の休みにでも歩いてみようか。ちなみに、合流点というのが落合の地名の由来。

おとめ山
崖下に沿って関口まで。途中、台地から神田川への段丘崖にあるいくつかの名所に。まずは、おとめ山。JRとの交差の手前、新目白通りを渡り坂を登る。将軍の狩の休憩所であったこの地は近衛家とか相馬家を経て「電力の鬼」、あの松永安左エ門の自宅兼茶室であったことも。魅力的な人物。石田礼助、石坂泰三、中山素平、土光敏夫。。。かっこいい経営者はいたよなあ。本を読み直そう。湧水点チェックも。

新江戸川公園
ついで、新江戸川公園。細川家の屋敷跡で、池を中心にした回遊式泉水庭園で名高い。庭園日もさることながら、自然景観を重視した公園の奥の崖を上り、林というか、森というか、上り下り。いい感じであった。
関口芭蕉庵
関口芭蕉庵。松尾芭蕉が、藤堂家の下級武士として神田川堀割工事に従事。そのときこの地にすんでいたとも。何ヶ月かまえ訪れた深川万年橋畔の芭蕉庵跡よりずっといい雰囲気ではあった。しかし、道沿いの表門は閉まっており、あきらめて隣の急坂「胸突坂」に登り、降りて来たとき胸突坂に面した門が開いていたので、恐る恐る入った次第。半分以上の方があきらめているのでは。坂を隔てた隣には、神田川の水神をまつる「水神社」があった。
江戸川公園
江戸川公園。公園は椿山荘に隣接して、関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園。椿山荘は元黒田家下屋敷。明治に山県有朋がこの地に居住し椿山荘と命名。
この椿山荘と新江戸川公園。大名黒田家および細川家の屋敷跡。先日の散歩のときに買った本、『東京の空間人類学(陣内秀信;筑摩書房)』にあった大名屋敷の住空間のシナリオどおり。引用する「まず多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読み取れる。。。(p.43)」。実感。

関口・大洗堰
江戸川橋の交差点に。そもそもここに関口、大洗堰があったのはどういった理由によるのだろう。そもそも堰はなにをせき止めていたのか。調べてみた。結論からいえば、せき止めていたのは「海水」であり、ここ文京区関口あたりまで満潮時に海水が登ってきていたから。飯田橋や水道橋のあたりは、日比谷の入り江から続く芦が一面に生える沼地であり、湿地。この地図で一目瞭然。飯田橋の近く、通称「大曲」のところに「白鳥橋」って橋があったが、これはこの辺りにあった白鳥池の名残?
関口の大洗堰で上水と吐き水(余水)に。上水は小小石川から日向台下、水戸家上屋敷(現在の後楽園)内を抜け、さらには、水道橋駅近くで川を懸樋で越えてお城や江戸市中に給水される。
家康入府以来の日比谷入り江や低地の埋立地に住み、塩辛い水を飲んでいた人たちはこれで状況改善。これでも足らなくなったため、玉川上水、となるわけであるが。
ともあれ、これが上水。で、余り水・吐き水は堰を越え、飯田橋近くの江戸城外堀に流れ込む。いわば江戸城に流れ込む川であるからして、江戸川って呼んでも不思議ではない、か。大洗堰から飯田橋あたりまでを江戸川、と読んでいたわけだが、大江戸のセンターである江戸城(の堀)に流れ込んでいたわけだから、そう呼ばれたのであろうか?真偽のほど不明。

水道橋
江戸川橋から水道橋まで歩き、水道橋の上から御茶ノ水方面を眺め、改めて、切通しのすごさを感じる。あそこで掘り起こした土を日比谷の入り江に持っていき埋め立てに使ったのであろうし、そもそも、あの台地を切り崩すエネルギー、お城の近くに大洪水を起こす川筋があることへの恐怖、そのため尋常でないくらいの「曲がり方」で川筋を人工的に御茶ノ水方面へ持っていく、そのエネルギーを感じながら本日の予定終了。

土曜日, 8月 06, 2005

神田川を歩く 1


神田川上水散歩メモ_1自宅近くに神田川が流れている。桜並木のいい遊歩道。杉並区和泉から浜田山まで、ちょっと元気なときは環八との合流・高井戸まで。もっと気合をいれるときは、環八を越え、富士見が丘、久我山から井の頭公園のある吉祥寺まで散歩する。久我山駅前で一部区間、遊歩道が切れることはあるが、快適な散歩が楽しめる。
自宅から大宮神社もそれほど遠くない。神社の北は和田堀公園。神社と公園の間を流れる善福寺川沿いの遊歩道もよく散歩する。桜の季節のある日、思い立って源流、善福寺公園まで行ったこともある。善福寺川緑地など環八まではすばらしい遊歩道だ。相生橋あたりから尾崎橋にかけすばらしい桜見物ができた。しかし、環八を超えた途端、これはいけません。散歩道としてはお勧めできるようなものではありません。遊歩道として整備はされておらず、人ひとり通れる、といった狭い通路、通路もない川沿いの道路といった按配。善福寺といった音の響きからして、神田川遊歩道のような快適な歩きを想像していたのだが、少々期待はずれ。とはいえ、中央線を超え、西荻窪をとおり善福寺公園の池まで歩いた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

自宅から神田川に沿って中野方面まで歩くことも多い。神田川沿いを歩き、環七を交差。地下鉄のヤードに沿って歩き、中野弥生町あたりで合流する川がある。そのときは気にもならなかったのだが、今回メモをまとめるにあたり地図を眺め、その流れが善福寺川であることがわかった。善福寺川も神田川水系の一支流。そのほか、未だ散歩したことはないにだが、妙正寺川という支流もあることもわかった。

神田川
しかしながら、そもそも、あの有名な神田川と、今「ここ」、杉並を流れている、自宅間近い、遊歩道下の神田川とが同じモノであるという実感はわかなかった。自宅前の、「この神田川」と、飯田橋あたりの「あの神田川」、御茶ノ水駅から見える、「あの神田川」が同じものである、といった実感がわかなかった。
地図を眺めた。環七から先は、一体全体、どうながれているのだろう。いやはや驚いた。環七手前で大きく北に振れた流れは、青梅街道越え、JR中央線東中野駅東側を通り、一路高田馬場手前、西武新宿線下落合駅付近まで北進。このあたりで、妙正寺川を合わせ流れを東へ転じる。そこから目白台地(関口台地)にそって文京区関口までは西から東に流れ、関口から飯田橋に。飯田橋では、これは絶対不自然な、ほぼ直角といった曲がり方で西にふれ、御茶ノ水の谷を横切り、墨田の川に流れ込む。
これもまたそもそも、なのだけど、川が大きく北に向かうって事など想像もしていなかった。勝手な思い込みであるのだけど、北は高い、南は低いとの刷り込みがある。だから、南から北に流れるってことは想像もできなかった。なぜだ?

地形図が威力を発揮した。等高線で色分けした地図をつくった。川は色分けされた地形図の上を、小高い丘地を避けながら、武蔵野台地の端の低地を流れていた。色分け地図と同時につくったルートマップを見ても、位置が南であろうと、北であろうと、どこであろうと、ルートは標高の高いところから低いところに降りていた。当たり前のことながら、水は高い所から低い所へ、いや、低い所を捜し求めて流れていることを思い知った。自然に逆らうことなく、井の頭から流れ出た水が日比谷入り江(東京湾)、というか、「江戸=入り江の戸(泊・船着場)」に流れ込む自然な路が、この水路だったのだろう。もちろん、人工的に、力技で折り曲げた流れは別である。飯田橋での不自然な「曲がり方」はどうみても自然ではない。あの尋常でない直角の曲がり方は御茶ノ水の丘を切り開き隅田川に迂回させた河川工事の結果であろう。切り通しができる以前の川は、飯田橋から南へ流れていたのだろうとも思う。ともあれ、井の頭の池から流れだした水は、善福寺川、妙法寺川の流れを集め、武蔵野台地の端の低地を縫うように、時には飯田橋や水道橋のあたりに白鳥池とか小石川大沼といった湿地、芦が一面に生える沼地を形成しながら海へとながれていたのであろう。そうだ、神田川を歩こう。
そうだ、神田川を歩こう。杉並の和泉から井の頭公園まで、それと善福寺川は既に歩いていたので、今回はそれより下流。中野弥生町から始めて水道橋・御茶ノ水まで「下ってみよう」。

金曜日, 8月 05, 2005

玉川上水を歩く 3

玉川上水散歩_3

代田橋から新宿、新宿から代田橋
代田橋から新宿、新宿から代田橋。この道は新宿から自宅への行き帰り、結構歩いている。が、メモを残すため頭の整理をしていると、地名の由来など新しい発見もあった。
京王線代田橋駅
大原2丁目。甲州街道の南に残る細長い三角形の一帯。京王線、代田橋駅の下に、唐突に渓谷が。しかし、この水は一体?清流復活事業で生まれた玉川上水の水も、環八手前、浅間橋跡あたりで終わり、神田川に放流されているわけだし、そもそも、直前の玉川上水永泉寺緑地公園の水路には、水などなにもなかったわけで。。。調べてみた。どうも湧水を集めている、といったところ。
この渓谷も一瞬。再び暗渠に戻る。第一緑道。代田橋駅から環七までほんのちょっとの区間。環七は地下道で渡れる。散歩して、川沿いの遊歩道が大きな道と交差する地点って、交差点もなく、大回りしなければならないときも多いのだがこれは助かる。
笹塚
環七をわたり、第一緑道を笹塚に。駅の手前で開渠。駅前で暗渠。駅をこえると開渠。ちょっと歩いて暗渠。あとは新宿の終点まで暗渠となる。笹塚駅手前の上水沿いは、ちょっとした桜並木。また、自然のまま、野趣豊かな深い水路が掘られている。土地の高いところは深く掘り下げることにより、流れを確保している。逆に土地の低いところは迂回するのが定石か。笹塚駅前で大きく迂回しているのは、牛窪低地と呼ばれるこの一帯を避けて流れを確保しているのであろう。笹塚橋のあたりで三田用水に分水されていた。目黒の恵比寿ビール工場や三田方面へ供給されてたようだ。
笹塚駅前で大きく曲がった上水は、途中一部開渠となりながら、中野通りと井の頭通りが交差する大山交差点のちょっと北手前、北澤橋、といっても川などないのだが、このあたりで上水は再び大きく北に向かう。笹塚駅と幡ヶ谷駅、それとこの北澤橋をつなぐ三角形が牛窪低地ということか。
ちなみに笹塚という地名の由来。熊笹に覆われた神聖なお墓、という意味。実際この地に円墳があったとも。で、誰のお墓かということだけれども、伝説がある。笹塚はダイダラボッチ(蹈鞴法師・大太法師)という巨人の首塚ということ。ダイダラボッチは諏訪大社の手長足長明神。
そういえば、代田橋の代田という地名もこの伝説の巨人に由来する。富士山を作ったり、琵琶湖を掘ったり、また日本各地の山や湖を作ったと大活躍の巨人だが、その特徴は「片眼であり、1本足、巨人、踏鞴を操り風を起こす」ということ。古来の製鉄法、たたら製鉄、その技能集団と関係あるのだろう。古来たたら製鉄においては溶けた鉄の温度を見るために、目で見てその色で判断。その為、溶けた鉄の強力な光によって網膜が傷ついてしまい、独眼となってしまうわけだろうし、そもそも「ダイダラ=タタラ」って音もピッタシ。このあたりにはタタラ製法にたけた技能集団がすんでいたのであろうか。街道沿いの塚(土手?)に笹が生い茂っていた、という説もある。夢はないが。
幡ヶ谷
北澤橋を越え、大山町から西原へと。「旧玉川上水遊歩道」。広くゆったりした緑道が続く。この遊歩道は新宿近くまで、昔の橋桁を残している。幡ヶ谷を過ぎ初台。このあたりで遊歩道は甲州街道とほぼ隣り合わせに続き、山手通りと交差する。ちなみに幡ヶ谷は源氏の武将が白旗を洗った「旗洗い池」(今は埋め立てられている)が地名の由来。初台は大田道潅が構えた最初の砦/台であったから、とか。
新宿駅南口
山手通りを越えてからも遊歩道が続く。この地下、かつての水路の下を京王線が通っているのか。電車の通る音が遊歩道下より聞こえてくる。文化学園前、いかにも水路跡といった雰囲気の桜並木の散歩道を通り、いかにも水路であったような遊園地を抜け、車の通行道となった葵通りを進み、新宿駅南口から代々木に抜ける通りとの交差点葵橋跡に到着し、旅は終了。

実のところ、四谷大木戸跡には行っていない。四谷駅のあたりであろう、と思い込んでいた。新宿御苑の北東の角近くにある、というのが今回メモをつくっていてはじめてわかった。有終の美を飾るためにも、画龍点晴を欠く、の例えもあるわけで、今度行ってみよう。
4回に分けて玉川上水のはじまりから、ほぼ終わりの地まで、歩き終えた。どんなルートだったのか、とりあえず辿ってみよう、といっただけの動機で歩いた。40キロ近く高度差を保ったままの尾根道を歩いたわけだ。

羽村の取水口あたりの公園や、小金井公園近くの桜並木など花見の季節には、結構有難そうな場所も多くあった。桜に限らず、玉川公園駅近辺、井の頭公園あたりなど、なかなかに素敵な雑木林の中を散歩できた。分水も結構あるんだなあ、この上水って、大江戸への水の幹線ルートであると同時に、流域各共同体へのライフラインであったことを改めて実感した。歴史と共に変わる玉川上水の役割、少なくとも飲料水の導線としての役割は小平まで。それ以降の流れは、癒しのため。処理水をわざわざもってきていることなど考えもつかなかった浄水場を含めた水のネットワークに思いをはせることができた。暗渠と都市のかかわりについて調べてみようと思い始めた。

上水の完成までには結構なドラマがあったこともはじめてわかった。多摩川から大江戸への水路工事の計画。取水口/堰の決定をめぐる利害関係者の思惑。第一案の日野、第二案の福生、その計画の脆弱性を突き、取水口を羽村に変えようと図る松平伊豆守。能吏安松金右衛門によれば羽村を取入口にすれば江戸にも、そして自藩川越にも水を取り込むことができると。結局は地形上の障害のため、日野からの工事、福生からの工事は失敗。工事失敗の責任をとり、切腹する清廉・誠実なる良吏関東郡代伊奈半十郎。そして、純工事技術的観点からも最良の羽村案に決まり工事開始、通水。小説の粗筋でありますので、どこまで史実か分かりはしないものの、ドラマティックではあります。伊奈半十郎のことを調べてみよう、と改めて思った。

水曜日, 8月 03, 2005

玉川上水を歩く 2

玉川上水散歩_2

第二回;鷹の台から三鷹
鷹の台からスタート。散歩するようになり、鷹の台といった西武国分寺線などが走る地域によく来るようになった。狭山丘陵を3回に分けて歩いたときなど、3連休だったわけだけど、日参したものである。
で、三鷹に向けて。とはいうものの、実際はここから新宿・四谷大木戸までは逆方向、つまりは新宿から歩いてきたわけで、ただでさえうすれゆく記憶に抗い、思い起こした風景を逆回しにしなければならないわけで。。。
府中街道を交差、津田塾大学、一橋大学などを左に眺めながら木々の中を歩く。五日市街道に合流。西武多摩湖線と交差し喜平橋に。小金井市に入ると、緑道は上水桜通りと呼ばれており、桜の並木が遊歩道上に植えられている。桜の名所。八代将軍吉宗の頃、常陸の桜川から植木を取り寄せ、6キロに渡って植栽したとか。ハワイのワイキキの浜の砂はオーストラリアのゴールドコーストから持ってきている、とかいう話と少々かぶる。真偽のほどは定かではないが。
小金井公園を過ぎて武蔵野市に。五日市街道が北に大きく振れるところにあるのが境橋。千川上水が玉川上水から分流される地点である。少し行ったとこりに境浄水場。玉川上水が上水として機能していないとすれば、この浄水場は、どこからの水を?調べてみた。境浄水場では,多摩川から取水された水を狭山丘陵にある村山・山口貯水池にいったん貯め,これを持ってきているようだ。また、境浄水場に配水池はなく,浄水した水は和田堀給水所に送られ配水している、とのこと。で、三鷹駅に。第二回の散歩はここでおしまい。

第三回;三鷹駅から烏山まで
3回目は三鷹駅から烏山まで。玉川上水は三鷹駅で中央線の下をくぐる。駅を越すと左手に緑道が。程なく、「路傍の石」で有名な山本有三記念館が。記念館を少し行くと、井の頭公園。万助橋の辺りから牟礼橋までは上水は鬱蒼とした森、というか雑木林。美しい。
人見街道との交差を越え、烏山用水と北沢用水の取水口のある岩崎橋の辺りを越えると浅間橋跡に着く。都の進めてきた清流復活事業により、よみがえった上水はここで終わる。あとは遊歩道として新宿に。で、ここまで流れてきた水はどうなるの?ここからは暗渠となり、神田川に放流されているとのことだ。3回目はこれで終わりにした。

第四回;烏山から新宿まで
4回目、烏山から新宿まで水路跡、暗渠を巡る散歩は続く。NHKの富士見が丘グラウンド脇を通り、高速の高架沿いにある大きな神社に。第六天神社。かつてこの近くに北沢用水の分水口があったとのこと。
環八との交差。中の橋交差点に。玉川上水はここから1.5キロほどの区間、中央高速道(首都高速4号新宿線)の下を通っているようだ。遊歩道もなにもない。で、突然、高速道路と甲州街道が合流する下高井戸5丁目の交差点あたりに、上水の遊歩道が現れる。玉川上水第二公園、玉川上水第二公園、甲州街道に沿って、周囲よりもやや高くなった築堤状の公園であったり、周囲より低くなった公園であったり。上水の高低差を保ち流れを確保するために、いろいろ苦労したのであろうか。
しばし甲州街道に沿って歩く。永福町から降りてくる道との交差を過ぎると、玉川上水永泉寺緑地という公園に。日本庭園風ではあるが、水もないし、ほとんど首都高速の高架の下、永福町ランプといったものであり、情緒に欠ける。
ここでまた遊歩道は消える。次に、甲州街道沿い、京王線代田橋のところで、唐突に、しかも、すこぶる短い区間開渠となって上水が現れる。その間は、本願寺和田堀廟所、明治大学の前あたりを通り、京王井の頭線を大きな水道管(井の頭線跨線橋)となって跨ぎ、玉川上水公園となって井の頭通りまで300メートルほど続く。通りを隔てて、和泉給水所がある。上水はここから東放学園専門学校前の細長い一帯、いかにも上水の跡と思われるようなところを通り、甲州街道をくぐり、先ほどの代田橋あたりに続いているのであろう。
ちなみに本願寺和田堀廟所。関東大震災で被害を受けた築地本願寺の境内にあった墓地が、昭和4年にここに移転されたもの。先般の本郷台散歩で登場した小説家樋口一葉、また小説家海音寺潮五郎らの墓があるとのことだ。また、明治大学。このあたりには幕府塩硝蔵跡、兵器庫があったそう。本日のメモはここまで。この辺りは自宅、というか地元。代田橋から新宿までは明日歩き直しメモをしておこうと思う。

火曜日, 8月 02, 2005

玉川上水を歩く 1


玉川上水散歩_1 自宅の近くの下高井戸駅近く。甲州街道にそって遊歩道、というか緑道がある。玉川上水遊歩道。また、幡ヶ谷あたりにも、玉川上水遊歩道がある。
昔、講談社文庫だったか文春文庫だったか、ともあれ文庫か新書で杉本苑子著「玉川兄弟」という本を読んだことを思い出した。多摩川から江戸まで水を引いたとのこと。えらいことだと思う。しかし、玉川上水って、どこからどこを流れているのか、気になった。
地図を広げた。福生の隣町、羽村から三鷹を越え、牟礼2丁目あたりまでは、結構大きな流路が見て取れる。その先は細い流路マークが続き、久我山2丁目・北烏山2丁目、中央高速が環状八号線を越え南に大きく湾曲するあたりで途切れてしまう。その後はどうなっているのだろう?
そんなある日、高円寺高架下の古本屋で、偶然玉川上水に関する本を見つけた。「玉川上水物語;平井英次著;教育報道社」、「約束の奔流;小説・玉川上水秘話;松浦節;新人物往来社」の2冊。工事を請け負った加藤(後に玉川)庄右衛門、清右衛門兄弟、多摩川から水を引くことを発議した、知恵伊豆こと松平伊豆守信綱もさることながら、総監督ともいうべき関東郡代伊那半十郎忠治、設計者ともいうべき、安松金右衛門(松平伊豆守信綱家臣)などに興味をもった。いつかこの人物について調べてみよう。
で、消えてる箇所・暗渠を捜し歩くのもいいけれど、どうせなら羽村から四谷まで歩いてみようか、と思った。羽村の取水口から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)まで全長約43km、標高差約92mの工程である。結局第一回は羽村から鷹の台まで。2回目は鷹の台から三鷹。3回目は三鷹から烏山。最後に烏山から新宿まで、計4回のpetit projectとなった。

第一回;羽村から三鷹台
青梅線羽村駅
青梅線、羽村駅で下車。多摩川の羽村の堰に向かう。その1週間前に御岳山に登山というか、ハイキングに行ったばかり。しかし遠い。羽村の堰・取水口の公園に玉川兄弟の銅像。
玉川上水に沿った、桜並木の遊歩道を歩き始める。左手の奥多摩街道との段差を意識しながら、福生に入り、奥多摩街道との遊歩道の合流地点のそぐそばに、清岩院。この由緒ある禅寺は境内の湧水が有名とのこと。
水喰土公園
清岩院からしばらくは、上水の遊歩道がなくなる。車通りの多い道を右に、左に意識しながら先に進む。青梅線と八高線の交差するV字形のあたりに、水喰土公園があった。「水喰土公園;水くらいど」、とはすごい名前。水をどんどん飲み込んだ地形、ってことだろうか。玉川上水の工事ははじめ難航したとのこと。当初、日野橋下から取水し、府中まで掘り進み、府中八幡下の御滝あたりのでこぼこの地形、通称悲しみ坂で水が遮られ失敗。次いで、福生の熊川から開削を再開したが、この水喰土公園あたりで、水が地中に吸い込まれる「逃げ水」に会って再び失敗。羽村からの取水は再々度、前述の安松金右衛門の助けにより、ようやく成功したと言われる。玉川兄弟は二度の失敗で幕府からの工事費六千両をすべて使い尽くし、足らないところは私財を投じて完成させたとも言われる。当時の旧堀跡や土手がそのまま残されているこの公園を歩き、16号線との交差、武蔵野橋を越え、拝島駅に到着。
拝島
拝島から先は、右手にゴルフ場を眺めながら歩く。西武拝島線立川駅に近づくと、玉川上水が急に暗渠に。なんでだろう?調べてみた。
戦前、このあたりの上水、南側に滑走路がつくられ、先々上水の北まで延長されるか、ということで鉄筋コンクリート造りの頑丈な蓋を施した。が、終戦により滑走路の延長計画は立ち消えとなった、とのこと。西武立川の駅南にひろがる空き地は滑走路予定地だったのだろうか。
残堀川
ここから先、良い感じの遊歩道を進み、五日市街道と交差点にある天王橋をこえて武蔵砂川駅手前のあたりで玉川上水が他の川(残堀川)と立体交差。下をくぐる。上水の水をいったん地下に落とし、ポンプ(?)で再度汲み上げて残堀川と混じらないようにしている、とのこと。明治になって、残堀川の汚れが激しく、上水の下を交差。昭和になって、残堀川が生活用水のため水かさが増し、氾濫したため、今度は上を交差するようにした、ということらしい。ちなみにこの川は、昔は「暴れ川」。洪水の度に大量の土砂を流域に流していた。そのため、「砂の川=砂川」と呼ばれ、砂川の地名の由来となった、とか。
玉川上水駅
西武拝島線武蔵砂川を越え、国立音大を左に眺めながら玉川上水駅に着く。雑木林のいい遊歩道になってくる。昔の武蔵野ってこんな雰囲気だったのだろうか。
玉川上水駅近くに水道局小平監視所。玉川上水は昭和40年新宿の淀橋浄水場が廃止されたため、小平監視所から下流は現在用水路として使命を終えている。羽村から12キロほど流れてきた水は、この監視所からは導水管を通って東村山浄水場に送られ、都民の水道水となっている。現在、小平監視所から下流の玉川上水の水は都の清流復活事業の一環として復活。昭島の多摩川上流処理場の二次処理水を流し、久我山までは続いているようだ。
新しく復活させた上水の流れは、昔の掘り跡そのまま、といった感じ。いい感じの遊歩道を、朝鮮大学校、創価高校を左にながめながら、鷹の台。第一回の予定はここで終了。

月曜日, 8月 01, 2005

目黒散歩:呑川を歩く

目黒散歩:呑川を歩く
先日の散歩で出会った(?)「呑川」、「立会川」。ノミガワ、タチアイ、って名前も気になるし、これらの川、昨日の散歩道の複雑な地形にも大いに関係しているとのこと。目黒区の広報ページの資料(「めぐろの文化財・みどりの散歩道」)によれば、
「目黒区が坂の多いまちだといわれるのは、起伏に富んだ特異な地形に関係がある。それは、台地と台地をきざんで流れる目黒川・立会川・呑川の浸食作用による地形の変化が、坂をつくってきた。
目黒川の浸食は、上流部では浅く、下流部では深い谷を作り、深いところでは台地面から20メートル以上もある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

立会川は、深さ2,3メートル位の幅広いくぼ地をつくって流れ、呑川は、川の西側を浸食して深さ10メートルぐらいの谷をつくっている。。。。」、とのこと。
「呑川」、「立会川」に行かずばなるまい。で、地図を見ていると、呑川沿いに、池上本門寺とか足洗池とか、よく聞く場所もある。そうだ、「呑川」に行こう。京急蒲田から遡るルート、下流から上流へ。(月曜日, 8月 01, 2005のブログを修正)


京急蒲田駅
京急蒲田下車。ホーム入構直前に呑川が見えた。呑川遊歩道をJR蒲田方面へ。さすがに水は美しくは無い。遊歩道の掲示板に、旧呑川と新呑川のルート説明があった。
新呑川は京急蒲田から羽田空港、整備場北の方面に流れ込むが、旧呑川は北糀谷から大森南を経て、昭和島の辺りに流れ込む、とのこと。また、都営浅草線の工事による湧水も流し込んでおります、といったメッセージもあった。

新幹線と交差
新幹線をくぐったあたりから前方に小高い丘が見え始めた。荏原台の流れでもある、池上本門寺の丘である。標高は22m程度か。ただ最初に目に入ったのは十字架。近くに来てわかったのだが、この丘には住宅地もある。学校もある。そしてキリスト教会もある。お寺だけではないよう。

池上本門寺
緑道からはずれ、堂脇の階段を上る。110段あった。丘の上を歩き、五重塔、大堂などを散策。地形図によれば、ちょっとした外輪山のようなこの丘、盆地(?)を散歩。上がったり,下がったり。低地の弁天池をチェックして,道に迷いながら、三門に。三門脇に日蓮聖人像。説明書きには「もともとは星亨の像があったのだが、替わってもらった」と。東京市長もした明治の政治家、いろいろ毀誉褒貶のある政治家ではあるが。。。

井町線緑ヶ丘駅
高台から下を眺め、階段を降り、呑川緑道へ。右手前に小高い丘。環七が通っている「尾根道」といったところか。横須賀線・東海道新幹線との交差下をくぐり、池上線の石川台に向かう道は、ちょっとした谷道。両側に丘がせまる。で、昨日歩いた、大井町線緑ヶ丘駅近くの、呑川の開口部、暗渠から開放された流れのスタート地点に到着。

大岡山
昨日は、ここから「呑川本流緑道」を北へ都立大へと向かったが、今日は右に折れ、東工大のある大岡山に。坂を上り、駅前に。

洗足池
ここからは本日の最終目的地の洗足池に下りていく。丘に囲まれた低地、千束の谷にある洗足池には地形図を頼りに下りていく(少々オーバー?)。池に続く、いかにも湧水ルートっぽい流れを見つけ、ちょっと北に戻る。すぐに暗渠となり、あきらめたのだが、この先、池上線を越えて北千束1丁目まで行けば、洗足池に流れる遊水地、清水窪湧水があったようだ。千束の谷の最奥にあるこの窪地は、崖からは豊富なが湧き出て、「清水窪」と呼ばれた、とのこと。
気になることがある。地名が「千束(せんぞく)なのに、なぜ「洗足(せんぞく)」?
中世からのこの辺り一帯の地名は「荏原郡千束郷」。千束分の稲が貢祖から免ぜられていたところから名付けられたというのが定説。その、「千束」が「洗足」となったのは、日蓮上人が池上に向かう途中、ここの大池で足を洗ったと、いう伝説によるもの。この伝説とともに、広く流布し、いつのころからか、「千束の大池」が「洗足池」と呼ばれるようになった、という。

池上線の旗の台駅

洗足池からは、複雑な丘陵、中原街道を環七に登る地形のうねり、北から中原街道に交差する環七方面の尾根道、といった地形をイメージしながら中原街道を通り、池上線の旗の台駅に到着。駅近くに立会川児童公園の標識。思いがけなく「立会川」が現れた、学芸大学でみた「立会川緑道」に続くのだろう。ちなみに、「立会川」の名称の由来。諸説あるようだが、源平合戦の際に、源氏軍が平氏との「戦い・立ち会い」に備えて陣を築いたことによる、との説も。ついでに、駅名旗の台の由来。これもいくつかあるようだが、源義家が奥州征伐の際に源氏の白旗を立たため、といった説もあるようだ。本日の予定は旗の台で予定終了。