水曜日, 10月 26, 2005

世田谷区散歩 Ⅱ:杉並・和泉から世田谷・三軒茶屋

昭和女子大で学会がある。特段の仕事があるわけではない。が、会社の仲間が参加しているので、ちょっと顔だけだそう、ということで散歩にでかける。場所は世田谷区・三軒茶屋。自宅から7キロ程度だろう。大体のコースは、杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大、といった段取り。(水曜日、10月 26、2005)


本日のルート;杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>世田谷城址>世田谷線上町>烏山川緑道>国士舘大学>若林公園>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大


京王井の頭線・明大前から東松原駅に進む
自宅を出て京王井の頭線・明大前に。京王線と井の頭線が交差。井の頭線に沿って南に。松原の町並みを成り行きに歩き、京王井の頭線・東松原駅に。松原の名前は世田谷城主・吉良氏の家臣・松原佐渡守がこの地を開いたことによる。

羽根木公園

駅のちょっと南に羽根木公園。前々から気にはなっていたのだが、今日はじめて訪れる。周囲よりちょっと小高い丘。六郎次という鍛冶屋が住んでいたことから「六郎次山」とか、東武・根津財閥が所有していたため「根津山」とも呼ばれていた、と。納得。

小田急線梅が丘駅
公園の南地区には梅林がある。公園のすぐ南に小田急線の梅が丘の駅。この駅名、梅が丘という地名から付けられたわけではない。駅設置の誘致活動の際、誘致活動に献身した地域の大地主・相原家の家紋が「梅鉢」だったから。「梅が丘」という駅名ができて、地名ができたわけだ。梅林の中に、大宰府からもたらされた、という紅梅・白梅のペアと菅原道真の有名な句「東風吹かばにおいおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘れじ」があったのはご愛嬌。

北沢川緑道

公 園を出て小田急・梅が丘の駅に。散歩に際しては駅には必ず寄る。地域の案内板を見、見所・道順などを確認するため。案内板に北沢川緑道の案内が。北沢川は京王線・上北沢駅の南・松沢病院あたりが源流点。実際は水量を確保するため玉川上水から分水され、蛇行を繰り返しながら西から東、というか北西から南東に流れ、三宿・池尻の境あたりで烏山川と合流、目黒川と名前を変えて池尻大橋のあたりから南に区下る。赤堤から池尻まで4.2キロの区間は緑道として整備されており、これが北沢川緑道。
ちなみに池尻って、池の水の落ち口付近という意味。往時、二つの川の合流点あたりは結構な湿地帯であったのだろう。赤堤もいかにも川筋の堤って感じがするし、実際羽根木公園の西・北沢警察署のあたりなど、北沢窪という低地で水路の乱流する湿地だったとのこと。そのそも「世田谷」って、「勢田郷の谷地」ってこと。世田谷区一体に、湿地のイメージのある地名が多いのもムベ成るかな。

小田急線豪徳寺駅

北沢川緑道散歩は別の機会にし、梅が丘駅からは小田急線の高架下を西に豪徳寺駅に。小田急豪徳寺駅あたりで交差する世田谷線にそって南に下る。世田谷線は2005年で開通80周年。下高井戸から三軒茶屋の5キロを結ぶ路面電車。
つつましやかな商店街を南に。時々寄ってみる古本屋がある。今回は3冊購入。『武蔵野から大東京へ(白石寶三・中央公論社;昭和8年刊)』、『風駆ける武蔵野:もうひとつの埼玉二千年史(大護八郎・歴史図書社)』、『わが屍は野に捨てよ:一遍遊行(佐江衆一;新潮社)』。2週間後に熊野古道を歩くので、一遍上人の本が見つかったのは本当にラッキー。ぶらり古本屋巡りも散歩の楽しみのひとつ。

豪徳寺

豪徳寺に。このお寺、大田道潅が活躍する時代だから、江戸時代よりずっと昔、この地を統べる世田谷城主吉良氏が伯母のために建てた弘徳院がはじまり。その後江戸時代に入り、彦根藩が世田谷領20カ村を領有するに至り彦根藩主、井伊家の菩提寺となる。「豪徳寺」は藩主井伊直孝の法号から。境内には井伊家代々の墓。安政の大獄を断行し、結果、桜田門外において水戸・薩摩の浪士に暗殺された大老井伊直弼の墓もある。
で、豪徳寺といえば招き猫。なにがきっかけで豪徳寺=招き猫、と刷り込まれたのか覚えていない。縁起をまとめてみると;昔このお寺は貧乏寺であった。和尚は乏しい食を割いて猫にあたえる。が、愚痴もでるようで、曰く「これほど面倒見ているのだから、たまには恩返ししてよ」。ある日、門前騒がしい。お武家が。曰く「鷹狩から戻る途中、白猫が手招きする。なにごとがと寺に入った」。和尚、中に招き入れ、法話など。にわかに雨、そして門前に落雷。武家曰く「我、彦根城主井伊直孝なり。落雷よりの命拾い、そして、ありがたき法談に感謝」。この寺、井伊家の菩提寺となり、一大伽藍の寺となる。これも幸運招来の猫のゆえ、と。

世田谷城址
豪徳寺を出て東に。前方に豊かな緑の小高い丘。これはなんだ?高さのある土塁、櫓台と深い空堀、それも二重の堀がしっかり残っている。これって石神井散歩のときに訪れた石神井城と同じつくり。入口に案内板。世田谷城址であった。
この城、南北朝期の中頃に、足利氏の同族である吉良氏が築城したと言われる。本家筋の三河吉良氏(吉良上野介の流れ)は「足利幕府に世継ぎがない場合は吉良氏より」といわれるほどの名門。上野国に下向した武蔵吉良氏も関東公方に仕え、関東管領上杉氏に次ぐ名門。
14世紀中盤に吉良治家が鎌倉公方・足利基氏よりこの地を拝領。世田谷城に居住する。 治家の子・成高は太田道灌と同盟し、長尾景春の乱に呼応し兵を挙げた豊嶋氏に対して道灌とともに戦い、江戸城を防衛。道灌から「吉良殿様」と呼ばれ、また「従四位下」という高い官位のゆえに、「世田谷御所」と通称された。
戦国時代は小田原北条氏に属し、世田谷城は北条氏直轄となる。吉良氏は蒔田(横浜市南区東洋英和女学院の敷地)に移り「蒔田氏」と称する。 小田原の役の後、世田谷城は廃城。吉良氏は秀吉により領地没収。が、江戸期には高家「蒔田氏」を名乗り旗本となった。

世田谷線上町駅
世田谷城址を出て、城山通りを下る。城山通りの由来は、この世田谷城から。南に下り、世田谷線上町駅に。途中に烏山川緑道の案内。気にはなったのだが、先を急ぐ、ということで駅前に。世田谷通り脇に地域の見どころ案内が。緑道、というか川筋に目が行く。蛇崩川緑道、そして、さっきの烏山川緑道の案内。
蛇崩川緑道のメモ;蛇崩川(じゃくずれがわ)は馬事公苑の近くを源流に持ち、弦巻から上馬に。上馬5丁目の小泉公園のあたりから緑道に。駒留陸橋で環七と交差。世田谷警察署近くで国道246号と交差。下馬を越え、世田谷公園の南、蛇崩交差点近くに。
あとは上目黒を越え、東急東横線と交差し、東横線にそって中目黒駅に続き、駅近くで目黒川に注ぎ込む。5~6kmの川。赤土を崩して蛇行していたため、この名がついたと言われている、と。
烏山川緑道のメモ;烏山川は井の頭線久我山の南、烏山寺町の高源寺あたりが源流。北烏山寺町通り中央高速と交差。南烏山3丁目で甲州街道と交差。芦花公園・世田谷文学館あたりを通り、船橋7丁目の希望丘公園から緑道となる。
経堂駅西で小田急と交差。蛇行し宮の坂から環七を若林駅北で交差。三宿池尻で北沢川緑道と合流、目黒川となる。世田谷区船橋7町目から三宿三丁目あたりまでの緑は道6.9キロ。どちらの川筋も結構面白そう。次回はこれらの道を歩いてみよう。

烏山川緑道
で、この烏山川緑道、結構迂回はするが、次の目的地の松蔭神社の近くに続いている。ということで、少し戻り、烏山川緑道に。暗渠の上の遊歩道。道との交差。昔の橋のあたりに必ず案内板。このくらいガイドがあればわたしのようなずぼらな散歩者には大助かり。
適当に進み、国士舘大学の裏を越えたあたりで若林公園右のサイン。松蔭神社はこの公園の隣。公園を抜けていくことに。異常なほどの家族連れ。??松蔭神社がお祭りであった。

松蔭神社
松蔭神社の隣に明治の元老桂太郎のお墓。門下生ではないが松蔭を慕っており、遺言で松蔭の近くに眠るべし、と。松蔭神社。安政の大獄に連座し伝馬町の獄中にて憤死した吉田松陰をまつる。時世の句;「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」。千住小塚原に埋められた松蔭と頼喜三郎のなきがらを高杉晋作、伊藤俊介(のちの伊藤博文)が長州藩の抱え屋敷(藩が私的に持っていた屋敷のこと)のあったこの地に運び改葬。明治にはいり松蔭神社が建立され現在に至る。
神社内には松下村塾を模した家屋が。お祭りでもあり、時代装束を着た今風の若者がお客さんと写真を撮っていた。これも愛嬌でありました。それにしても安政の大獄を仕掛けた井伊直弼と、仕掛けられた吉田松陰が1キロも離れていない場所で眠るのは、歴史の皮肉か。

三軒茶屋
松蔭神社を出て商店街を南に。世田谷線松蔭神社前を越え、松蔭神社入口の交差点で世田谷通りを左折、一路三軒茶屋に向う。1.5キロの道のり。近くに北原白秋の旧宅があったようだ(若林3丁目15)。が、見逃す。とはいうものの、人生27回引越しを繰り返したということだから、散歩につれいろんなところで顔を現すかも。実際先日、砧の散歩で旧宅があったなあ、と。
若林の交差点で環七を越え、太子堂4丁目から三軒茶屋。江戸時代、このあたりは交通の要所。お宮参りや行楽の人々のための3軒の茶屋があったことからこの名がついたという。246号線を南側に渡り昭和女子大に到着。本日の予定終了。


今回のメモをするために地形図をつくって、いやはや世田谷って、世田の「谷」であることを実感。普通の地図ではこの地形の「うねり」はわからないだろう。地形図をもとにまとめておく;
世田谷の大半は、西は仙川あたりの「国分寺崖線」、北を「甲州街道の尾根筋」に挟まれた南東に向って扇形に広がっている。甲州街道=玉川上水の尾根筋は世田谷北部の烏山川水系・北沢川水系と杉並南部の善福寺川水系の分水嶺でもある。
世田谷の地は武蔵野台地の南の端であり、複雑に入り組む尾根筋が特徴的。武蔵野台地の地下を流れる地下水が、おおよそ標高30メートルから40メートルのあたりで伏流水となって地上に現れ、各河川の源流となり、台地を削り複雑な谷筋や沢筋をつくっている。
水にまつわる地名が多いのはすでにメモしたとおり。こういった地形上に江戸末期までの古道が走る。甲州街道、滝坂道、品川道、大山道、登戸道、厚木街道。これらの街道は東西方向に尾根道を走る。
この地域の沢から流れ出す川筋、烏山川、北沢川などが西から東に向かっているわけだから、アップダウンを避け、さらには増水時の交通遮断を避けるためには自然の理だろう。この川筋を源流点から地形のうねりにそって目黒川まで下ってみよう。近々に。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

火曜日, 10月 25, 2005

多摩丘陵散歩 Ⅳ;南大沢から若葉台

多摩丘陵散歩も4回目。先回尾根筋を詠み誤り「襷」をつなげることができなかった、唐木田から南大沢の尾根道をつなげようと家を出た。


本日のルート:京王線南大沢>尾根緑道>尾根幹線>大妻女子大前>小山田緑地>吊橋>小山田緑地・本園>日大三校前>図師町>別所の交差点>和光学園>真光寺から黒川に


京王線南大沢

京王線南大沢で下車。住宅街を南に下る。例によって成り行きで歩く。とりあえず尾根道に上ればいいか、ってことで前方の緑の高まりを目安に。南大沢中学校のあたり。ちょっと先に見える緑の木々の連なりが尾根道だろう。「右・小山内裏公園のサイン。直進。が、尾根前で行き止まり。

尾根緑道
尾根道の下、住宅街に沿って右へ。小山内裏公園の駐車場、そして尾根緑道。見覚えがある。以前の散歩「尾根緑道・戦車道」で通った遊歩道。地図を確認。唐木 田から南大沢方面への尾根道は多摩丘陵を東西に横切る幹線道路「尾根幹線」の道筋と同じと考えてもよさそう。「尾根幹線」は多摩霊園あたりで「尾根緑道」と交差する。ということで、「尾根緑道」を、「尾根幹線」との交差まで戻る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


先回の「尾根緑道」散歩とは逆方向。尾根道を南東方向に1.5キロほど歩く。左方向、相模原方面の眺めが開ける「展望台」のあたりで「尾根幹線」が「尾根緑道」に交差。トンネルとして尾根道をくぐっているよう。

尾根幹線
「尾根緑道」からの分岐点。左に折れ、大きく湾曲する道を下る。「尾根幹線」に入る。右方向は小山田の緑が「下」に見える。左方向も京王堀の内方面の街の姿が「下」に。確かに尾根道。

唐木田に向って歩く。道の右に小高い尾根筋が見える。が、工事・立ち入り禁止。以前、よこやまの道は唐木田あたりまで整備され、大妻女子大のあたりで道が途切れていた。案内によれば、それ以降も整備予定ということなので、そのための工事・立ち入り禁止、でなかろうか、そうあってほしい、ということにして納得。左前方、はるか遠くに別の尾根道が見える。先回、「南大沢へ」と読み間違って歩いた「からきだの道」・府中カントリークラブがある尾根であろう。

大妻女子大前

ゆっくりとした下り道を東京三菱銀行事務センターとか大和證券研修センターあたりまで。そこからはゆっくりとした上り。堀の内方面・府中カントリークラブへの尾根との分岐点に近づく。大妻女子大前に。先回歩いた「からきだの道」方向の小高い緑を確認。これで、とりあえず尾根道は繋がった。本日の大きな目標はこ れでクリア。次は、小山田緑地・本園へ。

小山田緑地
唐木田の「東京国際カントリークラブ」脇の「よこやまの道」の案内地点。この場所へはこれで3回目。勝手知ったる唐木田の地を道なりに小山田方面に下る。車の通る細い道。小山田緑地・大久保分園、善次ケ谷、そして山の端交差点に抜ける道。里山の風情美しい。

途中、先回「トンボ池」から善次ケ谷へ降りてきた交差地点に。道祖神を目安に左に折れ、「トンボ池」へと進む。当初、小山田緑地・本園に直行の予定ではあったが、先回見つけることのできなかった、小山田緑地・梅木窪分園の吊橋を「走破」せんと、思い直した次第。

「トンボ池」を越え、「東京国際カントリークラブ」脇の尾根道に上る。先回と同じく、尾根道をすこし北東方向に歩く。「アサザ池・吊橋」の案内に従い坂を下り る。「

右・管理所、左・アサザ池・吊橋」の案内を左折。アサザ池に。吊橋へのサインはどこにもない。先に進んだ。が、どうも北に向っているような感じがする。またまた引き返し、アサザ池に。「尾根道」の表示。といっても、どこに向うのかわからない。で結局、安全策をとり、「管理所」方面に下る。

吊橋
少し歩く。案内。「尾根道・吊橋は左」。吊橋へのラストチャンス、ということで尾根道に。アサザ池方面に尾根道を戻る。少し歩くと「吊橋 右」の案内。せっ かく尾根道にのぼったのだから、もう少し尾根道散歩を楽しもうと先に進む。尾根道の峠の手前に再び「吊橋 右」の案内。尾根道散歩も得心したので、右折し吊橋に。尾根と尾根をつなぐ橋だった。下は湿地なのだろうか。橋を渡り尾根道に。右が左か、どちらに行けばいいのか指示がない。右に行く。「吊橋右」のサイン。?今さっき吊橋を渡るために右折した場所。??要は、同じ尾根道、それもおおきく湾曲している尾根道をショートカットする橋であったわけだ。引き返す。尾根道を下り、小山田緑地・本園に。
小山田緑地・本園
本園入口に案内。石畳道とか小山田の道とか小山田の谷とか、見晴らし広場とか、球技場とか、結構規模の大きい緑地公園。とりあえず見晴らし広場に。前方に広がる尾根筋は「尾根緑道」だろう、と勝手に思い込む。うす曇ではあるが美しい。時間を確

認。午後4時前。戻りにはどのコースをとろうともいくつか峠越えが必要。ちょっと厳しい。ここから最寄りの駅は、はてさて??唐木田の駅に出るとしよう。

日大三校前

石畳の道を進み、小山田の谷の木橋を渡り、駐車場から道路道に出る。位置が分からない。とりあえず右に折れる。少々歩くと日大三校前の信号。唐木田方面とは逆に歩いている。で、唐木田駅へ、との計画は中止。再度、ルーティング。最短ルートで小野神社前>鎌倉街道・別所交差点>ショートカットで鶴川街道>小田急黒川>京王若葉台とする。とはいっても、いくつ山越えすることになるのか。。。

図師町

図師町を南に下る。左に見える山を越える山越え道があれば、といくつかチャレンジ。が、農家の軒先に。あきらめ、結道地区を越え、松下谷の交差点に。信号が ある交差点。山越えができるであろうと左折。図師・半沢道との案内。といっても、半沢がどこなのかわからない。峠道を進む。結構山が深い。山道に入っていったら、果たしてどうなったことやら。

別所の交差点
先に進む。なんとなく見たことのある景色。先回野津田公園を歩いたとき展望公園から降りてきた日本ろう話学校の交差点。右に行けば芝溝街道・並木交差点。
小野路へと動くため左折。野津田公園に沿って峠道を上る。結構長い。車の往来も激しい。野津田高校入口あたりで峠のピーク。後は万松寺谷地区を下る。思った より長い峠道。小野神社前に。右折し最初の信号を左折。鎌倉街道へのショートカットができそう。ここも結構な峠道。目的地まであといくつ峠を越えることやら。別所の交差点。鎌倉街道にやっと到着。
別所の交差点からはショートカットで小田急・黒川へと目論む。といっても詳しい地図があるわけでもなし、たよりは道と思しき、地図上の細い線の連なりのみ。とりあえず幹線から離れ、住宅街に。道なりに進む。次第に坂を登る。山に向う。どうも尾根道に連れて行かれているよう。

和光学園

日もとっぷり暮れてきた。もう足元は殆ど見えない。尾根道を進む。車が通っているので少々安心。街の灯を求める。が、周りは真っ暗。とりあえず下りたい。が、アップダウンが続くものの、尾根道が続く。やっとすこし大きい道路道に当たる。右に行くか、左に行くか、どちらも道は下っている。はてさて。で、右に、尾根道から下る。住宅街を歩く。一安心。学校が。和光学園と。

真光寺から黒川に

先にすすむと大きな道路道。予定していたところより結構南に出てしまった。地図を確認。道なりに進み真光寺地区を越え、真光寺十字路・真光寺中央で鶴川街道に合流。左折し一路小田急・黒川に。しかしこの鶴川街道の黒川への峠越え、過去最悪の散歩道であった。

結構長いつづら折れの峠道。周囲は真っ暗。歩道はなし。歩行者は逃げ場なし。何度か危ない目にあった。本当にひさしぶりに身の危険を感じた道路道・峠越え。小田急の高架が見え、道路わきに歩道が現れたときにはマジで安堵のため息。で、小田急を越え、京王線若葉台の駅に着き、長かった

本日の予定はこれで終了。結構きつかった。最後の峠道が。
それにしても本日は、如何にも、行き当たりばったりの散歩。成り行き任せも、ほどほどにしなければ。。。

後日談;この夜道での経験から、ライトを確保。ヘッドライトである。その後、ライトを使わなければならなかったのは、夜の滝山城跡への上り、くらい。夕暮れまでには丘とか山は下りるようにしている。






金曜日, 10月 14, 2005

多摩丘陵散歩 Ⅲ:よこやまの道縦走

多摩丘陵散歩の3回目は、「多摩よこやまの道」。最初の散歩のときも、第二回の時も折に触れ、顔を現した尾根道。過去2回の散歩はどちらかといえば南北の歩き。今回は東西に続く尾根道を歩き、過去2回の縦糸に横糸を織り込もう、と思ったわけ。



本日のルート:京王永山>よこやまの道>黒川瓜生往還>丸山城跡>分倍河原合戦前夜の野営地>並列する古街道>古道五差路>現在の鎌倉街道>鎌倉古道に出会う>奥州古道と石仏群>唐木田>唐木田より西に進む>からきだの道>京王堀の内

京王永山
京王永山で下車。駅前の大規模ショッピングセンターを通り抜け南に歩く。永山北公園、永山南公園と進み公園内の「諏訪永山ふれあいの道」を東に。少々つつま しやかな団地内商店街の前をすすみ、「電車見橋」を渡り多摩東公園に。電車見橋の下には京王、小田急線が走る。結構大きな公園。公園内の陸上競技場に沿って歩き、北東の端に。

よこやまの道
尾根幹線道路を跨ぐ「弓の橋」を渡れば、眼前に小高い緑の連なり。階段を上れば「丘の上公園」。「よこやまの道」のスタート地点。

黒川瓜生往還
気 持ちのいい遊歩道。尾根幹線道路沿いに小高い尾根道を歩く。エコプラザ多摩のあたりに「よこやまの道の碑」。なんということのない石碑。道脇に案内板。 「黒川瓜生往還」との合流点。案内によれば、「黒川・瓜生往還とは:川崎市の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた往還道。黒川の「黒川炭」や「禅師丸柿」を八王子方面や江戸に運ぶために使われていた」、と。

丸山城跡
黒川配水場の裏、というか表というか、小高い盛り上がりのあたりにまた、案内板。「丸山城跡」の説明。「古代東海道と丸山城;古代東海道は、今の東海道とは異なり、相模の国府と武蔵野国府間は多摩丘陵を通っていた。黒川配水場の高台は丸山城と呼ばれ、古代東海道の物見や狼煙台として使われていたよう」、と。ちなみに相模の国府は平塚にあったとされる。

分倍河原合戦前夜の野営地
「よこやまの碑」のすぐ近くに展望広場。いい眺め。富士山、丹沢、は言うに及ばず、天気がよければ秩父、淺川沿いの七生丘陵、狭山丘陵まで見渡せるとのこと。 都立永山高校あたりにまたまた案内板。これといって前調べのしない、ずぼらな散歩者にとっては非常にありがたい。「分倍河原合戦前夜の野営地」の案内; 「分倍河原の合戦全前夜、北条泰家率いる幕府軍は、このよこやまの道の尾根道で息をひそめて一夜を明かした」、と。最初の多摩丘陵散歩のとき、南大沢から分倍河原まで歩いた。行軍の道筋が想像できる。


並列する古街道

すぐまた「並列する古街道」の案内板;「地図のない時代、旅人は現在地や目的地の方向を知るため、尾根道をよく利用した。よこやまの道の尾根には数本の古道が並列する大規模な古道跡がある」、と。

何故、よりによって尾根道など歩くのか、って思いはあったのだが、実際歩いてみてわかったことは、展望というか、見通しのいいことの有り難さ。自分の進む方向が見通せることにより、気持ちが大変楽になる。これだけは、頭で考えているだけではわからない。歩いてはじめてわかること。
尾根道を歩くには、他にも理由がある。むしろ、こちらのほうが本筋のようであるが、昔は尾根道しか道を造れなかった、と言われる。尾根道が最も安定しているから、で

ある。尾 根下の川沿いの崖下など、雨が降るたびに道が崩壊する。どこかで読んだ事があるのだが、牛は怖がりで、「空間」を見た瞬間に足が止まる。川にかかる橋の隙間から下の「空間」など、とんでもないことであった、よう。峠を歩くのではなく、峠しか歩けなかった、というのが本当のところ、だろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

古道五差路
更に進む。国士舘大学の裏手。「古道五差路」の案内;「古道が集まっている交差路。野津田、金井、本町田へと続く古道が。交通の要衝であった小野路の宿を避けて鎌倉に急ぐ古道の近道であった」、と。
古道五差路のあたりで遊歩道は一旦住宅街に入る。そのまま続く細い道があり、よっぽどその道を進もうと思ったのだが、安全策をとり道案内のとおりに大きく迂回しながら住宅街の坂を下る。

現在の鎌倉街道

景色が開ける。眼前の谷筋に大きな道路。現在の鎌倉街道である。道筋に鎌倉街道の案内;「大軍勢が通った現鎌倉街道;現在の鎌倉街道は4.5キロにもなる自然の谷。戦乱の時代には頼朝、新田義貞、上杉謙信などが通り過ぎた」、と。

鎌倉古道に出会う

住宅街、というほどでもないが、山道では決してない道を進み恵泉女学園の前に。ここで、ちょっと「よこやまの道」を離れ、第一回の散歩でアプローチが見つからず涙をのんだ鎌倉古道・鎌倉街道上の道に向う。恵泉女学園の裏手を塀に沿って歩く。「小野路へ」といった素朴な案内板。多分これだろう、ということで山道に入る。手付かずの山道を下る。気持ちがいい。
どんどん下り小野路の街道に。先回一本杉公園から下ってきた小野路のバス停と小野神社前の中間あたりに出た。とっとと「よこやまの道」に戻る。先回一本杉公園から下って来た坂道を戻る。案内板によれば、この道って「鎌倉裏街道」かも。鎌倉裏街道とは;「鎌倉街道のひとつに関所を避けた、通称鎌倉裏街道がある。土方、沖田が日野宿から小野路への出稽古に使った」とか。先般散歩の折の小島資料館の小島家、天然理心流の稽古場もあったとか。この屋敷に出向いてきたのだろう。

奥州古道と石仏群
一本杉公園のよこやまの道に戻る。少し歩くと、よこやまの道が切れる、というか、切り通しといった雰囲気の地形。大きな道路と交差。この道は小野路への道路道。
道路を横断し、住宅街を回り込むようにして再び「よこやまの道」に。「奥州古道と石仏群」の案内が;「奈良、京都へ続く奥州古道(国府街道)。近くに石仏群が」、と。この石仏群は宅地開発によって行き場の失った石仏を、心ある人々がこの地に集めまつったとのこと。

進む。多磨ニュータウン方面でなく、小山田方面、つまりは南への展望が開ける。思わず足を止める。絶景。展望台はない。深い森。豊かな緑。民家というか作業場の柵に寄り添いしばし、眺めを楽しむ。どんどん進む。唐木田に近づく。
尾根道からは離れ、通常の遊歩道になる。東京国際ゴルフ場の近く、KDDIの鉄塔の裏手に「古戦場伝説」の案内;「新田義貞の鎌倉攻めの古戦場のひとつ。犠牲者をとむらう塚の跡、戦にまつわる伝説などが残る」、と。

先回の唐木田から小山田への散歩の際に最初のランドマークでもあった総合福祉センター前に。「奥州廃道」の案内が;「よこやまの道には東北に向う、奥州廃道 (も

っとも古い奥州街道)が。頼朝の祖父頼義、義家の奥州征伐の伝説の残る神社(大国魂、百草八幡、荏柄八幡)はこの道筋にある」、と。

唐木田
先回はゴルフ場に沿って坂道を上ったが、今回は道案内に従い、ゴルフ場脇の山道に入る。ちょっとした公園を抜け山道に。先日の散歩の逆方向からのアプローチ。東京ガスのタンクの近くに、小山田緑地への分岐案内板。;「小山田氏;平安時代、よこやまの道のあたりは朝廷管理の馬の牧場。奥州古道をつかって都に馬を。小山田氏はこの牧場を経営する長官(別当)として秩父から赴任」、と。道を下り先回のスタート地点へ。

唐木田より西に進む

当初の計画では、この唐木田でお仕舞いにするつもりであった。が、この尾根道、どこまで続くのか、もう少し歩いてみようと思った。散歩の途中の展望公園で、この尾根道、西は神奈川県の津久井湖、城山町のあたりまで繋がっているとの案内があったし、それより
なにより、その展望公園から眺めた弓なりに北西に続く連なりがあまりに魅力的であった。そして、ひょっとすればこのよこやまの道を進めば、先回の尾根緑道・戦車道に繋がるのでは、との思いもあった。で、唐木 田より先に進むことに。

からきだの道
だいぶ日が暮れてきた。急がなければ。大妻女子大方面の緑の高まりが尾根ではなかろうか、と歩を進める。大妻女子大前の信号を渡り山というか丘に向って進む。公園が。公園の脇から上りの階段。「からきだの道」との案内。はてさて、どこまで続くのか。
いい散歩道。野趣あふれる山道。アップダウンが激しい。疲れた体には結構厳しい。本当に上り、下りの連続。距離の割に時間がかかる。森の中。薄暗くなる。気はあせる。こちらの思い関係なく、上り下りの連続。展望広場が。とりあえず上る。それほどの展望でもなく、続きの道もない。来た道を戻る。日暮れでなけれ ば結構いい散歩道、などと思いながら歩く。南大沢に近づいているのだろうか。とはいうものの、展望台の案内には多磨センターの案内。ベネッセのビルも遠くに見える。少々不安。進むしかない。

京王堀の内
で、住宅街に。先に電車の高架が見える。高架下に。線路はその先、トンネルに入る。住所表示が。中沢2丁目。あれ?どこだ!地図を確認。多摩センターと京王堀の内の間、府中カントリークラブの丘の手前だった。南大沢にはほど遠い。南大沢方面には、大妻女子大前を丘に向って横切ることなく、大きな道路に沿って進めばよかったようだ。が、あとの祭り。地図で確認したところ、「からきだの道」って、府中カントリークラブの丘の端をつないでいる道筋。ともあれ、京王堀の内に向かい松が谷トンネル上の急な坂道を上り、ゴルフ場を眺めながら坂をくだり、多摩ニュータウン通りをしばし歩き京王堀の内に。本日はこれで終了。今度は、今回襷を繋げなかった、唐木田から南大沢に向う尾根道を歩いてみたい。

水曜日, 10月 12, 2005

多摩丘陵散歩 Ⅱ:小山田緑地から尾根緑道を歩く

一回目の多摩散歩のとき、鶴見川に出合った。帰宅し源流地点を探した。上小山田のあたりだ。里山の雰囲気が色濃く残りなかなか面白そう。行かずばなるまい、ということで、ふたたび多摩丘陵散歩に。



本日のルート;唐木田駅>多摩市総合福祉センター前>清掃工場>よこやまの道・尾根道>トンボ池>山田緑地(本園でなない)>アサザ池>小山田緑地・梅木窪分園>トンボ池>善治ケ谷>小ケ谷>山の端>大泉寺>山の端橋・鶴見川>鶴見川源流の泉>尾根道幹線>長池公園>南大沢駅

小田急・唐木田駅

小田急・唐木田駅下車。多摩センターから西にひと駅。結構落ち着いた町並み。唐木田の由来は唐からの渡来人が開いた田畑があったとか、崖崩れなどで枯れ木で田が埋まったとか、例によってこれもいろいろ。
駅前から小山田緑地へのアプローチ地点・東京国際ゴルフ場を目指す。といっても、駅前からゴルフ場の緑が見えている。そんな距離。
多磨清掃工場の裏手、ゴルフ場との間の道を上る。車の通りも多い。坂を登りきったところにちょっとした公園。丘の上に大妻女子大学・短大が見える。唐木田駅から大妻女子大学・短大に沿ってくる道もある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


小山田緑地
公園に案内板。「多摩よこやまの道」ガイド。案内板前を今来た方向に戻るように尾根道に入る。いい感じの山道。右手は美しい森。左手は開け、多摩の街並が見下ろせる。歩を進める。東京ガスのタンクを左手に見るあたり、小山田緑地・トンボ池への道案内。

奥州廃道
奥州廃道の案内。奥州廃道は、奥州街道最も古いとされる道筋。小山田の大泉寺から東京国際ゴルフ場の中をとおり、唐木田駅の近くを北上していた、とされる。 別名長坂道。昔、唐木田駅あたりにあった地名だが今はない。で、この分岐路、直進すれば「よこやまの道」。右折すれば小山田方面に。


小山田方面に
右折する。鬱蒼とした樹林。大久保分園への分岐。分園の意味もわからず、本道からそれて分園に。急な坂道。結構下りる。これを下りきってしまえば、戻り大変と途中で引き返し本道へ。歩く。左手はゴルフコース。進むにつれ尾根道とゴルフ場の境目がなくなる。トンボ池への案内。下りていく。ちなみに分園。小山田緑地本園に対するもの。

トンボ池
トンボ池へのアプローチ、いかにも里山の雰囲気。畑のあぜ道を進む。子供のころ、日曜には祖母のご下命により家族皆で畑作業にいった、その記憶が甦る。
トンボ池。湿地なのだろう。木の散歩道が整備されている。とはいえ、秋のこの時期にはあまり水はなかった。

トンボ池の横に「小山田緑地」の案内碑が。案内に従って進む。いい雰囲気。里山と畑。道は次第に上りに。結局尾根道に戻る。登りきったところに案内図。案内図のところの三叉路をトンボ池方面に下れば里に向う。が、地図にある尾根道を進み大泉寺に向うことにした。
ふ たたび尾根道というか、ゴルフ場の中を進む。ゴルフのカートとすれ違う。本園、管理所という案内に従って歩く。とはいうものの、この時点では先ほどの分園と同じく、本園も管理所もなんのことかわかっていなかった。本園というのは、このゴルフ場の南にある「小山田緑地」本園のことだった。また、管理所もこの「小山田緑地」本園内にある管理所のことだった。

アサザ池
ともあれ、なにもわからず進む。なりゆき。アップダウンが続く。尾根幹 線へ10分といった指示。が、これでは唐木田駅のほう、というか北に戻ってしまう。南に進みたいわけだ。更に進む。アサザ池、吊橋の案内。進む。アサザ池に。トンボ池同様の湿地。里山風景が心よい。アサザ池から先へと進む。吊橋は?見つからない。後からわかったのだが、吊橋はアサザ池から尾根に上り、尾根伝いに「小山田緑地」本園へ向かう途中にあった。


完全に道に迷う。行き止まり。無理矢理押し進む。道なき道を進む。崖を登る。尾根道に。だが、どこにいるのかわからない。梅木窪分園との表示。進む。またまた行き止まり。向かいに車道が見える。
雑草の中を登山杖で前を確認しながら、なんとか車道に戻る。自動車修理工場などもある。ゴルフ場内なのか外に出ているのかはっきりしない。とりあえず進む。 いまだどこにいるのかわからない。道なりに坂をのぼりはじめる。なんとなく元に戻っている感じ。歩き続ける。結局、トンボ池から上りきったあたり、案内板のあった三叉路に戻ってきた。

大泉寺
トンボ池に向って道を下る。民家・農家の前、畑にそった道を下る。里に下りた。善治ガ谷の町並の中を歩く。栗畑が多い。栗も結構実っていた。道祖神、地蔵が多い。155号線、山の端交差点に。左折。すこし歩いて大泉寺に。

小山田氏
このお寺は平安末期から戦国時代、南北朝にかけこの小山田の荘を統べていた小山田氏の居館跡。桓武平氏の流れをくむ秩父太郎有重が、この地の牧の管理者(別当)として赴任し小山田を名乗ったのが始まり。頼朝旗揚げの時、有重、京都の大番役。関東の小山田一族は平家として戦いに加わる。が、秩父氏の総領畠山氏のとりなしもあり源氏方として活躍する。次郎重義は小野路城、三郎重成は稲毛の桝形城で稲毛氏、四郎重朝は保土谷地方を領して榛谷氏、五郎行重は図師川島の砦を守る。子どもたちもそれぞれ武勇の誉れ高く、特に三男重成は鎌倉幕府の侍大将として名を成し、妻に頼朝夫人政子の妹を娶ったほど。将
軍の義理の弟になったわけだ。
重成の話をもう少々。以前鎌倉散歩のとき、頼朝が橋の完成を祝いに出向いた帰り道、馬から落ちてなくなった、とメモした。その橋というのが、重成がなくした妻の冥福をいのるために相模川にかけたもの。こんなところで、鎌倉散歩と繋がるとは。。。

小山田一族のその後を少々;頼朝の死とともに、小山田一族の勢いは次第に衰えてゆく。頼朝にも篤く信頼されていたこの小山田一族、頼朝亡き後の実権を握らんとする北条時政にとっては目の上のたんこぶ。北条時政の謀略により、従兄弟で武蔵武士の鑑と言われた畠山重忠の謀殺に荷担したとされ、さらに重成はその弟重朝とともに、畠山重忠の死の責任をとらされるかたちで、将軍実朝によって二股川で謀殺された、と。その後、小山田一族は関東や甲州に四散したとか。
大泉寺の開山堂は素朴でしかもどっしりとしたつくり。いい感じ。本堂は鉄筋つくり?少々情緒に欠ける。境内に向って一直線にのびる道、流鏑馬の馬場の名残か。そういえば小山田兄弟、馬術にすぐれていた、と案内に書いていた。

鶴見川源流の泉 
大泉寺を離れ鶴見川の源流点に向かう。長い参道を下り県道155線に出る。都道155号線は町田市図師、都道57号線図師大橋交差点から別れ、尾根幹線道路を抜けて京王堀之内駅、多摩テック、平山城址公園駅を経て国道20号線に合流する都道。道脇の鶴見川に沿って西に進む。


小山田小学校のあたりで川筋は消える。暗渠となっているのだろう。先に進み、小山田バス停のあるあたりで道が分岐。右に折れる155号線と別れ道なりに先に進む。里山の景色を楽しみながら先に進むと鶴見川源流の泉に。道脇にある。 
湧水の水量は多い。日量1,300トン自噴するという。鶴見川の源流はこの湧水と、周辺の谷戸から集められた「絞り水」によってつくられる。北には尾根道幹線の通る尾根。西には尾根道緑道。尾根道緑道は鶴見川と境川の分水界となっている。これらの尾根に囲まれ「鶴見川源流保水の森」が湧水であり、谷戸の水を養っているのだろう。
源流の泉のある70ヘクタールの田中谷、その下手に広がる中央の谷地形、森や多くの谷戸が織り成す里山の景観は、まことに、のんびり、ゆったり。源流の泉で湧き出る水をぼんやり眺め、少し休憩

長池公園
道を先に進む。尾根道幹線に上る。右に尾根道幹線を跨ぐ橋。橋を渡り長池公園に。とはいうものの、道は公園に沿って西に進む。すぐには公園に入れない。後からわかったのだが、そこは米軍の
施設。由木通信所。横田基地の管理下にある極超短波(UHF)の通信中継施設、と言う。 南大沢南交差点近くまで引っ張ってこられ、やっと公園の入り口に。
道なりに進むと、右下に池が見える。この池が公園の名前ともなった「長池」。別所川の水源ともなっている湧水池。この池には浄瑠璃姫の伝説が伝わる。


聖武天皇御世、と言うから、8世紀前半の頃。武州大磯で海に光るもの。漁師が拾い上げると薬師如来。通りかかったのが三河の岡崎四郎。薬師如来を持ち帰り、そのおかげもあり姫を授かる。その姫の名前が浄瑠璃姫。 姫は小山田太郎高家の側室となる。そのとき、守本尊として薬師如来を持参。
小山田太郎高家は北条により滅ぼされた小山田氏の末裔。先ほど訪れた大泉寺に居を構えたあの小山田氏である。高家は新田義貞に従い鎌倉攻めなどに参陣。が、足利尊氏との湊川の合戦で討ち死。義貞の身代わりとして討たれた、と。 
浄瑠璃姫は悲しみのあまり、侍女ともども、この長池に身を投げる。その後、数十年をへたある日、この池の畔を歩く和尚が池に光るものを見る。拾い上げると薬師如来。和尚は持ち帰り供養。多くの人々が参詣に訪れた、と。 長池より湿地に沿った散策路をくだると大きな池。築池、と。農業用の溜池。池の畔を成り行きで進み南大沢の駅に進み、本日の散歩を終える。

金曜日, 10月 07, 2005

多摩丘陵散歩 Ⅰ;多摩センターから玉川学園まで

日曜、娘の学校の文化祭が。とりあえず顔を出し、そそくさと散歩に出かける。京王線沿線でもあるので、多摩へ。鎌倉街道、それもできるものなら古道を歩いてみようかと考えた。どこかで町田市の小野路から野津田にかけて鎌倉古道が残っていると見たことがある。ちょっと距離はあるものの、京王多摩センターから南に下ることにした。



本日のルート;京王多摩センター>多摩中央公園>一本杉公園>小野路>小島資料館>小野神社前>小野神社>野津田公園>日本ろう学校>日本ろう学校入口>芝溝街道・並木交差点>鶴見川>七国山>今井谷戸>藤の台団地>鶴川街道>玉川学園

京王多摩センター

京王多摩センター下車。ベネッセ東京本社のビルの脇を歩く。二日前に来たばかり。この近くに落合遊歩道があるようなのだが、如何せん案内がない。とりあえず南に。

一本杉公園
ベネッセのすぐ南に多摩中央公園が。このあたりに落合遊歩道があればいい、などと期待しながら公園内に。案内はない。道なりに進む。南西に向っている。この公園丘陵の尾根道。結構高い。谷は深い。だいぶ歩いて道が開ける。一本杉公園に渡る陸橋が。

多摩よこやまの道
一本杉公園内に道案内。多摩丘陵の尾根道を西、というか西南に進む「多摩よこやまの道」。多摩丘陵は武蔵の国府から眺めると横に長くつらなる山々。夕暮れの姿などは万葉の時代から「多摩の横山」「眉引き山」などと呼ばれていた、と。
「多摩よこやまの道」は最近になって独立行政法人都市再生機構によって整備されたもの。もちろん、この尾根道自体は古代よりずっと重要な交通路。東国と西国を結ぶ交通の要衝であったわけだ。鎌倉古道、奥州古道、奥州廃道、古代の東海道などの古街道がこの尾根道と並走したり、南北に交差したりしている。この「多摩のよこやまの道」もおもしろそう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




小野路へと
が、本日は西ではなく南の小野路へと下りたい。ということで、案内をじ

っくりチェックする。公園の南出口から小野路へと南に向う道がある。公園内を進む。一度谷地に下り、鉄パイプの階段を上る。丘は高いし、谷は深い。
道の途中に鎌倉街道の案内が。が、どちらに進めばいいのか良くわからない。案内碑の横に、公園からの出口があった。とりあえず先に進む。公園から出る。結構大きな通り。出口にも鎌倉街道の案内。そして「よこやまの道」の案内。鎌倉古道、小野路への道案内はない。
公園出口をうろうろしたが、結局先の公園内の案内碑まで戻ることにした。後日わかったのだが、この案内図、よこやまの道の要所要所にあるガイド。よこやまの道の散歩者が対象であり、よこやまの道の散歩を豊かにするものであり、それ以外のものではなかった。他の道への案内がないのも納得。

鎌倉裏街道?


一杉公園の裏口みたいな出口から外に。が、これも右に行くのか、左に行くのかわからない。右に行ったり、左に行ったり、うろうろ。何度か行き来する。結局は左に、坂を下ることにした。この道は鎌倉裏街道(日野往還・小野路道)、などと呼ばれている道筋(じゃないか、と思う:後日、鎌倉古道は一筋隣にあるのがわかった)。車が来る。古道といった雰囲気ではない。
竹やぶの脇を更に進む。結局麓まで下りてしまった。小野路のバス停留所。古道への思い、絶ちがたく坂道に戻り脇道を山に入る。が、結局それっぽい道は見つけることができなかった。あきらめて野津田あたりの古道に一縷の望みを託す。

小野路
小野路を道なりにすすむ。小野路の地名の由来は武蔵国府・府中の古来の名称・小野郷への道筋であることから。武蔵国府があった府中には小野?の子孫が武蔵の国司として赴任していたわけだ。この小野路、かつては鎌倉と武蔵を結ぶ鎌倉街道の宿場町として発達した。また、この道筋は相模大山不動尊への参道道・大山道でもある。

小島資料館
途中立派なお屋敷。小島資料館。小島家はこの地の寄場名主。名主の総代といった立場。幕末期の当主は近藤勇と義兄弟の契りを結ぶ。ゆえに新撰組の資料が多数保管されている。幕末、天然理心流の稽古場を提供。土方、沖田、山南敬介などが出稽古に先の日野往還をとおり、この小野路のスポンサー宅に出向いていたのであろう。

小野神社
資料館をあとに進む。小野神社前。T字路の角に小野神社。案内板によれば、10世紀初頭小野篁(たかむら)の七代目の孫の小野孝泰が武蔵の国司として赴任した折り、この地に小野篁の霊を祀ったことがはじまり。小野篁は平安時代前期の人。学問の神様。菅原道真の先輩のようなもの。安中期の書家「小野道風」の祖父にあたる。ちなみに栃木県の足利学校の創始者も小野篁となっている。小野郷、府中の小野神社、小野路、このあたりには古代、小野一族が活躍していたのであろう。

ちなみに多摩市(聖跡桜ヶ丘)と府中市に小野神社がある。武蔵各地から大国魂神社・総社六所明神に勧請された六社のうちの一宮と言われる。府中の地に国府ができ、「府中」と呼ばれる以前は小野郷と呼ばれたことも頷ける。ちなみに武蔵六社とは、小野神社(府中市・多摩市) 小河神社(都下あきるの市) 氷川神社(埼玉県大宮市)秩父神社(埼玉県秩父市) 金佐奈神社(埼玉県児玉)杉山神社(神奈川県横浜市)。一宮であった小野神社が多摩市のものか、府中市のものか、はっきりしていない。

野津田へ
神社をあとに野津田へと。小野神社前の車の多い坂道を登る。途中から左手脇道に入れば古道がありそう。それっぽい道を進む。結構奥に入る。が、行き止まり。戻る。南方向に車の通る坂道。進む。野津田へと。元は「野蔦」。ツタが多く生い茂っていたのが地名の由来。フォークダンスの曲が聞こえる。野津田競技場。運動会でもやっているのだろう。尾根道を進み、これってオンコース、かとおもったのだが、結局急な下りで野津田公園に。またまたどこにいるのかわからなくなった。

野津田公園
掲示板を探す。出口が何箇所も。この公園結構大きい。とんでもなく大きい。道なりに歩き出口に。北出口。逆だ。引き返す。南出口方面に。よくわからない。大きすぎる。適当に進む。結構急な坂を登り展望台に。眺めはいい。一面の森。藤村ではないけれど、「小野路はみんな、森の中」といった雰囲気。多磨の尾根ひとつ越えると、別世界。自然が深い。依然、居場所がわからない。どうもこのあたり南というより西の出口に近いような気もする。ここは公園からのぼってきた展望台というか展望公園なのだが、横は住宅街。町田のほうから切り開かれた宅地となる。

芝溝街道に
公園横の道を進む。すごい下り坂。これを一度下りたら、また登るのは結構大変、などと怖れながらすすむ。日本ろう学校の運動場。地図を確認。OK、これなら野津田公園の南に行ける。坂を下りきると、日本ろう学校入口の横断歩道。オンコース。さらに下り芝溝街道・並木交差点に。結局、野津田公園あたりの鎌倉古道には今回もかすらなかっ た。芝溝街道は東京の芝と相模原の上溝を結ぶ道。

七国山

芝溝街道から先のルートは目の前にある七国山(なかくにやま)を越え、今井谷戸へと続く鎌倉古道がある、とか。最後のチャンス。古道を目指す。上溝街道を適当に右に折れ、鶴見川を渡り山に向う。
鶴見川の源流は町田市上小山田あたり。いつだったか、鶴見川の源流点を訪ねたことがある。滾々と湧き出る湧水が見事であった。ともあれ、山麓に沿って歩く。 が、案内なし。適当に歩く。山に向う道。といっても舗装している。古道のわけがない。七国山緑地といった案内。このあたりなのだろうが、結局頂上まで、里山を眺めながら上る。
頂上近くなり、七国山の町田側が見え始めると、これが結構開かれた山。頂上あたりには南の麓から続く住宅街が。結局、古道見つけることはできなかった。

今井谷戸の交差点
坂をおりる。今井谷戸の交差点。谷戸は里山に続く谷間のこと。通常は雑木林の尾根に挟まれて細長く延びているという地形。が、今井谷戸の交差点は車の通り激しく様変わりではある。
いつだったか、恩田川の源流点を求めて、この今井谷戸あたりまで遡ったことがある。源流点といったイメージとはほど遠い、交通量の多い交差点に、少々愕然としたものである。

玉川学園駅
日も暮れてきた。玉川学園へ急ぐ。今井谷戸の交差点を藤の台団地方向に曲がる。結構歩き鶴川街道に。あとは適当に鶴川街道と小田急線の間の丘陵、住宅街の丘を登り、
道なりに歩き、玉川学園駅に。
本日の予定終了。いやはや、午後1時から歩き、小田急玉川学園駅についたのは午後5時過ぎ。結構歩いた。が、目的の鎌倉古道は一切かすりもせず。3回もチャンスがあったのに、すべて見つけること叶わず。まあ、こういう日もあっていいか。とはいうものの、まったくの土地勘のなかったこのあたりも今回の彷徨でほぼ「掴んだ」。作戦建て直し、次回鎌倉古道、大山道、鶴見川散歩に備える。

水曜日, 10月 05, 2005

狭山丘陵散歩 Ⅳ:東村山から小手指まで

東村山から小手指まで歩くことにした。理由はふたつ。ひとつは古戦場跡を巡ること。久米川古戦場跡と小手指原古戦場跡の二箇所。 どちらも新田義貞と鎌倉幕府との合戦の地。先日の狭山湖散歩のときの将軍塚、また府中の分倍河原合戦跡碑のときにこの二つの合戦のことをメモした。が、実際に行ってもないので、どんなところか気になっていたわけだ。二つ目の理由は古代の武蔵道、中世の鎌倉街道をちょっと「さわる」こと。東村山から小手指まで歩くのだから、どうせなら昔の道筋をなぞってみたいと考えた。(2月 05, 2009年にブログを修正)



本日のルート;駅西口>諏訪神社>ふるさと歴史館>鎌倉古街道>正福寺>北山公園>東京白十字病院>八国山>将軍塚>久米川古戦場>徳蔵寺(板碑保存館)>府中街道・久米川辻>梅岩寺>西武新宿線と交差>勢揃橋北詰>ニ瀬橋・柳瀬川と北川が合流>長久寺>南陵中>にじゅうにん坂>永源寺>岩崎>瑞岩寺>仏蔵院>来迎禅寺>勝光禅寺>山口城址>中氷川神社>高橋交差点>椿峰ニュータウン西>北野天神前>463号線・小手指ケ原>誓詞橋>市立埋蔵文化調査センター>小手指ケ原古戦場>白旗塚>誓詞橋>緑といこいの遊歩道>所沢西高>小手指駅に

ふるさと郷土館
西武線で東村山下車。西口に下り、まずは「ふるさと郷土館」を目指す。ふたつの合戦跡地を、というだけで、いつものようにとりたてて事前の調べも無し。とりあえず郷土館で資料収集をしようと思う。
道なりに諏訪神社。さっぱりしたお宮。その先に郷土館。展示室は「道」を大きなテーマとしているよう。ディスプレーを見ながら古代武蔵道のルート、鎌倉街道のルートを大雑把に頭にいれる。古代の武蔵道、幅が12メートルもあったとか。八国山にむかって一直線に道筋があったとか。鎌倉街道はいくつも道筋があったとか、いろいろと参考になった。
また、久米川の地での合戦にしても、新田義貞だけでなく、いくつもの歴史に残る合戦があったよう。このあたり、現在でいえば東京のはずれではあるが、昔はこのあたりが幹線道路。現在の都心など湿地と葦原、そして武蔵野の台地も一面の萱原であり、武蔵野国府から上野の国府へ抜けるには、このあたりの道筋を通るのがメーンルート。交通の要衝であり、戦略的に重要な場所だったのだろう。確かに八国山を敵方に押さえられれば、結構鬱陶しいことになりそうな気がする。

ふるさと郷土館で徳蔵寺・正福寺コースとか鎌倉古街道・梅岩寺コースなどいくつかの散歩コース資料も入手。鎌倉古街道・梅岩寺コースに「鎌倉古街道の碑」の案内があった。場所は本町2丁目というから少し駅のほうに戻ることになる。が、行かずばなるまい、ということで、ちょっと駅方向へ戻る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


鎌倉古街道の碑
西武線を渡り駅東側に。鎌倉古街道の碑、見つけるのが結構大変であった。結局は駅前の府中街道を少し北、なんとなくここかな、と思ったところを左に斜めに入ると碑があった。といっても普通の民家の前に「鎌倉古街道の跡」って書いてある碑があるだけ。資料のメモ;鎌倉幕府は重要基盤である関東地方を統治するため、鎌倉を基点として四方の街道を整備した。東村山には、市を南北に貫いて、上野へ向う上ツ道という重要な道が通り、日蓮上人の佐渡流刑、新田義貞の鎌倉攻めなど歴史の重要な役割を果たした(郷土館の資料より)」。
さてここからどのコース、と少々悩む。郷土館でもらったいくつかのコースを眺めながら結局正福寺経由で久米川古戦場に向うことにした。

正福寺
西 武線を再度渡り、駅西側に。八国山を目印に進む。先日八国山・将軍塚に行っているのでルーティングは楽。道なりにすすみ正福寺に。東京都で唯一の重要文化財、というか国宝のある寺。地蔵堂がそれ。鎌倉円覚寺舎利殿とともに禅宗様建築のお堂。垣根は最近新しく作り直した模様。お堂の渋さとまだシンクロしていない。


久米川古戦場跡
寺を出て、北山公園経由久米川古戦場跡を目指す。地図によれば八国山の東麓あたり。道なりに進み北山公園に。普通の・今風の植物公園って雰囲気。とっとと離れる。山麓の東京白十字病院に。古戦場跡はすぐ近く。が、ここまできたのだから八国山に登ってみようと。病院脇の道を尾根まで。将軍塚まで歩き、そのまま道なりに下る。相変わらずいい感じの山。丘陵東麓に。が、どこに下りたのか、場所がわからなくなった。あれこれ動く。結構迷う。川筋を歩き、徳蔵寺のすぐ近くの橋の袂で古戦場への案内板を見つける。とりあえず古戦場跡に。なんということのない小さな公園の一画にあった。
郷土館でもらった資料のメモ;狭山丘陵東麓から前川・後川をはさみ鎌倉街道一帯に広がっている。新田義貞の鎌倉攻めや1335年(建武2)北条高時の遺子時行と足利尊氏の弟直義らの戦い(中先代の戦い)や1352年(正平7)の武蔵野合戦(南北朝時代、新田・足利最後の決戦)など幾多の戦場となった。古代、久米川の宿のあったこのあたりは交通の要衝。戦略的陣取り合戦がおこなわれたのであろう。

徳蔵寺
久米川古戦場をあとに、徳蔵寺に。板碑が有名。「いたび」「いたひ」「ばんび」などと読む。鎌倉中期空戦国時代に作られた供養碑。徳蔵寺の板碑には新田義貞の鎌倉攻めに際し討ち死にした義貞の家臣の名が刻まれている。国の重要文化財。

梅岩寺

道を進み府中街道・久米川辻に。左折し、府中街道を北に進み梅岩寺に。久米川合戦の際、八国山の将軍塚に本陣をおいた義貞に対して、幕府軍はここが本陣。樹 齢700年以上のケヤキ、樹齢600年以上のカヤが。都の天然記念物に指定されている。また四国88箇所巡りの地蔵群も。

勢揃橋北詰

おまいりを済ませ、小手指ケ原に向って歩きはじめる。西武新宿線と交差。ガードをくぐるとニ瀬橋。北川が柳瀬川本流に合流する。北川は柳瀬川の支流。ともに源流点は狭山湖西側の金堀沢のあたりだが、現在は狭山湖、多摩湖によって堰止められている。ということは、この水は、湖の余水ということだろう、か。
西武新宿線に沿って少し進む。なんとなく左折。少し進むと勢揃橋北詰。ここに新田義貞の軍勢が勢揃いしたとか、しないとか。

長久寺

道なりにすすみ長久寺。時宗の寺。時宗の寺は鎌倉街道沿いに結構多い。お寺の前に旧鎌倉街道の標識。とはいうものの、どちらに進めば鎌倉街道なのか検討つかず。お寺の脇を北に上る坂を進む。すぐ左折。結局ここを左折しないで直進すれば所沢市街の新光寺まで、途中西武線でさえぎられてはいるものの、一直線で街道がすすんでいるとのことだった。が、あとの祭り。
で、左折し南陵中方向に。見落としたのだが、この南陵中の前の交差点には東山道武蔵路につながる古代の道の遺構「東の上遺跡」があったよう。八国山を目指し一直線に進んできた12メートルの古代・武蔵道は八国山麓を迂回し、この地に繋がっていたのだろう。

永源寺
南陵中を越え、左折。少し大きな通り。じゅうにん坂の交差点に。西武線に沿って所沢高校方面に永源寺が。曹洞宗。徳川家江戸入府依頼、14代にわたり徳川家より寺領30石の寄進あり。武蔵国守護代大石信重の墓塔も。

瑞岩寺
道なりに北西に進み、西所沢方面からくる結構車の多い通りと岩崎交差点で合流。左折し県道55号線山口・狭山湖方面に。瑞岩寺。結構立派な門構え。「山口城主の菩提寺」。石段に座りしばし休憩。一息ついた後、再び県道55号線山口・狭山湖方面を西に進む。ほどなく西武線と交差。

仏蔵院
仏蔵院に。由緒あるお寺。もともとは狭山湖の湖底に沈んだ勝楽村にあったとか。朝鮮半島から渡来した王辰爾(おうじんに)一族によって建立された。王辰爾 は、百済の人王仁(わに)五世の孫とされる。王仁は、百済からの渡来人。『論語』『千字文』などをもたらした。平安末期の頃は、『国分寺・一宮にもまさり、仏神の加護も尊く』といわれるほど、武蔵では一番の寺格。源頼朝の庇護も得た。所沢市域のなかで、歴史も古く最も大きな寺院であったようだ。

勝光禅寺
少し先に勝光禅寺。北条時が宗開基。家康以来、徳川家の庇護を得る。禅宗様式の楼門がどっしりとして美しい。

山口城址
下山口の駅を越え山口城址に。先日このあたりを歩いていたとき見逃したが、ほんの道脇にあった。というか案内のみ。跡地はスーパーだったか、ホームセンターになっていた。
この城は平安末期、武蔵村山党の山口氏によって築かれた。南北朝の14世紀中頃、新田義宗に与力し、武蔵平一揆の河越氏とともに鎌倉公方足利氏満と戦うが、上杉憲顕に破れ落城。14世紀末にも、南朝方として足利氏満と再び戦うも敗北。その後、山口氏は上杉陣営に。城も狭山湖北麓に根小屋城を築き、この地を離れる。上杉氏が衰えた後は小田原北条氏の旗下に参じるも、小田原合戦で破れ、城も廃城となる。

中氷川神社
更に進み中氷川神社。これも先回の散歩のとき見落とした。立派なお宮さん。ほんとうにこのあたりは、その昔あなどれない地域であったのだろう。この神社、武蔵三氷川のひとつ。あとふたつは、大宮の武蔵一の宮・氷川神社と奥多摩の奥氷川神社。この三社はほぼ一直線上に並んでいると。
先日奥多摩を歩いた時、奥氷川神社を訪れた。なんとなくさっぱりとしたお宮さま。武蔵の国造である出雲臣伊佐知直(いさちのあたい)が、故郷出雲で祖神をまつる地と似ているとちうことで、この地に武蔵で最初の氷川神社を建てたというのが、その奥氷川神社であった、とか。その後、中氷川、大宮の氷川神社を建てていった、との説もあるが、諸説入り交 じり、定説なし。氷川は元、出雲の簸川から。ほとんどが武蔵の国にある、関東ローカルなお宮さま。

北野天神
車の往来の多い道を更に進む。高橋交差点に。右折。椿峰ニュータウン西あたりを経て北野天神前交差点に。北野天神は、景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ、と。そもそもなんで北野天満宮。学問の神さまがなんでこの地に。由緒書を呼んで納得。天神様・菅原道真の子孫が武蔵野守となったとき当地を訪れ、京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮とした。以来、このあたりを北野と呼ぶようになった。
境内に 宗良親王の御在陣跡の碑。南朝の征夷大将軍であった宗良親王が、新田義貞の遺児である新田義宗とともに、小手指ケ原において足利尊氏軍と戦ったときの陣跡。戦いに利あらず、宗良し親王は信濃に落ちた、と言う。

小手指ケ原古戦場

北野天神脇の道を北に進み463号線と合流。小手指ケ原の交差点。左折し誓詞橋に。新田義貞が鎌倉攻めの折、配下の武家に忠誠を誓わせたところとされる。小手指ケ原古

戦場の碑を探す。ちょっと迷った。誓詞橋の交差点を少し斜め、北野神社方面に戻る感じの道がオン・コース。「緑といこいの遊歩道」沿いに碑文があった。

小手指が原合戦の整理;新田義貞と鎌倉軍が最初に会い争った合戦。元弘3年(1333)5月8日、新田荘・生品神社でわずか百数十騎で倒幕の旗揚げをした義貞は、その日のうちに越後新田一族二千騎、利根川を渡る頃には越後、甲斐、信濃の源氏もはせ参じ大軍団に。一方鎌倉方は金沢貞将が新田 軍の背後に、桜田貞国を大将とする軍勢は鎌倉街道上道を入間川に向う。で、5月11日両軍この地で激突。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉方は久米川へ退却。
翌12日新田軍、鎌倉方の久米川の陣を攻める。鎌倉軍、分倍河原まで退却。15日、新田軍は府中に攻め込む。鎌倉軍に北条泰家の援軍。新田方は堀兼まで退く。新田軍、三浦氏などの援軍を迎え、軍勢を立て直し、翌日再び分倍河原を攻める鎌倉方、総崩れ。新田軍は鎌倉まで攻め上る。、22日には稲村ヶ崎より鎌倉に攻め入り北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代は幕を閉じる。生品明神での旗挙げから僅か14日間の出来事であった。
このあたり、街道の要衝地。鎌倉街道上道の支道の一つ。東村山市から西武遊園地、所沢市山口、北野神社からここに至る。ここから北の入間市方面には鎌倉時代には村山党金子氏や丹党加治氏などの本拠地があり、人々の往還が盛んであったのであろう。近くに市立埋蔵文化調査センターが。古い時代からの遺跡も多い。

白幡塚

最後の目的地は白幡塚。小手指ケ原古戦場の碑から少し奥まった西の森の中にあった。森というか前方後円墳型の塚。塚の頂上には白旗塚碑や石祠の浅間神社が。小手指ケ原の合戦の折、新田義貞がこの塚上に源氏の白旗を掲げたと言う伝承から名付けられたものだそう。本日の予定はこれで終了。後は、緑といこいの遊歩道を歩き、所沢西高を経て小手指駅に。

いやはや結構長かった。思いのほか歴史のある地域であった。そういえば、狭山丘陵一帯は、平氏の流れを汲む、武蔵七党のひとつ、武蔵村山党の本拠地であった。実際に歩いて、キラ星の如く現れる由緒ある神社・仏閣を目にすると、リアリティがグンと増す。どんど ん、歩く、べし。 

火曜日, 10月 04, 2005

新橋から新宿へ


新橋で仲間と会う。20代半ばからの付き合い。もう30年近くもなるか。若かりし頃のやんちゃの話を懐かしむ、いい付き合い。で、お開きの後は予定通り散歩。10時過ぎ新橋を出る。


虎ノ門

西新橋から虎ノ門交差点。桜田通りを左折。虎ノ門3丁目を右折。ホテル・オークラ前の汐見坂にゆるやかなのぼり。汐見坂は文字通り、昔はここから海が見えたから。また松平大和守邸(幕末・川越藩)があったため「大和坂」とも呼ばれた。

霊南坂

アメリカ大使館前の交差点を左折し霊南坂に。霊南坂は日向の人嶺南和尚がここに庵をもったから。ちなみにホテル・オークラ本館の南の急坂を登り、本館とホテルオークラ別館・大倉集古館の間に出てくる坂は江戸見坂。江戸の町々がほとんど見渡せたから。六本木通りからアメリカ大使館前に抜ける道は榎坂。浅野幸長がつくった溜池の堤に榎が植えられていたから。

アメリカ大使館に沿って坂を登りきったあたり、ホテル・オークラの大倉集古館かどを右折。 六本木通り方面へと下っていく。このあたり、先ほどの仲間たちと一緒に働いた場所。いまはもうなくなっているが、ホテルオークラの前、住友会館の裏手にあった麻布ハイツアパートが仕事場。アパートとはいっても、結構立派な主として外国人専用高級マンションといった建物だった。当時としては画期的、見たこともない乾燥機付の大型洗濯機が、地下にずらっと揃っていた。昔のことがあれこれ思い出される。が、きりがないのでやめておく。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

六本木通りへの坂道

で、六本木通りへの坂道、夜歩いているので周りは見えないが、多くのお寺があるはず。そして、通りに下りきる手前あたりは昔、といっても、30年くらい前の話しではあるが、それはもう谷地というか、窪地というか、中沢新一さんが『アースダイバー』(講談社刊)でコメントしているような、繁栄から取り残された・湿った印象の一帯だった。
が、今はすごい建物群に変容していた。これは一体何なんだ、と思った建物はサントリーホールであり、全日空ホテルであり、テレビ朝日、つまりはアーク森ビルであった。いつも六本木通りから入っていたので、裏からのアプローチでは全くわからなかった。昔、ほんとうにブッシュみたいな枝道を下りていったあの谷地がこんなに変容していたわけだ。いやはや畏れ入りました。都市の大変容に感慨新た。

桜坂の一筋山側を左折しスペイン坂に。桜坂は昔坂下に大きな桜があったから。スペイン坂は尾根道にあるスペイン大使館と六本木通りをむずぶ坂であるため。どちらもそのまま。わかりやすい。六本木通りへ。首都高速が3号線・渋谷・東名高速方面と環状線・飯倉片町方面に分岐・谷町ジャンクションするあたり。六本木2丁目の横断歩道を渡る。
あれ?そういえば谷町ってどうなったのか?地形もそのまま谷間の町だったし、たしか麻布谷町と呼ばれていたようだが?いつかの時点で麻布谷町という地名はなくなったわけだ。調べたわけではないけれど、アークヒルズといった大規模都市開発の華々しい地名に「谷」はそぐわないと思ったのだろうか。真偽の程不明。

檜坂・檜公園
六本木通りの一筋中、アメリカ大使館の宿舎に沿って歩き、塀が切れるあたりを道なりに右折。ゆるやかな坂をのぼりきったあたりで左折、すぐに右折と進み、六本木4丁目と赤坂6丁目の境を檜坂・檜公園方面に下りていく。このあたり元防衛庁の裏手。防衛庁の敷地も含めて昔は長州藩の下屋敷、歩兵第一連隊があったところ。3万坪の大藩邸、檜が多く茂り「檜屋敷」と呼ばれた藩邸も幕末長州征伐のおり幕府により打ち壊され今は池を残すのみ。

道なりに右折、左折を繰り返し赤坂通り・赤坂小前交差点あたりに出る。左折し道なりにすすめば乃木坂・、乃木神社ではあるが、新しいルートを、ということで直進。道なりに進む。メモをまとめるまで、どこをどう歩いていたのかさっぱりわからなかった。 地形は結構複雑。右左に地形のうねりを感じながら歩く。赤坂7丁目のカナダ大使館あたりに出るのかと思ってはいたのだが、結局は赤坂8丁目、外苑東通に出る。

青山1丁目

青山ツインタワー前まで進み、青山1丁目の交差点に。交差点を渡り、東宮御所に沿って権田原交差点に。権田原といえば、陸軍大学とか練兵隊といった言葉が思い浮かぶ。なぜかはわからない。昔読んだ本の一部が記憶の奥底に残っているのだろう。この明治神宮外苑一帯は陸軍の用地。兵営や練兵場があったが、明治天皇崩御後、明治神宮および外苑ができ、陸軍は世田谷に移った。また、権田原の由来は、徳川氏江戸入府のころこのあたりに権太隼人が住んでおり、権太原、権太坂という地名ができたため。

外苑東通をそのまま進み、高速外苑出口を越え、JR信濃町に。直進すれば四谷3丁目の交差点だが、慶応大学病院前に交差点を左折。JR・慶応大学病院に沿って歩く。四谷第六小学校あたりで大きく迂回、外苑西通り・大京町交差点に。あとは四谷大木戸跡を探すだけ。夜の闇の中見つけることができるだろうか。少々心配。大京町は右京町と大番町が合併したため。

四谷大木戸跡

外苑西通りを進む。四谷大木戸跡は外苑西通りに沿ったところにあるのか、一筋中にあるのか、あたりを気にしながら四谷大木戸、四谷4丁目と進む。見つからない。一筋中に入ってみる。見つからない。結局新宿通りにでてしまう。あきらめて歩き始めると新宿通りの隅、四谷区民センターの敷地になにやら石碑っぽいものが。四谷大木戸跡の碑だ。こんなところにあった。有難かった。後は新宿通りを新宿3丁目まで歩き、都営新宿線の新宿3丁目で地下鉄にのり、一路自宅に。本日の予定終了。

前々から気になっていた、玉川上水の最終地・四谷大木戸跡をチェックでき、新橋から2時間近い散歩も気持ちよくおえることができた。めでたし、めでだし。