日曜日, 7月 30, 2017

埼玉 古利根川散歩;葛西用水を大落古利根川起点から姫宮まで

会の川、浅間川跡と辿った旧利根川流路を辿る散歩も、先回は会の川と浅間川が合わさる旧川口溜井のあった川口分水工(加須市川口)から、旧利根川筋ではあろうが旧渡良瀬川筋とも称される、東に流れる現在の中川筋を離れ、南に下る葛西用水(旧利根川筋)を辿った。
東に大きく弧を描く葛西用水を下り琵琶溜井を経て青毛堀川との合流点へと進むと、そこが葛西用水の一部に組み込まれてきた大落古利根川の起点でもあった。 古利根川跡を辿ろうと会の川締め切跡からはじめた散歩も、ここに来るまで結構時間がかかってしまった。後は一気呵成にとは思うのだが、頃は夏。気持は沢登りに傾いており、はてさていつ今回の古利根川跡散歩のきっかけとなった葛飾・足立区境を画す古隅田川(旧利根川流路)に辿りつけるのだろぅ。

ともあれ、今回は旧利根川流路跡、悪水落とし故の命名ではあろう大落古利根川の起点よりはじめ、東武伊勢崎線・姫宮駅付近まで下った。当日はわからなかったのだが、大落古利根川の起点へと、最寄り駅である久喜駅から辿った中落堀川は南埼玉郡宮代町の北端、終点の姫宮はおなじく宮代町の南端。知らず大落古利根川に沿って宮代町の北端から南端まで歩いたことになった。奇しくも大落古利根川を挟んだ対岸は、これも郡名を今に留める数少ない町である北葛飾郡杉戸町であった。

本日のルート;久喜駅>斎興寺>東公橋>中落堀川>蓮ヶ原落>向地大橋>中落堀川と古利根川の合流点に>和戸橋>大落古利根川治水記念碑・大落堀悪水路土地改良区記念碑>一里塚>備前前堀川>備前堀川が右岸に合わさる>南側用水路>西行法師見返りの松>万願寺橋>鎌倉橋>東武日光線>南側用水路水路記念板>南側揚水場跡地>南側用水の碑>古川橋>清地橋>姫川落川が合流>笠原沼落が合流>東武伊勢崎線・姫宮駅

久喜駅
本日の散歩起点の最寄り駅、久喜駅に。現在の久喜市は平成の大合併により旧久喜市、東の旧南埼玉郡菖蒲町、北葛飾郡栗橋町、同郡鷲宮町と合併し誕生している。旧久喜地区は久喜駅を取り巻く一帯ではあろうが、その久喜地区について知ることはほとんど、ない。
久喜について唯一想い起こし得るのは、いつだったか関宿辺りを歩いたときに登場した第二代古河公方・足利政氏の隠居地ということぐらいである。
本筋には関係ないのだが、メモの記憶も薄れかけてきているので、ちょっと頭の整理;
足利政氏
鎌倉公方・持氏と京都の将軍&関東管領上杉家の争いである「永享の乱(永享10年;1438)」は、持氏の死をもって終わる。持氏の遺子は各地に逃れるが、第四子・永寿王丸を鎌倉から逃したのが息女を持氏に嫁した簗田氏(やなだ)である。簗田氏にとって、永寿王丸は孫にあたる。
その後紆余曲をへてこの永寿王丸が古河公方・足利成氏となる。持氏に従った簗田氏は領地を下河辺荘、本拠は下総猿島郡水海(総和町;現在の古河市)に移すことになる。居城は、関宿城。長禄元年(1457)の頃と言われる。足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから勃発した、古河公方と関東管領上杉家の騒乱「享徳の乱(享徳3年;1455)」の真っ最中のことだ。結城合戦(永享12年;1440)のころ、幾筋もの河川が交錯するこの地に下河辺氏がつくった砦がもとになる、とのこと。
簗田氏は、持氏に息女を嫁したように、代々古河公方に息女を嫁していた。当然のことながら、両者強い結びつきを保っていた。古河と関宿という強力なフォーメーションによって、舟運・交通の要衝を押さえていたわけだ。 とはいうものの古河公方も簗田氏も常に一枚岩であったわけではない。二代古河公方・足利政氏のとき、政氏と嫡男・高基と不和。簗田氏も古河政氏方、高基方に分かれて対立。足利高基が簗田高助の関宿城に移り、古河城の足利政氏・簗田政助と対峙することになったことも。最後は、足利政氏は太田氏をたより岩槻城に移り、出家。永正15年(1518)、現在の本町7丁目に館(現在の甘棠院)を構えた、とのことである。最後は足利高基も、政氏と和解した、ということだ。

久喜に関する唯一の知識というだけで、本筋から離れたメモが長くなった。長くなった次いでに、江戸の頃をチェックすると、この地には米津氏のもと久喜藩が立藩され陣屋が設けられた(現在の久喜市久喜中央および本町、久喜本)。Wikipediaに拠れば、「日光街道への道筋や、常陸・下総方面への道が通じていたことから産業が発達し、職人や商人の街として、物資流通が盛んに行われ」たとのことである。
久喜の由来
因みに久喜の地名の由来は、例によって諸説ある。『久喜市史 民族編』に拠れば、「薪・柴等の燃料採取地を意味する地名」、「山、岡、自然堤防などの小高い所」、「久木の当て字であり薪山の意」といった説を挙げたうえで、現在の主流としては、自然堤防などの小高いところをさすという説が有力だとする。

斎興寺
駅から成り行きで進むと古い堂宇に出合う。お堂かと思ったのだが、18世紀中頃に創建された黄檗宗のお寺さまであった。本堂とその前に燈籠、地蔵尊といったさっぱりしたものだが、なんとなく気になるお寺さまであった。



東公橋
斎興寺から成り行きで進むと先回の散歩で久喜駅へと辿った中落堀川に架かる東公橋に出る。東公橋を渡り先に進む。
中落堀川
「中落堀川(なかおとしほりがわ)は、埼玉県北東部を流れる準用河川である。歴史は比較的古く、元禄6年(1693年頃)にすでに排水路として描かれている。昭和29年(1954)に合併するまでは、久喜町(現:久喜地区)と太田村(現:太田地区)の町村界を成していた。
今日では、久喜駅の北北西数キロメートルの場所を起点に、久喜区域の市街地を西から東へほぼ貫流し、いくつかの水路と合流した後、大落古利根川に合流・終点となる。久喜駅北側(東口)より本川終点までコンクリート護岸がなされている(Wikipediaより)。
新川用水の落を集めるいくつもの悪水路が源流のようであり、わし宮団地の南あたりからはじまるようだ。

蓮ヶ原落が中落堀川に合流
東公橋を渡ると直ぐ下流の右岸に合流水路が見える。チェックすると蓮ヶ原落(蓮ヶ原川とも)であった。Wikipediaに拠れば、「水源は主に新川用水の農業排水で、久喜市上早見の田園地帯に端を発する。上早見字新田付近を東へ流れ、途中で一旦暗渠となり、久喜地区消防本部や県道3号さいたま栗橋線を横断した後、久喜警察署北側にて開渠となる。途中の久喜自動車学校北側(久喜東6丁目付近;私注;東武伊勢崎線と合わさる辺り)にて北東へ流路を変え、久喜東1丁目にて中落堀川に至り合流・終点となる。久喜市本町4丁目付近に管理起点がある」とあった。
Wikipediaには同じく「蓮ヶ原とは旧大字久喜新の小字である。蓮ヶ原という土地はもともと蓮の自生する湿地帯であったが、水田として開墾された地域であり、1927年(昭和2年)には耕地整理が行われた」とある。久喜新 とは現在の久喜中央、南、久喜東のそれぞれ一部の地域のようだ。確かに水路はその地域を流れている。
それはともあれ、この蓮ヶ原落は新川用水の農業排水とある。地図を見ると葛西用水から分水された新川用水が蛇行をしながら蓮ヶ原落の源頭部を流れていた。
新川用水
新川用水は埼玉県北東部を流れる農業用水路であり、上流部では騎西領用水(きさいりょうようすい)と呼ばれる。埼玉県加須市外田ヶ谷の星川(見沼代用水)より分水し、加須市・久喜市・南埼玉郡宮代町を流れ、久喜市・南埼玉郡宮代町との境界付近で備前前堀川に合流する。久喜市内ではかつての南埼玉郡久喜町・江面村との町村界の一部を成していた。また、久喜市(六万部・上清久)・北葛飾郡鷲宮町(中妻・久本寺)の市町界を成していた。備前前堀川との合流地点には「万年堰」という堰がある(Wikipedia)。

向地大橋
中落堀川を少し下り、これも先回久喜駅への道すがら出合った向地大橋に。そこから中落堀川から少し離れ、これも成り行きで大落古利根川へと進む。 道を少し南に下ると左手に「古利根川流域下水道東中継ポンプ場」がある。中落堀川を少し下流に進むと、左岸に「古利根川水循環センター」があり、下水処理をおこなっているが、市内6カ所に中継ポンプ場が稼働し、久喜市と加須市(一部)の下水処理をおこなっている、と。

中落堀川と古利根川の合流点に
前方に圏央道の高架を見ながら平坦な地を進む。圏央道手前の道の分岐点に庚申塚が建つ。庚申塚を左に道をとり、圏央道の高架を潜り宮代総合運動公園の北端を中落堀川に沿って右岸を進み大落古利根川との合流点に着く。 先回久喜駅に戻る時は中落堀川左岸を少々難儀しながら進んだのだが、右岸は合流点までアプローチが整備されていた。

大落古利根川・和戸橋
宮代町総合運動公園の西端、大落古利根川との間はフェンスで囲まれている。堤への出口はあるだろうと、とりあえず南に下ると出口があり、大落古利根川の堤を通る道に出た。
緩やかに弧を描く水路に沿って進む。南東に流れる流路が南西に弧を描く辺りで水路が合わさる。あれこれチェックしたが水路名はわからなかった。 ゆったりと流れる大落古利根川を更に南に下ると和戸橋にあたる。橋傍に案内板があり、そこに和戸橋、古利根川の渡し、そして対岸に日光御成街道と一里塚などのガイドがある。
久喜と同じく、この辺りについての何の知識もなく、案内がなければ、ママ通り過ぎるところであったが、案内に従い和戸橋を渡り日光御成道の一里塚にちょっと立ち寄ることに。
和戸橋
橋傍の案内には「和戸橋は日光御成道に架かった橋です。この橋のたもとには明治2年(1869)に成立した河岸場がありました。昭和3年(1928)でもその様子が分かります。この河岸場は琵琶溜井(幸手市)から松伏溜井(春日部市)に至る航路で使用されました。和戸橋の河岸場から粕壁宿の河岸場へ多くの貨物が輸送されたと伝わっています。
和戸は日光御成道の岩槻宿から幸手宿への間の宿(幕府非公認の宿場)でした。そのため多くの商人や百姓屋敷が並んでいました。写真にも和戸宿の家並みの一部が写っています」とあった。

大落古利根川治水記念碑・大落堀悪水路土地改良区記念碑
和戸橋を渡ると県道372号と県道65号の交差する和戸橋交差点の傍に「大落古利根川治水記念碑」と「大落堀悪水路土地改良区記念碑」が建つ。
治水記念碑は昭和9年建立(1934)とのこと。建立の背景は、利根川の東遷事業により源頭部を失い廃川として取り残された旧利根川跡は新田開発のため、見沼代用水と葛西用水を核として農業用水路・排水路として再整備される。
しかし、近代になると葛西用水の一部として組み込まれた大落古利根川は荒廃し、堆積した土砂により水害が多発することになる。河道の浚渫が必要となった。
大正7年(1918)から昭和3年(1928)にかけ国営の庄内古川の改修事業により中川が開削される。それに合わせて大落古利根川の改修工事が実施されることになる。
大正7年(1918)から昭和9年(1934)にかけ、埼玉県の事業として第一期改修工事が実施され、大落古利根川とその支川である青毛堀川、備前前堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川(庄兵衛堀、栢間堀)の河川改修が実施された。大落古利根川全体の河川改修が行われたということだろう。建立年代から見て、河川改修の完成を記念したものだろう。土地改良区記念碑は解散の詳細は不詳。

中川開削と大落古利根川の関係
現在の中川水系一帯の水田を潤し、その悪水落となっていた島川筋、庄内古川筋も、当初は江戸川(元の太日川)に水を落としていた。しかし江戸川の水位が高く「落ち」が悪く、逆流で被害を受けることもあった。
そこで目をつけたのが最低地域を流れていた大落古利根川(旧利根川跡)。江戸川落口と比較すると2mも低かったようだ。島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事がはじまった。大正8年(1919)の頃、という。 島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川に繋ぎ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川と繋いだ。こうしてできたのが「中川」であった。昭和3年(1928)の頃である。
中川開削の発端が、大落古利根川(旧利根川跡)に水を落とすことにあったとすれば、上述記念碑にあるように中川開削とあわせて大落古利根川(旧利根川跡)の河川改修をおこなうのは自然なことであろう。

一里塚
和戸橋を渡ると北葛飾郡杉戸町。県道65号を少し北に進むと道の右手に一里塚があった。 道路脇の案内に拠れば、 「下高野一里塚【下高野一里塚】埼玉県指定史跡  大正15年2月19日指定 慶長九年(1604)江戸幕府は大久保石見守長安に命じ、江戸日本橋を起点に一里ごとに塚を築かせた。
この一里塚は、下野田(南埼玉郡白岡町大字下野田)の一里塚より北東一里の地点に位置している。
ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の南側に五問(9メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。 一里塚は、旅人にとっては里程の目標に、また馬や駕籠の賃金を支払う時の目安にもなった。 埼玉県教育委員会 杉戸町教育委買会」とある。

和戸橋の傍にあった「日光御成道と一里塚」の案内には「江戸時代に整備された日光街道の脇街道であり、将軍が日光東照宮へ社参する際に利用されました。 宮代町和戸の日光御成道沿いには、かつて和戸宿が形成されていたと伝えられています。下高野一里塚は、下高野と下野のほぼ境界に所在し、頂上には松が植えられています。もとは街道の両側にありましたが、現在は東塚のみが残されています。里塚は一里(約4㎞)ごとに設置され、旅行者の行程の目安となりました」とあり、下高野一里塚の案内にある、「この街道」とは日光御成道であった。
日光御成道
日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道である。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。

ちょっと混乱。大落古利根川の左岸、杉戸にある杉戸宿は日光街道の宿場町。ルートはどうなっているのだろう?チェックすると、日光御成道は大落古利根側の右岸、岩槻から県道65号を進み、白岡市を経て和戸橋辺りで大落古利根川を渡り、大落古利根川の左岸を進み、先回の散歩で御成道の道標のあった琵琶溜井傍をへて幸手市に向かう。
一方の日光街道は春日部(粕壁宿)から国道4号を大落古利根川の左岸に沿って進み杉戸宿に。杉戸宿で一旦旧道に入るが、宿を出た辺りで大落古利根川を離れ再び国道4号を北東に向かい、途中東武日光線の手前で国道4号から分かれ北に進み県道65号で日光御成道と合流する。

で、何故に日光街道があるのに日光御成道をつくったのだろう?チェックすると、川口の錫杖寺を休息所としたことがそのきっかけといった説明もあったが、実際のところは、将軍が動くとなると大層な人馬が連なるわけで、五街道である日光街道の往還を妨げないため、往昔の鎌倉街道中ツ道筋のこのルートを整備した、ということではないだろうか。

和戸橋に戻る
一里塚から和戸橋に戻る。左岸から見ると、和戸橋の西詰に水路が合わさる。備前前堀川である
備前前堀川
埼玉県久喜市所久喜で、加須市から南流する農業排水路の五ヶ村落を合流して端を発する。(中略)久喜市清久町において西側より流下する備前堀川と中堤防にて面し並行して流れる。(中略)途中、外谷落・磯沼落および仏供田落を合流、宮代町の和戸橋東側にて北側より流下する大落古利根川と合流する。 新川用水が備前前堀川に落ちる合流付近には「万年堰」という堰が設けられており、1902年(明治35年)に建設されて1979年(昭和54年)に撤去された旧堰の記念碑もある。
この備前前堀川は1728年(享保13年)に河原井沼(私注;現在の久喜菖蒲工業団地辺り;昭和沼が名残で残る)での新田開発に併せ、沼の北縁に沿って流下するように河原井沼周辺では附廻堀として整備された。この河川の開削当初の名称は新笊田堀(しん ざるたぼり)とされていた(Wikipediaより)。
五ヶ村落
この五ヶ村落は備前前堀川の上流河川であり、加須市油井ヶ島の中北部よりはじまり、久喜市所久喜にて備前前堀川と変称し流下する農業排水路である。

備前堀川が右岸に合わさる
和戸橋を少し下ると右岸から水路が合わさる。備前堀川である。Wikipediaによると、「埼玉県加須市の新川用水排水路の備前堀大英寺落(私注;葛西市上埼の田ヶ谷綜合センター北が管理起点)と備前堀古笊田落(私注;葛西市上埼;大英落の南700m付近)との合流点を起点とし、久喜市北中曽根の西端で備前堀八ヶ村落(私注;源頭部は加須市正能の騎西中央公園北東にある大道公園辺り)を併せ、さらに清久町(清久工業団地)の南側からは備前前堀川と平行して流れる。その後同市河原井町東側で備前前堀川と離れ白岡市・南埼玉郡宮代町を流れ、大落古利根川に合流する。
かつての河原井沼の北側付近の流域は、この沼での新田開発時に北側の附廻堀として整備された区間である。今日では主に新川用水からの農業排水路として利用されている。
流域には清久大池や清久西池、昭和沼といった池沼が存在し、昭和沼とは水路で接続されている。また、久喜菖蒲工業団地が造成される以前に河原井沼からの排水路として用いられていた「新北落」が備前堀川に流入する直前の地点に水門が設けられていた。久喜菖蒲工業団地の造成によって「新北落」が埋め立てられてしまった現在においてもこの水門のみは現存している。
久喜市北中曽根の西端には備前堀治水記念碑(びぜんぼりちすいきねんひ)がある。同市北中曽根(北側)と同市菖蒲町三箇(南側)との間に古笊田堰(こざるたせき)という1906年(明治39年)竣工の堰が置かれている。
流域は主に農地として利用されているほか、清久工業団地や久喜菖蒲工業団地といった工業団地が存在する。また久喜菖蒲公園や清久公園など公園化されている地域もある」とある。

備前堀は備前守である伊奈氏の開削故の命名。開削当初は江面村(久喜市江面)から和戸村への短い悪水落であったが、後年井沢弥惣兵衛により河原井沼の干拓が実施され、河原井沼への悪水落の迂回路(附廻堀)として新笊田堀や外谷落が開削され、古笊田堀や八ヶ村落を新笊田堀へ繋げ、さらに新笊田堀は備前堀へと繋がれた。こうして、備前堀川は河原井沼の主要な排水路として整備された。河原井沼は久喜菖蒲工業団地の中心部に残る大きな調整池(昭和池)にその名残を残す。

南側用水路
水路を下ると道脇に案内があり、先ほどの一里塚などとともに、「西行見返りの松」の案内がある。地図で確認すると左岸を少し東に進み、水路に沿って戻ることになるのだが、とりあえず行ってみようと。
成り行きで進むと目安の水路にあたる。地図でチェックすると琵琶溜井から下ってきた南側用水路であった。昭和初期の改修工事により廃川となった水路は結構美しく保たれている。なんとなく気になりチェックすると、ドブ川となった用水路は地元の方々の力で美しく保たれているとのことであった。
南側用水
埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として大落古利根川より東側の水田地域を灌漑する。用水路は現在でも開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。北葛飾郡杉戸町杉戸4丁目より周辺は市街地となり、南側用水路は暗渠化され地上は遊歩道となる(Wikipedia)。

「西行法師見返りの松」
南側用水路に沿って北に戻り、途中足利氏の流れをくむ幸手城主・一色氏の創建によるとの全長寺にお参りし、永福寺に向かうと境内前に松と石碑があった。 先ほど川沿いで見た案内とこの地の案内をまとめると、「文治2年(1186)、歌人としても知られる西行法師は、69歳の身で奈良東大寺再興の寄付を請う旅の途中、この地で激しい風雪に倒れ土地の人に救われた。
庭の松をこよなく愛した法師は、村人との別れを惜しみ、この地を去る際にこの松を何度も振り返って旅立った。村人はこの松を「西行法師見返りの松」と呼んだと伝わる。 碑には、室町時代の十四世紀前半、足利尊氏の有力武将高師直の歌「道以そく遠近人の毛駒と免て、三可邊梨松御見かえら佐らめや(みちいそぐ おちこちびとも こまとめて みかえりまつを みかえらさめや)」と、碑を建てたと思われる信州高遠の人の名、そして「西行法師見返松」の文字が刻まれる。
永福寺
「西行法師見返松」の建つ永福寺は、寺の案内や杉戸町の案内をもとにまとめると、「寺の縁起を記した「龍燈山伝燈紀」によると往昔は阿弥陀寺と称した。所以は本尊である阿弥陀仏は行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の作と伝わる故。
この寺は関東三大施餓鬼のひとつ、「永福寺どじょう施餓鬼」で知られる。その由来は14世紀の後半、当寺の51世日尊上人に遡る。その父は因幡前司藤原長福朝臣。貞治(じょうじ)元年(1362年)高野浅間台に高野城を築き、田宮庄近郷を領した。長福は後に酒食遊芸におぼれ、非道な行いがあり、その子日尊上人(幼名は藤王)は、父の乱行を憂い、仏門に帰依し比叡山に登り修行の後高野に帰り、阿弥陀寺を建立した。
父長福は乱行の後ついに狂死。えん魔大王のお告げを受け、亡父が地獄に落ちているお告げを受けた日尊上人は、大王から伝授された施餓鬼の秘法(「えん魔王の示す日尊の偈(げ)」)を修行し、父親をはじめ地獄に落ちている人々を救った、とのこと。
施餓鬼とは、生前の悪道を行ったため地獄に落ちているものを、施餓鬼の修法により施食をほどこして、これらを救う法会であり、永福寺の施餓鬼は、放生(生きものを放ってやる行事)として、“どじょう”を池に放つ。その為、俗に「どじょう施餓鬼」と言われている。 因みに、関東三大施餓鬼とは当寺のほか、秩父四萬部寺、さいたま市の玉蔵院を指す。

万願寺橋
永福寺から少し北に愛宕神社辺りまで南側用水路を辿り、大落古利根川筋まで戻り、下流へと進む。少し下ると万願寺橋がある。和戸橋傍にあった案内には、中世に「高野の渡し」があった、と。
古利根川の渡し
「昭和初期以前、古利根川の渡河には渡し船も用いられており、江戸時代から近代の杉戸・宮代周辺では、上流から「高野の渡し」「河原の渡し」「矢島の渡し」「紺屋の渡し」「ガッタの渡し」の五箇所の渡船場がありました。中世にも現在の万願寺橋付近に「高野の渡し」があったといわれています(「案内板」より)。

鎌倉橋
万願寺橋を越え、鎌倉橋に。名前からのイメージと異なり、ちょっと現代的な人道橋となっている。とはいえ、なにか鎌倉街道との関連はあってしかるべし、とチェック。
日光御成道とほぼ同じルートとの鎌倉街道中ツ道であるが、白岡市下野田から杉戸町下野までは少し異なり、御成道から右にそれ、この鎌倉橋辺りを渡っていたようである。
旧利根川(大落古利根川)を渡った後は、南側用水路に沿った微高地・自然堤防上を進み、御成道筋に戻っているようだ。

東武日光線
先に進むと東武日光線が川を跨ぐ。遊歩道は手前で切れるが、草を踏み分け堤防に沿って進むが行き止まり。仕方なく、成り行きで県道372号に出る。踏切を渡る手前まで続いた南側用水は、線路を境に暗渠となって姿を消した。

南側用水路水路記念板
線路を越して、ママ進むと左手に車道と分かれた遊歩道といったアプローチがある。如何にも地下に暗渠となった南側用水路が続いているような道である。少し進むと道脇に「南側用水路水路記念板」が建つ。「南側用水路は江戸時代初期に万治3年(1660)利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が設けられた際に、その支流として幸手領(幸手市から杉戸町をへて春日部市まで)に農業用水を供給するためにもうけられました。
杉戸町を9.5kmに渡り流れる南側用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に探く(私注;ママ)係りながら、身近な水辺として親しまれてきました。
しかしながら、農業用水のパイプライン化により、昭和63年に300年あまりにわたる用水路としての役割を終えました。
南側用水路の跡地は杉戸町の貴重な都市空間であり、町民共有の財産でもあります。
この貴重な用水路跡地を町民の皆さんにより親しん頂けるよう、散策路として整備したものですが、この場所には大落し古利根川からの水を用水として取水し、南側の用水を管理するための水門がありましたが、散策道工事によりやむをえず取り壊すことになったことから、ここに記念として残すものです」とあった。

南側揚水場跡地
「南側用水路 水路記念板」傍に石碑が建ち、杉戸宿と刻まれた文字の上に、「30m南側揚水地跡地」とある。上の案内に説明とともに写真にあった、大落古利根川から取水する水門跡地であろうかと、指示に(どっち方向か少しわかりにくい)従い遊歩道を離れ大落と古利根川脇に向かう。

南側用水の碑
川に向かうと、堤防手前に大きなポンプが展示され、その下に「南側揚水の碑」の案内があった。案内には「目の前を流れる古利根川がかって利根の本流であった。当時の南側流域は葦の茂る湿原地帯と、地理的条件のよいところがわずかに水田として利用されてきたのであろう。
南側の水田用水は万治三年(1660)羽生市本川俣で利根本流から取水された葛西用水によって、恒常的に安定確保されることとなった。しかし各用水施設の原始的粗雑な構造は用水の消費も大きく、ため琵琶溜井堰における中郷用水を含めた幸手領と下流域との交互番水を余儀なくされていた。加えて倉松落の改修、戦中戦後の食糧増産としての土地改良、陸田用水など農業用水が急増し、用水不足に拍車をかけることとなった。
昭和23年南側用水路共通水利組合は上流域の約350ヘクタールには3日通水分をあて下流の約500ヘクタールには現在地に揚水機を設置し併せて各所の用水堰を撤去し用排両面の整備改善を行うこととしたのである。
本事業は県営事業として昭和24年から昭和27年に亘り総工費1870万円で完成し国民食料の確保に貢献した。しかしながら、その後に続く急激な都市化の進展は社会資本の充実を促しながらも半面歪みを生ずることとなった。 即ち大落古利根川の川床即水位である。出水増に対処すべく土砂礫の浚渫を行ったためポンプは吸水不能に陥ったのである。
このため南側用水土地改良区は昭和54年に本郷地区に揚水機場を新設し下流の用水を補ったのである。しかし主機場の揚水不能は南側流域に深刻な用水不足を生じ、関係者の苦労も筆舌に表し得なかったのである。 この時すでに当地域を含めた農業用水合理化対策事業が実施中であり、これは農業用水を家庭の蛇口の如く、栓ひねれば田に給水できるという超近代的な構造であり、地区民挙げてこれが早期実現を要望することとなった。
しかし、中郷、南側流域全域であり昭和48年着工以来15年の月日と200億円余りを費やして昭和63年に完成をみたのである。
ここにおいて南側流域は上下流万遍なく均等に用水が供給されることとなった。又、有史以来杉戸の市街地を流れていた南側は水田供給の使命を終えたのである。そして今後は都市排水河川として生きていくことであろう。
まこと南側用水の歴史は地域の変貌を今に伝えるものとして感慨深いものがある。 ここに往時を偲びポンプ展示を期にその所以を石碑に誌して後世に伝えるものである。南側用水管理組合」とある。

説明を少し補足すると、揚水機を設置したのは昭和27年(1952)のようである。その後昭和37年(1962)には琵琶溜井は比例分水堰に改修され、江戸時代より続いたと言われる幸手領3日、下流7日の番水制度は廃止されるも大落古利根川の浚渫による川床低下、即ち水位の低下によりポンプ吸水が困難となったようで、本郷(和戸橋あたりに本郷の地名が見えるがそこだろうか)に揚水場を設けるも、この地の揚水機による吸水機能低下は地域に困難な状況をもたらした。
この状況は昭和63年(1988)の農業用水のパイプライン化により南側流域は上下流万遍なく均等に用水が供給されることとなった。
◇倉松落の改修と用水不足
案内に、「倉松落の改修が用水不足に拍車をかけた」とある。倉松落は南側用水路の余水吐きでは?それと用水不足と何の関係が?
チェックすると、倉松落の改修は昭和8年(1933)から15年(1940)にかけて実施されたおうだが、要点は倉松落の排水先を大落古利根川から中川に改めたられた。葛西用水の水位が高く排水不良が要因とのことだが、そのため葛西用水の送水路としての役割を持つ大落古利根川への水の循環が切れることになる。水不足云々とはこのようなことではなかろうか。

古川橋
ポンプ展示箇所を離れ、河原橋を渡り古川橋に。橋を少し越えたところに大落古利根川や周辺の案内を記した看板がある。散策路の案内はいいとして、看板にある案内をメモする;
古川橋
「古川橋は明治32年(1899)8月の東武鉄道の開通による杉戸駅開設により架けられた橋です。それ以前は百閒と須賀境に架かる河原橋と杉戸宿御伝馬道にかかる清地橋まで間には橋はありませんでした。
そしてこの看板付近は古利根川の流作場(川の縁辺の堤外地)新田でした。この新田は寛延2年(1749)に江戸本所の大寿院が請け負って開発が行われました。田に比べて水田が多いのが特徴です(案内板より)」。

ここにある「杉戸駅」は現在の東武動物公園駅。昭和51年(1981)に改称された。
流作場新田開発とは、現在の東武動物公園あたりのあった笠原沼の干拓・新田開発といった大規模なものではなく、河川敷などの不安定な土地への耕作を認め、作柄に応じて年貢を徴収するといったもの。この百閒村には上記流作場新田(百閒村新田)を含め3箇所の流作場新田があった、という。大寿院は江戸本所にあったお寺さまのようである。
地名(宮代町)
「宮代町は昭和30年(1955)、須賀村、百閒村が合併してできた町です。その町名は百閒村の総鎮守である姫宮神社の「宮」と、須賀村の鎮守である身代(このしろ)神社の「代」をそれぞれとって出来たものです。
旧村名である百閒の最古の記録は姫宮神社々前に掛けてあったといわれる鰐口の銘であり、応永21年(1414)と記されており、古い地名であることが確認されています。
一方須賀は、鎌倉時代の寛喜2年(1230)の小山朝政の文書に出てくるのが最古であり、古い地名であることがわかります。
また、字名は旧須賀地区については明治22(1889)年の旧村名を大字とし、旧百閒村についても旧村名を大字としましたが、昭和5年(1930)大字を廃止し新たに?の字(あざ)に変更し、現在に至っています(案内板より)」。

後半の「字」の説明が現在の地名との関係が不詳であり、その有り難さが今一つ理解できないが、それはともあれ、説明にあった小山朝政って誰?
小山朝政 
下野国の生まれ。小山源頼朝の平氏打倒・鎌倉幕府の開幕に貢献した幕府の宿老。頼朝上洛時、石清水八幡宮参拝では行列の先頭を務める。常陸国村田下庄の地頭、播磨国守護、検非違使兼任、下野守などに任じられる、といった結構有力御家人であったようだ。今更に、知らないことが多くあることを実感する。

ところで、宮代町であるが、大落古利根川右岸は南埼玉郡宮代町、左岸はこれも北葛飾郡杉戸町。平成の市町村大合併にも抗して、未だ「郡」を守るなにか「矜持」といったものでもあるのだろうか。
チェックすると、平成13年〈2001〉頃から春日部市を含んだ宮代町と杉戸町の合併話が、出ては住民投票で反対過半数といった状態が繰り返され、未だ合併に至っていない、というのが実情のようであった。

また、この案内に「身代神社」が登場する。名前に惹かれ、訪ねてみようと思いながら、大落古利根川の左岸を歩き東武日光線を過ぎた河原橋まで橋がなかったことや、南側用水路路の水門・ポンプ揚水機場あたりで、そちらに気をとられ忘れてしまっていた。
今回の散歩では左岸の日光街道杉戸宿もパスしているので、次回の散歩スタートにこの社も組み入れて歩いてみようかと思う。
大落古利根川
「大落古利根川は、久喜市と杉戸町の境にある葛西橋から松伏町下赤岩付近で中川に合流するまでの延長26.7キロ,流域面積182.3平方キロメートルの一級河川です。
その名の示す通り昔は利根川の本流としていくたびかの洪水を引き起こしました。江戸時代の初期に利根川が現在の流路に付けかえられたため、この流れは大落古利根川として残されました。その後、この川は数回の改修を経て今日の姿となり、中川流域の主要河川として、また、葛西用水の幹線として治水と利水の両面で重要な働きをしています(案内板より)」。
大落古利根川周辺の地形の特徴
「大落古利根川が合流する中川流域は、北に利根川、東に江戸川、西に荒川と大宮台地に囲まれ、全体的に低平な流域で、水のたまりやすいお皿のような地形になっています。更に河川の勾配が緩やかで水が流れにくい特徴があります。 また。大落古利根川沿いの鷲宮、幸手、春日部、松伏、??川と連なる自然堤防など、周辺の河川沿いには、かつて利根川水系のもたらした豊富な砂による大規模な自然堤防が形成されています(案内板より)」。
用排路としての大落古利根川
大落古利根川は利根川の東遷により水源を断たれ水量の減った泥川と化してしまいました。また、周辺の低湿地の内水を低い水位で排水するため、大落古利根川を介して中川に排水する改修が行われました。
大落古利根川は上流で葛西用水と直結しており、中流部では青毛堀川、備前堀川、隼人堀川など多くの河川が合流します。
下流部は古利根堰でせき止められ、松伏溜井という用水溜になり、堰から下流が純粋な排水路として中川に合流しています。
このようにさまざまな用排水路が合流することから「大落」を冠する大落古利根川は、埼玉県内の穀倉地帯である中川流域を支える用排水路として機能しています。

案内にある「大落古利根川を介して中川に排水する改修」とは、上述の大正8年(1919)頃からはじまった島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事のことだろうか。
上にメモしたが、現在の中川水系一帯の水田を潤し、その悪水落となっていた島川筋、庄内古川筋は、当初は江戸川(元の太日川)に水を落としていた。しかし江戸川の水位が高く「落ち」が悪く、逆流で被害を受けることもあった。 そこで目をつけたのが最低地域を流れていた大落古利根川(旧利根川跡)である。江戸川落口と比較すると2mも低かったようだ。
島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事がはじまった。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川に繋ぎ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川と繋いだ。こうしてできたのが「中川」であり、大落古利根川を介して中川に排水する改修が完成した。昭和3年(1928)の頃である。中川開削の発端が、大落古利根川(旧利根川跡)に水を落とすことにあったということである。

清地橋
古川橋から東に向かって大きく弧を描く大落古利根川筋を下り清地橋に。上の古川橋の説明の箇所に、「杉戸宿御伝馬道が通る清地橋」とあった。杉戸宿御伝馬道って?はっきりとはしないが、どうも江戸の頃、右岸百閒村から左岸の杉戸宿へと向かう道とある。その目的は日光街道杉戸宿の助郷のようだ。仙台藩、会津藩といった大藩が通行する際、杉戸宿の問屋場へと馬や人足が動いた道筋であろうか。杉戸宿の旅籠には飯盛女が多数いた、という。悪所へと向かう道でもあったのだろう。
清地橋を渡れば杉戸宿に入れるのだが、当日は何となくその気になれなかった。炎天下で少々疲れていたのであろうか。今となって、立ち寄ってよればなあ、などと思う。次回の散歩でカバーすることにする。

姫川落川が合流
ゆったりと流れる大落古利根川に沿って宮東橋を越え、南西へと緩やかに弧を描く川筋を進むと姫川落との合流点に。ぼちぼち散歩を終える時刻。最寄りの駅である東武伊勢崎線・姫宮駅に向かう。
姫宮落川
Wikipediaに拠れば、「埼玉県久喜市下早見字内谷付近(江面地区)を起点(私注;圏央道と東北道が交差する少し東、久喜菖蒲工業団地南端、県道396号脇:下早見が飛び地となっており場所の特定に混乱した)とし、白岡市・南埼玉郡宮代町を流下し、北葛飾郡杉戸町との境界で大落古利根川に至る一級河川(一部準用河川)である。 姫宮堀(ひめみやぼり)とも称されている。
姫宮落川は笠原沼(現在の南埼玉郡宮代町;私注>現在東武動物公園)からの流出河川として整備された。この姫宮落川は笠原沼にて新田開発が行われ、笠原沼代用水が整備されるまでは笠原沼より下流域の村々にて農業用水に利用されていた。姫宮落川ないし姫宮堀という名称は地名の姫宮(現在の南埼玉郡宮代町の地名)ないし姫宮神社にちなんだものである。
笠原沼より上流の流域はかつて河原井沼(現在一部が昭和沼として残る、現在の久喜市;私注>久喜菖蒲工業団地傍に大きな池として残る)と称されていた沼地からの排水路である。
この排水路は河原井沼に端を発し、笠原沼へと流入するもので、流下する途中「埼玉郡爪田ヶ谷村(現在の白岡市爪田ヶ谷)」を流下していたのでこの村にちなみ爪田ヶ谷堀(つめたがやぼり)ないし爪田ヶ谷落堀(つめたがやおとしぼり)と称されていた。
このように笠原沼への流入河川であった爪田ヶ谷堀と流出河川であった姫宮落川を笠原沼の開発時に笠原沼北側の附廻堀として整備し、この2つの河川は1つの河川へと改修された。このときの改修もあり、現在では全区間姫宮落川と称されている。
流路は多くの区間においてほぼ直線的に流下する。(中略) 一部宅地の周辺を流れるが、多くの区間での流域は水田である。また姫宮落川は素掘りの区間と護岸された区間が並存する」とある。
要は、久喜菖蒲工業団地のところにあった河原井沼(現在昭和池として、また河原井の地名も残る)から笠井沼(現在の東武動物公園)への落と、笠井沼からの落しを繋いだものが、姫川落川、ということだろう。

笠原沼落が合流
姫川落川左岸を上流に進み、最初の橋である中州嶋小橋を渡り右岸を大落古利根川筋まで戻る。地図を見ると、少し下流に水路が見え、その水路が東武伊勢崎線・姫宮駅前を掠っているため、その水路を辿ろうとの想い。
川筋を少し下ると水路が大落古利根川に合わさる箇所についた。当日は下流から県道85号、県道406号と交差する橋を辿ったのだが、特に橋名、河川名を書いた親柱がみつからず、河川名不詳であったが、メモの段階でチェックすると「笠原沼落」のようである。
笠原沼落
Wikipediaに拠れば、「この笠原沼落は江戸中期に井沢弥惣兵衛為永が中心となり笠原沼を掘り上げ田形式にて新田開発した際、沼の中央部からの排水のために開削・整備された排水路である。
このため、起点付近の流路はかつての笠原沼のおおよそ中央部を横断するような流路となっている。今日においては起点付近では東武動物公園の園内を流下し、園内に所在している多くの池とも接続する。新しい村や宮代町立図書館周辺付近より下流から東武伊勢崎線橋梁付近までの流域周辺は水田などの農地となっており、東武伊勢崎線橋梁より下流域の流域周辺は一部農地などもみられるが、主に宅地などの市街地となっている」とある。

笠原沼落は、白岡市爪田ヶ谷の水田などの農地(かつての笠原沼の西部)からの農業排水を集めながら東北東へ流下し、東武動物公園内を蛇行しながら進み、東武動物公園を出ると姫宮落川の南側に並行し流下。東武伊勢崎線を越えるとS字に弧を描き、姫宮駅前を進み大落古利根川に合流する。
昔は、笠原沼の水を抜くため姫宮落に繋がれたこともあったようだが、水捌けが悪く享保14年(1729)には排水先を大落堀に付け替えたようである。

東武伊勢崎線・姫宮駅
笠原沼落に沿って姫宮駅に。姫宮神社に寄ってはみたいのだが、時間切れ。次回は、今回予備知識不足でパスした、杉戸宿、身代神社、姫宮神社と姫宮落川や笠原沼落とからめて歩き、大落古利根川筋に戻り、春日部へと下ろうと思う。

土曜日, 7月 29, 2017

埼玉 古利根川散歩;川口から葛西用水を大落古利根川合流点まで

往昔、江戸に流れ込んでいたと言う古利根川を辿る散歩も、利根川東遷事業以前の古利根川の主流をなす二つの流れのひとつである会の川を川俣締切跡から三回に分けて歩き()、葛西用水と最接近する「会の川分水工」まで下り、また先日は古利根川のもうひとつの主流であったとされる浅間川筋跡を締切跡から島中領幹線用水に沿って下り十王堀排水路まで歩いた。 会の川筋も、浅間川筋も利根川東遷事業に伴い、その源頭部を失い廃川となるも、東遷事業の目的のひとつである新田開発のため、その廃川跡は用水路・排水路として活用されたようだが、会の川筋は現在も「会の川」としてその名を残し、上記「会の川分水工」で葛西用水と最接近した後、伏越で中川に余水を吐く。
一方、浅間川の廃川跡は、新田の灌漑用用水・排水路として使われ、利根川用水として整備された後、現在は埼玉用水路の下流部、島中領幹線用水路として流れ、途中から古利根排水路として往昔の名残の流路を下り、これも古利根川・浅間川の川筋と言われる、現在の十王堀排水路下流に余水を吐き、中川に合流する。
ここで言う、葛西用水も中川も、自然の川ではなく、人工的に開削された用水である。葛西用水は江戸の頃、中川は大正から昭和にかけて開削されたという。時間レイヤーは異なるにしても、共に利根川東遷事業の結果、廃川となった古利根川跡の新田開発のため旧流路を活用しながら開削された用水路である。

大雑把に言って、古利根川の主流のふたつである会の川筋と浅間川筋は、現在の川口分水工の辺りで合わさり、そこから南流、東流に分かれた、という。この川口分水工から南流する川筋が現在の葛西用水、東流する川筋が中川筋ということになる。
また、もう少し正確に言えば、東流する川筋には、現在の利根川が東遷事業によって人工的に開削される以前、利根の流路に阻まれることなく台地を南流してきた渡良瀬川が合流していたようだ。先回の散歩で出合った稲荷木落もその流路のひとつとも言われる。
現在の中川筋とは、南下した渡良瀬川が島川・権現堂川そして庄内古川を経て松伏の金杉で江戸川に合流していた「渡良瀬川」とみなしても、いいかと思う。 今回の一連の散歩は古利根川を下る旅。会の川筋、浅間川筋を歩いた後は、会の川筋、浅間川筋が合流した辺りという川口分水工を始点とし葛西用水をくだり、葛西用水の送水路として組み込まれた大落古利根川までくだろうと思う。

本日の散歩;東武伊勢崎線・鷲宮駅>青毛新堀川>江川堀>青毛堀川>天王新堀>葛西用水・川口樋前橋>川口分水工>会の川が伏越で中川に落ちる>葛西用水輿八圦跡の碑>中川>北側用水>葛西用水を下る>天王新堀川が接近>葛西橋>東北新幹線>薬王院橋>琵琶溜井に向かう>琵琶溜井分水工>中郷用水・南側用水の分水箇所>日光御成街道道標>大落古利根川起点・葛西橋>葛西用水・青毛堀川合流点へ>中落堀川に沿って久喜駅に向かう

東武伊勢崎線・鷲宮駅
本日の出発点、川口分水工の最寄り駅、東武伊勢崎線・鷲宮駅に向かう。駅の東に水路があった。青毛堀放水路(青毛新堀川)である。鷲宮駅の少し上流で後述する青毛堀川から分かれ、東武伊勢崎線に沿って一直線に下り、2キロほど下流で再び青毛堀川に合流する。
青毛堀放水路(青毛新堀川)
名称からも想像できるように、如何にも河川改修に伴い開削された水路と思える。大正8年(1919)から昭和11年(1936)にかけて青毛堀川の改修工事が実施されたようであり、その時期に開削されたものであろうか。

江川堀
青毛堀放水路を見終え、駅から川口分水工へと向かうのだが、地図を見ると駅の南に水路があり、水路は青毛堀川に合流している。すこし遠回りとはなるが、ちょっと立ち寄る。
道を成り行きで進むと橋にあたる。「くずめこばし」とある。メモの段階でチェックすると、「葛梅小橋」と書き、川は「江川堀」とあった。
江川堀
青毛堀川との合流点
Wikipediaには。「埼玉県加須市船越(西側)と水深(東側)との境界の水深側より端を発し、加須はなさき公園の南側を沿うように東流し、やがて久喜市鷲宮区域内を東流し青毛新堀川と平面交差する。平面交差のために流水の多くは青毛新堀川へと流下するが、江川堀の水路はそのまま東へと進み、砂原1丁目・上内・鷲宮の境界付近にて青毛堀川へと至り、終点となる。なお、青毛新堀川より青毛堀川までの区間では一部を除き、平常時は水がない」とあった。

青毛堀川
江川堀に沿って進む。Wikipediaにあるように水は青毛新堀川に一度落ちたためか少ない。ほどんと水がなくなった先、久喜市立砂原小学校の南端を暗渠で抜けると、何故か水が増えていた。
ともあれ、その先で江川堀は青毛堀川にあたる。Wikipediaに拠れば。「青毛堀川(あおげぼりがわ)は、埼玉県加須市から久喜市までを流れる河川で、騎西領用水(新川用水)およびその分水となる用水路の農業排水路である。久喜市太田地区では青毛を「オオゲ」と発音していたことから、青毛堀川を「オオゲボリ」と呼称する姿が見られる。
加須市下高柳の北青毛堀川(私注;加須市串作)と南青毛堀川(私注;加須市道地)の合流地点に「一級河川青毛堀川起点」の碑が設置されており、久喜市吉羽の大落古利根川との合流地点に「一級河川青毛堀川終点」の碑が設けられている。大落古利根川との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点であり、それを示す標石が橋の袂にある。(中略)青毛堀川という名称は古くには上流より野久喜村までは川幅があまり広くなかったが、青毛村に至り川幅が広くなることからこの青毛村にちなみ青毛堀川という名称がつけられた(後略)」とある。
大落古利根川の起点
葛西用水の流路解説に、大落古利根川が葛西用水の一部に組み込まれている、ってあるのだが、大落古利根川の始点がよくわからなかった。地図で見ると、葛西用水と青毛堀川が合流する下流に「大落古利根川」とあるのだが、どちらの水路のどの辺りが大落古利根川の起点かはっきりしなかったのだが、上記記述で、「(青毛堀川と)大落古利根川(葛西用水と読み替える)との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点、のようである。
騎西領用水(新川用水)
新川用水は加須市騎西町外田ケ谷で見沼代用水から取水し、騎西領(加須市、久喜市)の水田へ用水を供給し、白岡市で元荒川まで流れるが、途中で悪水をこの青毛堀川などの排水路(悪水落)に落としたようであり、結果的には大落古利根川に流れ込み葛西用水の加水の機能も果たすことになった。
この用水は往昔、古利根川の主流のひとつと言われた会の川より羽生市砂山で分かれ、南に下ったとされる日川(にっかわ)の自然堤防の微高地を利用したものと言われる。

天王新堀
青毛堀川を少し上流に進み、成り行きで北に折れる。県道410号を越えると水路にあたる。メモの段階でチェックすると「天王新堀」とあった。Wikipediaに拠れば「江戸時代に天王堀(てんのうぼり)として開削された葛西用水路の排水路で、当初は加須市を起点とする六郷堀とは別の河川であったが、現在では接続し、六郷堀の下流河川となっている。

六郷堀は加須市南大桑と久喜市鷲宮の境界付近に位置する東武伊勢崎線の橋梁西方付近で天王新堀と名を変える。流路は青毛堀川(南側)・葛西用水路(北側)との間をほぼ並行して流下している。久喜市鷲宮などの市街地では都市排水路を兼ねながら流下したのち、鷲宮(西側)と西大輪(東側)において境界を成しながら、水田などの農地の中を流下する。この周辺より野久喜字出来野の北方の水田まで、天王新堀は用悪水路(用水路兼排水路)となり、排水路としてだけではなく水田への用水としても利用されている。
久喜市野久喜および西大輪との境界に設けられている水門(天王堰)にて平沼落川を分水する。久喜市青毛で流路を南方に変え、埼玉県道153号幸手久喜線(久喜幸手新道)を横断、青葉2丁目より流域が再び市街地となり、同地の県営住宅の西側を流れ、青毛堀川に合流する」とある。

六郷堀?どこかで出合った記憶がある。思い起こすと、会の川散歩の三回目に出合った。そのときのメモを、ママ再掲する。
六郷堀
「花崎駅の少し手前で用水路と出合う。左右の護岸は都市型用水路で良く見る、鋼矢板と支保工のセット。継手を嵌め込みながら連続して鋼矢板が撃ち込まれ、鋼矢板の横からの荷重を天端で支保工が支える。当日は昔の農業用水の名残であろうと、まま駅に向かったのだが、メモの段階でチェックすると六郷堀川と呼ばれる用水であった。
源頭部は加須市東栄1丁目辺り(加須駅の東)というが、暗渠ではっきりしない。地図を見ると東に流れ久下浄水場の少し西で開渠となり花崎駅の北を通り、東北自動車道の手前で南に折れ、東武伊勢崎線を越え更に南に進み青毛堀川に落ちる。
が、ここで青毛堀川に落ちるのは余水吐、本流は東北自動車道を越え東に向かい、久喜市鷺宮町に入る。水路は東に向かい、東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としながら久喜市鷺宮町に入り、鷲宮神社の北を更に東に向かい、葛西用水手前で南に折れ、葛西用水と並行して南に下り東北本線、東北新幹線を越えて久喜市吉羽で青毛堀川に落ちる。
尚、久喜市鷲宮町に入ると、そこから下流を天王新堀と称する。東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としているが、そのあたりが六郷堀川と天王新堀の境であろうか。天王新堀と言えば、鷲宮神社を訪れた時に出合ったことも思いだした。
あれこれ歩いていると、これまたあれこれと繋がるものである。

葛西用水・川口樋前橋
北に進み、県道152号を越える辺りから市街地を離れ、農地の中を進むことになる。しばらく進むと葛西用水に出合う。用水路に沿って少し北に上ると「川口樋前橋」に出合う。
「樋前」の「樋」が何時の時代のものを指すのか不明ではある。この橋の上流にかつて「川口溜井」があったとのことではあるので、圦樋(取水口)のことではあろうかと思う。

溜井
溜井とは灌漑用貯水池と遊水池を兼ねたもの。江戸の川普請に度々登場する伊奈氏の「関東流」治水開発モデルでもある。その特徴とするところは、上流の排水を下流の用水として使用する「循環型」の思想、また洪水対策も霞堤とか乗越堤といった名の通り、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想である。
こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴である。しかし、それゆえに問題もあり、なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と言われてもいる。因みに関東流に対するものが見沼代用水に見られる井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流と呼ばれるものである。
葛西用水と溜井
溜井は葛西用水を特徴づけるものである。現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものであり、その歴史的経緯の要点に溜井が登場する。葛西用水と溜井の関係をまとめておく。
亀有溜井
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、この川口の地で二流に分けるも、その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。
◆綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「戦国時代の頃は利根川と荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。
今の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれて綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備中堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は,水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、庄内領中島(幸手市)より中島用水を開削し,寛永18年(1641)になると太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになるが,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)といわれている。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から古綾瀬川へと落とす水路が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。

川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ琵琶溜井が造成され,そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削された。琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。琵琶溜井は後ほど訪れる。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上、溜井のまとめをしながら、結局は葛西用水成立の歴史ともなった。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用しながら、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

川口分水工
かつて川口溜井があったであろう水路を少し北にのぼると川口分水工がある。ここが本日の散歩の起点である。
この分水工で本流は南下、そして左岸に北側用水を分ける。上述の如く、かつては川口溜井から加用水として権現堂川(島川筋)に水を流した北側用水であるが、現在は権現堂川用水の加用水となっているようである。
北側用水・権現堂川用水
権現堂川用水は、現在の権現堂川(権現堂川調整池)対岸の中川より分水し、国道4号の東に沿って下り、幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて西より流下してくる北側用水路に合流し、権現堂川用水路に加水される。その後県道371号の南を東流し、県道371号と交差した後は下吉羽で流路を南に変え、中川の西に沿って平野、中野、長間と下り、北葛飾郡杉戸町に入り、並塚、才場、蓮沼をへて大塚で中川右岸に合流する。

会の川が伏越で中川に落ちる
先日会の川を3回に分けて歩いた最後に、会の川が葛西用水路に最接近する会の川分水工(合流工?)に出合った。ちょっと目には葛西用水路に合流するようにみえるのだが、葛西用水にあわさる水量調整用のゲートがあるにしても、会の川本流はそのまま葛西用水と仕切られた水路を葛西用水と並行して下る。 葛西用水と仕切られる理由は、会の川の水路は葛西用水の水路より低く、洪水時に葛西用水から会の川に逆流することを防止するため、と言う。しばし葛西用水と平行して下る会の川の水路はこの地の調整ゲートで葛西用水を潜り中川に落とされる。

葛西用水輿八圦跡の碑
少し上流の川口橋を渡ると、葛西用水左岸に「葛西用水輿八圦跡の碑」が建つ。 輿(与)八圦とは上流の羽生領(羽生市・加須市)、向川辺領(旧大利根町;現加須市)、島中領(旧栗橋町;現久喜市)の悪水を島川(現.中川)から葛西用水へ加用水(用水の補給)として流入させていた圦樋(樋管)のようである。 万治3年(1660)、幸手領に利根川を水源とする用水整備が始まる以前、羽生領、向川辺領、島中領の悪水は、川口付近で島川(当時は権現堂川の旧流路)と古利根川へ落とされていたようだが、享保4年(1719)の葛西用水の開削に伴い、古利根川筋は島川や浅間川から切り離され幸手領の用水路として整備されたため、上記地域の悪水を幸手領へ流すことができなくなった。
そのため上記地域の悪水は島川に落としていたようだが、島川も権現堂川の高い水位(多分江戸川と繋がれたため?)に阻まれ排水が困難になっていた。その排水のために天保12年(1841)設けられたのが輿八圦である。島川から圦樋(樋管)で葛西用水の加用水として落とした、とのこと。幸手領用水の整備にともなって途絶えていた古利根川筋への悪水落がおおよそ200年の時を経て「復活」したともいえる。
この輿八圦も昭和初期に実施された中川の改修によって、羽生領の悪水を中川へ落とすことになったため廃止され、羽生領の悪水は現在、川口分水工の付近で、中川放流工を経由して、中川に落とされているようである。

中川
葛西用水の直ぐ東に中川が流れる。「中川」とはいうものの、前述の如くこの川は「人工的」に造られたものであり、それも大正から昭和初頭にかけて出来上がったものといっていいだろう。
Wikipediaに拠れば、「現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部の古利根川(利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正・昭和時代に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ」、とある。
もう少し詳しくまとめると;
現在の中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点は羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。
現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川・庄内古川筋(太日川。後の江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、当初その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。
低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川跡(大落古利根川)。古利根川筋は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川とつなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。
島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
また、昭和22年(1947)カスリーン台風の大洪水のあと、24年(1949)から37年(1962)にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。
大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋をして中川水系、と言ってもいいだろう。


利根川東遷事業
葛西用水輿八圦跡の碑の少し北に、先回下った浅間川筋の旧路である大王堀排水路が中川に合流する。対岸の高柳地区は江戸の頃、浅間川締切の地でもある。浅間川の高柳地区での締切は元和7年(1621)、利根川東遷事業の新川通りの開通に合わせてのことである。

デテールに入り込み、東遷事業の全体像が見えなくなってきた、ちょっとここで利根川東遷事業に関わる利根川の河道の変遷をまとめておく;利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川の主流は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで、現在の利根川筋から離れていた。流れは南東に切れ込み、加須市川口・栗橋町の高柳へと続く。その流れは浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近い。
で、ここから流れは「島川筋(現在の「中川筋」)を五霞町・元栗橋に進んでいた。ここで北方、古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れ、幸手市上宇和田から南へ下る。上宇和田から先は、昔の庄内古川、現在の中川筋を下り江戸湾に注ぐ。これがもともとの利根川水系の流路であった。
この流路を銚子方面へと変えるのが利根川東遷事業。はじまりは江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事。文禄3年(1594年)、忍城(行田市)の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られることになる。利根川は往古、八百八筋と呼ばれるほど乱流していたのだが、「会の川」はその中の主流の一筋であり、南利根川とも呼ばれていた。
会の川は加須市川口、現在川口分流工のあるあたりで、ふたつに分かれる。ひとつは島川筋(現在の中川)、もうひとつは古利根川筋(現在の葛西用水の流路)。実際、現在でも中川と葛西用水は川口の地で最接近している。こういった流れの元を閉め切り、南への流れを減らすべくつとめた。これが「会の川」締め切り、である。
ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで、東に向かって一直線に進む川筋を開削。これが「新川通り」とよばれるもの。この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切られた。そのため、島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に迂回。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流れとなった。「新川通り」は開削されたものの、すぐには利根川の本流とはなっていない。この人工水路が、利根の流れを東に移す本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年‐44)頃と言われる。
この「新川」の延長線上に開削されたのが「赤掘川」。栗橋から野田市関宿まで開削される。赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだ。が、高柳・伊坂(栗橋町)・中田(古河市)へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。
「新川通り」の開削といった、利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川(中川)に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として実施されたのが「江戸川」の開削。庄内古川に集まった水を江戸川に流す工事がはじまる。
江戸川は太日川ともよばれていた常陸川の下流部であった。この江戸川を庄内古川とつなぐため、北に向かって関東ローム層の台地が開削される。関宿あたりまで切り開かれた。17世紀中頃のことである。
この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭部・関宿まで権現堂川が開削される。同時に、権現堂川から庄内古川へ向かう流れは閉じられた。この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。こうして、南に向かっていた利根の流れを東へと移し替えていったわけである。
ちなみに、現在関宿橋のあたりから江戸川・利根川の分岐点あたりまでは寛永18年(1641年)に開削されたもの。当時、逆川と呼ばれていたようだ。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐことになる。
で、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、ということである。

北側用水
左に中川、右に葛西用水を見遣りながら川口分水工まで戻る。北川用水をその雰囲気だけでも感じてみようと、ちょっと水路に沿って歩く。少し進み、下川面橋で右に折れ、葛西用水に戻る。
北側用水路の流路
北側用水路(きたがわようすいろ)は、埼玉県加須市・久喜市・幸手市を流れる農業用水路である。北側用排水路(きたがわようはいすいろ)とも称される。 埼玉県加須市川口の葛西用水路より分水し、主として中川の南側を沿うように流下し、中川南側の水田地域を灌漑する。幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて北より流下してくる権現堂川用水路と合流し、北側用水路は終点となる。

葛西用水を下る
北側用水から葛西用水に戻り、南に下る。ほどなく、用水をコンクリートの蓋が覆う。何だろう?衛星写真で見ると、コンクリート蓋と同じ幅で用水左岸に区画された土地が見える。その東にも不自然に広いスペースが見える。この辺りまで権現堂堤が続いていた、というのでそれと関連あるのだろうか。不明である。
それはともあれ、新橋、金山橋、新古川橋、古川橋と鷲宮の街中を下ってゆく。さらに、霞が関橋、上古川橋、柳橋、上河原橋と進むと右手から天王新堀が接近してくる

天王新堀川が接近
葛西用水が県道3号と交差する辺りで天王新堀が最接近。天王新堀は本日の散歩のはじまりの辺りで出合った。上述の如く、流路は青毛堀川(南側)・葛西用水路(北側)との間をほぼ並行して流下。久喜市鷲宮などの市街地では都市排水路を兼ねながら流下したのち、鷲宮(西側)と西大輪(東側)において境界を成しながら、水田などの農地の中を流下する。この周辺より野久喜字出来野の北方の水田まで、天王新堀は用悪水路(用水路兼排水路)となり、排水路としてだけではなく水田への用水としても利用されている。
久喜市野久喜および西大輪との境界に設けられている水門(天王堰)にて平沼落川を分水し、久喜市青毛で流路を南方に変え、埼玉県道153号幸手久喜線(久喜幸手新道)を横断、青葉2丁目より流域が再び市街地となり、同地の県営住宅の西側を流れ、青毛堀川に合流する。
平沼落川
Wikipediaに拠れば、「埼玉県久喜市野久喜と西大輪との境にある天王新堀川との分流地点(天王堰、溜井および水門が設けられている)を起点とし、久喜市青葉1丁目と5丁目の境目の地点より青毛堀川に合流・終点となる。 久喜市青葉はかつて平沼土地区画整理事業が行われる以前、(中略)湿田などの耕地であった。平沼とは(中略)青毛堀川の東側に存在していた低地であり、主に水田として利用されていた土地である。またこの水路は平沼落(ひらぬまおとし)とも称される。
平沼土地区画整理事業が立ち上がると、それまでの農業地域から市街化への変化に伴い、これらの水路の流路は整理され、用排水路はほぼ一本の水路としてまとめられた。そして現存しているのが平沼落川である」、とある。

葛西橋
県道3号下平井橋を潜り、河原橋を越え、天王堀川と並走する葛西用水を下ると前方にJR東北本線、左手の土手上に東武伊勢崎線が見えてくる。葛西用水が JR東北本線と交差する手前に架かる葛西橋の辺りで、天王新堀が再び最接近。東武伊勢崎線も土手でJR東北本線を跨ぐ。少し西に青毛堀川が流れるため、東武伊勢崎線もここを通るのであろうが、水路や線路がすべて集まり、結構面白い姿となっている。
JR東北本線の出来野踏切は、天王新堀に架かる天王橋を渡り南に越え、人道橋の外野橋を渡り葛西用水に戻る。

東北新幹線
天王新堀と並走し先に進むと東北新幹線の高架が見えてくる。その高架か北西に高架が分岐している。何だろう?チェックすると、JR東北本線・東鷲宮駅にある新幹線保線基地とつなぐ路線であった。

薬王院橋
平沼落
新幹線の高架を潜り先に進むと薬王院橋に出合う。このあたりから西に向かう葛西用水と南に下る天王新堀が離れてゆく。
地図を見ると薬王院橋の少し南で天王新堀からの分流がみえる。上述の平沼落の溜井、堰らしきものがあった。

琵琶溜井に向かう
葛西用水に沿って小さな水路が並走するが、その水路は天王堀川から分かれた平沼落川ではあろう。少し東に進み流路を南に変えて青葉1丁目と5丁目の境目へと続く水路が見える。
葛西用水は東に向かい大きく弧を描く。途中で、たまや橋、だいにち橋、へいせい橋と続き、県道153号に架かるさいわい橋を越え、べんてん橋を過ぎると 水路が心持ち広くなってくる。琵琶溜井分水工が近づいてきた。

琵琶溜井分水工
ゲートを設けた分水堰が見える。かつての琵琶溜井はこの辺りにあったのだろう。万治3年(1660)に琵琶溜井が設けられた頃は溜池に設けた樋管から中郷用水と南側用水に分水していたとのことだが、現在はコンクリートの隔壁による直流式の定比分水路となっている。昭和37年(1962)に改修されたようだ。 用水への分水量を巡る諍いのもととなった番水制度(取水地域と時間の管理)も廃止された。琵琶溜井分水工の右岸に水路改良記記念館があるが門は締め切られていた(通常締め切られているようである)。
琵琶溜井
既にメモしたが、大雑把にまとめると、承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水の安定ともない古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体の水田開発も進むが、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削。
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ琵琶溜井が造成され,中郷用水と南側用水の2用水が開削された。琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

中郷用水・南側用水の分水箇所
琵琶溜井戸分水工の少し南にある葛西用水に架かる栄水橋を渡り、葛西用水を見遣り、西に進み県道65号の栄水橋東詰交差点辺りから葛西用水から分かれる中郷用水、南側用水の分流点を確認する。
中郷用水
Wikipediaに拠れば、「中郷用水路(なかごうようすいろ)は、埼玉県幸手市・北葛飾郡杉戸町を流れる農業用水路である。埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として倉松川周辺の水田地域を流下し、幸手市南西部および北葛飾郡杉戸町の中央部を灌漑する」とあり、余水は中川に吐く。
南側用水
埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として大落古利根川より東側の水田地域を灌漑する。用水路は現在でも開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。北葛飾郡杉戸町杉戸4丁目より周辺は市街地となり、南側用水路は暗渠化され地上は遊歩道となる(Wikipedia)。


日光御成街道道標
県道65号・栄水橋東詰交差点脇に石橋があり、「史跡 御成街道道しるべ」と書かれた木標があった。馬頭観音が道標を兼ねているとのことで、「西、く起(久喜)/志よう婦(菖蒲)/かず(加須)、道 右 日光/左 い王つき(岩槻)、道 と刻まれている」とのことである。
日光御成道
日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道である。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。

大落古利根川起点・葛西橋
葛西用水に戻り、下流へと。圏央道の高架を潜れば葛西用水と青毛堀川との合流点も近い。合流点から下流は基本的に葛西用水の一部として組み込まれている「大落古利根川」である。

葛西用水の左岸には青毛堀川との合流点付近には橋が無いため、右岸を進み、合流点手前の「かさい橋」に。「大落古利根川」の起点を探す。「青毛堀川と大落古利根川との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点であり、それを示す標石が橋の袂にある」とのことだが、見つけることはできなかった。

葛西用水・青毛堀川合流点へ
葛西橋を右に折れ、青毛堀川に沿って少し戻り迂回して葛西用水・青毛堀川合流点に向かう。再び圏央道を潜り「かわら橋」、その上流の「江口橋」辺りに「大落古利根川起点」の標石がないものかと彷徨うが、見つからなかった。
起点標石探しは諦め、青毛堀川を葛西用水との合流点まで進む。一応合流箇所を確認し、合流点の下流「大落古利根川」をそのまま下る。
本日の散歩はこれで終わり。最寄りの駅である久喜駅に向かう。

中落堀川に沿って久喜駅に向かう
どうせのことなら水路に沿って駅に向おうと、大落古利根川を少し下ったところで合流する水路に進む。水路を上っていけば久喜駅に繋がる。
この水路、途中で「中落古川」とわかったのだが、水路に沿って道はない。なんとかなるかと、そのまま進む。少々難儀なところもあったが国道368号を越え「備中岐橋」に。
そこから先は川に沿って歩けそうもないので、成り行きで進み、向地橋辺りで再び中落堀川にあたり、其処から先は水路に沿って整備された道を向地大橋へと進み、水路に沿って久喜の駅前まで戻り、一路家路へと。
中落堀川
Wikipediaをもとに簡単にまとめると、「中落堀川(なかおとしほりがわ)は、埼玉県北東部を流れる準用河川である。歴史は比較的古く、元禄6年(1693年頃)にすでに排水路として描かれている。昭和29年(1954)に合併するまでは、久喜町(現:久喜地区)と太田村(現:太田地区)の町村界を成していた。
今日では、久喜駅の北北西数キロメートルの場所を起点に、久喜区域の市街地を西から東へほぼ貫流し、いくつかの水路と合流した後、大落古利根川に合流・終点となる。久喜駅北側(東口)より本川終点までコンクリート護岸がなされている。