金曜日, 5月 05, 2023

八幡浜街道散歩;八幡浜から夜昼峠を経て大洲へ

先回まで2回に分けて八幡浜街道の内、卯之町から八幡浜を繋いだ。今回は八幡浜から大洲を結ぶ八幡浜街道、正確には当時「八幡浜街道」と言う言葉が使われることはなく、「往還」などと呼ばれていたようだが、ともあれ九州からの玄関口である八幡浜から大洲の城下を繋ぐ。距離は17キロほどだろうか。 この往還は九州からのお遍路さんが大洲、内子を経て久万高原町の第44番札所大宝寺へと辿った遍路道でもある。途中には夜昼峠がある。峠アプローチ口から夜昼峠まで1時間ほど。八幡浜市と大洲市域の境でもある夜昼峠から大洲側の里に下りるまでもおおよそ1時間ほど。厳しい上り・下りもなく、激しい藪もなく結構快適な峠越えであった。 峠越えは3キロほど、平場である八幡浜から峠アプローチ口まで、また夜昼峠から大洲の城下まで共に7キロほど。のんびりゆったりとした散歩が楽しめた。



本日のルート;
八幡浜とその周辺
八幡浜から夜昼峠アプローチ口まで
矢野組代官所跡>大正時代の道標>八幡神社参道前から山裾を進む>千丈地区公民館前を抜け国道197号を千丈川左岸に沿って歩く>堀田橋で千丈川右岸に渡る>郷橋を渡り千丈川右岸に移る>横畑橋を千丈川左岸に>一之瀬橋>八幡浜東ICへのアプローチ口>往還を探してミカン畑を彷徨う>川之内大師堂
夜昼峠へのアプローチ口から夜昼峠まで
川之内小学校横に地蔵2基>2基の地蔵尊>六地蔵>土径分岐>千賀居隧道>旧夜昼峠へ向かう>夜昼峠
夜昼峠から大洲まで
夜昼峠より往還道を進む>林道に出る>林道を切り返す>林道分岐>旧県道に出る>夜昼集会所>夜昼集落の祠>舗装道をクロスし予讃線脇の道に出る>梶谷の地蔵堂>金毘羅道標>平野の道標>宇和島藩平地番所跡>大洲藩関谷番所跡>札場の地蔵>山辺の地蔵堂>鉄砲町の五叉路>大洲高校の校舎西側を南進する>>桝形に到着
 


八幡浜とその周辺
Wikipediaなどをもとにまとめるには「八幡浜という地名は、すでに養老年間(717年 - 724年)からあり、その由来は八幡大神がこの地の浜に立たせられたことによると伝えられている。
平安時代の末期には、現在の八幡浜市の範囲に矢野荘が成立していた。矢野荘は、白河上皇が娘の郁芳門院堤子内親王の死後、その菩提を弔うために集積した六条院領のひとつである。六条院領の本家は、白河上皇から鳥羽、後白河、後鳥羽各上皇に伝領され、承久の乱後は後高倉院領、後には室町院領へと受け継がれた。
平安末期にこの荘園の領家職を有したのが、平氏一門の平頼盛であった。頼盛は平忠盛の五男で、平清盛の異母弟にあたる。清盛の死後、木曽の源義仲が入京した際、一門は都落ちを余儀なくされたが、頼盛のみは都にとどまった。かつて頼盛の母池禅が、平治の乱で捕らわれた源頼朝の命乞いをしたため死罪を免れた経緯があり、頼朝は池禅尼の恩徳に報いるため、頼盛を処罰せず、所領は元通り返還している(「池大納言家相伝文書案」)。
「えひめの記憶」にも「八幡浜市五反田の保安寺の「梅の堂の三尊像」は藤原時代の作で、国指定の重要文化財である。『宇和旧記』によれば、嘉慶2年(1388)再興の棟札があり、南予の僻地でも早く文化が開けていた証拠である。また「矢野領主池大納言殿知行所寿永3年(1184)云々」とある。この地は頼朝が池ノ禅尼への恩に酬ゆるため、平家の荘園にしたといわれている」と記されるのは上述の通り。
「えひめの記憶」には「八幡浜の地名は摂津氏所領の暦応4年(1341)が初見である。天文年間には大津(大洲)城主の宇都宮清綱が、次男房綱をつれて八幡浜の萩森城に隠居している。萩森城は山城として雄大なもので、展望がよく地理調査所の五万分の一の地形図にも記されている(注:八幡浜宇浦に突き出た山地尾根筋、標高202mピークに建っていた)」とする。

近世期の八幡浜について「調査報告書」には「八幡浜はリアス式海岸の湾頭に位置し、平地に乏しいものの古くから港湾として機能していた。八幡浜浦は、寛文年間の『西海巡見志』のなかで「湊あり、何風にもよし、百石以上の船八十艘かかる」とあり、港湾としての機能に優れていたことがうかがえる。 新川河口に位置する八幡浜浦、隣接する向灘浦、栗野浦、新川左岸の矢野町とともに港町を形成し、宇和島領内では卯之町と並ぶ在町であった。
八幡浜浦の須崎町(注;現在市民図書館南、県道27号と新川の間に須崎町の地名が残る。東西に長い北の矢野町と境を接する)に藩の代官所が置かれ、町の北側、海老崎(注:八幡神社の北、山裾に海老崎の地名が残る)のはずれには番所が設けられていた。しかし、本格的な発展を遂げるのは一八世紀後半から一九世紀前半にかけてのことである。
諸産業の発達に伴い、遠隔地域間の流通が活発化し、八幡浜は九州への交通の玄関口として栄えるようになった。

現在の八幡浜地区は中心部を流れる千丈川によるデルタ地帯を土台として、すでに天正年間(1573年 - 1592年)には埋立工事が行われたと伝えられており、以後たび重なる埋立てによって、市街地は海へ海へと拡大されてきた。八幡浜浦における埋め立ての最も早いものは、宝暦4年(1754)、庄屋浅井市十郎が千丈川河口を埋め立てた浅井新田である。その後埋め立てが進められ、文久2年(1862)の「予州宇和島矢野組六ヶ所之図」では本町、矢野町、たんぼ町、須賀町、浜町、下道、船場などの町が記されている」とある。

また八幡浜市のHPには「八幡浜市は佐田岬半島の基部南側に位置し、江戸時代から昭和初期にかけては四国の西玄関と云われるほど交易の盛んなところで、伊予の大阪とも言われていた。江戸時代を通じて宇和島藩領。
寛文年間(1661~73)の「西海巡見志」によると、(中略)家数99軒とある。宝永3年(1706)の家数88・人数662・鰯網1帖・鮗網1帖・荷船艘・網船2艘・小船22艘。宝暦7年(1757)の家数111・人数708・鰯網1帖・荷船3艘・網船2艘・小船18艘とある。
このことより江戸時代前期の八幡浜浦は漁業と海運業に依存する街村であったと思われる。そして江戸時代も後期の宝暦7年(1757)頃から港の整備が始まり、造船業も興り、八幡浜浦・向灘浦と古くからの在町の矢野町を中核とする八幡浜湊が、四国・九州方面への海運基地・商港としての歩みを始める。物産の集散地となり商港として発展していった。
安政年間(1854~60)以降は藩の長崎貿易の基地となり、当地の豪商高橋長平(廉屋かどや)は持ち船で豊後国佐賀関及び大坂方面との海運業を開いた。当地から櫨・蝋・干鰯・寒天・和紙などを海運と陸路により長崎に運び、長崎から大坂へは天竺木綿・更紗・毛朱子・唐縮緬などを運び、大坂からは綿糸・砂糖・ガラス・雑貨などを運んで八幡浜に帰り交易した。そして八幡浜浦は港として町場化が進み、商業地として発展した。
明治20年頃から大正初期には本町・田中町・船場通りを中心に呉服・綿糸・綿布・薬種などおよそ40の卸商が軒を連ねた。
一方、商業が発展するにつれて、埋め立てによる市街地の拡大が求められ、江戸期以来西方・八幡浜湾頭へ延びていった。明治6年から八幡浜商会により、現在の新町・港町の一帯が、その後も明治・大正・昭和と埋め立てが進み、商店街も本町・田中町・矢野町から新町へ移道した。明治期の埋め立ては大商人によるもので、その屋号が今日の大黒町・近江屋町などの町名として残っている。現在の八幡浜市街の約2/3は埋め立てによってできた土地である。
古い町並みは市街地の中心部浜之町・新栄町・本町辺りから港町・大黒町・旭町などの埋め立て地まで、広い面積にわたって見られる。平入り・妻入り・中2階建て・2階建てなどと混在しているが、伝統的な様式の家屋は漆喰塗込めの家屋が多い。中には千本格子を残した家も見られた」とする。

また「えひめの記憶」には、「八幡浜市とその周辺」の項に、「この地域は旧西宇和郡の区域で平地に乏しい。宇和島藩の文献『大成郡録』10組(柱;「組」とは宇和島藩における行政区域)のうち、矢野組と保内組に該当する。佐田岬半島は長さ40㎞の日本一狭長な岩石海岸の半島である。瀬戸内海側は直線的な伊予灘断層海岸で知られ、伊方越には四国で最初の原子力発電所が活動している。宇和海側の伊方(佐田岬先端部)・保内・八幡浜・三瓶(注;八幡浜市の南)の海岸は、リヤス海岸の模式的な地域で、湾頭に僅かに平地があるに過ぎない。

藩政時代の村や浦の産業は『大成郡録』に詳しい。西宇和郡のうち喜木津・広早、八幡浜市の川名津・上泊、三瓶町の周木・二及・垣生・朝立の諸浦が吉田藩領であった。
保内町(注;八幡浜市街の西、佐田岬の付け根の部分)の川之石は明治期に、櫨、蚕種・紡績、鉱山、海運業などで栄え、本県最初の第二十九国立銀行が、明治11年(878)に開設された。八幡浜は古来九四連絡の要路で、埋め立てにより街と港を造成した。
昔は綿布と繭、今は柑橘と水産物の集散地である。三瓶は昭和4年に近江帆布工場が八幡浜から移って立地し、紡績と漁業と海運業が盛んであったが、近年は豚と真珠の生産で有名である。 佐田岬半島の三机・塩成の地峡部は慶長の昔、宇和島藩主富田信濃守により掘削が行なわれたが、失敗に終わっている。八幡浜付近は紀伊半島と似て海外移住の盛んな伝統がある」と記す。

八幡浜から夜昼峠アプローチ口まで
八幡浜の概要をチェックし終え、八幡浜街道夜昼峠越えに向かう。スタート地点は矢野組代官所跡。

矢野組代官所跡
東西に繋がる銀座商店街に南北に繋がる新町商店街が交わるところに「矢野組代官屋敷跡案内所」と書かれた木の標識と「大正十三年四月改修」と刻まれた石碑が建ち、その傍はベンチのある休憩所となっている。
代官所の説明板には「市指定〈記念物〉史跡 代官屋敷跡 昭和三六年八月五日指定
矢野町七丁目と新町が交差する四つ辻のほぼ中央に矢野組代官所の建物があった。
江戸時代末期に、低湿地の砂洲であったこの地を、一部、埋め立てて代官所を建てたものである。なお、それ以前 、 一六六九(寛文九)年ころ 、沼田源六を代官とする代官所が設置されたが、その場所については不明である。
「予州宇和島矢野組六ヶ所之図」 (一八六二・文久二年)や、一八七一(明治四)年の住民調べの付図には、この地に代官所が記されている。建物は、一八九六(明治二九)年の市全景写真で見ると、平屋で瓦葺、入母屋造りの大きくて堂々たるものであった。廃藩置県後、一時、私塾になっていたが、一八七二(明治五)年、のちの第一〇四番学校となる学校が置かれた。 間もなく、第六大区の区会所となり、一八七八(明治一一)年から一五年間、西宇和郡役所となった。
一八九三(明治二六)年には、八幡浜区裁判所となり、明治末期まで続いた。一九一四(大正三)年の銘がある道標が建てられているので、このころ取り壊され、道路になったものと思われる。 庭にあった松の木が一本、道標の傍らに残され、代官松と呼ばれていたが、これも一九七〇(昭和四五)年に伐採された。 八幡浜市教育委員会」とある。
石碑は標石も兼ねており、「愛媛懸廰前 ヱ十九里三十丁 / 川之石ヱ壹里三十三丁 / 海岸通ヱ五丁」と刻まれる。川之石は保内町川之石、「海岸通り」は不明。1丁は109mである。

大正時代の道標
アーケードとなった銀座商店街を東に進みアーケードが切れたところより、八幡浜街道は八幡神社へと弧を描いて進む。が、アーケードが切れた先、レンガ通りとなった商店街を少し進んだところに大正時代の道標があるという。ちょっと立ち寄り。標石には「大正二年四月/大洲町へ五里六丁 / 卯之町へ四里三十二丁」と刻まれる。






八幡神社参道前から山裾を進む
八幡神社脇の山裾の道を進み
福祉総合センター北を抜ける
大正時代の標石から八幡神社前に戻る。「調査報告書」には「矢野組代官所の前を出て、東へ約150メートル行くと八幡神社の前に至る。現在ならそのまま真っ直ぐ東へ進むが(注:これが大正時代の標石があったレンガ通り)、明治の記録に八幡山の山裾、字宮ノ下を通る道に大洲道路と記されている。
宮ノ下の道は幅約三メートルと普通自動車が辛うじて通行できる広さで、近世の道幅をほぼ保っていると思われる。 ここを道なりに行くと、約500メートルで国道197号江戸岡交差点の北に出て、旧県道と合流する。信号を渡り、約200メートル直進すると右手に倉庫に沿って細い道が分岐しており、これが往還である。道は消防署(注;八幡浜地区施設事務組合消防本部)の横を通り、わずかに屈曲して保健福祉センター(注;現八幡浜市保険福祉総合センター)の北側を通り、愛媛県立八幡浜高等学校の東に出る;とある。

ルートは説明の通り。消防本部の前につく「八幡浜地区施設事務組合」とは、愛媛県八幡浜市、西予市、西宇和郡伊方町の市1町で構成する一部事務組合。また「一部事務組組合」とは、複数の地方公共団体(市町村、特別区など)が行政サービスの一部を共同で行うことを目的として設置する行政機関を指す。

千丈地区公民館前を抜け国道197号を千丈川左岸に沿って歩く
入寺川左岸の民家の間を公民館前へと抜ける
愛媛県立八幡浜高等学校から先の八幡浜街道について「調査報告書」は「八幡浜高校からの道筋は少しはっきりしないが、「西宇和郡道路橋梁取調書」(明治一二年)の付図を見ると、酒屋の前を通って、入寺川に架かる橋を渡ると左折して川沿いに北へ進み、すぐに右折しており、現千丈地区公民館の前を通るものと思われる。 その少し先で旧県道の位置に復し、千丈川沿いに出ると川の右岸に沿って左折し、旧県道と一致するルートをたどる。
八幡浜高校の裏山には、覚王寺遺跡がある。昭和三四年(一九五九)、八幡浜高校の講堂敷地拡張工事中に発見された遺跡で、弥生土器、石器、土師器、須恵器、瓦器、瓦などの遺物が出土している」とある。
八幡浜高校前の道を進むと、右手に北国屋酒屋があり、その直ぐ先に小さな川がある。入寺川だろう。橋の手前を左折し少し北に進み入寺川に架かる橋を渡り右折し少し下流に戻った後左折し細路を進み、千丈地区公民館前を抜け国道197号に出る。

堀田橋で千丈川左岸に渡る
堀田橋で千丈川左岸に渡る
その先「調査報告書」は「JR千丈駅前の堀田橋(明治一二年当時は土橋)を渡り、一旦千丈川左岸に出て現国道をたどる」とある。
国道197号を少し進み、松尾で国道を左に逸れ旧道を進む。ほどなく堀田橋。ここを右折し千丈川を渡り左岸に移り国道に復帰。千丈駅前を過ぎしばらく千丈川左岸を進む。

郷橋を渡り千丈川右岸に移る
郷橋を渡り千丈川右岸に
郷の往還跡
「調査報告書」には、「その先、蔵福寺の辺りで郷橋(明治一二年当時は木橋)を渡り右岸に戻る」とある。
国道を進むと頭上に高架橋が千丈川を越える。建設工事中の大洲・八幡浜自動車道の「八幡浜道路」区間、郷高架橋(仮称)のようだ。
高架橋を潜るとほどなく郷橋。「調査報告書」に従い橋を渡る。

横畑橋を千丈川左岸に
これが横畑橋。道路をクロスし左岸に
左岸に2基の石碑
郷橋を渡った先は「調査報告書」に記されるように「川沿いの幅約2メートルの道を200メートルほど進むと、国道と交差する形で横畑橋(明治一二年当時は木橋)を渡り、左岸に移る」。
左岸に移るとはいうものの横畑橋は橋といった趣きはなく、川に広い蓋をしたような構造。ともあれ左岸に移る。
道を進むと右手に「千丈尋常高等小学校跡」の碑と教育功労者の顕彰碑が立つ。

一之瀬橋
線路を潜り
一之瀬橋を渡り国道に出る
左岸を進むと予讃線の線路を潜る。その先のルートについて「調査報告書」には、「現在の道はJR予讃線の線路下をくぐり、一ノ瀬橋(明治一二年当時は木橋)を渡って右岸の国道に合流するが、往還は一ノ瀬橋(明治一二年当時は木橋)を渡ってすぐ斜面を登り、現国道よりも少し高い位置を通っており、往還の痕跡が各所に残っている」と記す。
線路を潜ると直ぐ千丈川に架かる一ノ瀬橋。橋を渡り国道に戻る。「調査報告書」には八幡浜街道は橋を渡ると「斜面を登り、現国道よりも少し高い位置を通っており、往還の痕跡が各所に残っている」と記す。が、そこは現在大洲・八幡浜道路の工事現場となっており、斜面に上ることなどできそうもない。
チェックすると大洲・八幡浜道路の新千丈川橋(仮称)が建設中のようだ。大洲市平野より新夜昼トンネルを抜けた大洲・八幡浜道路がここに繋がる。

八幡浜東ICへのアプローチ口
法面脇から山に入るが
直ぐ藪となって道は切れ、撤退
仕方なく国道を少し進むと道の左手に千丈川を渡る広い道が造られている。そこは大洲・八幡浜道路の八幡浜東ICへのアプローチになるようだ(散歩当日は未だ工事中であったが、令和5年(2023)3月25日にこの八幡浜ICから西の大平(八幡浜IC )までの4キロ弱の八幡浜道路が開通したようである)。
現在の国道の一段高いところを抜けていたという八幡浜街道を探し、八幡浜東IC工事現場対面辺りに山にはいるアプローチがあり少し進むが直ぐ道は切れ崖となり撤退。
大洲・八幡浜道路
大洲と八幡浜を結ぶ14キロほどの地域高規格道路(高速道路などの高規格道路網を補完する道路)。 松山自動車道の大洲北只JC(仮称)より八幡浜市保内喜木の保内ICを結ぶ。現在八幡浜ICより保木IC(2.5km)が平成25年3月開通、この八幡浜東ICと八幡浜ICが令和5年3月25日に開通。大洲JCより大洲市平野までの2.3キロ(大洲西道路)は設計中、平野から八幡浜東ICまでの4.2キロ(夜昼道路)は整備中。四国と九州の交通路のアクセスを容易とし、また大規模災害時の緊急アクセス路確保などを目的としているようである。

往還を探してミカン畑を彷徨う
北に戻るも藪となり道が消える
南へと往還らしき道を進むと
しばらく国道を進むと国土地理院地図に山に入る実線が記載されている。往還の痕跡でもないものかと道を上り南北への分岐点を北へと向かう。が、しばらく進むと道が切れその先は藪。撤退し道を戻り分岐点を南に進む。
農道として整備された道をしばらく進むと道は山へと上ってゆく。国道筋と平行に進むには段々畑となったミカン畑を抜けなければ先に進めない。申し訳ないがミカン畑の中を進むがその先で大きな段差がありその先には進めなくなった。仕方なくなりゆきで段々畑を南に下り国道に出る。
ミカン畑脇に石仏
ミカン畑を進むが
ミカン畑に入るところ、道に地蔵尊が立っていた。
●郷の地蔵
「調査報告書」には「一ノ瀬橋から見える南東側の尾根上に、エノキの大木が立っている。 少し迂回してそこまで登ると、大木の根元に地蔵が祀られており、その前にはコンクリート舗装の農道が通る。地蔵は風化が進み節理に沿って割れているが、台座に「直解常心信士 享保七壬寅年十二月十五日」の刻銘がある。この農道は往還の一部と思われるが、500メートルほどは軽トラックが通れる程度に拡幅、舗装されている。舗装の途切れた所からは、通る人もなく荒れているが、段畑の中の一段分が道として残されていることが分かる」と記される。
直ぐ段差の激しい崖面となり先に進めず
段畑を下り国道に出る
それらしきところを彷徨ったのだが郷のお地蔵さんに出合うことはできなかった。 後半の「舗装の途切れた所からは、通る人もなく荒れているが、段畑の中の一段分が道として残されていることが分かる」と記されるのが段々畑のミカン畑のどこかの段畑であろうか。とはいうものの、上述の如くミカンが植えられた段畑は途中で大きな段差、というか崖となって切れておりとても先に進むことはできそうもなかった。

川之内大師堂
川之内橋手前に2基本の石碑
川之内大師堂
段差の大きい段畑を難儀しながらなんとか国道に下り川之内橋へと歩く。川之内橋手前に石碑が立つ。が、特に文字が刻まれているようには見えず、何の石碑か不明。その先国道から左に逸れる旧道に入ると左手、一段高い所にコンクリート造りのお堂が見える。川之内大師堂である。時節柄菜の花に囲まれたお堂はなかなか、いい。
「調査報告書」には「この道は国道の川之内橋手前に下りてきて、川之内大師堂の前に出る。 川之内地区については、愛媛県歴史文化博物館が総合的な民俗調査を実施し、 その中で遍路道の復元も行っている。
大師堂は、昭和46年(1971)の国道197号の建設に伴い、東側に約30 メートル移築され鉄筋コンクリート製となっている。かつてここは、夜昼峠を越える支度のための、遍路たちの食事や休息の場となっており、大師堂に寝泊りしたり、前の川で洗濯する遍路がいたという。また、これから峠を越える者がほとんどで、下ってくる遍路は見なかったという」とあった。

夜昼峠へのアプローチ口から夜昼峠まで

川之内小学校横に地蔵2基
旧道を道なりに進むと道は国道を潜るその。少し手前、道を左に逸れる坂道に2基の標石が見える。 「調査報告書」には「大師堂の前の道を約300メートル進むと、 川之内小学校横の急坂の登り口に道標が二基立っている。石垣の上に立つものが古く、正面に左向きの手印と大師像が刻まれ「左へんろ道 □政四巳七月」と記されている。
元号は文政または安政のいずれかと思われるが、欠損しているため判別できない。新しい道標の方は大正10 年(1921 ) 建立で、「右ふるやぶ 左おおず道」とあり、裏面に「こんぴらへの道」と記されており、ここが古藪、大洲、八幡浜の三方向からの道が出会う三叉路であることが分かる」とある。
ここが夜昼峠への上り口。道を左にそれ直ぐ切り返し川之内小学校の敷地の西端を上る。
古薮
古薮は南へと県道235号を下った谷筋にある。

国土地理院地図に描かれるルートを北に上る
小学校脇の急坂を上り
大元神社参道前を抜け
道なりに進み大元神社参道石段前を抜け舗装道路(旧県道?)に出る。そこをクロスし直ぐ切り返してきた旧県道に再度出る。










旧県道をクロスし
切り返してきた急県道クロスし北上する
その先も、国土地理院地図に破線で描かれるルートに沿って北に向かって上ると、山肌を縫って曲がって切り返してきた舗装された道に出る。この道が向かう先を見るに、旧県道から別れた道のように思える。


2基の地蔵尊
旧県道を左に逸れる道に入ると
直ぐ2基の地蔵尊が並ぶ
そこからは舗装された東に向かい、旧県道に合流。ほどなく国土地理院地図にも実線で描かれた左に逸れるコンクリート舗装された道が左に逸れる。その分岐点のすぐ先に2基の地蔵尊が立つ。「調査報告書」に、「御茶堂から少し登って旧県道に出ると、また100メートルほどで左の小道を登り、切り返してくる旧県道と二回交差すると火見櫓の下に二体の地蔵が立つ」とあるのがこれだろう。鉄柱が2本立っていたが火見櫓ではなかったように思う。
御茶堂
旧県道からの眺め
旧県道からの眺め
「調査報告書」には、「往還は大洲への道 (金比羅道)をたどるため、小学校敷地に沿って左の急坂を登り、右に屈曲した後、道が二股に分かれるので左の大元神社前の道を通る。やがて旧県道と交差するがコンクリート舗装の小道を道なりに行くと、主頭川に架かる橋を渡って100メートルほど先の石垣上に「御茶堂」と呼ばれる祠がある。かつてはここに堂宇があったと伝わるが、内部には地蔵立像を安置し、掛けられた
寄付者名板には、昭和51年(1976)に建て替えられたことが記されている。 なお、御茶堂の敷地内に日露戦争戦死者の墓碑がある。この墓碑は旅順要塞東鶏冠山砲台で戦死した村民 (27歳) のものである。ここに限らず、 今回調査した往還の沿道各所で、旅順戦戦死者の墓碑が見られ、いずれも大きく立派な墓碑が立てられていた。 南予地方でこの戦争の戦死者が多かったことと、村を挙げて戦死者を目立つ場所に葬ったことが分かる」とある。
結構時間をかけて探したのだが結局出合うことはなかった。どこにあったのだろう。

六地蔵
六地蔵
六地蔵と往還道
舗装された細路を進むと民家石垣下に六地蔵が祀られる。「調査報告書」に「2基の地蔵よりさらに五〇メートルほど行くと、左手に六地蔵が立つ。この辺りでは往還はコンクリート舗装されているが、幅約二メートルと広く、本来の道幅を保っている。日当たりの良いみかん畑の中を100メートルほど行くと、旧県道に合流する」と記される。
2基の地蔵尊から六地蔵を経て旧県道ぶ出るまでの往還はその幅は2mもなかったように思えるが、右手は谷を隔てた先に山並みの眺望が楽しめる至極気持ちのいい道ではあった。

土径分岐
旧県道を逸れ土径に
石畳?
六地蔵より少し進むと旧県道に出る。そこを少し進むと左に逸れる土径が見える。「調査報告書」に「旧県道に出て約200メートル行くと、大きく右カーブした所で左に切り返す小道が見える。この道が往還で、石畳が残っている」とある。道を上ると石畳と言えばそうとも見える箇所があった。




千賀居隧道上に
旧県道をクロスし
千賀居隧道上に
土径を進むと直ぐ旧県道に出る。往還は旧県道をクロスし土径に入ると直ぐに旧県道に出る。そこから直ぐ旧県道の千賀居(ちがい)隧道上。その先の結構長い堀切は旧県道夜昼峠である。 「調査報告書」には、「往還はループする旧県道と交差し、千賀居隧道の上、旧県道夜昼峠の堀切手前に出る。一般にはこの堀切が夜昼峠と認識されている」とする。
千賀居隧道
千賀居隧道
旧県道の夜昼峠
千賀居隧道は明治38年(1905)に完成したもので、内部はレンガ造りで、垂直部はイギリス積み(長いレンガと短いレンガを段を分けて交互に積む方式。因みに同じ段に長いレンガと短いレンガを交互に並べるのがフランス式)、アーチ部は長手積み(長いレンガをジグザグに並べる手法)に変化している。
また、勾配を緩くするために、ぐるぐる回りながら高度を上げていくループ線のトンネルでは現役日本最古ではないかと思われ、元土木学会の近代土木遺産ではBランクとされている。 延長 17.0m,]全 幅 5.4m(車道4.8m),全高 4.7m(有効3.5m)。
この路線は旧府県道大洲八幡浜線であり、開通は明治40年(1907)であった道路より先にトンネルができたため、レンガは道を馬で運んただといわれている。道路が通じてからは乗合馬車が走り、鈴を鳴らしながら通った、と。

旧夜昼峠へ向かう
旧県道堀切部手前を左にそれ夜率峠へ
直ぐ森に入り成り行きで進む
「調査報告書」には、「一般にはこの堀切が夜昼峠と認識されているが、近世の夜昼峠はもう少し上である。堀切の入口左、堀切の造成で削られ細くなった道を登っていくと、コンクリート舗装の農道に出る。畑と栗園の間の道は軽トラックが通行できる程度に拡幅されているが、畑の所有者によると、昔からまっすぐな道で 「オウカン」と呼ばれていたという」とある。
堀切部手前、道の左手に隧道建設のため石垣とされた上に往還の名残といったアプローチがある。石垣上に入り坂を上る。「調査報告書」には「細くなった道を登っていくと、コンクリート舗装の農道に出る」と、さらっと書かれているが、実際はほどなく道は消え林の中、ブッシュを進むことになる。左手には畑地に入る動物侵入を防ぐ柵があり、森から左に見える平場にエスケープすることはできない。
成り行きで森の中を進み柵が切れる辺りで森から出る。そこから西は大きく開けた台地状となっており、畑地が広がる。

夜昼峠
峠の西は台地。耕作地が広がる
中央が夜昼峠
森と台地の境辺りを成り行きで進むと農道が森へと抜ける箇所がある。そこが本来の夜昼峠。「調査報告書」には、「道を登りきった所が夜昼峠(海抜320メートル)である。夜昼峠の南西(八幡浜)側は耕地が開かれ、日当たりが良いのに比べ、尾根を隔てて峠の北東(大洲)側は植林で薄暗く、対照的な景観である」とある。
夜昼峠
「夜昼峠」の名前の由来であるが,角川の地名辞典では「未明に麓を出発し,峠で夜が明けた」ほどの難所であったからと記している. これが一般通説となっているようだが,この峠の麓で生まれ,冬の風物詩として知られる霧を見て育ったという方は「(霧が)寄る・干る」がその語源だと断言する。

夜昼峠から大洲まで

夜昼峠より往還道を進む
峠より往還に足を踏み入れる
夜昼峠には真っすぐ進む道と少し北に進む道がある。どちらかはっきりしない。近くで農作業されていた地元の方にお聞きすると、直進する道は旧県道に出る。北に向かう道は子供の頃よく歩いた往還ではあるが、今は通る人もなく荒れているだろう、と。
どの程度の荒れ具合かわからないが、取り敢えず往還道を進むことにする。

林道に出る
分岐を右に
数分進むと林道に出る
夜昼峠から先のルートについて、「調査報告書」には尾根上の往還は利用者がいないため、荒れているものの、道幅は広く往還が良好に残る区間である。500メートルほど下ると夜昼の集落である」と記されているのみ。集落までそれほどの距離もないため気持ちは楽である」とあっさりと記する。
地元の方が言う荒れた道とは如何なる程度か、激しい藪でないことを祈り足を踏み入れる。踏まれた跡がかすかに残る山道を最初は少し上る。5分ほど進むと道が二手に分かれる。右手谷側の道をとり、更に5分ほど進むと林道に出る。

林道を切り返す
直ぐ林道が分岐。右の道をとる
5分ほど進み林道を折り返す
2分ほど進むと林道が二手に分かれる。谷側の道をとり5分ほど進むと林道は大きく右に切り返す。ここまでは藪もなく、踏まれた感のある山道を辿り、広い林道を歩け至極快適。


林道分岐の先で道は切れる
林道分岐。左の道をとる
その先直ぐ林道は切れる
切り返し点から4分ほど進むと再び林道が二手に分岐する。谷側、左手の道をとり、2分ほど進むと林道は消える。何の印かはわからないが木に巻かれた青色のテープがあり、とりあえずそこから森の中に入る。踏まれた道とはなっていないが、GPSで確認すると旧県道は直ぐ近く。藪があっても直ぐ旧県道と気持ちも軽く成り行きで進む。

旧県道に出る
森を抜け
旧県道に出る
ほどなく旧県道が右手下に見えてくる。成り行きで少し旧県道に沿って進み県道に下りる。夜昼峠からおおよそ30分弱で県道に出た。荒れたというほどの山道でもなく、なにより藪がない。快適な山道ではあった。

夜昼集会所
旧県道を2度ショートカットし
夜昼集会所に
旧県道に下りると曲折する道筋を逸れる土径を抜けシュートカットすること2回、最終的には旧県道を進み夜昼集会所前に着く。ここまで来れば人家もあり一安心。


夜昼集落の祠
集会所の先、今は舗装された道を下ると
六部を供養する祠がある
夜昼集会所の先のルートについて「調査報告書」は、「集落内に旧県道が回切り返している部分を縫うように下ると、夜昼集会所の所から土道に入る」とある。が、集会所辺りからそれらしい土径は見当たらない。仕方なく集会所から先は広い舗装道を下る。と、少し進むと道の左手に木造りの祠があった。これが、「調査報告書」に「50メートルほど進んで左に、瓦葺の祠がある。内部には墓碑が安置され、「徳峯宗圓信士 享和二壬戌年七月廿五日 豊後府内」の銘がある。 祠の世話をしている住民の話によると、行き倒れの六部(または遍路)を先祖代々供養しているとの事であった」とされる祠だろう。「調査報告書」にあった土道は舗装され、瓦葺はトタン屋根となっていた。

舗装道をクロスし予讃線脇の道に出る
六部の祠の先、土径を少下ると
舗装道に出る。そこをクロスし
六部を供養する祠の先で舗装が切れ土径となる。が、道はほどなく舗装道に出る。




再び土径を下ると
予讃線の線路脇を進む舗装道にでる
往還は舗装道をクロスし再び土径を下り舗装道に出る。道の左手には予讃線の線路が見える。「調査報告書」にある「夜昼集会所から約350メートル下って夜昼からの市道と交差し、そこから約200メートル下るとJR予讃線夜昼トンネルの東口が見え、富元の集落に至る」との記述がこの箇所だろう。

梶谷の地蔵堂
梶谷の地蔵堂
夜昼トンネル
ここから先、「調査報告書」には「ここからは野田本川に沿って、舗装路を下る。 道は途中夜昼川との合流点で、野田本川の右岸から左岸に移るが、道幅は普通自動車が辛うじて通れる広さで、ほぼ往還のルートを踏襲していると思われる。 川のせせらぎを近くに感じながら往を行くと、左手に梶谷の地蔵堂が見える。本尊の地蔵立像は、台座に「寛延二年己巳霜月四日長作 乙助 小八 孫七 岩松」と刻まれており、古いものである。現在、堂宇には防犯のため鍵をかけているが、近年まで地区の集会などもここで行われていたとのことで、地区の自治会役員が地蔵堂の鍵を管理している。 昭和40年代に屋根の修理をした際、自動車が接触しないよう軒を短くしたとの事だが、まだ軒先が道路にせり出しており、堂宇の建立当時は道幅がもっと狭かったことが分かる」と記される。
この案内の通り右岸から左岸に移りしばらく進むと梶谷の地蔵堂と出合った。

金毘羅道標
金毘羅道標
「調査報告書」には「さらに600メートルほど行くと、左手にシベリア出兵戦死者の慰霊碑があり、その横に「こんぴらへ四十四里」と記された道標が立っている。ここから少しで国道197号に出るがそのまま横断し、野田本川の左岸に沿って下る。
800メートルほどで再び国道と交差し、さらに約600メートル行くと、左手がJR伊予平野駅である」と記す。
シベリア出兵
シベリア出兵は、大正7年(1918年)ロシア革命に干渉するため、日・米両国を中心に英国・フランスの各国が革命軍によって囚われたチェコスロバキア軍捕虜救援の名目でシベリアに軍隊を送った事件。 米・英・仏が撤兵したのちも日本は駐留を続けたが、国内外の非難により大正11年(1922)に撤兵。この出兵で日本は7万3,000人をシベリアに派兵し、うち3500名の死傷者が出た。 慰霊碑碑文には大正七年叙勲とある。シベリア出兵直後に斃れたのだろう。合掌。
金毘羅道標を越えた先は、一旦国道197号をクロスし、野田本川の左岸を下り、国道197号が昭和56年’(1981)竣工、平成2年(1990)初通過となった全長1077.8mの西大洲トンネルに向かって西進する手前で、左に逸れる県道259号に乗り換え北へと平野駅方面に向かう。

平野の道標
道標(右)と関所碑(左)
野田本川右岸に沿って県道259号を北上し、平野駅傍で県道259号を離れ左岸に移る。左岸を少し進むと県道234号が直角に曲がるT字路にあたる。その角に標石が立つ。
「駅から300メートルほど、かつての商店街を歩いていくと、大洲市平野公民館やJA平野支所の所で道がT字路となっており、左の歯科医の角には道標がある。

道標は大正5年(1916)建立と比較的新しいものの、銘文が大変ユニークで「平地大安寺乳薬師佛 昔よりちちすくなきおんなまたは牛馬の為に能く乳を授けらる (手印左)千丈村 八幡濱道 (手印右)平地乳薬師、八丁 日土 川之石道」と記されている。当時まだ予讃線は未開通であり、この三叉路は八幡浜大洲間を往き来する旅人や、四国遍路、出石寺の参拝客などで賑わったはずであり、地元の大安寺にも参拝客を誘致しようとする住民のアイデアが感じられる」と「調査報告書」にある。
平野?平地?住所は平野町平地となっていた。納得。乳薬師大安寺は県道234号を少し進んだ山裾に建つ。


宇和島藩平地番所跡
T字路、標石の対面は平場となっている。その南端、民家生垣と並んで「宇和島藩平地番所跡」と刻まれた石碑が立つ。
「調査報告書」には、「また、このT字路の東側は宇和島藩平地番所跡である。『大洲市文化財調書集』には、地元住民の談として「御番所は現在平地一番地で道路から三尺ほど高みに建っていた。 庄屋のような立派な構えで前に石段があった。・・・」と記している。

大洲藩関谷番所跡
正面電柱裏が大洲藩関谷番所跡
「調査報告書」には「番所の北側にある幅約2.2メートルの路地が本来の往還であり、ここを入ると現在の関谷橋(関谷川谷橋?)よりも上流側に橋が架かっていた。橋を渡ってすぐの位置に大洲藩関谷番所跡がある。同じく 『大洲市文化財調書集』には、跡地に住む住民の談として「番所は藁葺の平屋で、道に面して西北に向かって建っていた。現在の関谷橋は近年のもので、私の家の横の道が昔の往還であった。橋は今のものより少し上手にあって、川の中にも矢来がしてあったと聞いている。」と記録している」とある。
宇和島藩平地番所跡の石碑の先、右に逸れ、民家の間を抜ける道があり、関谷橋(注;関谷川谷橋ではなかった)の少し上流で野田本川にあたる。大洲藩関谷番所跡の石碑は道路標識裏、電柱傍に立つ。 現在は夜昼峠のある山稜が宇和島市と大洲市の境であるが、宇和島藩平地番所、大洲藩関谷番所が並ぶということは藩政期、このあたりが宇和島藩と大洲藩の境であった証左であろう。

札場の地蔵
大洲藩関谷番所跡の先の往還ルートについて「調査報告書」は「往還は旧県道(この区間は現在県道大洲保内線)の東側に途切れがちに残っている。番所跡から約四400メートル、水上ゴルフ場手前の地蔵のところで往還は東へ折れ、山裾の微高地をたどる。」とある。
水上ゴルフ場は池へと球を打ち込むゴルフ練習場。大洲藩関谷番所跡より県道234号の一筋東に残る旧路を少し進み、一旦県道に出た後再度県道を右に逸れる道を進み県道に出る。「調査報告書」に「途切れがちに残っている」とする往還がこれだろう。県道に出た後ゴルフ練習場のネットが張られる少し手前、道の右手に木の祠がありその横に石像、六体の地蔵尊が並ぶ。札場の地蔵がこれ。
往還は札場の地蔵より山裾の道に入る。山裾の道といっても幾筋もあるわけで、どれが往還か定かではないが、取り合えス成り行きで山裾の道を辿る。が、途中で道が切れ仕方なく県道に出て先に進む。

山辺の地蔵堂
成り行きで山裾の道を辿る
山辺の地蔵堂
県道を進むと道の右手にお堂が建つ。山辺の地蔵堂。「調査報告書」には「山裾の道は山辺の地蔵堂の前を通り、一旦県道に出る」とある。一旦途切れた先、県道の一筋東に道が続いていたのか、または辿った「山裾の道」の一段上に途切れることなく山辺の地蔵に下りてくる道がある。どちらが往還跡の道であったか不明ではあるが、「調査報告書」に記載のルートは県道を辿ることなく少し山側の道を辿ったのだろう。

鉄砲町の五叉路
久米川堤防よりほぼ垂直に築かれた堤防
五差路

山辺の地蔵堂から先の往還について「調査報告書」は、「山辺地蔵堂の前を通り、一旦県道に出るがすぐに右へ分岐し、さらに山裾をたどり堤防を越えると鉄砲町の五叉路で右折し南へ行く」と記す。 鉄砲町の五差路は地図に鉄炮町のバス停が見つかったので場所は特定できたが、そこまでのルートは八コリしない。
同報告書添付のルート図を見ると山裾を辿った後、北東へと進み県道234号を東進し鉄砲町の五差路で右折し南進している。で、よくわからなかったのは「堤防を越えて」の記述。久米川は東西に流れており、その堤防を越える?よくよくチェックすると久米川から南北に築堤が見える。これは単なる妄想だが、川の堤防と言うより、久米川が氾濫した時、大洲市街に水が流れ込まないように市街西側を築堤で防いでいるようにも思える。
ともあれ成り行きで山裾の道を進み、築堤に沿って県道に出た後、東進し鉄砲町の五差路に進む。 
円満寺の水争いの碑
土手(堤防)といえば、予讃線西大洲駅の北東に建つ円満寺に予想外の築堤により水争いを解決した碑が残る、と。前述の如く、久米川上流は宇和島藩、下流は大洲藩。その境が関谷橋辺りであった。ある旱魃の年、上流の宇和島藩平野の農民は川を堰止め、水を下流の大洲藩領に流さないようにしたため流血の水争いが起こった。
それを解決したのは大洲の殿様。水を下流に流さないのであれば、宇和島藩領の水は今後一切大洲藩領に入れないと関谷に大きな堤を築き、水の流れを止めた。ために宇和島藩領は水吐けができなくなり川から水が溢れ村が水没。慌てた宇和島藩領の農民は詫びを入れ大洲藩は大きな土手を取り除き水争いは解決した。

大洲高校校舎西側を南進する
大洲高校校舎西側を南進。右手中江藤樹邸跡
鉄砲町の五差路を右折し大洲高校の校舎とグランドの間を南進する。「調査報告書」には、「左手に見える愛媛県立大洲高等学校 の敷地内には、陽明学者の中江藤が青年時代を過ごした屋敷跡 (県指定史跡)がある。敷地は盛土造成されているが、屋敷の井戸が残り「中江の水」と呼ばれている。屋敷跡には藤樹の遺徳をしのび、昭和十四年(一九三九)に至徳堂が建築されている」とある。
道の左手、高校敷地内に塗塀と門がある。館内入るには大洲高校に予約が必要とか。

桝形に到着
枡形跡(横断歩道の辺り)
曹渓院 
その先、「調査報告書」に、「大洲高校を回り、大洲藩主加藤家の菩提寺である曹渓院 の前に出て、左折して北へ下りた所が桝形 (大洲小学校前付近)で、ここから東が大洲城下の中心であった」と記されるルートを進み桝形に。大洲小学校東野横断歩道橋のあるあたりが枡形(城門の中の四角に作ったあき地)のあった辺りのようである。
旧八幡浜街道案内
途中曹渓院へと進む角に「旧八幡浜街道」の案内。「八幡浜街道は、 大洲と八幡浜を結ぶ主要道で東門のある枡形から大洲城の南側を迂回して西へ延びる街道であった。 江戸時代、外堀より内側にある三の丸は、通常許可なく自由に町人が通行することはできなかったため、 城の南側を迂回するルートがとられたものとされる。現在のように三の丸を横切って道路がつくられたzのは明治以降のことである」とあった。
山本尚徳邸跡の石碑
枡形への途中、道の右手に大きな石碑が立つ。横にあった案内には、「大洲市指定史跡 山本尚徳邸跡
山本尚徳は一八二六年(*九)大洲に生まれた。
通称を源五郎と呼び、襲名して加兵衛といい、真弓と号した。藩馬廻り役を勤め、藩校明倫堂司読、郡奉行、ついで執政(家老)となる。 勤王の志厚く、行隊を組織し、大洲藩をして明治維新の大業に参画せしめた。
維新後の一八七〇年(明治三)大参事に任せられると、養蚕業・製茶業を奨励し、また洋学をとり入れ蘭方医を登用するなど、殖産育成に努め、地方行政に大きな業績を残した。
しかし、廃藩置県・神仏分離・通貨統一・種痘の実施・戸籍調査など、新政府の天つぎばやの政策は住民に不安を与え、ついに一八七一年(明治四)八月大洲騒動と呼ばれる農民一揆が起きた。藩主の鎮撫も実らず、ここにおいて山本大参事は責を一身に負い、八月十六日自宅において自刃して果てた。墓は、寿永寺裏山にある。
一九二一年(大正一〇)正五位が追贈され、一九三一年(昭和六)邸跡の県立大洲高等女学校(現市立大洲南中学校)に頌徳碑が建てられて、その功績を後世に伝えている
昭和三十一年九月三十日指定 大洲市教育委員会」とあった。
大洲藩と言えば幕末動乱期、君主が勤王の意思を鮮明に示した藩として知られる。その功もあってか、明治天皇の東京行幸の折には行列の先頭を進むという誉を得た。また大洲藩支藩である新谷藩は行列の最後を護り進んだという。その背景にはこのような勤王の志高い執政の存在もあったのかも知れない。
これで八幡浜から大洲までの八幡浜街道トレースを終える。卯之町から笠置峠を越えて八幡浜を繋ぎ、八幡浜から大洲を繋ぎ八幡浜街道のメーンルートはカバーした。次は宇和島藩主が参勤交代の折、時に辿ったという、八幡浜から佐田岬の三机までをつなぐのもいいかとも思っている。