水曜日, 11月 29, 2006

北陸 倶利伽羅峠散歩 そのⅡ;合戦の陣立て

先回のメモでは、倶利伽羅合戦前夜までのメモで終わった。今回は両軍が戦端をひらくあたりからメモをはじめる。(水曜日, 11月 29, 2006のブログを修正)


より大きな地図で 倶梨伽羅峠 を表示

本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


平氏の本陣は猿ケ馬場

先回のメモで、峠の隘路を押さえるべく、源氏方先遣隊・仁科党が源氏の白旗を立て、主力軍が布陣済みとの偽装した、と書いた。平氏の主力は11日朝、倶利伽羅峠に到着。が、山麓に翻る白旗を見て偽装を信じ、進軍を止め、倶利伽羅、国見、猿ケ馬場付近に陣を敷く。前線は「源氏ケ峰」より「党の橋」を経て、北の「埴生大池付近」に渡って布陣。「猿ケ馬場」の本陣跡に軍略図があった。それによると、中央に三位中将・維盛。軍議席、維盛に向かって右側に薩摩守忠度・上総判官忠綱・高橋判官長綱、向かって左側に左馬守行盛・越中権頭範高、河内判官季国が陣取る。

薩摩守忠度

ちょっと脱線。薩摩守忠度って熊野散歩のときメモした。魅力的武将であった。が、倶利伽羅合戦で名がでることはないようだ。合戦の後日談として、平氏西走の途中、忠度は京都に引き返し、藤原俊成に歌を託し、「勅撰集がつくられる時には一首だけでも加えてほしい」とたのんだ逸話が残る。「さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」。この歌が詠み人知らずとして、千載和歌集におさめられたのは周知のこと、か。

源氏の前線は矢立山
平氏の陣立ては上でメモした。一方、源氏の前線は「矢立山」。源平軍、数百メートルを隔てて相対陣。小競り合いはあるものの、戦端は開かない。源氏側は夜戦・夜襲の準備を整えていたわけだ。
陣立ては以下のとおり;「源氏ケ峰」方面には根井戸小弥太、巴御前の軍が対峙。「猿ケ馬場」方面には今井兼平軍。「塔の端・猿ケ馬場」の側面には義仲軍、「埴生大池」方面への迂回隊は余田次郎が。そして、樋口兼光率いる部隊は現在の北陸本線の北を大きく迂回し、竹橋に至り平家軍の背後に回りこんだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

源氏方の夜襲により戦端が開かれる
長旅の行軍と数度の小競り合いに疲れた平氏が夜半になり少々の気の緩み。甲冑を脱ぎ、鎧袖を枕にまどろむ。午後10時を過ぎる頃、竹橋に迂回した樋口隊が太鼓、法螺貝を鳴らし「ときの声」とともに平氏の背面より夜襲。機をいつにして正面の今井軍、迂回隊の余田軍、左翼の巴・根井戸軍の一斉攻撃開始。三方、しかも背後からの攻撃を受けた平氏軍は大混乱。

義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた
このとき、義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた、という。が、真偽の程定かならず。中国の故事に同様の戦術があるので、それを「盗作」したのでは、とも。「火牛」がいなくても、三方から奇襲され、逃れる一方向は「深い谷」。折り重なって谷筋へと逃れたのであろう。で、あまりに平氏の犠牲が大きく、この谷を後世「地獄谷」と呼ぶようになった。こうして砺波山一帯は源氏が確保。平氏は「藤又越え」、というから倶利伽羅峠の南西方向の尾根を越え加賀に敗走した。以上が倶利伽羅合戦の概要である。

巴御前
ちょっと脱線。巴御前ってよく話しに聞く。木曽義仲の妻。女武者振りが有名である。巴は義仲を助けた中原兼遠の娘、とか。樋口兼光・今井兼平の妹でもある。倶利伽羅合戦では左翼に一部隊を率いて勝利に貢献。その後、義仲が源範家・義経の率いる追討軍に敗れた後は、頼朝に捕らえられ和田義盛と再婚。
頼朝亡き後、和田義盛は北条打倒の陰謀に加担したとの嫌疑。北条義時の仕掛けた謀略とも言われるが、挙兵するも敗れる。巴は出家し越中に赴いた、と伝えられている。
今回の散歩では行かなかったのだが、旧北陸道から少し南に入ったところに「巴塚」がある。ここでなくなったわけではないが、陣立てからしてこの方面から倶利伽羅峠に攻め入ったのであろう。碑文:「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」、と。

猿ケ馬場を歩く

源平散歩に戻る。平家本陣となった「猿ケ馬場」には多くの記念物が残る。大きな石板は平氏軍議に使われたもの。石板を囲む席次は先ほどメモしたとおり。源平盛衰記に記された有名な「火牛の計」をイメージした牛の像も。この「火牛の計」、ネタ元は中国の史記に描かれた「田単の奇策」とも。もっとも田単のケースは、角に刃、尻尾に火のついた葦をくっつけて牛を追い立てた、とか。
源平供養の塔。近くに源氏太鼓保存会寄贈の「蟹谷次郎由緒之地」の碑。合戦に勝利した源氏軍は酒宴を張り、乱舞しながら太鼓を打ちならした。この「勝鬨太鼓」が源氏太鼓として伝承された、と。蟹谷次郎は源氏軍左翼根井小弥太軍の道案内をつとめた越中の在地武士。
「為盛塚」。平氏の勇将・平為盛を供養するため鎌倉時代にまつられたもの。倶利伽羅合戦に破れ敗走する平氏軍にあり、源氏に一矢を報いんと五十騎の手勢を引き連れて逆襲。樋口兼光に捕らえられあえなく討ち取られたという。
芭蕉の碑。「義仲の寝覚めの山か月かなし」。俳聖松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良と共にこの地を通ったのは、元禄二年七月十五日のこと。が、この歌自体は芭蕉が敦賀に入った時に詠んだもの、とか。
「聞くならく 昔 源氏と平氏」からはじまる、砺波山を歌った木下順庵の詩も。順庵は江戸時代の館学者。藤原惺窩の門下。加賀藩の侍講をつとめ、のちに将軍綱吉に召され幕府の儒官に。人材育成につとめ、新井白石・室鳩巣といった人材を輩出した。

倶利伽羅公園
先に進むと倶利伽羅公園。この倶利伽羅峠の頂上付近には、7000本近くのの桜がある。高岡市の高木さんご夫妻が長い年月をかけて植樹したもの。「昭和の花咲爺さん」とも呼ばれる。

倶利伽羅不動

倶利伽羅不動。日本三不動の一尊と言われる倶利迦羅不動尊の本尊は、718年(養老2年)、というから今から1300年前、元正天皇の勅願によりインドの高僧・善無畏三蔵法師がこの地で国家安穏を祈願した折、不動ヶ池より黒龍が昇天する姿をそのままに刻んだ仏様をつくったのがはじまり。
前回の散歩でメモしたように、倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。

手向神社
お不動さんの隣に手向神社。ここはもと長楽寺跡。倶利伽羅不動明王や弘法大師がこの寺にとどまり七堂伽藍を建て布教をおこなった。が、倶利伽羅合戦の折、兵火にあい焼失。その後頼朝の寄進により再興。慶長年間(1596年から1615年)には加賀藩の祈祷所となり、堂宇の復興が続けられる。天保7年(1836年)山門・不動堂が再び焼失。再建されないまま明治維新を迎え、神仏分離により長楽寺を廃し手向神社となった。
『万葉集』に大伴池主が 大伴家持から贈られた別離の歌に答えて贈った長歌の中に、「刀奈美夜麻 多牟氣能可味个 奴佐麻都里」(となみやま たむけのかみに ぬさまつり)と手向の神が詠まれている。そのあたりも名前の由来、かも。倶利伽羅不動、手向神社を離れる。あとは、麓のJR倶利伽羅駅に向かってのんびりと下り、倶利伽羅峠散歩を終える。

倶利伽羅合戦後の源平両軍の動向
倶利伽羅合戦後の源平両軍のメモ;能登方面、源氏・源行家隊と対峙した平氏・志雄 山支隊は形勢有利であった。が、主力が倶利伽羅峠で大敗の報に接し、退却。大野・金石付近、というから現在の金沢市の北端・日本海に面する金沢港付近で敗退してきた平氏・本隊に合流し源氏軍に対峙する。
源氏軍は源行家の志雄山支隊と石川郡北広岡村、というから現在の石川軍野々市町か白山市あたりで合流し平氏軍に対する。小競り合いの末、平氏軍は破れ、安宅の関あたりまで退却。そして、加賀市篠原の地における「篠原の合戦」を迎えることになる。平家方は畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟を正面に布陣。対するは今井兼平。辛くも今井方の勝利。次いで、平氏の将・高橋判官長綱と樋口兼光軍との戦い。戦意の乏しい高橋軍、戦うことなく撤退。平氏の将・武蔵三郎左衛門有国と仁科軍が応戦。有国おおいに武勇を発揮するも敗れる。

斉藤別当実盛

平家軍の敗色濃厚な6月1日、平家方よりただ一騎進む武者。源氏・手塚太郎光盛との一騎打ち。平家方の武者、あえなく討ち死に。この武者が斉藤別当実盛。義仲が幼少の頃、悪源太・源義平から命を救ってくれた大恩人。義仲は恩人のなきがらに、大いに泪す、と。
ちなみに、老武者と侮られることを嫌い、白髪を黒く染め合戦に臨んだ実盛の話はあまりに有名。倶利伽羅峠散歩の前日、車で訪れた「首洗池(加賀市手塚町)」は、実盛の首を洗い、黒髪が白髪に変わった池。ここには芭蕉の句碑。「むざんなや兜の下のきりぎりす」。
きりぎりす、とは直接関係ないのだが、実盛にまつわる伝承;実盛は稲の切り株に足を取られて不覚をとった。以来実盛の霊はイナゴなどの害虫となって農民を悩ました。で、西日本の虫送りの行事では実盛の霊も供養されてきた、と。もっとも、田植の後におこなわれる神事である「サナボリ」が訛った、といった説もあり真偽の程定かならず。

実盛塚(加賀市篠原)

前日には「実盛塚(加賀市篠原)」にも足を運んだ。実盛のなきがらをとむらったところ、と伝えられる。見事な老松が塚を覆う。「鏡の池(加賀市深田町)」は髪を染めるときに使った鏡を沈めた、と伝えられる。実盛が付けていた実際の兜は小松市の多太神社の宝物館に保管をされている、と。前日レンタカーで訪れたが、夕暮れ時間切れではあった。
斉藤実盛のメモ;武蔵国幡羅郡長井庄が本拠地。長井別当とも呼ばれる。義仲のメモできしたように、当時の武蔵は相模を本拠地とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の間にあり、政情不安。実盛は最初は義朝に、のちに義賢に組する。義朝の子・悪源太義平が義賢を急襲し討ち取る。実盛は義朝・義平の幕下に。が、義賢への忠義の念より、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能より預かり、信濃に逃す。この駒王丸が木曽義仲である。
その後、保元の乱、平治の乱では義朝とともに上洛。義朝が破れたあとは、武蔵に戻り、平家に仕えることになる。義朝の子・頼朝の挙兵。しかし実盛は平氏方にとどまり、富士川の合戦、北陸への北征に従軍。倶利伽羅合戦を経て、篠原の合戦で討ち死にする。
畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ

ついでに畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ:

秩父平氏の流である秩父一族。重能の代に男衾郡畠山(現在の埼玉県大里郡川本町)の地に移り、畠山と号する。 鎌倉武将の華・畠山重忠の父でもある。源義朝の長男・義平に駒王丸こと義仲の命を発つよう命ぜられるが、不憫に思い斉藤別当実盛に託し、その命を救ったたことは既に述べたとおり。
両兄弟のもつ軍事力は強力であった、とか。保元の乱(1156年)において、源義朝と平清盛の連合軍に敗れた源為義が、為義の長男である源義朝の情けにすがって降服を、と考えたとき、為義の八男・為朝が「坂東下り、畠山重能・小山田別当有重兄弟を味方に再起を図るべし」と 諌めたほど。
平治の乱(1159年)に源義朝が平氏に破れ、源氏の命脈が衰えたのちは平氏に仕え、篠原の合戦に至る。平氏敗走。都落ちの際、既に 頼朝の重臣となっていた畠山重忠の係累ということで、首を切られるところを平知盛の進言を受けた平宗盛に許され東国下行を許される。兄弟は平氏とともに西 国行きを望むが許されず、泪ながらに東国に下った、と。
この小山田氏って、多摩・横山散歩のときに歩いた小山田の里でメモしたように、源氏の御家人として活躍。が、重能のその後はよくわかっていない。

散歩の備忘録
倶利伽羅散歩の旅の前後に源平ゆかりの地も訪れた。実盛塚などいくつかの地は既にメモした。そのほか訪れたところでは、義経・弁慶の話で有名な安宅の関、安宅の関での詮議の厳しさ、その後の足手まといになることを憂い、断崖から身を投げた尼御前にまつわる尼御前岬など、メモしたいところも無いわけではない。 が義経の足跡までメモしはじめたらいつ終わるやら、との少々の恐れもあり、倶利伽羅合戦にまつわる尼御前岬の近くの「平陣野」のメモで終わりにしようと思う。

平陣野

「平陣野」は義仲軍を叩くべく北征する平維盛の大軍が陣をはったところ。加賀市黒崎町、黒崎海岸にある。海岸近くには、旧北陸道・木曽街道が通る。道幅は狭く、黒松・草木が茂る道であった。
「平陣野」近辺は松林はなく、展望が広がり、日本海が見渡せる。往古、見通しのよい砂原であった、とか。この景色を眺めながら平家軍は北に進んだのだろう。 「源平盛衰記」に、安宅の関から延々黒崎海岸に続く平氏の進軍の姿が描かれ れいる;「五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり」、と。倶利伽羅散歩というか、そこから拡がった倶利伽羅合戦の時空散歩はこれで終わりといたしましょう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

火曜日, 11月 28, 2006

北陸 倶利伽羅峠散歩 そのⅠ; 源平の合戦地を歩く

晩秋の連休を利用し、倶利伽羅峠を歩くことになった。源氏だか平氏だか、どちらが主人公かは知らないが、源平争乱の時代を舞台にした恋愛シミュレーションゲームがあるそうな。そのゲームに嵌った同僚諸氏が、行きませんか、とのお誘い。源平争乱絵巻は別にして、歩くことができるなら、と二つ返事で承諾。倶利伽羅峠って、木曽義仲が平家を打ち破った合戦の地。それなりに興味はあるのだが、どこにあるのかもよくわからないまま、加賀路に飛んだ。

2泊3日 の行程では、倶利伽羅峠を歩くほか、安宅の関、斉藤実盛ゆかりの地などあれこれ源平合戦の跡、また、名刹・那谷寺などを巡る。が、そこはレンタカーでの旅でもあり、散歩というほどのこともない。メモしたい思いもあるのだが、散歩のメモという以上、少々歩かないことには洒落にならない。ということで、今回は10キロ程度の行程ではあった倶利伽羅峠越えをメモすることにする。(火曜日, 11月 28, 2006のブログを修正)


本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


倶利伽羅峠

倶利伽羅峠とは、正式には砺波山のこと。倶利伽羅はサンスクリット語。「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」を意味する、とか。峠に倶利伽羅不動寺があり、日本三大不動でもある、ということで、砺波山ではなく「倶利伽羅」が通り名となったのだろう。
こ の倶利伽羅峠、富山県小矢部市埴生より石川県津幡町倶利伽羅・竹橋に至るおよそ10キロの行程。旧北陸街道が通る。標高は70mから270m程度。メモの前にカシミール3Dで地形図をつくりチェックしてみた。越中・砺波平野と加賀を隔てる山地の、最も「薄い」、というか「細い」部分となっている。どうせの山越え・峠越えであれば、距離が短く、標高差の少ないとことを選んだ結果の往還であったのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

和銅6年(713年)、この地に関が設けられる。砺波の関と言う。越の三関のひとつである。古伝に曰く;「京都を発し佐渡にいたる古代の越(高志)の道は、敦賀の愛発(あらち;荒乳山)を越える。ここから越前。次いでこの砺波山を越える。ここから先が越中。最後に名立山を越える。この地が越後。で、この峠の関を越の三関」、と。
この砺波山・倶利伽羅峠が有名になったのは、寿永2年(1183年)、木曽義仲こと源義仲が平家・平維盛(たいらのこれもり)を破ってから。天正13年(1586年)、豊臣秀吉が前田利長とともに佐々成政を破ったのも、この峠である。

JR石動駅(いするぎ)
さてさて、散歩に出発。今回のルートは富山側から石川県へと歩く。JR石動駅(いするぎ)からはじめ峠を越え、JR倶利伽羅峠駅に下りる、といったルーティング。金沢を出発し石動駅に。このあたりは昔「今石動宿」と呼ばれた北陸街道の宿場町。大名の泊まる本陣から庶民が宿をとる旅籠、木賃宿が集まり、大いに繁盛した、と。駅を降り、倶利伽羅峠への上り口のランドマーク、護国八幡宮に向かう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


護国八幡宮
もとは埴生八幡宮。奈良時代・養老年間に九州の宇佐八幡を勧請してつくられた、と伝えられる。万葉歌人としても有名な大伴家持、実は越中の国守でもあったわけだが、この神社で国家安寧・五穀豊穣を祈願したとも伝えられる。上に述べた「砺波の関」を舞台に東大寺の僧・平栄を接待して家持が詠んだ、『焼太刀を礪波の関に明日よりは守部やりそへ君をとどめむ』という歌が万葉集に載っている。「(奈良への)お帰りは早すぎます。もっとゆっくりしてください」といった意味、のよう。ちなみに、万葉集には家持の歌が473首載っているが,そのうち223首は越中で過ごした5年間に詠んだもの、とか。

大伴家持
ちょっと脱線。大伴家持って、万葉集の選者として知られる。が、万葉集のほとんどは、家持が親ともたのむ橘諸兄がまとめ終えてあり、家持が諸兄から依頼されたのは、「怨みの歌」であった、といった説もある。王家のために怨みをのんでなくなった人々、政治的犠牲者の荒魂を慰める、ために集められた、とか。悲劇の人々の歌を連ね、最後に刑死した柿本人磨呂の歌で終わらせる、といった構成。政敵・藤原氏の「悪行」を「表に出す」といった思惑もあった、とも言われるが、仏の力で鎮護国家を目指す大仏建立と相まって、言霊によって荒魂の怨霊を鎮め、王道の実現を目指すべく「恨みの歌」が集められた、とか。

木曽義仲は埴生八幡様に陣を張る
埴生八幡様に戻る。この埴生八幡が護国八幡宮となったのは、江戸慶長年間。領主・前田利長が凶作に苦しむ領民のために豊作を祈願。その効著しく、ために「護国」という名称をつけた、とか。埴生八幡が有名になったのは、源平・倶利伽羅峠の合戦において、倶利伽羅峠に布陣する平家の大軍を迎え撃つ源氏の大将・木曽義仲がこの地に陣を張り、戦勝を祈願。華々しい戦果を挙げた、ため。武田信玄、佐々成政、前田利長といった諸将が篤い信仰を寄せることになったのも、その霊験ゆえのことであろう。

佐々成政
そうそう、そういえば佐々成政も、この倶利伽羅峠で豊臣秀吉、前田利長と戦い、そして敗れている。佐々成政のメモ;織田信長に14歳で使えて以来、織田信長の親衛隊である黒母衣組(ほろ)の筆頭として活躍。上杉への押さえとして越中の国主として富山に城を構える。で、本能寺の変。信長の忠臣としては、その後の秀吉の所業を良し、とせず、信長の遺児・信雄(のぶかつ)を立て、家康を味方に秀吉と対抗。が、信雄が秀吉と和睦・講和。ために、家康も秀吉と講和。それでも成政はあきらめることなく、家康に立ち上がるよう接触・説得を図る。が、周囲は完全に包囲され、残された唯一の手段は真冬の立山越え。これが有名な「さらさら越え」。
この「さらさら越え」を描いた小説を読んだ覚えがある。確か新田次郎さんの作?ともあれ、雪の立山を越え、家康のもとにたどり着く。が、家康は動くことはなかった。天正13年(1585年)、秀吉の越中攻め。このとき、倶利伽羅峠での戦いに破れ、成政は降伏。秀吉の九州征伐に従い肥後一国を与えられるが、国人一揆の責めを負わされ切腹させられることになる。もっとも、雪の立 山越えに異論を唱える人も多い。またまた寄り道に。散歩に戻る。

倶利伽羅峠源平の郷 埴生口

護国八幡の前に「倶利伽羅峠源平の郷 埴生口」。歴史国道整備事業の一環として設立された施設。歴史上重要な街道である倶利伽羅峠の歴史・文化をまとめてある。峠の全体を俯瞰し、またいくつか資料を買い求め峠道に向かう。

旧北陸街道・ たるみ茶屋跡

道筋に医王院といったお寺。その裏手には若宮古墳。6世紀頃につくられた前方後円墳。埴輪が出土されている。
医王院を先に進み旧北陸街道に入る。整備された道を進むと「たるみ茶屋跡」。碑文には藤沢にある時宗・遊行寺総本山清浄光寺の上人とこの地の関わりが説明されていた。石動のあたりにあった、とされる蓮沼城主・遊佐氏と因縁が深かった、ため、と。「旅の空 光のどけく越路なる砺波の関に春をむかえて」といった上人さまの歌も。
ちなみに、この時宗ってこの当時、北陸の地にもっとも広まっていた宗教であった。そういえば、この倶利伽羅峠の前日に訪れた斉藤別当実盛をまつる実盛塚も、時宗・遊行上人がその亡霊を弔った、と。当時、この地の有力な宗教勢力が時宗であったとすれば、大いに納得。ちなみに浄土真宗というか、真宗というか、一向宗、というか、どの名前がいいのかよくわからないが、この宗派が北陸にその勢を拡大したのは、もう少し後のこと。もっとも時宗も浄土教の一派ではあるのだが。時宗の開祖・一遍上人は愛媛の出身。ちょっと身近に感じる。

峠の茶屋
先に進む。「峠の茶屋」の碑。碑文のメモ;「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九がこの地を訪れ、「石動の宿を離れ倶利伽羅峠にかかる。このところ峠の茶屋いずれも広くきれいで、東海道の茶屋のようだ。いい茶屋である。たくさんの往来の客で賑わっている」、と。倶利伽羅峠にはこういった茶屋が10軒もあった、とか。
道の途中、どのあたりか忘れたが藤原顕李(あきすえ)句碑があった:堀川院御時百首の一首 「いもがいえに くものふるまひしるからん 砺波の関を けうこえくれば」。藤原顕李、って何者?

源氏方の最前線・矢立山

峠の茶屋の少し先、旧北陸道と車道が合流するあたりが矢立山。標高205m。そこに「矢立堂」。ここは倶利伽羅合戦時の源氏方の最前線。300m先の「塔の橋」あたりに進出していた平氏の矢が雨あられと降り注ぎ、林のように矢が立った、ということから名づけられた。

源氏ケ峰

「塔の橋」で北の「埴生大池」方面からの道と車道が交差し十字路となる。車道を南に下ると「源氏ケ峰」方面、西に直進すると「砂坂」。この砂坂、かつては「七曲の砂坂」と呼ばれた倶利伽羅峠の難所であった。難所・砂坂に進む、といった少々の誘惑もあったが、結局は「源氏ケ峰」方向に。理由は、その道筋が「地獄谷」に沿っているようであった、から。

地獄谷は「火牛の計」の地

地獄谷って、あの有名な「火牛の計」というか、松明を角につけた牛の大群によって平家方が追い落とされた谷、のこと。はたしてどんな谷なのか、じっくり見てみよう、といった次第。「源氏ケ峰」には展望台がある。が、木々が茂り見晴らしはよくない。「源氏ケ峰」と言うので、源氏が陣を張ったところか、と思っていたのだが、合戦時は平家方が陣を張ったところ。義仲が平氏を打ち破った後に占領したためこの名がついた、と。勝てば官軍の見本のような命名。
近くに芭蕉の句碑。「あかあかと 日は難面も あきの風」。もっともこの句は越後から越中・金沢にいたる旅の途中でえた旅情を、金沢で詠ったもののよう。

猿ケ馬場に平家の本陣が

地獄谷を眺めながら進む。砂坂からの道と合流するあたりが「猿ケ馬場」。平家の大将・平維盛の本陣があったところ、である。
平家の本陣まで歩いたところで、倶利伽羅合戦に至るまでの経緯をまとめる。それよりなにより、木曽義仲って、一体どういう人物?よく知らない。で、ちょっとチェック。

木曽義仲
祖父は源為義。源義朝は伯父。両者敵対。祖父の命で武蔵に下ったのが父・源義賢。義仲は次男坊として武蔵国の大蔵館、現在の埼玉県比企郡嵐山町で生まれる。義朝との対立の過程で父・義賢は甥・源義平に討たれる。
幼い義仲は畠山重能、斉藤実盛らの助けを得て、信濃の国・木曽谷の豪族・中原兼造の元に逃れ、その地で育つ。木曽次郎義仲と呼ばれたのは、このためである。
で、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵。義仲は9月に挙兵。2年後の寿永元年(1182年)、信濃・千曲河畔の「横田川原の合戦」で平家の城資永(資茂との説も)氏の軍を破り、その余勢をかり、越後の国府(現在の上越市の海岸近く)に入城。諸国に兵を募る。

倶利伽羅峠での合戦
までの経緯
一方、当時の平家は重盛が早世、維盛が富士川の合戦で頼朝に破れ、清盛が病没、といった惨憺たる有様。平家の総大将・平維盛の戦略は、北陸で勢を張り京を覗う義仲を叩き、その後、鎌倉の頼朝を潰す、といったもの。で、寿永2年(1182年)全国に号令し北陸に大軍を進める。

平氏北征の報に接し義仲は平氏と雌雄を決し京に上ることに決す。先遣隊は今井兼平。寒原、黒部川を経て富山市から西に2キロの呉羽山に布陣。寒原って、親知らず・子知らずで知られる難所のあたり。「寒原の険」と呼ばれたほど。

一方の平氏。先遣隊長・平盛俊は5月、倶利伽羅峠を越えて越中に入る。小矢部川を横断し庄川右岸の般若野(富山県礪波市)に進。が、今井隊による夜襲・猛攻を受け、平氏は敗走。これが世に言う、「般若野の合戦」。結局、平家は倶利伽羅峠を越えて加賀に退却する。



本隊・義仲は越後国府を出立。海岸線を進み、5月9日六動寺国府(伏木古国府)に宿営。一方平氏の主力軍はその頃、加賀・安宅付近に到着。進軍し、安宅、美川、津幡、倶利伽羅峠に達する。また、平通盛の率いる別動隊は能登方面に進軍。高松、今浜、志雄、氷見、伏木付近に。


義仲は志雄方面に源行家を派遣。自らは主力を率い般若野に進軍。今井隊と合流。5月10日の夜、倶利伽羅に向かった平氏の主力は既に倶利伽羅峠の西の上り口・竹橋付近に到着の報を受ける。倶利伽羅峠を通せば自軍に倍する平家軍を砺波平野・平地で迎え撃つことになる。機先を制して倶利伽羅峠の隘路を押さえるべし、との軍令を出し、先遣隊・仁科党を急派。隘路口占領を図る。
仁科党は11日未明、石動の南・蓮沼の日埜宮林に到着。白旗をたなびかせ軍勢豊なりしさまを演出。同時に、源氏軍各部隊は埴生、道林寺、蓮沼、松永方面、つまりは倶利伽羅峠の東の上り口あたりまで進出。義仲の本陣は埴生に置いた。倶利伽羅峠を挟んで源平両軍が対峙する。思いのほかメモが長くなった。このあたりで一休み。次回にまわすことにする。

日曜日, 11月 19, 2006

北武蔵 野火止用水散歩 ; 玉川上水分岐点から平林寺へと

何も考えず、ひたすらに歩きたい、と思うときがある。そういった時は、川筋を歩くことにしている。川の流路にそって、川の流れのガイドに従って歩くことができるからである。
今回もそういう気分。それではと、前々から機会を伺っていた「野火止用水」を歩くことにした。いつだったか玉川上水を歩いたとき、西武拝島線・玉川上水駅あたりから野火止用水が分岐していた、との、かすかな記憶。地図で確認すると、玉川上水駅あたりから新座市の古刹・平林寺あたりまで川筋・緑道が続いている。野火止用水だろう。玉川上水駅から平林寺まで、およそ20キロ。ひたすらに歩こう、と思う。

野火止用水のメモ;武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に入府以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく開拓農民は困窮の極みとなっていた。
承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37・8年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。(日曜日, 11月19, 2006のブログを修正)


本日のルート;J
R立川駅>多摩モノレール・玉川上水駅>水道局監視所>(東大和市)>西武拝島線にそって・松ノ木通り>村山街道・青梅橋>(開渠)>栄町1丁目・多摩変電所>野火止緑地・野火止橋>東野火止橋>ほのぼん橋>土橋>元仲宿通り>(緑道)>野火止通り>(開渠)中宿商店街>西武国分寺線交差>九道の辻公園>八坂>西武多摩湖線>多摩湖自転車道>西武新宿線交差>新青梅街道交差>稲荷公園・稲荷神社>万年橋>所沢街道・青葉町交差点>新小金井街道合流>小金井街道・松山3丁目>水道道路>西武池袋線>新堀>御成橋通り合流>西堀公園>新座市総合運動公園>関越道>平林寺


玉川上水駅

さて、歩き始める。自宅を出て、JR立川駅に。多摩モノレールに乗り換え、玉川上水駅に向う。モノレールはほぼ「芋窪街道」に沿って北上する。今風に考えれば少々「格好よくない」この街道の名前の由来は、芋窪村(現在の東大和市の一部)に通じる道であったから。その「芋窪」も、もともとは「井の窪」と呼ばれていた、とか。
玉川上水駅に到着。ここはまだ立川市。とはいっても立川市、東大和市、武蔵村山市とのほとんど境目。立川市の地名の由来は、東西に「横」に広がる多摩丘陵地帯・多摩の横山から見て、多摩川が「縦」方向に流れる、立川・日野近辺が「立の河」と呼ばれていたから。この「立の河」が「立川」となった、とか。また、地方豪族・立河氏が居城を構えていたから、とか例によって説はいろいろ。

水道局・小平監視所

駅の南に玉川上水かかる清願院橋。少し東に進むと、水道局・小平監視所。現在は、ここが玉川上水の終端施設、といってよい。ここで塵芥を取り除き、沈殿槽を通った水はここから東村山浄水場に送られる。つまりは、ここから下流には多摩川からの水は流れていない。玉川上水、また野火止用水は昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理下水が流れている。「清流復活事業」といった環境整備のために作られた流れとなるわけだ。
事情はこういうこと;昭和48年、玉川上水とつながっていた新宿・淀橋上水場の閉鎖にともない、玉川上水の水を下流に流す必要がなくなった。が、後に上水跡・用水跡の清流復活運動がおこったため、その水源を求めることになる。玉川上水の水を流せばいいではないか、とはいうものの、その水は村山浄水場に送られ都民の上水となっているわけで、それを使うことは既にできない。で、代わりに昭島の水再生センターからの水を使うことになった、ということ。
ところで、何故、「小平」監視所?地図をチェックすると、ここは小平市。西武拝島線と玉川上水に囲まれる舌状地域が小平市の西端となっている。小平の地名の由来は、昔のこのあたりの地名であった「小川村」の「小」と、平な地形の「平」を合わせて「小平」と。

西武拝島線・東大和市駅

監視所を過ぎると、西武拝島線に沿って緑道が続く。松ノ木通りと呼ばれている、ようだ。このあたりは「野火止用水歴史環境保全地域」となっており、保存樹林が続く。緑道は西武拝島線・東大和市駅まで続く。
東大和市駅は村山街道と青梅街道が合流する青梅橋交差点近くにある。駅名の割には市の南端。昔は青梅橋駅と呼ばれていた、と。青梅橋の案内によれば、「300年の歴史を持つ青梅橋も、昭和35年村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水跡を利用した暗渠となったため取り壊された。この橋から丸山台(というから南街3丁目)あたりまで、4キロにわたって道の中央に一列に植えられた千本桜があったが、今はない」と。
東大和の地名の由来は、少々面白い。村制が施行されるとき、それまであれこれ争っていた六つの村が、大同団結、「大いに和するべし」というとこで、「大和村」となる。また、市制施行時に、神奈川県の大和市と区別するため、「東」大和、とした、とか。同じような例として、愛媛の松山市と区別した埼玉の東松山市、九州の久留米市と区別した東久留米市、などがある、とか。郵便番号が無かった時代を思えば、少々納得。

駅前を過ぎ、西武拝島線の高架下をとおり先に進む。ここから府中街道・八坂交差点までは東大和市と小平市の境を用水が続く。住宅街を走る緑道を少し進むと、親水公園に。川筋には「ホタルを育てています」といった箇所も作られていた。
先に進み、栄1丁目の多摩変電所を越えるあたりで親水公園が終わり、自然の川筋が現れる。雑木林の入口あたりに「野火止用水 清流の復活」と刻まれた石標が。都市化が進み生活用水で汚れた川を、東京都と埼玉県で復元・清流復活事業を行い昭和59年に完成した。玉川上水の清流復活に先立つこと2年、ということだ。
清流の元の水は上でメモしたように昭島市の多摩川上流水再生センター(昭島市宮沢町3丁目)で高度処理された下水処理水である。ちなみにこの再生センターで処理された、この地域一帯の下水は多摩川に放水される。また、多摩川に流される処理水をさらに砂濾過処理、オゾン処理をおこない、野火止用水とともに玉川上水、千川上水の清流復活事業に供している。昭島市の地名の由来は、「昭」和村+拝「島」村=昭島、と。

野火止緑地

しばらく雑木林が続く。いい雰囲気。野火止緑地と呼ばれている。けやき通りと交差。野火止橋。先に進むと東野火止橋。雑木林はここで一旦途切れる。住宅街に隣接した川筋を少し進む。用水の両側は木に覆われている。「ほのぼの橋」に。用水の北側はこのあたりで東大和市が終わり、東村山市になる。東村山 市と小平市の境の用水をしばらく歩く。「こなら橋」あたりから再び雑木林が現れる。土橋を越えたあたりから雑木林が終わり、両側に団地が現れる。川筋の廻りも広い舗装道路となる。少し進むと左手に明治学院東村山中・高校。グラウンドのあたりで一度暗渠となるが、学院正面の橋あたりで、再び水路が現れる。このあたりの川筋に沿った住宅には、その家専用の橋が架かっている。いつか、六郷用水の上流部分・丸子川を歩いたときも、おなじようなMy Bridgeをもつ瀟洒な住宅街を見た。いい雰囲気でありました。
東村山の地名の由来は、武蔵野台地の西端は昔、村山郷と呼ばれていた、狭山丘陵の群れあう山々=群山>村山になった、とか。村山郷の東のほうに位置するので、東村山、と。西に武蔵村山市があるから、その東って、ことかもしれない。ついでに武蔵村山は山形県の村山市と区別するために「武蔵」をつけた、とか。

九道の辻公園
西武国分寺線を越えると、九道の辻公園(小平市小川東町2-3-4)。往古、このあたりには鎌倉街道(上道)、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道、 宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道が交差しており、九道の辻と呼ばれていた。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の倒幕の命に呼応し、上州・新田庄で挙兵。武蔵野の原野を下ってきた新田義貞は、この辻にさしかかったとき、さて鎌倉に進むには、どちらに進めばいいものやら、と大いに戸惑った、とか。で、今後道に迷うことのないように、鎌倉街道沿いに桜を植えた。その名を「迷いの桜」と呼ばれたが、今はない。

多摩湖自転車道

公園が終わるあたりで府中街道と交差。八坂交差点。地名の由来は、交差点の北、府中街道に面したところに八坂神社があるから、だろう。府中街道を渡り西武多摩湖線の高架下を越えると多摩湖自転車道にあたる。この自転車道の地下には多摩湖~東村山浄水場~境浄水場~和田給水所を結ぶ水道管が通っている。小平市の境は、この西部多摩湖線に沿って南東に下る。つまりは、ここからしばらくは東村山市内を歩くことになる。

西武新宿線・久米川駅

多摩湖自転車道を越えたあたりから用水は一時暗渠となり、自転車歩行者専用の道筋となる。西武新宿線・久米川駅近くを越えると新青梅街道と交差。再び用水が姿を現わす。少し進むと稲荷公園・稲荷神社。江戸時代の大岱村の鎮守として京都伏見稲荷を分祀したもの。その先に恩田の「野火止の水車苑」。天保2年(1782年)から昭和26年まで、小麦等の穀物を製粉し、商品価値を高め江戸・東京に送られていた、と。
さらに少し進むと万年橋。万年橋のケヤキがある。ケヤキが用水を橋のように跨いでいる。用水を開削するとき、元からあったケヤキの大木の根元を掘り進んだからから、とか、用水ができたときに植えたケヤキが、橋づたいに根を延ばしたとか、説はいろいろ。

新所沢街道
万年橋を越え、しばらく進むと、車道と隣接して用水は進む。野火止通りと呼ばれている、ようだ。すぐに新所沢街道がT字に合流。ここからは南は東久留米市。東村山市と東久留米市の境を進む。しばらく進むと雑木林。野火止用水歴史環境保全地区となっている。雑木林が切れるあたり、青葉町1丁目交差点で所沢街道と交差する。
東久留米の地名の由来は、久留米村、から。久留米村は地域を流れる「久留米川」から。現在は「黒目川」と呼ばれているが、江戸時代は「久留目川」・「来目川」・「来梅川」と呼ばれていた。「東」久留米としたのは、前述の九州の久留米市と区別する、ため。

新小金井街道

野火止通りを進む。用水南にあるアパート(久留米下里住宅)が切れるあたりが東村山市の西端。清瀬市となる。清瀬市の地名の由来は、清戸村+柳「瀬」川=清瀬、と。しばらく歩くと用水脇に浅間神社(清瀬市竹丘)。富士塚が築かれており、ちょっと「お山」に登る。
浅間神社を越えると「新小金井街道」が野火止通りに合流。さらに歩を進めると小金井街道と交差。松山3丁目交差点。交差点を越えると、新座市。用水跡を南端に舌状に新座市が清瀬市と東久留米市に食い込んでいる。どういった事情かは分からないが、市境は用水を境に複雑に入り組んでいる。
新座市の地名の由来は歴史的名称から。758年、新羅からの渡来人がこのあたりに住み新羅郡が置かれる。その後、新倉郡、新座(にいくら)郡となった、その名称から。

野火止史跡公園

新座市に入った頃から川筋は「野火止通り」から「水道道路」と。西武池袋線を交差し、新堀交差点を越え、新座ゴルフ倶楽部を左手に見ながら先にすすむと、御成橋通りが南からT字に合流。さらに進むと富士見街道が北からT字に合流する西堀公園交差点に。
交差点を越えると野火止用水は水道道路とわかれ北に上る。このあたりは「野火止史跡公園」。用水も本流と平林寺堀と二手に分かれる。どちらを歩くか少々迷ったが、本流を進むことに。平林寺堀を進むと、用水は雑木林の中、細流となって続くようだ。

関越道と交差

遠くに雑木林を見ながら、のんびりとした田園地帯を進む。雑木林に入るころから、用水に沿って「本多緑道」がはじまる。桜並木が有名なようだ。雑木林と桜並木の道筋を進む。新座市総合運動公園を左手に見ながら進むと、関越道と交差。用水も関越道の上を懸樋でわたる。
関越道を越えると産業道路。野火止用水は産業道路を左手に見ながら緑道を進む。次第に深い緑。もうここは平林寺の寺域だろう。道なりに平林寺大門通りに向かい、やっと目的地・平林寺に到着。

平林寺

平林寺到着は午後5時。お寺は既に閉門。平林寺は次回のお楽しみとする。玉川上水をメモするとき、杉本苑子さんの『玉川兄弟;文春文庫』を詠んだ。絶版のためあきらめかけていたのだが、偶然入った古本屋で見つけた。その中で、取水口をどこにするか、技術的・政治的思惑が錯綜するストーリーが面白かった。

玉川上水の取水口は現在、羽村にある。が、当初日野・青柳村、次に福生、と通水失敗を重ね、三度目の正直で羽村になった、と。その間、というかはじめから松平伊豆守の家臣・安松金右衛門は玉川兄弟に羽村にすべし、とのアドバイスを繰り返した。羽村から取水しなければ玉川上水も通水しないし、羽村からでなければ野火止用水への導水など夢のまた夢、という事情もあったから、とか。結果的にはごり押しすることもなく、羽村に決まり、玉川上水も、野火止用水も完成したわけだが、その知恵伊豆の夢の跡を秋の一日、すっかり楽しんだ。