火曜日, 9月 27, 2022

讃岐 歩き遍路:阿讃県境の大坂峠古道を辿る

大坂峠古道を辿ることにした。過日大坂峠越えの遍路道を歩いたのだが、その道筋は明治七年(1874)着工、明治八年(1875)完成したもの。現在は「四国のみち」として整備されている。 その遍路道途次にあった「大坂峠みち」案内には「歩荷;ぼっか」( 人が荷物)を運搬する)の道から、駄荷(牛馬によって荷物を運搬する )や車の道に大改修されたのです。「歩荷の道」から「駄荷や車の道」への発展は、阿讃の物流の増大が直接の原因であり、阿讃両国それぞれの産業経済の発展がその遠因をなしているのです」とあり、説明分の横には地図があった。
遍路道にあった古道、旧道(遍路道)案内図
そこには旧旧道(最も古い道)、旧道(四国のみち)、新道(県道)のルート地図が県境・大坂越えの辺りまで掲載されていた。その時は、地図に描かれる古道(旧旧道 )ルート図は「資料」としてのものであり、地際に現在でも歩けるルートとは思っていなかったのだが、県境を示す木のポールが立つ切通しの少し手前、、沢側に「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」と書かれた木の標識があった。
結構な痛み具合。あまりに唐突であり、なんでここにこんな標識が、と思ったのだが、先ほど見た「大坂峠みち」の古道ルートは海岸からこの標識の立つあたりまで繋がっている。ひょっとしてこの古道って歩けるのでは、とチェック。と、古道には丁石が残り、国道からの取りつきくちには「大坂峠古道」の案内標識が残るという。義経が屋島での源平合戦の際、奇襲作戦として越えたと言われる本来の大坂峠越えは、「四国のみちとして整備されていた遍路道(旧道)ではなく古道(旧旧道)のようである。
それならばと、古道歩きを計画。距離は4キロほどだろうか。歩かれた方はそれほど多くないようで、詳しい記事も多くなく、とりあえず遍路道(四国のみち)にあった、古道ルートを頼りに歩くことにした。
ルートは基本沢筋(中上流部は涸沢)を上る。途中3か所、県道をクロスしたり、県道傍を巻くことになり、道に迷っても取り敢えず県道に出ればいいので気持ちは楽。また最後の涸沢を詰めて「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」の標識に出るルートは、沢筋西に整備された遍路道(四国のみち)がある。一度歩いているため、これも結構気分は楽。昨年土佐街道歩きで下山途中藪に阻まれ日没。夜は沢の水で渇きを癒したが、その水も朝には切れ、脱水状態で幻覚を見るという、ほとんど遭難寸前といった状態も体験したため、その轍は踏まじと常にもなく午前4時起き、2時間車を走らせ午前7時頃から行動開始。いざという時のためツエルトもザックに入れおっかなびっくり古道ルートに足を踏み入れたのだが、結局は片道2時間、ピストン往復4時間ほどであっけなく大坂峠古道を辿り終えた。藪漕ぎのないルートは有難い。
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国土地理院地図にプロット
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本日のルート;国道11号浜側の「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」標識>姿見地蔵>「大坂峠古道」標識と2丁石>高徳線の高架を潜る>高架を出たところに3丁石>木橋を渡り水路右岸に>農家跡石垣と丁石>5丁石>沢を渡り県道1号徳島引田線に出る>県道山側に「讃岐街道大坂越」標識>2回目の県道1号クロス箇所>3回目の県道クロス箇所>県道ヘアピンカーブ西端を巻く>砂防堰堤の西端を巻く>遍路道に立つ「 讃岐街道大坂越」標識に到着


大坂越え古道実行ルート





大坂越え古道始点

国道11号浜側の「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」標識;午前6時50分
大坂峠越えの遍路道(「四国のみち」)にあった古道(旧旧国道)の始点は国道11号が走る海岸線。始点に何かないものかとガードレールの切れ目よりステップを海岸へと下りる。短いステップに「姿見地蔵」と手書きで書かれた木の標識。その下に「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」標識(以下「讃岐街道大坂越」)が放置されていた。ここが 讃岐街道大坂越の始点であることはわかったが、少々寂しい古道スタートとなった。


姿見地蔵:午前6時50分
ステップにあった「姿見地蔵」は海に向かって建つコンクリート覆屋の中に佇む。覆屋には二体の石像。一体は上部が欠けている。もう一体の台座には「三界萬霊 壽可多見乃地蔵 右大坂道 左奈留戸 文化十四年丑七月二十四日」といった文字が刻まれる。
姿見の井戸というのは結構多くあるようだが、姿見地蔵って、どのような功徳のある地蔵尊かチェックするもヒットしない。井戸に姿が写れば無病息災、でなければ三年以内に災いがといったストーリー。そういえば四国遍路札所の井戸寺に同様の物語をもつ井戸があった。その井戸は面影の井戸と読んでいた。

「大坂峠古道」標識と2丁石;午前6時56分
国道からの古道ルート入口
標識と2丁石
国道11号をはなれ古道ルートを進む。とはいうものの、国道近くはのんびりとした田園の風景。3分ほど歩くと道の左手に木の標識が2基。
1基は「大坂峠古道」標識。もう一つは「丁石」とあり、その横に丁石が立つ。「右大坂道二丁目 是より峠?十七丁」とある。

高徳線の高架を潜る;午前6時57分
農道を離れ水路右岸に移る。トンネルが見える
高徳線の高架下トンネルを潜る
舗装された水路左岸の農道を道なりに進むと水路右岸の先に高徳線の高架が見える。農道は右におれるため、水路に架かる橋を渡り高徳線の高架を潜る。

高架を出たところに3丁石;午前6時59分
石垣手前に3丁石
3丁石
思ったよりも長く暗い高架を潜ると、その出口の石垣下に3丁石が立っていた。石垣の上には水路に架かる橋が見える。その手前に古寂びた「讃岐街道大坂越」標識が立つ。









丸太の木橋を渡り水路右岸に
「讃岐街道大坂越」標識の立つ橋を渡り
丸太橋を渡りフェンス端を抜け右岸に
丁石より少し左に進み直ぐ折り返し、一段高い石垣上に立つ「讃岐街道大坂越」の先、水路に架かる橋を渡り水路左岸を進む。ほどなく水路に渡した丸太三本の橋がある。
対岸には獣防御の鉄柵があるが、端を抜けることができる。立ち木の枝を掴みながらへっぴり腰で(結構脆そう)丸太の木橋を辺り水路左岸に移る。その先踏まれた道を進む
●地図にある本来の古道ルート
水路に架かる橋を渡りフェンスに沿って進む
フェンスで遮られた道(山側より撮ったもの)
地図にあった古道ルートは3丁石の上、「讃岐街道大坂越」の立つ橋を渡ることなく、3丁石から左に進み、溜池の土手下で右折し山道に入る。ルートに従い水路に架かる橋を渡り、獣防御フェンスに沿って進む。が、ほどなく踏まれた道がフェンスで遮られる。フェンスの先には踏まれた道筋が続くが、フェンスが高く、また常なら開閉できるのだが、ここは頑丈に固定され開くこともできない。
あれこれルートを探し結局見つけたのが上述丸太の木橋を渡るルート。木橋を渡った先はフェンスで遮られた踏まれた道筋の先に出る。

農家跡石垣と丁石;午前7時28分
農家跡の石垣と丁石
4,6,7,9丁石が並ぶ
踏まれた道をのんびり歩くと右手に農家の石垣跡、その対面に4基の丁石。4丁、8丁、7丁、9丁が並ぶ。明治7年竣工、明治8年に完成した道ができ、人も通らなくなった古道に丁石は無用とここに集められたのだろうか。
因みに、3丁石からここまで30分ほど時間が架かっているが、それはフェンスに阻まれた古道に復帰するためあちこちと彷徨したため。すんなり丸太橋を渡ればこんなに時間はかからない。

5丁石;午前7時34分
農家跡の石垣の先、竹林を抜けると
5丁石。倒れた丁石を裏表逆に戻したようだ
いくつか続く農家跡の石垣を見遣りながら竹林を進む。道は沢の右岸を進む。数分歩くと道の沢側に石の台座がありその前に舟形の石造物が倒れている。数日前の台風で台座から倒れたのだろうか。 石を持ち上げ台座の上に戻した。が、その時は摩耗激しく文字も仏様も見えないと思い込んでいたのだが、今となって考えると裏表逆に立てたのかもしれない。どなたか道を辿るかたがいらっしゃれば、本来の姿に戻して頂ければと思います。尚、この5丁石から先、丁石を見ることはなかった。

沢を渡り県道1号徳島引田線に出る;午前7時36分
沢を渡り
県道に出る。特に目印は無い。
5丁石の直ぐ先で沢の右岸を進んできた古道は沢を渡り左岸に移る。沢の辺りから前方に県道の路肩が見える。
少し水が残る沢を渡ると立ち木に括られたテープがあり、テープに従い緩やかなスロープを上り県道1号徳島引田線に出る。
木に括られたテープ
県道から木に括られたテープが見える
古道から県道に出る箇所にはガードレールがなく、県道から古道へのアプローチ口が明示されていない。上りは沢を渡った先に県道路肩が見えるので、木に括られたテープを辿らなくても成り行きで県道に出ることはできるのだが、下りの場合は戸惑うかもしれない。その時は県道下、木に括られたテープを目安に下りれば沢の渡り口に導いてくれる。


県道山側に「讃岐街道大坂越」標識;午前7時36分
「讃岐街道大坂越」標識より山側に入る
木に括られたリボンの先に県道が見える
県道に出ると、少し下った山側に「讃岐街道大坂越」標識が立つ。木にリボンも括られ見逃すことはないだろう。
沢の左岸を進む道は結構踏まれている。比高差20mもあるかないかと言った古道には木に括られたリボンの先に、ヘアピンで曲がって来た県道のガードレールが見える。

2回目の県道1号クロス箇所;午前7時40分
ガードレール谷側ポールにテープが巻かれる
中央茂みのリボンが山側へのアプローチ口
曲がりくねって進む県道間を直線で突き切る古道は数分で2回目の県道クロス箇所に出る。ここも木に括られたリボンを目安に進むとガードレールの切れ目に出る。ガードレールには谷側のポールにテープが巻かれており、上りは問題ないが下りの場合はちょっとわかりにくいだろう。 
県道に出た後山側の入り口を探すが、標識などはない。仕方なく沢の手前から入りやすそうなアプローチを見つけ山側に入る。歩きやすそうな箇所を見つけて進むと西手に引っ張られ、そこに結構踏まれた道があった。ひょっとしてと県道側に下ると誠にわかりにくいのだけど草木が生い茂る中、木に括られたリボンがふたつ見つかった。場所はガードレールから県道に出たほとんど対面。注意してリボンを見つけそこから山側に入ることをお勧めする。

3回目の県道クロス箇所;午前7時52分
茂みのリボンは少し踏まれた道があるが
直ぐ荒れた道に。テープを目安に進み
山側に入ると道筋は次第に荒れてくる。曲がりくねった県道と次にクロスする箇所まで沢筋左岸を直進するため県道間の距離も短く、比高差も20mほど。時に木に巻かれているテープを目安に進むと10分もしないで県道クロス箇所に出る。
県道出口にはガードレールにテープ
山側へは「讃岐街道大坂越」標識より入る
県道出口のガードレール切れ目にはガードレールにテープが巻かれている。
メモの時刻では2回目の県道クロス部から10分以上かかっているが、それは上述山側へのアプローチ点が見つからず沢筋辺りに入ったため。木に括られたリボンを目安に山側に入ればもっと短い時間で3回目の県道クロス部に出ることができるだろう。
県道から山側に入る道は、ガードレール切れ目から少し下ったところに「讃岐街道大坂越」の標識が立ち、その前の道も結構踏まれており見逃すことはないだろう。

県道ヘアピンカーブ西端を巻く:午前8時6分
山側に入った道は踏まれているが
直ぐ草木に覆われる。そこにはロープも
標識より山側に入るとほどなく道は覆われる。







ロープの先は荒れた道
幾つかのテープを目安に進むと
先に進むとシダの中に立つ木にロープが張られる。ロープを掴みシダの繁る箇所を抜けると結構荒れた涸沢筋に入る。取り敢えず沢筋を上ればいいか、とは思ったのだけど、随所に木に巻かれたテープが見える。


再び急斜面にロープ。有難い。
その先、県道を巻いて先に進む
木にまかれたいくつものテープを頼りに先に進む。急斜面にはロープが整備されていた。有難い。その先左手が明るくなり、道の左手下 に県道のヘアピンカーブが見えてきた。古道は県道ヘアピンカーブ部西端を巻いて先に進む。

砂防堰堤の西端を巻く;午前7時8分
成り行きで砂防堰堤を巻く
地図の古道ルートはその先沢筋を進むが、そこには砂防堰堤が造られていた。特に案内はないのだが歩きやすそうなルートを成り行きで進み堰堤部をクリアする。

足場の悪い涸沢を源頭部へと詰める
堰堤を越えた先、涸沢筋を詰める。岩が転がり足場は良くない。沢筋には随所にテープが木に括られており、はじめて歩く方には心強いことだろう。

私は過日明治8年完成の道、現在は「四国のみち」として整備された遍路道を歩いており、そのルートは国土地理院地図上に破線で描かれており、道に迷うことがあっても(沢筋を詰めるだけなのでその心配はないのだけれど)、地図上の破線を目指して西側に振れば整備された「四国のみち」に出ることがわかっておりちょっと余裕。はじめての方も、沢筋を西に振れば、地図上に描かれている整備された道に出ることを頭に入れておけば気持ちが楽だろうと思う。

大坂越え古道終点

遍路道に立つ「 讃岐街道大坂越」標識に到着;午前8時45分
遍路道に「 讃岐街道大坂越」標識
整備された遍路道は阿讃県境の切通へ向かう
それはともあれ、足場の悪い沢筋を砂防堰堤から40分弱かけて比高差100mほどると涸沢の源頭部に。等高線の間隔も広がりフラットになった沢の源頭部を西に振ると遍路道(「四国のみち」)に出る。そこには過日見た「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」と書かれた木の標識が立ってあるはすなのだけど見当たらない。よくよく見ると木の柱が折れ地面に転がっていた。とりあえず木に立て掛け大坂越古道トレースを終える。
ここから先の遍路道はよく整備された「四国のみち」を辿り県境切通を抜けて阿波の国に入る。